これほど矛盾した世界はめったにないと思うのね。
コンクールで大賞を取るのは、まあ、個性あふれる人間でしょう(ということにしておく)。
しかし、実際に現場で必要なのは、いくらでも書き直しに応じることができる人材。
タレント事務所、スポンサー、
複数いるプロデューサーのご意向を満足させなければならない。
だから、むしろ個性なんてあったら困る。自分がない人間のほうが望ましい。
いまの時代に新人として山田太一、倉本聰、早坂暁なんていたら、
ぜったいに現場で使ってもらえないから。才能は凡愚につぶされると思う。
ひとりの才人がいても、周囲(プロデューサー等)が無能だったら終わり。
だって、多数決をしたら、脚本家はたったひとりなのだから負けてしまう。

いまはチェーン店の時代なのね。マニュアルの時代。
日本全国どこに行ってもおなじ店があり、おなじ対応をされる。
どのテレビドラマも、おなじような展開になってしまう。職人なんかいらない。
人間を描くドラマだけは、マニュアルではないとみなさんは思いませんか?
ところが、業界最大手のシナリオ・センターは、ドラマなんかだれでも書けると主張する。
だれでも努力をすればドラマを書ける。
この方針でシナリオ・センターは40年ものあいだ君臨しつづけたわけだ。
努力――。

努力すれば、だれでもいいシナリオが書ける。
コンクールに落選してしまうのはどうしてなんでしょう? ――努力が足らないから。
もっとがんばりましょうね。うちの合宿に参加しよう。特別講座を受講しよう。
カネを払えなんて、ぜったいに言わない。もっと努力しましょう。
努力すれば、だれでもすばらしいドラマを書ける。
このように教えている講師が、まったく実績がないのはご愛嬌。
どうして先生はシナリオを書かないの? なんて聞いたらやめさせられてしまう。
努力、努力、努力! がんばってシナリオを書け! ゼミで仲間や講師の意見を聞け!
千人にひとりでもデビューすれば、うちのおかげと宣伝する。たとえ数ヶ月在籍しただけでも。
どのみち、このライターも数年で消えていくのだが、そこは隠しておく。

プロデューサーや映画監督が、ときたまシナリオ・センターで講演する。
おカネをもらえ、かつ主役になれるのだから、当人は大満足であろう。
かれらはこういうライターを求めている、と教えをたれるかもしれない。
しかし、本当に才能あるライターだったら、
教えなんか逆らって独自の世界を他者に突きつけるはずである。
ところがスクールは、個性をつぶそうとする。
(実績のない)講師の意見を聞けという。うちの講師は正しい。
謙虚になれ! それからほかの受講生の意見を聞けという。聞く耳を持て!
視聴者は正しい。うちの講師は正しい。
経営者は正しい。為政者は正しい。スポンサーは正しい。
だから、考えてはならない! 繰り返そう。

だから、考えてはならない!
気がつくと周囲には運がいい人ばかりなんだよな~。
わたしのまえに現われる人はみなみな運がいいのよ。
以前からご縁(血縁等)があった人も、この10年で全員驚くくらい運が好転している。
数え上げてみると、ひとりとして不幸になったものはいないのだから。
だから、自分も運がいいのではないのかと考えて、
昨日、身分不相応にも「結婚したい」「子どもがほしい」なんて書いてしまった(照れ笑い)。
いまのわたしの年齢、職業スキルから考えたら将来は自殺しかないはずなのだが。
周囲に運がいい人が多いと、ついつい自分にも幸運が舞い込んでくると思ってしまう。

しかし実際、人生とはそのようなものなのではないかと思う。
人生は努力じゃなくて運だって思うけれどな。
そして、そう思うことでどれだけ楽になるか。運が向いてくるか。
わたしなんかも人生努力説を放棄してから、運が拓けてきたような錯覚(?)がある。
日本各地にいるであろう無数のシナリオライター希望者のなかで、
おそらくいちばん努力をしていないのがわたしだと思う。
生まれつきなんだろうけれども、どうしてもがんばることができないのだ。

ここ数日で、山田太一さんの戯曲をいくつか再読した。
痛感したのは、作家が楽しくてたまらなくてセリフを書いているということ。
躍り上がらんばかりの愉楽(昂揚感)の只中から言葉が生まれているのがよくわかる。
これが天才ドラマ作家の才能というものだと思う。
日本人が好きな努力信仰は、ホンモノの信仰とは正反対ではないだろうか。
信仰とは、運を認めるところから生じるとわたしは思う。
いま見たら「スゴいカウンター」が完全に終了したようである。
いきなりこういうのが来るか、と愕然としている。
重度のパソコン障害者のため、どうしたら新しいカウンターを設置できるのかわからない。
そりゃ調べたさ。だけんど、わかんねェ。
このブログだって、旧友のムー大陸さんから教わったのを、そのまま。
なーんにも自分じゃ考えていないのね。
「こうしなさい」と言われたのを、その通りにやっただけ。
カウンターの設置も、すべて氏のブログを真似たって感じで。

アイヤー。参った。カウンターがないとつまんないっちゃ。
なんだかんだいって毎日ブログの訪問者数が楽しみだったしね。
これじゃ、どこかのブログからリンクされてもわからん。
2ちゃんねるに晒されても気がつかないから、かえっていいのか……いや、やはりよくない。
困ったな。どうすればカウンターを設置できるのか。

いちおうFC2カウンターに登録したよ。
「プラグインの設定」から簡単に設置できると書いてあったが、できまっせん。
というのも、いまのテンプレートがプラグインに対応していないらしく……。
新しいテンプレートにしなさいって書いてあるけれど、変えるのはどうも気乗りしなくて。
ほら、おいら美的センスがないから。
それに「Archive Category Comment TrackBack Link Profile」このへんすべてを
外に出した(意味わかるかな?)テンプレートってなかなかないみたいで。
ごちゃごちゃしたブログはいやなのね。
どうにかしてこのテンプレートのままカウンターを設置できないものか。

とはいえ、ムーちゃんのとこも、似たようなテンプレートでカウンターがある。

「月刊 逃げたい心」
http://moocontinent.blog65.fc2.com/

だから、うちもやれなくはないような気もするのだが。
おーい、ムー大陸先生! まだ「本の山」を携帯電話からご覧になっていますか?
最近、電話しても冷たいんだよな。すぐ切りたがるし(笑)。
ムー先生のご自宅から拙宅までは2時間近くかかる。
いまの冷えた関係だと、どんな高級酒を用意しようと氏を家へおびき寄せることは無理。
今晩あたり電話しようかな。
いちおうエーユーのサービスでムーちゃんとは電話代無料なのね。
いやそ~な声を出されるかと思うと心がくじけるな。
10年前の事件以来、5、6年くらい友だちゼロだったから、おいら。
ネットを介してはじめて人と逢ったのがムー大陸さんでした。

こりゃ当分のあいだカウンター設置はあきらめるしかないのかな。
以前の情報が消えたとか、そんなのはぜんぜん気にしないけれど。
タグってなに? の世界だからな~。
もう機能しなくなった「スゴいカウンター」の外し方さえわからない。
カウンターがないのは困るな。しかし、どうしようもない。
どうにかしたいけれど、どうしようもない。
来週はとあるコンクールに応募する作品を書ければと思っている。
だから、ブログはお休みするつもり。
かえって、カウンターがないと気が散らなくていいのか。
しっかし、毎日の訪問者数が気になるだろうな。
板橋のパンダは、うんうんあたまを抱えていまっす。くいーん(SOSの意)♪

(追記)ゲロゲロ! この記事を書き終えて「スゴいカウンター」を見ると直っている。
どういうこっちゃい?!
「スゴいカウンター」もよくわからんのよ。


★お知らせ(01/23/2010)
スゴいカウンターサービス終了のお知らせ
この度すごいカウンターサービス(http://sugoicounter.com/)を2010年2月22日(月)を
持ちまして終了致します。
サービスが終了しますと、
サービス終了の旨のメッセージと広告が表示されます。
http://sugoicounter.com/



とっくにサービスが終了しているのに、なぜか使えるという――。
だけど、もういつ使えなくなってもおかしくないんだろうな。
あーあ。こんなに悩んだのがバカみたいだ。
しかし、いつかはぜったいカウンターが使えなくなるんだろうな、ううむ。
むかしの2ちゃんねるは本当のことが書かれているからおもしろい。
2ちゃんなんてみなみな眉唾で嘘だろうと思われているから、
かえって本当のことが書かれているのね。
たとえば金の話は、あまりにも本当のこと過ぎるから、一般社会では隠されるよね。
たとえば夢の話は、あまりにもバラ色過ぎるから(脳内で)、本当のことが隠される。
本当のことを書いてしまうと、脚本家なんて目指すものではない。
なりたいとバラ色世界を夢見ながら長い人生の3、4年、退屈しのぎをするもの。
夢というものはまったく本当に見ているうちが華なのだと思う。
男で専業脚本家を志すのはキチガイ沙汰ではないか?
脚本家は若くて容貌平均以上の(すなわち買い手のある)女性、もしくは主婦が夢見るもの。
(わたしはおのれのキチガイぶりをどこまで見て見ぬふりをしていられるか……)

36 名前: 名無シネマさん 投稿日: 01/10/08 06:29 ID:BzxqGeik

脚本というのは、いろいろな人間が口を出してくるものなんです。
 特に日本の場合は、原作本があって、そこから予算とキャストが決められて、そこで始めて脚本の作業が始まるわけです。
 ハリウッドのように脚本があって製作がスタートするわけではありません。
 脚本を書いている間に、ああだこうだと周りが言いだします。スポンサーになっている会社の社長、役者さんのマネージャー、P。
 利害関係のあるすべての人間が、脚本作業の前のプロットの段階から、口を出してきます。みんながバラバラなことを言ってきます。そんなことをいちいち聞いていたら、脚本がどういうことになるのか小学生にでもわかりますよね。
 でも、それを聞いて脚本に取り入れなければ、即クビです。
 脚本家の仕事は、創作ではなく、ほとんど利害関係の調整です。
 制作費が潤沢な映画の方が、利害を持つ人が多いわけだから、いわゆる大作のほうが、ヒドイ脚本になる確率は高いです。
 こういう事情を十分知っているくせに書こうともしない「月刊シナリオ」。要らない雑誌です。



56 名前: 名無シネマさん 投稿日: 01/10/10 04:45 ID:jQxvOKYQ

俺は1000万製作のVシネマを30万で書いた。
仕事の前にプロデューサーが「あなたシナリオ作家協会入ってます?」
って聞いてきやがった。つまり協会員だったらみんな一応5%を
主張してくるからPはもしそうだったら入ってない人に仕事をまわす
つもりだったらしい。俺は入ってなかったから3%でOKした。



(引用元)「月刊シナリオに掲載されるシナリオって?」
http://choco.2ch.net/movie/kako/1002/10022/1002217676.html

むかし通っていたスクールに、こういう受講生がいたな。
自分は映画が好きだから映画のシナリオを書きたい。
だから、テレビのコンクールには出さない。
本当のことを知ったら、たまげるだろうから、むしろ知らないほうがいいのだろう。
けれども、知らせたいから、こういうことを書いてしまう。
創作スクールは、本当のことをなんとかして隠さないと経営破綻しちゃうね(笑)。

本当のことは、怖い。
しかし、本当のことに救われることがなくもないからおもしろいのである。
本当のことを言えば、どんな栄誉を誇った人も死ねば終わり。
なにも次の世界に持っていけない。
人間だれしも死んで数年もすれば、肉親以外だれも思い返すようなことはしない。

バランスが悪いからバラ色の世界も描いておこう。
これは噂レベルだけど、山田太一先生クラスだと2時間ドラマ1本400万円とか聞くよね。
書き直し一切なしで400万!
でも、先生だったら、講演会1回で100万円くらい取れると思う。
(でもでも、山田先生はその100万を蹴って、
無報酬の講演会に出て行くこともあるのだから……)

結論めいたことを申せば、ご同輩! あまりバラ色の世界を夢見るのはやめませんか?
いや、だれかに言いたいのではなく、なによりも自分に言い聞かせたいのだと思う。
もうすぐ誕生日。おまえはいつまでバラ色の世界を夢見ているのか(ため息)。
しかし、人生はいろいろな味わいがあって、人生を棒に振るのもまた妙味なんだよね(苦笑)。
一度きりしかない人生を棒に振るのもまた渋味があってよろしい……と思えなくも……ない。
というのも、バットを思い切り振るのは、爽快感があるでしょう。
変わり者のバッターは、ポテンヒットよりも、空振り三振を好むかもしれない。
ピッチャー(神仏、運命)が全力で投げ込んできた球を空振りするのもまた愉しい。
あの「負けた!」というすがすがしい敗北感よ!
いまのところわたしの人生打率は0割。ヒットなし。さあ、どこまで空振りは続くのか?
四球を選ぶくらいなら、あえてボールに空振りしたいと思っている。
スリーアウト! ゲームセット! ……の日まで。

最後にもう一度、繰り返しておこう。
もしあなたが男で、人生を棒に振りたくないなら、脚本家を目指すのはやめましょう。
スクール関係者が声高らかに合唱する夢のバラ色世界に惑わされてはいけません。
「あきらめなければかならず夢はかなう」――は嘘です。
創作スクールは夢を買うところだと理解したうえでお金を払いましょう。

(参考)「映画監督って食えるの?」
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/movie/1173280537/l50

最近「死んじゃえば終わり」という独り言をしきりにつぶやく自分がいます……。
あ、ギャグっすよ。ひとつまえの記事の、西村賢太が妬ましいだの、女が憎いだの。
私小説というのは、本当という前提で嘘を書くものでしょう。
だから、その感想文で本当のことを書いたら、つまらない。嘘を書いたわけです。
しかし、ここが不思議なところで、ものすごい本当っぽいわけね。
嘘のほうが本当よりも本当らしい。
まあ、これが私小説のダイナミズムなのであります。
本当のことを書いたら嘘でしょう? とか言われちゃうのが私小説。

うん、ほどほどに女性にはよくしてもらっていますから、恨みは、ない、たぶん(笑)。
それに西村賢太先生に嫉妬する人間なんかいないっしょ? いるわけ?

もう見切ったからね。人生、運と縁。これこれ、ぜったいこれ!
こう、しっかと悟っていれば、華やかな成功者も恨まないで済む。
ああ、運がよかったんやなって。ええ目、見てはりますな。
部外者気分で、自分を傷めずに乗り切れます。
女とか人間関係すべて縁だって。ご縁がなかったようです、という言葉はやさしいよね。
縁なんだから、だれかを恨んだり憎んだりしても、どうしようもない。
がんばって運や縁がどうなるわけでもありません。
どうして人生は運と縁だということが、こうも受け容れられないのかな。
婚活なんかしたって業者を儲けさせるだけでしょうが。

以上、本当のことを書きました――(にやにや)。
「暗渠の宿」(西村賢太/新潮文庫)

→宮本輝が選考委員としてのさばっている限り、西村賢太は芥川賞を取れないのだろうな。
「心根がいやしい。こういう人間は何をしても失敗に終わることだろう」
といったような清く正しい選評で叱られるのがおちかと思われる。
私小説作家・西村賢太の高いプライドに裏打ちされた無頼がうらやましい。
私小説で最低ダメ人間のアピールをしている西村賢太にさえ劣る自分が悲しくなる。
西村賢太を思わせる「私」は、生意気にも同棲相手の女性が気に入らないというのだから。

「なぜなら、もし女が申告した通りを真に受けるならば、
この女は先の同棲相手とこの私と、
これまでの人生の中でたった二人だけの男を知っていることになる。
(中略) が、すると私の方は、
何かつまらぬ貧乏籤(くじ)を割り振られた塩梅(あんばい)になってはいまいか。
いや、貧乏籤と云っては語弊があるが、少なくとも前の同棲相手は、
この女の一番いい時期に知り合い、その初めての男となり得ている。
そして互いに身心ともども新鮮なよろこびを与え合い、頒ち合い、そして共有し、
果ては夫婦さながらに五年もの間を仲睦まじく暮し続けていた。
これはもう、籍こそ入れてなくても、どうで婚姻関係にあったも同然である。
それを思うと、ふいと私は、不当にその男の後塵を拝しているような、
えも云われぬ口惜しさを覚えてくる。
それより何よりその男は、うまうまと私の女の処女を破ったのである。
そして私の女の、一番輝いている時期の心を独占し、
一番みずみずしい時期の肉体を隅々まで占有し、
交際期間から併せて都合七、八年もそれらを堪能して、
さんざんおいしい思いをし続けたのちに、これを弊履のごとく捨てたのである。
そしてその男にしてみれば充分貪り尽くしたと云えるこの女を、
私は、私に与えられた最後の砦として、
随喜の涙を流して抱きしめているのである。その図を考えたとき、
ただでさえインフォリオティーコンプレックスの狂人レベルな私にしてみれば、
およそ男としての根幹的な部分からわき上がってくる云いようのない屈辱感に、
血が頭に熱く逆流してくる」(P133)


おれならば、いちおう早稲田卒なのだが、付き合ってくれる女性様がいたら、
千人斬りだろうが元ピンサロ嬢だろうが幾度堕胎経験があろうが白痴女や狂女だろうが、
そんなことはもう構わないくらいさみしいというのに、この中卒の作家ときたら!
いけない、これはよろしくない。西村賢太のさもしさに伝染してしまったようである。
しかし、ここは認めておかなければならない。
中卒で女に暴力を振う西村賢太でさえ女がいるのならば、早稲田卒の立場はどうなろう。
西村賢太は露悪的な告白をする。上野の古書モールで客と口喧嘩になったという。

「いったいに私は図体もでかく、見た目もいかつい方なので、
昔から恫喝が得意中の得意(但、私よりも弱そうな相手にのみ、行なうのだが)
だったが、一言、二言かましてやれば、てっきりたじろぐものと思ったこの男は、
案に相違し、表情も変えずにまるで引かないのである。
「臭えから立ちふさがんな、百姓、表に出るか?」
そう鼻っぱし強く言ってやったものの、内心私は、ひょっとしたらこの親父は、
どこかその筋方面のかたではないかしら、と逆に怯えを感じ始めていた」(P162)


これほど姑息で卑怯な男でも女にもてるのである。
そして、おれときたら、この下賎な男が見下すような女にも相手にされないのだから。
文学新人賞を取って女にももてる西村賢太が妬ましい。
嫉妬の炎に身を激しく焼かれる思いがする。
畜生、おまえだけいい思いをしやがって!
憎い。西村賢太が憎い。女が憎い。おれを相手にしない女が憎い。
おまえらみんな金輪際、許さないからな、と思った。

「骸骨ビルの庭(上)(下)」(宮本輝/講談社)

→宮本輝の最新作をようやく読むにいたる。むかしの作品は、
氏の信仰する創価学会の教学だけでは絵解きができぬ不透明なものがあった。
日蓮仏法でさえ説き明かせぬ命の焔(ほむら)のような輝きを感じたものである。
氏も老いた。かつての反骨心はもうない。
長編小説「骸骨ビルの庭」は、すべて創価学会思想で説明することが可能だ。
だから、よくないというわけではない。
かの教団は、日本最大の宗教団体である。その教義が浅かろうはずがないではないか。
宮本輝の初期小説は奇跡的なものだったのであろう。
奇跡がずっと続くわけがない。もう奇跡は終わってしまったのである。

宮本輝の近作の関心は「他人の子どもを育てる」ことにあるようである。
熱心なファンならこのテーマが繰り返されていることに気づくだろう。
住民らに不法占拠されている通称「骸骨ビル」に、
主人公の八木沢省三郎が管理人として住み込むところから物語は始まる。
敗戦直後、阿部轍正と茂木泰造は多くの孤児をこの骸骨ビルで育て上げた。
ところが後年、孤児のひとり桐田夏美が、
阿部轍正から何度も性的暴行を繰り返されたと訴えたのである。
マスコミはこの訴えをまともに受け、阿部轍正を稀代の大悪人として報道する。
(まるで池田大作のハレンチぶりを報道するジャーナリズムのように!)
この屈辱の最中、阿部轍正は急死する。
阿部と茂木に育てられた孤児たちが、すでに権利の移行した骸骨ビルに居座るのは、
阿部轍正に着せられた冤罪と汚名を晴らすためである。

まずは成功者・宮本輝のお説教を拝聴しようではないか。
事業に失敗しホームレスにまで落ちた男の説教を聞くものはだれもいない。
宮本輝の小説に説教がやたら多くなったのは、作家が完全に成功したからである。

「私が畑仕事で知ったことは、どんなものでも手間隙をかけていないものは
たちまちメッキは剥(は)げるってことと、
一日は二十四時間が経たないと一日にならないってことよ。
その一日が十回重なって十日になり、十日が十回重なって百日になる。
これだけは、どんなことをしても早めることができない」(上巻P170)


成功者に聞いてみよう。「人間は何のために生れてきたのか?」

「自分と縁する人たちに歓びや幸福をもたらすために生れてきたのだ」(上巻P250)

成功者の発言は、成功したがゆえに揺るぎないものとなる。
ならば、成功者に問う。どうしたら成功できるのか?

「何か事を成した人っちゅうのは、みんな無謀っちゅう吊り橋を渡ってます」(下巻P238)

宮本輝も作家になるまえ、数年のニート生活を送っている。
創価学会関連のホテルで働く老母の収入で文学立身を目指していた時代があった。
すでに妻も子もいたのに、なんという危ない吊り橋を渡ったことか。
無謀という吊り橋から大勢の人間が落ちていく。
どうして宮本輝は、無事に吊り橋を渡り終えることができたのか。
「不思議な人」がいたからである。「不思議な人」とは、たとえば――。

「古くからの得意先の元社長で、
いまは息子に跡を譲って隠居している七十三歳の老人がいる。
仕事絡みであろうが、ただの友人であろうが、この人と仲良くして、
つねに接してきた者たちは、ひとり残らず良くなっていく。
運が開けていくと言ったほうがいいかもしれない。
商売が発展していく。
私生活でのいろんな悩みが少しずつ確実に解決していく。
放っておけば命に関わったであろう病気が、
ひょんなことで早めに見つかって大事に至らずに済む……。
とにかく、いろんなことが良くなっていくのだ。
といっても、それが一ヵ月や二ヵ月でそうなるのではない。
五年、十年という歳月を経て、
気がつくと五年前、十年前よりもあきらかに良くなっているのだ。
逆に、その人を憎んだり、悪口を言ったり、裏切ったりして、
疎遠になったものは、見事なほどに落ちていく。
重い病気にかかって亡くなったり、それまで平和だった家庭に波風が生じ、
やがて一家離散という憂きめに遭ったり、
順調だった商売が左前になったり、勤め先を馘(くび)になったり……。
とにかくゆっくりと階段を転げ落ちるように境遇に災いが起きつづけていく」(上巻P251)


宮本輝にとって「不思議な人」は池田大作であり池上義一であった。
池上義一は創価学会文芸部の要職にいた、宮本輝の恩人である。
脱会者は地獄に堕ちると喧伝する創価学会精神を作家は隠そうともしないのが潔い。
創価学会にはこのような「不思議な人」が多い。
それどころか入信すれば、あなたも「不思議な人」になれるのである。
これほどすばらしい宗教団体、創価学会の根本思想とはなにか?
宿命転換であり、願兼於業(がんけんおごう)である。

「骸骨ビルの庭」では、住民の話(物語)を管理人の八木が聞くという形式で進む。
かつて孤児であったものたちが、どのように人生を切り拓いていったか。
孤児たちが阿部と茂木に助けられ、いかにして宿命転換を成し遂げたか。
これは不遇な人間たちが、池田大作によって幸福になったことの暗喩であろう。
宿命転換の秘密は物語にある。物語をどう変えるかで人間は不幸にも幸福にもなる!
たとえば――。
過干渉で虐待さえ受けた子は、あれは親の愛だったのだと物語を作り直せばいい。
とはいえ、こういった物語の変形はなかなかうまくいくものではない。
人間は、不幸の物語をどのようにしたらいいのであろうか?
なぜ不幸にならなければいけなかったのか?
ここで創価学会の根本思想、宿命転換と願兼於業が登場する。

「阿部轍正は、非業の死を遂げたかに見える。しかし、自分はそう思っていない。
阿部轍正は、あのような目に遭って死ぬことで、
我々に降りかかったであろう大きな苦難を消してくれたのだ。
阿部轍正が、すべてを代わりに受けてくれたのだ。
自分は最近、やっとそのことに気づいた」(下巻P242)


願兼於業と宿命転換は究極のプラス思考といっていいのではないか?
不幸には二種類ある。自分の不幸と、愛するものの不幸である。
自分の不幸は、菩薩になることを願って、
あえてこのような業(不幸)に生まれついたのだと思う。
愛するものの不幸は、この不幸はなにかもっと大きな災いの代わりなのだと納得する。
願兼於業だ。宿命転換だ。
創価学会は、あらゆるマイナスをプラスにしてしまう!
諸君、笑え! もう不幸はない! 
どんな不幸な物語(宿命)も、勝利を目指す幸福な物語に転換できるのだから!
肩を組んで進もう! さあ、みなのもの!
どうして願兼於業の理(ことわり)を悟り宿命転換を目指さないのか!

「骸骨ビルの庭」において阿部轍正は池田大作、茂木泰造は宮本輝を模す。
どうして阿部轍正=池田大作は、世間からバッシングを受けなければならないのか?
茂木泰造=宮本輝は憤っている。激怒している。
おそらく骸骨ビルは、創価学会をイメージしているのだろう。

「骸骨ビルのことは、もういろんな新聞が報じてたけれど、
奇特な青年の人道行為を美談仕立てにしただけのものもあれば、
底意地の悪い、どこかに揶揄を感じさせるものも多かったの。
阿部轍正という男には何か魂胆があるに違いない、
いずれは孤児たちを利用して悪辣なことをやるつもりなのだ、
おい、お前たちは何を企んでいるのだ……」(上巻P165


骸骨ビル=創価学会、阿部轍正=池田大作として読むと、よく意味がわかるでしょう?
いま創価学会に最大のピンチが訪れているのは、みなさんもご存知かと思う。
カリスマである池田大作が死んだのちに巨大宗教団体はいったいどうなるのか――。
池田大作の死は、東京大地震に比す衝撃を日本に与えるだろう。
人はみな死ぬ。
この事実に、青年の宗教・創価学会が目をそむけてきた報いなのかもしれない。
宮本輝=茂木泰造は怒る。

「フグを食べ終わってから、茂木のおじちゃんはこう言った。
お前たちは、いつまで傍観者でいるつもりなのか、と。
根性のねじ曲がった嘘つき女がいて、大恩も忘れて、
自分を育ててくれた人に最大の恥辱を与え、あまつさえ死に至らしめた。
世の中には悪いやつがいるもんだ。
そんな性根を隠しているやつと気づかなかったはこちらの運が悪い。
まあいずれ天罰が下るだろう」(下巻P79)


茂木泰造が成長した孤児たちを叱り飛ばすのは、
あたかも宮本輝が創価学会員を叱咤するかのようである。

「いまから、ひとりひとり、自分が阿部轍正にしてもらったことを語れ。
どんな些細なことでもいい。ほんの少しでも心に残っている思い出をすべて語れ。
素面だったのは酒を飲めない茂木のおじちゃんだけで、
みんな気持ち良く酔っ払ってしまっていたが、全員一瞬にして身が縮んだようになり、
最初に木下のマコちゃんが居ずまいを正して語りだした」(下巻P80)


「それだけか? 池田大作というお方が、お前にしてくれたことはそれだけか?」
「それだけか? たったそれだけなのか?」
と怒りの目で宮本輝は、創価学会員の読者たちに訴えかける。
宮本輝が、創価学会をここまであからさまに小説に描いたのは初めてではないだろうか。

還暦を迎えた作家・宮本輝は創価学会と心中する腹を決めたのであろう。
「骸骨ビルの庭」は小説家の信仰宣言書のようなものである。
ということは、残念ながらもう宮本輝の作品に期待しても無駄であろう。
かつてカトリックへの信仰を持つ遠藤周作という作家がいた。
作家は円熟期、イエスを裏切ったユダに関心を持つ。
果たして、イエスは自分を売ったユダを許したのか?
おそらく許したのであろうと解釈して作家が書いた「沈黙」は大きな波紋を呼んだ。
遠藤周作が信じる宗教は、裏切りものまで許してしまう寛容性がある。
しかし、宮本輝は許さない。創価学会を裏切ったものは地獄に堕ちよ!
池田大作先生を誹謗中傷するものは、みなみな野垂れ死にしてしまえ!

「骸骨ビルの庭」での裏切りものは、桐田夏美である。
この夏美を主人公にして物語を書いたら、宮本文学に新境地が拓かれることだろう。
ぜひとも読んでみたいが、どうやら宮本輝はもう芸術的野心を捨ててしまったようである。
簡単に言えば、文学よりも宗教を取ったのである。
芸術家的冒険よりも、宗教的安心を選択したのである。
さみしいことだが、作家の決めたことだ。
しかし、毎日、先生と奉られ、美食を喰らい、説教を垂れ流す生活がそんなに幸福だろうか?
いや、これは創価学会の限界である。
創価学会の目指す幸福は、極めて俗物的なものゆえ仕方がない。
名誉・収入・地位・賞賛・美食・ゴルフなどはるかに凌駕する芸術家的昂揚があることを、
創価学会は教えてくれないのだろう。
だが、開祖・日蓮は、間違いなくそれを知っていたはずである――。


(おまけ)宮本輝作品の官能性が好きだった。
作家の糖尿病が作品を変質させる原因になったのか。
たとえば「骸骨ビルの庭」では、ここがいちばんよい。
住民のひとりオカマのナナちゃんは、
「一見、ボーイッシュだが、性的蠱惑(こわく)といったものが全身から放たれている」。
ナナちゃんの思い出話(=物語)はぞくっとするほどいやらしい。

「自分は絶対変だ。オチンチンが付いてるけど、
ほんとは女なんだって思うようになったのは、小学校四年生くらいからかな。
それを決定的に思い知ったのは五年生のときよ。
当時三十二、三くらいだった担任の先生がね、
放課後、理科の実験室においでって誘うからついて行ったのよ。
子供にも何かを予感したのね。禁断のリンゴを食べるイブの心境に似てたわ。
あれ? リンゴを食べたのはアダムだっけ? まあ、どっちでもいいわよね。
担任の先生はねェ、理科の実験室に入ると、
ドアにつっかい棒をして、私の腰を両手で抱き寄せて、
言うとおりにしてくれたら二百円やるってささやいたの。
言うとおりにしてあげたわよ、フェラを。
「お前、うまいなァ、最高だ」って褒められて嬉しかったし、
異常に興奮して鼻血が出たわ。そしたらその担任の先生、
「おっ、初潮か?」って言って、私の鼻血を舌で舐めて拭き取ってくれたの。
とんでもない変態教師よね。日本の教育現場の荒廃ここに極まれりよ。
でも私、卒業するまで週に一回、
土曜日の放課後、理科の実験室に通ってご奉仕したわ。
二百円貰えるのも嬉しかったけど、私もそうすることが楽しかったのよ。
そいつ、教育委員会のえらいさんになっちゃって、定年退職してすぐに、
何とか褒章っていう勲章を貰いやがったわ。笑っちゃうわよねェ……」(上巻P160)


とてつもなくエロくねえか、おい!
老作家はコレステロール値、中性脂肪値の改善法を「骸骨ビルの庭」で教えてくれる。

「寝る前に、根昆布を三、四個、水に入れた大きめのコップに入れておき、
朝起きてすぐそれを飲むのだという。
その水を飲むとき、戻って膨れた根昆布は捨てる。
昆布の味と粘りのある水を一ヵ月飲みつづけたら、
個人差はあるだろうが、確かに血中の中性脂肪値が下がる」(下巻P96)


調べたら根昆布ってやつが、高いこと高いこと!
いろいろな健康法を用いて宮本輝は、きっと百歳近くまで生きるのではないか?
わたしには宮本輝より長生きできる自信がまったくありません……。

「池波正太郎のそうざい料理帖」(池波正太郎・矢吹申彦/平凡社)

→美食家でもあった池波正太郎の好きなそうざい特集。
好きなものを食べるのは楽しいよね。
高価なものやめずらしいものを食べるのも楽しいけれど、
それよりもっともっと好きなものを食べるほうが楽しい。幸福である。
ひっくり返せば、高級食材を好きになる必要はない。
好きなものを食べる幸福を味わうためには、おのれの好物を知ることだ。
実のところ、好物を知るとは、おのれを知ることとおなじなのがおかしい。

池波正太郎の好きなそうざい料理の一つにポテト・フライがある。

「我家のは、親指の先ほどに小さく、
ころころに切ったジャガイモにたっぷりパン粉をつけて揚げ、
むかし通りに生キャベツにウスターソースをたっぷりかけて食べる。
食べると三十余年前の自分に返った気持がする」(P69)


「もう一つある」そうである。

「これも子供のころに、よく母がこしらえてくれたものだが、ナスのフライである。
ジャガイモがナスに変るだけの違いだが、これが生ビールにはよろしい」(P70)


人間は自分の味を、もっとも好物と感じるものなのかもしれない。
そして、自分の味は、自分しか知らないのである。

「世界で一番美しい病気」(中島らも/ランティエ叢書)

→どうして小谷野敦の読者はもてなくて、
中島らもの読者はもてるのだろうか?
どちらの作家もキチガイ(いい意味でよ、訴えちゃイヤ~ン♪)なのに、
読者におけるこの相違はいったいどこから生じるのだろう。
中島らもの愛読者は、小谷野敦のストーカーよりも高級な気がする。
本書のタイトル「世界で一番美しい病気」とは恋愛のことらしい。
恋愛ってなんだ? シュークリームみたいにどこかで売っているのか?
いな、選ばれたものしかできない崇高な行為――。
選民の中島らも氏はうっとりとつぶやく。

「恋は二日酔いに似ている」(P157)

ああん? コラ、もてない男を舐めんなよっ!
しばいたろか、ドアホ! ……ごめん、もう死んでいたのだったね。
ショボーン。なんか人生つまらん。
「恋は二日酔いに似ている」なんて気障なことが言える人生がうらやましいっす。

「風太郎の死ぬ話」(山田風太郎/ランティエ叢書)

→ぼんやり酒をのみながら肩ひじ張らないエッセイを読むほどの楽しみはない。
著名な娯楽小説家は「人生とは?」との問いにこう答えている。

「いやあ、それはいえないなあ。何とでもいえるもの。
(三十秒ほど沈黙)うーん、人生とは一言でいうなら「偶然」だな。
だいたい、人類が発生したのが偶然らしいんだがね。
世の中のあらゆることが偶然で、結婚ひとつ考えてみても、まったくの偶然だ」(P186)


いやあ、肩のちからが抜けていいな。なーんだ、人生は偶然か。
そうだよな、どの親のしたに生まれるかは、まったくの偶然。
しかし、この偶然でみなみな決まってしまうようなところがある。
いや、そうとはいえ、人生にどんな偶然があるかはわからない。
偶然に不幸になるのはいやだけど、偶然に幸福になれたら嬉しいなァ♪

「問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ」(春日武彦/光文社新書)

→病院の待合室で読んだのだが、笑いがとまらなくて困った。
周りからキチガイだと思われたら、どうしたらいいと言うのか。
精神科医の書いた本書は、あまり知られていない躁病についての読み物。
アマゾンのレビューで複数のキチガイ(=躁鬱病患者)が、
この著者(=精神科医)こそ躁病ではないかと批判しているのがうっすら怖かった。
キチガイはとんでもねえぜ!

著者の軽薄な姿勢が本書の魅力なのだが、そこがマジメな人には嫌われてしまう。

「精神障害の放火魔とは今まで何名か出会ってきたが、
躁病の放火魔とは出会ったことがない。
アルコール依存や精神遅滞、
人格障害プラス統合失調症といった連中であった」(P99)


患者さまを連中と見下してしまう本音が、この書籍のおもしろみであろう。

「わたしは躁状態の人たちを見るにつけ、
キッチュなものを目の前にしたときと同じ「ときめき」を覚える。
医療者の立場としてはげんなりしつつ、好奇心を抑えきれない。
ただしそれは怖いもの見たさに近い感覚である」(P188)


この本の魅力は、あろうことか精神科医がさらりと言い放ってしまうことである。

キチガイってさ、おもしろくね?

いま闘病中の患者がこの本を読んだら、かなりのダメージを受けると思う。
実際、アマゾンのレビューにそのような報告例があった。
一般人でも「キチガイはおもしろい」とはなかなか言えないのに、
医療従事者の立場で本音をさらけだしてしまう著者は魅力に富む人物である。
だけど、自分が患者だったらぜったいこの医者にだけはかかりたくない!
こんなに笑わせてもらった本は、ここ数ヶ月でないような気がする。

わたしのキチガイへのスタンスは一貫している。
自分はキチガイであると認めている。
自分はキチガイではないと宣言できる人間が、ホンモノの狂人なのだから。
人間はだれしも狂っている。
ところが、皮肉なことにおのれの狂気を自覚している限りにおいて正常なのだ。
繰り返すが、わたしは狂っている。キチガイだ。
だから、信頼できる人物から、「おかしい」と指摘されたら精神科に行くつもりである。
自分よりも他人を信用せざるをえないということだ。
とはいえ、自分から率先して精神科に通院する意思はいまのところない。

「その夜のコニャック」(遠藤周作/文春文庫)

→短編小説集。晩年の遠藤周作は不思議なものを愛した。
非合理的なもの、超自然的な現象を小説でよく描いた。
たとえば、幽体離脱、死後の世界、テレパシー、ユングの共時性(シンクロニシティ)。
わたしも非科学的なものが大好き。嘘が好きなのね。
遠藤周作のように巨大な嘘=カトリックに付き従うことはできないけれども。
合理的なものだけじゃ息が詰まる。

「たとえば去年だったかな。フランス国営放送の主催で、
筑波大学を使って日仏の学者たちがシンポジウムを開いたが、
その時この共時性やら偶然の符合が随分、深層心理学者たちに議論をされていた。
科学的な思考はたしかに正しいが、
しかしその思考や因果律ではわりきれぬ別の論理があることも、
やっと学者たちは真剣に考えてきたようだね」(P62)


共時性や偶然の符合がどこから来るのか?
小説家=嘘つきの遠藤周作は大胆な仮説を小説登場人物に言わせている。
共時性や偶然の符合は――。

「そうだ。歳をとって死ぬのを感じるようになったせいだ。
いや、むしろ死の次にある世界が我々老人に色々な信号を送ってきているためかもしれないね」(P65)


繰り返すと、共時性や偶然の符合は――。

「死の次にある世界が我々老人に色々な信号を送ってきている」(P65)

現実世界だけではなく、もうひとつの世界が死後にあるに違いない。
共時性や偶然の符合は、その世界からのメッセージだと小説家は言うのである。
河合隼雄でもさすがに言えぬことを遠藤周作はひょいと言い放ってしまう。
小説は嘘だから構わないのである。
だが、どうしてこの主張を嘘と断言できようか?
死後の世界を知るものは、だれもいないのだから。だれにも知りようがないのだから。

「主人公はお前じゃない」」(岩佐憲一/雲母書房)

→「書き直しを嫌う」「降りる癖のある」脚本家・岩佐憲一が最初に書いた最後の戯曲。
この劇作をかいたのち、程なくして脚本家は40歳で亡くなっている。
いままでてっきり自殺だろうと思っていたが、
いま調べたら2ちゃんねるにクモ膜下出血という死因が書かれていた。
自殺ではなかったのだろうか?
いや、自殺者を隠すために遺族がクモ膜下出血といつわるケースは少なくない。

どうして自殺にこだわるのかというと、この芝居は自殺者の話だからである。
自殺したいと願う若い男女がビルの屋上でたまたまめぐり逢う。
すったもんだののちに終幕直前、ふたりは「この人生は夢」という実感を抱くにいたり、
最後は手をつないでビルの屋上から飛び降りてしまう。
自殺する話を書いて自殺するなんて、物悲しいなと思ったものだが……。

この台本を俳優に手渡したとき岩佐憲一の口にした言葉がおもしろい。
「読んだらまず褒めること」「直しは一切なし、これが決定稿だ」――。
相当、精神的に追いつめられていたのではないか。
脚本家の仕事場には、ドラマの準備稿が大切に保存されていたという。
岩佐憲一は、書き直した放送台本よりも準備稿を愛したのだろう。
よく「降りる」作家だったらしい。
「岩佐さんが降りたおかげでライターになれたと言ってる人もいるけどね」
という証言が本書にもある。

放送業界というのは40歳で死んでもおかしくないところなのだろう。
大勢の人間の自己顕示欲がぶつかりあうので神経がよほど強くないと務まらない。
ものすごい競争過剰の世界。
だから、プロデビューするというのは、本当に恐ろしいことかと思われる。
だれかがプロとして新しく仕事を得ることで、職を失うものがひとりいるのだから。
脚本家なんてまったくつぶしがきかない生業。
そのなかで岩佐憲一は、脚本家のあこがれである連続ドラマを何本も書いている。
妻子までいるのである。
40歳で死んでも、めったに味わえぬ幸福な生涯だったのではないか。

この芝居台本も、はじめて書いたにしてはこなれている。
脚本家のこだわったテーマ「嘘」が随所にうまく使用されている。
男が催眠術をかけたため、女は嘘をつくとドジョウすくいを踊るようになる!
子供だましといえなくもないが。こういった単純な動作があんがい笑いを取るのである。
リアリズムにこだわらず、男女の心象風景を舞台で演じてしまうのもおもしろかった。
最後の夢談義も、現実から遊離した感じがうまく出ていたと思う。

本書には岩佐憲一が33歳だったころのシナリオ創作日誌が採録されている。
もとは「月刊ドラマ」に掲載されていたとのこと。
33歳の岩佐憲一は、仕事の依頼もひっきりなしで絶好調の模様。
長男が生まれる直前らしく、日常を描く筆致もはずんでいる。
当たり前だが、かれは7年後に自分が死ぬことを知らないのである。

「橋の上においでよ」(田向正健/「月刊ドラマ」88年5月号/映人社)絶版

→テレビドラマシナリオ。NHK。田向正健はこの作品で向田邦子賞を受賞する。
どうやら脚本家にとって最高の栄誉は、
日本アカデミー賞の脚本賞ではなく、こちらの向田邦子賞のようである。
野島伸司以外の有名脚本家は、ほとんどこの賞を受賞しているのだから。
田向正健は山田太一の戦友とも言うべき存在で、脚本の評価も高いらしい。
ならば、このシナリオのよさがわからなかったのは、こちらに欠陥があるのか。
当時最先端の文化(風俗)であったテレクラを舞台にした、若い男女のラブストーリー。
浪人生(堤真一)とスナック・アルバイト(南果歩)の青春色恋模様。

脚本家はテレクラを「まやかしの世界」の象徴と思ったようである。
テレクラで男女は受話器を介して話すが、それはまやかしではなかろうか?
現代(……当時なんだが)は、本当のことが見失われてはいないか?
このような固いテーマありきで、ご執筆なさったのだと思う。

じゃあ、本当のことはなにかというと――。
19歳のスナック・アルバイトは故郷に2歳の娘を残してきている。
行きずりの男とのあいだにできた娘で、いまは母親が養育している。
いかにも現代的なフワフワした浪人生とアルバイトが連れ立って故郷に向かう。
浪人生が本当のことを知りたがったからである。
実家で2歳の娘を見た南果歩のオッパイから母乳が染み出る。
このことに驚いた南果歩は「悲しみや喜びの涙ではなく、根源的な涙」を流す。
どうやらここが感動シーンらしく、異常なほど観念的な長文ト書きが見られる……。
南果歩のオッパイおよび情緒の異変を見た堤真一は本当のことに感動する。
構図が透けて見えるのだが、ううむ。
まあ、南果歩19歳のオッパイを見ることができたら、ゲージュツかどうかは――。

田向正健も山田太一とおなじ「本当と嘘」のテーマを持っていたことがわかる。
というか、ドラマ作家ならば、みなみな「本当と嘘」に深くかかわらざるをえない。
ドラマ自体が「本当と嘘」のテーマを内包しているからである。
ドラマは「嘘」であるのに「本当」以上に「本当」を表現していなければならぬ!
近松門左衛門が「虚実皮膜論」で論じたことである。

「橋の上においでよ」ではテレクラ常連の柴田恭平が堤真一にアドバイスする。
テレクラでの流儀はこうである。

「相手が嘘ついてると思たら、こっちは本当のことを話すんや。真剣にな。
悩みでもなんでもええ。嘘つきは真剣なもんに弱いんや。
もし向こうが本当の事を言うてるようなら、それに合わせてこっちは嘘を言うんや。
向こうがそうあって欲しいと思うこと言い続けるんや。
どっちにしても、向こうから飛込んでくるんや。
こっちは、鉄砲を構えて持っとたらええんや。
要は撃ち方の問題や。あせったらアカンで」(P101)

「海峡」(中島丈博/「月刊ドラマ」81年11月号/映人社)絶版

→テレビドラマシナリオ。NHK連続5回。昭和56年放送作品。
映画「祭りの準備」で知られる巨匠(らしい)中島丈博のシナリオを読む。
「祭りの準備」は11年前の夏、
萩で行なわれた原一男先生のシネマ塾で観たのが強烈な印象に残っている。

これは持論だが、嫌われないものは好かれない。
だれかから決定的に嫌われる、まさにその部分を好む層というのがいるのだと思う。
だから、みんなに好かれる(わかってもらう)ような作品を作ってはいけない。
それは結局のところ、だれの心にも残ることはないだろう。
わかってくれない人たちがいることを前提に創作をしないと無個性なものになってしまう。
スクール同人誌等に掲載される主婦の書いたシナリオがその典型。
嫌いになることさえできないほどの空疎なドラマを書くものがいるのだから。
嫌いにさえなれない! これは最高の侮蔑的評価なのである。

中島丈博の作品世界は好きになれない。はっきり言うと、ついていけない。
嫌いと言ってしまっていいのかもしれない。
けれども、この脚本家のドラマ世界を熱愛する層がいるだろうことはわかる。
それだけ個性が、つまり作家性が強いのである。
中島丈博でしか書けないドラマになっている。替えがきかないということだ。
こういう独特の世界観は、同趣味のプロデューサー、監督をことさら惹きつけ、
相乗効果でほかにない映像表現が可能になるはずである。
強烈な個性は嫌われることが多いだろうけれど、ときたま熱狂的な心酔者も現われる。
かれがプロデューサーや監督だったら、こんないいことはないのである。
集団制作というのは、個性の勝負なのかもしれない。
あんがい勝敗をわけるのは(思っているより)権力ではなく、個性なのではないか?
個性が強いというのはすごいことなのである。
これは教えてもらう類いのものではなく、努力うんぬんも関係ない。
持って生まれたものとしか説明がつかない。

中島丈博はオマンコが好きなのである。オマンコする男女を偏愛する。
中島ドラマに登場する男女はエッチもセックスもファックもしない。
何度も何度も、ねちょねちょとオマンコするのである。
シナリオを読みながら書いたメモに「いいかげんにしろ!」とある(笑)。
そのくらい癖が強いドラマを中島は、というか、むかしの脚本家は書いていたのだ。
制作者も、視聴者が見たがるドラマなど作る気はあまりなかったと思う。
そうではなく視聴者に「どうだ!」と見せたいドラマを作っていた。
そもそも視聴者だって自分の見たいものがわからないというのに、
どうしてプロデューサーがそれをわかるように思うのか。エリートの傲慢だと思う。

ヒロインの道子(藤真利子)は、オマンコそのものである。
中島丈博は楽しそうにオマンコを描く。

●道(夕刻)
道子が買物の袋を抱え、急ぎ足に帰っていく。
すれ違う義樹他若い漁船員たち、好色そうな眼で追う。
松夫「いい女だな!」
良介「亭主亡ぐして淋しがってるべ……義樹さん、慰めてやったら?」
義樹、赤らんだ眼で追う。
良介「後家になった途端にみんな眼ェつけてると」
松男「ガード固いんでねえの?」
良介「口説き方次第だべ!」
義樹の充血した眼。
道子の姿は横道へ消えていく」(P41)


思わずひるんでしまいそうな濃さでしょう。「充血した眼」って、おいおい(笑)!
漁船員たちには、女性はオマンコとしてしか見えないのである。
亭主を海難事故で亡くした道子とオマンコするのは流れ者の漁師、岩男(藤岡弘)である。

岩男「道子!」
両腕で奪うように抱きしめる。
道子も頬を濡らしながら、岩男の胸にすがりついていく。
道子「あんだ……あんだ!」
ふたり、再び男と女の熱い情念に惹き込まれて――」(P61)


ところが、道子の夫、勝年(井川比佐志)は生きていた!
多額の保険金をもらっているため、いまさら死んでいないとは言えない。
勝年は、妻に新しい男、岩男がいることを知っている。
オマンコの道子は勝年にも自分を与える。北海道の旅館で――。

勝年、考え込んでいるが言い知れぬ嫉妬が込みあげてきて、
勝年「あいつはどんなやり方してんだ、おい、どんなやり方してんだ?」
道子「別れます……あんだが生きてるんだもの、別れます……」
勝年「道子!」
乱暴に引き倒す。
道子の浴衣をはぐ。
道子「あんだ!」
勝年「俺だって、おめえのことどんなに恋しかったか知れやしねえど……
この身体にさわりだぐて堪んなかったんだど!(我無遮羅に抱く)」
道子「(泣きながら)許して……あんだ、許して!」
勝年もポロポロ泣きながら、ひしと道子を抱きしめている。
激しく泣き悶えて――
道子「許して……許して!」(P74)


翌日、北海道から戻ると今度はまた岩男に抱かれる道子は、まさに歩くオマンコである。
岩男も勝年が生きていることに薄々感づいている。

道子「あだしが北海道に何しに行ったか、話さなかった?」
岩男「知らねえって……そうしたことはなーんも知らねえ!」
乱暴に道子を押し倒し、覆い被さる。
道子「あんだ……ダメッ! ダメッ!」
だが、岩男はいつになく暴力的に道子の裸身をグイグイ抱きすくめ、攻め込む。
道子「あんだ……あんだ!」
救いを求めるように逃れようとするが、
岩男は太い両腕に道子をガッシリ抱きすくめ、攻めつけている。
道子「ああ……あんだ!」
喘(あえ)ぎながら、身悶えて――」(P76)


ふつうの感性なら「いいかげんにしろ!」と怒鳴りつけたくなりませんか?
ふたたび、これが中島丈博の作家性なのである。

なお、脚本家としての腕はむろん一流である。
なにより、人の出し入れがきちんとしている。ドラマ全体に動きのあるのがわかる。
再会するときなど、あっさり逢わせてはドラマにならないのである。
夜、追われる、誰だ? 追う、立場が逆転する、逃した、と思ったら再会してしまう。
このくらいもったいつけてから脚本家は岩男と勝年を再会させる!
勝年が生きているか死んでいるかで視聴者の気を惹く伏線もうまい。
きちんと登場人物に秘密を作っているのも、ドラマの王道である。
最後の男二人の入れ替わりは、まったく読めなかったので、意外性に拍手した。

ドラマ技法は、外枠のようなもので、一流脚本家はみなおなじことをしている。
問題は、なにを中身として入れるかである。
ここで作家性が問題になるのだろう。
作家がどう生きてきたか、生きているか、生きていきたいか、の問題になる。
なにが好きか、なにが嫌いか、の問題でもある。
中島丈博はオマンコが好きだからオマンコを描く――。
「日本ルイ十六世伝」(早坂暁/新潮文庫)絶版

→短編小説集。
早坂暁はなにやら特殊な性的嗜好を持っていることがうかがえるけれども、
作家はぜったいにその秘密を白状しないだろうし、
だからこそフィクションが書けるのだろうと思った。
作家はみなみな、なんらかの断じて言えぬ秘密を抱えているものである。
また、そうでなければ、人の胸打つ作品など書けないのだ。
早坂暁のそれはどうやら性欲に関することでなかろうかと思うが、
あんがいそう読者に思わせたいだけで、まったく別のところになにかあるのかもしれない。
それは本人が白状しない以上、決してだれも知りえぬ秘密である。
秘密を隠すことからフィクションは生まれるのだろう。
フィクションならぬファッションは、裸を隠すことである。

「女湯をのぞいていると、普段は魅力もない女が、
裸になったとたんに目を見張るような肉体を持っていて、
どんな美しい女も敵(かな)わないほど素晴らしく見えたりした。
また、美人だと思っていた女が、裸になると実に貧相な肉体で
顔の美しさなど消し飛んでしまったりする。
大てい顔の綺麗な女は、体が貧相だった。
そういった中で顔も魅力があるし、裸になると一層の魅力があったのが、
小林キミ子であった。
肌の白さはうなじのあたりで想像できたが、
裸になると想像以上の美しい肉体であった。
坂口は目がくらんだ。
一生に一度でいいから、あんな女を抱いてみたいと願った」(P161)


解説で脚本家の石堂淑朗がデンジャラスなことを書いている。ふきだした。
平成2年4月に書いたという。

「精薄の子を持つ親の唯一の願いは、子よりも長生きすることであると聞いて、
さもありなんと思ったが、実際寅さんの身内は彼が生きている限り、
一日として枕を高くして眠れないはずなのである。
しかし、われわれは寅さんを見て、大いに笑う」(P245)


「男はつらいよ」の国民的アイドル、寅さんを精薄(=精神薄弱)と言い切ってしまう。
客は精薄を見て笑っているという、ど真ん中ストレートの指摘である。
そもそも平成2年、精薄はまだ差別用語ではなかったのだろうか(調べたらぎりぎりセーフ)。
ちなみに、いまの若い人は知らないかもしれないから――。精薄とは知的障害のこと。

「幻の蝶」(早坂暁/大和書房)絶版

→映画シナリオ。といっても、映像化はされていない。
東京を壊滅させる脚本なので制作費が追いつかない。
映像化される見込みがないシナリオを書く意味を考えたが、
ほとんどのコンクール応募作がそう(=読まれるためだけに存在する)。
だから、この作品は早坂暁にとって書かなければならないものだったのだろう。
東京大地震が起こって首都が壊滅する日を描いている。
おそらく脚本家は「ガン=東京大地震」の発想を得たとき、このシナリオができたのだと思う。
発想がすばらしい。
地震判定会の委員長が数日以内に東京大地震が起こると予測する。
ところが、この委員長自身が、末期のガンで余命いくばくもないのである。

神谷「巨大地震が東京を襲うのは、間違いない事実です」
井上「しかし……例えば、患者がガンである場合、
それを正直に伝えるべきかどうか、それと似ていると思うのです。
正直に言うことは、かえって患者を混乱におとし入れます。そうではありませんか」(P161)


繰り返すが、「ガン=東京大地震」の類似はおもしろい。
どんなにいまをときめく成功者でもガンで余命宣告されたら終わり。
欲望渦巻く大都会・東京も巨大地震が起こったらおしまい。
しかし、日本人の4人に1人がガンで死ぬことがわかっている。
関東大震災以来、そろそろ大地震が来るのではともうずっと言われ続けている。
ガンの防ぎようがないのと、地震の回避が不可能なのも同一。
そう考えたとき――。

首相「長官、東京が消えるんだな。……いくらの損害になる」
長官「とても計算できないと、大蔵大臣が言っていました」
首相「……恐らく戦後日本が一生懸命働いて、
稼いだ外貨が一ぺんに消えてしまうんだろうね」
長官「多分」
首相「……われわれは何のために働いてきたのだ」
よろめきながら部屋を出ていく」(P207)


これは個人の生涯にも言えること。死んだらば、合財が一ぺんに消えてしまう。
いや、消えないものもあるのだが、なかなか存命時にはそこに目が向かない。
金では買えないものは、あんがい消えないものである。
早坂暁は五十を過ぎたころ末期ガンの宣告をされたことがあったという。
腹を開いてみたらガンではなかったという強烈な経験である。
この体験が、たぶんフィクションにも生きているのではないか。
脚本家は死を強く意識したことで、生の味わいも濃密に感じることができる舌を持った。
「幻の蝶」のみならず名作「夢千代日記」も、その体験からの影響がうかがえる。

話をノンフィクションにする。
いま実際に地震の予知ができたら、政府は都民に伝えるだろうか?
たしかに、そろそろ来るような気がしないでもない。
来てもぜんぜんおかしくないのは事実である。
格差社会の閉塞感だけではなく日本経済をも壊滅させてしまう東京大地震は果たして――。
おのれの死のように、いつまでも来ないだろうと我われは安心しているが、さあどうなるか?
実のところ、それが来る日はもう決まっているのである。
まるで死のように、いや、死ならば我われにも避けようがあるのか。

「暁は寒かった」(早坂暁/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。NHK前編・後編。昭和55年放送作品。
いまは怒りがないからいけないのだと思った。もっと日本人は怒らなければならない。
最近は怒るといえば、立場が下のものにしか怒らないではないか?
店員を土下座させて満足するような怒りではない。
もっと大きな理不尽なことに、しっかり怒ろう。
早坂暁は「暁は寒かった」で怒っている。憤怒からシナリオを書いた。
ドラマは実在の事件をモデルにしている。
無罪なのに裁判で有罪との判決を受け、夫殺しの罪で13年ものあいだ服役した母親――。
こういうことはいけない。こういうことがあってはならない。
人間が裁くのだから、どうしようもない、などとあきらめてはいけない。
運が悪かったんだよ、などと訳知り顔であきらめてはいけない。
結局は泣くしかないのだろうが、泣くまえに怒らなければならない。
泣くのは、怒って怒って怒って、相手に憤怒を刻み込んでからである。

ドラマで13年ぶりに出所した母親はあっけなくガンで死んでしまう。
娘の律子は、事件を目撃した。覆面男がお父さんを殺した!
しかし、娘の証言は裁判で採用されなかった。そのときから律子はうまく喋れない。
律子のことを好きな三波は、逢いに行こうと言う。
お母さんを刑務所に入れた人、第一審の裁判長に逢いに行こう。

三波「律ちゃん、会うんだ」
律子「会って……どうするの?」
三波「律ちゃんの思っていること、一番いいたいことを言うんだよ」
律子「今さら言ったって……お母さん死んじゃったわ」
三波「言うんだよ、なんでもいいから。そうでないと、律ちゃんは一生喋れないぞ。
自分の思っていることを言えなくなってしまうぞ。……いいね、行って言うんだよ」
律子「……(うなづく)」(P136)


律子は三波に支えられ、かつての裁判長に怒りを伝える。
裁判長は謝罪することもなく、大声を出して二人を追い返した。
早坂暁は、律子を流暢に喋らせるかといったら、そんな甘いことはやらない。
歌わせもしない。歌うのは三波だけである。
夜、海辺の二人。三波の歌声が静かに。「時には母のない子のように」である。

●夜明け
海に陽がのぼる。
浜辺の二人、ゆっくり立ちあがる。
日を見つめながら、波うちぎわまで歩き出す律子。
そして、三波もゆっくりと――」(P140)


早坂暁は最後まで怒っているのである。
いまのドラマやシナリオに接して思うのは、どれも怒りが足らないということである。
本気で理不尽なことに怒っている作品がない。
どうせそんなものだよ、大人になろうよ、テレビなんて娯楽だからさ!
そういう投げやりな感触を受けてしまう。
自戒をこめて思う。どうして我われは怒らないのだろう。
(なーんて、わたしは憤怒マシーンで、シナリオ・センターにいまでも怒っているけれど)
怒りほど創作のエネルギーになるものはない。
山田太一ドラマのどれほどが、脚本家の理不尽なことへの怒りから書かれているか。

脚本家の早坂暁は、原爆への怒りから人生をスタートしたのだろう。
今年80歳の早坂暁はまだ怒っている。

--最後に次の構想を。

早坂 春子の映画をつくりたい。

--春子さんは、早坂さんが5歳のときに、遍路道沿いにあった実家の前に捨てられていたのですね。

早坂 3歳違いの妹として一緒に育ちました。海軍兵学校に行ったあと、母親は僕の相手にと考えて、春子に生い立ちを正直に話したそうです。春子はすごくうれしそうな顔をして、僕に会いに行き、自分の口から話したいと防府を目指して出発したのです。なんとそれが8月4日です。

 8月5日に広島に泊まり、翌朝の臨時列車に乗るつもりだったとまでは推測できましても、どこで死んだのか、遺体はもちろん一片の骨も見つかっていません。ただ3000枚からなる素人の描いた原爆の絵のなかに、真っ黒に焼け焦げた男か女かわからない死体を見て、「春子の被爆死」を僕なりに理解できました。春子のドラマを通して、原爆はこうして人間を殺すのだと伝えたい。日本人でないと作れない唯一の映画ではないですか。

「今、平和を語る:作家・脚本家、早坂暁さん」
http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/talk/news/20090727ddf012070025000c.html



「天国の駅」(早坂暁/大和書房)絶版

→映画シナリオ。もっと人間を好きにならなくてはいけないとつくづく思った。
というのは、少し偽善的かな。
本音はもっと女を好きにならなくては! 変態にならなくては!
いい女を「あーしたい、こーしたい」と欲望するところからドラマが生まれる。
好きな女優にどんな変態プレイをさせてみたいかってことだ。
実際に女優とどうこうするのは、よほどの生まれではないとかなわぬ。
だったら、映画というフィクションで変態的願望を実現してしまえばいいのである。
早坂暁は吉永小百合が好きだった。
「天国の駅」で吉永小百合が演じるのは、いきがかり上、夫を殺さざるをえなかった女。
夫が戦争で下半身不随になったため平日の昼から自慰をする人妻である。

美しい未亡人は流れ流れて温泉宿の主人に見初められる。
主人は津川雅彦が演じる。
津川雅彦は吉永小百合をめとるために精神病院にいる妻を殺させる。
吉永小百合は夫を殺した罪悪感に苦しんでいる。
さあ、昭和の変態・早坂暁先生の性的妄想爆発シーンをご覧に入れよう(笑)!
かよ(吉永小百合)、福見(津川雅彦)――。

●大和関(=温泉宿)の一室で
かよを抱いている福見。
かよ「―――」
福見は激しく昂(たかぶ)っているが、かよはそれこそ人形のようになっている。
それどころか、そむけた目から涙がおちている。
福見「!……どうした」
かよ「―――」
福見「どうして、泣いたりするんだ!」
かよ「私を棄てて下さい」
福見「棄てろ?!」
かよ「私は、前の夫を殺した女です。棄てて下さい」
福見「……もう一度言ってみろ」
かよ「……私は夫を殺した女です」
福見「そうか、橋本はそれを知っていて、おどしていたのか」
かよ「お世話になりました。私はそういう女です。出て行きます」
福見「行ってみろ。逃げられると思うのか。おれは警察に知らせるぞ」
かよ「………」
福見「ここにおれば、おれは喋らない。一生黙っていてやる」
かよ「じゃ、わたしはあなたのなんですか」
福見「綺麗なおもちゃだ。たまらなく綺麗なおもちゃだよ」
かよ「!」
福見「もう、お前はおれから逃げられないんだ」
かよの身体にのしかかる。
かよ「待って下さい」
福見、かよの頬を打つ。
福見「おれが喋れば、お前は絞首刑だぞ。こうやって、首を絞められて死ぬんだ」
かよの首に両手をあてる。
かよ「………」
福見「苦しいか。それを思えば、どんな恥しいことでも出来るはずだ。
さあ、自分で自分を慰めてみろ」
かよ「!」
福見「さあ、するんだ!」
かよの手を、その上に持ってゆく。
福見「さあ、やってみろ!」
かよ「………」
福見「首を絞められたいのか」
かよ。自分で自分を慰めはじめる。
涙が流れる。
が、身体は正直に反応してしまう。
福見「そうだ! それでいいんだ」
電灯を明るくして、福見は喜んで見つめている。
福見「そうだ! そうだ!」
かよ、のぼりつめようとする。
福見は興奮して、かよにしがみつく。
福見「どうだ、どうだ。いいだろう!」
かよ、声をかみころすが、涙が流れおちている。
かよ「………」(P54)


書き写しながら、何度ふきだしたことか! 
「身体は正直に反応してしまう」ってなんだ(笑)!
早坂暁は、このシーンを見たかったから、シナリオを書いたのであろう。
おそらく男性自身をギンギンにエレクトしながら執筆したことは疑い得ない。
内心で脚本家は思っていたはずである。
吉永小百合を犯しているのは、ほかのだれでもない、自分であると!
性犯罪者と紙一重の脱法的欲望から、人は創作するのである。

もっともっと女を好きにならなければならないと強く反省した。
わたしはどの女優に、どんなことをさせてみたいか。
山田太一のお気に入りは八千草薫であった。
専業主婦を演じる八千草薫が不倫に走るシーンを見たいという山田太一のリビドーから、
名作「岸辺のアルバム」が生まれたということを忘れてはならない。
山田太一先生は、脚本執筆中に何度、頭の中で八千草薫を穢(けが)したことだろう。
脚本家は、脳内で女優の服をひんむきながら、作品を書くのではないか。
山田太一、早坂暁といった大先生とおのれを比較するのは傲慢もはなはだしい。
だが、わたしはどの女優が好きなのだろう。
たぶん、大好きな異性の俳優がいるものは、よいシナリオを書く下地があるということだ。
いまの女優にもっと詳しくならなければならない。
脚本家の女優(男優)への思いというのは、強烈な片想いである。
この片想いが、もしや数々の名作を生んできたのではないか。
山田太一は俳優が決まらないとシナリオが進まないという。
三谷幸喜もアテ書きしかしないと聞いている。

もっと女好きにならねば! 女優を知らねば! 変態にならねば!
映画シナリオ「天国の駅」から学んだことは多い。
もしやもしや、この記事でいままでだれも語らなかった真実のシナリオ作法を
書いてしまったのかもしれない。
セリフもト書きもどうでもいいのである。要は女だ! きみが女だったら男だ!

(おまけ)テクニック「顔を見せない」

「ドサッ! と音。
福見「誰だ!」
また、ドサッと、木から雪がおちる。
福見「雪か……」

●外で
雪の斜面を、男の足が、ゆっくりと、歩いている」(P54)


「新・夢千代日記」(早坂暁/新潮文庫)絶版

→テレビドラマシナリオ。NHK連続10回。昭和59年放送作品。
シリーズものになり、いささかのトーンダウンは否めない。
とはいうものの、このドラマでも早坂暁のテクニックは冴え渡る。
今回は内容には踏み込まず、ドラマ技法にだけ注意したい。
むろん、早坂暁が以下のことをテクニックと意識して書いているのではないと思う。
テクニックを念頭に入れながらしか書けないものは、せいぜいスクール講師どまりだろう。
ホンモノの脚本家はドラマ構造が身に染みついているから、
無意識にそう書いてしまうのだ。

・男物の靴を隠すシーン(P84)
警察から追われている男を夢千代の置屋「はる家」はかくまう。
そこに顔なじみの刑事課長がやってくる。
女所帯のこの家に男物の靴があるわけがない。
まず靴が見つかるかでハラハラさせ、見つかってからは芸者たちに嘘をつかせる。
むかしからあるコメディの手法だが、いざとなるとこう上手くは使えない。

・盗み聞き(P242)
重要な告白(長ゼリフ)をさせているときは、だれかに盗み聞きさせるといい。
きっと視聴者の関心も高まることだろう。

・伏線(=あえて隠すこと)
具体例を引用する。

●煙草屋旅館
庭に面した廊下のロビー。
沼田と有田久が、丹前姿で腰かけている。
沼田「ちょっとあんたに相談があるんやけどな」
久三「相談?」
沼田「あんた、行く先ないんやろ?」
久三「ありません……」
沼田「よっしゃ、丁度ええ仕事がある」(P97)


で、ぜんぜん関係のないシーンに飛ばしてしまう。
お次は演芸場の楽屋で、菊奴と旅役者の菊次郎。

菊奴「えっ、ほんと!」
菊次郎「シッ。大きな声出さんと……」
菊奴「(あたりをはばかりながら)ほんとにそうする気?」
菊次郎「今夜、白兎(=喫茶店)で待っとるから」
菊奴「判った。お座敷早う切り上げて行くだで。必ず行くだで」(P339)


なにをするつもりなんだろうと視聴者は気になるわけである。
チラッチラッとスカートの中や胸元を見せながら、男を惹きつけるようなもんだな(笑)。
いきなり裸になってはいけない。しかし、完全防備のイスラーム女性もまたいけない。
パンチラやオッパイでサービスしながら、視聴者を逃がさぬようにする!
これがテレビドラマ作家の仕事だろう。
映画であったら、ここまで観客に気を使う必要はないのかもしれない。
身銭を切った観客はやすやすと映画館を出られないだろうから。

・人の出し入れ
これを早くすると視聴者を惹きつけるが、やりすぎるとシーンを丁寧に描けなくなる。
早坂暁脚本の特徴は、出した瞬間に入れることである。
現実にはこんなことはないのだろうが、ドラマ世界では日常となる。

●白兎で
泰江と金魚が入ってくる。
(中略)
金魚、出て行こうとする。
クーちゃん「あのコーヒーは……」
金魚「あんたが飲んで」
と、ドアがあいて、外からアコを連れたタカオが入ってくる。
金魚「アコ。一緒においで」
アコ「いや。お兄ちゃんの部屋に行くんだから」
金魚「いいから、いらっしゃい!」
アコの手を引いて、出てゆく。
アコ「痛いよ、手が……」
驚いた様子で見送っているタカオ。
タカオ「…………」
クーちゃん「よかったら、これ飲んで下さい」
コーヒー一杯分、持て余している。
タカオ「え?」
泰江「どうぞ。一杯分余っているの」
ドアが勢いよく開いた。
菊奴がとびこんでくる。
菊奴「あ、いた、いた。ああ、いてよかったあ」
タカオ「ぼくのことですか」
菊奴「そう、あんた。すぐ来てよ、さあ」
タカオ「どこへ」
菊奴「どこへもなにもついてくりゃァすぐに判るで」
タカオの手をひっぱる。
タカオ「何の用か、ちゃんと言って下さいよ」
菊奴「この通り」
最敬礼する。
菊奴「人助けです。五人の人間がほんとに困っているんです。
どうか助けてやって下さい」(P272)


次のシーンはまったく関係のない警察署に飛ばしてしまう。
それにしてもすさまじい忙しさでしょう(笑)。
出した瞬間に入れる芸を見てみよう。これはもはや芸域である。

タカオ「?」
鏡の中に、アコが立っているのが見えた。
タカオ「アコ……」
アコ「さようなら」
ぺこんと頭を下げて、走り出ていった。
タカオ「さようなら?……アコ!」
立ち上がる。
その時、関川と君子が入ってくる。
タカオ「…………」
関川「タカオ!」(P315)


必然的にシーンがドタバタしてしまうので、丹念にシーンを描くことを好む作家はやらない。
具体的に言うと、山田太一はこれをやらない作家だと思う。
だから、早坂暁のドラマ技法が新鮮に感じた。
いまのテレビドラマは登場人物をやたら走らせるのね。
ドタバタさせ視聴者の気を惹いているつもりなのだろう。
おなじドタバタなら、ただ走らせるよりは、人の出し入れを激しくしたほうが上品である。
なお、山田太一も近作「遠まわりの雨」では視聴率を気にしたのか、
人の出し入れを激しくしていたことを指摘しておく。

早坂暁脚本のよくあるパターンをもうひとつ。顔を見せない登場である。
人をどう入れるかの技術である。

●はる家の前
木枯らしが鳴る中で、アコが立っている。
家の中をのぞいている。
アコの肩を叩く手がある。
アコ「!」

●はる家で
夢千代が、純考の伝記の本をひろげている。
夢千代「十一月二十二日、今日も終日曇、今宵、熱もなく、わずかにうれし」
夢千代の声「同じ日付で、そのまま同じ日記をつけようと思う」
「こんばんは」と声。
夢千代「はい」
台所に、藤森がアコを連れて入ってきている」(P184)


アコの肩を叩いた手の持ち主が藤森であったと少ししてからわかるのである。
ちょっとしたテクニックだが、視聴者への細やかなサービスである。
テレビドラマ作家は、可能なかぎり謎を作って、視聴者の気を惹かねばならない。

・同一シーン。
「夢千代日記」シリーズに何度も繰り返されるシーンがある。
連続ドラマの場合、繰り返しがドラマに親密感を抱かせるのだろう。

●朝の温泉町で
荒湯の蒸気が一段の寒気でモウモウと立ちのぼっている。
小夢が卵を茹でている」(P354)


何度も何度も、このシーンは繰り返される。
この手法は、連続ドラマでしか使えないものだが、非常に有効だと思う。

以上、テクニックをピックアップしてみた。
繰り返しになるが、テクニックはほとんど無意識に使えるようにならなければならない。
人の出し入れがドラマの要と気がついたのは最近である。
ところが、以前コンクールに応募した自作を読み返す。
意識せずとも、人の出し入れに気を使っていることに我ながら驚いた。
ドラマは小説と比較すると形式がある程度定まっている。
この定形がドラマを進展させてしまうことが多々あることに注意したい。
ドラマの形式がドラマそのものを進めてしまうのである。

「続・夢千代日記」(早坂暁/新潮文庫)絶版

→テレビドラマシナリオ。NHK連続5回。昭和57年放送作品。
難しいことはないのだけれども、実はそれがいちばん難しいのかもしれない。
シナリオというものは、読んだものを感動させてしまえばいいわけ。
プロデューサー、演出家、俳優、裏方みなが台本を読んで感動するのが最上なのである。
台本に感動したら、スタッフ全員が本気になっていいドラマを作ろうとするはずである。
プロデューサーも、まさか感動した作品を書き直せと脚本家に命じることはないだろう。
いくらプライドの高い俳優でも、ホンがよければ全力を出すに違いない。
演出家だって、台本に感動したら、その感動をなんとか映像で伝えようとするはず。
ものすごく簡単なことでしょう。しかし、これがもっとも難しいのだと思う。
シナリオだけを読んで感動するということはめったにないのね。

だから、山田太一はほんとうにすごいのである。
たまたま相性がいいのかもしれないが、どのシナリオも感動させてくれるのだから。
ほかの脚本家は、たしかにうまいとは思っても、感動まですることは少ない。
このため早坂暁の「続・夢千代日記」を読んで仰天した。
シナリオだけで打ち震えるほど感動したからである。
山田太一以外に、シナリオで感動を与えてくれる作家がいたとは!
わたしは早坂暁を発見したと思ったものである。

人間は孤独である。みなみなさみしい。寒々としたものをみな心に抱えている。
だから、他人を思いやる心に触れると涙が出てくる。
人間は自分のことしか考えない。だれの人生もうまいようには行かない。
ただひとつの救いが思いやりである。やさしさである。
さみしくてたまらないとき、ちょっとしたやさしさに救われた経験はありませんか?
やさしい人間はいい。自分がやさしくなれないから、やさしい人間はいいのである。

寒い冬のある日、若い女性がふたり露天風呂に入っている。
ひとりは俊子13歳。家出少女である。
たまたま夢千代に出逢い、いま家に泊めてもらっている。
その置屋で働く芸者見習いの小夢は19歳。両親はすでに物故。片足が不自由。

●野天風呂で
湯につかっている小夢。
そばに俊子もつかっている。
小夢「どう、温ったまった?」
俊子「(うなずく)」
湯気がもうもうとあがっている。
その湯気の中に俊子が立つ。
小夢「?!」
俊子「わたしのからだ、きれい?」
小夢「え、うん、きれいだ」
俊子、湯に裸身を沈める。
小夢「なんでそんなこと聞くの?」
俊子「きたないのかと思って……」
小夢「…………」
俊子「男の人は、からだをあげないと、ほんとに愛してくれないんでしょ」
小夢「あんた、そんなこと考えとるだか? まだ十三か、四でしょ」
俊子「…………」
小夢「どうして、そんなこと考えるだ?」
俊子「おねえさんは、誰かを好きにならないの。誰かに好きになってもらいたくないの」
小夢「……そんなもの、欲しがって、もらえるもんとは違うでしょ」(P386)


打ちひしがれている俊子を、小夢は温泉に誘ったのである。
少女も、孤独なのである。
夢千代の経営する置屋には孤独な芸者ばかりそろっている。
いや、人間はみな孤独だから特別めずらしいことではないのかもしれない。
一度死にそこねた(自殺未遂)ことのある芸者、金魚も孤独と向き合う。

●夜ふけの町
酔っぱらった金魚がひとり、帰ってくる。
金魚「あほう! さかり猫みたいになんだァ!
金でどうでもなると思ったら、大まちがいだぞ!……なんだァ、こんな金」
帯の間から紙幣を抜きとってばらまく。
金魚「なんだ、やるだか。よおし、こい」
誰もいないのだが金魚、相撲の構えで、身がまえるのだ。
金魚「さあ、こい。こいったら、こい!……女だと思って、馬鹿にすンな」
なんか声がふるえて、目に涙。
だれもいない路上で、独り構えて頑張っている金魚。
金魚「さあ、かかって来いよォ!……」(P391)


イイネ! 脚本家が乗りに乗って書いているのがわかる。
場末のヌードダンサー、アサ子は35歳。照明係の安ちゃんとつきあっている。
安ちゃんはまだ若い。
アサ子は、思いやりからあるヌードダンサー(ミッチイ)を逃がした。
ミッチイはどうしても人前で裸になることができなかったのである。
ばれると社長から殴られる。
安ちゃんが、自分と一緒に逃げたことにしたらどうだろうと提案する。
そうしたらアサ子がおとがめを受けずに済む。
他人を思いやる心である。

アサ子「(手に、紙片)“ミッチイと一しょに行きます”
……これ、どういうことだ」
安ちゃん「アサちゃんがミッチイを逃がしたのはええことだけど、
このまんまじゃ、あんたが、すごく殴られる」
アサ子「……あたしが逃がしたんだで、仕様がないよ」
安ちゃん「オレ、あんたが殴られるの、見とれん」
アサ子「それで、こんなことを……」
安ちゃん「そんなら、あんたが殴られんで済む」
アサ子「安ちゃん……」
安ちゃん「ほとぼりがさめた頃に、帰ってくるから」
アサ子「もう帰ってこんといて」
安ちゃん「!……なんでだ?!」
アサ子「ここへは、もう帰ってこんほうがええ」
安ちゃん「だから、なんでだ!」
アサ子「あたしと一緒にいたんじゃ、一生あんたは表へは行けんよ」
安ちゃん「オレ、必ず帰ってくるから」
アサ子「「帰って来たらいけんって言ったら! 帰ってきても、ここには居らん」
安ちゃん「どこへ行くだ!」
アサ子「さあ早う。ミッチイはええ子だから、ええ道連れになってあげて」
安ちゃん「アサちゃん……」
アサ子「さよなら。これ、ほんとにありがと」
安ちゃんの書いた紙片を胸に深く押し入れた」(P394)


好きだからこそ、相手のためを思って、「さよなら」を言う――。
現実にはなかなかあることではない。しかし、ドラマで現実なんて見たいだろうか?
孤独、孤独、孤独――。
年増の芸者、菊奴も孤独である。灰谷という成金の座敷に出る。
灰谷は若い小夢の水揚げを希望している。
一方で、もうとうに結婚などとは縁がなくなってしまった芸者が菊奴である。

●煙草屋(=旅館)の座敷で
酔いつぶれた灰谷を、ズルズル引っぱる菊奴。
布団が、隣室に敷いてある。
菊奴「お客さん、布団の中に寝んと、風邪ひくで」
菊奴も、腰をついてしまう。
菊奴だって飲んでいるのだ。
灰谷「寒いよォ………」
菊奴「だから、布団の中に入らにゃあ」
布団をめくって中へ入れようとする。
灰谷「寒いよォ」
菊奴にしがみつく。
菊奴「!……」
びっくりする。
灰谷「寒いんだよォ……」
しがみついて、泣いているのだ。
菊奴「! 泣かんでもええでしょう……」
優しい声をだす。
そっと抱いてやる。
灰谷「小夢……」
胸元に顔をうずめる。
菊奴「(小さく)うちは、菊奴だ……」(P419)


成金の灰谷は、(小夢ではなく)菊奴に結婚を申し込む。
小料理屋のひとつも持たせてやろうと言うのである。
もうとうに結婚などあきらめていた菊奴は、男の話がとても信じられない。
翌朝の喫茶店で。

灰谷「……あんた、ワシの言うこと本気にしねえのか」
菊奴「本気もなにも、突然そんなこといわれて、たまげているんだがね。アハハ」
笑ってみせたりしているが、まことにおちつかない。
灰谷「金は持ってるんだ。あんた見たろ」
目を伏せて言う灰谷。
菊奴「……あんた、ほんとにわたしでええの」
灰谷「ああ。あんだでええ」
菊奴「わたしは、小夢ちゃんでねえよ」
灰谷「ああ。(うなずく)」
菊奴「もう、ええとしだよ」
灰谷「見りゃア、判るだね」
菊奴「……(小さく)器量もよくねえ……」
灰谷「あんたは、あったけえ」
菊奴「あったけえ?……」
灰谷「あったけえんだ」
菊奴「うち、小せえときから、平熱が高かったからね」(P429)


ところが、現実はそんなに甘くない!
灰谷は農協の金を使い込んで逃亡中のお尋ね者であった。警察に引っ立てられていく。
夢千代は、置屋の芸者にほんとうのことを知らせるのはやめようと言う。
ひと晩の夢を見たのだということで納得させてしまおう。
ほんとうのことを菊奴が知ったら、あまりにも可哀想ではないか。
みなみな灰谷のことなど知らないと口裏を合わせる。日陰者のやさしさよ!
深夜――。朝感じた幸福はいったいどこに行ってしまったのか。
菊奴はつぶやく。

菊奴「みんながそういうんだから、ほんとにうち、夢見とったんだなあ」
お茶漬を食べる菊奴。
――泣いているようだ」(P442)


ままならぬ人生を孤独な人間が生きるには、だれかのやさしさが必要なのである。

以下にこのシナリオで学んだテクニックを整理しておく。
ドラマ技法とは、いかにして視聴者を引っぱるかである。逃がさないか。

喫茶店で「いらっしゃい」と店員の声。
奇子「!……」
誰の姿を見たのか息をのむ。
と、来た人物を視聴者に隠すのである。
それからストリップ劇場にシーンを移す。
奇子が入ってきてアサ子に耳打ちする。
この時点でも誰が来たのかはわからない。
奇子とアサ子はストリップ小屋を出る。
誰が来てなにがあったのかまだわからない。
次は夢千代の置屋にシーンを飛ばし、いったん伏線を切ってしまう。
しばらく立って、この置屋に電話が来る。
金魚が電話に出てなにかを知らされる。金魚は置屋を飛び出す。
しつこいようだが、まだ誰が来たのかはわからない。
ようやく喫茶店にシーンが戻り、誰か来たのかわかるという仕組みである。
引っぱりかたがうまいよな~。
視聴者に「教えない」=「あえて隠す」というのがポイントなのだろう。

もうひとつのテクニックは定番の「すれちがい」。

●川原で
岩場に腰をおろして、川面を見つめている俊子。
橋の上を菊奴と上村が通りすぎていく。
が、お互い気がつかない」(P358)


俊子は上村を探すために家出をしたのである!
要は、焦らしであろう。観客に気を持たせる。簡単に逢わせてはいけない。
いかにお客さんの予想を裏切るか。

ドラマとは、人間の喜びと悲しみを描くこと!
早坂暁脚本を読んで、あらためてこれしかないと思った次第である。
我われは毎日、いろいろなことに喜び悲しむ。他人の哀歓を知ることもあろう。
どうして人間は喜び悲しむのかはわからない。
けれども、ドラマとしてうまく描写された人間の哀歓は我われの胸を打つ――。

(注)「夢千代日記」と「続・夢千代日記」は同一文庫内に収録されている(新潮文庫)。

「夢千代日記」(早坂暁/新潮文庫)絶版

→テレビドラマシナリオ。NHK連続5回。昭和56年放送作品。
ひと言でどんな話かといえば、温泉町に人がやってくる物語である。
夢千代(吉永小百合)は温泉町の(芸者を派遣する)置屋のおかみ。
哀しいことに夢千代は、癌で余命宣告を受けている身。
原爆を母の胎内で受けたためである。
早坂暁は「夢千代日記」で、夢千代と周辺の人物の哀歓をしっとりと描く。

たとえば、いま「夢千代日記」の企画書を出しても通らないわけね。
「暗いのはダメ」と放り投げられてしまう。
「こんな暗い時代だから明るいのを書いてよ」とプロデューサーは言うだろう。
いい大学を出て、大きな会社に入った人間の考えかたである。
ずっと日なたを歩いてきた人間には、日陰の魅力がわからないのだろう。
ぜんぜん人間も人生も見えていない。
不況のいまだからこそ暗いドラマを観て、みんなで泣かなければならないのに。
不景気だという。ものが売れない。少子高齢化で先行きが危ぶまれる。
いまは冬の時代である。冬に枝豆とビールで夏のふりをしてはいけない。
いまのテレビ局がやっていることだ。美男美女の恋愛や、走る刑事はもういらない。
冬には、冬をしっかり味わうことである。
いまという時代にこそ「夢千代日記」のようなドラマが作られなければならないと思う。

「夢千代日記」の舞台は東北にある(とされる)ひなびた温泉町の冬―ー。
早坂暁はテーマ(らしきもの)をセリフに刻み込んでいる。
裏日本(本州の日本海側)での母子の会話から。息子は東京から帰郷中である。

泰江「泰男さん、あなたはすっかり、表日本の人になっちまったんだね」
泰男「表日本?」
泰江「あなたは、冬になると、いつも口惜しがっていたよね、
こっちは雪ばっかりなのに、表側はいつも晴れている。
あたしも、そんなに思った時期もあったけど、今はそんなに思わないね、
冬は寒くて雪がふる。そのほうが当り前じゃないかと思うよ。
いつも晴れているほうが、おかしい、間違ってるんじゃないかねえ」(P179)


早坂暁は「夢千代日記」で冬の美しさを描いているのである。
日陰の涼しさ、病身の切なさ、年老いた芸者の悲哀、幸福ではなく不幸の味わいを。
華やかな職業で活躍する人間のドラマばかりではいけない。
ひっそりと日陰に咲く花の魅力にどうしてみな気がつかないのだろう。
気づかないのなら指摘しよう。この花を見よ! この美しさはどうだ?
早坂暁の意気込みを「夢千代日記」からひしひしと感じる。
昭和56年の日本人は、日陰の花の美しさに気づく内面の暗さを持っていたのだろう。
このドラマが大ヒットした理由かと思われる。

早坂暁はドラマ・テクニックもまた一流である。
人の出し入れが極めて巧妙なのである。
ドラマとは、だれかとだれかが「逢う」こと、そして「別れる」こと。
だから、人の出し入れの巧拙が、ドラマの出来を左右するのである。
極端にいえば、ドラマの原形はこうである。
喫茶店でマスターと客が歓談している。
そこに常連のひとりが「大変だ!」と駆け込んでくる。これがドラマだ。
「そりゃあ大変だ!」と喫茶店を飛び出していくものもいよう。
ふたたび、これがドラマだ。
だれとだれをどこでどう出逢わせ、どう別れさせるかが、ドラマの骨組みなのである。
A、B、Cという人間がいたとする。
三人をどうくっつけ、どう離すかで、いくらでもドラマが作れるのである。
「A→B」「A+B←C」「A+B→C」「A←B→C~A+C」
大量のドラマ・パターンが生まれるはずである。

「人探し」パターンのドラマである。
情人を殺した市駒という元・芸者をめぐってドラマが進展する。
そこまでやるか? というくらい市駒でドラマを引っぱっていた。
いまならプロデューサーから、もっと展開を早くしろと怒鳴られるかもしれない。
全5回なのに、夢千代と市駒が対面するのは第4回である(笑)!

最後に繰り返す。
いまこそ「夢千代日記」のようなドラマが必要とされているのではないか?
こういうドラマを書いてみたいと強く思った。日陰に咲く花の物語を、である。

「私は貝になりたい」(橋本忍/朝日文庫)

→映画シナリオ。何度もリメイクされているが、最初はTBSのテレビドラマとして放送。
「ドラマのTBS」の礎(いしずえ)となった作品でもあるという。

反戦メッセージよりなにより、とにかくうまいシナリオである。
それも当たり前の話で、橋本忍は日本を代表する映画脚本家。
厚いシナリオ作法書を読むより、この1冊のシナリオを分析したほうがよほど勉強になろう。
橋本忍が観客心理をどう操作していたか。映像のテクニックとはいかなるものか。
これから見ていきたい。

橋本忍は「焦らす」ことのメリットを熟知していた。
たとえば、あなたがだれかを好きになって告白したとするでしょう。
その場で返事をもらうのはつまらないのね。
「しばらく考えさせてください」と焦らされるとハラハラするのではありませんか?
つきあってくれるのか、振られてしまうのか、毎日気が気ではないと思う。
この心理を観客に持たせたら、作品はおもしろいものとなる。

主人公の理髪店主人・豊松へ来る召集令状がまずそうである。
そのまえにお客のひとりが、赤紙が来るのではないかと冷や冷やしているシーンがある。
豊松が敵兵を処刑するシーンも同様。
すぐに実行させたりはしない。さんざんためらわせる。
役割を交替させられるという寸前までいかせ、それでもやはり処刑させているのがうまい。
処刑シーンは映さないで、原爆キノコ雲を流す(敗戦までの時間経過)のも巧妙。
のちに豊松の銃剣は敵兵の右腕をかすっただけだったという
「本当のこと」をばらす手口も実にうまく、橋本忍の才能には恐れ入る。
戦後の裁判でも、豊松の死刑判決まで、これでもかとさんざん焦らしている。
刑務所での、かつての上官との面会も、最初豊松は断わっている。
最後に豊松は死刑になるのだが、それまでに二人が先に死刑になっている。
これも言うなれば、主人公の死刑執行までの焦らしだ。

これは焦らしとはいえないが、死刑のまえに豊松の妻は夫の助命嘆願書を集めている。
妻にもこれでもかと苦労させるのである。ようやく二百の署名が集まり、妻は思う。
「父ちゃん、助かる……これで助かる!」
こうして盛り上げておいてから、ひっくり返し、豊松を死刑で殺すのだから!
橋本忍はまさしく観客心理を手玉に取っている。
ラストも死刑を執行してから、なにも知らない妻の平和な日常光景を映している。
そこに豊松の声(=遺書)をかぶせるのだから、泣かない観客のほうがおかしい。

話は前後するが、映画冒頭の回想もうまい。
召集令状をもらった豊松は、妻にあたまを丸刈りにしてもらう。
ここで6年前、おなじように髪を切ってもらったときまで時間を戻す。
夫婦のなれそめを紹介する。さらりとやっているが、見事である。

橋本忍はテクニックが天才的にうまい作家だが、むろんそれだけの人間ではない。
人間存在の根本に怒りがある。理不尽なものに対する心底からの憤怒がある。
これは橋本忍ばかりではない。木下恵介も、山田太一も、倉本聰も、早坂暁もおなじである。
人間をどうしようもない状況に追い込む「大きなもの」を憎み、
そこでどうしようもなく足掻く人間への深い眼差し=慈悲を持って創作している。
コンクールで賞を取りたいだけの連中とは格が違うのである。
強く訴えたいもの、どうしても伝えたいことを、作家はそれぞれ持っている。
逆に言えば、いまの脚本家は、先輩作家とは異なり熱いものを持ってないのだ。
これは時代状況も大きく関係している。
戦争は不幸である。戦争でいかに多くの人間が理不尽な苦しみを味わったか。
しかし、戦争のおかげでどれほどの作家が後年、豊かな実りを収穫したことか。

橋本忍はなにか大きなものを憎み、なにか小さなものを愛すことで
「私は貝になりたい」を書いている。
テクニックよりも怒れ! テクニックよりも愛そう!
このたび先輩脚本家の橋本忍から学んだことである。

(追記)ひとつ書き忘れた。ト書きの効果的使用法。
豊松が刑務所の面会室で久々に妻と再会するシーン(P128)。
言葉にならないシーンである。
しかし、ト書きにただ「泣く」と書いてしまったら
演出家にシーンの重さを理解してもらえないかもしれない。
だからであろう。橋本忍は、どのように泣いているかの詳細をト書きに書いている。
ここは丹念に撮ってくださいというシーンは、ト書きに厚みをもたせればいい。
たいへん勉強になった。

「あなたが子どもだったころ」(河合隼雄ほか/講談社+α文庫)

→対談集。河合隼雄の言いたかったことは、プラスはマイナスということ。
マイナスはプラスということである。
もちろん、プラス=マイナスではない。
しかし、やはりプラスはマイナスであって、マイナスはプラスである。
なんだか禅問答というかインチキめいているでしょう。
ウソというよりも、いかがわしい。
人間の苦悩と、とことんまで、宗教的深層まで向き合った河合隼雄の至った境地である。

恋愛は楽しいでしょう。男女がむつみあうのは幸福である。
ところが、その幸福がそのぶんだけ(生別死別を問わず)別れるときには哀しいものになる。
仲の良い家族も同様。愛する家族と死別する哀しみほど辛いものはない。
だったら、むしろ仲の悪い家族のほうがよかったという話になる。
人生もおんなじ。成功者は死ぬのが、えらく怖いと思うな。
これが失敗者だったら、死に救済さえ見るかもしれないわけでしょう。
失敗続きでどん底にいるものには、死が温かい光の洪水のように見えることだろう。

本書では、いわゆる成功者が子ども時代を河合隼雄に語っている。
みなみなマイナスのことを記憶している。
マイナスの事件が、どの人のこころのアルバムにも大切にしまわれている。
誕生日のプレゼントでなにをもらった、なんていうことはだれの記憶にも残っていない。
人生ではマイナスのことのほうが、よほど滋養になるのである。
そんなのはウソだとあなたは言うかもしれない。
河合隼雄は物怖じせず、ええウソですわ、ばれましたかと応じるだろう。
すると、あなたはかならず、いやウソではない、真実であると反論したくなると思う。

「でも、人間て、傷を中心に成長するでしょう。うまくいけばね。
傷から堕落する人と、傷から成長する人とあるから、
どちらになってるかわかりません……」(P77)


ならば、人を傷つけることでさえ構わないということになってしまう。
いや、構わないのである。どうしてもそうせざるをえないのなら人を傷つけてもいい。
傷つけた結果、相手がどうなるかは、もはや人間の手に及ばぬ領域なのである。
河合隼雄は、ここまで見通しているのだから人生の達人というほかない。

「シナリオ人生」(新藤兼人/岩波新書)

→新藤兼人の人生を見ても、創作者にとって重要なのは女なんだよな。
女に逃げられるようじゃダメだ。絶縁されるようじゃいけない。
才能ある男には、かならず女が引き寄せられる。くそお、だれもいない。
おれには才能がないというのか? バカヤロウ。
シナリオとは女だ。小説も女だ。芸術的なるものはみんな女、女、女!
おれはダメか、そんなにダメか、女に聞きたい。

関係者スジがお読みだといけません。ひとつまえの記事を急いで訂正する。
結論をまず言おう(ハァハァ、ゼィゼィ)。

脚本は直すほどよくなる!

大勢の意見を取り入れれば、それだけ作品がよくなるのは必然でしょう。
わたしも以前「富士は待っている」という応募シナリオを書いたときに経験した。
とある信頼できる友人に読んでもらったら、ある登場人物の年齢設定がおかしいと言われる。
15歳ではなく12歳にしたほうがいいのではないか。
考えてみたら、たしかにそうだと納得した。セリフなどシナリオを書き直したのである。
直したシナリオはまえよりもよくなったと思ったものである。
だから、しつこいようだが――。

脚本は直すほどよくなる!

でも、まあ、ごくたまにそうではないケースもなくはないのではないか。
まえの記事ではそういうことを言いたかったのである。
少しお酒をのみながら書いていたことも白状しておこう。
わたしはパンダだから(プロフィール写真参照♪)黒い部分と白い部分がある。
昨夜は黒いYonda? が多めに出てしまったようである。湿疹のようなもの(笑)。

しかし、脚本の直しはお金のためという考えは、精神の健康によろしいのではないか。
自分を傷めないし、他人も憎まないで済む。
脚本家は芸術家というよりも、お金をもらう専門職=職人なのであろう。
なるべくならどんな直しの要求にも、おおらかに応じたいものである。
意外に思われるかもしれないが、あんがいできるのではないかとも思っている。
わたしは映像にこだわりがないでしょう。映画オタクではない。
だから、むしろ職人には向いているのかもしれない。
仕事として専門の脚本を仕上げる。のちの映像化は別の専門に任せるという心持。
これを黒いYonda? が言うならば「映像は、ま、どうでもいっか」となり、
はなはだ聞こえがよくない。
白いYonda? になろう。映像作品の特徴は集団制作であること!
だから、もう三度目になるが――(重要なセリフは3回言わせる!)。

脚本は直すほどよくなる!

仕事しまっす。シナリオのご依頼はメールください。
ない? はい、わかりました。コンクールに何本も応募します。
やりまっす! がんばりまっす! (`・ω・´)
「新藤兼人 人としなりお」(シナリオ作家協会)絶版

→いままで感想を書いた新藤兼人のシナリオはみな本書に収録されたもの。
この本にはシナリオ以外に関係者の証言が載っている。
参考になったものを引用しておく。
強調しておきたいが、以下は著名な映画人の発言である。
断じて脚本家予備軍にすぎぬわたしの意見ではありません(笑)。

吉村公三郎監督のご発言――。

「僕の持論は映画の要はシナリオにあるということです。
建築に例えるならシナリオは設計図だ。
設計図がよくなきゃ良い建築は出来ない、そんな話をしましてね。
監督なんてものは現場監督みたいなもんで、
一、二年助監督をやれば誰でもなれるが、
うまいシナリオというものは誰にでも書けるもんじゃない。
これだけうまいシナリオが書ける君(=新藤兼人)なら監督になることなんか簡単だ」(P353)


よくぞ、言ってくれたと思いますよ。
わたしは映画監督が芸術家だということが、どうしてもよくわからないのです。
あんなもの、現場監督みたいなものでしょう。まとめ役というだけ。
ぜんぜん芸術家でもなんでもない。コミュ力があればいいだけの存在。
どうして多くの人間が映画監督にあこがれるのか、まったくわからない。
わたしは一度として映画監督になどあこがれたことはない(ホントにホント!)。
あんな面倒臭そうなこと、いったいどうしてみな希望するのか。

「脚色っていうのは、簡単にすることなんだ。
勘違いしちゃいけないんだよ。
ややこしい入り組んだ探偵小説に尾ひれを付けたらなおわかんなくなるよ」(P360)


いまの映像業界は、半分以上が原作ものの脚色でしょう。
だから、メモしておいた。
わたしは脚色をするなら、大きく変えないと気が済まない。
にもかかわらず、自分の書いた台本を現場で変えられるのはフザケンナ!
「それおかしくない?」と、ある友人から言われました。おかしくないのっ!

つぎはシナリオライターの松田昭三さんのご発言。

「氏(=新藤兼人)と初めて脚本を共同執筆したのは
テレビ映画『あゝ同期の桜』だった。
監督の関川秀雄氏が私に本の直しを要求した。
私が監督の意向を氏に伝えると、
「一字も直す必要はない。撮り方を教えてやるから来いと云え」
と言うのが氏の返事であった。
私は「直さないと言っている」とだけ監督に氏の返事を伝えた。
プロデューサーが監督と私を料亭へ連れて行ってご馳走してくれた。
酒がはいると監督は私にからみ始めた。
氏に本を直すよう頼んでくれと執拗に迫る。
虎の威を借りるようでいやだったが、
「撮り方を教えてやると言われるだけですよ」と言ってやっとけりをつけた。
直し無しで撮影され、結果はすこぶる好評で「さすがは新藤兼人の脚本」
と志賀信夫氏の批評が「朝日」に載った。
ところが二本目を私が単独で書くと、さんざんに仇をとられた。
監督はかさにかかって直しを果てしなく要求し、結果も惨めなものとなった。
なさけなかった」(P424)


この証言からご理解いただけよう。
脚本家は、自作を書き直せといろいろなところから言われる。
これは断じてシナリオをよくするためではない。

脚本の直しは権力関係だから!

巨匠の新藤兼人の脚本なら直しはなし。
新人作家のシナリオだったら、これでもかと書き直しを命じられる。
これは決して作品をよくするためではない。
権力関係を確認するための作業にすぎぬ。
権力が下のものは、お偉いさんに従わなければならない。
これがシナリオの書き直しの実態である。
要はプロデューサーも監督も、作品に自分の痕跡を残したいのである。
だからだから、新人脚本家には無茶な注文を出し、ベテランにはなにも言えないのである。

わたしもこれから脚本家として無数の「書き直し」をすることだろう。
(おいおい、ライターになれるかどうかもわからないんだぞ!)
何度でも「書き直し」をしてやろうじゃないかと思う。
だが、それは決して作品をよくするためではない。
権力関係が、この作業を必要としているのだという諦念からである。
お金をもらうために仕方なくやるのだ。
身もふたもないことを言うと、
プロデューサーや監督はもっともクリエイティブな仕事をする脚本家に嫉妬しているのである。
自分が書けないから、ならせめて少しでも多く、おのれの存在を作品に込めようとする。
業界定番の「書き直し」など、この程度のことだと思う。
マジメに本気で「書き直し」に向き合ったら、あっという間に脚本家は壊れてしまうことだろう。
おれはぜったい壊されないからな! とひそかに宣言しておく。

「午後の遺言状」(新藤兼人/シナリオ作家協会)絶版

→映画シナリオ。あこがれの日本アカデミー脚本賞を取った作品である。
巨匠に対して失礼なのだろうが、新藤兼人作品はセリフがうまいわけではない。
山田太一ドラマのような、役者が口にして酔えるセリフは書いていない。
むしろ、反対に抑制を効かせている。なるべくセリフに頼らないようにしている。
映画作家・新藤兼人にとって、セリフはト書きの接着剤なのではないか?
ある描きたいシーン(ト書き)と、べつの描きたいシーン(ト書き)がある。
このふたつのシーンを接続させるためだけにセリフを用いてるようなところがある。
新藤兼人は俳優に沈黙の演技を求めるのである。
言い換えれば、言葉にならない感情を演じさせようとしている。
「午後の遺言状」における名シーンは、すべてト書きのみなのだから。
「老人四人が踊るシーン」(P313)
「老人四人が夕方、歌いながら歩いてくるシーン」(P314)
「若い男女の足入式(結婚式のようなもの)=若い男優女優のヌードがある」(P327)

ふたつのシナリオ作法があるのだろう。
このセリフを言わせたいと思ってシナリオを書く(山田太一ドラマ!)。
わたしはいままでこの作法に従っていた。
だから、このシーン(ト書き)を描きたいのでシナリオを書く(新藤兼人!)。
後者のシナリオ作法は新鮮であった。
むろん、テレビと映画の違いなのだろうが、どちらも書けるに越したことはない。
このたび新藤兼人からはト書きの重みを学んだように思う。

ひとつ、うまい回想テクニックを(自分のために)引用しておく。
「現在の走るタクシー」→「タクシーがとまる」→「タクシーを下車する回想の人物」。
乗り物つながりで、現在のシーンを移行する手法は知っていた。
おなじやりかたで時間も処理できるとは勉強になった。

○直江津駅前のタクシー
矢沢が、運転手に聞いている。
矢沢の声「町を出て、海の方へ向かってくれと仰有ったそうです」

○タクシーが町を出て海辺の道を走る
矢沢が助手席に乗っている。
矢沢の声「走っているうちに、この辺にどこか宿はないかと言われて、
運転手は海岸の丘の上にある民宿へ着けたそうです」
タクシーが小さな民宿の下の道へ着く。
下りてくるのは藤八朗と登美恵」(P332)


「竹山ひとり旅」(新藤兼人/シナリオ作家協会)絶版

→映画シナリオ。
芸術ジャンルのひとつである映画に、目的のようなものがあるとすれば、
おそらくそれは人の気持を動かすことであろう。
ピアノで人の気持を動かすものがいる。三味線でおなじことをするものもいよう。
映画は、映像(=役者、言葉、風景、音楽を含む)で人の気持を動かせばよろしい。

この作品は津軽三味線の名演奏者、高橋竹山の来歴をモデルにしている。
竹山は盲目のため三味線を習いボサマ(乞食)になった。
ボサマの竹山は、見知らぬ門前で三味線を鳴らし、家の人が米や金をくれるのを待つ。
映画作家は、身体障害&貧困をアピールして、観客の気持(同情)をまず惹いている。
こう書くと身もふたもないが、作家とはそういう生業なのである。
観客の気持をつかむためならば、どんな不幸も有効利用しなくてはならない。
ひどくあさましい所業である。

竹山は、おなじく盲目の妻をめとる。夫婦でボサマをするのだ。
ある豪農の主人のまえで若い盲目夫婦は芸をする。
米をやると言われて新妻が主人について行く。ふたりは土蔵に入って行く。
竹山=定蔵、妻=ユミ江。

○裏手の土蔵の前
主人、戸を開けて、
主人「さあ、遠慮はいらない。なかへはいんなさい」
ユミ江、はいる。
主人、戸を閉める。

○表
定蔵、莚(むしろ)に坐っている。
鶏が二匹やってきて、きょとん、と首をのばして定蔵を見る。

○土蔵の前
閉まっている戸。
静寂。

○表
定蔵、コッ、コッ、コッ、と鶏を呼ぶ。
鶏は警戒している。

○土蔵の中
ユミ江、裾を乱して倒れている。
その枕許に、一升ばかりの米を包んだ袋が投げ出される。

○表
何におどろいたか鶏がぱっとはばたいて逃げる。
定蔵、立つ。
不安なかげが面上をよぎる。

○土蔵の前
戸が開いて、米袋をかかえたユミ江が出てくる。
たった二段の石段をふみはずし、つんのめる。
米袋が投げだされたはずみに避け、米が散乱する。
それを、定蔵の、おぼろの目がしっかりととらえた。
定蔵は、駆け寄って、ユミ江を抱き起こそうとして体にふれた。
ユミ江「ああッ」
と、けもののような叫びをあげて、定蔵の手を払い、大地にしがみついた。
定蔵「ユミ江……」
声が、ききとれないほどに震えた」(P233)


このあとふたりが海辺で抱擁する感動(させるための)シーンとなる。
抜粋したのは、この映画でいちばん好きなシーンである。
メクラの新妻が、夫がすぐそばにいるところで、金持の旦那から手篭めにされる!
不謹慎だけど、たまらないね。ぞくぞくする。
映画芸術というのは、ポルノやストリップに通じるいかがわしさがあるように思う。
実際にレイプをしたら犯罪だが、シナリオに書くのなら合法どころか芸術的行為になる!
経験したことはないが、どちらも似たような快楽があるのではないか?
レイプするのとレイプシーンを書く(撮る)快楽はあんがい同質のものではなかろうか。
少なくとも、欲望に関していえば性犯罪者も脚本家もおなじものを有しているはずだ。

このあとの映画は、
竹山に寄せる実母と第二夫人(再婚相手)の愛情が「泣かせどころ」となる。
信頼していた人間に裏切られ竹山は、すべてを投げ出し放浪する。
それでも人様の門前に立たねばならない。
この家の者は、竹山を怒鳴りつける。「どめくら、行きやがれ!」
こうして竹山を落としておいてから、母と妻との邂逅シーンを作るのである。
三人は砂浜で歌う。クライマックスである。

「哀切かぎりない「十三の砂山」をトヨ(母)は体をふるわせて歌う。
フジ(妻)がそれにしたがう。
定蔵の三味線に撥(ばち)がはげしくぶっつけられる。
まっ黒な海が襲いかかるようにうねる」(P258)


全員集合パターンのラストである。
黒い海をまえにしての絶唱は、クサイといえばクサイが、
製作に巨額の費用を要する映画芸術は、
元を取るためにも、この俗なる部分が不可欠なのだろう。
映画芸術は少数の理解者を相手にしていればいいものではない。
なるべく多くの観客の気持を動かさなくてはならないのである。
製作者と観客の共通する部分は、おそらく人間の俗臭だと思う。
新藤兼人の愛したのも、この人間の俗臭なのであろう。

「本能」(新藤兼人/シナリオ作家協会)絶版

→映画シナリオ。
物語は、原爆の後遺症で性的不能に陥った「先生」が、
別荘にお手伝いとして来る「おばさん」のやさしい助けのおかげで性的本能を取り戻す。
「おばさん」は「先生」のために仕掛ける。
むかしあった「夜這い」の風習を、いまもあると嘘をつくのである。
「おばさん」は村の青年に日当を払って「夜這い」のお芝居をしてもらうのである。
これを本気にした先生は、翌晩「おばさん」を「夜這い」しに行く。
みごと結ばれる。このときの妊娠がきっかけで「おばさん」は死ぬ。
「先生」が「おばさん」の死を知るのは、翌年の別荘来訪時である。
このとき「先生」は「おばさん」の「嘘=深いやさしさ」を知るのだ。

映画作家・新藤兼人はト書きがうまい。
映画は観客の集中度が高いから、わざわざセリフにしなくてもいいのであろう。
うまいと思ったところを勉強のため引用する。

○道
おばさん、風呂敷を抱えて下って行く。
横手の白樺の林から、権八がとび出してくる。
権八「辰巳のおっかあ、えれえこった」
おばさん、ふり仰ぐ。
権八、慌てふためいている。
権八「きてみれ! 早よきてみれ!」
さし招き、林の中を指さす。
おばさん、雑木の繁みをわけて上って行く。
そこに若い男女が、抱き合って転がっている。
心中である。抱き合った腰をしっかりとバンドで結んでいる。
しかし、苦悶の表情もはげしく、両手で相手の髪を、顔を、つかみ合っている。
おばさん、息をのんで凝視したまま。
権八「先生にしらせてくるだ」
駆け出して行く。
おばさん、ショックからまだ解放されない。
バンドで縛った腰と、つかみ合った形相とが人間の秘密を物語っているようだ。
乱れた足音がやってくる。
おばさん、はっとわれにかえり、つかみ合った手をはなし、抱き合った形に直してやる。
足音が間近かに迫り、権八と先生が駆けつける。
おばさん、立って迎える。
先生、のぞきこんで、はげしい眼でみつめる。
おばさん、その先生を見ている。
権八「(興奮して喋る)おらが一時間ばかかり前にここを通ったときは
なんにもなかっただ、死んで間がねえだ」
先生、顔を上げる。
おばさんはもうそこにはいない。
彼方の林の中を行くうしろ姿が見える。
先生、そのうしろ姿に何か呼びかけたい衝動をおさえている。
おばさんのうしろ姿は林の向うに消えてしまう」(P191)


「先生」と「おばさん」の今生の別れとなるシーンである。
セリフを発しているのは、権八という第三者のみであることに注意したい。
テレビドラマなら「先生」も「おばさん」も気持を言うであろう。
しかし、映画の場合、こういうときは無言なのである。
まず「心中死体があるぞ」と「おばさん」に知らせる。
それから権八を場からはずさせ「おばさん」の心理を映像で描写する。
権八が「先生」を連れて来る。
「先生」と「おばさん」は(口=セリフではなく)眼で演技をするのである。
そのうえで「おばさん」を先に場から遠ざけ、今度は「先生」の内面を映像で描写する。

映画とはこういうものなのかと実に勉強になる。
観客は(セリフからではなく)映像から登場人物の心情を推し測るのであろう。
このシーンは「人の出し入れ」による「心理描写」の好例。
映画シナリオは、ト書きの技術を生かすもの――「本能」から学んだことである。