とある締切が迫っていて、こんなことを書いている場合ではないのだが――。
どうにも考えがまとまらないのである。だったら、書いてみるしかない。
考えるとは、書くことなのだから。考えるとは、言葉を使用すること。

努力をどう捉えたらいいのだろうか?
そもそもわたしは努力をしているのか?
人一倍、ドラマについて勉強しているという自負がないわけではない。
しかし、わたしよりはるかに大変な環境で努力なさっているかたが大勢いるだろう。
おのれの修練など、恥ずかしくてとても努力とは言えない。

「努力したから報われた」という物語パターンがあるでしょう?
小説、漫画、ドラマ、映画のうち、このパターンはかなりの比率を占める。
わたしは「努力が報われる」話を書きたくないと思ってきた。
しかし、この態度は誤りではないか、という反省も最近ある。
なぜなら、ドラマというのは嘘でしょう?
観客は辛い現実をいっときでも忘れたいわけである。
だったら、「努力が報われる」ドラマは、フィクションの本流ではないか?

どうして「努力が報われる」ストーリーを嫌うのか?
現実がそうではないからである。
だが、現実とは異なる世界を描くのがフィクションなのだからいいではないか?
だがしかし、「努力は報われる」という嘘を本当だと信じる人をこれ以上増やしたくないのだ。
だれも映画やテレビドラマで、死んだ人間が生き返った話を見ても本当だとは思わない。
名家のお嬢さまが中卒配管工と結婚したという話を本当だとは思わない。
ところが、「努力は報われる」という話だけは本当だと信じられてしまう。
それだけみんなから愛されている物語なのである。

思い切って「努力が報われる」シナリオを書いてしまおうか?
受け手が求めているものを差し出すのが商売の手法でしょう?
ならば、物書きがどうしてそれをやってはいけないのだろうか?
どうしてこんなに「努力が報われる」作品を書くのに抵抗があるのだろう?
本当は「努力が報われない」からこそ「努力が報われる」ドラマが必要なのではないか?

ひと晩寝てから再度考えよう。寝ているあいだも人は考えている。
われら氷河期世代のトップランナー、評論家の赤木智弘氏は、「希望は戦争」と言った。
ならば、氷河期世代の後列走者のわたしは言おう! 希望は格差婚である。
格差婚とは、男性よりも女性のほうが学歴・収入・容姿が上回っている結婚のことらしい。
3つすべてにおい格上でなくてもいいとの情報もある。
こういう概念をマスコミはもっと流行らせるべきである。
嘘でいいのよ! なぜなら嘘こそ人間を救うものなのだから!
うっかり格差婚などという流行にだまされてしまう女性がいるかもしれない。
相手になった男性は、こんな幸福なことはないのではないか?
結婚によるステータス上昇は古来、女性にのみ許された特権であった。
この「枠」が男性にまで拡大されたら、こんなにいいことはないと思うのだが――。
そして、そ、そ、それがわたしだったら!

不細工ブームというのも起きないかな。
イケメンは性格が悪く不細工は内面が優れているというデマが流れないものか。
野島伸司先生は「101回目のプロポーズ」で不細工ブームを起こしかけたのである。
さすが天才脚本家はやることが違うと思う。
どうしたら下流から脱け出せるのでしょうか? 新聞は取っていない。
服はユニクロ、散髪は千円カット、本はブックオフ105円本、雑貨は百円ショップ。
百数十円のカップラーメンは美味だけれど最近、健康を考えあまり食べなくなった。
けれども、一個25円程度の納豆でもご飯にかけるとサイコーにうまい。
180円のレトルトカレー「Lee 10倍」はご馳走。
今日など398円もするレトルトホタテカレーが夕餉でとても贅沢をした気分。
このところ缶詰「サバの蒲焼」の美味を知り感動した。
どうしてこうも欲がないのか? 奮起しようとしないのか?

高い服を着ても中身が中身だからかえって滑稽になってしまうのが怖い。
髪を切ってもらうのはいくらでもおなじでしょう?
1600円も支払った書籍がつまらなかったら卒倒してしまうので健康によくない。
美食は際限がないし、本人が食べておいしければそれでよくね?
ものを書いているときが幸福だけれども、独学だから金がかかるわけではない。
いかん、いかん。向上心がないと下流から脱け出せられないではないか。
かなり切実な問題として、いま悩んでいるのである。

上流は大変じゃないかしら。税金もいっぱい持っていかれるでしょう。
競争相手が多いから、だれかに抜けがけされないか気が気ではないと思う。
なにより下流に落ちる不安に絶えずつきまとわれなければならない。
いや、上流は下流に落ちたりはしないか。下流に落ちるのは中流である。
しかし、下流が天国であってはならない。
なぜなら上流が天国だからである。
逆に言えば、上流が天国であるために地獄である(とされる)下流が必要なのかもしれない。
そもそも上流は下流を知らないだろう。下流が上流を知らないように。
上流・下流をどちらも知るのは中流である。
ならば、いちばん辛いのは中流かもしれない。

マジックワードは「あきらめる」ではないか?
仏教の究極の悟りは、あきらめることだと思う。
あきらめるとは、世の理(ことわり)を明らかにする、の意から生じたと仏教では考える。
あきらめてしまえば、世の憂さもみな晴れるのである。
ひっくり返せば、あきらめられないから鬱病になったりするのだ。
ストーカー犯罪もあきらめられない愚者のすることである。
とはいえ、世人がみなみなあきらめてしまったら、資本主義社会は終わり。
飽くなき欲望こそ景気回復の歯車である。
だから、スポンサーを持つテレビ番組の大多数が「あきらめるな!」と絶叫するのだろう。
このまえあるテレビドラマを見ていたら5分に1回くらい「がんばれ!」と叫んでいた。
資本家は、失敗者には鬱病になって自殺してもらいたいのかもしれない。
たしかに犯罪を起こされるよりはましだからテレビ局の方針は正しいと思う。

人間はおかしいから笑える。上流を笑う。中流を笑う。下流を笑う。
上流を笑うのは、古来、喜劇の伝統かもしれない。
中流を笑うのは、ホームドラマがやったことであろう。
下流を笑うのは差別とされ、一般的には禁止されている。
ところが、資本主義は下流を嘲笑うことで発展してきたとも言えるわけだから、
事はそれほど簡単ではない。
いまのわたしはおそらく下流だろうから、笑われるのが本来なのだろう。
よくわからないが、きっと不幸なのだと思う。
なにかを買ったら幸福になったりするのだろうか? わからない。
わからないから、なんとかしてわかろうと、このように書いてきたが、結局わからなかった。
7月に入って、とうとう「スゴいカウンター」が使えなくなってしまった。
だから、今月も半分を過ぎるが、もう2週間いっさいアクセスを把握していない。
更新しなくなって、どれほどアクセス数が減ったのかもわからない。
どこかのHP、ブログ、掲示板でリンクされていたとしても知りようがないのである。
もしリンクされたかたがいましたら、当方の情けない事情をお知り置きくださいませ。

新しいカウンターを設置したいけれども、方法がわからない。
おかしなことをして「本の山」自体を壊してしまうのが怖いのである。
今月末になんとかしたいと思っています。
というわけでご助言等ございましたら、そのときにぜひぜひお願い申し上げます。
いまはちょっとやりたいことがありまして、わずかでも時間が惜しいので。
敵対的リンク等されたかた――お相手できなくて申し訳ありません。
シェイクスピアは脚本家ではなかった。
なんて書いたら当たり前だろう、劇作家だろう、とお叱りを受けるかもしれない。
しかし、現代で言うような意味での劇作家でもなかったのかもしれない。
どういうことか。世界的文豪シェイクスピアの正体はなにか?
実のところ、男は脚色家だったのである。

シェイクスピアの芝居のほとんどに原作となる物語がある。
翻訳者の松岡和子氏が「ハムレット」の原形を調べたら、
驚くほどかの名作のあらすじは原作と近似していたという。
現在の観点から考えたら、シェイクスピアには独創性がないのかもしれない。
もちろん、松岡和子氏はここまで飛躍した主張はしていなかったように記憶している。

しかし、シェイクスピアはやはり一流のドラマ作家であった。
物語とドラマは異なる。
物語をどのように刺激的に芝居として仕組むかが作家の腕の見せどころなのだろう。
たとえ物語が決まっていても、ドラマはいかようにも変えることができる!

現代日本には脚本家が少ない。
大多数が原作の小説や漫画をドラマ化する脚色家である。
大きな失敗を避けたい商業制作では、既に知名度がある原作ものは安心なのだろう。
嘆いても仕方がない。
悔しかったら、自分が原作となるような創作をすればいいだけの話なのだから。
むしろ、脚色家は、わが祖先にシェイクスピアあり、と誇ってもいいのではないか。
ふと、そんなことを思った。

物語は決まっていても、ドラマは変えられる!
実際「夫婦が喧嘩をして妻が子どもを連れて家を出る」――。
このような単純な物語でも、芝居作者はその数だけドラマを作ることができるのである。
山田太一氏のような天才脚本家なら、この物語だけで10時間の連続ドラマを作るだろう。

では、物語とはなにか? ドラマとはなにか?
物語は個人的、ドラマは多数的という言葉が適切だと思う。
物語はめいめいのなかで完結する個人的なもの。
一方でドラマは大勢の人間が味わう、言うなれば複数形のようなもの。

「夫婦が喧嘩をして妻が子どもを連れて家を出る」――。
無数の夫婦がこの物語を経験したことだろう。
しかし、おのおの家族が味わった実質は多様である。
どんな夫がどんな妻から逃げられて、どのようなその人だけの悲喜を味わったか?
この個別性がドラマなのだと思う。

大きな物語は、みなおなじなのである。「人は生まれ死ぬ」――。
ところが、それぞれの人生の味わいは異なる。
「ハムレット」の物語は決まっている。
シェイクスピアは登場人物それぞれの悲喜を味わいながら彼だけの芝居を書いた。
作家は物語をドラマに分解する天才だった。

ドラマの登場人物はそれぞれ物語を持つ。
ならば、ドラマは物語の多重奏ということになろう。
ドラマを書くには、登場人物ひとりひとりの物語に耳を傾けること――ではないか?
これが今宵、脚色について考えてみた(=書いてみた)、とりあえずの結論になる。