今月はふたつ応募したいコンクールがあったが、どちらもあきらめる。
なんのことはない、書けないのだから。書けないから、書かない。
いまのところ1日最高執筆記録は55枚だからと最後まで粘ったが――。
コンクール・ハンターになってから、こういうことは何度もあった。
そのたびに締切直前で奇跡が起こったけれども、今回ばかりはどうにもならず。
書けないのが、こうも苦しいとは思わなかった。
がんばればいいと言うかもしれないが、書けないときにどうがんばればいいと言うのか?
アイデアが降ってくるのを待つくらいしかないのである。
この待つという行為がいかにしんどいか。
待ってもダメならとりあえず酒でものんで寝てしまうしかない。
こういう酒があまりうまくないことをこのたびの経験で知った。

書けなかった原因はなんだろうか?
先月いささかがんばり過ぎた、書き過ぎたから、というのが理由として考えられなくもない。
だが、わたしはこれを否定したい。あまり因果関係にとらわれたくないのである。
人間の目に見える因果関係以上のものが世界を支配しているとわたしは信じている。
――とまで言い切ってしまえるほど自信はないが、少なくとも信じたいと思っている。
今月は四季で言えば、冬だったのかもしれない。
冬に最高気温35度を望んでも不可能なのは、夏に雪を欲するデタラメとおなじこと。
出産は、いかに医学が進歩しようと、究極的には人間の支配およばぬ領域。
おそらく創作も出産とおなじなのであろう。
効率的に作るものではなく、自然に生まれるのを待つもの。
生まれなかったら、それはもうどうしようもないのであって、あきらめるほかない。
不妊治療(これを治療と言っていいのかは疑問だが)には限界がある。
人間にはいかに努力しようが不可能なことがあるのであろう。
むしろ、そのような領域の存在が人間に絶望ではなく希望を与えることも少なくない。
いくら努力しても男性は子どもを出産することができない。
この男性を「努力が足らない」と批判するのは、あんまりである。

言い訳なのかもしれない。努力すればなんでもできる!
物事を為しえなかったのは、努力が足らないから! がんばれ、がんばれ!
申し訳ないが、わたしはうつ病になりたくないのである。
べつにわたしが創作コンクールに応募しなかったからといってだれが困るのか?
将来、職業作家になれなかったとして、
どうしてそれが「負け」なのか? 不幸なのか? 
無名で貧乏でも支えあって生きてくれる異性がいたら、その人生はどれほどスバラシイか!
しかし、残念ではある。というのも、創作しているときほど楽しい時間はないのだから。
来月は創作の喜びを取り戻せたらいいと思っている。
だが、どうなるかはわからない。そもそも来月生きているかどうかも究極的にはわからない。
この事実が絶望になるものと希望になるものがいるのだろう。
わたしは後者である。まだ希望を失っていない。だから、死にたいけれど生きている。
「ぎゅぎゅっとインド」(鈴木博子/彩図社)

→酒をだらだらのみながら、インド旅行エッセイをのんびり読む。
著者はいまおいくつなのだろう。
自分探し系ライターだから、わたしより5~10歳年上ではないかと予想する。
女性ライターには(年齢はともかく)顔写真をかならず掲載してほしいね。
読者にとっては、どの顔をして言っているのかという問題が常につきまとうわけだから。
林真理子しかり、綿矢りさしかり――。
インドは日本と正反対の国だから、自分探しにはぴったりの場所だと思う。
と言いながら世代が少し違うので、自分探しなるものの正体はよくわかっていないのだが。
(女性なら)自分のヌード写真を撮って、痛いポエムを書くような人種という認識かな。
いや、本書には満足しているのだよ。
数多いインド旅行記のなかで平均以上のレベルには間違いなく到達している。

話は変わるが、過日おもしろいポエムを読んだ。
有名なのかもしれないけれど、ここに改めて紹介させていただく。
筆者は「疲れた」のグーグル検索で、この文章にめぐりあった。

「31歳の夢と希望~俺はもうたいへんに疲れた~」
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20100416/p1

この記事への「はてなブックマーク・コメント」に、
「インドの日本人宿へ行け」というものがあった。
まったく、その通りであると思う。
いざとなったら自殺しようと考えて生きている人間は、
我われ氷河期世代の、そのうえさらに不遇な男性に多いのではありませんか?
しかし、声高に主張したいのは、自殺のまえにインドがあるということである。
自殺するくらいだったら、いくら不義理を働いてもいいからインドへ逃げてしまえ!
インドは狂っているから、日本社会に壊された人間こそ、あたたかく癒してくれる。
おっと、なんの話だったか。そうか、読書感想文だ。
本書の著者も、事情はあずかりしらぬがインドに癒されたひとりなのだろう。
しかし、1年の半分をアジアで過ごす旅行ライターっていいな。うらやましい。

「人間の器量」(福田和也/新潮新書)

→宣伝文句に「なぜ日本人はかくも小粒になったのか」――。
いかにもオッサンが好んで買いそうな本を定価ではないとはいえ購入してしまったのだから、
わたしもすでにオッサンになっているのだろう。
先日は図らずも酔っぱらってブログに現代若者批判を書いてしまったくらいだ。
著者の言う器の大きな人とは――。

「心が広い、度量のある人。能力がある、役に立つというだけでなく、
個人の枠、背丈を超えて、人のために働ける人。
何の得にもならないことに命をかけられる。尋常の算盤では動かない人間。
その一方で、妙に金銭には細かかったりして。
誰もが感動するような美談をふりまくかと思えば、辟易するような醜行をする。
通り一遍の物差しでは測りがたいスケールをもっているということ、
それが器量人ということになるでしょう」(P14)


みなさんはこの定義に当てはまる人をどのくらいご存知ですか?
パッと思い浮かぶのは、例の池田大作先生。あの聖俗の振幅は、傑物ならでは!
それからアントニオ猪木。大人気ないエピソードが最高に笑える。
おなじくプロレスラーの中卒・天龍源一郎はわたしの憧れの人。
あんなオッサンになりたいとずっと思っている。
「なぜプロレスラーはかくも小粒になったのか」――。
まったくそうだよな。いまのレスラーはサラリーマンばかりだから。
協調性を重んじるプロレスラーってなんだよ(笑)。
長州力の顔面を後ろから蹴り上げた前田日明の真似をしろとは言わないけれど。

面識のある最大の器量人は、やはり恩師の原一男先生かな。
大学時代、大阪で映画のセミナーみたいのがあったのよ。宿に帰って酒盛り。
そのまえに原先生ったら、近づいてきてこっそり耳打ちするのさ。
「おい、Yonda? 、今晩はなにをしてもいいんだからな」
暴れろって示唆しているようなものでしょう。いまとなったら笑える思い出である。

「なぜ日本人はかくも小粒になったのか」――。
著者は「戦争、貧困、病苦」がなくなったからだという。
それと関連しているのかわからないけれど、いわゆるギャル文化が原因だとわたしは思う。
現代日本では若い女性の価値観(=好き嫌い)が最優先されるでしょう。
なぜかというと彼女たちがもっとも消費経済に直結しているからなのだが。
器量人というのは、(我らが)オッサンの憧れなわけよ。
女子大生なんかに器の大きな男が見破れるはずがないのだから。

さて、これをお読みの貴兄の器はどれくらいでしょうか?
そして、わたしの器は果たしてどれほどのものなのか――。
ご同輩、いま男は受難の時代だけれど、お互い格好いいオッサンを目指そうぜ!

「作家とは何か――小説道場・総論」(森村誠一/角川oneテーマ21)

→申し訳ないけれども、脚本家は小説家よりも低位置に分類されるでしょう。
わたしの大好きな脚本家は、このコンプレックスから創作をしていたように思われる。
のちに小説も書くようになり、めでたく山本周五郎賞を受賞。
けれども、向き不向きというものが人間にはあるようで、
やはりその作家は小説よりもシナリオのほうがうまいような気がする。
本書によると1年でいわゆる作家デビューする新人は500人もいるとのことである。
このうち生き残るのはほんの3~5人らしい。
とはいえ新人賞がうまく機能しているか、という問題もあるようだ。

「極めて個性的な作品や大長編の原稿は、初選においてはねられたり、
応募規定に外れてしまう。
最終選考にはおおむね無難な原稿が上っていく確率が高い」(P110)


そうなのか。でも、まあ、なによりまず小説が書けるようにならなければ。
いったいいつわたしは小説を書けるようになるのだろうか?

「作家を志望する動機は多様であっても、根底には表現欲がある。
表現欲がないか、あるいは乏しい者は作家には向かない。
ただし、その表現欲が休眠していて気がつかない人も多い。
作家の才能の鉱脈は埋もれている場合が多いのである。
自分自身で鉱脈を発掘する場合もあるが、編集者や友人や、
あるいはなにか劇的な体験、日常的な経験によって鉱脈を掘り当てることもある」(P196)


とりあえずは、長生きを目指すということでよろしいのでしょうか――。

「おはなし おはなし」(河合隼雄/朝日文庫)

→巻末の山田太一の解説を読んで、河合隼雄の魅力がよくわかった。
河合隼雄は「色即是空」をよくよく理解しているのであろう。
我われがとらわれている「色」=数字(偏差値、年収、資産、友人の数、交際異性の数)など、
本当はまったくさらさら「空」=無意味に過ぎないことを。
しかし、そうは言っても、凡人はなかなか出家や遁世などできないから、
「空即是色」とふたたび騒がしい日常生活に戻ってきて、
俗物とおのれを恥じながらも現世に少なからぬ楽しみがあることを肯定する。
山田太一が看破した河合隼雄の生き方である。

「色即是空 空即是色」を山田太一は以下のような言葉で評している。

「まったく、人生、醒めてしまえばなんの意味もないかもしれず、
私たちはなんとかその無意味にさからって、
あの手この手で「おはなし」を手に入れ、気力を保っているのであろう」(P193)

「私は河合さんに覚めた目があるからこそ著作を信用し、
その河合さんが醒めているだけではないことに励まされている」(P194)


「縦糸横糸」(河合隼雄/新潮文庫)

→河合隼雄の時事評論集。期間は平成8~15年。
ぶっちゃけ、本心ではパソコンを窓から放り投げたいのね。
1週間ほどパソコンから離れることができたら、どんなに幸福なことかと思うくらいである。
パソコンはたぶん人間を幸福ではなく、不幸にする道具なのだと思う。
しかし、人間はあえて不幸になる自由もあるから、そこをどう考えるかが問題で。
人生は、知らないほうが幸福なことがいくらでもあるのではないか?
たとえば寿命、モノの原価、配偶者の浮気、他人の収入、平均交際人数、等など。

「情報化の時代と言う。
しかし、多くの情報はモノに関することではないだろうか。
せっかく車を持っていても、
それよりももっと便利で快適なのが売り出されるという情報が入ってくる。
コツコツ働いてお金を貯める。
しかし、もっと上手に多額の金を手に入れる人たちに関する情報が入ってくる。
情報が人を追いたてる。
これは大変だということで、誰もがセカセカし、イライラする。
この傾向が、人間関係の基盤とも言うべき家族関係を直撃し、
夫婦関係、親子関係において人生を味わうことが極端に少なくなった」(P62)


テレビやセミナーで「あきらめるな!」って怒鳴っている人たちはなんなの?
言っとくけどね、あきらめないより、あきらめるほうが、よほど難しいのよ!
わたしなんか10年もあきらめないで「世に出る」なんておかしな妄想を持っている。
おかげで周囲がどれだけ迷惑したことか。
「夢をあきらめないのは偉い」なんちゅうのは、夢ビジネスの宣伝文句だからね。
いまのニッポンは、多くの若者がおかしな夢を持って非正規雇用に甘んじてくれないと
資本主義経済が立ち行かないシステムになっているの!
だから、大人はみんな、夢をあきらめるな、と主張するわけ。
夢をあきらめられる人物は偉大でさえあるとわたしは思う。
「あきらめる」はマイナスの意味合いがこれでもかと付着してしまったから、
言語感覚の鋭い河合隼雄は代わりに「断念」という言葉を使用する。

「拡大した欲望を満たすことのみを幸福と考えることも問題である。
私はたくさんの人と長く深く付き合っていく職業であるが、
そのなかで「断念による幸福」ということが、
非常に大切なテーマとなることに気づかされている。
何かを断念することによって、
それまで気づかなかったまったく新しい世界がひろがり、
新しい幸福を手にすることになる。
欲望の追求に熱心な人は、はた目には多くのものを獲得したり、
極めて効率のよい仕事をしたりして幸福そうに見えるが、
その人はそれを遂行するのにあくせくとして、
心の休まるときがない、ということもある」(P126)


「あえて知らない」と「あえて断念する」は、
現代人が平成を生きていくうえで非常に重要なテーマになるとわたしは思う。

「こころの子育て」(河合隼雄/朝日新聞社)

→実は彼女が妊娠しちゃって、ヤバ、子育てどうしようと思い、
慌てて本書を読んだ――わけではない。
そんなことをしたら日本各地に数千はいるYonda? ファンの女性が悲しむからね(笑)。
河合隼雄はほとんど宗教だと思う。
信者としては、ブックオフで105円で売っているのを見かけると買わずにはいられない。
以下は子育てについての言説だが人生全般の方法論としても言えるのではないか。

「みんなに共通の便利な方法、よい方法、というのはない。
だいたい便利な方法なんて大したことないんですよ。
だれにでもできるんだから。
だから「どうもやり方が間違っている、
きっともっといいやり方があるのに自分は見逃してるんだ」
と思うのは間違ってます。
絶対によい方法とか、これで大丈夫とか、そんな簡単なものじゃないです。
そんなよい方法があるんだったら、
すべての人がその方法でみんな幸福になったり成功したりしてるはずですが、
そんなこと人生ではあり得ないでしょう。そういう意味で、
たとえば氏子さまに親子でお参りしたりするのは、案外意味があります。
どういうことかと言ったら、神様にお参りするということは、
「何もかも『私』がやって、何もかも『私』が上手にできます、
なんてことはあり得ません」ということの表明なんです」(P66)


みんなに共通の便利な方法、よい方法なんてない!

ちょっと考えたら、当たり前のことでしょう?
なのに、どうしても正解の方法があるのだと我われは求めてしまうところがある。
ブックオフで自己啓発書を買うくらいだったら金がかからない暇つぶしでいいのだが、
高額のセミナーにはまったりすると悲惨なことになってしまう。
なにゆえこうも人間は、よい方法とやらを求めるのだろう。
創作スクールなんてひどいもんで、自分はコンクールを取ったこともない講師が、
こうすればコンクールで賞を取れるなどと「正しい方法」を教えているのだから。
明らかな詐欺なのだが、これは騙されるほうにも罪があるのかもしれない。
というか、大半の人間は自信がないから、騙されたがるのであろう。
わたしは成功セミナーには行かず、神社の賽銭箱に百円玉を入れる生き方を好む。
失敗が続いたら、どうしたらいいのか? 布団をかぶり眠ってしまえ!

「ぼくなんか時代遅れと言ってもいいかもしれないけれど、
思い通りにならないことこそほんとにおもしろいことだと思ってるんです。
というより、ほんとは、思うようにならないことほどすごいことはないんですよ。
それこそが人生、そこでこそその人の個性が生きるわけですから。
それとね、そうやって思うようにならなくて、
あれやこれや考えてもどうしようもないときは、寝るんですよ。
それが一番です。目が覚めたら、また変わってますよ。
ひと晩たつって、不思議ですわ」(P67)


個性ってなんだろう?

「人間とは何かなんて、ある程度はわかってきましたけれど、
本気で考えたら、それ以上のことはほんとにわからないでしょう。
個性はそのわからないところにあるわけです。
絶対確実なことだけするというのは、
わかっているところだけを生きるということです。
そんなところに個性はありません。
だから、「一二〇円入れれば缶ジュースが出てくるのがわかってるから入れる」
のではなくて、「一二〇円入れても何も出てきいへんかもわからへん。
けれど、ぼくはここに入れるのや」というのがおもしろいんです。
そのとき「ぼくはこれに賭ける」というのは「ぼく」にしかできない。
つまり、その賭け方が個性なんです。
個性のある人は、人生でそういうことを何べんもやっている。
それで、何か出てくるときと出てこないときがあって、
いろいろ鍛えられていくわけです。
そのときどうするかもその人の個性ですね。
だから個性的に生きるというのは、ほんとにすごい大事業です。
人生の一番おもろいところは、何かに賭けていないとダメなことです」(P131)


ふむ、人生はギャンブルだと河合隼雄先生が言っておられる。
しかし、賭けで当てて大金を得たところで、大した意味はないのかもしれない。
数字(=成績、収入、資産、好感度、視聴率)にとらわれない生き方を氏はすすめる。
数字から離れたときにはじめて、人間は個性的に生きられるのではなかろうか?

「よい成績取って、金持ちになって、結婚して、あくせくして、
結局人間は死ぬわけでしょう? なんのために人生生きてるのか?
正しいことばっかりして、「いつおもろかったの?」って言いたいんです。
つまり「私はこれを生きた」っていうのがない。
私はこれをした、ではなくて、
みなさんお考えの中の、みなさんの評価の高いのをやっているだけ。
評価の基準がずっと外にあるんですよ。
「自分がやっておもろかったと思うことをいっぺんでもやってみろ」って、
親にも子どもにも、ぼくは言いたいんです」(P179)


河合先生はあんな温和な顔をして、ものすごく危険なアジテーションをやらかす。

「生きるチカラ」(植島啓司/集英社新書)

→好きな著者の新刊を新宿紀伊国屋書店で買う。
いまではめったに定価で新刊など買わないから、
どれほど著者に肩入れしているかわかっていただけると思う。
植島啓司はギャンブラーで宗教人類学者。
偉そうな物言いになるが、これほど人生に通じているものがいると思うと嬉しくなる。
氏の卓見は、宗教を外からではなく中から見ようとしたことによるのだろう。

「生きるチカラ」は死を見すえるところから生まれる。
なんのために生きるか? 死ぬために生きればいいのである。

「最後に死ぬという決定的な事実がある限り、究極の処方箋は一つしかない。
それは死ぬことを最大の幸福と見なす生きかたである。(……)
エチオピアでも、アルメニアでも、グルジアでも、
アルゼンチンでも、タイでも、インドネシアでも、
人々は死んだらいまより幸せになれると信じている。
ひどい境遇にあればあるほど、人々は死後に希望をたくすようになる」(P6)


死後のことはだれにもわからない。なら、なにゆえ死を不幸と我われは思うのか?
死はもしかしたら人間にとって最高の幸福かもしれないではないか?
人間はわからないことでも、信じることは可能である。
死を人間にとって最大の恵みと考えたとき、世の一切合財が容貌を変えるのではないか?
愛するものに先立たれても悲しむことはないのかもしれない。
もし愛するものが死によって救われたと信じることができるならば――。
これはなかなか明言することはできない究極の思考法(信仰)だと思う。

小声で言うけれど、似たような考えを持っている。
わたしにとって偶然的にもたらされる死は、この先、生きるうえでなによりの救いである。
どうせいずれ死ぬのだと思っているから、生きていられるところが少なからずある。
いまのところ人生で成功経験はないし、対人関係も失敗ばかりである。
しかし、だからこそ、死が最上の救済になるわけだ。
成功者にとって死はマイナスでしかないが、失敗者にとって死はプラスとなる。
死はゼロなのだと思う。
だから、人生でプラスを積み上げてきた人は、持っているものをみなみな失うことになる。
借金借財だらけのマイナス人生を送ってきたものは、
死に際して江戸時代の徳政令のごとくあらゆる損失をチャラにしてもらえるのである。
植島啓司の論述からいささか話がそれたことをお詫びする。
この学者先生はなんといっても成功者だから、こうまでの暴論は書けないと思う。
代筆した次第である。

人生は旅のようなものだと考えたとき、どちらが楽しいだろうか?
まったく予定の決まっていない自由気ままな放浪と、ツアー旅行と、いったいどちらが。
ツアー旅行は危険こそ少ないが、行く場所も逢う人もほとんど事前に決められている。
比して、放浪はたしかに危ないけれど、どこに行くかだれと逢うかまったくわからない。
日本人は観光ツアー旅行的な人生を好むものが多い。
といっても、いくらツアー旅行とはいえ、バス事故で死ぬことがないとは断言できないのだが。
植島啓司は自由旅行的な生き方を本書で推奨する。自由とはなにか?

「人は偶然に身をまかせることによって初めて自由になれる」(P19)

自由とは偶然を受け容れていく生き方のこと。
ならば、どうして自由に生きたほうがいいのか?

「生きるとはできるだけ大きな喜びや感動を経験することであり、
破産や没落をおそれてちまちまと保身に走るようなことがあってはならないのである」(P72)


おそらく自由に生きたほうが、大きな喜びや感動を経験することができるからである。
将来のことがわからない自由旅行者的な生き方は怖いと言うかもしれない。
なにがあるかあらかじめだいたいわかっている人生=旅行のほうが安心ではないか?
しかし、かわいい息子や娘が10年後に死ぬとわかっていることがそんなに幸せなのか?
子の早死にを知らぬ親は幼子を甘やかしてばかりはいられない。叱ることもあるだろう。
子どもが死んだのちに後悔すると思われる。だが、それが人生の味わいではないか?

「人間にとって「わからない」ということがいかに大事か」(P124)

カツマーのあなたはリスクが大きい人生を避けるかもしれない。
けれども、まったくリスクがゼロの人生などないのである。
そのうえ、落ちたら落ちたでもいいではないか。
なぜなら、落ちたときに見えてくるものが人生ではあるからだ。

「谷底から見ないと人生がどのようなものかはわからない。
自分が社会的に高い地位に就いており、大きな失敗もなく、
十分ではなくてもそこそこ満足できているというのが、
むしろ始末に悪いかもしれない。
自分が「幸せ」である側から世界を見ると、大切なものは何も見えないからである。
人を理解するとは、自分が抱えているコンプレックスやマイナス部分を基準にして、
相手の弱い部分を理解して(癒して)あげることである。
それなくして人を理解するなどできるはずがない」(P142)


たとえ人生の谷底に落ちてしまったとしても、
そのおかげで人生や人間について理解が深まるのだから、
落ちることをそう恐れるものではないのではないか?
むしろ、落ちてしまったほうがおもしろいとは考えられないだろうか?
しかし、人間は落ちようと思っても落ちられるものではない、とも言いうる。
人生は(旅とおなじく)選択の連続である。

「ある選択を行った結果、あなたは挫折するかもしれない。
また、その選択を回避することによってかえって失敗することになるかもしれない。
しかし、だからといってどちらが正しいとか間違っているとかいっても仕方がない。
何も起こらない人生は、ないのも同然だ。
いくつかの「過ち」を経て、ようやくその人にとっての人生が始まることになる。
それまでのあなたは人生を生きていないといっても過言ではないのだ。
選択し、躓(つまず)くところから人生は始まる。
表面的な成功に一喜一憂すべきではない。
それがわからない人は永遠に人生がわからないということなのだ」(P51)


選択の結果、当人がどうなるかはほとんど運である。
だが、このときの幸運あるいは不運が将来的にどうなるかも人間にはわからない。

「貧乏人はお金があれば幸せになれると思っているが、
お金があるとそれだけ不幸になる確率もさらに高くなるものである。
金持ちはあらゆる意味で困難を抱えてしまう運命にある。
ここに詳しくは書けないが、いわゆる有名人のほとんどが
人知れぬ大きな不幸を身内に抱えていることはよく知られた事実である。
あまりに当人が突出した富を得たりすると、
その災いは周囲の一番大切な人物のところにふりかかることがある」(P91)


こんな脅迫めいたことを言われると、ささやかながら幸福や成功を目指す我われは、
なんだか生きるのが怖くなってくるではないか。
具体的にどう生きたらいいと植島啓司先生は言うのだろうか。

「すべては偶然の成り行きにまかせればいい」(P30)

「自分にふりかかることのすべてをおもしろがれるかどうかが、
旅を楽しめるかどうかの分岐点なのだ」(P32)


簡単なように思えるが、どうしても自力で人生をどうにかしよう(どうにかできる)
と考えてしまう我われには、もしかしたらいちばん困難な生き方なのかもしれない。

「サイゴンのコニャックソーダ 酒こそわが人生」(石川文洋/七つ森書館)

→著者が、主に戦場カメラマンをしながら、世界各地でのんだ酒について語る思い出話。
死が身近にあるとき、人は生をもっとも強く意識する。
酒は死の代用品である。酒によってもたらされる眠りは、死の代替物ではなかろうか。
「眠り、目覚める」のは「一度死んでから、再生する」のとおなじ。
こう考えると、酒は極めて弱い死ということにはならないだろうか?
人間はみなどこかで死にたがっている。終わりを求めている。だから酒をのむ。
人間は酒をのむことではじめて、
(終わり=死、のある)人生を濃密に味わうことが可能になるのではないか?
死んでからのことを思ったら、生きているだけで万々歳なのである。

「私は、何を呑んでも食べても旨いと思う。
街を歩いて小さな食堂に入り、ギョーザやアジのフライにビール、
焼酎の杯を重ねるだけで幸せな気分になれるのだから、
貧乏カメラマンに見合った味覚と精神が身に付いているようだ」(P72)


まったく同感である。わたしもどんな酒でもつまみでものめるなら幸福なのだから。
しかし、どうせなら強い味のものを好む。ところが――。

「最近の泡盛の味や香りが「まろやか」になっているのも私には不満である。
これは本土の焼酎にも言うことができる。
味や香りに「個性」が強過ぎると若者たちに呑んでもらえないという。
酒と同じように、現代は、学校でも会社でも個性は敬遠される時代になっている」(P140)


明日、死ぬかもしれないのなら、強烈な味を経験してみたいと思う。
ところが、いまの若者の大半は、
平和平凡のうちに長生きすることしか考えていないのではないか。
酒飲みならそんな人生は味気ないと思うのだろうが、いまの若人は酒も敬遠するのだから。
戦争=死がそばにないと人間は腐っていくのではないだろうか?
著者は作家の灰谷健次郎からかわいがられていたとのことである。

「世界ぐるっとほろ酔い紀行」(西川治/新潮文庫)

→名著。カメラマンの著者が世界各地でのんだ酒の思い出を語る。
そのうえきれいな写真までついているのだから、この本に文句を言ったら罰が当たる。
酒はいいね。酒をのむのはいい。酒について語るのもいい。
酒のよろしさとはなにか? 酔うことである。
ならば、どうして酔うといいのか? 非常識になるからである。
常識に縛られていると、しんどいからね。

「イタリアに住みはじめたころは、
こんなことでいったいどうやって国家が維持できるのか、と訝ったものだ。
だが、昼間から赤い顔をして仕事をしていても、誰もとがめる人などいない。
ポリス、銀行員、店員。それにタクシー・ドライバーだって赤い顔をしている」(P137)


日本もこうなったら、ずいぶん住みよくなるだろうね。
電車が5分遅れたくらいで青筋を立てるのが正常なのはうちらの国くらいじゃない?
酒をのむとすべてが反対になる。そこがよろしい。
不幸や失敗、不運、不遇がどれほど酒のうまみを教えてくれるか。
スペインにはファド(欧風演歌)を聞くことのできる酒場があるらしい。

「中学生の頃、アマリア・ロドゲスという女性歌手の「暗いはしけ」という歌が、
ラジオから流れてきたのを聞いた。
そのメロディーと声の暗い情感に、これが男女の別れの悲しみなのかと思ったものだ。
その時がファドとのはじめての出会いだった。
ファドは運命とか宿命とかいう意味だ」(P171)


女から振られたときにのむ酒ほど五臓六腑にしみわたる酒はないのではないか?
通夜や葬式のあとでのむ酒ほど、人生を味わわせてくれる酒はないと思う。
酒は、人生の悲哀を舌で転がす余裕を与えてくれる、二つとない毒薬である。
――毒であり、薬なのである。

肝心なところなのでひとつ前の記事の内容を補足しておきたい。
わたしがオッパイ映画論に行きついたのは、むろん映画を観たからである。
(急にくだけて)ほら、あのさ、テレビ東京でお昼に映画やってるじゃない?
たまーに途中から観るのね、たまーによ。
あるときね、ベトナム反戦映画がやっていたのさ。
複数の米兵が現地人の美少女をレイプするって話。
悪くないなと思って観ていたら露出がないのね。オッパイがない。
こりゃダメだと思って、すぐ消した(けれど、いけませんか?)。

別の日に、こちらはタイトルを覚えている。
テレビをつけたら「シーナ」とかいう映画がやっていたの。
アフリカの奥地の独立国で若い女ターザンが侵略者と戦うみたいな、アハ。
勧善懲悪の脚本的にはぬるぬるの映画ね。
ところが、大して意味もないのに金髪の女ターザンが脱いでくれるのよ。
オッパイぽろりん。サービスいいなって思ったわけ。
それからも女ターザンは半裸の格好でアクションしてくれる。
またいつ(ぽろりが)あるのかと思って、ついつい最後まで観ちゃったもん。
それで不満だったかというと、そんなことはなくて、ああ、悪くなかったと思う。
このときだ。我輩が映画の本質に気がついたのは!

あのさ、アダルトビデオってつまらないよね?
だって、性交する理由がないじゃない。
映画は女優を脱がせるためにいろいろストーリーを仕組むわけでしょう?
それが文化なのよ! 芸術なのよ!
ふむ、30も半ばに近づくと、わかってくることがあるもんだ。
「泪橋」(村松友視、唐十郎/角川文庫)絶版

→映画シナリオ。活動屋の住まう世界は恐ろしすぎる。
おそらく魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)しているのではないか。
直木賞受賞の原作を、作者の村松友視と劇作家の唐十郎が共同執筆でシナリオ化。
みなさんお気づきでしょうが、どちらもシナリオの執筆経験はない。
これほど意味不明なものはないという脚本に仕上がっているわけだ。
読みながら思わず舌打ちした。

おまえらシナセンでも行けよ!

しかし映画の世界は毒々しい。
直木賞作家と岸田賞劇作家に、だれも書き直しを命じられなかったのではないか?
さらに地獄がかっているのは、
映画監督の黒木和雄がこのダメシナリオをヘッチャラで撮影してしまうところ。
黒木先生(実は面識があったりする)、シナリオは意味がわからないでしょう?
どうしてこのシナリオで映画を撮れるんですか~。

しかし、不満があるわけではない。なぜならオッパイがあるからである。
最近思うのは、映画はオッパイさえあったらなんでもありではないか、ということ。
映画は脚本を見せるものでも、監督の個性を見せるものでもない。
きれいな絵があればそれでいいのではないか。だから、オッパイがあればいい。
この映画では新人女優の佳村萠(愛川欽也の愛娘らしい)が脱ぎまくっている。
シナリオの文庫本にも(単色だが)佳村萠のオッパイ写真が複数掲載されている。
ならば、これはもう認めてしまうほかないではないか?
映画は監督や脚本がダメでも女優のオッパイがあれば、ただそれだけでよろしい。
わたしの映画論である。反論はいっさい受けつけない。

「失楽園」(筒井ともみ/演劇ぶっく社)

→「失楽園」は小説も映画もドラマも見ていないが、このたびシナリオで読む。
プロの映画脚本家の仕事だと思う。
映画シナリオはあまり個性が強いと周囲に迷惑を及ぼすのである。
映画脚本家は自分の書きたいことよりも、
監督やプロデューサーが書きたいと思っていることを書かなければならない。
もしくは自分が書いたものを、
あたかも監督やプロデューサーが書いたもののように思わせる対人テクニックが必要。
どちらも会社員さえ勤まらぬような人間にできる仕事ではないと思う。

映画監督は基本的に自分が脚本を書いたら世界一の傑作ができると信じている。
プロデューサーの中にもおなじような考え方をしているものがいるかもしれない。
だから、映画脚本家は監督とプロデューサーという二人の主人に仕える召使いのようなもの。
エスパーのように他者の心理を読む技量がなければとても務まらない。
映画人は複雑なプライドとコンプレックスをあわせ持っていることが多いから、
脚本家はかれらの地雷を踏まぬような細心の注意を払うことが求められる。

筒井ともみ氏が、この決定稿まで費やした対人ストレスを考えると頭が下がる。
氏のようなプロだったら、きちんと製作費の5%をギャラでもらえるのだろうか?
映画がヒットしても名誉は監督に持っていかれてしまう。
大当たりを取っても脚本家に臨時ボーナスが出ることはないだろう。
映画脚本家は、つくづく大変な仕事である。

セリフのないト書きのみのシーンが多く、どれもうまかった。
映画監督の仕事は、いかにシナリオを自分の個性で壊すか、である。
シナリオの個性が強いと映画監督も対抗しようと変に力み映画がとんでもないことになる。
その点、このシナリオはセリフが弱く、簡素なト書きが低姿勢で好ましい。
映画監督が十分に遊ぶことのできるシナリオになっていると思う。
こういうのをプロの仕事というのだとほとほと感心する。
おもしろいシナリオを書けばいいなどと思っているのはアマチュアなのである。
映画はおそらくそれほど甘い世界ではない。

「牛の目ン玉」(冨川元文/「月刊ドラマ」1993年4月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。NHK。1時間もの。
脚本家の名前は小説家と比べて知られていないと思いませんか?
冨川元文氏は調べてみたら向田邦子賞を受賞しているから一流脚本家でしょう。
肩書よりもなにも、このシナリオ「牛の目ン玉」を読んだら技量がすぐにわかる。
最近、新人シナリオ賞を取ったような若手脚本家と比べて人間を見る目がまるで違う。
このシナリオも泣かせどころがしっかりしていて拍手したものである。
簡単には模倣できない独自の世界を持つプロの作品だと思う。
ところが、検索してみたら冨川元文氏はこの10年まったくドラマを書いていない。
50歳からぱたっと仕事が来なくなってしまったのだろうか……。
いまなにをなさっているのか。餓死といったような物騒な言葉が思い浮かぶ。
脚本家を職業として考えると恐ろしい。
懇意のプロデューサーが転属になったその日から食い詰めることになるのではないか?
しきりに夢という言葉を用いシナリオライターに憧れを持たせる各種スクールの罪は重い。
「ラスト パーティー」(関根俊夫/「月刊ドラマ」1993年4月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。NHK。1時間もの。
これもおもしろい。博多でバンドを組む五人。
東京でのデビューが決まっての「ラスト パーティー」――。
ところが事務所の方針が変わり、必要なのは二人だけという連絡が入る。
「ラスト パーティー」開始時間はとっくに過ぎている。さあ、どうするか?
才能のあるデビュー組の二人は、夢か友情かの選択を迫られるわけである。
時間による縛りが、こうもドラマの緊迫感を増すのかと勉強になった。
作者は脚本家の例に漏れず山田太一の影響を相当に受けているのではないか。
たとえば、こんなセリフは山田太一ドラマをほうふつとさせる。

リーダー「(強い口調で)行きゃあいいんだよ。
俺だって声かけられたらお前らを見捨てる。他のやつのことなんか知ったことかよ。
当然だろ。だけど、お前は卑怯だ。
行くとか行かねえとか、フラフラしやがって、お前はいつだって曖昧で優柔不断で。
要するに誰からも嫌われたくねえだけなんだ。
やさしけりゃあいいのか? 仲良くすりゃいいのか? 傷つかなきゃいいのか?」(P80)
「魚のように」(中島丈博/「月刊ドラマ」1993年4月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。NHK。1時間もの。
第二回坊ちゃん文学賞を受賞した女子高校生の原作小説を、
巨匠・中島丈博がこれでもかと変えてドラマ化したようである。
まさか何気なく手に取ったドラマ誌のバックナンバーでこれほどの傑作に出逢えるとは!
青春ドラマの秀作。
山田太一にも向田邦子にも決して書けない中島丈博だけの青春世界が繰り広げられる。
中島丈博が巨匠というのがいまひとつわからなかったが、
「魚のように」を読んでここにも天才脚本家がいたのかと深い感銘を受ける。
青春期における性の甘さ、苦さを叙情的な透明性をもって美しく描いている。
どえらい傑作がひっそり隠れていたものかと仰天したものである。

もし、もしの話ですよ。
もしこれを書いたのが新人で、わたしがテレビ局のプロデューサーだったら、
この作者に急いで仕事を依頼すると思う。
それほど作者独特のドラマ世界に惚れこんだ。ああ、惚れたさ! ああ、参ったさ!
女子高生二人の同性愛的友情関係が実に巧みに、そして美麗に描かれている。
せっかくだからセリフを少し抜き書きしておこう。
田舎の女子高生の会話である。
方言っていいよな~。東京育ちだから東京弁しか使えないのが口惜しい。
清文(高岡早紀)、君子(藤谷美紀)――。

清文「絶交してよ。わたしはかまんがやけん」
君子「(いとおしそうに見つめ)わたしね、あなたのこと好きながよ」
清文「好き? あんなことしても、好き?」
君子「(頷く)好きよ」
清文「どうしてよ?」
君子「あなたは気付かんかも知れんけどね、
清文の周りだけ、時間の流れ方が違うがよ」
清文「時間の流れ方?」
君子「ほかの人間はみんなあくせく、現実のことだけ考えよるわ。
けんど、あなただけは目に見えんものを追っかけよる。
愛かも知れん。嫉妬かも知れん。もっと醜い感情かも知れん。
けど、目には見えんものを現実よりも大切に生きちょるあなたは、許されるの。
何をしてもかまんと思うてしまうの」(P61)
「毛糸の指輪」(向田邦子/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和52年放送。
ドラマで盗作うんぬんというのはお門違いという気がしてならない。
たとえばこの佳作を読んで、わたしはモームの芝居「ひとめぐり」を思い出した。
けれども、盗作というわけがないのである。
おそらく向田邦子はモームのこのマイナーな劇作の存在さえ知らなかっただろう。

どういうことか? ドラマのパターンはもうとうに出尽くしているのである。
そもそも人生のありようからして劇的なことなど限られている。
大概の人間にとってドラマチックなことは、人生で誕生→結婚→死くらいしかないのである。
付随して不倫、離婚、出産があるくらいなものだろう。
たまさか運の悪い人間が人を殺してしまったりするのだが、
ここぞとばかりこの犯罪者をドラマに仕立て上げる脚本家も多い。
犯罪もの以外だと、ほとんどの話が男女がくっつくか別れるか、ではなかろうか?
なんと我われの人生の味気ないことか!
いや、そうでもない。ありきたりだが、それなりに味があるのではないか?
この味の出し方がドラマ作家の個性となるのだろう。

みんな、おなじことを繰り返すのである。おなじことを書くしかないのである。
そこにどう作者の個性を出していくか?
向田邦子が天才と言われるゆえんは、この調理法である。
脚本家は独特の味を出すことができたのだ。

何度も書いてきたがドラマというのは「二つに一つ」である。
登場人物を「二つに一つ」の状況に追い込み、さんざん焦らせながら迷わせる。
果たして、どちらにしたら、よりよいのか? より幸福になれるのか?
答えは、だれもわからない。人間は選ぶ。行為する。これがドラマである。
「毛糸の指輪」がうまいのは、迷う若者に老人がアドバイスするところである。
むかし老人は若いころ「二つに一つ」で、ある方を選択した。
失敗したと思っている。だから、あなたは「二つに一つ」のこちらを選べ!
さあ、若者はどうするか?
このパターンのドラマは、いくらでも作り出すことができる。
だが、レシピはおなじでも味はさまざまなものになるはずである。
料理人の腕が問われているということだ。
女性シェフの向田邦子は「毛糸の指輪」で絶妙の味つけをしたとわたしは思う。

「きんぎょの夢」(向田邦子/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和46年放送。
むかしのテレビドラマは、くだらない話が多かったようである。
どれだけありがちな設定で、いかに人情噺を作ることができるかが求められていた。
いまは反対なんだろうな。
現代のテレビドラマは、輝かしい職場で活躍する人の話が多いから。
ドラマは、ありきたりな人間のありがちな悲喜に光を当てるものではなくなってしまった。
だから残酷な話だけど、いま向田邦子がいたとしても、
「こんな話で数字(視聴率)が取れっかよバカヤロ」とPに怒鳴られるだけだろう。
時流に乗る、という言葉がある。
向田邦子も倉本聰も山田太一も、うまく時流に乗ったのであろう。

このドラマは水商売の独身女が、好きな妻子もちの男性をあきらめる話。
それだけなのね。
もっとジャンジャン色つけないと視聴者はチャンネル変えちゃうよ!
もっと展開早くして! 走らせよう、とりあえず走らせよう!
この女を客と寝させちゃったらどう? ベッドシーンは数字取れるから!
なーんて、おれが言って、どうすんだって話だわな――。

「蛇蝎のごとく」(向田邦子/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和56年放送。NHK連続3回。
向田邦子がこのドラマで書きたかったと思われるのは男同士の友情。
四角四面の父親がいる。その娘が妻子ある男性と恋に落ちてしまった。
父親と娘の相手との友情を作者は描きたかったようである。
向田邦子は「女の話」しか書かないから、ある種の意欲作だったのかもしれない。
むろん向田邦子作品だから一定レベル以上だが、成功しているとは言いがたい。
どうやら女性は男同士の友情に過度の憧憬を持つようである。
実際は男同士の友情もプライドやコンプレックスに縛られた窮屈な関係なのだが――。
いや、わたしが男だからといって、男性間の友情はこうだとかならずしも断定はできない。

向田邦子はこのシナリオでテクニック盗み見、盗み聞きを3回使用している。
わたしもこのテクニックは好きで多用しているが、ふと思ったのである。
我われは実生活で盗み見、盗み聞きなど、そうそうするものだろうか?
物陰から他人の秘密を盗み見、盗み聞きしたことのある人など実際にいますか?
よくよく考えてみたら、わたしは人生で盗み見、盗み聞きの経験がないような――。
ドラマのお約束だからリアリティを問うのはおかしいのはわかっている。
だが、新たな発見であった。

向田邦子のセリフまわしを紹介してみたい。
修司=父親。佐久間=娘の元カレ。

修司「猫のラブ・シーンての、みたことあるかい」
佐久間「犬は、まあ、あるけど」
修司「猫が凄いんだよ。メス猫はね、はじめは、全然関心がないわって顔して、
こんなことして、顔洗ってンだよ。
そのくせ、よくみると体くなくなしなしなさせて、オスさそってンだな。
そいじゃあってんで、オスがチョッカイかけると、猛然と反撃に出るね。
ギャオ! ギャオ! アンタ、何するのようって感じでさ、
体中の毛、逆立てて背中なんかゴジラの背びれみたいになってるよ。
爪出してさ、こうですよ(手をふりあげ、口をあけ、目をむく)
それでいて、物置きの隅とか、後ろ側の戸袋のとことか、
逃げられないとこへ入ってくンだ。
ギャオ! ギャア歯むき出しながら、オスさそってンだよ。
若いオスは、カンちがいするんだなあ。オレは嫌われてる。
そこで、引き下がると年とったオスにさらわれちまうんだよ。
判ってないんだよ。メスがギャオギャオいうときはイエスなんだよ。
ギャア! ギャア! オスなら、そこを押しつけて、ガァ!」(P37)


「愛という字」(向田邦子/岩波現代文庫)

→テレビドラマシナリオ。昭和54年放送作品。
向田邦子はシナリオで「うまく行かない感じ」を描くのが巧みである。
人生は、思うがままにはならない。でも、そこにこそ味があるんじゃないかな?
なにもかにもうまく行くなら、それもまたつまらなくはありませんか?
といったメッセージを断じてセリフではなく、シーンで伝えるのである。
人間のどうしようもなさが持つおかしみを実に見事に描く。
これはテクニックではなく、
作家の生き方の領域だから真似しようと思って出来るものではない。

「当節結婚の事情」(向田邦子/岩波現代文庫)

→テレビドラマシナリオ。昭和54年放送作品。
山田太一さんの作品もそうなのだけれど、シナリオは記憶に残らないところがある。
感動してもその場限りであとを引かないとでも言ったらいいのだろうか。
要するに、すぐに忘れてしまうのである。
向田邦子自身も、シナリオは書き捨て。書いたそばから忘れていく。
どこかでそう述べていたような気がする。
一生ものの感動は、シナリオでは与えられないということだ。
シナリオがドラマになったら、あるいはより深い感銘を与えられるかもしれないけれど。
とはいえ、テレビは作り手に制限が多く(制作期間、制作費)、
これはもうどうにもならないと思う。
映像化されたドラマでさえこうである。
シナリオは永遠に小説にはかなわないと思う。

このシナリオも実にいいのだが、まるで記憶に残っていなかった――。
考えてみたら、人生は悲喜の繰り返しではあるが、
我われは1年前の今日の小さな感情を覚えてはいない。
ところが、そういう細やかな感情を描くのが向田邦子や山田太一の脚本なのである。
だから、むしろすぐに忘れられるのは、
作家が巧みに日常を描いている証拠なのかもしれない。
しかし、シナリオ創作は空しい。
向田邦子の才能を小説にも向かわせた人物は正しかった。

「びっくり箱」(向田邦子/岩波現代文庫)

→テレビドラマシナリオ。昭和52年放送作品。
向田邦子の1時間ドラマの最高傑作だと思う。うまいよな~。
ぶっちゃけ、シナリオなんて9割が読んでもつまらないのね。
それを演出家と俳優のちからで、なんとか観客に見せられるレベルまで上げる。
ところが、このシナリオは――。
読んだだけで笑えるし泣けるのだから。こういうシナリオがいいんだ。
向田邦子という人は、よく笑いよく泣く人だったと思う。
ドラマ作家の才能というのは、これに尽きると思う。
いかにうまく人生を味わうか。いかに笑い、そして泣くか。

向田邦子の書き癖をひとつ発見した。
個性ある作家はみな書き癖を持っているのね。これが個性である。
こういう癖を真似ていくことで、だんだんシナリオが上達するのだと思う。

「言ってから、しまったとなる」(P233)

社会人として生活していくならば、言っちゃいけないことは山ほどあるよね。
けれども、ドラマで現実をそのまま模倣してもつまらない。
ドラマだったら、言っちゃいけないことを言わせていいのである。
それがおもしろいのである。

母と娘が葬式に参列する。

「花と娘のうしろで、故人の友達らしい老女、前野ひさと立花雪がひそひそばなし。
ひさ「生きてるうちが花だねえ」
雪「こやって四角いとこ、入ってしまったら、おしまいだ」
ひさ「なんかするんなら生きてるうち。骨になっちゃ、何にも出来ないんだから」
雪「心残りがないように、トロでもいただこう。ナンマイダブナンマイダブ」
聞いている厚子」(P231)


天才脚本家はドラマ創作の裏側をも書いてしまうのである。
いずれみんな死んでしまう――そう思うと人間のどんな営みも哀しい。

生きてるうちが花。

ならば、いっぱい笑ったほうがいいではないか?
いっぱい泣くような人生もまたあってもいいのではないか?
前者はみな同意するだろうが、後者は果たしてどうだろうか――。
向田邦子はおそらく後者にも同意しただろうと思う。

「眠り人形」(向田邦子/岩波現代文庫)

→テレビドラマシナリオ。昭和52年放送作品。
向田邦子はドラマ作法が身体全体に染み込んでいるとしか思えない。
人工的にドラマを作るのではなく、自然にドラマを生み落としているのがよくわかる。
本当はこういう才人しかドラマを書いてはいけないのである。
スクールに行ってテクニックを教わり、その通りに書かれたドラマなど見たくもない。
というのも、ドラマの中の人物は自然に動いてなければならないのだから。
人工的に計算された行為など不自然で見ていられないはずである。

「修羅場に新しい人を入れる」テクニックがうまい。
思えば、最前書いたシナリオで、わたしもおなじようなシーンをいくつも書いている。
どうしてかそのようなシーンを書いてしまうのである。

このドラマのテーマは姉妹の不和と和解。
これは憶測だが、一人っ子は、あまりいいドラマ作家になれないのではないか?
それほど兄弟姉妹というのはドラマの宝庫である。
そして、この関係は経験していないと書けないと思う。
だれか人気脚本家の兄弟姉妹の有無を調べたら、おもしろい結果が出るかもしれない。
人の関係を描くのがドラマの役割のひとつである。
ならば、脚本家の生育環境は作品を決定的に左右するであろう。
いまさら当たり前のことを失礼した。

「花嫁」(向田邦子/岩波現代文庫)

→テレビドラマシナリオ。昭和52年放送作品。
ドラマは高尚な純文学さまのような真似はできない。
少数の選民を満足させるだけではドラマの役割を果たしたことにはならないのだ。
では、みなの関心を惹くにはどうしたらいいか?
だれもがみな関心があることをテーマにしたらいいのである。
向田邦子のテーマ(のひとつ)は、山田太一や宮本輝とおなじである。

「――それ、しあわせかな」(P128)

このテーマひとつでいくらだってドラマは作ることができるのである。
向田邦子や山田太一の多作を説明するのは、このセリフである。
人間にとって「しあわせ」はさまざまである。人間の幸福は多様だ。
だから、古来ドラマが作られ、これからも我われはドラマを見るのである。

このドラマでは老母(=ちよ)が再婚する。
成人した4人の子どものまえで、ちよは――。

ちよ「『長い間、いろいろ、ありがとうございました』」
一同、笑いと涙が、いっぺんにこみ上げる」(P146)


この笑いと涙がドラマである。人間の喜びと悲しみがドラマなのである。

「母上様・赤澤良雄」(向田邦子/岩波現代文庫)

→テレビドラマシナリオ。昭和51年放送作品。
脚本家の「書きたい」という情熱はなんなのだろう?
たとえば、このシナリオでは、嫁姑の女二人が電車の中で――。

「二人の女、足を小突きあって笑っている」(P100)

このシーンを作者が書きたかったことがよくわかる。
いいシーンだなと思う。
現実の嫁姑はそうそう上手くいくものではない。
けれども、こういうことがあってほしいと向田邦子は強く願った。
現実に歯向かいたいと思った。嘘をつきたいと思った。
現実=本当のことに対する苛立ちが、
脚本家の胸中に「書きたい」シーンを浮かばせるのではないか?

「母の贈物」(向田邦子/岩波現代文庫)

→テレビドラマシナリオ。昭和51年放送作品。
ドラマというのはパターンがある。
けれども、創作の際、意識的にパターンにのっとろうとすると失敗する。
どうしてか書いてみたらパターンをなぞってしまった、というのがよろしい。
たとえれば、気づいたら秋になっていた、という感覚に近い。
春夏秋冬のようなものである。
創作の基本として教わるのが起承転結。
あれは最初から起承転結を作ろうとするとおもしろいものにならない。素人臭くなる。
気がついたら起承転結になっていたというのがよい。
ふたたび、春夏秋冬のように、である。
脚本家がみなそうしているかはわからないが、
少なくとも向田邦子のドラマ作法の正解にはなっていると思う。

パターンを逐一確認していこう。

「ごめんなさい。死んだなんて嘘をついて」(P32)

セリフの嘘が多ければ多いほどドラマの魅力は高まる。

「おい、フミ子。何だって急に――そんなこと、みんなの前で云うこたア」(P43)

秘密の明らかになる過程がドラマであると言っても間違いではないのだろう。

「さっきまで、鍋を仕切り、ビールをついだりしていたフミ子に代わって、
今度は伸江がホステス役。孝次にグラスを持たせ、ビールをつぐ」(P45)


形勢逆転するドラマはおもしろい。有利と不利が入れ替わるのである。

「はじめて母に見せる娘の涙。母も泣いている」(P54)

観客を泣かせたかったら、俳優を先に泣かせるに限る。笑いはそうではない。

※調子に乗ってもうひとつ落選エッセイを晒してみましょう。
テーマは「感動体験」だったかな。職業欄には「派遣社員」と書いたような気がします。
素人エッセイのいちばんのポイントは職業欄なんですね(笑)。
看護婦(看護師)なんかが比較的に受賞率の高い職業ではないでしょうか?
素人エッセイはうまくてはいけないんです。
選考委員さまに気持よく見下してもらわなければならない。
これは朴訥な高卒派遣社員をイメージして書きました。
落選理由は、いささかやりすぎたせいだと思います。むろん、内容はすべて嘘です。

 僕は、難しいことはわからない。三十を超えてこんなことじゃいけないと思う。独身だからかもしれないと思ったりもする。がんばって毎日、新聞を読んでいるけれど、わからないことはわからないのだ。
 近所に小さなスーパーがあって仕事帰りによく寄る。レジはふたつ。店員さんとは全員、すっかり顔なじみ。賞味期限が近い半額のお弁当をよく買う客として覚えられているはずだ。売り子さんはローテーションでいろいろ。おばさんが多い。若い娘さんはふたり。
 レジがふたつなので困ることがある。客が僕しかいないときだ。レジにきれいなお姉さんと、ふつうのお姉さん。どちらのレジに行けばいいのだろう。ふつうのお姉さんも僕なんかには十分魅力的なのだが、もうひとりのほうが美人すぎるのだ。
 困る理由はあとひとつあって、接客は美人さんのほうがやさしい。みなさんならどちらに並ぶか。男の人にも女の人にも聞きたい。
 困った僕は動揺を悟られないように何気なく自然を装いレジに向かう。美人さんではなく、ふつうさんのほうに。たぶん僕がもてないからだと思う。もてる人なら違うと思う。レジの女の子は僕をキッとにらむ。少なくとも僕はいつもそんな気がしていた。
 ところが、見てしまった。日曜日に見てしまったのだ。彼女を、ときおり僕をにらむ彼女を、二駅離れたところにあるショッピングモールで。ひとりではなかった。旦那さんとかわいい男の子が横にいた。ずっと見ていたら気づかれた。気まずい。僕は会釈した。彼女はちょっと困ったような顔ではにかんだ。
 花を買う。なるべく目立たない花を選びに選び抜いて買った。部屋に飾ったら、今日がとてもいい日曜日であるような気がした。
 毎晩、スーパーに行くのが楽しみだ。レジで困らない。レジで迷わない。彼女が笑いかけてくれることもある。いつか恋人とふたりでこのスーパーに来るのが僕の夢だ。

※某エッセイ・コンテストで最終選考に残った作品です。
ちなみに、これが人生最初の最終選考経験になります。
職業は「自営業」で応募したのだったか。もちろん嘘です。内容もぜんぶ嘘。
結果的に落選したのは優秀な選考委員が嘘を見破ったからかどうかはわかりません。

 憎らしい上司だった。
 のみに行こうという。ふたりで行こうという。初めてのことだった。会社づとめをしていたときのことである。とても高そうなバーに連れて行かれた。おごるからという。断わるわけにはいかなかった。
 何も聞かれなかったので、自分から謝罪した。そのころ仕事でミスを連発していた。とがめられなかったので、理由を話した。手ひどい失恋を経験したことを。若かった。
「味わうことだな」
 男は私に顔を向けた。職場の顔ではない。のもうという。酒にはまだ手をつけていなかった。男の頼んだウイスキーである。ロック。のむまえにためらった、ように見えた。私も真似をしたら、強い臭気が鼻を刺す。男は海の香りがするのだという。私も同意した。
 忘れてはいけないという。いや、忘れようとしてはいけない、だ。しっかり失恋を味わうことだ。色から香り、舌ざわりまですべて。いまは信じられないだろうが、みんな忘れてしまう。人間は偉大で、物悲しい。だから、味わえ。忘れようとするな。そんなことをポツリポツリと話す男は上司ではなかった。年齢は十ばかり離れていたのだったか。
 一杯ずつおかわりをする。ここから遠い海のことを思った。もう何も話さなかった。
 翌日、男は憎らしい上司に戻っていた。どうしてかそれが嬉しかったのを覚えている。五年前のことである。いまなら男の言葉の意味がよくわかる。
 最近、年下の友人が失恋したという。むろん、相談に来る友人は男である。ふと海の香りが鼻をくすぐる。そのとき気づいたのである。かつての上司が断じて私のことを嫌っていなかったことを。憎むどころか、むしろ好いてくれていたことを。私たちは、おそらくただ似ていたのだろう。
 友人の話を聞いた翌日、むかしの職場に電話をした。男もまた会社を去っていた。



公募エッセイは3本応募しましたが、ぜんぶ落選しましたね。
素人臭い文章を装うのはまこと難しい。
楽をして金を儲けようとしたわたしがバカでした。
まあ、こんなところで運を使わなくてよかったと強がっておきます。
この世の中には見えるものと見えないものがあります。
お金や肩書、美醜は目に見えるものでしょう。
じゃあ、見えないものってなんだろうと考えると、あれ? とわからなくなります。
我われは現代人は目で見えるものしか信じちゃいけないような思い込みがありますから。
たとえば、ご縁なんていうのは目に見えないものです。
縁とはなにか? 
わたしは一緒にいると偶然がいっぱい起こる人に、自分と縁があるのだと考えます。
偶然も目に見えません。
というのも、目に見えていたらそれは必然になってしまいますでしょう。
ある経済政策を打ち出した「から」「必然として」景気が回復した――といったように。
もし人間の目に見えるものが1割くらいだったら、どうなるでしょうかね?
ほとんどは目に見えないものだとしたら、です。
オカルトめいてきてすみません。
新興宗教の教祖になるのと作家になるのとでは、どちらが難しいのでしょうか、アハハ。
先月、「医者は偉い」という内容のシナリオを書いていたのね。
嘘みたいな話なんだけれども本当。
このシナリオを書き始めた初日に、とある精神科の女医さんからのメールが舞い込んだ。
ブログの内容に対するご質問だった。
お答えしたついでに、こちらも質問をしたのね。
精神科医だったらだれでもわかるようなこと。
冗談半分でメル友になってくださいとも。
結果はどうか? 返信など来やしない。
メル友うんぬんはともかく、1行で書ける質問には答えてくれてもいいと思わない?
文面から察するに女医さんは、わたしよりも年下っぽかった。
ああ、医者は偉いんだと思ったわけ。
医者はプライベートでわたしなんか相手にしないのだから!

この記事の主張は偉そうな医者への抗議ではない。
そのときわたしの書いていたシナリオがまさしく「医者は偉い」の話だったこと。
お医者さんというのは、こういう人種なのかと身をもってわかった。
打たれるわけさ。なにか運命のようなものさえ感じる。
このシナリオを書くのは運命? なーんて。
まえもあるシナリオで「死」を描いているとき、
知人から近親者がお亡くなりになったというメールをいただいたことがあった。
このときも不思議な偶然のありように驚いたものである。
創作をしていると、こういった偶然がポンポン起こる。
おそらく、わたしと係わった人で
この類いの偶然を経験した人は結構いらっしゃるのではないか?
どうしてか不思議な偶然が起きてしまう。
最近、自分はとびきり運がいいのではないかと本気で思っている。