とある締切が迫っていて、こんなことを書いている場合ではないのだが――。
どうにも考えがまとまらないのである。だったら、書いてみるしかない。
考えるとは、書くことなのだから。考えるとは、言葉を使用すること。

努力をどう捉えたらいいのだろうか?
そもそもわたしは努力をしているのか?
人一倍、ドラマについて勉強しているという自負がないわけではない。
しかし、わたしよりはるかに大変な環境で努力なさっているかたが大勢いるだろう。
おのれの修練など、恥ずかしくてとても努力とは言えない。

「努力したから報われた」という物語パターンがあるでしょう?
小説、漫画、ドラマ、映画のうち、このパターンはかなりの比率を占める。
わたしは「努力が報われる」話を書きたくないと思ってきた。
しかし、この態度は誤りではないか、という反省も最近ある。
なぜなら、ドラマというのは嘘でしょう?
観客は辛い現実をいっときでも忘れたいわけである。
だったら、「努力が報われる」ドラマは、フィクションの本流ではないか?

どうして「努力が報われる」ストーリーを嫌うのか?
現実がそうではないからである。
だが、現実とは異なる世界を描くのがフィクションなのだからいいではないか?
だがしかし、「努力は報われる」という嘘を本当だと信じる人をこれ以上増やしたくないのだ。
だれも映画やテレビドラマで、死んだ人間が生き返った話を見ても本当だとは思わない。
名家のお嬢さまが中卒配管工と結婚したという話を本当だとは思わない。
ところが、「努力は報われる」という話だけは本当だと信じられてしまう。
それだけみんなから愛されている物語なのである。

思い切って「努力が報われる」シナリオを書いてしまおうか?
受け手が求めているものを差し出すのが商売の手法でしょう?
ならば、物書きがどうしてそれをやってはいけないのだろうか?
どうしてこんなに「努力が報われる」作品を書くのに抵抗があるのだろう?
本当は「努力が報われない」からこそ「努力が報われる」ドラマが必要なのではないか?

ひと晩寝てから再度考えよう。寝ているあいだも人は考えている。