「宗教を知る 人間を知る」(河合隼雄・加賀乙彦・合庭惇・山折哲雄/講談社)絶版

→このたびの地震の被災者のことを考えると夜も眠れないという人もいるらしい。
なにかできないか、どうにかして救えないかと思っている方も多いようである。
むろん、みながわかっていることだが、救おうと思って救えるものではない。
長らく「人生は運」と主張してきたが、この惨事のあとでは口にする気にならない。
震災前は大勢が世事全般、努力次第でどうにもなる、人生は操作可能だと信じていた。
だから、「人生は運」であると声高に言いたかった。
しかし、いまはまったく言う気にならない。

芥川賞作家の僧侶がある雑誌で仏教が被災地にできることはないかと提言していた。
残念ながら、ないのではないかと思う。
とはいえ、仏教をふくむいろいろな宗教があってよかったと思う。
被災者はだれかから救われる存在ではないような気がする。
結局のところ、生きていくならば、どこかに自分で救いを見出していくしかない。
頭のいい仏僧が正しい法話をしたところで、ひとりの被災者も救うことはできないだろう。
お気の毒だが、被災者は10年単位で苦しんでいかなければならないのではないか。
春夏秋冬を何回も味わうことで次第に忘れていく。あきらめていく。
そのとき宗教があったら楽だと思うが、どの宗教がいいかは自分で決めるしかない。

たいがいの宗教が根本における人間の無力を前提としている。
地震や津波が起こったら人間などひとたまりもないのである。
人間を超える大きな力が世界にはあるというのが宗教的思考法だ。
被災者を苦しめたものを信じればきっと救われるはずである。
若ければいいが、高齢者は絶望のまま死んでいくのだろう
だが、その死はかならずや周囲のものになにかしらの影響を与える。
だから、どんな死も犬死にではない。人間が死んだのである。
死は数字ではない。肉体である。身体である。
コンピュータは数字だから、死の意味がわかりにくくなるようなところがあるのだろう。
テレビ報道も決して死体を映さない。
河合隼雄さんがこんなことを言っている。

「インターネットの特徴は、身体がないことですね。
一方、宗教と身体とは切っても切れないという感じがします。
だから、身体なき宗教ということは可能なのかどうか、そこが問題です。
フロイトではないけれど、宗教にセックスが結びつくことがあるんですが、
インターネットでセックスは絶対にできないですから。(……)
身体を持っているか否かは、すごい大きい問題だと思うんだけど、
しかし、いまの文明の中では、身体のことがどんどん抜け落ちている。
その意味で、身体性の回復ということと宗教とは
切っても切れない関係にあると思うんです」(P218)


わたしは実際に逢った身体を持った人間しか信用できない。
過剰なネット限定の交流は有害でさえあるのではないかと思っている。

「青衣の人」(井上靖/角川文庫)絶版

→中間小説(通俗小説、大衆小説)というのは、テレビドラマや商業映画に近い。
したがって作法も似通っていると思う。
ポイントは、人間の思いだろう。
まず物語の発端として、思いがけないことが起こる。
この小説でいえば、むかし愛し合った(といってもプラトニックだが)女と再会する。
ところが、思うようにならない。
なぜなら女は結婚して人妻になっていかからである。男にも妻がいる。
不倫しようか、やめようかの「二つに一つ」の選択肢で登場人物は迷う。
結局、この「二つに一つ」の葛藤だけで井上靖は物語をひとつでっちあげてしまった。
なかなか行為を選択しないのも、物語の常套である。
「あわや」というシーンを作るのもうまい。

しかし、まあ、現実は本当に思うようにならない。
原始仏教で言う苦の意味とは、まさしく思うようにならないことである。
思うようにならないことは、最後は思いがけないことによって道がひらかれる。
苦しいときはどうしたらいいのか文豪で酒豪の井上靖に聞いてみよう。
いま苦しい思いをしている人も多いでしょうから。

「人間の苦しみなんて大したものじゃあないよ。
十日も気持がやられていることはめったにあるまい。
どんな大きい打撃でも十五日さ。半月で峠を越す」(P38)

「一、二か月、京都に居て、せいぜい奈良の大仏でも見て廻るんだな。
人間の心の病気は、仏像でも見て廻っている以外術(て)はないからな。
(……) 万事、時が解決してくれるだろう。
人間の心の中にどこからか流れ込んで来たものだ。
また、いつかどこかへ流れ出て行かんものでもないじゃあないか!」(P226)


「吉野弘詩集」(ハルキ文庫)

→やさしさが、わからない。
吉野弘さんの詩でたったひとつだけ学校の教科書で読んで知っているものがあった。
それは「夕焼け」というタイトルで、満員電車で娘さんが二度老人に席を譲ったけれども、
三人目の年寄りがまえに来たときは席を立たなかったという詩だ。
なにかに耐えるようにして下を向き、娘さんは席を譲らなかった。
教師は「どうしてだと思いますか?」と生徒に向かって質問した。
なにが「正しい」回答だったのだろう。いまでも正直、わからない。
偽善が趣味のようなところがあって、けっこう席を譲ったりする。
一度席を立ったら気恥ずかしいから、場所を移動して見えないところに行く。
どうして「夕焼け」のお嬢さんは、そうしなかったのだろう?
なにゆえ二度は譲り三度目は無視したのだろう。
よく問題文を読めば、「正しい」答えに行き着くのだろうか?

「やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
なぜって
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇をかんで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。」(P77)


「やさしかったから」が「正しい」回答になるのだろうか?
どうしてやさしいと三度目は席を譲らないのだろう?
娘さんは本当にやさしかったのだろうか?
詩人がやさしかったから、お嬢さんのやさしさに気づいたということか?
やさしい人は、「他人のつらさを自分のつらさのように感じる」。
本当だろうか?
「他人のつらさを自分のつらさのように感じる」人なんて地球上にいるのか?
少なくとも詩人と、そのとき乗り合わせた娘さんはそうでなければこの詩は成立しない。
ならば、「やさしかったから」が「正しい」。
お嬢さんは「やさしかったから」三人目の老人に席を譲らなかった。
やさしさが、わからない。どうしてやさしい人はそうなのだろう?
他人のことは、わからない。
しかし、「やさしかったから」の選択肢に丸をすると点数をもらえる。
「やさしかったから」は「正しい」。
「他人のつらさを自分のつらさのように感じる」のは「正しい」――。

「正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい」(P89「祝婚歌」)


やさしさが、わからない。
きっとやさしい人にたくさん傷つけられてきたからだと思う。
ふたたび、「やさしかったから」は「正しい」答えなのだろうか?
「正しい」やさしさは人を傷つけるようなところがないか?
「あなたのつらさがわかる」と言われて傷つく人がいるのではないか?
だれかのやさしさに迷惑している人はいませんか?
吉野弘さんの詩は、学校の先生のようなところがある。
「やさしかったから」が「正しい」。
どうして娘さんは三度目の老人に席を譲らなかったのか、わたしはわからない。
このときのお嬢さんの「つらさ」を理解できない。
小学生でも「正しい」回答が出せそうな問題がわからない。
このわからないという回答が「正しい」と主張しているわけではない。
ただただ、やさしさが、わからない。冷たい人間なのだろう。

「バルタザール・グラシアンの賢人の知恵」(斎藤慎子訳/ディスカヴァー)

→ニーチェ、森鴎外、ショーペンハウエルが激賞した、
ヨーロッパで400年語り継がれる最強の処世訓とのことである。
ひと言で内容を説明したら「人生で失敗しないために」くらいになるのか。
鬼でもまだ人情があるだろうと思ってしまうほど非情な処世訓が並ぶ。
これを愛読していることを公開したら、その人は恐れられるのではないかしら。

・友人は用途によって使い分けろ。
・人の秘密を聞かない。話さない。
・不運な人から助けを求められても無視する。
・多数派に逆らわない。
・必ず仕返しされるから人の悪口は絶対に言わない。
・世間が認めているものにケチをつけない。
・目立ってはいけない。
・大きな賭けをしない。
・ときには蛇のように狡猾になろう。
・人間にとっていちばん大切なのは評判である。

ぜんぜん自分はなっていないとだいぶ打ちのめされた。
しかし、この人生訓を守って得られるのは、
富(財産)、名誉(地位)、友人(社交)くらいでしょう。
いや、「くらい」とか言っちゃいけないのか。
全人類が血眼になって求めているものなのだから。
おそらく、西洋人は個性があるけれども日本人はナンタラというのは眉唾なのだろう。
どこの国だって個性なんて発揮したら世間様から袋叩きにされる。
人と違ったことをしてはいけない。
どうやら自分は成功するのは無理だろうということがよく理解できた。
こういう人生マニュアルみたいのは好きになれない。
しかし、少しは生き方を変えないとな。もっと上手に生きないとダメだ。

いったいこれからどう世渡りしたらいいのだろう?
実のところあちこちで相互矛盾しているこの人生指南書からひとつ回答を選択しよう。
生きるとは、選択することである。

「ときには放っておく。ことが最も深刻なときは、
次第におさまるよう、放っておくという判断を下すのが一番だ。
治療行為が病気を悪化させるのはよくあること。
利口な医者は、治療しないほうがいい場合があることをわかっている。
病気が自然治癒するものかどうかを見分けることは、医者の一番大切な才能だ。
自然に落ち着くのを待とう。つまり、神に任せるのだ。
泥で濁った池も、そっとしておけば済んでくる。
混乱が続くようなときにとるべき最善策は、
自然に元どおりになるまで放っておくことだ」(P238)


「ニーチェからの贈りもの ストレスに悩むあなた」ウルズラ・ミヒェルス=ヴェンツ編/清水本裕訳/白水uブックス)

→ニーチェの名言集。
山田太一さんは講演会でよく西洋の偉人の言葉を紹介するけれど、
引用というのは本当にまったく処世の知恵だと思う。
威光を借りられるから、自分まで少しばかり偉い人のような錯覚を持ってもらえる。
そのうえ、責任を回避できるでしょう。
言っちゃいけないことでもカントの言葉にしてしまえば許されるところがある。
皮肉を言えば、哲学の有用性はこの引用という一点にあるのかもしれない。
庶民が居酒屋で言っていることとおなじ言葉を、
うっかり石原都知事が発したら大問題になってしまうのである。
反対に庶民が酒をのんでいくらいいことを言おうが、だれも聞こうとはしない。
言葉は肩書がすべてである、と言ってもよいのかもしれない。

ほうら、ニーチェさまのお言葉を聞きやがれ!
それからニーチェの言葉を引用しているおれさまを尊敬してくれ!
お願いします。

「まず自分自身を尊敬することから始めてもらいたい。
他の一切はそこから生まれてくる」(P10)

「すぐれた教育者は、
教え子が師に逆らってあくまで自分自身に誠実であろうとすることを、
誇りにしてよい場合があることを知っている」(P57)

「何か新しいものを初めて見るという点ではなく、
古いもの、古くから知られているもの、
誰にでも見えているが見過ごされているものを、
新しいものであるかのように見るという点が、
真に独創的な頭脳の抜きん出ているゆえんである」(P62)


以下の言葉なんか被災後の日本に重要な意味を持つのだろうが、
政治家のだれかが言ったら即辞職に追い込まれるだろう。
ニーチェの言葉だと何回も強調しなくてはならない。
それでも部分だけマスコミに取り上げられ、ネットに流れたらもう終わりだと思う。
言葉は怖い。

「人生からあるときまさしく強盗のような振舞いを受け、
名誉、喜び、身寄り、健康、あらゆる種類の財産と、
奪われるかぎりのものを奪われたとしても、
ひょっとして私たちはその後、最初の驚愕を過ぎてから、
自分が前よりも豊かになっていることを発見するかもしれない。
なぜなら、そのときはじめて私たちは、
どんな強盗の手も触れることができないほど
自分に固有のものが何であるかを知るからである」(P94)

「真の思想家が何にもまして暇な時間を待ちこがれるのに対し、
普通の学者は暇な時間から逃げる。
そういう時間をどうしたらよいかわからないからである。
学者の慰め手は書物にほかならない。
つまり学者は、誰かが別のことを考えているようすに耳を傾け、
そのようにして長い一日を楽しませてもらうのである」(P104)

「失敗することと軽蔑されることは、
自由になるためのよい手段である」(P113)

「人々が小さな意地悪を考えられないとすれば、わざわいだ!
小さな意地悪を考えることによって人々は、
どんなに多く楽しみを増していることか、また、
どんなに多くの悪行をしないですませていることか!」(P126)

「私たちの性格は、体験したことによってよりも、
ある種の体験をしていないことによって、いっそう規程されている」(P308)


宮本輝先生がNHKの講座のテキストで、自分は恋愛を経験したことがない、
といったようなことを言っていた気がするけれど(不明確ですんません)、
ああ、なるほどなと宮本文学の魅力の源泉を探り当てたように思ったものである。
山田太一先生に質問してみたいのは、不倫したことありますか?
でも、まさか講演会の質問タイムに聞くわけにはいかないでしょう。
よほど親しい友人でも聞けないプライベートなことだから、
一生答えを得られることがないのはわかっている。
答えてもらっても嘘かもしれないのだから。作家は嘘をつく商売なのだから。

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(J.D.サリンジャー/村上春樹訳/白水社)

→三十路に入ったオッサンが青春文学の傑作、
「ライ麦畑でつかまえて」など読むものではなかった。
小説には読むべき時期というものがあるのだろう。
ほとんどの小説がなるべくなら学生時代に読むほうがいいのだと思う。
小生意気で小賢しいクソガキの軽薄かつ饒舌な自分語りにムカムカした。
だれも知らないだろうがプロレス乞食のターザン山本や
世界旅行者のみどりのくつしたを連想させる
不愉快極まりない語り口はある種の才能なのだろう。
語り手の高校生は、劣等生の不良を気取っているが、
いいところの坊ちゃん丸出しなのも気に入らない。
所詮は大人から愛される型の非行少年なのである。
寮がいっしょの野暮なニキビ少年をこれでもかと愚弄する表現があるけれども、
高校時代のわたしをバカにされているようで主人公に殺意を抱いた。
クラスには悪ぶっている人気者というのがいて、どうしてか教師にも好かれているのである。
実際、この高校生=「僕」もなぜか教師から目をかけられている。
不幸ぶるリア充のようなものでどうにも腹立ちが収まらない。

だから、つまらなかったというわけではない。
こちらは汚い大人だからそれなりの満足はした。
とにかく、この高校生は大人ぶって間違えるのである。
タクシーの運ちゃんに軽口を叩いて恫喝される。ザマアミロ!
いっぱしにプレイボーイ気取りで年増女3人をナンパするが、
いいようにあしらわれ財布がわりにされる。ククク、ザマア!
売春婦と手配師に金を巻き上げられるところなど爽快極まりない。
嫌いなやつが失敗するのを見るのは楽しい。
強がって懲りずに大口を叩くが、
最後には尊敬している恩師にあわや犯されそうになるのだから笑いがとまらない。
作者が主人公を愛しているからなのだろう。
変態ホモ教師の異常性愛行為は未遂に終わるが、
ここでケツを掘られ泣き叫ぶ主人公を見せてくれたら涙が出るほど笑ったことだろう。
うん? 考えてみたら、けっこう笑わせもらっているな。
これはサリンジャーの術中にはまってしまったのだろうか?
おそらく高校生のころに読んでいたら主人公に共感して感動していたのだろう。
歳だけは取るものではない。

「グレート・ギャツビー」(スコット・フィッツジェラルド/村上春樹訳/中央公論新社)

→小説の感想を心理的印象とすれば、外部情報と実体験に左右されることになる。
小説の感想が人それぞれなのは、
外部情報(知識、因縁)と実体験(人生経験、読書経験)が共通ではないからである。
「グレート・ギャツビー」がアメリカ文学の代表作品と知っていることで、
大きく印象が変わるであろう。
「さすが」と思うのも「それにしては」と思うのも、先に情報を知っているからである。
この小説はある友人から推薦図書としていただいたが、
そういう因縁も感想に影響する。どういうことか。
たとえばストリンドベリが好きなのは、わたしの(再)発見した作家だからである。
もしストリンドベリを村上春樹が愛していたら興味を持たなかったことだろう。
それから人生経験も圧倒的に読書感想に影響する。
たいていの男は30を過ぎたら小説など読まなくなる理由を考えたらわかるだろう。
読書経験の多寡も感想を支配する。より比較対象が増えるということなのだから。
以上のような理由で小説の感想は主観から逃れえず多様なものとなる。
そこには正誤は本来的にないけれども、
一般読者はあまり(あまりにも!)自分でものを考える癖がついていないので、
だれか有名人(権力者)の趣味(好き嫌い)に多大なる被害をこうむる。

本の感想を書く意味などあるのだろうか。
国語教育のなかでもっとも有害なのが読書感想文ではないかと思う。
あれによって日本人はそうとう個性の芽を摘み取られているはずである。
なにがいけないと言ったら、批判してはいけないという決まりがあるでしょう。
課題図書を「つまらない」と言ってはならない。
実際のところ「おもしろい」よりも「つまらない」と思う部分に、
その人の固有性のようなものが現われるのだと思う。
「おもしろい」と思うところは、あんがいおなじなのである。
「つまらない」に個性が詰まっている。
しかし、読書感想文でぜったいに書けないのが「つまらない」なのである。
ほかにもタブーはいろいろある。
灰谷健次郎の「兎の眼」を読んで、「貧乏人の子どもは怖いと思いました」
なんて書いたらビンタの数発では済まないのではないか。
読書感想文に本当に思ったことを書いてはいけない。
これは人と違ってはいけないというのと同義だと思う。
身もふたもないことを言えば、みな他人の読んだ本の感想になど興味を持たないのだが、
まだ読んでやってもいいと思えるのは、人と違った、その人だけの感想である。
どうすれば人と異なる感想を書けるのか? 冒頭に戻ろう

小説の感想=外部情報(知識、因縁)+実体験(人生経験、読書経験)

4つの要素のうち、どれかが人と相違していればいいのである。
多ければいいというものではない。
一般に人生経験の少ないものほど、より感動するような傾向があるのではないか。
学生のころの読書がいちばん幸福なのだろう。
知識などもかえって少ないほうが純粋に作品に向き合えるような気がする。
作者と親交があったら、まず冷静な作品判断はできないだろう。
銀座でご馳走してくれた作家の書いたものにケチをつけられるものはいまい。
読書経験は多いほうがいいのだろうが、
この分量は人生経験と反比例する傾向にあるのではないか。
本ばっかり読んでいるやつは、実人生の味を知らないものである。

長々と書いてきたが、なにが言いたいのかといえば言い訳である。
「グレート・ギャツビー」の感想をうまく書くことができない。
人から「自分がもっとも好きな小説」と薦められた本の取り扱いはなかなか面倒である。
いきおい他者とは異なる自己を強調しがちになってしまう。
だからといってうっかりしたことを書いて、これ以上友人を失いたくはない。
しがらみがあると、なにが本当のことなのかわからなくなってくるのである。

アメリカ文学の代表作に対しては失礼になるのかもしれないが、
簡単な感想を書きつけるにとどめる。
タイトルにもなった、ギャツビーの登場するのが遅すぎる。
名作だと知っているから我慢したが、新人文学賞に応募したら、
へたをすると最後まで読んでもらえないぞ。
むかしの人は、それだけ時間の余裕があったということなのだろう。
いまのようにニュースが矢継ぎ早に入ってこない時代の読書がどれほど幸福だったか。
しかし、この遅滞のあったおかげで、
一同集合からのジェットコースター的展開の魅力が強まるのだから複雑である。
ゆっくり上げてガーッと落とす小説作法はドストエフスキーのようだと思った。

とにかくアメリカを感じさせる小説である。
大統領の演説に象徴的に見られる新興国アメリカの偽善性というのがあるでしょう。
アメリカ人の怖いところは本気で美辞麗句を信じているところである。
そのくせアメリカはれっきとした差別社会。
つまり、本音(差別)と建前(愛)の差が激しいのである。
ギャツビーは薄汚い貧乏人の小せがれである。
軍服の威光を借りて良家のお嬢様と一度だけおまんこすることに成功する。
のちに汚い商売で成り上がったけれども、すでに女は名家の金持と結婚している。
ギャツビーは美しい恋愛妄想を携え、女を奪いに行く。
そこで、まあ、バカヤロウって話なんだな(笑)。
女はストーカーにも似たギャツビーの恋愛妄想を一度は映画のように受け容れる(建前)。
しかし、一同集合した際にギャツビーは女の亭主から本当のことを言われてしまう。
ここがいちばん愉快だった。
おい、小汚い成り上がり者が調子に乗んなよ! お里が知れてるぜ!
女はどちらを取るか。美しい恋愛の物語が。それとも、地位のある夫か。
いつの時代、どこの国でも、女は後者を選択するのである……。
そしてそして、こういう性悪な女ほど男にとって美しく感じられるものはない。
高校生のころに読んでいたら、哀れなギャツビーに自分を重ね号泣したことだろう。
いまのわたしはどうしてかギャツビーを罵倒した悪役の俗物に共感してしまう。
どうしてだろう。どうしてこんなにひねくれてしまったのだろう……ううう。

「苦役列車」(西村賢太/「文藝春秋」2011年3月号)

→「週刊ポスト」4月1日号に芥川賞作家の西村賢太先生の名前を見つけた。
地震特集号である。
「総力オピニオン いま私たちは何を考えどう行動すべきか」――。
まさか芥川賞作家の西村賢太先生がコメントを寄せているとは思わなかった。

地震が起きたのは間が悪く馴染みの淫売に今まさに放液せんというときで、根っから小心者の僕は淫売を乱暴に放り捨てると我先に寝台の下に潜り込んだ。結局その日は料金分の満足を糞袋から得られず苛立っているところに、淫売が似合わぬ真面目顔で地震がどうのと話しかけてくるので苛立ちがさらに募り怒声を浴びせてやった。この淫売はテレビも観ないのか、或いは極端に物覚えが悪いのか客が芥川賞作家だということも知らないのである。その後も店を出るまで、地震が怖い、地震が怖いとうるさいので、危うく手を出すところであった。東北の田舎者が何人死んだところで、どうで僕の商売には与り知らぬことだから、その晩はいつものように安酒場の梯子をして眠りについた。それから三日後、携帯電話が鳴る。見知らぬ番号なので、最近増えた悪戯電話に間違いないと決め付け、恫喝は最初が肝腎だと腹を決めてから電話に出ると、小学館の編集者だという。けっ、高学歴のエリートが中卒の僕に何の用事でございますかと腹の底で反射的に言い放つが、どだい大会社の社員に強く出ることもできない。聞けば地震のコメントをくれと言うのだが、ここで安請け合いしたら軽く見られると狡猾にも計算して、他には誰が投稿するのか尋ねると、編集者はさも自慢げにお笑い芸人だか映画監督だかわからぬ男の名前を口にする。高給取りの編集者はこちらを中卒の成り上がり者と軽く見ているのか、てんで断わられるとは思っていないようである。ひねくれた性分のため、鼻持ちならないインテリどもに混じって偽善臭い慰めを東北のカッペどもに施してやるのを迷っていると、編集者は他を当たるというようなことを言い出す。慌てて書きます、書かせてくださいと逆にお願いする羽目になった。



このようなことが書いてあると思ったら、実際は――。
タイトルは「『苦役列車』から立ち上がる方法」で引用はその後半部分。

(……) いま絶望のなかにいる被災者の方は、一方で、何か一時でも没入できることにすがりつくべきです。夢中になれるなら、小説でもいいし、けん玉でも、携帯ゲームでもいい。現実だけに対峙して、悩んでいては辛くなるばかりです。一瞬でも現実から積極的に逃避することによって、気持ちがリセットされます。一時の気の紛れが次への活力につながると思います。被災者の方の状況は、僕の体験など比較にならぬほど、悲しく苦しいものと思いますが、しかし自暴自棄になったら終わりです。投げ出さなければ、必ず別の展開があるのだと、僕は信じています。



我らが賢太兄貴は芥川賞を受賞して、あっさり西村先生になってしまったようである。
兄事しているからこそ、西村賢太を諌めたい。
どうか沈黙を覚えてください。
週刊誌からコメントを求められたからといって、嬉々として文化人づらをしてはいけない。
おのれのイメージを守ってください。
人間は自暴自棄になってもよろしい。人間はなにもかも投げ出したって構わない。
酒に溺れてもいい。女を殴ってもいい。借りた金を返さなくてもいい。
「必ず別の展開がある」などと成功者風を吹かせて説教を言ってくれるな!
だれもが賢太兄貴のように人生うまくいくとは限らないんだぞ。
正直、白状すると週刊ポストの西村賢太のコメントを読んでお里が知れたと思った。
地金がこうも速やかに、かつあからさまに曝け出されてしまうことに物悲しさすら感じた。
この程度の男だったのかと愕然とする。
西村賢太に芥川賞を与えた選考委員連中を大声で罵倒してやりたくなった。
なお当然のことながら最初の引用は「苦役列車」をもとにしたわたしの不謹慎な創作である。
私小説作家は、死ぬまで信用できない。
逆に言えば、死んでからなら安心して信奉できるということだ。
西村賢太は私淑する藤澤清造が人生で決して味わうことのなかった成功の果実を、
いまやたらふく味わってしまったのである。おそらく、これからも、長く。
ならば、あの世の藤澤清造はもう西村賢太に没後弟子を自称されるのが迷惑かもしれない。
それどころか商売道具として利用されるのを死者はいやがるかもしれない。

「きことわ」(朝吹真理子/「文藝春秋」2011年3月号)

→芥川賞小説は、長らくブックオフで105円のを買うと決めていた。
1年経ったか経たないかくらいで、たいてい入手することができる。
そのくらい時間が経過していたら、
程よく冷めているから精神安定のためにいいのである。
心中がザワザワすることもない。
そういう個人的な流儀を知らない友人がうちを訪ねてきたとき、
電車の中吊り広告を見て気になったからと買ってきてしまったのである。
自分はあとで読むからいいと分厚い月刊誌を拙宅に置いていきやがった。

毎回、口を酸っぱくして言っているが、芥川賞作品はつまらないからいいのである。
わかっていないものが多すぎる。
ネットで芥川賞「なのに」この小説がおもしろくないと怒っているものは大馬鹿だ。
正しくは、芥川賞「だから」つまらないのである。
おもしろいのを読みたかったら直木賞作品を読めばいいのに、
頭がおかしいのではないか。
リンゴを食べて、これは赤いから辛いと思ったら甘いじゃないか、
金を返せ、と抗議しているクレーマーのようなもの。
リンゴは甘いもの、純文学は退屈なもの。
だいたいさ、芥川賞でも取っていなかったら、純文学作品なんて読めないじゃん。
芥川賞は、年に2回のお祭り。
そこらのウダツの上がらないお兄ちゃん、お姉ちゃんが
人生で一度だけ華やかなスポットライトを浴び、
我われは妬みから幸運な該当者をボロクソに叩く、そういうお祭りなのね。

「きことわ」はよく意味がわからないのがよかった。
30年後くらいに大学の試験問題に使えるのではないだろうか?
それもかなり偏差値の高い大学でもいけるような気がする。
傍線を引っ張られて、これはどういう意味ですか、百字以内で答えなさい。
これをやられたら、かなり困ると思う。わからないからね。
いやあ、本当にわからない。そこがいいのだろう。うん、いい。たいへんよろしい。

庶民のなかのド庶民、宮本輝先生は「きことわ」にたまげただろうね。
クソ庶民が良家の子女の感性をわかるはずはないのだろうが、
虐げられた庶民の哀しき性で、これを褒めなければ馬鹿にされる、
と宮本輝先生が読後即座に直感したことはおなじ庶民として想像に難くない。
芥川賞は作品にではなく、どちらかというと作者のキャラクターに与えられる賞だから、
その意味でも朝吹真理子さんの受賞は間違っていなかったと思う。顔も美しい。
才色兼備の朝吹真理子さんにはこれからずっと下品な庶民とは縁のない、
高嶺の花のような純文学的存在でいてほしいと思いました。

「日本文化論のインチキ」(小谷野敦/幻冬舎新書)

→小谷野敦先生はおもしろいよな。読みながらクスクス笑いがとまらなかった。
これほど上質なエンターテイメントは現代において希少なのではないか?
定価料金の元を取ったと感じさせる小説や映画はいまほとんどない。
それにしても、どうしてこうも小谷野敦は楽しいのだろう。
読者を選ぶところがいいのかな。
ある程度、最低限の知識(=知的虚栄心=劣等感)がないと、
先生の魅力はわからないのね。
たとえるなら学童がだれかを「王様は裸だ」と指さしたとき、
その男が王様であることをそもそも知らなかったらなんの痛快さも感じないでしょう。
そういうことなのだと思う。

読み手は書き手の主張以上のものを読み取ってしまう。
ここに読書のおもしろさがあるのだと思っている。
本書で小谷野さんが言いたくて仕様がなかったのに結局最後まで言えなかったのは、
文系学問の9割近くがインチキだということではないだろうか。
どうしてそれを言えなかったのかというと、小谷野さんのご専門、
比較文学でさえもインチキであるということがばれてしまうからである。
最近気づいたのだが、数字の問題ではない学問的正誤は、
いくら研究しようが論争しようが絶対的な唯一解は出てこないのではなかろうか?
だれもが認める正誤を追求する客観的な学問ならば、数字を問題にしなければならない。

だから、経済学も社会学も心理学も、ことさらデータを重んじている(ふりをする)。
しかし、これらの学問に絶対的な正誤というものはほとんどなく、
たとえばいまの社会学なら恣意的な聴き取り調査と意図的なデータの抜粋をもとに、
自分がこうであってほしいと思う「おはなし」を作ることに終始する。
経済学も心理学もまず「おはなし」(仮説)ありきで都合のよいデータを利用する。
したがって「おはなし」ではない数字のみが本当の客観的学問なのだろうが、
そんなものは気が狂うほど退屈なので学者でさえも音を上げてしまうのではないか。
文学研究者の小谷野敦は、経済学、社会学、心理学の大半を
インチキだと主張するかもしれないが、だとしたらば、氏の専門とする文学研究は、
インチキ学問御三家以上に、それもはるかにはるかに重度のインチキなのだろう。

本当の学問的(=客観的)な文学研究は、
数字のみしか問題にしてはいけないのではないか。
たとえば、ふたつの作品を比較するならば、売れた量を問題にするのがひとつ。
読者の男女比率、年齢層を調べられたらいいが、これは不可能だと思う。
そして比較する場合、おなじ国の作品同士しか俎上に乗せてはならない。
シェイクスピアの研究なら、ある単語が作品ごとにどのくらいの頻度で使われているか。
ほかには作品の完成年度をひたすら地道に資料を読み込み推定するのも学問。
作品を読んで思ったことは主観だから、これは数字にすることができない。
だから、作品の良し悪しを論じるのは学問研究ではない。
どうしても良し悪しを論じたいなら先ほど言ったように売上のみを問題にするか、
文学賞受賞作の選考委員の選評を、
「○、△、×」=「+1、0、-1」のように数値化するしかない。
しかし、選評を数字に変換できるのかは議論の分かれるところだろう。
ひたすら数字のみを追い求めるのは死ぬほど退屈である。
いっぽう「おはなし」を作るのは、なにより楽しい。
これまでなかったような新しい「おはなし」を作るのは最上級の愉楽なのだろうが、
それは学問研究ではなく作家のする創作なのではないだろうか。

したがって漱石の「こころ」が名作かどうかの正誤を研究することはできない。
作者が明治何年にこういうことをしたという事実のみを研究者は追及しなくてはならない。
ある作品が名作か駄作かを数字で証明することは完全に不可能である。
だとしたらば、この件に関して論争しても結局のところ答えは出てこない。
同様、ラフカディオ・ハーンが偉人か愚者かを論じるのは学問研究ではない。
ろくな学歴もなく日本語さえ片言しか話せなかったハーンを
大仰に持ち上げる日本の学問従事者をバカにするのは楽しいけれども(笑)、
それ自体は学問研究でもなんでもない。
しつこいようだが、ハーンの著作の良し悪しを数字で証明することはできない。
ならば、ハーンを判断する客観的な基準はないということだ。
ハーンを好きでも嫌いでもいいが、それは研究ではなく、読書感想文の世界でしかない。
ハーンの没年が間違えているのを証明するのは客観的学問といえるが、
そのほか数字にならない「質のようなもの」を研究者は論じてはいけない。
どうしても論じたいならば構わないが、少なくともそれは客観的な学問研究ではない。
正しいわけではない。読書感想文に正誤はないということだ。
ただし「うまい/へた」はある。小谷野さんの感想文はとてもうまいと思う。

ヨイショをするわけではないが、こういうことに気づいたのは、
ほかならぬ小谷野敦先生のご著作を読んだからなのである。
本物の指導者ならば、弟子がおのれを批判するのを許すでしょう?
新しいことをしようと思ったら、まず師匠を批判してかかるのがよい。
そうでないと、汚い言葉だけれど、金魚のフンになってしまう。
この意味で小谷野先生は、わたしがものを考えるうえでの基盤を作ってくれたのだと思う。
なにか常識のようなものを疑ってかかる楽しさを先生から教わったのだと思う。
ちなみに、わたしは研究者ではなく読者だから、
小谷野敦の文学研究がインチキでもぜんぜん構わないと思っている。
むしろ、インチキぶりの激しいほうがおもしろいので歓迎しているところさえある。
研究者は「正しさ(=客観=数字)」を求めなければならない。
読者は「おもしろさ(=主観=人それぞれ)」を求めていればよろしい。

本書から刺激を受けたところを引用する。

「人文・社会科学というのは、一つの巨大な難題を抱えている。
というのは、これらの学問においては、
より多くの文献を参照すればするほど、精度が上がるからである。
もちろん文献には、一次、二次、三次とあって、
『古事記』などは一次史料だが、
これはその当時、ほかの文献が残っていないからで、
中世日本になれば、『平家物語』などは二次的な価値しかない。
論文などを三次と見てもいいだろう。
ところが、古代日本の一次史料を全部見た人はいるだろうが、
時代が下るにつれて、残っている文献は増えていくから、
たとえば、「徳川時代の文藝」に限っても、全部読んだ人はいないだろうし、
いわんや、近代日本文学の一次文献を全部読んだ人など、いないのである。
要するに、個々の学者は、たまたまその人の目に触れた文献だけ見て、
何かの説を立てていることになる。
そして、より多く読んで、かつより正しく解釈した人の説のほうが、
正しい確率が高いということになる」(P78)


さらに小谷野敦は続ける。

「井上章一は「ローラー作戦」と呼んでいるが、
ある仮説を立てて文献を次々と読んでいくと、その仮説が崩れることがある。
そこでまた新しい仮説を立てても、
さらに読んでいくとまた崩れる、というのである。
おそらく、より多くの文献を読んでいくと、
結論は、より驚くようなものではなくなり、
より茫漠としたものになっていくのだろう」(P79)


もしそうだとしたら、恐ろしいことである。
あらゆる学説が「たまたま」生まれた「おはなし」に過ぎないことになってしまう。
ある学者が有限の時間のなかの一時期に「たまたま」全体の一部を調べる。
そこから紡ぎだされた(結論づけられた)「おはなし」=学説は、
どんなものでもいつか覆される可能性を持っているということなのだから。
つまり、絶対に正しい学説など原理的に存在しえなくなってしまう。
小谷野敦は自分が恐ろしいことを書いてしまったという認識を持っているのだろうか。
それとものん気にも、自分ならば完全に正しい学説を打ち出せると信じているのか。
「もてない男」は煙草を吸いながら、いったい何歳まで長生きするつもりなのだろう。

安定した生活を求めて公務員を目指している大学生を見ると情けなくなってしまう。
まあ、たしかに男子の場合、女子とは異なり、
結婚による救済がないから(リスクがより高いから)就職に安定を求めるのはわかるが。
リスク的に考えると、どうしたって女性のほうが男性よりも有利なのである。
この不平等を解消するには、ヒモ(専業主夫)を一般化するしかない。
男よりも稼いでいる女はたくさんいるでしょう。
そういう女性は積極的に生活力のない、か弱き男性を保護するべきだと思う。

話がずれてしまった。人生でギャンブルするのは怖いでしょう?
会社をなかなか辞められない。
リストラされたら、どこか解放感さえ感じるのが人間ではないか。
だが、以下のように考えたらギャンブル的な生き方が可能である。
通常なら人はこう考えるのである。

A:ふつうに生きている(99.9%)
B:成功している(0.01%)


平凡でもメシを食えていたらいいではないかと思ってしまう。
ひっくり返したらどうなるか。

A:どうせ死んでしまう(100%)
B:成功できない(99.9%)


失敗者・落伍者の悲惨な人生も、大したことはないような気がしませんか?
このロジックでおのれを鼓舞して、もっともっと人生で賭けをしたらおもしろいと思う。
100%の確率で人は死んでしまうのだから。
逃れる道はどこにもない。
「リスク心理学入門」(岡本浩一/サイエンス社)

→心理学だから薄笑いを浮かべながら読んだのだが、これはたいへん勉強になった。
かなりの名著ではないかと思う。果たしてどこまで内容を理解できたか。
内容をノート風にまとめてみる。自分の言葉で書いてみないとわからない。
お時間がありましたら、どうかお付き合いください。

リスクは利得とセットになっている。
アメリカの研究によるとリスクと利得は3次関数の式で表わされるという。
利得が2倍になったら、8倍のリスクまで受容できる。
利得が10倍になったら、なんと1000倍のリスクまで心理的に受容可能とのこと。
この場合の利得は、すべて金銭に換算している。
たとえば、自動車運転の利得は、節約できた時間を金銭に換算している。

ふたつのリスクがある。能動的リスクと受動的リスクである。
どういうことか。自分で選択した利得かどうかで、
受け容れることのできるリスクの度合いが大きく変わるということである。
この場合のリスクは、死亡確率で求める。
能動的リスク=喫煙、飲酒、冬山登山などは死亡受容度が高い。
受動的リスク=天災、通り魔殺人などは死亡受容度が低い。

とはいえ、リスクが能動的か受動的かを決定するのは個々人の主観である。
たとえば原子力発電所はどちらか。誘致賛成派と反対派がいるでしょう。
原子力発電所が能動的リスクか受動的リスクかどうかの基準は心理的反応に過ぎない。
ほかのリスクも考えてみたら能動的か受動的か決められるものではない。
たとえば、飛行機事故に遭遇するのはどちらだろう。
飛行機に乗らなければ事故に遭うリスクはなかったのだから能動的リスクか。
しかし、確率的に見ると飛行機事故に遭うリスクは自動車事故よりはるかに少ない。
ここで問題になるのは、実際のリスクとリスクイメージが異なるということである。

ここまで書いてきて気づいたが、心理学が学問たるゆえんは数字を扱っているからか。
客観的データについて論じているから心理学者ごときが学者づらをできる!
なるほど、リスクも利得もすべて金銭や死亡確率によって数値化している。
心は見えないけれど、数字にすれば見えるということなのか。
さんざんインチキ呼ばわりされている心理学がよってたつところは数字にあり!
こんな当たり前のことに、いまようやく気づく。

話を戻す。実際のリスクとリスクイメージが異なるというのが問題である。
リスクは死亡確率で数値化できるが、リスクイメージのほうはどうするか。
結局のところ心理学において、
リスクイメージは「恐ろしさ」と「未知性」のグラフに位置づけられるという。
たとえばの話、経済危機のリスクイメージは「恐ろしさ4」「未知性8」。
たとえばの話、喫煙のリスクイメージは「恐ろしさ2」「未知性-4」といった具合。
麻薬、花火、医薬品、家電製品、放射線治療といった、
ありとあらゆるリスクイメージが「恐ろしさ」と「未知性」で数値化されてしまう。
リスクイメージは国によって大きく容貌を変える。
たとえば社会主義国では警察のリスクイメージが高い。
核兵器のリスクイメージは国によって大きく変わる。

ふたたび話を戻す。実際のリスクとリスクイメージが異なるのが問題である。
たとえば、飛行機事故のリスクは自動車事故よりもはるかに低い。
飛行機はめったなことでは墜落しないのである。
けれども、飛行機事故のリスクイメージは自動車事故よりもはるかに高い。
人は自動車事故よりも飛行機事故で死ぬことを恐れるということである。
実際は自動車事故で大勢死んでいるのに、あまり自分が死ぬような気がしない。
リスクイメージによって、リスクを計り間違えているということだ。

大地震のリスクは極めて低いけれども、リスクイメージは異常なほど高い。
だから、いま東京を脱出するものが現われるのであろう。
大地震のリスクイメージは自動車事故よりもはるかに高い。
だから、人々は交通事故死者よりも大地震の被災者に大きな同情を与えるのだろう。
何度も繰り返しになるが、リスク心理学のキモはここにあるのだ。
実際のリスク(危険性=死亡確率)とリスクイメージ(心理的印象)は異なる!

リスクへの行政期待(なんとかしてくれ!)と予兆性認知(不安!)は、
(実際のリスクではなく)リスクイメージによって左右される。
リスクイメージの「未知性」が高いものは行政期待が高まるかもしれない。
リスクイメージの「恐ろしさ」が高いものは予兆性認知が高まるかもしれない。
これは国によって数値が異なる現象である。

実際のリスクとリスクイメージが異なるのはどうしてなのか?
本人のバイアス(思い込み)がリスク認知に影響するからである。
一般になにかリスク現象が発生した場合、その後のリスクイメージは大きく変わる。
大地震が起きた後では、その地震が起きるリスクがとても高かったように思えるのだ。
これもカードを使った実験で数値化されている。
人間は努力でリスクイメージを正すことは難しい。
リスクイメージを正しいリスクと一致させることはなかなかできない。
なにが正しいリスクを見誤らせ、リスクイメージを造形するのか?
実体験とマスコミ報道である。
家族に子宮ガンで死んだものがいれば、リスクイメージが高くなる。
テレビCMで子宮ガンの危険性を繰り返し訴えれば、
実際のリスクよりもリスクイメージが増大して保険会社は儲かることだろう。

ほかにもリスクイメージをゆがませるものがある。条件確率の錯覚だ。

死亡確率=事象発生確率×その事象が起こったときの死亡確率

たとえば乳ガンの死亡確率は高いから、リスクイメージも高い。
ところが、実際には乳ガンになる確率は低い。
たしかに乳ガンになったら死亡確率は高いけれど、なかなか乳ガンにはならない。
しかし、リスクイメージは事象発生確率を無視してしまうのである。
大地震が発生して津波が来れば、死ぬ確率は高い。
けれども、実際に大地震が起こる確率は極めて低い。
そのうえ、津波まで来る確率を入れたら、大半の日本人は経験しないことだ。
とはいえ、実際のリスクよりも地震津波のリスクイメージに人は支配されてしまう。
飛行機事故の死亡率は高いけれども、飛行機事故はめったに起きない。
無差別殺人に遭遇したら死亡率は高いけれども、めったに起こらない。
放射能に重度被曝したら死亡率は高いけれども、そこまで放射能を体内摂取できない。

人間はどうしてリスク通りの合理的な行動ができないのか。
繰り返しになるが、リスクイメージに左右されるからである。
ここで本書のハイライトともいうべきプロスペクト理論が紹介される。
この章を読むだけでも本書を買う価値があると思う。
それほど刺激的だった。

とはいえ、まず確率的期待値への批判から入りたい。
おそらく、ここにプロスペクト理論のインチキを指弾するヒントがあるのだろう
友人とコインの裏表の賭けをする。
コインを投げて表が出たら友人の勝ちで100円払う。
裏が出たら逆に100円もらう。
このとき賭け1回当たりの損得の期待値はこうなる。

(+100円)×1/2+(-100円×1/2)=0円

表が出たら友人に100円払い、裏が出たら50円もらう賭けだったら。

(+50円)×1/2+(-100円×1/2)=-50円

10回賭けをしたら500円くらい負けていることが期待される。
次のような賭けだったらどうなるか。
サイコロを振って6の目が出たら100円もらえるが、
それ以外の目では15円払わなければならない。

(+100円)×1/6+(-15円×5/6)=+25/6円

学問的には確率的期待値がプラスになるから有利な賭けと言えるらしい。
ここでようやく批判に入る。
賭けにおいて確率的期待値は当てになるのだろうか?
2番目に紹介した確率的期待値が-50円の賭けであっても、
10回勝負くらいならギャンブルが強ければ勝てるのではないか?
ツキ(=運)というものを数式は取り込めないのではなかろうか。
確率的期待値は無限に近い回数の勝負をしたときにかぎり正しい。
少数の勝負なら、ましてや1回きりの真剣勝負だとしたら、
確率的期待値はほどんど意味をなさないと思う。

書きながらようやく理解できた。
プロスペクト理論になにか納得できないものを感じていたのは、
確率的期待値が1回かぎりの人生を送る人間に当てはまらないからである。
何度も生きられる(選択できる)のであれば、確率的期待値は信用できる。
しかし、通常、人生での選択はどれも1回かぎりのものである。

順番がごちゃまぜになってしまったが、プロスペクト理論を簡単に紹介する。
ふたつの選択肢があったとする。

A:確実に800ドル獲得できる選択肢
B:0.85の確率で1000ドル獲得できる選択肢


これまでの研究ではAを選ぶ人が多いという。
ところが、確率的期待値を計算するとどちらが得か。

A:$800×1.0=$800
B:$1000×0.85=$850


Bの選択肢のほうが確率的期待値が高いのに多くの人がAを選択する。
リスクを回避しようとするのである。
正しいリスク(数字)を見極められず、損失回避のリスクイメージが優先される。

では、次のような場合はどうか?

A:確実に800ドル失う選択肢
B:1000ドル失う確率が0.85あるが、
まったく失わない確率が0.15ある選択肢


これまでの研究によるとBを選ぶ人が多いという。
例によって確率的期待値を計算してみよう(まあ、これがインチキなのだが)。

A:-$800×1.0=-$800
B:-$1000×0.85=-$850


Aの選択肢のほうが確率的期待値が大きいのに多くの人がBを選択する。
あえてギャンブルしようとするのである。
正しいリスク(数字)を見極められず、損失回避のリスクイメージが優先される。

以上の結果から次のようなことが言えるという。
どちらもプラスの選択肢の場合、リスク回避的な選択傾向になる。
どちらもマイナスの選択肢の場合、ギャンブル的な選択傾向になる。

具体例を自分で作ってみよう。
同日に試験の開催されるどちらの大学を受験するか?
ただし経済上の理由で受験はひとつの大学しかできないものとする。
浪人も不可能で落ちたら高卒が確定という条件を設ける。

A:慶応大学(合格率20%)
B:帝京大学(合格率80%)


このとき帝京を受験するのがプロスペクト理論的には正しいのか?
というのも――。

A:慶応大学(不合格率80%)
B:帝京大学(不合格率20%


こう言い換えたら慶応を受験するのが理論的には正しいのだろうから。
しかし、まあ、自分で選択肢を作った時点で
プロスペクト理論のいかがわしさはわかるであろう。
こういうときみなさまならどちらを受験しますか?
こういう人生の選択でプロスペクト理論もなにもないと思いませんか?
わたしなら慶応を受験すると思う。
ネガティブな人生観を持っている人はギャンブル的な生き方を好むのだろう。
ポジティブな人生観を持っている人はリスク回避的な生き方を好むのだろう。
あれ、おかしくないか?
プラス思考の人間は、なにごともうまくいくと思うのでは?
マイナス思考の人間は、どうせ失敗すると思うのでは?
いや、やはり、この点ではプロスペクト理論は正しいのかな。
みなさまも自分で考えてみてください。

話をテキストに戻そう。
はじめに書いておくが、本書におけるこの部分にいちばん衝撃を受けた。
次の例題の場合どちらを選択するだろう?

「アメリカ政府が、特殊なアジアの疫病を迎えうつ対策を講じている。
この疫病が流行すると600人の死者が予想されているが、
次の2つの対策のどちらかを採るとすると、どちらを採るのがよいと思うか。

A:対策aを採ると、200人の生命が助かる。
B:対策bを採ると、1/3の可能性で600人の生命が助かるが、
2/3の可能性で1人も助からないかもしれない」(P94)


被験者152人のうちAを選んだ人が72%で、
Bの28%をはるかに上回っていたとのことである。
次の例題だとどうなるか? 前提はおなじである。

「アメリカ政府が、特殊なアジアの疫病を迎えうつ対策を講じている。
この疫病が流行すると600人の死者が予想されているが、
次の2つの対策のどちらかを採るとすると、どちらを採るのがよいと思うか。

C:対策aを採ると、400人は確実に死ぬ。
D:対策bを採ると、1人も死者の出ない可能性が1/3あるが、
600人の死者が出る可能性が2/3ある」(P95)


先ほどとは異なる被験者155人に答えさせたら、
Dを選択したのが78%でCの22%をはるかに上回ったとのことである。
お気づきでしょうが、ふたつの例題は選択肢の表現の仕方が異なるだけで、
実のところおなじことを言っているに過ぎない。
ところが、回答は大きく変わってしまう。
「生」に光をあてポジティブな選択肢にするとリスク回避的になる。
「死」に光をあてネガティブな選択肢にするとギャンブル的になる。
ふたつの選択肢の内容は変わらないにもかかわらず、である。

どういうことか?
選択肢の構造であらかじめ求めている回答を誘導できるということだ。
おそらく、銀行員や証券マンはこの技術を徹底的に学ばされると思う。
いかにリスクの高い商品を売るか、である。
話は少しずれるが、保険屋も似たようなところがあるのではないか?
たとえば今回の大地震(=大量の死)で生命保険会社が受けた恩恵は、
計り知れないものがあるだろう。
この地震報道で、どれだけ保険契約件数が増えたことか。
かの業界はいま笑いがとまらないと思う。

この選択肢のテクニックは恐ろしいと言わざるを得ない。
よほどリスク心理学に熟達していても騙されてしまうのではないか?
とはいえ、選択肢自体が特定の答えを誘導している危険性があることを、
我われはなるべく忘れないようにしたい。

次にテキストでは孤立比較効果についての説明がある。
選択肢がいくつも重なる場合のリスクイメージ(リスク認知の過誤)である。
選択肢(AかBか)→選択肢(CかDか)とふたつ以上連続するときの話だ。
このような場合、人はひとつの選択肢しか目に入らなくなるという。
たとえば、自己啓発セミナーなどは、これをうまく商法に用いている。
本当は「受講生→A→B→C→D→E→F→G→成功者」なのである。
数々の難関選択肢を通り抜けなければ成功者になどなれない。
まあ、確率的に考えたら99%の人は成功できずに人生を終わるのである。
だが、セミナーは以下のような選択肢を広告で使うだろう。
「受講生→セミナー→G→成功者」。
たしかにGの段階まで行けば、成功できる可能性が高いのである。
AからFまでの難関(高倍率)をあえて見せないようにしたら、
だれでもセミナーに入れば成功できるような幻想を抱いてしまう。
シナリオ学校などが使っている宣伝手法もおなじである。
確率で考えたらプロの作家になどなれるはずがないのである。
商売上手の経営者はリスク(本当のこと)をうまく隠して、
甘いイメージを顧客に植えつけタンマリ受講料を徴収するだろう。

学問的なのはこのへんまでで、テキストはリスクの雑学めいた話に移行する。
緊急事態が起こると重大なストレスがかかるので、
人間の過誤率(失敗する確率)は急上昇するという研究結果があるらしい。
まあ、わざわざ実験するまでもなく常識と言いたくなるけれど。
30分後くらいから急激に過誤率が下がる(回復する)とのこと。
だから、航空機や原子力発電所で異常事態が発生したときは決まりがあるらしい。
日本や米国では10分間、事故に積極的対処をしてはならない。
ヨーロッパではこの待機時間が30分に延びる。

学問的に(過去のデータとして)パニックは一度も起きたことがないらしい。
どのような災害予知、予報がなされても人間はパニックを起こさない。
今回の津波死亡者を想像すると、本当のことなのかもしれない。
津波警報が出されても、大勢が「まさか」とか鼻で笑っていたのだろうな。
パニックは起きないというのが学問的に正しいのなら、
いざ放射能がやばくなったとき、政府は都民にちゃんと情報を伝えてほしい。
もし東京はもうダメだ、危ない、逃げろと公的機関が警報を出したらどうなるのだろう。
有史以来、一度も起こったことのないパニックがついに発生するのか。
それとも都民は相変わらず礼儀正しく老人、子ども、女性を先に逃がすのか。
どうなるのか見てみたいような気がする、なんて書いたら不謹慎だと叱られるね♪

最後に――。
名著に出逢えた幸運と、こんな長文記事を最後まで読んでくれたあなたに感謝する。

「図解雑学 気象のしくみと天気予報」(上村喬・明石秀平/ナツメ社)

→センター試験は地学で受けた。
都立の進学校だったからなのか、化学も物理も生物も強制的に学ばされた。
どうして4つのなかからわざわざ地学を選んだのだろう。
いまになって思い当たったのだが、地学はいちばん物語の要素が強いのである。
もっとも非科学的だと言ってもよいだろう。
どういうことかと言うと地学など所詮は定かならぬ仮説に過ぎないのである。
たとえば、地震を引き起こす原因としてプレート理論があるでしょう。
あれなんか最たるもので、プレートなんかどこにあるのかという話だから。
つまり、だれもプレートを見たことがないのである。
プレートというものを想定すると、
うまく地震の説明がつくという程度の「おはなし」に過ぎない。
そのうえ、断じてすべての地震の説明がつくわけではない。
なにしろ学問として限界を感じるのは、地震をまったく予知できないことである。

身もふたもないことを言えば、地学はヨタ話や妄想とそう変わりはない。
天気予報もかならず当たるわけではないでしょう。
もし経済学が学問ではないとすれば、地学もおそらく学問ではないのだろう。
経済学を学んだからといって、株で大儲けすることはできない。
言ってしまえば、あとで取ってつけたような説明をドヤ顔でするのが経済学である。
この意味では自然現象をあとから説明するだけの地学は経済学に極めて近い。
「ポセイドンが津波を起こした」を科学風味に言い換えただけなのである。
にもかかわらず、ではなく、だから理科のなかでいちばん地学がおもしろいのだと思う。
「おはなし」=フィクションは概しておもしろいものである。

具体的にこの学問から自然現象に対する「おはなし」を拝聴してみよう。
自然現象というのは、とにかく不平等でしょう。
たとえば、あの厄介な迷惑というほかない台風。
台風の通過する地域と、まったく来ない地域があるわけだ。
(梅雨=雨期もある地域とない地域に分かれていて平等ではない)
こういう不平等がなぜ起こるのだろう。地学はこう説明する。

「大気現象は人間の生活に必ずしも恩恵を与えるものではない。
しかし、地球全体で考えてみると、
低気圧、台風、高気圧の発生・発達・移動・消滅は、
ふりそそぐ太陽の熱が地球の緯度で異なるため不均等になった地球上の熱を、
北から南へ、南から北へかき混ぜて、
うまくバランスさせるための重要な役割を担っており、
地球上になくてはならないものなのである」(P142)


まるで仏教の法話みたいだと思ったのはわたしだけだろうか?
「どうしてこの世に不幸があるのだろう」という問いへの仏教的回答に近似している。
病気というマイナスがあるおかげで製薬会社の社員が生活できている。
犯罪というマイナスがあるおかげで警察官がメシを食べることが可能となる。
ある不幸が起こるからこそ世の中がうまくまわっている。
すべては全体として見たらバランスが取れているという理屈である。
これはそう考えたら不平等にも耐えられるという一種の「おはなし」でしょう。
この仏教的物語と学説がどうしようもなく似通ってしまう地学のインチキ臭さを、
わたしは深く愛している。
無味乾燥な数式や化学式に比べて、なんと自然や天空はロマンに満ちていることか!

「図解雑学 地震」(尾池和夫/ナツメ社)

→ウルトラ不謹慎な地震の説明をすると、あれは夫婦喧嘩みたいなものなのね。
赤い糸で結ばれたようなアツアツの夫婦がいるでしょう。
そういう男女にかぎって、ひんぱんに夫婦喧嘩をやらかす。
壊れない程度に家具が飛び交うかもしれない。
これが地震なのである。
で、喧嘩するほど仲がよいという言葉通りに、この夫婦はよりを戻す。
しかし、また些細なきっかけから派手な夫婦喧嘩をおっぴろげる。
ふたたび、これが地震なのである。
迷惑するのは、近所にいるものである。
下の階に住むものは夜中でも早朝でもドタバタやられて迷惑このうえない。
いっそのこと別れてくれたらと思うけれども、ぜったいに別れない。
この男女を学者はプレートと命名したわけである。
日本列島の地下に複数の夫婦(二対のプレート)がいると考えてください。
カップリングの強いプレートほど激しい地震(夫婦喧嘩)を起こす。
強い揺れや大津波が付随して生じる結果と相成る。
我われに可能なのは喧嘩が起こるまえに逃げ出すことくらいである。

本書は10年前に出版されたものだが、大地震の予想がなされている。
今後30年以内に大地震が発生する確率である(P220)。
宮城県沖は90%以上の確率で大地震が生じるとのこと。
このたび大変お気の毒なことに当たってしまったということだ。
がんばって復興することは大切だが学問的にはどうだろうか。
というのも、宮城県の三陸沖は1896年、1933年にも地震が起きているからだ。
奇跡の復興を果たしても、また40年後くらいに惨事が発生するかもしれない。
忘れたころにやってくるのである。
ちなみに東京近くのプレート(相模トラフ)の夫婦喧嘩履歴を見てみると――。
1703年元禄地震、1923年関東大震災。
あと百年くらい仲よくしてくれるかもしれないし、明日やってしまうかもしれない。
本書によると37%の確率とのこと(2001年時点)。

以下に本書で学んだことを羅列する。

・地震は130年前に来日していたイギリス人の物理学者が「発見」した。
なぜならイギリスではまったく地震が起こらないから!
不思議な自然現象を学問として研究してみようとなったのである。
世界初の地震学会は日本で発足した。
日本では地震は当たり前のことなので、だれも深く関心を持たなかったのである。
当たり前を疑ってかかるのが学問なのかもしれない。

・江戸時代には震災景気というのがあったらしいね。ううん、不謹慎だ。
大地震の直後に鯰絵(なまずえ=地震の版画)が大量に売れたらしい。
こっそりつぶやくと、現代において雑誌が飛ぶように売れるのとおなじかな。
鯰絵の内容は――。当時における地震の意味が描かれていたとのこと。
地震は金持の富を再配分する役割がある。
大工や左官が(地震と関係あるとされていた)ナマズを接待する絵もあったらしい。
たしかに定期的に作ると壊すを繰り返すと金がまわって経済的にはいいのだろうが、
そんな不謹慎な本音を描いた鯰絵が売れていたのは江戸時代の話なのである。
くわばら、くわばら。

・地震のあるおかげで地球内部の仕組みがどうなっているかわかった。

・地震を予報するにはふたつの方法がある。
ひとつがデータの異常である(数字!)。
もうひとつは宏観異常現象(自然!)。
動物の異常行動や地下水の変化から地震の発生を読み取る方法である。
これは中国でスタートした地震予知方法。
実際、かの国は1975年の海城地震の予報に成功した例を持つ。
私見だが、易やシンクロニシティといったオカルトとの共通性を感じる。

本日、近所の川岸を歩いていたらハトの群れが変な飛び方をしていた。
ぶつかってくるのである。危うくかわしたが、あれは異常というほかなかった。
ちかぢか東京に大地震が起きるということだろうか?

(追記)東北地方太平洋沖地震に被災された方々に、心からお見舞い申し上げます。
1日も早い復興をお祈り申し上げます。
当ブログを不謹慎とお感じになられました方々に、深くお詫び申し上げます。


今回の大地震について思う。

どうして見知らぬ大勢の人間の不幸に涙するのは、
甘い陶酔があるのだろう。
……心地いいのだろう。
どうして身近な人間の、つまり家族の不幸に涙するのは、
たとえそれが致命的なものでなくても、
どこまでもどこまでも辛いばかりなのだろう。
ましてや死んでしまったとしたら!

(××××の言葉)



これがむかしの偉い哲学者の言葉なら、
「あるいは、そうかもな」と思われるのかもしれません。
しかし、かりにわたしの言葉だったら、不謹慎だと非難されることもあるでしょう。
いや、偉人の言葉でもいまの時期に引用するのは問題だとお叱りを受けるかもしれない。
あらゆる言葉は、発言者の肩書とタイミングによって価値がいくらでも変わります。
「ふたつの不幸」についての言葉がだれのものか「答え」をお知りになりたい方は、
お手数でしょうが記事右下の「more」をクリックしてください。

- more -

他人は自分に興味を持たない。
先ごろ自分で繰り返し書いたことなのに、とんだ恥ずかしいことをやらかした。
ブログを読んでくれていると思って友人と電話で長話をしていたら、あひゃひゃ。
ああ、恥ずかしい。穴を掘って入り、上から埋めてもらいたいくらい恥ずかしい。
そうだよね、だれも他人にそう興味を持たないよね。
うん、ネットの不具合という事情もよくわかる。
ネットにつなげると、ついつい時間を無駄に使っちゃうから、抑制するのは賢い。

そういえば、おいらもその友人からもらった小説を2年も読んでいない。
とんでもねえやつだな。
さっそく読まなければいけないと思いましたですます。

作家とかで、こういう経験をしたら死にたいほど恥ずかしいだろうね。
ファンとの会話で自作を誇らしげにとうとうと語る作家先生。
「あの部分はどう思われましたか?」なんて先生風を吹かせてファンに尋ねたら。
「ごめんなさい。実はそれ読んでいないんです」――。
絶句して二の句が告げないと思う。

これから毎日、自分に言い聞かせよう。
他人は自分なんかに興味を持たない。
それからなるべく他人に関心を持つようにしたい。
これはカーネギー「道は開ける」でも繰り返し語られている成功法則。

話は変わるけれど、女性が恥ずかしがっている姿ほどソソルものはないよね。
ニコニコしながら全裸で大股開きなどされても興醒めする。
見せることよりも、隠すことのほうによりチカラがあるような気がする。
人間って、隠されているものを見たくなるものだと思う。
なんでもないことでも隠されたら、人はそれを知りたがるのではないか。

またまた話が飛ぶけれど、だから私小説は自分の見せ方ではなく、隠し方なのかも。
うまく隠されると、読者は見たくなるのではないか。
それから私小説というジャンルへの最大の批判はあれだよね。
「おまえに興味がない」――。

「もてない男」の小谷野敦先生の芥川賞候補作「母子寮前」。
熱烈な先生のファンの友人がいて掲載号をもう読んだからくれると言われたことがある。
彼は発売日に文芸誌を買いに行ったとか。
ただでくれると言われてどうしたか。いらないと断わってしまった。
理由は、「文芸誌とか家にあると気持悪くなるから」――。
基本、純文学なんちゅーのは、みな「私、私、私」なわけでしょう。
正直、自分の「私」だけでも手をこまねいているのに、
他人の「私」にまで目を配る余裕がない。

もちろん、いまでは「母子寮前」掲載号をもらわなかったことを後悔している。
あれは字の詰まった文芸誌を嫌悪していただけで他意はない。
思えば、先生の処女小説「悲望」は発売日に文芸誌を立ち読みに行ったのだった。
失敗から学ぶことは多い。これからのために思ったことを書いておきたい。
もしかしたらみなさまにも役に立つかもしれないと思う。
いまは戦争もなく平和でしょう。
平和であることによって人間というものが見えなくなっているところがあるのではないか。
困っている人は、心のどこかでだれかが自分を助けてくれるのが当たり前だと
思っているところがあるような気がする。むろん、わたしも含めての話である。
「助けて」と声を上げたら、だれかが来て助けてくれるものだと思っている。
ネットの質疑応答など典型的ではないか。
だれかが質問をしたらすぐにだれかが答えてあげている。
なぜかと考えると、だれかを助けるという行為は気持がよいのだろう。
だれかを助けることが優しさであるという一般的な相互了解がある。
困っている人を見たら助けないのはおかしい。

しかし、これは平和な時代の話なのである。
いざ戦争が起こって食料を含む物資が不足したら、
助け合いなど馬鹿げた行為になるだろう。
どちらかが死なないとならないときに、なら自分が死にましょうという人は少ないはずだ。
「助けて」などと訴えるのは、かえって周囲におのれの弱点を教えることにもなる。
気軽に「助けて」などと赤の他人に頼めるのは、豊かな時代だけの話なのである。

わたしは見知らぬ人から「助けて」というメールをもらうことが多い。
すべてに返信してきた。人を助けるのはいいことだと思っていたからである。
しかし、どのケースひとつとっても助けられてなどいないのである。
逆に「あなたはおかしい」と非難されて終わることが多かった。
二重にも三重にも過誤があったのだろう。
赤の他人のわたしに「助けて」とSOSメールを送ることがまずおかしい。
「苦しんでいる人(=私)を助けない人(=あなた)はおかしい」
という現代の風潮がそもそもおかしいのではないか。
そして、助けるという行為の怖さが知られていないのだろう。
ネットで質問に答えるくらいならいいのである。
しかし、本当に他人を助けたいと思ったら、なにもかも差し出さなければならない。
百万円を貸すことができるか。女性なら肉体で相手に奉仕できるのか。
一回助けてしまったら、二回目も三回目も助けなければならないのである。
そこで助けなかったら「あの人は冷たい人だ」と憎まれてしまう。
だとしたら、最初から助けないほうがいいのである。
そう、見知らぬ人からの「助けて」はよほどの決心がないかぎり無視したほうがいい。
無視するのがいちばんの優しさという部分が人生にはあるのではないか。

好きでもない相手からラブレターをもらったとする。
このとき本当に優しい人ならば無視すると思う。返事を書かない。
「友人としてなら」などと返事を書くのが優しさだと誤解されているところがないか。
「あんたなんか大嫌い」と返事を書くのは、いちばん優しさから遠い。
相手は幾晩も幾晩も返事の意味を考えて暮らさなければならなくなるからである。
本当の優しさというのは、もしかしたら助けることではなく、
無視することなのかもしれない。
結局、人間は自分で自分を助けるしかないのではないか。
「助けて」とSOSを送った相手から、無視されたら自分で考えるだろう。
むしろ、返事が来てしまうと、どこまでも相手に依存してしまう。
自分の思い通りになる他者はいない。遠からず相手を憎むことになるだろう。

方針を変えようと思う。
知らない人からメールをいただいたらすべて返事を書くという習慣をやめる。
もちろん書きたいときは書くが、あまり無理をしない。
返事を書かないと冷たい人だと思われるだろうが、それは数日くらいの話だろう。
へたに関わってしまうと、相手からひどく憎まれることにもつながりかねない。
そうなったら、双方ともに莫大な時間的および精神的な損失をこうむることになる。
本当に苦しんでいる人というのがいて、とてもお辛いことだと思う。
返事を書かないのはなにか悪いことのように思えてしまうが、かならずしもそうではない。
無視したら結局うまくいくということがあんがい多いのではないか。
自分を助けられるのは、最終的には自分でしかないのだと思う。
メールを無視することで、そのことに気づいてくださるかもしれない。
ブログのコメント欄も方針を変更する。
あきらかにおかしいコメントは早々と削除してしまおう。
無視されたと相手は怒るかもしれない。
しかし、それはいっときのこと。
延々と言い合いを続けるのは、双方が時間と精神安定を奪われる結果になる。
ならば、はじめにきちんと無視をしておいたほうがよかったという話になる。

それに無視されるというのは、そこまで不快なのだろうか。
わたしは昨年ある女性に手紙を郵送して返事は来なかったが、なぜか優しさを感じた。
怒りはまるでなかった。
この優しい女性とわずかでも人生の一時期を遊べたことを改めてなにものかに感謝した。
庶民が誕生日を祝う風習というのは、日本の場合戦後のことらしい。
意外と最近のことだということだ。
グーグル先生に聞いてきたから、たぶん間違っていないと思う。
話は飛ぶが、人から認められることの少ない人生だったものの、
なにゆえかグーグル先生にだけはとびきり気に入られている。
どうしてかグーグル検索で上位に表示されるのである。

誕生日を祝うというのは、実に西洋的な作法の気がする。
仏教的に考えたら、誕生は苦しみの始まりでしかないのだから。
苦しみとは、思うようにならないこと。
我われの人生はなにひとつ思うようにならないようにできている。
というのも、好きな異性ができても相手は自分を好いてくれない。
どんな勉強しても東大に入れるのはほんのひと握りで、
低く設定した目標の志望校にされ落とされてしまうのが人生だ。
就職面接は5、60社落ちて、どこか小さな会社に入れただけでも喜ばなくてはならない。
仕事の大半は意味のない苦労の連続で、どれだけがんばろうと上司からは評価されない。
そして、どんなに人生で業績を積み上げたところで、どうせ最後は死んでしまう。

「誕生日おめでとう」なんて言うのは皮肉かなにかと思ってしまうくらいである。
本来だったら自分の誕生日は泣いて暮らし、
他人の葬式で「おめでとう」とケーキにロウソクでも立てて祝うべきなのである。
あらゆる偽善の根幹にあるのが「誕生日おめでとう」ではないかと疑う。
「誕生日おめでとう」は最大の偽善にして、にもかかわらず、ではなく、
だからこそ、人間が他者に示しうる最高の「優しさ」なのだろう。
毎日がだれかの誕生日なのである。ならば、今日生まれた人もいるはずである。
その人に向けて優しく「誕生日おめでとうございます」と声をかけておこう。
2月26日、本郷台の栄公会堂講堂に山田太一先生の講演を聞きに行く。
テーマは「誰もが生きる物語」。
うちからだと片道2時間、交通費も片道で千円以上かかるわけである。
ファンというよりは、もはやストーカーに近いのだろう
以下に再現する講演会の内容は、すべてを未熟な聞き手の頼りない耳に依っています。
どこかおかしなところがございましたら、あらゆる責任はこの記事の書き手にあります。

さかえ区民サークル活動の紹介のあと、山田太一さんが登場する。
――このへんも、だいぶ変わりましたね。
僕は大学を出てから、大船の撮影所に通っていましたでしょう。
ですから、当時のこのへんは知っていますので。

ゴーストバスターズ。いきなり変なことを言うようですが、ゴーストバスターズ。
映画のタイトルでもありますね。幽霊の退治をする人たちのことです。
だいぶまえハワイでゴーストバスターズをしている人と逢ったことがあります。
ご夫婦で幽霊退治をなされていて、とても親切な方たちでした。
そのとき、こんな話を聞きましたですね。
ゴーストバスターズの夫婦が、依頼されてどこかのビルに行くでしょう。
幽霊がいると言われているビルです。
雨が降ると言うんですね。それまでは晴れていた。
ところが、夫婦がそのビルに近づいていくと、さあっと天気が変わる。雨が降る。
20世紀の科学を信じている我われにとっては、あれ? という話でしょう。
どこまで信じていいのか迷ってしまいますですね。
ご夫婦のしていたのは、天との連絡を取る、というようなことなのでしょうが。

話は変わりますが、雑誌の取材で、とある女性のライターと仕事をしたことがあります。
この方は、とにかく天気を気にするんですね。
この女性ライターも含めた一行は神社に行きました。
そのとき雨が降っていたんですね。小雨がぱらついていた。
彼女は、言うんですね。この場所は雨がもっともふさわしい。
自分たちがここに来たときに、雨が降っているというのはすばらしいことだ。
神社の取材が終わって晴れてきました。
つぎに海に出まして、船の上から断崖を撮影する必要があったんですね。
このライターはなんと言うか。「ついている」と言うんです。
どうやら彼女は、信じているみたいなのです。
天候が自分に幸いしてくれている、と信じている。
取材が終わったら、空港へ行きます。帰るためです。
このときは――雲が立っていたんです。
すると彼女は興奮する。こんなラッキーなことはない。自分たちは歓迎されている。
空港に行くまでの車でも、こんなことがありました。
彼女が空に虹が見えると言うんです。
そんなに言うんだからと我われも車をとめて外に出てみました。
けれども、虹なんかどこにも見えないんですね。
彼女は、いや、見える、あそこに虹が出ている、と主張します。
すると見えないと思っていた虹がうっすら見えたんですね。それは驚きましたですね。

この女性ライターと老人ホームに取材に行きました。
1時という約束をしていた。
5分まえに彼女が行く。入口からエレベータに行きますね。
エレベータが開く。すると、取材しようと思っていた老人がいるんです。
やっぱりだと彼女は言います。そういう予感がしていたと。
しかし、これはどうだろうか、とも思いますでしょう。
1時に約束していたのだから、5分まえに本人が登場するのは、
まあ、そんなに感動するほどのことでもないような気もいたしませんか。
彼女は言います。ラッキーだ。なんて私はついているんだろう。
こんなことも言っていましたですね。
腰が痛いときにテレビをつける。たまたま腰痛の特集をしているんですね。
ほら、自分はついている、という話になります。
これも、ちょっとよくわからないですよね。
そのとき腰が痛かったから、特集が記憶に残ったという可能性もありますから。
そんなにラッキーでもないんじゃないか、とも思うこともできます。

しかし、こうも思いますですね。それで幸福だったらいいじゃないか。
現実や自然は、味気ないものです。
そういう味気ない現実を生きているときに、
「自分をだれかが見ていてくれている」と思えたら、思えるのなら、
それでいいのではないか。

モンテーニュがこんなことを書いていましたですね。
嘆く人がいるでしょう。今日は人生を無為に過ごした。
今日はなんにもしなかった。だから、よくない日だったと嘆く。
しかし、とモンテーニュは言います。
そんなことはない。生きていたじゃないか。
生きているというだけで、相当に細かな味を感じているものでしょう。
なら、それでいいではないか。
どうして存在していること、それだけでも奇跡だと思わないのだろう。
知性によって意味があると感じられることばかり重視するのはどうだろうか。
現実主義者は、そんなことをしても意味がない、なんてよく言いますでしょう。
意味がなくてもいいではないか。
そういう点からしたら、現実主義者というのは、
かえって現実の辛さ、現実の哀しさを知らないと思いますですね。

ラブソングを聴いていますと、あれでしょう。
永遠の愛があるんじゃないかと思えてきませんか。
現実主義者は、永遠の愛なんてないと言います。
ラブソングがうたいあげるような愛はない。
実際、そうですよね。恋はいつかはさめる。
大恋愛をして結婚しても、そういう昂揚はどうしても長続きしません。
じゃあ、どうして離婚しないのだというと、
恋愛が情愛のようなものに変わるからなんでしょうが。
情愛のようなもので関係が持続していくのが実際だ。
だったら永遠の愛はないのか?
おそらく、ないのだろうけれども、ほしいじゃないですか。
映画、ドラマ、小説というのは、こういうものを描くものだと思いますですね。
人間の願いを書くのが映画、ドラマ、小説ではないか。

現実というのは、方向性がないものでしょう。いいも悪いもない。
だから、切り取り方の問題だと思いますね。
悲惨な物語というものがあるでしょう。
そういう物語の作者は、ロマンティックな作品を否定したりする。
あんなものは現実を描いていないではないか。
しかし、僕は思うのですね。
そういう悲惨な物語も、願いを書いているだけではないのか。
現実が悲惨であってほしいという願いを書いているのではないか。
ロマンティックなものも、悲惨な物語も、
結局のところ作者はそれぞれのこうであってほしいという願いを
書いているような気がしますですね。
現実というのはこうだと決めつけられるものではない。
切り取り方の問題だと思いますね。現実をどう切り取るか。
若いときに感動したものを、歳を取ってから見ると感想が変わりますでしょう。
こんなつまらないものに感動していたのか、とあきれてしまうことがある、
どうしてかと言いますと、生きているうちに段々すれっからしになるからでしょうね。
現実はこんなもんじゃない、なんて言ってしまいたくなる。
とはいえ、すれっからしになった人が、それでもなお感動するものがありますね。
そういう作品は、夢の質がいいのだと思います。
夢の質が、作品の力なのかもしれません。
映画、小説、ドラマに接するときは、切り取り方の楽しさを味わうといいです。
語り口の楽しさです。語り口、物語のことです。
その語り口と自分の物語を合わせて生きようとしてみたらおもしろいかもしれません。

杉山平一さんという人がいます。関西の詩人です。
こういう詩を書いておられますね。
夕方うちに帰ろうと思うのはどうしてだろう。
うちに帰ればあると思っているからではないか。親の自分に対する子どもの愛が――。
ところが、このお子さんは亡くなってしまいます。
そのときのことを詩にしています。しかばねを焼いた美しい煙――。
続けて、このようなことが書いてあります。
人間は考える葦(あし)だって言うても、
子どもが死んだということは、どうにも受け容れられぬ物語だ――。

別の詩に、こんなことを書いています。
あるとき、あるところへ行った。そこで道がわからなくなってしまう。
ガソリンスタンドで聞こうと思う。
そこでふと気づくんですね。
まえに来たときも、ここで迷ってガソリンスタンドで道を聞いた。
まだ時間があるから道を聞くまえに、駅のほうへ戻って昼飯を食べようと思う。
うどん屋があり、ここへ入ろうか迷う。高いからほかへ行くことにする。
ここでも気づくのですね。こういうことがまえにもあった。
たしかにまえもこのうどん屋に入ろうか迷い、高いからやめた。
自分はどうしてかおなじことを繰り返してしまう。
そうして自分の限界というものを感じるのですね。
まったく自分は自由なんかではない。
さらにこんなことも思います。ここがおもしろいところです。
自分の父親もまたかつてここで迷ったのではないか。
自分の息子もまた将来ここで迷ってしまうのではないか。
自分だけではなく、父親や息子のことを考えます。
それぞれの限界に思いを馳せるのです。
これは類縁の限界を想像するということなんでしょうね。

話は大きくなりますが、日本の文化を継承するというのも似た面がないでしょうか。
我われはどういう存在か。
膨大に積み上げられた過去の頂上にいま我われはいるという考え方があります。
一方で、中間地点に過ぎないという見方もあると思います。
我われは、過去と未来をつないでいく存在なのだという考え方です。
日本の文化などと言うと、ついつい芸術作品だとか大きなものを考えてしまう。
しかし、もっと小さなものの継承にも光が当てられていいのではないか。
たとえば「ためらい」「人見知り」、それから「大胆さ」、こういったものの継承です。
どれも一見すると、どうでもいいもののように思えます。
広い過去の日本人の生き方です。
いいところも悪いところもつないでいく人だと自分を思ったらどうでしょうか。
かつて三島由紀夫さんが、こんなことを言っていますね。
日本にはずっと続いているものがない。
だから、三島さんは天皇制の価値を訴えていくわけです。
これに対して福田恆存さんがこう言う。
対談で、三島さんから「日本にはずっと続いているものがないが、どう思う?」。
こう聞かれた福田恆存さんがさらりと言うのです。
ずっと続いているものならある。それは「私」だ――。
思い切ったことを言うな、と思いましたですね。「私」がずっと続いている。
つまり、ひとりではないということです。
ひとりではなく、つないでいる人なんだ。それぞれの継承をしている。
こういう考え方を、僕はちょっと素敵だなと思う。
モンテーニュの言う、自分の存在をないがしろにしちゃいけない。
それはこういう「私」のことを言っているのではないでしょうか。

考えてみれば、ホームドラマなんていうのは、こういう継承の宝庫でしょう。
継承ということを考えることで、
だいぶ「ひとりじゃないという感覚」が得られると思います。
そうなると、よき継承をしたいなどと考えてしまうのが我われです。
悪い継承をしてはいけない、なんて考えてしまう。
いいも悪いもなく、継承するということに価値を見出してはどうでしょうか。

いい悪いというのは理屈です。これは正しい。これは正しくない。
世界も日本も、こういった理屈で動いています。いいことをしよう。
しかし、いまの我われに絶対はないのですね。
イエス・キリストがこれは正しいと言ってくれません。
お釈迦様がこれは悪いと決めてくれません。
どこまでも相対的な価値観のただなかを生きざるをえない。
たとえば、映画を観るでしょう。こりゃひでえな、つまらないなと思う。
ところが、周りの評判を聞いてみると、おもしろいという声が多い。
ヒットしていたりする。
こういうときに、それは違うとはなかなか言えないでしょう。
「人それぞれか」と思って、自分の感想を呑み込むくらいが関の山。
これが相対でしかない、つまり絶対のない世の中なんですね。
尾形光琳がいいというのも、ディズニーがいいというのも、人それぞれ。
比べるのもどうかと思うけれど、ゴッホとサザエさんが同列に論じられてしまう。
少なくとも優劣はない、とされますでしょう。
これが相対主義の世界なんです。

ところが、相対ばかりだと我われは絶対的なものがほしくなる。
絶対的なものを求めすぎると、ヒットラーのような人が現われるのでしょう。
あまりに相対的に過ぎると、絶対的にふるまう人がよく見えてしまう。
「これはこうだ」と絶対的に言い切るひとが過分にもてはやされる。
宗教というのは、絶対的なものです。
たとえば、罪を犯したとするでしょう。
このとき仏様を信じられたら、こんなにいいことはありません。
仏様に懺悔したから自分はもう許してもらえたのだと思うことができるからです。
ところが、いまはなかなか仏様を信じられない。
天国とか地獄とか言われても、信じられない人が多いのではありませんか?
天国や地獄が本当にあると思っている人は少数でしょう。
天国を信じられたら、いいんです。
天国へ行きたいからという理由で、自分を律することができる。
地獄へ行きたくないから、現世での自分を律するという生き方ができます。
しかし、どうにもこうにもいまの我われは信仰がない。信仰を持てない。
ならば、どこに絶対を求めたらいいのだろうか。

ひとつは自然です。自然は絶対的である。
新燃岳の噴火なんかそうでしょう。天災はどうしようもない。
灰が迷惑だといっても、どこにも非難の持っていきようがない。
地震もそうです。地震がいつ来るかはわかりません。
いまこの瞬間に地震が起きて、この会場にいる人みんなが死んでしまうかもしれない。
地震は今日起きないかもしれない。起きるかもしれない。わからない。
人間の意思ではどうにもならないのが自然です。これは絶対です。
あるときガーって来て、みんなすべて奪っていってしまうかもしれない。
そういうときになってはじめて、人間はなにが本当に大事なのか思い知るのでしょう。
そういう天災のような絶対がないと、我われはなにが大事なのかわからなくなります。

もうひとつ、絶対があります。病気です。
どんなに健康に気を配っていても、病気になるときはなってしまいます。
しかし、病気になってはじめて、人の身になれるというところがあります。
健康な人は実感がないからどうしても病人のことはわからないのですね。
大病をしてから、人の心の冷たさ、
あったかさがわかるようになる人が大勢いるように思いますですね。
こう考えてみたら、疫病神(やくびょうがみ)というのは、
意外と我われの生活にうるおいを与えてくれているのかもしれない。

それから三つ目の絶対は死です。人間はだれもがひとりの例外もなく死ぬ。
かといって、「自分の死」は決して味わえませえん。
だから、この場合の死は「親しい人の死」になります。
もちろん、死んでさみしいというばかりではなく、
死んでくれてさっぱりしたとか、そういういろいろな感情を人は死に持ちます。
とはいえ、この死という限界があることによって、
我われはどれほど幸福感を得ていることか。
ずっと生きていると思ったら、これはもう拷問です。
「死ねば終わり」と思えることで、どれだけ楽になる部分があるか。
そう考えたらば、死は恵みでさえあるのかもしれない。

繰り返します。信仰を持てない現代の我われにとって、なお絶対者は存在する。
それは自然、病気、死の三つです。
この三つは、かなり平等です。死なんか本当にそうでしょう。
金持も貧乏人も、死だけは平等に訪れます。
そして、この絶対があることによって、どれだけ我われは豊かなものを得ているか。
病気を疫病神と神にまつりあげる考え方はおもしろいと思います。
おなじように死は死神に支配されています。
疫病神や死神といった神様に現代人はもっと感謝したほうがいいのかもしれない。

いろいろなところで言ってきていますが、食べ物の話は書かないようにしています。
食べられるだけで幸福だった戦争時代を知っているからです。
うまいと聞いたら新幹線でも飛行機でも乗って食べに行くというのは品がないと思う。
僕は、自分の食べている姿は醜いという思いがずっとありました。
こないだ高校生のころの友人と同窓会で再会しました。
こう言われたんです。おまえはとにかく顔色が悪かった。
当時どれほど飢えていたかということでしょう。
食べ物があるとすぐ食べちゃうんですね。犬みたいで恥ずかしいと思います。
マクドナルドの銀座一号店がオープンしたとき思ったものです。
道でものを食べていて恥ずかしくないのだろうか。
時代が変わったのだと思いましたですね。
飢えていたときは、白米だけでお祭り騒ぎでしたから。
父が白米をどこかから獲得して来るでしょう。
全員おなじ量にしようってことで、ハカリを持ち出してくるんです。
どっちが多いか、なんて妹と言い合ったりして。
そういって飢えているときに白米をなにと食べると思いますか。
白菜の漬物です。白菜でご飯を寿司のように巻いて食べる。
忘れられないくらいおいしかったですね。
どうしたら快楽が増すのか。快楽の秘訣は抑制することだと思います。
おいしいものを食べたかったら飢えているにかぎる。
抑制というのは、とてもいいものだと思いますね。
抑制している人間は素敵だと思う。
たまには絶食してみるのもいいのかもしれません。
まあ、バイキングに行くまえとかは、昼食を抜いたりするのでしょうが。

食べることは醜いと思いますね。結局は命を食べているのでしょう。
肉だったら、動物を殺して食べているわけです。
ヒューマニスティックな人というのもどうなのかと思いますね。
犬か人間かどちらかを殺すとなったら、やはり犬を殺すわけでしょう。
人間の善意の限界というものを知っておいたほうがいい。
あくまでも人間中心の世界なんですね。
人間が生きているというだけで、なにものかを傷つけているところがある。
ここから生きる哀しみといったような情緒が生まれるのでしょう。

明治のころにもう夏目漱石が言っているのですね。
最近の小説は泣かなくなった。
このころから涙を流すというのはよくないことだったのかと驚きます。
思えば、感情的なのは恥ずかしいとどこかで我われは思っています。
理性的であらねばならないと思い込んでいる。
だから、「さっきは感情的になってごめんなさい」と言ったりするのでしょう。
理性と感情を天秤にかけたら、常に理性のほうが重んじられるべきだと考えている。

中国の古い皇帝が、ある美少年を寵愛していたそうです。
ホモだったのか、バイだったのかはわかりませんけれど。
この少年の母親が亡くなった。
少年は急いで母のもとに駆けつけたい。
そこで皇帝しか使ってはならない馬車で故郷へ帰りました。
どんな刑罰を受けることになるのかと少年は青ざめて帰ってくる。
ところが、皇帝は少年を許すのですね。
後年のことです。そのころは美少年ではなく髭が生えていたからかもしれない。
ちょっとしたミスが原因でこの少年は死刑になったと言います。
おなじことをしても殺される場合と、殺されない場合がある。
これが現実だと思うのですね。
皇帝のささいな感情ひとつで人間の生死が変わってしまう。
現実はこのように理性よりも感情で動くものなのかもしれません。
もしそうだとしたら、感情が発露しているものはいったいなんだろうか、
と考えてみるのも悪くないかもしれません。

自分の歌を見つける、探すということをもっとしてもいいのではないか。
物語というのはなかなか難しいかもしれませんが、
歌くらいならあんがい自分のものを見つけられるのではないでしょうか。
川崎洋さんという詩人がいます。詩は好きでよく読むんです。
「私の歌」という詩があります。
自分にぴったりするような歌はどこかにないものかと探していく詩です。
「~~でもない、~~でもない、あれでもない、これでもない」
ずっと否定が続くわけです。あれも自分の歌ではない、これも違うと。
おなじことを物語でやってみてもおもしろいかもしれませんね。
自分に似合う物語をあれでもない、これでもないと探してみてはいかがでしょうか。

先ほど紹介した詩人の杉山平一さんにこういう詩があります。
急行列車のことを書いています。
急行は各駅を飛ばしていくでしょう。とまらない駅がある。
そういう駅のホームに座っている人がいる。
詩人は思うのですね。「あれは私だ」――。
もちろん自分は急行列車に乗っているのですから、ホームに私などいるわけがない。
しかし、各駅停車の電車しかとまらないような駅のホームに自分がいると感じてしまう。
情けないものにどうしてか惹かれてしまう。
これは「私の歌」「私の物語」と似た側面がないでしょうか。
演歌なんかもかならず情けないことを描きますでしょう。
別れたとか、振られたとか。「着てもらえない手編みのセーター」とか。
これはロマンティシズムだと思いますですね。
人間の夢の部分、感情の部分に大きく関与しているのではないでしょうか。
どこかに情けない部分を切り取りたいという感情を持っているのではないか。

大和朝廷に最後まで抵抗したのが出雲だったと聞きます。
結局滅ぼされてしまうのですが、そのときこういう約束がなされたというのです。
人心を安定させるために役割分担をしよう。
目に見えるものは大和朝廷が担当する。
そして、目に見えないものは出雲大社に担当してもらう。
とても素敵な話だと思いますね。
当時は大昔とはいえ、なんと洗練されていたことか。
見えるもの――経済、お金や物質的なものがそうですね。
お金が目に見えるものかどうかというのは、それはそれで難しい問題ですが。
見えないもの――過去や感情がそうです。
脇にいる人なんかも見えないかもしれない。

ラフカディオ・ハーンという人がいます。
妻から聞いた日本の怪談を広く紹介した人です。
彼は妻が話す怪談を本当に怖くて仕方がないというように聞いていたらしい。
どこかで怪談を信じていたところがあったのではないか。
というのも、ハーンはアイルランド出身なんですね。
アイルランドといえば、さかのぼればケルトに行き着く。
ケルトの人たちは、この世にないものに強くあこがれた。たとえば妖精のようなもの。
こういう血筋もハーンという人間を考えるうえで見逃せないのかもしれません。
あるときハーンが避暑のため焼津に行きました。
夜、波の音がよく聞こえる。
ハーンはこう言ったそうです。波の音を聞いてハーンは言った。
「いままで生きていた(もう死んだ)人たちの悲嘆が聞こえる」――。
実際は、ただの波の音に過ぎないんですよ。
現実は味気ない。だが、味気ない世界に生きていると心細くなる。
そういうときにハーンのように波の音を聞けたらどんなにいいことだろう。

フォースターというイギリスの作家がいます。
エッセイでこういうことを書いていますね。
「できるなら人生の本当の姿なんて見たくない」――。
小説家というのは、願いを聴き取る力を持っているかどうかではないでしょうか。
なんでもないことのなかから、人間の願いを聴き取る力です。
たとえば車椅子の人が立ち上がる。
一見するとなんでもないことですが、
そのときになにかを聴き取ってしまう人がいるかもしれない。
ハーンが波の音から死者たちの悲嘆を聴き取ったように。
現実に絶望すると人間は自殺します。
しかし、このごろ思うのですが、人間は絶望するようにできていないのではないか。
絶望は思いのほか長続きしないものなのではないか。
実際、死にたいと思っていても、ひと晩寝ただけでかなり変わるでしょう。
人間はあの手この手を使って現実を肯定しようとする存在ではないか。

最初に話したゴーストバスターズのことを思い返してください。
あれはひとりで幽霊を倒そうとしているのではないのですね。
仕事としてあるということは、かならず依頼してくるお客さんがいるわけです。
幽霊はいるのかいないのかわかりませんが、
言ってみたらゴーストバスターズと顧客は幻想を共有しているのですね、

広く共有されている幻想に、人間は平等だというものがあります。
あれは本当は権利のうえでの平等なんです。
しかし、憲法に人間は平等だと書かなければならない裏側の気持はどうでしょう。
人間は不平等なんだと大声で叫びをあげているようなところがありませんか。
人間は平等であるわけがない。不平等極まりない。
おそらく、だからこそ憲法に人間は平等だと書かざるをえなかったのでしょうね。
というのも、人間はあからさまに歴々と不平等だからです。
顔もまったくそれぞれ違いますでしょう。美人がいれば、そうでないものがいる。
頭のよさも人によってまるで違います。
金持の家に生まれるものがいれば、貧乏人の子として生まれるものがいる。
ここには個人の努力はまったく関係なく不平等としか言いようがありません。

人間は顔も背丈も選べない不可能性だらけの存在なんです。
反対に、可能性というのは魔であると思いますね。悪魔の魔です。
可能性によってどれほど無駄な悩みが増えていることか。
努力すればなんでもできるなんていうのは嘘です。むしろ害悪です。
あれはトップの人にインタビューしているから、ああなるのであって。
二位や三位の人は、じゃあ努力が足らなかったんですか。
四位の人はどうです。五位の人も生きているんですよ。だれもインタビューしない。
テレビの世界に長く関わってきたから、こういうことを思います。
俳優志望の人というのがたくさんいます。
とてもダメだ、俳優になんてなれない、という人はいいんです。
なぜなら、すぐにあきらめることができますから。
中途半端に可能性がありそうな人が困るんです。
あんがい年齢があがったら渋みが出るかな、とか思わせるような俳優志望者。
なぜなら、いちばんあきらめが悪いからです。
すると大きく出遅れてしまいますでしょう。
出直す時期を見誤ってしまう。
スポーツの世界ではオリンピックに出られなかった選手がいちばん辛いでしょうね。
オリンピックに出たらたとえダメでもなんとか人生に折り合いをつけられるかもしれない。
あきらめや自己限定は生きていくうえでとても大切ではないでしょうか。
僕も犯罪は書かないと決めています。犯罪寸前までは書くけれど、犯罪は書かない。

何度も繰り返したいのですが、可能性は魔ですからね。可能性は魔である。
マイナスを指折り数えてみるのも楽しいかもしれませんね。
顔がまずい。顔の可能性(=魔)が消えた。これで得点1です。
百メートル競争をしたらビリになってしまう。ラッキー。得点2。
頭が悪い。またひとつ可能性が消えた。よしよし。得点3になった。
ほかにもなにかマイナスがないだろうか。
どうか自分のマイナスを指折り数えてみていただきたいと思いますですね。
こんなふうにマイナスをとらえるようになったのはどうしてか。
僕くらいの年齢になると友人がどんどん死んでいくんですね。
もう周りにはだれもいないというくらい多くの友人に先立たれました。
そうすると共通の想い出がまったく消えてしまいますでしょう。
マイナスへの見方ががらりと変わりますですね――。


(編集後記)
繰り返しになりますが、記事内容の責任は未熟な聞き手たる筆者にあります。
話者の語った内容をうまく聴き取れなかった部分もかなりあることでしょう。
話し手の意図を大きく飛び越えて聴き取ってしまった箇所もあるかと存じます。
なにとぞご了承のほど、よろしくお願い申し上げます。

(参考)過去の山田太一講演会↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2495.html