「『頭がよい』って何だろう」(植島啓司/集英社新書)

→いまは肩書が限りなく無職に近いだろう植島啓司にはまっている。
むかしからのファンにはいまごろ? とあきれられるかもしれないけれど。
書物(人間もそうだと思う)との出逢いは機縁だから熟すまで時間がかかるのかもしれない。
ものの見方が新しいのでたいへんな刺激を受ける。
我われは日々考えているが、それは本当に考えているのだろうか?
なにか大きなものの手のうえで踊っているだけではないか?
本当に考えるということは、その大きな手さえ疑わなくてはならないのではないか?
さて、どうしたら一歩、さらにもう一歩、思考の自由に近づけるのか?
この問いに答えようという巨大な野心が、この小著から感じられる。
多くの問題(パズル、なぞなぞ等)が本書において提示されている。
重要なのは答えではない。本書では問いのほうが答えよりも重んじられている。
もっとも多く紙面が割かれているのは、
問いから答えにいたるプロセスにおける「間違える」という行為である。

人間は間違える生き物である!

人間となにを比べてこの定義が得られたのかといえばコンピュータである。
ロボットやアンドロイドは間違えない。
ひっくり返せば、人間がコンピュータ的なるものを発明したおかげで、
新たな人間の定義を得ることができたということなのだろう。
人間は、人間ならば、どのように努力をしても間違えてしまうことがある。
わたしの専門(?)の演劇で見てみたら、この定義ほど豊饒なものはあるまい。
ほとんどの劇は、登場人物が間違えることで芝居が先に進んでいるのだから。
人間にとって間違えるということは宿命的に定められたことなのかもしれない。

ならば、間違えるとはどういうことか?
コンピュータはなぜ間違えないのか? 
問いとはなにか? 答えとはなにか? 人間とはなにか?
AかBか――二者択一の問題があるとしよう。どちらかが正しい答えである。

「パソコンを使うことによって人間がもつ固有の能力のある面が失われていくのは、
ある程度仕方がないことだ。何かを得たら何かを失うのは当然の摂理である。
ただ、それを単に進化の代償としてパッと切り捨てていいものかどうか。
AかBかではなく、AもBもとか、AでもなくBでもないとか、
同時にAでありBであるとか、さまざまな考え方があるはず。
後に述べる機会もあるだろうが、
世の中には単純な二進法では理解できないことの方がむしろ多いのである」(P20)


AかBかの二者択一の問題で間違えとされるのは――。
1.AもBもどちらも正しい。
2.AもBもどちらも間違い。
3.A=Bである。
以上の3つが「AかBかの二者択一の問題」における間違いとされる。
だが、どうしてこの問い自体が間違えているのではないかと疑わないのだろう?

試験問題で二者択一があった場合、上記1~3の回答はどれも不正解とされる。
だから、大人はAかBのどちらかが正しいのだろうと考える。
しかし、そこに人間の不自由があるのではないか? 大人の不自由はそこではないか?

「アインシュタイン自身も、自分が特殊相対理論などを着想できたのは
知的発達が遅かったからだ、と認めている。
子どもでもなければ考えないような問題を
大人になって考え続けたことが逆によかったというのである」(P105)


しかし、子どもは大人に比して多くの間違いをおかす。
どうして間違いの多い人間が新発見をしたりするのだろう?
問いをひっくり返す。
どうしてコンピュータ自身は発見をしないのだろう?
たとえば、なぜロボットは自分がロボットだと気がつかないのか?
コンピュータに計算をさせたら百発百中である。
だが人間の場合、24時間寝かさずに計算を課したら、うっかり間違えてしまうことがある。
皮肉なことに、これが人間が人間たる証明ということになろう。

「もしかすると人間とアンドロイドを分けるのは、
この<頭の悪さ>になるのかもしれない。
間違える自由こそ、人間にとってなくてはならないものだからである。
そうなると、これまでの<頭の悪さ>は
近い将来に<頭のよさ>に逆転する可能性もある」(P156)


どうやらコンピュータよりも人間の頭が悪いからこそ新発見が生じるようである。
人間は頭が悪いから間違える。

「そう、人間にとっては、間違えることにこそ、
あらゆる創造力の源泉があるともいえる。(……)むしろ、
生物にとっては「間違える」ことによってこそ新しい発見も可能となるのである。
いや、生きることそのものが間違いの連続なのである。
仏教の教えのように<それをすべて受け容れて逆転させる>発想もあるし、
その対極に、<それだからこそ、生きることを全肯定する>
という考え方も可能となってくる」(P142)


人間の持つ創造性の根源にそろそろ近づいているのかもしれない。

「おそらくコンピュータと人間の違いがもっとも際立つのは連想の機能だろう。
それがなければ、
会話中に新しい話題や事柄を適切にもち出すことができないに違いない。
新しい発見のほとんどには間違いなくこの連想の機能が関係している。
ただし、それは狙いどおりに実験が成功するかどうかではなく、
当事者にとって意外な展開を示すことによってもたらされることも多いのである。
いや、極端にいえば、
連想の機能とは意図的に<間違える>機能といえるかもしれない」(P157)


しかし、なかなか間違えるのもたいへんではないか?
なぜなら、我われは日々なるべく間違えないように注意しながら生きているのだから。
間違いの多い人生は当人にとって苦痛と感じられるはずである。
だが、まさにその間違いにしか創造性がないとしたら、いったい人はどう生きるべきか?
間違えようと思っても、そうそう間違えられないのである。
いっぽうで、どうしてか間違えの多い人間というのも存在している。
そもそも間違えようと思って意図的になした間違いから新発見は生まれないだろう。
ふたたび、我われはどのように生きるべきなのか?

「日本仏教の創造者たち」(ひろさちや/新潮選書)

→「仏教では○○と教えている」という説明ほど便利なものはない。
仏教ではなんでもありなのである。
古くからの教えの一部分をどのように誤解して発展させるかが勝負のようなところがある。
どの宗教も宗教であるならば、
その時代を生きる人のための「おはなし」でなければならない。
仏典や注釈書に書かれている古い「おはなし」を、
どのようにいまを生きるための「おはなし」に変えるか?
これが仏教者に問われている問題である。
仏教学者ならばアカデミズムのなかでしか
役に立たぬ「正しさ」を追求していればそれでいい。
だが、真の仏教者はいま通用する「おはなし」を創り上げなければならないのだ。
ここで問題になるのは断じて「正しさ」ではない。
インドに始まる仏教史は、
あまたの革新的な仏教者による「おはなし」の創造の変遷だといってよいのだろう。
この観点から仏教史を眺めるならば、池田大作の偉大がわかるはずである。
中村元は仏教学者であっても仏教者ではない。
解釈をするのは仏教学者で、新たな創造をするのが仏教者だからである。

では本書の著者、ひろさちやはどうか?
仏教学者ではなく仏教者だとわたしは思う。
法然は漢訳仏典をよりどころとして南無阿弥陀仏という「おはなし」を創造した。
親鸞は法然の南無阿弥陀仏に支えられて絶対他力、自然法爾の「おはなし」を創作した。
ひろさちやはこの本で親鸞「教行信証」の一文をとっかかりとして、
世界劇場という「おはなし」まで飛躍している。
これをやるのが(仏教学者ならぬ)仏教者なのである。
ひろさちやの仕事を親鸞のそれと見比べながら紹介したい。

親鸞が読み込んだのは漢訳仏典の「観無量寿経」である。
内容は、釈迦が韋提希(いだいけ)夫人に極楽浄土へ往生する方法を教示する。
言ってしまえばノウハウ本なのだが、そこにはストーリーが存在する。
どうして釈迦は韋提希夫人に阿弥陀仏の教えを説いたのか。
不幸な韋提希夫人が釈迦に教えを懇願したからである。
現世で幸福な人間は救いなど求めたりはしない。
韋提希夫人はどのように不幸だったのか。「観無量寿経」はこう説明する。
不幸の原因は、夫人の息子の阿闍世(あじゃせ)にある。
阿闍世は悪友の提婆達多(だいばたつた)にそそのかされ父王を幽閉した。
あわよくば餓死させようという魂胆である。しかし、なかなか死なない。
韋提希夫人が夫を心配してこっそり食物を運んでいたからである。
これに気づいた親不孝息子の阿闍世は母親の韋提希まで幽閉してしまう。
たび重なる息子の裏切りに絶望した韋提希夫人は、釈迦に救いを求める。
願いに応じてそこに現われた釈迦が韋提希に与えたのが阿弥陀仏の教えである。
すなわち「観無量寿経」、極楽浄土へ往生するための観法(≒マニュアル)だ。

ならば「観無量寿経」で重要なのはマニュアルだと通常なら思うはずである。
ところが宗教的天才の親鸞はマニュアルではなくストーリー部分に着目する。
視点を変えてみたわけである。もっと言うならば誤読に近いのかもしれない。
いや、やはり誤読は言い過ぎであった。
だれも重要視してこなかった部分に親鸞は新たな光を当てたのである。
親鸞の難解な教説書「教行信証」の序に以下のような「観無量寿経」への言及がある。

「竊(ひそ)かにおもんみれば、
難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
しかればすなわち、浄邦縁熟(じゅく)して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。
浄業機彰(あら)はれて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。
これすなわち権化の仁、斉(ひと)しく苦悩の群萠を救済し、
世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す」


難しくない! ぜんぜん難しくないから、どうかついてきてくださいませ。
「竊(ひそ)かにおもんみれば」=私はこう考えたという親鸞の意思表示である。
「難思の弘誓」=阿弥陀仏の誓いのこと。まあ阿弥陀仏と思ってよい。
阿弥陀仏は荒れた海でもヘッチャラに通過させてくれる大船だと言っている。
また阿弥陀仏は絶望の闇夜に光るピッカピカのお星さま、いや太陽なんだぜ。
要するにまあ阿弥陀仏はすごいということだけわかってください。
だから――いい? 阿弥陀仏はすごいから――。
縁が熟したときに、「調達(=提婆達多)、闍世(=阿闍世)をして逆害を興ぜしむ」。
機が熟したときに、「釈迦、韋提(=韋提希夫人)をして安養を選ばしめたまえり」。
これはどういうことか?
「権化の仁(=ストーリー登場人物)」が「苦悩の群萠を救済」したということだ。
さらに「世雄の悲(=釈迦の大悲)」が、「逆謗闡提(=悪人)」を救おうとした。

ほどんと読解不能なほど難解な「教行信証」のここに、ひろさちやは注目する。
もっと言ってしまえば、ここを拡大解釈する。
親鸞が「観無量寿経」における冒頭のストーリー部分に重点を置いたように、
ひろさちやは「教行信証」の序に光を当てる。
この箇所で親鸞はなにを言っているのか?
常識をひっくり返しているのではないかとひろさちやは指摘する。
提婆達多や阿闍世は本当に悪人なのだろうか?
というのも、彼らが善人で悪事をはたらかなかったらどうなるか考えてみよう。
たしかにいくつかの不幸は起こらないだろう。
「観無量寿経」でいえば、韋提希夫人の幽閉がなされることはない。
同様、夫人の絶望も生じない。
だが夫人がおのれの不幸に絶望しなければ釈迦の教えは説かれなかった!
なぜなら夫人が心底絶望したからこそ、極楽浄土の救いが説かれたのだから。
だとしたら、こうは考えられないだろうか?
ありがたい極楽浄土の教えが説かれたのは、提婆達多や阿闍世がいたからである。
二人の悪人がいなければ我われは阿弥陀仏の救済を教えてもらえなかった。
だから、親鸞は悪人二人をこうとらえていたのではないか(と、ひろさちやは思う)。
悪人二人は、釈迦をこの世に送り、夫人に説法させるために必要な登場人物だった。
悪がなければ善なる妙法が開示されることはない。
すべては計算づくだったのではないか?
以下に「日本仏教の創造者たち」のひとり、ひろさちやの言葉を引く。

「そう、親鸞によると、この世は一つの舞台なのだ。
その舞台に、提婆達多、阿闍世、韋提希、釈迦が登場する。
筋書きは、韋提希のために釈迦をして浄土の説法をさせたいのだ。
そのためには、悪役が必要である。
提婆達多や阿闍世が出てきて、韋提希を絶望の状況に追い込まねばならぬ。
そうでないと韋提希の救済を求める叫びが、
心の底からのほとばしりにならないのである。
韋提希が心底から叫びを発しないと、釈迦の説法は白々しいものとなる。
提婆達多や阿闍世の役割は重要だ。
実際、演劇においては、悪役のほうがむずかしいと聞いている。
娑婆という舞台の上では、このような演劇が進行している。
そのように親鸞は考えている。
その演出家こそ、ほかならぬ阿弥陀仏である。
それが親鸞の阿弥陀仏観である」(P80)


正しくは、ひろさちやの阿弥陀仏観である(笑)。いや、これでいいのだ。
というのも、これこそが仏教の正統的な思考法なのだから。
さらに著者は続ける。かつて親鸞がしたように、果敢な飛躍、跳躍をする。

「阿弥陀仏は、宇宙という舞台の演出家である。
阿弥陀仏の演出の意図は、すべての人間の救いである。
そのために、釈迦に浄土の教えを説かせる必要がある。
その筋書きのためには、提婆達多や阿闍世という悪役を登場させねばならない。
舞台監督である阿弥陀仏は、さまざまな人物を登場させて、
すべての人間の救いという筋書きを進めて行く。
舞台の上に立つ人間は、すべて阿弥陀仏の演出によって動く役者なのだ。
換言すれば、われわれ人間は、阿弥陀仏の命ずるがままに動く将棋の駒である。
われわれはただ、自分に与えられた役割を果たすだけである。
それが親鸞の考え方である。
親鸞は、阿弥陀仏にすべておまかせして生きる覚悟をしたのち、
ついにこのような哲学にたどりついたのであった」(P81)


上に抜粋した思考法はだれのものだろうか?
親鸞の思想か、それともひろさちやのものなのか?
ここをあいまいにするのが仏教の作法といったら言葉が過ぎるのだろうか。
少なくとも親鸞の作法ではある。
なぜなら、「歎異抄」には親鸞の以下のような言葉が採録されている。

「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。
仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」


阿弥陀仏が正しければ、釈迦も正しい。釈迦が正しければ、善導も正しい。
善導が正しければ、法然も正しい。
法然が正しければ、わたくし親鸞も正しいのではないか?
こういう論証である。
A(阿弥陀仏)→B(釈迦)→C(善導)→D(法然)→E(親鸞)
果たしてAが正しければEもまた正しいことになるのだろうか?
ひろさちやは伝言ゲームを引きあいに出し、この論法の非合理性を指摘している。
伝言ゲームの場合、Aの言葉は伝えられるうちにどんどん変化していくではないか。
余談だが、こういう具体例を提示して簡潔に説明するのが、ひろさちやの才能である。

さて、ひろさちやを「日本仏教の創造者たち」のひとりとして考えたらどうなるか?
まるでシェイクスピアのような、ひろさちやの世界劇場思想は仏教として正しいのか?
わたしは正しいと思う。これもまた仏教である。
なにゆえ正しいのかと問われたら、わたしもまた親鸞の真似をしたい。
A(阿弥陀仏)→B(釈迦)→C(善導)→D(法然)→E(親鸞)→F(ひろさちや)
ところで、ここに書いたものは、ひろさちやの思想を正確にたどってはいない。
少しだけわたしの流儀に書き換えている。
もしかしたらこれもまた仏教ではなかろうか?
A→B→C→D→E(親鸞)→F(ひろさちや)→G(わたし)

2500年前から仏教とは後世へ伝承するものではなく、新しく創造するものではないか?
(開祖釈迦も当時のバラモン教等の教えを吟味したうえで教説を打ち立てている!)
いまを生きるわたし(やあなた)の「おはなし」こそ本物の仏教ではないだろうか?
いまこそ金満坊主や学者先生から仏教を我らが手に取り戻すときではないか?
わたしは親鸞の影響を強く受けた「おはなし」を持っている。信仰があるということだ。

(参考)親鸞解釈から飛躍したひろさちやの人生観↓
「ひろさちやの「無関心」のすすめ」(青春出版社)
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2190.html