知るとはいかなる営みか。皮肉だが、知るとは無知を知る行為にほかならぬ。
知れば知るほど、おのれがなに知らぬことを実感するものである。
このことを知らぬものは、なにも知っていないのだと思う。

無知が恥ずかしいという風潮がなくなってどれほど経つのだろう。
知識人が消え去ったことも決して無関係ではあるまい。
たとえば「もてない男」の小谷野敦さんは生まれてくる時代を間違えたとしか思えない。
世が世ならという逸材であった。

わたしは多少の本を読みかじり知識の重みを知っているから、
「もてない男」の魅力がわかる。
ひと月に数冊しか、本を読まぬ人には「もてない男」はキチガイでしかない。
ここからが重要なのだが、いまは知識を重んじないでしょう。
そちらの精薄=知障=白痴サイドが主流になってしまうと、恐ろしいことになる。

民主主義とは、要は多数決! というのは福田恆存の弁である。
ところが、福田恆存とはだれかを説明しないと、いまはほとんどが知らない。
むかしの知識人である。

世の9割の人は、なにがいいのか悪いのかわかっていないと思う。
だれかがいいと主張するものを追随して是認する。あるいは、批判する。
その「だれか」がかつては知識人であった。
ところが、その知識人なる役割は現在には存在しない。
無知蒙昧の暴走が、現代日本の閉塞感の理由のひとつだろう。

(注1)かならずしも知識人が正しいと主張しているわけではない。
だが、指標にはなっていたのではないか。基準である。
繰り返すが、知るとは究極的には無知を知る哀しい営為でしかない……。

(注2)むかしは多読家は尊敬された。少なくとも、ひと目置かれた。
いまはキモイ、オタクなどと言われかねないのである。
どうして小説を読んでいない人間が小説家になれると思うのか。
戯曲を読んでいない人間が演劇人になれてしまうのか。
シナリオを読んでいない人が脚本家を志すのか。
(いまはシナリオを書いていない、読んでいない人間でさえ、
あろうことかシナリオの先生になれる時代なのである!)
「ありがとうございます」

観光地でよく言われる言葉である。
わたしを、とんだキチガイだと思われているかたがいるかもしれないが、ノーノー!
とても人当たりのいい、ふつうの顔をしている(とはいえオッサンだが)。

ものすごい頻度で人から話しかけられる。
このまえ山田太一ドラマ「遠まわりの雨」ロケ地をめぐる鎌倉小旅行をした。
どうしてか二度もカメラの撮影を頼まれるのである。
花見をしたときも、(内心嫌っていた)隣席の大学生から撮影を頼まれた。
おそらくとても「いい人」そうな顔をしているのだろう。

鎌倉散歩同行者から、こう言われた。
「Yonda? さんが愛に餓えているのが伝わるんじゃない?」
そうなのかもしれない。そうではないのかもしれない。
とにかく見知らぬ人から話しかけられることが多い。
道を聞かれることもたびたび。
わたしも知らない人に気軽に話しかけるせいなのだろうか。

海外でもそうである。
初対面の地元民から一緒に酒をのもうと誘われた経験が数知れないほどある。
自分が思っている以上に人懐っこい部分があるのだろう。

なにを言いたいのか。
文章で判断しないでください。
このブログだけ読むと、
書き手はひどく気難しい人間のような印象を持つのではありませんか?
逢った人間はみなみな一様に驚きます。
まったくふつうの気のよいアンちゃん(オッサン?)だからです。
スーパーの野菜売場で、おばあさんと不況について話し込むような人間であります。

気軽に声をかけてください。
逢いたいと言われて、こちらから拒むことはまずないでしょう。
顔を見たら、かならずあなたは驚くはず。
これほどふつうっぽい人が「本の山」を書いているのかと。
「ありがとうございます。先生に診てもらえてよかったです」

今日、某皮膚科医に言った言葉である。
先生はまっすぐにわたしの目を見つめた。
こんなに強く目線が合うのは久しぶりだと思った。
こういう感謝を直接に言う患者は少ないのかもしれない。

いやいや、現代医学はすごいね。
あれほど苦しんでいた顔の湿疹。
医師から処方されたクスリをのみ、ステロイド軟膏をつけまくったら、びっくり!
わずか1週間で真っ赤な顔がきれいに皮膚色に戻ってしまった(とはいえオッサンだが)。
医学はどえらいね。

身体にできていた湿疹につける塗りグスリも効いた。
いまのステロイド軟膏はすごいね。
効いているのがジンジンわかる。
いままで苦しんでヒイヒイ言っていた身体。
その身体が流す歓喜の嗚咽を耳にしたように思った。マジで。

今後の治療方向をたずねた。この医師は信頼できる。
どこを医療の終了とすべきか。
身体全体がきれいになるまで通院しなければならないのか。
先生は「かゆみ」だと言った。
かゆくなかったら、もういいのではないか。
たしかにそうである。生活に支障はない。

「ありがとうございます。先生に診てもらえてよかったです」
本心である。本心を伝えられたのが嬉しい。
また湿疹がひどくなってもこの医師が近所にいるから安心である。

しかし、この10年に医学はどれほど進歩したか。
どのくらいの人間が寝ずに休まずに満員電車に乗り、薬品を作ってくれたのか。
「ありがとうございます」は、あの医師にのみ言ったのではない。
昨日NHKで放送された「こころの遺伝子~あなたがいたから~」を視聴する。
副題は「どん底でこそ笑え 西原理恵子」。
見ていて涙がとまらなかった。
漫画家のサイバラが、亡夫(でヒモだった)カモちゃん(鴨志田穣)を懐旧する。

サイバラとカモちゃんを思うとき、縁(えにし)の重みに打たれる。
サイバラの口にした「負の連鎖」という言葉が重い。
実父がアル中で死亡、さらに義父がギャンブル狂で自殺したという負の申し子・サイバラ。
そのサイバラが後年、ギャンブル狂いになってしまうという輪廻。
カモちゃんと出逢ってようやく賭け事と縁を切ることができたものの、
結婚してみると夫の鴨志田穣はアル中であった。
実父とおなじように酒をのんではサイバラに暴力を振う。傷つけるための暴言を吐く。
宿命というほかない。

サイバラとカモちゃんの傷つけあう関係こそ真の恋愛なのかもしれない。
サイバラはサイバラで、カモちゃんを漫画に描くことで愛する夫を傷つける。
愛するものを傷つけることで収入と名誉を得てしまうという矛盾した宿業。
サイバラは言う――「生まれ変わっても、きっとおなじことをするだろう」。
カモちゃんは、おそらく女から愛されたのはサイバラだけだったのではないか。
しかし、サイバラの漫画にコミカルに描写されることで深く傷つく。
カモちゃんは傷つくことで妻を愛していること、愛されていることを確認する。
おのれの愛を伝えるためにカモちゃんは身口を用いてサイバラを傷つける。

サイバラとカモちゃんの元夫婦を思う――。
結局のところ、運命の異性というのは存在するのではないかと信じたくなる。
もてない我輩はまったく語る資格がないのだけれども、恋愛ってなんだろう。
男女の縁というのは、存在するのではなかろうか。
それはどうしようもないものであろう。
おそらくは宗教的な、あるいは超自然的なもの。
がんばってもそういう相手にめぐりあえるとは限らない。
無縁という宿命もまたあるのだろう。
男女関係はどうしようもないということだ。人の生き死にのようにどうしようもない。

しかし、辛いのは好きな異性の心中に別の同性がいるときだろう。
だれもがこれを「片想い」ということは知っているが、どうしようもない。
だれか別な人を好きな異性の気持は、どんな努力をしてもどうにもならないのである。
この無力感は、おのれを超えたものを意識させる。
だから、「片想い」はもっとも美しい恋愛形態のひとつなのだろう。

「片想い」を好んで描いたのは井上靖である。
井上靖と元愛人の白神喜美子の関係は、おそらくサイバラとカモちゃんに近かった。
カモちゃんは、いまのところわたしがもっとも親近感をおぼえる同時代の男である。
果たしてこの記事を書いている男のまえに、だれか縁ある女は現われるのか。
それとも、もう現われているのか。もしや一生、現われないのか。
すべて死ぬまでわからぬことである。
鴨志田穣、享年42歳。

「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるる」(「歎異抄」)
こむずかしい評論なんかよりゴシップのほうがよほどおもしろいよね(かわいく)♪
むかしの文壇や映画界はゴシップネタの宝庫だったらしいじゃない。
いまはゴシップとかぜんぜん聞かないのでさみしい。
奇人変人、つまりキチガイがいなくなったんだな。常識人ばかりになった。
けっ、つまんねーの! もっともっと狂ったやつが出ないといかんぜよ。
社会人と表現者(創作者)というのは、相反する人種であることを忘れるなかれ。
よき社会人なんちゅうのは、常識に縛られて自分の頭で考えられなくなった大人。
比して表現者は、常識なんてぶち壊して世界をメチャクチャにしたいなんて
大仰なことを(どこかで)願っているガキ。

ところがところが、いまの創作スクールでは「常識人たれ」なんて教えているのね。
バッカだよね~。わたしの通っていたスクールもおとなしい羊ばかりだった。
講師の言うことをハイハイ聞いていやがる。講師も講師で根性がない。
ホンモノの表現を知っている指導者なら、
間違いなく自分を超えてみろと教え子を叱咤するはずなのだから。
(そういう師匠に出逢えぬものが表現の世界で成功するのはなかなか難しいと思う)

最近、脚本家の早坂暁にはまっている。とにかくシナリオがうまいんだ。
かなりテクニカルな作家だから、技術を吸収するのに都合がいい。
早坂暁がらみで知ったゴシップをひとつ紹介したい。
この脚本家の代表作は「夢千代日記」。
吉永小百合主演で続編も含めてNHKで三度放送された。
このくらいの脚本家になると富も権力もあったようである。
旧知の映画監督・浦山桐郎(代表作「キューポラのある街」)から借金を申し込まれる。
巨匠の映画監督ではあるものの、人格破綻者で仕事が来なくなっていたのである。
早坂暁は浦山桐郎に10万、20万のレベルで金を貸して(=小遣い)いたという。
むかしの人気脚本家は、こうも金を持っていたのかとまず驚いた。

さて、テレビドラマ「夢千代日記」で大当たりを取った早坂暁である。
早坂暁は自分がプロデューサーとなり「夢千代日記」の続編を映画でと考える。
人のよい早坂暁は、
この映画の監督を当時金がなくて困っていた浦山桐郎に任せるのである。
もちろんシナリオは早坂暁が執筆する。
(いまでは業界最底辺の)脚本家ごときに当時は監督任命権があったことに驚く。
さらに驚くのは巨匠・浦山桐郎である。
映画はテレビなんかより数段上の芸術であるという特権意識から暴走する。
脚本を(世話になった)早坂暁に無断で書き直そうとしたのである。
これは主演の吉永小百合から固く拒絶される(「夢千代はこんなセリフを言わない!」)。
吉永といえば浦山が育てたともいうべき女優(「キューポラのある街」!)。
このときの浦山桐郎の屈辱感はさぞかしすごいものだったのだろう。
しかし、仕事を紹介してくれた恩人のシナリオをふつう無断で改変しようとするか?

浦山桐郎の独裁者ぶりは現場から総すかんを食う。
あげく監督を降ろせという要求まで製作スタッフから出る始末である。
浦山を買っていた早坂暁はプロデューサーとして、なんとか現場の不満をおさめる。
浦山桐郎といえば、そんな早坂に脚本改変の事情を一切伝えようとしないのだから。
いちおう映画は完成を見た。試写会で事件が起きる。
あまりの映画のひどさに早坂暁が途中で席を立ってしまうのである。
そのあと映画監督と脚本家のあいだにこの作品をめぐる会話はなかったという。
映画「夢千代日記」は映画監督・浦山桐郎の遺作となる――。

*以上は「映画に憑かれて 浦山桐郎」(原一男-編/現代書館)を参考にしました。

昨日、テレビで放送された映画「おくりびと」を視聴。
もう観るのがいやでいやでたまらなくてね。
ふつうは朝から映画を楽しみにしていたりするもんなんでしょ?
どうしてこうも映画が苦手になってしまったのかな。
だから、映画鑑賞をするならテレビしかない。
レンタルで借りても、たぶん観ないままで返すから(苦笑)。
ビデオ録画も避けたい。ずっと観ないで投げ出しておく。
日本アカデミー賞だかを受賞した有名な「おくりびと」をリアルタイムで観念して観る。
(アカデミー賞の脚本賞ってシナリオ作家の最高栄誉でしょ? ううう、ほしい……)

いい映画だったと思いますよ。
もとより、だれもわたしの映画評など期待も信頼もしていないでしょうが。
映画は(セリフではなく)ト書きだとつくづく思った。
映像美を見せるのが映画なのだろう。
つまり、観客はきれいだなと我を忘れて陶酔する。
しっかし、いやになるくらいセリフが少ない。
役者ふたりが向き合って沈黙しているシーンがどれほど多かったか。
セリフもぽんぽん話さない。やたらもったいぶった間を置く。
芸術のつもりなのだろう(なんて皮肉も言いたくもなるわ)。

納棺作法なんざ、すべてト書きなわけよ。どうなのかな。
映画ファンちゅーのは、ああいう役者の動きに感銘を受けたりするのかな。
わたしだったら、シナリオのト書きで10秒で読んでしまいたいけれど。
最後の、息子による父親納棺もくどかった。
最初の家族設定説明セリフから、どうせ最後は父親登場だろうと読んでいたしさ。
いや、いいのよ。あのシーンで感動していいの。あれが映画の感動。
もしシナリオで読んでいても、あ、ここが感動シーンだなとわかる。
しっかし、あのシーンの夫婦の見つめ合う長さにはあきれた。
セリフをひと言くらい入れてくれよ。
わたしはセリフのないシーンを延々と見せられるのが、なにより苦痛。
(小説の人物描写、風景描写が苦手なのとおなじ生理なのだろう)
いえいえ、いいのよ。それが映画だから。あれが映画の感動だから。

作品をおとしめるつもりはない。とてもいい映画だったと思う。
たいへん勉強にもなった。
ちなみに、わたしにとってシナリオを読むのは楽しい遊びで、映画を観るのは辛い努力。
(これは割合で、ごくたまーにとっても好きになる映画もあるんですよ!)
繰り返すが、いい映画だった。
しいて言うならば、広末のオッパイが見たかった。本木のケツは見たくなかった。

(追記1)早送りしたくなった、なんて書いたら映画ファンから村八分に遭いますか?

(追記2)わたしに映画を見せたかったら、かわいい女の子に「ねえ映画行こう!」と誘わせてください。

こういう本が読みたいと思うんだけどな。
逆に言えば出したら売れるんじゃないかと思う。
基本、編集者やライターは、自分の読みたい本を基準にして企画書を書くんでしょ?
うちのブログには編集者やライターの読者が多そうだから(妄想かも)教えてください。
それとも下請けのほうがはるかに多いのかな。
はじめに企画書ありきで、これを基に書いてくれという注文仕事。
脚本家の場合はよほど大物にならないかぎり企画が通ることはないらしい。

新書かなにかで「成功は遺伝するのか?」――。
たとえば、うーん、成功の基準をとやかく言わなければの話だが、
井上靖、遠藤周作、山田太一、宮本輝のお子さんはみなみな成功しているよね。
ほとんどが大会社に勤務している(コネとは言わない)。
吉本隆明、井上光晴、中上健次、壇一雄、阿川弘之のガキは作家だから成功者でしょう。
かといって失敗例がないわけはないのだろうが、こちらはあまり知られていない。
むろん、成功者が権力でその存在を隠すからだろうけれど。
某有名政治家の子どもがひどいことになっていたり。
某有名漫画家の子どもが引きこもりになっていたり。
某有名脚本家の息子が映像作品も受賞歴もないのに創作スクールで講師をしていたり。

こういうゴシップ本があったら読みたいと思いませんか?
失敗例はプライバシーなんたらで訴えられると困るから、わかるようにイニシャルで。
ふたつの喜びがあると思う。
(1)成功者の子どもも成功者
「どうせがんばっても、どだい無理さ」という心地よい諦念を得られる。
世間の発する「がんばればなんでもできる」という暴力メッセージへの安全弁となる。
(2)成功者の子どもが失敗者
ザマアミヤガレというひと言だな。胸がすくような思いがすることだろう。

どうなのでしょうか? 
こういうのは素人がいきなり出版社に企画を持ち込んでもいいのかな。
この場合、書き手の肩書はなんになるのだろう。フリーライター? 成功法則研究家?
しかし、人から憎まれる汚れ仕事でもあるよね。
経歴に傷がつくと嫌うライターもいるのかな。
わたしもなにがなんでも自分で書きたいというわけじゃない。読んでみたい。
「もてない男」の小谷野敦先生が「やっつけ仕事」でもいいからやってくれないかな。
先生の子分でうちのブログの読者でもある小林拓矢君あたりがやってくれてもいい。
企画料は該当本を寄贈してくれたらそれで構わないから。
だれかこの企画に乗ってくれる人はいませんか?
自分で持ち込むべきなのでしょうか?
いまテレビドラマがつまらないでしょう。
よく観てもいないのにドラマをバカにするものがいるけれど、わたしはそうではない。
視聴した結果の発言である。春ドラマの初回は、ほとんどすべて観ているから。
いまのところ2回目まで持ちこたえたのは「チェイス~国税査察官」のみ。

ドラマがつまらなくなった理由はいろいろあるかと思う。
「お客さま第一主義」=「視聴率絶対主義」がおそらく最大の理由ではないか。
話は少しそれるが、いまの日本の閉塞感(デフレ、サビ残)の原因とも通じている。
安ければ安いほどいい。売れれば売れるほどいい。
作り手や売り手など二の次、三の次。
なぜならお客さまは神さまで、その神さまが望むことは絶対正義なのだから。

ところが、これでは生産者や販売者は矜持(プライド)を持つことができない。
安い人件費で馬車馬のように酷使されて誇りなどあろうわけがない。
とはいえ、NO!を言うわけにはいかない。
代わりはいくらでもいると切られてしまうからである。
生産・流通・販売の現場で行なわれていることとまったくおなじことが
ドラマ制作の裏側で繰り広げられているのだろう。
コストを下げろ! いいものではなく売れるものを作れ! 
タレントもライターも使い捨て!

あたかも貧困ビジネスのごとく、悲惨な現状から利益を上げている会社がある。
ドラマ衰退の理由のひとつ、創作スクールの存在である。
もう固有名詞を出してしまおう。業界最大手のシナリオ・センターがよくない。
ここは「だれでもシナリオは書ける」と懸命に集客している。
(しかし、所長、社長、講師の大半はシナリオを書かないのが、なんとも……)
シナリオ・ライターがいかにすばらしい仕事であるか宣伝している。
「なんとかして業界にもぐりこめ」と受講生の尻をたたいている。
なにゆえか。宣伝に名前を用いるためである。

断じてシナリオはだれにでも書けるものではないと思う。
だれにでも書けるようなシナリオはろくなもんじゃない。
シナリオ・センターの(シナリオを書けない)先生がた!
あなたたちが金儲けのためにやっていることがドラマ全体をつまらなくしている。
小学生でもわかる説明をしよう。
林檎(りんご)がたくさん出荷されました。果たして値段はどうなるでしょう?
答え。べらぼうに安くなる。

まともな脚本家ならアホらしくてやっていけないと思う。
次から次へ「ノーギャラでも書きます」「なんでも書きます」
という新人ライターが表参道界隈から現われるのだから。
これでは既存ライターも値段を下げなければならない。
自分を曲げて、書きたくないこともお金のために書かなければならない。
本来、脚本家は大量の遊び(=勉強&取材)をしないと名作なんか書けやしない。
ところが、いまの状況だと食っていくだけでも大変。

あわれな新人ライターの末路はどうなるか。
お小遣いにもならない低額のギャラで生活などとてもできない。
バイトをしながらのライター生活となるだろう。
まったく勉強をする時間がない。テレビドラマを観る時間さえない。
すぐになんのために書くのかわからなくなるだろう。
むしろ、シナリオ・センターとしては、そうなってもらわなければ困る。
かれが消えたあとに新しいライターを送り込むためである(=デビュー実績!)。

結論めいたことを言えば、シナリオ・センターが脚本家の地位を不当におとしめ、
ライターを「使い捨てライター」にしてしまった。
頭のいいものはライターを廃業して「先生」になることだろう。
わたしの教わったUさんなどライターにもなっていないのに「先生」をやっていた(笑)。

ブログ「本の山」は「シナリオセンター」の検索で来るものがやたらと多い。
カテゴリー「シナリオ・センター日記」ほど読まれている記事はないと思う。
ここの受講生からメールをいただくこともある。
受講するかを迷っているかたもいるかもしれない。
いまのテレビドラマはつまらないからアタシでも書ける、
なーんて思っていませんか、そこのアラフォーおばさん♪

ひとつのエピソードを紹介して終わろう(「ドラマ」バックナンバーで読んだ)。
シナリオ・センターの広告塔、脚本家の内館牧子がむかし講師に相談したという。
会社を辞めようか迷っていると――。
シナリオ・センター陣営は、絶対に辞めてはならない!
そう内館牧子に思いとどまらせようとしたそうである。
アタシも内館牧子になれる?
いま内館牧子先生はテレビドラマをお書きになっていますか(オファーがあるか)?
そういうことである。

実のところ、林檎は供給過多で「使い捨てライター」になるのだって楽じゃない!
ヒントは「ふぞろいの林檎たち」にあるのかもしれない。
スーパーに並ぶことさえない「ふぞろいの林檎たち」の酸いよ、甘さよ!
見てくれのいいだけの林檎なんざ、安く売り飛ばされておしまい。
創作ビジネス(=夢を追おう!)は、大量のライターを安く業界に売り飛ばそうとする。
そのほうが自分たちの宣伝になるからである(金、金、金!)。
ドラマをつまらなくしている、この構造に気がついてほしかった。
以上で「使い捨てライター」にもなっていない無能者のざれ言を終える。

(追記)ふと気づいたが、シナリオ・センターは優秀な企業かもしれない。
少なくとも、この会社は「お客さま第一主義」ではない。
冬休み、GW、夏休み……とにかく休みが多い。
生徒が料金を支払ってもニコリともしない事務局員は有名である。
講師と受講生がトラブルになったとき、社長は迷わず従業員の肩を持った。
シナリオ・センターは、客を面前で罵倒できる日本で唯一の企業なのだろう。パチパチ♪
まだ生きることができる=お酒をのめるみたい♪

今日判明したγ-GTPは144!

そりゃあ基準値よりは高いけれど、ぜんぜんOKレベル。
5日も禁酒したかいがあったわさ。
顔の湿疹から、てっきり肝臓にヤキがまわったと思ったら、まだまだセーフ。

しかし、顔の湿疹はひどいことになっている。
顔中に湿疹が広がり、まるで赤鬼のよう。
皮膚科に行った。なによりよかったのは医者が大丈夫だったこと。
いままで幾人の医者にダメだしをしたか(口論経験多数)。
女医はNG。年下もNG。初対面でのタメ口もNG。

ふとった人のよさそうな皮膚科医だった。
湿疹はかなりヤバイ模様。
長く通院しなければならない可能性もあるとのこと。
「恥ずかしい話ですけれど、貧困層なので、あまり高い薬は――」
最初に牽制しておく。
アハハ、「貧困層」ってなんだよ!
口にした瞬間、気まずい空気が流れた。

診察料は570円。薬代は院外処方で1450円。
わずか1週間の薬で1450円だと!?
高いと思い、それぞれの薬価を聞くと、薬剤師から心底イヤな顔をされる(苦笑)。

湿疹と内臓は関係ないとのことで、ひと安心。
ううむ、ならば下腹部の痛みはなんだろう。
男性の場合、この部分が痛くなることはめったにないらしい。
循環器科の医師からは、心療内科へでも行けば、と言われる。
ココロの領域だと言うのである。
だったら、心配することはないのだが――。
6月に某大学病院へ行くので、精密検査をしてもらおうかしら。

とりあえず諸君! 我輩はまだ死なないようだ。まだまだ酒がのめるようだ。
これからもよろしく頼む。偉そうでスンマセン♪
備忘のために記す。本日で禁酒5日目。

<下腹部の痛み>
ヘソの下あたりが痛い。酒が原因だろうと禁酒したのだが――。
まだ痛みは消えない。痛みは我慢できないほどではない。時おり意識する程度。
思えば、これに似た痛みは4、5年ほどまえに発症。断続的に繰り返す。
当時、大学病院で検査をしたけれど痛みの原因は不明。
勝手に過敏性腸症候群ではないかと自己診断したのだった。
いまブチキノンをのんでいるのはこのため(2007年6月~)。
とはいえ、これほど痛みが強く、かつ継続するのは今回が初めて。
禁酒5日目になるものの、まったく痛みの状態に変わりなし。
もしかしたら酒はまったくの無関係ではないだろうか?
原因を性急に見つけようとするのは現代人の反省すべき態度だと思う。
頭痛も精神病もぜん息も、結局のところ原因不明なのだから。
考えてみたら、人間がなぜ生まれてくるのか、なぜ死ぬのかもわかっていない!

<ぜん息>
禁酒を続けるほど悪化するのが不思議。
ふだんはサルタノール・インヘラーを日に2、3度使用。
禁酒日は回数が倍増する。
あるいは、このところの激しい寒暖の差が影響しているのかもしれない。

<精神鈍重>
読書などの知的活動に集中できないのは禁酒5日目も同様。
頭部左半分が重い感じ。右半分は極めて軽い。
頭部左から甘い「なにか」が染みだす感触。
これは頭痛時にロキソニンをのんだときと同様の状態。

<顔の湿疹>
2月中頃より顔に赤い湿疹が生じる。最初は出たり治ったり。
リンデロン(ステロイド軟膏)をつけても、あまりよくならない。
むしろ、むずかゆくなる。
ネットで「顔の湿疹 肝臓」で検索すると、大いに関係ありそうである。
もはや肝臓が壊滅的レベルではないかと危惧。このたびの禁酒の理由だ。
ところが、連続禁酒するものの全然よくならない。
反対に悪化。禁酒5日目、顔全体に湿疹が広がる。
もしかしたら今度の湿疹と肝臓は関係ないのかもしれない。
1月から新しくのみ始めた漢方薬の副作用ということは考えられないだろうか?
湿疹は、皮膚が乾燥して赤くなる。かゆい。痛い。膿みが出ることもある。

明日、約2年ぶりの血液検査の予定。果たして結果はいかん。
下腹部の痛みも相談するつもり。皮膚科は後日受診する。
もっとも医学=科学は人間の平均値を基準にしている。
しかし、筆者は通常人と異なる30数年を生きているため医学妄信に陥るのは避けたい。
というのも、たとえ人間一般(全体)に言えることだとしても、
あなたやわたしといった唯一存在にかならずしも適合するとは限らぬからである。
今日で禁酒3日目。酒呑みはみな思うことかもしれない。
もし酒をやめたら、どれだけ時間を有効活用できることだろうか、と。
わたしはそうは思わない。おのれの体質をすでに見極めているからだ。
禁酒するとガソリンが切れたように、かえってなにもできなくなるのである。
読書すら不可能になる。
したがって、わたしにかぎって言えば、酒を呑んでいたほうがよほど効率的。
生産的でさえある。

だからと自分に言い訳して酒を呑んできたところがある。
このたび禁酒して、いささか思いを改めた。
禁酒するとなにもできなくなると書いた。これはなにもしないのと同義。
だとしたらば、なにもしないのは、むしろあこがれではなかったか。
そのように気づいたのである。

かつてインドのゴアで欧米人旅行者の怠惰に恐れ入ったものである。
ゴアはインドのなかでもっとも西洋化されたビーチ。
ドラッグ関係が比較的フリーなことで知られている。
欧米人は老若男女を問わずビーチに寝そべると、本当になにもしないのである。
とても真似をできないことに気づいた。
どうしても観光するなり、酒を呑むなり、したくなってしまうのである。
日本人だからだと思ったら、そうではなかった。
おなじインドのバラナシ(ベナレス)に行ったら、今度は日本人がなにもしていない。
日がなガンジス河をながめながら日本人旅行者はなにもしないのだから。
育った階層が低いからか、わたしはなにかせずにはいられないのだ。

禁酒すると、なにもできなくなる。神経過敏で思ったように知能さえ動かない。
ところが、気づく。なにもできない=なにもしていない!
あこがれの無為に、禁酒をすることでようやく到達できたのである。
なにもしないこと=無為の重要性は古くは老荘が、新しくは河合隼雄が説いている。

働くの反意語はなんだろうか? 遊ぶと答える人がいるかもしれない。
だが、労働は遊びにもなりうる。仕事が好きな人はいくらだっている。
むしろ労働は遊びに近いものなのかもしれない。有為という面ではである。
働くの反意語は休むで、そして遊ぶの反意語もおそらく休むではないか。
休むとは、なにもしないこと。無為である。

創作は労働だろうか、それとも遊びだろうか。
人によって答えが変わるだろう。
だが、創作を労働とおなじ水準で考えると、うまくいかないことが多くなるのではないか。
労働=仕事の場合、努力すればうまくいくことが多い(実際はどうだか、とも思うが)。
なにもやらないよりは、なにかやったほうが仕事はうまくいくのかもしれない。
比較して、創作はどうだろうか。創作も労働とおなじメカニズムで動くのか。
なんであれ少しでも創作をかじった人ならば、まったく別物であることを知っている。

創作の場合、意識的な努力が実を結ぶことは、仕事ほど多くない。
観た映画の数に比例してシナリオがうまくなるというわけではない。
多くの小説を読んだからといって傑作が書けるわけではない。
24時間机のまえに座っていても思いつかない発想を、ふと買い物中に思いついたりする。
つまりは、偶然ということだ。
かならずしも因果関係――こうしたからこうなった――で説明できるとはかぎらない。
それどころか本物の創作はむしろ因果律から離れたところより生じる。
わけがわからないと言ったほうがよい。人智及ばぬ世界だ。

これはとっぴな仮説だが、もしかしたら創作はなにもしないことと関係があるのではないか。
むろん、なにもしなかったからといってアイデアが降ってくるわけではない。
なにもしない時間を持てば持つほど創作がうまくいくというわけでもない。
けれども、どこか人為(人力、有為)を離れている時間が創作に影響しているのではないか。
因果関係ではないのである。どう説明したらいいのだろうか。

創作をしている時間というのは、だれしも相当に濃密でしょう。
ふだん生活している時間とおなじものだとはとても思えない。
そもそも時間は均質ではない。
仕事をしているときと遊んでいるときでは、おなじ1時間でもまったく違うものに感じる。
人間にとって最高の遊びである創作において、もっとも時間は濃密なものとなる。
本当の創作は、時間を作っている「大きなもの」と向き合うようなところさえある。
時間そのものを味わってしまうようなところがあるのだ。

わかってもらえるか自信がないけれど、
この創作時間と無為がどこかで関係しているのではないか。
なにもしない=無為の最中は、とても時間が薄くなっているでしょう。
言うなれば、創作している時間と正反対である。
いや、正反対なのだろうか? と、もう一度ひっくり返す。正反対はつながっている!
本当の創作は完全なる無為=「大きなもの」に書かされている状態かもしれない。
なにもしない=無為の時間は、
もっとも人間のなにか(たとえば無意識)が活発に動いている状態かもしれない。

ふふふ、意味がまったく伝わっていなかったら、ごめんなさい。
なにもしないことの価値について述べた。
それから禁酒時のなにもできない状態は、なにもしないと同義であること。
だったら、禁酒は(健康のみならず)創作にも好影響を与えるのかもしれない。
これからできたら月に3日ほど連続して禁酒したい。
もちろん、創作を断念するまでの話である。

(参考)「老子・荘子」(野村茂夫/角川ソフィア文庫)
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1492.html
日曜日にルノワールだったか。美術館に誘われている。
国内で美術館に行くのは、学童のころの社会科見学(?)以来、記憶がない。
せっかくだからと以前ブックオフにて105円で買った
西洋美術史の概略書でも読もうかと思った。
ところが、思いを改めた次第である。
自分の感覚をどうして信用しようとしないのだろう。
名画を見てなにも感じなかったらそれでいいのである。
名画が名画たるゆえんを勉強して理解するものは、おのれの舌を切ったに等しい。
自分の舌を信じられぬものは、いつか巧妙な詐欺にだまされることだろう。
この人は大会社のエリートだから信用できる。
有名タレントもすすめている投資先だから安全だ。
国が認めている制度だから揺らぐことはない。

最近、無性に映画史を勉強したくなっているが、かろうじてとどまっている。
大学4年生のころ、映画好きのやつらとつるんだ時期があった。
かれらの言う傑作映画をつぎつぎに観ていったが、どこがおもしろいのかわからなかった。
勉強してはいけないのだと思う。遊べばいいのではないか。
遊ぶとは、好きなものを楽しむこと。
好きなものがないのなら、まずは好きなものを探すこと。
いやいや勉強として嫌いなことをしても不自由になっていくだけであろう。
おのれの舌(味覚)を信じて、好きなものの味わいを徹底的に極めたらよろしい。
好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。これでいい。
嫌いなものなら勉強して好きになる必要はまったくないのである。
世事にまるっきり疎いからよくわからない。
これがいま流行のツイッターというやつなの?
違うのかな。
調べたらタンブラーだって↓

「調子はどうだい」
http://takaakik.tumblr.com/


記事を引用されたので、パラパラほかのところを見ていたらおもしろい。
とくにこれなんか植島啓司の言う「賭けの法則」と相通ずる。

平成9年2月23日(日)の“新婚さんいらっしゃい”を見てたら、神戸大学の大学院生で数学を専攻している人がでていて、実に見事に「ファジー理論」を説明してくれました。しかも、“ファジー理論(fuzzytheory)”と言うキーワードを一切使わないで・・・・・。
“ファジー理論”と言うと、日本語では“曖昧理論”と訳しますが、これは「無責任な発言をして、結論を出さない、又は結論を出すのを妨害する」と言う、上司として最低の“ファジー=無責任発言”と言うことでは無いのです。
むしろ、2進法(yes or no)で行き詰ったとき、結果として何が最も重要かを判断し、保留したまま次の段階に進むこと、つまり2進法では絶対に結論が出せない問題を解決する、数学的手法なんです。
その神戸大学の大学院生は例題として、「ケーキを2人で分ける場合、最も良い(合理的)方法は何か」と言うものです。正解は「Aの人がナイフを入れ、Bの人が好きな方を取る」のだそうです。ナーンダと思われる人も居るかも知れませんが、“絶対的な公平さ”を求めても不可能な場合、(ケーキを2つに分ける場合、A部分とB部分の重さを同じにする事は難しく、許容誤差を大きく取っても、カステラ、チョコレート、クリームの部分の厚さがAとBとで同じという前提が無い事等々)AとBの人が、お互いに“満足”する事を優先にして問題を解いたのです。これが「ファジー理論」なんです。
http://doso.kankyo.tohoku.ac.jp/archives/000057.html



この「調子はどうだい」って、どうやって引用記事を集めているのだろう?

(追記)思わず読み込んでしまうほどおもしろい。こりゃ雑誌はつぶれるね♪
次クールの連続ドラマのライターを確認した人はいますか?
正確に数えたわけではないが半分近くが複数のライターに書かせている。
どういうことか。ひとりのライターが連続ドラマを書く時代は終わったのかもしれない。

いまの連続ドラマを見て、つまらないと怒る人がいるでしょう。
そのあげく脚本家がいけない。むかしは山田太一や倉本聰がいた。
こんなことをおっしゃるかもしれない。
それはおそらく違うのである。ライターのせいにしてはいけない。

いまの連続ドラマ制作は、こうなっているらしい(「月刊ドラマ」より)。
たとえば3人のライターがいる。
プロデューサー(以下P)は第1話のプロット(あらすじ)を3人に書かせる。
そのうちいちばんいいとPの思うプロットが採用される。

そのプロットを提出したライターがシナリオを書けるのかというとそうではない。
おなじプロットでまた3人のライターがシナリオを書く。
3つのシナリオをPが読んで最適だと判断したものをさらに書き直させる。
第2話では別のライター3人を使うかもしれない。
第3話は、第1話を担当した3人がまたおなじことを繰り返す。
全話をおなじ3人のライターが任されるということもあるかもしれない。

この制作方法だと連続ドラマがつまらないのは脚本家のせいではないでしょう。
だれのせいかはわからない(ふりをしておく)。
しかし、この労働環境で仕事をするライターは、ものすごい屈辱的ではないか?
よくもまあこんな環境でものを書けるものだと逆に尊敬してしまう。
自尊心を捨てなければやれない仕事だと思う。

むかし通っていたスクールには、
好きなものを書きたいからテレビを目指すという受講生がいた。
逆に映画だったら好きなことを書けると夢想しているものもいた。
(ところが映画は監督から無断で書き換えられてしまう!)
おそらく、好きなものを書けるのは、いまやコンクールのみなのだろう。
もしくは自主映画を作るしかない。

むかしスクールの講師から「どうせ好きなものなんか書けないよ」と鼻で笑われたことがある。
コンクール受賞歴も映像作品も業界経験もないくせに、やたら偉ぶった五十男であった。
男は「みなさんはもうすぐプロなんだから」と詐欺師めいたことをよく口にした。
いまではもうテレビドラマも映画もまったく見ていないようだった。
今日もあの男は教室で椅子にふんぞり返って、なにかをバカにしていることだろう。
断じてバカにしてはいけないものを――。
新年度になる。いまさらながら今年の目標をあげてみよう。
新作(シナリオ、戯曲、小説)を10本書く。これを今年の目標にしようかと思う。
意外に可能かもしれないと本人は甘く考えている。
というのも、現時点で3本書いているからである。
あと7本書けばクリア。それに見合うコンクールはいちおう存在する。
とりあえず10本を目標としたい。
まだ小説は書けないだろうから(それに小説創作は時間がかかりそう)、
劇作が中心になるのではないか(どうしたら書けるんだろ小説……)。
プロでも1年に新作10本は骨折りだろうけれど、長年にわたる冬眠期間の蓄積のみが頼り。

10本ぜんぶダメでも仕方がない。結局、こういうのは運なのだから。
すべてポシャったら、どのくらい落ち込むことだろう。
生きかたを考え直すいい契機になるかもしれない。
とはいえ、ほかに手に職などない身。おなじことを続けることになるのか。
たとえコンクールに入賞したところで現実は厳しい。
なにか賞を取ったとしても、大半は仕事の依頼など来やしないのだから。
日本でいちばん有名なシナリオ大賞を取った人が1年後、
某スクール同人誌で「なんでもいいから仕事をください」と宣伝しているのを見たことがある。
オファーが来ても「だれでもやれる仕事」だったらギャラの安さを当てにされたということ。
シナリオ世界の現実はこんなものである。
人生を棒に振る覚悟のあるものしか挑戦しないほうがいいと思う。
あとは専業主婦である。
本音をもらすとプロのシナリオ・ライターを目指していいのは専業主婦だけではないだろうか。
でないと周囲に迷惑をかけることになってしまう。

目指せ10本!
エイプリールフールなので、あえてこんな目標を書いてみた。

(追記)今日も禁酒成功。2日以上の連続禁酒は2年ぶりくらいではないか(嬉しい)。