ミスをすることの多い人生だが、ふたつの失敗があるのだと思う。
取り返しのつく失敗と、どうにも取り返しのつかない失敗である。
取り返しのつく失敗というのは、多くはお金の問題ではないか。
いくらいくらの金銭的損失をしたという話だ。
お金は天下のまわりものだから、これしきの失敗はいくらでも取り返しがつく。
失敗したときに要はお金の問題であるならば、かえって喜んでもいいのかもしれない。
この失敗をしたおかげで、
取り返しのつかない失敗を避けることができたのかもしれないと思えばいいのである。
日蓮系某宗教団体に似た考え方だが、あれはあんがい真実ではないかと思う。

人間関係の失敗はどうか?
たいがいの人間関係的失敗も結局はお金に換算できてしまうのではないか?
そうでない失敗の場合は、繰り返し何度も悔やむことになろう。
しかし、相手が生きていたらいくらでも取り返しがつくと思う。
劇的な再会というやつである。
時間が経てばかなりの遺恨は清算される。
かえって友人よりも仇敵の存在に利せられるのが人生とも言いうる。
人間関係で刻み込まれた傷ほど、その人間を成長(が偽善的なら変化)させるものはない。
10、20年というときを見すえ、
あらゆる人間関係の失敗がどのように変化しているかを調べたら、
その意外な結果に我われはまったく驚かされることだろう。

取り返しのつかない失敗というものがある。どうしようもない失敗だ。
時事ネタで言えば、ニュージーランドの地震がそうである。
遺族のどの血縁関係に当たるものが、彼(女)らの留学に賛成(反対)したか。
だれが死者の留学に賛成し、だれが反対をしたか。
このたび留学しないで命びろいしたものもいるのだろう。
多くの遺族が不和程度ならいいが、破壊寸前の危機にさらされるのではないか?
生きていれば、まあいいのである。
死んでしまうとどうにもならない。取り返しがつかない。
家族と仲が悪く不満があろうと生きていればこその話なのである。
死んでしまったら本当に取り返しがつかない。
地震だけではない。
交通事故で死んだ、交通事故で殺した、という類いの失敗は取り返しがつかない。
自殺もそうである。殺人もそうである。

こういった真実はみなみな言われなくてもわかっているのである。
しかし、取り返しのつかない失敗に遭遇するまで忘れている。
そのくせ、いくらでも取り返しのつく失敗に大仰に悩んだりする。
コンクールに落ちるくらいなんでもないのである。
こんかい応募作が書けなくてもチャンスはこれからいくらだってある。
就職面接にいくら落ちたところで将来なにが起こるかわからない。
倒産がなんだ、痴漢逮捕がなんだ、覚醒剤逮捕がなんだ、リストラがなんだ、失恋がなんだ。
生きていればいいのだ。生きていたらよろしい。
だれもがわかっているのに、いざ取り返しのつかない失敗に出遭うまで忘れていることだ。
ファンの権利というのはあるのでしょうか?

山田太一さんが毎回のように講演会等でお話になることがあります。
少年期の父親の言葉が忘れられない。
酒をのみながらよく父は息子に語ったと聞きます。
「世間なんてもんはな、おまえなんかに興味を持ってくれないんだ」
山田太一さんが生きていくうえで長らく呪縛された教えのようです。

意味は、言うまでもありません。
人間は他人に興味を持たない。
人間の大半は自分のことがいちばんです。
他人のことになかなか興味を持てません。
しかし、人間はどうしてかこの当たり前のことをよく忘れてしまいます。
繰り返しますが、人間は他人に興味を持たない。

だから、ありがたいことだと思います。
このようなブログをお読みいただき感謝しています。
飛ばし読みでも流し読みでも、読んでいただけるだけでめったにないことなのです。
無名人の9割のブログはほとんどだれにも読まれていないでしょう。
有名人のブログだって実のところそう読まれてはいないはず。
その証拠に、わたしの読んでいる有名人ブログは小谷野敦さんの猫猫だけです。
三度目ですが、人間は他人に興味を持たない。

ごく少数ですが、こんなくだらぬブログにもファンのようなものがいるみたいです。
ファンとおっしゃってくださった方から、
ためになるご本を送っていただいたことがあります。
なんとなんと新宿でお酒をご馳走になったこともございます。
まったく本当にありがたいことであります。
こんな幸せな体験をしたブロガーは極めて少ないはずです。

いっぽうで、こういうこともあります。
ファンの権利のようなものを主張なさる方です。
あなたのファンなのだから、これこれをしてくれというお願いです。
悩みを聞いてくれ。自分のブログを読んでくれ。
こんなつたない文章を好意的に読んでくださる方のためになら、
可能なかぎりできることはしたいと思っています。
しかし、力及ばずご満足いただけない場合があります。
それどころか、逆恨みされることもあるのです。

長いこと山田太一さんの大ファンですが、逢いたいとは思いません。
わたしなどが多忙な人気作家の貴重なお時間を
わずかでも奪ってしまう心苦しさに耐えられないからです。
今朝、長年探し求めていた山田太一さんの絶版シナリオ(雑誌掲載号)を、
ようやくとうとう某ネット古書店で発見しました。
価格も安くあまりに嬉しかったので、感謝の気持を表したく、
おまけとして数冊を追加して購入いたしました。
来月にそのシナリオを読むのがどれほど楽しみなことか!
これがわたしのファンとしてのありかたです。

それから「もてない男」の小谷野敦さんのファンでもあります。
先生の猫猫ブログは毎日のように拝読しております。
だからといって小谷野さんに「本の山」を読んでくれとはお願いできません。
それはファンの権利ではないと思っているからです。
ところがところが、先日ブログで「本の山」を取り上げていただき――。
わずかでも「本の山」をお読みになってくださったということでしょう。
嬉しくてバンザイ三唱を致しました。
喜びのあまりむかし縁が切れてしまった知人に電話をしました。
彼も「本の山」の猫猫デビューを祝ってくれました。

四度目になりますが、人間は他人に興味を持たない。
ですから、こんなことはありえないのでしょうが、
もし将来わたくしめが商業出版で本を1冊でも上梓したら――。
その感想を書いてくれたブログを見つけたら、たとえそれが悪口三昧だろうと、
「読んでいただき、ありがとうございます」と感謝コメントを残すかもしれません。
いえいえ、わかりませんよ。
いざそうなったら天狗になるのが人間というものですから。
人間は変化する生き物であります。

とかく忘れがちなことですから、しつこく書きます。
人間は他人に興味を持たない。
だから、人は自作のシナリオを読んでもらうために学校にお金を払うのです。
お金でも取らなければ、人間はアマチュアの作品など読めやしません。
ひっくり返せば、読んでくれる友人・知人がいるのなら、
スクールに高い金を支払ってプロ経験もないような講師を先生と呼ぶ必要はない。
昨年、原稿料をいただいてシナリオを書く機会がございました。
このときのプロデューサー様をわたしは人生の恩人だと心底から思っております。
通常ならただで他人のシナリオを読むのでさえ面倒なことなのです。
脚本コンクールや新人文学賞の下読みほど
ストレスのたまる仕事はないのではないでしょうか。

尊敬する小谷野敦先生が、こんなことをブログに書いておられました。
先生は高校教師相手の講演を昨年なされた。
そのときの感想(?)の手紙に書いてあったそうです。
「今度「もてない男」を読んでみようと思っています」――。
先生のベストセラー「もてない男」も読まずに講演会に来た聴衆がいるとは!
しかし、小谷野先生、人間は他人に興味を持ちません。
わたしだったら、その手紙に「ありがとうございます」と返事を書くでしょう。

作家というものは、ファンからの手紙(メール)に返事を書くものなのでしょうか?
山田太一先生は、多忙にもかかわらず書くという話を聞いています。
もちろん、書かない作家もいると思います。
ブロガーのわたしはぜったいに書くようにしてきました。
しかし、ものすごくこちらの時間や精神安定を奪う手紙(メール)というものがあります。
「もてない男」の小谷野敦先生は、かなり変わったファンを多くお持ちでしょう。
もう「本の山」などお読みではないでしょうが、万が一を期待して質問してみます。
無視してくださって結構です。
小谷野先生はファン(読者)からの手紙(メール)すべてに返事を出しますか?
明らかに厄介ごとに巻き込まれそうな場合はどうしていますか?
お答えいただけたら、こんな嬉しいことはありません。
自分もファンの権利を主張しているみたいで恥ずかしいです。
やはり昨日のトークセッションは行ってよかったと思う。
ひと晩経った。
山田太一さんの「おはなし」に刺激されて、いろいろなことを考えさせられている。
昨日書いた記事を少し補うことにしたい。

学生だった山田太一さんの目撃談が新たな装いをもってよみがえる。
パチンコ屋で手伝いをしていた氏は、ご尊父がヤクザに小金を支払うのを見てしまう。
明らかにヤクザのほうが不正をしているにもかかわらず、である。
そのとき、父になにも「正しいこと」を言えなかったことを昨日脚本家は語っていた。
これでは片手落ちであることに先ほど気づく。
山田太一さんはこのあとすぐに別の話をしたのである。
再現する。

「いや、僕の父ほどよく警察を呼んだ人間はいないんですよ。
ほんと年がら年中、警察を呼んでいましたですね。
それでヤクザが刑務所に入ったことがあったんです。
軽い罪だからすぐに出所してくる。
どうしよう、どうしようと父も含めてみんな心配していたんです。
どんな復讐をされるか。だって、父が通報したんですから。
さあ、出所してきました。
ところが、そのヤクザは改心していて父にやたら礼を言うのですね。
(場内、大いに沸く)」

あれ? どちらが本当なのだろうか?
ヤクザに賄賂を支払っていたお父様。
正義感あふれてヤクザもあたまが上がらないお父君。
わたしはこの流れに天才脚本家の才能の根幹を見た思いがする。
「おはなし」の創作が実にダイナミックに展開されているではないか。
天才脚本家のドラマ創作の瞬間を、昨日我われは目撃していたのである!
悪人が善人に切り替わる意外性など実に見事な「おはなし」ではないか。
山田太一さんはこのように「おはなし」を創っていたのか。
どちらの父親が本当なのかはわからない。
おそらく、どちらも正しい「おはなし」なのだろう。
そう、「おはなし」を創ることを仕事にしている山田太一さんにとっては、
すべてが「おはなし」なのである。

物事を即断してはならない。今日になって、昨日は行ってよかったと心底から思う。
充分に2千円の元は取ったと確信している。
お誘いくださった社員さんに感謝したいです。ありがとうございます。
ブログのコメント欄で勧められたこともあって、
本日カタログハウス本社で行なわれた「小室等の聞きたい聴かせたい(16)」に行く。
小室等さんは山田太一ドラマの音楽を多く手がけた歌手。
だからということで今回のゲストが山田太一さんということらしい。
終始笑いが絶えなかったから、すばらしいトークショーだったのではないだろうか。
というのも、お客さんがよく笑うトークショーはいいものなのだろうから。

メモを取りながら聞いていたので、内容を逐一紹介せよと言われたら可能だがやらない。
山田太一さんの本をすべて読み、
「考える人」の連載エッセイをも追っているほどのファンなら、
おそらく知らないエピソードはないと思われるからである。
だったら、新発見はなかったかというと、そうではない。
本日、山田太一さんから、とても大切なものを学んだような気がする。
それは「優しさ」である。

「優しさ」というのは相手を不愉快にさせないことなのだと思う。
相手のことを思うのが「優しさ」なのだろう。
トークショーは笑いに包まれていたと書いた。
だが、わたしは一度しか笑っていない(それは後述する)。
どうやらこういうトークショーに出席するお客さんというのは、
有名人の一挙手一投足が新鮮に感じられるもののようである。
人気者がなにか言うごとに大笑いするのだ。
あらゆる発言は内容ではなく話者がだれかというのが問題になる。
だから、今日の観客の態度は正しい。
著名人の発言、いや咳払いまで、笑うほどにおかしく感じるのだろう。
それに2千円支払っている。
どうせなら多く笑ったほうが得ではないか。
笑ったほうが発言者も「おはなし」が受けたと喜んでくれるはずである。
笑え、笑え、みなみなおかしい!

わたしはなにがおかしいのかまるでわからないので笑わなかった。
こんな「おはなし」のどこがおかしいのだろうとずっと仏頂面をしていた。
みんなが笑っているのに笑えないでいると孤独感が強まる。
こういうときにどうしたらいいのだろう?
尊敬する山田太一先生を見る。すると、脚本家も笑っているのである。
それも率先して笑っていることに気づく。なにがおもしろいのだろう?
小室等さんがなんでもないひと言を口にする。
客のひとりが大笑いする。それを聞くや否や山田太一さんも笑うのである!
ああ、と不思議な感動に打たれた。そうか、そうだったのか。
ここで山田太一さんが笑ったら、対話相手の歌手は気分がよくなる。
少なくとも以後話しやすくなることは言うまでもないだろう。
だから、山田太一さんは笑ったのではないか。
これを処世術と言ってはならない。「優しさ」なのである。
日本を代表する人気脚本家が笑ったのだからおかしいのだろうと聴衆も笑う。
みんなが笑えば、それに越したことはないではないか。
こんなによろしいトークショーはないということになる。

相手の立場を第一に考えるのなら、笑うのが最上の策になることが多いのだろう。
笑いは沈黙や、ましてやブーイングよりもはるかに「優しい」。
この日は聴衆も主役二人も、みなみな「優しかった」のだと思う。
話はかわるが、こんなエピソードをブックオフの立ち読みで知った。
脚本家で小説家の故・野沢尚さんの文庫本の解説である。
野沢尚さんは自殺するまえ山田太一さんに交流を求めてきたという。
逢いたい。話したい。
山田太一さんは謙虚なこともあり、言葉を額面どおりに受け止めていいのか逡巡した。
業界の化石のような古参の自分に、いまを時めく脚本家が興味を示すだろうか。
野沢尚さんは自作「反乱のボヤージュ」のビデオを山田太一さんに送ってきたという。
このドラマは現代の「男たちの旅路」であるというメッセージとともに。
「男たちの旅路」の作者は異論はあったがそこは書かずに、
いいところを褒めた返事を野沢尚さんに送ったということである。
その後、業界のパーティーで一度すれ違った。
人気脚本家の野沢尚さんが自殺したのはその直後だったらしい。

なにが言いたいのか。
本当のことを言わないのもまた山田太一さんの「優しさ」ということだ。
相手のことを思いやる。相手を傷つけてはいけない。
ならば、作品のいい面を見て、そこを褒めたほうがいい。
これを処世術だの世渡り上手だのと嘲弄するのは簡単だが、
「優しさ」と見るのはどうして偽善とそしられなければならないのか。

ならば、そうだとしたら――。
今日のトークショーに参加してわたしが思ったことを書いたとしてそれがなんになる?
多くのカタログハウス社員がこの日のために尽力したことだろう。
どれほど苦労してこの日を演出したか。
小室等さんにしてもおなじである。
わたしが山田太一さんに質問していたら、
もしかしたら(可能性は低いが)もっといい言葉を引き出せていたかもしれない。
しかし、小室等さんの立場をどうして考えない?
歌手は今日の来客者のひとりでも多くに満足してもらいたかったのだ。
だったら、このトークショーは大成功だったと言うべきではないか。
わたしが思ったことなど、なんになろう。
人の立場を考えよう。「優しく」なろう。人間・山田太一の生き方である。

偽善的と言うのなら開き直ってもよい。
処世のために自己を偽ってなにが悪い? うまく世渡りするのがどうしていけない?
それこそ庶民である。庶民であってなにが悪いか?
山田太一さんが早稲田に入るまで、兄弟親族にひとりも大卒がいなかったという。
今日の「おはなし」から庶民の処世を紹介する。
脚本家の父は、浅草で大衆食堂を経営していた。
空襲対策の強制立ち退きに遭い、湯河原に疎開することになった。
戦後の食うや食わずの状況。
山田太一さんのお父上は勉強して指圧師になった。
かつて浅草時代は客として訪れていた宿に指圧師としておもむくのである。
なんのためにか? 家族を食わすためである。山田太一少年を食べさすためである。
生きていくための処世、世渡りを弾劾するインテリなど蹴散らされるだろう。

お父さまはその後、再婚してパチンコ屋を始めた。
湯河原でのパチンコ屋は第一号で大当たりしたらしい。大儲けをした。
ところが、こういう店にはヤクザが来る。
ヤクザは玉が入っていないのに、当たったのに玉が出ないと難癖をつけてくる。
裏でパチンコ玉を操作している山田少年にはヤクザの客が嘘をついていることが明白。
ヤクザと高校生のあいだで口論になる。
ここでタイミングよく仲裁役が現われる。もちろん、ヤクザとグルである。
「まあまあ」と話をつけようとする。
経営者の父君と山田太一、ヤクザと仲裁役が二階に上がる。
山田太一さんのお父さまは「まあまあ」といくらかの金をヤクザに渡す。
仲裁役は仲裁役で、金を手に入れたヤクザに(本当はグルなのに)説教をしたりする。
高校生だった山田太一は自分の正義などとても口にできなかった。
大人の世界を知ったという。父親を裁ける資格は自分にはないと思う。
なぜなら、パチンコ屋で儲けた金で大学に行かせてもらえたからである。
継母からは大学進学をあきらめるよう諭されていた。

本当のことなど言えるのは、恵まれた裕福なインテリだけではないか?
さも得意気に本当のことを言えるのは、少数のエリートだけではないか?
庶民はまず食っていかなければならない。
本当のことがどうしたと嘲笑うのはどうしていけない?
酔客の汚い足をお愛想を言いながら揉んだ山田太一の父親は偽善者か?
子どもの言い分(正義)を聞き入れずにヤクザへ賄賂を渡した親父は極悪人か?
今日、山田太一さんから教わったことである。
「優しさ」であり、処世術でもある。
これをどちらかいっぽうに決めつけてしまえるほど人生や人間は一元的ではない。
もっと複雑で多層的である。これが山田太一ドラマの世界だ。

まとめる――。
今日カタログハウスで行なわれたトークショーはすばらしかった。
いろいろな「おはなし」が聞けたのがなによりよろしい。
学んだことを整理する。
みんなが笑ったら自分も笑おう。みんなとおなじを常に心がける。
なるべく自分の本当に思ったことを言わないようにしよう。隠そう。
本当のことばかり言っていると食い詰めてしまうからだ。
本当のことは人を傷つけるからだ。
本当のことを出していいのは、ここいちばんの勝負どころに限定する!
むろん、たしかに学びはしたが、今日あくびを10回以上もしてしまった自分に、
こういった「優しさ」「処世術」を実行できるかは甚だ頼りない。
――といった前文が本当か嘘かは自分でもわからない。
このところが人生のおもしろさでありまた人生を描く山田太一ドラマの魅力なのだろう。

今日唯一大笑いしたのは、山田太一の名作ドラマ「早春スケッチブック」――。
どこの鉄道会社にも撮影を拒否されたという。
唯一OKが出たのは相模鉄道本線。
そこで山田太一さんは取材のためひと駅、ひと駅降りてみたという。
希望ヶ丘駅で名作ドラマは生まれた!
「希望ヶ丘なんて自由ヶ丘とおなじくらい、いやそれ以上に嘘くさい名前じゃないですか。
ここだと思いましたね。ここで典型的な家族を書いてみようと思った」
「自由」や「希望」の欺瞞を見抜く庶民階層出身の脚本家の発想法である(笑)。

(おまけ情報)
4月に朝日新聞社から出る最新小説「空也上人がいた」。
これは歴史小説ではなく、現代を舞台にした短編とのこと。
山田太一先生愛用の原稿用紙は橋田壽賀子先生の使用しているものとおなじ。
「おしん」のように売れるドラマを書けないかと思い、
山田さんがわざわざ橋田壽賀子先生に電話して聞いたとのこと。
なになに? あなたも使いたい? お教えしましょう。
ひまわり印刷だとか。しかし、倒産してしまった……。ちぇっ♪
110215_1612~01
万物流転。
諸行無常。
酔生夢死。
極楽極楽。

110215_1717~01
超市半額寿司。
日本酒一二三。
極楽極楽極楽。

110215_1905~01
在北千住激安酒肴。
極楽極楽極楽極楽。

敦敦=トントン=パンダ♪
ある人から今日は節分だと教わり、しくじったかと思う。
いつの間に新年になっていたのだろう。
新聞は取っていないし、テレビもあまり見ない。
年賀状とも縁がないので、うっかり年が改まったことを知らないでいた。
これはよくない。お世話になった「本の山」読者様にご挨拶しなければ。

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

今年の抱負は、自然体でいること、うん、自然体。
たしかに協調性を向上させたいけれど、長らく「みんなとおなじ」を拒否してきたから、
いきなり協調性第一主義を貫くと不自然になってしまうと思う。
だから、自然体でいたい。
ぜったいになにがなんでもコンクールを取ると宣言するのもあれでしょう。
もういい歳だから、ガツガツしているオッサンは物悲しい。
それにあれは取ろうと思っても取れるものではない。
思うようにならないのが人生である。
目標達成よりも、むしろそこまでの道のりを、いや道草を楽しみたい。
だから、自然体。
かといって、どうせ才能がないから――と極端に自己卑下はしない。
人とは違う人生を送ってきたから、もしツキの波でも来ればと期待する。
思いがけないことの起こるのが人生である。
もちろんフィクション(かなわぬ夢)なのはなかばわかっている。
去年、名も知らぬ人がメールを何度も送ってきたことがあった。
「あなたは決して作家にもシナリオライターにもなれない」
なんでもテルニスト(宮本輝ファン)だそうである。
けれども、そう悲観しても仕様がないではないか。
もしかしたらコンクールのひとつくらい取れるかもしれない。
だから、自然体。

今年は自然体で生きたいと思う。
雨が降ったら雨にぬれ、雲が去り晴れたらぬれた衣服を乾かす。
不愉快なことがあったら適度に怒り、幸運が舞い込んだらひねくれずに喜ぶ。
冬には冬を、春には春を、梅雨には梅雨を味わう。
夏の猛暑もよろしい。秋のサンマもうまい。怒るのもいい。笑うのもいい。泣くのもいい。
平成23年は自然体で生きようと思う。
昨年はお世話になりました。今年もどうかよろしくお願いします。