「もう一杯」(大竹聡/産業編集センター)

→見知らぬ他人の本を読んでいるという気がしなかった。
というのも、著者はわが愛読誌「酒とつまみ」の編集長だからである。
酒飲みのどこがいいか?
センチメンタルなところである。
感傷家のどこがいいのだ?
人より多く感動できるところではないか。
本書には酒を飲む喜びと悲しみが余さず記されている。
作者の自分語りを稚拙だと思うものは、酒の味を知らない。
なぜなら、酒とは実のところ、自分を味わうためのものだからである。

「全東洋街道(上)(下)」(藤原新也/集英社文庫)

→人はみな旅人である。
かくのごときシンプルな事実を書くために、
いままでどれほど多くの旅行記が書かれたことだろうか。
旅はままならぬ。一人旅ならなおさらである。
道中、だれと出逢うかさえ、まるで自由が利かないではないか。
1本、電車やバスを乗り過ごしたことで、旅そのものが変わってしまう。

我われはおのが人生が、そんなたわいのないものだとは思いたくない。
だから、旅行記を読むのかもしれない。
知っているけれども、知りたくないこと、つまり、偶然や運命を知るために。
人生が旅のような偶然の連続だったらたまらないではないか。
しかし、と思ったとき、人は旅の記録を読む。
あげく、これは旅であるからと安心する。

著者は旅行中、ある老いたインド人の眼医者から、こう言われたという。
この眼医者に見えていたものは、果たしてなんであったか。

「運が悪いというのも、それは一つには強運の現れでもあります。安心なさい」(下巻P22)

たとえ人生、いや旅に自由がなくても構わないではないか。
なぜなら旅は不自由を、偶然を味わうためのものなのだから。
だとしたら、人生も――。

「ひろさちやの「無関心」のすすめ」(青春出版社)

→敬愛するひろさちや先生に死期が近づいているのではないかと心配した。
本書の出版は2008年9月。
70歳を超えた先生はどうやら悟りを開かれたように思える。
いままでシガラミから言えなかった自己の宗教的主張を本書では決然と打ち出している。
仏教者・親鸞の思想を正確にたどれば、
このような考えにいたるのは自然なのだが、それなりの立場のある人間には難しい。
わたしの人生観は、以下に長く引用するひろさちや先生のそれとまったくおなじである。
これは難解な思想家と思われている福田恆存先生の人生観、人間観にも通じている。

コラム全文を引用したい。タイトルは「人生はお芝居だ」――。

「どんな自分であっても、それはほとけさまがその人に預けられた自分です。
だから、「もっとこういう自分にならなければ……」とか、
「自分はこうあるべきだ」などと考える必要はさらさらありません。
「わたしは、こういう自分をほとけさまから預かっているんだ」
と胸を張っていればいいんですね。
反感を買うことを承知で言えば、たとえ犯罪に手を染めても、
「俺はほとけさまから頼まれて犯罪をやってるんだ」
というくらいふてぶてしく生きたらいいのです。
もちろん、わたしは犯罪をすすめているわけではありません。

しかし、犯罪をおかす人間はだめなやつで、
おかさないのが立派な人間ということではないんです。
犯罪をおかすのは「縁」なんですね。
どんな人間でも縁によって犯罪者になります。
たとえば、自分の最愛の娘が目の前で乱暴されてるといったとき、
そばに拳銃や刃物があったら、
それで相手を射殺したり、刺殺したくなるかもしれないでしょう。
それがふつうの感覚です。
そうした縁が準備されていれば、だれでも犯罪者になる可能性があるんです。
わたしたちは自分で生き方を選び、
人生を切り拓いていると考えているかもしれませんが、じつはそうではありません。
それぞれが与えられた役回りを演じているだけです。

シナリオライターはほとけさまであり、神さまです。
ほとけさまが描くシナリオは遠大です。
地球の誕生から滅亡まで、すべてを見通したシナリオなんですね。
われわれはそのうちのたかだか八十年間、何かの役を演じるにすぎません。
それがシナリオ全体のテーマの中で、
どんな意味があるのかなどわからないし、わからなくていいんです。
ただ、与えられた役を演じきることです。
割り振られたのが善人役だろうと悪人役だろうと、
犯罪者だろうと殺人者だろうと。
「俺はこんな役は嫌だ。もっと違った役にして欲しい」
などと文句を言う筋合いのものではありません。
どんな役を演じても、最後はお浄土に行くんだと、わたしは思っています。

お浄土では、いい役割を演じた人も悪い役に回った人も、
ほとけさまからねぎらいの声をかけてもらえます。
主役級には「よくやったね、ご苦労さん」くらいのことかもしれませんが、
悪役にはより多くの言葉を尽くしてくださるでしょう。
「おまえにあんなつらい役割を与えて、しんどかっただろうね。
でも、おまえがあの役をやってくれたので、わたしのシナリオは光ったんだよ。
あの悪役ぶりは立派だった。ほんとうによくやってくれたね」

浄土真宗を開いた親鸞上人の有名な言葉にこんなものがあります。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
ほとけさまは悪人にこそ、あたたかい目を向けてくださる。
そう信じましょうよ。そして、自分に与えられた役を好きになって欲しいんです。
暴力団員の役を与えられたら、立派にその役をやりとげればいい。
犯罪者なら、犯罪者を演じきればいいんです。
たとえば、暴力団員であっても、堅気の人間にやさしく親切な人もいます。
堅気の人をいじめ、迷惑をかける暴力団員よりも、
やさしい暴力団員のほうが立派ですよね。その役を演じきることです。
「やくざは悪だから、足を洗いなさい」
なんて言うのは、ほとけさまのシナリオにケチをつけていることにほかなりません。
そんなお節介は、もう願い下げにしましょうよ」(P134)


自分以外に親鸞思想をここまで理解(誤解?)している人が現世にいるとは思わなかった。
まさか、まさか、である。

「ほとけさまの「ひとりを生きる」智慧」(ひろさちや/青春出版社)

→恥ずかしながら、ひろさちや先生のファン。ええ、恥ずかしいんですよ!
しかし、先生の最近のハッチャケぶりはスバラシイと思う。
できたら月に1冊くらい麻薬のようにひろさちやを入れたいくらい。
実際それが可能なくらい先生は多作で、
たぶん1年に10冊近く著作を上梓なさっているのでは?
我われの国は、均一的なモノサシを強制的に押しつけてくるでしょう。
たとえば、金持は貧乏人よりも幸福だ。
たとえば、勝ち組は負け組よりも恵まれている。
たとえば、人間は長生きしたほうが偉い。
たとえば、人間の努力やがんばりほど美しいものはない。
みんな薄々これらのモノサシの嘘に気がついているけれど、うまく反論できない。
どうにもこうにも上記したようなモノサシに縛られてしまう。
ひろさちや先生のエッセイを読むと、こういった呪縛から自由になれる。
だから、いい。とてもよろしい。
願わくば、月に1冊、ブックオフ105円コーナーで先生と出逢いたい。

「アキバ通り魔事件をどう読むか!?」(共著/洋泉社)

→そろそろ世に出なければと思う。
しかし、まったく最近の事情を把握していない。
今現在活躍している多数の論者の多様な意見を一気に読める本書は有益であった。
いつのまにか我輩よりも年下の論客(笑)がわんさか登場していたのね。
それに宮台真司と大塚英志が大学教授になっていることもこの本で知った。
おいらは言うなれば浦島太郎だから。
9年前まではこの手の情報に敏感だったけれど、
ある事件をきっかけにどうでもよくなった。

すべての論客先生のご発言を読んで思ったのは、なにをそんなに熱くなっているのか。
自分がコメントすることで社会がよくなるとでも思っているのだろうか。
だとしたら、自身があわれなピエロだと早く気がついたほうがよろしい。
いちばん共感したのは1才年上の赤木智弘氏の以下の文章。

「また、私は彼の犯罪を利用して、こうして原稿を書き、
幾ばくかの原稿料を得ている。
私もまた彼の犯行によって幸運を得た一人であることを否定はしない」(P24)


この箇所がよかった。強烈な同世代意識を赤木智弘氏に感じる。
我われの世代の感覚を見事に言い表していると感心した。
ここまで書いてしまえるほど、熱いものがなくなってしまったのがうちらの世代よ。
こんなムックで偉そうなことを言っている人間も、
しょせん売名、権力獲得、ひいては収入増加が目的じゃない。
熱く語っちゃって、バッカみたい m9(^Д^)プギャー

わたしの依拠する親鸞思想から秋葉原事件を語るならば――。
無名人のコメントなんて、みんな興味ないよね、ごめんなさいであります m(__)m
加藤くんがあれだけの大量殺人をできたのは前世からの凄まじい宿業のため。
被害者はほんとうに可哀想だけれども、これまた前世からの因縁ゆえ。
だれがなにを言っていても秋葉原通り魔事件は起こったであろうし、
だれがどんな発言をしたところで死んだものは生き返らない。
どれほど偉い先生がいかほどにすばらしい論説を発表しても、
今後起こるであろう凶悪犯罪を抑止することは断じてできまい。

まあ、ぶっちゃけ、みんな、こういうの、退屈しのぎだって、わかってるんでしょ~♪
書き手も読み手もさ~。みんな楽しんだんだから加藤くんに感謝しておこうね。敬礼!

「終りの一日」(山田太一/「月刊ドラマ」83年6月号/映人社)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和50年放送作品。東芝日曜劇場。
例によって詳しい解説は3年前に書いた記事で代用↓。

http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-983.html

ふうむ、いま読み返しても、なかなかいいことを書いているじゃないか(自画自賛ね)。
こんな発言をしたら全国数百万人はいる山田太一ファンに叱られそうだけれど、
わたしはもしかしたら山田太一研究の第一人者ではなかろうか(笑)。
厄介なのは研究者ではなく実作者を志望しているところ。
とても浅学非才のこの身では山田太一先生にはなれないし、
よしんばなれたとしてもこの国に山田太一はふたりもいらないのだが。

名作シナリオ「終りの一日」から学んだ(盗んだ)テクニックを整理したい。
無駄な会話は、もしかしたらテクニックなのではないか。
退職した(させられた)おなご先生が下宿へ戻ってくる。
下宿先の主人が現われ、かつての教え子の訪問を伝える。
ところが、見てみるとなかなか肝心の内容に入らない。
一見すると無駄とも思える会話を長々とやってから本題(=客訪問)に入る。
この無駄話の妙味はこのたび理解したが、果たしてどうすればこの味を自分で作れるのか。

盗み聞きは古典的テクニックだが、反対もまたあるのである。
先生と元教え子が話している。
先生がぱっと障子を開け、盗み聞きしている主人に嫌味を言う。
このシーンの小気味のよさは格別である。
シーン尻で場面転換のきっかけにもなっているから、作者の意図が強い。
あるいは天才のことだから、氏は無意識的にこのようなシーンを書けるのかもしれない。
凡才としては、テクニックは逆も用いることができるのかと勉強になった。

112ページの気持の入った長ゼリフは、まさに絶唱と言うべきレベル。
思わず声に出して読まずにはいられないのだから。
もし自分が役者だったら、いくら長かろうが、このセリフはぜったい言いたいと思う。
役者をそういう気持にさせる台本を書ける作家がいまどのくらいいるのか。
これはテクニックではない。山田太一さんが持って生まれた才能というほかない。
とても余人が真似できるものではないと断言する。
「秘密」(山田太一/「月刊ドラマ」83年6月号/映人社)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和50年放送作品。東芝日曜劇場。
再読のため詳しい解説は前回ので済ます↓(3年前か……)。

http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-982.html
(と、リンクをはってもほとんどの人がリンク先をお読みにならないことを
知らないわけではないけれど、まあ、お約束ゆえ勘弁してくださいませ)

38歳専業主婦の弘子と、18歳のもてない&しがない工員の正平。
正平が弘子に(ナンパめいた)悪戯電話をかけたのが知り合ったご縁。
正平はもうすぐ札幌を離れ寒村へ帰らなければならない。
札幌ではなにもいい思い出がなかった。
弘子が誘う。1回だけデートしない? 思いっきり楽しんじゃわない?
1回きりのデートに別れのときが来る。「さようなら」「さようなら」と挨拶を交わす両人。
「待って」と弘子が言う。「来て。来て」と正平を暗いビルの路地へひっぱる。

○路地
弘子「(正平をビルの壁面に押しつけ、その胸に顔を押しつけて行く)」
正平「――(息をあらげている)」
弘子「こうしたかったの。こうしてあげたかったのに、勇気がなかったの」
正平「奥さん」
接吻する二人。
弘子「(唇をはなし)さようなら。元気でね(パッと走って地下鉄入口へ走って行く)」
正平「(ゆっくりと路地から現われて、もう弘子はいない地下鉄入口を見つめる)」(P98)


何回読んでもいいシーンだよな。泣けて泣けて仕方がない。
このまえに弘子と正平が、ふざけて雪を投げ合うところもいい。
山田太一先生が、こういったシーンを書きたかったことがよくわかる。
燃えるような思いで、このシーンを願っていたのがわかる。
シナリオ創作なんて難しいことはない。見たいシーンを書けばいいんだ。
見たいシーンが可能な限り効果的に伝わるよう他のシーンを仕組めばいいんだ。

ここで大きな問題が生じる。
もし書き手に見たいシーンがなかったら、シナリオは書けないのだろうか。
こんなシーンがあったらいいなという熱い思いがなかったとしたら――。
どうしたらば書きたいシーンが思い浮かぶか。
おそらくこれがシナリオ作法の根幹ではないだろうか。どんなシーンを見たいか。

(追記)本作品で脚本家は回想をうまく使っている。
昼にちょっとした出来事がある(悪戯電話青年との邂逅)。これを途中で夜に飛ばす。
夜の日常シーンに、昼の非日常シーンの回想を混ぜ込むのである。
こうすればたしかに日常と非日常、昼と夜の対照がうまくつく。
時間的にあまり離れていなければ、視聴者も回想シーンについてきてくれるのか。
回想の使用法のとてもいい勉強になった。
山田太一さんがすごいのは、内容のみならずテクニックも一流だからである。
「約束の街・札幌」(岩佐憲一/雲母書房)

→テレビドラマシナリオ。平成8年放送作品。1時間ドラマ(たぶん)。
岩佐憲一の1時間ドラマを3つ読んだ感想――。
1時間は短いけれども、それでもかなりの分量のどうでもいいセリフを入れられる。
むしろ何気ない会話がドラマに厚みを持たせる役割を果たしている。
あまり必要ではない会話が、かえって短編ドラマの味わいになることに注意したい。

わたしはシナリオ・センターで20枚シナリオ(10分ドラマ)ばかり書いてきた。
だから、どうしても意味のない(=テーマやストーリーに関わらぬ)
セリフはカットしてしまう癖がついている。もったいないという思いからだ。
これを修正しなければ1時間ドラマは書けないな、と思う。
いい時期に(いまだ愛する母校の)シナリオ・センターから追放されたのかもしれない。

「約束の街・札幌」でも脚本家は巧みに嘘を用いている。
岩佐憲一はもしかしたら嘘こそドラマの車輪だと気がついていたのかもしれない。
それとも書きたいシーンが、無意識的に嘘をドラマに呼び込んだのか。
どの作家にも言えることだが、創作の瞬間は合理的説明がつかない。

幹也は恋人の冬子に内緒でエロ本の編集をしている。
この嘘が冬子にばれてしまう。もうひとつ隠し事が幹也にはある。
幹也はエロ本の読者交流コーナーに女性名でいろいろ書き散らしている。
牧場勤務の朴訥な青年、保からの手紙が舞い込む。
保の純粋さに胸打たれた幹也は女性名で返事を書く。文通が始まったのである。
保から逢いたいと言われた幹也は無視する。
ところが、冬子が該当女性だといつわり(嘘をつき)保と逢う。
気が気ではない幹也である。保と冬子は二度もデートをするのだから。
保に偶然を装い冬子のことを問いただす幹也。
保によると、冬子は明日、見合い相手と結婚するため東京へ行ってしまうという。
翌日、思いが定まった幹也が空港へ走る。果たして間に合うか!
シナリオ・テクニック「恋は走らせろ」(@シナリオ・センター講師・柏田道夫氏)である。
愛情の告白をする幹也に、冬子と保はしてやったりの顔。
スーツケースのなかは空っぽ。東京行きは冬子と保が仕組んだ嘘だったのである。
これまでいくつの嘘が飛び交ったことだろう。ドラマは嘘なのである。

岩佐憲一はかなりの美男子だが、もてない男を好んで描くのが不思議である。
脚本家は30歳でデビュー、40歳で自殺している(本書で自殺は暗示されるに留まる)。
シナリオの「直し」をとにかく嫌がったとのこと。
「直し」を指示されると2日は寝込んだという。
それからすぐに降りてしまうのでも有名だったらしい。
プロデューサーと意見が合わないとすぐさま降りてしまう。
(僭越ながらわたくしめと同様に)シナリオ・ライターには向かない性格だったのだろう。

さあて、ライター希望のみなさまに問いたい。直球。幸福ってなんだろう。
シナリオ作家としてデビューするのは本当に幸福だろうか。
どちらがいいと思いますか?
コンクール入賞とは縁なく75歳まで生きる人生と、作家として40歳で死ぬ人生。
作家デビューは、かならずしも幸福とは限らないことを忘れてはいけない。
妻と子がいるのに40歳で自殺してしまうのは脚本家であったからでしょう。
このとき、人間の幸福とはなにかを再考する必要があると思う。
わたしはといえば、岩佐憲一の幸福を信じている。
無駄に長生きするくらいだったら、40歳で作家として死にたい。

「いつかライオンの夢を」(岩佐憲一/雲母書房)

→テレビドラマシナリオ。平成4年放送作品。東芝日曜劇場。
ドラマのスタート地点はどこか。作者のこのシーンが書きたい、という欲望である。

岩佐憲一は書きたかった。
しょぼくれたもてない中年のおっさんを書きたかった。妻子からは相手にされない。
仕事もダメで大きなヘマをやらかして大阪に左遷されてしまった。
ところが、なにが幸いするかわからない。
冴えないおっさんに好意を寄せるOL(国生さゆりでっせ♪)がいるではないか。
OLがなんの気なしに誘ったアフター5のお好み焼き屋。
むかしの部下からもけしかけられ、もてないおっさんはすっかり勘違いしてしまうのである。
後日、舞い上がったおっさんはOLをビアホールに誘うものの、案の定、
そこでピシャリとやられてしまう。もてない等身大の自分に向き合わされる。
ひとり公園のベンチに座るおっさん――。
心配しておっさんを尾行してきたOLが横に座ってくれる。女性の心根のよさよ!

以下引用で、おっさん=俊郎、OL=さつき。

さつき、俊郎の横にかける。
二人、共に無言でしばらく。
俊郎「(ポツリと)ヘミングウェイ、知ってるでしょ?」
さつき「え?」
俊郎「作家、アメリカの」
さつき「あ、ええ、『老人と海』、中学の頃読みました」
俊郎「(頷き、照れ笑いで)私、むかし若い頃、
ヘミングウェイみたいに生きたいなあて思うてました」
さつき「どういう人かはよく知らないけど」
俊郎「酒を愛し、女を愛し、海を愛し!
おおらかにして繊細、強靭な肉体とワイルドな知性、デリケートな感性。
まあ男のひとつの理想です。『老人と海』の最後の一行覚えてますか?」
さつき「それはちょっと(覚えてない)」
俊郎「化け物みたいなデッカイ魚と、知力体力の限りを尽くして闘った老人が、
疲労困憊で帰ってくる。そして最後、海辺の小屋で眠りに落ちます」
さつき「ええ」
俊郎「最後の一行は――老人はライオンの夢を見ていた、です」
さつき「(へえと頷く)」
俊郎「私も、老いて悠々とライオンの夢を見られるような男になりたかった」
さつき「(頷く)」
俊郎「(フッと笑い)しかし、私の現実は、それとは程遠い。(以下略)」(P68)


岩佐憲一はこのシーンを書きたかった。
なにものにもなれなかった中年男の悲哀を描きたかった。
男の横に優しい女を座らせたかった。
「ライオンの夢」のセリフを言わせたかった。横の女に聞かせたかった。
かつてヘミングウェイにあこがれた中年男のドラマを書いた岩佐憲一、享年40歳。
死因はおそらく脚本家も好きであったであろう米国の文豪とおなじである。

(追記)それにしても引用箇所は山田太一ドラマに似ている。
思うに、相当な影響を受けたのではないか。

「初恋の人さがします」(岩佐憲一/雲母書房)

→テレビドラマシナリオ。昭和63年放送作品。東芝日曜劇場。
テレビ局主催のコンクールは1時間ドラマが主流だけれど、
実のところ現在(東芝日曜劇場のような)1時間ドラマを放送する枠がない。
コンクール応募者のみなさまはいったいどのように1時間ドラマを勉強しているのか。
いまは読まないで書くことにばかり目が行っている新人が多いのかな。
書くことは楽しいけれども、ドラマを読むのもまた楽しいと思う。

大半の脚本家がそうなのだろうが、岩佐憲一からも山田太一の影響がうかがえる。
たとえば、本書から岩佐憲一の発言を引く。

「山田太一さんのドラマって、
わりあいテーマでとらえられることが多いと思うんですけど、
でもいつでも第一線の娯楽作品になってますよね。
連続ドラマなんて、その回を見終わって、必ず次の回を見たいと思うし……」(P109)


同様、岩佐憲一の書くドラマも質の高い娯楽作品になっている。
脚本家はドラマにおける嘘の効用にかなり自覚的である。
登場人物のひとり、祐次は「初恋の人さがします」という会社を立ち上げている。
こわもてのヤクザが依頼人として登場する。
探してくれと頼まれた「初恋の人」が、なんと祐次の妻、かほるなのである。
当然、祐次は真実を言えずヤクザに嘘をつく。
この嘘のばれるまでが、前半の山場である。

かほるとヤクザは10年前、ペンパル(文通相手)であった。
当時、高校生のかほるは、自分は難病の少女だと手紙に嘘ばかりついていた。
病室から外に出られないから、いつか北海道の森林を見たい。
ヤクザは真に受けたのである。
どうしてヤクザは初恋の人、かほるに逢いに来たのか。視聴者をひきつける謎である。
元気に結婚生活を送るかほるを見て、ヤクザは去る。
ヤクザは持参した手土産を捨てる。
それを祐次がこっそり見てみると――。
中身は高校生かほるの手紙と、森林の写真。手紙で祐次は妻の昔日の嘘を知る。
森林の写真は木々を一枚一枚撮影した手の込んだもの。
ベッドに写真を並べると、北海道の自然が再現されることになる。
実にうまい小道具(森林写真)の使用法で、映像効果(ベッドの森林)もバッチシである。

祐次の嘘は、自分(と妻)を守るためのもの(ヤクザは怖い)。
かほるの10年前の嘘は空虚な現実をまぎらわすためのもの(難病の少女)。
岩佐憲一は巧みな嘘の使い手である。別名、ドラマの名手ともいうのであろう。


「TVドラマはこう書く!」(西条道彦/映人社)

→25年にわたって1000本以上のTVドラマを書いた脚本家の手の内が明かされる。
いくらむかし(昭和47年「入っまあす!」)とはいえ、
著者が24.4%もの高視聴率ドラマを書いていることに驚く。
驚きはこれだけではなく、本書は自伝的な性格が強いけれど、
予想に反して鼻につく自慢話が少ない。えばったところが、まるで感じられないのだ。
わたしの教わっていた某スクールの(とにかく偉そうな)講師とは大違いである。

経験に基づくプロデューサーとの交際方法も勉強になった。
かなり意地悪なプロデューサーもいるらしく、衝突は日常茶飯事とのこと。
むかしは一度喧嘩別れをしても、
ネクストを依頼する度量の大きなプロデューサーもいたそうである。

「あなたはどういうドラマを書きたいだろうか?
山田太一さんのお書きになるような素材ではなく、
山田さんよりあなたのほうがよく知っているものは何かをさがすべきだろう。
「北の国から」を真似ようと、
彼女と北海道へ一泊旅行してもあまり効果はないと思う。
早坂さんを真似ようと四国を歩きまわるのも健康にはいいだろうが、
ドラマを書くのが目的ならいかがなものだろう」(P64)


正論なだけに耳が痛い。山田太一さんのコピーをしても、どうしようもないのだ。
じゃあ、わたしに書けるドラマとはいったいなんだろうか。
書いたらおのずとわかるのだろうが、なにを書いたら「わたしのドラマ」になるのか。
山田太一さんより、わたしのほうが詳しいものはなにかあるのか。
山田先生よりも、わたしのほうが深く描けるドラマ世界は――。

西条道彦氏は、「一時間ドラマを書くのに三日をかけていた」(P188)。
プロはわずか3日で1時間ドラマを書いてしまうのかと驚く。
西条先生は、たったのひと晩で1時間ドラマを書き上げたこともあるという。
この体験談が非常に勉強になった。
大物俳優の鶴田浩二がホンにダメだしをした。こんなホンじゃ、やれねえ!
そこで急遽呼び出されたのが当時新人であった西条道彦。
舞台セットもスケジュールも詰まっている。
ひと晩で1時間ドラマを書き上げなければならない。
このとき書いたものが鶴田浩二にたいそう気に入られたという。
シナリオ作家・西条道彦にとっての原体験ともいうべき忘れられない出来事だったようだ。

まずプロデューサーの戦争中の体験から、こんなストーリーはどうかと提案される。
脚本家は鶴田浩二の魅力をさぐる。歌がいい。
こうして脚本家は、描きたいクライマックスのシーンを決める。
ここで泣かせる、と決める。ここで感動させてやる。
クライマックスから逆算して、おまかな構成を決める。
準備はOKということで、脚本家はトップシーンから書き始めてしまう。

「書き始めたのが夜中の十二時で、
書きあがったのが翌日の昼の十二時ぎりぎりだった」(P189)


わすが12時間で1時間ドラマを書いてしまえる人間が世の中にはいるのか。
よほど思い出深い作品だったらしく、本書にシナリオが掲載されている。
創作過程を知りながら作品の出来不出来を口にするのは野暮というものだろう。
勉強になったのは、切羽詰まったときのシナリオ創作方法。
「(自己や他者の)体験」→「役者(人間)の魅力」→「感動シーンを決める」。
この流れでひとつのシナリオが完成した。
実作者でなければ教えられない貴重な創作方法のように思う。

どこぞの創作スクールでは、シナリオを書けない人間が講師をしているようだが、
いったいなにを教えるつもりなのだろうか。
まじめにシナリオを書いている人間に失礼だと恥ずかしくはならないのかしら。
以上、余談である。

多作の西条道彦氏は自身の執筆したドラマのこともよく覚えていないようである。
氏のご母堂が、まめに新聞記事を切り抜いてくれていた模様。
息子のドラマについての評価である。これを参考にして本書は書かれている。
あるドラマのストーリーを読みながら思いつく。
嘘の効用である。人間はなんのために嘘をつくか。
現実を変えるために嘘をつくのではないか。
現実はどっしり重く、不変で退屈で厭き厭きするから、だから人間は嘘をつく。
嘘をつくことで現実を変えようとする。
たとえば、倦怠期の夫婦。どちらかが愛人の存在をにおわせたら現実が動く。
これがドラマの仕組みなのではあるまいか。

本書の末尾には、著者の対談が収録されている。

「僕なんて今若い人を見てて、性格的にこの子はかわいそうだな、
いくらいい仕事をしてもプロデューサーに嫌われるだろうな、
仕事こないだろうなというような人がいるね。
それと、書いたというんでどういう内容? 
と聞くと、口で説明するのがまるで下手という人。
読んでみれば優れていても、そういうことで損する人もいる」(P290)


これはまさしくわたしのことですね(笑)。
コミュニケーション能力が低いから、天下のプロデューサー様に好かれない。
吃音だから、自作を簡潔に説明するのが下手糞。
とはいえ、これは持って生まれたものゆえ、あきらめるほかないのだろう。
プロデューサーとの出逢いも、言ってしまえばご縁。
これもコミュ力や言語障害同様、どうにもらなぬものと潔くあきらめようと思う。
おっと、取らぬタヌキの皮算用を失礼。
まずコンクールに通らないとプロデューサーもなにもない。

「新人が世に出るには、コンクールという手があるんだけど、長年見てると、
コンクールに向いた人というのかな、運よくスーッと出る人もあるけど、
こんないい物書くのにどうしてと、
不思議に思うほどコンクール運のない人っているんだよね」(P334)


まとめるとプロのシナリオ作家になるために必要なものは――。
持って生まれたもの(才能、コミュ力)、
ご縁(プロデューサーとの相性)、
コンクール運(運勢、星回り、偶然)の3つになるのではないでしょうか。

「テレビドラマ創作講座」(西条道彦/映人社)

→とあるスクールの講師、所長、社長、みなから口をそろえたように、
「あなたは別のスクールに行きなさい」と言われた。
それならばと、このたび放送作家教室・講師の著作を読んでみた。
作者の西条道彦氏は、1000本以上のTVシナリオを書いたライター。
押しつけがましいところのない、物腰柔らかな語り口に好感を持つ。
それにしても、どうして才能や実績のない人間ほど、断定を好み虚勢を張るのだろうか。

このような講義録は助かる。
わたしは教室で人様の講義を聞くのが苦手である。
それならばおなじ内容を自分のスピードで読める著作から得たいと思ってしまう。
実際、放送作家教室の半年分にもわたる(?)講義内容を2時間で理解した。
ためになったところを適宜まとめたい。
以下は、自身がこれからシナリオを創作するためのメモである。
したがって極私的なものだが、もしかしたら同志・同学のものの役に立つかもしれない。
わたしとしてはシナリオ仲間をひとりでも増やしたい。
もしこのブログの読者で、シナリオの読み比べ等、
相互交流を求めるかたがいらしたら、ぜひぜひご連絡をください。

「視聴率の高い番組を研究し、真似るよりも、
テレビを見る自分が何に熱中し、興奮し、喜び、怒り、共鳴し、
どういう涙を流し、何から目をそむけ、本当は何を見たがり、
どこがどう、なぜ他人と違うのかを、
第三者の目で観察することの方が、はるかに重要である」(P18)


最近思うのは、喜びと悲しみは同源ではないか、ということ。
心の下のほうに喜びや悲しみの源泉たるマグマが存在しているように思う。
同時に、このマグマが人にシナリオを書かせるのではないか。
しかし、どうしたらこのマグマを活性化させることができるのか。
これは目下のところ研究中である。急がなければならない。

28ページで紹介されたエピソードに胸打たれた。
著者が酒飲みで、(だから)センチメンタリストであることがよくわかる。
漁師の息子が海難事故で死亡。
嘆き悲しむ母親は、巫女(みこ)に独身で死んだ息子の花嫁を探してもらう。
巫女も一流で最前、病気で薄命を散らした妙齢女性を紹介する。
両家の家族が結婚式を開く。新郎新婦は、家族が作った人形である。
結婚式の宴の後、ひと組の夫婦は沖へと流される――。

「かくせば知りたがるのが人間であり、推理ドラマに限らず、
知りたがる心理が、ドラマにノッテくるのである」(P80)


パンチラとおなじ理屈でしょう。
ぶっちゃけ、下着姿の女を見ても、だからどうだっていう話で。
パンツはスカートで隠さなければならない。
風が吹いたら、必死でスカートをおさえるべきなのである。
ミニスカートを隠しながら階段を登る日本の女子高生はドラマの力学をよく理解している。

脚本家の西条道彦氏はハコ書き否定派の模様。
思えば、ハコ書きは、人生設定にも似ているように思う。
たとえば、35歳までには結婚。40歳で独立。老後の趣味として――。
シナリオ創作は、作者の生きかたと関係しているのかもしれない。
繰り返すが、西条先生はハコ書きをなさらない。

「それは、あしたはあしたの風が吹く、だから人生はたのしいんだという、
私の風来坊的生き方と、無関係ではなかろう」(P83)


わたしも人生設計など、まるで考えたことがない。

「他人の喧嘩は面白いし、
他人の不幸をのぞき見たいという気持は人間共通のものだと思う。
ドラマを見たがる人間の心理の原点のような気がしてならない」(P137)


まったく同感である。喧嘩はおもしろいよな。なまの感情ほど愉快なものはない。

「創作とは常識に対する挑戦なのだから」(P148)

創作とは常識に喧嘩を売ることなのかもしれない。
とある創作スクールのお偉いさんから「アンタは常識がない」と説教されたのを思い出す。
もしやあれは誉められていたのかもしれないぞ(笑)。

芸術家なんてみなそうだが、西条道彦氏も修行時代、親族に不義理を働いたらしい。
こういうことを白状できるのは、成功したものの特権とはいえ、
それでも万民がこの手の恥を告白できるかといったら、むろんそうではない。
脚本家志望の西条青年は、生活は両親に依存。小遣いは妹からもらっていた。
ある朝のことである。青年は徹夜で、ものになるかわからぬシナリオを書く。
自分では一角の仕事をした満足でいっぱいだ。
ところが、妹の部屋にもまだ灯りがついている。
様子をうかがうと洋裁仕事の最中だ。妹は人様のお役に立つ洋服を作っている。
その妹からたかったカネで買った原稿用紙に書いたシナリオは一文の値打ちもない。
西条青年は愕然としたという。胸打たれたという。

「お粗末な告白で参考にしてほしかったのは、
「どんなに立派な説教や心のこもった忠告(台詞)より、
無言の動作(ト書)のほうが、はるかに強く、私の心をゆさぶった」
ということだ」(P163)


「どうせものにならないシナリオなんて書くのをやめたら」(台詞)よりも、
懸命に裁縫仕事に打ち込む妹の様子(ト書き)が人間の心に響くということである。
引き続き、ト書きの書きかた――。

「A――大沢がタバコをすっている
B――タバコをすっている大沢
C――大沢がすっているタバコ」(P172)


ABCは似たようなト書きだが、実のところまるで意味が異なる。
カメラの位置の問題である。
Aは背景があって、その一部としての大沢。
BはAよりもよほど大沢にカメラが寄る。
Cは大沢よりもむしろタバコにフォーカス。顔のアップになる。

西条道彦氏は木下恵介監督の「二十四の瞳」が大好きらしい。
涙がとまらなかったとのこと。この脚本家は自分とおなじタイプだと思う。
多く感動するものが、人にも感動を与えられるのだろう。

久々にこのコーナーを1日だけ復活させてみよう。「買った本の報告」。
長らく更新をためらっていた。
もう本を買うのはやめようと思っていたからである。
新しく本を買ってしまうと、ついつい読んでしまう。ものを書かなくなる。
これでは成功や賞金と縁遠くなってしまうではないか。
と思いつつも、わたしはブックオフ中毒。書籍購入依存症だ。
ブログには書かなかったが、実のところブックオフとの蜜月は続いていた。
ってゆーか、出版社のみなさん、目を覚ましてください!
ブックオフをどうにかしないと、御社はご倒産いたしますことよ♪
一度2千円オーバーのハードカバーを105円で買ったら、
もう正規の書籍購入ルートは使えないと思う。

某大学病院の診察を済ませ、新宿の国島書店へ。
ここは午前中は開いていないことが多いので要注意。

「過ぎ去りし日日」(井上靖/日本経済新聞社)絶版 300円

おなじく井上靖の「白い風赤い雲」という小説の単行本が、なんと3千円!
もしかしたら、これは文庫になっていないのだろうかと携帯電話にタイトルをメモ。
それから誕生年ごろ出版の絶版官能小説を1冊購入。
エロゲーどころかAVも理解できない身ゆえ、もしかしたらとの希望がありまして。
結果はNG。著者は左翼出身の芥川賞候補作家。
名前を出して批判したらあまりにも可哀想なので、こういう形でとどめておく。
「ダメなやつは一生ダメ」を目の当たりにすると打ちひしがれる。
とぼとぼとブックオフ新宿靖国通り店へ。

「写真集 ガンガー生々」(安藤亨/中公文庫)絶版 105円
「内舘牧子の仰天中国」(JTB) 105円
「二十四の瞳からのメッセージ」(澤宮優/洋泉社) 105円


最後の「二十四の瞳~」は、なんとも物悲しい。
著者は利益度外視で出版したのでしょう。
ところが、アマゾンでレビューはつかない。
新宿界隈の文化人に贈呈した本も読まれないでブックオフに売られてしまう。
悲しみがあれば喜びも。
「写真集 ガンガー生々」は、むかし半額で買わないでよかった♪
インド、ガンジス河を中心とした写真集。
わたしは5年前、ガンジス河の河口から源流まで旅をしました――。
ブックオフ大久保明治通り店へ。

「白い風赤い雲」(井上靖/角川文庫)絶版 105円

先ほど3千円で買おうかどうか(少しだけ)迷った書籍の文庫版が105円!
おのれの古本の引きのよさには、いまさらながら驚く。
顔も頭も性格も、目も鼻も口もよくないが、書籍との縁だけはどうしてかいいのである。
おなじブックオフで――。

「仏教の源流―インド」(長尾雅人/中公文庫BIBLIO) 105円
「道元禅師語録」(鏡島元隆/講談社学術文庫) 105円
「だましの手口」(西田公昭/PHP新書) 105円
「トラベルライターになる方法」(樋口聡/青弓社)絶版 105円
「いくたびか、アジアの街を通りすぎ」(前川健一)絶版 105円


本を買うならブックオフ♪ である。
しかし、この行為は日本の文化を衰退させてしまう。
なぜなら権利者(著者、出版社)に正当な利益を与えていないからだ。
うふふ、まあ、わたしひとりくらい構わないか。
そのうち成功したら、何千円の本だって、定価で買いますから。うん、約束したぜ!
ブックオフ詣では続く。早稲田駅前店へ。
ここは規模縮小(以前は本館と別館があった)から先、
ろくな収穫がなかったけれど、この日はとんだ漁獲高!
わたしは田畑をこつこつ耕すタイプではなく、マグロ漁で一攫千金を狙う山師なのだろう。
たかだがブックオフの105円棚で発見する自分――。お笑いくだされ。

「アキバ通り魔事件をどう読むか!?」(共著/洋泉社) 105円
「TVドラマはこう書く!」(西条道彦/映人社) 105円
「図解雑学 人間関係の心理学」(斎藤勇/ナツメ社) 105円
「2時間登頂ハイキング 関東編」(紀村朋子/山と渓谷社) 105円
「問題は躁なんです」(春日武彦/光文社新書) 105円
「河岸に立ちて」(井上靖/新潮文庫)絶版 105円
「山口瞳「男性自身」傑作選」(嵐山光三郎・編/新潮文庫) 105円


ムック「アキバ通り魔事件をどう読むか!?」は「本の山」の読者で、
大学の後輩でもあるフリーライターの小林拓矢クンが寄稿している。
出版されたときに購入を迷ったが、定価で買わないでごめんな、小林クン!
「TVドラマはこう書く!」は定価が3千円。こんな本もブックオフなら105円で買える。
井上靖の「河岸に立ちて」は、世界各地の河川写真とエッセイ。
この書籍を見たのは初めて。
ガンジス河、チャオプラヤ川、黄河、荒川に生かされているわたしには必読の書。

この時点で18冊も買っているが、まだまだ貪欲である。
ついている日はとことんまで果実を味わい尽くすのが流儀。
だって、ついてない日は、どうしたってダメなのだから、ならば今日くらいは――。
早稲田-高田馬場の古本屋街を冷やかすが、収穫はなし。
ブックオフ高田馬場店へ。重たいリュックが肩に食い込む。

「アジア写真旅 エイジアン・ガール」(日比野宏/新評論)絶版 105円
「敦煌行」(健吾/潮文庫)絶版 105円


これで本日は合計20冊の本を買ったことになる。
本は読むのも楽しいけれど、買うのはもっとスバラシイ。
あと経験していないのは本を上梓する喜び。
よしんば夢が実現したら、ブックオフが生み落とした最初の作家ということになろう。
「結婚難民 」(佐藤留美/小学館新書)

→ベストセラー「婚活時代」の便乗本。うまく時流に乗れて売れた模様。
近所のブックオフには4冊が105円で並ぶ。
著者の商魂、いや、ビジネス・スキル(?)には拍手したい。
女性最強を説いた大ベストセラー「婚活時代」に同性の身で反論しようとするのだから。
いまや男性は女性から同情され擁護される立場に成り下がったのである。

恥ずかしい告白をするが、
わたくしはお偉い女性様をレイプするなんてとてもとても想像がつきません……。
女性様から男への精神的な逆レイプが今後、最新のトピックなると思う。

「婚活時代」(山田昌弘・白河桃子/ディスカヴァー携書)

→いまはどこのブックオフにも105円で常備されている「婚活時代」を読んでみた。
ベストセラーをけなすのは、もしかしたらありきたりな行為ではないかと最近……。
高名な社会学者の山田昌弘先生はおっしゃる。
男女関係におけるコミュニケーション能力とは――。

「……対等な男女関係のなかで、相手が何をしてほしいと思っているのか、
したいと思っているのかをいち早く察知するなんてことは、
恋愛経験のない男性にとっては、とんでもなくむずかしいことです」(P106)


これほど明確なコミュニケーション能力の定義を見たことがない。
おそらく、わたしの勉強が足らないからだと思うが……。
コミュ力とは、相手のしてほしいこと、したいことを察知する能力のことか。
たしかに、我輩はコミュニケーション能力がゼロである。
だから「どうしたらいい?」とか(性別問わず)相手に聞いてしまう。
そんなことを聞くのがコミュ力皆無の証明にもかかわらず……。

人気ライターの白河桃子先生が、結婚のためのネット活用をすすめておられる。
いわく、ネットを利用して、いい結婚をしたいのなら、「ネット勘」を養うしかない。
メールを通じて少しずつゆっくりと異性と交際する。

「そうやって、あんまり期待しないで細く長く続けているうちに、
よい出会いがあるようで、二年ぐらいがんばった末に見つけました、
という人をたくさん知っています」(P143)


わたしは出会いはご縁だと思っていたが、
白河桃子先生によるとがんばった成果らしい。
結婚は果たして幸福なのか疑問に思っていたが、こういう疑いを持ってはいけないらしい。
そうして日本人は結婚をするために、みなみながんばらなくてはならない。
世の中には、いい男といい女がいて、がんばらないと、ありつくことができない。
がんばって「婚活」すれば、いい相手を見つけることができる。
世事みな、人間のがんばり次第。
酔っ払い運転に殺された被害者はがんばりが足らなかったことになるのだろうか。
こう書いたら詭弁と言われてしまうのか。

「ひらめきの導火線」(茂木健一郎/PHP新書)

→人気学者になるための秘訣は、わかりやすい物語の提供にあると思う。
大衆が学者に求めているのは、正しい情報ではなく、物語なのではないか。
ポジティブ、ネガティブどちらにしろ、人びとは物語を欲している。
必要とされているのは物語であって、正しい学説ではない。
本書で茂木健一郎は「日本人にも独創性がある」という物語を提出している。
言説の正しさの証明は、「脳科学では~」と煙に巻く。
むかし宮台真司が、ことあるごとに「社会システム理論では~」とやっていたのを思い出す。
大衆はブッダやイエスの代わりを求めているのかもしれない。
生きるための物語を与えてくれさえしたら、不合理でもなんでも構わない。
脳科学や社会システム理論など、だれもわからないから、かえってありがたいのだ。

脳科学、ありがたや、ありがたや。弱者のわたくしめが共感した物語を引用する。

「考え続け、探し続ける過程は、とても苦しい。
けれど、その苦しさを経てひらめきにたどり着いたときほど、脳が喜ぶことはない。
お金をもらうより、社会的地位を得ることより、
はるかに良質の喜びを脳にもたらす。これを「報酬の通貨」という」(P136)


「三日間」(山田太一/ラインブックス)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和57年放送作品。東芝日曜劇場。
出張でパキスタンに行っていた父親が2年ぶりに帰国する。
とはいえ、わずか「三日間」のみ。この「三日間」を1時間で描いている。
日本にいるのは、専業主婦の母親、姑、浪人生の息子、高校生の娘――。

・テクニック「意外性」
父親が帰宅する日、ボケが始まった姑が近所で迷子になってしまう。
うん? なにが起こった? と、ついつい先が気になってしまう。

・テクニック「KY(空気が読めない)言動」
山田太一ドラマではKYな人物が、言ってはならないことを言ってしまう。
その場がフォーマルな場だと実におもしろい。
KYは実生活では傍迷惑だが、ドラマにおける喜劇的効果は極めて高い。
夜半、息子が両親を気遣い、ふたりとも自分の部屋で寝たらとすすめる。
ボケかかった姑が、言ってはならぬひと言を口にする。

「夜のことまで気ィ回すようになって――(悪気はなくていう)」(P197)

息子は「ピクッとする」。
空気が緊張しているときのKYな発言ほど笑えるものはない。
タブーが破られる瞬間は、それが禁じられているだけに、おもしろいのである。
おそらく脚本家は、とても空気が読める好人物なのだろう。
言ってはならないことを常に留意している。
このため逆説的に、言ってはならぬことを言ったときの劇的効果に引かれるのだろう。
空気が軋(きし)む感触、日常が破られる瞬間を、
日常にどっぷり浸かっているからこそ作家は夢想するのかもしれない。

・テクニック「秘密」
秘密があるから人は嘘をつく。ドラマにおいて秘密は重要な役割を果たす。
父親は「三日間」で老母がボケかかっていることだけ知り、単身赴任の地へ戻る。
実のところ、姑は被害妄想がひどくパトカーを呼んだこともあった。
息子は息子で自殺未遂騒動を起こしていた。
父親はなにも知らされずに、
「多少の問題はあるだろうが、うまく行っている」と思いながら日本を発つ。
「秘密」のぜんぶがばれなくても、ドラマになることが勉強になった。
「秘密」の一部をやり取りするだけでも、充分味わいのある人間模様が描ける。

「それからの冬」(山田太一/ラインブックス)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。平成3年放送作品。東芝日曜劇場。
意外性、ただその魅力だけでドラマを仕立ててしまう脚本家の手腕に拍手。
結婚して6年になる妻が病死して立ち直れないほど悲しむ陽三――。
亡妻の兄夫婦がいろいろ面倒を見てくれるのでありがたい。
妻の親友だったという独身の美女、麻子が現われる。
あってはならないことだが、あろうことか、意外にも、この男女は結ばれてしまう。
1時間ドラマにおさまる内容は、このくらいだという勉強になった。
なんでもかんでも盛り込んだらいいというわけではない。

・テクニック「視覚効果」
陽三は亡くなった妻の衣服を部屋中に飾り、その中に布団を敷いて寝ている。
愛妻を喪った悲痛が、実にうまく絵として描かれていると感心した。

・テクニック「嘘」
麻子は親友の夫に惹かれたやましさから陽三に嘘をつく。
求婚してくる男性と婚約したと陽三に告げるのである。
むろん、このことが嘘であったことは麻子自身の口から告白される。

・テクニック「味のある脇役」
陽三の横の部屋に、3年前に妻を亡くした独居老人の謙吉がいる。
この謙吉が老賢者としてドラマを締める。

プロの大先生のシナリオを書き写してみたい。
陽三が謙吉の部屋にまねかれている。

陽三「この世で、女房の悪口をいってるようなやつは、みんな贅沢ですよ。
死なれてみろっていうんです」
謙吉「うん」
陽三「こたえますね、女房が死ぬっていうのは」
謙吉「うん」
陽三「こたえました」
謙吉「――」
陽三「――」
謙吉「こたえるねえ」

●紅葉した木に雨(夜)

●その木が裸になっている(昼)
木枯らしである。(P137)


時間経過のつけかたもうまい。
夜から昼に変えるところは、簡単なようでなかなかできないと思う。
秋が冬になったら、あれほど愛妻の死を悲しんでいた陽三が麻子と惹かれあう。
ふたりでいるところを義兄夫婦になじられる陽三と麻子である。
ふたたび、名脇役の謙吉が登場する。

●謙吉の部屋(夕方)
陽三と麻子、並んで正座している。
謙吉「(薬缶を持って台所から来て)ああ、足崩して」
陽三「はい(と一礼。崩さない)」
麻子「――(動かない。うつむいている)」
謙吉「そうかね(と急須に薬缶の湯をそそぐ)」
陽三「関口さんにも、はずかしいことを申しました」
謙吉「うん?」
陽三「女房はありがたい、とか、女房が死んでこたえているとか」
謙吉「いけないかね?」
陽三「いえ、あの時は本心でした。本当にそう思っているつもりでしたが、
いくらもたたないのに、こんなことになって」
謙吉「そういうことも、ある」
陽三「はい」
謙吉「私は、残念なことに(と微笑する)」
陽三「はい」
謙吉「こういう綺麗な人(麻子)が、現れなんだから」
麻子「いえ――(と、小さく。微笑みはない)」
謙吉「こうして、一人で、家内をしのんどるが」
陽三「いえ――」
謙吉「人間は、そんなもんだ」
陽三「――(一礼)」
謙吉「かなしいもんだ」
陽三「――」
麻子「――」
謙吉「うん(と微笑して、お茶をいれている)」(P165)


いかにも山田太一さんらしいワンシーンである。
わたしは「いいな」と深々と感動するけれども、
現代の視聴者はこの亀のごときスピードに辟易(へきえき)するのかもしれない。
しかし、好きなものは好きなのだから、わが嗜好ばかりはどうにもならない。

「東京の秋」(山田太一/ラインブックス)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和60年放送作品。東芝日曜劇場。前編、後編。

テレビ局主催のシナリオコンクールは1時間ドラマが多く、
応募作を書こうと頭を悩ませている身には山田太一さんが神のように思える。
1時間や2時間のドラマなら、ポンポンとまるで呼吸をするように書いてしまうわけでしょう。
そのうえ、どのひとつをとってもレベルが高い。
いったいどうしたらこういったドラマが書けるのだろうか。

テクニックのうまさなら真似できるのよ。
たとえば、山田太一ドラマ特有の劇的シーンに意表をつく出逢いがある。
本来なら逢いに行くはずのないものが、アポなしで訪問してしまう。
このドラマで言うなら、兄が弟の恋人の実家に突然訪問する。
母もまたおなじ行動を取る。
ふつう家族の恋人の家をいきなり訪ねたりはしないでしょう。
ところが、山田太一ドラマでは、こういったことがひんぱんに起こる。
脚本家のうまさは、訪問しても留守にするところ。
または訪問させる。ドアが開くシーンまで書いたら、その先を省略してしまう。
その晩に「今日、逢いに行ったよ」とセリフで回想させる。
スクールだったらご法度のドラマ手法だが、さすがプロは定石を壊してもうまい。
こういったテクニックを真似るくらいなら凡人でも可能なのかもしれない。

しかし、いくらテクニックを仕入れても、オリジナルのシナリオは書けない。
古典的手法の「盗み聞き」を山田太一は絶妙の機会に使用している(P78)。
シナリオを読みながら大笑いしたものである。
とはいえ、「盗み聞き」を用いようと思っても、どこで使えばいいかわからない。
そもそもドラマは、作者・山田太一のどこから生まれるのだろうか。
メッセージなのか。たとえば「東京の秋」には作者のこんな主張がある。
これは氏がエッセイで書いていたことと共通している。結婚は――。

「つり合うとか、つり合わねえとか、そんなことはつまらねえ。
頭よくそんなことを考えて物事を決めちゃあいけねえ。
好きかどうかだ。つり合いなんか、好きなら、とれる」(P103)


このメッセージがドラマの執筆動機のひとつであったことは、おそらく間違いない。
だからといって主張があれば、ドラマを創作できるというわけではない。
メッセージを垂れ流すだけなら駅前で騒いでいる共産党員同様、迷惑行為に等しい。
ドラマはおもしろくなければならない。
じゃあ、おもしろいって、なんだろうか。
このドラマで言うなら、田舎の青年のぎこちないセリフがいい。
そのお兄さんの田舎者丸出しのセリフもスバラシイ。
山田太一ドラマのセリフを模倣するのは、あんがいたやすいのである。
「うん」「ううん」「うん?」「はい」「いえ「へえ」「え?」「ええ」「いい?」「そう」「ああ」
「そうかな?」「どうした?」「どうして?」「なに?」「なにが?」「なにを?」「なにそれ」
以上の相槌を多用すれば、いかにもそれらしくなる(笑)。
ところが、相槌を真似したところで、ドラマがおもしろくなるわけではない――。

長いドラマを書くには、作者の内部に強い熱源が必要である。
熱いものがないと1時間も2時間もセリフを書き続けられない。
連続ドラマならなおさらである。やはりある種の狂気が作家には必要なのだろう。
山田太一さんは執筆中、どんなお顔をなさっているのか。
もしかしたらそれはだれにも見せられない顔かもしれない。
鬼面なのか。仏頂面なのか。
ふだん見せるような温和な顔をしていないことだけはわかる。
どうしてもシナリオを書けなかったら鏡のまえでいろいろ顔を作ってみるのも一案かと思う。

(追記)ストーリーは若い男女が知り合い、つきあうようになる。
その女のほうの両親が離婚を話し合っていたが、いったん取りやめることにする。
たったのこれだけなのだから、
ドラマの愉楽はストーリーにのみ依拠するのではないことがわかろう。

「大人のための嘘のたしなみ」(白川道/幻冬舎新書)

→突きつめていくと嘘と本当の境い目が怪しくなるのではないか。
たとえば、第3のビールが4本。本物のビールが1本あるとする。
銘柄を隠して飲むように言われる。
あなたは本物のビールを当てられる自信はありますか?(おいら、ないない!)
いちおう第3のビールは、偽物というあつかいになる。言ってしまえば嘘ね。
大前提として本物のビールは偽物よりもうまいというルールがある。
ところが、このルールさえ信用できないのではないか。
どうして本物は偽物よりもうまいのかの問いに、値段が高いからとしか答えようがない。
マーケティングのよく知られた戦略として、
売れ残り商品にあえて高額をつけるというものがあるらしい。
すると、高いから高品質だと勘違いした顧客が購入してくれるという。
だとしたら、我われはビールが高いからうまいと判断しているのか。

最初の実験では、ビールを当てることに主眼が置かれていた。
こう実験を変えたらどうなるか。
このなかでいちばんおいしいと感じるアルコール飲料を選びなさい。
かりに選んだものがビールではなかったら、この結果はなにを意味するのか。
偽物(第3のビール)が本物(ビール)を凌駕(りょうが)してしまったということだ。
このとき本物であることは、なんの証明にもならない。
さらに飛躍すれば、本当は本当に本当だろうかという疑問に行き着く。
嘘が本当になってしまうことがあるならば、本当の唯一絶対性は否定される。
だとしたら本当のことなど自信たっぷりに語れるものはいなくなるのではないか。
嘘は驚異である。嘘は本当を脅かす。嘘が本当の地位を強奪することさえある。

たとえばゴッホの真作がある。隣に贋作が展示されている。
どうしてゴッホのほうが高い値段がつくのか。
もしかしたら、それは「ゴッホだから」ではないのか。
作者名を隠して見せたら、みなむしろ贋作のほうに感動するかもしれない。
こうなっても、やはりゴッホは本物なのだろうか。
いや、この場合、贋作が本物になるとしたらば――。
しょせん本当など多数派の意見に過ぎぬことになるのではないか。
だれか研究者が評価したものが本物になるのだとしても同じこと。
どうして研究者の批評眼が正しいかといったら、
かれが多くの人から支持される権力者だからという理由のほかない。
結局は多数決なのである。
多数決で勝ったものが本当になるのならば、果たして本当などあるのか。

本書81ページのコラムを読んで、以上のようなことを考えた。
最後にみなさまへ質問したらどうなるか。わたしは本物か、それとも偽物か(笑)。

「人はなぜウソをつくのか」(渋谷昌三/KAWADE夢新書)

→著者もまた心理学者。
本書から「人はなぜウソをつくのか」の回答を得られることはなかった。
どうして心理学者がウソを対象としてものを論じるのか考えるとおもしろい。
なんのことはない、心理学もまたウソだからではないか。
類は友を呼ぶ。ウソはウソを呼ぶ。ウソはウソを好く。
なにゆえ心理学が一部女子学生から人気があるかといったら、
ウソはウソでもおもしろいからである。
心理学はインチキで丸ごとウソのかたまりだが、おもしろい。
ここで偉大なる方向転換をみなさまに提示したい。
果たして心理学はウソ「にもかかわらず」おもしろいのか。
いな、ウソ「だからこそ」おもしろいのではないか。
ここから「人はなぜウソをつくのか」のひとつの答えが暗示されるように思う。
人はおもしろいからウソをつく。
えん罪のような泣くに泣けぬウソもあるが、
内緒話は楽しいし(これ秘密だよ=他の人にはウソをつけ)、
サンタクロースもベリーにハッピーではあ~りませんか。
激安のワインを高級品だといつわり識者に飲ませてみるのはおもしろい。
ホントはつまらない。だから、ウソをつく。

おもしろいのは、心理学者がウソをホントだと本気で信じているところ。
占い師の多くが、おのれの占い結果を心底から信じているはずである。
これは敏腕セールスマンや詐欺師のテクニックにも通じるのではないか。
だますのなら、まずおのれからだませ。
おもしろいウソは、それをホントと信じるものの存在が必要なのだろうか。
ウソはホントの裏づけを必要とする。
であるならば、おもしろいウソを仕掛けるにはホントに向き合うことが肝腎になる。
ウソはホントがなければウソにならない。
このあたりにウソの秘密を解くカギがあるように思う。

「うその心理学」(相場均/講談社現代新書)絶版

→いきなりだけれど、ドラマというのはウソでしょう。
そもそも現実ではない。俳優が架空の人間になりかわってしゃべる。
発話されるセリフもウソと大きく関係している。
緊迫した場面で我われは多くのウソをつく。
セリフにおけるウソの比率の高さが、ドラマの出来を左右すると言ってもいいくらいだ。
ドラマの合間に流れるCMもウソだよね。
ある商品を実際以上のものに見せようとするのが広告なのだから。
そんなことを言ったら恋愛もウソ。家族もウソ。周囲はウソだらけである。

じゃあ、ウソってなんだろう。
ウソを征するものがドラマのみならず人生でも有利に立てるのではないか。
本書を手に取った理由である。
読後にウソへの理解が深まったかと自問したら、残念な結果に終わったと言うしかない。
著者は心理学者。
心理学ごときに、ウソの実体や魅力を分析することはできないということなのか。

ひとつ、なるほどと思ったところを紹介する。
ヨーロッパの近代社会におけるフィクション(=小説)の誕生について。
当時、芸術家志望の若者は、自作を社交界で発表するしか出世の道がなかった。
若き芸術家は、このサロンで権力者の支持を得ようとする。
このとき作家は自伝的作品を発表するわけにはいかなかった。
モデルが推測されると、多くの人間関係が壊れてしまうからである。

「ですから、社交界とのつながりを持っているかぎり、
作家は自分の感じた喜びや悲しみや自分の経験や思想を、
なにか別の鋳型の中に入れて、
いちおう現実とは関係ない作品を書かざるをえなくなります。
ここに、フィクションが登場してくるのです」(P106)


一見すると、もっともらしいが、あれれ?
わが心酔するスウェーデンの文豪、ストリンドベリはモデル小説をバンバン書いている。
デビュー作から、強烈な当てこすりの小説を書き殴っていたではないか。
それが社交界の話題になったという話だ。
その後も、ストリンドベリは、モデルを隠さず、むしろモデルがわかるように、
いや、言ってしまえば他者を攻撃するために多数の創作をしている。
わたしは心理学を占い程度に思っている。
占いの専門家の主張を真に受けるものは少ない。
ならば、どうして心理学者相手に熱くなろうとするのだろうか。
反省、反省であります♪

「家族論」(原ひろ子・編著/放送大学教材)

→ホームドラマを書こうと思ったとき、
こういう概論から創作に向かおうとする傾向が自身にある。
「頭でっかち」と批判されるのだろうけれど、どうしても頭から飛び込んでしまう。
いつも大地を踏みしめる足(実体験)から入る創作者もいるのだろう。
どちらがいいのか是非を断定することはできないと思う。
本書は放送大学教材らしく、偏りの少ない情報を鳥瞰的に得ることができた。

学問の役割のひとつに、常識(社会通念)の打破がある。
だからといって、学問が絶対的な正義かと言ったら、実のところ否である。
なぜなら我われは学問によって生きるのではなく、
常識に縛られて生きざるを得ないからである。
大多数の人間が前提として信じる言説が、言うなれば常識になる。
たとえ学問的主張が正しかろうが、どのみち少数派の意見。
大勢の人に揉まれて生きる市井の民は、生きやすい社会通念に寄り添うであろう。
しかし、だからといって常識を疑う視点を持ち合わせておくのも悪くない。
仏教の説く「中道」のバランス感覚こそ、我われに求められているのではないか。

現代において家族といえば、サラリーマン家庭(核家族)が一般的であろう。
ところが、これは高度経済成長によって生みだされた極めて新しい形態である。
高度経済成長以前は、半数が農林漁業を中心とする自営業主。
これが90年代には80%以上がサラリーマン家庭になる。
専業主婦は社会政策(保険料、配偶者控除)によって創出されたとも考えられる。
とはいえ、この専業主婦は、決してメジャーなものではない。
1970年代の37%がピーク(すべての夫婦に対しての割合)。
以降も3割台にとどまっている。
よくホームドラマでは専業主婦が当たり前のように登場するが、
実際はそれほどメジャーな存在ではなかったということだ。
余談だが、専業主婦を目指す女性は多い。わたしも女だったら、ぜったい希望する。
専業主婦が倍率の高い難関であることを、学問から教えられた次第である(笑)。

血縁関係と親子関係は等号で結ばれない。
養子や、子連れ再婚のケースを思い浮かべれば、ご理解いただけよう。
血縁とは無関係の家族に、よりホームドラマの可能性が残っているような気がする。
脳内(自称)作家の妄想ゆえ、お聞き流しくだされ。

近代家族の特徴は、不確かな愛を基盤とするところである。
<前近代家族>
・家名の存続
・家産の維持
・日常的生活の相互補助
<(日本の)近代家族>
・公私の分離(冷たい世間、温かい家庭)
・家族メンバー相互の強い情緒的関係(家族愛!)
・子ども中心主義(夫婦がパパママと呼び合う)

結婚とはなにか。
社会通念は、結婚を「愛情の結合」や「性的な結合」と見る。
この結婚を社会制度と目するのが、言ってしまえば学問である。
では、結婚はなんのための社会制度か。
母子関係(お腹を痛めた子!)は、生物学的関係と言えよう。
ところが、父子関係はかならずしも安易に断言できるものではない。
DNA鑑定を用いる場合を除いて、
父親は母親の自己申告(あなたの子よ!)を信じるしかない(苦笑)。
結婚という社会制度は、この不確かな父子関係を確固たるものにするためにある。
具体的には、父親における子どもの養育責任、権利義務関係を確定するために、
結婚はなくてなならぬ社会制度となる。
異論もあるようだが、この観点からの結婚の定義は新鮮であった。
父子関係と母子関係の相違が、社会制度としての結婚を創設した。

以上、本書から得た多少なりとも斬新な知見を抜き出してみました――。

「気分はいつもシェイクスピア」(小田島雄志/白水社)

→今度は小田島雄志によるシェイクスピア名言集。
福田恆存と比較すると小田島雄志の訳文は、吹けば飛ぶように軽い。
小田島は、シェイクスピアの描く「喜びと悲しみ」までしか捉えられなかった。
一方で、福田は「喜びと悲しみ」の向こうにあるものを、
見通せる眼力があったのだと思う。
福田は小田島のシェイクスピア翻訳をこれでもかと批判した。
小田島は反論せず、沈黙を保った。
ところが、福田没後の本書ではどうだろうか。引用する。

「たとえば福田恆存さんがシェイクスピアの拙訳を徹底的に批判する大論文(?)
をお書きになったとき、細部にわたって百パーセント反論できるとは思ったけれど、
堪忍袋は無事であり、ぼくは沈黙を守りました」(P90)


なんとも卑怯な後だしジャンケンと言うほかない。
挑戦から逃げておいて、相手が死んだら、もし闘ったら勝っていたと言うのだから。
小田島雄志はシェイクスピアから人生訓、処世訓を学んだのであろう。
しかし、福田恆存が文豪から得た劇の秘密を、小田島は受容する器量がなかった。
「ハムレット」の登場人物でたとえてみよう。
福田恆存はハムレットの親友、ホレイショーであった。
ハムレット(三島由紀夫)にはなれなかったが、畏友をだれよりも理解していた。
小田島雄志は王の寵臣、ポローニアスといった役どころか。
もったいぶったおしゃべりは得意だが、ハムレットを理解することなど到底かなわぬ。
福田はシェイクスピアから死を汲み取ったのに対し、
小田島はあくまでも皮相な生の段階にとどまっていた。

「しょせんことばはことば、傷ついた心が耳からのことばで癒されたためしはないのです」(P86)

「世にあるものはすべて、手に入れてからより追いかけているうちが花なのだ」(P186)

「お金なんかいらないって顔してると、お金のほうでころがりこんでくるもんさ」(P199)

「考え抜いた策略が失敗に終わることもあれば、無分別が役に立つときもある」(P213


いかにもポローニアスが訳知り顔で(部下に呑み屋で)説教しそうなことでしょう(笑)。


「シェイクスピア バースデイブック」(福田恆存/新潮社)絶版

→1年のカレンダーに合わせて、シェイクスピアの名言が付されている。
ふたつの考えかたがある。人間観のことだ。
人間はむかしから変わらない。人間は徐々に進化(退化)してゆく。
これはドラマを論じるときにも適用されよう。
新しいドラマなどない。ドラマは時代を追うごとに進歩(劣化)している。
わたしはどちらかといえば、前者の立場を取る。
ギリシア悲劇から宮藤官九郎まで概観した結果、行き着いた境地である。

アリストテレスいわく、ドラマは人間の行為。
すなわち、ドラマの出発点とは、人間がなにかを為さんとするところにある。
なにかをしようとするが、大抵はうまくいかない。
どうにかしてうまくいかないかと色いろ試行錯誤をするだろう。
この過程がドラマにほかならぬ。
結局のところ、成功することもあろうし、失敗に終わることもある。
ふたたび、これがドラマだ。
人間はなにかをしようとする。事業成功、恋愛成就、病気克服、権力獲得――。
ところが、なかなかうまくいかない。
なにゆえか。人間は神ではないからだ。人間はままならぬ。
人間は他者のみならず自己すらも思うがままに御することのできぬ存在である。
したがって苦しむ。人間は苦しみから脱却しようとするだろう。
成功すれば笑い、失敗すれば泣く。人間の喜びと悲しみだ。

シェイクスピア劇の名ゼリフは、この喜びと悲しみを達観した地点から語られる。
劇中人物は、喜びと悲しみを味わい尽くすことで、その先にあるなにかを見るのである。
シェイクスピアはどのように劇作をしたのだろうか。
まず人間を動かそうとしたはずである。なんのためにか。
喜びと悲しみを味わわせるためである。
シェイクスピアはセリフをどのように書いたのか。見てみたい。

「男は自分の自由の主(あるじ)、でも、時はまたその主、
男も自由も時に出遭えば、その意のままに往ったり来たりします、
それなら、こちらは我慢が何よりよ」(3月4日)

「人間、わが身のことは解らぬもの、
時には己が禍(わざわい)ともなるべき事すらねだりかねませぬ。
それをわれらがのために賢き御手が却(しりぞ)ける。
つまり、祈ったものを失って、却ってこちらは得をするというわけです」(4月24日)

「どうにもならぬ事を悲しむのは止めにして、
その悲しみの源から脱け出すように努めるが良い。
時こそあらゆる仕合せの育ての親でもあり、乳母でもある」(8月7日)

「この分ではどうやら時こそ人間を支配する王者だ、
それは人間共の生みの親でもあり、死の床でもある、
自分のくれたいものをくれるだけで、こちらの欲しい物は取って置く」(9月3日)

「よくあること、神々は人に僥倖(ぎょうこう)を与えて、
それを、後で罰を下すための口実にお使いになるのだ」(11月21日)


人間の喜びと悲しみの先にあるものが、みなさまにも見えましたか?
シェイクスピアは男であった。男ならば、カネとオンナを求める。
むろん、かの文豪がカネの有難味と空虚に思い及ばぬはずがない。
しかし、オンナはといえば、シェイクスピアさえも手を持て余したのではあるまいか。

「みんなの願いを、たやすくお聴入れになってはいけませぬ、
ま、女の子の役をお演じになるおつもりで、
いや、いや、と言いながら、言うことをきく、その手に限ります」(5月8日)

「女を貰えば、その抱合せに口答えも一緒に貰う覚悟が肝腎、
舌の無い女を貰うなら別だけれど、
そう、自分の過ちを夫のせいに出来ないような女が居たら、
そんな女には子供の面倒は見せられない、
任せておいたら阿呆に育て上げてしまう」(5月15日)

「いつかお父さんはおっしゃった。
誰かを愛する唯一の理由は、理由が無いという事だと」(6月1日)


シェイクスピアを軽んじるわけではないが、かの文豪の名ゼリフは常識である。
ことわざや、よくある言い伝えに極めて近しい。たとえば――。
「待てば海路の日和あり」
「楽は苦の種、苦は楽の種」
「いやよいやよも好きのうち」
我われはすべてを知っているのだけれども、しばしば忘れてしまう。
そのような教訓を芝居に組み入れることがシェイクスピアの作劇術だったのかもしれない。
色いろなドラマ作法があるのだろうが、ことわざ(常識文句)を人物に言わせる。
この目的で脚本を書く手法もあるのではないか。
とはいえ、いきなり舞台上の人間が暗記したことわざを披露しても意味がない。
人間はある行動をした結果として、なんらかの感情(喜怒哀楽)を味わう。
このとき人間が思わず洩(も)らす述懐が名ゼリフになるのだろう。
このセリフがことわざと相通じるのは当然である。
古今東西、無数の人生体験の結晶が、ことわざであるのだから。