「ことばの教養」(外山滋比古/中公文庫)

→どこまで便利になっていくのかとまだ若いつもりなのに不安になってしまう。
たとえば、そろそろ食器洗いはお湯を使うことが多くなってきている。
むかしの人は真冬でも冷水を使用していたのでしょう。
とても真似できないと呆然としてしまう。
しかし、便利になればなるだけ失われてしまうものもあるのだから怖い。
例をあげるなら、書籍――。

「何かの拍子で、捜す本が見当たらぬと、どうしても読みたくなる。
古本だと本当に本を買った気持になるのも、捜す苦労があるからだろう。
新本でも、部数が少ないかして、なかなか見当たらぬ時は、
そのうち、是が非でもという気持がわいてくる」(P155)


アマゾンが普及してしまったせいで、本にまつわる喜びがいかほど消えたか。
これからどこまで喜びの少ない時代になっていくのだろうか。

しかし、心底から嘆いているわけではない。
なぜなら、人生はそんなに安っぽいものではないからである。
「もてない」と「成功できない」だけは、むかしからいささかたりとも変わっていない。
おそらく今後もこの二大難関だけはどうにもならないだろう。
逆説的だが、だからよろしいのだと思う。人生は悪くない。
もてなければそのぶんだけ異性を獲得(物品みたいな表現で失礼!)したときに嬉しい。
便利なネットでも、こと出会い系サイトになると、もてない男女には関係ないでしょう?
不遇な時期が長いほど、わずかな成功でもバンザイと叫びたくなる。

簡単にうまくいかないところが、実のところ人生の美味なのかもしれない。
いくら便利になろうが、根源的な人間の苦は決してなくなりはしない。
だから、よろしい。味わいがある。苦味もまた舌いかんでは美味になりうるのだ。

「冬の雁」(三浦哲郎/文春文庫)絶版

→短編小説集。
誕生日にお姉さんに自殺されてしまった作家の書いた小説を、
母親に目の前で飛び降り自殺された男が酒をのみながら読む。
人生の折り返し地点に来て、文学がわかってしまったといういっときの錯覚を持つ。
繰り返すが、錯覚である。
もしかしたら文学というのは、完全なる無駄のことではなかろうか?
映画、ドラマ、演劇、漫画
――文学以外のどの表現ジャンルも費用対効果を求められるでしょう。
わざわざ大切な時間を使ったのだから、そのぶんなにかを得たいと消費者は考える。
笑うでも泣くでもいい。なにかしらの効果=実益を対価として要求する。
しかし、文学だけは、そのような貨幣的価値から遊離していて構わない。
むしろ、どれだけ世間の価値にそむいているかを誇るようなところさえある。
読後、前向きにならなくてもいい。プラス思考にならなくてもいい。
それどころかマイナス思考になってもいいのが文学なのである。
使用後に消費者を自殺させてしまう危険性=毒性でさえ許容されるのだから。
「冬の雁」を読みながら、わが34年のくだらぬ人生を思い返す。
小説によって喚起された記憶を舌に乗せ酒とともに転がしてみたのである。
どのみち死ぬのだから、喜びも悲しみもみなみな消えていってしまう。
人生の喜怒哀楽など、すべてゴミのようなもの。
無駄の集積たる文学は人生とおなじように悪くないと、そのときふと思った。
すぐに照れ臭くなり、いま思ったことを忘れるために洋酒をごくりとのみほした。

「偶然からモノを見つけだす能力 ――「セレンディピティ」の活かし方」(澤泉重一/角川ONEテーマ21)

→セレンディピティは、反意語から考えるとわかりやすい。
偶然がもたらす発見=セレンディピティが敵とするのはマニュアルである。
こうしなければならない。これをしてはいけない。こうしたらかならずこうなる。
いっぽう、セレンディピティはどこから生まれるか。
無駄を愛する。ぶらぶらする。なにをしてもいい。1回かぎりの現象を重んじる。
世の中の進歩とセレンディピティの関連性に注目するものもいる。
というのも――。

「世の中の進歩を振り返ってみると偶然による突発的進歩が多い。これは、
ある常識ができるとその常識の範囲でしか考えなくなることが大きな理由である。
常識として信じられていることは間違っていることもあるが、
その間違った常識を超越することはなかなか難しく、
進歩はその常識の規制力にあって逡巡することになる。
知識を知っているが故に、その知識が間違っているときには
進歩に対して抑制する力として作用してしまうのである」(P82)


この観点から考えると、懇切丁寧な
創作マニュアル(たとえば新井一「シナリオの基礎技術」)ほど有害なものはなかろう。
常識だから、こうしろ、ああしろ、と命令されるのは、
本来は新発見=個性的な創作と正反対の行為なのだから。
マニュアルは便利だけど、便利というプラスは同量のマイナスも含んでいる。
同様、セレンディピティは有益だが、マイナスもあって、非常識な人間ははた迷惑である。
しかし、その非常識なところにプラスがあるのであって――。
あまり難しく考えるのはセレンディピティの流儀に反するような気がするので、
このへんであいまいなまま思考を中止しておこう。

「禅僧・山頭火」(倉橋羊村/沖積舎)

→いやね、いいんだけどさ、研究書のようで研究書じゃないんだよね。
小説ふうに書かれている。というか、これほとんど小説じゃない?
そのくせお固く研究書ぶっているところもあり……わけがわからん。
このとき山頭火はこうであった、とか見てきたようなことを書いているわけ(苦笑)。
じゃあ、どの文献を根拠としているの?
そう考えてみると、特別提示されていないから、単に著者の妄想ってこと。
もうタイムマシンがどこかで発明されましたか、なんて書いたら嫌味だね。

まあ、山頭火の評伝、研究書は、このくらいヌルイほうがいいのかも。
いまは国語便覧にもデカデカと載っている山頭火。
実像は、かなりあれな人だったわけでしょう。
ろくろく働きもしないで酒ばかりのんで。
こういう人がいない世界は息苦しいけれど、そばにいたら迷惑するというタイプ。
とはいえ、死んで70年もすると、マイナスもプラスになってしまう。
あんがい欠点というのはいいのかもね。
利点ばかりの人はすぐに忘れられてしまうようなところがあるのかもしれない。
ダメな人ってどこか憎めないところがある。
欠点をなくそうと前向きに努力している人にはない優しさのようなものを感じる。

「うれしいこともかなしいことも草しげる」(山頭火)

「自殺で家族を亡くして 私たち遺族の物語」(全国自死遺族総合支援センター編/三省堂)

→わんわん泣きながら読む。地獄やな、地獄やな、とうめきながら。
家族に自殺されたら、その日からひょいっと地獄に堕ちるわけね。
苦しいでえ。人生、がらりと変わっちゃう。こりゃもう経験せんとわからん。
こちらは母の自死から、ふうう、10年か……。
苦しんで悶えて泣いて喚いて、考えて考えて考えて。
最初からわかっていたけれど、答えのようなもののあるはずがない。
泣くしかないのね。泣いてもなにも変わらないけれども泣くしかない。
人生、ほんと、どうしようもないことってある。あるよね? あるのさー。

――お母さん、昨日は後楽園ホールに友人とプロレスを観にいきました。
コンビニで買った安酒をかっくらいながら、
だいの大人が裸で蛍光灯片手に血だらけで殴り合っているのを観てケラケラ笑いました。
何年先か何十年先かわかりませんが、
いつか再会する日までこちらでたくさん笑いたい、泣きたいと思っています。

「シェイクスピアのたくらみ」(喜志哲雄/岩波新書)

→「ハムレット」や「マクベス」のどこがすごいのか?
わたしの言葉でいうなら、こうなる。ハムレットやマクベスは――。
おのれが役者に過ぎず実のところ台本があるのではないかというところまで
演戯を続けるうちに気がついてしまったところである。
いや、気がついてはいないのだろうが、台本や観客の存在に迫る寸前までいっている。

役者とはなにか? 役を割り振られた者である。
役のみならず「せりふと動き(=ト書き)」も既に与えられている。
相当に追い込まれないとなかなか人間は自分が役者に過ぎないとまでの自覚は持てない。
幸か不幸か、わたしはハムレットやマクベスに近いところで生きている。
すなわち、だれかと逢ってなにかを話したとしても、それは
台本=戯曲=運命を忠実になぞっているだけだという諦念のようなものを持っている。
ハムレットやマクベスとおなじで、なるべくなら台本に逆らいたいと思っているが、
「せりふと動き」を意識すればするほど
台本通りの人生になるという逆説に薄々勘づいている。
なぜならハムレットやマクベスの生き方がまさしくそうであったからである。
台本=運命を意識すればそのぶんだけ自由がなくなるようなところが人間にはある。

ハムレットやマクベスは、果たして観客の存在に気がついていただろうか?
だれかに見られているという感覚である。
この視点を持つだけで、苦難苦労だらけの人生もだいぶ意味深いものになることと思う。
劇は既に書かれていて役者には変えようがない。
ならば、どう演じるのか?
世阿弥の言うところの「離見の見」を持つということだ。
観客席からおのれの演戯を突き放して見てみる。
このとき、いまを生きる人間(役者)にとって観客席とはどこになるのか?
あの世である。死後の世界である。
終わった地点を意識して演戯する。つまり、生きる。
そういう生き方を「ハムレット」や「マクベス」は無意識のうちに教えてくれる。

では、いったいなにゆえか?
シェイクスピアの人生観=演劇観がそのようなものだったからであろう。
かの劇作家は、なによりも観客のことを念頭においていた。
作家が死を常に意識して生きていたということでもある。
役者は観客の存在を強く意識して演じるのがよろしい。
人間はあの世からこの世を眺めるようにして生きるのがよろしい。

以上のようなことを学者の言葉でいうなら下記のようになるのだろう。
――シェイクスピアの作劇術の根幹にあったのは世界劇場の考え方である。

「世界劇場の考え方について最も重要なのは、
それが、人間の主体性に対して疑問を投げかけるものだという点である。
人間は自らの意志に基づいて行動しているつもりでいる。
しかし、実は人間を超えた絶対的な存在によって動かされているのではないか。
そういう存在によって、ある役を演じさせられているにすぎないのではないか」(P74)


「夫婦の格式」(橋田壽賀子/集英社新書)

→もうなんでも橋田先生に聞いてしまえばいいじゃないか。
先生、男ってなんでしょうか? 本音はもう男をやめたいんですが……。

「男は子どもといっしょ、大人の仮面を付けた子どもなのです」(P19)

「女は蛇のようだとか、執念深いとか、よくいわれますが、ほんとうは逆。
男ほど執念深く、許さないものはありません」(P31)


ハハア、先生がおっしゃるのならきっとそうなのでしょう。
ボカァ子どもです、ボカァ蛇です。
TBSのプロデューサーと結婚した橋田先生がうらやましいです。
ボクもテレビ局の女性社員と結婚したいけれど、鼻にもひっかけてくれないだろうな。
最近ブックオフで「もてマニュアル」に手を伸ばしたくなる自分がいます。
人生、マニュアルじゃ対応できないのは知っているのですが。
アアン、橋田先生のように成功したい。
先生はいったいどうやっていまのご成功を手に入れたのでしょうか?

「結婚したのは昭和四十一年で、昼帯といって、
昼下がりの連続ドラマに人気があって、
脚本を書くのも、いろいろ条件がうるさかった。
ここを直せ、とか、ここを削れ、とか、
なんのかんのと突っつかれて嫌気がさしていました。
それが、結婚すると、局の方の態度がころりと変わった。
主人の有難味が身に染みてわかりました。たいした能力もないのに、
わがままばかりやらせてもらって、みんな、主人のおかげです。
そうして、あれこれ注文を付けられることもなく、
好きなものを書けるようになると、「となりの芝生」のように、
不思議とあたるようになったのです。
我を通さないで、プロデューサーのいいなりになっていたら、
さっぱり芽も出なかったでしょう」(P169)


女性のライター志願者はスクールにつぎ込む金があったら、
徹底的に美容整形してテレビ局社員を落としたほうがいいということか。
いまの女性はいろいろ生きる選択肢があっていいな。
ボカァ子どもで蛇だから(しつこい!)もう成功はあきらめよう。ぐすん。

「結婚する手続き」(橋田壽賀子/中公文庫)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和63年放送。NHK。全3回。
脚本家は世界のことをあまり知らなくてもよい。
ただし世間のことは人並以上に熟知していなくてはならない。
橋田壽賀子先生のシナリオを読んでいて思うことである。
橋田ドラマのどこがおもしろいかといったら、身もふたもないセリフである。

もうすぐコンクール・ハンターになってから1年である。
膨大な数のコンクール受賞シナリオを読んでいる。
ふたつの不思議が生じるわけだ。
どうして新人の書いたコンクール受賞作はああもおもしろくないのだろう。
どうして大御所の書いたシナリオはなんだかんだと言ってもおもしろいのだろう。
やはり一流の脚本家はいいシナリオを書くのである。
シナリオ作法書は大量に出版されている。
どれもこれも、名作を借りてきてこういうのがいいシナリオだと
言うなれば「後出しジャンケン」をしている。
ところが、いいシナリオの条件をわかっても、みなみな傑作を書けるわけではない。
いったい必要なのはなんであろうか?

橋田ドラマに話を戻そう。
「結婚する手続き」のテーマは、一人っ子同士の結婚。
一人っ子同士が結婚する場合、家の問題になってしまうところがある。
この問題から生じる泣き笑い(=悲喜)を脚本家はドラマに仕立て上げる。
またまた橋田ドラマ特有の下世話なセリフがすばらしい。
女性ならではの意地汚さ(現実的とも言う)を橋田壽賀子はリアルに描写する。
母(千津)と祖母(ハル)は娘の結婚希望相手の家を偵察に行く。
千津とハルは、血縁上の母子関係にある。

ハル「結構、いい家じゃないの。(と庭をのぞき)
百坪はあるわねえ、建坪だって五十坪近いんじゃないの?」
千津「建って二十年にはなるわよね。
父親がなにしてるのか知らないけど、この辺りは都心に家を持てないひとたちが、
銀行のローンで建てたのが多いんだって……
結構苦労して借金返してるんじゃないの?」
ハル「そうだよねえ、財産があったら都心から一時間近くもかかるようなところへ
家建てる道理ないものねえ」
千津「この家建てるのが精一杯っていう生活程度じゃないの。
なにも選りに選ってそんな家の一人息子に惚れることないだろうに……。
バカよ、郁子(=娘)は」(P44)


人間、結局は金なのである。人を見たら金と思え。
相手がどういう人物であるかは、サラリーや財産によって推し測るもの(苦笑)。
男性はどうしてもこういった現実的な視線を持つことができない。
現実ならぬものを見てしまうところがある。
だから、起業や哲学をするのは男性が多いのだろうけれども。
女性の浅ましさを橋田壽賀子は隠そうともしないのがいい。
いや、浅ましいと言ってはならないのだろう。
女性の人生は、言ってしまえば、肉体財産を実質財産と交換するようなもの。
シビアな人生観を持つのは生き抜くためにやむをえないと思う。

さて、娘の郁子は家出をして男と同棲を始めてしまった。
これを千津とハルはどう見るか。

ハル「とにかく、ここはしばらく知らん顔して……」
千津「このままほうっておくって言うの」
ハル「ここまで来たら、私たちがうるさく言っても無駄よ。
言えば言うほどかたくなになるだけ……そういうものなの」
千津「じゃ、郁子はどうなるの。傷ものにされるのをただ黙って見てるの」
ハル「今の娘はね、男のひとりやふたりいたって傷になんかなりゃあしないわよ」
千津「そんなッ……」
ハル「それより二人で暮らしてみて別れる気になってくれたら、
それくらいは目をつぶらなきゃあ……犬にでも噛まれたと思って」(P156)


犬にでも噛まれたと思って! いいよな。本音の本音の本音が小気味いい。
わたしは男だからこの世界観は出せないけれども、
女性なら橋田壽賀子のようなシナリオをコンクールに出したら目立つと思うけどな。
それとも「古臭い!」と落とされてしまうのか。
コンクールで入選するのは、みんなに気に入られる作品である。
何人もの下読み、選考委員の嗜好を満足させなければならない。
しかし、プロの脚本家はたったひとりのプロデューサーから猛烈に気に入られたらいい。
このあたりが橋田壽賀子のどぎつい作風と絶大な社会的成功を結びつける秘密なのだろう。
とはいえ、人生でだれと出逢うかはおよそ人間の手の及ぶ領域ではない。
橋田先生だってプロデューサーの石井ふく子氏に出逢わなければどうなっていたことか。
だれかから強烈に愛されるものは反面、毛虫のごとく嫌う人も出てきてしまう。
これは人間にも作品にも当てはまるのだろう。

「見合い結婚」(橋田壽賀子/中公文庫)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和54年放送。TBS。全6回。
橋田壽賀子先生ならではの味がよく出ていて小説のように楽しく読めた。
味というのは、世界観と言い換えてもよい。
世間知にまみれているのも橋田先生のように徹底すれば味わいになるのだろう。

むかしの脚本家は恵まれていた。
いまは脚本家なんていうのはほとんどボランティアみたいなものなんでしょう。
そもそもシナリオを書かせてもらえる脚本家が全体数のなかのほんの一部。
なら、なにを書くのかといったら、企画書やプロットである。
せっせと書いた企画書をプロデューサーに読んでもらえるだけで一種のステータス。
本人たちはコンクール応募者よりも数段高みにいるプロだと錯覚している。
企画書はギャラなんて出ないにもかかわらず。
たまにプロデューサーにメシでも奢ってもらったら
元気よくシッポを振るのだからかわいいものである。
天下のテレビ局プロデューサーに読んでいただけるだけで感謝感激、大満足。
なぜならあこがれの業界人の一員という自負を保てるからである。
そのうえ「夢を追っている自分は偉い」と底辺職場の同僚を内心で見下すことができる。
40近くなっても、こうしたことをしている脚本家が大勢いるのである。
わたしも含めて、どうしてみんな脚本家におかしなあこがれを持っているのだろう?
むかしといまでは時代が違うというのに。

脚本家というのは、ほとんどかなわぬ夢に近いのだろう。
夢を見ているあいだは幸福でいられる。
どんなに辛い環境にいても脚本家という夢があれば耐えることができる。
小説家と異なり、脚本家は40歳近くまで持ちこたえられる上質な夢と言えなくもない。
小説家をめざせるのは、まあ、30歳くらいまでではないか?
ところが、脚本家なら約10年、夢の寿命が延びるのである。
さらにいいことにシナリオは小説とは違ってだれでも簡単に書くことができる。

ようやくドラマ「見合い結婚」の話になるが、シナリオはパターンがあるのである。
それさえ理解すれば、ほんとだれでも楽チンに書けてしまう。
1.秘密を作ろう。
2.秘密を隠そう。
3.誤解されて悔しい思いをしよう。
4.人に逢いに行こう。
5.秘密をばらそう。
シナリオを読んでいると、どれもまったくおなじであるかのような錯覚に襲われる。
だがしかしところが、それでもやっぱりこれは橋田壽賀子の作品なのである。
というのも、ほかのだれでもない橋田壽賀子ならではの味わいが濃い。
いったい橋田壽賀子とアラフォー自称脚本家を分けるものはなんなのか?
もちろん、作り出す味の相違なのである。
問題にしているのは、どこでどうすれば濃い味が出てくるのか?
才能なのか、努力なのか?
その味が売れるために必要なのはなにか? 
運なのか、努力なのか?

前向きに努力していればかならず夢がかなうということ自体が夢の一種である。
テレビや映画というのは、言ってしまえばそういう夢を売る商売。
だから、志望者に夢見がちな人が多いのだろうか。
夢を売る商売は儲かるけれども、脚本家はなぜかボランティアを強いられる。
ならば、いったいだれが儲けているのだろう?
賢明なみなさまはもうお気づきでしょうが大企業(テレビ局、スポンサー)であります。

学んだシナリオのテクニック。
ドラマが生まれるセリフをひとつ引いておこう。

「突然おうかがい致しまして……」(P94)

アポなしで人に逢いに行くのがドラマ世界の常識なのである。

(追記)男性が脚本家になる手順を整理しておこう(女性は主婦と兼業可能)。
無職、ニート、フリーター、低所得労働者
→夢を見る無職、夢を見るニート、夢を見るフリーター、夢を見る低所得労働者
→コンクール応募者(スクールに何年もお布施)
→企画書ライター(ボランティアスタッフ)
→使い捨てライター(スズメの涙ほどのギャラ)
→シナリオライター(ようやくギリギリで食べていける)
→脚本家(安心して家族を持つことができる。日本に数十人?)
→橋田壽賀子先生(プールつきの豪邸)
階段をのぼっていく過程でいつ振り出しに戻るかわからない実に危険な道のりである。
いまのわたしの目標は、とりあえず使い捨てライターくらいに設定している(苦笑)。
使い捨てライターになるのでさえ、とんでもない運と努力が必要とされる世界である。

「となりの芝生」(橋田壽賀子/中公文庫)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和51年放送。NHK。全30回。
おまえら(とひと呼吸置き)おまえら、橋田壽賀子先生を舐めるなよ!
どうしてライター志望者はだれも言わないのだろう。
山田太一にあこがれて、向田邦子に感動して、北川悦吏子のようになりたくて――。
橋田壽賀子先生のようになりたいというライター志望者を聞いたことがない。
なら、わたしが言ってしまおう。脚本家になるなら、目標は橋田先生である!
だからといって大豪邸に住みたいわけでも、芸能人をはべらせたいわけでもない。
橋田壽賀子先生のように腹の底から書きたいものを書く脚本家が理想である。
これを書かにゃ死ねん、というものを作家は持っていなければならないのだ。
橋田壽賀子は鬼である。だから、鬼になりたいということである。

「となりの芝生」は橋田壽賀子先生の出世作にして代表作のひとつである。
TBSプロデューサーと結婚して経済基盤に不安がなくなった脚本家は、
NHK内部で当たらないという反発もあったが喧嘩降板も辞さぬ覚悟で
この「辛口ドラマ」を世に問うたという。
結果、大反響を呼んだ嫁姑(よめしゅうとめ)バトル、いやドラマである。
日本の連続ドラマ史上ベスト10を選んだら、間違いなく入るであろうと思われる。
おもしろくてたまらなかった。
それも読んでいて胃が痛くなるようなおもしろさなのである。
おそらく、橋田先生は姑との関係に精神を病む寸前まで悩んだと推測される。
積もり積もった怨念をドラマ「となりの芝生」に刻みつけている。
おもしろくならないはずがないではないか!

女のどす黒さに男のわたしは身震いするばかりであった。
考えるまでもなく、女は男よりも格段に強くできているのである。
女は新しい人間を創造=出産してしまうのだぞ。
ほとんど獣性ともいうべきものを人でありながら持つのが女である。
しかし、いかに強い女とはいえ、ひとりでは赤子を産めない。
男が必要である。女はオス、いや男を求めざるをえない。
動物全般、メスは死力を尽くして優秀なオスを選択する。
こうした苦労の果てに男子を産んだとする。
自分が腹を痛めて産んだのだから、その子を自分のものだと思うのは母の道理。
ところが母親の所有物、愛玩物たる男子を横から奪っていくものがいる。
憎き嫁である。かつての自分である。
嫁が過去の自分なら、どこを痛めつけたらいいかは手に取るようにわかる。
このため嫁姑の争いは目を覆わんばかりの凄惨なものになる。

一流脚本家はト書きにそれぞれ書き癖のようなものがある。
橋田壽賀子のそれは「溜息をつく」「ムッとする」だと思う。
いかに主人公をいじめるかが橋田流の脚本術なのであろう。

「私、この家にいてお姑(かあ)さんと顔を突き合わせてるとね、
神経がどうかなっちゃいそうなの」(P294)


嫁の知子の本音だが、決して姑本人のまえでは言うことができない。
「それを言っちゃあ、おしめえよ」だからである。
それを言わない、言えないがために嫁姑のドラマは継続していくのだ。
順を追って見てみよう。
知子夫婦が新居を建てたら、義兄夫婦と同居していた姑がやって来て居ついてしまった。
最初はまだ平穏なのである。
嫁=知子、姑=志乃、息子=太郎(小2)。

○高平家・ダイニングルーム(夕)
太郎が学校から帰ってくる。
太郎「お母さん、お母さんッ」
志乃「お帰り」
太郎「お母さんは……」
志乃「ちょっと出かけてくるって……」
太郎「どこへ行ったの?」
志乃「さあ、行き先は言わなかったよ」
太郎「秋野のおばあちゃんとこかな」
志乃「へえ、実家(さと)へ行くなら行くって言ってけばいいのにねえ。
私に黙って……どうせ愚痴でもこぼしに行ったんだろう」
そこへ「ただいま」と玄関で知子の声がする。
太郎「お母さんだ」
と、飛び出して行く――面白くない顔で立っている志乃。
知子「お姑さんがお留守番してくださると思ったら、
つい安心しちゃってのんびり……申し訳ありませんでした」
志乃「そう……年寄りがいるっていうのもなにかの役には立つものねえ。
(と、機嫌がなおって笑い)これからはお夕飯の仕度くらいしておくから、
遠慮なく出かけるといいわよ」
ホッとしたようにほほえむ知子」(P100)


現実にはめったにないのだろうが、この人の出し入れはドラマの常套である。
おなじシーン(柱)で局面を変えたかったら、人を入れるか出すかすればいい。
人間はそばにだれがいるかで話す内容(セリフ)が変わる生き物なのである。
嫁姑バトルの軍配は姑優勢である。
新居は姑、志乃ににのっとられたようなかたちになってしまう。
知子は外で働き始める。
日曜日、知子の実母、波江がやって来る。
波江は姑が庭にいると孫の花子(小4)から聞き、まず姑に挨拶しようとする。
このへんの気配りを書ける現代の脚本家は少なくなっているのではないか?
キッチンから知子が出てくる。

知子「なにしてるのよ、お母さん、そんなところでえ」
波江「(小声で)高平のお姑(かあ)さん、いらっしゃるんだろ」
知子「え? あきれたあ、なに遠慮してるのお、さ、上がって上がって」
波江「そうはいかないわよ」
知子「(小声で)高平のお姑さんのうちじゃあるまいし……」
と、言いかけ、波江があわてて目配せしているのに気づいて黙る――。
志乃「まあまあ、お久しゅうございます。ご無沙汰ばかりいたしまして……」
波江「いえ、ご無沙汰は私どものほうで……伺おう、伺おうと思いながら、
なにしろ仕事を持っておりますでしょう。日曜日ででもないと……
まあ、ご機嫌よろしくてなによりでございます」
志乃「あんまり機嫌よくしていられることばっかりでもないんですけどね。
と言って、仏頂面してるわけにもいきませんし……」
知子「(嫌な顔で)……」
志乃「さあさ、どうぞお上がりあそばして」
波江「じゃ、ちょっと失礼させていただきます」
と、上がる――。
その波江に甘えるようにまとわりつきダイニングへ引っ張ってゆく太郎と花子。
志乃「(見送り、知子に)まあま、たまに来るおばあちゃんは得だわねえ、
いい顔だけしていればいいんだから、子供たちにも好かれるわよね」
皮肉に言う志乃」(P415)


おかしなもので働き始めた知子は職場の社長に気に入られる。
勤め先のメンズクラブでは重宝されて、いまでは相当のお給金を受け取る身である。
要は、俗事全般、問題は金なのであろう。金で解決しない問題のほうがめずらしい。
人間がいちばん好きなものは金なのではないか。
ドラマが書けないと悩むものは、金のやりとりを書けばいいのではないかと助言したい。
教科書的には、ドラマは人間を描くとされる。
この人間という生き物がもっとも愛するのは金である。
ならば、金を描くのがドラマということになるのではないか? むろん、極論だが。

知子「お姑(かあ)さん、(と、封筒を出し)
これ、今月分の生活費、お預けしておきます」
志乃「あら、まだ残ってるわよ、この前の」
知子「それは、お姑さんがお好きなものでもお買いになってください。
どうせ大した額じゃないでしょうけど、お姑さんがやりくりしてくださって、
少しでも余らせてくださったんですから」
志乃「そう……じゃ、繰り越すってことにして……ああ今日は月給日だったのね」
知子「それから、これは花子と太郎の家庭教師と塾とお稽古の月謝です。
お姑さんから子供たちに持たせてやってください」
志乃「はいはい、(と、別の封筒を受け取りながら)
知子さんも大したものだわねえ」
知子「……?」
志乃「だって、これ、あなたのお手当てからなんでしょう。
要(=志乃の息子にして知子の夫)はまだ月給持って帰ってないんだから」
知子「ああ……要さんの月給は家の借金のほうへ回すつもりなんです」
志乃「相当なお手当てもらってるのねえ、知子さん」
知子「え、社長がいろいろ気を遣ってくださって……」
志乃「それにしたってねえ」
知子「オープンから今日まで大変だったんですもの。
それに普通の事務なんかと違って、特別なお仕事でしょう。
勤務時間だって外よりずっと長いし……家のことも忘れて働いたんです。
それを社長も認めてくださったんですわ。私だって、
それくらいはちょうだいしてもいいと思ってます。(と笑う)」
志乃「へえ……大した自信だこと」
知子「うちでは、ぼんやりで冴えないおかみさんですけどねえ、
これでも、出るとこへ出たら、するだけのことはできるんですから。
皆さんにも可愛がっていただいてますし……(と、明るく笑い)
でも、これだって、お姑さんが留守を預かってくださるからこそできるんです。
感謝してます」
志乃「なるほどねえ。誰にもなにか取り柄ってものはあるものなのねえ、
知子さんは、客商売に向いているのかしらねえ、
男好きのするタイプなのね。きっと……」
知子「(ムッとすると)バーやナイトクラブじゃないんです。
顔やかたちなんて関係ありませんわ。
メンバーの方たちへの心遣いが私の仕事なんですから」
志乃「そりゃ、あなたはそう思っていても、
世間はそんな甘いものじゃないですからねえ」
知子、キッと志乃を見るが、言いたい言葉をのみこむと、
知子「じゃ、私、要さんが帰るまで少し横にならせていただきます」
と、家計簿を閉じるとさっさと出てゆく。
――いまいましそうに見送る志乃。
志乃「あんなきつい嫁もらっちゃてえ、
要も一生の不作だわねえ、可哀そうに……」
溜息と一緒につぶやく志乃――」(P484)


大笑いした箇所である。ドラマ「となりの芝生」の白眉であろう。
知子の演じ方しだいで、かなり場面の緊張が変わると思われる。
とにかく主人公をいじめぬくのが橋田壽賀子のドラマ作法である。
見たことはないけれど、アジアンドラマ「おしん」はさぞやすごかったのだろう。
被害妄想が強いほど女流はいい作家になると俗に言われているが、
あんがい脚本家も似たようなものなのかもしれない。
橋田壽賀子は、知子の旦那に浮気をさせてしまう。
その相手の女といえば、知子の高校時代の同級生である。
どうしてこうも脚本家は知子をいびるのか?
子供のできなかった橋田壽賀子は自分がされた嫁いびりを仕返すことができない。
その代替行為としてドラマの女主人公に辛く当たっているという見方はどうだろうか。
知子は、夫を寝取った時枝に言い放つ。欲しければ一緒になればいいと。
これを鼻で笑う時枝は悪魔そのものである。
女ほど根性が悪い生き物なぞいないことを人気脚本家はよくよく理解していた。
時枝は要と寝たのは遊びだとせせら笑うのである。

時枝「誰があんたの亭主なんかくれって言ってるのお。
山ほど金背負ってきたってごめんだわよ。あんなくそ面白くもない男ッ。
(……) さっきもさ、あの人、真剣な顔して、
責任を取るにはどうしたらいいか……だってさ。(と、ケラケラ笑い)
私、もうおかしくて、二の句がつげなかったわよ。
なにが責任取るよお、責任なんて言葉はね、
一人前の男が女をだましたときに言うセリフよ。
彼、きっと、私が彼を好きで彼の誘惑に乗ったとでも思ってるんじゃないのお。
思い上がりもいいとこだわ。
もっとも、男っていうのは、みんなそうだけど……」(P605)


脚本家の知子いじめはこれだけではない。嫁は姑からこう責められるのである
亭主に浮気をさせるなんて女房が悪いからだ、と。
ここにいたって強気な知子もとうとう実家に帰って泣いてしまう。
となりの芝生は青いと言うが、
一見どこにでもあるような平凡な家庭にも女という鬼がいるのである。
嫁と姑は、どちらも女編である。
たとえ仏のような女でもひと皮むけばみなみな鬼の面を隠し持っているのだろう。
女に比べたら男のどれほど甘っちょろいことか!

よい脚本家の条件に言語感覚の鋭さというのがあるはずである。
橋田壽賀子先生のセリフは敬語が多く上品でよろしいという評判らしいが、
わたしは作家の下品なセリフの艶(つや)にシビレたことを報告する。
橋田先生は女性だから、男性のようにドラマに理想を織り込まない。
一歩たりとも生活実感から離れないセリフは潔さすら感じる。

波江「まさか、お姑さまにご迷惑をかけてるなんてえ」
志乃「いいんですよ、留守番たって、
猫より少しましくらいのことしかできないんですから」(P419)


猫より少しまし! なんか下世話でいい言葉だよな。うっとりする。
橋田先生のお書きになる、生き生きとした女々しいセリフにはゾクゾクさせられる。
おつぎは噂話から。女はどうしてああまで人の噂話が好きなのか。

「でもさ、まさか、あのお高くとまってるおとなりさんがさ、
男くわえこんでたなんてえ、信じられないわねえ」(P564)


女が同性たる女を嘲笑うセリフというのは鬼のような凄味があってすばらしい。
「男をくわえこむ」とかいいよな。

先日、有名脚本家のI先生が某所で言っていた。
向田邦子さんは早くに死んじゃったからあれだけ有名になっているようなもんでと。
たしかにそういうところがあるのだろう。
橋田壽賀子は向田邦子にいささかも劣っていない。むしろ凌駕しているとさえ思った。
というのも、向田邦子のドラマは優等生的でだれからも嫌われないでしょう。
比して、橋田先生といえばお名前をグーグルに入れたら――。
関連検索で「橋田壽賀子 嫌い」と出てくるほど個性が強いのだから。

最後に私的なことを書いてもいいでしょうか。
シナリオ界には、橋田賞新人脚本賞というものがある。
「となりの芝生」を読んで、なんとかしてこの賞を取りたいと思った。
もっとも、いくらクレクレ欲しいと書いても、選ぶのはあっちだが。
履歴の「シナリオ・センター退学処分」の下に、
「橋田賞新人脚本賞受賞」と書けたらかなり凄味が増すような気がするのだ。
たぶん資質的(性格的?)にいちばん似ているのは橋田壽賀子先生だと思う(笑)。

(関連)「橋田壽賀子のプロ論」
http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/proron/0841/proron_0841.html

「長崎異人館の女」(市川森一/「ドラマ」1989年6月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成元年放送。テレビ朝日。
テレビドラマというのはつくづくむなしいと思う。
これほどの傑作ドラマがである。
いまググってみたら、感想がひとつも掲載されていないのだから。
たしかに平成元年にネットは普及していなかったから仕方がないのだろうけれど。
これよりくだらない映画がどれほどあるかを考えると本当にもったいない。
しかし、多くの人の記憶に残るのがテレビドラマである。
かくいうわたしも、このドラマを中学生のころに見た記憶があるのである。
おかしなトラウマになったあのドラマだと、シナリオを読み始めてすぐに気づいた。
まさかこのようなかたちで再会する日が来るとは、まったく不思議なものである。

やはり男女の三角関係というのがドラマの基本形としてあるのだろう。
名作ドラマ「長崎異人館の女」では、いくつもの三角関係が重なり合っている。
どうしてひとりの美しい女をふたりの男が愛してしまうのだろう。
そのうえ、どうしてもてる男は毎回決まってもてるのだろうか。
美しい女は美しいという理由でどれほどの災厄を呼び込んでいることか。
どうしようもなく、もてる男女がいるのである。
恋愛はそういう男女のために用意された遊具といってよい。
いっぽう、もてない男もいよう。
このドラマで片岡鶴太郎は、もてない男の暗い情熱、つまり怨念を背負わされている。
好きな女が決まって他の男のもとに走ってしまうという業を持つ醜男の役だ。
脚本家の言葉を引こう。

「鶴太郎がいい芝居してるんですよ。クランクイン前に、
鶴太郎に逢って、「これノートルダムのせむし男ね」と言ったら、
「やっぱりそうですかア、すぐ直感しましたア」
僕が「こんなびっこのブ男で悪いね」と言ったら、
「いや、こういう役一回やってみたかったんです」と言ってくれました」(P20)


市川森一は美しい松坂慶子になにを託したのか。脚本家の描きたかったもの――。

「不幸なんだけど、自分の不幸に気がついてない、
そういうつかまえどころのない長崎の女人像を描いてみたかった。
それを松坂さんのイメージにだぶらせてみたかった」(P20)


ともに過去に三角関係の痛手をかかえる片岡鶴太郎と松坂慶子である。
ふたりのやりとりがとてもいい。
愛妻を寝取られた過去を持つ、醜いびっこの徹(片岡鶴太郎)。
妻子ある男に惚れられてしまい(誘惑もしたのだろう)、
嫉妬に狂った女房と殺傷沙汰にまでなった林子(松坂慶子)。
徹、林子、どちらも三角関係の傷を持つ。
いま林子は老舗割烹料理店の旦那に囲われている(=二号、愛人)。
徹は林子を世話する下男といった役どころ。
ふたりは観光船のフェリーに乗っている。

林子「なしてやろか? 人を好きになると、悲しかことばかり起こる。
そいでも性懲りなく、すぐ誰かを好きになってしもて、
悲しかことば繰り返してばかり……」
徹「(同意)ほんとに……なしてでしょうかね」
二人が見詰める航跡が哀しい」(P101)


いいシーンだねえ、うん。人間のどうしようもなさを実にうまく描いている。
どうなのでしょうかね。
こういうのは、実人生で相当の色恋にまつわる痛手を負わねば書けないものなのか。
それとも鶴太郎的な、いわゆるもてない怨念だけで書けてしまうものなのか。
シナリオ・センターのマニュアル式テクニックで書けないことだけはたしかである。
シナリオはだれでも書けるのだろうが、
だれにでも書けるようなシナリオは、読むのも書くのもご免である。
ドラマが一貫して暗い色調なのがとてもいい。
星がいちばん光るのは、ネオンから遠く離れた夜空なのであろう。
「面影橋・夢いちりん」(市川森一/「ドラマ」1989年6月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。昭和63年放送。テレビ朝日。全4回。
読んでいてとても楽しいドラマであった。
こういうのを本当に幸福なドラマというのだろう。
なにしろ作者も書きながら楽しかったと述懐しているのだから。

「特に今回の「面影橋・夢いちりん」は、
僕が現実に学生時代を過ごした神田川の流れる早稲田界隈を舞台にしたんで
なおさら自分の実体験と近い雰囲気にのものになりましたが、
書いていて、こんなにここち良かった作品も珍しいですね。
ウソを書き乍(なが)らウソでないものを書いているような、
そういう安心感を自分の中でずーっと感じ続けました」(P19)


一流の脚本家は創作の喜びをなんと巧みに表現することだろう。
重要なので繰り返すが、
「ウソを書き乍(なが)らウソでないものを書いているような安心感」――。
これが大御所脚本家の市川森一が白状した創作の愉楽である。
いっぽう某創作スクールでは、みなみなシナリオを書けなくて苦しんでいるのである。
もうシナリオを書けなくなった講師が「シナリオを書くのは楽しいですよ」
としきりに口にするという、なんとも滑稽(こっけい)な光景が日常となっている。
それに対して「ウソをつけ」と思いながらも大半の生徒は、
いつかコンクールで受賞して微笑む日のために苦労呻吟しながらシナリオを書く。

どうしてシナリオを書くのが楽しくないのだろう。
そして、どうして市川森一はドラマ創りを、こうも楽しむことができるのか。
シナリオ創作の愉楽とは、ウソをつく快感ではないかと思う。
ウソをつくといっても、人間はまったくのウソを作り出すことができないようになっている。
どうしても自分の現実と関係するウソになってしまうのだ。
(山田太一「ありふれた奇跡」第9話にこれに類するセリフのやりとりがある)
うまいウソをつこうとすればするほど現実の反映を作者は腹の底で意識する羽目に陥る。
これはウソをついた本人しかわからない新たな自己の認識でもあるのだろう。
だから、ウソをつくのは楽しいのではないだろうか?
ウソを書くことによって自分という人間が自分にだけいかほどか理解できるようになる。
さらにこのウソによって解放される、
作者のほかに生きようがなかった現実というのがあるのだろう。
ふたたび、ウソをつくほど楽しいことはないということになる。

「面影橋・夢いちりん」はウソにまみれたドラマである。
かつて親友だったエリート4人が、ひょんなきっかけから20年ぶりに再会する。
4人が学生時代にだべっていた喫茶店の法事に呼ばれたのである。
そこには19歳の娘がいた。母は2年まえに死んだという。
父親はこの4人のうちのだれかだというのである。
娘の母親は4人のマドンナだった。だれが身ごもらせたのか。
4人のエリートとは、大学助教授、弁護士、外務省役人、銀行支店長代理である。
この法事の席で、銀行マンが実は昨日、愛人を殺してしまったのだと告白する。
1.娘の本当の母親はだれか?
2.妻子のいる銀行マンの愛人殺害事件。

ドラマではこのふたつの案件をめぐってウソが錯綜(さくそう)する。
3人はいきがかり上、旧友を警察から守る必要を感じてウソをつく。
またそれとは別に娘の本当の父親をめぐってウソが飛び交う。
贅沢なウソの楽しみに満ちたドラマであった。
メッセージ性(友情は大切!)など皆無なだけに、ウソ=ドラマの楽しみが際立っている。
真相をめぐって戸惑いながら行動する人間を見ているのは楽しいのである。
ウソをつく楽しみを知るものが、ここち良くシナリオを書くのだろう。
ドラマ作家は、ウソの不思議に分け入る存在なのかもしれない。
「ダイヤモンドのふる街」(市川森一/「ドラマ」1987年8月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。昭和62年放送。東芝日用劇場。
古本で購入したのだが、ボールペンで書き込みがあるのである(苦笑)。
それがおもしろかった。
おそらく、実際に放送されたものを見ながら記入したのだろう。
シナリオと放送バージョンのどこが違うかを書き込んである。
ディレクターは相当部分、シナリオをカットしたようである。
新しいセリフは加えられていなかったようだから、これは無断改変になるのかどうか。
ディレクターによるセリフカットは、もしかしたらテレビの常識なのかもしれない。
山田太一「ありふれた奇跡」でも、ここまで大幅ではないが、
カットされた部分があったのを確認している。
さて、「ダイヤモンドのふる街」におけるセリフカットは適切だったのかどうか。
読んだ感じ、たしかにカットしたほうがすっきりしていいのである。
果たして、市川森一氏は放送されたものを見てカットに気づいただろうか?

前所有者のこのドラマに対しての感想も最後に書き込まれいる。
「不完全燃焼。テーマは何だっけ」
わたしの感想は、前所有者に同意したいとこっそり書いておく。
「赤い夕日の大地で~家路~」(市川森一/「ドラマ」1987年8月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。昭和62年放送。日本テレビ。
これなんかテレビでの放送を見た記憶がうっすらあるのである。
だから、大人の批評がかならずしも正しいのかどうかわからなくなってくる。
というのも、テレビは老若男女だれもが視聴するでしょう。
このドラマのテーマは「満州からの引揚、中国残留孤児」――。
懸賞ドキュメンタリーに入選した素人のノンフィクションをドラマ化したという。
ドラマには、教えるという機能があるのだろう。
終戦直後に旧満州地方でこういうことがありましたということを視聴者に広く知らせる。
実際、子どもだったわたしもこのドラマを見て事実を知ったわけだから。
そのようなタイプの事実提示型ドラマの巧拙を論じるのは間違えているのかもしれない。

悲惨な母娘の生き別れがこのドラマの(言い方はよくないが)見せ場である。
娘が残留孤児になっているのだから、生き別れがあるのを視聴者は知っている。
こういう言い方はどうかと自分でも思うが、いつかいつかと待っているのである。
泣きどころがいつ来るのだろうと視聴者はハンカチを握りしめている。
一回絶体絶命のピンチを作るところに脚本家の巧みな手腕を見た。
ピンチが訪れるが、ここではなんとか生き別れを逃れることができるのである。
二回目でとうとう母と幼い娘は別れざるを得なくなるが、
前回がぎりぎりセーフだったので今回も大丈夫ではないかと視聴者は思う。
ところが、生き別れは生じてしまう。
一回目のピンチを作ることでどれだけ二回目の悲劇性が高まるか。
一流脚本家のドラマ構築術には感心させられた。
いかに視聴者の感情をうまく操作するかが、いいドラマを書く秘訣なのだろう。
「インタビュアー・冴子~もどらない旅へ~」(市川森一/「ドラマ」1987年8月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。昭和61年放送。日本テレビ。
優秀な作家が狙うことはみなおなじなのかもしれない。
小説家は小説の小説を書こうとすることだろう。
劇作家は演劇の演劇を書けないかとの野心を抱くはずである。
市川森一がこのドラマで意図したのは、テレビの仕組みをテレビで公開できないか?
こういう挑戦意欲を脚本家は持っていたと思われる。
なぜできるのかといえば、放送された枠が「セゾンスペシャル」。
スポンサーがセゾンの一社提供なのである。
スポンサーが脚本家の自由を認めてしまったら、さすがのテレビ局も口出しできない。

話は飛躍するが、シナリオライターにあこがれているものがなぜか多いでしょう。
現在ではそんなに魅力のある職業だとは思わないが、なる方法はいろいろある。
裏技を知っておいても損はないのではないでしょうか?
たとえば、スポンサーと懇意になる。スポンサーと昵懇(じっこん)になればいい。
テレビはわからないが、映画はもうスポンサーが内容まで口出ししてくると聞く。
ならば、スポンサーに取り入れば、少なくとも映画脚本家くらいにはなれるだろう。
スポンサーはプロデューサーよりも強い場合が多いから、
あとは監督との交渉をすればいいだけである。
イケメンのライター志望者は、大企業社長の娘さんを落としてみてはいかが?
高倍率のコンクールに応募するよりよほど確実な道である。
ほかには橋田壽賀子先生のようにテレビ局社員を落とす方法もある。
ライターというものは、好きなように書いたときにもっとも実力が発揮される。
しかし、なかなかライターの自由にはさせてもらえない。
どうしたらいいのか? 戦略として権力に取り入るしかないのである。

シナリオに話を戻そう。
テクニック「先をにおわせる」を吸収したいと思う。
古くは「オイディプス王」の神託に端を発するのではないだろうか。
「笑うセールスマン」で「これこれをしてはいけない」と物語冒頭で言うのもおなじ。
このドラマから先をにおわせるセリフを引いておく。どちらも未婚の男女。

○テレビ局・ロビー・階段(夜)
冴子の手を取って、ロビー階段を駆け上がっていく史郎。
冴子「(その手をふりほどき)おしまいになってもいいのね、私達が」
史郎「?……何故おしまいになるんだい?」
冴子「私とのこと、このままでいたいと思ってくれるなら、
私を天草へ行かさないで」
史郎「このままでいたいとは思ってないよ。
この旅が終わったら、俺はあんたと結婚する」
冴子「!?」(P51)


さあて天草でなにがあるかと視聴者は引っぱられるわけである。
「快獣ブースカ」(市川森一/「ドラマ」1987年8月号)品切れ

→市川森一24歳のデビュー作。テレビアニメシナリオ。
サブタイトルは「ブースカ月に行く」――。
心温まるほんわかとしたいい物語だった。
アニメ、シナリオ、物語というものは、みなみな現実への働きかけなのだろう。
我われは現実に屈服するだけの存在ではない。
現実になにかを仕掛けていくこともできるのだ。
そのような人間の働きから、広い意味でのドラマが生まれるのだと思う。
本作品では快獣のブースカ(とてもかわいい♪)が、
月に行きたいと思うことから物語が始まる。
もちろん行けるわけはないのだけれども、
ブースカの友人の少年少女はなんとかしようとする。
結果、意外なトラブル、意外な結末へと物語は進むが、
こうなったのはすべて少年少女が現実をなんとかしたいと思ったからである。
現実を乗り越えたいという切実な思いがフィクションを創っていくのだろう。

思えば、わたしはパンダの Yonda? くん(プロフィール写真参照)と
毎朝毎晩お話していた辛く苦しい人生の一時期があった。
Yonda? くんはかいがいしくダメ人間のお世話をしてくれたものである。
こういう情けない弱い部分からドラマが誕生するのかもしれない。
なお、 Yonda? くんとはいまもって良好な関係を続けている。
市川森一にとってのブースカが、わたしの Yonda? くんなのかと思われる。
「リトルボーイ・リトルガール」(内館牧子/「ドラマ」1989年8月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成元年8月2日放送。日本テレビ。
シナリオ・センターの広告塔、内館牧子先生のご脚本を拝読する。
あのスクールはどれほど内館先生に感謝しても足らないだろう。
いかに多くの女性が内館牧子にあこがれてシナリオ・センターの門を叩いたことか。
とはいえ、ここの受講生のおもしろいのは、内館牧子さんのようになりたい! 
と思っているところ。内館牧子のような作品を書きたいのではないのである(笑)。
そもそも受講生は(実は講師も!)マニュアル書(新井一「シナリオの基礎技術」)
を信奉するばかりで、過去の名作シナリオを読んで勉強したりはしない。

夢はプロになること!

どうしたら効率的にプロになれるかを考え、割高の講座に金銭を惜しげもなくつぎ込む。
あきらめなければかならず夢はかなうと信じて5年、10年と通学するものもいるらしい。
生徒も講師も女性の割合が多いシナリオ・センターは極めて現実的で、
いかにいい作品を書くかよりもいかに業界に入るかを考える風土が定着している。
実際問題としてプロになるために必要なのは、いい作品を書くことではないのだろう。
だから、シナリオ・センター40年の歴史が間違っていたと言いたいわけではない。
30~40歳の女性にシナリオライターという夢を提供してきた社会的功績は大きい。
どれほど多くの人間がシナリオ・センターの存在に救われたことだろう。
おかしな新興宗教団体に比べたら、よほど健全で価格も良心的だと思う。

プロの内館牧子先生の「リトルボーイ・リトルガール」はヒロシマ原爆もの。
戦後生まれが書く戦争ものだから、まあ、この程度でも仕方がないのだろう。
ドラマが始まると平成元年、ヒロシマの夏、
見知らぬ男女が出逢い、いきなり自己紹介をしたりする。
それからなにが始まるかといえば、原爆の歴史の説明である。
シナリオ・センターの講師に見せたら赤字で添削されそうなシナリオだが、
内館牧子はプロだからなにをしても許されるのである。
シナリオ・センターの決まりにしたがいシナリオではアンチが登場する。
「天地人」の「天」は戦時中。
主人公は夢見る(笑)少女なので、アンチは愛国心あふれる軍国少女になる。
ドラマは葛藤、葛藤、葛藤!
主人公とアンチはシナリオ・センターの法則に忠実にのっとり喧嘩をする。
クライマックスでは両者の和解。
少女たちは防空壕で結婚退職する女性教師のお祝いをする。
おそらく、内館牧子はこのシーンをいちばん書きたかったのだろう。
「プロは書きたいことじゃなく、売れるものを書くんです!」
というシナリオ・センター講師の教えに逆らっているが内館牧子なら許される。
なにゆえか? 内館牧子の年収・知名度とシナセン講師のそれを比較したまえ。

「夏服に防空頭巾の少女達が、ローレライに合わせて静かに体を揺らせている。
炎に照らしだされた処女達の顔は、地上に舞い降りた天使」(P128)


映像になりません!

映像にならないことはト書きに書いてはいけません!
こう指導しているシナリオ・センター講師の書いた脚本が
実のところ一度も映像になったことがないのは、珍妙な皮肉なようで笑える。
いや、笑えない。というか、講師先生を笑ったら失礼になるのだろう。
でもやっぱ笑っちゃうよね? クスクス。

結論の感想。ボクも内館牧子先生のようなプロになって、
シナリオ・センターの50周年パーティーに招待されたいと思いました。
だから、社長さん、それまでがんばって経営をお願いします。
所長さん、長生きしてくださいね。
U先生、あなたの書いたシナリオを一度でいいから読んでみたいです。
ボクボクボクはOBとしてシナリオ・センターを応援していまっす。

シナセンばんざい♪
「失われし時を求めて~ヒロシマの夢~」(早坂暁/「ドラマ」1990年5月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成元年8月6日放送。NHKスペシャル。
ドラマ全体がしっとりとぬれている。情緒があるということだ。
こういうテイストの話になると、テクニックでは説明がつかない。
やはり脚本家にもそれぞれ思想のようなものがなくてはならないのだろう。
(粗製乱造ではなく名作を書きたいならば……)
理想郷と言い換えてもよいと思う。世界というのはこうであってほしい。
人間とはこういうものだが、しかし、こうでもあるのではないか、という信念だ。
こうであってほしい、という願いだ。

もしかしたらプロデューサーや映画監督は、ライターにそんなご大層なものはいらない。
とにかく気の利いたセリフを早く素早く書いてくれたらそれだけでいい。
ドラマの土台は俺たちが考えるから、と主張なさるのかもしれないけれども。

「失われし時を求めて」は、記憶喪失の男が過去を取り戻していく物語である。
「隠されていた」過去が、少しずつ判明していく。
その過程で明らかになるヒロシマの惨劇――という構図である。
記憶喪失の男は水商売の女と同棲しているが、実のところ妻がいたのである。
記憶=過去を取り戻した男は、ふたりの女のあいだで迷う。
まず本妻が男の権利を放棄して、その行為に打たれた女が男を家庭に戻してやる。
この話は実話を元にしているそうだが、水商売の女が脚本家の創ったフィクションだという。
足の悪いびっこの女性を早坂暁は創造した。

「そういう障害を持った女が原爆症で記憶喪失になってる男と
お互いが支えながら生きていくわけです」(P9)


唐突に作者の言葉を引いてきたが、ここに早坂暁の根本があるように思うからである。
人間がお互い支えあって生きていく――これが早坂暁の思想であり理想郷なのだろう。
脚本家にとってドラマとはなにか?

「しかし結局は「愛」がドラマの基本なんですね。その愛を問われる。
(……) 人間、経済活動しながら、
根底では何かの愛にかかずらわって生きてくわけです。
だから、愛の根幹にふれるドラマが見たいんですよ。
で、自分の人生でなく他人の人生の中にそれを見たい。
自分の人生は変えられないんだから。
あれは自分だと思ったりしながら、ドラマの人物に託して見ている。
自分は人殺しできないけど、ドラマの中ではついに人を殺してしまったとか、
相手と逃げちゃったとか、自分もそうするだろうなと、
限りない共感や反発を寄せながら見てるわけです。
シュミレーションしてるわけです」(P12)
「びいどろで候 第1回」(早坂暁/「ドラマ」1990年5月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成2年放送。NHK。
ドラマは隠すということが重要なのだとシナリオの達人、早坂暁から教わる。
我われ視聴者は、なにが見たいかなんて自分たちではわかっていないのだろう。
もしかしたらもうなにも見たくないのかもしれない。
それでも脚本家は視聴者にテレビドラマを見てもらわなければならない。
このとき早坂暁はどうするのか? そう、隠すのである。
我われは隠されるとなにがあるのか興味をそそられる哀れなホモサピエンスなのだ。
視聴者は見たいもののを見るのではなく、
隠されたものを隠されているからという理由で見たくなるのかもしれない。
女性は下着姿よりもミニスカートのほうが興奮する仕組みとおなじである。
本当の助平は全裸よりもきわどい水着姿に劣情を刺激されるのだろう。
いまはなき芸能人水泳大会もそう(ヤングは知らないだろうなァ)。
ビキニのトップがなんらかの拍子で外されたとき、
仕込みの女性が必死に胸を隠そうとするから世のオッサンは画面に引き寄せられる。

「びいどろで候」のドラマ作法も、おっぱいポロリのようなものである。
江戸にあった外国人専用ホテル・長崎屋に奉行が点検にやって来る。
長崎屋の人たちは、二階にある人を隠しているから慌てるのである。
どうにかほこさきを変えようとしたがかなわず、奉行の半蔵は二階へ上がっていく。

○二階
欄間の小鈴が鳴る。
二階の居間の床の間の壁が一回転して、誰かが中へ消えていく。
背後の姿がチラと見えるだけで、どんな人物か判らないが、
男の老人のように見えた。
床の間の壁の一回転で、掛軸がかたむく。
古い世界地図だ。なおすのは、かおる。
襖が開いた。半蔵だ。ほんの一瞬の差である。
かおる「申し訳ありません。お泊のお客様が、出て行かれたすぐあとなので、
まだ片付けが……」(P18)


このとき隠れたのはのちに平賀源内だとわかるが、
顔を見せないのはなんとも心憎い脚本家の気配りではないか。
同時進行で江戸へある貴重品が運ばれている。
大名駕籠(かご)とも思える立派なのが、四人の人夫にかつがれているのだ。
第1回の最後で、この中にいたのが亡命してきたナポレオンと判明する仕掛けである。

「びいどろで候」はとにかくうまいのである。
時代劇は大の苦手でいままでシナリオは読んだことがなかった(読めなかった)が、
シナリオのテクニックに引っぱられて最後までぐいぐい読み通してしまったのだから。
本誌の巻頭に脚本家のインタビューが掲載されている。
たいへん勉強になったので、少し長くなるが適宜抜粋したい。
ライバル=敵に塩を贈るような行動だが、構わないと思っている。
結局は才能なのだから。早坂暁も言っている。
「脚本を書くことも才能ですが、そう言ってしまうと身も蓋もない」
それでは、早坂暁のシナリオ作法」から――。

「テレビというのは「今」なんですよ。
「今」を外したテレビは存立しない。時代劇であろうと、
「今」に最終的に何かを照射しないとテレビのドラマはだめだと思う。
直接「今」を語るのはニュースですけど、違うかたちで「今」を語る。
テレビが映画や演劇と違うのはその点でしょう。
同じ映像ですけど、映画とはちがい、各家庭に入って日常の中に照射しながら、
もっとも「今」を反映して語るものがテレビドラマです」(P6)


「いろんなキャラクターを作って、いろんな煮詰まった状況にほおりこむ。
その中で登場人物たちは懸命に生きていくわけで、
だから動かしてみないと分からない結末ってありますね。
実にいろんな展開があるわけですから。書きながらボルテージを上げていく。
目指すものはあっても、その通りにいくとはかぎらない。
こういうふうに生きたいと思っても、そういかない場合もある。
だから、僕は結末は漠として予感はしているけども、
はっきりと決めて書いたことはないですね。
ということはハコ割り、シーン割りはしていないということです」(P9)


スクールで秘術のようにもったいぶって教えられるハコ書きを、
天才脚本家の早坂暁はバッサリ切り捨てる。山田太一とおなじである。

「次に、シナリオを書いていく具体的な方法ですが、
最初にこれこれこういうことがありますと説明して始めたら、
チャンネルは変えられてしまいます。まずドラマが始まって、
「なんであの人泣いてるの?」「それはこうだから」
「なんであんな格好してるの?」「それはこう……」
と、見てる人が「何で?」と聞く時に実はこうなんだと説明すればいい。
先に行為がある。行為が面白ければ、必ず聞きます。
聞かれる前に説明するから退屈する。見る人が聞きたい時に言えば十分」(P10)


スクールの講師のなかにもご存知ない先生がいらっしゃるようだが、
ドラマの原義は「葛藤」ではなく「行為」であります。

「日常を全部写したってドラマにならない。
そこで日常にない圧力をかける。その圧力鍋に入れるから、
普通の生活では見えないようなところも結末まで見えるわけです。
その圧力釜への入れ方、どんな圧力をかけるか、
それがドラマの設定になるわけですね。
どうやってせっぱ詰まらせるのか。
圧力釜に入れた時に、その人の生活環境や設定によってみんな動き方が違うのです。
大概のところは、途中まではみんな同じです。
圧力かけてせっぱ詰まってきたときに違いが出る。(……)
せっぱ詰まったときにその「人間」が一番でるわけです。生地が見えるんですね。
それまで同じように見えてた人間が恐ろしい人間に見えたり、
やさしい人間になったり。
実に圧力釜に入れたときの人間の動きって様々なんです。
でも、なぜその人がそうなるのかちゃんと知らなきゃいけない。
せっぱ詰まった状態を描くのがドラマなんですから。
せっぱつまらない所は普通の日常ですからドラマたりえない」(P11)


しかし「ドラマ」編集部員はどうして漢字の表記を統一しないのだろう。
「ちがう」と「違う」。「とき」と「時」。せっぱ「詰まる」と「つまる」。
いちおう引用は原文を尊重してすべてそのままにしてあります。
一箇所、明らかな脱字がありましたから、そこは直しました。
「ドラマ」編集部には校正担当のかたがいらっしゃらないのでしょうか?
「夢運河」(早坂暁/「ドラマ」1989年3月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成元年放送。テレビ朝日。全3回。
歌謡曲をオペラ風に使用した実験作ということである。
これはもう音が入った映像作品を見ないことにはシナリオだけではわからない。
内容は、女ヤクザが主人公の人情ドラマ。

ところで、本誌に早坂暁の写真が掲載されているが実にいい顔をしているのである。
特に目がいい。しっかりと敵を見据えているといった印象。
まさしくサムライとしか言うほかない表情である。
むかしの脚本家はみなみな一本筋が通った野武士のような顔をしている。
山田太一、倉本聰、中島丈博、市川森一、みんなそうである。
理由はきっとこういうところにあるのだろう。早坂暁インタビューから。

「シナリオ書くのも面白いし、小説書くのも面白いし、
舞台書くのも面白いし、演出するのも面白い。みんな面白い。
体はシンドイですよ、シンドイけど面白い。
みんな面白いから困っちゃうんですけどね、
主治医はしぶい顔をしております(笑い)」(P100)


書くのが面白くなかったら物書きなど目指すべきではないのだろう。
面白いことばかりしている男は段々といい顔になっていくのではないか?
「汚れっちまった悲しみに」(中島丈博/「ドラマ」1990年6月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成2年放送。フジテレビ。2時間もの。
中原中也の評伝ドラマ。小林秀雄と長谷川泰子との三角関係がドラマの主軸となる。
三角関係というのはドラマの王道だよね。特に男2、女1の三角関係。
わたしも最新作の応募シナリオは、意識して三角関係を描いた。
友情か、それとも恋愛かという二者択一が、実にドラマの形式に合っている。

中原中也というのは生前まったく認められなかったようだね。
このドラマで中也の詩が取り上げられているのだが、どこがいいのかまるでわからない。
実のところ脚本を書いた中島丈博も中也の詩は理解できなかったらしい(笑)。
(関係ないけれど、山田太一は中也の詩を理解できる模様。
本棚紹介を見たことがあるけれど、中原中也の詩集が大切そうに陳列されていたから)

中也の作品を受け入れられなかった脚本家は、こんなえぐいセリフを書く。
夫婦喧嘩で妻が中也に言うのである。

「芸術家がどうしたと言うんや……
あんたの詩なんか、なんぼ読んでもよう分からんわ!
あんなもんにどんな値打があるの? 三十にもなって親ががりで、
あたしが親戚にどんな肩身の狭い思いをしとるか、あなたは分かっとるの?
どんなに気兼ねをして近所付き合いをしとるか分かっとるの?
それをいつもあなたは台無しにしとるじゃないね!」(P219)


話が飛びまくるけれど、山頭火と中也の妻が一緒に写った集合写真があるのね。
それを見たら奥さんが美人でたまげたわ。
好き勝手に生きてあれだけ美人の奥さんもいたのだから30で死んだ中也だが、
ことさら人生に悔いはなかったのではないか、とさえ思ったものである。

以上で中島丈博の特集は終了。最後に脚本家の言葉を紹介したい。
「シナリオを書くきっかけは?」

「文章を書くのはシンドそうだけど、シナリオは空白が多くて、
「彼女来る」とか、そっけないト書で、
あとは全部セリフで楽そうじゃないかと思って、
こんなのだったら書けるんじゃないかと思った」(P11)


正直者だよな(苦笑)。シナリオだったら楽に書けると思ったから、か。
たしかに小説に比べたらシナリオの敷居のなんと低いことか。
まさに学歴、年齢、性別不問の世界である。
「ライター志望者へアドバイスを」

「自分がやってることと同じになりますけど、あんまり、
胸の中に溢れてこないうちに書かないほうがいいんじゃないですか。
熟してくるのを待つというか。
そんなこといってたら一生書かなかったりするのかもしれないけど。
素材の周辺をできるだけぐるぐる回って臭いを嗅いだり、本を読んだり、
人と話したりして、書こうとする世界の形とか臭いとか、
雰囲気とかが見えてくるようじゃないと。
書き出しがあまり早いと、どうしたって型になっちゃいますからね。
あとは、必ず書いたものを点検する。読み直す」(P13)
「幸福な市民」(中島丈博/「ドラマ」1990年6月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成元年放送。NHK。2時間もの。
もしかしたら相当に時代を先取りした作品だったのかもしれない。
作家の先見性、すなわち才能に恐れ入った。
しかし、テレビの世界は残酷で、放送されたらすぐに忘れ去られてしまう。
これが小説だったら読み返されて再評価されるようなこともあるのだろうが。
こないだ脚本アーカイブズのシンポジウムに出席したときに言われていた。
テレビ界においては(小説、演劇、映画と異なり)
批評のシステムがいまだ確立していないのである。

「幸福な市民」では、働かないニート、ゴミ屋敷がテーマになっている。
驚くべきはこれが平成元年に放送された作品だということである。
もしや働かないのが本当の幸福ではあるまいか?
どうして日本人は働き蜂のように余裕がないのだろう。
放送後は評価が二分したという。
日本人の勤勉性をバカにしてはならないという批判を大新聞の記者が書いたそうである。
脚本家は日本社会への疑問からこのシナリオを書いたのであろう。
もっともメッセージ性の強いセリフを引いてみよう。

「サラリーマンの昇進欲は、言うならば自己保存の本能みたいなもんや。
それを企業は不必要なまでに駆り立てて、企業利益に奉仕させようとするんや。
そうやって、遮二無二働かされて、日本は経済発展したけど、
それでみんな幸せになったか?
物がこんなに氾濫しても、人間はちっとも幸せになれへんやないか」(P167)


ドラマ定番のセリフをひとつ。
ドラマを生み出し、ドラマを進めるセリフというのがいくつかあるように思う。
脚本家予備軍はスクールに金と時間をつぎ込むくらいなら、
名作シナリオを読んだほうがよほど勉強になるのにどうしてそうしないのだろう?

「ほんまのこと言うたら、あたし、お金に困ってるわけやないの」(P137)

「本当は○○なの」――。○○を変えるだけでいくらでもシナリオができよう。
「恋愛模様」(中島丈博/「ドラマ」1990年6月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成2年放送。NHK。全2回。
どのようなドラマかは脚本家の言葉を借りよう。

「随分前から老人同士の恋愛、
セックスという素材をやりたいと思って取材していたんです」(P21)


脚本家は老人のおまんこに興味を持ったことからドラマが生まれた。
なにかに関心を持つというのが、ドラマ創作の第一歩なのだろう。
むかしからおまんこが好きだった脚本家は、
老人のそれはどうなっているのだろうとわずかながら飛躍したのである。
関心・興味は元から好きなものから生じることが多い。
好きなものがある人間ほどシナリオ創作には有利なのだろう。

なかなかドラマを書き始められないという人がいるかもしれない。
ドラマが始まるときのセリフというのは実のところ存在している。
このドラマから拾うとこれである。

「何してんのん、お母ちゃん?」(P123)

いかにもドラマが始まるにふさわしいセリフだとは思いませんか?
こうたずねられたほうが、すぐに答えを言わないのもまたドラマ作法である。
これはテクニックだが、意識してやろうとしてもうまくいかないだろう。
脚本家は、どうしてかこのセリフを書いてしまうのである。
すると、次から次へセリフが生まれ、いつの間にかドラマが開幕している。

「恋愛模様」で中島丈博は早坂暁の好む「人物の出し入れ」を使っていた。
すなわち(人物を)出そうとした瞬間に入れる――。
テンポが速まるテクニックである。

ドラマで結婚詐欺師が出てくるが、考えてみたらもっともドラマ的な人物ではないか。
結婚詐欺師こそ、最上のドラマ登場人物だといま気がついた。
相手を騙さなければならない(=嘘を仕掛ける)。
自分の正体を隠さなければならない(=秘密)。
結婚というのは、大概の平凡な人間にとって人生でもっともドラマ的なことである。
おそらく結婚をめぐっての騒動を描いたドラマが統計を取ったらいちばん多いのではないか?
「海照らし」(中島丈博/「ドラマ」1990年6月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成元年放送。NHK。全4回。
ちょっと頭で作りすぎたという感もないが、実に美しいドラマである。
対馬の小島を舞台にしているので、映像で見たらさぞかしきれいなことだろう。
中島丈博の好きな「おまんこシーン」も随所に見られ、
脚本家が楽しみながらこのシナリオを書いたのがよくわかる。
田舎出身というのは、一見マイナスだがシナリオを書くうえでまたとない武器になる。
このドラマは間違いなく中島丈博にしか書けないものである。
山田太一や向田邦子には決して書けない。
脚本家は高卒だが、これも表現をするうえでプラスに転化しているように思う。
以下に引用するト書きなど、インテリには断じて書けない魅力にあふれている。

「足留男の無遠慮な目が玖美子の体の線に添って這う。
玖美子、ツンとして目を逸らし、佐智彦を促す。
玖美子「行こ、小父さん……」(P35)


まるで視線で衣服を剥ぎ取るように若い女性を見ることができる――。
これは田舎モンのノーインテリ(ノータリン)にしかできない行為である。
ドラマは成績優秀、品行方正の人物ばかりではつまらないのである。

伏線の作り方が勉強になる。
伏線というのは「わからない」ということなのだろう。
たとえば、理由・動機の「わからない」行動をある人物がする。これが伏線だ。
ミステリーのみならず事件を起こすのも伏線である。
ちょっとした事件(異常事)が起こったとする。だれがやったのか「わからない」。
これもまた伏線である。人物自体が伏線というケースもあろう。
「謎の男」はその典型である。

嘘がドラマを動かすことが多い。
人間はだれででも欲望を持つ。現実をできたら思うがままに動かしたい。
自分の都合のいいようになってほしい。要は得をしたい、いい目を見たいのである。
だから、嘘をついて現実(他人)になにかを仕掛けていく。
シナリオを勉強するなら、作法書を読むよりも、名作に触れるに限るのではないか?
「独身送別会」(中島丈博/「ドラマ」1988年2月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。昭和63年放送。NHK銀河テレビ小説。全15回。
「シナリオライターをめざす若者たちの青春グラフィティー」――。
時系列的には「祭りの準備」に続く脚本家・中島丈博の自伝的作品ということである。
私的な話だがコンクールに連続して落ちると本当に気がめいる。
むかしの脚本家志望の青春ドラマなぞ読んだら情熱がよみがえるかと期待したのだ。

シナリオ作法というのは作者の書きたいシーンが核になるのだとつくづく思う。
このシーンをどうしても見たい。だから、書いてしまう。
これがどんなライターにもなければならないのである。
この書きたいシーンを効果的に提出するために、いろいろテクニックを用いていく。
いまは書きたいシーンもないのに、ライターになりたいという理由からだけで
シナリオを書こうとしているものが多いような気がする。
だが、何年シナリオ学校に通おうが、書きたいシーンだけは教えてくれないぞ。
これは作者おのおのの内奥の問題だからである。

このドラマで脚本家が使用していたテクニックを逐一あげていく。
・だれかを探すシーンは視聴者の気を引くことができる。
・嘘を仕掛ける(これは私の弟よ!)とばれるかどうかドキドキさせることができる。
・隠し事を作ろう。共犯意識で視聴者を引っぱることができる。
・「二つに一つ」で登場人物を迷わせよう。
・別れのシーンは登場人物の感情を盛り上げることができる。
・「だれにも言わないで」はドラマの定番ゼリフ。
・暴力シーンをピンポイントで入れると視聴者を刺激することができる。

ふたたび冒頭の書きたいシーンの話題に戻す。
書きたいシーンのないライター志望者はどうしたらいいか。
あきらめるしかないのか?
わたしは某スクール講師よりも数段上という自負があるから回答したい。
書きたいことがないものは、人生で傷つくようにしたらいいと思う。
失敗体験、屈辱体験、失恋体験が、書きたいシーンを醸成するのではないか?
このドラマでは脚本家志望の主人公が何度も失恋する。
失意の青年にボロアパートの大家(おばさん)がかける言葉がいい。
シナリオ作法とは、このセリフに尽きるのではないかと思うくらいである。

「仕方がないわよね? この恨みはね、原稿用紙の上で晴らすといいわよ。ね?」(P65)

ちなみに、このシナリオ作法にもっとも忠実なのは橋田壽賀子先生である。
「時には母のない子のように」(野島伸司/「ドラマ」1988年7月号)品切れ

→第2回フジテレビ・ヤングシナリオ大賞、受賞作品。
かつて我われの世代を夢中にさせた野島ドラマのルーツである。
受賞時、野島伸司は弱冠24歳。このバックナンバーはずっと探していたのだが、
ラッキーにもネット古書店でついにとうとう見つけることができた。
審査の様子が同誌に掲載されていたので、
だれが野島伸司の才能を発見したのか興味を持って読む。
意外なことにだれも野島伸司を積極的に推していないのである。
消去法でヤンシナ大賞を受賞した青年が、のちにドラマ界を席巻することになるとは。
(ちなみに選考委員のひとりに遠藤周作の息子さん、龍之介氏がいる!)

長年読みたかった野島伸司ヤンシナ受賞作品に目を通した感想は、あれ?
そこまでギラギラした才能を感じさせるような作品では正直ないのである。
野島伸司の例からわかるのは、
公的に認められることで大きく伸びる才能というものがあるのだろう。
「時には母のない子のように」は、11歳の少年・公平が主人公のホームドラマ。
作者の言葉を借りるならば――。

「不幸な自分を想像して自分で同情するという、
あの少年期特有の心理的ゲームをメインプロットにしています」(「受賞の言葉」より)


公平は、ありふれた四人家族の長男。
会社員の父・一平(37)、主婦の母・純子(40)、弟・陽太(9)という家族構成。
公平のクラスに転入生の男子がやってくる。この転入生が不幸なのである。
「おととし御両親を交通事故で亡くして、現在はお姉さんと二人で生活しています」。
不幸な少年にクラスの同情が集まる。
公平がなにより悔しいのは、好きな女の子まで転入生に肩入れしたこと。
公平は不幸にあこがれてクラスメートに嘘をつく。
両親が不和で母が家を出ていってしまったという嘘である。
そのうえ、家が貧窮していると偽る。
のちに野島伸司が愛用することになる設定=貧乏をデビュー作から使っているのである。
(だから「ひとつ屋根の下」「家なき子」といった貧乏ドラマの起源なのであろう)
「不幸の連打」で知られる野島ドラマ(または悪評が高いとも言う)。
脚本家のドラマ作法は、もしかしたら「不幸に酔う」ことなのかもしれない。
「時には母のない子のように」で公平は自分が想像した不幸に酔う。
貧しい欠損家庭(片親)の少年になりきるのである。
公平は筆箱を万引しようとして捕まってしまう。
警察署でも老刑事に嘘をつく公平である。父親の一平が引き取りにやって来る。

○警察署入口
出てくる一平。すこし遅れて一平の顔色を窺いながら公平が出てくる。

○青梅街道沿いの歩道
一平、少し遅れて公平が歩いている。
一平「筆箱が欲しかったのか?」
公平「(頭を振る)」
一平「そうか……」
公平「……」
一平「何であんな嘘をついた?」
公平「……」
一平「やったことを軽くしてもらおうとしたのか?」
公平「(頭を振る)」
一平「……」(P48)


二人は赤ちょうちんのおでん屋に入る。

一平「自分を悲劇のヒロインにしようと思ったのか?」
公平「……」
一平「(飲みながら)俺もお前ぐらいの時はたまに、
自分がみなし子だったらいいのにとか、
自分が不治の病に犯されていて、もうすぐ死んでしまうんだとか想像して、
不幸な自分に自分で同情したりして楽しんだりした。
だからお前がそんな事でしたなら俺にも分からない事じゃない。
もちろんだからといって、許される事じゃないが……」
公平「……」
一平「お母さんがお前を捨てて出ていってしまったか(微笑む)」
公平「(一平を見る)」
一平「こんな事は決してお前に言ってはいけない事なんだろうが……
お母さんが妊娠、つまりお前がまだお母さんのお腹の中にいた時、
俺はまだ学生だった。正直まだ結婚したくなかった。
もちろんお母さんを嫌いになったわけじゃなく、なんていうか……
本棚が食器棚になることに我慢ができなかったんだ。わかるか?」
公平「……」
一平「だからずいぶんお母さんにイジ悪した。
それは時には言葉であったり、時には態度であったり……
お母さん、いつも笑ってた。病院でお前が産まれて……
その頃には俺ももう観念していたっていうか(微笑む)
優しい言葉の一つでもかけてあげようと思って病院にいったんだ。
俺が何か言う前に、お母さん、アリガトウって言った。
何度も何度もそう言って泣いてた。……お母さん、綺麗だった」
公平「……」
一平「(両手で顔を覆い)お前はそんなお母さんがいないって言うのか」
公平「(一平の手と頬の隙間から涙を見つけ、目を伏せる)」
一平「お前を捨てて出ていってしまったと言ったのか」
公平「(頬を膨らませて泣くのをこらえる)」

○丸山家
玄関のドアを開けて入っていく一平と公平。
台所から順子(母)が出てきて、
順子「(公平に)おかえり(微笑む)」
公平「ワーッ(と、急に泣き出し順子に飛びついていく)」
順子「(抱きとめ、一平を見る)」
一平「(うなずく)」
陽太(弟)も出てきて、
陽太「兄チャン、何で泣いてんだよぅ(と、思わずもらい泣きしてしまう)」

○子供部屋
グズグズいいながらテレビゲームをしている陽太。
陽太の首に手を廻して見ている一平。

○台所
順子に甘えるように体を預けている公平。
公平「(泣きはらした目で)
俺、お父さんに嫌われちゃったよ(またグズグズしだす)」
順子「バカね。自分の子を嫌う親なんかいるもんですか(優しく撫でる)」

○子供部屋
カチッと電気を消していく順子。
しばらくして、
陽太「兄チャン、俺達兄弟だよな?」
公平「……ああ、耳がおんなじだろ」
陽太「……」
公平「(下を覗く――陽太は寝息をたてている)
なんだ寝言かよ(バサッと布団を被る)」(P49)


最初に読んだときはありがちな「泣きシーン」だとどこかでバカにしていたけれど、
こうして書き写してみるとセンチメンタルでとてもいい。
長々と抜粋してみた。
おそらくこのシーンが、のちに日本を騒がすことになる野島ドラマの原点である。
平成5年、日本各地の高校生をどよめかせた(わたしもそのひとりだった!)
ドラマ「高校教師」は、このシーンにおける公平少年の涙を源流に持つのである。
「地獄に堕ちる人 堕ちない人」(ひろさちや/ぶんか社)

→努力して艱難を乗り越え成功。その成功を勝ち誇るばかりが幸福ではない。
むしろ、本当の幸福な人の姿は――。

「人間は何もせずボケーッとのんびりしているのが神々しい」(P132)

このことをわかっている人と、どうしても努力成功信仰から抜け出せぬ人がいる。
努力してなにかを積み上げたところで不安の種が増えるだけなのに――。
おそらく、ぼんやり川でも眺めているのがいちばん幸福なのだろう。
わたしはそのことを知っているが、どうしても成功を目指して努力してしまう。
なぜなら、河川とボーっと向き合うことができないからである。
たぶん十中八九、ひろさちや氏もわたしとおなじタイプだろう。
本当の幸福とはなにかを知っているのに、決してその幸福を味わうことができない。
哲学上の難問でもなんでもなく、ただただ貧乏性なのだろう。

「アジア写真旅 エイジアン・ガール」(日比野宏/新評論)絶版

→カメラマンの著者が旅先で撮影したアジアン女性の写真をエッセイとまとめたもの。
どの写真もすばらしかった。
旅というのは、人との出逢いと別れがすべてだと思う。
この意味で、パックツアーは旅ではない。
パックツアーは、決められた風景を順に見せられるだけの移動式映画鑑賞のようなもの。

偶然に出逢いそして別れる人との思い出がどれほど輝いているか。
一度きりで、もう二度と逢わない、いや逢えないというのがいいのだろう。
どうやら人はみな、こういうときだけとびきりの笑顔を見せるようである。
断じて同居する家族や、ましてや職場の同僚に見せなかった顔を!
「エイジアン・ガール」の写真を見ながら思ったことである。

「人間の覚悟」(五木寛之/新潮新書)

→五木寛之先生のような大成功者も我われ庶民とさして変わらぬものかもしれない。
と思わせたい作者の術中にわたしがはまってしまったという可能性もある(苦笑)。

でもまあ、どんなに成功しても、人間関係だけはうまくいかないのだろう。
むしろ、成功者ほど、人との付き合いがぎくしゃくするようになるのか?
ブサイクな独身医師の、近づいてくる妙齢の女性がみな金目当てに見えるようなものである。
かえって医者であることが、女性との関係を難しくさせてしまう。
どんな成功にも、おなじくらいのマイナスがあり、
結構なかなか成功者と庶民は釣り合いが取れているということなのだろうか。

「どんな大事な友だちがいたとしても、いつかはいなくなります。
永遠の友人というのは、思い出の中にしかいません」(P173)


最初から友人がひとりもいなければいいのだが、まさか成功者はそうはいかない。

「固定しないというのが、人との付き合いの中で大事だと思います。
ですから私は、ほんとうにこの人間とは親しくなりたい、
あるいはなりそうだと予感した時は、あまり近づかないことにしているのです」(P175)


とどのつまり、距離感が大事なんでしょうね。
考えてみたら、そう大して成功をしていなくても、
ひとりの愛妻とひとりの親友がいたらそれだけで満足できるようなところが人生にはある。

大成功者の周囲にはプチ成功者があふれている。
五木寛之先生は、小さな成功者たちの情報を公開する。

「私の周囲を見ても、心療内科に通っている編集者が何人もいますし、
とりわけ多いのがテレビ関係者です。
テレビというのは最も躁的なメディアですけど、その中で働く人たちが、
鬱的な感覚から解放されようと心療内科に通院しているのでしょう」(P49)


一見すると小市民最上クラスの成功者たるテレビマンや編集者もそれぞれ大変なのか……。

「奇跡のリンゴ」(石川拓治/幻冬舎)

→だれもが無理と断言していたリンゴの無農薬栽培に成功した、
――「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録。
この成功物語はNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」でも放送され、
多くの視聴者が感動したということです。

たまに電波が入った人が誇大妄想的な夢を抱くことがあります。
こういう人物には周囲が迷惑させられますから、大概はつまはじきもの。
実際、木村さんも友人から見離され、実家からも勘当同然だったとか。
しかし、誇大妄想者は夢をあきらめずに長年、努力を継続した。
結果として、リンゴの無農薬栽培に成功!
周囲はてのひらを返して、この成功者を祭り上げたということらしいのです。
この書籍はある若い女性からプレゼントされたのでありますが、
いったいどういう意図があったのでしょうか。

誇大妄想狂も運よく成功すれば、大勢の人間から絶賛される……。
この場合、成功したから美談になるのでしょうが、もし失敗のまま終わったら。
実のところ世の中にはそういう自称パイオニアが山ほどいると思われます。
成功できなかった誇大妄想狂ほどみじめな敗残者はありません。
こういう失敗者に世間は目もくれません。
ところが、ひとたび成功したら「感動した」「夢をもらった」のお祭り騒ぎ。
「あきらめなければかならず夢はかなう」「努力はぜったい報われる」――。
世間というものは、げに恐ろしきものであります。

わたしも木村さんとおなじで誇大妄想患者なのでしょう。
いや、あちらは成功者ですから、もはや誇大妄想狂ではない。
こちらが成功する確率はほぼゼロかと思われます。
ハハハ、こういう本を読んでももう夢を見られないくらい落ちぶれてしまいました。
いかん、いかん、カンフル剤を打たねば。

「パイオニアは孤独だ。何か新しいこと、
人類にとって本当の意味で革新的なことを成し遂げた人は、
昔からみんな孤独だった。
それは既成概念を打ち壊すということだから。
過去から積み上げて来た世界観や価値観を愛する人々からすれば、
パイオニアとは秩序の破壊者の別名でしかない」(P140)


ううう、効きが悪いです。二十代なら、もう少し効いたのかもしれません。
せっかくプレゼントしていただいたのに、この情けない始末。
本当に申し訳ありません。けれど、いただいた翌日に読みましたからね。
もう逢うことはないでしょうから、万が一ブログをお読みでしたらと、
礼状代わりにこの記事を書いた次第です。