「自分の中に毒を持て」(岡本太郎/青春文庫)

→生があるから死がある。男がいるから女がいる。問いがあるから答えがある。
芸術とはなにか?

「ぼくは多くの人の鑑賞の仕方が不純に思えてならない。
たとえば、作品の前に立って、それを直接見とどける前に、
まず、これはいったい誰の作かということを気にする」(P182)


どう生きたらいいのか?

「ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、
危険だなと思う方を選ぶことにしている」(P29)


「ぼくの人生案内」(田村隆一/知恵の盛文庫)

→田村隆一は詩人で翻訳家――。
なんて書いてしまってから後悔する。
本来、詩というものは言葉だけで勝負するものでは?
だれが言った言葉だから価値があるというのは俗物根性でしょう。
少なくとも詩を鑑賞するためには、作者の情報を消さなくてはならない。
しかし、これほど人間にとって難しいことはない。
だから、詩は決してポピュラーにならないのではないか。
どうしても肩書を見てしまうような浅ましさが我われにはある。
たとえば、以下のような抜き書きを無名人が言っていたらどうなるか?
(むろん実際は田村隆一先生のお言葉ですよ)

「いずれにしても、作家や詩人というのは結果的になるもの。
商売じゃないからね。たいへんだよ。
お金儲けをしたいなら、悪いことは言わないからやめておいたほうがいいぞ」(P37)

「何もしないで一生を終えるなんて、よほどの天才でなきゃできないよ」(P97)

「君くらいの年で、本当にいいものなんてわかりっこないさ。
わかるようになるのは、せいぜい三十五歳くらいから。
若いときにわかるようじゃ、むしろ前途は淋しいよ。
だからそれまでは、一般的に名作と呼ばれる作品を乱読するんだ」(P109)

「女性っていうのはね、悪の権化なんだから。
女性の微笑に惑わされちゃいけないんだよ」(P178)


「終の住処」(磯崎憲一郎/新潮社)

→ホリエモンが受ける以上の嫉妬を全国の文学青年・中年・老年から受ける芥川賞作品。
よくさ、アマゾンのレビューで、
こんな作品は芥川賞にふさわしくないと怒っている人がいるじゃないですか?
あれ、なんなの? クレーマー? モンスター読者?
わかってないよね~。芥川賞はつまらない文学作品を表彰するものだって!
ちょっとでもおもしろかったら、文学じゃない、商業主義に堕した、読者に媚びた!
なーんて批判されるのが、お偉い純文学の世界なわけでしょう。
「終の住処」は正統的な芥川賞作品だと思った。
なにより、つまらないから。何度、投げ出したくなったか。ううん、純文学の香り♪
ぶっちゃけるよ。純文学かどうかの判定の仕方を教えましょう。
映画の原作になったら、99%純文学ではない。
純文学はぜったいシナリオにならないの!
芥川賞作品で映画化されたものは、本当は純文学作品じゃーない。
「終の住処」はどういじくったところで映像にはならない。だから、純文学。
この判定方法はかなり自信がありますので、
みなさまもご一考くださいますようお願い申し上げる次第ですm(__)m

「生きてるだけでなぜ悪い?」(中島義道・香山リカ/ビジネス社)

→自称哲学者の中島義道先生はおもしろいよな~。
毒が強すぎるからあまりのまないほうがいいのだけれど、
ついつい過剰摂取してしまい取り返しがつかないことになってしまう。
先生のご著作は高校卒業までは禁書にしないと人生が台無しになってしまうのではないか。
中島義道の魅力をひと言で指摘するならば、
たとえばすべての肩書に自称とつけてしまうようなところ。
肩書というのは世間(=他人)から認められたものにもかかわらず、
みながみな肩書にアイデンティティーを持ってしまうわけでしょう?
「私は××だ」――。
それを中島義道は意地悪く、おまえなんか「自称××」じゃないかとやっつけてしまう。
本当のおまえはなんにもない。他称を自称にすりかえるな!
中島義道の言論の魅力である。

自称作家。自称弁護士。自称医者。自称先生。自称会社員。自称社長。自称タレント。
なんだかふきだしてしまいそうになりませんか?
どんな肩書もまえに自称をつけたら笑えてしまうのである。
以下に中島義道先生の、ヤバイ本音を採録する。

「香山さんも私も講演会をやっていますが、
他人の人生なんて聞いてもしょうがないと思いませんか(笑)。
新興宗教みたいなものに完全にはまって、
誰かにすがるのもいいかもしれないけれど、
「なんかいい話が聞けないかしら」なんて期待して、
三○○○円払って講演を聞いてもダメでしょう。
そもそも、その安易な態度が間違いです(笑)」(P81)

「世の既婚男性は二万円のお小遣いで一カ月やっているそうですが、
それもすごいですよね。奥さんもすごいと思うけれど、
ダンナさんは自分が稼いだお金なのにお小遣いをもらって喜んでいます。
稼いでいるのはダンナさんなのに、
奥さんがなんであんなに力を持っているのか不思議ですよね」(P111)

「被差別者が苦しいのは「人間は平等だ」と思わなくてはいけないからです。
私が一番よくないと考える社会は「努力すれば、これだけできます」というものです。
努力すれば社長になれる社会は、
逆に言えば常に頑張っていないといけないですから、
そこに生きる人々にとっては非情に厳しい社会になります。
江戸時代の農民は努力しても武士にはなれなかったのですから、
これはこれで楽なのです」(P142)

「ですから一番楽なのは「全部神様が決めている」と考えることです」(P209)

「それともう一つ同じように楽なのが、
ニーチェではないけれども全部偶然でしたという考え方です」(P211)


「『当たり前』をひっぱたく」(赤木智弘/河出書房新社)

→「希望は戦争」で有名な気鋭の論客が魂を込めて日本社会に訴える第二評論集。
なーんてバカにした書き方をするのは、うちらの世代の特徴かねえ、赤木さん?
第一評論集より文章がうまくなっていたから拍手。
いろいろ考えさせられたところを引用する。

「私自身が、Webサイトで実名を晒し、ある種の成功を得た
(といっても、世間のサラリーマンよりもささやかな成功ではあるが)
人間だからこそ、人とは違うことをやろうとしている人間が、
Webの世界では匿名の陰に隠れるのを当然だと考えているのであれば、
それはやはり、とてももったいないことだと、私は思う」(P147)


読みにくい文章であることを批判するのは置いておく。
著者は実名をWeb上で出したら編集者から仕事の依頼が来たと書いているが本当かね。
わたしはもうほとんど怖いものがないから(殺人予告でさえ笑い飛ばすことができる)、
実名など恐れるに足らずなのだが――。
ブログ読者様でわたしの名前をご存知のかたは大勢いるでしょう。
出さないのは無名人の羞恥心かな。
友人だから批判しているわけではないけれど、
作家の白石昇氏、工藤伸一氏みたいになるのはちょっと……。
ほとんど実績のない人間が実名で物申していると、なんだか売名行為みたいじゃない?
それに対する恥ずかしさのようなものがある。
名前を出したら、原稿依頼が来るのかな?
有名人の赤木智弘氏よりは勉強しているという自信(錯覚?)はあるのだけれども。

もうひとつ、引用箇所に突っ込む。
赤木さん、本当に自分は成功したと思っていたのか……。
うちらの世代の特徴かもしれないけれど、野心がないんだよね。
わたしなんか(いやーん)日本を少しでも動かしたいという妄想をいまだに――。
でも、よくよく考えたら赤木先輩レベルでも十分に成功者なのかしら。
うちらの世代は本当に不遇だからね~。
社会の第一線で活躍している人間をほとんど見ないという(笑)。
目指すは単著1冊か、それとも映像化作品1本か。しかし、このくらいで成功なのか。
いや、成功かもな。
わたしが教わったシナリオ・センターのU先生なんか50をとっくに過ぎているのに、
たったひとつの映像作品もたった一度の受賞歴もないのだから……。

「若者を見殺しにする国」(赤木智弘/双風舎)

→我われ氷河期世代の出世頭、
「希望は戦争」で知られるフリーライター赤木智弘氏のご高著を拝読する。
著者は1975年生まれ。わたしの1年上か。
自称「負け組」フリーターの赤木智弘は、
出生年で就職率が大きく変わる不公平を糾弾する。
たしかに、うちらのころはひどかった。2000年卒業って、最悪だったんでしょ?
わたしなんかも早稲田の一文なのに百社以上からお断り。
悲しくなるような小さな会社からも「いりません」と通告された記憶がある。
で、一回新卒採用から漏れちゃうと日本社会ではアウト!
まともな職業キャリアはおろか、結婚さえかなわぬ夢と成り果てる。
だから、赤木智弘は主張する。「希望は戦争」――。

「戦争によっていっぱい人が死んで、流動化すればいいなぁ」(P283)

究極的暴言を吐いて時の人になったのが論客の赤木智弘氏である。
氏の主張の根底にあるのはふたつと見た。
・社会は平等でなければならない。
・努力しても報われないのはおかしい。
ところが、わたしはこの前提がおかしいと考える。
いつの時代、どこの国に平等な社会などあったか。
努力すれば報われるという考え自体がものをわかっていないのではないか。
人生は平等でないでしょう? どの親の下に生まれるかで大きく人生が変わってしまう。
これは出生年によって就職事情が異なるのとおなじことではないか?
不平等で当たり前なのである。どのようにしても社会は平等になどなりはしない。
究極的なことを言えば、不幸だったら運が悪かったとあきらめるしかないのが人生だ。

いさぎよく「人生は運」と見切ってしまったら、
赤木智弘氏が口にするような不満は消えてなくなる。
いや、著者はこのことがとうにわかっており、
自分の発言にどう説明をつけようか迷っているのではないか。
というのも、著者は運よく編集者に見いだされ、いまを時めく論客になってしまったのだから。
それともいまの成功は努力のおかげとでも言うのだろうか。

読んでいて著者の頭の悪さに薄ら寒い思いがした。
いまはこのレベルの人間でも単著を出せるのか。
なるほど「人生は運」である。

「ぼくらがドラマをつくる理由」(北川悦吏子、土井裕泰、植田博樹、高井一郎/角川oneテーマ21)

→現代のヒットメーカーたちが、テレビドラマ制作の裏側を語る。
成功者たちの顔ぶれは――。
左から売れっ子脚本家、TBSプロデューサー、TBSディレクター、フジのプロデューサー。
わたしからしたらテレビ局で働いているお方など雲の上、太陽の上の人。
脚本家よりもむしろエリート社員たちのご事情を知りたくて読んだ。
テレビ局社員にそれほどの成功者然とした幸福感が見られないのが印象的だった。
少し考えれば当たり前のことだが、いくらテレビ局の社員とはいえサラリーマンで、
好きなこと、やりたいことがやれるのは稀有だという事実を知った。
そもそもサラリーマンはドラマ制作がしたいと希望を出してもかなわないことが多い。
報道、バラエティ、スポーツといろいろまわされてしまう。
企業の一員であるかぎり好きなことはやれないことのほうが多い。
それどころか、なまじ成功しているぶんだけ失敗が怖くなる。
TBSプロデューサー氏は語る。

「飛ばされるのがずっと怖かったんですよ。
極端なことを言うと、いま北川さんとやってるけど、そのあとはないかもしれないって。
いつもすごい修羅場に立っていた。サラリーマンなんで、いつ飛ぶかわからない。
「ドラマのプロデューサーやらなくていいよ」と言われるのが怖くて、
人の目をうかがっていたんです」(P201)


テレビ局社員がうつむきがちだからか、北川悦吏子先生の明るさは目立つ。

「そんなことよりも、とにかく書くときに大事にしていることは、オリジナリティですね。
「自分が書いています」というオリジナリティ。
ストーリーの展開が恋愛ドラマのセオリーどおりだったとしても、
私が書くことで、どう見せることができるかってこと。
あとは、書きたいものを書いていくということと、
書きたいと思う気持ちをちゃんと持続することが大事だと思います。
お仕事として書くようになったら、私は辞めようかと思って。
「おもしろくないし書けないけど仕事はあるし、お金のために書くか」
という状態になったときは、潔く辞めようと。
いままでずっと好きな仕事をやらせてもらってきたので、その恩返しですね。
やっぱり、同業者の人の話を聞いてると、
「やりたくなくて書いてる、この番組」という人がすごい多い中で、
私はそういうことは一度もなかったんです」(P38)


北川先生はよほど幸運な星の下に産まれてきたのでしょう。
そして、才能もある。今クールのドラマ「素直になれなくて」第1話を拝見しました。
たしかに、よくも悪くも北川悦吏子でなければ書けないドラマになっていましたね。
そりゃあ、好き嫌いはわかれる。小汚い男であるわたしは敬遠しますが、
大勢の女性視聴者は「素直になれなくて」に満足したのではないでしょうか。
書きたいものを書ける脚本家は、ほんのひと握り。
しかし、書きたいことがない脚本家は、生涯書きたいものなど書けない。
とはいえ、強く書きたいものがあるからといって書かせてもらえるとはかぎらない。
結局のところ、運と縁がすべてという、ありきたりな結論になると思います。

「シナリオライター・放送作家になるには」(山中伊知郎/ぺりかん社)

→本書から知り得た情報を列記する。
フジとTBSのドラマ作りは、まったく違う。
フジは、これでもかと視聴率を重視。視聴率を分刻みで管理している。
このためキャスティングを最重要視。
シナリオはプロデューサー(=P)の管理のもと、とにかく視聴率が取れるよう設計される。
ドラマの主題歌が流れる時間帯もあらかじめ決まっていてシナリオを合せなければならない。
いっぽうTBSはドラマの内容を重視する。
視聴率の話しかしないフジとは対照的に、作りたいドラマの夢を語るPがいたりする。
そのぶんドラマにおける人物の不自然な行動は厳しく指摘される。
以上は美人脚本家・中園ミホ先生の、いまから11年前の証言。
(写真が掲載されているけど、ミホ先生、たしかにチョー美人やね)
いまは不況のせいでドラマ制作現場がエライことになっているという噂をちらほら聞くが――。

本書のすばらしさは、読んでもまったく脚本家になりたくならないところ!
読者におかしな夢を与えず、現実をしっかり伝えようという著者の姿勢は怖いくらい。
テレビドラマ業界では1本数万円の企画書ライターを5年もやって、
ようやく2時間ドラマのシナリオを書かせてもらえるだけでもラッキーらしい。
そのくらいドラマのシナリオを書く人材は余りまくっている。
企画書ライターの年収はよくても数十万円だが(月収ではないですぞ!)、
脚本家になりたいのならこれを何年も何年も続けるしか道はない。
悪いことは言わんから脚本家を目指すのはやめないか?
とまでは著者も書いていないが、書きたかったのではないかと読者は推測しておく。

「脚本家――ドラマを書くという仕事」(中園健司/西日本新聞新書)

→第一線で活躍するプロの脚本家先生による仕事指南書。
本書で知った情報を箇条書きにする。

シナリオの書き直しは説得するか、説得されるか。
経験では2、3回の書き直しならなんとかなるが、
5、6回になるともう脚本自体がグダグダになってしまう。
なかには書き直しの余地を与えないためにわざと締切を破り、
ぎりぎりまで原稿を遅らせる図太くしたたかな脚本家もいる(これ倉本聡かな?)。
シナリオが行き詰るのは、批判力が強まっているから。
うまく書こうという意識をなくすといい。
脚本家の出した企画は驚くくらい通らない。
相手が出してきた企画に乗るかたちで仕事をしていくしかない。
つまり、脚本家はサービスエースではなくリターンエース。
プロデューサーは、いくら作品を気に入っても、
いきなり脚本家に電話をして仕事を依頼するのは勇気がいる。
というか、ほぼ無理。不可能。できない。
だから、ライターは顔見知りをひとりでも多く増やすのが大切。

たいがい2時間ドラマなら1ヶ月の余裕を与えられる。
ところが、連続ドラマになったら1話を1週間で書かなければならないからヘビー。
映画脚本のみで生計を立てている作家はいない。
その映画よりもさらに悲惨なのが演劇の台本を書く劇作家。
書きたいものを書ける脚本家は、かつて書きたいものを書いてヒットしたことのあるものだけ。
(ということは、だれかの書かせたいものと書きたいものが一致する幸運が必要なのか……)
テレビドラマは、「作家の時代」「プロデューサーの時代」を経て、いまは「芸能プロの時代」。
人気タレントを抱える芸能プロの意向が最優先されている。

「図解雑学 恋愛心理学」(斉藤勇/ナツメ社)

→心理学の大半はそもそもインチキで、
そのうえ恋愛心理学なんていう通俗的なものはおよそ学問ではないと、
たとえば日本トップの恋愛研究家、「もてない男」の小谷野敦先生なら憤るだろうが、
知識人はインチキを楽しむ余裕を持ったらどうかと具申したくなってしまう。
インチキくさいのは楽しいでしょう? 楽しけりゃ、なんだっていいじゃん!
恋愛心理学なんちゅうものは、血液型信仰みたいなものなのだろう。
でも、女性様は男よりも生きる楽しみをだんぜん知っているから、
こういったインチキめいたものに夢中になるでしょう。かわいいじゃないか!
女はバカだと思うなかれ。女性はかわいいんだ。

わたしの血液型はよく当てられてしまう。変人が多いAB型。
うわっ、当たってる~(かわいく)!
以下に羅列する恋愛心理学の知見も、この程度だと思っていただきたい。

・人間は異性から好意を向けられると無視できない。ここから恋愛が始まる。
・ひと目惚れの相手とは長期的交際となる。結婚したら離婚も少ない。
・人間は援助した相手に好意を持つ。だから、好きになってほしい相手にはお願いを。
・最初は自分を嫌っていた相手が好意を示してくると、こちらも好感度が急上昇。
・おなじストレス(苦痛)を味わった男女は恋に落ちやすい。
・自己開示をすると好感度は上がるが、女性はおしゃべりなので男性はうぬぼれるな。
・イケメンや美人は人気がある。
・男性は女性の外見を重視するいっぽう、女性は男性の資産・地位を重く見る。
・男性は美人の女性のSOSに応え、援助するからよけいに愛は燃え上がる。
・反対に男性がSOSを出すのはブス相手のことが多いからブスに好かれないよう注意。
・不細工が美人を連れていると、周囲は男性の人間的魅力を過剰に評価する。
・恋愛になるかどうかを最終的に選択するのは女性サイド。
・男は結局はやりたいだけだから女性は落としたい男にセクシールアーを使おう。
・セクシールアーとは、セックスに持ち込めそうだとバカな男に思わせること。
・男は恋愛競争相手の権威に嫉妬するのに対して女は恋愛競争相手の外見に嫉妬する。
・恋愛は損得勘定。相手より優位に立っているほうが無茶をできて楽しい。
・女は稼ぎの少ない男を捨ててイケメン実業家と恋に落ちることがあるから怖いよね。

おい、これって学問か?

「だましの手口」(西田公昭/PHP新書)

→名著! ふつうの読者はだまされないために読むのだろうけれども、
わたしは反対でどうやって人をだませばいいのかテクニックを知るために読む。
たいへん有意義であった。
まともな職歴はないし、けれど楽をして儲けたいから、もう詐欺しかないっしょ!
と考えたわけではなく、フィクションというのはだましではありませんか?
ドラマや小説はいかに相手をうまくだますかだと思うのね。
言うなれば、ドラマ作法として本書を読んだわけである。

人間は、というか芝居はだましあいでしょう?
「ハムレット」なんか、だましだまされ、だましを見破りさらにだましの繰り返し。
「だましの手口」を知るというのはドラマ作家にとって重要なことだと思う。

それは商法なのか詐欺(だまし)なのかというのは境い目が見えないとのこと。
たとえば、旅行会社。
信じられないくらい格安で客をツアーに募るでしょう(ローボール作戦)。
深夜の飛行機でホテルに着いた客を集める。
客はみな疲労しているのに部屋に行かさない。
ガイドがさんざん海外の危険性、土産物屋の悪徳性を説明し不安をあおる。
こうして高額のオプショナルツアーに参加させる。
提携する土産物屋で相場よりも高い商品を買わせる。

たとえば、某創作スクール。
検索すると所長さんと有名脚本家がふたり並んだ写真がヒットする(ハロー効果)。
きっとこの所長さんも偉い人なのだろうと見た人は思うわけである。
資料を取り寄せるとスクールの会報を無料で送ってくる(返報性)。
よくしてもらったらのだからお礼をしなくてはと高い入学金を支払ってしまう。
スクールは講座がもうすぐ定員に達すると急かしてくるかもしれない。
一度、入学してしまうと自分の取った行動は正しいと信じたい(確証バイアス)。
だから、このスクールはすばらしいところなのだと納得しようとする。
自分に都合のよい事実しか信じなくなる。
結果としてだらだらと3年も4年も、このスクールにお金を払い続けることになるのだ。

著者はまったく指摘していないが、小声で言うけれどだまされるメリットもあるのね。
健康食品や薬品はよく効くと思っていたほうがいいのはわかりませんか?
スクールの講師だってすごい人だとだまされていたほうが、やりがいがある。
作品も受賞歴もないようなゴロツキが講師だと知ってしまったらがっかりでしょう?
習作を書く気にもならなくなるのではありませんか?
話を広げてしまえば、だまされていない人なんてどこにもいないのでは?
生きているということは、かならずなにかにだまされているでしょう?
資本主義にだまされている人が(金持は幸福!)カルト教団の信者を笑えるのかどうか。
しかし、より多くの人間が信じている(だまされている)主義の一員であったほうが、
生きるうえで摩擦が生じないのは確固とした事実だから、
多数派を批判していい気になっているようではなにもわかっていないということになる。
だまされる不幸のみならず、だまされる幸福も知っていなければならないのでしょう。

「人はいったん自分がとった行動――この場合であれば、
ある商品を買ったという行動――を自己正当化したい心理があるのです」(P57)


だから、最初のデートは30分くらい待たせるといいらしいね(笑)。
30分も待ったのだから、自分は相手を好きなのだろうと思ってしまうらしい。
わたしは人生初のデートで1時間待たされた記憶がある。くうう、やられたか!

「それからデート商法では、あるときまでは好意的な態度をとっていた相手が、
わざと突然に冷たくして、別離や失恋の不安を抱かせますし、
破壊的カルトのメンバー維持でもやはり、
愛すべき教祖や上司などのカリスマ的リーダーが突然に冷たくなって、
見離すような態度をとったり、
鬼のように厳しい理不尽な仕打ちを露骨に示したりします」(P84)


創価学会の池田大作名誉会長も宮本輝先生にむかしこれをやっているよね(笑)。
詳細を知りたいかたは「創価王道 無言の叱責」でググってくださいませ。

「ネット上で出会う人は信用できないと思う人もいます。
確かにそういう側面もあります。しかし、自分から役に立つ情報を提供すると、
だましでも使われる返報性がネット社会ではプラスに機能して、
信頼できる関係が形成されるといわれています」(P287)


うちのブログの情報は、みなさまに役立っていますかね?
レポート締切前の大学生なんかにゃ相当程度感謝されてもいいと思っているけれど。

「テレビの嘘を見破る」(今野勉/新潮新書)

→テレビ制作会社に所属する人間がテレビ番組の「やらせ=演出」方法をばらす。
事実か、再現か、という考え方がおもしろかった。
ドキュメンタリーで再現映像というものがあるでしょう。あれをどう判断するか。
というのも、始終テレビカメラをまわしているわけにはいかないのね。
24時間、対象にカメラマンがつきまとっていたらいいけれど、実際はとうてい無理。
たまたまカメラがまわっているときに事件が起こってくれるとは限らない。
もしカメラがまわっていないときに「絵」になる事件が起こってしまったらどうするか?
当事者に事件を再現してもらって、それを撮影するのは「やらせ」と批判されるべきか?
事実として起こったことなのだから、再現は演出の範囲内と考えるべきではないか?

たとえば企業モノのドキュメンタリーで部下が失敗して上司が叱責する――。
このときタイミングよくカメラがまわっているなんていうことはほとんどないわけね。
としたら、関係者に説教シーンを再現してもらうほかないわけだ。
視聴者はこの映像は事実だと思うけれども、実は再現である。
こういうシーンがテレビドキュメンタリーには数限りなくあるとのこと。
果たして再現映像を事実としてとらえてもいいのかどうか?

著者はこんなエピソードも紹介する。
大東亜戦争中、戦意高揚のために戦争ニュース映画が作られた。
日本軍が中国兵を撃ち倒す勇ましいシーンがあったという。
これは事実ではなく再現で撮影したシーンだと関係者がばらしたらしい。
それも生きている捕虜の中国兵を使ったもので映画撮影のために殺してしまった!
この話は103ページに登場するが衝撃的だった。
たとえばオウム事件だったら事件を再現したドラマというのがあるでしょう。
あれは事実なのか? 違うでしょう。やはりドラマ(=嘘)だよね。
だったら、そのなかに実際の加害者、もしくは被害者が登場したら、それはなんになるのか?
このテーマはおもしろい。これから深めていきたい。いつか作品になりそうな気がする。

「世間のウソ」(日垣隆/新潮新書)

→いまは新書ブームらしいけれど(もう終わったのかな)新書はいいよね。
映像業界の実状は原作モノばかりだが、
コンクール応募作はオリジナル脚本が求められている。
オリジナルを書くときに必要とされるのは、社会への視点なのだと思う。
どのように現代社会を見ているか? どこをどう切り取ってドラマにするか?
発想のきっかけとして薄手の新書は相当に有効なのではないか?
1時間ドラマくらいなら、新書を1冊読んだくらいで書けてしまうのである。

日垣隆氏の好戦的な姿勢は、とても好感を持つ。
本書で著者は「世間のウソ」を鋭く指摘する。
表に出てこない「本当のこと=本音」は、どうしたっておもしろいのである。
小説やドラマというのはウソでしょう。
ウソというのは、本当のことがあってはじめて作られるものなのね。
どちらが先にあるかといったら、それはぜったいにウソではない。
本当のことがあってはじめて、それを隠したい等々の理由でウソが発生する。

本書で著者は主張する。
女子高生の手鏡覗きで捕まった植草教授は、そんなに責められなければならないのか。

「逮捕されたエコノミスト氏は、今回の報道により、
あらゆる仕事と地位と評判を失いました。
これこそ、集団リンチではなかったか、とすら私は思います。
いったい彼は、どんな被害を相手に与えたというのでしょうか。
事実として確認されているのは、女子高生の下方で彼は手鏡を持っていた、
ということだけです。自宅にすけべなビデオを数十本も所有していた、
という発表までして彼への疑念が募るよう警察は一計を案じたわけですが、
そのようなビデオを見たり持っていたりすること自体、何の罪でもなく、
たまたま私は用心してそのうなものはまったく所持していないけれども、
高輪署員の七割くらいは同じようなビデオを同じような数だけ
持っているものと思われます」(P59)


大笑いした。どうして男性の性欲を世間はああまで汚らわしく扱うのか!
(強気になり)だれだって女子高生のスカートのなかを覗きたいだろうが!
(さらに鼻息荒く)だいたい、あんな短いスカートを履いているほうが悪いんだ!
(有頂天になり)警察は女子高生を取り締まれっていうんだよな、フン!
え? すけべなビデオ? え? わたし?(と狼狽する)
持っていません。すけべなビデオなんて1本たりとも、ええ、本当です。

「アメリカは未来永劫、どこかと戦争を続けるでしょう。
そうしないと、七一八万人もいる軍事産業従事者が食っていけないからです」(P184)


なあ、アメリカがいけねえんだ! 悪いのは、アメリカ!
アメリカのせいで女子高生はおかしなことになって、スカートを下から覗きたくなるんだ!

「なるほどの対話」(河合隼雄・吉本ばなな/新潮文庫)

→身内の不幸から10年、なんとか自分でも拙い創作が行なえるようになった。
小説作法、創作論のたぐいはだいぶ読んだが、ひとつとして役立ったものはない。
なら、だれに創作を教わったかというと、河合隼雄なのである。
考えてみれば当たり前の話で、
創作および表現行為は、その人の生き方になるわけでしょう?
わが恩師の原一男先生も、しきりに表現とはいかに生きるかだと仰せになっていた。
だとしたら、人の生き方を根源から見すえる河合隼雄の言葉が、
創作・表現に大きく影響するのは意外と言うよりむしろ必然になるのではなかろうか。
なかでも本書は、最上級の創作指南書である。創作の過程の詳細が書かれている。
おそらく河合隼雄、吉本ばなな、両氏の相性がことさらよかったのだろう。
これからの創作の指針にするため、引用が多くなるがどうかお許しください。

表現とは、その人の生き方である。生きるとはどういうことか?
「イエス/ノー」だと言えなくもないのである。
昼食にカレーライスを食べる→「イエス/ノー」
今日は学校をサボってしまおうか→「イエス/ノー」
会社を辞めることにする→「イエス/ノー」
彼女と結婚するか→「イエス/ノー」
苦しいからいっそのこと自殺をしてしまおうか→「イエス/ノー」
絶え間ない「イエス/ノー」の二者択一が人生だと結論づけることも可能かもしれない。
だが、河合隼雄はこの生き方を否定する。
なぜなら「イエス/ノー」というのは効率を最優先するコンピューターの方法論だからだ。
たしかに時間の節約にはなるかもしれない。
「だけど人間というのは、はっきりしない方が本当なんじゃないか」
「イエスかノーかを訊いたのに、わけのわからんことを言う」のが人間である。

「だから、そんなに効率よくするのが好きやったら、効率よく死ねと。
うろうろ生きてないで。うろちょろするのが好きだから生きてるわけでしょ。
だから、アメリカン・カルチャーが優位になったら、
人類は滅亡するんじゃないかなと思いますよ」(P81)

「アメリカ人を見てたら思うねえ。なんていうかなあ、
「ナイス・ウェークエンド病」にかかってる感じがするね。
なんとかしてリラックスしようと思って、必死になって、疲れ果てている。
彼らには「ごろ寝」というのがわからんのやね。
「ごろ寝」は素晴らしいんやけど。(吉本「ええ、何もしないで」)」(P179)


むかしは氏の欧米礼賛がだいぶ鼻についたが、晩年になって変わったようである。
「何もしない」ことの価値を河合隼雄は繰り返し説く。

「いま現代人は、みんな「社会」病にかかっているんです。
なにも、社会の役になんて立たんでもええわけですよ。
もっと傑作なのは、ただ外に出て働いているだけなのに
社会に貢献していると思っている人がいる。
貢献なんてしてないですよね、金儲けに行ってるだけでしょ。
「そんなん、別に」とぼくは思ってます。
社会へ出て行くとか、だいたい社会というものが、あるのか、ないのか。
それから、なんで貢献せないかんのか、とか。
全部、不明でしょ、ほんとのとこは」(P111)


ラディカルだよな。河合隼雄の言葉でなかったら、非常識と叱られてしまう。
心理療法家のもとを訪れるクライアントは、
常識などでは太刀打ちできぬ重い現実を抱えているのだろう。

「社会へ復帰するということを目標にしてはいないんです。
それを、はじめから目標にすると、自分が生きていくなかで
「いかに社会復帰を行なうか」が最も大きな目的になってしまう。
だから、ぼくらはときどき「なにも、そんなに無理して働かんでええんとちゃう」
と言うときがありますよ。
「あなたが生きているということが、すごいことなんだから」って。
それはそれで、すごい偉大なことだと。ときどき
「自分は生活保護を受けて生きていて、社会に役立っていない」
と言う人がいますが、その人には、「何を言うてんねん、あんたが、
こうしてぼくに会いに来ているだけで、どれだけ社会に貢献していることか」。
でしょ、実際。その人が、そういうふうに生きているということは……。
(吉本「巡りめぐって……」)
そう。ぼくのところから巡りめぐって、いろんなところへ行ってるわけだから」(P110)


なるほどな、と思わず唸ってしまった。
たしかにクライアントがひとり自殺したら河合隼雄は相当のショックを受けるであろう。
そのことで河合隼雄周辺の人間がどれほど損害をこうむるか――。
なるほど、生きているだけでいいのか。なるべくなら創作をしたいけれども。

「やっぱり、ものごとをほんとに創作する……それは小説だけではなくて
絵でも詩でもなんでもそうだけれど、それは、やっぱり、ぎりぎりに追い込まれないと。
命がかかるくらい追い込まれないと、創作にならない」(P106)


マニュアルで効率よく創作しようなんて、どだい無理なのである。
高額のセミナーに行って成功者の話を聞くなどというのは、
本来の創作からもっとも離れた行為なのではないだろうか?
他人の思考法は、極論になるがどうでもいいのかもしれない。

「いまは流行を、「これが本当」という形でみんな受けとめているから、
たいへんやねえ。ぼくら臨床心理士は、そんなんはともかく、
「あなたは自分の足で立ち、自分の頭で考え、
自分の心で感じる方がおもしろいんでっせ」ということを伝える役割をしている。
みんなが、そういう一人ずつのストーリーを持ちはじめれば面白いんだけれど、
その前にもう、ワーッとやられているわけでしょ。
(吉本「そうなんでしょうね、きっと。情報の嵐が」)」(P155)


ならば、なにを信じたらいいのか?

「(吉本「なりゆきに任せるしかない。
自分で、ああしよう、こうしよう、と思ったら、ぜったいダメですね。
小説を書くということ自体、そういうものなのでしょう。
大概のことは、そんなような気がします。自分で、ああしよう、こうしようと
目標を持ってやったら、たいていだめです。来たものになんとなく答えていく、
「時が経っていった」という感じの方が、うまくいくような気がします」)
ぼくは生き方自体がそうです。自分の意志で、ほとんど生きていない(笑)。
来たものに乗っては、ふわふわやってる」(P196)


なにが来るのか? 偶然である。あんがい偶然は信じるに足るのではないか?

「ぼくは思うけど、偶然性と生きるということを、
いま、もっと考えていいんじゃないですか。ぼくなんか本当にそうだから。
自分の仕事を「偶然屋さん」とも言うてる(笑)。
(吉本「関西っぽい職業ですね(笑)」)
そうなんですよ。偶然が起こるのを待っているみたいなものだから。
(……) 偶然に起こったことに、ふわっと乗るだけだからね。
ただ、そういうときに、やっぱり「乗る」というか、
「エネルギーを結集する」というか、それが必要なんですよ。
それを、ちょっとでも間違ったらあかんけど。
偶然は自分が起こすわけやないからね」(P209)


うーん、オカルトちっくだな。みなさーん、ついてきてくださっていますか?

「ぼくらの仕事の世界には、「事例の発表」というのがあるんですよ。
治療には、うまくいった場合もあれば失敗した場合もあるわけだけれど、
それをみんなに説明する場なんです。話すわけ。
「もう、あかんのちゃうかあって思ったら、バーッと偶然が起こって、
サーッとひらけて」というようなことを発表すると、
「そんなの偶然やないか」と。そんな話、ただの偶然だと。
(……) 失敗した事例は、論理的に説明可能なんですよ。
で、本当にうまくいった事例は、論理的に説明できないのではないか
と思っているんです」(P222)


創作もそうなんですよ、河合先生。締切ぎりぎりになると、バーッと、サーッと。
どのように偶然を待っていたらいいのか?
具体的な創作方法も河合隼雄は述べている。

「(吉本「自分でこういう仕上がりにしようと思ったって、
できないことはあると思う」)
といって、まったく何もないかといったら、そうではなくて、
何か筋のようなものがあるといえばあるし。それから、なんか知らんけど、
終わりだけ、ものすごくはっきりわかってくるときがある。
(吉本「ありますね」)
筋がないのに、終わりの方だけ、ものすごくはっきりわかってくることがある。
そういうところが、ぼくらの仕事には共通してるんじゃないかと思います。
(吉本「やっぱり、自分だけの力じゃないということが、
神がかりという意味合いだけではなくて、すごく多いですね)」(P210)


河合隼雄自身は創作・表現行為をしていない。
いや、フルートを習っていたのだったか。
氏は耳から体内に入った多くの秘密を、
フルートの音として体外に出すことに大きな慰めを得ていたのではないだろうか。
河合隼雄はフルートのプロではない。
そして、プロではないということに、どれほど心理療法家のプロは救われていたことか。
河合隼雄は心理療法とフルート演奏の共通性に言及する。

「興味深いのは、その基本的なところは、
我々二人の共通の趣味でもあるフルートを吹くことも同じなんですよ。
「俺が吹いてやる」などと思わず、肩の力を抜いてスッと吹いたらいい。
それができへんのやね。つい、ガーッと(笑)」(P237)


印象に残ったのは、通常は聞き役にまわることの多い河合隼雄が、
本書にかぎりたいそう饒舌になっていたことである。

「コペンハーゲン」(マイケル・フレイン/小田島恒志訳/劇書房)

→戯曲。アメリカ産。2000年度トニー賞を受賞。
ドイツで原爆の研究開発をしていたボーアが、戦時中、師のハイゼンベルクを訪ねた。
この史実を素材にして、当時、なにが話し合われたかを劇中で推測する。
芝居ジャンルに分類すれば史劇に入るのだろう。
たった60年前の史実を芝居にしてしまったのが新鮮だったのかと思われる。
劇中では、物理学の専門用語が飛び交う。
舞台で見たら圧倒されて傑作だと錯覚してしまうのかもしれない。
しかし、ホンで読むと基礎知識がないから、なにが論じられているのかまるでわからない。
このセリフをぜんぶ覚えた役者に敬意を表することはやぶさかではないものの、
劇作家にとりたてて賛辞を送る必要はないという結論に達した。

理系のテーマを文学作品の素材にするというアイデアはおもしろいと感心する。
わたしがいま興味を持っているのは天気予報と地震予知である。
経済学はインチキで未来予測などできないけれども、
天気予報と地震予知はまだ科学的なわけでしょう?
どちらもナツメ社の図解雑学シリーズを105円で仕入れてある。
人間はどこまで神の領域に迫れるのか?
ふと思いついたのだが、遺伝子学も相当におもしろいのではなかろうか――。

「ヴェネツィアのふたご」(カルロ・ゴルドーニ/田之倉稔訳/晶文社)絶版

→戯曲。イタリア産。
外見はそっくりの双子、ひとりは阿呆で、もうひとりは聡明――。
周囲のものがふたりを取り違えることで生じるトラブルを劇作家はコメディに仕立てた。
双子というのは、実に演劇的な設定だと思う。
ふたつのものに惑わされるのが、言うなれば演劇なのである。
俳優は実名と役名のふたつを持つでしょう。
このとき俳優と劇中人物は双子のようなものである。
外見はそっくりだけれども、中身は異なる。それが演じるということなのだから。
ならばと話を広げると、我われもまた双子的な存在である。
本音の自分と、建前上の(社会的役割としての)自分がいるのではありませんか?
外見はおなじだけれども、この「双子」は別人と言えなくもない。

芝居「ヴェネツィアのふたご」で劇中人物はふたつのもののあいだで迷う。
たとえば、生命か名誉か? 友情か恋愛か? 名声か金銭か?
どちらも大切で、どちらとも欲する自分がいる(双子的!)のだが、
劇中人物はどちらか(の自分)を選ばなければならない。
このような劇的状況を、
(外見はおなじで中身が違う)双子という設定は象徴的に表わしているのではないだろうか?
カルロ・ゴルドーニは演劇の本質をよくよく理解していたと思われる。
演劇とはなにか? 芝居とはなにか? 終幕直前、聡明なほうの双子は傍白する。

「神さま、ありがとう。何という偶然だ! 何というめぐり合わせなんだ!
兄弟がふたりに妹がひとり、しかも全員がこのヴェローナにいるんだ!
まるで芝居話だ!」(P343)


芝居に登場する人間が、こんなことは「まるで芝居話だ!」と述懐するおかしさはどうだろう。
芝居とはなにか? 芝居なのである!
現実と芝居もまた双子的な関係にあると言えるのではないか?
外見はそっくりだけれども、中身は違う!
天才は芝居のなかで「芝居とはなにか?」の答えを提示しようとするのである。
天才小説家が、ときたま小説のなかで「小説とはなにか?」を示してしまうように!
(凡才が天才の真似をしてこれをやらかすから、つまらない小説が多くなったのだが……)
シェイクスピアが「ハムレット」で演劇の演劇を描いたように、
ゴルドーニも「ヴェネツィアのふたご」で芝居の芝居を描いてしまったのだろう。

「女とは魔女なんだ。男を惹きよせては騙し、
自分の利益のためにしか愛さない魔女なんだ」(P259)

「まあ、だまされたところで驚くことはない。それが女だ」(P292)


女のところを芝居に変えても意味が通じるように思う。
芝居をいちばん楽しんでいるのは、いつの時代もおそらく俳優ではなかったか!?

「二人の主人を一度に持つと」(カルロ・ゴルドーニ/田之倉稔訳/晶文社)絶版

→戯曲。イタリア産。
ゴルドーニ(1707-1793)はコンメディア・デッラルテ(仮面即興劇)の末期に活躍した。
古典を読むと豊かな気分になる。いやがおうにも理解するからであろう。
人間はむかしから変わらない。ならば、人間を描く劇もそう変わりはしない。

本作品もコメディ(喜劇)の典型的パターン「死→結婚」にのっとる。
たとえばシェイクスピア「十二夜」「間違いの喜劇」などとおなじ類型である。
マイナスからプラスに変化するのが喜劇なのであろう。
マイナスの最たるものといえば「死」。
人生にプラスなんかあるのかとも思うが、しいて挙げれば両性の合致である「結婚」。
(もしかしたら結婚するまでが喜劇で、結婚してからが悲劇なのかもしれない)

ストーリーを男装の麗人、ベアトリーチュに聞こう。

「残念ながら兄はある人の刃にかかって死にました。
殺人の犯人はわたしの恋人と思われています。
姿を消した恋人を求めてわたしはこんな格好で後を追ってきたのです」(P122)


いちばんおいしい役は、召使いのトゥルッファルディーノ。
彼は、二人の主人を一度に持つ。
すなわち、男装したベアトリーチュと逃亡中のその恋人、二人の主人に仕える。
このことによる行き違い、誤解、ごまかしがコメディの内実である。
むろん、最後はあらゆる誤解が解け、三組ものカップルが誕生する。

細かくコメディの法則を見ていこう。
古典作品は、ドラマ・テクニックの宝庫のようなものだと思う。
現代作家は、この穴倉からいくらでも財宝を持ち出せるのではないだろうか。

「お願いだから、わたしの正体を明かさないで」(P85)

男装して死んだ兄になりかわったベアトリーチュは宿の主人に頼む。
どれほど多くのドラマが、このセリフひとつに依拠していることか。

「フロリンド いや断言します。フェデリーゴ・ラスポーニは死んでいる。
シルヴィオ いえ断言します。フェデリーゴ・ラスポーニは生きています」(P104)


意見の食い違いである。情報がもつれている。このもつれをほどくのがコメディである。

観客を笑わせるシーンは、くだらなくてもいいのである。
劇作家はおのれの知性ばかり頼ってはいけない。
俳優の肉体的魅力を信じて託すことも必要である。
召使いのトゥルッファルディーノは主人に来た手紙を無断で開封してしまう。

「さてこの手紙だが、あっちのだんなに来たものを開封のまま渡すのも気がひける。
何とか工夫してたたんでおこう。(何度か不細工に折りたたむ)
今度は糊で封をしなくては。といってどうやったらいいのか、
そうだ、うちのばあさんが、
パンをくちゃくちゃかんで糊にして手紙の封をしたのを見たことがあった。
やってみよう。(ポケットからパンを一かけら出す)
こんなにパンを使うのは残念だな。まあ、がまんしよう。
(手紙の封をするためにパンを少し口の中でかむが、思わずのみこんでしまう)
しまった、腹の中へ入っちゃった。もうひと口くちゃくちゃかまなくては。
(また同じようにするが、のみこんでしまう)どうしようもない。
われながらいやな体質だ。よし、もう一ぺんやってみるぞ。
(また口の中にパンを入れてかむ。
やはりのみこみそうになるが、今度はおしとどめて、やっと口から出す)
ああ、出てきた。さあ、封をしよう。(パンで封をする)」(P111)


くだらないでしょう? バカバカしいでしょう? ところが、これで観客は笑うのである。
トゥルッファルディーノが女中に求婚するところも、観客を笑わせることだろう。

「トゥルッファルディーノ、旅館から出てくると
ズメラルディーナにていねいにあいさつをする。
彼女の側を通り、ため息をつき、再び旅館に入る。

ズメラルディーナ 何の真似だか、さっぱりわからない。
トゥルッファルディーノ (また出てきて)見たかい。
ズメラルディーナ 誰を。
トゥルッファルディーノ 君の美しさにまいってる男。
ズメラルディーナ あなた以外に誰もいやしないじゃない。
トゥルッファルディーノ (ため息をついて)いやだな。
ズメラルディーナ ああ、あなたなの、わたしが好きだっていう人。
トゥルッファルディーノ (ため息をついて)そうなんだよ。
ズメラルディーナ 最初からなぜ言わないの。
トゥルッファルディーノ だってぼくは少し恥ずかしがり屋なんだ」(P164)


かわいいよな。ラブリーだよな。キュートでプリティーだと思わないか?
これがコメディなのである。バカバカしいことをあえてやるのがコメディなのである。
さてトゥルッファルディーノ氏、二人の主人に仕えていることがばれそうになる。
ちなみに<>は傍白である。

「トゥルッファルディーノ <さて今度はどうやってごまかしたものか。
何とか細工をしよう>」(P177)


ごまかす。細工をする。まるで子どもでしょう?
悪戯が親にばれないように、なんとかごまかそうとする子ども!
コメディは大のおとなが子どものようなことをするからおもしろいのかもしれない。
コメディの法則。おとなを子どもにしてしまえ!
子どものすぐばれる嘘というのは、本当にかわいらしい。

トゥルッファルディーノの嘘を真に受けた二人の主人は、
どちらも愛する相手が死んだと思い込んでしまう。もはや自分も死ぬしかない。

「二人とも、死を決意して、前へ歩いてくる。
ところがばったり出くわし、おたがいに気がつき、動転する。

フロリンド 夢か幻か。
ベアトリーチュ フロリンド。
フロリンド ベアトリーチュ。
ベアトリーチュ 生きていたの。
フロリンド 君も生きていたのか。
ベアトリーチュ あなた!
フロリンド 君!

二人はナイフを手から落すと、接吻する」(P189)


真相がばれるまで劇作家はひたすら引っぱればいいのである。
この「二人の主人を一度に持つと」はコメディの典型だと思う。
この作品を下敷きにして、どれほどのコメディが書けることかとニヤニヤしてしまう。
だれも読まない古典のなかにこそ、豊かな養分がたっぷり詰まっているのである。
いささか紹介が長くなったかもしれない。
最後までおつきあいくださった読み手に感謝して記事を終えよう。

「劇作とシナリオ創作」(J.H.ロースン/岩崎昶 、小田島雄志訳/岩波書店)絶版

→昭和33年初版の古臭い舶来モノ創作指南書。
二段組み活字で全420ページを丸一日で速読する。内容はわかりにくいうえに薄い。
むかしは創作が神聖なる行為であったということなのかもしれない。
創作志望者は、このような大著を読まねばならぬというプレッシャーがあったのだろう。
なんでもわかりやすくするという、いまの風潮を改めて思い知らされる。
わかりやすいということは確かに善ではあるが、
絶対的な善ではないことだけは忘れないようにしたい。
なお、速読はかんたんで、パッと見てわからないところは読み飛ばせばいいのである。
わからない文章は書くほうが悪いのだと強く思い切るのが速読のコツだろう。
演劇、映画(ドラマ)、小説――。
3種の似て非なるものの比較が目を引いた。
どの表現ジャンルも、
突きつめればそのジャンルならではの特質(=制限)に向き合うことになるのだろう。

「舞台では芸術的な感動をあたえる演技を、映画のカメラはむきだしにし、
嘲笑したのである。チャップリンの天才は、
この嘲笑こそカメラの持つ独特な力と真実性への鍵であることを発見した。
冷酷なカメラの前で表わしようのない威厳を生みだそうとして
空しい身振りをする俳優の努力と絶望感とを、カメラは嘲笑的に描きだすと同時に
まざまざと記録することができたのである」(P290)

「サイレント映画では、恋人の出会は柔かい照明や、
なまめかしいクローズ・アップを使ったり、
まわりをぼかしたりして効果的に表現されていた。
だがその恋人たちが一たん口をひらくや効果はだいなしになってしまった。
適切な技巧でかかれ、しゃべられている場合ですら、
会話というものは映像をぶちこわしてしまうものである。
なぜならば会話は映像とは異なった次元、
一つの新しい種類の現実性をあたえるものであり、したがって
映像の処理もそれに応じて別な方法で行なわなければならないからである」(P322)

「……映画が他の物語形式――小説――から負っている恩恵について考えてみよう。
(……) 現代の多くの小説は、スクリーン上の写真的影像の流れをまねた手法で
事件を描き出すために、いわゆる「カメラ・アイ」の技法を活用している」(P351)

「映画は演劇に似ているどころか、まったく逆に、小説に似ていることを発見した。
それも語られる小説ではなく、見られる小説なのである」(P351)


本書によると、勃興期、映画はとにかくカネになったという。
通常、カネにならないところに才能は集まらないのである。
ところが、現在はもうカネにならない小説、映像、演劇に、それでも人材が集中している。
この理由は、人間の夢や自己実現が誤まって解釈されていることによるのだろう。
あるいは、大学で教えられるような権威に成り上がったことが関係しているのかもしれない。

「現代戯曲の理論」(ペーター・ションディ/市村仁・丸山匠訳/法政大学出版局)絶版

→こういうだれも読まないような学術書を読むのは山田太一さんの物真似。
山田太一先生は(見栄からだと思う)わけのわからん難解書物をよく読むんだ。
テレビライターなどというのは、およそ物書きのなかでは最底辺に位置するでしょう。
(文学者>大衆作家>ミステリー作家>テレビライター)
このことへのコンプレックスが、
豊潤な山田太一ドラマを生み出したのではないかとひそかに推測している。
若かりし山田太一青年は、間違いなく純文学を志望していたはずである。
ところが、人生はままならぬもので、どうしてかテレビの仕事をするようになる。
山田太一ドラマが独特なのは、脚本家の強い文学趣味に由来するのだろう。
文学への断念が、固有のシナリオ世界の確立として結実した。

繰り返すが、テレビライターなんていうのは最底辺の売文業なのである。
なにせ大勢の無学な主婦があたしでも書けちゃうかも、と思うくらいだから(笑)。
才能ある脚本家ならば、おのれの立場に嫌気がさすに決まっている。
作家にとって大量の読書は、プライドをたもつためにもぜったい必要なのであろう。

山田太一さんの真似をして難解な学術評論を読んだ、と書いた。
真似という行為は、実際しごく演劇の本質と共通する。
芝居なんていうのは、言うなれば現実の物真似に過ぎない。
俳優の仕事は、だれかの真似をすることである。
現実という対象は、多様な見方を許容するでしょう? 現実はどう見えるか?
この見え方をいかに再現(真似)するかが、言ってしまえば演劇の歴史なのである。
劇作家は、舞台でなにができるかを考える。
定められた時間と空間のなかで、劇作家はどのように現実を再現(真似)してきたか?
自然主義演劇、実存主義演劇、不条理演劇、表現主義演劇――。
こうして分類するとなにやら難しそうだが、正体はそう難しいものではない。
要は、舞台でなにができるか、の追求にほかならない。
ドイツの学者、ペーター・ションディが本書で試みたのは、劇作家の冒険の後追いである。
ほとんど意味がわからなかったが、たまにはこういった読書も必要なのだろう。
本書はストリンドベリへの言及が多いから、この学者先生を嫌いになることはなかった。

「高校生のための実践劇作入門」(北村想/白水社)

→創作は教えてもらうものではないと理解しつつも、ついついこういう本を読んでしまう。
それほど創作は危うい行為なのである。
批評ならばすでに存在しているものを取り扱うのだから容易。
ところが、創作はまったくの無から有を生み出さなければならない。
人間存在の基盤をなにものかに賭けなければ、とても創作などできやしない。
どれほどのベテラン作家でも、いつか自分が書けなくなるのでは、
という恐怖心があるはずである。
こうすればかならず完成するというマニュアルに頼りたくなるところだが、
実のところ、そんなものはこの世に存在しない。
ひとりの赤子が産まれてくるのとおなじ意味で、作品創造は奇跡的な行為であると思う。
したがって本書で参考になったのは、原稿用紙の書き方くらい(笑)。

作者も創作を教えることの難しさをよく理解しているのだろう。
「好きな作家を真似して書いてみる」しかないとなかば放り投げている。
ここで重要なのは、好きになることなのではないか?
ある作者がどれほどのものを書けるかは、どの作家をどのくらい好きかで決まるのだろう。
しかし、だれひとりとして他者との同一化はできない。
ここから固有の創作が始まるはずである。

「真似ること(模写)はけして恥ずかしい行為ではありません。
芸事になると、模写や真似なんて、生半可ないい方すらしません。
ハッキリと、「盗む」といいます。
芸はいくら盗んでも罪にはならないからです」(P91)


高いカネを払って実作者の自慢話を聞くくらいだったら、作品から盗んだほうがいい。
なぜなら彼も彼女もそうしておのれの作品を完成させたのだから――。

「河の向こうで人が呼ぶ」(山田太一/集英社) *再読

→戯曲。刊行されている山田太一さんの劇作のなかでは最高傑作だと思う。
タイトルにある「河の向こう」とは死後の世界のこと。
死んだ人間と話すことができるのは、自分も死が近い人間――。
本当は胃潰瘍なのに、おのれをガンだと思ってしまった中年男のコメディである。
終幕直前、舞台上の登場人物たちは「河の向こうで人が呼ぶ」声を聞く。
もちろん、実際には声は聞こえないのである。
しかし、(若い娘ひとりを除いた)みなが死人の声が聞こえたという。
ちなみに、「河の向こうで人が呼ぶ」声が聞こえないひとり――
という存在がほかならぬ山田太一ドラマの特色になるのだろう。
あるところで山田太一はドラマについてこう語っていた。
水戸黄門が印籠を取り出すと、みな平伏する。
ところが、ひとりの人間がぼそっという。「それ偽物じゃない?」
この複眼的構造を意識して自分は長年ドラマを書いてきたと脚本家は述懐している。
どういうことか? いろいろな意見があるほどドラマが豊かになるのである。
唯一の対応を定めるマニュアルとは正反対の創作作法である。

自分をガンだと思い込んだ典彦と、その妻の佳代子の会話を引用する。

「佳代子 死ぬのが怖くないっていうの?
典彦 だから、そういうのは、人間の思い込みなんだよ。
死ぬ、怖い。病気、なおす。結婚、おめでとう。カレーに福神漬。
仕事はつらくて休みは嬉しい。
みんなそんな風に思い込んでいるけど、実体はそれほど単純じゃない。
早い話、結婚式で、ほんとにおめでたいなんて思ってるのは、
本人たちぐらいなもんだ。
本人たちにしたって、みんながみんなってわけじゃない。
病気だってなおりゃあ万歳っていうけど、なおった方がつらい人生だってある。
佳代子 あてこすり?
典彦 いや俺はそれほど不幸じゃあないよ。
いいかい、考えてみりゃあ人間みんな死ぬんだし、自分の番が来たからって、
誰も彼もヒーヒー怖がるとは限らないさ。
いろんな人間がいるんだ。いろんな反応があって当り前。
俺の場合は、とにかくあっけにとられるくらい肩の荷がおりた。
青い空があきれるほど綺麗に見えた」(P31)


いろんな人間がいるんだ。いろんな反応があって当り前。

天才脚本家・山田太一のドラマ作法である。
漫画「美味しんぼ」で見られるような意見(うまい/まずい)の全員一致はドラマではない。
いろんな意見があっていい。みんながおなじような感想を持たなくてもよろしい。

一箇所、うまい会話を抜き書きする。
初心者はシナリオの会話でひんぱんに「Q→A」を使うから、読んでいてしんどくなる。
人間はかならずしも質問に正しく答えるとは限らない。質問に質問で応じる会話もある。
佳代子は母で、正人はひとり暮らしをする息子。

「佳代子 友だちいないの?
正人 昨日どこにいたの?
佳代子 ホテル。
正人 どこの?
佳代子 一万二千いくらとられちゃった。
正人 お父さん、さっき捜しに出たってさ」(P48)


こういうのはテクニックとして意識的に使用するようでは見込みがないのだろう。
無意識的に使えるようにならなければ、いいドラマは書けないと思う。

「砂の上のダンス」(山田太一/新潮社)絶版 *再読

→戯曲。テーマは「現実とはなにか?」。
だれもが「現実は……」と語るけれども、
実のところ、全員一致する現実などありはしないのではないか?
商社員の女房になりたいという若い女性が言う。

「私の父は板金工で、のんだくれで、やきとり屋につとめていた母と知り合って、
生れた私は高校中退で住み込みの美容院へ入って。
お客さんも、そんなお金持ちが来るような店じゃないんです」(P83)


それがどうしていけない?

「もし結婚相手を自分の周りから選んだら、
私は一生その世界から抜け出ません」(P83)


たしかにこの女性の現実と、商社マンの現実は食い違うことだろう。
このように考えてみれば、本当に現実というものがわからなくなる。
読者諸氏は、わたしの現実をとても理解できないはずである。
とはいえ、書き手も読み手のみなさまの現実がまるでわからない。
アルバイトで、アイドルに詳しい同世代の高卒男性の優しさに触れ感動したものである。
自分はからきし現実をわかっていないと反省したものだ。
同年齢の有名大学卒・正社員の孤独感・不幸感の強さに驚いたこともあった。
しかし、そんな現実は人の数だけいくらでもあるわけで――。
日本だけでもさまざまな現実があるのに、これが世界に出たらいったいどうなるものか。
人間とは、人生とは、現実とは、などと一様に語りたがるのは詐術としか思えなくなる。

「砂の上のダンス」のすばらしさは劇場に入ったらすぐにわかることだろう。

「開幕前にアラビア音楽。
この芝居はアラブの架空の国の砂漠に隣接する地域を舞台にしているので、
国を特定出来るような曲ではないことが望ましい」(P7)


テレビや映画であったら、予算の関係でやすやすとは海外ロケなどできない。
しかし、舞台なら、ここは海外と言ってしまえば国外になる。
したがって、この作品は舞台でしか取り上げられない作品である。
山田太一は、こういったジャンルごとの特徴をとらえるのが天才的にうまい。
いや、天才なのである。凡才は天才の思考法やテクニックを盗むしかない。

「ジャンプ」(山田太一/新潮社)絶版 *再読

→戯曲。読みながらイメージしたのは、作家の笑顔である。
天才脚本家が、この芝居を楽しんで書いているのが実によくわかるのだ。
浮き足立って、ケラケラ笑いながら、
フフ、ハハハなんて思わず口元からもらしながら書いているのが伝わってくる。
書くのが楽しい――これが山田太一の才能の正体なのではないか?
セリフを書くのが楽しくてたまらない!
テーマよりメッセージよりなにより、人間の話す言葉を書くのが楽しい。
こんな人がいたらおもしろいよね? なんてクスクス笑いながら書く。
別人になって話すのが楽しい。女性になって話すのが楽しい。
生きているのが、楽しい!
山田太一先生の実像はネアカというよりむしろ軽躁的なところがあるらしい。
フワフワした非現実感を精神に有している――これが天才の証明ではなかろうか?

「なんか、俺たち、がんじがらめじゃないか。
どうせ現実はとか、現実はそうはいかない、現実をなんだと思っている?
現実を知らねえなあ。
そうやって、みんな現実とやらにがんじがらめじゃないか?」(P220)


「ラヴ」(山田太一/中央公論社)絶版 *再読

→山田太一先生の処女戯曲。
天才・山田太一とはいえ、はじめての劇作では、シーン(場面)をぽんぽん飛ばしている。
さすがの作家もワンシーンでは書けなかったのだろうか?
むろん「三一致の法則」(時間の一致・場所の一致・筋の一致)
を信仰しているわけではないが、劇作を志すものなら挑戦したくなるものだと思う。

しかし、山田太一の本職はシナリオ・ライターなのだろう。
言うまでもなく、作家の芝居台本はそこいらの劇作家よりよほど一流だが、
それでもテレビドラマほど適性が合っているようには思えない。
山田太一は、日常会話的セリフを書くのが巧みである。
芝居特有の、ある意味では不自然な、豪華絢爛たる言葉を内部に持っていない。
(たとえば三島由紀夫の芝居は、それはそれはすごいのだから!)
これは山田太一ファンである自分の弱点とも相通じるように思う。

うまいと思ったところを抜き書きする。
専業主婦の敦子は、日常への倦怠感からキッチンドリンカー気味である。
別居している息子との電話が終わる。
通話が切れているのに敦子は受話器に向けて独白する。
独白の処理が自然でうまい。時間経過も巧妙である。

「敦子 (……)なんでもやれ、ってお父さんいったわ。
ジャズダンスでもって――フフ、一時、お母さん、
彫金やったり、英会話へ行ったりしたじゃない? あれで分ったの。
分ったなんていうと、お父さん怒るかもしれないけど、
外へ行ったってなんにもないのよ。なんにもないの、ほんとに。
お酒だって、同じ。やめてもいいの、
贅沢だとか、そう言われても仕方がないし、換気扇も暫く洗ってないし、
玄関もそろそろ水洗いした方がいいし、やる事いろいろあるの。
のんでる暇なんかないし、お向いのおばあさんが、
あちこち行っていってるに相違ないから、ほんとに、お酒なんて、
いいことないんだけど――ちょっとのんじゃうのね。
どっか、投げやりになってるのね。
どうせって――どうせもう、お母さんの人生なんて(長い沈黙)

かすかにグレンミラー「ムーンライトセレナーデ」が聞えて来る。

敦子 昔、恋愛をしたわ。相手は、――お父さん――フフ、
いまの、賢一のお父さんよ――私の、亭主、フフ、同じ人?

音楽、大きくなる。それに合せて。ゆっくり身体をゆらす。
照明、夕方になって行く。音楽、高まりを見せて、突然途切れる。
夜になってしまっている。
部屋は暗く、外灯で、敦子が見える。

敦子 ほんのちょっと逢えるか逢えないかが、
神様やなにかにお願いするほど大切だったり、小さな言葉に傷ついたり
――そんな、沢山の気持が、消えてしまって、もう帰って来ないわ。

敦子、疲れた足取りでスイッチへ行き、居間の灯りをつける。
玄関の外の灯りもつける。
そして、ゆっくり、台所へ行きかけると、チャイム」(P57)


ドアを開けると初対面になる息子の恋人がいる。
意外な人物のアポなし訪問は、山田太一ドラマの定番である。
私事だが、この定番をわたしは実人生で一度も経験したことがない――。
本来なら「ありえない」ことが、フィクションでは「ありえる」ことになってしまうのである。
いや、山田太一ドラマならば――という限定のほうが適切か?
わたしがシナリオの習作で山田太一のドラマ作法を真似したら、
スクールの講師から「この人物は頭がおかしいんじゃないの?」と鼻で笑われたことがある(苦笑)。

「七本の色鉛筆」(矢代静一/「名作集」白水社)絶版

→国産戯曲。昭和48年初演。
七人姉妹の人生色模様。戯曲を読んでいるときは気づかなかったが、
上演に当たって姉妹それぞれにイメージカラーが割り当てられたらしい。
視覚効果が格段に上がることだろう。

学んだ戯曲テクニックを整理する。
1.語り部を出す。役者のひとりを語り部にすることで、時間の飛躍が可能になる。
2.一人二役。これは役者を重んじる芝居でいちばん生きるテクニックだと思う。
3.役者の自覚的言動。芝居を演じているという前提で、お客さんに話しかけてしまう。

むかしは兄弟姉妹が多いからおもしろいよね。
おなじ血を分けた兄弟姉妹でもどうしてか成功するものと失敗するものが現われる。
兄弟姉妹はぜったい負けたくないライバルでも、心を許しあえる唯一の親友でもありうる。
思えば、わたしは創作に兄弟姉妹を使うのが好きなのだと思う。
血のつながりほどおもしろいものはめったにない。

兄弟姉妹は生きる。成功するものも失敗するものもいよう。
もうひとつの世界を想定したとき、
人生の勝敗、善悪、美醜はまるでわからなくなるのが興味深い。
この芝居では若死にした母親が幽霊として登場して娘に語りかけるのである。
母親の密通による出産が、この劇作を動かす主たる秘密だ。

「私ね、死んでから正直になったような気がするの。
だから、なんでも正直に言えるわ。
私ね、結局、お父様以外のべつの男性に抱かれてみたかったのよ。
そういうことはよくないことって、生きてる人たちの世界じゃ言われてるけど、
……そうかなァ。むしろ、いいことなんじゃないかなァ、
それが生きてるっていう意味じゃないのかしら! (……)
死んでみたら、私の言うとおりだったことがわかるわよ、
どっちにしろ、たいしたことじゃない。あああ、私、死んで損しちゃった。
もっともっと長生きして、楽しんだり、苦しんだりしてみたい。
だって、ここは、おだやかで静かで、刺激がまるでないんだもの」(P305)


「ら抜きの殺意」(永井愛/而立書房)

→国産戯曲。第1回鶴屋南北戯曲賞受賞作品。
井上ひさし亡きいま、永井愛はまともな芝居を書ける数少ない劇作家のひとりである。
日本の演劇界は、亜流傍流がどうしてか主流本流になってしまった。
演劇人でさえ戯曲を読むという習慣がないためだろう。
だから、読んでもおもしろい戯曲を書くことができる劇作家が極めて少ない。
日本の劇作家はアテ書き(役者を決めてから書く)しかしないからホンがつまらなくなる。
セリフはだれが言うかが重要なのはわかる。
しかし、日本の演劇界はあまりに役者偏重で来てしまった。
あげく、岸田戯曲賞など、読んでも意味がわからぬものばかりという始末。
永井愛のような劇作家は本当に貴重である。

コメディの書き方がわかったので報告する。
なんのことはない、実に単純なのである。

1.人はいない人の悪口を言う!
AとBがその場にいないCの陰口を叩くのがコメディの原型である。
Cに盗み聞きをさせるのも、それを悟ったAがCを称揚するのもまたコメディである。

2.決めシーンを作ろう! 
芝居は役者のもの。だから、各々の役者に決めシーンを作ってあげればいい。
具体例。「ら抜き言葉」を嫌悪する海老名に反感を持つのが伴である。

「伴 つまり、ら抜き言葉をつかうなと、そういうことですね。
海老名 ええ。我慢がなりません。
伴 そんなに我慢がなりませんか?
海老名 日本語に対する犯罪的な行為ですからね。
虫唾が走ります。血が逆流しますよ。
伴 そうでしたか、それは失礼いたしました。
海老名 いえ、気をつけていただければ……
伴 ……海老名さん?
海老名 はい?
伴 (「ら」抜きを強調し)食いモン持ってこれないと、
出れないから、ずっと食べれませんよ!

海老名、耳をふさぐ。二人、そのまま睨みあう」(P20)


3.人を出して入れて、入れて出して、出して入れて、入れて出して――これがコメディ。
2人に漫才をさせてもコメディにはならない。3人目を入れるのがコメディ。
人を出した瞬間に入れられるようになれば、コメディの真髄をつかんだようなもの。
「ら抜きの殺意」から具体例を――。

「海老名、出て行く。
そのとたん、宇藤は更衣室に駆け込む」(P68)

「遠部 ……通じなかったようだ。もう少し研究してくる。(出て行く)

伴、遠部を追おうとして、台所から来た海老名と出くわす。
海老名、デスクに戻る。
伴、追うのをやめ、奥のデスクに戻る」(P134)


シナリオにおける柱(=○)が、戯曲における「人の出し入れ」と思えばよい。
人を出し入れすることで劇作家は局面を変えればいいのである。

「おやすみ、母さん」( マーシャ・ノーマン/酒井洋子訳/劇書房)

→米国産戯曲。1983年、ピューリッツアー賞を受賞。
「おやすみ、母さん」のような二人芝居は、書くのがなかなか大変だと思う。
まず、人の出し入れによる場面(というか雰囲気かな)転換ができない。
それから、二人だとドラマ形成に重要な秘密が作ることができない。
A、B、Cと3人いたら、AとCが「これはBには秘密」と手を組むことが可能。

アラフォーの娘が、今夜自殺すると母親に予告して実際に遂行するまでを描く。
不遜なことを言ってもいいのなら、
この設定でわたしが書いたらもっと救いのないものができあがると思う。
説明ゼリフを隠そう隠そうとしているせいか、劇の状況がよくつかめないところがあった。
残念と言うほかない。
自殺予告者と近親者の二人芝居はおもしろいと思う。
いつか書いてみたい(と言いながら実は書いていたりする→「飛べないくせに」)。

「おやすみ、母さん」では、自殺するというジェシーにママは――。

「ママ (ヒステリックになって)だってあたしにはどうにもしてやれないもの!
ジェシー (静かに)そう、出来ないわ。
(ママは肉体的にというより感情的にがくっとなる)
そしてわたしにも出来ないの、この人生を、変えることも、良くすることも、
楽しく感じるようにすることも。
もっと気に入って、もっとうまくやれるようにすることも。
でも止めることは出来る。閉めてしまえる。
何も聞きたいものがない時にラジオを切ってしまうように。
これだけよ、わたしのものと言えるものは、
だからそれがどうなるかはわたしが決めるの。
そしてそれがもう止まるの。それをわたしが止めるの。
そう。だからもうあとは楽しくやろう」(P35)


ママはなんとかして娘の自殺を止めさせようと説得する。
結局、ママのあらゆる手立ては失敗に終わるが、
このときママは悔恨に暮れるべきだろうか?
この芝居に限定したら、ママはなにも悔いる必要はないのである。
なぜならジェシーの自殺は、戯曲によって決められていた。
だから、どうしたって回避することはママのちからではできなかった。
こういった視線が劇作に入っていたら、もっとよくなっていたように思う。
いつかそういう芝居を自分が書いてみたい。
いや、書くかどうかはもうなにものか(戯曲? 運命?)に決められているのだろう(苦笑)。

「ガラスの動物園」(テネシー・ウィリアムズ/松岡和子訳/劇書房)

→新潮文庫の小田島雄志訳を読んだのは7年前だったか。
当時、読んでいた戯曲といえば、古臭いシェイクスピアやチェーホフだったものだから、
「ガラスの動物園」に触れてシビレルような感動を経験したのをよく覚えている。
大量の劇作を読むようになったきっかけは「ガラスの動物園」にあるのかもしれない。

あれから7年が経ち、ようやくわたしも戯曲を書いてみようかという気になった。
そういうときに近所のブックオフで本作品が105円で買えるのだから不思議なものである。
先月書いたわたしの処女戯曲は、「ガラスの動物園」の影響下にある。
この名作を下敷きにしているシーンがある。
ウィリアムズは慟哭しながら(私小説ならぬ)私戯曲たる「ガラスの動物園」を執筆したことだろう。
おなじ創作をしながらウィリアムズの気持がわかったと書いたら傲慢になるのだろうか?
「ガラスの動物園」は、本物の感動を与えてくれる名作である。
青春の挫折、劣等感、夢、純粋が、なんと透明なまま美しく描写されていることか!
幸せになろうとするが幸せになれない人間たちの哀しみは、美しくもまた切ない。

「アマンダ さあ、いい子だから、お願いするの!
ローラ お母さん、お願いって、何を?
アマンダ (声が震え、目には突然涙があふれてくる)幸せを!
それからほんのちょっとの幸運を!」(P62)


劣等感にさいなまれニート生活を送るローラに夢のような一夜が訪れる。
高校時代の片想いの相手、ジムが弟の友人としてやってくるのだから。
劇作家は余人を舞台から外し、ローラとジムを二人だけにする。
このときのト書きがうまいのである。

「この場全体を通して強調しなければならないのは、
ここで起こること自体は一見取るに足らなくても、
ローラにとっては彼女の人知れぬ人生のクライマックスということだ」(P86)


このト書きを読んだとき、わたしは戯曲の書き方がわかったと思ったものである。
ガラスの動物園は、演劇史上最高の小道具であろう。
ジムに「いまはなにをしているの?」と問われるローラ。
ローラは、なにもしていない、なにもできないのである。
ガラスのコレクションをしているという。

「ローラ (棚からガラスの置き物を取る)ガラスの小物、
たいていは飾りの置物なんだけど。
ほとんどガラスでできた小さな動物なの。世界一小さな動物よ。
母はガラスの動物園て呼んでるわ。たとえばこれ、よかったらどうぞ。
これは一番年上なの。もうすぐ十三歳。
あ、気をつけて――息を吹きかけると壊れるから!」(P98)


ローラは初恋の相手、ジムとぎこちないダンス、のみならずキスまでしてしまう。
そのあとにすぐさまジムには婚約者がいることを知らされるのだから残酷である。
かなわぬ恋の美しさよ! どれだけ恋焦がれても他人の気持ばかりはどうしようもない。
この非情を受け容れるしかない人間の美しさ、切なさをテネシー・ウィリアムズは描いた。

(追記)創作マニュアルなど読む暇があったら、とにかく名作を読むべきである。
高額の料金を支払って成功者の話を聞くよりも、時間をかけて傑作を味わうほうがよほどいい。

なんであれ創作するときに重要なのは時代感覚だと思う。
いまという時代は、いったいどのようなものか?
現代を鋭く追及した作品は、きっと新しいと評価されることだろう。

創作は「変わるものと変わらぬもの」のあんばいで勝負が決まると思う。
「変わらぬもの」もあるのである。
たとえば、ドラマだったら、ギリシア悲劇の時代から変わらぬ形式が存在する。
小説でも、むかしからの伝統を踏まえることが肝心であろう。

しかし、同時に「変わるもの」にも作者は目を向けなければならない。
いまはなにが変わっているのか? 現在はどのような時代なのか?
コンクール・ハンター(笑)になってから、毎日のように考えていることである。
逢った人に直接的に「いまはどういう時代だと思いますか?」と問うこともある。

時代を正確に把握すれば、それだけ急所を突いた創作が可能になると思うのだ。
必要なのは、批評精神。たとえば2ちゃんねるから引用すると――。

うまく言えないけど…言葉にすると陳腐になるけど…例えるならば昔は色んなものがまるで川の中のように見えなかった。
『ここには大きな魚がいるんじゃないだろーか?』みたいなドキドキがあちこちに溢れてた。
現代は陰も陽も色んなものが見えきってしまってそこに嫌気がさす。

例えば最近の成人女性なんて皆同じ顔に見えるし…
(服にメイク、プチ整形で)
Jポップは何聞いても同じ。
曲に限らず詞までもが類似。
こんな風に世の中のすべてが『悪くはないけど、良くはない』チェーン店の食い物みたいで、ハズレがないけど感動もなくなった気がしてさ…

クーラーより扇風機の風のがなぜかここちよく感じる夏。
お墓参りですら楽しく感じた夏。
不良がたまってそうな辛気臭いゲーセン。
今と比べ中身にサブカルネタが多くて、ブスモデルが多いのに不思議とワクワクするエロ本。
ミステリーサークル、神隠し、防空豪などなど、神秘的なものが多かった日常。
カラーヒヨコ、キリスト教などが学校の周りをうろついてる時の胸の高鳴り。

「あの頃に戻りたい…Part2」
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/alone/1274801808/l50



いかがわしいものが欲しい!

不穏で怪しい秘密めいたものが欲しい!


「芝居が目指すのは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡をかかげ、
美徳にも不徳にもそれぞれのありのままの姿を示し、
時代の実体をくっきりと映し出すことだ」(「ハムレット」松岡和子訳)
やっぱさ4日も禁酒したら、肝臓がどうなっているか知りたいじゃないですか?
それに宮本輝先生に教わった根昆布健康法の効果も知りたい。
先生の本によると、1ヶ月で効き目が現われるらしいから。
ちょうど1ヶ月経過していたこともある。
果たして中性脂肪とコレステロールはどうなっているのか?

とはいえ、血液検査はこのまえしたばかり。けっこう高いのよ。
献血はむかしから知っていたけれど、あれは降圧剤をのんでいるとダメなんでしょう。
と思ってネットで調べてみたら、降圧剤をのんでいても大丈夫との情報が!
あれれ!?

昨日、敬愛する作家・白石昇氏も行かれた新宿東口にある献血センターに行く。
売血(献血だって!)といえば五木寛之「青春の門」のイメージしかない。
無料の飲食物目当てにホームレスのようなゴロツキが集っているところと思っていたら――。
献血に来るのはスイーツ(若い女性)ばかり!
いちばんホームレスっぽいのが、ああん、わたしわたしわたし?

中性脂肪、コレステロールは空腹時じゃなきゃダメなのね。
だから、朝食を抜いて行ったら、問診医からあきれられてしまった。
「献血というのはお腹がいっぱいの人が来るもんなんだよ」
○ド(丸のなかにド)と用紙に書かれてしまう(あとでわかるがドーナツの意味)。
海外旅行経験を正直に述べたら、怪しがられてね~。
特にベトナム1ヶ月がお気に召さなかった模様。「ベトナムのどこを?」
「下から上までほとんどぜんぶ行きました(南北を使え!)」
あとで気づいたけれど、あれはエイズ感染の有無をたしかめていたのだと思う。

受付でドーナツをほどこされる。言っていい? このドーナツまずい!
最初に検査のための採血。看護婦さんは美人で名前のプレートを見ると「××美香」!
「美香」という名前はなんともええねえ。
「あ、あの、献血はじめてなんですけれど痛いんですか?」
「嘘は言えませんから正直に言いますが、痛いですよ。針も太いし」
さんざん脅かされてしまう(笑)。
美香さんは笑顔だから、からかわれているのはわかるのだが、それちょっとキツイっす。
コレステロールはわかるけれども、中性脂肪はわからないとのことでガックリ。

お茶を2杯のんで本番の献血に向かう。ドキドキ。400mlの血を抜かれる。
注射はぜーんぜん痛くない。クウウ、美香さんにしてやられたか!
おれ、ものすごいフレンドリーだからね。見知らぬ人ともバンバン話しちゃう人よ。
「血の気が多いってよく言われるんですけれど、これで変わりますかね?」
「え?」とおばさん看護婦さん。
「血を抜いたら怒りっぽくなくなりますか?」
「血の気が多いって、血液とは関係ないんです」
「あ、そうですよね」
こんな笑い話を交わしたりするボクは「いい人」オーラが漂っています(笑)。

献血のご褒美にもらえるコインで、お菓子かアイスのどちらかが食べ(ら)れる。
ベルギーワッフルを選択したら、これもあんまりおいしくない。
献血ルーム(?)を見回すと、いまどきの格好をした若い女性しかいないのには驚いた。
美人率はかなり高い。ちなみに受付のおにいさんは、相当なイケメン!
これはいったいどういうことなのだろう?
もしかしたら現代の若い女性の性的事情はすごいことになっていて、
みーんな、みんなここでエイズの検査を!?
なーんて、おかしな妄想をしながら、ワッフル1個でコーヒーを4杯のむ。
お、おれ、ホームレスに見えないよね?

つぎに献血できるのは8月31日以降とのこと――。
ここいいな。また来よう。というのも、一度やってみたいのよね。
いままで採血のまえには、かならず連続禁酒をしていた。
医者からごちゃごちゃ言われるのがいやだったから。
ところが、献血だったら結果が郵送されてくるだけ。
2週間くらい毎日酒をのんでいるときに調べてもらったら肝臓はどうなっているのだろう。
実験、実験(かわいく)♪ 今度、やってみま~す♪

すぐそばの三菱東京UFJ銀行へ。通帳が終わってしまったので新しいのをくださいな。
もらったはいいけれど、入金記録の詳細がきちんと書き込まれていない。
なんでも通帳が新しくなるときは、こうなってしまうのだとか。
えええ!
人生で最初の(もしかしたら最後かもしれない)原稿料入金が記録に残っていない!?
どうにかしてくださいよ。行員に頼む。「印鑑があれば」「ありません」
ごねたらOKで、後日記録を郵送してくれるとのこと。
こんなブログを見ただけでお仕事をくださったかたへの感謝がよみがえる。
心意気に応えると申しましょうか。この仕事だけは最後までやり遂げたい。
プライドなんか捨ててもいいと思っている。ホントでっす。

最寄り駅近くのスーパーで30%引きの牛肉(焼肉用)を買ってしまう。
ふだんなら半額でしか買わないのだが、血が減っているせいか無性に肉が食いたかった。
家に帰り4日ぶりのビール(もどき)をゴクリ。ううん? あんましうまくない?
献血のあとにお酒をのむときは注意してくださいと看護婦の美香さんから言われていたな。
なんでも酒のまわりが異常に早くなるらしい。
「とにかく水をたくさんのんでください」とも――。
無頼を気取っているけれど、テヘヘ、怖がりなんですぅ(萌えませんか、そこの婦女子!)。
飲酒の合間に麦茶を大量にのむ。

以上で売血(献血!)初体験は終わり。
しっかし、ものを書いて食べていくというのは、売血とおなじだよね。
(取材して書くフリーライターはこの限りにあらず)
文学の世界では、売る血は汚ければ汚いほどいいとされる(?)。
文学者はかなりの確率で吸血さえやらかすから恐ろしい存在である。
一見温和そうな文豪・井上靖も愛人の血を吸ってあそこまで大きくなったのだから。
血を吸われたほうが不幸かといったら、そうとも限らないのだろう。
なんにもない人生と、吸血鬼と向き合った人生――。
どちらが幸福かは簡単には断言できない問題だと思う。
わたしの知りうる限りでもっとも吸血鬼的な作家はスウェーデンの文豪・ストリンドベリである。

(補)若い女性が多かったのは、エイズ発見のためではなく、「献血ダイエット」が関係しているのかもしれません。