明らかに酒が原因と思われるいや~な痛みが腹部に生じる。
今年になってから無理がすぎたよなと反省。
読了本の感想もすべて書き終えたことだし、ここらでまとめて禁酒をしようかな。
とりあえず、今日は禁酒した。
4/3の昼に花見の予定があるから、それまで3日間連続禁酒したいが、さあどうなるか。
宣言はしない。破ったときに自己嫌悪に陥ってしまうからね。

しっかし、まあ、人生なんとかなるものだ。
このまま人生マイナスしかないだろうと思っていた時期がだいぶ長かったけれども。
桜の季節が怨めしくて憎たらしくて、ひどい孤独に苦しんだものである。
生きていればいいことがある、とか若人に説教したいわけじゃないよ。
マイナスばかりの人生というものもあるのでしょう。
こればかりは運だからどうしようもない。
わたしだって花見に浮かれているけど、当日に交通事故で死ぬかもしれないわけだから。
いつ喀血(かっけつ)して死んでもおかしくない酒の呑みかたをしてきているしね。

おっと、わたしの健康や禁酒予定なんて、みなさまにはホントどうでもいいことを失礼。
赤の他人の健康や病気の話ほどつまらないものはないよね。
でも、ここはリアル友人や知人も読んでいるのでどうか勘弁してくださいませ。
みなさんはわたしの代わりにガンガンお酒を呑んでちょーだいな♪

(追記)桜が好きなのは幸福な人だよね。不幸だと桜なんて見たくもない――。
「だから混浴はやめられない」(山崎まゆみ/新潮新書)

→混浴する男女というのはドラマの原初的風景だと思う。
お互い裸で湯に浸かっている。
男は女の裸を見たい。
女は男に裸を見られたくない。
というのは建前で、実のところ女は男に裸を見てほしい。だからこそ隠すのである。
このバランスは、まさにドラマの力学ではないか。
わが国では明治になるまでは混浴がふつうの文化であったという。
学者ではなくライターの指摘だが、新潮社の校閲も経ているからたぶん真実なのだろう。
とすると日本人は混浴で、日常からドラマを汲み取っていたのではないか。

とある応募シナリオで混浴を描いた。
だから気になってブックオフ105円棚にある本書を購入したのである。

混浴は、なかなかおもしろい設定ではないか。
「~~温泉混浴殺人事件」のシナリオでも書けるようにならないかしら。
あ、ご存知のかたはいますか?
いまテレビにおいて映画放送以外のドラマでオッパイを出せますか?
うちのブログは業界人もご覧になっているから、できましたら教えてください。
いまテレビでオッパイを出せるか?
ぶっちゃけると脚本家がだれかより、
視聴者はオッパイが出るかどうかで視聴のいかんを決めるように思う。
ネットならオッパイなんていくらでも見(ら)れるが、
テレビで見るオッパイはまた格別なのだろう。

これからも混浴設定を使えないかと思う。
もっとも書き手は温泉のどこがいいのかわからないが、物書きとはそういうものではないか。
おそらく男はシナリオよりもオッパイのほうがはるかに重要である。
女優のオッパイさえ出ていたら、いくらシナリオがダメダメでも映画(ドラマ)を見てくれる。
我われ脚本家予備軍は、ゆめゆめオッパイのパワーを舐めてはならぬということだ。
「だからオッパイはやめられない」――。

「日本縦断 フーゾクの旅」(安田理央/二見書房)絶版

→何年まえだったか、四方だれもいない砂漠で、
ひとり星空を見ながらビールをのんだことがある。
中国・敦煌付近の砂漠だ。
ふつうだったら、なにか悟ったような誤解をするものだが、
わたしはただただつまらないと思った。
砂漠はつまらない。比べて人間のどれほどおもしろいことか。
早く敦煌料理店に戻ってズイさんと酒杯を交わしたいと思ったものである。

こういう感覚で常に生きている。
精神の基盤にあるのが、サブカル的=エロ本的なものなのだ。
すべての権威を嘲笑おうという、すねた視点を捨てることができない。
本書はエロ業界の敏腕ライター、安田理央氏が日本全国のフーゾクを旅した記録。
AV撮影のおりに見聞した日本各地のフーゾクの現状がレポートされる。
読みながら、これは名著だと思った。
女・旅・酒食――3つの魅力がストレートに描かれている。

人間は自分を超えられない。
すなわち、だれも自分以外の人間にはなれない。
ところが、読書をすると、自分ではない人間の実感というものがわかる。
読書の快楽であろう。

日本各地のフーゾクを実地体験した安田理央氏の卓見を引用する。

「つくづく風俗とは、そして性欲とは単純ではないなと思った」(P174)

「僕もこれまで仕事で、色々な相手と対戦してきた。
ニューハーフもいたし、
老女ホテトルで60歳以上の女性を相手にしたこともあった。
今日のおばちゃんのような、すごいデブにだって何度も当たった。
しかし考えてみると、そういった相手だからダメだったというのは少ない。
むしろ他人が聞いたら羨ましがるような美女、
美少女相手の時の方が肝心の時に役立たずということは、何度も経験がある」(P188)


シェイクスピア「マクベス」のセリフ、「きれいは穢(きた)ない、穢ないはきれい」を
安田理央氏はよくよくわかっておられる。
大学の先生などより、このライターさんのほうが、
深いレベルで「マクベス」を理解することだろう。

(おまけ)文中の「敦煌料理店」は忘れがたい幸福な思い出。
以下のリンクのいちばん下に当時のことを書いた記事がございます。
長文ですが、もし暇を持て余していらしたら↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-category-35.html

「井上靖 シルクロード詩集」(NHKライブラリー)絶版

→宮本輝が「ひとたびはポプラに伏す」のためにシルクロードを旅したのは、
敬愛思慕する先輩作家・井上靖の影響である。
どうしてだか人間は尊敬するものの真似をしたがるようである。
好きな人の真似をしたがる。
自分ではないなにものかになろうとする。演戯するということだ。
宮本輝は井上靖を念頭に置きながら「宮本輝」という役を演じている。

井上靖はだれを思いながらシルクロードを旅したのだろう。
玄奘か法顕か――。
人間はみなみな自分を超えようとする。
井上文学のテーマ=克己(こっき)の思想である。
とはいえ、だれもが克己はかなわぬ。
かなわなくとも克己を目指す人間は美しい。人間は美しい。
そのように人間を見ている「大きなもの」がいるからである。
この「大きなもの」を井上靖は「乾河道」という詩に描いている。
「生きて帰らざる海」タクラマカン沙漠を旅したときのことを思い、作った詩であろう。
全文を引用する。

「沙漠の自然の風物の中で、一つを選ぶとすると、乾河道ということになる。
一滴の水もない河の道だ。
大きなのになると川巾一キロ、
砂洲がそこを埋めたり、大小の巌石がそこを埋めたりしている。
荒れに荒れたその面貌には、いつかもう一度、己が奔騰する濁流で、
沙漠をまっ二つに割ろうという不逞なものを蔵している。
そしてその秋(とき)の来るのをじっと待っている。
なかには千年も待ち続けているのもある。
実際にまた、彼等はいつかそれを果すのだ。
たくさんの集落が、ために廃墟になって砂漠に打ち棄てられている。
大乾河道をジープで渡る時、いつも朔太郎まがいの詩句が心をよぎる。
――人間の生涯のなんと短かき、わが不逞、わが反抗のなんと脆弱なる――」(P90)


山田太一ドラマスペシャル「遠まわりの雨」を視聴する。深く感動した。

ドラマ終盤、由比ガ浜の海岸で秋川桜(夏川結衣)は福本草平(渡辺謙)に抱きつく。
「ずっとこうしたかった」と桜は言う。雨が降る。
草平は「雨か」とつぶやく。桜は草平を抱きしめながら言う。
「いい。雨だっていい」――。
雨だっていいから、こうしていたい。雨だっていい。雨だっていい。
晴ればかりでは、あんまりじゃないか。
近道ばかりでは、あんまりじゃないか。
山田太一ドラマ「遠まわりの雨」の世界観である。雨だっていい。遠まわりだっていい。
みんな晴れや近道を好むのかもしれないけれど、雨や遠まわりもいいものだ。

秋川桜は20年ぶりに前橋まで福本草平に逢いに行く。再会からドラマは始まる。
桜の旦那、秋川起一(岸谷吾郎)が脳卒中で倒れたからである。
起一は工場の社長である。最高の技術を持った、へら絞りの職人。
鉄でもアルミニウムでもステンレスでも、なんでも自由に変形することができる。
とはいえ、不況で町工場はヨレヨレだった。
ヨーロッパから仕事の依頼が来る。コンピュータでは作れない。手仕事でなければ無理。
だから、どうか秋川起一にお願いしたいと依頼が来たのである。
10日で目星をつけてほしいという注文である。
ところが、頼みの綱の起一は倒れてしまう。「もう終わり」と思った桜は草平に逢いに行く。
かつて草平は起一とおなじ工場で働いていた。起一よりも腕がよかった。
いまの草平は勤め先の工場が倒産して、さんざんである。
日曜大工店で大嫌いな販売の仕事をしている。妻子だっている。
いくら20年まえ桜とつきあっていたからといって「ホロッとする余裕なんてねえ」と断わる。
その草平が20年ぶりに蒲田の町工場にやってくるのである。
踏切をわたって故郷ともいうべき懐かしい町に草平が戻ってくる――。

病院で再会する草平と起一。旧友の再会である。20年まえの遺恨を清算する。
脳梗塞の後遺症で半身と言葉の自由が聞かなくなった友はむかしを振り返る。

起一「俺はおまえと桜の仲を知っていて割り込んだ」
草平「それでおまえが勝った。それだけだ」
起一「――」
草平「元カレの俺がおなじ工場(こうば)にいるわけにもいかないから消えたんだ」


山田太一脚本定番の「二人、笑ってしまう」シーンがとてもいい。
草平がホテルに泊まっていることを知った起一はうちに泊まればいいじゃないかと言う。
さすがに奥さんひとりのところに泊まっちゃいけないだろうと草平がやんわり断わる。

起一「いいよ、おまえなら」
草平「泊まっちゃうぞ、コノヤロウ」
二人、笑ってしまう


起一は妻の桜と草平があやしい関係になっていることを知らない。
前日の晩にはこんなことがあったのである。
さびれたホテルの食堂で草平と桜は向き合う。草平は仕事をやってみようと言う。
それから、帰りたくないからだと言う。どうして草平は帰りたくないのだろう。
妻の福本万理(田中美佐子)との仲がギクシャクしているからではない。
15歳になる娘の福本雪菜(川島海荷)が反抗期だからでもない。
どうして福本草平は帰りたくないと言うのだろう。
先に「行く?」と言ったのは秋川桜である。「ホテル、部屋とってるんでしょう? 行く?」
「行きたいけど」と草平は迷う。「私も」とうながす桜。
旦那が倒れているときに、その妻とどうにかなっちゃうのは――。

草平「あんまりだろ?」
桜「そう言うと思った」
草平「バカヤロウ」
二人、笑ってしまう。


「バカヤロウ」は山田太一ドラマの定番ゼリフだが、「遠まわりの雨」ではおかしい。
通常どのドラマでも「バカヤロウ」は1回しか使われないのだが、この物語では4回!
なにが山田太一に「バカヤロウ」を4度も言わせたのか、いち視聴者には知るよしがない。

久しぶりの職人仕事に打ち込む草平のまえに妻の万理がヒステリックに現われる。
万理は夫に問う。仕事を放り投げて、なにをやっているの?
この仕事がやりたいって、やりたいことばかりしていたら、生きていけないでしょう?
万理は「女のカン」で、主人の草平と桜がむかし「出来て」いたことを白状させる。
不安に思った万理はどうするか。
工員全員に草平と桜がおかしなことにならないよう見張っていてくれと頼むのである。
現実にはありえないシーンなのだろうが、田中美佐子の好演がリアリティを与えている。
とてもいいシーンだと思う。

娘も主人も好き勝手なことをして! 万理もやりたいことをやろうと決める。
家には帰らないで東京の街でショッピングのハシゴをする。
このシーンは異様で、万理の強い孤独感を視聴者に印象づける。
ドラマ後半で万理は草平に電話でこう言う。

万理「いいわね、パパはやりがいがあって。
私なんかなんにもない。だれもいない」


「なんにもない。だれもいない」――。
果たして空虚と孤独に苦しむのは万理だけだろうか。そんなことはないのである。
草平もまた「なんにもない。だれもいない」――。
桜もまた「なんにもない。だれもいない」――。
弱い人間は「なんにもない。だれもいない」苦しみを溜め込んでいってしまう。
やりたいことがない、愛する人がいない、生きがいがない、「なんにもない。だれもいない」。
「なんにもない。だれもいない」を溜め込んだ人間はどうなるのか。
結局のところ爆発するしかない。溜め込んでいるといつか「バンと爆発する」。
草平と桜の仲も爆発寸前である。しかし、と草平は爆発をとどめる。
こんな状態でどうかなってしまうのは――。

草平「あんまりだから爆発しないでおこう」
桜「わかった」
草平「――」
桜「うん」
草平「バッカヤロ」
二人、笑ってしまう。


「遠まわりの雨」は、ほかの山田太一ドラマに比して「ひとりシーン」がことさら多い。
「ひとりシーン」は画面にひとりしか登場しない場面のこと。
登場人物の内面を描写するドラマ作法として知られており、役者の演技のしどころである。
なにゆえ「ひとりシーン」が多いのか。
おそらく現代という時代を描いているからだろう。
いまはあなたもわたしも、ほとんどみんな、だれもが「なんにもない。だれもいない」――。
定職があっても「なんにもない」、家族がいても「だれもいない」と感じてしまう。

どうして家族がいても人間は「だれもいない」と感じてしまうのだろう。
草平のまえに現われるのは妻の万理だけではない。
娘の雪菜も草平を訪ねて蒲田の町工場を探し当てる。
帰ってこない母親から父親の居場所を教えてもらったからである。
雪菜は父・草平の生き生きと働いているすがたをはじめて見ると帰ってしまう。

さあ、ドラマの関心は製品の完成に向けられる。
腕利きの職人である福本草平は、困難な仕事を成功させられるのか。
結果は、意外なものとなる。
同時並行でコンピュータでの製品完成を目指していた若い工員がいた。
いまどきの青年の菊池康(AKIRA)である。
康は不可能と思われていたコンピュータでの製造方法を発見してしまう。
草平のほうも完成間近だったのだが、康が先に成功する。
手仕事でしかできないと思われていた製作をコンピュータがやってしまった!
菊池康の勝ちである。わざわざ呼び出された草平の顔は丸つぶれではないか。
草平はいさぎよい。

草平「(康に)よくやった」
工員たち「(拍手する)」
起一「――」
桜「――」
草平「負けた(と康を抱きしめる)。コンピュータに負けたよ」
工員たち「(嫌味なところなく完成を祝い)バンザイ!」
草平「(出口付近で)康くんに負けました(と敬礼する)」


20年まえ女をめぐって起一に負けた福本草平は、今度は仕事でも若者に負ける。
渡辺謙の演じる草平は負けてばかりなのである。
渡辺謙は負けをいかほどうまく演じていることか。
名優は、負けるという感情を一滴残らず吸い込んでいた。
負けるのも悪くはないではないか、という気にさせられる。
雨や遠まわりとおなじで、負けるのもまたいいではないか。

負けた草平が騒がしい大衆居酒屋でひとり酒をのんでいると妻からの電話が鳴る。
ジョッキを持ちながら、草平はいったん表に出る。
草平は万理にコンピュータに負けたことをうまく伝えることができない。
どうしようもなく店外の椅子に腰を下ろすほかない敗北者の福本草平である。
謎の若い女(YOU)が現われ、草平の横に腰かける。
女は街娼のように草平を誘う。「高くない。危なくない」――。
失意の草平は女の誘いに乗るのだろうか。

草平「ひとりでいたくないと思っていた」
謎の女「そう」
草平「ベロベロに酔っ払いたかった」
謎の女「酔っ払おう」
草平「でも、それじゃあんまりだろう?」
謎の女「あんまり?」
草平「負け犬、丸出しだろう?」
謎の女「いけない?」
草平「こういうときこそ、ひとりで、だれにも甘えず、
酒もこれ一杯でやめようと思ってたんだ」
謎の女「へえ」
草平「うん」
謎の女「(ゆっくりと)むかしの男の子なんだ」
草平「そのほうがいいだろう?」
謎の女「(やさしく)バカみたい」
草平「そうか?」
謎の女「(なんだか楽しくなって)バッカみたい」
草平「そうか?」
二人、笑ってしまう。


まるで自主映画のように山田太一はテレビドラマに書きたいことを書いてしまう。
ほとんどのプロデューサーが「ひとりよがり」だと、このシーンを消したがるだろう。
しかし、山田太一はこのシーンを書きたくてたまらなかった。
こんなことはありえないという批判があるかもしれない。
ありえないシーンはいけないのだろうか?
山田太一はありえないシーンを書きたかったのである。
現実にはないものを、それがないからという理由で、脚本家はドラマに書き続けてきた――。

福本草平が家に帰ると変化が生じている。
両親に反抗してばかりだった娘の雪菜が変わっているのである。
なんでも雪菜は家全体をきれいに掃除したという。
むかしからは考えられない。いったい雪菜になにがあったのか。
雪菜は告白する。
蒲田の町工場で働く草平を見ていいと思った。一生懸命で真剣でいいと思った。
草平もまた「隠しておきたくない」と告白する。
仕事がうまくいったのは、自分のちからによるものではないことを。

雪菜「でも、よかったよ、本気のパパ」
草平「でも、仕様がないんだ。本気でも――仕様がない」
雪菜「でも、よかったよ」


「でも」の3連発が心に残った。いいシーンだと打たれた。

タイトル「数日後」「鎌倉」

福本草平は秋川桜に呼び出される。
あれだけ休暇を取ったのにまた休めるのか、などと無粋なことを言ってはならない!
そういう考えかたしかできぬものは、決してドラマを楽しめないだろう。
ドラマを楽しめないものは、人生もまた深く味わうことができないのではないか。

桜はどうして鎌倉で待ち合わせたかわかるかと草平に問う。

草平「むかしレンタカーで江ノ島に行った」
桜「ついでに私は大仏を見たいと言った」
草平「うん」
桜「覚えてるんだ?」
草平「寺や仏なんかいいよって」
桜「砂浜でたわむれた」


センチメンタルでノスタルジック、甘くとろけるようなとてもいいシーンである。
「たわむれた」は口語ではないのだ。書き言葉といってよい。
山田太一脚本は、相当な演技力を持つ俳優でないとこなせないと思う。
二人は20年まえと同様に、いや、まったく違う心境でふたたび砂浜でたわむれる。
20年まえが春だとすれば、二人はもう人生の秋にさしかかっているのだから。
中年男女の恋愛はどうなるのか。
「寝る」のかどうか。思えば、この葛藤だけで最後まで引っぱってきたようなもの!
小さな駅で二人は電車を待っている。草平は「ここでわかれよう」と言う。

草平「入院している旦那からカネ受け取って、この先に進むのは――」
桜「――」
草平「――」
桜「あんまりね」
草平「あんまりだと思ってしまう」


桜は草平を「アンマリダ、アンマリダ男」とからかう。
電車がもうすぐ来るようである。雨は雪になっている。

桜「いまだけ」
草平「うん?」
桜「いまだけ、恋に落ちよう」
草平「――」
桜「電車が来るまで」
草平「――」
桜「(すがるように)電車に乗るまで」
草平「ああ」
桜「――」
草平「いまだけだ(と桜を引き寄せ唇を求める)」


「――(ダッシュ)」の使いかたが巧妙である。
ときに無言の「――(ダッシュ)」はどんなセリフよりも雄弁なことがある。
秋川桜は電車に乗り、福本草平はホームに残る。
桜は電車で泣くけれども、ホームの草平は泣かない。
秋川起一は「ありがとう」と泣いたけれども、草平はこのドラマで一度も泣かない。

以上で「遠まわりの雨」は終わりである。
夕方の番組宣伝で作者の山田太一は語っていた。
いわく、「いろいろシガラミのある中年の恋愛を描きたかった」――。
いわく、「ドラマにとくにメッセージはありません」――。
前者はともかく後者は嘘である。
これだけ「あんまりだ」を連発しておいて「メッセージはない」とは言わせない(笑)。

山田太一の創作作法に踏み込みたい。
脚本家は、ひとりのヒロインを思いついたときからドラマ(人間)が動き始めたのではないか。
大胆すぎる予想だから、書き手の妄想だと聞き流してくださってもいい。
山田太一は「秋川桜」を深く愛したがために「遠まわりの雨」が生まれた。
「秋川桜」というヒロインの名前をよく見てください。
秋と桜が川を挟んで対峙しているでしょう。
ドラマのメイン登場人物はみなみな中年である。人生の秋を迎えている。
秋の男女が川を越えて桜を見に行く!
福本草平が秋川桜に逢いに行くとき踏切を越えるのは象徴的ではないか。
桜が自転車で草平のホテルに行くときにも踏切を越えている。
この踏切が川のイメージではないかと思うのだが、どうだろうか。
実際の川(=橋)を桜が自転車で越えるシーンも確認した。
どこまでシナリオで指定しているのか、とても興味をそそられる。
さて、中年のプラトニックな恋愛など桜のようなものである。
パッと咲いてパッと散っていってしまう。
ドラマにおいても二人の恋愛は、まるで春の桜のように描かれている。
人生の秋に、桜のような恋愛などあるわけがないと人は言うかもしれない。
秋に桜が咲くものか!
中年男女が恋に落ちたら、泥沼の関係になってしまう。
しかし、山田太一は秋に桜を咲かせたかった。一瞬だけ秋に咲く桜を見たかった。
言うなれば、山田太一は「秋に桜を咲かせる」作家なのかもしれない。
「秋川桜」という魅力的なヒロインから、おかしなことを妄想したようである。

最後に指摘したい。「遠まわりの雨」には、ひとつ違和感を感じる場面があった。
山田太一ドラマのラストは、全員集合で終わることが極めて多い。
ドラマの登場人物がどうしてか最後に集まるのである。
ところが、「遠まわりの雨」では「さようなら」で終わっている。
同様のシーンは、山田太一脚本の映画「少年時代」でもあったから(ほかにもあろう)、
あのラストを奇異に思う山田太一ファンはわたしだけかもしれない。
なんだか山田太一のテレビドラマは、これで最後かもしれないという気がしたのだ。
巨匠・山田太一はあのラストで視聴者に「さようなら」をしたのではないか。
いまの日本に山田太一脚本を演じられる俳優がどれほどいるだろうか。
「好きなように書いてください」と脚本家にお願いするプロデューサーが幾人いるか。
この「遠まわりの雨」を見られたのは、最後の奇跡だったのかもしれない、とまで思う。
懸念にすぎぬと思いたい。いや、信じたい。

あまりに饒舌になりすぎたようである。
「遠まわりの雨」を4回視聴してこの記事を書いた。4回とも感動したのである。
以下に「遠まわりの雨」のシナリオ・テクニックをまとめておく。
ドラマ創作者以外は、それほどおもしろい読み物ではないので隠しておく。
もしご興味をお持ちのかたがいらしたら、
お手数でしょうが記事右下の「more」をクリックしてください→→→→(このへん?)↓

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「非属の才能」(山田玲司/光文社新書)

→これもまた成功本です。著者は漫画で成功した(と思っている)模様。
成功本を読む人間は嫌いだから、わたしはたぶん自分が嫌いなのでしょう。
もちろんさすがに素面で成功本を読むほどの向上心はありません。
ブックオフにて105円で買った成功本を酒をのみながら読むのです。
酔っ払って成功した自分を思い浮かべうっとりする。
なんともいじらしいではありませんか。あわれでしょう、泣けるでしょう?

この成功本にはわりかし満足していたのでアマゾンのレビューを見てビックリ。
成功者の著者があろうことかレビュアーにタコ殴りにされているからです。
内容は、ふつうの成功本なんですよ。
まえに読んだ「メシが食いたければ好きなことをやれ!」と似たようなことを主張しています。
変わり者になれ。群れに属すな。流行を嫌え。テレビを見るな。
どうして成功者の山田玲司先生が叩かれなければならないのでしょうか?
おそらく、成功のレベルが少し低かったからだと思います。
イチローやエジソンといった成功例を挙げているわりにご自分は……。
読者は非情なものですね。
書いている内容ではなく、だれが書いているかで判断するのですから。
「おまえは自称成功者じゃないのか?」と思われてしまったのではないでしょうか。

成功者・山田玲司先生の漫画はスピリッツで拝見したことがあります。
周囲の漫画家のレベルがあまりに高いこともあり、
わたしは先生の漫画をあまりおもしろいとは感じませんでした。
(もっともこちらに漫画の批評眼はぜんぜんありませんけれど)
しかし、成功本を書いているのだから山田玲司先生は成功者ではありませんか。
アマゾンのレビュアーは意地が悪いと思った次第です。
これをビートたけしレベルの成功者が書いていたら絶賛の嵐だったことでしょう。
本書の内容はむしろ同著者の漫画よりもおもしろいとわたしは思いました。

成功本は成功するために読む本ではありません。
成功した自分を想像して現実逃避するために失敗者が読む本です。
したがって、みなさんご存知の通り、成功本をいくら読んでも、まあ成功はできないでしょう。
成功法則のようなものはありません。なぜなら成功するかどうかは運ですから。
かといって「運を良くする」本に夢中になるよりは、まだ成功本のほうが健全です。
「運を良くする」は、莫大なカネのかかる新興宗教と紙一重で非常に危険であります。
成功本ならブックオフ105円棚で買えば(山のようにある)大してカネはかかりません。
そのうえ、もしかしたら――。
成功を夢見て成功本を読んでいる時代のほうが、
成功者になってからよりも幸福かもしれない。
成功者は息つく暇もないほど多忙で、なおかついわれのない嫉妬(中傷)を受ける。
成功は目指しているうちが華。みなさんもどこかで気づいているのではありませんか?

「メシが食いたければ好きなことをやれ!」(岡野雅行/こう書房)

→副題は“世界一の職人が教える「自分ブランド」「人づきあい」「心丈夫」の方法”。
いわゆる成功本というやつであります。
いったいどれほどの人が成功本を読んで成功を目指しているのでしょう。
人とおなじことをするのは嫌だから、成功なんて興味がないふりをしていました。
けれども、本音はやっぱりみなさんとおなじで成功したいんです。
それも大きな成功をしたいんだから、ほんと欲深い性質(たち)であります。
業界で細々と食べていくくらいなら、いっそのこと野垂れ死にしたほうがいい、なんて。
いけません、いけません。誇大妄想狂は始末におえませんもの。

やはりわたしもみなさんとおなじなんです。
だって、成功を願って、こういう本を読んでいるのですから。
徹底的にありきたりでしょう。まったく無個性な人間ではありませんか?
これで感銘を受けたところを書き出したりしたら目も当てられません。
ところが、それをやってしまおうというのです。
だれもがやることをやってしまう!
こんな人間が成功できると思う人はまさかいらっしゃいませんでしょう?
ええ、はい、この記事を書くことで、なかば大成功をあきらめてしまったのかもしれません。
というのも、人の真似をするような凡人が大成功などおさめられるはずがないですから。

「余暇で好きなことをやっているのは、仕事が好きでないやつがすることなんだ。
人生の大切な時間を、そんなことでごまかしちゃダメだよ。
俺は仕事が好きだから、1分でも長く旋盤の前に立っていたい」(P1)

「就職を希望するときに、よく「僕は何でもできます!」って言うやつがいるだろう?
俺に言わせれば、オールマイティじゃダメ」(P194)

「自分の仕事に見合った給料をもらうには、
自分をブランド化させてしまうのが一番なんだ。
そのためにはただがむしゃらに働くだけではダメだよ。
仕事ができるっていうのも大切だけど、だれにでもできる仕事ばかりやるんじゃなく、
「これはあいつじゃないと任せられない」って分野を作るんだ。
それには信頼もされないとな」(P51)

「腕に職をつけて、自分でなきゃこの仕事をできないというブランドになれ!
そうすればいつまでも社会から引く手あまただよ。
自分が作るものによって感謝されるんだから、やりがいだってものすごくある」(P105)

「変わってなくちゃダメなんだ。人と違っていなくちゃ成功しないんだよ」(P91)

「だって他の人と同じコトをやっていたって、大して儲かりはしない」(P114)

「あんたの個性が飛び出たところで、
その飛び出たところを必要としてくれる人はたくさんいるはずだ。
俺の場合がそうだったように、
その人たちがさらにあんたを広い世界に連れ出してくれるかもしれない」(P115)

「自分が好きな人やお世話になった人、そんな人たちとの関係を、
本当の付き合いにするかどうかはあんた自身にかかってるんだよ。
人が運も縁も運んでくれるもんだと俺は信じている。
人間づき合いがいくら下手でも、
きちんと誠意を持って接すれば、おのずと人はついてくるよ。
あんたが本当の付き合いをしていれば、
あんたが困った時に、誰かが絶対に助けてくれるはずだよ」(P29)


「生まれ変わる 般若心経のこころ」(ひろさちや/世界文化社)

→ひろさちやばかり、よくもまあ読むものだと思われるかたもいるかもしれない。
ひろさちやは自己啓発書の真逆を説くのである。
自己啓発書の主張は、どれも「がんばれ! 努力しろ!」でしょう。
がんばったら、努力したら、かならず成功できる!
成功できないのは、がんばりや努力の方向性が正しくないからである!
こんなことを思って自己啓発書ばかり読んでいるビジネスマンも少なくないだろう。

ひろさちやは反対なのね。
「がんばるな! 努力なんてやめてしまえ!」を延々と説く。
これがわたしには必要なのね。愛読者もそうなのだろう。
ついついがんばってしまうから……。
努力しなさいという世間からのメッセージが、それはそれは強いからである。
努力するな、がんばるな。では、どうすればいいと著者は言うのか。

「すべてをほとけさまにおまかせすればいいのです」(P83)

これがいちばん安心(あんじん)に近い心理境地なのだと思う。
宗教というものは、この「大きなもの」を認めるところからスタートする。
(創価学会のみ例外で「がんばれ、がんばれ!」と信者を叱咤する……)

病気を治す、ということに対する考えかたになるほどと思った。
病気は治せばいいのか。治せばたしかに長生きはできるかもしれない。
けれども、さんざん苦しむことにもなろう。周囲に迷惑もかけよう。カネもかかる。
だったら、病気を治さずに自然のままに死んでいくのも、
ひとつの生きかたとしてあっていいのではないか。まったくそうだと思う。
病気は治せばいいのかという考えは、生きていればいいのかにも通じる――。

「ナバホへの旅 たましいの風景」(河合隼雄/朝日新聞社)

→心理療法家の河合隼雄がナバホ(アメリカ先住民)地区を旅したレポート。
河合隼雄の関心の主たるものはメディスンマンである。
メディスンマンとは、シャーマン(呪術医・祈祷師)のアメリカ先住民における呼称。
心理療法とシャーマンとの共通性に興味を持ったものと思われる。
メディスンマンはいまも活躍しているという。
それも補助的役割とはいえ、正規の医療現場において、である。
たとえば、うつ病。いまは西洋医学が進歩したため、抗うつ剤の処方が治療のメイン。
しかし、ときどき抗うつ剤の効果のないことがある。
このとき日本では心理療法家の出番となるケースがある。
同様にナバホではメディスンマンの求められることがあるという。
日本の心理療法家とナバホのメディスンマンは対話する。
メディスンマン、アルフレッドさんのやりかたを河合隼雄はわかりやすく紹介する。

「アルフレッドさんは、伝統にのっとって炭を燃やし、
その具合を見て「診断」するという。一種の占いである。
日本の古代には亀の甲を燃やすのがあったと思う。
占いの方法は実にいろいろあるが、いずれにしろ、
そこに生じる「偶然」のなかに意味を汲みとろうとするわけで、
近代科学とはまったく方法が異なる。
近代科学のみ信じる人にとっては、まったく迷信というほかはない。
近代科学が、現象を継時的に見て、
そこに因果の法則を見いだそうとするのに対して、
占いなどは、現象を共時的に見て、そこに意味を見いだそうとするものである。
前者では、観察者(研究者)は現象の外に立っているのに対し、
後者は観察者は現象のなかに自分も立っていることを
よく意識していなくてはならない。
炭による「診断」に基づいて、アルフレッドさんは、
祈りをしたり、スウェット・ロッジを用いたりする」(P111)


スウェット・ロッジとはナバホに伝わる儀式の一種。
独特な閉所にメディスンマンと病者が閉じこもり火を焚く儀式である。
メディスンマンはまず「偶然」を用いて診断をする。
それから「祈り」と「儀式」によって治療を試みる。
河合隼雄は現代日本で「祈り」と「儀式」が軽んじられていることに警鐘を鳴らす。

「儀式の前提としては、超人間的、超自然的な存在への信仰ということがある。
そのような超越的存在に対して、人間が普通に近づくときは、
たちまちにそれに圧倒されてしまう。
したがって、適切な儀式を行なうことによってそれに接近し、
それとともに人間は非日常的なエネルギーの流れを体験する。(中略)
儀式や祈りを通じて、人間は超越的存在に触れ、
それによって自分という存在が深く根づいていることを感じるし、
そこから得た偉大なエネルギーによって事を運ぶことができる」(P141)


ナバホではアルコール依存症が蔓延しているという。
対策としてナバホの伝統的医療(「祈り」「儀式」)が為されていることを河合隼雄は報告する。
アルコール依存症の原因のひとつは個人の不安だという。
ナバホの儀式は「血のつながり」を再認識するうえで重要であると心理療法家は指摘する。
人とのつながりのみならず自然(=山川草木)とのつながりも個人の不安をいやす。
個人はなにかとつながりを持っていないと生きていけないのではないか。
日本人はこれからもっともっと人や自然とのつながりを重要視しなくてはならないだろう。
以上が、ナバホのスウェット・ロッジを実際に体験した河合隼雄の日本への報告の総まとめである。

「縁は異なもの」(白洲正子・河合隼雄/光文社知恵の盛文庫)

→対談集。河合隼雄と白洲正子は、通じ合っていたのだろう。
通じ合う。男女年齢を問わず、人間にはたまさか通じ合う相手が現われる。
だから、生きているのはおもしろい。味わい深い。
あとは引用するほかない。河合隼雄の言葉から――。

「どこかの企業なりパトロンなりが、百万人に一人の暇人に金を払えばできるんです。
つまり芸術というのは何もしない人に金を払っていないとだめなんです。
何もせん人に金を払っているうちに何かする人が時々現われるんです。
それが今は、何かする人にしか金を払わない。
なんでも計算してしまいますからね。
計算を越えたところに金を使うべきなんです。
昔の貴族たちはそうしていましたよね。
私の好きな言葉に『芸術は贋物を厚遇しなければだめだ』というのがありますが、
本物だけを厚遇しようとすると、本物はでてこなくなるんです。
何にもしない人というのは、なくてはならぬ存在なのです」(P112)


「賭ける魂」(植島啓司/講談社新書)

→先月は(わたしにとっては)狂ったように忙しく、まったく好きな本を読めなかった。
今月になってようやく好きな著者の本を読むことができた次第である。
改めて気づく。好きな本を読むほどの幸福はめったにないことを。
本書によけいな解釈をはさむのはやめよう。
ギャンブル狂の(当時)大学教授(宗教人類学専門)の声をともに聞いてほしい。
人生は運である。ならば、人生は偶然だ。ならば、人生は賭けだ。
以上、わたしとまったくおなじ人生観を植島啓司は持っている。
当方ギャンブルはやらないが、好きな作家が賭け事好きなことは非常に多い。
ギャンブルをやらないのは、本番の人生で大博打を打っているからかもしれない。

「意外に聞こえるかもしれないが、
ギャンブルでもっとも大切なのは『信じる』ということだ」(P42)

「もっと極端な言い方をすると、旅のみならず、
秘訣は『自分をマイナスの状態におく』ことにある。
マイナスの状態とは、負けることであり、自分を失うことであり、
社会から遠ざかることでもある。勝つことは社会に属しているが、
負けることは一時的に社会の外側へと放り出されることである。
しかし、もしかしたら、それによって逆に1000倍の利益が得られるかもしれない」(P50)

「羽生善治が『将棋の手はほとんどが悪手である』というとき、
われわれの心に何か響くものがある。
いつでも『そのままでよい』という選択肢があるんだというメッセージである。
なにも一生懸命に努力したからといって、よくなるとは限らない。
それよりも、たとえば人を愛することを大切にしたらどうだろう。
努力すればいろいろなものが手に入るかもしれないが、
ある種の居心地のよさばかりはもっと別のところからやってくる。
もしかすると、意外に近いところにあったりもする」(P77)

「仕事ならバカでもできるが、遊びはバカにはできない」(P125)

「要するにギャンブルの勝ち負けなんて死んでみなければわからんということである」(P137)

「もっとも大事なことはむしろ“負けること”の背後に隠されているのである。
人生では“勝つ”なんてことはめったになくて、
よくてチャラ、ほとんど負けてばかりなのだ。
歳をとって、皺だらけになって、病気になって死ぬのが人生。
不意に骨折したり、子どもが病気になったり、大切な人が死んだり、
と色々な悩みを抱えていくのが人生だ。
そもそも負けのない人生なんてあり得ない。
それに対して、勝つという経験は実際にはそれほど多いわけじゃない。
あったとしてもせいぜい受験に合格したとか、
入社試験をクリアしたとか、昇進したとか、その程度でしかなくて、
負けたときにだけ痛みを感じるというのがまさに人生なのである」(P162)

「マージャンでは、よく『相手に振り込んではいけない』と教えられるが、
そんなこともないと彼(=プロの桜井章一)は言う。
振るべきときはきちんと振らなければならない。
雨が降るときは雨、晴れるときは晴れというように
自然の流れに的確に対応できるかどうかが大切なんだとのことである」(P192)


「図解雑学 ジェンダー」(加藤 秀一・海老原暁子・石田仁/ナツメ社)

→学問とかもうどうでもいいからぶっちゃけると、女になりたいんだよね。
男女というのは誕生時になにものかに決められた、言うなれば配役でしょう。
決して変えられぬ配役が性別なのだと思う。
でも、じゃあ、性別ってなにかと思うとよくわからない。
何年前だったかな。ネットで長らく性別をいつわっていたことがある。
おもしろいように男がホイホイ引っかかった。(自称)女にもばれなかった。
幾通むくつけき男性からラブメールをもらったことだろう。
そのうちの一通は男を装った女だったりして、これは楽しい思い出(笑)。

こんな体験からなにか結論を出すのはおかしいことなんだろうけれど、
女よりも男のほうが女のことをわかっているということがあるのではないか?
反対に、男よりも男に通じている女というのもこれまたいるかもしれない。
いや、全体として男は女よりも女をわかっているとも言いうると思うのだが。
反対もまたおなじことが言えるのではないか。
というのも、鏡は実際の像とは違うわけだから。
女は男になって女を見ることができない(しつこいが逆もまた真なり)。

ネカマをしていた時期は楽しかった。
じゃあ、本当の女になりたいのかといったら、むろんそうではない。
男から見た女になりたかったわけで、結局は男のままでいたいということだ。
性というのは与えられた役割でしょう。
こう考えたとき、異性装(男装、女装!)というのは、ものすごく魅力的ではないかと思う。
もう最新学問「ジェンダー」からだいぶ離れたように思われるかもしれないが、
本人は最先端を行っているという驕りもあるのである。
異性装は相当におもしろいものではないか?
最近、新たな女装を覚えた。
シナリオを書いているあいだは、男も女になれるのである。
老人にも金持にも乞食にもなれるのだから創作ほど楽しい遊びはない。

「ハムレットQ1」(シェイクスピア/安西徹雄訳/光文社古典新訳文庫)

→現存する「ハムレット」刊行本は3つ。
ハムレット生前に出版されたQ1、Q2。死後に全集として出されたF。
(QだのFだのは本の形に基づいている略称)
従来、最初に出版されたQ1は海賊版と見なされていた。
端役を演じた俳優が記憶をもとに再現して出版社に売り込んだという説が有名。
ところが、最近Q1を「ハムレット」の原形と見る風潮があるらしい。

Q1の特徴は、とにかく短いこと。
従来の「ハムレット」(Q2、F)の半分とまでは行かないが、
それに近いまでセリフが削られている。
しかし、上演を考えると2時間で収まるQ1はむしろ魅力的ではないか?
訳者の安西徹雄はこの方針に基づき実際に上演もしたという。

Q1を読んだ感想は、なによりもわかりやすいということ。
まったく無知の子どもに4時間以上もかかる「ハムレット」を見せても理解できないと思う。
ところが、こちらのQ1だったら、無駄は一切省かれているから理解が容易である。
珍説奇説のたぐいを書いてみよう。
芸術家シェイクスピアの書いた「ハムレット」はおそらくQ2やFなのだろう。
しかし、あんなものを実際に上演したところでカネが儲かるはずがない。
立ち見客が4、5時間も我慢できるとは思えない。
だれかがシェイクスピアに無断で改変してしまったのではないか?
皮肉なことに無断改変版で大当たりを取ってしまった!
(だからQ1が出版され、怒ったシェイクスピアが正しいQ2を上梓した……)

Q1は商業的としか言いようがない簡潔さを備えている。
ドラマの骨格が本当にわかりやすくなっているのである。
「ハムレットQ1」からドラマの原型を拾うのはたやすい。

ハムレットがホレイショに言う。これから狂人の真似をするが、あくまでも真似だ。
だが――。

「いかにもおれの秘密を心得ているかのような、
そんなそぶりは毛ほども見せるな」(P49)


秘密を守ってくれとハムレットは親友に頼んでいるのである。
ハムレットの異常行動をめぐる秘密がこれからドラマを進展させいく。

王の寵臣・ポローニアスは言う。

「つまりはだ、こうしてわれわれ世の中を知る人間は、先を読む。
裏から攻めて、表を取るのだ。わかったな?」(P51)


これこそ「ハムレット」劇全体を動かしている策略である。わかったな(笑)?
ふたたびポローニアス――。

「さよう、ハムレット様は、よくこの回廊をお散歩なさる。
オフィーリアに、ここを歩かせておきましょう。やがて、王子がお見えになる。
で、陛下と私は、壁掛けの陰に身を隠し、二人の出会うところを立ち聞きすれば、
王子のお心のうちも、おのずと知れようと申すもの」(P59)


ハムレット「貴様の親父はどこにいる?」
オフィーリア「うちにおります」(P62


本当は物陰で立ち聞きしているのである。オフィーリアは嘘をつく。
ハムレットはオフィーリアの嘘に気づく。まさにドラマでしょう? ドラマは嘘なのだから。
みたびポローニアス――。

「大丈夫、秘密はかならず探り出してご覧に入れます」(P64)

ハムレット陣営も黙っていない。ハムレットのセリフ。

「もっと確かな証拠がほしい。芝居だ。
芝居を使って、奴の良心を罠に掛ける。それだ」(P76)


どちらも「本当のこと」を知りたがり、がためにいろいろと仕掛けていく。
心理劇のおもむきさえあるこの応酬こそ、ドラマ「ハムレット」の魅力なのである。
やたら長い独白は芸術としてはいいのかもしれないが、およそ商業的ではない。

Q1のいちばん大きな相違点は、ハムレットの母親、王妃の立ち位置である。
Q1版において、王妃はハムレットの完全な味方になっている。
現在の夫の悪だくみを知った王妃は、ハムレットを心配し同情を寄せている。
こちらのほうが最後に毒杯をあおぐとき悲劇的効果が高まると思われる。
従来バージョンだと最後まで王妃の立場がよくわからないのである。
「わかりやすくしろ!」は、たとえばいまの日本のテレビ番組プロデューサー最愛の文言。
「わかりやすくしないと数字(視聴率)は取れない!」――。
Q1のほうが(Q2、Fよりも)客が入ることはほぼ間違いあるまい。

Q1は話の筋がはっきりしているので、改めて気づいたことがある。
「ハムレット」劇は、ある種の宿命(仏教的因果)を描いている。
というのも、父を殺されたハムレットが、
レアティーズの父(ポローニアス)を殺してしまうのだから。
今度はレアティーズが新たなハムレットになり復讐に燃えるのである。
全体として見ると、ハムレットという役がレアティーズに移行しているとも言いうる。
現代風に言うならば、犯罪被害者だったハムレットが、逆に犯罪者になってしまう。

「ハムレット」が好きである。「ハムレット」に出逢わなければ、
膨大な海外戯曲作品を読み込むようなこともなかっただろう。
このたび、めずらしい「ハムレットQ1」を邦訳で読めたことをとても嬉しく思う。
「ハムレットQ1」を世に出してくれた出版関係者に感謝したい。

「続 ばらっちからのカモメール」(鴨志田穣/西原理恵子/スターツ出版)

→ダメ男を助けてくれるイイ女というのは、いったいなんなのだろうか?
カモもどうして自分がサイバラから愛されるのか最期までわからなかったと思う。
カモとサイバラの関係を思うとき、希望と絶望、どちらが正しい感想なのか。
人生、捨てたもんじゃない、なのか。人間は怖い、と打ち震えるべきなのか。
おれもダメ男だよな~。しかし、カモまでは至っていないと思う。
カモレベルに到達するのは、上がればいいのか、落ちればいいのか。
アイヤー、難しいところであーる♪

「いくたびか、アジアの街を通りすぎ」(前川健一/講談社文庫)絶版

→東南アジアをぷらぷら遊び歩く以上の幸福はないのではないか。
日が沈むと屋台の発光する、あのぬくもりに満ちた灯火よ!
灯りに吸い寄せられ大勢の客のひとりとなる安らぎといったらない。
ホカホカのつまみをたいらげ、冷たいビールをのみほす開放感!
酔眼にうつる異国の風景はとろけるようである。
この作品は、そんな幸福だった日々を思い出させてくれる良書である。

「からみ隊―噂の店は旨いか怖いか」(辛口ミシュラン探検隊/講談社)

→客にケンカを売るような高級料理店に潜入取材。
実態をすっぱ抜くという企画。大いに笑わせてもらった。
悪口を書かれた料理店は、とても嫌な気がしたことだろう。

いま不景気だからかテレビでグルメ番組が多いでしょう。
「おいしい」「おいしい」の連発。
もちろん嘘なんだけれど本当のことをいうのもオトナ気ない。
「うまい」とひと言いえば、店も視聴者も納得するのだから。
タレントも恨まれないで済む。

「うまい/まずい」は、よくわからんよね。
どうしても「好き/嫌い」が侵入してきちゃうから。
「まずい」ものでも「好き」ならおいしい。
「うまい」ものでも「嫌い」ならまずい。
みんながうまいと感動するような食べ物はないのだと思う。
これは小説やドラマといった芸術作品でもおなじこと。

かといっておのれの舌を鍛えたらいいのかもよくわからない。
だって、なんでもおいしいと思える人が、
もしかしたらいちばん幸福なのかもしれないのだから。

「グルメの嘘」(友里征耶/新潮新書)

→グルメ記事、グルメ番組の裏側(癒着、不正など)を告発した本。
たいへんおもしろく読んだ。人がやらないことをやる作者は業界の異端児。
並み居る高級店のインチキぶりを赤裸々に書きたてる作者の情熱には恐れ入った。
作者は毎晩のように高級店で飲食する。
ブログで酷評するのを生きがいとしておられる模様。
いろんな人間がいるものだと思う。
我われ平民は安居酒屋のつまみでもおいしく結構それなりに幸福である。
ところが友里征耶氏の舌はどこの高級料理店も満足させることができない。
毎日、このレストランはひどいとブログでくさすことが氏の幸福なのだろう。
人間の幸福はまったくさまざまである。

みんな自信がないのだと思う。
果たして、だれかが美味いと評価したレストランの料理がいいのだろうか。
友里征耶氏が批判する高級店は、本当に味が落ちるのだろうか。
どうしてみんな自分の舌を信じないのだろう。
どんな閑古鳥が鳴く料理屋だって、あなたが美味いと思えば、それでいいのである。
大間の本マグロよりも蟹カマボコのほうが美味いという人がいてもいい。
いや、どうして蟹カマボコは本マグロよりも劣っているのだろうか。
好きなものを食べるのが幸福であって、行列店の料理など本来幸福とは無関係なのだ。

3月27日、21時から山田太一ドラマ「遠まわりの雨」が放送されます。
(*プロ野球の延長があるので要注意!)
山田ドラマファンとうちのブログの読者様はかぶっているから、
わざわざ告知しなくてもご存知でしょうが、一応念のため。

ぶっちゃけ、山田太一脚本をコンクールに出したら落とされると思うんです。
「ひとりよがり」だの「登場人物の行動が不自然」だの、酷評されて。
ファンにとっては、そこがいいんですけれどもね。
「みんなから好かれる」ものは熱狂的なファンを生みません。
視聴率絶対主義は、「みんなから好かれる」が根本思想でしょう。
いえ、だから、どうというわけではないんです。
テレビなんて本来いかにして視聴者を消費マシーンにするかという媒体ですから。
すなわち、どうやって視聴者の思考力を奪ってスポンサーの商品を買わせるか。
山田太一ドラマのようなものの放送されることが本当はおかしいんですね。
「同棲時代」(山田太一/「月刊シナリオ」73年4月号)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和48年放送作品。
原作ものを好まない山田太一の筆なる極めてめずらしい漫画原作のシナリオである。
原作ものの脚色のやりかたを学ぶために再読した。
とはいえ、大ヒットしたという原作漫画を読んでいないから比較はできない。

ドラマ的状況というものが古来あるのだと思う。
ストーリーにドラマ的状況を当てはめていけば脚色が完成するのではなかろうか。
たとえば、秘密がばれないかハラハラする。
相手の嘘を見抜く、といったものがドラマ的状況である。
原作をシーンに分断してドラマ的状況を作っていくのが脚色という仕事なのだと思う。
どこまで自分を入れるかは脚本家の個性によるだろう。
映画シナリオ「少年時代」とは異なり、
本作において脚本家はあまり自分を入れなかったようである。
だから、おもしろくないのかどうかはわからない。

脚本家にとって自分とはなんだろうか?
おそらくドラマ的状況を切り貼りすれば自分など入れずに脚色は可能である。
しかし、それでおもしろくなるかといったら、そう簡単には行かない。
一応ドラマの形式にはなっていても魂が入っていないものになってしまうのではないか。

(参考)以前の「同棲時代」感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-986.html
「少年時代」(山田太一/「’90年鑑代表シナリオ集」/映人社)絶版 *再読

→映画シナリオ。平成3年公開作品。
本作で山田太一は日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞している。
むかし初めて読んだときは、このシナリオのよさがあまりわからなかった。
自分も創作するようになったからだと思う。
このシナリオが日本アカデミー賞最優秀脚本賞にあたいする理由がよくわかった。
映画はト書きで、テレビドラマはセリフなのだと理解した。
同時期に行なわれた「ドラマ」の山田太一インタビューから引こう。

「映画の場合は、映像を頼りに出来るという要素が大きいですね。
ですから、立山連峰が背景にあって、そこを少年がとぼとぼと一人で歩いて行く
というロングショットだけで、もの凄くいろんなものを語ってしまうというところでは、
あえてシナリオとしては“歩いている”としか書かない。
書かない快感がありましたね。テレビは映像をそんなに頼れない。
その時、お客さんが見てなきゃ終わりですから。
テレビドラマと映画はやっぱり相当違うもんですね。
書き終えた時、映画だからこそ、セリフ少なく説明少なく
投げ出すことが出来たという気持ちがあったわけです」


映画シナリオ「少年時代」はシーンが雄弁である。
(セリフならぬ)シーン(=ト書き)でわからせようとしている。
印象的なところをひとつ抜き書きする。
戦争中、進二少年は都会から田舎にひとり疎開で来ている。静江は進二の母。

○B29の編隊・ニュース・フィルム
静江の声「進二君へ。田舎の暮らしにもすっかり馴れて、元気でやっていること、
お父さまと喜んでいます。東京はこのごろ空襲が続いています。
わが家はなんとか無事で」

○風間家・土間(夜)
辰男のむしろづくりの手伝いをしている進二。
静江の声「お父さまもお兄さまも、みんな勝利の日までと頑張っています。
進二君も、田舎の自然の中で、大きく育って下さい。
日本の偉い人たちも、大抵は田舎で育ったのです。
田舎の素朴で親切な人たちの間で、のびのびと少年時代をすごしていることを、
お母さんは淋しいけれど、よいことだと思っています」
黙々とした作業の間あって――。

○表
雪が降っている。

○校庭(昼)
雪合戦する五年生。
張り合って投げる武。
雪をつくる清と喜助。進二。登が、そこへコブシより小さい石を十数個持って来る。
すぐ喜助と清、それを雪の中に入れて握る。
驚く進二。しかし、なにもいえない。
相手方の河村、野沢たち、ワッと頭をおさえたりする。
武、大喜びで投げる。
進二、そういう武が信じられなくて立つ。激しく雪をぶつけられてしまう」(P150)


シーンの対照がとてもうまい。田舎のガキは凶暴でなにをするかわからんという現実――。
母の思う田舎のイメージと現実のギャップが、巧みに対照されているように思う。
映画シナリオ「少年時代」で作者はことさら「――(ダッシュ)」を好む。
いいシーンはほとんど「――(ダッシュ)」ばかりである。

ガキ大将の武は仲間に裏切られ一転して立場は最下位となる。
進二は、新たなボスの須藤から武を殴るように言われる。夕方の神社。

須藤「進二や」
進二「俺は、ええけに」
須藤「憎いいうたやないけ」
武「――」
進二「――」
須藤「ひどい目に遭うたんやろ」
進二「――」
武「(目を伏せている)」
須藤「やれや」
登も太も、息をのんでいる。
進二「――」
武「――」
進二「(殴る)」
武「(ゆっくり立直る)」
須藤「もう一つや」
進二「――」
武「――」
進二「(殴る)」
武「――(こらえる)」(P159)


いつもはセリフ過剰な山田太一が、あえてセリフを書かぬことを楽しんでいるのがよくわかる。
山田太一の偉大なところはここだ。作家はシナリオ創作が楽しいのである!

(参考)以前の「少年時代」感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1761.html

「終りに見た街」(山田太一/「作品集1」大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和57年放送作品。
最初に山田太一は小説「終りに見た街」を書いている。
のちにテレビドラマ化。脚本はもちろん山田太一である。
原作小説をどのようにシナリオにしたらいいかの勉強として読んだ。
ある程度長期間にわたる物語をシナリオ化するにはナレーションが最適だと学習する。

物語はタイムスリップもの。現代の家族が戦争中にタイムスリップしたらどうなるか。
山田太一は巨匠と呼ぶにふさわしい。
テーマ性が非常に強いのだけれども、エンターテイメント性もまた強力なのだから。
「ドキドキ」の作り方が本当にうまい。
視聴者の心理状態を常に「ドキドキ」に置いておければいちばんいいのである。
秘密(タイムスリップ)が、果たしてばれるのか、ばれないのか――。
追われるものと追うもののせめぎ合いにハラハラさせられる。
同時に、ドラマは「仕掛け」でもある。
家族は東京大空襲の死者を少しでも減らせないか現実に「仕掛け」ていく。
現実を変えようと人間が「仕掛け」ていくのがドラマなのである。

作家が書きたいものを書くと硬くなってしまうことが多い。
どうすればエンターテイメント性を失わずにいられるか。
結局のところ、作者の「遊び心」いかんなのだと思う。
このシナリオを書きながらニヤニヤしていた山田太一の顔が思い浮かぶ。
もちろん、怒りながら書いてもいたのだろう。ただ、それだけではなかった。

連続テレビドラマの初回は難しい。
視聴者にドラマの状況を説明しながら、同時に関心を惹かなければならないからである。
巨匠・山田太一がどのような処理をしているのか学んでみた。
参考にしたのは「想い出づくり」「ふぞろいの林檎たち」「夢に見た日々」
「緑の夢を見ませんか?」「それぞれの秋」「男たちの旅路」――。
山田太一ドラマの特徴を以下に列記した。
どうしたらドラマがおもしろくなるかのポイントでもあるのだろう。

・切実な本音を登場人物が口にする。
・コンプレックスを持った人間を描く。
・コンプレックスから人は嘘をつく。
・どこかに急ぐシーンはいい。
・なにかを探すシーンもまたいい。
・いかに謎を作り視聴者に関心を持ってもらうか。
・ナレーションをうまく使うと主人公の内的世界に視聴者を手早く誘引できる。
・視聴者を脅かす事件を起こすといい。
・リアルな生活実態を数字をまじえて述懐させる。
・秘密を作ろう。秘密を隠そう。
・本音と建前の衝突がドラマを生む。
・登場人物にAかBか迷わせるといい(あなたならどうする?)。
・いかにシーンを飛ばすかがシナリオのテクニック。
「高校教師 第10回・最終回」(野島伸司/「月刊ドラマ」1993年4月号)品切れ

→連続ドラマ・シナリオ。平成5年放送作品。
天才脚本家の最高傑作をシナリオで味わえる喜びにひたった。
ケチなわたしがにっくき矢口書店で1500円も支払い買い求めた貴重なシナリオである。
野島伸司は人の出し入れがとにかくうまい。
視聴者を惹きつける手腕は、最上級だと思う。
些細なところが実に巧みなのである。たとえば――(隆夫:真田広之、繭:桜井幸子)。

○公園
女の子の母親が呼びに来る。
今まで楽しそうに繭と話していた少女、弾けるように去っていく。
繭「……」
繭、ゆっくりと立ち上がる。
隆夫が近づいて来る。
繭「……」
隆夫「(微笑んで)心配いらないよ」
繭「(微笑んで小さくうなずき、球根栽培のヒヤシンスをかかげる)」
隆夫「さ、帰ろう」
隆夫、繭に上着を掛けてやる。
二人、並んで歩いていく。
その背中がどこか儚く、今にも消え入りそうで……。
N「あの時の僕達は、ただそこに砂の城を築こうとしていたんだね。
ほとんど人の来る事のない、小さな公園の片隅に……」(P115)


ドラマは出逢いと別れの繰り返しである。
どう出逢わせ、別れさせるかでドラマ作家の力量が推し測られよう。
以下に抜粋するシーンもさりげないのだが本当にうまい。

○通学路
下校する生徒達の中、隆夫が歩いている。
繭、後ろから小走りに来て、耳元で“バス来るよ”と囁いて行く。
隆夫「(周囲に生徒達がいるので走れない)」
繭、ずっと前でチラッと手招きする。
隆夫、とぼけた顔で早歩きになり、角を曲がって猛ダッシュをかける。

○大通り
停車しているバスに繭が入って行く。
繭「(運転手に)もう一人来ます」
隆夫、走って来る。
繭「先生、早く!」
隆夫、息荒く駆け込んで来る。
繭「遅いなぁ」
隆夫「(財布から小銭を出し)周りに見られてるんだから。
仕方ない……(後ろの方に生徒がいるのに気づく)」
繭「(あ、いたんだと口を押さえる)」
二人、いるんじゃないかと隠れて互いに肘をつつき合う。
発車するバス」(P120)


スピード感があるでしょう。
そのうえ、高校教師と女子高生の甘い秘密が情緒的に描かれている。
野島ドラマの魅力は、過剰なまでのセンチメンタリズムだと思う。
繭と同級生の直子(持田真樹)の別れのシーンがいい。
引用ばかりだが「うまい、うまい」としか言いようがないのである。

○カラオケボックス
繭が歌う。
直子、口笛を吹いて盛り上がる。

○道(夜)
繭と直子がゲラゲラ笑いながら来る。
直子「あーぁ、歌い過ぎで喉痛ぁ(腕時計見て)ウェッ、もうこんな時間だよ」
繭「じゃあたし帰るわ」
直子「バイ、明日学校でね」
繭「バイ」
直子、手を振って行く。
繭「ナオ」
直子「(振り返る)?」
繭「あたしさ……」
直子「ん?」
繭「友達はナオだけだったよ」
直子「え?」
繭「(ニコッと)」
直子「(少し照れて)おぅ」
繭「おぅ」
繭、スキップして去って行く。
直子「……(チラッと気になって見る)」
繭、遠去かって行く」(P124)


テレビドラマ「高校教師」をリアルタイムで興奮しながら観ていたわたしもまた、
繭や直子とおなじ高校生だった。17年前の話である。
昨日なんだか星を見たくなり、ひとり川口市立科学館にあるプラネタリウムにおもむく。
ところが、この日15:00開始の回は、ある先生の講演会で中止だとか。
だったら、ホームページに書いておいてくださいよ、と抗議するがどうしようもない。
無理なものは無理なのである。

おもてはちょっとした広場になっていて家族連れが歓談している。
通報されないか恐れながら、コンビニで缶ビール(もどき)を購入。
青空のしたのみはじめる。
どこから見ても不審者だが、祝日だから警察には通報されまいと踏んだのである。

ふと目をやると科学館のおとなりがNHK放送ライブラリーであった。
まえからここは知っていた。過去のNHK番組を無料で視聴できる。
未見の山田太一ドラマがあるかもしれないと以前から興味があった。
とはいうものの、川口だから土地勘もない。
面倒でなんだかんだと先延ばしにしていた。

こんなところに放送ライブラリーがあったとは!
館内に入ってみる。
残念ながら観たかった「男たちの旅路スペシャル~戦場は遥かになりて」はない。
第1部から4部までそろっているのにスペシャルだけ入っていない。
とはいえ、山田太一ドラマ「風になれ鳥になれ 」を発見。
さっそく視聴すると、これがたまらなくおもしろい。
まわりに人がいるのに、ひとり大笑いして、また泣いた。
なんてドラマはいいものかと打たれた。やはりドラマを書きたい、と強く思った。

川口市立科学館のプラネタリウムが目的で来たら、どうしてか山田太一ドラマと巡り合う。
Aを目指して行ったら、なにゆえかBに着いてしまう。
旅なれた人なら首肯してくれるだろうが、旅先ではこういうことがよくある。
というか、このような「AではなくB」に着いてしまうのが旅の醍醐味といってもよい。
なぜかわからないけれども、当初予定していた目的地のAには行き着かない。
代わりにBというまったく思ってもみなかった場所に行き当たってしまう。

大げさすぎるのは承知しているが、あるいは人生もこのようなものかもしれない。
Aになりたいと強く願っていた青年が、どうしてかBになってしまう。
成功した人のなかに、あんがい「AではなくB」でうまくいった人間が多いのではないか。
フランス料理のコックにあこがれていたら、なぜか寿司職人になってしまった。
そのうえ、けっこう楽しく予想外の成功をしてしまったりする。
Aにこだわらないことが、もしかしたら重要なのかもしれない。

長らく小説家にあこがれてきたが、最近なぜだが応募するシナリオをせっせと書いている。
山田太一ドラマのファンだったけれど、まさか自分がシナリオを書けるとは思わなかった。
書いてみるとなかなか(いや相当に)楽しかったりもする。
シナリオ・センターに通うのを決めたのも周囲のすすめである。
通っていたらどうしてだか追い出されて暇つぶしにコンクールに応募するようになった。
むろん、ものになる可能性は極めて低いのだろう。
だが、作家の山口瞳の主張する「人生、仮末代」という文言はしみじみと味わい深い。
この先どうなるかわからないが、なるようになるのだろう。
ならなかったら死ぬ。それまでのことだと思う。風の強い日が好きだ。
主役を考えてみることで、いわゆる業界の整理ができるのではないか。
頭のなかがすっきりするのではないか。たとえば、こんなふうにである。
演劇の主役は俳優である。
映画の主役は監督である。
テレビドラマの主役はプロデューサーである。
お気づきだろうが、どの分野でも物書きは主役ではない。
脇役、もっと言ってしまえば裏方なのかもしれない。
このことをよくよく理解することが物書きには必要なのだと最近思い当たった次第である。

いちばんいいのは主役がホン(台本)を書いてしまうことだ。
演劇は役者が芝居を書いて演じればよろしい。
映画は監督が脚本を書いて撮ればよろしい。
ドラマはプロデューサーが大ヒット確実のシナリオを書けばよろしい。
実際、こういうケースも少なくない。
ところが、大人の事情でこの理想形の崩れることがあるのだ。
このとき物書きが呼ばれるのだが、書き手は断じて主役ではない。
カギがないとドアが開かないから仕方なく呼ばれた職人のようなものである。
ドアのまえに立つものはみなみな本当なら自分で開けてしまいたいと思っている。
ドアひとつ開けるのなどなんでもないことだと本心では職人をバカにさえしている。

職人は仕事をすればいい。ドアを開ければいい。
物書きはホンを書けばいい。しかし、物書きは主役ではない。
芝居だったら俳優陣からいろいろ注文をつけられるだろう。
映画なら監督に現場で大きく改変されても文句は言えない。
ドラマの書き手はプロデューサーから何度も
「これじゃ数字(視聴率)を取れないだろう」と罵倒される。
なんのために物書きはこうも不遇なのか。主役ではないからである。
物書きが主役になれるのは小説である。

おそらく、多くの人間にとって主役を演じるのがいちばん楽しい。
俳優が舞台に上がったときの昂揚はたとえようもないことだろう。
映画監督の喜びはどうだ!
「これじゃオレの世界は出ない」と脚本家に何度も何度も書き直させるエゴの充足感よ!
脚本家が寝ずに書き上げたシナリオを現場で大幅に改変する快感はいかほどか。
プロデューサーの喜悦も想像に難くない。
タレントというコマ、演出家というコマ、ライターというコマ。
3つの手ゴマを自由に動かしみずからが売れると信じるドラマを製作する全能感は、
神になったにも等しいほどの快楽をプロデューサーに与えるはずである。
プロデューサーのみ正社員ゆえ、たとえ失敗しても失業の恐れがないのもいい。

わかりやすく整理してみると以下のようになるのではないか。

・演劇→(主役)俳優(脇役)演出家、劇作家(裏方)プロデューサー
・映画→(主役)監督(脇役)俳優、プロデューサー(裏方)脚本家
・ドラマ→(主役)プロデューサー(脇役)タレント(裏方)演出家、ライター
・小説→(主役)作家(脇役)読者(裏方)編集者

配役を決めるものがある。わかりますか? おカネである。
物書きはおカネをもらいホンを書けない映画監督や俳優の代わりに書いてやる。
主役にとってホンは購入した商品に過ぎないから自由に書き換えられる。
物書きは悔しかったら小説を書けばいいのである。
俳優は本来、芝居をやるのがいちばん楽しいのだが、おカネのためにドラマに出演する。
仕事が来ない映画監督はおカネのためにテレビでやっつけの演出をする。
プロデューサーはおカネのために小説を読み、作品を映像化できないか考える。

脚本家など志望するものではないということだ。
(売れる)小説を書けないものが仕方なく就く専門職がシナリオ・ライターなのだと思う。
挫折したものがやむなく目指すものであって最初から夢見るものではない。
しかし、そこがいいところかもしれなく(本命の小説ではなく)どうせシナリオなのだから、
と断念してライターは映画監督やプロデューサーの無茶苦茶な要求にも耐えられる。
どんな横暴にも(いつか書くと思いつつ書けないだろう)小説を夢見て我慢ができよう。
もしかしたら奇跡が起こっていつかいつか山田太一ドラマのような、
脚本家が主役のドラマを書ける日が来るかもしれないじゃないか!

業界に片足を踏み入れたことで学んだことが多々あった。
なかなかスクールでは教えられないことである。
現状を知ったら夢を見てスクールにカネを注ぎこむ阿呆者がいなくなってしまうからだ。
それでも、そうと知りながら、わたしはもう片方の足を泥沼に入れたいと思う。
なかにはこの記事に書いたようなことを丁寧に教えてくださる人もいる。
きっと悪いことばかりではないのだろう。
なにより、わたしはもう元には戻れない身なのだから。
もう安定した人生には戻る道がない。
かえって踏ん切りがついていいのかもしれない。
もし堅実な人生を歩んでいたら、最初の一歩を踏みだすには相当の勇気が必要だ。
「この道しかない春の雪ふる」(山頭火)――。
「ちゅらさん 第1週」(岡田惠和/「テレビドラマ代表作選集2002年度版」)

→NHK連続テレビ小説シリーズ・シナリオ。平成13年放送作品。
脚本家が乗りに乗って書いているのがわかる。
これを書きながらさぞかし幸福を感じたことと思われる。
学んだテクニックをいくつか書き出しておく。

1.危険で観客の不安をあおろう!
(恵理が高い木に登るのでハラハラする)
2.先をじらそう!
(「頼みがあるんだ」「何?」で次のシーンに飛ばしてしまう)
3.期待に応えよう!
(死をまえにした少年が「まだかな、お父さん……」。駆け込んでくる父)
4.イメージをうまく使おう!
(少年が死んだ瞬間、鳥が大空に飛び立つ)
5.シナリオのテクニックとは、要するにいかにして観客心理を手玉に取るか!

「輝く季節の中で 第1回」(岡田惠和/「月刊ドラマ」1995年5月号)品切れ

→連続ドラマ・シナリオ第1回目。平成7年放送作品。
ポリクリ(医学生の病院実習)の青春ドラマ。すなおにうまいと感心した。
おぼろげながらドラマ進行にはふたつの方法があるように思う。
どこからドラマを作るか、である。内から作る方法と、外から作るやり方がある。
岡田惠和は、外から作ってしまう。
どういうことか。神のごとく偶然の事件を作る。
災難をドラマ登場人物にプレゼントする。超えてみろと壁を与える。
第1回ラストで、ガス爆発事故を起こすのがうまかった。
次々に運ばれてくる救急患者たち――。
この事件にどう対応するかで青春群像(5人!)を描き分けるのに成功している。

どこかで事件を起こすのは卑怯なシナリオ作法ではないか、という思いがあった。
既存の人間関係のなかからドラマを作るべきという思い込みである。
しかし、内からドラマを作ると、どうしても過去重視のドラマになってしまう。
「本当のこと」を告白するといった形式だ。
偶発的な事件を起こしてしまえば、現在進行形のドラマにすることができる。

最後にこのドラマのテクニックを象徴するようなセリフを引用する。

「なんだ、よかった……なんか噂なんですけど、
高槻って先生につくと、卒業するの大変なんですって」(P106)


初回の人物紹介を岡田惠和はすべて「噂」で処理している。
それから、見なくてもドラマ中盤の展開と最終回の予想がつくでしょう。
ハードル(試練)をドラマ登場人物に課すことで話を転がしていく。
いちばんオーソドックスな作法なのだろうが、あらためて見直した思いがする。
(でもやっぱあんまお上品じゃないよな……)
「最高の恋人 第1回」(岡田惠和/「月刊ドラマ」1995年5月号)品切れ

→連続ドラマ・シナリオ第1回目。平成7年放送作品。
稲垣吾郎と高橋由美子のアイドル兄妹もの(しかし血はつながっていない)。
美しいものはいいよね。稲垣吾郎も高橋由美子も美しい。
とくにこのころの高橋由美子なんざ、とろけるようにかわいらしい。
あんな美少女に「兄貴!」なんて呼ばれたら夢心地だろう。
こういう視聴者の願望を満たすドラマというのも必要なのだと思った。
わたしはあまり役者のちからを信用していないところがあるのかもしれない。

「本の山」で何度も書いてきたことを繰り返す。
セリフで問題とされるのは、おそらく内容ではないのだろう。
だれが言ったセリフか、というのが最重要。
セリフは内容ではなく話者に依拠するところが大きい。
くれぐれもこのことを忘れてはならないと自戒する。
人気アイドルのブログだったら、食べたものを報告するだけでもアクセスが高いのである。
俳優および女優のちからを舐めてはならない。
美しいものを軽んじてはならないということだ。
「オーバー・タイム 第1回」(北川悦吏子/「月刊ドラマ」1999年1月号)品切れ

→連続ドラマ・シナリオ。平成11年放送作品。
ぶっちゃけ、ドラマはシナリオなんてどうでもいいんだよね、本音は(笑)。
反町隆史が出るから、世の女性様はチャンネルをまわすのであって。
(女性様の消費マインドを刺激したいスポンサーは大喜び!)
どんなに脚本の完成度が高くても、無名俳優が演じたらだれも見てくれない。
テレビ局がタレントに大盤振る舞いしてライターに渋るのはこのためであろう。
以下に引用するようなセリフに女性は打ち震えるのではないか。
わたしは小汚い男だからこういったセリフを寒々しく思うが、
同時に感性が鋭いから(?)この箇所の「うまさ」にもまた気づく。
とても真似できないし、むしろ真似したくないが、北川悦吏子の個性なのだろう。

優しいイケメン・宗一郎(反町隆史)。勝気なもてない女・夏樹(江角マキコ)。
ふたりは偶然、再会する。

宗一郎「お母さんも声低いの?」
夏樹「知らない。ゾウさんじゃないんだから」
宗一郎「ゾウさん?」
夏樹「そうよ、母さんも長いのよ」
宗一郎「ああ。ねっ、今から時間ある?」
夏樹「ない。家帰ってゴハン食べてテレビ見なきゃならないの。
鍋も磨かなきゃ。嫌なことあった日は鍋磨くの」(P30)


いよっ、お洒落なやりとりね♪
「家族ネットワーク」(岩佐憲一/雲母書房)

→お正月の3時間スペシャルドラマ。平成6年放送作品。
ドラマ全体が間延びしているように感じたが、キャストのせいだろう。
豪華キャストを大勢使わなければならないから、細部を描けない。
どうしても大味になってしまう。

それぞれ秘密を持った家族がお正月に集まる。
おのおの嘘をつくものの、本当のことがいろいろばれてしまう。
最後までばれない嘘もある。
で、登場人物が笑って泣いて一件落着というドラマ。

乱暴にドラマ作法を述べるなら、「本当と嘘」「泣くと笑う」に尽きる。
人間に嘘をつかせるといい(秘密を持たせるといい)。
ところが、厄介なもので人間は本当のことを知りたがる。
その過程で人間は泣いたり笑ったりする。
なぜこんなドラマを我われは見たがるか。
我われもまた本当と嘘を使い分け、ときに笑いときに泣くからである。

「雨よりも優しく 第1回」(岩佐憲一/雲母書房)

→連続ドラマ第1回目。平成元年放送作品。
ドラマというのは、池に石を投げ込むことなのだと思う。
水面に波紋が広がる。その小波(さざなみ)を丁寧に描写していけばいい。
「雨より優しく」で投げ込まれる石は、久々の同窓会。
久しぶりに逢ったクラスメートはどうするか。みな29歳になっている。
女は男を品定めする。

有紀「彼、悪くないじゃない」
今雨子「うん?」
有紀「でもまあダンナがいるんじゃな」
今雨子「(フッと笑って)あれ信じた?」
有紀「え?」
今雨子「あれ嘘」
有紀「え?」
今雨子「独身、まだ(と自分を指す)」
有紀「本当?」
今雨子「(頷き)アレいつものテ。覚えとくといいわよ。
ああ言えば男にしつこくされないから」(P138)


独身女は既婚だと嘘をつく。かと思えば―ー。

有紀「本当のこと言おうか」
今雨子「うん?」
有紀「私ね……子供いるんだ」(P139)


子持ちの29歳もいる。
脚本家・岩佐憲一は、ドラマとは本当と嘘の按配で作ることに自覚的であった。
繰り返しになるが(「うん?」「うん」「え?」など)山田太一の影響が強く見られる。
この巨匠がテーマにしたのもまた本当と嘘である。
ドラマはニュースとは異なり、言ってしまえば嘘だ。
しかし、ときにニュースよりも本当らしいドラマが作られる。

一昨日に禁酒して今日も禁酒♪
今年に入ってから暴飲がひどかったので、肝臓に休職を言い渡してやった。
ザマアミロ! 働き者のやつめ、いまごろ泣いていることだろう、ガハハ。
もうすぐ桜が咲くね。
このたびの禁酒は、花見対策ということもある(いまだ花見予定は一件もないけれど……)。
花見ほど楽しいことは人生めったにないと思う。

3月は自殺が多いんだってね。自殺予防月間だとか。
まあ、人間に他人の自殺はとめられないよ。死ぬときには死んでしまう。
人の死をなんとかできるなんていうのは思い上がりだと思う。
子どもは自然に生まれてくるでしょう。おなじように人は死ぬ。それだけのこと。
一方は喜びで、もう一方は悲しみだけれども、突きつめればおなじことかもしれない。
*以下は某ミニコミ文芸誌に寄稿したものです。
(バックナンバーを調べたら、山田太一氏も記事を寄せていたのでビックリ!)

マクベスは知らない。幕が開き舞台に登場したマクベスは知らないのである。
おのれが恩人にも等しいダンカン王を裏切り殺害すことを。
代わってみずからが王になり盟友バンクォーを暗殺することを。
共犯の愛する妻が後悔にさいなまれ自殺することを。
最期は心をわかちあえる友ひとりない孤独の境涯に絶望しながら暴君として殺されることを。
マクベスはなにも知らない。

そうだろうか。マクベスは本当に知らないのだろうか。
マクベスはダンカン王を殺すまえに逡巡する。
「だが、こういうことは、かならず現世で裁きが来る」と――。
マクベスはおのれの生涯を知っていたのかもしれない。
だが、本当には知らなかった。なにを? なにをマクベスは知らなかったのか?

我われは知っている。
壮大な野心を抱いたマクベスが権力の階段を駆け登り、
最後には真っ逆さまに転落することを。
知りながらマクベス劇を観る。映画を鑑賞し、戯曲を読む。
しかし、我われとてなにを知っているのだろうか? ――悪いことはしてはいけない? 
マクベス劇は、こんな幼稚な教訓を伝えるものでは断じてない。
開幕すると三人の魔女が登場して、この劇世界を象徴する台詞を口にする。

“Fair is foul, and foul is fair.”
「きれいは穢(きた)ない、穢ないはきれい」(福田恆存訳)
「いいは悪いで、悪いはいい」(小田島雄志訳)

価値観の逆転である。美醜、善悪の基準など相対的なものにすぎぬ。
絶対的な美も、究極の善も(神仏ならぬ)人間の世界には存在しえない。
諸行無常。すべては移ろいゆく。
盛者必衰。どんな美人も老いさらばえる。
英雄と称されし勇者も時代が移れば稀代の極悪人になってしまう。
逆もまた真なり。美醜も善悪も真贋もはなはだ頼りない。
戦争時の大量殺人者は勇将と讃えられるが、平和時には忌むべき罪人として裁かれる。

実のところ人間世界にはなにも確かなものなどありはしない。
魔女のささやきである。魔女だから言えることだ。
なにもないとしたらどういうことになろうか。そう、なにをしてもいいのである。
ところが、人間は、マクベスは、なんでもできるわけではない。
開幕直後の人間・マクベスはどんな行為もやすやすとなせるほどの悪漢ではない。
行為。アリストテレスいわく、ドラマの原義は行為。
人間の行為を描くのがドラマである。
この劇は、マクベスの謀反という行為がメインテーマとなる。

なにゆえマクベスはダンカン王を殺すにいたったのか?

魔女のせいかもしれない。夫人のそそのかしが強く影響したという見方もあろう。
だが、結局のところ殺人行為を実行したのはマクベスその人である。
ならば、行為とはなにか? ドラマとはなにか?

演劇のプロである役者に聞いてみたら、どうなるだろう。
彼はこう答えるはずだ。自分は台本にそうしろと書いてあったから殺した。
役者はすべてを知りながら、なにも知らぬように行為しなければならない。
芝居の結末まで知っているにもかかわらず、常に現在を生きなければならぬ。
舞台俳優の仕事は、現在を生きること(映画俳優はこの限りではない)。
舞台役者は過去から現在を作り、現在から未来を作る。
未来から現在を作る(台詞の棒読み!)のは大根役者の最たるものである。
これが演戯ということの実相だ。なぜなら、人間が生きるとはそういうことなのだから。

いままで世界各国でどのくらい大勢のマクベスが生まれ死んでいったことだろう。
黒人のマクベスもいたことと思う。女性のマクベスもいたに違いない。
さらに確実なことは、
どのマクベスも迷ったあげくに大恩ある君主のダンカン王を惨殺したことである。
ひとりとして恩人を裏切らなかったマクベスはいまい。
終幕直前に死ななかったマクベスもいない。
みながみな第五幕第五場でこの決められた台詞を口にする。

「消えろ、消えろ、つかの間の燈し火! 人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。
あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、
みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる」

マクベスなどつまらぬものではないか。
どのマクベスもおなじ台詞を口にしながら死ぬのであったら。
しかし、マクベスはこのようにしか生きようがない。
なぜなら、マクベスはハムレットでもオセローでもないからである。
配役を代えてくれと頼むわけにはいかない。
マクベスとして舞台に立った以上は、マクベス劇を完結させるほかないのだ。
同様にダンカン王を割当てられたらおとなしくマクベスに殺される以外の生きかたはない。
マクベス夫人は旦那を凶行へ駆り立て、のちに後悔から自殺するよりほかの人生はない。

だとしたら、どうして俳優は役をほしがるのであろうか。
マクベスの役にありつこうと熱望するのだろう。
演戯する楽しみがゆえだ。生きる楽しみのためだと言い換えてもよい。
マクベスは閉幕直前、絶望と空虚のどん底に追い込まれる。
人間・マクベスにとっては大層つらいことだろう。
だが、俳優・マクベスはその地獄を味わう楽しみがある。
強烈な失意や落胆は、平坦な日常生活では感知できぬ滋味でもあるのだ。
名優は五官を冴え渡らせて芝居を、つまりは人生を味わうことだろう。
些細な歓喜などより、絶命直前の悲嘆はどれほど味わい深いことか。
ならば、マクベス夫人にも、ダンカン王にも、バンクォーにさえも、
余人わからぬ固有の味わいがあるとは考えられぬか。

与えられた役にしかない喜怒哀楽を味わうこと。
これが演戯ということだ。生きるということだ。
たとえ、それが悲しみや怒りだけであろうと、十分演じるにあたいするとは思わないか。
少なくとも俳優はそう思っているはずである。
人間はどうして、どうしてそのように思えないのだろうか。俳優のように思えないのか。
喜びのみならず悲しみもまた味わい深い。希望だけではなく絶望にも味がある。
いったい人間はどうして気がつかないのだろうか――。

なんのために俳優はおのおの役を演じるのか。
大きなもののためである。芝居のためである。このとき死の意味がわかるだろう。
ダンカン王の死も、バンクォーの死も、マクベス夫人の死も、マクベス自身の死も、
ひとつの劇を完成させるために必要なのである。
死は無意味ではない。むしろ、なければならぬもの。
死んで生まれるものがある。枯れなければ咲かぬ。
雨はやみ晴れる。冬は終わり春が来る。
人間は自然に生まれ自然に帰ってゆく。自然とは、人間を超える大きなもの。
大昔から人間はこうして生きてきた。
シェイクスピアは自然と人間を愛するがゆえに描いた。

“Fair is foul, and foul is fair.”
劇作家の木下順二は改訳をかさね、つぎの解釈に到達した。
「輝く光は深い闇よ、深い闇は輝く光よ」
いちばんの名訳だと思う。

西洋のマクベスに対して、東洋の般若心経は言う。
色即是空であると。形のあるように見えるものも実のところはなにもない。
美醜も善悪もありはしない。輝く光は深い闇よ、である。
ところが般若心経はすぐあとに続ける。空即是色。深い闇は輝く光よ、である。
悲しみは喜びに通じている。絶望の最果ては希望である。冬のなかに春がある。
死は終わりではない。
生きていることと、死んでいることは、もしかしたらおなじことかもしれない。
死があるから生は続いてゆく。

マクベスは何度も死ぬだろう。だが、そのたびによみがえる。
マクベスは研究するものだろうか。マクベスは生きるものだとわたしは思う。
我われはマクベスを生きる。
某地方文芸誌から依頼されていた原稿を書き上げる。
シェイクスピアの「マクベス」について原稿用紙8枚。
4、5日準備して今日、全力で書いた。違う訳でいろいろ読み比べたりもした。
とはいえ、報酬は掲載号プレゼントのみ。
時間給で換算するとまったく割に合わないけれど、べつに構わないのね。
あっちも利益度外視、というか赤字かもしれないから。
わざわざ多くの書き手のなかから自分を選んでくれたという心意気に応じたいと思った。
膨大な利益があるのなら少しはまわしてほしいと思うけれど、そんなことはないはず。

そのうえシェイクスピアはわたしにとって大切な作家。
「マクベス」はもっとも好きな作品のひとつ。
いい機会だから自分にとってシェイクスピアの「マクベス」とはなにかまとめたいと思った。
このようなチャンスがないとなかなか真剣に向き合うことができないこともある。
明日、推敲して向こうに送り、ブログにも載せます(許可は得ている)。

つくづく思ったのは、文章を書くのが好きなのだということ。
書くとは、どういうことか。考えるということなのね。
考えながら書く。書きながら考える。なんのためにか。発見するためである。
文章を書いているうちに、思いもよらない方向に行ってしまう。
結果としてどこかに行き着く。
これが書く=考えるということの実態だと思う。
人はなにか未知のものを発見したいと思うから書く=考える。
その発見が他者に伝わったときはじめて文章は完結する。

どうして書く=考えるのは、こうも楽しいのだろう。
書くまえは自分がなにを考えているのかまるでわからない。
最初の文章を書く。するとその一文が呼び水となってつぎの一文が生まれる。
書く=考えるとは、これの絶え間ない繰り返しである。
書くことで自分でもわからぬ方向に少しずつ進んでいく。
書き上げた段階で、ようやく書き手は自分がなにを考えていたかを知る。
この発見が楽しいのである。
書き手の発見を読み手が共有したとき、その文章は役割を終える。
チェーホフの言葉だったように思う(なんて書くと文学青年ぽくね?)。
自分は、愛する妻がいればなにもいらない。
帰宅して、奥さんが温かい食事を作って待っていてくれるほどの幸福はない。
このためになら作家的名声もなにもかも投げ出して構わない。
酔眼の定かならぬ視線を本棚に向ける。
やはりチェーホフの言葉であったと記憶している。

ホントそうじゃね?
やっぱり男は女だ。
母性的なもの、娼婦的なもの――女性性への希求は生きるうえで欠かせない。
女はその点どうなっているのか、こちらは男だからわからない。
ロシアつながりで言うと、トルストイ晩年の悪妻は有名である。
しかし、あれは本当に悪い妻だったのか。
トルストイは女の味を知っていたから、
あえて最高(最悪?)の女性を妻にしたのではないか。

かつて松本清張はひどい思いをしてひとりの悪女と別れたとき瀬戸内寂聴 に言ったという。
あの女には感謝している。
おかげでどれほどの小説を書くことができたか――。
人間にとっていちばん重要なのは幸福ということだと思う。
なにがあなたにとって幸福か。
人間の幸福。これは宮本輝の文学作品に底流として一貫するテーマである。
人間の幸福とはいったいなにか?

あるものにとっては人を殺めることが幸福かもしれない。
金を稼ぐことが幸福という人間もいよう。
無闇に威張り散らすことにしか幸福を感じ得ない人もいるだろう。
反対に、自身が善人と思われるのが幸福だという、これまた寂しい人間もいるはずである。

人間の幸福はさまざまだから、多様な文学やドラマが生まれる。
多岐にわたるとはいえ、人間の最大公約数的な幸福はあると思う。
1.家族や恋人、親友の幸福。
2.やりたいことをやる。
人間の幸福は、このふたつに大きく分かれるのではないか。

人間はあまりひとりでは幸福を感じることができない。
自分にとって大切なだれかが平穏無事であるときに人は幸福を感じる。
それから「やりたいことをやっている」ときは幸福である。
しかし、やりたいことがわからぬ人間も多い。
みんながやっているからとゴルフを趣味にするような手合いである。

大多数の人間が「遊び暮らせ」と命令されても、あまり遊びを知らないのではないか。
だから、やりたい仕事をやっている人間がもっとも幸福なのかもしれない。
どうしてかわたしの周辺には、このタイプの果報者が多い。
願わくば、その一員として加わりたいものである。
しかし、やはりテレビは魅力的である。
視聴率1%でも100万近くの人を相手にできるわけでしょう。
純文学小説を書いたところで数千の読者の目に触れるくらい。
テレビの魅力にはあらがいがたい。

やっちゃいたい、わけだよね。さりげなく、やっちゃいたい。
ヤベエというものを、テレビで流してみたい。
偽善的な美辞麗句でお化粧をして、濃ゆい毒電波を日本中に流したいのである。
この国を変えたい、なんて言ったら大げさだけれども。
なにかやらかしたい。電波ジャックしたい。

やれるはずないじゃん、とあなたは言うと思う。
わたしも同意する。いまのテレビで大それた冒険のできるはずがない。
しかし、山田太一も野島伸司もやっている。
とくに山田太一は「これテレビで流していいの?」
というほどの毒をシナリオに込めている。
建前ばかり強調されるテレビでヤバイ本音を流してしまっている。

だれか賭けてくれる人がいたらいいのである。
どこかの野心あるプロデューサーの目にとまり、共犯関係を結べればいい。
この国に衝撃を、ダメージを、傷痕を与えたい。
保身と出世しか考えていないプロデューサーばかりではないと信じたい。
だから、こうして金になる当てのないシナリオを書いているのだろう。
ひきつづきお金の話をしよう。人間ってやっぱお金だよネ♪
お金をもらえるということで、あまたの善男善女がどれほどのことをしてしまうか!
テレビ、あるでしょう。みんなもテレビ見ているよね。
ドラマがある。どのドラマにもシナリオがある。

このシナリオ(=脚本、台本)を書いている人間がいかほどに軽んじられているか。
今年、某テレビ局が開催したコンクールの大賞賞金はわずか200万円!
おいおい、と思いませんか?
テレビ局の制作プロデューサーの年収といったらぜったい2000万はいくよ。
ところが、ドラマ制作の要(かなめ)となる脚本への投資は一桁少ない200万。

このコンクールは、ものすごい上から目線の賞でね。
特典というものがある。
最終選考に残ったシナリオ作者は、無料でテレビ局エリート社員の指導を受けられる。

どういうことかわかりますか?
交通費も支給されずにテレビ局に呼び出される。
まったく無給で課題を書かされる。
そのうえでエリート正社員さまから「あーだ、こーだ」と酷評をされる。
さらにさらに感謝しろ。「ありがとう」を言えと迫られる。

これが現在のテレビ局と脚本家予備軍の関係である。
両者の差はどこに起因するか。就職面接に通ったかどうかに過ぎぬ。
コネであれ運であれ、テレビ局の入社面接を通過したものは、これほど甘い汁を吸える!
こういう幸運者が中心となって作るテレビドラマが果たしておもしろくなるのかどうか――。
電話で聞いたところ確定申告をすればお金が返ってくるらしい。
金額は秘密ね。年収がばれちゃうから(あったのか!)。
しかし、とりたてて3/15までにやらなくてもいいらしい。
むしろ、混雑している時期は外したほうがいいとのこと。
とてもわかりやすい説明をしてくださったおばさんに感謝。

お金=年収というのは、人間の最重要秘密であり、
その人の価値と多くは等号で結ばれる類いのものだと思う。
国民保険料のことでわからないことがあった。
数日前、とあるお世話になっているかたに国保についてお尋ねした。
ぜんぜん無関係なことなのに丁寧にお答えくださった。
ヤバイ! と、いま思う。そのかたの年収の高さがわかってしまった!

わたしのような(年収の)人間が、とてもとても……。
おのれの非常識な態度を恥じることしきりであった。
話は変わるが、この国では働けば働くほど損をするようになっている。
いくら稼いだところで、すべて国に持っていかれてしまう。
低収入のわたしがこんなことを言うのはおかしいのだろうが、ひどいシステムだと思う。

天才小説家・宮本輝の作品がおかしくなったのは、この国の税制のせいである。
作家はものすごい税金をこのどうしようもない国に払っていると思われる。
大家となった現在、小説で日本批判や説教をしたくなるのもよくわかるのである。
おそらく日本(の税制)が宮本輝をダメにしたのだろう。
ずいぶんまえ2ちゃんねる居酒屋板であるメニューを教わった。
これでぼろもうけしたというのである。
居酒屋経営者の集うスレッドで教えられたサラダ――。
キャベツ1/4をざく切り。
納豆1個、ツナ缶1/2を加える。
ポン酢をひとたらし。マヨネーズをお好みで。
グルグルグルグルひたすらかきまわす。
栄養満点スタミナサラダのできあがり~♪

これを500円で出したら大ヒットという話だった。
原価率を考えたらとてもいい商品である。
あまりにも下品ゆえ自宅では作りにくいのもよろしい(ボク作ったけれどさ)。
そろそろ春キャベツが出まわる季節。
飲兵衛はぜひぜひお試しあれ。

(追記1)マヨネーズはもはや麻薬だと思う。あれは現代最強の美味化ドラッグ。

(追記2)居酒屋でハイボールを頼むのは大損だから金持以外はやめましょうね。
わが人生を要約すれば「酒、酒、酒!」としか言いようがない。
酒で失敗して、その傷を酒で慰めてしまい、再度また酒で失敗する。
どうやらこんな人生を送ってきているようである。
しかし、酒はいいよな。人生のどのシーンにも酒があった。
酒は、人生への味わいを増す。
憤怒、苦悶、絶望、悔恨、あらゆるマイナスを酒がプラスにしてしまう。
苦(にが)いものでも酒のつまみになってしまうのである。
甘いものでもつまみになるのが酒のすごいところ。

生きているのはいいよネ。酒を呑めるのはいいよネ。

(注)文末の「ネ」は、ことさらかわいらしくみなさまの耳(=目)に響いてくれますよう♪
つまらないテレビドラマを勉強として観ているとき、決まってつぶやくことがある。
ひとりテレビに向き合いながら、
ぶつぶつとつぶやいている様はとても人に見せられたものではない。
なにをつぶやいているのか。
「脱げ!」である。「わかったから脱げ!」「脱げ! 話はそれからだ」
テレビドラマに登場するような役者さんは美男美女が多いでしょう。
男はべつに脱ぐ必要はない。問題にしているのは女ね。美女だ。
くだらねえ台詞を深刻な面(つら)して言っている暇があるのなら脱げ!
もうストーリーもドラマもどうでもいいいから、とりあえず脱げ!
おまえらのメッセージや主張はどうでもいいから、脱がないか!?

いまいちおうプロの脚本家を目指している(のかどうかも最近よくわからない)。
映像化される可能性の極めて低いシナリオを書く楽しみのひとつは、脱がすこと。
シナリオで女性登場人物を脱がせてしまう。
じゅうじゅうご存知でしょうが、我輩はもてない。
とてもリアルでは美女を脱がせることができないのである。だから、だから、シナリオで。
復讐として台本でひとりでも多くの美女を脱がせてやる!
芸術として重んじられることの少ない脚本は、
あんがい、このような低俗な鬱憤から書いてしまうのがいいのかもしれない。
集団でひとつの作品を仕上げる――たとえば映像制作のようなものを思う。
理想を言えば、制作者相互の長所が倍増しされ、最高の作品が完成する。
とてもひとりの人間にはものにすることのできぬ作品ができあがる。
こういうことが集団制作では起こりうるようである。

とはいえ、なにごとにもプラスマイナス両面がある。
集団制作のマイナスは、こういったケースではないか。
またまた映像作品を例に挙げると――。
脚本家は、過度の全面的な「直し」の要求に付き合い作品への愛情はゼロ。
演出家は、くだらない台本にまったく愛情を持てずに撮影を終了。
プロデューサーは、結局のところヒットしなかった作品への思い入れは皆無。
だれも作品を自分のものだと思っていない。

キーワードは「仕事」である。みながみな、あれは「仕事」だとあきらめている。
「仕事」としてやむなくやった。大人になろう。「仕事」をしよう。
こういう「仕事」に就業したいと熱望している若者がごまんといるのが不思議だ。
これを書いているものもそのひとりであるのが、さらに不可思議なことである。
おそらくわたしの場合、ほかにつけそうな「仕事」がないからであろう。
・次の5つの文章のうち(嘘ではなく)本当のものを挙げよ。
(制限時間:30秒)

1.シナリオ・センターから訴状が届いた。
2.脚本家になった。
3.実は女である。
4.宝くじで百万円当たった。
5.恋人ができた。

答えは右にある「more」をクリック→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→

- more -

数日前、中国の張掖(知らないでしょ?)で買ったカバンが壊れた。
3年近く愛用してきたものである。
ブックオフで購入したクズ本を詰め込みすぎたのが原因。
瞬間、失意でも落胆でもなく、ある種の爽快を感じた。
諸行無常。常なるものはない。
ひとつの季節が終わったのだと思った。

思えば、この10年は冬だった。
ひとりも友人がおらず、パンダのぬいぐるみと話す数年があった。
時間というのは、すごいもんだと思う。

わたしはめったにほかのブログにコメントを残さない。
顔の見えない助言は無意味と思うゆえ。
しかし、先日うっかりコメントを入れてしまうブログがあった。
大学生のブログである。
「10年待てばなにがあるかわからない」――。
わたしの言いたかったことである。
説教めいたコメントを残したことをいまではいささか後悔している。
どうしてシナリオ作家を目指す人がこうも多いのだろうか。
疑問形で書いたが、答えはわかっている。
だれでも簡単に書ける(書けそうだ)からである。
書くといっても、なにを書くか。
書きたいものを書けばいいという回答が圧倒的に多いと思われる。
ところが、これが問題なのだが、作家予備軍の大半にとりたてて書きたいことはない。
ただ無味乾燥な日常生活に飽き、
シナリオ作家というユートピアを夢見ているだけではないか。
人間、書きたいことなどないのが普通なのだと思う。
にもかかわらず、志望者はみな書きたいことが書きたくてなどと口では言う。

万が一、書きたいことが運よく見つかったとする。
ところが、そんなものはなんの意味もない。
なぜなら映像業界の底辺にいる脚本家は、企画者にはなりえないからである。
企画をするのは上層部のお偉いさんである。
シナリオ・ライターは、常に受身でいなければならない。
「この企画で書いてくれない?」と依頼されたときからが脚本家の仕事である。
どういうことか。皮肉にも、書きたいことのあるライターは求められていないのである。
書きたいことのある脚本家は、他者の提案した企画にうまく対応できないだろう。
「それは自分の書きたいことではない」となってしまう。

残酷な現実だが、映像業界は、書きたいことのあるライターを求めていないといってもよい。
わが母校のシナリオ・センターは現実的かつ実際的で、
受講生に「自分はなんでも書けます」と言いなさいと教えている。
「なんでも書ける」ような人間は、畢竟(ひっきょう)、書きたいことなどないのである。
こう考えると、書きたいことなどない無個性な人間ほど
シナリオ作家に向いているのかもしれない。
とはいえ、書きたくもないことをテクニックで書く仕事に楽しみがあろうはずがない。
低賃金であることも加わり、ほかに定職のある新人作家はすぐに業界を見切るだろう。
悲惨なのは定職のないものである。

ごくたまに奇跡の生じることが業界ではあるから希望の灯は消えてはいない。
プロデューサー(や映画監督)の(企画)意図と、
脚本家の書きたいことが一致したときである。
完全一致は難しいのだろうが、たまさかこういうミラクルが起こるようである。
もしくはプロデューサー(や映画監督)が、
ひとりの脚本家(および、その作品世界)に心底から惚れこんだとき――。
この場合にのみ、脚本家は書きたいことを書きたいように書くことができる。
そうは言っても、こんな幸運を経験できるのは、ほんのひと握りだろう。
言うまでもないが、はなから書きたいもののない人間がこの果実を味わうことは永遠にない。

要約してみよう。シナリオを書くのはいいがプロを目指すのはどうだろうか。
いちばんの果報者は、コンクールで高額の賞金をゲットして消えていく会社員である。
コンクールというのは、書きたいものが書けるでしょう。だから、楽しい。幸せである。
そのうえ賞金までもらえるのだから、こんな嬉しいことは人生にないのではないか。
そうして書きたくないことは書かずに安定した職に戻る。これが最上であろう。
ところが、脚本家予備軍には、定職についてない(つけない)ゴロツキがたくさんいる。
こういう連中が涙ながらに目指さざるをえないのが、いわゆるプロ作家なのだと思う。

(追記)最高の幸福は、自分(たち)でプロデューサー、監督、脚本をすべてやってしまうこと。
いわゆる自主映画はこれである。
この形式でヒットを生みだしたわが恩師・原一男先生はすごいと最近改めて実感している。
いま終電で帰ってきてビールもどきをのんでいる。
ここ数日のことを整理したい。自分でもなにが起こったかわからないのである。
これはいわばメモゆえ削除するかもしれません。

2月25日11:30
月末締切のコンクール・シナリオのアイデアが降ってくる。散歩中。
アイデアといってもタイトルと設定くらいである。
あと4日で書き上げられるかまったくの不明。

同日15:30
とある不幸を知り、ひどく打ちのめされる。たまらず酒をのみはじめる。
この時点でシナリオはまったく書いていない。コンクール応募はあきらめる。
いつ寝たのだったか。22時ごろ目覚める。アル中の危険信号、二度のみを開始。
「生きていたらいい」と思う。

2月26日
目覚めてリビドー(性欲)につき動かされるように応募用シナリオを書く。
まさに自慰行為であったように思う。12枚書く。
このペースだと終わらないことに気づくが、どうしようもなく酒をのみ眠る。

2月27日
今日が勝負の分かれ目だと思う。もう散歩をする余裕もない。
受賞うんぬんよりも、ともかく応募だけはしたいという心境。
純朴でもてない男女高校生のラブコメディを書きたい。
リビドーで書き進むものの、8枚でギブアップ。この時点で、応募はあきらめる。

2月28日12:00起床
締切日。目覚めるのがいやでずっと寝ていたかったが、それも限界でやむなく起きる。
どうしてもシナリオを書きたくなりパソコンを起動する。リビドーは消失。
この時点で20枚しか書けていない。規程枚数は50~65枚。
そのうえ「あらすじ」を2枚書かなくてはならない。
わたしの自己記録は1日20枚のため、どう考えても不可能である。
とはいえ、ここで書かなかったら、おそらくこの物語はもう陽の目を見ないだろう。

どうしてかわからないが、書きたくてたまらなくなる。
いつもは検索しやすいようにネット接続しながら書いているのだが、
ネットサーフィンで時間を取られてしまうので、あえてネットは切る。
14:00。冷蔵庫の豚キムチを温めドンブリ飯にぶっかけるランチ。
とりあえず50枚書いたら応募できるのだからと自分を励ます。

あのあとなにが起こったのか自分でもわからない。
22時には65枚のシナリオと2枚の「あらすじ」が完成していた。
1回プリントアウトする。プリンターが最近、調子悪いので怖い。
誤字を調べ、おかしな箇所を見つける。
書き直し再度プリントアウトが終了したのは23時。

終電ひとつまえの電車で某所にある24時間営業の郵便局へおもむく。
終電で最寄り駅へ帰ってくる。スーパーで安いつまみを買い帰宅する。

最後のほうは脳内でおかしな麻薬でも出ていたのだろう。
ものすごい幸福感につつまれていた。
いま冷静になって計算すると今日だけでシナリオ45枚、「あらすじ」2枚を書いたのか。
時間にすると11時間で47枚――。
いまは応募できただけで嬉しく、結果はどうでもういい。

最近、コンクールについて思うのは、あれは落ちて当たり前ということ。
人並はずれた相当の才能と、人並はずれた相当の運、
その両方がないとコンクールは取れないと思う。
それでもコンクールは重要な意味があるのではないかという結論に最近は達している。
1.コンクール(締切)がないと人はものを書かない。創作ほど楽しい「遊び」はない。
2.結果発表までのドキドキがよろしい。
3.コンクール落選ほど夢をあきらめるための良薬はない。
夢なんかあきらめたほうが人生にはよほどいいのね。
けれども、どうしても人間は夢を捨てられない。
このときコンクール落選がどれほどプラスになるか。

怒涛の2月が終わった。こんなにがんばった月は、ここ数年ではなかったかもしれない。
もちろん「人生は運」だから「がんばり(努力)は報われない」ことは熟知している。
とはいえ、とりあえずはがんばれたことに満足したい。
2月に「遊び」で読んだ本はわずか1冊である。
「続 ばらっちからのカモメール」(鴨志田穣/西原理恵子/スターツ出版)――。