1月21日、調布の「文化会館たづくり」に山田太一先生の講演を聞きに行く。
テーマは、いちおう「新年に想う」ということらしい。
「思い」ではなく「想い」になっているのは主催者の配慮かしら。
山田太一ドラマ「想い出づくり」がよみがえる。いちばん好きなテレビドラマである。
以下に講演会で山田太一先生がお話になったことを再現する。
なにかおかしなところがございましたら、責任はすべて未熟な聞き手にあります。
壇上の先生はお元気そうで、とても75歳には見えない。
(拍手の後)本日はお集まりくださり、ありがとうございます。
いまは民主党が小沢さんの問題でもめていて、いろいろたいへんそうで。
ちょっとまえに民主党に変わって、さあ、どうなるかと思いましたが、
なかなかうまくいかないものですね。がらりとよくはならない。
かといって、民主党がダメだから、また自民党かと思うと、ねえ?
かならず、このような揺り返しというものが、あるようです。
どんなことでも、いきなりうまくいったりはしない。
戦後65年なんですね。思うことは、いつしか何事も理念通りにいくと、
みんな考えるようになっていないかということです。
事業仕分けなんかも見ているぶんには格好いいですけれど、
あんなにあっさり理念だけで物事を決めてしまっていいのかと思いませんか。
理念通りに物事が進むというのは、どういうことなのでしょうかね。
本当はなかなか理念通りにはいかないで、むしろじわじわと変わっていく。
そのようなものではないかと思ったりしますですね。
そのう、毛沢東なんかも理念通りに進めようとしたわけでしょう。
ところが、なかなか理念通りにはいきません。
人間みんな公平に平等にというわけにはいかない。
働いた人も怠けた人も、おなじ収入というのはおかしい。
じゃあ、と鄧小平がなんとかしようとした。
しかし、毛沢東が反対する。やはり理念通りがいいのだと。
そんなこんなで文化大革命が起こったわけです。
あれはないほうがよかったと思いますですけどね。
果たして理念通りになるというのは、どういうことなのか。
らい病の治療に生涯を捧げたことで知られる神谷美恵子さんがこんなことを書いています。
人間よりも生命力が強い動物がいる。
なんだと思いますか? ネズミのことです。
では、どうしていま人間が地球上の王者となっているかといえば、
ネズミを殺しているからなんです。人間はネズミを殺す。
人間が生き残るためには相当のマイナスを行なわなければならない。
きれいごとばかり言ってはいられない。
人間は、いろいろマイナスの部分がありますでしょう。
疑う。嫉妬する。憎む。悪口を言う。決して美しい理念通りに生きていけるものではない。
いま鳩山さんは、政治目標として友愛を掲げておられます。
およそ政治とは不向きな言葉だと思うのですね。
政治は、もっと実際的な言葉を使うものだと思っていました。
雇用を増やそう、とか。
さて友愛です。ペットを愛するぶんにはいいんですよ。
けれど、ペットか人間かどちらか殺さなければならなくなったらどうするか。
人間を生かすでしょう。
そういうリアルな視点が、友愛という言葉からは見えてこないのです。
「星の王子さま」で、「友達になろう」「そんな簡単にはなれない」。
こんなやりとりがあったと思います。
まったくそうだと思うのです。
友人というのは、そんな簡単にできるものではない。
友人がいるというのは、とてもとても幸福なこと。
生まれてから死ぬまでに数人の友達ができたというだけでも、
めったにない幸運だと思います。数人でも、そうです。
ひとりも心通じ合える友達ができなかった、というほうがむしろ普通かもしれない。
友達というのは、難しい。なかなかできません。
お互い時間を奪い奪われする。かなりの犠牲を払わなければならない。
友達、友人というのは、そういうものでしょう。
だから、友愛が政治目標になってしまうのには、ちょっと違和感があります。
しかし、友愛もいい。こういう思いもあるのです。
友愛というのは、感情的な言葉でしょう。
いまは合理的なもの、物質的なものにしか人は目を向けない。
そう考えてみると友愛は、物質的ではない。理性的でもない。いうなればセンチメンタル。
センチメンタルはマイナスの意味で使われることが多い。感傷的。
かわいそうな人を見て一瞬だけ同情してすぐに忘れてしまう。
これは感傷的だからいけない、なんていわれますが、本当にそうでしょうか。
感傷的になるのはいけないのか。感情的は悪いことなのか。
感傷というのは、いいものじゃないですか。
一瞬でも、かわいそうな人に同情する。それは手を伸ばさないかもしれない。
不幸な人は、なんだ手を伸ばしてくれないのか、と思うかもしれません。
けれども、人間にとってこの感傷はかけがえのないものだとも思います。
これを否定してしまったら行き場がなくなってしまう。
ジョン・レノンは「イマジン」で世界平和を説いた。
あれなんて感傷の最たるものでしょう。みんながみんな幸せになれないか。
なれるはずはないんだけれども、そういうふうに思うことまで否定してはならない。
ルソーは、理念として、人間の縛りをどんどん解いていけばいいと考えたようです。
けれども、縛りがなくなった人間はけだものと変わらないじゃないですか。
難しいことを言いたいわけじゃないんですが――。
たとえばデカルトはいった、「我思う、ゆえに我あり」。
疑って疑って最後に疑えないものが我であるとした。だから我は信じられるという。
僕はそういうわけにはいきません。
自分をそこまで信じられませんもの。
きっと僕が死んだ後も、この世はなんの変わりもなく動いていく。そうとしか思えない。
そして、それはとても辛いことです。なにかあると思いたい。
理念の怖さというものがあると思います。
理念が幅を利かせるとリアルな生が見えなくなる。
いまはリアルな生が失われているのではないでしょうか。
テレビを見ていると、イケメンと美女が結婚しますでしょう。
イケメンと美女の夫婦。あれはどこかリアルじゃないと思うのです。
「バラかキャベツか」を考えてください。
バラはたしかに美しいかもしれないけれども、食べられないでしょう。
これがリアルな視点だと思うのです。
バラは食べられないが、キャベツは食べられる。
ちやほや育てられたイケメンと、甘やかされた美女が結婚してうまくいくものでしょうかね。
どっちかにマイナスがあったほうが、よほどうまくいくのではありませんか。
たとえば、女は美しいけれどもバカだとか(場内笑い)。
まあ、たいがいイケメンと美女のカップルはすぐ別れてしまいますよね(さらに場内笑い)。
吉野弘という詩人がいます。
彼の詩に――この詩も、別の女性詩人の作品への言及なのですが――
こんなものがあります。
「正しいという字には迷路のようなわかりにくいところはないか」。
正しいという漢字は迷路のようでしょう。
漢字の「正」の右下がまるで隠れ場所みたいだとは思いませんか。
あれは恥ずかしいからだと思うのですね。
正しいものは恥ずかしい。正しい理念というものは、うさんくさいものである。
正しいことを言うのは恥ずかしい。
「人」の「為」と書いたら偽物の「偽」になるでしょう。
「恥」は「耳」に「心」を当てるからだ、というようなこともおなじです。
理念通りにいえば、キリスト教では、人間は神に作られたことになっています。
では、どうして神さまは人間にひどいことをするのか。災厄を与えるのか。
「神さま、どうして私はこんなに苦しまなければならないのでしょう?」。
多くのキリスト教徒が、この問題に向き合ってきました。
だって、本来なら、おかしいでしょう。
神さまが自分の作ったはずの人間を苦しませるなんて。
これはきっと、と思うんです。もちろん僕は無宗教ですけれど。
きっと神さまは考えさせたいのじゃないだろうか。
人間とはなにか? 人生とはなにか?
というのも、人間は不幸がなかったらなにも考えないじゃないですか。
エデンの園に一生いたら、なんにも考えないで済むわけですから。
アウグスティヌスがこんなことを言っています。
このまえ加藤健一の芝居を観にいったら役者のひとりが言っていたから、
アウグスティヌスだけの言葉ではないのかもしれませんが。
「神さまがなにかしてくれることはない」
人間は無力である。努力をしたって、ちっとも報われないでしょう。
人間は平等なんて嘘八百で、生まれから不平等極まりない。
なのに、親は子に「努力すれば報われる」と言うでしょう。あれはおかしいですよね。
本当のところ、人間は祈るしかないのですね。祈る。
祈るというのは、崇高な行為だと思いますね。
祈ることによってがらりと大きく変わるものがある。
人間は祈ることで、大きく世界を変えている。人間が変わっているのかもしれない。
というのも、祈るということは、自分以外の大きなものの存在を認めているのですから。
子供が生まれるときは象徴的です。祈るしかないじゃないですか。
いまは事前の検診で性別くらいはわかるのだったか。
けれども、無事に生まれてくるかどうかは人間にはわからない。無力。人間は無力。
人間とは、そもそも儚(はかな)いものなんです。
子供が生まれたらこんなありがたいことはないでしょう。
にもかかわらず生まれて数年も経つと、幼児教育をどうしようか?
こんなことを考えてしまうのが親です。自分の力で子供をなんとかできると思ってしまう。
すぐに「努力すれば報われる」なんて理念を言い始めてしまいますですね。
こないだラジオ宅急便を聞いていたんです。
愛媛の住職が講演をしていました。お遍路さんの世話をする住職です。
遍路のはじめ、一番所で、お遍路さんを大部屋に泊めるとするでしょう。
こんなところに人と一緒に泊まれない、とか不平が出るそうなんです。
ところが、遍路も終わりに近づくと寝床があるだけでありがたいと感謝するようになる。
やはり人間に試練は必要なのだと思います。
試練があるから人間はいろいろなことを考える。いろいろなことがわかる。
人間は本当はどういうものか?
言ってしまえば、人間は理念の対極にあるものなのかもしれない。
理念通りにはいかないのが人間だ。
みんなちょっとでも病気をすれば、驚くほど変わるでしょう。
病気をした後で、起き上がって廊下を歩いただけで感動するようなところがある。
人間なんて、そんなものかもしれない。
僕はグルメ記事はぜったいに書かないと決めています。食べられりゃ上等と思うからです。
ツバメの巣なんて、みんながみんな食べることはない。
グルメだの美食だのは際限がありませんからね。
僕は戦争中に姉から半分の芋をもらって感激した世代でしょう。
なにがうまい、かにがまずい、到底そんなことは書けやしません。
日本は江戸時代に画期的なことが起こったと思いますですね。
広い意味での文学で、目を見張るような進展のあったのが江戸時代ではないか。
俳句というのがそうです。
それまでは、なにかといえば漢文で言わなければならなかった。
知識人は、まず漢文でものを言った。
しかし、俳句というジャンルが生まれたことで、
相当に多くの人が自分のことを自分の言葉で語れるようになったと思うのです。
とはいえ、むろん、だれもが俳句を作れたってわけではないでしょうが。
それでも、俳句はかなり多くの人間の、細かな味わいを発見するきっかけになった。
俳句がなければ、すくいとれないような現実がいっぱいあった。
俳句によって、とても日本人が豊かになったと思います。
そうは言いながらも、明治になるまでは、やはり複雑なことは書けなかった。
普通のことを書ける文体が日本語になかったのでしょうね。
明治の文人はそれはたいへんな苦労をしたことと思います。
講談調の語りでは、なかなか普通の生活を描けませんもの。
それがどうにかこうにか形になったのが、夏目漱石ではないでしょうか。
漱石によって、日本人は、普通の人生を描く文体を獲得した。
山頭火の句に、こういうものがあります。
「わたしひとりの音させてゐる」
なんだこれはという俳句ですよね。いったい俳句なのかと思うくらい。
しかし、実際、そうなんですよね。
ひとり暮らしをしていると、音を立てるのは自分しかいませんから。
山頭火の句は、こういう独居という現実を拾ったと思うんです。
いままで見向きもされなかった現実に光を当てた。
(以下に取り上げる俳句、詩は、聞き書きのため正確ではない場合がございます)
山頭火よりは洗練された俳句にこういうものがあります。
「いまはない人と二人や冬の森」
久保田万太郎さんの俳句です。
「いまはない人」というのは、死んだ人ですね。
冬、孤独。ひとりだけれども、ひとりではない。そういう句です。
俳句を続けます。
「もの言うも逢うもいやなり盛若葉」
若葉のむわっとした感じのうっとうしさがよく出ていますよね。
老いてくると、若葉にはちょっと抵抗感を感じることがございませんか。
「一枚の柿の落葉をただ見つめ」
柿の葉っていうのは、みなさんご存知でしょうが、きれいですよね。
「木々の香に向いて歩む五月来た」
これはさわやかです。
どの俳句も、取るに足らないといえば、取るに足らないものです。
けれども、反戦というものは、こういう小さな声から生まれるのではないか?
こういった小さな声を消してはならない。
こういう些細な、しかし大事なことを思い、考える人間を死なせてはならない。
反戦は、大きな声ではなく、小さな声からスタートする気がしますですね。
僕の好きな詩人、ベスト3に入るのが天野忠さんです。
大阪弁の「首吊り」という詩がございます。
(山田太一先生が朗読する)
老人が首吊るぞおと言って、嫁さんから「どうぞ」と言われる詩です。
夜半、自分が首を吊る夢を見て目覚める。
となりに眠るパートナーと目が合う。自分もおなじ夢を見ていたと言われる。
なんとも言えない物悲しさが、ユーモアをともない、よく表われている詩だと思います。
おなじ天野忠さんの詩で「回春記」。
(山田太一先生が朗読する)
これは老夫婦のところへ、これまた老いた友が訪れるという詩です。
布団がふたつしかありません。ひとつを友に貸す。
ですから、久しぶりに老いた夫婦がひとつの布団に寝る。同衾(どうきん)する。
なかなか眠れないわけです。もぞもぞしてしまう。
こんなはずじゃないんだけれども、どうしてか下半身がもぞもぞしてしまう。
おじいさんもおばあさんもどちらもです。
横を見ると、老友がまるで仏さまのような顔をして眠っている――という詩です。
細々としたところがいいでしょう。味わいがありますよね。
あるある、そういうこと、なんて思いませんか(老人ばかりの会場爆笑)。
いまのドラマは、どうしても大きな話に走っちゃうんですよね。
こういう細々としたところを描けるのがテレビドラマのよさだと思うのですが。
ものの見方、ものの考え方を、ちょっと変えるだけで、見えてくるものがあります。
何度も言っていますが、戦中戦後の一時期から比べたら、
いまの日本は天国だと思うんです。なにより食べることに困らないでしょう。
僕なんか、まさかこんな時代が来るとは、いまでも信じられないような思いがあります。
いまの日本に生まれてくるというのは、とても幸運で恵まれたことではないでしょうか。
しかし、年間の自殺者が3万人もいるという。これはいったいどういうことなんだろう。
物の考え方が、柔軟ではないからではないか、と思うことがあります。
決まり文句というものがあるでしょう。
たとえば、「疲れているから温泉でも行って休みたい」。
みなさんも、よく言うでしょう。
しかしね、このまえ「ためしてガッテン(?)」を見ていたんです。
なんだかテレビばかり見ているみたいだな(場内笑い)。
実のところは、お風呂に入ると逆に体力を消耗してしまうらしいんですよ。
お風呂に入ると、かえって疲れてしまう。
だとしたら「疲れたから温泉へ行く」なんて、おかしな話でしょう。
貧乏性だから、何度も温泉に入らなきゃ損だと我われは思うから。
休みに行って、反対に疲れて帰ってくることになる。
決まり文句を疑ってかかる必要があると思います。
決まり文句というのは、多くの場合、宣伝でしょう。
あまり宣伝に踊らされないほうがよろしいかと存じますね。
決まり文句としては、老人も若ければ若いほどいいのでしょうが、
老いにもまた味わいがあるように思います。
女子学生が短いスカートを履いて階段をのぼるとき後ろを手で押さえるでしょう。
もう70歳を超えると、まったく気にならなくなりますね。
50歳くらいだったらまだ危ないようなところもあったかもしれませんが(場内笑い)。
いま怖いのは認知症と骨折して動けなくなることくらいですね。
それ以外は、老いも案外いいものではないかと思います。
では、20代がまったく不安がなかったかと言えば、そんなことはありません。
若ければ若いで、取り返しのつかないことを言って、人を傷つけてしまうことがある。
老いると、難しいのはお見舞いですね。
ガンとかだともう治らないでしょう。
お見舞いに行って帰ってくると、こちらが病気になって寝込んでしまうことがあります。
妻からは職業病でしょう、なんて言われますが。
いつも他人の心情ばかり考えているから、ガン患者に参ってしまうんじゃないかって。
みんな死ぬのですよね。ここにおられるかたも全員ひとり残らず死んでしまう。
だから、先に向こうで待ってくれている。こう考えたら幾分、気持が楽になりますですね。
ものの見かたをちょっと変えるだけなんですけれども。
ジョージ・スタイナーという評論家が言っています。
「20世紀の人は、みな、裸で、真実のまえに、むき出しに、さらされている」。
どういうことかと言いますと、20世紀の人間は、もうなにも自分を守るものがない。
キリスト教のようなものはなくなってしまった。
あるのはむき出しの真実だけである。我われは裸で真実に向き合わなければならない。
これはとても辛く苦しいことではないか。
というのも、人間は真実だけでは生きていけないと思うんですね。
嘘、フィクションは人間にとって必要でしょう。
幻想みたいなものがなかったら、我われは生きていくことができません。
毎朝、テレビで占いをやっているでしょう。あれなんかも幻想ですよね。
しかし、ある程度、そこには秩序があるわけです。
占いのラッキーカラーを見て、今日は茶色のシャツを着ていこうかな、なんて(場内笑い)。
そういう嘘を大切にするのはとても重要なことだと思います。
といっても、高額なツボを買わされてはいけませんが。
いや、おカネがあったらツボを買うのもいいのかもしれない。
ツボがあったほうがよほど幸福ということもあるでしょう。
我われはいろいろなフィクションに支えられて生きておりますでしょう?
「最後は正義が勝つ」なんていうのもそうですよね。
それと、あれなんかもフィクションですよね。
「ある程度の年齢まで生きると人生は平等にできている」。
美人は美人ゆえ、年を取るとしわが目立つ。
一方そうでもない女性は、あんまり変わりがないから、そのぶん得をしている。
だからよく言うじゃないですか。「人生は、まあ、平等になっている」とか。
だけど、あれって嘘ですよね(場内が一瞬だけ凍りつく!)。
真実は、生まれも幸福でずっと幸福なまま死んでいく人もいますよね?
(場の空気を読み)あ、いないかな、そんな人は。逆は、どうでしょう。
生まれが不幸で、ずっと貧乏や病気で苦しみながら、
不幸なまま死んでいく人はいるでしょう。
真実は、おそらくこんなものである。
けれども、我われはこういう真実に耐えられませんよね。
だから、フィクションがあると思うのです。
テレビやなにかでは、最後に正義が勝って、「ああ良かった」と思う。
嘘は個々人にとって大切なものだから、他人のフィクションを笑ってはいけません。
あ、こないだの新聞を読んだ人はいますか?
なんでも1年中咲いている桜が開発されたとか。
科学は歯止めがきかないのですよね。どこまでも行ってしまう。
1年中咲いている桜なんて、だれが見たいと思うのですかね。
桜は春にパッと咲いてパッと散るからいいのであって。
僕はほんと開発したところに抗議に行きたいくらいです(場内笑い)。
科学の暴走をとめるのは、教養しかないように思います。
医学の進歩もそうでしょう。あらゆる科学技術を用いて人間を長生きさせようとする。
僕は、最先端の科学にたよってまで、寝たきりで生きていたくはないですね。
どこかで歯止めをしなければならない時代になっているように思います。
ところが、その歯止めとなる教養がなかなか見当たらない。
アメリカの映画の話です。映画の中で老いた芸人が死にます。
近くにいた人が集まる。そのときにぼそっと別の芸人が言うセリフがいい。
「老人の死は悲劇ではない」――。
老人は死んで当たり前なんですよね。
だから、老人が死んだからといって、みながみな悲しんで悲劇に仕立て上げることはない。
もちろん、若い人が死んでしまうのは、本当に痛ましいことですけれど。
不幸というのは、人生に必要だと思いますね。
演歌は、不幸を延々と歌い上げますでしょう。不幸だ、悲しい、こういう感情を美にしている。
テレビで、八代亜紀さんがポルトガルに行くというのを見ました。
ポルトガルには悲しみを歌うファドというものがあるそうです。
このファドは、実際、演歌に似ておりまして。
どこの国にも悲しみを歌うということがあるのだなと思いました。
演歌なんかは不幸がなかったら歌にならないわけでしょう。
我われは幸福のみならず、不幸をも願っているようなところがどこかにないだろうか?
マイナスを歌い上げる演歌を聞いていると思うことです。
演歌にも、新たな形式が出てきてもいいのではないでしょうか。
広い意味で、演歌も文学なわけで、なにか新たな視点が加わるといいと思います。
去年、仕事で出雲大社に行ったんです。
ご存知かもしれませんが、むかし出雲は大勢力で、そこを大和朝廷が滅ぼした。
鎮魂のために出雲大社が作られました。
そのときに見えるものは大和朝廷に、見えないものは出雲大社に。
こういった区分ができたと聞きます。
見えるものと見えないもの。
おカネは見えるものですよね。物質的、合理的なものは見える。現在も見える。
ところが、過去は見えない。未来も見えない。人の心も見えないものです。
非合理的なものも見えません。こうして考えていくと、見えないものはたくさんある。
ハーンが幽霊の研究をしているとき、学生から聞かれたそうです。
どうして幽霊なんていう非合理的なものに関心を持つのか。
ハーンは学生にこう答えたそうです。
「きみだってどこから来て、どこへ行くかわからない幽霊みたいなものだろう?」
まったくそうなんですよね。
我われはどこから生まれてきて、死んだらどこへ行くのか知らない。
現代は、見えないものが不当に軽んじられている時代だと思いますね。
もっともっと見えないものに目を向けなければならないのではないか?
感情的なもの、感傷的なもの、センチメンタルも見えないもののひとつです。
黒人映画でこんなものがありました。
スラムの黒人少女が、落書きのような犯罪をして警察に補導されるんです。
母親が警察署に呼び出される。少女は、おなじく黒人の警察官と廊下で待っている。
母親が現われる。まるでいま起きたばかりといったようなぼさぼさの髪で現われる。
生活に疲れているすがたがありありとうかがえる。
このとき警察官が非行少女の首をツンツンとやさしく突くのですね。
あたかも、あなたの辛い気持はわかりますよ、といったように。
少女は深く感動する。この少女は将来、婦人警官になる――という映画です。
ほんの一瞬の出来事なんですよね。もしかしたら少女の勘違いかもしれない。
そのときの警官だって、この少女のことを覚えていないかもしれない。
けれども、そういう些細なことで人生が決まってしまうことがある。
これも見えないものだとは思いませんか。
見えるものと見えないもの。過去は見えません。
けれども、いまになって思うのですが、幼児体験がやはりかなり大きいのではないでしょうか。
これはエッセイでたびたび書いていますから、ご存知のかたには繰り返しになりますが。
僕の父は家出をして浅草に出てきて食堂を開きました。
たいへんな苦労をした人です。共同体がないんですね。
むかしから浅草に住んでいたわけではない。
「ちょっと醤油を貸してよ」みたいな人情ばなしめいたものなんてまったく。
よく父の酒の相手をさせられました。
といっても、こちらは子供だから酒はのめません。
たまに父のつまみをぱくっと横取りするくらいで(場内笑い)。
よく酒をのんで酔った父から言われました。
「世間なんてものはな、おまえに関心を持ってくれないからな」
いまから思えば、あれは僕に言っていたのではなくて、
孤独な父が酒をのみながら自分に言い聞かせていたのだと思うんです。
とはいえ、幼少の僕には、えらくこの言葉が強く胸に刻まれましたね。
僕なんかには、世間は関心を持ってくれない。世間は、怖いものなんだ。
人間はいざとなったらどんなことでもやらかす。
油断していたら、どんなことをされても文句は言えない。
むかしから僕は「底辺の現実」を信じたがるところがありました。
人間の底辺における行動を予想してかかるようなところがあった。
いまはもう70を超えてだいぶ丸くなりましたが、
かなりの長い年月、僕はこの幼児体験に縛られていて、
そこから脱け出そう脱け出そう、としていたように思います。
結婚式なんか行くでしょう。素直におめでとうとは思えない。
いまは幸福だろうけれど、これからがたいへんだよ、
と内心思っているような意地の悪さがありました。
現実はずっと幸福な結婚生活もあるのだろうけれど。いや、ないかな?(場内笑い)
まだ少し時間がありますね。こんな詩を思い出しました。また天野忠さんです。
「静かな夫婦」という詩です。
結婚よりも静かな夫婦はいい。静かな老夫婦はいい。そういうことを書いた詩です。
むかしこの夫婦が結婚まえに、まあ、デートをしていたんです。
ニシン蕎麦を食べようか、という話になった。女は言った。「ニシンは嫌いです」
この男女が結婚して、いろいろあっていまは静かな夫婦になっている。老夫婦です。
そのとき夫が言う。「ニシン蕎麦を食べようか?」
妻はどうこたえたか。「ニシンは嫌いです」(場内笑い)
なんともいいとは思いませんか?
若い男女の情熱もいいけれど、静かな夫婦はもっといい。
妻の「ニシン嫌い」が変わらないのも、本当にいい。人生の味わいを感じますでしょう。
変わるものもあるけれど、変わらないものもある――。
見えないものが大事ですよね。
もっともっと、つまらない喜び、つまらない悲しみ、なんということはない悲喜が、
広い意味での文学で描かれるべきだと思います。
小説でもドラマでもいい。俳句でも詩でも。
ありふれたものでも、ちょっと見方を変えれば、味わいが深くなります。
そういうものに触れることで、我われはこういう世界を生きているのかと気づく。
気づかされる。
つまらない喜びや悲しみを持つ多くの人間たちの一員であること――。
これはとても輝かしいことではないかと思います。豊かなことだと思います。
それでは時間が来たようなので、このへんで(万雷の拍手)。
(編集後記)講演のタイトルを後付けするなら――。
「見えるものと見えないもの ~理念と情念~」くらいがいいのではありませんか?
(参考)過去の山田太一講演会↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1490.html
「道元禅師語録」(鏡島元隆/講談社学術文庫)→仏僧・道元は、自力救済が目的の禅宗、曹洞宗の開祖として知られている。
このため他力救済を説く親鸞を好むわたしには縁遠いだろうと思っていたが、
読み始めたらおもしろくて打ち震えた。
親鸞の「歎異抄」とセットでお読みになるのもいいかもしれない。
親鸞と道元は、言うなれば双子の兄弟である。
双子ゆえに反発しあうものの、実のところ血がつながっている。血縁関係にある。
最初にアウトラインをわかりやすく説明しておいたほうがいいだろう。
基本の基本から――。
親鸞が説いたのは念仏による他力信仰である(他力救済、他力本願)。
一方の道元が説いたのは禅による自力悟達である(自力救済)。
ところが、親鸞の言うところの他力とは、突き詰めれば自然になる。
道元の実践した自力も、究極的に意味するところは自然にほかならぬ(後述する)。
1.親鸞=他力=自然
2.道元=自力=自然
3.他力=自力こうなってしまうわけである。親鸞ファンのわたしが道元にも惹かれたゆえんだ。
これから道元の至った悟り=自然について引用をまじえつつ紹介していく。
親鸞の到達した自然法爾は、よろしければ
「歎異抄 三帖和讃」を参考にしてください。
時間がない。ひと言で述べよ。道元の悟りとはいかなるものか。
道元は中国に留学して師の(天童山景徳寺の)如浄からなにを伝えられたのか。
「雪裡(せつり)の梅花(ばいか)一枝(いっし)綻(ほころ)ぶ」
「釈尊の悟りは、雪の中に梅の花が一輪、綻び咲くところにある」(P101)レベルの高い人間は、この一句を聞いただけで悟ることができると道元は言う。
「雪裡の梅花一枝綻ぶ」――。
冬のなかの春である。もしや冬は冬ではないのかもしれない。冬は春ではないか。
自然とは、冬が春になることである。
人間がどのようなちからで阻止しようとしても、冬が春になるのは防ぐことができないだろう。
ならば、人間が自力で悟ろうとして悟ることのできる限界はどこにあるのか。
まだまだ我われは道元禅師の言葉を必要とする。
道元よ、仏性とは、つまりなんのことか?
「天暁(あ)くれば報(つ)げ来(きた)る山鳥(さんちょう)の語、
陽春の消息(しょうそく)早梅(そうばい)香(かんば)し」
「仏性は、夜が明けてくると山鳥が夜明けを知らせて鳴き、
春になれば早咲きの梅が春を知らせて芳(かんば)しくにおう、
そのうちにある」(P70)なるほど、冬が春になるのみならず夜が明けるのも自然である。
「天暁くれば報げ来る山鳥の語、陽春の消息早梅香し」――。
くだらぬ、なにを当たり前のことを憤慨するかたもおられるでしょう。
正しい。道元の説いたのは、当たり前のことなのである。そこに気づくか否か。
というのも、道元禅師の開堂宣言として有名な「眼横鼻直(がんのうびちょく)」。
これは「眼は横に、鼻は直にある」という当たり前のことを言っている。
ならば、当たり前のことに改めて気づくとはなにを意味するのか。
我われは日々どのようなことをしているのだろう。
「海に入りて沙(いさご)を算(かぞ)う、空しく自ら力を費やす。
塼(かわら)を磨いて鏡と作(な)す、徒(いたずら)に工夫を用う」(P75)海にもぐって底にある砂を数えるようなことばかりしているのではないか。
(あまたある仏典を読み尽くそうと思ってもどだい無理だろう)
カワラを拾ってきていくらみがいても鏡にはならないぞ。
(いくら悟ろう悟ろうとしたところで、今度は悟りに縛られるのが落ちだ)
ここの道元の表現は実にうまいとおもったのであえて学者の訳を引用しなかった。
たしかに、と思う。
仏法修行などとは縁のない我われの生活をも道元はうまく描写している。
実際、海底の砂を数えたり(外界)、カワラを鏡にしようとしている(内面)。
世界全体を知ろうとしたところで計り知れないではないか。
わたしとはなにか必死に自分探しをしたら、かえってわからなくなってしまう。
だとしたら、道元はいったいどうしろというのか。
当たり前のことに気づけというのみである。我われはなにを見ていないのか。
上記の引用文に引き続き――。
「海に入りて沙を算う、空しく自ら力を費やす。
塼を磨いて鏡と作す、徒に工夫を用う。
君(きみ)見ずや高高(こうこう)たる山上の雲、自ら巻き自らのぶ。
滔滔(とうとう)たる澗下(かんか)の水、曲に随(したが)い直に随う。
衆生の日用は雲水(うんすい)のごとし。雲水は自由なれども人は爾(しか)らず。
もし爾(しか)ることを得ば、三界の輪廻、何(いずれ)の処よりか起らん」(P75)ここも訳は引用しなくていいでしょう。
空を見よう。天上の雲は自然にくっつき離れ、また広がり縮む。
河を見よう。地上の水は自然に直進し、ときには曲がる。
雲水の自由闊達はいかほどか。これを自然というのだ。
我われが不自由なのは雲水のようになれないからである。
逆に言えば雲水のようになれたら。
だがしかし、雲水のようになろうとしたところでなれるものだろうか。
というのも、雲や河水には人間の意志のようなものはないのだから。
人間の意志を超越するものとは――。
「但(た)だ雪の消え去ることを得て、自然(じねん)に春到来す」(P120)どうすればいいのかと弟子に問われて道元の答えたのがこれである。
一問一答ふうにしたら、こうなるのだと思う。
Q:自分はなにを「為す」べきでしょうか?
A:雪が消えたら春が「来る」!
ふたたび「雪裡の梅花一枝綻ぶ」――。
「時節因縁は仏性なり」(P146)学者の言葉を借りると時節因縁とは「時節が到り因縁が熟すること」。
いままでの流れに沿って、道元の発言を順番に整理してみよう。
仏性とは「自然」=「雪裡の梅花」=「雲水」=「時節因縁」。
道元は、中国僧・法眼の言葉を借りる。
「毎日、なにをしたらいいのか」の質問に法眼禅師はこう答えた。
「歩歩(ほほ)踏著(ふみし)めよ」。そして――。
「夫(そ)れ出家人は、
但(た)だ時及節(ときとせつ)に随わば便(すなわ)ち得(よろ)し。
寒(かん)なれば即(すなわ)ち寒く、熱(ねつ)なれば即ち熱し。
仏性の義を知らんと欲(おも)わば、当(まさ)に時節因縁を観ずべし。
但だ分を守り時に随うべし」(P165)寒くなったら寒いし、暑くなったら暑い。
日本の道元だけではなく中国の法眼もまた、どう考えても当たり前のことを述べる。
「寒なれば即ち寒く、熱なれば即ち熱し」――。
いや、果たして当たり前のことだろうか。
我われは夏には冷房を用いて、冬になったら暖房を使用しているのだから。
とすれば、夏は暑さを味わえ、冬には寒さを味わえ、ということなのだろうか。
これではエコ狂いの好む説教のようである。
道元はエコになどまったく関心がなかったはずである。
現在、宗教と対置されるのが科学(エコ)である(大昔は宗教が科学をも内包していた)。
さあ、現代科学の決してわからぬものとはなにか。
死である。宗教のみが死を物語りうる。
ひっくり返せば、死を説明しているものがいたら、宗教家と見てよい。
道元の死生観に耳を傾けてみよう。
「生や従(よ)り来(きた)るところなし、なおサンを着るが如(ごと)し。
死や去りて処(お)る所(ところ)無し、なお袴(こ)を脱ぐが如し。
万法(ばんぽう)本(もと)空(くう)なり、一(いつ)何(いず)れの処にか帰す」
「生はどこから生れてきたか、その由(よ)って来るところはない、
ちょうど、寒くなれば上衣を着るように時節因縁によって生れてきただけだ。
死はどこへ去るか、去って留まるところはない、
あたかも暑くなれば、ももひきをぬぐように、時節因縁によって死ぬだけだ。
本来空(くう)で一(いつ)に帰するが、その一も帰するところはない」(P89)道元と親鸞、ふたりの高僧が到達したのは、おなじ自然(じねん)であった。
もしかしたら自然信仰は、春夏秋冬=四季あざやかな日本ならではのものではないか。
もっとも日本人らしい宗教意識は自然なのかもしれない。時節因縁。春夏秋冬。
とんだ飛躍になるのだろうが――。
河合隼雄は
「日本人の心」で四季こそ日本人の宗教ではないかと指摘している。
山田太一は自作ドラマのタイトルに春夏秋冬を入れることが多いのにも留意したい。
以上、道元仏法の要となる自然について掘り下げてみた。
最後に道元禅師の説法を拾ってみたい。
乱暴に言えば「どうすべきか?」に「春夏秋冬!」と答えた道元ではあるが、
いちおう仏教指導者らしい言葉も遺しているのである。
「人人(にんにん)尽(ことごと)く衝天(しょうてん)の志あり、
如来の行処(ぎょうしょ)に向かって行くことなかれ」(P53)天をも衝(つ)かんばかりの志気もて邁進せよ!
如来の真似をしても悟ることはできないと思え。
これは成功哲学とも相通ずるような気がする。
成功者の真似をしても成功することはおそらくできまい。
天を思い切って衝くほどの一回性に賭けてみる。
うん、天を衝くという表現がとてもいい。
「永平(えいへい)称(なんじ)が脚底(きゃくてい)にあらん」(P121)永平とは(道元の開いた)永平寺。道元の教えのことである。
諸仏や祖師の真似をするなかれという文に続いて「永平称が脚底にあらん」。
自分の足もとをよくよくご覧なさい。
「地を掘り天を覓(もと)む、日面月面(にちめんがちめん)」(P131)天地のあいだで生きる我われにとって、これはとても深い言葉だと思うのね。
天を求めて地を掘ってみよ、と道元は主張する。
そうすると太陽や月のように光り輝く世界があると言っているわけ。
天を見るのではなく地を掘ることによって陽光や月光にまみえんとする――。
「泥(どろ)多くして仏(ほとけ)大なり」(P68)親鸞上人の悪人正機説に通じる思想を道元禅師もまたぽろっと口にしている。
このほかにも、座禅は欲界にもだえ苦しむ、そのただなかにある、
といったような文言を道元は遺しているのだが(P99)。
あるいは酒、女、賭け事、惰眠こそ禅境に通じているのではないか――というのは、
いくらなんでもわたしの読み間違えであろう(苦笑)。どう思う?
「小魚、大魚を呑み、和尚(おしょう)、儒書を読む」(P145)禅宗の公案(=問題集)に「小魚、大魚を呑む」というものがある。
この意味するところは、「和尚、儒書を読む」。
仏教の和尚さんが儒学の書物を読む。仏教、儒教といった相違にこだわらぬことだ。
もし道元が現代に生きていたらキリスト教もイスラム教も否定しないと思う。
もちろん、創価学会、幸福の科学、オウム真理教もね♪
「天然の妙智は自(おのずか)ら真如、何(なん)ぞ儒書および仏書を仮らん、
縄床に独坐して口壁に掛く、
等閑(なおざり)の一実(いちじつ)千虚(せんきょ)に勝れり」(P195)生まれつきそなわった妙なる智識は、そのまま仏法の真理である。
どうして仏教やら儒教の書物を乱読する必要があろうか。
ほんの一瞬の実のある味わいは、千冊の書物(=虚)よりもはるかに勝るというのに。
要するに「読書量自慢をするやからは、まだまだ青いの~」と言っているわけである。
いくら書物を読んだところでなにもわかりはせぬということだ。
ちなみに道元は、中国語のエキスパート。
中国語(漢文)で長大な仏教理論書を書いたくらいである。
道元の死後、弟子が師匠の著書を中国の高僧に持っていく。
その高僧が選び抜いた道元の名言集が、このたびわたしが読んだ「道元禅師語録」である。
ろくろく中国語も読めなかった田舎坊主の親鸞と比べたら、道元はスーパーエリート。
いまでいえば英語で本場の欧米人を感嘆させる学術書を書いたようなもの。
ところがふしぎ、道元も親鸞も行き着いたのは「自然(じねん)」なのだから。
最後に強引に仏教をひとまとめにしてしまおう。
「春夏秋冬」=「時節因縁」(道元)=「自然」=「南無阿弥陀仏」(親鸞)=「無常」(釈尊)。
こう並べると日本の道元、親鸞、
インドの釈尊がみなおなじ摂理を説いていたことになってしまうのだからおもしろいではないか。