「急がば回れ」
「損して得取れ」
「負けるが勝ち」

あえて遠回りをしてみよう。
あえて損をしてみよう。
あえて負けてみよう。

なぜなら――。
遠回りは近道よりも味わい深いだろうから。
損は得よりも味わい深いだろうから。
負けるのは勝つよりも味わい深いだろうから。

人生の美味ではなく滋味を味わうために。
1月21日、調布の「文化会館たづくり」に山田太一先生の講演を聞きに行く。
テーマは、いちおう「新年に想う」ということらしい。
「思い」ではなく「想い」になっているのは主催者の配慮かしら。
山田太一ドラマ「想い出づくり」がよみがえる。いちばん好きなテレビドラマである。
以下に講演会で山田太一先生がお話になったことを再現する。
なにかおかしなところがございましたら、責任はすべて未熟な聞き手にあります。
壇上の先生はお元気そうで、とても75歳には見えない。

(拍手の後)本日はお集まりくださり、ありがとうございます。
いまは民主党が小沢さんの問題でもめていて、いろいろたいへんそうで。
ちょっとまえに民主党に変わって、さあ、どうなるかと思いましたが、
なかなかうまくいかないものですね。がらりとよくはならない。
かといって、民主党がダメだから、また自民党かと思うと、ねえ?
かならず、このような揺り返しというものが、あるようです。
どんなことでも、いきなりうまくいったりはしない。

戦後65年なんですね。思うことは、いつしか何事も理念通りにいくと、
みんな考えるようになっていないかということです。
事業仕分けなんかも見ているぶんには格好いいですけれど、
あんなにあっさり理念だけで物事を決めてしまっていいのかと思いませんか。
理念通りに物事が進むというのは、どういうことなのでしょうかね。
本当はなかなか理念通りにはいかないで、むしろじわじわと変わっていく。
そのようなものではないかと思ったりしますですね。
そのう、毛沢東なんかも理念通りに進めようとしたわけでしょう。
ところが、なかなか理念通りにはいきません。
人間みんな公平に平等にというわけにはいかない。
働いた人も怠けた人も、おなじ収入というのはおかしい。
じゃあ、と鄧小平がなんとかしようとした。
しかし、毛沢東が反対する。やはり理念通りがいいのだと。
そんなこんなで文化大革命が起こったわけです。
あれはないほうがよかったと思いますですけどね。
果たして理念通りになるというのは、どういうことなのか。

らい病の治療に生涯を捧げたことで知られる神谷美恵子さんがこんなことを書いています。
人間よりも生命力が強い動物がいる。
なんだと思いますか? ネズミのことです。
では、どうしていま人間が地球上の王者となっているかといえば、
ネズミを殺しているからなんです。人間はネズミを殺す。
人間が生き残るためには相当のマイナスを行なわなければならない。
きれいごとばかり言ってはいられない。
人間は、いろいろマイナスの部分がありますでしょう。
疑う。嫉妬する。憎む。悪口を言う。決して美しい理念通りに生きていけるものではない。
いま鳩山さんは、政治目標として友愛を掲げておられます。
およそ政治とは不向きな言葉だと思うのですね。
政治は、もっと実際的な言葉を使うものだと思っていました。
雇用を増やそう、とか。

さて友愛です。ペットを愛するぶんにはいいんですよ。
けれど、ペットか人間かどちらか殺さなければならなくなったらどうするか。
人間を生かすでしょう。
そういうリアルな視点が、友愛という言葉からは見えてこないのです。

「星の王子さま」で、「友達になろう」「そんな簡単にはなれない」。
こんなやりとりがあったと思います。
まったくそうだと思うのです。
友人というのは、そんな簡単にできるものではない。
友人がいるというのは、とてもとても幸福なこと。
生まれてから死ぬまでに数人の友達ができたというだけでも、
めったにない幸運だと思います。数人でも、そうです。
ひとりも心通じ合える友達ができなかった、というほうがむしろ普通かもしれない。
友達というのは、難しい。なかなかできません。
お互い時間を奪い奪われする。かなりの犠牲を払わなければならない。
友達、友人というのは、そういうものでしょう。
だから、友愛が政治目標になってしまうのには、ちょっと違和感があります。

しかし、友愛もいい。こういう思いもあるのです。
友愛というのは、感情的な言葉でしょう。
いまは合理的なもの、物質的なものにしか人は目を向けない。
そう考えてみると友愛は、物質的ではない。理性的でもない。いうなればセンチメンタル。
センチメンタルはマイナスの意味で使われることが多い。感傷的。
かわいそうな人を見て一瞬だけ同情してすぐに忘れてしまう。
これは感傷的だからいけない、なんていわれますが、本当にそうでしょうか。
感傷的になるのはいけないのか。感情的は悪いことなのか。
感傷というのは、いいものじゃないですか。
一瞬でも、かわいそうな人に同情する。それは手を伸ばさないかもしれない。
不幸な人は、なんだ手を伸ばしてくれないのか、と思うかもしれません。
けれども、人間にとってこの感傷はかけがえのないものだとも思います。
これを否定してしまったら行き場がなくなってしまう。

ジョン・レノンは「イマジン」で世界平和を説いた。
あれなんて感傷の最たるものでしょう。みんながみんな幸せになれないか。
なれるはずはないんだけれども、そういうふうに思うことまで否定してはならない。
ルソーは、理念として、人間の縛りをどんどん解いていけばいいと考えたようです。
けれども、縛りがなくなった人間はけだものと変わらないじゃないですか。
難しいことを言いたいわけじゃないんですが――。
たとえばデカルトはいった、「我思う、ゆえに我あり」。
疑って疑って最後に疑えないものが我であるとした。だから我は信じられるという。
僕はそういうわけにはいきません。
自分をそこまで信じられませんもの。
きっと僕が死んだ後も、この世はなんの変わりもなく動いていく。そうとしか思えない。
そして、それはとても辛いことです。なにかあると思いたい。

理念の怖さというものがあると思います。
理念が幅を利かせるとリアルな生が見えなくなる。
いまはリアルな生が失われているのではないでしょうか。
テレビを見ていると、イケメンと美女が結婚しますでしょう。
イケメンと美女の夫婦。あれはどこかリアルじゃないと思うのです。
「バラかキャベツか」を考えてください。
バラはたしかに美しいかもしれないけれども、食べられないでしょう。
これがリアルな視点だと思うのです。
バラは食べられないが、キャベツは食べられる。
ちやほや育てられたイケメンと、甘やかされた美女が結婚してうまくいくものでしょうかね。
どっちかにマイナスがあったほうが、よほどうまくいくのではありませんか。
たとえば、女は美しいけれどもバカだとか(場内笑い)。
まあ、たいがいイケメンと美女のカップルはすぐ別れてしまいますよね(さらに場内笑い)。

吉野弘という詩人がいます。
彼の詩に――この詩も、別の女性詩人の作品への言及なのですが――
こんなものがあります。
「正しいという字には迷路のようなわかりにくいところはないか」。
正しいという漢字は迷路のようでしょう。
漢字の「正」の右下がまるで隠れ場所みたいだとは思いませんか。
あれは恥ずかしいからだと思うのですね。
正しいものは恥ずかしい。正しい理念というものは、うさんくさいものである。
正しいことを言うのは恥ずかしい。
「人」の「為」と書いたら偽物の「偽」になるでしょう。
「恥」は「耳」に「心」を当てるからだ、というようなこともおなじです。

理念通りにいえば、キリスト教では、人間は神に作られたことになっています。
では、どうして神さまは人間にひどいことをするのか。災厄を与えるのか。
「神さま、どうして私はこんなに苦しまなければならないのでしょう?」。
多くのキリスト教徒が、この問題に向き合ってきました。
だって、本来なら、おかしいでしょう。
神さまが自分の作ったはずの人間を苦しませるなんて。
これはきっと、と思うんです。もちろん僕は無宗教ですけれど。
きっと神さまは考えさせたいのじゃないだろうか。
人間とはなにか? 人生とはなにか?
というのも、人間は不幸がなかったらなにも考えないじゃないですか。
エデンの園に一生いたら、なんにも考えないで済むわけですから。

アウグスティヌスがこんなことを言っています。
このまえ加藤健一の芝居を観にいったら役者のひとりが言っていたから、
アウグスティヌスだけの言葉ではないのかもしれませんが。
「神さまがなにかしてくれることはない」
人間は無力である。努力をしたって、ちっとも報われないでしょう。
人間は平等なんて嘘八百で、生まれから不平等極まりない。
なのに、親は子に「努力すれば報われる」と言うでしょう。あれはおかしいですよね。
本当のところ、人間は祈るしかないのですね。祈る。
祈るというのは、崇高な行為だと思いますね。
祈ることによってがらりと大きく変わるものがある。
人間は祈ることで、大きく世界を変えている。人間が変わっているのかもしれない。
というのも、祈るということは、自分以外の大きなものの存在を認めているのですから。
子供が生まれるときは象徴的です。祈るしかないじゃないですか。
いまは事前の検診で性別くらいはわかるのだったか。
けれども、無事に生まれてくるかどうかは人間にはわからない。無力。人間は無力。
人間とは、そもそも儚(はかな)いものなんです。
子供が生まれたらこんなありがたいことはないでしょう。
にもかかわらず生まれて数年も経つと、幼児教育をどうしようか?
こんなことを考えてしまうのが親です。自分の力で子供をなんとかできると思ってしまう。
すぐに「努力すれば報われる」なんて理念を言い始めてしまいますですね。

こないだラジオ宅急便を聞いていたんです。
愛媛の住職が講演をしていました。お遍路さんの世話をする住職です。
遍路のはじめ、一番所で、お遍路さんを大部屋に泊めるとするでしょう。
こんなところに人と一緒に泊まれない、とか不平が出るそうなんです。
ところが、遍路も終わりに近づくと寝床があるだけでありがたいと感謝するようになる。
やはり人間に試練は必要なのだと思います。
試練があるから人間はいろいろなことを考える。いろいろなことがわかる。
人間は本当はどういうものか?

言ってしまえば、人間は理念の対極にあるものなのかもしれない。
理念通りにはいかないのが人間だ。
みんなちょっとでも病気をすれば、驚くほど変わるでしょう。
病気をした後で、起き上がって廊下を歩いただけで感動するようなところがある。
人間なんて、そんなものかもしれない。
僕はグルメ記事はぜったいに書かないと決めています。食べられりゃ上等と思うからです。
ツバメの巣なんて、みんながみんな食べることはない。
グルメだの美食だのは際限がありませんからね。
僕は戦争中に姉から半分の芋をもらって感激した世代でしょう。
なにがうまい、かにがまずい、到底そんなことは書けやしません。

日本は江戸時代に画期的なことが起こったと思いますですね。
広い意味での文学で、目を見張るような進展のあったのが江戸時代ではないか。
俳句というのがそうです。
それまでは、なにかといえば漢文で言わなければならなかった。
知識人は、まず漢文でものを言った。
しかし、俳句というジャンルが生まれたことで、
相当に多くの人が自分のことを自分の言葉で語れるようになったと思うのです。
とはいえ、むろん、だれもが俳句を作れたってわけではないでしょうが。
それでも、俳句はかなり多くの人間の、細かな味わいを発見するきっかけになった。
俳句がなければ、すくいとれないような現実がいっぱいあった。
俳句によって、とても日本人が豊かになったと思います。

そうは言いながらも、明治になるまでは、やはり複雑なことは書けなかった。
普通のことを書ける文体が日本語になかったのでしょうね。
明治の文人はそれはたいへんな苦労をしたことと思います。
講談調の語りでは、なかなか普通の生活を描けませんもの。
それがどうにかこうにか形になったのが、夏目漱石ではないでしょうか。
漱石によって、日本人は、普通の人生を描く文体を獲得した。

山頭火の句に、こういうものがあります。
「わたしひとりの音させてゐる」
なんだこれはという俳句ですよね。いったい俳句なのかと思うくらい。
しかし、実際、そうなんですよね。
ひとり暮らしをしていると、音を立てるのは自分しかいませんから。
山頭火の句は、こういう独居という現実を拾ったと思うんです。
いままで見向きもされなかった現実に光を当てた。

(以下に取り上げる俳句、詩は、聞き書きのため正確ではない場合がございます)
山頭火よりは洗練された俳句にこういうものがあります。
「いまはない人と二人や冬の森」
久保田万太郎さんの俳句です。
「いまはない人」というのは、死んだ人ですね。
冬、孤独。ひとりだけれども、ひとりではない。そういう句です。
俳句を続けます。
「もの言うも逢うもいやなり盛若葉」
若葉のむわっとした感じのうっとうしさがよく出ていますよね。
老いてくると、若葉にはちょっと抵抗感を感じることがございませんか。
「一枚の柿の落葉をただ見つめ」
柿の葉っていうのは、みなさんご存知でしょうが、きれいですよね。
「木々の香に向いて歩む五月来た」
これはさわやかです。

どの俳句も、取るに足らないといえば、取るに足らないものです。
けれども、反戦というものは、こういう小さな声から生まれるのではないか?
こういった小さな声を消してはならない。
こういう些細な、しかし大事なことを思い、考える人間を死なせてはならない。
反戦は、大きな声ではなく、小さな声からスタートする気がしますですね。

僕の好きな詩人、ベスト3に入るのが天野忠さんです。
大阪弁の「首吊り」という詩がございます。
(山田太一先生が朗読する)
老人が首吊るぞおと言って、嫁さんから「どうぞ」と言われる詩です。
夜半、自分が首を吊る夢を見て目覚める。
となりに眠るパートナーと目が合う。自分もおなじ夢を見ていたと言われる。
なんとも言えない物悲しさが、ユーモアをともない、よく表われている詩だと思います。

おなじ天野忠さんの詩で「回春記」。
(山田太一先生が朗読する)
これは老夫婦のところへ、これまた老いた友が訪れるという詩です。
布団がふたつしかありません。ひとつを友に貸す。
ですから、久しぶりに老いた夫婦がひとつの布団に寝る。同衾(どうきん)する。
なかなか眠れないわけです。もぞもぞしてしまう。
こんなはずじゃないんだけれども、どうしてか下半身がもぞもぞしてしまう。
おじいさんもおばあさんもどちらもです。
横を見ると、老友がまるで仏さまのような顔をして眠っている――という詩です。
細々としたところがいいでしょう。味わいがありますよね。
あるある、そういうこと、なんて思いませんか(老人ばかりの会場爆笑)。
いまのドラマは、どうしても大きな話に走っちゃうんですよね。
こういう細々としたところを描けるのがテレビドラマのよさだと思うのですが。

ものの見方、ものの考え方を、ちょっと変えるだけで、見えてくるものがあります。
何度も言っていますが、戦中戦後の一時期から比べたら、
いまの日本は天国だと思うんです。なにより食べることに困らないでしょう。
僕なんか、まさかこんな時代が来るとは、いまでも信じられないような思いがあります。
いまの日本に生まれてくるというのは、とても幸運で恵まれたことではないでしょうか。
しかし、年間の自殺者が3万人もいるという。これはいったいどういうことなんだろう。
物の考え方が、柔軟ではないからではないか、と思うことがあります。
決まり文句というものがあるでしょう。
たとえば、「疲れているから温泉でも行って休みたい」。
みなさんも、よく言うでしょう。
しかしね、このまえ「ためしてガッテン(?)」を見ていたんです。
なんだかテレビばかり見ているみたいだな(場内笑い)。
実のところは、お風呂に入ると逆に体力を消耗してしまうらしいんですよ。
お風呂に入ると、かえって疲れてしまう。
だとしたら「疲れたから温泉へ行く」なんて、おかしな話でしょう。
貧乏性だから、何度も温泉に入らなきゃ損だと我われは思うから。
休みに行って、反対に疲れて帰ってくることになる。
決まり文句を疑ってかかる必要があると思います。
決まり文句というのは、多くの場合、宣伝でしょう。
あまり宣伝に踊らされないほうがよろしいかと存じますね。

決まり文句としては、老人も若ければ若いほどいいのでしょうが、
老いにもまた味わいがあるように思います。
女子学生が短いスカートを履いて階段をのぼるとき後ろを手で押さえるでしょう。
もう70歳を超えると、まったく気にならなくなりますね。
50歳くらいだったらまだ危ないようなところもあったかもしれませんが(場内笑い)。
いま怖いのは認知症と骨折して動けなくなることくらいですね。
それ以外は、老いも案外いいものではないかと思います。
では、20代がまったく不安がなかったかと言えば、そんなことはありません。
若ければ若いで、取り返しのつかないことを言って、人を傷つけてしまうことがある。

老いると、難しいのはお見舞いですね。
ガンとかだともう治らないでしょう。
お見舞いに行って帰ってくると、こちらが病気になって寝込んでしまうことがあります。
妻からは職業病でしょう、なんて言われますが。
いつも他人の心情ばかり考えているから、ガン患者に参ってしまうんじゃないかって。
みんな死ぬのですよね。ここにおられるかたも全員ひとり残らず死んでしまう。
だから、先に向こうで待ってくれている。こう考えたら幾分、気持が楽になりますですね。
ものの見かたをちょっと変えるだけなんですけれども。

ジョージ・スタイナーという評論家が言っています。
「20世紀の人は、みな、裸で、真実のまえに、むき出しに、さらされている」。
どういうことかと言いますと、20世紀の人間は、もうなにも自分を守るものがない。
キリスト教のようなものはなくなってしまった。
あるのはむき出しの真実だけである。我われは裸で真実に向き合わなければならない。
これはとても辛く苦しいことではないか。
というのも、人間は真実だけでは生きていけないと思うんですね。
嘘、フィクションは人間にとって必要でしょう。
幻想みたいなものがなかったら、我われは生きていくことができません。
毎朝、テレビで占いをやっているでしょう。あれなんかも幻想ですよね。
しかし、ある程度、そこには秩序があるわけです。
占いのラッキーカラーを見て、今日は茶色のシャツを着ていこうかな、なんて(場内笑い)。
そういう嘘を大切にするのはとても重要なことだと思います。
といっても、高額なツボを買わされてはいけませんが。
いや、おカネがあったらツボを買うのもいいのかもしれない。
ツボがあったほうがよほど幸福ということもあるでしょう。

我われはいろいろなフィクションに支えられて生きておりますでしょう?
「最後は正義が勝つ」なんていうのもそうですよね。
それと、あれなんかもフィクションですよね。
「ある程度の年齢まで生きると人生は平等にできている」。
美人は美人ゆえ、年を取るとしわが目立つ。
一方そうでもない女性は、あんまり変わりがないから、そのぶん得をしている。
だからよく言うじゃないですか。「人生は、まあ、平等になっている」とか。
だけど、あれって嘘ですよね(場内が一瞬だけ凍りつく!)。
真実は、生まれも幸福でずっと幸福なまま死んでいく人もいますよね?
(場の空気を読み)あ、いないかな、そんな人は。逆は、どうでしょう。
生まれが不幸で、ずっと貧乏や病気で苦しみながら、
不幸なまま死んでいく人はいるでしょう。
真実は、おそらくこんなものである。
けれども、我われはこういう真実に耐えられませんよね。
だから、フィクションがあると思うのです。
テレビやなにかでは、最後に正義が勝って、「ああ良かった」と思う。
嘘は個々人にとって大切なものだから、他人のフィクションを笑ってはいけません。

あ、こないだの新聞を読んだ人はいますか?
なんでも1年中咲いている桜が開発されたとか。
科学は歯止めがきかないのですよね。どこまでも行ってしまう。
1年中咲いている桜なんて、だれが見たいと思うのですかね。
桜は春にパッと咲いてパッと散るからいいのであって。
僕はほんと開発したところに抗議に行きたいくらいです(場内笑い)。
科学の暴走をとめるのは、教養しかないように思います。

医学の進歩もそうでしょう。あらゆる科学技術を用いて人間を長生きさせようとする。
僕は、最先端の科学にたよってまで、寝たきりで生きていたくはないですね。
どこかで歯止めをしなければならない時代になっているように思います。
ところが、その歯止めとなる教養がなかなか見当たらない。
アメリカの映画の話です。映画の中で老いた芸人が死にます。
近くにいた人が集まる。そのときにぼそっと別の芸人が言うセリフがいい。
「老人の死は悲劇ではない」――。
老人は死んで当たり前なんですよね。
だから、老人が死んだからといって、みながみな悲しんで悲劇に仕立て上げることはない。
もちろん、若い人が死んでしまうのは、本当に痛ましいことですけれど。

不幸というのは、人生に必要だと思いますね。
演歌は、不幸を延々と歌い上げますでしょう。不幸だ、悲しい、こういう感情を美にしている。
テレビで、八代亜紀さんがポルトガルに行くというのを見ました。
ポルトガルには悲しみを歌うファドというものがあるそうです。
このファドは、実際、演歌に似ておりまして。
どこの国にも悲しみを歌うということがあるのだなと思いました。
演歌なんかは不幸がなかったら歌にならないわけでしょう。
我われは幸福のみならず、不幸をも願っているようなところがどこかにないだろうか?
マイナスを歌い上げる演歌を聞いていると思うことです。
演歌にも、新たな形式が出てきてもいいのではないでしょうか。
広い意味で、演歌も文学なわけで、なにか新たな視点が加わるといいと思います。

去年、仕事で出雲大社に行ったんです。
ご存知かもしれませんが、むかし出雲は大勢力で、そこを大和朝廷が滅ぼした。
鎮魂のために出雲大社が作られました。
そのときに見えるものは大和朝廷に、見えないものは出雲大社に。
こういった区分ができたと聞きます。
見えるものと見えないもの。
おカネは見えるものですよね。物質的、合理的なものは見える。現在も見える。
ところが、過去は見えない。未来も見えない。人の心も見えないものです。
非合理的なものも見えません。こうして考えていくと、見えないものはたくさんある。
ハーンが幽霊の研究をしているとき、学生から聞かれたそうです。
どうして幽霊なんていう非合理的なものに関心を持つのか。
ハーンは学生にこう答えたそうです。
「きみだってどこから来て、どこへ行くかわからない幽霊みたいなものだろう?」
まったくそうなんですよね。
我われはどこから生まれてきて、死んだらどこへ行くのか知らない。
現代は、見えないものが不当に軽んじられている時代だと思いますね。
もっともっと見えないものに目を向けなければならないのではないか?

感情的なもの、感傷的なもの、センチメンタルも見えないもののひとつです。
黒人映画でこんなものがありました。
スラムの黒人少女が、落書きのような犯罪をして警察に補導されるんです。
母親が警察署に呼び出される。少女は、おなじく黒人の警察官と廊下で待っている。
母親が現われる。まるでいま起きたばかりといったようなぼさぼさの髪で現われる。
生活に疲れているすがたがありありとうかがえる。
このとき警察官が非行少女の首をツンツンとやさしく突くのですね。
あたかも、あなたの辛い気持はわかりますよ、といったように。
少女は深く感動する。この少女は将来、婦人警官になる――という映画です。
ほんの一瞬の出来事なんですよね。もしかしたら少女の勘違いかもしれない。
そのときの警官だって、この少女のことを覚えていないかもしれない。
けれども、そういう些細なことで人生が決まってしまうことがある。
これも見えないものだとは思いませんか。

見えるものと見えないもの。過去は見えません。
けれども、いまになって思うのですが、幼児体験がやはりかなり大きいのではないでしょうか。
これはエッセイでたびたび書いていますから、ご存知のかたには繰り返しになりますが。
僕の父は家出をして浅草に出てきて食堂を開きました。
たいへんな苦労をした人です。共同体がないんですね。
むかしから浅草に住んでいたわけではない。
「ちょっと醤油を貸してよ」みたいな人情ばなしめいたものなんてまったく。
よく父の酒の相手をさせられました。
といっても、こちらは子供だから酒はのめません。
たまに父のつまみをぱくっと横取りするくらいで(場内笑い)。
よく酒をのんで酔った父から言われました。
「世間なんてものはな、おまえに関心を持ってくれないからな」
いまから思えば、あれは僕に言っていたのではなくて、
孤独な父が酒をのみながら自分に言い聞かせていたのだと思うんです。
とはいえ、幼少の僕には、えらくこの言葉が強く胸に刻まれましたね。
僕なんかには、世間は関心を持ってくれない。世間は、怖いものなんだ。
人間はいざとなったらどんなことでもやらかす。
油断していたら、どんなことをされても文句は言えない。
むかしから僕は「底辺の現実」を信じたがるところがありました。
人間の底辺における行動を予想してかかるようなところがあった。
いまはもう70を超えてだいぶ丸くなりましたが、
かなりの長い年月、僕はこの幼児体験に縛られていて、
そこから脱け出そう脱け出そう、としていたように思います。
結婚式なんか行くでしょう。素直におめでとうとは思えない。
いまは幸福だろうけれど、これからがたいへんだよ、
と内心思っているような意地の悪さがありました。
現実はずっと幸福な結婚生活もあるのだろうけれど。いや、ないかな?(場内笑い)

まだ少し時間がありますね。こんな詩を思い出しました。また天野忠さんです。
「静かな夫婦」という詩です。
結婚よりも静かな夫婦はいい。静かな老夫婦はいい。そういうことを書いた詩です。
むかしこの夫婦が結婚まえに、まあ、デートをしていたんです。
ニシン蕎麦を食べようか、という話になった。女は言った。「ニシンは嫌いです」
この男女が結婚して、いろいろあっていまは静かな夫婦になっている。老夫婦です。
そのとき夫が言う。「ニシン蕎麦を食べようか?」
妻はどうこたえたか。「ニシンは嫌いです」(場内笑い)
なんともいいとは思いませんか? 
若い男女の情熱もいいけれど、静かな夫婦はもっといい。
妻の「ニシン嫌い」が変わらないのも、本当にいい。人生の味わいを感じますでしょう。
変わるものもあるけれど、変わらないものもある――。

見えないものが大事ですよね。
もっともっと、つまらない喜び、つまらない悲しみ、なんということはない悲喜が、
広い意味での文学で描かれるべきだと思います。
小説でもドラマでもいい。俳句でも詩でも。
ありふれたものでも、ちょっと見方を変えれば、味わいが深くなります。
そういうものに触れることで、我われはこういう世界を生きているのかと気づく。
気づかされる。
つまらない喜びや悲しみを持つ多くの人間たちの一員であること――。
これはとても輝かしいことではないかと思います。豊かなことだと思います。
それでは時間が来たようなので、このへんで(万雷の拍手)。

(編集後記)講演のタイトルを後付けするなら――。
「見えるものと見えないもの ~理念と情念~」くらいがいいのではありませんか?

(参考)過去の山田太一講演会↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1490.html
「自力と他力」(五木寛之/講談社)

→親鸞ファンのひとりとして、
いま日本の最高峰で親鸞利権をむさぼる五木寛之先生の動向は気になるところ。
本来、親鸞は失敗者、いわゆる「負け組」のためのものなのである。
この世で負け続けても、念仏すれば死後に浄土に往生できるから構わない。
自力でハードな修行をしなくても極楽往生可能。
阿弥陀仏さまの他力をたのめば(=南無阿弥陀仏)、きっとお救いくださる。
これが正しい親鸞思想の解釈だと思う。

けれども、五木寛之先生は抜群の成功者。「勝ち組」の先頭にいるようなもの。
作家はどのように親鸞を利用したか。
親鸞のいうところの他力を死後ではなく現世にまで広めたのである。
仏教史は、誤解や拡大解釈の連鎖だから、先生の仕事も責められるいわれはない。
五木先生は他力を海上の風にたとえる。
ヨットは無風状態では動かない。風が吹いてはじめて動く。
この風こそ他力ではないかというのである。他力は縁として人間に感知される。
ただし人間は自力で風が吹くのを待つ必要がある。自力を完全には否定しない。
日本は作家の数だけ宗教があるから、これはいうなれば五木教であろう。
親鸞の他力思想と現世の成功をむすびつけ、
成功者たる自己を肯定した五木寛之の信仰は、
どうしてもこの世をあきらめられない多くの日本国民を救っていることと思われる。
作家は偉大な宗教家のひとりである。たとえれば遠藤周作と肩を並べるような。

「遊行の門」(五木寛之/徳間書店)

→いくらブックオフ105円本だからとはいえ、酒をのみながら読んだとはいえ、
とてもとても恥ずかしい本を読んでしまったという自意識がございます。
ひろさちやファンのおまえに、もはや羞恥心はないだろうと言われそうですが、
恥ずかしいものは恥ずかしいのでございます。
高校生のころ五木寛之の「青春の門」を夢中に読みました。
中学生のころは井上靖が好きで、大学生のころは遠藤周作。
三十路を超えて、なんだかむかしに戻ってしまったような……。
結局、人間の核のようなものは変わらないのかしら。
どうにもこうにも俗っぽいのが好きなんですね。
子供だましと言われかねないものが好きで好きで。
けれども、だまされるのは楽しいよ。死ぬまでだまされてたら、こんな幸福はないもの。
自己啓発セミナーだって、死ぬまでだまされてりゃいいと思う。カネはかかるけど。

本書は、五木寛之がいかに自分をだましているかの告白。
こうおのれをだましたら生きやすくなるという処方箋。ありがたや、ありがたや。

「対談 生きる学校」(遠藤周作/文藝春秋)絶版

→遠藤周作と各界のスーパー成功者たちとの対談本。
成功者の態度はさまざまである。
努力で成功したと考えるもの、運がよかったと見るもの、結局は才能だと言い切るもの。
成功者の発言は、肩書ゆえに価値あるものとなる。
だったら、悪戯をしてみようじゃないか。
以下にどの成功者か名前を伏せて名言を抜粋してみることにする。

1「自信ができると心の中にとても余裕が生まれて、
宗教の言葉で諦観といいますが、なるようにしかならんわいと、
一生懸命やっておれば大丈夫なんだという気持ちが芽ばえてきたんです」(P34)

2「息子を亡くし、それから主人が先立ちまして、その時、
死別するということがどういうことか、深くわかりました。
それまで私は、物事は努力すればいつかは報われると思っていたんですね。
だけど、いくら努力してもだめなこともあるんだって初めて思いしらされました……」(P67)

3「いや、いくらお金があっても、時間がないとできません」(P77)

4「カンナを削れるようになるといったら大変なことです。
五年も六年もかかる。しかし、それだけかけても削れん者は削れませんよ。
やっぱり持って生まれた才能というのがあるんですよ。天性のものですね。
カンナの上手な者、ノミの上手な者というふうに」(P78)

5「時々思うんですが、本当に自分が満足できる作品を作り上げるには
自分の力だけじゃなくて、そこにもう一つ何か別の力が……」(P84)

6「やっぱり「好き」ってことしかないですね。
他につぶしがきかないってことも大きな原因かしら」(P93)

7「自分自身で納得のいく、悔いのない碁が打てれば
負けたっていいということだったんです。勝負より、悔いのない碁を打とうと」(P125)

8「いまでも家内に「お父さん、俳優やめたら何にもできないわねえ。
まァ坊さんだったらできるかもしれんけど」なんていわれますけど。
私は何にもできないんですよね。だもんですから、しようがなくて……」(P227)

9「(演技は)自然に見えさえすれば、どんな大きな芝居をしても、
何してもいいと思う。自然ということが一番大事じゃないかと思いますね」(P236)


一流の成功者たちのありがたい文言はどうでしたか?
もしおなじセリフをわたしが発したらどうなるか。そこらのホームレスでもいい。
1「人生はなるようになる」
2「努力してもダメなものはダメ」
3「のんびりやろう」
4「結局は才能よ」
5「努力だけではいけない」
6「好きなことだけしていたら」
7「負けてもいいよ」
8「わたしは無能です」
9「自然がいちばん」
ちっともありがたくないでしょう(笑)。なにをぬかせボケという話で。
人間は俗なるもので、どうしようもなく哀しくもいやしい。
言葉の意味は、発言者がだれかでころりと変わってしまう。
だから、成功者の真似をするというのはあまり意味がないのね。
というのも、上記の名言は失敗者の口から出てもまったくおかしくないのだから。
たとえば、わたしのような――。

すっきりしないでしょうから、最後に答えを書いておきます。
1=川上哲治 2=加藤シヅエ 3と4=中村外二 5=遠藤周作
6=山田五十鈴 7=坂田英男 8と9=笠智衆

(追記)いま気づいたけれど、万が一にも我輩が運よく大成功したら、
ブログ「本の山」全体がありがたいご託宣になるかいの、ワハハ!!!


「30日で夢をかなえる脳」(石浦章一/幻冬舎)

→副題は「自分を変えるなんて簡単だ」。
そのうえ「夢をかなえる」というタイトル。
著者の石浦章一は(わたしが落とされた)「東京大学」の教授。
それもいま流行の「脳科学」が専門。
極めて新しい「2009年」出版。
さらにさらに出版社は「幻冬舎」――。

マイナス要因が行列しているなか、一発逆転させたのは「ブックオフ105円本」。
ふだんならカネをもらっても読まないような本だからこそ、あえて――。
たまさかいつもと正反対の行動をしたくなるときがあるのだ。
だれかが言っていたけれど、時代はいつしか心理学から脳科学にうつったと思う。
けれども、基本はおなじ。どちらも常識を述べるのみだから。

人はほめると育つ。
眠るのは健康にいい。
コーヒーをのむと集中力があがる。
インプットだけではなくアウトプットも必要。
肉より魚を食え。
うつ病は増えている。
散歩は健康によろしい。

たとえば以上のようなことが最先端の脳科学の知見として語られる。
まあ、常識に近いでしょう。
けれども、東大教授で脳科学専門なら売れると幻冬舎の編集者は考えた。

アマゾンのレビューを見て、この国は崩壊すると確信した。
だって、みなさん怒っているのだから。いわく、タイトルにだまされた。
そりゃあ、だまされるほうが世間知らずでしょう。
たったの30日で夢がかなうわけがないと思わないのか。
おまえらはどんだけバカなんだよ。選挙権を剥奪してやりたい。

ひとつ、自分を励ます言葉を引用しておこう。
というのも、結局、読書とは(創作とおなじ)自慰なのだから。
脳科学的にアイデアとはなにか?

「アイデアの正体を考えてみると、おそらくは過去に蓄積していた知識の
「組み合わせ」によって生まれるのではないかと思われます。
一見なんの関係もなさそうなAという知識とBという知識を組み合わせることで、
想像もしていなかったアイデア「C」が生まれる。
そんなイメージだと考えてください。
となると、結局アイデア力は「組み合わせ力」の有無、
また組み合わせる素材の豊富さによって決まってくることになります。
そのため、最近ではどれだけ「自分の専門外」の知識をたくさん持っているか
が重要なのではないかといわれています」(P138)


だとしたら、いつかこのブログ「本の山」の役立つときが来るのでしょうか?

「ユング心理学と日本人 河合隼雄 全対話1」(第三文明社)

→河合隼雄の発言で打たれたものに、こういうものがある。
心理療法家は、患者を治すわけではない。治るお手伝いをするのみ。
同様、芸術家は作品を作るのではない。作品は自然に生まれるものである。
以上のことが詳述されたのは「宗教と科学の接点」である。
カウンセラーはクライアントを治すのではなく、治るのを待つ、見守る、場に参与する。
とはいえ、と河合隼雄は本書で続ける。

「本当は治していないのに自分が治したんやと喜んでおるわけでしょう。
ところが、やっぱりおれが治したろうというぐらいの気持ちを持たないと
うまいこといかないし、そのときにおれが治したろうという気持ちが
ちょっとでも大きくなったら、失敗です。そうかといってね、何もぼくが治さんでも、
偉大なものが治してくれるんだからというふうに思っとったら、
気が抜けてしまうでしょうね。
だから、そのへんもおんなじやと思いますね。その関与のしかたの関係がね」(P125)


いわゆる自力と他力の中間地点における立ち振る舞いを河合隼雄は述べているのである。
自力の配分である。相当に自力を信じる必要があるけれども、度を超しては失敗してしまう。
しかも、河合は失敗が本当にいけないのかというところまで見通しているから人生の達人である。

「よほどのマイナスでもプラスになります。
で、よほどのプラスでもマイナスがありますし」(P108)


「図解雑学 人間関係の心理学」(斎藤勇/ナツメ社)

→人間関係の心理学をマスターして人類の王者になってやる!
と思う人が多いのかわからんが、本書は2007年で20刷。
大ベストセラーである。いかに人間関係で困っているものが多いのかがわかる。
とはいえ、心理学など常識以外のなにものでもない。

攻撃したら復讐される。
人は何度も見た人に好感を持つからセールスマンは足しげく通え。
見かけがいい人ほど得をする。
大都会で人が倒れていてもだれも手を差し伸べない。
最初に小さいお願いを承諾させると、大きな依頼をしやすい。
以上のようなことは、いわば常識でしょう。
こういった常識をいかにもっともらしく述べるかが心理学者の手腕であろう。

とはいえ、忘れてはなりません。
心理学というのは、人間の心理を学問したものではない。
あくまでも人間「一般」の心理を説明しようとしたものであることを。
どういうことか。変人には心理学など通じないということだ。
かえって心理学的手法は、場を読み誤まる原因になる。

たとえば本書で書いてあることから。
雑踏で人がうずくまっていても、だれも声をかけない。
これはふつうの人間の対応。
わたしはおかしいから、そういうトラブルには積極的にかかわっていく。
なにか事件らしきものがあったら首をつっこまずにはいられない。
わたしのようなタイプの人間は、心理学の網からもれてしまう。
換言すれば、心理学信者はいつかきっと痛い目に遭うはずである。

ひとつだけ本書で仕入れた新知識。
異性に惚れさせよう(好かれよう)と思ったら、どうしたらいいか。
こちらが相手に尽くすのではなく、尽くさせるといいらしい。
相手はこんなに尽くしたのだから、自分は好きなのかもしれないと錯覚するとのこと。
異性を攻略するには、プレゼント攻勢はダメということか。
ヒモになるのが、女からもてる秘訣だったのか!
おっと、いけない。またもや心理学にだまされるところだった。
心理学は「一般的な」人間にしか通じないのであった。
わたしとご縁のあるような御仁に心理学が当てはまるはずがないではないか……。

「ウェブログの心理学」(山下清美・川上善郎・川浦康至・三浦麻子/NTT出版)

→ブログというのは万葉集から始まるわが国の文芸活動の最先端だと思う。
このブログ文化が、はっきりと定義されるまでにはまだ時間がかかるはずである。
本書は、地震発生時の現地からのレポートといったおもむき。
インターネットおよびブログの誕生は、なにかしらを大変革させたはずだ。
そのなにかしらをどうにか学問として取り扱おうとしたのがこの書物である。

本書の概略をかんたんに説明すると――。
インターネットは公共空間である。
いっぽうでブログ(ウェブ日記)は私的空間といいうる。
両者の、つまり公共空間と私的空間の交錯が、革命的な事件である。
公共と私的、本来なら交わらぬものが接触するからこそ、
ネット空間では対人トラブルが尽きないと著者は指摘する。
わたしがわかりやすく言い換えるなら、公共空間は建前の世界でしょう。
かたいや私的空間は本音が幅を利かせている。
建前と本音とは、言い換えれば嘘と本当である。
このダイナミズムがネットの魅力であり、同時に危険でもある。

引き続き、本書から――。ブログはふたつのメリットがある。
自己における利点と、他者における利点だ。
人はブログを書くことで自己開示および内省をすることができる。
書いたことで自己を客観的に見ることができる。
同時に、ブログは新しい人間関係を構築するきっかけともなりうる。
自分の書いた文章をだれかが読んで共感してくれたら嬉しい。
逢おうという話になるかもしれない。
いままでだったら血縁・地縁(学校や職場の縁)以外の人間関係は生まれなかった。
ところが、ネット、ブログの誕生により、新たなご縁がむすばれうる下地ができた。

以下は個人的感想。
実際、うん、わたしなんかも友人知人は全員ブログ経由だから――。
気が狂いそうになったとき、ブログに心境を書くことで救われたことも少なくない。
以上がブログのメリット。
反対に、これはおそらくネット人格といわれる問題なのだろうが。
いろいろなトラブルのきっかけになってしまう。
結局のところ、書いた文章と本人は完全一致しないのが問題である。
このようにネットおよびブログにはプラスとマイナスがある。

じゃあ、どうしようかと対策を考えるのは無駄だと思うのね。
もうインターネット以前の世界に帰ることはできない。
だって便利。どんな問題でもネットで検索したら一応の答えが得られるのだから。
むかしだったら親に相談することで絆が深まったかもしれない。
図書館で調べたことによって、新たな知的関心が芽生えたかもしれない。
しかし、いまさらどう主張したところで過去には戻れない。
便利というものは、相当のマイナスを含んでいることだけは忘れたくないと思う。
プラスは同量のマイナスを付随している。逆も真なり、である。

「ドストエフスキイ前期短編集」(米川正夫訳/福武文庫)

→収録作品「初恋」を読んで思ったこと。
シェイクスピアを好んだドストエフスキーの小説は演劇的である。
少年が、初恋相手の不倫関係を盗み見る。
のみならず、秘密を知ってしまうことで葛藤する。
「秘密」や「盗み見」こそ、うーん、なんといえばいいのか。
人間の、そのう、基本スタイル(?)だと思う。
人は盗み見をしたいと思ったから、演劇が生まれた。
秘密を告白したい、逆に知りたい、と思う人たちが小説を生みだした。
人間の下世話な関心が、文学芸術の基盤としてあるのかしらん。

人は裸のうえに衣服を重ねる。この衣服が文化なのかもしれない。
じゃあ、なんのために服を着るかといったら、
結局は異性のまえで脱ぐためともいえるわけで、ううむ。
全裸を描くのが文芸なのか。
最新ファッションを描けばいいのか。
水着すがたを描写するのが本物なのか。
まあ、ドストエフスキーの全裸なんて見たくはないけれども。
男が精神のストリップをしたから読者は魅せられたわけで。

「比良のシャクナゲ」(井上靖/新潮文庫)*再読

→井上靖にとって小説は知的遊戯でも思想誘導でもなかった。
小説は物語であると終生、信じていたと思われる。
「比良のシャクナゲ」は井上靖の岳父(妻の夫)をモデルにした物語である。
いまふうの言葉でいえば、老人が自分語りを延々とするわけである。
こういうことがあった、自分はこう思った。
老人ゆえ愚痴や不満が多い。恨み節、嘆き節である。
人生はままならぬ。しかし、いや、だから人は物語る、いや、物語らざるをえない。
神仏に振われた鞭(むち)への復讐が人間の物語なのかもしれない。
痛みをごまかす、違う、痛みをより深く味わうために人は物語る。
物語ることによって話者は事件をもう一度味わうことができる。
聞き手(読み手)は、話者の味わいをともに味わい、どうしてか満足をおぼえのである。

「猟銃」(井上靖/新潮文庫)*再読

→井上靖が40歳をまぢかに文学立身を目指してはじめて書いたのが「猟銃」である。
井上靖は、この小説を書くにあたって、文章の持つ意味を深く考えたことがうかがえる。
文学を志すものが本来的に向き合わなければならぬ壁というものがある。
それは――なにゆえ書くのか、である。どうして書かなければならないのか。

「猟銃」は、いわゆる書簡体の小説である。3通の手紙が提示される。
読者は作中人物のひとりとともに女性3人の手紙を読む。
人はなぜ手紙を書くのか。伝えたいことがあるからである。
井上靖は、「伝えたいこと」こそ書かれなければならぬ思ったに相違ない。
だから、手紙なのであろう。
3通ある手紙のひとつは遺書である。人が死しても言葉は残る。

「猟銃」の鍵となるのは、おのおのの秘密である。
母の日記を内緒で読んで秘密を知ってしまう娘。
夫の不倫を盗み見たにもかかわらず10年知らぬふりで秘密を守り続けた妻。
最後に女たちはひとりの男に秘密を手紙で告白する。
なぜなら、書かなければ、伝えなければならぬからである。

そもそも文学とは、書かなければならぬものを書くものではないか。
これが井上靖の原点であると思われる。
書かなければならないことはなにか。伝えなければならぬことはなんなのか。

「みんな人間は一匹ずつ蛇を持っている」(P66)

「人間の持っている蛇とは何でありましょうか。
我執、嫉妬、宿命、恐らくそうしたもの全部を呑み込んだ、
もう自分の力ではどうする事も出来ない業(ごう)のようなものでありましょうか」(P74)


これを書かなければならぬと欲望する人間の心には一匹の蛇がいる。
蛇は秘密かもしれない。
墓場まで持っていく秘密を井上靖は蛇と形容しているとは考えられないか。
この蛇があるからこそ、人はものを書かざるをえない。
とはいえ、死に瀕しても、蛇そのものは決してすがたを見せない。

「みやびのけしき 古典傑作選」(学研)絶版

→とてもいい本。お正月に読んだ。
日本古典から選りすぐりの名場面が美しい写真とともに目を楽しませてくれる。
本文の下に現代語訳のみというシンプルな体裁もよろしい。
文法だのうんちくだのは、古典鑑賞の邪魔以外のなにものでもないことに気づく。
まず現代語訳を黙読して意味を把握する。
直後に原文を音読すると、口(目かな?)のなかに絶妙の味わいが広がる。
日本の古典作品は、このような味わいかたがいちばんいいのかもしれない。
ひとつの作品全部を読もうとすると、なかなかの骨折りでしょう。
このようなダイジェストが、古典を味わうには最適だと思う。
結局、なんにせよ芸術というのは、味わいに尽きるのではないか?
教養として触れたり、知的虚栄のために接するのは、俗物といわざるをえない。

本書に抜粋されているのは――。
「古事記」「竹取物語」「伊勢物語」「土佐日記」「枕草子」「源氏物語」「今昔物語集」
「方丈記」「宇治拾遺物語」「平家物語」「徒然草」「太平記」「曽根崎心中」「奥の細道」。
どれもそれぞれ味わい深かったが、どうしても受け容れられぬ作品がひとつ。
「枕草子」だけは、鳥肌が立つほど嫌いである。
女性のもっとも質の悪い部分がおもてに出てしまったのが「枕草子」ではないか。
別の言いかたをすれば、向田邦子的ということになろうか。

しかし、日本古典文学の作者たちは、みなみな無職ニートに近い。
むかしは無職ニートの美感を「みやび」などと評したのだろう。
ありあまる時間と裕福な生活から感受しえた美的真実を作者は言葉で表現した。
日本古典の名場面の特徴に気がついたので報告する。

「どうしようもない(無常ゆえ)→泣く」

古典の名場面は、このパターンばかりである。
老若男女を問わず日本名作古典の作中人物はよく泣く。おいおいと泣くのである。

「古事記」
(ヤマトタケルが死んで白鳥になったので)「哭(な)きて追ひたまひき」(P18)
「竹取物語」
(かぐや姫が月に去るので)「竹取心惑ひて泣き伏せる」(P23)
「逢ふことも 涙に浮かぶ 我が身には 死なぬくすりも 何にかはせむ」(P26)
「伊勢物語」
(女と別れて)「足ずりをして泣けどもかひなし」(P29)
(望郷の念から、みな)「舟こぞりて泣きにけり」(P32)
(女が恋しくて)「をとこ、いといたう泣きてよめる」(P34)
「土佐日記」
(子を亡くして)「世の中に 思ひやれども 子を恋ふる 思ひにまさる 思ひなきかな」(P40)
「源氏物語」
(光源氏が美少女を盗み見て)「涙ぞ落つる」(P64)
(夜半、孤独に)「涙おつともおぼえぬに、枕うくばかりになりにけり」(P67)
☆「平家物語」の「敦盛最期」
(わが子ほどの青年を殺す哀しみに)「袖を顔におしあててさめざめとぞ泣きゐたる」(P105)

「源氏物語」において「盗み見」がひんぱんに見られる。
「ハムレット」もまた「盗み見」の芝居である。
他人の「せりふと動き」を「盗み見」する悦楽が、文芸の原初のすがたかもしれない。
「盗み見」とは、見られずに見ること。
物語の読者も、芝居の観客も、要するに「盗み見」を楽しんでいるのではないか。

「宇治拾遺物語」の「絵仏師義秀」が身震いするほど怖い(P91)。
仏の絵を描くことを生業としている義秀。
ある日、義秀の家が火事となる。妻も子も置いたまま真っ先に逃げ出した義秀。
ニヤニヤ燃え盛る炎を見つめる義秀をいぶかった知人が理由を問うと――。
「実際に地獄の火炎を見たから、これでいくらでも本物の不動尊が描ける。
だから家一軒、妻子を喪ったところで、とりたてて構いやしない」

「太陽 特集・親鸞」(丹羽文雄ほか/1972年7月号)品切れ

→親鸞関係の写真がたくさん掲載されていたので百円を払い拾ってきた。
理解には、言語を介してのものとイメージを通してのものがあると思うからだ。

丹羽文雄は親鸞には妻がふたりいたという学説を信奉している模様。
そのうえでこの学説を重んじている。
40年近くまえの記事ゆえ最新の学説がどうなのかはわからない。
いまの学説では親鸞の妻は幾人となっているのか?
わたしは学説になど興味はない。
ただ親鸞が女をどのようなものとして考えていたかは興味がある。
観音菩薩のような聖なものか、あるいは奴婢のごとき俗なるものか。

また丹羽は鈴木大拙の親鸞への評言を引いている。いわく――。

「親鸞に強い関心を寄せていた鈴木大拙が、その著書の中で、
『親鸞は、もしかしたら釈迦教の異端者ではないか』
と書いている。また、
『妙好人をはじめとして、どうも親鸞教の門徒には、社会性に欠けているようだ』
というようなことをいった」(P74)


妙好人とは、在俗の浄土教、篤信者のこと。
禅の研究で知られる鈴木大拙だからこそ、とらえることができた親鸞の一面である、
わたしは親鸞の反社会性が好きなのかもしれない。
「道元禅師語録」(鏡島元隆/講談社学術文庫)

→仏僧・道元は、自力救済が目的の禅宗、曹洞宗の開祖として知られている。
このため他力救済を説く親鸞を好むわたしには縁遠いだろうと思っていたが、
読み始めたらおもしろくて打ち震えた。
親鸞の「歎異抄」とセットでお読みになるのもいいかもしれない。
親鸞と道元は、言うなれば双子の兄弟である。
双子ゆえに反発しあうものの、実のところ血がつながっている。血縁関係にある。
最初にアウトラインをわかりやすく説明しておいたほうがいいだろう。
基本の基本から――。
親鸞が説いたのは念仏による他力信仰である(他力救済、他力本願)。
一方の道元が説いたのは禅による自力悟達である(自力救済)。
ところが、親鸞の言うところの他力とは、突き詰めれば自然になる。
道元の実践した自力も、究極的に意味するところは自然にほかならぬ(後述する)。

1.親鸞=他力=自然
2.道元=自力=自然
3.他力=自力


こうなってしまうわけである。親鸞ファンのわたしが道元にも惹かれたゆえんだ。
これから道元の至った悟り=自然について引用をまじえつつ紹介していく。
親鸞の到達した自然法爾は、よろしければ「歎異抄 三帖和讃」を参考にしてください。

時間がない。ひと言で述べよ。道元の悟りとはいかなるものか。
道元は中国に留学して師の(天童山景徳寺の)如浄からなにを伝えられたのか。

「雪裡(せつり)の梅花(ばいか)一枝(いっし)綻(ほころ)ぶ」

「釈尊の悟りは、雪の中に梅の花が一輪、綻び咲くところにある」(P101)


レベルの高い人間は、この一句を聞いただけで悟ることができると道元は言う。
「雪裡の梅花一枝綻ぶ」――。
冬のなかの春である。もしや冬は冬ではないのかもしれない。冬は春ではないか。
自然とは、冬が春になることである。
人間がどのようなちからで阻止しようとしても、冬が春になるのは防ぐことができないだろう。
ならば、人間が自力で悟ろうとして悟ることのできる限界はどこにあるのか。
まだまだ我われは道元禅師の言葉を必要とする。
道元よ、仏性とは、つまりなんのことか?

「天暁(あ)くれば報(つ)げ来(きた)る山鳥(さんちょう)の語、
陽春の消息(しょうそく)早梅(そうばい)香(かんば)し」

「仏性は、夜が明けてくると山鳥が夜明けを知らせて鳴き、
春になれば早咲きの梅が春を知らせて芳(かんば)しくにおう、
そのうちにある」(P70)


なるほど、冬が春になるのみならず夜が明けるのも自然である。
「天暁くれば報げ来る山鳥の語、陽春の消息早梅香し」――。
くだらぬ、なにを当たり前のことを憤慨するかたもおられるでしょう。
正しい。道元の説いたのは、当たり前のことなのである。そこに気づくか否か。
というのも、道元禅師の開堂宣言として有名な「眼横鼻直(がんのうびちょく)」。
これは「眼は横に、鼻は直にある」という当たり前のことを言っている。
ならば、当たり前のことに改めて気づくとはなにを意味するのか。
我われは日々どのようなことをしているのだろう。

「海に入りて沙(いさご)を算(かぞ)う、空しく自ら力を費やす。
塼(かわら)を磨いて鏡と作(な)す、徒(いたずら)に工夫を用う」(P75)


海にもぐって底にある砂を数えるようなことばかりしているのではないか。
(あまたある仏典を読み尽くそうと思ってもどだい無理だろう)
カワラを拾ってきていくらみがいても鏡にはならないぞ。
(いくら悟ろう悟ろうとしたところで、今度は悟りに縛られるのが落ちだ)
ここの道元の表現は実にうまいとおもったのであえて学者の訳を引用しなかった。
たしかに、と思う。
仏法修行などとは縁のない我われの生活をも道元はうまく描写している。
実際、海底の砂を数えたり(外界)、カワラを鏡にしようとしている(内面)。
世界全体を知ろうとしたところで計り知れないではないか。
わたしとはなにか必死に自分探しをしたら、かえってわからなくなってしまう。
だとしたら、道元はいったいどうしろというのか。
当たり前のことに気づけというのみである。我われはなにを見ていないのか。
上記の引用文に引き続き――。

「海に入りて沙を算う、空しく自ら力を費やす。
塼を磨いて鏡と作す、徒に工夫を用う。
君(きみ)見ずや高高(こうこう)たる山上の雲、自ら巻き自らのぶ。
滔滔(とうとう)たる澗下(かんか)の水、曲に随(したが)い直に随う。
衆生の日用は雲水(うんすい)のごとし。雲水は自由なれども人は爾(しか)らず。
もし爾(しか)ることを得ば、三界の輪廻、何(いずれ)の処よりか起らん」(P75)


ここも訳は引用しなくていいでしょう。
空を見よう。天上の雲は自然にくっつき離れ、また広がり縮む。
河を見よう。地上の水は自然に直進し、ときには曲がる。
雲水の自由闊達はいかほどか。これを自然というのだ。
我われが不自由なのは雲水のようになれないからである。
逆に言えば雲水のようになれたら。
だがしかし、雲水のようになろうとしたところでなれるものだろうか。
というのも、雲や河水には人間の意志のようなものはないのだから。
人間の意志を超越するものとは――。

「但(た)だ雪の消え去ることを得て、自然(じねん)に春到来す」(P120)

どうすればいいのかと弟子に問われて道元の答えたのがこれである。
一問一答ふうにしたら、こうなるのだと思う。
Q:自分はなにを「為す」べきでしょうか?
A:雪が消えたら春が「来る」!
ふたたび「雪裡の梅花一枝綻ぶ」――。

「時節因縁は仏性なり」(P146)

学者の言葉を借りると時節因縁とは「時節が到り因縁が熟すること」。
いままでの流れに沿って、道元の発言を順番に整理してみよう。
仏性とは「自然」=「雪裡の梅花」=「雲水」=「時節因縁」。
道元は、中国僧・法眼の言葉を借りる。
「毎日、なにをしたらいいのか」の質問に法眼禅師はこう答えた。
「歩歩(ほほ)踏著(ふみし)めよ」。そして――。

「夫(そ)れ出家人は、
但(た)だ時及節(ときとせつ)に随わば便(すなわ)ち得(よろ)し。
寒(かん)なれば即(すなわ)ち寒く、熱(ねつ)なれば即ち熱し。
仏性の義を知らんと欲(おも)わば、当(まさ)に時節因縁を観ずべし。
但だ分を守り時に随うべし」(P165)


寒くなったら寒いし、暑くなったら暑い。
日本の道元だけではなく中国の法眼もまた、どう考えても当たり前のことを述べる。
「寒なれば即ち寒く、熱なれば即ち熱し」――。
いや、果たして当たり前のことだろうか。
我われは夏には冷房を用いて、冬になったら暖房を使用しているのだから。
とすれば、夏は暑さを味わえ、冬には寒さを味わえ、ということなのだろうか。
これではエコ狂いの好む説教のようである。
道元はエコになどまったく関心がなかったはずである。
現在、宗教と対置されるのが科学(エコ)である(大昔は宗教が科学をも内包していた)。
さあ、現代科学の決してわからぬものとはなにか。
死である。宗教のみが死を物語りうる。
ひっくり返せば、死を説明しているものがいたら、宗教家と見てよい。
道元の死生観に耳を傾けてみよう。

「生や従(よ)り来(きた)るところなし、なおサンを着るが如(ごと)し。
死や去りて処(お)る所(ところ)無し、なお袴(こ)を脱ぐが如し。
万法(ばんぽう)本(もと)空(くう)なり、一(いつ)何(いず)れの処にか帰す」

「生はどこから生れてきたか、その由(よ)って来るところはない、
ちょうど、寒くなれば上衣を着るように時節因縁によって生れてきただけだ。
死はどこへ去るか、去って留まるところはない、
あたかも暑くなれば、ももひきをぬぐように、時節因縁によって死ぬだけだ。
本来空(くう)で一(いつ)に帰するが、その一も帰するところはない」(P89)


道元と親鸞、ふたりの高僧が到達したのは、おなじ自然(じねん)であった。
もしかしたら自然信仰は、春夏秋冬=四季あざやかな日本ならではのものではないか。
もっとも日本人らしい宗教意識は自然なのかもしれない。時節因縁。春夏秋冬。
とんだ飛躍になるのだろうが――。
河合隼雄は「日本人の心」で四季こそ日本人の宗教ではないかと指摘している。
山田太一は自作ドラマのタイトルに春夏秋冬を入れることが多いのにも留意したい。

以上、道元仏法の要となる自然について掘り下げてみた。
最後に道元禅師の説法を拾ってみたい。
乱暴に言えば「どうすべきか?」に「春夏秋冬!」と答えた道元ではあるが、
いちおう仏教指導者らしい言葉も遺しているのである。

「人人(にんにん)尽(ことごと)く衝天(しょうてん)の志あり、
如来の行処(ぎょうしょ)に向かって行くことなかれ」(P53)


天をも衝(つ)かんばかりの志気もて邁進せよ!
如来の真似をしても悟ることはできないと思え。
これは成功哲学とも相通ずるような気がする。
成功者の真似をしても成功することはおそらくできまい。
天を思い切って衝くほどの一回性に賭けてみる。
うん、天を衝くという表現がとてもいい。

「永平(えいへい)称(なんじ)が脚底(きゃくてい)にあらん」(P121)

永平とは(道元の開いた)永平寺。道元の教えのことである。
諸仏や祖師の真似をするなかれという文に続いて「永平称が脚底にあらん」。
自分の足もとをよくよくご覧なさい。

「地を掘り天を覓(もと)む、日面月面(にちめんがちめん)」(P131)

天地のあいだで生きる我われにとって、これはとても深い言葉だと思うのね。
天を求めて地を掘ってみよ、と道元は主張する。
そうすると太陽や月のように光り輝く世界があると言っているわけ。
天を見るのではなく地を掘ることによって陽光や月光にまみえんとする――。

「泥(どろ)多くして仏(ほとけ)大なり」(P68)

親鸞上人の悪人正機説に通じる思想を道元禅師もまたぽろっと口にしている。
このほかにも、座禅は欲界にもだえ苦しむ、そのただなかにある、
といったような文言を道元は遺しているのだが(P99)。
あるいは酒、女、賭け事、惰眠こそ禅境に通じているのではないか――というのは、
いくらなんでもわたしの読み間違えであろう(苦笑)。どう思う?

「小魚、大魚を呑み、和尚(おしょう)、儒書を読む」(P145)

禅宗の公案(=問題集)に「小魚、大魚を呑む」というものがある。
この意味するところは、「和尚、儒書を読む」。
仏教の和尚さんが儒学の書物を読む。仏教、儒教といった相違にこだわらぬことだ。
もし道元が現代に生きていたらキリスト教もイスラム教も否定しないと思う。
もちろん、創価学会、幸福の科学、オウム真理教もね♪

「天然の妙智は自(おのずか)ら真如、何(なん)ぞ儒書および仏書を仮らん、
縄床に独坐して口壁に掛く、
等閑(なおざり)の一実(いちじつ)千虚(せんきょ)に勝れり」(P195)


生まれつきそなわった妙なる智識は、そのまま仏法の真理である。
どうして仏教やら儒教の書物を乱読する必要があろうか。
ほんの一瞬の実のある味わいは、千冊の書物(=虚)よりもはるかに勝るというのに。
要するに「読書量自慢をするやからは、まだまだ青いの~」と言っているわけである。
いくら書物を読んだところでなにもわかりはせぬということだ。
ちなみに道元は、中国語のエキスパート。
中国語(漢文)で長大な仏教理論書を書いたくらいである。
道元の死後、弟子が師匠の著書を中国の高僧に持っていく。
その高僧が選び抜いた道元の名言集が、このたびわたしが読んだ「道元禅師語録」である。
ろくろく中国語も読めなかった田舎坊主の親鸞と比べたら、道元はスーパーエリート。
いまでいえば英語で本場の欧米人を感嘆させる学術書を書いたようなもの。
ところがふしぎ、道元も親鸞も行き着いたのは「自然(じねん)」なのだから。

最後に強引に仏教をひとまとめにしてしまおう。
「春夏秋冬」=「時節因縁」(道元)=「自然」=「南無阿弥陀仏」(親鸞)=「無常」(釈尊)。
こう並べると日本の道元、親鸞、
インドの釈尊がみなおなじ摂理を説いていたことになってしまうのだからおもしろいではないか。

物が売れないなら、夢を売れ!
夢は利益幅の大きい商品だと思う。
創作スクールの売っているものは夢でしょう。
「作家になったらバラ色の生活になる」という夢。
実際は、作家なんて大半は編集者やプロデューサーの奴隷。
実入りも恐ろしいほどによくない。
けれども、作家! 作家ですよ作家! 人生が大逆転するかもしれない!
夢を持とう! 夢をあきらめないで!

創作スクールは殿様商売ができる。
夢がかなわない生徒には、がんばれ、がんばれ! 努力が足らないのよ!
あきらめなければかならず夢はかなう!
「もっと努力しましょうね」と高額の講座への参加(=入金)を迫る。
ほうら、がんばれ、がんばれ!
運がよかったのか努力が報われたのか、大勢の生徒のひとりがコンクールに通ったら、
うちの教えかたほどすばらしいものはないと宣伝してまわる。

夢を売る殿様商売は、「ありがとう」を言わないでいいのがポイント。
どの商売でもお客さんには感謝するでしょう。
ところが、夢産業は高飛車である。
お客を説教できると思っている。がんばれ、がんばれ! 夢をあきらめるな!
謙虚になれ! 従順になれ! 夢をかなえたくないのか! 夢をあきらめるな!
小さなコンクールにでも入賞したら、「ありがとう」を言いなさいと迫ってくる。
このビジネスモデルを考えた人は最高に頭がいいと思う。

悪徳な商売とまでは言わない。それなりの社会貢献をしていると思う。
大半の生徒さんは2、3年で挫折するはずである。
創作の世界は、才能や運が強く関係するから、こればかりはどうしようもない。
むしろ、これでよかったのだ。
生徒さんの人生において夢を見ることができた数年は、きっと輝いていたはずだから。
運よくコンクールに通ってしまうと逆に不幸かもしれない。
本職を手抜きしてまで、大してカネにもならない創作に夢中になるからである。
ろくな才能もないのに勘違いしてしまう。
そのうち本職のほうでミスをしてクビになってしまったら目も当てられない。

夢を見ているうちはいいのだが、夢のような現実はどこにもない。
夢のような作家生活は、実のところどこにもないのである。
夢は見ているうちが華ということだ。
夢は言うなれば実体のない金融商品のようなもの。
金融商品とおなじように夢も売買することが可能である。
カネを儲けようと思ったら夢を売るがわにまわったほうがよろしい。
だが、夢を買うことの楽しさを否定するわけではない。
どうせつまらない人生なのだから、いっときでもとろけるような夢を見たいじゃないか!
ひとつ問題なのは夢の売人である。
夢産業の従事者で、おのれをまるで一角の教育者や慈善家のように
勘違いしている御仁がときおり見受けられる。
売り手が買い手とおなじようにおかしな夢を見ていてはいけない。


(参考)とあるスクール経営者の日記から↓

夢を捨てない、書き続ける、その気持ちだけは忘れないで、明日につないでいきましょう。
佳いお年を!!きっと夢はかなう。

「表参道シナリオ日記」12月22日の記事より


「夢を捨てるな=うちにカネを払え」と主張しているわけですね♪

(参考)努力の弊害について↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1854.html
新しいカップラーメンを食べるのが好き。
食べてみるまでのドキドキがいい。
どんな味がするのだろうと名称とパッケージから予想する楽しみよ。
このまえカレー&味噌&チーズラーメンなるものを食べたらおかしかった。
どの味もしないわけさ。
カレーの味も味噌の味もチーズの味もしない。ウヒヒ。
こういうまずいのも、楽しいんだよね。
あとひとつ残っているから、だれかにあげようかな。
なかには新商品でうまいカップ麺もある。
で、まとめ買いをするじゃない。
しだいに飽きてくるのね。ほんといいタイミングで。
そうすると、また新しい味のカップラーメンが店頭に並んでいる。
今度のはどうなんだろうとワクワクしながら買う。

商品開発部はたいへんだと思う。
味覚がおかしいものにしか開発はできないのではないか。
だって、ロングセラー商品を狙っちゃいけないわけでしょう。
狙ったところでむかしのような定番ものはもう出ない。
ひたすら新奇なもの、珍奇なものを追い求めるしかない。
流行の一歩手前を尾行し続けるカップ麺探偵さんに敬礼!
おかげさまで楽しませてもらっています♪ そうら、がんばれ、がんばれ♪
料理人の鍛えどころは、要するに舌なのである。
おのれの味覚を追求していく仕事なのであろう。なにがうまいのか?
結局のところ、(天才ならぬ)凡人の場合、舌の修行は多くの美食体験による。
うまいものだけではなく、まずいものを食する経験も益するところが多いだろう。
目的は、味を盗むこと! なかには弟子入りをするものもいよう。
とはいえ、多く味わえばいいというほど単純ではない。
それではただの大食いチャンピオンに過ぎぬ。
食物をどの程度まで味わえるかが問題である。味わう。
美食を繰り返すセレブの舌が肥えているかといったら疑問である。
だれかがおいしいと評価するものだけを好むやからは少なくないからだ。
我われは食物のみならず人生の悲喜も味わう。
どちらも「味わう」ことでは共通しているが、このときの舌はおなじものなのだろうか?
出された料理を我われは味わう。
コックが持ってくる皿と、神仏が差し出してくる悲喜。
目のまえのものを頬張るしか選択肢はないとしても、
いかに味わうかで感動はさまざまである。
帰宅して台所に立つ。パソコンのワードを開く。
このとき作るものは、あなたの味覚能力に強く影響されることだろう。

恋人や母親の作ってくれた料理はおいしく感じる。
作り手を愛することによって味わいは大きく変わりうる。
もしかしたら客観的な舌=味覚などないのではないだろうか?
絶対的な舌などないとしたら、どういうことになるのか?
実は、料理や創作の話をしていたのではないのかもしれない。
こっそり宗教の話をしたかった。
最近の「本の山」をご覧になって不愉快な思いをなされたかたも多いでしょう。
たとえば資格取得を目指してがんばっている人。
まあ、カツマー(勝間和代ファン)は時間の無駄と無名人のブログは読まないでしょうが。
それから闘病している御仁。
必死にがんばってリハビリしている患者さんの逆鱗にうちのブログは触れることと思います。
「甘えるんじゃない」なんて怒られてしまうかもしれない。

本当と嘘という区分がございます。それは果たして本当か嘘か。
わたしは本当よりも嘘が好きなんです。
たとえば死んだら極楽浄土に行って死んだ肉親と再会できると信じているところがあります。
本当か嘘かを問われたら、おそらく嘘でしょう。
死んだらば灰になり、あとなにも残らない。
きっとこちらが本当なのでしょう。けれども、嘘を信じたいじゃないですか。
嘘のほうが心安らぐ。だったら、嘘を信じてもいいじゃないかと思うのです。

さて、「がんばれば報われる」は本当か嘘か――。
嘘だって思うんです。本当じゃないですよね。
ガンになる人はがんばっていなかったから、なんてとても言えないでしょう?
通り魔に殺された人は、自己責任とは言えませんよね?
嘘と知りながら嘘を愛すべきではないかと思います。
「がんばれば報われる」なんて嘘八百に決まっている。
にもかかわらず、嘘を信じてがんばる。こうしたら、いえ、こうしたいと思います。

不遇な人と接するとこちらも辛くなります。
そのときは「がんばってね」と声をかけていいと思うんです。
励まされたら「うん、ありがとう、がんばるから」と応じる。
結局、どうしようもないことばかりなんですよね、人生は。
とてもとても思い通りになんか行きやしませんもの。
だから、まあ、がんばりましょう。いや、がんばりたいと思う。
みなさんもがんばってください。わたしもがんばりますから。
今年は可能な限り多くのコンクールにジャンルを問わず応募するつもりです。

しかし、忘れてはいけません。がんばる=努力は万能薬ではないことを。
むしろ、毒にもなりうる。
あんまり「がんばれ、がんばれ」と自分を責めるとおかしくなっちゃいますよ。
いわゆる鬱病ですね。
努力をしたことで局面が悪化して泥沼になることも意外と多いように思います。
それから「がんばれ」は自分だけ。他人を巻き込んではいけません。
あの人はがんばりが足らない。失敗したのはがんばっていないから。
こういった具合に、他人を見下さないようにしませんか。
がんばり屋さんは、どうしても(自分のみならず)他人に厳しくなってしまいがちです。
のんびり楽しみながらがんばりたいものです。

わたしは個人的に、負けるとわかっていてなされる努力が好きなんです。
報われない努力こそ美しいと思います。美しい。
たとえば「平家物語」。物語終盤で平氏一族は負けることになかば気づいている。
けれども、がんばりますよね。ぞくっとするほどいいと思います。
白虎隊もよろしい。異論も多くあるでしょうが敗戦直前の日本軍も美々しい。
きっとわたしの努力もおなじようなものだからかもしれません。
というのも、わたしの成功する確率なんて1%もないでしょう。
99%失敗するに決まっています。けれども、あがくわけです。
実のところ、あなたの努力もおなじなんです。
人間だれしもどんなにがんばってたとえ大成功をしたところで、
結局は負ける――つまり死ぬのですから。
いちばん楽しい旅は、ガイドブックを持たぬ道行きだと思う。
見知らぬ町に着き、ふと行きあった人に名所を尋ねる。
暗くなれば、おなじように宿を問う。
腹がへれば、どこがうまいのか道行く地元民に教えてもらう。
こういう旅は、国内よりも国外のほうが楽しい。
いわゆる先進国ではないほうが刺激的である。
旅行のなにが楽しいかといったら偶然だと思う。
偶然に身をまかせる愉楽が人を旅に向かわせる。

比べて、計画予定のぎっしり詰まった旅はどうだろうか。
スケジュールのすべてがあらかじめ決められている。
名所旧跡のすべてをとどこおりなく通過するのが目的。
この場合、偶然の事件は、みなみなトラブルのひとつとして処理されてしまう。
偶然はなるべく避けるもの。
まえもって用意周到に決められた通りの旅がもっとも望ましい。

しかし、思いませんか? 旅のなにがおもしろいかといったらトラブルだとは!
道に迷う。だれかに聞かざるをえないでしょう。
こうしてはじめて現地人との交流が生まれる。
一緒に酒を呑もうと誘われるかもしれない。
うちに泊まっていかないかと言われるかもしれない。
これぞ旅の醍醐味だとわたしは思うのだが。

旅を人生にたとえる思想は、古今数えきれぬほどである。
どうして人生も旅とおなじように考えないのだろうか。
スケジュールの定められた人生は、もしかしたら大損をしているのではありませんか?
10年後に管理職になり、嫁をもらい、住宅ローンを組み、子どもは二人で――。
まあ、概して人生は計画通りには行かぬが、
よしんばスケジュールに従って進行したとして、そんな人生がおもしろいか?
まるっきり人生の味わいを感受できない、たとえるならカロリー摂取の満足のようなもの。
人生の苦味も甘味も、それでは皆目わからぬではないか。

先が決まっていない旅=人生ほど魅力的なものはない。
いや、人生の終着地はどの旅人も決まっている。
言わずもがなの死である。人は生まれ死ぬ。
「がんばる」の反意語とはなにかを考えてみるのは有意義なことのように思います。
我われは「がんばる」ことしか知らないのかもしれません。
日本人の別れの挨拶は「さようなら」ではなく、
「がんばってね」「がんばろうね」のほうが比率が高いのではと思うくらいです。
どれほど日本人は「がんばる」に依存していることでしょう。
ともあれ、「がんばれ、がんばれ」でやってきました。
ですから、動詞「がんばる」を奪われたら、どのように動いたらいいかわからない。

「がんばる」の反意語とはなんでしょうか?
「あきらめる」を挙げるかたがおられるはずです。
「あきらめないでがんばれ」は毎日のようにテレビから流れるメッセージ。
どうしてこうも「あきらめる」がマイナスになってしまったのか。
わたしは「あきらめる」をプラスの意味合いの動詞だと思っています。
いい年をしておかしな夢を見ている人間より、
「あきらめる」ことのできた人はよほど格好いい。
「あきらめる」は本来、道理を明らかにするほどの意味。
盲目的に「がんばる」よりも、しっかり「あきらめる」ことは価値があると思います。

「なまける」が「がんばる」の反意語でしょうか?
「なまける」はなすべきことをやらないこと。
サービス残業はなすべきことではないのに、がんばってやろうという話になります。
「なまける」では、どうもおかしい。
なら「やすむ」はどうだろうか? 「がんばる」の反意語は「やすむ」でいいのか。
しかし、「やすむ」とはなにもしないこと。
なにもするなと命令されても我われは困ってしまいます。

いったい「がんばる」の反意語はなんでありましょうか?
実のところ、答えは簡単なのです。「がんばる」の反意語は「がんばらない」しかない。
ずるいとお怒りのかたも多いでしょう。たしかに言葉の遊びです。
だが、一歩進みました。
「がんばらない」を別の言葉で置き換えたら果たしてなんになるか。
これをみなさまに考えてほしいのです。
きっと答えはひとつではないと思います。
わたしが思うのは――。
「がんばる」の反意語は「泣く」「待つ」「神頼み」。

失敗したらがむしゃらにがんばるのではなく、きちんと「泣く」。失敗を不幸を味わう。
つぎのチャンスが来るかもしれないのだから、
変にがんばって事態を悪化させるよりは「待つ」。
ただ待っているのは不安だから、せめて「神頼み」でもする。
「神頼み」なんてバカらしいと思う人がいるかもしれません。
しかし、人間は最終的には「神頼み」しかないのではないでしょうか。
きっと神さま(仏さま)が事態をよくしてくださると信じて希望を失わず待ち続ける。
「神頼み」のすばらしさは、希望を持てることに尽きるでしょう。
人間は希望を失わないことで、別のちからを呼び込むことがないとは言えませんから。

「がんばる」のに疲れたらどうしたらいいか。「泣く」「待つ」「神頼み」です。
わたしは「がんばる」のは苦手。「泣く」のは好むところ。
人間ができていないので「待つ」のも苦手ですけれど「神頼み」は嫌いではありません。
海外の聖地で多く合掌してきました。「神頼み」の別名は「祈る」でしょう。
日本の神社仏閣にお参りするのも好きです。
「がんばる」に限界を感じた人は「祈る」のもいいかもしれません。
わたしの初詣は高麗神社。今年は何回でも初詣(じゃないって、それ)をしてやろうかと。
日曜日には明治神宮に行こうかと思います。
過疎(不人気)ブログのおかげで好き勝手なことを書けるわけです。
これが有名人ブログだったら、いままでのような極端なことは書けません。
まあ、無名人に許された唯一の特権ですからお許しを。
マスメディアでは「キチガイ」のひと言でアウトなんでしょう?
現代は建前が異常なほど勢力を増しているように思います。
いまの日本はお互い息を詰めて周辺の空気を読みあわなければならないようです。

「レイプしたラグビー部員は、いまどきの男子にしては元気があってよろしい」
「現代医学は以前なら自然淘汰されていた赤子も救ってしまうので問題だ」
どちらも政治家の発言だったように思います。
叩かれましたよね。どういう暇人が攻撃するのでしょうか。
成功者を引きずりおろす快感に打ち震えていたのか(わかります)。
いえいえ、こんなことを言ったら叱られてしまう。
実のところ、世の中の善男善女のみなさまほど怖いものはありませんから。

過日、心の不自由なかたへの蔑称を使用して申し訳ありません。
犯罪者を称揚するような記事を書いたことを謝罪します。
「女の腐ったような」という言葉を用いてとてもスカッとしました。
しかし、女性を軽んじる不適切な発言でした。お詫びいたします。

KY(空気が読めない)のチャンピオン、Yonda? が予想します。
今度、吊るし上げられる政治家および有名人のKY発言はずばりこれでしょう。
不況は深刻化するいっぽうですから、かならずやあるかと思われますのは――。
「不景気の原因は老人」。
好景気のときに貯め込んで老後になったのにさっぱり放出しないのがいけない。
医学が進歩したせいで本来なら死んでいる老人がたくさん残っている。
みんな百歳まで生きるつもりだから、まったく消費しようとしない。
これほどの不景気の原因があるものか。

もしこんな発言をする人がいたらひどいと思いませんか? ええ、ひどいですとも。
我われのちからで発言者を八つ裂きにすべきです。
人間の命ほど尊いものはないということを理解していないのですから。
こんな人間が政治家や財界人であっていいはずがありません。
即刻、辞任すべきです。断固、許してはならない。そいつは日本人のクズであります。
人間にとって長生きほどすばらしい価値あることはありませんもの。

いまの優秀な若者は20代、30代のうちから老後の資金を準備していると聞きます。
不安な時代に備える当然の対策です。
ハイパーインフレが起こったら……、アウト! だれですか、そんなKY発言をするのは?
このまま国の借金が増えていくと解決するにはハイパーインフレしかない。
大東亜戦争(おっと不適切)まえ日本人が貯えた老後の資金は戦後の改革でどうなったか。
紙くず同然になったのです。

KYはやめろ! 

インフレなんか起こるはずがない。日本人ががんばればかならず経済は復興する。
がんばれば報われる! いまの日本人は努力が足らないんだ。
むかしの日本人はいまよりもっともっと辛い思いをしてがんばったのだから。
前向きに努力すればぜったいに成功する。結果がでない努力は、努力とは言わない。
正しい努力をすれば百パーセント報われる。
しかし、どんなにがんばっても大東亜戦争には勝てなかったでしょう?
うるさい! KYはやめろ! 空気を読め! 社会的に抹殺されてもいいのか!
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
2010年1月4日、高麗神社にて撮影↓

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質問をする。宝くじで3億円が当たったら、なにをしたいか?
おのれの小ささに絶望してしまう。
ろくな使いみちを思いつかないからである。
海外の高級ホテルに泊まっても萎縮してしまうことだろう。
(小汚いホテルのほうがかえって落ち着くよな……)
日本で最高級の中トロを食べても、その味を心底からは楽しめないはずである。
(スーパーで買った半額寿司のほうが感動があったような……)
暴力団筋に大金を支払い人気女優の某と一夜をともにすることができても、
愛想笑いするだけが落ちのように思えてくる。
(きれいすぎて、なんか怖いよ……)

人間とはなにか? 欲望である。自己の欲望の小ささがいやになる。
わたしという人間の矮小がわかってしまう。

「人間はなにをしてもいいんだ」とは(こちらの未熟ゆえ誤りかもしれぬが)
恩師の原一男先生から教わったこと。
なにをしてもいい。なんでもできる。
これが人間の自由だ。人間は自由を目指さなければならない。
不自由は苦しい。自由を求めよ。自由とは、なんでもできること!
どうして我われはなにもできないのだろう?

誤解を一切恐れずにいうが、殺人犯を尊敬する思いがある。
すげえよなと思う。自分にはとても人を殺せないからである。
殺してもいいよと言われても殺せない。
万引犯も尊敬する。わたしはどうしても盗むことができない。
会社の大金を横領した人にも驚異をおぼえる。小心者だから、真似できない。
女に夢中になって大金が必要だったという犯行理由にも敬意をいだく。
わたしはかれほどまで女に惑溺することができない。
おのれの狭量に泣きたくなる。
暴走するが(暴走したいのだ、どこまで人間は書けるのか)レイプ犯にも拍手を贈りたい。
わたしはとてもいやがる異性を強制的に犯すことなどできないからである。
ヒットラーは偉い。織田信長は偉人である。
我われの大半が「なにをしてもいい」と許されても、なにもできやしないのだから。
たとえ罪に問われなくても、我われは嫌いな人間を殺すことができない。
おそらく憎む相手を傷つける言葉さえ吐けない人間が多いのではないか。
幼女を少女を処女を犯すことができない。
通勤する会社員を嘲笑いながら駅のホームでエビスビールをのむこともできない。
軟弱者! ヘタレ! チキン! おまえは女の腐ったようなやつだ!

巧みな詐欺で善良な老男老女から大金を巻き上げ、
バンコクで酒と女におぼれるロクデナシは偉い。
なぜなら、わたしには真似できないからである。
あなたは自分のことを善良で勤勉な人間だとどこかで誇っていないか?
それは違うのである。単に勇気も根性も野心もない奴隷にすぎないのである。
わたしも奴隷である。おのれが奴隷であることを知っている奴隷である。
せいぜい信号無視やゴミ放置くらいしかできやしない。
どれだけがんばってもキセル程度が限界である。痴漢もできないような小物である。
くそったれ! バカヤロウ! ……バカヤロウ。。。。

お正月特別企画、Yonda? 先生のほろ酔い法話も本日が最後になります。
いやあ、アクセス数の減少は目覚しい。
やはり努力だけは批判・否定してはいけないのかもしれない。
日本で断じてノーを言えないものは、努力ではないか。努力批判はタブー。
努力は聖域にましまして、なんぴとなりとも物申すことは許されぬ。

わたしはよく「人生は運」とブログに書いている。リアルで口にすることも多い。
これをどうとらえるかである。
「人生は運」だから努力しても無駄という悲観的な文脈で受け取るものが多いのではないか。
むろん、主張したいところである。
諸君、徹底的に人生を悲観したまえ。

ところがどっこい「人生は運」思想は、悲観だけではない。
踊り狂いたくなるほどの楽観もうちに秘めているのである。
運には二種類ある。先天運と後天運だ。
「人生は親で決まってしまう」というのが先天運の考えかた。
では、後天運とはなんだろうか。

強者と弱者がリングで向かいあったとする。だれもが強者が勝利すると思う。
しかし、たまさか弱者が強者に勝ってしまうことがある。
これが「人生は運」の反面である。「人生は運」だから弱者が勝者に勝ちうる。
努力嫌いの怠け者が、家柄もよく有能な努力家に勝利してしまうことが人生ではあるのだ。
これほど小気味いいことはないではないか。
「人生は運」思想は悲観の極地だが、同時に楽観の最果てでもあることがわかりませんか?

どんなに努力しても「人生は運」に敗れてしまうことがある。
この思想は絶望と希望をともに胚胎(はいたい)していると思う。
「人生は運」は、努力するなと主張しているわけではない。
というか、人間はみなみなどうしようもなく努力してしまうのである。
その努力おのおのの高低は量れるものではない。
なぜなら、どちらの努力が高質か判断する基準がないのだから。
(たとえば四肢不自由者と健常者の努力をどう比較すればいいのですか?)

「人生は努力」ではない。
「人間は努力」するが結局のところ「人生は運」である。
だから、哀しい。だから、嬉しい。人生の悲喜であろう。
この感慨をむかしは「あはれ」といったのではないか。
何度でも繰り返すが、「人生は運」である。
人間は運と向き合うことができる。宗教、占い、ギャンブルを通して――。
「人生は運」の本当の意味は、人生ほどわからぬものはない。人間ほどわからぬものはない。
人生も人間も、はなはだ不可思議ということである。
わたしは、だからこそ当面のところ(自殺せずに)生きようと思っている。
100円で買ったイカの塩辛で日本酒をのむ。
香りがインドのパラク・パニール(ホウレン草カレー)と似ていることに気づく。
大発見だがカネにはならないだろう。

バーボンのハイボール(炭酸割り)に夢中である。
ピーナツをかじりながらのむと、こんなにうまいものは世界でないと思う。
バーボンはフォアローゼス。中上健次も愛飲していたと聞く。
1131円で4本買ったら、あっという間になくなってしまった。
年末にまた買いに行ったら951円に値下がりしていて嬉しい。
金持は損だと思う。安いものを買うほど幸福なことは人生でめったにないからである。

今年はまだモチを食べていない。
人生でおせち料理とやらを食べた記憶がない。

荒川付近を散歩する。明鏡止水の境地。もっとも正月だけであろうが。

去年は年賀状を3通書く。なにがいやだといって字を書くことである。
コンクール応募は、封筒に宛名を書くのがいちばんの苦手。
わたしは子どものような字を書く。まあ汚いのである。我ながら目を覆いたくなるほど。
これほど貴重な年賀状を受け取ったかたは家宝にしていただきたい。
もちろん嘘である。
ひとりから(年賀状の)字を見てニヤニヤしたと言われる。結構、結構。

シナリオ・センターから年賀状が来る。
そちらの都合で追放しておいて年賀状はないだろうと思う。
赤のマジックで「受取拒否」と書き殴り送り返してやろうか迷ったものの、
あまりに大人気ないのでやめた。
しかし、わたしは大人気ない人間というものが好きである。
「嵐が丘」のヒースクリフのような人を見るとニヤニヤしてしまう。理想である。

あれを覚えている人はいますか? 去年、草なぎメンバーが公園でやったあれ。

不眠症である。ところが、風邪を引くとやたら眠れる。あれはどういうことだろう。
眠るという動詞はがんばるの対極にある。
がんばって眠ろうとするのがそもそもおかしいのだが、わたしはついこれをやってしまう。
眠りにつくにはがんばらないのがいちばんなのである。
ぼおっとがんばらないでいるとありつけるのが、あの睡眠という安息なのだ。
眠りほどの安楽はない。これはかのシェイクスピアも言っていることである。
と書くと、なんだかもっともらしくありませんか?

今年から年末ジャンボ宝くじを毎年1枚だけ買うことにする。
よくよく考えてみたらあんなお買い得なものはない。300円でどれほどの夢を買えるか。
わたしはコロコロ考えが変わる。

年末にとある店で「極上ズワイ蟹とうふ」なるものを158円で買う。
店主がおまけとしておなじものをもうひとつつけてくれた。こういうのが嬉しいのである。
蟹の味はしなかったが、「極上ズワイ蟹とうふ」だと思う。
おかげでわたしのさみしい食卓も正月らしくなった。

ネットであちらこちら2010年の占いをチェックする。
どうやら今年は飛躍の年になるようである。よきかな、よきかな。
年始はこれでなければならない。年始くらいは明るい気分でいたい。

明日は山に行き頂上で握り飯をほおばる予定。
ホット烏龍茶を持っていく。ウイスキーをこれで割ろうというのである。
ちみたち、たしかにボカァ酔っ払っておる。昨夜もそうだった。
だがしかしね、人間は酒でも入らんと言えぬことがある。
努力すればいいとは、だれの文言かい?
努力の価値を認めている客観的科学報告があったらぜひぜひ教えてください。
ボカァ努力の価値をあまり認めていない。

こういう主張はどうだろうか。
努力しても、もてない男女はもてません。
努力しても、貧乏人は金持になれません。
努力しても、人間は幸福になれません。

青筋を立てるまでに激怒する御仁がいるのではあるまいか?
かれらは努力教の信者である。
ひっくり返したら、こうなります。
努力などしなくても、もてることはあります。
努力などしなくても、億万長者になる人はいます。
努力などしなくても、人間は幸福になれます。

最後の「努力→幸福」論をさらに批判する。
努力はむしろ人間を不幸にするのではないだろうか。
人間は成功を目指して努力をする。
だが、果たして成功は本当に幸福だろうか。
もしや成功を目指していた失敗時代が、もっとも幸福ではあるまいか。
成功は、かえって人間を不幸にするのではないか。

成功者は、手ひどい攻撃(嫉妬)を受ける。
少しでも活動をやめると、すぐさま失敗者あつかいされてしまう。
いってしまえば、
成功者は「ゴール=死」までのマラソンに強制参加を迫られた不遇なランナー!
ボカァ努力はいかんと思っておる。
だが、努力しかしようがない。ついつい努力をしてしまう。困ったものである。
軽い風邪を引いたらしく寒気がするので趣味の散歩はなし。
いまNHKで、政治家(および識者)連中が、
どうすれば日本がよくなるか話し合っている。
ご苦労なことだと思う。
むろん、かれらに権利はある。人一倍高い税金を払っているのだから。
いまの日本で若者は金持になりたいと思うのだろうか。
高額の税金を強制的に徴収され、
大衆(TV視聴者、2ちゃんねらー)からはこれでもかと叩かれる、にもかかわらず。

討論番組について思うこと。
「正しい努力をすればかならず報われる」という信仰への疑義はどうして出されないのか。
なにゆえこの世界的不況が人間の努力ごときで解消されると思うのか。
「話し合い」という制度が問題ではないか。
必要なのは、いち個人の命を賭けた暴走ではあるまいか。
責任はすべて自分が取ると、あえて失敗するような努力をしたとき、
奇跡的な復興が生じるように思うのだが。
これをできる政治家が果たしているか。大衆を露骨にバカにしてほしいのである。
むかしから芸術分野ではこのタイプが多くいたけれど、いまは皆無。
現代日本は政治・経済・芸術すべての分野で停滞していると思う。

肝心なのは、勝利を狙わないことではないか? あえて敗北を目標としてみたらどうか?
わたしの今年の目標はない。
芥川賞を取ると宣言しても、あれは人間のちからでなしうることではない。
シナリオ・コンクールでもおなじこと。
わが2010年度の目標値は低い。来年の元旦にも生きていること。これだけである。
あとは運だと思っている。偶然。運命。だから、目標としてあげるのはおかしい。
今日からの365日を生き抜けたらそれでいい。
可能ならばどでかい失敗(=成功)を狙ってみたい。