「酒(しゅ)にまじわれば」(なぎら健壱/文春文庫)

→めずらしく文庫とはいえ新刊で買ってしまったのがこの本。
大満足の酒エッセイ。いいよ、いいね。買いましょう、読みましょう。
どうして人は酒をのむのだろうか。
禁酒してみてわかったのは、飲酒は無駄以外のなにものでもない。
酒をのむと、金と時間を無駄に費やしてしまう。まさに浪費である。
にもかかわらず、メリットといえばなにもないのだから。
酒でしかストレス発散ができないようなものは人として劣っている(=懺悔です)。

むしろ、お酒は一般的に健康を害するとさえいわれている。
正直、脅えているのだ。
いつ酒も煙草とおなじように日本政府から迫害されるのだろうか。
しかし、同様に不要品とはいえ、
酒は煙草に比べたらまだマシではないかという妄信もなくはない。
というのも煙草は基本的に人間を孤独にするでしょう。
黙考するための道具が煙草である、といえなくもないと思うのだ(弱腰)。
比して、酒のなんと賑やかなことか(強気に!)。
酒は人と人との距離を狭めてくれる。
もし酒がなかったら、どれほど現実が味気なく感じることか。
酒をのむと人はだれでも酔ってうっかり失敗してしまうことがあるでしょう。
このミスがいかほどに人間味を備えていることか。
大嫌いなエリートでも酒で失敗したら、どのくらい親しみを抱くことか。

イケメンの成功者、市川海老蔵は大嫌いだった。
しかし、かのエビさまが泥酔して、
日本のボブ・サップにボコられたと聞いて急に親近感を覚えた。
いまはどこかしらあの海老蔵を応援しているところさえあるのだから。
酒呑みのこの温かさ、同族意識はどうだろう。
煙草を値上げしてもついに反対運動は組織として結束しなかったが、
もし日本政府が酒でおなじ増税をしたらわが国の飲兵衛は黙っていないだろう。
いや、黙っていないからな!

「黄昏の一杯」(開高健/潮文庫)絶版

→対談集。
開高健によると、「毒ヘビは急がない」ということわざがタイにはあるらしい。
宮本輝も、このことわざにこころ惹かれるものがあったようである。
ファンクラブのTシャツのイメージとして使用している。
「毒ヘビは急がない」――。どのような意味か。
開高健は「自信のあるやつはゆっくりしている」という意味としてとらえている。

最後の文豪、開高健がもっとも重んじたものはなんだったのか。
本書を読んでいるうちに、それは時間ではないだろうかと思った。
美食家の文士・開高健は、この問題を繰り返し本書で語っている。
文学も料理も時間をかけなくなった。どうしてこうなってしまったのだろう。
なにゆえ日本人は「毒ヘビは急がない」を忘れてしまったのか。
人生でいちばん価値あるものは時間かもしれない。
作家は多忙のサントリー社長、佐治に平然として本音を言ってのける。

「すると、時間を持ってる人、
自由に時間を使っている人は本当の金満家やという感じがある。
じゃ、佐治さんは全然貧乏人やねぇ」(P142)


名文も美食も味わうところは時間なのかもしれない。どれだけ時間をかけたか。

「このごろ、ぼくはあまり読まなくなったけれども、
いま日本で書かれているものって、およそ何を読んでも文章がカサカサなのね。
スープっていうのは、
サラに入れたときは一センチか二センチたらずの深さしかないけれども、
それを取るためには、骨やら野菜やら肉やら、
膨大なものを煮詰めてから出してくるものでしょう。
ふくみ味っていうか、隠し味っていうか、
そんなふくらみのあるスープって感じのする文章がない」(P114)


「文学というのは浪費せんとあかんで。
精液、時間、精力、とにかく浪費やな。
浪費が生産性に転化するというのが、唯一の文学の例やね」(P63)


浪費とは、大量の時間と金を無駄に費やすこと。
現代人がなかなかできることではない。うん? なにができないというのか?
しつこいようだが、「毒ヘビは急がない」である。

「幸福になれない理由」(山田太一・小浜逸郎/PHP研究所)絶版 *再読

→対話集。山田太一先生が生きている映像業界――。
その小指の爪の垢ほどのものを、
僭越ながら今年わたくしめも舐めさせていただきました。幸運にも。
おのれの協調性のなさを、痛みをともなう実感として理解した次第であります。
思ったものです。これはどうにかしなければならないが、
もしかしたらどうにもしようがない問題ではあるまいか。
個性豊かにもかかわらず協調性のある先生は、この問題をどう考えていますか?

「九六年の中教審の方針には二つの軸があって、
一つの軸は子どもが自分で問題を見出す力、
自分で人生を切り開いていく力を養うというものです。
二番目は協調性です。両方とももっともなのですけれども、
それを並べて要求されたら、「走れ、だけど走るな」
といわれているようなところがありはしないでしょうか。
個というものは非常に怖いものであって、野放しにしたら協調性は壊れます。
自分でものを考えて解決する奴というのは、
だいたい人のことなど考えないところがあるものだし、
協調性のある人は、それほど個を育てておらず、人の意見に従いやすい。
それを両方持てというのは言葉としては分かるけれど、
現実には相当無理があると思います。
どっちかにしてくれよ、といいたいようなところがある」(P146)


たとえば新人脚本コンクールで審査員のテレビ局社員が言うこともおなじである。
1.個性ある作品を求めている。
2.しかし、映像制作は集団作業だから協調性がない作者は困る。
どちらもクリアするのは、
山田太一さんが指摘しているように人間としてどこか矛盾していなければならない。
とはいえ、この二律背反を突破しているものも少数ながらいるのだから恐ろしい。
言うまでもなく、脚本家・山田太一は個性的でなおかつ協調性を有する。
テレビ局のエリート社員も、
就職面接で個性的なのに協調性が高いという評価を先輩社員から受けている。
個性と協調性はいったいどういう関係にあるのだろうか?
山田太一先生の発言が正しいなら、テレビ局正社員の個性は眉唾ということになろう。
個性とはなにか? 個性的な創作とはなにか? そもそも創作とはなんなのか?

「僕の作品に幽霊がたまに登場するのは趣味志向もありますが、
外国人の視点で自分の世界を見ると思いがけない世界が見えるように、
死者の視点、死者を意識した視点を持とうとすると開ける世界があるからです。
もっとも、作家というのは無意識の部分が随分あります。
自分が書いた物語が何を意味するかというのは、
書き終えて随分経ってから誰かに教えてもらったりして分かるというところがあって、
また、そういうふうでないと、あまり意識化して物語を作ると、
はみ出るものがなくなって図式的になってしまうのです。
前にも申しましたが、半ば意識の手綱(たづな)を放したところで物語をつくろう、
と努めているところが私にはあります」(P170)


無意識で創作するのが山田太一の流儀だとしたら――。
無意識というのは、非常識な世界のわけでしょう。
いっぽう集団行動に必要な協調性は、
メンバーが常識を共有することで得られるのではないか。
だとしたら、やはり個性的な創作(非常識)と協調性(常識)は
相容れない概念だとしか思えないのだが。
集団構成員みなが非常識だったら、うまくいくのだろうか?
山田太一さんの強い個性と同等の協調性は、なにによってもたらされているのか?
これはおそらく本人に質問しても正答を得られぬ謎のひとつだろう。
世界、人生、人間――不思議なことはあるものである。

自分のための記録ですのでお許しください。
こういう記録を残しておくと、あとでブログ内検索をしたとき役立つ。
たとえば、最後に持病の偏頭痛があったのはいつか、など。

10月15~21日の1週間、禁酒する。
やけに読書が進んだので驚く。酒をのまないと金を使わないことにも気づく。
禁酒5日目に悟りのようなものを得る。
これほどの幸福感は人生で味わったことがないのではないかと疑うほどの代物。
法悦とはこのことかと思ったものである。
なんとなく1週間後に飲酒再開。ひと口、ビール(もどき)をのんだ感想は「まずい!」。

12月6~13日の8日間、またまた長期禁酒期間を持つ。
あまり読書は進まず。悟りのようなものも特になし。
だが、10年ぶりにあることを実行する。
夜に外食したにもかかわらず酒を一滴ものまないで帰宅して寝る!
酒抜きの外食してそのまま眠れるようになったら最高ではないか。
この奇跡的な大事業はジョナサンでなされた。
ハンバーグ定食をともにした友人に感謝したい。
しかし、あのハンバーグはまずかった。
「みんなに好かれる味」を追求すると、ああなってしまうのかもしれない。

12月14日に酒を解禁したのは、歯医者に行った自分へのご褒美として。
歯痛をはっきりと意識したのは、11月5日スキンヘッドの某氏と池袋で会ったとき。
レントゲンを見た歯科医に副鼻腔炎と診断され「耳鼻科へまず行け」と言われる。
ところが、耳鼻科へ行ったはいいが、結果は「わからない」。
「レントゲンだけじゃ副鼻腔炎かどうかわからないんですよ」
「どうしたらいいんですか?」
「CTを撮らないと」
「いくらかかりますか?」
「聞いてきます」
「いくらでしたか?」
「1万円です」
「高い!」
「どうしますか?」
「検査したくないです」
「……」
「これからどうしたらいいと思いますか?」
「耳鼻科の先生が、副鼻腔炎の可能性は低いと言っていた、ということにすれば?」
「(それだ!)」

歯科医は女性で年下という、いちばん嫌いな属性。
これも運命だとあきらめる。
副鼻腔炎の誤診(?)を申し訳なく思ったのか、一度に2本の歯を削られる。
貧乏アピールをしていたためだろうか。
ふつうは出されると聞いている痛み止めも一切出されなかった。
麻酔が抜けてから痛くてたまらなくなる。
むかし偏頭痛用にためていたロキソニンを服用する。
現在3日目。歯に痛みはないが、詰め物をした違和感はあり。

不謹慎を承知で言えば、北海道がロシアに占領されるよりも歯痛のほうが辛い。
我われ(わたしだけ?)は哀しいかな、そういうところで生きざるを得ない。

年末ジャンボ宝くじを1枚買う。正確には人に買ってもらう。
この場合、購入者とわたし、どちらの運が使われたのだろうか。
宝くじは1枚だけ買うのが、もっとも正しい楽しみ方だと思う。
というのもは、確率を考えたら宝くじはぜったいに当たらない。
100枚買おうが1枚だけだろうが高額当選確率はほとんど変わらない。
だが、人間は外的状況のみならず内界をも生きる存在である。
「私」にとって宝くじは、当たるか外れるかしかない。
こう考えると心理的には当選確率が50%まで上がる!
わずか300円の投資で億万長者の夢を買えるのだから安いものである。
こと当落に関しては、もしかしたら宝くじと新人文学賞、脚本コンクールは
似たようなものではないだろうか?

さて、宝くじの1億円当選と脚本コンクールの8百万ゲットのどちらがいいか?
この二者択一である人と議論した。
なに? どちらがいいとわたしが答えたのか知りたい?
それはもちろん――秘密でっす。
まあ、どちらもよほどの運がなきゃ当たらんわな♪
「負けない技術」(桜井章一/講談社+α新書)

→副題は、20年間無敗、伝説の雀鬼の「逆境突破力」。
例によってブックオフの105円コーナーで拾ったのだが、落書きがされている。
よく見るとマジックで汚く「雀鬼 桜井章一」と書かれているではないか。
雀鬼――。麻雀の鬼か――。
人から呼ばれるのなら格好いいかもしれないけれど、
自称するのはちょっとあれじゃないですか? 
あれってなにさ、と聞かれると答えに窮しますが。

タイトルがうまいと思う。さすがは講談社の編集者と感心する。
現代の日本人は、負ける恐怖にかられて懸命に競争しているわけだ。
勝敗を分けるのは、おそらく運なのだろうが、
こういった偶然性に身をまかすことができるほど無宗教の日本人は強くない。

マスメディア側の狙いもあるのだろう。
高度資本主義社会は、幸福な人間をなにがなんでも潰してかかろうとする。
本来なら、たとえ人生で多少負けていても本人が幸福ならそれでいいのである。
かならずしも勝利が幸福と結びつくとは限らない。
もしかしたら敗北のほうが幸福と親和性が高いということさえ言えるのではないか。
だが、だれもがそのことに気がついてしまったら消費がまったく伸びなくなる。
だから、マスメディアは不安をあおる。あなたは不幸なんだと決めつける。
そのうえでこうしたら不安は消える、幸福になれると、
情報やら商品やらを売りつけるわけだ。
たとえれば、悪徳な医師のようなもの。
健康な患者を異常と診断して(=病気を作る)治療すれば金になるでしょう?
これと似たようなことをマスコミと大企業が手を組んでいまやっている。

つくづく「負けない技術」というタイトルはうまいと拍手したい。
本屋でこの書籍を見かけたら買わずにはいられないのではないか。
しめしめ、この本を読んだら他人を出し抜けると勤勉な人間は思うはずである。
これは本書の内容を批判しているわけではないが、「負けない技術」はウソだからね。
「負けない技術」などあるわけがない。
少し考えてみたらわかると思う。この新書を読んだ4人が麻雀をしたとする。
かならずだれかが負けなければならないでしょう。損をするものはかならず現われる。
だったら、「負けない技術」が負けてしまったということになるのではないか。
こんな当たり前のことに考えがいたらず、すぐさま本書を持ってレジに走ってしまうほど、
いまの日本社会では「負ける」ことが恐れられているのかもしれない。

人生の勝負に客観的な基準はない。常に当人の主観的な判断で決められる。
これをくだけた言い方にかえたら、本人が「負けた」と言わなければOK。
まえNHKで見たけれど、借金だらけの中小企業の社長がさ。
とっととクローズしたらいいのに、
おかしなプラス思考で借金を雪だるま式に増やしていた。
まだ負けていない、とか(苦笑)。正しい努力をしたらかならず報われる、とか(憫笑)。
負けを認めたほうがよっぽど楽になれるのに、
どうしてそうしないのだろうと思ったものである。
いや、人間とはそういうものであるとすぐに思い直したけれども。
「負けない技術」があると雀鬼は言う(本当は講談社の編集者じゃないかな?)。
ところが、実際は「負ける」ほうが「負けない」よりも困難なのではないか。
というのも、人間はなかなか「負け」を認めたがらないでしょう。
むしろ求められているのは「負ける技術」なのかもしれない。
しかし、このタイトルの本が売れないのは、講談社の編集者でなくてもわかる。

人生の勝負師・桜井章一の言葉に耳を傾けてみよう。
十中八九、本書のタイトルに著者はかかわっていないと思う。
ひょっとしたら、このタイトルに反対したのではないかとさえ思うくらいである。

「先日、雀鬼会の道場生に、
「格好よく勝とうと思わないで、格好よく負けることを考えたら」
とアドバイスをしたことがあった。
するとその者は、その後の対局で圧倒的に勝った」(P21)


雀鬼会ってなにさ~。問題はそこではなく勝負一如ということ。
勝ちを知るということは、負けを知ることでもあるのだろう。

「とある冬、薄着のあなたは太陽の光を浴びて体を温めていたとする。
そのときに雲が太陽の光を遮ってしまった。
そんなとき、あなたならどんな対応をするだろうか?
私からすると「勝ち」にこだわる人たちはみな、
太陽の光を求めて歩きだしてしまう。
ただ単に、雲が流れ去るのをじっとまっていればいいだけなのに、
それができない」(P35)


実人生では雲が去るどころか、雨まで降ってきちゃうことがあるからね~。
どこまで待てるかというのが、その人間の器量なのかもしれない。
でさ~、結局、雲が流れ行くまえに死んだとしても、仕方ないと思えるくらいでないと。

「景気や勝負のみならず、川の流れも雲の流れも、絶えず変化している。
「ものごとは変化して当然」という感覚を常日ごろ持っていれば、
いちいちそれに惑わされずに済む。(……)
固定観念をそのつど消し去り、“感ずる”ことを大切にしている人は変化に強い。
なにがどう変わったのか、なにがどう変わっていくのか、
それを感じることができるから、時と流れの変化にもついていけるのだ」(P80)


最近思うのは、いわゆる成功者はみな時流に乗っているようなところがあるよね。
みんな努力しているんだから、努力だけで成功するのなら、みんな成功しているはず。
雀鬼だってずっと裏世界にいたのに、いま明らかに時流に乗っている。
時流はだれでも乗れるものではないだろうが、著者が重視するのは「感じる力」。

「考えすぎて裏目に出てしまった。
そんな経験はだれにでもあるのではないだろうか。
ギャンブルの世界では、最初に「これだ」と思った第一印象を翻したがために、
結果が裏目に出てしまうことが往々にしてある。
パチンコで「この台にしよう」と思ったのに別の台のほうがよさそうに見え、
そちらの台に変更した。しかし自分の台はまったく当たりが出ないのに、
最初にいいと思った台で打っている人が大当たりしていた。
そんな悲しい体験をしたことのあるパチンコ好きの人も、きっと多いに違いない。
現代人は、最初にパッと見たときに「これだ」と感じた、
自分の“感じる力”をなかなか信じられないようだ。
すべての人の感じる力が弱いのではない。
せっかく感じる力が働いているのに、
自らその直感を捨てて迷い込んでしまうことが多いのだ。
迷いが重なると、「なぜ負けたんだろう。考え方が間違っていたのかな」
と負のスパイラルにはまり、脱け出せなくなる。
だから、また同じ負けをくり返してしまう。
「考えたからこそ負けた」という真実にいつまで経っても気づかない。
考えれば考えるほど選択肢は増え、
直感というセンサーを狂わす雑音もたくさん聞こえてくるようになる」(P174)


これはノウハウ(=知識、技術、選択肢)など無視しろ、と言っているのに近い。
雀鬼は「負けない技術」など捨ててしまえ、と主張しているのである。
我らが雀鬼は大手出版社のエリート社員(の悪だくみ=タイトル)に負けていない!

(追記)雀鬼会とはなにか↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%80%E9%AC%BC%E4%BC%9A
ユーモアがある紹介で笑えた。

> 桜井自身が出場しないことに根強い批判もある。

実のところ「負けない技術」は勝負をしないこと。教えること。弟子に勝負させること。
こういうところにあるのかもしれませんね♪

「セレンディピティの時代 偶然の幸運に出会う方法」(茂木健一郎/講談社文庫)

→人生のバブルを謳歌する茂木センセが青少年に語る成功哲学ってとこかな。
どうしてこのセンセは、ああまで時流の高波に乗ることができたのだろう。
活躍ぶりを拝見すると、時代から選ばれた寵児としか言いようがない。
わたしはこのセンセの魅力がよくわからないけれど、雰囲気がいいのかな?
椎名誠にも通じる少年っぽさがあるよね。
言っていることは当たり障りのない常識ではないでしょうか。
その常識の根拠として流行の脳科学を、
あたかも水戸黄門の印籠のように出すことができるから大衆に受けている?
まあ、身もふたもないことを言えば脳科学もスピリチュアルも、
「おはなし」という点では五十歩百歩なのだが。
成功者はかく語りき――。

「お金があるに越したことはないが、あれば幸せというわけではない。
モテればそれですべてオッケーかと言えば、そんなこともない。
いくらお金があっても、モテても、
人生がむなしくなったり、淋しくなったりする瞬間はあるはずだ
(私にはお金があってモテるという経験がないので、想像するしかないけれども)」(P30)


と世間に向けて発言した半年後に4億円の脱税が発覚したわけだが……。
成功者はまるで人生の先輩でもあるかのように若者に向けて親しげに語りかける。

「……金も地位もあるが、いかんせん時間がない、
いつもくだらない世事に追われている、
しかもそのような多忙さを自分の重要さの証と勘違いしている。
そんな人生の先輩がいたら、キミたちは
「ヘン、あんなふうにはなりたくないよ」
と軽くスルーしてしまうだろう」(P127)


よからぬ嫉妬を防ぐために、
ある種の自己紹介を茂木センセはなさっているのだろうか……。
だって、税金の申告もできないほど忙しいんでしょう?
茂木健一郎さん、お茶目で愉快な人生の先輩だと思います。

「『頭がよい』って何だろう」(植島啓司/集英社新書)

→いまは肩書が限りなく無職に近いだろう植島啓司にはまっている。
むかしからのファンにはいまごろ? とあきれられるかもしれないけれど。
書物(人間もそうだと思う)との出逢いは機縁だから熟すまで時間がかかるのかもしれない。
ものの見方が新しいのでたいへんな刺激を受ける。
我われは日々考えているが、それは本当に考えているのだろうか?
なにか大きなものの手のうえで踊っているだけではないか?
本当に考えるということは、その大きな手さえ疑わなくてはならないのではないか?
さて、どうしたら一歩、さらにもう一歩、思考の自由に近づけるのか?
この問いに答えようという巨大な野心が、この小著から感じられる。
多くの問題(パズル、なぞなぞ等)が本書において提示されている。
重要なのは答えではない。本書では問いのほうが答えよりも重んじられている。
もっとも多く紙面が割かれているのは、
問いから答えにいたるプロセスにおける「間違える」という行為である。

人間は間違える生き物である!

人間となにを比べてこの定義が得られたのかといえばコンピュータである。
ロボットやアンドロイドは間違えない。
ひっくり返せば、人間がコンピュータ的なるものを発明したおかげで、
新たな人間の定義を得ることができたということなのだろう。
人間は、人間ならば、どのように努力をしても間違えてしまうことがある。
わたしの専門(?)の演劇で見てみたら、この定義ほど豊饒なものはあるまい。
ほとんどの劇は、登場人物が間違えることで芝居が先に進んでいるのだから。
人間にとって間違えるということは宿命的に定められたことなのかもしれない。

ならば、間違えるとはどういうことか?
コンピュータはなぜ間違えないのか? 
問いとはなにか? 答えとはなにか? 人間とはなにか?
AかBか――二者択一の問題があるとしよう。どちらかが正しい答えである。

「パソコンを使うことによって人間がもつ固有の能力のある面が失われていくのは、
ある程度仕方がないことだ。何かを得たら何かを失うのは当然の摂理である。
ただ、それを単に進化の代償としてパッと切り捨てていいものかどうか。
AかBかではなく、AもBもとか、AでもなくBでもないとか、
同時にAでありBであるとか、さまざまな考え方があるはず。
後に述べる機会もあるだろうが、
世の中には単純な二進法では理解できないことの方がむしろ多いのである」(P20)


AかBかの二者択一の問題で間違えとされるのは――。
1.AもBもどちらも正しい。
2.AもBもどちらも間違い。
3.A=Bである。
以上の3つが「AかBかの二者択一の問題」における間違いとされる。
だが、どうしてこの問い自体が間違えているのではないかと疑わないのだろう?

試験問題で二者択一があった場合、上記1~3の回答はどれも不正解とされる。
だから、大人はAかBのどちらかが正しいのだろうと考える。
しかし、そこに人間の不自由があるのではないか? 大人の不自由はそこではないか?

「アインシュタイン自身も、自分が特殊相対理論などを着想できたのは
知的発達が遅かったからだ、と認めている。
子どもでもなければ考えないような問題を
大人になって考え続けたことが逆によかったというのである」(P105)


しかし、子どもは大人に比して多くの間違いをおかす。
どうして間違いの多い人間が新発見をしたりするのだろう?
問いをひっくり返す。
どうしてコンピュータ自身は発見をしないのだろう?
たとえば、なぜロボットは自分がロボットだと気がつかないのか?
コンピュータに計算をさせたら百発百中である。
だが人間の場合、24時間寝かさずに計算を課したら、うっかり間違えてしまうことがある。
皮肉なことに、これが人間が人間たる証明ということになろう。

「もしかすると人間とアンドロイドを分けるのは、
この<頭の悪さ>になるのかもしれない。
間違える自由こそ、人間にとってなくてはならないものだからである。
そうなると、これまでの<頭の悪さ>は
近い将来に<頭のよさ>に逆転する可能性もある」(P156)


どうやらコンピュータよりも人間の頭が悪いからこそ新発見が生じるようである。
人間は頭が悪いから間違える。

「そう、人間にとっては、間違えることにこそ、
あらゆる創造力の源泉があるともいえる。(……)むしろ、
生物にとっては「間違える」ことによってこそ新しい発見も可能となるのである。
いや、生きることそのものが間違いの連続なのである。
仏教の教えのように<それをすべて受け容れて逆転させる>発想もあるし、
その対極に、<それだからこそ、生きることを全肯定する>
という考え方も可能となってくる」(P142)


人間の持つ創造性の根源にそろそろ近づいているのかもしれない。

「おそらくコンピュータと人間の違いがもっとも際立つのは連想の機能だろう。
それがなければ、
会話中に新しい話題や事柄を適切にもち出すことができないに違いない。
新しい発見のほとんどには間違いなくこの連想の機能が関係している。
ただし、それは狙いどおりに実験が成功するかどうかではなく、
当事者にとって意外な展開を示すことによってもたらされることも多いのである。
いや、極端にいえば、
連想の機能とは意図的に<間違える>機能といえるかもしれない」(P157)


しかし、なかなか間違えるのもたいへんではないか?
なぜなら、我われは日々なるべく間違えないように注意しながら生きているのだから。
間違いの多い人生は当人にとって苦痛と感じられるはずである。
だが、まさにその間違いにしか創造性がないとしたら、いったい人はどう生きるべきか?
間違えようと思っても、そうそう間違えられないのである。
いっぽうで、どうしてか間違えの多い人間というのも存在している。
そもそも間違えようと思って意図的になした間違いから新発見は生まれないだろう。
ふたたび、我われはどのように生きるべきなのか?

「日本仏教の創造者たち」(ひろさちや/新潮選書)

→「仏教では○○と教えている」という説明ほど便利なものはない。
仏教ではなんでもありなのである。
古くからの教えの一部分をどのように誤解して発展させるかが勝負のようなところがある。
どの宗教も宗教であるならば、
その時代を生きる人のための「おはなし」でなければならない。
仏典や注釈書に書かれている古い「おはなし」を、
どのようにいまを生きるための「おはなし」に変えるか?
これが仏教者に問われている問題である。
仏教学者ならばアカデミズムのなかでしか
役に立たぬ「正しさ」を追求していればそれでいい。
だが、真の仏教者はいま通用する「おはなし」を創り上げなければならないのだ。
ここで問題になるのは断じて「正しさ」ではない。
インドに始まる仏教史は、
あまたの革新的な仏教者による「おはなし」の創造の変遷だといってよいのだろう。
この観点から仏教史を眺めるならば、池田大作の偉大がわかるはずである。
中村元は仏教学者であっても仏教者ではない。
解釈をするのは仏教学者で、新たな創造をするのが仏教者だからである。

では本書の著者、ひろさちやはどうか?
仏教学者ではなく仏教者だとわたしは思う。
法然は漢訳仏典をよりどころとして南無阿弥陀仏という「おはなし」を創造した。
親鸞は法然の南無阿弥陀仏に支えられて絶対他力、自然法爾の「おはなし」を創作した。
ひろさちやはこの本で親鸞「教行信証」の一文をとっかかりとして、
世界劇場という「おはなし」まで飛躍している。
これをやるのが(仏教学者ならぬ)仏教者なのである。
ひろさちやの仕事を親鸞のそれと見比べながら紹介したい。

親鸞が読み込んだのは漢訳仏典の「観無量寿経」である。
内容は、釈迦が韋提希(いだいけ)夫人に極楽浄土へ往生する方法を教示する。
言ってしまえばノウハウ本なのだが、そこにはストーリーが存在する。
どうして釈迦は韋提希夫人に阿弥陀仏の教えを説いたのか。
不幸な韋提希夫人が釈迦に教えを懇願したからである。
現世で幸福な人間は救いなど求めたりはしない。
韋提希夫人はどのように不幸だったのか。「観無量寿経」はこう説明する。
不幸の原因は、夫人の息子の阿闍世(あじゃせ)にある。
阿闍世は悪友の提婆達多(だいばたつた)にそそのかされ父王を幽閉した。
あわよくば餓死させようという魂胆である。しかし、なかなか死なない。
韋提希夫人が夫を心配してこっそり食物を運んでいたからである。
これに気づいた親不孝息子の阿闍世は母親の韋提希まで幽閉してしまう。
たび重なる息子の裏切りに絶望した韋提希夫人は、釈迦に救いを求める。
願いに応じてそこに現われた釈迦が韋提希に与えたのが阿弥陀仏の教えである。
すなわち「観無量寿経」、極楽浄土へ往生するための観法(≒マニュアル)だ。

ならば「観無量寿経」で重要なのはマニュアルだと通常なら思うはずである。
ところが宗教的天才の親鸞はマニュアルではなくストーリー部分に着目する。
視点を変えてみたわけである。もっと言うならば誤読に近いのかもしれない。
いや、やはり誤読は言い過ぎであった。
だれも重要視してこなかった部分に親鸞は新たな光を当てたのである。
親鸞の難解な教説書「教行信証」の序に以下のような「観無量寿経」への言及がある。

「竊(ひそ)かにおもんみれば、
難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
しかればすなわち、浄邦縁熟(じゅく)して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。
浄業機彰(あら)はれて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。
これすなわち権化の仁、斉(ひと)しく苦悩の群萠を救済し、
世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す」


難しくない! ぜんぜん難しくないから、どうかついてきてくださいませ。
「竊(ひそ)かにおもんみれば」=私はこう考えたという親鸞の意思表示である。
「難思の弘誓」=阿弥陀仏の誓いのこと。まあ阿弥陀仏と思ってよい。
阿弥陀仏は荒れた海でもヘッチャラに通過させてくれる大船だと言っている。
また阿弥陀仏は絶望の闇夜に光るピッカピカのお星さま、いや太陽なんだぜ。
要するにまあ阿弥陀仏はすごいということだけわかってください。
だから――いい? 阿弥陀仏はすごいから――。
縁が熟したときに、「調達(=提婆達多)、闍世(=阿闍世)をして逆害を興ぜしむ」。
機が熟したときに、「釈迦、韋提(=韋提希夫人)をして安養を選ばしめたまえり」。
これはどういうことか?
「権化の仁(=ストーリー登場人物)」が「苦悩の群萠を救済」したということだ。
さらに「世雄の悲(=釈迦の大悲)」が、「逆謗闡提(=悪人)」を救おうとした。

ほどんと読解不能なほど難解な「教行信証」のここに、ひろさちやは注目する。
もっと言ってしまえば、ここを拡大解釈する。
親鸞が「観無量寿経」における冒頭のストーリー部分に重点を置いたように、
ひろさちやは「教行信証」の序に光を当てる。
この箇所で親鸞はなにを言っているのか?
常識をひっくり返しているのではないかとひろさちやは指摘する。
提婆達多や阿闍世は本当に悪人なのだろうか?
というのも、彼らが善人で悪事をはたらかなかったらどうなるか考えてみよう。
たしかにいくつかの不幸は起こらないだろう。
「観無量寿経」でいえば、韋提希夫人の幽閉がなされることはない。
同様、夫人の絶望も生じない。
だが夫人がおのれの不幸に絶望しなければ釈迦の教えは説かれなかった!
なぜなら夫人が心底絶望したからこそ、極楽浄土の救いが説かれたのだから。
だとしたら、こうは考えられないだろうか?
ありがたい極楽浄土の教えが説かれたのは、提婆達多や阿闍世がいたからである。
二人の悪人がいなければ我われは阿弥陀仏の救済を教えてもらえなかった。
だから、親鸞は悪人二人をこうとらえていたのではないか(と、ひろさちやは思う)。
悪人二人は、釈迦をこの世に送り、夫人に説法させるために必要な登場人物だった。
悪がなければ善なる妙法が開示されることはない。
すべては計算づくだったのではないか?
以下に「日本仏教の創造者たち」のひとり、ひろさちやの言葉を引く。

「そう、親鸞によると、この世は一つの舞台なのだ。
その舞台に、提婆達多、阿闍世、韋提希、釈迦が登場する。
筋書きは、韋提希のために釈迦をして浄土の説法をさせたいのだ。
そのためには、悪役が必要である。
提婆達多や阿闍世が出てきて、韋提希を絶望の状況に追い込まねばならぬ。
そうでないと韋提希の救済を求める叫びが、
心の底からのほとばしりにならないのである。
韋提希が心底から叫びを発しないと、釈迦の説法は白々しいものとなる。
提婆達多や阿闍世の役割は重要だ。
実際、演劇においては、悪役のほうがむずかしいと聞いている。
娑婆という舞台の上では、このような演劇が進行している。
そのように親鸞は考えている。
その演出家こそ、ほかならぬ阿弥陀仏である。
それが親鸞の阿弥陀仏観である」(P80)


正しくは、ひろさちやの阿弥陀仏観である(笑)。いや、これでいいのだ。
というのも、これこそが仏教の正統的な思考法なのだから。
さらに著者は続ける。かつて親鸞がしたように、果敢な飛躍、跳躍をする。

「阿弥陀仏は、宇宙という舞台の演出家である。
阿弥陀仏の演出の意図は、すべての人間の救いである。
そのために、釈迦に浄土の教えを説かせる必要がある。
その筋書きのためには、提婆達多や阿闍世という悪役を登場させねばならない。
舞台監督である阿弥陀仏は、さまざまな人物を登場させて、
すべての人間の救いという筋書きを進めて行く。
舞台の上に立つ人間は、すべて阿弥陀仏の演出によって動く役者なのだ。
換言すれば、われわれ人間は、阿弥陀仏の命ずるがままに動く将棋の駒である。
われわれはただ、自分に与えられた役割を果たすだけである。
それが親鸞の考え方である。
親鸞は、阿弥陀仏にすべておまかせして生きる覚悟をしたのち、
ついにこのような哲学にたどりついたのであった」(P81)


上に抜粋した思考法はだれのものだろうか?
親鸞の思想か、それともひろさちやのものなのか?
ここをあいまいにするのが仏教の作法といったら言葉が過ぎるのだろうか。
少なくとも親鸞の作法ではある。
なぜなら、「歎異抄」には親鸞の以下のような言葉が採録されている。

「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。
仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」


阿弥陀仏が正しければ、釈迦も正しい。釈迦が正しければ、善導も正しい。
善導が正しければ、法然も正しい。
法然が正しければ、わたくし親鸞も正しいのではないか?
こういう論証である。
A(阿弥陀仏)→B(釈迦)→C(善導)→D(法然)→E(親鸞)
果たしてAが正しければEもまた正しいことになるのだろうか?
ひろさちやは伝言ゲームを引きあいに出し、この論法の非合理性を指摘している。
伝言ゲームの場合、Aの言葉は伝えられるうちにどんどん変化していくではないか。
余談だが、こういう具体例を提示して簡潔に説明するのが、ひろさちやの才能である。

さて、ひろさちやを「日本仏教の創造者たち」のひとりとして考えたらどうなるか?
まるでシェイクスピアのような、ひろさちやの世界劇場思想は仏教として正しいのか?
わたしは正しいと思う。これもまた仏教である。
なにゆえ正しいのかと問われたら、わたしもまた親鸞の真似をしたい。
A(阿弥陀仏)→B(釈迦)→C(善導)→D(法然)→E(親鸞)→F(ひろさちや)
ところで、ここに書いたものは、ひろさちやの思想を正確にたどってはいない。
少しだけわたしの流儀に書き換えている。
もしかしたらこれもまた仏教ではなかろうか?
A→B→C→D→E(親鸞)→F(ひろさちや)→G(わたし)

2500年前から仏教とは後世へ伝承するものではなく、新しく創造するものではないか?
(開祖釈迦も当時のバラモン教等の教えを吟味したうえで教説を打ち立てている!)
いまを生きるわたし(やあなた)の「おはなし」こそ本物の仏教ではないだろうか?
いまこそ金満坊主や学者先生から仏教を我らが手に取り戻すときではないか?
わたしは親鸞の影響を強く受けた「おはなし」を持っている。信仰があるということだ。

(参考)親鸞解釈から飛躍したひろさちやの人生観↓
「ひろさちやの「無関心」のすすめ」(青春出版社)
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2190.html

「おはなしの知恵」(河合隼雄/朝日文庫)

→すべては「おはなし」だという地点に河合隼雄は立つ。

「極端な言い方をすると、自然科学もおはなしの一種なのだが、
外的事物を操作するのに飛び抜けて優秀な「おはなし」だと言うべきだろう。
それがあまりに有効なので、自然科学の語るおはなしが、
そのまま「現実」だと思い違いをはじめたために、現代人は混迷しはじめた」(P22)


たしかに考えてみれば、民主主義もおはなし。日本というのもおはなし。
創価学会はある種の臭みのあるおはなしと言えよう。
資本主義経済も、日中友好も、北方領土問題も言ってしまえばおはなしに過ぎない。
我われをときに悩ませ、ときに励ましてくれる家族もおはなしだろう。
そもそも、要となる「私」がおはなしそのものである。
たとえばシナリオ・センターにお金を支払うことで、
「ライターをめざす私」という新しいおはなしを手に入れることができる。
これは現世のおはなしだが、新興宗教で前世や来世のおはなしを買うものもいるだろう。
ライターや作家、漫画家は、おはなしを創る仕事である。

河合隼雄の「おはなし」へのスタンスは近所迷惑を起こさないためにも重要である。

「私が今考えている立場は次のようなことである。
「おはなし」に正誤はない。要はどれが好きかの問題である。
私は『古事記』のはなしが好きであるとか、
場合によっては、好きな話をつくるのもいい。
それは「私」が好きだという意味で、「私」に深く関連する。
しかし、好きなものは他人に押しつけられない。
他人は他人で好きなものがあることを否定できない。
人間のいいところは、好みを共有しなくとも仲良くできることである」(P22)


とはいえ、UFOや盗聴器、殺されそうな私といったおはなしを持つものは、
狂人として精神科医から治療されてしまうのだから厄介である。
世界を変える私というおはなしも現代ならおそらく治療対象になるのだろう。

「イメージの心理学」(河合隼雄/青土社)*再読

→しかしまあ本当に河合隼雄先生は質のよいフィクションを提供してくれる。
先生は学者として見るよりも詐欺師のような怪しげな存在と思ったほうがいい。
江原啓之や細木数子ほどインチキ臭くはないけれども、
そうはいってもインチキであることには変わりがない。
河合隼雄の言説を丁寧に読めば、
氏の拠って立つところのユング心理学はインチキ(フィクション)であることがわかる。
インチキだからよくないというのではない。
反対で、インチキだから人をときに救ったりもするのである。
正しい学問が取り扱えるのは植物、動物まで(これさえも実のところわからないが)。
話が自殺までしてしまう摩訶不思議な人間に及ぶと、正しい学問では太刀打ちできない。
このためのインチキ心理学なのである。
そもそも心理学はフィクション性が強いが、ユング心理学はその最たるもの。
ふたたび、だからこそ役に立つのだろう。
というのも、本当のことをいったら人が生きる意味などないのではないか。
とうのむかしに色即是空と喝破されている。
生きているのは空しい。けれども、空即是色でもある。
空しい世界に色をつけていくのが河合隼雄の心理学なのだと思う。
どうせ生きるのならば白黒世界よりもカラーのほうがいいではないか?
とはいえ、河合隼雄は白黒の地味な味わいも否定してはいないのだが。

河合隼雄の世界彩色方法をひとつ紹介したい。コンステレーションと命名されている。

「ある人の内的状況と外的状況が著しい一致を示すことがある。
それをユングは布置(constellation)と呼んでいる。
コンステレーションは星座という意味もあるが、星座が「できている」ように、
いろいろな現象がひとつの布置をなしている」(P79)


わかりにくいですか? なら、こう説明したらどうでしょうか。

「まったく偶然に不幸に陥ってしまった、と嘆く人が多い。
しかし、それは因果的に見れば、まったくの偶然であろうが、
共時的に見れば、まさに必然的に生じているとも言えるのである」(P80)


我われは通常、外界と内界を分断したところで生きている。
なにか起こったときに、その外的状況=因果関係しか見ようとしない。
この外的事件を「私」のなかへ取り込んでしまうのがコンステレーションの作法だ。
客観的意味世界(因果性)と主観的意味世界(共時性)を交差させよという。
「私」のなかで偶然を必然にしようというのである。
身もふたもない言い方をすると、
偶然の不幸に意味を与えることで(必然化!)「私」の人生が豊かになるということだ。
言うまでもなく、宗教と紙一重の考え方である。
河合隼雄は以下のようなコンステレーションの具体例を紹介する。
嘘のような本当の話だが、嘘かもしれないし本当なのかもしれない。

「ある生真面目な中年の会社員が、取引先の人に競馬に行こうと誘われた。
賭事など無関心だったので断ったが、
見ているだけでもとまで言われてついて行った。
見ているだけのつもりだったが、
ふと気がつくとその日に貰った給料をそっくり盗まれていることに気づいた。
やけになって同行した人に金を借りて馬券を買うと、
何と大当たりして給料どころではなくなった。
これはサラ金で身を持ち崩した人に、話のはじまりとして聞いたことだが、
このようなトリックとしか思えないようなことが実際に生じるところに、
人生の面白味がある」(P80)


大半の人間にとって人生は「なんにもない」のである。
多少、悲劇的なこと、喜劇的なことがあったら、まだマシなのだろう。
はっきり言って、生きているのはつまらないのである。退屈ではないか?
このときコンステレーションを考えると、わずかだが人生に色をつけることができる。
とはいえ「なんにもない」と思っていたら「なにかある」人生を送るものもいる。
それは九割九分、突然の不幸というかたちで人生に襲いかかってくるだろう。
この場合も、コンステレーションを考えることで大きな慰めが得られる。
絶望の暗闇のなかにささやかな希望の光を見いだせるかもしれない。
コンステレーションは、サングラスの正反対のような道具と思えばよろしい。
このサングラスをかけると味気ない世界が多少なりとも色があるように見えるのである。

「心理療法序説」(河合隼雄/岩波書店)*再読

→心理療法は、ノウハウ(マニュアル)の鎖から人間を自由にするのだろう。
河合隼雄の思想はノウハウ(自己啓発書)の対極に位置する。
大勢の人間の歩く舗装道路から脱落してしまったものを救う(掬う)のが、
河合隼雄のいう心理療法だと思う。
かならずしも公道に戻るばかりをよしとはしない。
むしろ、あなただけの道を歩いてみてはどうだろうか、と思いきった提案する。
危険な道だが、その危うさが生きる醍醐味でもあると心理療法家は語る。
ここで断じて忘れてはならないのは、河合隼雄にまつわる危険性である。
氏の著作の影響で、取り返しのつかない痛手を人生で負うものもいるはずである。
やはり、ノウハウに従い、みなとおなじ道を歩くのが安全なのである。
そのことは河合隼雄自身もこれでもかといわんばかりに強調している。
うまく現実に適応できるなら、それに越したことはない。
運よく時流に乗ることができたのなら、それに満足するのも悪くない生き方だ。
不運にも適応障害を起こしてしまったときに、
そのマイナスからしか得られぬプラスを引き出そうというのが河合隼雄の生き方である。

生きる。生きるのは人間だけではない。動物も植物もまた――。

「教育というときに、動物を訓練し、しつけるというイメージと、
植物を育てるというイメージと両方がある。どちらも大切なのだが、
一般に植物イメージで考えることの方は忘れられ勝ちのように思われる。
土壌と太陽の光とがあれば、植物は自分の力で育ってくる。
このときに、人間は植物の芽をひっぱったり、
つぼみを無理に開いてみたりしてはならない。
ここで、土壌や太陽に相当するのが、教師あるいは親などの、
その周囲に存在する人々の暖かい、待つ心である。
これは迂路のように見えて、結局は一番の近道なのである。
熱心に教育しようとする人によって、芽をつみとられたり、
つぼみを台なしにされてしまったような子どもの例を、
われわれは数多く見てきたのである」(P87)


本当にまったく教育熱心な人というのは手に負えない。
教えるのが楽しいなどという手合いは最悪ではないか?
動物を鞭でひっぱたくのが楽しいと表明しているようなものなのだから。
人を支配するのが楽しいという本音を、
さも善人ぶって教育論にすりかえるやからが大勢いる。
たとえば芸術教育なんていう言葉は、字義として矛盾してはいないか?
芸術は本物ならば危険極まりないのである。

「あらゆる創造活動は何らかの意味において、境界への挑戦である。
そのような意味で、トリックスターは創造性と関連が深い。
創造的な人はトリックスター元型との接触を失わないように
心がけているべきではあるが、トリックスターに乗っ取られてしまうと、
単に「嫌な奴」になるだけだったり、破壊者になるだけだったりする」(P232)

「無意識内のトリックスターがはたらくように考えられるとき、
治療者、クライエントの思い違いや、
忘却、言いまちがいなどのことがきっかけとなって、不思議なことが生じる。
決して言ってはならないことを言ってしまうとか、
電話がかかってきたときに人まちがいをして応答するとか、
約束をまちがうなどのとき、それは大失敗になりかかるが、
失敗をしてしまったと単に反省するだけではなく、
内なるトリックスターは何を狙っているのか、などと考えてみると、
禍転じて福となることも生じてくる。
困難な事例では一筋縄でゆくことはないので、
このような危険をこえてゆくのはむしろ当然と思っていいだろう」(P230)


「誰かへの手紙のように」(山田太一/マガジンハウス)

→エッセイ集。山田太一さんの才能というのは、どのような性質のものだろうか?
世の中にはいろんなひとがいるもので(それでいいのだが)、
人間の能力はみなおなじと信じておられるかたもいる。
だから努力しろとなぜか自分にではなく他人に言うのがこういった人間の特徴だが、
かわいそうなひとだとわたしは思う。
なぜなら人生で身震いするほどの芸術作品と触れ合うことがなかったのだろうから。
不運にも、おのれを超えるものに出逢えなかったひと――。
こういった手合いが人間の持って生まれた才能を否定するのだろう。
話を戻して、山田太一さんの才能とはなにか?

「私は脚本を書く仕事をしている。
すると、ひとの身にならなくてはならない。といっても、
ひとの身になって優しくなったとか親切だとかいうのでは、まったくない。
私は格別優しくも親切でもない。
ただ仕事上の必要として、どの程度できるかはともかく、
登場人物それぞれの身に一応ならなければ台詞が出て来ない、
という立場にある」(P163)


ひとの身になるのが抜群にうまい! これが山田太一さんの才能なのだろう。
むろん、努力もそうとうあるだろう。
だが、すべてを努力に帰するのは、逆説的だが人間を舐めているようなところがないか。
ひとの身になる。わたしがもっとも苦手とするところでもある。
どうして山田太一さんは、ひとの身になるのがうまいのか。
脚本家の生き方と関係しているように思う。

「いきなり大振りな話で恐縮だが、たとえばカンボジアの内戦で家族を失ったとか、
アウシュビッツの生き残りだとか、
そういう人は以後その体験ぬきになにかを感じたり考えたりすることは難しいだろう。
だからその体験を自己形成の核に置く生き方をする人がいるのは当然だが、
一方で、なるべくそうした体験に縛られたくない、
現在の生活に限定して、なんとか個人的に生きたいという人も少なくないだろう。
どっちかといえば私は後者の方で、たとえばアメリカの黒人として生れたとしても、
なるべく黒人問題というような渦中から遠ざかって、
個人としての人生を生きることを願うだろう」(P139)


なるべく自己の体験に縛られたくない。なるべくひとの身になって考えたい。
この「なるべく」が山田太一さんの生き方である。
もちろん、こういった処世術は軽いとそしられることもあるだろう。
内省的な山田太一さんのことだから、
一見すると軽薄なわが身への自己嫌悪もたぶんにあったのではないか。
それでも脚本家は、なるべく自己を消そうと努めてきた。
皮肉にも、自己を消そうとすることで、個性豊かな作品世界が創造された。
個性はこれ見よがしに出すものではないのかもしれない。
隠そう隠そうと努めても、いや努めることによって発現するのが山田太一の個性なのだろう。
これは氏が青年期に愛読した福田恆存の思想にも通じている。
ひとの身になるから、脚本家は異様なほどに愛想がいい。ひと当たりがいい。
成功哲学の古典、カーネギーの「人を動かす」いわく、
成功する秘訣は「人の立場に身を置く」。
山田太一さんの脚本術は、またとない処世術でもあったのである。
脚本家は浮き沈みの激しいテレビの世界で40年以上も生き続けているのだ。
シナリオのみならず世渡りもまた天才的というほかない。
どちらも「ひとの身になる」ことを起点としているのが意味深い。

山田太一さんは道徳的な意味で、とても人間ができているのである。
以下に紹介するエピソードはどうだろう。

「小室等さんのことも忘れられない。
ある連続ドラマの音楽を小室さんにお願いしたのである。
私はその仕上りが気にくわなかった。演出家にそういうと、
しばらくして小室さんがそっちに向っています、という電話である。
「どこが気にくわないのか聞いてくる」といって出たというのである。
喧嘩をしに来たな、と身構えた。
まったくそうではなかった。実に軽く明るく生真面目に率直に、
どこが気に入らないかを聞いてくれた。
高圧的でも卑屈でもなく、見事にほどよくストレートだった。
今でも私は、自分を批判する人と向き合う時の手本だと思っている」(P56)


テレビのシナリオライターで山田太一さんほど、いわゆる成功を収めたものはいまい。
氏の脚本術だけではなく処世術もまた一流であったということだろう。
ひとの身になるのがうまい。すなわち、自己の御し方が天才的にうまい。
自身の大成功を、脚本家はどうとらえているのだろう?
いわゆる社会的成功をどう見ていたのだろう?

「学校や会社や業界での位置を高めたいという欲望に虚妄がないわけがない。
どうせ人は死ぬのである。地位を手にしたところでわずかな間である。
そのために自他をすりへらすのは馬鹿気ているが、
人はなかなか目先の欲望をふり捨てられない。
しかし大抵の人間は、心の底でその空しさにも気づいているのである」(P155)


「ひとの身になる」ことで山田太一さんは、数多くのものを手に入れている。
そのうちのひとつでさえ凡人の我われは狂喜乱舞することだろう。
ところが山田太一さんは、あまり浮かれた様子を見せない。自我肥大を見せない。
まったく無関心というわけではないのが心憎い。少しは喜びを見せるのである。
そうしないとひとから嫌味に思われることを処世の天才が知らないはずがないではないか。

以上のように山田太一さんの才能を検分すると、まるで妖怪かなにかのように思えてくる。
どうしてこうも人間としてマイナスの部分が少ないのだろう。
世間的に是認される最大公約数的な人間的魅力をほとんど身に備えている。
人柄がよくて、そのうえ運もいいのだから、なにか空恐ろしくなってくる。
いったい山田太一という人間の底にあるものはなんなのだろうか?
おそらく、自身もこればかりはわからないのではないか。
だから、書いているというところが山田太一さんにはあるのかもしれない。
才能あふれる脚本家は、人生でバカな上司から叱責された経験はないと思う。
だが作家は平凡なサラリーマンの味わう屈辱を、本人以上に理解してしまう。
さらに、そのことによって俗世における多大なる成功を手に入れる。
さらにさらに、その成功の無意味なることをもにおわせる。
山田太一という存在は巨大な一個の謎ではないか? まったく不思議である。

山田太一さんは人生でなにを獲得したのだろう?(これは経歴等でわかりやすい)
そして、多くのものを得ることでなにを喪ったのだろうか?

尊敬する作家の宮本輝先生が紫綬褒章を受章なさったのにお祝いを書いていませんでした。
受章の際、いろいろなニュースサイトでお顔を拝見して驚いたものです。
5年前とまるでお顔が変わっている。
「宮本輝の本」(宝島社)のころの先生は、とても不満そうな顔をしていらした。
なにもかにも気に食わないという表情でした。
とっつきにくいと申しましょうか。
ところが、どうでしょう。この5年でなにがあったのかと驚くばかりです。
若輩が指摘するのはたいへん失礼なのでしょうが、ほんとうにいいお顔になられていた。
欲望にまみれたドラゴン先生とは大違いだと思ったものです。
紫綬褒章受章、心よりお祝い申し上げます。
当ブログの先生の略歴にも加えておきました。

なにか章(賞)をもらうというのは、どれほど嬉しいことなのでしょうか。
わたくしは人生で一度も表彰されたことがないのでわかりません。
いろいろ新人コンクールには応募しましたが、いまのところすべて落選しています。
おそらく、生き方が間違っているからなのでしょう。
人生の折り返し地点に来て、ようやく自業自得にうすうす気がつきました。
いえ、まえから知っていたといえば知っていたのだと思います。
なぜなら宮本輝先生のご作品の愛読者だったのですから。
ほんとうかどうか人生で試したら、どうやら自業自得というのはあるみたいです。
人生は一回かぎりですから、もう取り返しがつかないのでしょう。
しかし、敗北だらけの人生にも味があります。
それは人生の勝利者が決して味わえないものなのです。
人生の敗北者にしか味わえぬものがある――。
最近、高校生のカップルを見かけると、しみじみいいなと思います。
これなんかそうではないかと思いますが、違うのかもしれません。
もう取り返しがつかないという敗北の味は冬と相性がいい。
いまがわたくしの季節であります。
世をすね不遇をかこちながらもう入水自殺しかないのだろうかと荒川沿いをとぼとぼ歩く。
ちょっとした人だかりができているので、事故か事件か、
よもや殺人など起こっているのではないかと急に活気づくわたしである。
すぐさまジャーマネらしき人物に先導されたあっちゃんが目の前を早歩きで通り過ぎた。
AKB48の前田敦子がわたしの1メートル前方を通り過ぎたのだ~よ!
芸能人をあんな至近距離で目撃したのははじめてではないだろうか。
お人形さんのようだなという印象。とてもおなじ人間には思えなかった。
どうやらテレビドラマ「Q10(キュート)」の撮影らしい。
あの連続ドラマは今週の土曜日が最終回でしょう。
テレビドラマのロケというのは、こうもギリギリのスケジュールでやっているのかと驚く。
「Q10」は3、4回まではがんばったが、途中で視聴を挫折してしまったドラマ。
あの制服そのままの前田敦子を目前で見ることができるとは!

しかし、天下のYonda?先生がアイドルごときに目を奪われてはならないと自戒する。
ロケを見ることもなく先を急いだのだが、
しばらくしてからやっぱり引き返してしまうのが畜生たるパンダの哀しき性(さが)。
ADさんが野次馬を怒鳴りつけている光景が新鮮だった。
業界人は偉いのでしょうね。
ロケを観察しながら、思うのはシナリオのことである。
おそらく、撮影現場の人間はみなシナリオに憎悪に近い感情を持っているのではないか。
たとえばADさんがほとんど睡眠も取らずに野次馬を怒鳴らなくてはならないのは、
ライターがシナリオにこのシーンを書き込んだからなのである。
果たしてライターごときに撮影現場の苦労がわかるものだろうか?
ADのみならず現場スタッフは、かならずやライターに反感を持つはずである。
てめえは居心地のいいところで鼻唄でも歌いながら書いているのではないか。
おまえがこんな勝手なシーンを書いたから、現場のおれたちは苦しまなくてはならない。
かのADがディレクターに昇格したときが積年の恨みを晴らす好機である。
ディレクターはシナリオを自分で書き直すことで復讐を果たすのだろう。
撮ってしまえば、こちらのものである。ライターが怒ろうが泣こうが、あとの祭り。
厳しい目をしてわたしたち野次馬を監視するADさんを見ながら、
わたしは彼(女)の10年後のすがたを思い浮かべた。
ADさんのはるか先に前田敦子がいた。荒川が流れていた。

(注1)ディープな「本の山」読者様はタイトルを見て、
さてはYonda?と「もてない男」の小谷野敦がすれ違ったかと思ったかもしれません。
残念でした。あっちゃんはあっちゃんでも、かわいいほうのあっちゃんでした。
なお、現在、残念なほうのあっちゃんは小谷野敦(こやのとん)に改名しています。

(注2)関係者筋から掲載した写真にクレームがつきましたら即刻削除します。
争うつもりはまったくありませんので、もし不都合がありましたら教えてください。
「Q10」の最終回はぜったいに見ますからね!

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101206_1559~01

遠くに見えるのがわたしの唯一知っているAKB48のメンバー、前田敦子さんです。
ううん、プリティー!