「病魔のとき」とは大げさですが、テヘヘ、風邪をここ3、4日引いています。
吐き気の強いのが特徴でしょうか。
悪いところがガーッと出ているという感じです。
コンクール連続落選も、この風邪でけじめがつくかなという思いがします。
人間と病気というのは不思議なものです。
けっこう病気を自身が願っているのかもしれないと思いますもの。
風邪のせいで、コンクール応募の新作が書けなかった。
こう言い訳するためにあえて風邪を引いているとまで言ったら誇張が過ぎるでしょうが。

治ろうとしない自分がいます。
風邪を引いたら酒をのむな! 常識でしょう? でも具合が悪いからのんじゃいます。
風邪を引いているのに、この季節に扇風機などかけるな! 当たり前でしょう?
でも熱っぽいものだから、ついつい……。
酔って寝て朝になったらTシャツ姿で扇風機が回っていたこともありましたから。
けれども、さすがに自分から好んで病気になったわけではありません。
風邪って引こうと思って引けるものではないのがおもしろいと思いませんか?
寒空に裸でいようが百%風邪を引けるとは限らない。
そのくせ本当に必要なときにはちゃんと風邪を引くようになっているんでしょうね。

そろそろ風邪を治さないと落選作の応募用改作ができません。
今日は禁酒で、そのうえ厚着をしています。もうすぐ治るような気がします。
しかし、風邪で具合が悪く、だれもそばにいないと心細い。
わが人生の華やかなりし時期をしきりに思い返しました。あったんですね~。
死んでいたのは、こうしてブログを更新しているのだから、むろんわたしではない。
作家の三浦哲郎氏が先月末に亡くなっていたことをいまになって知った。
いちおうニュースは好きだからよく見ているはずなのだが、いままで知らなかった。
商業文学従事者のブログは小谷野敦先生の「猫猫」しか見ていない。
小谷野さんにはしっかり仕事をしてもらいたい。
逝去した有名文学者を悪しざまに取り上げ、
なおかつ死者に鞭打つのは「もてない男」の仕事ではなかったか。
――と人のせいにしても始まらない。
おそらく、それほど大きくは報道されなかったのではないだろうか?

三浦哲郎氏は自身の「汚れた血」を文学作品として昇華させた作家である。
「もてない男」のように下世話な関心だが、血の汚れは文学者でとまったのだろうか?
具体的には、作家の子孫はみなまともに生きていくことができているのか。
自殺者・失踪者などはもう出ていないのか。
ふと思ったことである。思えば、氏は最後の文士ではなかったか。
一時期、三浦哲郎に傾倒していた時代があった。
あのころは「忍ぶ川」が私小説であることを信じられなかったが、いまでは信じられる。
「志乃」のような女性は、もしかしたら現実にいるのかもしれない。
わたしがわたしの「志乃」にもう逢っているのか、まだなのかはわからない。

コンクール連続落選がいまだ後を引いている。
書かなく(書けなく)なるものの気持がよくわかった。
明日は朝いちばんで髪を切りに行き、心機一転、やり直そうと思う。
いまから三浦哲郎氏を偲び短編集「冬の雁」を読む。
季節はずれのため2リットル500円のバーゲン価格で購入した冷酒をのみながら――。
いまはあきらめるチカラ=諦観力が見直されなければならない時代ではないか?
むかしの日本人はあきらめるのがうまかった。
「源氏物語」ではなにか不幸があるとすべて「前世の因縁」であきらめていたという。
「平家物語」は物語全体が「あきらめ」をテーマにしている。
諸行無常。盛者必衰。ならば、負けることをどのようにしてあきらめるか。
かつては達観するとは、諦観することであった。
人生には人力ではどうしようもないことがあるのを認める=諦観する。

もう日本経済がふたたびバブルを迎えることはないと思う。
あったとしても50年後くらいで、それは自然に起こるものではないか。
経済政策の成果が実りバブルが発生するようなことはまずありえない。
このまま不況、不景気は続くのだろう。
日本人の生活は全体として貧窮し、その状態はおそらく半世紀近く継続する。
どうして、それでもがんばろうとするのだろう。
あきらめてしまえばいいではないか。悟れ! 「ほしがりません」と!

あきらめるという行為がいかに崇高であるかという認識が広がらなくてはならない。
がんばらなくても幸福になれる。
むしろ、あきらめることによって幸福は姿を現わすことが多い。
コンクールに落ちたときにどのようにあきらめるか。
失恋にはあきらめるしかないのである。
どうがんばったところで、失われた愛は復活しないのだから。
一度女から愛想を尽かされたら、いくら努力しようがもうどうしようもない。
自分よりも好きな男がいる女に、逢ってくれと頼むのは迷惑なのである。
もてないものは一生もてない。ダメなやつは未来永劫ダメなまま。
そのいっぽうで、成功者の二世は成功する比率が異常に高い。

テレビ局へ入社するものの大半が裕福な家庭の出身である。コネもあろう。
だが、そのテレビ局が主催する脚本コンクールに応募するものの大多数は、
人生での一発逆転を狙ういわゆる「負け組」(まあ、わたしもそうなのだが……)。
年収1千万オーバーの正社員が、たがが数百万の賞金で貧乏人を品定めするのである。
高収入で美女を妻に持つエリートが、人間の才能をまるで物品のように選り分けする。
そのうえで賞を与えたのだから、ライターを使い捨てにする権利があると驕る。
これを不条理と怒ってはならない。
これ以上の不平等も世間にはいくらだってあるのだから。
ならば、どうしたらいいのか? あきらめたらいいのである。諦観したらよろしい。
あきらめる! これはおそらく2千5百年前、インドでブッダが説いた悟りなのだろう。

「がんばるな! あきらめよう!」というテーマのシナリオを書いたら、
某テレビ局から落とされてしまったのだが、くそお畜生、あきらめきれない!
しかし、あきらめなければならないと思って、この記事を書きました。
「アンタ将来どうすんの?」と思われているかたが大勢いるかと思う。
実際に言われることはめったにないから、周囲にはやさしい人が多いのだろう。
たしかに自分の年齢と職歴(まあ、ないんだけどさー、アハハ)を考えると、
うつ病にならないのが不思議なくらいである。
キリギリスのようだが、「なんとかなるさー!」と自分をごまかしているのである。
1ヶ月に1回くらい、このままではヤバイんじゃないかと本気で思い悩むこともあるが、
考えに考え抜いたところで未来のことはわからない。
突き詰めれば、明日生きているかどうかもわからない。

しっかしさー、30年後に日本があると思う?
石油とか、とっくになくなってるんじゃね?
ハイパーインフレが起こったら、こつこつ貯めた老後資金も紙くずだぜ!
そもそもさ、これから30年、東京に大地震が来ないと思う?
地震で崩壊したらマンションの価値とかどうなっちゃうの?
核ミサイルをぶっぱなされて日本列島自体が消滅しているかもしれませんぜ、奥さん!
だったら、いまを楽しまなくてどーすんだよ!
明日なんか来ないかもしれないんだぞ!
今日お亡くなりになった日本人のほぼ全員が、
昨夜、自分が明日死ぬとは思っていなかったのでR♪

「アンタ将来どうすんの?」「なんとかなるさー!」
「ならなかったら?」「どのみち死ぬさー!」
ほめるという行為はだれでもできるような簡単なものではないと思う。
ほめるのは難しい。
たとえば友人・知人の、たとえばシナリオを読ませてもらう。
自分にほめる才能がないことに愕然とするのね。
うまくほめてあげることができない。
どんな作品にも探せば数箇所いいところはあるのだが、うまく指摘できない。

批判や批評なんちゅうのは、口が不自由でもないかぎりだれでもできる。
けれども、ほめるというのは、本当になかなかできない。
ほめ上手の人と人生で逢うか逢わないかで大きく運命が変わるのではないか?
それほどほめ上手な人というのは少ない。
ほめるという行為の価値が正当に評価されていないからかもしれない。

ほめ上手の人は、当人も把握していなかった長所を発見できるのだから!
批判、叱咤、助言、説教はだれでもできるのである。
ところが、激賞、絶賛はよほどの人物ではないとできない。
どこか一箇所、欠点を指摘して悦に入るのが人間というものなのだろう。
手放しでほめる。ほめられたほうはどれほど伸びることか!
成功者の奥さんには、ほめ上手の人が多いのだろうと確信している。
むかし小谷野敦さんがどこかの新書に書いているのを読んだのね。
大学生時代(だったか?)小説の新人賞に応募したけれど箸にも棒にもかからなかった。
これを書いた人は勇気あるなと作者の名前を記憶したのだったか。
むかしは自慢の時代だったのだと思う。
だれもが少しでも自分をよく見せようとした。マイナスは隠すのが当たり前。
ひるがえって現代は自虐の時代なのではないか?
時代の最先端をいく評論家の小谷野敦さんは、天才的な自虐ネタの使い手である。

行け行けドンチャンの時代は、自慢という自己表出方法がもっとも適していたのだろう。
自作がいくつある。賞をいくつもらった。
いっぽう、いま自虐が流行している背景に、どん詰まりの閉塞的時代状況があると思う。
自虐――ダメな自分を嘲笑う。
しかし、脚本コンクールの落選歴は公開できても、小説で同じことをできるか?
うむ、やはり小谷野敦氏の自虐ネタは飛び抜けている。

わからないのは、脚本家になりたい人がどうしてこうも多いのか?
脚本家なんて小説家になれなかった人が、それでも意地汚く文筆にすがりつき、
わずかな収入を得る道でしかないと思うのだが。
強調しておきたいのは、わたしが言っているのは現代の脚本家である。
昔日の脚本家は、小説家よりも偉大な才能の所有者が幾人もいた――。
むかしは(といっても今年のはじめだが)ポンポンとアイデアが浮かんだわけ。
これを書いたら次はあれを書こうというように。
ところが、このところ、どうにもこうにも、ううむ。
コンクール落選が重なったせいなのかどうかはわからない。

なーに、書こっかな。
あのさ、書きたいものを書いて落とされちゃうと本当にブルーよ。
これはぜったいにいま放送される意味がある。
そういう強い思い込みのある作品があっけなく落ちてしまう。
ああ、時代はおれを必要としていないんだな、とまで思い詰めちゃうもん。
時代が必要としているものは、なんだかんだ言っても、かならず世に出るのね。

野島伸司さんが「時には母のない子のように」でヤンシナを取ったのは25歳。
小谷野敦さんがベストセラー「もてない男」を出したのは36歳。
原一男さんが「ゆきゆきて、神軍」を完成させたのは39か40歳。
もう少し生きてみよっかな。
9割がた無名のままで終わるだろうという自覚がないわけではないが。
かといって犯罪をするほどの宿業はさすがに持ち合わせていないと思う。

下を見よう。下には下がいる。元タレントの田代まさし氏を見よう!
一回頂点を知ってしまったぶん、よけいにどん底が深まるんだろうな。
まあ、田代まさし先生に比べたら、おれの人生もまだましか。
しかし、田代先生は逮捕されたときナオンと一緒にいたんだろう?
じゃあ、だれかから愛されているのだから、おれよりも上等な人生ではなかろうか?
栄光時代にはぴっちぴちのアイドルとあんなこと、こんなことしたんだろうな。
くうう、やはり田代まさしにも負けているじゃん、お~れおれおれおれ(サッカーのテーマ)♪

 自己の天分 

雑記 09/18 Sat  ×   ×  
今年も残すところ3ヶ月ちょい。平成22年はどのような年だったか。
漢字一字で表わすならば「負」がいちばん適当な言葉だと思う。
(もっとも残り3ヶ月でなにがあるかわからないのが人生のおもしろいところだが)
本当に今年はよく負けた。いい機会だからいくつ負けたか数えてみたい。
脚本コンクールの落選、公募エッセイの落選を「負け1」としてカウントする。
お蔵入り(=ボツ)になった映画シナリオも負けに入れていいだろう。

アハハ、笑ってしまう。今年だけで12回連続で負けているではないか!
1回も勝っていないのである。
テレビ局でいえばテレ朝からもTBSからもフジテレビからもNHKからも落とされている。
すなわち、おまえのシナリオなぞいらないと叩き返されたわけである。
これだけ負けると、おのれの天分というものが少しずつわかってくる。
わたしの星回りはどのようなものか。なにを生まれ持っているのか。
35歳を人生の折り返し地点と見るものは多い。
わたしは来年折り返し地点を迎えるが、年齢によって見えてくるものがあるのだろう。
自己の天分である。天はわれにいかほどのものを与え給うたのか。

勝つというのはどういう感覚なのかまるでわからない。
人生で勝利したことがないからである。早稲田大学入学は、
東大合格を死にものぐるいで目指していたわたしにとっては負けでしかなかった。
勝つとはどういうことなのだろうか? 選ばれる、ということなのだろう。
男の場合、実は勝負をするまえからおのれの器量はわかるのである。
能力のある男は、女が放っておかないからだ。女から決まって選ばれる。
どんなに顔や性格が悪くても、たとえ無職でもニートでも最低のDV野郎でも、
有能な男はかならず女から見初められる。
「うるさい哲学者」の中島義道氏を見よ!
「もてない男」の小谷野敦氏を見よ!

わたしはおのれの無能を認めたくなかった。だから、勝負をしたのである。
公募コンクール等に出しまくっている。いまのところ12連敗中。
人生、甘くなかった。母の不幸から10年。
そろそろわたしにも運が向いてくるかと思っていたが、宿業の重さに感じ入るばかりだ。
結果の出ていないコンクールはあとひとつしか残っていない。
入選したところでもらえるのは20万円だから大した賞ではない。
応募数の少ないこのコンクールにさえ落ちたら、あるいは筆を折る覚悟がつくかもしれない。

勝ったものの発言は目に触れる機会が多いと思う。
一方で負けたものの述懐を目にすることは少ないのではないか?
これはおそらく、当人が自身の敗北を認めたくないからだろう。
わたしはある喜びを持って、自分の負けをみなさまに報告する。
どうだ! これほどたくさん本を読んでいてもコンクールひとつ取れないんだぞ!
創作マニュアルをどれほど読んだことだろう。
映像シナリオ、芝居台本をわたしほど読んでいる人間はめったにいないのではないか。
ところが、どうだ! いくら読んでも、書くほうはさっぱりではないか!

実のところ「負けない方法」はある。なんのことはない、勝負をしなければいいのである。
自分は強いとうそぶきながら、巧みに勝負から逃げ続けたら負けないで済む。
世の中にはたった一度勝った時点で勝負をやめ、
そのうえで「こうすれば勝てる」と指導したがるものが少なくない。
なかには一回も勝負をしていないのに「勝つ技術」を教えているものまでいる始末だ。
なるほど、負けてはいないのだろう。勝負をしないのなら負けようがない。
賢い生き方だと感心する。だが、そんな生き方はつまらないではないか?
人生で勝負するときの、ギャンブル以上とも思える、あの全身みなぎる昂揚感はどうだ!
そして、負けたときの無力感。
人生、自力ではどうにもならぬとヤケッパチであおる安酒の甘さよ、苦さよ。

これからもかけ金が続くかぎり人生で勝負をしていこうと思う。
自己の天分に薄々気がつきながら、それでも勝負をやめたくないのである。
人間は負けるとわかっていてもあえて勝負をするからおもしろいのではないか、と思う。

(注)助言コメント、説教コメントはご遠慮ください。
少数ですが周囲に相談できる人間はいますから。
顔も知らぬ他人に助言、説教を乞うほど落ちぶれたと思われているなら心外です。
なお、お仕事をくださる方でしたら、いくらでもご助言、お説教を歓迎します(笑)。
むかし好きだったプロレスの話をしよう。
「気合だ~」で知られるアニマル浜口がジャンボ鶴田に負けたとき、こう叫んだという。

「負けた~」

とても意味深な言葉だと思うのね。裏事情を知ったら名言でさえあると思う。
というのは、プロレスはボクシングなどの格闘技と異なり真剣勝負ではないでしょう?
強いものが勝つというほど単純な世界ではない。
最初から勝ち負けが決められているのに、そうと知らぬよう演戯しなければならない。

ちなみにプロレス界でいちばん名誉あるものとされているのがベストマッチの負け役。
毎年、東スポがその年でもっともよかったプロレスの試合を決めている。
この勝負における敗者が、プロレスラーにとっての最高の栄誉とされている。
なにゆえか?
うまく対戦相手の魅力を引き出し、にもかかわらず、意にそわぬ負け役を呑んだからである。
大ファンであるプロレスラーの天龍源一郎は、この栄光を何度も手にしている。

いきなり人生論になるが、人生はプロレスだろうか? それとも格闘技だろうか?
努力して強くなったほうが勝つのか? それとも最初から勝敗が決められているのか?
わたしは、人生をプロレスだと思っている。最初から勝負がついている。
どちらも高校中退のヤンキー夫婦から生まれた子どもが東大に入れるわけがない。
一方、成功者の二世、三世は、そうがんばらなくても人生で勝ってしまう。

ふたたび、アニマル浜口の「負けた~」に戻る。
プロレスは八百長だから、レスラーは敗北をなかなか認められない。
ガチンコ(真剣勝負)でやったら、自分のほうが強いと思うゆえだ。
しかし、アニマル浜口はジャンボ鶴田との試合で負けを認める。
お芝居(フィクション)を通じてジャンボ鶴田の本当の強さがわかったからだと思う。
いや、ジャンボ鶴田を強くしているなにものかの存在に気づいた。
とにもかくにもジャンボ鶴田の持って生まれた強さにはかなわないと、
言うなれば自分を超えるものに低頭したのである。
負けを認めることのできるアニマル浜口の強さにはジャイアント馬場も感動したという。

「負けた~」

人生、負け続きである。勝ったことなど一度もありはしない。
日々テレビ、雑誌、ネットで人生の勝利者が大勢、大口を叩いている。
オッサンになったのとわかるのは、成功者がみなみなわたしよりヤングだからである。
勝てなかった。またも空振り三振。負けた~。おれは負けたぞ。負けた負けた負けた!
全力を出したけれども、クウウ、また負けてしまったではないか!
敗北を認めるとなにやらスッキリする。
ちっぽけな自己を超越する大きな存在を認めたからであろう。

「お母さん、おれはまた負けたよ!」
本日放送された北川悦吏子脚本のドラマ「お母さんの最後の一日」を視聴。
とてもよかった。今年ナンバー1のテレビドラマではないか?
よかった。本当によかった。ドラマの序盤から涙がとまらなかった。
非の打ちどころのない傑作ドラマ。
北川悦吏子は人間の喜びと悲しみ、それからその中間にあるところのおかしみを、
急がずゆっくり丁寧に描いていたと思う。
セリフのうまさにしびれた。ぞくっとするほどすばらしかった。
セリフに情感、哀感がにじみでていて、これは北川悦吏子にしか書けないと感動した。
とにかく涙がとまらなかったのだから、批評などできるわけがない。
ひと言だけ批評めいたことを言えば、北川悦吏子が恋愛を描いていないのがよかった。

まだまだテレビドラマはジャンルとして終わっていないと安心する。
どうしていまのテレビ局は、このドラマのように脚本家を重んじないのだろう。
一方で、書きたくもないことを書く脚本家ってなんなんだ?
脚本家全員が「書きたいことしか書かない」とストを断行したら、
日本のテレビドラマはどれほどよくなることだろうか。
こんな乱暴なことを言えるのは「お母さんの最後の一日」に本当に感動したからである。
前言撤回。忘れてください。書きたくもないことを金のために書くのがプロの脚本家。

今日は朝から少し憂鬱だった。
見なくてはならないテレビドラマのある日は決まってこうなのだ。
「勉強として」見るドラマがどれほどつまらないか!
いまでは見るドラマが始まる10分前になると吐き気をもよおすこともあるくらいだ。
しかし、「お母さんの最後の一日」は最初から最後まですべてよかった。
脚本家が思い入れのある役者に、心底から言ってもらいたいセリフを口にさせると、
たとえセットは少しばかり雑でも、こうもおもしろいドラマになるのか!
テレビドラマはよろしい。終わってなどいない。
いっぱい掃除と洗濯をした。酒をのまなかったけれど、今日はいい一日だった。
「徒然草」を少し読み進めたら寝ようと思う。
※ネタバレあり!

ものすごい映画を観てしまった。アルゼンチン映画。
人と人と逢うのが運命だと思えるのと同じように、この映画とも不可思議なご縁を感じる。
観るべきして観たという気がするのである。本日、新宿の武蔵野館にて鑑賞。

この映画には表のストーリーと、裏のストーリーがある。
9割の観客は、表のストーリーしか気がつかないと思う。
感想をネットでぱらぱら見たところ、表だけでも感動しているものが多い。
ところが、この映画の「仕掛け」といったら!
わかる人にはわかるような、たまらない極上の「仕掛け」に満ちているのだから。
未熟な映画経験しか持たぬ身ゆえ、こう断言していいものかはわからないが、
原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」の系列にある映画ではないか?
表のテーマは「愛情と憎悪」くらいになるのか(大衆はこんなもので感動する!)。
隠れテーマは「事実と虚構」である。わかりやすく言えば「本当と嘘」になる。

表のストーリーは推理サスペンスである。
裁判所を定年退職した調査員の主人公(独身男性)が、
25年前の強姦殺人事件の小説を書こうとする。
書いた小説を元上司だった年下の美しい女性上司に読んでもらいに行く。
ここが重要なのだが、
映画は何度も(小説を書いている)現在と過去(回想)を行き来する。

その事件はどういうものかと言うと――。
とある美しい新妻が、なにものかにレイプされ殺害された。
ふたりの職人が容疑者として逮捕されるが、主人公は彼らは犯人ではないと見破る。
ところが、主人公が見つけ出した真犯人はなかなか見つからない。
1年後――。
主人公は、妻を殺された元夫の必死の犯人探索に胸打たれる。
主人公は上司の判事の反対に逆らって調査を再開する。
この上司とのラブ・エピソードもある。
上司は大卒で新卒採用された若く美しい美女。婚約者もいる。
だが、主人公とのあいだに禁じられた恋愛感情が生まれてしまう。
優秀な主人公はアル中の部下と協力して犯人を追いつめる。
一度は犯人を逮捕したものの、上層部の事情で保釈されて主人公は口惜しい思いをする
いつしか調査に協力するようになった年下の女性上司も一緒に歯がみする。
なにものかの裏組織に主人公の部下(アル中)は殺されてしまう。
それも主人公の身代わりとして、である。
追っ手に脅える主人公は田舎へ逃げることにする。
駅のホーム。主人公と年下の上司は向き合う。
ふたりはお互いへの恋愛感情を意識している。
ふたり手を取って田舎へ去るのか? いな、である。
男らしい主人公は、愛する女性を不幸の道連れにできないと思う。
ふたりはホームで涙の別れをする。

25年後、裁判所を「定年退職した」主人公が、
いまは検事になった元上司に小説を読んでもらうために逢いに行く。
主人公は25年前の事件を小説にした。
「推敲が必要ね」と上司は言う。
どうやら駅での別れのシーンが現実にはなかったような事情がちらほらうかがえる。
小説はひと通りの完成を見た。ストーリーは上に書いた通りである。
小説家は作品をたずさえ逢いに行く。
だれにか? 殺された新妻の元夫にである!
ここで衝撃の事実が明らかになる。
元夫は犯人を暗殺していたと告白するのだから!
いやいや、真相は異なる。
主人公がこっそり深夜に覗き見したら、元夫は犯人を私設の監獄に入れている!
ふたたび、小説は完成した。
主人公はいまは出世した年下の美女上司に逢いに行く。
これがファーストシーンとほとんど同じなのである。
ふたりは恋に落ちる予感を残して終了――。

以下に述べることは、この映画をテレビで観ていたら気がつかないことである。
千円以上のカネを支払い、暗闇の中で集中して観たら、中には気づくものいるという話。
正直に言うと、この映画は半分くらいまでは、ありきたりなサスペンスだ。
だが、「仕掛け」に気づくと思わずクスクス笑ってしまう。
要は、なにが本当のことなのか? に注目して観たらいいのである。
ポイントは、裁判所を定年退職した主人公が小説(=フィクション)を書いているところ。
現在の主人公は何度も人生は空しいと言う。空虚であると嘆く。
映像は、実のところ小説(=虚構=嘘)かもしれないのである。
そう思って観ると、映画から「本当のこと(=事実)」が透けて見える。
本当は、主人公の人生になにも劇的なことはなかったのではないか?
年下の美しい女性上司と許されぬ恋をしたというのは嘘。
なにしろ高卒の主人公と、大卒キャリア組の上司とのあいだには深い溝があった。
強姦殺人事件の真犯人がいたと言うのも嘘。
主人公とアル中の部下が真犯人を逮捕したというのも嘘。
そもそもアル中の部下が存在したというのも嘘ではないか?
定年退職した現在の主人公がアル中気味という映像が挿入されている。
主人公はアル中の部下を小説で仮構(=創作)して、そのうえ殺すことで、
人生終盤における難局を乗り越えたのではないか?
嘘だらけの小説を(夫も子どももいる)元上司に見せに行く主人公はほとんど狂人だ!
小説をやさしく受けとめる元上司のやさしさはアルゼンチンの持つ深みを感じさせる。

もし表のストーリーがみな嘘(=主人公の書いた小説)だったらどうなるか!?
いちばん迷惑したのは25年前、美しい妻を強姦殺人された男性である。
主人公は、25年前の被害者遺族に自分の書いた小説(=妄想)を読ませるのだから――。
おそらく、仰天したことだろう。
実際は、元夫は1年も真犯人を捜したりはしなかった!
仕事一筋でなんとか不幸を忘れようとひとり生きてきたのである。
怒った被害者遺族は「帰ってくれ」とドアを開ける。
ところが、主人公の顔を見る。
すると、主人公の人生の空虚に思い至る(=人生なんにもなかった!)。
真相を話そうという。自分の物語(=嘘)を伝えるのである。
実際には、妻はくだらぬ底辺労働者ふたりにレイプされ殺された。
だが、主人公のフィクションにつきあってやる(同じように嘘をつく)。
実はその真犯人とやらを自分が暗殺したという嘘である。
人間は、人生でどれだけフィクションに頼っていることか!
しかし、小説を書いた主人公は、このフィクションに満足できない。
だから、被害者は真犯人を捕まえ私設の監獄に20数年閉じ込めていたという嘘を書く。
最後にアル中の友人の墓参りをするのは象徴的である。
創作をすることで、自分のなかのある部分が死んだということなのだから。

現実にはなにもない。なんにもないのである。
妻を強姦殺人されたものは、なんとかして不幸を忘れようと努めるしかない。
裁判所の下級役人に、劇的なことなどありはしない。
刑事サスペンスのようなことは人生にはないのだ。
人生はなんにもない。なにもない。なにもない。
高卒の下級役人が、大卒の美女と恋愛に落ちるはずがないではないか!
人生に劇的なことはない。
真犯人を追い詰めることも、部下を殺されることも、リアルではないのである。
裏組織から命を狙われるようなことなど人生ではない。ない! ない! なんにもない!
つまらぬ職場を定年退職して、人生の空虚を酒でごまかし、死ぬのを待つしかない。
だが、それではあんまりではないか? あんまりだ。人生、あんまりだ……。
だから、主人公は小説を書く!
だから、映画監督は映像作品を創る!
だから、我われは映画を観る!
「瞳の奥の秘密」は映画の映画である。「ハムレット」が演劇の演劇であったように。

高をくくっちゃいけないと思った。世界にはどえらい映像作家がいるのである。
才能というのは、たしかに存在する。
傑作の条件とはなにか? 世界の見方が変わることだと思う。
その作品に触れるまえとあとで、世界が変わって見えるかどうか――。
「瞳の奥の秘密」を鑑賞後、わたしは新宿がまるで違って見えた。
むろん、明日また新宿に行ったら、なんのことはない、元に戻っているのであろう。
しかし、一瞬でもいいではないか? この一瞬がなかったら、人生はあんまりではないか?

海外の映像作家はものすごいことをする。
どのようにしてこの映画を製作したのだろう?
具体的には、どうやってスポンサーを集めたのか?
自主映画でしか撮れぬような個性的作品だからである。
「瞳の奥の秘密」のシナリオをコンクールに出したら99%一次で落とされる。
本気で集中して接しなければわからない才能があるということだ。
受け手の読解能力の多寡に、非常に左右される作品が世界には存在する。
好き嫌いもある。わたしはどうやらインテリのようだ。
この「瞳の奥の秘密」の「仕掛け」を幸運にも見破ることができたのだから。
これはおそらく映画マニアに偏愛される作品ではないか?
この作品に賞を与えられるアメリカ映画界の度量の広さに感嘆する。
しかし、わたしは「瞳の奥の秘密」が好きではない。
二回、三回とまで観たいとは思わないということだ。
すごいのはわかる。とんでもない映画なのだろう。
だが、こういうシナリオを書きたいとは思わない。
やはり(日本人だからか)山田太一ドラマのような臭い人情芝居が好きなのである。

ともあれ、大きな影響を受けた作品である。私淑しているふたりの師を思う。
原一男先生のテーマ(のひとつ)は「事実と虚構」であった。
山田太一先生のテーマ(のひとつ)は「本当と嘘」だと思う。
弟子を自称するこの身は、これからどのようなものを書いていくべきか?

「瞳の奥の秘密」公式サイト↓
http://www.hitomi-himitsu.jp/
むかしからですがブログのコメント欄に見知らぬ人から説教を書き込まれることが多い。
説教というのは、肩書が勝負なわけでしょう?
部下が上司に説教をできますか? 生徒が先生に説教をできますか?
説教はするほうの精神衛生のために価値がある、とは河合隼雄さんの言葉です。
要は、説教をするのは気持がいいのです。
その代わり、上司は飲み代を払わなくてはなりません。
先生は生徒の親からの苦情を覚悟しなければなりません。

肩書の見えないネット空間での説教は、まったく意味がありません。
したほうは気分がよく、されたほうはひたすら不快です。
ネットで見知らぬ他人に説教をしたがるなんて、どれだけ鬱屈がたまっているのでしょう?
わたしはそもそもよほどのことがない限り他人のブログのコメント欄に書き込みません。
対面ではない言葉のやり取りは、誤解を招くことが多いからです。

ネットやメールはよくありません。
顔をつき合わせては間違っても言えないことを、平気で書いてしまうでしょう。
現実ではどこにでもいるような大学生が、ネットでは「人生の達人」になってしまう。
平凡な会社員が「噺家」を自称してありきたりな人生論・芸術論を誇らしげに語る。
よくさ、言うじゃないですか?
説教は「あなたのためを思ってしている」のだから感謝しなさい!
そんなにわたしのためを思ってくださっているのなら逢いに来るくらい簡単でしょう?
暇なときならいくらでもお相手しますから、ぜひぜひメールをください。

対面で言えないようなことをコメント欄に書き込むのはどうかおやめください。