「東京立ち飲みクローリング」(吉田類/交通新聞社)

→立ち飲み屋の紹介本なのだが、写真にやたらとファラン(白人)が登場する。
本書の発行は2002年。まだ本格的な立ち飲みのブームが起こっていないころ。
この時期は、白人様が飲みに立ち寄ってくださる酒場がいいという風潮だったのか。
ある立ち読み屋の紹介文にこうある。

「都合良く一息つける夕べ、串焼き3本をトッピングし、それに新じゃが芋、
ササミオイル漬けと黒ホッピーセットで旧友と語らいながら一杯やる。
腰掛けてもいいし、女性が立ち飲んでも絵になるところだ」(P66)


いま日本でいちばん偉い若い女性様のセンスを知るための、いい勉強になる名文。
そうか、若い女性様は「絵になる」ところが好きなのか。
そういや、そうかもな。
いまテレビで紹介される若い女性様に人気のスポットはかならず「絵になる」。
売れるものを作りたかったら、若い女性様が中心にいる絵を思い浮かべたらいいのだろう。
この絵画において、ほかになにがあったら中心の若い女性様が映えるか。
キモイ男を横に立たせたら絵が壊れてしまう。
やはり男はイケメンにかぎる。食べ物は舶来品かな。酒はワインだろう。

ボク、最近、人間ができてきました(パンダなのに)。
アラフォーのババアが「うちら女子は~」と言っても、
このおっさんパンダはニコニコしています。くいーん、くいーん♪

「ああ好食大論争」(開高健ほか/潮文庫)絶版

→開高健という男はよくものを食ったらしいね。貪欲だった。
うまいものあれば、いくらでも食った。
いける酒があったら、これでもかというほどのんだ。
ヘビでもハトでもムシでも、うまいというものがいたらなんでもがっついた。
よく食い、よくのむ男はいいねえ。そう思いませんか?
なに? 思うけれど、いまはめったにそういう男がいないと?
いるよ、いますよ、オレオレオレ♪

「ダンディな食卓」(吉行淳之介/グルメ文庫)

→いまは不況のせいかテレビでグルメ番組が多いでしょう。
あれはレストランと制作会社の共存共栄をアレンジする仲介会社があるらしい。
ともあれ、うまいものはいい。
テレビ画面に、うまそうなものが映ると見ていて嬉しくなってしまう。
しかし、うまいとはなんなのだろうか。
本書で吉行淳之介が指摘している「美味」の変遷――。
むかしはマグロのトロが捨てられていたというのは有名な話だから、
あまりありがたみはないのかもしれない。
しかし、カズノコもむかしは安物だったと本書で知る。
わたしも吉行淳之介とおなじでカズノコのどこがうまいのかわからない。
二種類の美食家がいるのだろう。
自分がうまいと思った(発見した)ものを貪り食うもの。
だれかがうまいと言っていたものを口にし感激するもの。
違いはどこにあるのか。
前者はあまり金がかからない。後者はいくら金があっても足りない。

「万国酒場見聞録」(松島駿二郎/筑摩書房)絶版

→これまで酒エッセイはかなり読んできたつもりだが、
ナンバー1を選べと言われたらこれを選ぶ。
これは隠れた名著、というか、これ以上の酒食記はいまだ出逢っていない。
どこでのむ酒がうまいかといったら、
海外をぶらぶら旅しているときに知り合った現地の人とのむ地酒にかなうものはない。
偶然ほど人生で楽しいものはないのではないか。
ならば、偶然知り合った人とのむ、
まったく偶然に出された酒ほどうまいものはないという理屈になる。
これほど酒と旅(つまり人生)の愉楽をうまく描いた本を読んだことがない。
どうしてこのような名著が正当な評価を得ていないのか、まったく不思議である。

どのようにしたらいい酒場に出逢えるのか? いい酒をのめるのか?
旅行ライターの松島駿二郎氏はこう答える。

「どんな町にいっても、わたしにはガイドブックのような案内書はいらないし、
もしあっても役に立たないし、使う気にもならない」(P181)


だとしたら、どのようにしていい酒場にたどり着くのか?
いい酒をのむには、どのようにしたらいいのか?

「幾つかの偶然の出来事の積み重ねのなかから、
まるで糸に引っ張られるようにして目のまえに現われてくる酒場というのは、
ほとんどの場合間違いなくいい雰囲気を持っている。
とくに知らない土地では、無理に焦って飲む場所を探さず、
流れにまかせるというのがわたしの流儀である」(P172)


これはいい酒ののみかたなのか。もしかしたら人生の……いや、これ以上はやめておこう。

「シルクロード(1)(2)(3)」(篠山紀信/集英社文庫)絶版

→全3巻のフォト&エッセイ。篠山紀信がシルクロードを旅した記録である。
1週間の連続禁酒をしているときに読んだのだったか。
毎晩1冊ずつ読み進めていく楽しみは、人として生まれた喜びに近かった。
旅行記はよろしい。自分が旅している気分になれるからだ。
文章による風景描写は苦手である。
ところが、本書には篠山紀信の絶妙な写真がついているのだから!
まるで自分が旅したような気になれるのがとてもよかった。
旅に出て現地のものを食らい、ときにハプニングにあたふたする。
これほどの喜びは人生にないと思っている。

いまあなたは、たとえば本書「シルクロード」のような旅にあこがれているかもしれない。
いや、それは違う。なぜなら、いまあなたも旅をしている。
古臭い言葉だけれども、人生は旅のようなもの。
なにが起こるかわからない。心持しだいでどんな風景・光景にも感動できる。
どうして旅のトラブルがのちには替えがたい思い出になっていることを知るあなたが、
人生におけるトラブルを忌み嫌うのだろう。
本書を読んで旅に出たいと思った。
しかし、すぐにいまのいま、旅のただなかにいることに気づく。
なんのトラブルもなく帰途に着いた旅はすぐに忘れてしまう。
だとしたら、我われはどのように生きる=旅するべきなのだろうか。

「恋愛大好きですが、何か?」(中園ミホ/光文社文庫)

→美人脚本家の中園ミホ先生の初エッセイ集を拝読する。
ライター志望者は、どうしてこういう参考書を読まないのだろう。
大金を支払ってシナリオを書けない講師に
かび臭いノウハウを教わるよりよほどためになると思うのだが。
ライターになりたいのならコンクールに応募するのは無意味だとよくわかる。
(表現をしたいのならどんどん応募してくださいね)
中園ミホ先生はこれといって脚本コンクール受賞歴はないけれど、
ヒット作を何本もお書きになっている。
ああいう学校の生徒はライターになれなかった自称先生から、
いったいなにを教わるつもりなのだろう。
もしライターになりたいのなら本書は最上の指南書ではないか。
ぜひぜひご購入ください。

人の身になるというのが成功への近道だと思う。
もしわたしが生まれ変わってテレビ局のプロデューサーになったら――。
連続ドラマの制作日数は半年にもおよぶ。
ぜったいに映画オタクの小汚い男性ライターにシナリオを書かせたりはしない。
間違いなく美人で時代感覚にも敏感な中園ミホ先生にシナリオをお願いすると思う。
男の書くシナリオなど、いまの時代なんの価値もないことになぜ気づかないのか。
大学教授の竹内一郎先生も「ツキの波」でこう語っている。

「現代のテレビドラマでは女性の視聴率がものをいうから、
どうやって女性をテレビの前に座らせるかが勝負になる。
テレビだけではなく、小説、映画、芝居、歌……。
全て女性の心をどうやって捕まえるかに腐心されている。
女性に支持されないものは、当今市場に出回らない。
流行を作るには女性の支持が必須だというのは
マーケティングの世界では常識のように語られることである。
そうしておけば男は引きずられる」(P147)


こうしたことをシナリオ学校では教えてくれないでしょう?
5年も10年もシナリオ学校に金をつぎこむバカ男の存在を知ったら、
中園ミホ先生は腹をかかえて大笑いするのではなかろうか。
ライターになりたいのなら、若い女性のセンスから学ばなければならない。
中園ミホ先生はドラマ「やまとなでしこ」で以下のセリフをお書きになった。

「借金まみれのハンサム男と裕福なブタ男、
どっちが女を幸せにしてくれると思いますか?」(P31)


とある編集室のスタッフが多数決を取ってくれたという。
結果はどうだったか。独身女性はどのようなジャッジをしたか。
9割の女性が「借金まみれのハンサムな男」を選んだというではないか!
男性ライター志望者は「貧乏なブタ男」の比率が高い。
野島伸司のような風貌を持つならまだしも、
(わたしも含めて)なにゆえ「貧乏なブタ男」がヒットドラマを書けると思うのか。
身の程を知れ! 
名著「恋愛大好きですが、何か?」を5回でも10回でも読んで反省しろ!
かつては人気占い師だった中園ミホ先生は、運についても饒舌である。

「運には賞味期限がある。占いをやってきてつくづく思うのだが、
強運な人とそうでない人の違いは運の分量ではない。タイミングだ。
人生の成功者は強運を引き寄せるポイントを実によく心得ている。
天才サーファーのように、いい波はのがさず、
運気のピークで確実に飛び乗るのだ」(P89)


女であること。きれいであること。運がいいこと。
いまという時代にライターになる条件である。シナリオライター志願者、必読の書。

「傾ける海」(井上靖/角川文庫)絶版

→マイナスがプラスになる物語である。
禍転じて福となす、というやつである。
巨大台風が紀伊半島を直撃したことですべてが変わってしまう。
失恋を苦にしていた青年はボランティアに目覚め、
むかしの恋人なぞどうでもよくなってしまう。
女性事業家は本当に好きな人がだれなのか気づく。
自殺しようとしていた裕福な老人は養護施設の設立に生きがいを見出す。
人生失敗ばかりだった山師は買っておいた真珠の値段か暴騰して大儲けする。
国鉄の幹部職員は、冠水による不通をきっかけに新路線の建設に踏み出す。

40を過ぎてから文壇デビューした作家が異常なほど運に敏感だったのがわかる。
「傾ける海」は、運と不運をめぐる物語だ。
贋物と本物の差は、実のところ曖昧極まりなく、
運次第で本物が贋物になったり、贋物が本物として高く評価されることもありうる。
そもそも真贋の絶対的な基準はどこにあるのか。
はなはだ頼りのない人間という存在によって下された評価を基盤にしているのではないか。
人間の評価がどれほど信頼できないかは、だれもが自分を省みたらわかることである。
作家・井上靖をはじめて本物と看破したのは愛人の白神喜美子である。
42歳にして世に出てからは(芥川賞!)井上靖のツキはとどまることを知らなかった。
どことなく井上靖を思わせる国鉄幹部職員は言う。

「大体僕という人間は生まれつき失敗とか不運に好かれるたちです。
そんなものがみんな僕のところへ寄ってくる。
しかし、失敗とか不運はいいものですよ。
人間はだれでも、そこを切り抜けようとする時、勇気を感じますからね。
失敗や不運に敗けては駄目ですよ。そこを切り抜けなくては。
――貴方などはまだ若いから成功と幸運にあこがれるでしょう。
しかし、成功とか幸運といったものは、
実際はごく少数の特別の人間にしかやって来ませんよ。
そんなものは何万人に一人の割でしか配給になりませんよ。
普通の人間には、とかく失敗と不運がやって来がちです」(P118)


「不幸論」(中島義道/PHP新書)

→なーんかさ、テレビをつけるとよくやってるじゃないですか。
青汁だの、にんにく卵黄だの、わけわかんね~ような健康食品の宣伝放送。
でさ、硬直した笑顔の初老夫婦が出てくる。
人生いろいろありましたけれど、いまは幸福です。
大金は稼げませんでしたが、
子どもも自立して、これからは夫婦健康で長生きしていきたいです。
これを食べたら毎日、元気が出てくるような気がします。
ああ、幸せ、幸せ、ありがとう、ありがとう、みんなありがとう、みたいなCM(笑)。
ひねくれ者の中島義道は、こういう幸福をバカヤロウとなぶりたいのである。

「個人は精神的にも肉体的にも資質や能力は徹底的に不平等であり、
しかもこうした不平等な個人に待ち構える運命も恐ろしく不平等である。
こうして、生きているあいだは偶然に翻弄され、みんな等しく死んでいく。
そして、やがて人類も滅亡し、
数十万年の人類の記憶は近い将来宇宙から完全に消滅する」(P13)


いや~な気になるでしょう。
人間はうさんくさい健康食品でも珍重しながら、
自分は幸せだと強引にごまかして、
そのうえで死ぬことなどすっかり忘れて生きていくのが本来いちばん健康的なのね。
それを中島義道はぶち壊そうとする。

どうなんでしょうかね。
このまま中島義道は、著者のいうところの「不幸」のまま死ねるのか。
死ぬまでなにが起こるかわからないのが人生の怖いところ。
去年、某鬼畜系ライターが読者に刺されて死んだでしょう。
中島義道も潜在的にそういう読者を多数持っているのではないか。
別に犯罪を教唆しているわけではないが、
そういう読者は仮に中島を殺したかったら、彼の子どもを(以下自主規制)。
もしそんな事件があったら、
中島義道はこれまでの言論の誤りを骨の髄まで味わうことになる。
中島本人を殺すことはほとんど意味がない。

映画「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三が、
どうして元上官の息子に発砲したのか長らくわからなかった。
人間にとってもっとも辛いのは自身の死ではなく、
もしかしたら愛するものの理不尽な死なのではないだろうか。
さあ、果たして中島義道先生の、今後の人生はどうなるか。
このまま高笑いしていられるのか。
それは、そう、すべて中島の主張するよう「偶然=運」である。

「飲酒運転で犯罪者になった 実録交通刑務所」(川本浩司/新風舎文庫)

→タイトルを見て、たいへんな本を見つけてしまったと思った。
飲酒運転というのは、他人事ではない。
わたしはペーパードライバーで今後車を運転するつもりはないが、飲酒運転は身近な問題。
飲酒すると、なにがいけないかというと、間違うことが多くなる。
飲酒運転をした人を責めるのは簡単だが、
どうして酒をのんだのに車を運転したのかと本人に問うのはあまり意味がないように思う。
というのも、酒をのむと正常な判断ができなくなるのだから。
酒をのむと理性が鈍るでしょう。だから、車に乗ってしまうのである。
飲酒運転で人を殺してしまった当事者はどのような思いをしているのだろう。
この関心から身をただして本書を読み始めた。

すぐに見当違いをしていたことに気づく。
本書の著者は飲酒運転で刑務所に入ったが、事故を起こしたわけではないのである。
免許取り消し処分中なのに、飲酒運転をやらかした。
そのうえ、スピード違反2回、酒気帯び運転2回、駐車違反5回。
この前歴があってこそのブタ箱送りということらしい。
著者は大企業の部長で妻とふたりの子がいる。
エリートが半年間、ブタ箱でクサイ飯を食った体験ルポと思うのが適切だろう。
考えてみたら、当たり前か。
もし飲酒運転で人を殺めてしまったら、とてもではないが本など書けない。
そもそも不謹慎だし、体験自体が言葉にならない壮絶な地獄だと思う。

著者は、刑務所で交通死亡事故の加害者と逢ったことを書いている。
その記述から、加害者の気持を推し測るしかない。
交通死亡事故というのは被害者はもちろんだが加害者も地獄だろう。
飲酒運転でなくても、人は事故を起こしてしまう。
なぜなら人間は間違う生き物だからである。
うっかりコップを割ってしまうのも間違いだが、
おなじ過誤でもブレーキとアクセルを間違えてしまったらとんでもないことになる。
どうして間違えたのかと司法に問われても人間には答えようがないのではないか。
なぜなら繰り返しになるが、人間は人間であるかぎり間違えてしまうからである。

著者は刑務所内のグループワークである受刑者からこんな話を聞いたという。

「五、六人の子どもを乗せ、ドライブ中、
スピードの出しすぎでコンクリートの電柱に正面衝突。
三人死亡、他は重傷。今まで喜んでいた子どもたちが、一瞬の事故で、
顔面から血を噴き出し、その場は地獄絵図のようだった。
いっぺんに二人の幼い子どもを失った両親は、私に向かって
『あなたのために、明るく幸福だった家庭が幽霊屋敷のようになってしまった。
これから何を目的に生きていけばいいのかわからない』と涙を流す。
そのことを考えると気が狂いそうになる」(P138)


これを聞いて大手重電機メーカー部長の著者は以下のように思う。

「運転者のほんの少しの油断がとり返しのつかない大惨事となって、
被害者と加害者を生む。車が悪いのではない。
すべてそれを運転する運転者に原因があるのだ」(P139)


本当にそうだろうか。運転者がそんなに悪いのだろうか。
わたしは「車が悪い」と思うのだが、こう思うのはおかしいのだろうか。
さらに大学ではラグビー部に所属していた有能な営業マンの著者は思う。

「彼らの重く恐ろしい体験を聞き、「もし自分だったら」と思うとともに
「自分でなくてよかった」と胸をなで下ろす」(P139)


どうして著者の川本浩司氏ではなく、ほかの人が苦しまなければならないのか。
事故で子どもをふたり死なせてしまった受刑者は模範ドライバーだったのかもしれない。
まあ、子どもの運転を任せられるくらいだから優良ドライバーだったのではないか。
いっぽう本書の著者といえば酒気帯び運転3回、スピード違反2回。
はっきり言わせてもらうがこのエリートは運転を舐めているようなところがないか。
ならば、どうして交通死亡事故を起こしたのは著者ではないのだろう。
本当に川本浩司氏の主張するよう「運転する運転者に原因がある」のか?

著者は交通刑務所で飲酒運転で人を殺してしまった加藤という男と親交をむすぶ。
彼のケースもいろいろな人生の矛盾を感じさせる。
加藤が酒気帯び運転で殺したのは、統合失調症の青年だったのである。
精神病院へ入退院を繰り返していた家族の厄介者。
加藤は意地汚い金額交渉ののちに遺族に5千万(当時の価格)支払う。
刑務所を出て遺族の家を訪問したら、豪邸になっていたという。
仏壇は小さく汚いままだった。このことに加藤は義憤を感じる。
人間というのは恐ろしいものだと思う。人生はわからない。
統合失調症の青年は家族に迷惑をかけたが、
最後に巨大な金運を引き寄せたのである。
そして、酒気帯び運転で人を死なせた殺人者が、遺族の偽善性に憤る。

著者のエリート会社員は出所後、退職にはならず子会社に出向することになった。
そこで営業の手腕を発揮して大活躍したそうである。
家族離散の憂き目からも逃れることができた。かえって家族のきずなが深まったという。
万々歳の結末である。だから、本書を書いたのだと思われる。
ところが、そうはならなかったケースもある。
著者が市原刑務所で知り合い友人になったという山内和彦の場合だ。
山内和彦、元大手建設会社の現場所長。業務上過失致死罪。1年4ヶ月収監。
事故の内容は、わき見運転で死亡者1名、重傷者1名。
詳細はこうである。著者は語る。

「ある日、山内氏は会社のトラックで作業現場に行く途中、
わき見運転により道路で白線を引いていた作業現場に突っ込んでしまったのだ。
作業者のうち一名を死亡させてしまった。
さらに不幸なことに同じ作業現場で働いていた別の作業員にも
重傷を負わせてしまったのだ。
トラックはコールタールを溶かしていた大きな容器にも衝突した。
高温に熱せられていた容器は衝撃で倒れ、そばにいた作業者は高温の
コールタールを全身に浴びてしまい、大ヤケドを負ってしまったのだ。
死亡した人は、若くまだ年齢二十三歳だった。
大ヤケドをした作業員もまた二十一歳と、これから前途ある青年だったようだ」(P288)


ここから先は地獄である。自賠責、任意保険だけでは足りない。
マイホームを売却。会社からは解雇に近い退職処分。退職金もゼロ。
迷惑をかけてはならないと妻子と別れ、小さな建設会社に再就職。
少ない給料のなかから大ヤケドの被害者の治療費と生活費を払うといくらも残らない。
著者は、2年も音信のないこの友人のことを気にかけ、
おなじくムショ仲間の小宮という男と久しぶりに山内和彦を訪ねる。
著者は、山内和彦が首吊り自殺をしていたことを知る。
元妻の家にある仏壇に著者は線香を上げる。
ここから先の著者、川本浩司氏の述懐にわたしは強い違和感を覚えた。

「奥さまがいろいろ話したいことがあったらしいが、
われわれは話し合う気力もなく、山内氏の奥さまの実家を後にした。
道路交通法で刑務所に収監され、
そこで知り合った仲間が独りひっそりとこの世を去ったのだ。
さぞ、つらく苦しい日々だったのだろう。
私や小宮氏とは比べものにならない苦悩をたった独りで背負った苦悩や葛藤は、
計り知れないほど深かったに違いない。
自分の運命も呪っただろうし、悔しかっただろう。
あの世では幸せになってほしい。
私は心の中で山内氏の冥福を祈っていた。
しかし、事がどうであろうとも、親からさずかった尊い命。
それを自ら絶った彼の決断だけは許せず、強い憤りを感じていた。
「川本さん、泣いているんですか」
どうしたことか、いつの間にか熱い涙が私の頬を伝っていた。
「うん。自然と涙が出てな……。君だって、泣いているではないか」
小宮氏の頬にも幾筋もの熱いものが流れていた。
「涙が止まらないんですよ。被害者が苦なら加害者も苦だなあ」
小宮氏と私は、それからしばらく無言でいた。
山内氏には悪いが、彼の死によって「這い上がる強さ」と「這い上がれない弱さ」
を人間は両方もっているのだと教えられたように思った。
帰り道、小宮氏とは、こんなことがないように力強く生き、
生活しようと誓って別れた」(P293)


自殺したムショ仲間に金を貸してあげることもなかった有能営業マンの川本浩司氏は、
まるで自分が「這い上がる強さ」を持っていたかのような書き方をしている。
どうして自殺した不幸な山内和彦氏は死亡事故を起こしてしまったのだろう。
どうして酒気帯び運転で3回も捕まっている川本浩司氏は事故を起こさずに済んだのか。
なにゆえ山内和彦氏は自殺したのちも、
「這い上がれない弱さ」の持ち主と裁かれなければならないのか。
なにゆえ川本浩司氏は、暖かい家庭に恵まれ安定した会社員人生に戻れたのか。
さらには自著をこうして出版できるのか。

「みちづれ」(三浦哲郎/新潮文庫) *再読

→短編集モザイクⅠ。
三浦哲郎の小説のなかで、子どもも老人もここではないどこかへ行こうとする。
マヤという少女はいくつになるのだろう。5つ6つの女の子である。

「マヤは遠いところに憧れていた。
去年の春、喘息持ちの母親が急に亡くなった当座は、
時々うっかり(お母ちゃんは?)と尋ねて、すると父親はそのたびに、
(お母ちゃんはな、遠いところ。誰も知らない、ずっと遠いところ)
と答えたものであった。
それで、遠いところにこっそり思いを寄せるようになった」(P108)


東北北部の農村地帯に83歳と79歳の老夫婦がいる。
子どもはできなかったが、ふたりはいまだに手をつないで歩くほど仲がいい。
艶話で盛り上がった祭りの夜、寝床で鶴蔵は愛妻の福にふと尋ねる。
「お前(め)、これまで男はおら一人だっだど?」
「嫁にくる前はどだったな」とさらに問いつめる。
五十年も前のことだからと、悪気なく福は隠していたことを話す。

「仙吉という、若くて目つきの鋭い箪笥(たんす)職人が、
材木商に連れられて何度か旅籠にきたことがある。
仙吉なら鶴蔵も面識があるが、福はたったいちどだけ、
その仙吉に鑿(のみ)で脅されて草叢(くさむら)に押し倒されたことがある」(P183)


無邪気な笑い話のつもりだったが、その晩に鶴蔵は家を出たまま帰ってこない。
三日目に警察へ捜索願を出した。

「すると、その日の夕刻、
鶴蔵は桐畑の集落から南西の方角へ百キロほど離れた
県道の脇にへたり込んでいるところを、警察の車に保護された。
鶴蔵は、自動販売機の清涼飲料だけで、
ここまで歩き通しに歩いてきたのである。
いったい、どこへいくつもりだったのかと警官に訊かれて、
自分はただ、過去へ向かって歩いていただけだと鶴蔵は答えた」(P184)


子どものマヤが死んだ母親と会いたかったのと同様に、
鶴蔵老人は憎い仙吉に会って首根っこをへし折ってやりたかったのである。
ここではないどこかへ行きたい。
三浦哲郎の小説において、行き先は過去であることが多い。

しかし、ここもまたいいではないか。ここにいたら「かきあげ」にもありつける。
「横町の、間口の狭いお惣菜屋だが、
天ぷらならこの店に限ると、かねがね彼は思っている」
独り暮らしの老人がいつも買うのは桜えびと玉葱の「かきあげ」である。

「ショーケースふうの、背の低いガラス戸棚の上に、
十円玉を八個並べて置いて、ありがとよ、と紙包みを鷲摑みにすると、
なるほど揚げたてらしく中身が手のひらに熱い。
かりっと揚がっていて、こう熱いところへ、生醤油を垂らして、
炊き立ての御飯にのせる。堪えられない。
年甲斐もなくと笑われそうだが、唾を呑み込んで、つい急ぎ足になる」(P165)


遠いところへ行きたくもなるが、ここで「かきあげ」を食べるのもそう悪くない。

「ふなうた」(三浦哲郎/新潮文庫) *再読

→短編集モザイクⅡ。
三浦哲郎の短編小説を読むと、生の豊かさに気づかされる。
こぼれた砂糖を人さし指ですくって舐めたときの甘さ。
こういう味わいはすぐに忘れてしまう。
しかし、こういった些細な味のなかに生きる豊かさがある。
何気ないひとコマを大切にすることでどれほど人生を深く味わえるか。
ままならぬ人生の苦味が、
いつの間にかたとえようのない甘味になっていることを知るとき、
彼は人生の不思議を味わうだろう。
苦味、甘味、酸味――。
味わうということ、そのことがあるいは人生の意義ではないか。
そういうことを教えてくれるのが短編集モザイクである。

初恋の味。失恋の味。「あわたけ」――。
高校を卒業した要は、クリーニング店に住み込みの見習いとして勤める。
お得意先のひとつが、町はずれの巨大売春宿。
汚れ物を回収に行く要は、そこで手伝いをしている15、6の少女ヒロに出逢う。
母親がここで仕事をしているのだと噂話で知る。
ヒロは「障害があるのではないかと思われるほど無口な少女」だった。
「要は、いつの間にかヒロを綺麗な子だと思うようになっていた」
あるときヒロが気になっていることを見透かされ、とある売春婦にからかわれる。

「それ以来、しばらくヒロに会えずにいたが、
川から崖を伝って吹き上げてくる風が時には身に滲みるようになったころ、
要は集金にきて、
堀の外をぶらつきながら用意ができたと呼ばれるのを待っていたとき、
胸にタオルを巻いただけのヒロが二階の窓の一つに頬杖を突いているのを見た。
三つ編みをほどいた髪が濡れて光っていたから、
湯上りの火照った肌を風に曝していたのだろうか。
やがて、ヒロの背後に、潮焼けした肩幅の広い上半身がぬっと立つのが見えた。
要は、潰れそうな胸を抱えて、
小走りに道の片側に広がっている背の低い松林へ入っていった。
すると、不意に地面を炎が走った。要は立ちすくんだ。
炎ではなかった。粟茸(あわたけ)であった。
オレンジ色の粟茸が、広い林のなか一面に、足の踏み場もないほどに生えそろって、
樹間から射し込む西日を浴びているのであった」(P49)


話はかわって「ブレックファースト」――。
三浦哲郎を思わせる作家の「彼」は高血圧で食事制限をしている。
このため長らく好物だった卵、ベーコン、バターとも縁がなくなった。
ところが、この朝は旅先のホテルで目覚めた。うるさいことをいう妻もいない。
ゆうべの公民館での講演もまずまず無難に済ませた。

「そのあとに慰労の酒で、ひさしぶりに酩酊して熟睡したせいか、
今朝はいつになく気分が晴々としている。
こういう朝の食事には、かつての好物たちと再会し、
互いに久闊(きゅうかつ)を叙し、旧交を温めることが、
一つの生き甲斐としてあらゆる病者に許されるべきではなかろうか。
彼は、ベーコンを切らずに頬張って、口のなかが脂だらけになるのを楽しんだ。
トーストにはバターをたっぷりと塗った。
嬉しいことに、目玉焼きは二個であった」(P140)


こちらの口のなかにもよだれがあふれそうなほど、うまそうな描写である。
一瞬を味わう歓びが、丸ごと伝わってくる。

苦味なのか、甘味なのか、ではなく、
もしかしたら味わうこと自体に意味があるのではないか。
ならば不幸にも、またとない、それだけの、かけがえのない味わいがあるのではないか。
「よなき」――。
過疎の村にひとりで住む老婆は、夜半ふと聞きなれぬ赤ん坊の声を耳にし外に出る。
おなじく赤ん坊に引き寄せられ出てきた老婆と話すうちに「ふで」のことを思い出す。

「もう何十年も前のことだが、ふでという働き者の若い母親が、
野良仕事に疲れ果て、夜遅く、しまい湯の浴槽のなかでつい居眠りが出て、
抱いていた赤子を取り落としてしまうというしくじりをした。
溺れた赤子も、あとを追ったふでも、共同墓地のおなじ墓で眠っている」(P103)


「わくらば」(三浦哲郎/新潮文庫)

→短編集モザイクⅢ。
そろそろ小説を書けないかしらと思い、新人文学賞の締切を調べた。
手始めに短編小説でも書いてみようと思い、しかし、
10年ぶりのことなのでどうにも不安で「わくらば」を読む。
7年前に新刊で買ったまま読まずに放置しておいた短編小説である。
小説の書き方よりなにより、また小説を楽しく読めることに驚く。
30を過ぎたころから他人の「おはなし」に興味を持てなくなっていた。
小説とはかくも贅沢でおもしろいものだったのかと嬉しくなる。
人間の小さな歓びと哀しみを美しい言葉で描写する短編小説にすっかり参った。
こういう生きる味わいがあったのかと気づかされ満たされた思いがする。
むかし読んだ短編集モザイクⅠⅡを捜して本棚をあさった。
何度も小説を読み返したけれども、結局自分の「おはなし」は書けなかった。
まだ時間が必要なのかもしれない。

三浦文学のテーマは次のセリフに結晶しているように思う。

「おじさん、このまま、どっかへいっちゃわない?
あたしとかけおちしない?」(P128)


ふたりの姉が自殺しふたりの兄が失踪した三浦哲郎の人生を思う。
作家も「どっかへいっちゃわない?」という血のささやきを何度も聞いたことだろう。
最後に収録された「なみだつぼ」は私小説の短編である。
三浦哲郎の母親は、ときおり炉端でひとり泣くことがあったという。
腹を痛めた子のうち4人が「どっかへ」いってしまった。
作家は、泣く母にかける言葉がない。ただ見守るしかない。

「おふくろが、いま、なにを思い出し、なにを悲しみ、なにを哀れみ、
なにを悔やんでいるかを、いい当てることはできなかったが、
その人生が悲しみに満ちた日々の積み重ねだったことを私は知っていた。
おふくろには、押せば水玉の噴き出る記憶しかないはずであった。
どんな同情も、慰めも、おふくろの心を傷つけるだけだろう。
私は、胸を痛めながら、
炉端の人の鼻先からしたたり落ちる水玉のはかない輝きを、
ただ黙って見守っているだけであった」(P245)


いや、そうではない。三浦哲郎は「水玉のはかない輝き」を書くのである。
そして、「水玉のはかない輝き」に胸打たれる読者がいる。

「四月の雪」(ホ・ジノ/吉野ひろみ訳/ワニマガジン)

→海外映画シナリオ。韓国。ヨンさま出演作品。
これほどシナリオの勉強をしているものはそうはいないと思うけれども、
なぜかコンクールは取れないのである。
おそらく、わたしの「良い・面白い」と思うものと、
世間(審査員)の評価がずれているのだろう。ならば、仕方がない。
負け惜しみをいうと、審査員の「良い・面白い」はあまり純粋ではないのではないか。
業界人は「売れる/売れない」を日常的に考える癖がついている。
すると、過去に売れた作品は「良い・面白い」ものだったのだという刷り込みが入る。
純粋に自分の「良い・面白い」を育てられなくなってしまう。
自分が「悪い・つまらない」と感じたものでも売れたものであれば、
あれは良かったのだと自己の感覚を否定してしまうのである。
もっとも、これは最終選考まで残ってから言えという話かもしれない。
下読みは、大手シナリオ学校の講師がやっていることも多いと聞く。
だとしたら、その学校のノウハウに沿った「正しい」シナリオでなければ通らない。

シナリオ「四月の雪」の話をしよう。映画監督の書いた脚本である。
監督の武器は映像で、脚本家の武器は言葉(台詞)である。
監督が脚本家も兼ねてしまうと、なるべく映像で表現してしまおうとする。
言葉(台詞)を可能なかぎり排したくなってしまうのである。
言葉は絵を壊すものであることを画家はみな知っている。
たとえば、ある絵画が展示されているとするでしょう。
その下に延々と解説文がついていたとする。
鑑賞者はついつい文章(言葉)に意識をとられ、絵そのものを純粋に味わえなくなる。
絵自体を丸ごと鑑賞してほしい画家は、これではいけないと慌てるはずだ。
同様、映画監督も腕に自信があれば、言葉を不要品と思うことだろう。
だから、シナリオ「四月の雪」の言葉のチカラは極めて弱い。
読んでも面白くないが、にもかかわらず、ではなく、だから映像は強くなるはずである。
映像のチカラは、このシナリオの弱さに反比例して強まるということだ。
本当の映画ファンならば、この映画に感動するのは正しい。
言葉フェチのわたしはとてもこの映画を映像では見られないと思う。
つい早送りしたくなってしまうのではないか。
美人女優の下着シーンがあるらしいから、そこだけは早送りをストップする。

しかし、まあ、なんだかんだいっても韓国はまだ牧歌的な人情を残しているのだろう。
少しだけ内容の話をする。
ある不倫カップルが交通事故を起こして意識不明で病院に運ばれる。
意識のない男女の正式な配偶者が病院に呼ばれる。
それがインス(31歳男性)とソヨン(27歳女性)である。
ふたりは配偶者が不倫していたことを知りショックを受ける。
このインスとソヨンがゆっくりと結ばれていくというのがストーリー。
いけないと知りつつ(カセ!)どことなく惹かれあう傷心のふたりは居酒屋で向き合う。

「酒をあおるインス。
刺身を一切れ食べる。
ソヨン「おいしいですね。おいしいものを食べている時はとても幸せ。
生きていても、いい時はそんなに多くないでしょう?
インス「何歳ですか?」
ソヨン「…………」
ソヨン、いぶかしげにインスを見る。
インス「そんなことを考えるなんて……」
微笑むふたり。
インス「生きていくのは簡単じゃないですね」
ソヨン、うなずいて酒を飲む」(P137)


なーに、トッポイこと言ってやがる!

と思うが、この映画が大ヒットしてしまう韓国の人は日本人よりも擦れていないのだろう。
批判めいた書き方をしたが、こんなシーンを現代においてもなお書くことができ、
そのうえ万雷の拍手をもって迎えられる韓国の精神風土に好感を持ったと白状しておく。
日本でコンクール応募作にこんなシーンを書いたら読み手に鼻で笑われ即捨てられるだろう。

「アリ」(スティーヴン・J・ライベルほか3名/蝦名大助訳/愛育社)

→海外映画シナリオ。アメリカ。
脚本家欄に4人の名前がクレジットされているのが象徴的である。
本当にまったく映画にとっては(おそらくテレビもそうなのだろうが)
シナリオはどうでもいいのだと再確認する。
脚本家は映像業界での主役ではない。
だから、山田太一ドラマのようなものはあるべからざる奇跡なのだろう。
シナリオがどうのこうのと言っているのはライター志願者だけだと思う。
いざ業界に入ってしまったら、
ライターはシナリオという踏み絵を足蹴にしてニヤニヤするくらいでないといけない。

この映画のモデルは、アメリカの英雄・モハメド・アリ(ボクサー)。
主役を演じたのは、当時ブレイク間違いなしと言われていた俳優だったという。
映画製作サイドは、脚本家にいくら抗議されても痛くもかゆくもないが、
モデルのアリや主演俳優を怒らせたら大問題になってしまう。
ライターは映像作品に仕える奴隷なのだと思う。
「ピンチをもっとがんがん作れよ」「イエッサー」
「殺人シーンほど絵になるものはないと思わない?」「イエッサー」
「低所得層の感情を刺激したいから貧困の悲劇を入れようか」「イエッサー」
「おい、アリを怒らせるようなことを書くなよ(笑)」「イエッサー」
奴隷が多くて便利ということはあっても断じて困ることはない。

「恋人たちの予感」(角川書店)

→海外映画シナリオ。アメリカ。
だらだらとしたメリハリのないシナリオだなと何度も投げ出したくなる。
秘密、嘘、謎といった劇の基本構造を無視した、ただお洒落っぽいだけの会話が続く。
こんなシナリオのどこがいいのだろうと思った。
まったくドラマが描かれていないと憤ったりさえしたのである。
しかし、先ほどタイトル名でネット検索してみたら――。
大好評なのである。いわく、メグ・ライアンがいい。
わたしはシナリオ「シティ・オブ・エンジェル」を読むまでかの米国女優を知らなかった。
そうか、いくらシナリオがよくないと主張しても、メグ・ライアンとやらがいいのなら。
たぶん、おそらく、いや、きっと映画はシナリオではないのだろう。
映画(10)=俳優(6)+監督(5)+脚本家(-1)
これが正しい映画の製作構造ではないかと、ふといま思った。

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(ラース・フォン・トリアー/杉山緑訳/角川書店)

→海外映画シナリオ。デンマーク。
2000年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールとやらを取ったのだからすごい映画なのだろう。
映画のことはぜんぜんわからない。
もういい歳だから、いちから勉強する気はない(もう手遅れってことさ)。
世界でいちばん優秀な映画に与えられるのが、このカンヌ国際映画祭の賞なのかな。
そういえばカンヌ国際映画祭ってよくニュースで聞くけれど。
なら、アメリカのアカデミー賞というのは、なんなのかね。
アハハ、こんなことも知らない人間がいるのだと笑われたかたも多いでしょう。

これを読んで思ったのは、映画はシナリオではないということ。
よく映画はシナリオの良し悪しだという説を聞くけれど、あれは嘘じゃないかな。
シナリオがカスでも、いくらでもいい映画は撮れると思う。
ただし、映画監督がシナリオを書いているときにかぎり。
映画の感動というのは、要は映像美なのでしょう。
きれいな絵に感動するのが映画ファンというものだと思う。
だとしたら、映画におけるセリフは必要ないことになる。
セリフがうまいとかえって映像に集中できなくなってしまう。
だから、むしろ、シナリオのレベルの低いほうがいい映像になるのかもしれない。
繰り返すが、映画監督がシナリオを書いている場合の話。

そもそも自分でシナリオを書かない映画監督というのがわからない。
わたしが監督をするなら、ぜったい与えられたシナリオに逆らいたくなると思う。
エゴの強い監督は、シナリオ(運命)へ挑戦したくなるものでしょう。
天才映画監督ならシナリオ(運命)のなかにも自由のあることがわかるはずだが、
そんな天才はめったに現われるものではない。
わたしのように愚かな監督ばかりではなかろうか。
だったら、最初から自分でシナリオを書けばいいのにと思うのは間違いか。

シナリオ「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の話をしよう。
シナリオとしてのレベルは低いけれども、これは監督の書いた脚本。
かえってこの稚拙さが映像美に結びつくのだろう。
絵画がまるでわからないわたしはその映像作品を理解できないと思うけれども。
ストーリーは「おしん」のようなもの。不幸の連打である。
移民のシングルマザーに、失明、失職、濡れ衣、死刑と次々に不幸が襲いかかる。
それでも健気に微笑むシングルマザーの映像はきっと美しいのだろう。
シナリオ構造はシンプルで、秘密から嘘をつき、その嘘から不幸になるというもの。
秘密をすでに知っている観客は滂沱の涙を流してくれるはずである。
不幸はよろしい。不幸な主人公はあわれみを誘う。
不幸なのに健気に生きる女性の美しさは万国共通なのだろう。
映画の感動はあくまでも絵の美しさによるものであって、
言葉の美は二の次、三の次であることをカンヌ国際映画祭パルム・ドール作品から学ぶ。

「シティ・オブ・エンジェル」(スクリーンプレイ出版)

→海外映画シナリオ。アメリカ。
これはすばらしい! 感動して涙が込み上げてきた。
上映時間約2時間のシナリオを(英語も参照しながら)4時間かけて読んだ。
読後、外出したら世界が少し異なるように見えたのを記憶している。
実在しない「天使」という設定を加えることで、
逆説的により深く生の味わいを伝えることに成功している。
生というのは死があってはじめて輝くのだが、生一辺倒ではそれがうまく描けない。
こういうテーマの作品を某コンクールに出したかったのだが、
当時はうまくアイデアが浮かばなかった。これを読んでやられた、負けたと思った。
生きているということを深く考えさせられるシナリオ。
ひとつのフィクションを作品世界に導入することで、
それは明らかな嘘なのにかえってその世界が本当らしくなるということがある。
たとえば、これは漫画だが「イキガミ」も同種の傑作だと思う。

「シティ・オブ・エンジェル」のこのシーンがとても好きだ。
天使のセス(男性)は自分を見ることができる人間がいるのに驚く。
太っちょの中年男、メッシンジャーである。
天使は人間には見えない。天使は死なない。
天使は人間のような五官がない。目と耳だけの存在である。
メッシンジャーは好物をほおばりながら、
自分は天使から人間になったのだとセスに説明する。

「セス:どうやって?
メッシンジャー:君が選択するんだ。
セス:選択?
メッシンジャー:落ちるんだ、地面にね。つまり・・・飛び込むんだ。
ダイブするんだよ。橋から落ちろ。窓から跳べ。決心して・・・やっちまえ!

メッシンジャーは感情を込め、生き生きとしている。
彼は話しながら食べ続け、食べ物の味に満足している。

メッシンジャー:全身に痛みと匂いを感じて起き上がる、
それに今まで感じたことのない空腹感がくる、
ただ空腹がどんなもんか、想像もできないだろうからな、
だから分かりにくくて、痛い、でもすごく、すごくいいもんだ」(P91)


英語で読むと実にセリフがいいのね! まさに英語で(なに言ってんだか)。

「SETH : How?
MESSINGER : You choose.
SETH : Choose?
MESSINGER : To fall, to earth.
You take the...the plunge, the tumble, the dive.
You jump off a bridje. You leap out a window.
You just make up your mind to do it and...you do it!

Messinger is animated and speaks with passion.
While he talks he continues his eating binge, loving the taste of the food.

MESSINGER : You wake up all smelly and achin' from head to toe,
and hungrier than you've ever been in your life,
only you have no idea what hunger is or any of that stuff,
so it's all real confusing and painful, but very, very good.」(P90)


人間だけの感覚「痛い(painful)」を「いい(good)」と感じるのが意味深い。
生きるうえでの「味わい(taste)」というのはなんなのか考えさせられる。
シナリオがいいので映画も観てみようと思っていたら、
神保町のビデオ屋でレンタル落ちを百円でゲット。まだ観ていない。

「ラウンダーズ」(デヴィッド・レーヴィン&ブライアン・コペルマン/豊岡真美訳/愛育社)

→海外映画シナリオ。アメリカ。
あちらのシナリオ理論の権威、シド・フィールドの教科書どおりに
脚本が構成されているので驚く。
アメリカにおいてシナリオはまったく芸術性を考慮されず、
おそらく工業製品みたいなものなのだろう。
映画はなんのために作るのか? できるだけ多くの金銭を儲けるためである。
シナリオは商品としての価値を強く求められる。
「ラウンダー」は青年ギャンブラーの青春ドラマ。
え、ほんとに? というくらい定式にしたがったシナリオである。

ひんぱんに暴力シーンが入るのでアメリカ人の低俗ぶりを薄ら寒く思う。
エロシーンもちゃんと入っているのだから心憎い。
シド・フィールドの法則どおりにミッド・ポイント(映画のちょうど真ん中)で
主人公と恋人が別れるのには、アメリカのマクドナルドを連想してしまった。
主人公は「ピンチ、葛藤、克服」を繰り返しながら最後の対決に向かう。
何度も何度も主人公をピンチにおとしいれ脱け出させるのが、
世界の主人公を自負するアメリカの映画らしいと感心する。
人口比率を考えれば賢人は少数で愚者が圧倒的多数である。
ならば、知能の低い人間の動物的な感情を刺激するシナリオのほうが売れる。
わかりやすいピンチ、わかりやすい暴力、わかりやすい失恋になっていてよい。
繰り返しになるが、まるでマクドナルドのハンバーガーのようだと思う。
テーマは友情。ギャンブラーの主人公はピンチの友人を救い宿敵に勝つ。
主人公に共感できたし、事件(葛藤)の盛り上がりも教科書どおりで花丸。
百点満点のシナリオではないかと思う。ただし、つまらなかった。

名セリフらしきものを一箇所引用する。

"You can't lose what you don't put in the middle...
but you can't win much, either."

「賭けなければ負けることもない……でも、それじゃ勝ちはない」(P251)


「群論 ゆきゆきて、神軍」(松田政男・高橋武智編/倒語社)絶版

→公開と同時に大反響を巻き起こした原一男監督の出世作「ゆきゆきて、神軍」。
本書は、公開直後の識者の多様な論評を1冊にまとめたもの。
当時を知らないわたしにはとても新鮮だった。
もし公開時に成人しており、この映画を見たらどう思っていたか。
手塚治虫、中島らも、吉本隆明など55人の感想が掲載されているが、
おそらくわたしのそれといちばん近いのは中野翠さんのため息だと思う。

「奥崎が、まさに捨て身になって追求しているのは戦争責任だけではない。
四十二年前も今も、あいかわらず日本人の意識の中にドッカリと腰をすえている
「クサイものにはフタ」「長いものには巻かれろ」「波風立てずに無難に無難に」
という心性を徹底的に糾弾しているのだ。
こういう心性をバカにしながらも、イザとなるとそこから抜け出られないし、
また、そういう心性にも一つの真実(=正当性)はあると考えている私には、
まったく刺激的な映画だった」(P228)


「もてない男」の小谷野敦さんの、
あのエキセントリックな言動にも「ゆきゆきて、神軍」は影響を与えたと聞く。
思えば、小谷野さんは現代の奥崎謙三かもしれない。
映画が公開されたのはバブル全盛期――。
映画評論家の佐藤重臣さんは言う。

「この映画のそうした迫力は、高度管理社会の、
波風の立たないリッチな安定の中に、
沈み込んで日々を送っているわれわれ日本人一人一人の心情と生理を、
痛打痛撃し、そこに大きな波紋を、呼び起こさずにはおかない。
波乱や葛藤が表立っては起きない現代日本の、無風状態の社会は、
どうしても活気のない日本映画しか生み出さない、という現状がある。
そこに突如出現したこの映画の、狂気のような迫力は、
圧倒的な衝撃を、われわれに与える。「すごい!」「圧倒された!」という声が、
見た人々の口から、異口同音にもれるのも、無理はない」(P313)


これもまた映画「ゆきゆきて、神軍」の価値を正しく伝えるものだと思う。
たとえば大手シナリオ学校では、「ドラマは葛藤」と教えているけれど、
実際に小さな葛藤でも起こしたりしたら、その場で袋だたきにされてしまうのだ。
中野翠さんが言うように、現実は「クサイものにはフタ」。
「波風立てずに無難に無難に」生きたほうがいい。
出世したかったらまず「長いものには巻かれろ」。
「ゆきゆきて、神軍」公開当時よりも、
いまのほうがはるかにこの閉塞感は強まっているのではないか。
自分を出してはいけない。突出してはいけない。
思ったことを口にするなんてとんでもない。
自分の意見よりもまず周囲の顔色をうかがえ。「まあまあ」、そこは「まあまあ」。

たぶん当時、観客が奥崎謙三に感じたシンパシーとおなじようなものを、
いま我われは小谷野敦さんに感じているのだろう。
「やれやれ、やっちゃえ」と「おい、そこまでやるのか」の中間地点にたたずむ。
とりあえず、笑っておくしかない――。
おなじ感想を、ほかならぬ「本の山」に抱いている読者もおられるかもしれない。
「ゆきゆきて、神軍」の毒(薬かな?)はもう広く散布されてしまったのである。

「快楽なくして何が人生」(団鬼六/幻冬舎新書)

→人を動かすエネルギーとしては、成功や幸福が一般的なのだろう。
最近うすうす気がついたのは、成功や幸福をあざわらう快楽の存在である。
いままで成功や幸福ばかりに目を向けていた。
そこにふいと快楽が現われたのである。
成功と幸福だけでも、いろいろたいへんである。
なぜなら、成功はかならずしも幸福ではない、という理由に尽きるのだが。
ここにさらに快楽が加わったら、もうメチャクチャである。
快楽は、成功も幸福も否定する悪魔的な力を有しているのではないか。
むろん、成功や幸福も快楽を軽蔑する視線を持っている。
いったい人間はなにを目指して生きるべきなのだろうか。
成功を目標に生きる。幸福になるために生きる。快楽を味わいたいから死なない。
成功、幸福、快楽――。
あなたが求めるのはなんでしょうか?
本書のタイトルどおり、無頼の作家である著者が最重要視するのは快楽である。
座右の銘は「一期は夢よ、ただ狂え」――。

「真面目くさって一生懸命働いたって、この世は夢のようなものだ、
遊べ、遊べ、といっているのですが、
別に虚無的になって自棄になれといっているのではないんです」(P4)


成功は社会的な意味があるような気がする(肩書)。
幸福は配偶者も含めた家族との関係が決定するように思う(安心)。
ならば、快楽とはどういう基準で判定されるのか。
わたしは成功や幸福について語る言葉を持っているが、
こと快楽に関してはなにも知らないのかもしれない。

「性愛奥義 官能の「カーマ・スートラ」解読」(植島啓司/講談社現代新書)

→植島啓司のファンだけれど、こりゃあ期待外れ(期待が大きかった!)。
久しぶりにここまで手抜きをした新書を読んだ。
ここまでルーズな本を創れるのかと、かえって驚いたくらいである。
「カーマ・スートラ」なんて、だれも知らないからいいと思ったのかな。
あ、「カーマ・スートラ」とはインドの古典で、内容は性愛指南。
セックスのマニュアルである。
インドを旅したとき、土産物屋でやたら「カーマ・スートラ」の絵本をすすめられたな。

まったく役に立たない書籍というものはない。
この本から得た発見を書く。

「人間にとって果たして生きる意味とは何なのか。(中略)
古代インドの賢者は、われわれにもっとも必要なのは、
ダルマ(美徳)、アルタ(富)、カーマ(性愛)の三つである、
と明確に述べている」(P5)


そうか、エロのために生きるのもいいのか! と一瞬、救われたような錯覚を抱いた。
エロってわからないよね~。
人間のなかでいちばん普遍化(一般化)できない領域ではないか。
こんなことを書くとまるで変態みたいだけれど、そんなことは全然あーりません。
しかし、カーマ(性愛)のために生きる、
と言い切れるインド人の正直に驚くのは植島啓司もわたしも変わりない。
考えてみたら、自殺防止になにがもっとも有効かと考えたらエロいことかもね。
あらぬことを妄想しているあいだは自殺のことなど忘れていられるのだから。
むろん、不幸も悩みも悔恨もエロで消すことができる。
ぶっちゃけ、男性自殺志願者の99%が
若い美人さんから激しく求愛されたら死ぬことを思いとどまるはずである。
リスカ女だってイケメンからちやほやされたら自傷をやめるでしょ?

植島啓司さんはハンサムでインテリだからモテモテだと聞く。
「カーマ・スートラ」にかこつけて、
過去の女子大生との桃色遊戯を語ってほしかったというのが正直なところ。
性愛は一般論で語れる領域ではないことをまさか知らないはずはないと思うのだが。
「私」にこだわるのが生きる楽しみだというのは植島さんの主張でしょう。
たとえば「私」が賭けたときに世界はどうなるか?
本書で植島啓司先生はおのれの下半身事情を語るべきだったと思う。

「ツキの波」(竹内一郎/新潮新書)

→「人は見た目が9割」でひと山当てた竹内一郎先生の本。
なぜ先生かといえば、いまは大学教授も兼任しているらしいから。
「ツキの波」に乗った人間である。うらやましいっす。
本書は、麻雀小説で知られる作家・阿佐田哲也のツキ思想を紹介したもの。
ううう、どうしたら竹内教授のように「ツキの波」に乗れるのか。
教授は阿佐田のこの着眼が勘どころではないかと指摘する。
「ヒットよりもフォームが大事」――。
ヤングは知らない(だからおいらも知らねえずら)王貞治の一本足打法。
以下、引用は阿佐田哲也の文章。

「王選手かてヒットは三本に一本や。
そのフォームを大事にしとりゃ、三割打てるんや。
今、当りが出とらんというてフォームを変えたらいかん。
大事なのはヒットやない。フォームや」(P100)


竹内教授は終章でもこのことを強調している。ヒットよりもフォーム!

「一人一流――。
自分の戦術は、自分で考えるほかない。
他人はフォームを作ってくれない」(P188)


実のところ、マニュアルやノウハウ――情報が洪水のように氾濫している現代、
もっともむずかしいのは自分のあたまで考え続けることなのかもしれない。
だれにでも適応する「正しい方法」はないのだろう。
「自分の方法」をなんとかして見つけだすしかない。

「ツキの正体 運を引き寄せる技術」(桜井章一/幻冬舎新書)

→いまツキについている伝説の雀鬼さまのツキの本が
ブックオフ105円コーナーにあったら買わずにはいられないではありませんか。
ツキの話をすると、わたしは異常なほど本のツキがいい。
出版されてまだ1年も経たないような書籍を105円でよく拾うことがある。
本来ならとてもその値段では買えない掘出物を安価で手に入れることも多い。
もしかしたらこれはブログ「本の山」のおかげかもしれない。
というのも、運を引き寄せる技術を説く本にこう書いてある。

「見返りが何もないことを継続していると、楽しく、満たされ、くつろぎます。
意味なんかないことを全力で続けていくと、
身体が喜んでいるのがよくわかるのです。
それは「遊び」の面白さなのだと思います。
誰に強要されたものでもない、何の得にもならない、無意味とも思える何かを、
延々と続けていくことの面白さを知っているかどうかで、
人の幅や奥行きはまったく変わってくる。
利益や収穫ばかりに囚われていたときには見えない何かが見えてくる。
感じなかったものを感じ取れるようになる。
遊び心は、毎日を豊かにします。そして、豊かな毎日には、
いい流れが注ぎ込み、いい循環が出来上がってくるのです」(P130)


ふうむ、だから、つまり、流れがいいから、いい循環ができているから、
わたしの本に関するツキがびっくりするほどよいのだろうか。
この本を要約する。
問い、ツキをよくするにはどうしたらいいか? 
答え、遊べ! 
問い、どうして遊ぶといいの?
答え、楽しいからだろう。
問い、遊ぶってどうしたらいいの? 
答え、……(絶句する)。
問い、ネットで検索したら情報が出てくる?

「今の人たちは、どうしてこんなに「情報」が好きなのか、
とても不思議に思います。(中略)
情報という目に見えるもの、形あるものを集めて安心したいのかもしれません。
しかし、ネットやテレビや印刷物を通じて頭に詰め込んだ、
誰もが知っている情報など、どれだけ集めても、それはただ、
「みんなと同じ」になったに過ぎない。
みんなが知っていることを知り、みんなと同じようにまた少し頭でっかちになって、
それで安心していても意味はないはずです」(P49)


ならば、どうしろとツキツキ、ノリノリの雀鬼は言うのか。
もしや「見えないものを見る」ようにしたらいいと言っているのではないだろうか。

「どんなに経験を積んでも、常にビギナーズラックの境地を目指したほうがいい。
知識や、常識、あるいはテクニックなんかよりも、
自分の直感のほうがよほど当てになることが多いものです」(P28)

「知識やノウハウを信じれば信じるほど、見えなくなるものがある気がするのです。
感性を高めるのに一番いいのは、
いろいろなことに「気づく」ように努めることです」(P29)

「人に習わないですむなら、習わないにこしたことはありません。
習ったことというのは、頭での処理になるからです。
対して、自分で発見したことは、心や身体に染み込みます。
理解度がまったく違ってくるし、
新しい問題にぶつかったときの修正力にも断然差がついてくる」(P72)


あーあ、雀鬼さまみたいに先生と呼ばれてみたい。ヨンダ先生――(うっとり)。
ツキだ、ツキがほしい。

「まずは純粋に楽しむことです。仕事でも勉強でも、
苦しんだ末に得るものなど、たいしたものではありません。
苦しまず、極力楽しみながら物事を進めていくための工夫をするのです。
楽しんでいれば、気分はよくなっていきます。
自分だけでなく、周りにもいい空気が生まれてくるものです。
いい空気は、ツキを呼びます」(P25)


ツキよ来い来い、ツキよ来い(ニコニコ)♪

「河合隼雄 その多様な世界 講演とシンポジウム」(岩波書店)絶版

→シンポジウムの参加者は河合隼雄当人と
大江健三郎、中村雄二郎、今江祥智、中村桂子、柳田邦男のみなさん。
有名文化人が「いったい河合隼雄の仕事とはいかなるものなのか」を検証する。
本人は自分の仕事をこう語っている。

「私の仕事は、くる人はみんな悩みをもっておられますから、
こられた人が、
この悩みが解決したら自分は幸福になりますという考え方をしているときに、
もう一度ボーッと見てみよう。そうすると
なにかおもしろいものが見えてきませんかということだともいえます」(P39)


悩みを消すためのなにかよい選択肢はないかとクライエントは相談する。
河合隼雄はなにもしない。
あのうさんくさい(失礼!)笑顔で「わかりませんな」「むずかしいですな」――。
そもそも河合隼雄のところにまでくるほどだから、
あらゆる選択肢はもう試しているのだろう。
もう「死ぬ」くらいの選択肢しか思いつかない。
生きるとは、なにかしらの行為を選択することである。
悩みをかかえ、どう生きたらいいのか。どちらを選べばいいのか。

「いずれか一方を選ぶといっても、
それはできるかぎり遅くするほうがいいように思います。
普通の人なら早く決めてしまうところを、あれもよいしこれもよいし、
と矛盾のなかに身を置いて苦しんでいると、あれでもないしこれでもない、
という思いがけないよい解決がもたらされることがあるものです。
これはほんとうに奇跡とでもいいたいようなことが起こるのです。
治療者とか分析家というと、悩んでいる人に「よい解決法」を教えてくれる、
と思う人があるかもしれませんが、そんなことはなくて、
治療者もよい解決法などわかってないことが多いのです。
しかし、速断せずに、あれかこれかという迷いのなかに
クライエントとともに身を置いてねばり抜く強さをもっている、
ということができます。
解決が「関係」のなかから生まれてくるのです」(P224)


「私の一生はまったく思いがけないことの連続です」
と本書の最後で河合隼雄は自分の人生(仕事)を総括している。

「思いがけないことばかり起こりましたが、
その間私が一貫して大切にしてきたのは、自分自身の考え、感じ、
つまり、自分にとってのリアリティーの感覚だったと思います。
子ども時代に戦争中に体験したように、
自分の周囲の人とまったくちがうことを感じたとしても、
それを大切に保持している。そうすると結局は、
自分の判断にも価値があったことが明らかになる、
という体験を多くしてきました」(P220)


河合隼雄がクライエントや読者に求めているのも、結局のところ、
「自分自身の考え、感じ」=「自分にとってのリアリティーの感覚」を
大切にすることなのだと思う。それがいかにむずかしいか、である。

「カウンセリングと人間性」(河合隼雄/創元社)

→河合隼雄にまつわる最大の疑問を書いてしまおう。
かの心理療法家は存命時、クライエントに自殺されたことがあったのだろうか?
あるときから河合隼雄は事例の紹介をいっさいやらなくなったが、
本書は刊行が古いので少しばかり裏側がわかる。1971年時点で――。

「一応記憶のあるかぎり事例を数えてみると、
治療のため来談した人(教育分析の人を除く)のうち、
治療経過中に自殺未遂が行なわれたもの、および、
自殺未遂を契機として治療関係をもったもの、あわせて八例、
治療過程中に、はっきり希死観念を述べたもの十例である」(P225)


この時点ではクライエントに自殺されたことはあるものの、
どうやら未遂に終わったのだろうという事情がわかる。
とはいえ、ここから先、30年以上も河合隼雄は心理療法を行なっているのだ。
いくら年々カウンセリング技術が向上したと好意的に考えても、
自殺未遂くらいだったら何遍もあったような気がする。
知りたいのは、クライエントの自殺が未遂に終わらなかった事例はあるのか、である。
河合隼雄は生前ひんぱんに講演会を行なっている。
質疑応答というのがあったはずだ。
ならば、かならずだれか質問したものがいると思うのだが、どうだろう。
かなりの勇気がなければ聞けない質問である。
人間・河合隼雄の中心をこれほど突いている問いはないと思う。
それともこの質問をさせないようなオーラが河合隼雄にはあったのだろうか?
正直、わたしが講演会を聞きに行ったとしても質問できるか自信がない。
だが、河合隼雄についていちばん知りたいことがこれである。
クライエントに自殺されたことはあるのか? 
どなたかご存知でしたら、教えてください。

さて、河合隼雄は希死観念(自殺願望)を持つ相談者とどのように向き合うか。

「自殺という窮地におちいった人に対して、
治療者はそれをますます窮地に追い込むのでもなく、
また窮地から逃れようとするのでもなく、
そのような窮地におちいった人の苦しみや悲しみを理解しつつ、
その中に自らも身をおこうとするのである。
このようにして両者の間に密接な関係が成立すると、もはや、
その人は肉体の死を、ひとりで死に急ぐことはできなくなる。
そして、そこに象徴化された死の体験が生じてくるのである」(P236)


このあと「象徴化」されない「肉体の死」について河合隼雄は論じる。
自問自答するのである。
「ある個人にとって避け難い意味をもった自殺は存在するのか」
「自己実現の完結としての自殺」は存在するのか。
このとき「乏しい臨床体験」しか持たぬ43歳の河合隼雄は、
こう推測するにとどまっている。

「自らの命を断つことによって、その個人の神話が完成される場合が、
存在するのではないかと思われる」(P237)


この結論からも当時はクライエントに死なれたことはなかっただろうと推測できる。
だが、おなじ問いを晩年の河合隼雄にぶつけたらどのように答えたか。
「ある個人にとって避け難い意味をもった自殺は存在するのか」
ふと、いまハムレットのことを思った。
ハムレットその人がポローニアスに連れて来られたら河合隼雄はどう対応したか。
「ほかへ行ってください」と降参したか。
なんとかしてのちに起こる殺人や自殺といった悲劇をとめることができたか。
なるほど希死観念はあるもののハムレット自身は自殺をしない。
ならば、オセローが現われたら河合隼雄はどうしていたか。
河合隼雄の深い言葉は、クライエントに死なれた絶望から生まれたのか。
それとも、一度も死なれたかったという自信からなのか。
もっとも知りたい(が決して知ることのないだろう)河合隼雄の秘密である。

「ギャンブル依存とたたかう」(帚木蓬生/新潮選書)

→帚木蓬生先生先生(作家で精神科医だから)が書いたパチンコの害を告発する啓蒙書。
日本固有の賭博、パチンコの恐ろしさをこれでもかと書きつらねる。
またまた精神科医が病気を作って! と軽い気持で読み始めたら身震いした。
やったことはないけれど、パチンコって本当に恐ろしいみたいだね。
著者は依存症=病的賭博かどうかの診断表を公開しているが(P37)、
これはあまり信頼しないほうがいいと思う。
この基準に従うと膨大な数の人間がギャンブル依存症患者になってしまう。
依存症かどうかという本当の基準は、人に迷惑をかけているかどうか、ではないか。
たとえばアルコール依存症もそう。
年金暮らしの裕福な老人なら、毎日のように朝から酒をのもうがOK。
同様、使い切れないほどの資産のあるものが1日中パチンコをやるのなら構わない。

ところが、借金をしてまでパチンコに夢中になるものがいる。
結局のところ、家族が尻拭いすることになるのだが、
この場合が治療対象の患者となるのだと思う。
逆に言えば、家族や友人のいない天涯孤独の人間はギャンブル依存症にならない。
少なくとも、そう診断してはならないのではないか。
著者は売春で金を得てまでパチンコに金を注ぎ込む女性も、
ギャンブル依存症と診断しているが、この判断は難しいような気がする。
なぜならだれにも迷惑をかけていないからである。
むしろ、売春は男性への奉仕活動として評価されてもよい。
なにしろ、パチンコに夢中な当人が楽しいのだから、
これを精神科医が病気だ、異常だと診断するのは越権行為と言わざるを得ない。
そう、問題なのはここ。
ギャンブル依存症=病的賭博の患者はパチンコが楽しいのである!
当人にとってはギャンブルをしているときが、もっとも充実しているのだろう。

勝つというのは、恐ろしいことなのだと知る。
そりゃあ、1回パチンコで15万も勝ってしまったら中毒になると同情する。
なるほど低所得者ほどパチンコに夢中になりやすいのだろう。
月給が100万あれば15万の当たりにそう歓喜しないのだろうから。
パチンコは闇金や売春といった違法行為に直結する現代の落とし穴。
本書を読んで生涯、パチンコ屋には入るまいと決意する。
なぜならあまりにパチンコがおもしろそうだからである。

パチンコといえば去年、ある方に質問したことがある。
いっぱい映画が製作されていますが、あれってそんなに儲かるんですか?
その答えが、「映画はパチンコのようなものだから」――。
業界のことはなにも知らぬわたしだが、
「映画=パチンコ」の意味がいまになって少しだけわかったような気がする。
ほとんどが儲からないけれど、ごくたまに大当たりが出る。
たとえ儲からなくても(=スポンサーに損をさせても)、
映画製作は(スポンサーも含め)みんなが楽しめるから(=夢を見られるから)
構わないということなのではないかな。
一攫千金=大当たりを夢見ているのは、
その状態のためだけに大金を支払っても構わないほどの快楽なのだろう。
まさか精神科医も映画関係者をギャンブル依存症と診断したりはしないだろう。

「競馬の快楽」(植島啓司/講談社現代新書)絶版

→生きるというのは、選択するということだ。
ランチになにを食べるかに始まり、いまの恋人と結婚するかまで。
選択の結果、成功も失敗もありうる。幸福にも不幸にもなろう。
どの選択肢にするかで、人生は変化していく。
だとしたら、これはまるで競馬のようなものではないか?
どの馬を選んだら勝つのか。
生きるとは賭けることである。人生はギャンブルである。
アル中にして賭博狂の宗教人類学者・植島啓司先生とわたしに共通する人生観だ。
生きるとは選択(=賭け)の連続である。
ならば、どのような基準で選択す(賭け)ればいいのか。

大半の人間が確率論で生きている。
血圧が高いと脳卒中や心筋梗塞になる確率が高まるから塩分は控えよう。
タバコを吸うと肺ガンになる確率が上がるから禁煙しなければならない。
現代社会は、この確率論でまわっていると言っても過言ではあるまい。
だが、と植島は異議を呈する。
自身の経験や見聞から考えると、確率論でギャンブルをすると決して勝てない。
たとえば、ルーレット。赤か白か。いまのところ10回連続で赤が出ている。
つぎはどちらが出るのか。
確率的に考えたら、11回連続で赤が出るのは二千分の一である。
だからと白に大金を賭けると、どうしてかまた赤が出てしまうのがギャンブル(らしい)。
ギャンブルがこうだとしたら、人生はどうなるのだろう。
確率論で生きていたら、ギャンブルとおなじように負けてしまうのではないか。
しかし、確率論のほかにどのような選択(賭け)の基準があるのか。
ここで植島啓司は運を持ち出してくる。
たしかにいくら暴飲暴食しようがタバコをどれだけ吸ったとしても、
運があれば健康でいられる。そして、実際にそのような人は少なくないのだ。
健康第一で生きてきた人間が三十代でポックリ逝ってしまうこともある。

「人生はただひたすら運なんだ。たとえ失敗したからといって、
あまりくよくよ考えるのは、馬鹿馬鹿しいことではないか。
反省するよりも、すぐ気分を切り替えて、次のチャンスを狙うことだ」(P17)


本書をひと言で説明すれば、「ギャンブルのススメ」である。
「イヤなことは何ひとつやらない」(P55)植島啓司は、
「ギャンブルはいい。なんの努力もしないでお金が入るというのがいい。
努力してお金が入るというのでは当たり前」(P126)と思っている。
ひんしゅくを買うような生き方だが、なかなか公言できるものではない。
植島啓司はおのれの運によほどの自信があるのかもしれない。
運が強い(≒運に敏感な)ものが賭けに勝つという。
ならば、そもそも賭けの強弱とはなにを意味するのか? 
強いギャンブラーとはどのような存在か?

「賭けの強弱を見分ける基準は、ただ一つしかない。
勝てると思い込んだ時に、できるだけ多くの金額を賭けられる人間が、
もっとも強いギャンブラーだということである。
当たり前と思ってはいけない。
勝ち負け以前に、まず自分の賭けられる限界額をよく認識しておく必要がある。
まず、賭け金の額が問題となり、その次にようやく、
ワンチャンスにどれだけ大きく勝てるかという勝負運が問題になる。
つまり、強弱を順位で表現すると、
①大金を賭けて勝つ
②大金を賭けて負ける
③小額を賭けて負ける
④小額を賭けて勝つ、
ということになる。勿論、①が強く、④が弱い」(P26)


本書は何度も繰り返して読んだが、いま書き写して気がついたことがある。
②と③の順位はおかしくないだろうか?
どうして②のほうが③よりも賭けが強いと言い切れるのかわからない。
もっとも、これを書いているわたしはギャンブル経験がほとんどゼロである。
人生経験なら、むろん年齢相応にはあるのだろうが。
この疑問は答えが出ていない地点で放置しておく。
賭けに強いとどうしていいのだろう? ――勝つからいいのである。
ギャンブルにおける勝利はわかりやすいが、人生における勝負はどうなるのだろう。

「賭けというのは、きわめて単純な理屈だが、やめた時点で、
勝ってれば勝ち、負けていれば負けである。
つまり、終わってみなければ、勝敗はわからない。
どんなに負けていても、続けていればそれは負けではない。
単なる途中経過である。
われわれは人生の負け分をたった一日で取り戻すことも可能だ。
また、それまで勝者として意気揚々と生きてきた人間が、
結局はビリに終わるということだってある。
昨日まで不幸だった人間が今日は幸せになっているかもしれないし、
幸福だった人間が挫折していることだってある」(P55)


人生同様、ギャンブルも最後まで勝ち負けはわからないということか。
植島啓司は最後までわからない勝敗よりも、
いま賭けるという行為の魅力を強調する。
いまを生きる愉楽を重んじろと主張しているのだと思う。
賭けるとは、どういうことか。生きるとは、どういうことなのか。

「コリン・ウィルソンも書いているように
「ひとたび意識の高揚した状態を経験した人は、
日常生活へ戻ることが耐えがたく惨(みじ)めなものだということに気づく」
のである。ハイな状態を知り、そこにこそ生の歓びがあると悟ると、
人はつまらない日常には一秒たりとも我慢できなくなる。
通常の意味での社会的な幸福などまったく無意味なものに思われてくるのである。
もはや逆戻りできないのだ。
それは賭けの世界でも同じである」(P187)


人間の持っている金額には差がある。
資産家でも自由にできる金がなかったら意味はない。
その金をどこに賭けるかが、生きるということなのだろう。
競馬とおなじなのかもしれない。
自分に賭けるものがいる。しかし、どれだけ賭けられるか。
息子や娘に賭けるものも少なくないのだろう。
ビジネス相手に賭けるのが、もっとも競馬的(賭博的)なのかもしれない。
というのも、そこには血縁の情がないからである。
しかし、賭けたところで勝敗は死ぬまでわからない。
ギャンブルが地獄というならば、おそらく人生も同程度に地獄なのだろう。
ギャンブルが楽しいとすれば、このままならぬ人生もきっと楽しいはずである。
いくらいまが地獄でもみずから進んで死ぬことはない。

(参考)「宗教学者 植島啓司 ~負けの中にこそ解がある~」(松井政就著)
http://tjklab.jp/article/kami/ueshima/ueshima-all.html


「ビギナーズ・クラシックス 徒然草」(角川書店編/角川ソフィア文庫)

→古典作品は解説書ではなく、なるべく原典に近づいて鑑賞したほうがいい。
日本にはあらゆる古典を成功マニュアルに変えてしまうおかしな人たちがいるから。
「五輪書に学ぶ経営哲学」だの、「成功したかったら徒然草をお読みなさい」だの。
どうして古典を成功や幸福のためのツール(笑)にしなければ気が済まないのだろう。
古典作品は概して読んでも役に立たないところがいいのに。
いまは効率が最優先されるから、かえって役に立たないものが少ない。
だから、古典が光り輝くという原理をわかっていないものが多いのではないか。
身もふたもないことを言えば「五輪書」は「殺人のススメ」。
「徒然草」は「引きこもりのススメ」と読めないこともないのである。
とくに「徒然草」のアッカンベエ(反社会性)は際立っている。
にぎりっ屁を相手の顔のまえで炸裂させニタニタ笑うような意地悪さがある。
にもかかわらず、ではなく、だから「徒然草」はおもしろいのである。
ところが、どこかの先生の手にかかるとおかしなことになってしまう。
どうして、ああいう手合いは「徒然草」を成功哲学や道徳の教科書にしたがるのか。
「失恋こそ人生の悦楽」といったような皮肉に満ちているのが「徒然草」なのに。

古典がなにゆえおもしろいかと言えば、
その理由のひとつは、いまとむかしでは常識が違うことが挙げられる。
現代の常識に持ち込もう、引っ張り込もうとしてはいけない。
「徒然草」の作者・兼好は果たして聖者だったか。非凡な賢人だったか。
わからないとわたしは思っている。疑問符がつく、とも。
いまの価値観から解放されるために古典を読むのではないか。
この文庫の解説者は、どのようなお考えを持っておられるのか。
たとえば第56段の解説として――。

「兼好が注意を促しているのは、ただ一つ、相手の気持を思いやることだ。
いくら学問があっても、この思いやりがない人間はだめだ、と兼好は言い切る。
人づきあいにおける自己顕示や自己中心主義を厳しく叱っている」(P89)


え、なに、そのありきたりなお小言? 
さらに兼好の「ニート宣言」とも言うべき第75段をこう解説するのだから。

「人間、一人ぼっちじゃ生きられない。が、社会人として、
他人といっしょに生活すると、今度は自分を貫くことがむずかしくなる。
そこでぜひとも「つれづれ」の時間を、自覚的に確保することが必要だ。
「つれづれ」を活用して、自分の置かれている立場をチェックしてみよう。
そのうえでなら、大いにエンジョイしてもかまわない」(P112)


世捨て人の兼好がエンジョイを語ってどうする、と思うのだが。

これ以上、難癖をつけるのはやめよう。
どちらが正しい、間違っていると争そうのは「徒然草」とは正反対の作法。
古典というのは、どのようにも解釈できるのがいいのかもしれない。
この文庫の解説者のように新人社員教育マニュアルの権威づけにも役立つ。
現代では相当に非常識な意見も、古典の解釈としてならば許される。
ああ、いま気がついた。古典はこのためにあるのかもしれない。
あらゆるオピニオンは発言者がだれかで価値が天地ほどに差がつく。
奇天烈なアイデアでも古典に書いてあるといえば世間での通りが格段によくなる。
この文庫の解説者もわたしも、
要は「徒然草」に自分(の人生観)を投影しているだけなのだろう。

「ビギナーズ・クラシックス 平家物語」(角川書店編/角川ソフィア文庫)

→自殺について我われ現代の日本人は大きな思い誤りをしているのかもしれない。
名場面集のビギナーズ・クラシックスとはいえ、平家物語を読んで思ったことである。
というのも、とにかくこの物語には自殺の場面が多い。
重要なのは、そのどれもがとても叙情的で美しいことだ。
みずから死を選ぶものたちはみな、
まさしく「あはれ」と嘆息するほかない、独特のはかなさを有している。
運の尽きを見定め生命の終わりを自己演出する平家物語の住民たちは、
まこと散って行く桜の花のように美しい。
どうして現代日本人は散る桜の美しさにばかり目を向け、
自殺する人間たちの美しさに目をそむけようとするのだろうか。
切腹、心中、特攻隊――もしかしたら自殺は極めて日本的な文化行為ではないか。
言葉が過ぎたかもしれない。断定を急いではならない。ゆっくり進んでいこう。
日本人は散り行くものの美しさにむかしから敏感だったのではないか。
自殺という行為にさえ美しさを感受できるのは、マイナスばかりだろうか。
それはある種の豊かさを我われが持っているとは考えられないだろうか。

戦後の日本に導入されたのは、アメリカ型の成功志向社会である。
エンデバー(努力)、サクセス(成功)、ハッピー(幸福)の思想だ。
この社会構造においては、自殺は失敗でしかない。みじめな犬死にだ。
隠さなければならない恥ずべき行為である。
自殺はいけない。自殺は防止するもの。我われは考えている。
ならば、平家物語はどうなる?
どうして平家物語の自殺者たちはこうも美しいのだろうか。
もしかしたら自殺は忌むべきものではなく、英雄的な偉業なのではなかろうか。
むろん、ことさら新しい考え方ではない。
文学をちょっとかじれば、中学生でも到達できる未熟な思想である。
そうだろうか。未熟なのだろうか。
平家物語のいわゆる仏教的無常観に支えられた美意識は未熟なのか。
神風特攻隊をクレイジーというひと言で切り捨てて構わないのか。
三島由紀夫は狂ったピエロに過ぎなかったのか。
作家は可能なかぎり長生きして、説教や美食、ゴルフを愉しむべきなのか。
認知症になって自分の名前を日がな原稿用紙に書き続ける作家は美しいと言えるのか。

自死遺族は平家物語をどう読んだらいいのだろう。
自殺者は軽はずみでバカなことをしてしまっただけの存在だろうか。
思慮が足らなかったのだろうか。
自殺をとめられなかった遺族は一生のあいだ悔い続けなければならないのだろうか。
もしや自死遺族は平家物語を読むことで新しい「おはなし」を創れるのではないか。
一般的な自死遺族の「おはなし」はこうである。
集まってお互いの不幸を癒しあい「自殺はいけない」と社会にメッセージを送る――。
たしかにこの「おはなし」は社会的で健全である。
だが、もうひとつの「おはなし」を持つ自死遺族がいてもいいのではなかろうか。
その「おはなし」を自殺防止キャンペーンで一斉に摘み取ってしまっていいのか。
ここまでのことを言ってしまえるのは、わたしが自死遺族のひとりだからである。
自殺者を肯定どころか、その行為を崇拝できる遺伝子を我われは持っている。
これはある面からすると、とても豊かなことではないだろうか。
そのある面を消そう消そうとするばかりでいいのだろうか。
あれから10年経ったから、こんな大それたことを書くことができるのかもしれない。

平家物語の美しい自殺者たちを批評抜きで見ていきたい。
彼(女)らの大半は、演戯がかった自殺をする。
ひっそりと散って行くわけではない。
周囲に見せつけるような自殺をするのである。人前で華々しくおのれの死を見せつける。

今井四郎の自殺――。
武人は乳兄弟でもある主君の木曾義仲が討ち取られたとの歓声を聞く。
もはやかばうものもいなくなった。

「今井四郎、軍(いくさ)しけるが、これを聞いて、
「今は誰をかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、
日本一の剛の者の、自害する手本よ」とて、
太刀の鋒(きっさき)を口に含み、
馬よりさかさまに飛び落ち、貫(つらぬ)かつてぞ失せにける」(P182)


敗軍の将、平維盛は自殺をためらい、旧知の入道(坊主)に述懐する。

「あはれ、人の身に、妻子といふものをば、持つまじかりけるものかな。
今生にてものを思はするのみならず、
後世菩提の妨げとなりぬる事こそくちをしけれ。
ただ今も思ひ出でたるぞや。
かやうの事を心中に残せば、あまりに罪深かんなる間、懺悔するなり」(P211)


入道にいさめられ、妻子の救済を保証された維盛は、
ようやく心を澄ませて念仏を唱え、海に身を投じたという。
入道が自殺をとめるどころが、うながしているのが印象的である。
仏道に入るとはどういうことなのか考えさせられる。

平家物語のクライマックス、壇ノ浦の戦い、安徳天皇の入水場面。
二位殿はわずか8歳の幼君に説き聞かせる。
その口調は身分の差を越え、祖母が孫に話しかけるようにしか見えない。

「二位殿、幼(いとけな)き君に向かひ参らせ、
涙をはらはらと流(なが)いて、
「君はいまだ知ろし召され候はずや。
先世の十善戒行の御力によつて、今万乗の主とは生まれさせ給へども、
悪縁に引かれて、御運既に尽きさせ給ひ候ひぬ。
先(ま)づ東に向かはせ給ひて、
伊勢大神宮に御暇(おんいとま)申させおはしまし、
その後、西に向かはせ給ひて、
西方浄土の来迎に与(あづ)からんと誓はせおはしまして、御念仏候ふべし。
この国は粟散辺土(そくさんへんど)と申して、もの憂き境にて候。
あの波の下にこそ、極楽浄土とてめでたき都の候。それへ具し参らせ候ふぞ」
と、様々に慰め参らせしかば、
山鳩色の御衣に鬢(びんづら)結はせ給ひて、御涙におぼれ、
小さう美しき御手を合はせ、先(ま)づ東に向かはせ給ひて、
伊勢大神宮・正八幡宮に御暇申させおはしまし、
その後西に向かはせ給ひて、御念仏ありしかば、
二位殿、やがて抱き参らせて、「波の底にも都の候ぞ」と慰め参らせて、
千尋の底にぞ沈み給ふ。
悲しきかな、無常の春の風、たちまちに花の御姿を散らし、
情なきかな、分段の荒き波、玉体を沈め奉る」(P244)


言葉も出ないほどの、実にみごとな死に様ではないか。
平家総大将の知盛もまた名台詞を遺して散って行く。

「新中納言知盛卿、「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害せん」
とて、乳母子(めのとご)の伊賀平内左衛門家長を召して、
「日ごろの契約をば違(たが)ふまじきか」と宣(のたま)へば、
「さること候」とて、中納言殿にも、鎧(よろひ)二領着せ奉り、
我が身も二領着て、手に手を取り組み、一所に海にぞ入り給ふ」(P249)


「見るべきほどの事をば見つ」

本当にいい台詞だよな。
わたしもこの台詞を言いたくて生きているようなところがある。
おのれの運の行く末がどうなるか見てみたいので生きている。
年に3万人以上の日本人が桜の花のように散って行く。
みなみな心中で言っていたと思いたい。「見るべきほどの事をば見つ」と――。
この台詞を口にしていたならば、自殺は当人の運命・宿命だったと思える。
実際に歴史上実在した平知盛が言ったかどうかはわからない。
おそらく、現実はこんな悠長な心持ではなかったのではないか。
だがしかし、是が非でも平知盛にこの台詞を言わせたかった。
散って行った平知盛からこの美しい台詞を聞きたかった。
このために物語が生まれたのだろう。人間は物語=「おはなし」を生きる。

今日は最低6冊分は読書感想文を書くつもりだったが、ダメだにゃ~ゴロゴロ。
久しぶりに書いたから、書き方を思い出すのに時間がかかったわい。
えとね、あのね、ボクね、新しいおつまみを発明して、いまそれに夢中なの。
聞いて、聞いて、あのねのね♪
安く売っているダメな明太子ってありませんか?
ほら、あの、形がくずれたやつ。定期的に売っているところは少ないかもしれない。
まあ、必要なのは、ダメな(=高級品ではない)明太子よ。
ちなみにいまボクが食べているのは、賞味期限当日半額のブツ(2つで200円)。
そいつを小皿に入れて、マヨネーズを注入(またか! なんて言わないでグスン……)。
納豆のように箸でぐるぐるぐるぐるかきまぜます。まわせ、まーわせ、まわせ。
おつぎに取り出すは、1年中どこでも買えるキュートなキュウリ。
楕円形にすらすらスライス、スライス――ハイ完成!

キュウリをスプーンのようにして小皿の明太マヨをすくって口に入れると!
うんまー。ベリーグーね、お酒すすむね。
どんなお酒にも合う、モースト・グッド(低学歴風味言語)なアテでR♪
いまの季節にうましな日本酒熱燗、焼酎お湯割りならモア・グッドかも♪
お酒をのむといろいろ間違えるけど、いいのいいの、人間だもの。
食べ物だって人間が間違えて変なものを口に入れてみたから世界が広がったわけでしょ?
最初にウニとか食べたやつってクレイジーにしてグレートだと思いませんか?
正直白状すると、ウニが未知で無料だったら「おいしい」と言えるかわからない。
しかし最初にウニの美味を発見した人は、最高に幸福だったのではないかな。
無料でウニが食べ放題だったのだから。
いえいえ、いえいえ、
いくら酔っ払っていても「本の山」がウニなどと言うつもりはまったく――。