尊敬する宮本輝先生が毎日新聞で小説「三十光年の星たち」を連載するとのこと。
連載前の作者の言葉というのがよかった。
(あろうことか)2ちゃんねるからの孫引きで恐縮ですが。

歳月によって育(はぐく)まれ、鍛えられ、磨かれていくものの凄(すご)さについて、いまほど、思考せず、軽んじ、なおざりにしている時代はないと私は思っている。 何かの技量を身につけるにしても、ひとつの会社をおこしてそれを盤石なものに育てあげるにしても、家庭を築くにしても、自分が抱いた決意を現実に形として成すにしても、現代の人々の多くは、そのための歳月に耐えようとはせず、促成栽培の結果だけを追うことに汲汲(きゅうきゅう)としているのではあるまいか。私は新しく書き始める小説を「三十光年の星たち」と題して、この歳月と向き合った市井の人々の物語を生み出したい。どんな人々がどんな歳月に耐えたか。それによって何を得たか。いま私のなかでは、さまざまな情景が広がっている。



さすが宮本輝先生は仏教者だけあって深みのある文言をおっしゃる。
歳月に耐えることで得るもの(と失うもの)――。
これはシェイクスピアの名ゼリフでもよくあります。
結局、万事を解決するのは時間なんですよね。努力ではなく時間が難題を落着させる。
宮本輝先生は創価学会員だから、おそらく歳月を待つ努力のほうを強調なさるのでしょうが。
(で、毎度のように登場人物が読者にお説教するのかと思うと、ちょっとゲンナリ……)
人力(努力)ではどうしようもないもつれを時間は驚くべき手腕でときほぐすことがあります。
だから、人間は生きている(=待っている)だけでいいという考えです。

努力して待つべきか、努力まで放棄して待つべきかは、好みのわかれるところなのでしょう。
これが南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の相違なのかもしれません。
創作は河川のようなものだと思っていたけれど間違いかな。
山頂に雨が降るでしょう。ある程度、水がたまると河川のごとく流れ落ちる。
最初は細かった水の流れもいつしか太くなり海(=読み手)へ向かう。
ポイントは自然だと思う。
天から雨が降ってくるのは自然現象。山頂の水たまりが流れ始めるのも自然。

書きたい小説のアイデアはあるのです。構成はかなり決まっている。
シナリオだったらこのくらいで書き始めれば自然と言葉(=水)が流れてゆく。
ところが、小説はまったく流れない。
言葉が自然に流れない。なにかでせきとめられている。
あたかも大きな石でもあるかのごとく。
この妨害物はいったいなんなのでしょう。わからない、わからない、わからない。

河川には二種類ある。自然の河と人工の河であります。
わたしは自然にこだわり過ぎているのかな。
努力で切り拓く河川(=創作)があってもいい。
しかし、どのように努力したら人工の河川を作れるのかわからない。
自然に流れてゆくのを待つしかないのかどうか……。
暇でもてない男性諸君、こんばんは。安心したまえ、今年も我輩はきみたちの仲間だよ♪
と、こういう文体で小説を書こうと思ったけれど、うまくいかないな。
シナリオはわりかしサクサク書けるのに、どうして小説を書くのはこうも難しいのだろう。
もうサンタさんにお願いするしかないか。どうか才能をくださいませ。
3億円とかいらないから。

いやさ、ほんと3億円宝くじを考えた人はあたまがいいよね。
あれは当たらないことに意味があるわけで。
買ってから当選発表までのワクワクを購入するわけでしょう。
実際ね、3億円当たったら、ほんと人生ぶち壊れますよ。
3億円当選は幸福ではなく、ぜったい不幸だと思う。
高額当選はめったに人に言えない。けれども秘密は人間関係を阻害する。
うっかりこの人だったらと告白してしまう。翌日から態度が変わるはずである。
どんな親友関係も恋人関係も、家族関係でさえも3億円は壊しうる。
言ってしまえば3億円当選は巨大な不幸。
しかし、不幸を願わずにはいられぬ人間の無知蒙昧は断じて裁かれるたぐいのものではない。

宝くじを買ったことはないけれど、3億円当選したら困る。
だって、創作コンクールに応募するモチベーションがなくなってしまうでしょう。
創作こそ極上の幸福と思うわが価値観からすると3億円はむしろ迷惑。
長生きはしたくないから3億円あっても途方に暮れてしまう。
高級グルメを食べたとしても、どんどん舌が肥えていくので際限がない。
カネでなびくような女といくら遊んだところで空しいだけだろう。
贅沢三昧の世界一周旅行は、おそらく1ヶ月で飽きると思う。

これは推測だけど3億円当選するのは決まって貧乏人以外ではないのか。
どうしてか小金持ちが3億円を手に入れてしまう。
心底から3億円を願っている不遇な人間に、神さまはまさか3億円を与えはしまい。
驕っている富裕層への罰として絶対神は、3億円を心貧しき民草に与えたもうはずである。
クリスマスイブだから言うのだが、キリスト教の神さまはそういう意地悪なところが特徴だ。
仏教ファンの独り言ゆえ真剣に反論されても困ってしまうので、そこはご理解いただきたい。

最後にもう一回。サンタさん、例のものは頼みましたからね♪
著名人は嫌いなので(嫉妬ゆえ)読んでいる有名人ブログは小谷野敦先生のみである。
ところが、リンクされたところにリンクされていたので内田樹先生のブログを拝見した。
「がんばるな」「努力するな」は、うちのブログのメッセージ(笑)。いたく共感する。

「ナマケモノでいいじゃないですか」
http://blog.tatsuru.com/2009/12/23_1004.php


「そんなにむきにならなくてもいいよ。疲れてるなら、少しの間、休もうよ」といういたわりの言説だけが誰によっても口にされない。



ええと、河合隼雄先生やひろさちや先生がおっしゃっています、いちおう。

思ったのは、成功の悲劇。成功者は馬車馬のように努力を求められる。
ひとたび成功したら1年などあっという間に過ぎてしまうのではないか。

実のところ、努力するより、努力をやめるほうが困難なように思う。
だって、みんな努力しているでしょう?(わたしは例外……ゴメン)
だから、努力と成功なんて無関係なんだけど(運でしょ運!)、どうしてかみな努力してしまう。
思いませんか? 努力するより努力をやめるほうがかえって難しいと。
努力しまいと思っていても、ついついどうしようもなく我われは努力してしまう。
何事も「明日やろう」の精神がいいのかもね。
「明日やろう」と思っていたことを、うっかり今日やってしまい、チクショーとか思う生活(笑)。

(参考)「努力厨」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1648.html
人間はおのれのうしろすがたを見ることができない。
鏡にうつるのは正面ばかりである。

・「まだ酔っていないから」という酒呑みはたいがい酔っている。
・「才能ありませんから」と自己卑下するものは決まって異常な自信家である。
・「シナリオを書くのは楽しいですよ」と必死に集客するスクール関係者は絶対シナリオを書かない。

人間はうしろすがたが見えないことに、どれほど救われているか。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」と自己の背面を見たのは俳人の山頭火である。
視聴もしくはビデオ録画を、忘れないぞうさん(意味不明にくるくる4回転する)♪
今宵はどのくらい酒をのんでいるのだろう我輩……。

12月23日(水) NHK総合 AM6:30~7:00
ホリデーインタビュー
「すべて天龍の生き様~プロレスラー・天龍源一郎~」
60歳を前にしてもいまだ現役のプロレスラー天龍源一郎。
数々の苦難を乗り越えてきた力の源はふるさと福井県勝山市にあった。
天龍の生き様に迫る。
【ゲスト】プロレスラー…天龍源一郎,【きき手】戸部眞輔

http://www.nhk.or.jp/a-holiday/



中卒のプロレスラー、天龍源一郎ほど、わが人生で夢中になった男はいない。
故・橋本真也じゃないけれども、「将来ぜったいあんなおっさんなりたい」と思っている。
ところが、天龍がオーナーの「鮨処 しま田」が年内で閉店とのこと。
悲しくて仕方がない。
いつか世に出たら天龍源一郎のお鮨屋さんで一杯のむのが夢だったから。
思えば、もう20年以上もプロレスラー天龍のファンである。

あれほどかっこいい男はいない。男が惚れる男である。
「天龍! 天龍! 天龍!(入場曲サンダーストームに合わせて)」♪
「好奇心は永遠なり」(遠藤周作/講談社)絶版

→オカルトやインチキが大好きになった晩年の遠藤周作先生の対談集。
安酒をかっくらいながら読んだ古本屋ワゴン本であるけれども、とてもよかった。
非科学的なものにあこがれる遠藤先生のお気持がよくわかる。
現代社会の王座にいるのが科学。

たとえばタバコを吸ったら肺ガンになる。
たとえば10年、大量飲酒をしたらアル中になる。
たとえば自殺者の大半は鬱病患者で薬物治療が可能。
たとえば血圧やコレステロール値の高いものは早死する。
以上が現代の王者、科学様のご託宣。

科学が幅を利かすほど我われの生活はつまらなくなる。
科学など神話のようなものではないか。
要は信じるか信じないか、であろう。
ダーウィンやガリレオをあまり妄信なさるな。
人間の祖先はパンダでもいいし、地球は三角形でも構わない。
なにを主張したいのか。
あれだけ当時の社会から弾劾・攻撃され、
反面、現在は主流派となったダーウィンやガリレオでさえ、
いつかペテン師になる日が来ないとも限らない、と疑問視する姿勢を失いたくないのだ。

いまの科学はむかしの非科学。
ならば未来の科学から見たら、果たしていまの科学はどうなるか。
こういう視点がないと生きていて窮屈が過ぎる。
幽霊バンザイ、呪術バンザイ、不思議バンザイ!

「グッドタイム・グッドバー」(サントリー不易流行研究所・編/エビック)絶版

→公募エッセイの優秀作品を1冊の本にしたもの。
主催は大企業のサントリー。
テーマは「私とお酒のいまどき(ホット)な関係~いつもの酒、よそいきの酒」。
賞金はいくらだったか知らないが、2664篇もの素人エッセイが集まったという。
おそらく文化企業たるサントリーだから、賞金額は相当なものだったはずである。

ブログ「本の山」をお読みのみなさま、よかったですね。
公募エッセイで入選するコツを無料でお教えします。
なに? わたしに公募エッセイ入賞実績のないのが問題だって?
そんなことは問題ではない。
業界最大手の某シナリオ・スクールは、高いカネを取って公募入選方法を教えている。
ところが、教える(偉そうな)講師ときたら公募で一回も通ったことがないのだから……。

エッセイはいいですよ。数時間で書けるのに賞金は月給並みですから。
みなさんもぜひぜひお書きくださいませ。宝くじを買うよりよほどいい。

【公募エッセイ入選方法】
・秘密を書こう。人間は他人の秘密を知りたがるもの。
・「死」は非日常の最たるもの。選考委員もびびる。「死」をうまく用いるべし。
・同様、「誕生」も普遍的な感動を呼ぶ。うまくエピソードをくっつけましょう。
・素人エッセイの大半はつまらない。野島ドラマのような「不幸の連打」は効果的。
・あなたしか書けない(たとえばバラ農家)専門性のあることを書こう。
・公募エッセイは文章よりも書き手の肩書(職業・年齢)がポイント。
・一般に広がっている価値観を否定するものは選考委員の目を引く。
・うまく「オレ流」を描けたらいいが、あなたは無名であることを忘れるなかれ。
・逆境に生きている「私」を描くと同情票が集まる。
・意外性が重要。たとえばおじいさんが料理をするといったような。
・結局は「家族愛」にまとめるのが受賞に必要なこと。
・幸福自慢だけはやめよう。読むものを不愉快にさせる。反対ならよろしい。
・異国体験は新鮮味があるのでいいけれど、佳作どまりで大賞は難しい。

ふう。もしこれを参考にして公募エッセイに通ったかたがいましたら、
いつか缶ビールの1本でもおごってくださいませ。
このエッセイ・コンテストは優秀で選考委員3人もおなじテーマでエッセイを公表している。
そのうち2人の作品は素人よりもひどくて、いかにエッセイの難しいかがわかる。
個人名をあげないのは、わたしの優しさだから。
まあ、ほんと、公募エッセイは運よ。
プロだって制限文字数内でかならずしもすぐれたエッセイを書けるわけではない。

「山口瞳「男性自身」傑作選 熟年篇」(嵐山光三郎・編/新潮文庫)

→ずいぶんまえ気まぐれでとある創作スクールに通っていたことがある。
そこの五十代の男性講師から毎回のように自作を批判された。よくないというのである。
わき道にそれるが、その講師、真贋はわからぬが海外ブランド物のカバンを誇らしげに持ち、
ことアイドルに関しては三十路のわたしよりもはるかに詳しいという五十男だった。
「むかし会社員だったころは部下をいじめるのが好きでね」とおなじ話を二度聞いた。

男は拙作シナリオの登場人物が「変な人」だからいけないと毎回指導してきた。
いまさら思うのは、どうして「変な人」はいけないのか。
わたしは「変な人」が好きである。
作家の山口瞳なんかも相当な変人である。
作家の私淑していた学者の高橋義孝もかなりの「変な人」。
いつから「変な人」を排斥するような風潮がわが国に生まれたのだろうか。
KY(空気が読めない)ってなんだ? 
だから、つまりKYな人がいるから、人生はおもしろいのに。

山口瞳のエッセイには「変な人」がたくさん登場するのでおもしろい。
おそらく「類は友を呼ぶ」なのだろう。
いまは「変な人」が少ない。つまらない。空気なんて読むな、とけしかけたくなる。
なあなあはやめたまえ。人を憎んでみろ。嫌ってみろ。
山口瞳にはぜったいに許せぬ人が複数いたはずである。

「山口瞳「男性自身」傑作選 中年篇」(重松清志・編/新潮文庫)

→山口瞳(♂)が雑誌連載「男性自身」で書き続けたのは、おのれの好き嫌いである。
こんなものはだれでも書けると思う人がいるかもしれない。
だが、それは思慮が浅いのではないか。
というのも通常、人は好き嫌いを隠しごまかすことで世渡りしているのだから。
そのうち自分のほんとうの好き嫌いがわからなくなってしまうのが我われかもしれない。

好き嫌い――。
好きと言われたほうはいいが、嫌いと宣言されたほうはどうなる。
作者を憎むほか道はない。
いったい山口瞳は、どれほどの敵を作ったのだろう。
愛読者の数倍は敵がいたはずである。
いまの日本だったらインターネットでどう処刑されていたかわからない作家である。
(吉本ばななの居酒屋ワイン持ち込み事件のように……)

逆説的に、だからいい、と思うのである。
今後この国に山口瞳のような作家は現われないだろう。
感じのいい、温和で口当たりのいいものだけが持てはやされる時代だ。
ひと言でいえば媚びである。
しかし、山口瞳は断じて読者に媚びない作家であった。

「毎日グラフ別冊 追憶 井上靖」(毎日新聞社)入手不可

→井上靖はおもしろい人である。
20代のあいだずっと親のカネでぶらぶら遊び歩いているのがいい。
そのうえまだ学生のうちから結婚。相手は京大教授のお嬢さん。
で、生活をどうするのかというと青年・井上靖は懸賞小説に応募する。
これに続けて何度も当選してしまうのだから。
かといって、作家を目指さないのもいい。
岳父(京都大学教授)のコネで毎日新聞社の記者になる――。

本書は没後に出された追悼雑誌。
井上靖の20代後半に書いた懸賞小説(当選!)が3本、再録されている。
「三つ子の魂、百まで」を認識したといったら大げさか。
懸賞小説「初恋物語」でヒロインのルル子は男を引っぱたく。

「(ルル子は)そして、くすんと一つしゃくり上げると、目を瞑って、
高木君の頬をぴしゃんと張った。途端、
「あの眼だ! お京さんの眼だ!」
という狂った様な声と一緒に、ルル子は身体全体に兇暴な力を感じた。
そして、次の瞬間、宛(まる)で花の崩れた様に
高木君の腕の中に身を投げかけている自分を発見した」(P92)


井上靖は男を張り飛ばずような高飛車な女郎(めろう)が好きなのである。
ああ、わたしも好きだ。おそらく宮本輝先生の理想もおなじではないか。
おつぎは井上靖作、第17回「大衆文藝」入選作「紅荘の悪魔たち」のヒロイン。

「秋代夫人こそ岐部郁夫をして、賀谷了介を狂わしめ、
狂人賀谷了介をして岐部郁夫を殺害せしめた、
只一人の美しい悪魔ではないでしょうか」(P98)


悪魔のような女のなんと魅惑的なことか。女は悪魔である。だから、女はよろしい。
井上文学のヒロイン像は、実のところ20代のころから変わっていないのである。

文学は、言ってしまえば、女と酒である。
文壇酒豪番付の横綱だった井上靖の酔顔が、本書のアルバムに掲載されている。
その幸福そうな顔といったら。
酒ほどうまいものはない。女ほど美しいものはない。文豪は人生を味わい尽くしたのだろう。
「過ぎ去りし日日」(井上靖/日本経済新聞社)絶版

→成功した老作家の回想記。
井上靖が新聞記者時代を書いているのは本書だけなので資料的価値が高い。
文豪・井上靖にまつわる最大のなぞがある。
どうしてあれだけ才能のある作家が40過ぎまで世に出ることがなかったのか。
かの作家の書くきっかけはいったいなんだったのか。
井上靖自身の言葉を借りるとこうなる。本書からの引用――。

「終戦と同時に、私は堪まらなく自分を表現したくなっていた」(P36)

あたかも時代(終戦)が自分に小説を書かせたような口ぶりである。
しかし、忘れてはならない。作家はみなみな嘘つきである。
どうして井上靖が小説を書けるようになったかはブログ「本の山」の愛読者ならご存知だろう。
愛人の白神喜美子女史の存在があったからである。
新聞記者であった井上靖を当時ただひとり天才文学者と見なした女性が白神喜美子である。
あなたが井上靖の愛読者ならば、
感謝しなければならないのはこの不遇な女性ではないか。
作家をだれよりも愛した女性――白神喜美子が40間近の井上靖に小説を書かせた。

ひとりの女(男)がいればいいのだろう。
たったひとりでも自分を心底から理解してくれる異性がいたら人はものを書くことができる。
これは努力とは関係ない。
現われるか現われないかの偶然の世界である。作家はこれを必然と思う。
繰り返すが、ひとりの女(男)がいたら、人は作家になれる。
文豪・井上靖が終生、言明できなかった人生の真実である。

(参考)井上靖の元愛人・白神喜美子女史の暴露本。
「花過ぎ 井上靖覚え書」↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1386.html


「河岸に立ちて」(井上靖/新潮文庫)絶版

→世界各地の河川写真に井上靖がエッセイを付した。
河が好きである。井上靖も河が好きという。ちなみに宮本輝は、河も井上靖も好きらしい。
河川も井上靖も宮本輝も好きなわたしである。
河はいい。河を見ていると、どうしてあんなに心が安らぐのだろう。
たぶん「無常」の感覚と相通ずるものがあるからではないか。
引用は、井上靖がナイル川に相対したときの感動である。

「――この川の流域で、太古から現代まで、
人間は同じ生き方で生き、そして死んでいるのである!」(P159)


無常の人間世界を流れる河川は不変である!
ガンジス河、チャオプラヤ川、黄河、荒川――わたしの好きな河川であります。

「二十四の瞳からのメッセージ」(澤宮優/洋泉社)

→木下恵介監督映画「二十四の瞳」の舞台裏を描いたノンフィクション。
たいへんな労作である。
上映から50年以上も経過した現在に、こんな著作を生み出す映画「二十四の瞳」。
おそるべきエネルギーを持った映像作品である。

木下恵介の演出術。
戦争で盲目になったソンキを演じた役者、田村高廣は語る。
木下監督は、この悲惨な役をどう演じればいいと言ったか。

「田村君、今度のソンキは悲しい役だけど、明るく明るくやろうね」(P196)

俳優・田村は公開された映画を観にいく。
発見をする。どうしてかソンキの登場シーンでみなわんわん泣く。
田村は監督の演出意図を理解した。

「僕はにこにこ笑えば笑うほどお客さんは悲しいの。
そういう効果まで木下さんはちゃんと読み取っておられた。
悲しいときに悲しくやるのは当たり前なんだ。
そうじゃなくて、そこにない明るさを演じる。木下演出はすごいと思ったな」(P196)


おつぎは映画監督・木下恵介の脚本術。

「木下恵介は「泣かせる」ということにも、ひとつの信念があった。
映画の製作者がストーリーや主人公なりに感動もしないで、
こういうふうに演出すれば観客が泣くのではないかという計算をして行なうことを
「芸術家の態度ではない」と言っていた。
観る人ばかり念頭に置いて作品を作ったり描いたりすることを嫌っていたのである。
演出家自身がストーリー、主人公に感動して泣くことで、
「自分がこんなに感動するのだから、観客もきっと感動するだろう」
と信じて演出することを理想としていた」(P220


これが木下恵介本人の言葉になるとこうなる。

「やはり芸術家に欲しいものは、作家自身の“感動”ですヨ」(P220)

「国文学入門」(堤精二・島内裕子:編著/放送大学教育振興会)絶版

→物語文学と日記文学の相違というものは、いかなるものなのだろうか。
基本的に物語は虚構を、日記は事実を記すものとされている。
けれども、人間は事実から離れたまったくの虚構を創造することはできないようだ。
どのような嘘にも本当のことがまじってしまう。
本当をとりつくろうための嘘にどうしてかなってしまう。
おそらく人間は、そういう形でしか嘘をつけまい。
一方、事実を書くのが日記だといっても、人は日記にも嘘を書く。
他人にぜったい知られたくないことは間違っても日記に書かないだろう。
あえて日記に嘘を書くことも大いにありうる。
日記、日記というけれども、10年にもわたる日記は、読み手に物語を感じさせるはずだ。
日本の私小説を日記文学の延長と目する見方がある。
さて、平成の現代におけるブログ(=ネット上の日記)の隆盛はなにを意味するのか。
どうして日本人は匿名でブログ(日記)を書くことが多いのか。
そもそも書くとは、どのような行為なのだろう。
日記を書く。物語を書く。事実を書く。嘘を書く。

最初の日記文学「土佐日記」からして筆者の紀貫之は嘘をついている。
有名な「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてすなり」である。
現代でいうならばこれはネカマだ。
事実と虚構、日記と物語――。
事実などないという見方もある。書かれた時点ですべてが嘘になる。
書けば書くほど事実から遠ざかっていく。
(これはノンフィクションライターの故・永沢光雄氏の主張するところ)
だとしたら「私は正直者で本当のことしか書かない」と宣言する学者は
希代の大法螺(ぼら)吹きになってしまう。
反対に「嘘しか書けない」との諦念を持つものが真の正直者になるのか。
日記と物語という対立軸から色いろなことを考えさせられる。

「3日でわかる古典文学」(大橋敦夫・西山秀人:監修/ダイヤモンド社)

→監修は大学教授だけれども、実際に執筆したのは森本眞由美というライターさん。
成績優秀な女学生のノートを借りているようで、とても興味深かった。
専門の学徒ではないため、自由な発想で古典文学をあつかっているのがむしろよい。
参考文献によると(原文ではなく)入門書を読み込み、この本を書いた模様。
それでも原稿料以上の仕事をしていることは間違いない。

書物の体裁に合わせて、こちらも軽い感想を書く。
日本の古典文学作品には多彩な味わいがあるのだろうが、
わたしでも理解できる妙味は哀しいかなひとつ。
「無常」である。常なるものがない。有為転変。盛者必衰。栄枯盛衰。春夏秋冬である。
無常を感じた日本人が(男女問わず)ポロポロなみだを落とす。
このセンチメンタルなシチュエーションが、日本文学の原風景だと思う。
というか、わたしに理解できる箇所はおよそここだけである。

「無常→なみだ」=日本文学?

「日本の文学とことば」(麻原美子:編著/東京堂出版)

→副題は「日本文学はいかに生まれいかに読まれたか」。
大学の教科書としても使用できるよう構成に留意したとのこと。

気づいたことをいくつか。
当たり前のことだけれど、
江戸時代以前の文学作品は金銭報酬のために書かれたものではない。
むろん、多少の名誉欲はあったとは思われる。
それでも、日本古典文学のほとんどがカネ目的ではないことに重みを感じる。
書かざるを得ないものがあった。このことになにか神聖な感動をいだく。
おそらく、それは現実における不如意であろう。
わが意の如くにはならぬ現実世界。
このとき人間のなしうるのは書くことしかない。
亡児への悲嘆から「土佐日記」を書いた紀貫之は典型的である。
紫式部も清少納言もままならぬ憂き世に言葉で向き合うしかなかった。

もうひとつ当たり前のことを。
古典作品を書いたものは今現在、死者であるという事実。
どの文学作品も遺書として読めないことはない。
だれでも一作は小説を書けるという俗言がある。これは遺書のことであろう。
多くの人間が文学立身、すなわち社会的成功を目指して小説を書いている。
申し訳ないが、わたしはそれらの小説を読みたいとは思わない。
あれを読まされる文学新人賞の下読みほど同情に値する仕事はないとまで思う。
ご立腹なさるな。
あなたも赤の他人のアマチュア小説を読みたいとは思わないでしょう。
お互い様なのである。

だが、遺書なら異なる。
あなたが遺書を真剣に書いたというのなら読ませていただきたいと思う。
生前はとても発表できないような遺書であったら、ことさら読みたい。
このあたりに文学の突破口があるのではないかと思った。
浅学非才の身ながら、わが国の古典文学から教わったことである。

「世界文学の歴史」(阿部知二/河出書房新社)絶版

→こないだふと思いついて1時間ドラマを5日で書き上げた。
コンクールがどうのより、とにかく書いているあいだ楽しかったのを記憶している。
人生でこれほど充実した時間はないというほど創作から幸福感を味わった。
書き上げて思ったのは、もしこれが小説だったら――。
シナリオは形式上、色いろな制限をともなう。
比べて、小説における自由度は高い。
もし小説を書いたら(創作中に)どれほどの快楽を味わえるのかと胸が高鳴った。

色んな人から、小説を書けと言われている。あなたはシナリオじゃない。小説だ。
自身でも長らくそう思っているが、どうにもこうにも小説の敷居は高い。
小説は、書きたいと思ったからといって書けるものではない、とも思う。
しかし、1時間のシナリオを書いたときの幸福感が忘れられない。
あの創作以上の愉楽を味わえるのなら、もはや入選落選など二の次である。

よしんば小説を書いたら、それは世界文学史の最新に位置づけられるものとなる。
大言壮語ではなく、あなたの創作も、それが小説であるならば、
たとえ落選しようが世界文学の歴史とかかわりを持つわけである。
なぜなら文学の歴史は古い。
あなたの存在するのが両親のおかげであるように、
我われの書くつたない作品も前世代の作品の影響から逃れられない。
20代における大量の時間を海外文学の読破に当てた。当てざるを得なかった。
このあたりで全体を概観するのも益するところがあるのではないかと思ったゆえんである。

本書は世界文学の歴史をコンパクトにまとめていてすばらしい。
写真が多いので目で楽しむことができるのもよろしい。
著者はたとえば旧約聖書、
ホメロス、ギリシア悲劇、ブッダ、孔子の時代から文学の歴史を説く。
どれもこれもわたしには懐かしい。
かつて旅した町のアルバムをながめるような喜びがあった。
このアルバムに新たな写真を1枚つけくわえられたら、これほどの幸福があろうか。
多くの人間が人生を棒に振ってまで文学に賭けるのはまったく不思議ではない。
文学にはそれだけの価値があるのである。

どの名作文学も、作者が書いたと思えないのが発見だった。
能動ではなく受動なのである。
時代がある人にその作品を書かせた、としか思えないものばかりだ。
おそらく文学とは人間の書くものではないのだろう。
たしかに多くのものが書こうとするだろう。
そのうち選ばれたものが、書いているうちに気づかぬまま書かせられてしまうもの
――これが文学ではないか。

人間の分際で神仏の世界に踏み込んだもののみが文学創作をなしうる。
むろん、人間の身で大それたことをするのだから破滅は逃れられない。
文学者の多くが狂死するのはこのためであろう。
逸脱、陶酔、破天荒、狂騒――といった限界地点からのみ文学は書かれうる。
およそ文学者は幸福よりも不幸が似合う。
だが、かれは本当に不幸か?
創作時の幸福感が実生活の不幸など吹き飛ばしてしまうのではないか?

文学作品を書きたいとする。どうしたらいいか。
時代の声を聞くことである。どこへ行けば聞こえるのか。
自身の奥底である。そこはかならず時代に世界に、
もっといえば神仏に通じているはずである。
危険な行為だ。
なぜなら社会から(歓迎ではなく)迫害もしくは虐待されるようなものが真の文学なのだから。
多くの敵をあえて作るのが文学者の役目ではないか。
文学者は、認められることを恐れる気持を持たなければならないと思う。
ならば文学ほど難しいことはあるまい。
おそらく、だからこそ古今東西の人間を魅惑するのだろう。
わたしもそのひとりである。狂い死にしてもいいと思っている大勢のうちのひとりである。

流行によりそうのは大嫌いだけれど、
そう思うのも、なにかしらの流行に乗っているのではないか、という気がしまして。
わたくしの2009年を漢字一字で表現するならば「創」――。
創作を志し、実際に創作を為し、さらなる創作を狙う。
これが今年1年のあらましです。
創作の「創」のみならず、躁鬱病の「躁」、騒動の「騒」も入っています。
(創価学会の「創」は関係ありませんので悪しからず……)
とまれ、疑いもなく、ここ10年でもっとも実りの多い年でした。
いつか死ぬとき、もっとも忘れがたき1年が、もしや今年かもしれません。
恩師の原一男先生から「10年がんばれ」と言われた。
今年がその9年目であります。
いよいよなにものかが熟しはじめてきた――そんな前ぶれを感じる1年でした。
まだ今年は終わっていない。
「創」の1年を完結するべく精進したいと思います。
結果報告をしよう。
自分で決めた締切までに結局のところ2本しか書けなかった。
最低目標の4本にも届かず、である。
公募エッセイを書くのがいかに難しいかよくわかった。

日本文学の伝統としてエッセイは、おのれの好き嫌いを書くもの。
「枕草子」も「徒然草」も、時代が飛んで「男性自身」も、
せんじつめれば作者の好き嫌いの表明でしかない。
著者はエッセイで自身の洗練されたセンス(=好き嫌い)を誇るわけである。
ところが、素人は公募エッセイでこれを真似をできない。
素人の好き嫌いなんて、だれも興味を持ってくれないわけだから。
そうでしょう。無名の素人さんが、なにを好きだろうが我われは興味を持たぬ。
有名人の好き嫌いだから、人は関心を寄せるのである。

オピニオンを書くエッセイもある。
しかし、これもまったくおなじ理由で素人は書くことができない。
繰り返しになるが、素人のオピニオンなどだれも関心がないのである。
言葉ははなはだ頼りないもので、言葉自体は限りなく無力なのであろう。
我われは言葉にではなく、だれの言葉であるかに注目する。
おなじ言葉でも書き手しだいで印象が大きく変わるということだ。
公募エッセイでも肩書(職業)が重要なのはこのためである。

センス(=好き嫌い)もオピニオンも書けない。
残るのは体験だけである。実体験。
職業作家のエッセイを読んだらわかるはずだが、作家は体験をあまりエッセイに書かない。
なぜか。もったいないからである。
深い体験をしたらそれを創作に生かそうとするのが作家である。
エッセイなんかで使えるもんかと思うのが作家ではないか。
創作とは「味わい」だと思う。
人間は創作をすることで実体験を、繰り返し繰り返し、深く深く味わう。
ならば、エッセイで味わうよりフィクションで味わったほうが何倍もおいしいのである。

とはいえ、素人は公募エッセイで体験を書くしかない。
わたしは作家を目指すものとして、やはり深い体験はエッセイで使いたくないと思う。
800字で味わえるものは限られている。
以上、公約を守れなかった意志薄弱者の言い訳である。
努力が足らなかったとは思わない。
努力しても無理なものは無理であることを認める地点から、
なんにせよ創作というものはスタートすると思っている。

まあ、800字で20万円ゲットなんて甘い話はなくて、応募は1万通近くある模様。
1万分の1の確率だから。
ぶっちゃけると、プロの作家先生が書いたエッセイでもなかなか通らないと思う。
プロだから通らない、という面もあろう。
たとえばゲッツ板谷さんのエッセイは最高におもしろいけれど、
だれもあれが公募で通るとは思わないでしょう。求められているものが違う。
では、なにが求められているのかと考えるとよくわからない。
最初に読む人の基準がどのあたりになるのかつかめない。
むかしは文学青年だったような人間か。それともまったくの素人なのか。

シナリオや小説とおなじで結局は、自分がいいと思うものを書くしかない。
もちろん、相手に気に入られるよう、そうとうのお化粧は必要だけれども。
公募エッセイを2本書いて、男性ながらはじめてお化粧の感覚がわかった。
女性が化粧をするというのはこのことかと手を打ったものである。
これは思いのほかの収穫であった。
いまコルネイユの劇作「ル・シッド」で検索が集中している。
おそらくどこかの大学でレポートが課されたのではないか。
学生諸君! うちのブログからぱくっていいのだが、丁寧に文体は変えとけよ(笑)。
みんなこのブログを読んでいるのだから、そのまま書き写したらどうなるか想像しよう。
以前、N大学M教授の課題レポートでおなじことがあって、
非情なこの先生はうちのブログから写したものには単位を上げなかったという。

万が一、きみが低知能でそのまま書き写した場合は、
レポートの末尾に「参考サイト」としてうちのことを書いておくと安全だから。
ちなみによく間違えられるが「分け入っても」ではなく「分け入つても」。
小さい「っ」ではなく大きい「つ」だから、そこんとこよろしくな。
では、学生諸君の健闘を祈る! ううん、おれってやさしいよな(うっとり)♪
書きたいことを書くことは最高に幸福だけれども、
おカネとは結びつかないことが多い。
だから、お小遣いを稼ぐために、そこまで書きたくもない文章も書いてみようと思う。
ブログにせこせこなにか書いたところで一銭にもならないもので、アハ(かわいく)。

いまネットで公開されている公募エッセイの入賞作品を片っ端から読んでみた。
デンジャラスなひと言を言い放ってしまうと、まあ、つまらないわけである。
お酒をのみながら上質のエッセイを読むのは好むところ。
だが、とてもじゃないけれど、公募入賞エッセイで酒をのみたくはない。
あんなものを読みながらでは、酒がまずくなる。

わかったことがある。
エッセイ・コンクールで賞金ゲットするために必要なこと。
1.文章がへたくそなこと(ぎこちない、と言い換えてもよい)。
2.ことさら平々凡々たる小市民を演じること。
3.苦境にいる「私」が家族愛を発見して立ち直る話は王道。
4.60代女性の受賞率が異常に高い(30代男性はついぞ見なかった)。
5.なるべく売文エッセイの正反対を目指すこと。

素人エッセイで賞金をゲットするために重要なのは真実性。
「本当のこと」であることにより、むしろつたない文章が輝きを増す。
おもしろい文章よりも、あわれみを誘う文章が受ける模様。
だから、たとえばこういう話がいいわけよ。
夫が幼いひとり息子を亡くして早世。
10年後、息子の初めて作ってくれたカレーライスが亡夫の味とおなじで感動。
父親から教わったわけでもないのにどうしてだろう。
このような「一杯のかけそば」的なストーリーを、未熟な文章で切々とつづればいいわけ。

ぶっちゃけ、どうなのかね。
どこのコンクールの募集要項にも「自身の体験であること」が条件になっているけれど。
ウソを書いたらばれちゃうのかな(笑)。
いや、書きませんよウソは。わたしは「もてない男」の小谷野敦のように正直者だから。

よし、エッセイを書いてみようじゃないか。
「心あたたまる体験」(800字)
「香り(3編応募可)」(800字)
「志(3編応募可)」(800字)
「夢・贈り物・旅立ち」(1600字)
もうね、こういうのは宣言するに限る。
今週の金曜日に人と約束があるから、この日までにエッセイを4~8本書きます。

あと、そうそう。

> 1/15締切
> 約束(プロミス)エッセー大賞
> テーマ「約束をテーマにした明るいエッセー」
> 1600字で100万円

これそうとうお得じゃね? 100万円だよ、わずか4枚で。
エッセイなんてほんとだれでも書けるものなのだから、みなさんもぜひぜひご応募を。
ライバルが増えるとか、そんな心配はない。
なぜなら、見切っているから。コンクールは結局のところ運。ついてるか、ついてないか。
多少、割のいい宝くじ程度に思っていたほうがよろしい。
ごめん、いま酔ってる♪
二種類の人間がいるようですね。
これは「うまい」と断言できる人がいます。うまいものはうまい。
一方で「うまい」という噂を聞いてはじめて動く人もいるのです。
だれかが「うまい」と言ったから食べに行く。
ファーストか、セカンドか、であります。
叩かれる危険性があるのは前者――。
「おまえがうまいと言うから行ったらまずいじゃないか!」
「ごめんなさい。あなたは、なにを美味だと思いますか?」
「――(無言)」
「好きなものはありませんか?」
「――(無言)」

(追記)「うまい」を「こうしたら成功できる」に変えてもたぶんおなじことでR♪
テレビドラマのシナリオでは間違ってもキチガイとは書けないわけである。
というか、テレビで出せる精神病は鬱病が限界。
名物番組「愛は地球を救う」でも、
身体障害者は輝かしく登場するが、精神障害者は無視されるでしょう。
おそらく、より愛に餓えているのは後者なのであろう、にもかかわらず。
大多数を相手にするテレビでは漏れてしまうもの、すくえないものを描こうとするのが、
言うなれば純文学ではないだろうか?
極端に言ってしまえば、キチガイと書いてしまえるのが純文学の強みである。
どうして書けるのかといったら、だれも読んでいないからなのが、
いささか哀しい限りではあるものの。
キチガイめいた文体でありきたりなことを書くのが
純文学と思っている人がいるかもしれない。
丁寧なわかりやすい文体でキチガイを描写する純文学もあっていいと思う。
もっとキチガイにスポットライトが当たるべきだと思う。
ドストエフスキーの小説にはキチガイばかり登場する。
シェイクスピア四大悲劇の主役はみなそろってキチガイである。
「マイフェアねーちゃん」(井沢満/シナリオマガジン「ドラマ」1987年1月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。東芝日曜劇場。
1時間ドラマの勉強として読む。
おそらく脚本家には、当時のトップアイドル、
マッチ(近藤真彦)を生かせという命令がテレビ局からあったのでしょう。
だから、このシナリオをどうこう言うのは間違えている。
だれだってアイドルを主役にして人を感動させる深いドラマが描けるとは思わないでしょう。
うまくマッチを用いてるのではないかと思いました。
おそらく脚本家の本来の仕事とは、山田太一先生のような個性的な創作ではなく、
テレビ局からの注文に応えるファーストフードのようなものなのでしょう。
なるべく大勢の人間に、わかりやすい悲喜の味を簡潔に伝えることこそ使命。
井沢満先生こそテレビ作家の見本と言うべきなのかもしれない。
この作品の軽さ浅さは、欠点ではなく、むしろファーストフード的魅力なのであろう。
「コミュニケーション」(服部ケイ/シナリオマガジン「ドラマ」1987年1月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。東芝日曜劇場。
1時間ドラマの勉強として読む。
東芝日曜劇場だから、脚本家が大家だから、おもしろいと思ったら――。
わたしはものすごい勘違いをしていたのかもしれない。
山田太一先生のシナリオのせいで、ふたつの勘違いを。
1.シナリオを読むのはおもしろい。
2.むかしのテレビドラマはおもしろかった。

正しくは、おそらく。
1.山田太一先生以外のシナリオは、映像で視聴したほうがまだいい。
2.いまもむかしもテレビドラマの9割はろくなものではない。

このドラマは(当時)最新のフェミニズム思想から書かれた模様。
新しいものほど腐るのが早いから、いまは目も当てられない。
説明過剰なセリフには、思わずオイディプスのように目を刺したくなったほどである。
しかし、書き手は大家だから、わたしが間違っているのであろう。謝罪する(もう投げやり)。
「郷愁」(田向正健/シナリオマガジン「ドラマ」1990年12月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。NHKドラマスペシャル。
田中正健先生といえば向田邦子先生ともご友人だった大家。
だから、このシナリオの価値がわからないのは、ひとえにわたしの未熟ゆえでしょう。
最初にナゾを作ってくれないので、読み進むのが困難。
現実とは程遠いメチャクチャな設定が、読む気を失わせる。
飛ばし読みしたが、それでも苦痛なレベル。
ラストも、わけがわからない。
有名作家と無名読者。疑いもなく間違えているのはわたしです。
非礼をお詫びします。関係者様、お許しください。
このシナリオを渡されて拒めない(天下の)NHK社員様に少しだけ同情しました。
「恋愛本線、駆ける」(野沢尚/シナリオマガジン「ドラマ」1990年12月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。東芝日曜劇場。
1時間ドラマの勉強として読む。
いくら大家の作品とはいえ、執筆時はわたしより年下。
作品の底の浅さを問題にするのは、故人に失礼にあたると判断した。
学んだテクニックを整理する。

1.「冒頭は走る二人。どうして走るのか。ナゾの作りかたがうまい」
2.「若手作家はナゾをふたつ作る。ひとつめが解決されないうちにふたつめのナゾが」
3.「まだドラマ序盤なのに、最初のナゾがあかされる。スピード感がある」
4.「ドラマのメインは人探し。なにかを探すのはドラマになる」
5.「青春時代の思い出がドラマを解決させるのだが、回想がうまかった」
「夢で別れて」(市川森一/シナリオマガジン「ドラマ」1990年12月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。東芝日曜劇場。
1時間ドラマの勉強として読む。
脚本家は大御所だからてっきり感動させてくれると思ったら。
山田太一先生の作品ばかり読んでいたから、
シナリオは読んでも楽しいものと思い込んでいた。
むろん、大御所の先生の名作ドラマを批判などできない。
学んだところを整理する。

1.「冒頭にナゾを作っている」
2.「ドラマ序盤で約束をさせて履行されるか視聴者の関心をあおっている」
3.「葛藤=喧嘩のシーンを作り、その過程で秘密を暴露させている」
4.「ドラマ終盤でヒロインが変化を表明している」
「キューポラのある街」(浦山桐郎・今村昌平/雑誌「シナリオ」1969年10月号)品切れ

→映画シナリオ。
人を感動させるものを書くためにはどうしたらいいか?
なによりもまず自分が感動することだと思う。
おのれがどこまで深く感動できるかが、当人の書くものの深浅に表われるであろう。
創作はテクニックや努力ではないと思いませんか?
だって、努力して感動することなどできないでしょう。
感動は、与えられるもの。たえず受動形。ならば創作も受動形とは考えられないだろうか。

根本は、他者を信じることである。俗な言いかたをすれば「人間はみんなおなじ」を信じる。
自身が感動する。そのときどのような感動をしたか自分を詳細にチェックする。
結果、他人も自己とおなじように感動するだろうと信じて創作するしかない。

「キューポラのある街」は大好きな映画のひとつ。
センチメンタルにもかかわらず、ではなく、だからよろしいと思っている。
メッセージや風俗は時代とともに古くもなろうが、人間の喜怒哀楽だけは不変である。
人間の多様な、あるいは共通する、喜怒哀楽を刺激するものをセンチメンタルと言うのではないか。

名作「キューポラのある街」のシナリオに感動して(泣いて)思ったのは、ドラマの一面である。
この映画の山場は北朝鮮へ帰る在日の友人との別れ。
ドラマとは「出逢い」と「別れ」に尽きるのだと思い知らされた。
ドラマが思いつかなかったら人間と人間を出逢わせたらいい。別れさせたらいい。
この人間操作術がドラマ作家の才能である。

もっとも劇的な「出逢い」は「再会」か「ひと目ぼれ」か。
もっとも劇的な「別れ」は、おそらく「死別」であろう。
こういった大仰なものばかりではなく、ドラマの細部が「出逢い」と「別れ」で構成されている。
「今日の日はさようなら」もドラマになる。
われらが人生における「出逢い」と「別れ」は神仏が支配している。
ならばドラマ作家は、どこまで神仏に近づけるかを目指すべきなのか(=現実の模倣)。
いや、むしろ反対にどこまで神仏に逆らえるかに尽力すべきなのか(=強い虚構)。