「声をなくして」(永沢光雄/晶文社)

→故人には失礼な紹介の仕方かもしれないが、
ライター永沢光雄氏は「AV女優」の一発屋という印象が強い。
わたしもインタビュー集「AV女優」から氏に関心を持ち始めたくちである。
永沢がガンで声を失ったのは、平積みされた本書で知ったのだったか。
かわいそうだとは思ったが、当時こちらも平穏無事とは言いがたく、
1890円もの金銭を支払って他人の不幸に同情する余裕はなかった。
近頃ブックオフの105円棚に並んでいたのでようやく手に取った。
言うまでもなく、酒を呑みながら読む書籍である。

人生、わからないよな。失礼は承知だが、不幸自慢の本である。
ところが、ところが、永沢光雄は経済力のある女性にヒモとして飼われている。
それどころか、愛されてさえいるのである。愛される! これほどの喜びがあろうか。
ヒモの永沢は毎日、朝から焼酎を飲み始める。
ところが、ところが、永沢の人徳か、医者はだれもこの飲酒癖を批判しない。
永沢光雄はガンで声を失ってかわいそうなのである。
だが、熱心な編集者が幾人もいて原稿依頼が絶えない。
いまは依頼がなくても書きたがるものが大勢いる時代。
作家の永沢光雄先生は編集者から原稿依頼されても書かない天才肌のようだ。

うらやましいご身分だが、ガンの苦痛を思うとやっかむこともできない。
生涯に1冊の書籍を公刊できるだけでも恵まれた人生なのである。
ひとりの女から熱愛されるだけでも、男として生きている甲斐があろう。
(永沢は風貌に似合わずもてたらしい)
ベストセラーを出版できる人間など、本当に限られているのである(「AV女優」!)。
どうなのかわからない。
43歳でガンになる不運は、これらすべての幸運を相殺できるのだろうか。
少なくとも作家はおのれを幸運とは思っていなかったようである。

これは本書の「少し長いあとがき」からもうかがえる。
ヒモとして女から尽くされたベストセラー作家の永沢光雄先生は説教をしている。

「私は、言う。ちゃんと言う! みんな死ぬな!」(P297)

バカヤロウ! 人間は死んでもいいんだよ、永沢さん!

「開高健 眼を見開け、耳を立てろ そして、もっと言葉に…」(開高健/日本図書センター)

→開高健のエッセイ名作集を、酒を呑みながら読むのは悪くない。
こういうのを贅沢というのである。
芸術を志すものは、贅沢をやめるとダメになると思う。
かといって、やたら散財するのが贅沢ではない。
むかしは精神の贅沢があった。いまは気高いものがなにもなくなってしまった。
まわりすべてが賤しいものばかりではないか。
勝てばいいのか。儲かればいいのか。長生きすればいいのか。それだけでいいのか。

「成熟するためには腐らなければならない。
腐敗は恐れ、避けてはならず、むしろすすんでさらけださなければならない。
それが貴いか賤しいかは何年もたってみなければわからない。
経験、イマージュ、言葉をつみとり、たくわえ、陽にさらし、腐らせ、
踏みつぶさなければならない。
頑強な、厚い、暗い樽に封じてその闇のなかでつぶやきをかわさせあい、
クモの巣と冷暗のたちこめる地下の闇のなかで何年となく眠らせなければならない。
才能で書くのでもなく習練で書くのでもなく、
それらに助けられながらも自然を主役として書くときがなければならない」(P52)


待つことほど難しい人為はない。
だが、時間による仕事ほど輝かしいものはまたないのである。
人間は無為でいいのかもしれない。
そのほうが時間の活躍は強まるのであろうから。
なにもしないで待つのが、人間にとっておそらくいちばんの困難である。

「酒呑みに捧げる本」(山本容朗 編/実業之日本社)絶版

→酒を愛する文学者たちの書いた随筆、小説を集めたもの。
思ったのは、むかしの文士はよろしい。めちゃくちゃでおもしろい。
いつから奇行や蛮行を英雄視する視点が庶民から失われたのだろう。
みんな自分とおなじ小市民にしなくては、かれらは満足できないのかもしれない。

酒をいっぱい呑める人間は偉いという価値観がいまだわたしのなかにはある。
なんということはない。
わたし自身が酒の呑み比べで国内国外問わず負けたことがないからである。
自尊したいがための主張であろう。
しかし、やはり、言いたいのだ。
男なら、虚業を志すなら、酒をがんがん無鉄砲に呑むべきではないか。

なにが人間にとってプラスなのか。
健康で長生きすればそれでいいのか。
人生はたびたび旅に例えられる。
旅行はなにもなかったらそれでいいのか。
もしや予想外の事件やハプニングが我われに豊饒をもたらすのではあるまいか。
こう考えたとき、「酒での失敗」はかえって成功方程式のように思えてしまうのだが……。

なにゆえ我われは酒を呑むのか。
長生きしたいからでも、カネを儲けたいからでも、異性にもてたいからでも、ない。
ないのである。だとしたら、いったい――。

「彼女が服を脱ぐ相手」(小野一光/講談社文庫)

→このところまったく不思議である。
どうして最近、道行くきれいな女性が増えたのだろうか。
もうひとつ「どうして」と聞きたいことがあるけれど、こちらは不思議ではない。
どうしてきれいな女性はわたしを相手にしてくれないのだろうか。
女が目の前にいたとするでしょう。聞きたいのは、やはり男性遍歴よ。
かの女体を通り過ぎていった男たちのこと(……ぷぷぷ、いつの時代のエロ本ですか?)。
しかし、ふつう聞けないじゃない。
だから、フリーライターの小野一光さんがワシたち全男性の代わりに聞いてくれたのが本書。

この本への不満はどこに言えばいいのだろうか。
安手の情痴小説よりも退屈なのである。
むろん、著者は聞いたことをそのまま書いたと弁明することだろう。
ならば、ならば――。
どうしてこんなに事実や現実はおもしろくないのだろう。
聞いたままを書いてもつまらない。
だとしたら作者はなにをしたらいのだろうか。
そのとき必要となる才能はいったいなんなのか。
現実のルポからまったくリアリティ(現実感)が味わえないとしたら、
果たして現実とはなんなのだろうか。難問である。

「ついていったらこうなった キャッチセールス潜入ルポ」(多田文明/彩図社)

→都会にはさまざまなキャッチセールスがあるでしょう。
あれについていったらどうなるか試した結果のルポをまとめたのが本書。
「事実は小説より奇なり」なんて言うじゃない。
だから、期待していたのだが、それほど、あまり、ううむ、正直に言うと……。
こういうのはどうしたらいいのかね。
著者に文句を言っても、事実をそのまま書いたのだからと開き直られてしまう。
こちらの本音は、事実なんかどうでもいいから、もっとおもしろくしてください!
けれども、それは小説を書けと言っているようなものゆえ。
事実は、現実は、いかにつまらないか勉強になった。
もしわたしがおなじ体験をしたら、嘘八百を加えて紹介することと思う。
しかし、どうしてこんなに事実や現実はつまらないのだろうか。

「月刊 シナリオ教室」2009年8月号(シナリオ・センター)

→通っているスクールの同人誌。それは読んでいろいろ思うわけよ。
だけど、そういう批判をここで書いてもね。
いまのところ、わたしは2時間ドラマどころか1時間ものも書けないわけだから。
まあ、勉強になりましたと低姿勢でいよう。

このスクールの名誉顧問(?)だとかいうH氏が亡くなったらしく追悼特集が。
読んで思ったのはシナリオ・センターの体質。
日本人はどうしてだか、叱られるのを好むよね。
潜在心理的に偉い人から叱られないと成長しないものだと信じ込んでいるのではないか。
H氏は、受講生を叱るのが好きだった模様。

時間的経済的な余裕のあるおばさんが年長者の講師から叱り飛ばされ快感に打ち震える。
これがシナリオ・センターの原風景なのだろう。
ここに通っているのは圧倒的におばさんが多い。
シナリオの誘惑というやつである。
無学で平凡なおばさんが、自分でも書けると思うのが、最低の創作たるシナリオなのだ。

ひと言だけ意見する。
この同人誌に掲載されたシナリオを目標とするのはやめないか御同輩?
コンクールで賞を取るのが最大目的なら、はるかに割りのいい宝くじでも買おうぜ。
古今東西の傑作を勉強しようじゃありませんか。
さらなる高みを目指そうではありませんか。
なーんて「シナリオ教室」にさえ顔名前の掲載されない最底辺のおれが偉そうでゴメン。

*シナリオ・センターの情報はよろしければこちら↓をご参考にorz....

「シナリオ・センター日記」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-category-40.html
「偶然のチカラ」(植島啓司/集英社新書)

→めったにないほどの名著である。
いまのわたしの関心のありどころにドンピシャリの本。
病院の待ち時間で一気に読んでしまった。
あまりにおもしろいので数日後、家で入念に再読したほどである。

人生における、ありとあらゆることが偶然であるわけでしょう。
ところが、人生万事が必然だという考えかたもできなくはないわけだ。
どちらが正しいのかはわからない。なぜなら、もはや宗教の領域だからである。
宗教人類学者の植島啓司は、
果敢にも偶然と必然の間隙(かんげき)に潜入せんと試みる。
学者が手にたずさえるのは学問的知見だけではない。
おのれの賭博者としての体験から得た(=失った)血涙を武器にして、
植島は偶然の本質を見極めようとする。

サイコロを振る。どの目が出るか。
偶数か奇数かなら、ふたつにひとつである。
これに賭けるとする。すなわち、つぎに出る目を予測するわけである。
著者が問題とするのは、賭けるという参与行為である。
金銭を賭けなければ、サイコロの出目が偶数でも奇数でも大した問題ではない。
偶然と言われたら、そうかもしれないと答えるだろう。
サイコロを振ったときの手の動き、空気抵抗によって出目は必然と説明されたら、
たぶんそうなのだろうとあいまいにうなずくことだろう。
けれども、おカネを賭けていると、そうそうのん気なことは言っていられない。

これまでどの学問領域も、賭けないポジションからサイコロの出目を論じようとした。
著者が凡俗な学者連中と異なるのは、賭けに参与するところである。
確率的にいえば、偶数も奇数も1/2の確率で出現すると断言することが可能だ。
1万回、10万回と実験数を増やしていけば、
どんどん統計は1/2に近づいていくことだろう。
だが、それは「私」が賭けたときのサイコロの出目ではないじゃないか。
「私」が高額な金銭を賭けた際のサイコロの出目はいったいどうなっているのか。
植島啓司の秀才はこの疑問に、なおも学者として向き合ったところにある。
賭けに勝つ者と負ける者の違いは果たしてなんであるのか。
この問題に正しい答えはないとみなさまは思われることでしょう。
ところが、宗教人類学者の植島啓司は正答らしきものを提示してしまうのだから。

問題。ふたりの人間が賭けをしている。どちらが優位か答えなさい。
AとBはどちらも全財産を賭けている。サイコロ賭博である。
偶数か奇数か、ふたつにひとつ。
サイコロが投げられた。コールする(偶数か奇数か言う)のはAとする。
この場合、AとBのどちらが勝つか。少なくとも、どちらが勝つ確率が高いか。

植島啓司は断言するのである――(P33、P119を見てね♪)。

Bの勝つ確率が圧倒的に高い!

本書は斬新な見解で満ちあふれているが(ぜひぜひ拙者を信じて読んでみてくだされ!)、
そのなかでもっとも革新的な論述はここであろう。
著者は偶然の(あまたある)法則(のうちのひとつ)を、学問的に解明してしまったのだから。
最終的には本書をお読みいただくしかないのだが、暇のないかたも多いでしょう。
どうしてなのかをわたしが理解できた範囲で説明したい。
この解答の前提としてあるのは、人間の選択は誤まることが多い。この事実(?)である。
だから、先に選択したほうの負ける確率が高くなる。
このへんは微妙で、書いている当方も、ギリギリだという認識がある(笑)。
植島啓司はオカルトすれすれをくぐりぬけ学問(=正誤)を目指そうとしている。
というのも、上記の問題に関しては実験しようがない。
何百回も全財産を賭けたサイコロ勝負ができるものだろうか。
したがって、学問ではないと言いたくもなるが、
「モンティ・ホール問題」(P17、P119)から考えると、
たしかに学問的に「Bは勝つ」と言明できるのかもしれない。
このところは筆者などよりよほど賢明な読者諸氏にご判断いただくしかないと思っている。

植島啓司は以上の学説をもとにして生きかたのハウツーまでしてしまう。
人はどう生きるべきか。植島は「流れ」に乗ることが重要だという。
ならば、どうしたら「流れ」とやらに乗れるのか。なるべく選択をしないことである。
人間が選択をしないと、どうしてだか、ある方向を進むようになってしまう。
これが最良だと植島啓司は主張する。換言すれば「なるようになる」である。
わたしは植島にかなりの親近感を持ち、同族意識を抱いているが、
こちらの主観をふんだんにふくめた言いかたをすれば、
人間は選択をしないことで何者(=絶対者? 全体? 宇宙?)かの意思に迫れる。

さらなる飛躍を許してください。
宗教人類学者の植島啓司は本書で一回も自然という用語を用いていない。
わたしは万事が偶然でも必然でもなく自然ではないかと思っている。
おそらく著者が本書で言いたかったのも自然のことなのではないだろうか。

以下、引用――。

「人は果たして選択が正しかったかどうかをけっして自分で確かめることはできない」(P28)

「人間はだれしも自分で選んだことにとらわれて自由な判断ができなくなる」(P33)

「つまり、不幸は選択ミスから起こる。では、選択しなければいいのでは?
そう、そのとおり。選択するから不幸が生じる。
妻をとるか愛人をとるか、
進学するか就職するか、家を買うか賃貸マンションに住むか?
海外旅行に行くか貯金するか、いまの会社にとどまるべきか転職するべきか」(P34)

「できるだけ自分で選択しないように心がけよ」(P40)

「大きな幸運を願う人はそれだけ大きな犠牲をも考慮しておかなくてはならないだろう」(P80)

「運の悪い勝ちもあれば、運のいい負けもある」(P130)


(追記)刺激的な良書ゆえ、かならずやみなさまのお時間を奪う価値があると存じます。
関係ないけれど、植島啓司で検索していたら、またもや「もてない男」の小谷野敦(笑)。
植島啓司のセクハラ(大学)辞職疑惑について、である(あくまでも疑惑で真相は不明!)。
この線を調べていくと、植島啓司は人気学者で女子学生からモテモテだったらしい。
この学者先生をかなり身近に感じていたが、マイナス50点といわざるを得ないな(苦笑)。
しかし、アル中というくらいの酒好きらしいからプラス20点を与えておこう。
偉そうで、ごめんよ♪

(参考)
「何も選ばない」生き方のすすめ↓
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081119/177766/
「偶然のチカラ」を味方につける↓
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081126/178299/

↑わざわざ面倒な会員登録までして読んでしまったよ……。

「あいびき」(ノエル・カワード/沼沢洽治訳/「現代世界演劇15 風俗劇」/白水社)絶版

→戯曲。イギリス産。
カワードは、ラティガン、モームと比されるウェルメイドプレイの劇作家。

体験と読書(鑑賞)はどのような関係にあるのだろうか。
本作は、ともに配偶者および子どものいる男女の「あいびき」を中心に描いている。
不倫どころか結婚の経験(希望も……)さえないから困ってしまう。
果たしてわたしはこの劇作を理解できていないのか。
たとえば不倫体験があれば、この戯曲により深く感動できるのだろうか。
だとしたら、あらゆる作品の評価軸が狂ってしまうように思うのだが。
というのも、コンクール選考委員の人生履歴いかんで評価が変わるわけだから。
むろん、コンクール入賞と落選の理由の八割がたが運であることを知らないわけではない。

生涯、縁のないことを疑似体験できるのも、フィクションの楽しみのひとつである。
人間は限定性を生きている。
わかりやすくいえば、男は女の、女は男の感受性を断じて味わえぬ。
だから、我われは求めるのだろう。芝居を、ドラマを、小説を、ルポを。
このとき、おのれの体験というのは、いったいどう関係していくのか。
体験したことを書く作家がいる(いわゆる私小説家)。
ところが、体験したことを書けない作家もまたいるのである(たとえば山田太一先生!)。

「春までの祭」(山田太一/新潮文庫)絶版*再読

→テレビドラマシナリオ。平成元年放送作品。フジテレビ。単発もの。
山田太一先生とはいえ、なにも特別なことをしているわけではない。
古来よりある王道のドラマ・シチュエーションを用いて描きたいシーンを書く。
書きたいものがテクニックを呼び込み、そのテクニックが先の話を決めていくのだろう。

安藤逸次(笠智衆)と安藤香奈(吉永小百合)に血のつながりはない。
逸次の息子の嫁が香奈なのである。香奈には高校生になる息子がいる。
ところが、問題なのは旦那が3年前に亡くなっていること。
なんといっても吉永小百合である。男が放っておくはずがない。
逸次は、偶然にも香奈が見知らぬ男の、それも外車に乗り込むところを目撃してしまう。
この「偶然、盗み見る」はドラマの古典的な手法である。
逸次としては複雑である。嫁に男と付き合うなと面と向かって言える筋合いではない。
だが、美しい香奈への心配も隠せない。結果が、以下のような会話になるのである。

●台所
香奈、米をといでいたボウルから、米を炊飯器の釜に移す。
釜のままとぐとコーティングがとれるので、そうしている。
逸次「(現われ)香奈さん」
香奈「はい」
逸次「余計な心配をしとるのかもしれんが」
香奈「はい?(水加減を見る)」
逸次「なにか困っとることはないかね?」
香奈「どういうことでしょう?」
逸次「んにゃあ、外に出りゃあ、なにかとあるだろう」
香奈「――はい」
逸次「相談相手にもなれんが」
香奈「大丈夫です。多少のことは、ありますけど、なんとか切りぬけていますから」
逸次「そうかね」
香奈「ご心配なく」
逸次「そうかね」
香奈「はい」(P299)


葛藤の弱さ(=細やかな感情の描写)が絶妙でしょう。
どこぞのシナリオスクールのバカな講師は、こういうシーンのよさがわからない。
香奈が包丁を持って逸次に向き合えば、葛藤が強くなるんじゃないの?
逸次に嫁を引っぱたかせたらドラマがおもしろくなるよ。
アホな講師なら本当にこんなキチガイめいたことを言いかねない。

このつぎのシーンで山田太一は逸次をひとり、息子の仏壇に向かわせる。
心情描写は「ひとりシーン」というドラマの古典的な手法を使っているのである。
逸次は息子の遺影に紅がついているのを発見する。
眼鏡をかけて見てみると、息子の写真の口もとに口紅のあとがある。
逸次は指で紅をぬぐう。指先に香奈の口紅が赤くつく。
これまた古臭い小道具=写真を使っているに過ぎぬのに、このうまさといったら――。
山田太一はテクニックの使用を惜しまない。
なんのためにか。書きたいシーンを書くためである。
どのシーンからも作者の熱い思いが伝わってくる。
この仏壇のシーンは、おそらく視聴者のだれよりも、
山田太一自身が見たかったのだと思われる。
あるシーンを自分が見たいから、書きたいと思う。
「見たい」「書きたい」という、ふたつの「たい」が山田太一の武器なのであろう。

「今朝の秋」(山田太一/新潮文庫)絶版*再読

→テレビドラマシナリオ。昭和62年放送作品。NHK。単発もの。
このドラマには、山田太一作品の特徴がみなみな盛り込まれている。
よけいな解説は不要だと思う。みなさんと味わっていきたい。

五十代の宮島隆一(杉浦直樹)は病院に入院している。妻も子もいる。
病気は大したことがないと聞かされているが、死期が近いのではと不安である。
もし余命わずかだったら、どうしようか。
隆一は見舞いに訪れた父の鉱造(笠智衆)に問う。

隆一「昨日は聞きそびれちまって」
鉱造「なにを?」
隆一「私は、駄目なんじゃないんですか?」
鉱造「なにをいう」
隆一「フフ、まったく、なんにもありゃしない。
会社で私のしたことなんか、どうせすぐ忘れられてしまう。
子供たちはもう自分の人生に夢中です。
女房が別れたいといい出したら、私には、なにもない。
もうじき死ぬというのに、なにもない」
鉱造「誰も死にやせん」
隆一「ほんとですか?」
鉱造「ほんとうだ」
隆一「死ぬなら、せめて覚悟して死にたい。
かくれてだまされたまま死ぬんじゃ情けないんです」
鉱造「誰も、なにも、かくしてやせん」(P200)


たいがいの人間の生涯はありきたりの連続で、ふと気づくと「なにもない」のである。
山田太一は「なにもない」人物を描くのが、とてもうまい。

隆一の母タキ(杉村春子)はだいぶまえ男をつくって出て行った。
隆一が二十のころである。
タキは息子隆一が余命わずかであることを聞きつけ看病を志願する。

隆一「お母さん」
タキ「え?(ちょっと照れるような気持)」
隆一「ぼくのために、嫌な思いしてくれる?」
タキ「嫌なって?」
隆一「こっちへ来て下さい」
タキ「フフ(と雑巾を置き)なんなの?(と手をちょっと前掛けで拭いて立つ)」
隆一「手をくれる?(と手をさし出す)」
タキ「え? 手相でも見ようっていうの?」
隆一「(タキの手を握る)」
タキ「フフ、どうして、これが、嫌な思い?」
隆一「ぼくは、長くないんでしょう?」
タキ「え?(と手をはなそうとする)」
隆一「(はなさない)ぼくを見て下さい。本当のこといって下さい」
タキ「すぐよ、すぐ治るって先生だって(と手をはずそうとするがはずせない)」
隆一「重荷でしょうけど、本当のことをいって下さい。
ぼくは、あとどのくらいなんです?」
タキ「こんな、こんな力してて、長くないなんて、なにいってるのよ(はなす)」
隆一「こっち見て」
タキ「なおるに決まってるじゃない(と見ないでいう)」
隆一「こっち見て」
タキ「――」
隆一「気休めいって逃げないでよ」
タキ「誰も、誰も逃げてなんかいないわよ(と隆一を見て)
すぐ、よくなるに決まってるじゃない。
どんどん(涙溢れ)よくなるに決まってるじゃない。
もう、勘弁して(顔を手でおおい泣いてしまい)
あんたが、死ぬもんですか(とパッと廊下へ)」(P219)


隆一と鉱造のシーンと、隆一とタキのシーンが対照になっているのがわかるでしょう。
山田太一は、かなり図式を念頭に入れてシナリオを書いているのがわかる。
頭でかちかちにつくりあげたうえで、それをなんとか壊せないかとねらう。
なにによって最初の計算式を壊すか。無意識である。
シナリオを書いていくうちに、フッとずれていってしまう。
この「ずれ」を脚本家はことさら重んじているように思う。
とはいえ、基本は頭でっかちで、「息子と父」と「息子と母」の対比を計算してしまう。

おのれの寿命を知った隆一は、鉱造に誘われるまま、蓼科にある父の家へ。
ここでの父子の会話がまたすばらしい。
山田太一は「二人、笑ってしまう」「二人、泣いてしまう」が好きなのね。
一人で笑うのもいいが、二人で笑うのはもっといいではないか。
一人で泣くのも人生だけれども、二人で泣く味わいは格別ではないか。
脚本家はドラマが「笑う(喜び)」と「泣く(悲しみ)」であることを熟知している。
そのうえで一人ではなく、二人にする。
登場人物が二人で人生の悲喜を味わうドラマを山田太一は好んで描く。

隆一「病気も悪いことばっかりじゃあないな。
元気じゃ、お父さんとこんなこと、絶対ないもんな」
鉱造「うむ」
隆一「忙しがってて」
鉱造「うむ」
隆一「とても、救われたな」
鉱造「――」
隆一「こんな気持のまま、死ねるとは思えないけど」
鉱造「――」
隆一「まだ、きっとジタバタするだろうけど、
なるべく、見苦しく、ないように、したいな」
鉱造「――」
隆一「――」
鉱造「案外、わしの方が早いかもしれんよ」
隆一「そんなことはないだろうけど」
鉱造「多少の前後はあっても、みんな死ぬんだ」
隆一「そうだね、みんな死ぬんですよね」
鉱造「特別のような顔をするな」
隆一「フフ、いうな、ずけずけ。
しかしね、フフ、こっちは五十代ですよ、お父さんは八十じゃない。
そりゃあ、こっちは、少しぐらい、特別な顔をするよ。フフ(顔歪んで、泣いてしまう)」
鉱造「――」
隆一「(泣いている)」
鉱造「(涙が湧いてくる)」(P239)


人間は無力である。人生の試練に対して人間はほとんどまったくの無力である。
だが、なにもできないわけではない。笑うことができる。泣くことができる。
二人で笑うことだって、二人で泣くことだって可能である。
笑ったところで泣いたところで現実は変わりゃあしないけれど、人間は笑い泣く。
こういう人間のありかたを、うるおいあふれる情緒を込めて描くのが天才脚本家の山田太一である。

「冬構え」(山田太一/新潮文庫)絶版*再読

→テレビドラマシナリオ。昭和60年放送作品。NHK。単発もの。
山田太一はテクニックも一流である。
書きたいこととテクニックをあわせ持つ作家を天才というのであろう。

孤独な老人、笠智衆が一人旅におもむく。
老人を風呂場にだれと入らせるか。
騒がしい家族連れとである。老人の孤独が強調できる(P94)。

ナゾをつくる手腕も見事である。ドラマはうまいナゾをつくるに限るのである。
ナゾに視聴者は引きずり回されてしまう。
このドラマのナゾは、さほど裕福にも見えぬ笠智衆が散財するところである(P104)。

旅先での出逢いを描くのも巧妙というほかない。
いくつかの観光地で笠智衆と美しい人妻を一緒にさせる。
それから「出逢い」のところ(話しかけるシーン)をカットして、
いきなり「そば屋」で向き合わせて会話をさせてしまう。
まったく不自然ではないのだから。省略の天才である(P112)。

「二人、笑ってしまう」(P120)
山田太一ドラマのあたたかさ、ぬくもりがこのト書きに象徴されているように思う。
脚本家はシーン尻に「二人、笑ってしまう」を書きたいから、セリフを仕組むのだろう。

シーンのつなげかたも勉強になる。
笠智衆が温泉宿で豪華だがひとり味気ない夕飯を食べている。
このつぎのシーンで、若いカップルがビジネスホテルで弁当の晩飯を済ましている。
夕飯でふたつのシーンをつなげているのもうまいし、対照も効果的である(P122)。
ラストシーンもおなじ原理を用いている。
未来に絶望しかない老人ふたりの会話――。
このあいだに若々しい恋人同士が笑いあうシーンを挿入するのである。
シーンとシーンのメリハリがすばらしい(P167)。

山田太一特有のセリフまわしにもゾクゾクさせられる。
脚本家は「ああ」「うん」「うん?」「そう」「そうか」を多用する。
山田太一のセリフのうまさは多岐にわたるが、そのうちのひとつが相槌の味わいである。
相槌とは話し手のセリフを聞き手が受け取るために用いるもの。
凡庸なシナリオ・ライターは会話の担い手を話者だと錯覚している。
実のところ、会話は聞き手の比重が大きいのではないか。
相手の話を聞く耳が、会話を成立させているとは考えられないか。
山田太一ドラマの相槌の多用は、聞き手を重視しているのであろう。
実際の会話でもおなじである。本当は話すよりも聞くほうが何倍も難しい。
ならば長ゼリフを言うよりも、ひとつの相槌を打つほうが困難なのではないか。
相槌は山田太一ドラマの独特な世界を構成している要素のひとつである。

「ながらえば」(山田太一/新潮文庫)絶版*再読

→テレビドラマシナリオ。昭和57年放送作品。NHK。単発もの。
対置のうまさを学習した。
脚本家は、笠智衆が演じる老人と老妻のつながり(=愛)を描きたいのである。
さあ、どうするか。
病室にいる老妻と笠智衆を物理的(距離的)に離れさせる。
息子の転勤というきっかけを作ったうえでだ。
老妻は重態になる。
虫の知らせか笠智衆は妻の異変に気づき元の在所に戻ろうとする。
このとき偶然に泊まった宿を経営するのが、またまた老夫婦である。
そのうち妻のほうがその晩に亡くなってしまう。
宿の主人は愛妻になにもしてやれなかった後悔を笠智衆にしんみり述懐する。
ある老夫婦と別の老夫婦の対照(対置)が実に巧みである。
さらに笠智衆の娘夫婦の不仲が提示される。夫が妻に暴力をふるう。
親夫婦と娘夫婦の対照(対置)があざやかである。

山田太一は、対置の効果を計算して書いているわけではない。
天才脚本家は、ただただ笠智衆を愛した。笠智衆を輝かせたいと思った。
老夫婦の情感あふれる(ラストシーンの)交流を描きたかった。
このとき自然に、異なる二組の夫婦が脚本家の頭に浮かんでくるのであろう。
自然というものを作家は強く意識していたはずである。

旅客の隆吉(笠智衆)は妻への思いを宿の主人・謹造に語る。

隆吉「自分の、ことばっかし(と平伏する)」
謹造「いえ、よう分りますちゃあ」
隆吉「――(一礼)」
謹造「明日――一番で――早う、奥さんに逢(お)うてあげて下はれ。
仏があんたはんを、うちへ泊めたのかもしれん。
明日、しっかり逢うて、ええこと、いうてあげて下はれ、ねェえ」
隆吉「――(平伏する)」(P69)


正しくは仏ではない。山田太一が笠智衆をこの晩この宿に泊めたのである。
しかし、なんとも仏がいたらばやりそうなことではないか。
仏ならばこのような出逢いを演出してもおかしくないと思わないか。
このような「不自然ではない偶然」を描くのが良質なドラマなのだろう。
こんなことは実際にはないだろうが、あればいい、いや、あってもおかしくない。
根本に山田太一の夢想(願望)があるのは言うまでもないことである。

「喜劇の手法 笑いのしくみを探る」(喜志 哲雄/集英社新書)*再読

→喜劇はウソで成り立っているのではないか。
喜劇を書こうと思ったら、登場人物のつくウソをまず考えなければならない。
喜劇における笑いは、状況認識の差から生じる。
たとえば、ある人間を大金持だと思っている人がいる。
ところが、実際は借金だらけの素寒貧。
事実を知っているものと、知らないもののあいだの格差が喜劇を誕生させる。
「おれは金持だ」とウソをつく。「恋人はいない」とウソをつく。このとき喜劇がうごめく。

喜劇の根本にある思想は、「人の数だけ世界がある」だと思う。
人によって状況認識が異なる。人によって情報量に差がある。だから喜劇が生まれる。
むろん、役者それぞれの状況認識のみが問われているのではない。
観客の状況認識=情報量も喜劇を形成する重要な要素である。
ある役者のセリフがウソがホントか、観客のみが知っていることもあろう。
だましだまされるのが喜劇の妙味。
自己の利益のために役者はべつの役者をだまそうとする。
のみならず、作者も観客をだまそうとかかってくる。
わざと誤解をまねきやすい情報を観客に与えておき、最後にひっくり返すのである。

喜劇のよくあるパターンが、冒頭で誤解が生じ最後に真相が明らかになるもの。
誤解ということは、登場人物それぞれが状況認識を誤まっている状態だ。
このとき観客でさえも正確な状況を把握していないことが多い。
おのおのの状況認識=世界観が変容していく過程が喜劇なのかもしれない。
肝心なのは真実であり、加えて真実があってこそのウソなのであろう。
中心にある真実をめぐって(観客を含めた)人物の右往左往するのが喜劇である。

こう書いてしまうと、だれでも喜劇をかんたんに書けそうな気になるが、実のところ難しい。
この困難は、ウソをつく難しさと共通しているのかもしれない。
大のおとなをだますのは難しいでしょう。
だましたつもりがだまされているのかもしれないのだから。
人はどうしてウソをつくのか。人はどのようなウソをつくのか。
人間とウソの関係を追求することで、喜劇創作の道が開かれるのだと思う。

本書を最初に読んだときの感想は以下↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-586.htm

「詩学」(アリストテレース/松本仁助・岡道男訳/岩波文庫)*再読

→アリストテレスの「詩学」は世界最古のドラマ論である。
古いから正しいというのは誤まりだが、ものの本質を考えるうえで古さは利点となりうる。
大昔のギリシアでドラマはいかなるものとされていたか。
繰り返すが、アリストテレスが言っていたから正しいというのは誤り。
だが、ドラマとはなにかを考えるうえで本書は有益だと思う。
以下、気になった内容をわかりやすく(言い換えて)箇条書きにしていく。

・ドラマの原義は行為である。行為する人間がいる。
かの人間の行為を再現することがドラマ本来の意味である。
換言すると、物真似がドラマの原初イメージに近い。
勇敢な若者が狩りで大物を射止めたとする。
その夜、かの若人はたき火に集まる仲間のまえで狩りの様子を再現するだろう。
これがドラマの起こりと言ってもよいのかもしれぬ。
ドラマ=行為とは、すなわち思弁ではないということだ。
「考える人」はドラマではない。かの人物が動き始めたとき、ドラマの幕が開く(P24)。

・民主制の誕生が、喜劇を発生させた。
なぜならば、民主制は批判や風刺を内在する政治システムだからである(P24)。

・行為の再現(=ドラマ)はなにゆえ行なわれるか。
行為の再現は、見るものに喜びを与えるからである。行為の再現は見ていて楽しい。
この喜悦の原因を、アリストテレスは学習のためだと指摘する。
なにかを学ぶことは、哲学者のみならず、人間にとって最大の楽しみ。
人びとは行為の再現(=ドラマ)を見ることによって、ものを学ぶ。
したがって、ドラマの機能のひとつは学習である(P28)。

・本書で「俳優」と日本語に訳された古代ギリシア語は「hypokrites」。
この「hypokrites」の本来の意味は「解釈し説明するもの」「質問に答えるもの」。
我われはいわゆる「説明ゼリフ」を稚拙だと嘲弄するが、
「俳優」の原義に「説明するもの」といった意味合いがあるのは興味深い。
「説明ゼリフ」は、むしろドラマになければならないもの。
いや、もっと言ってしまえば俳優による説明こそドラマの実相なのかもしれない。
ギリシア悲劇を思い返すと、どれも過剰な説明で展開されていることに気づく。
ギリシア悲劇では舞台上で人が死なない。
舞台の外で人が死に、だれかがその様子を説明しにやって来るのである(P30)。

・俳優は行為の再現(=ドラマ)によって、
観客の恐怖(おそれ)と憐憫(あわれみ)の感情を刺激する。
結果として、このふたつの感情が浄化されるに至る。これをカタルシスという。
カタルシスは、古来ふたつの解釈がなされてきた。
1.医療的(排泄)行為
2.宗教的儀式
上にドラマの愉楽は学習にあると書いた。
ここで提示されたのは、その他の機能である。
ドラマには医療代替行為としての面がある。
たとえば、落ち込んだときにドラマを見て元気になる。
それからドラマはお祭り(宗教儀式)の華やぎがある。
たとえば、人気ドラマ(「北の国から」)は国民的な祭事に比される(P34,P139)。

・繰り返しになって恐縮だが、ドラマとは行為の再現である。
だとしたら、行為とはなにを意味しているか。行為によってなにがわかるか。
行為者の性格と思想がわかる。
言いかたを替えたら、行為の原因は人間の性格と思想である。
以上をまとめると、このような結論に帰着する。
行為の再現たるドラマは、ある人物の性格と思想によって形づくられる。
さらに進んでいこう。行為は人間になにをもたらすか。成功と失敗である。
図示すると下記のようになる(P35)。

ドラマ=「性格と思想」→「行為」→「成功 or 失敗」

・歴史家は起こったことを語るため、かの人の仕事は個別的な表現といえよう。
一方、劇詩人は起こりうること、起こる可能性があることを語るため、
かの人の仕事は普遍的な表現ということができる(P43)。

・ドラマにおけるさまざまな行為は、因果関係で結びついていると効果的である。
すなわち――。
○「ある出来事がある出来事ゆえに起こる」(ドラマの効果を高める)
×「ある出来事がある出来事のあとで起こる」(ドラマの効果を弱める)
このドラマにおける因果関係は、必然性という評価基準に行き着く。
ある行為がどれだけ必然性をもって観客に了解されるか、ということである(P47)。

・本書で「不幸」と日本語に訳されている古代ギリシア語は「anekeston」。
「anekeston」の元来の意味合いは「取りかえしのつかないこと」。
「取りかえしのつかないこと」は、
山田太一ドラマの「ありふれた奇跡」で何度も口にされた言葉である(P174)。

・性格も出来事の組み立ても、「ありそうなこと」でなければならない(P60)。

・「詩作は、恵まれた天分か、それとも狂気か、
そのどちらかをもつ人がすることである」(P66)

・アリストテレスは、いわゆる「ハコ書き」をすすめている(笑)(P66)。

・物語りでは不自然に思われないことでも、
うっかり舞台化すると不自然さや嘘くささが露呈してしまうことがあるので要注意(P93)。

・ドラマにおいて――。
×「信じられないけれども可能であること」
○「ありそうでありながら実際には不可能であること」
とはいえ、不合理な要素はなるべく避けたほうがいい。
どうしようもない場合は、進行中ドラマの外に置くべし。
不合理な内容をドラマで見せるのではなく、聞かせなさいということだ(P94)。

・ドラマには「事実のとおりでない」という批判がつきものである。
その場合、こう反論するしかない。
「そうあるべきものとして再現されている」から構わないではないか。
事実をそのまま再現するのがドラマではないということである(P98)。

「蓮如文集」(笠原一男校注/岩波文庫)

→蓮如(れんにょ)は室町時代の高僧。
浄土真宗(南無阿弥陀仏!)の布教で活躍し、
本願寺教団の勢力拡大に大きな貢献をした。
最初に高僧と書いたが、蓮如はむしろ事業家といったおもむきが強いのかもしれない。
ご存知のように、鎌倉時代に(法然の弟子)親鸞が浄土真宗を開いた。
親鸞が偉大な宗教家であったのは疑いえないが、
概して聖人は俗なるものに関心を持たない。勢力拡大などもってのほかである。
したがって親鸞存命時、信徒たちはマイナーな集団に過ぎなかった。
蓮如は親鸞直系の第八代目。
のちに大きな勢力となる本願寺教団の礎(いしずえ)を作ったとされる。
わかりやすく説明しよう。
親鸞は巨大な宗教家で、なおかつ優秀な指導者であった。
ところが、哀しいかな、田舎の私塾の先生に過ぎなかったわけである。
蓮如は親鸞の教えをより簡明にして全国展開をはかった。
田舎の私塾をマンモス予備校に仕立て上げ、各地に分校を作ったようなものだ。
5回結婚して計27人もの実子を世に送り出した蓮如とはいかなる男だったのか。

「蓮如文集」は、この宗教家の手紙を集めたもの。
蓮如はもっぱら御文(おふみ)と呼ばれる手紙を通して布教を行なった。
一読して思うのは、とにかくわかりやすいということだ。
シナ仏典からの引用はほとんどなく、そのうえ内容の重複もことさら多い。
親鸞のような深みがないという批判もあるだろう。
では、なにゆえ蓮如には深みがないのか。迷いがないからだと思われる。
蓮如はおのれの信仰に揺るぎのない確信を抱いているふしがうかがえる。
法然の明るい秀才も、親鸞の暗い情熱も、実務家の蓮如は持ち合わせぬ。

蓮如を商売人として見てみよう。
職業仏教従事者としての蓮如の思想はいかなるものだったか。
蓮如84歳のときの御文(手紙)を全文引用する。
信者からの志納金への感謝を伝えている。

「抑(そもそも)、毎年やくそく代物(しろもの)之事、
たしかに請取候(うけとりそうろう)。この趣、惣中(=門徒全体)へ披露有るべく候。
かへすがへすありがたく覚え候。就其(それにつけても)、
一念にもろもろの雑行の心をふりすてて、弥陀如来後生たすけたまへとまうさん人は、
かならずかならず往生は一定(いちじょう)にてあるべし。
その分よくよく惣中へ披露そろはば、可然(しかるべく)候。
なにごとも往生にすぎたる一大事はあるまじく候。
今生はただ一端のことにて候。
よくよくこころえられて候て往生せられ候はば、しかるべきことにて候。
あなかしこかしこ」(P228


この御文に蓮如思想が象徴されているように思う。
蓮如は仏教の真諦を信心にのみ見るような夢想家ではなかった。
形にあらわれた数字の重要性もよく理解していた。
数値化された信仰、
すなわち門徒の合計数、志納金の多寡(たか)にも気配りを怠らなかったのである。
上記引用の御文は、礼状などという軽々しいものではない。
蓮如が販売しているところの無形の商品そのものである。
では、蓮如が金銭の代わりに門徒へ与えていたものはなんだったか。
結論から先に述べると心の安らぎである。
どうして信徒は蓮如の手紙から深い精神的安心感を得るのか。
その秘密は御文のなかのこの一文にある。繰り返し引用したい。

「なにごとも往生にすぎたる一大事はあるまじく候」

往生より大切なことはなにもない。
蓮如上人が自信をもって販売していたのは往生なのである。
極楽往生と言い換えてもよい。死と言ってしまっても構わない。

御文には「老少不定(ふじょう)」という言葉が頻出する。
校注の笠原一男氏は、このような説明をしている。

「老少不定:人間の寿命が、老人も年少の人も、いつ死ぬか定まっていないこと」(P177)

人間の寿命を決定するものはなにか。蓮如は死について饒舌に語る。

「あはれ死なばやとおもはば、やがて死なれん世にてもあらば、
などかいままでこの世にすみはんべりなん」(P176)
(ああ死のうと思えば、すぐに死ねる世であるならば、
どうして今までこの世に生きながらえていようか)


蓮如は自殺をなかば否定している。人間は死のうと思っても死ねるものではない。
同時に、死のうと思わなくても死んでしまうのが我われである。

「当時このごろ、ことのほか疫癘(えきれい=疫病)とて、ひと死去す。
これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず、
生れはじめしよりして定まれる定業(じょうごう=前世からの定め)なり。
さのみふかくおどろくまじきことなり。
しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、
さもありぬべきやうにみなひとおもへり」(P211)


人は疫病流行によって死ぬのではない。
たしかに我われの目には疫病が原因で人がばたばた死んでゆくように見えるかもしれない。
けれども、人を死に至らせるのは疫病ではない、と蓮如は主張しているのだ。
人は生れたときから決まっている定業に従い死んでゆくものである。
まこと人間は無力で、はかない存在ではないか。

「それおもんみれば、
人間はただ電光朝露のゆめまぼろしのあひだのたのしみぞかし。
たとひまた栄花栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、
それはただ五十年乃至(ないし)百年のうちのことなり。
もしただいまも無常のかぜきたりてさそひなば、
いかなる病苦ににあひてかむなしくなりなんや。
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。
されば、死出の山路のすゑ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ」(P53)


蓮如は当たり前のことを言っているのである。
我われのだれもが知りながらも、見ないようにしている当然至極のことを。
いくら成功して思うがままに振る舞えようが、どのみち50年100年のこと。
成功者にも無常の風が吹く。いついかなる病に倒れるか知れたものではない。
いざ死ぬとなったら妻も子も、高級ブランド品も不動産も持っていけない。
だれもが死後はひとりで三途(さんず)の河へ向かわなければならぬ。
ひっくり返せば、いくら不幸で失敗つづきだろうが、たかだか50年100年ではないか。
死んでしまえば失敗者も成功者もおなじ無一物の身。
このとき真に重要なものがわかろうはずである。
南無阿弥陀仏である。他力の信心である。以上が蓮如のセールストークといってよい。

商品説明に入ろう。南無阿弥陀仏とはなにか。他力の信心とはなにか。
蓮如の説明はとてもわかりやすい。

「それ、他力の信心といふは、なにの要ぞといへば、
かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。
その他力の信心のすがたといふは、いかなることぞといへば、なにのやうもなく、
ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、
たすけたまへとおもふ心の一念おこるとき、
かならず弥陀如来の摂取(しょうじゅ)の光明をはなちて、
その身の娑婆(しゃば)にあらんほどは、この光明のなかにをさめおきましますなり。
これすなはち、われらが往生のさだまりたるすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏とまうす体(たい)は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。
(中略) あら殊勝の弥陀如来の他力の本願や。
このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、
ただねてもおきても南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏ととなへて、
かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり」(P128)


南無阿弥陀仏のからくりはこうである。念仏にはふたつの意味がある。
「たすけたまへ」と「ありがとう」である。ヘルプミーとサンキューである。
人間はときにひとりでは背負いきれぬ重荷を人生で押しつけられる。
そのときに「助けてください」=「南無阿弥陀仏」と口にできる安堵はどうだろうか。
ひとりではないという気にはならないか。
「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏さまにお任せします」との意味。
おのれの苦悩、煩悶、絶望を弥陀如来に預けてしまうのである。
耐え切れぬ重荷をともに背負ってもらう。こうしたらどんなに楽になることか。
どんな苦しみも、生きているあいだのことに過ぎぬ。
念仏のおかげて死後は往生が決定している。
そう思うと憂き世のかなりを耐え忍ぶことができるのではないだろうか。
弥陀如来の光明につつまれるとは、そういうことである。
孤独や絶望の闇のただなかにいても、
南無阿弥陀仏ととなえたら、どこかに光明が見いだせないだろうか。
その光明はやがて広がり苦悩者を明るく照らしてくれるはずである。
世界は自力や努力だけでは、どうしようもないことであふれている。
人間は貧富や美醜を選んで生れてくるわけでもなく、いつなんどき死ぬかもわからぬ。
自力や努力ではどうしようもないときのための南無阿弥陀仏なのである。
南無阿弥陀仏と口にすると、自力でも努力でもない力が彼方から差し向けられる。
これが他力なのであろう。実のところ、念仏自体も自力や努力ではない。
最初期の苦悩が「助けてください」の南無阿弥陀仏を言わせる。
弥陀如来のおかげで人間の苦しみがどれほどやわらいでいることか。
今度は「ありがとうございます」の南無阿弥陀仏をとなえたらよろしい。
わかりやすく整理すると以下のようになる。

「助けてください=南無阿弥陀仏」
     ↓
「人間←光明←阿弥陀仏」
     ↓
「ありがとうございます=南無阿弥陀仏」


蓮如は御文のなかでひとつ親鸞の和讃を引いている。
「弥陀大悲の誓願を、深く信ぜんひとはみな、
ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとなふべし」がそれである。
蓮如の推奨する信仰生活が理解できよう。

最後に実務家の蓮如による、宗教団体運営マニュアルを軽く見ておこう。
これは法然にも親鸞にも見られなかった姿勢で興味深い。

・おカネは大切。みなさん、お礼はちゃんと払ってね♪

「このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。
このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、
こころざしをもいたすべきものなり」(P37)


・為政者、支配者に逆らってはなりません♪ 税金は支払いましょう(=現実主義)!

「それ、国にあらば守護方、ところにあらば地頭方において、
われは仏法をあがめ信心をえたる身なりといひて、疎略の義、
ゆめゆめあるべからず。いよいよ公事をもはらにすべきものなり」(P118)


・みなみなこの信心に勧誘できるわけではありません♪
宿善のないものは、どうしたってこの教えがわからないのです(=強引な勧誘の禁止)。

「人を勧化せんとおもふとも、
宿善・無宿善のふたつを分別せずばいたづらごとなるべし。
このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて、人をば勧化すべし」(P174)


・繰り返しますが、政治運動をしてはいけませんよ♪

「一、四講会合のとき、仏法の信不信の讃嘆のほか、世間の沙汰しかるべからず候」(P203)

終わりである。5年前のいまごろインドにいた。
3ヶ月かけてインド全土の仏教美術を見学。仏教八大聖地を踏破したものである。
5年前に始まった仏教をめぐる旅がいまようやく終わった。
最後に行き着いたのは南無阿弥陀仏である。
いま信仰があるかと問われたらイエスと答えることだろう。
わたしは人間を超える大きなものの存在および力を信じている。
それは阿弥陀仏かもしれないし、自然かもしれない。
法華経かもしれないし、神かもしれないし、宇宙かもしれない。
便宜上、名称を呼ぶ必要があるならば阿弥陀仏あたりで(わたしは)落ち着く。
だからといって、他のものを信仰しているものを否定するつもりはない。
案外おなじものを信じているのかもしれないぞ、と思うからだ。
自身がこの先どうなるかは、大きなものに託してしまうつもりである。
失敗の連続で野垂れ死にするのかもしれない。
それでも、南無阿弥陀仏があれば、なんとか耐えられるような気がする。
忍耐できなかったら、それも仏のはからいであろうとあきらめるしかない。
今年に入ってから源信、法然、親鸞、日蓮、蓮如と日本仏教の流れを味わうことができた。
おのれの僥倖(ぎょうこう)を合掌して感謝したい。
これで一区切りがついた、と思う――。

ビール(もどき)をのみながらオセロをやった。
20年ぶりだろうか。ゲームのオセロである。
あちらは本気で勝とうとしている。二手先、三手先まで考えているようだ。
わたしは負けてもいいから、思いつくまま適当にコマを置く。
困ったのは時間。こちらはいいかげんだから即座にコマの位置を決める。
ところが、あちらは真剣だからかなりの思考時間を要する。
「ちょっと、早くしてよ」とビール(もどき)をのみながら指摘する。
やはり考えているほうが強い。盤上は白(わたしは黒)で埋め尽くされている。
負けるのシャクだが、はなから勝負をあきらめているのだから仕方がない。
端(はし)も白が占領するようになる。
どうしたきっかけで、ああなったのかいまでもわからない。
突如、わたしに風が向いたのである。黒が勢力を増し始めた。
この時点でも、わたしは勝てるとも勝とうとも思っていなかった。
ところが、どうだろう。いつの間にか攻防は逆転して圧倒的な黒優位に。
自分でもなにがなんだかまるでわからなかった。勝利したのである。

あんがい、こんなものでもないかと思う。むろん、あちらも酔っ払っていた。
したがって、酒呑みふたりの勝負の結果から
なにか究極の真実を発見したと声高に主張したいわけではない。
しかし、ぞんがい実際はこんなものではないだろうか。
勝とう勝とうと計算し尽くしていたものが負けてしまう。
勝敗を度外視していたほうが、予想外の果実を手にする。
いまは不況のせいか成功哲学(自己啓発)の書籍が盛んに出版されるでしょう。
こうしたら成功できる、こうしたら人生に勝利できると教える本が売れる。
ところが、成功しよう勝利しようと思っても、どれだけ努力しても、
かなしいかな、圧倒的大多数は成功も勝利もできない。
ならば、あえて負けるようにたくらんでみたらどうだろうか。
勝敗度外視どころか、わたしのオセロゲームのようにわざと負けるべくコマを置く。
思いつきでポンポン物事を決めてしまう。先のことなどまったく考えない。
挙句(あげく)、負けるのならば、予想していた通りである。
果たして、この達観者は敗北するのだろうか。
思いのほか、こういう態度の人間がゲームに勝ってしまうのではないだろうか。

どうして人間は自力で努力で人生ゲームに勝利できると思うのだろうか。
ひっくり返す。
どうして人間は自力で努力で人生ゲームに敗北できると思うのだろうか。
勝利しようと思っても敗北してしまう。
ならば――。こんなことを考えるわたしは、おそらくキチガイなのだろう。
通っている某創作スクールでは、
とにかく講師の指導に従うのが成功への道だと教えている。
成功をなかばあきらめてしまうと怖いものがなくなってしまう――。

(注)ここは強調しておきたいが、
ゲームに勝つことで相手との人間関係が悪化してしまうことは多々あるので、
人生も同様、勝てばいいというものではない。
「負けるが勝ち」の重みを忘れてはなりません。
9月10日、表参道にあるシナリオ・センターへ行く。
シナリオは思ったようなものを書けないし、2ちゃんねるでは叩かれるし意気消沈気味。
今日は定時に到着。ドアを開ける。今日も受講生は少ない。わたしを入れて3人のみ。
Uさんの様子がおかしい。大丈夫かよと思う。
一心不乱に書類をめくっているのである。めくり終わると、また最初からめくる。
顔色から憔悴(しょうすい)がうかがえる。風邪でも引いているのではないかと心配した。

シナリオを書いてきたのはわたしひとり。
ゼミ開始時刻から5分が過ぎたのにUさんは書類チェック(?)を続けている。
「Uさん発表してもいいですか? ほら、わたしのシナリオは不愉快なんでしょう。
だから、受講生が少ないうちに発表したいんです」
「そうだね、ハハ」
(「いえいえ、不愉快じゃありません」とか社交を言う余裕もUさんにはないのだろうか?)

発表する。Uさんの講評に入るのだが、師の態度が変わっている。
確認の意味だろう。わたしのシナリオを丁寧に最初から読んでくれるのである。
ありがたかった。耳はどうにも信用ならない。
以下、Uさんの拙作「明日は雨でしょう」への講評。
・スーパーで騒ぐ子を「うるさい」と叱りつける男はいないだろうが、いるかもしれない。
・夫婦の会話「うちの血じゃない」うんぬんはおかしい。
妻の実家で母が娘に言うようなこと。けれども、枚数が少ないのだから、これは仕方がない。
・ナンパのところはいい。
・船上デッキでの男女の会話がよくわからない。
わたしは意図を説明したが(=「本当よりも嘘がいい!」)ご理解いただけなかった。
・ふつうはデッキでお互いの事情を話すものだが、この場合は、この場合は(口を濁す)。
・タイトルの意味を問われ答えたがUさんにはわかってもらえなかった。

タイトルの意味。明日の天気予報が雨でも人間は晴れろと祈るものでしょう。
そこに人間のどうにもならぬ姿勢がある。
で、結局、雨は降る。人間は無力で雨が降るのをとめることはできない(例外あり)。
このとき雨もまたいいじゃないかと思うしかない。
晴れには晴れの味わいを、雨には雨の味わいを感じ取るくらいしか人間はできない。
雨だったら雨を味わい尽くすしかない。
知的障害児を持った親御さんは、
将来先々にわたって「明日は雨でしょう」と予報されたようなもの。
晴れろと祈るが、おそらく明日も雨だろう。
ならば――。雨を味わう、この一点に意義があるのではないか。
しかし、天気予報は絶対ではない。天気予報が外れることもある。
人間は明日なにが起こるか究極的には知りえない。これもまた救いではないか。
こういう意図があって「明日は雨でしょう」を書いた。
おそらく、だれにも伝わらなかっただろうことはUさんの反応から理解した。

さあ、ゼミに戻ろう。あと1時間半以上時間が余っているわけである。
くだらない雑談を聞きたくないからUさんに問う。
「シナリオはどのくらいで見切りをつけるものなんでしょうか」
これは暗にUさんのことを聞いていたのである。いつシナリオに見切りをつけたか?
質問意図が通じていないのか(なわけねーよな)Uさんは一般論を語り始める。
黒板に「10年、20本」と書き出す。
U「ふつうは10年やってものにならなかったらダメと言いますね。
それかコンクールに20本、応募してぜんぶ落ちたらあきらめろ。
ボクも受講生から質問されます。才能あるでしょうか、なんて。
才能の有無は、だれにもわかりません。ボクはそう答えています。
肝心なのは書き続けること。要は書き続けることです。書いてください」

どうしてこの先生は自分を高みに置きたがるのだろう。
わたし「Uさんは10年シナリオを書き続けたんですか?」
嫌味な質問をする受講生だよな。
U「ボク? ボ、ボクのことはどうでもいいじゃない。ボクはね、ボクはね」
Uさんが10年書き続けても芽が出なかったのかはわからなかった。
この先生の口癖は「シナリオはテクニックで簡単に書ける」である。
いつか問いただしてみようと思っていた。
今日は(も?)受講生も少ないからいいチャンス。

わたし「Uさんはいまもシナリオを書いているんですか?」
U「ボクはね、ボクはね。きみはボクのことをよく質問するねえ」
わたし「はい、夢にも見ますから(ごめん、嘘よ)」
U「ボクは、夢には見ないが」
わたし「Uさん、一度シナリオのお手本を書いてみてくれませんか?」
U「きみはシナリオ・センターを辞めたたほうがいい」
わたし「Uさんは本当にシナリオを書けるんですか?」
U「きみはシナリオ作家協会(=別のスクール)に行ったほうがいい。
そうだ。そうしなさい。きみはシナリオ作家協会に行きなさい」
わたし「もしかして講師のUさんがシナリオを書けないなんてことは」
U「きみはシナリオ・センターの仕組みをわかっていないな。辞めなさい」
わたし「怖いんじゃないですか。シナリオ本当に書けますか」
U「きみはシナリオ・センターを辞めなさい」
わたし「きっとUさんはすごいシナリオを書くんでしょうね」
U「シナリオ・センターはそういうことはやっていない。辞めなさい」
わたし「音楽の先生はうまく楽器を演奏することができるでしょう。シナリオも」
U「きみはセンターを辞めなさい」
わたし「シナリオを書くのは楽しいですよ」
U「わかったか? きみはシナリオ・センターを辞めなさい!」

ものすごい修羅場が展開されたわけよ。
シナリオ・ライターを目指したはいいが、まったく芽が出ないで五十を過ぎた男。
にもかかわらず、この五十男はいまでも自分の才能を信じている。
おなじように作家にあこがれ、そのくせ才能のない三十過ぎの男。
この三十路もいい歳をしていまだおかしな夢を見ている。
ふたりのロクデナシがいがみあっている。ギャラリーはふたりのみ。
純文学というか、現代の地獄絵図でしょう(笑)。
成功と縁のない無能な人間同士のちっぽけな尊厳をかけた不毛な論争。
このシーンを映像に録画しておいて、夢を見る若者に見せるべきではありませんか。
身の丈に合わない夢を見ていると将来どうなるかが実によくわかる。
才能がないことの切なさが痛みをともなって伝わることでしょう。
冴えない三十路と冴えない五十男のどこにも輝かしいところのない衝突といったら――。

落胆したのも事実である。Uさんのハッタリはものすごいのである。
「シナリオなんて葛藤を使えばすぐに書ける」
「20枚シナリオくらい1時間で書けないこともないでしょう」
「ボクは女性を主人公にしたシナリオを書くのが好きでね」
大言壮語をよく耳にしたものである。
もしかしたらお手本を書いてくれるのかもしれないという期待がなかったわけではないのだ。
そのお手本シナリオが案外おもしろかったりしたらどうしようか、とまで思っていた。
Uさんが男気を見せてくれる可能性をゼロとはふんでいなかった。

どうなのだろうか。わたしはどこまでおかしいのだろうか。
「シナリオなんかテクニックで簡単に書ける」とUさんはしきりに口にしている。
そのうえ、この先生からわたしは自作を幾度か酷評されている。
先週は「他の受講生に聞かせられないほど不愉快」とのご感想をいただいた。
「そこまで言うなら、おまえが書いてみろよ」と主張するのはおかしいのだろうか。

この問答のおかしなところに気づいたかたはいませんか?
質問は「Uさんはシナリオを書けますか?」。
回答は「きみはシナリオ・センターを辞めなさい」。
変でしょう。質問への回答になっていない。
「はい/いいえ」で答えなければならないのをすりかえているのが明瞭である。
どうしてUさんは回答してくれないのだろうか。
「いいえ」でもいいのよ。「いいえ」で構わない。シナセンは授業料が安いのだから。
「ボクはもうシナリオを書けません。けれど、習作をたくさん読んできました。
だから、もしかしたら、みなさんのシナリオ創作のお手伝いをできるかもしれません」
「いいえ」でも、こう回答してくれたら、こちらは納得するのである。
ところが、Uさんは「はい」も「いいえ」も口にできない。
授業では、まるで自分がむかしプロ作家であったかのようなことをうそぶく。
業界人のような口を聞く。要約すれば「書いたら負け」の世界なのである。
Uさんがシナリオを書いた時点で講師ではなくなってしまう。
シナリオを書かない限り、講師として存在することを許される。
Uさんの心ない講評に傷つき涙をのんでスクールを去った受講生もいたことだろう。
このかつての受講生がUさんのシナリオを読んだら、どんな反応を示すか。
繰り返すが、シナリオ・センター講師は「書いたら負け」なのである。

Uさんにはシナリオを書けないやましさみたいなものがないのだろうか。
シナリオ・センター所長のGさんは、講義で時折もう書けないことをにおわせていた。
だから、教えるしかない。いまはそのことに情熱を持っている。
いまでもシナリオを書いている数少ない講師のひとりKさんでさえも、
Gさんに似た含羞(がんしゅう)を持ち合わせていた。
両先生に好感をいだいたゆえんである。
ところが、Uさんからは恥じらいの欠片(かけら)も感じられない。
とんでもない五十男がいたものだと思う。

10回以上「シナリオ・センターを辞めなさい」と言われるとこたえる。
帰宅後、ある人に電話した。
「それでYonda?さんが本当にシナセンを辞めたら、みんなビックリするだろうね」
ああ、そうかと思う。そうだよな。
Uさんは自分で自分の首を絞めていたことに気がつかなかったのだろうか。
もうシナセンを辞められなくなってしまったのである。
ここで辞めたらUさんに負けたことになるでしょう。
Uさんほどではないが、わたしにも多少のプライドはある。
十回以上も高圧的に「辞めろ」と言われたら、男として辞めるわけにはいかないのである。
これでもう引けなくなってしまった。
Uさんは、どんな人生を送ってきたのだろう。
自分が「辞めろ」と命令したら、他者はその通りに動くと本気で信じているのか。
シナセンでは「セリフは嘘つき」と習う。
あのUさんのセリフには他意があったのだろうか。
本当に辞めさせたいなら、ああ言うのはかえって逆効果だとは思わなかったのか。

わたしはこの日のことを一生、忘れないだろう。この屈辱は忘れられない。
この先生のおかげで自分のいまの立場をいやというほど理解することができた。
Uという人は、五十代男性のなかでもかなりレベルが低いほうでしょう。
ところが、わたしのいまの立ち位置ときたらどうだろうか。
最低の五十男から「辞めろ」と(お願いではなく)命令されるのが現在のわたしだ。
おカネを支払っているのに、「辞めろ」と命令されるほど、おのれのレベルは低い。
この悔しさがおそらく今後のわたしに無限の養分を与えてくれることだろう。
残り22本習作シナリオを書いてやろうと決意する。研修科を卒業してやる。
毎週、Uさんを見たら刺激になるだろう。こういう五十男にだけはなりたくない。
だったら、どうしたらいいのか。懸命に書くしかないのである。
平穏無事だと人間はものを書かなくなる。心中のもだえが創作には必要だ。
Uさんは「書いたら負け」で、わたしは「書かなかったら負け」なのである。
「シナリオ・センター日記」の継続をここに宣言する。

「ボクは憤ってます」とUさんが訴える。「ボクはきみに憤っています」
口にしまりがないUさんは、シナセンの裏側を軽々しく話してしまうのである。
なんでも研修科の2回目(7月23日)、
わたしがいやだという理由で受講生がふたり他のゼミに移ったという。
こういった内部事情をうっかり口にしてしまうほど、この日のUさんは動揺していた。
「だから、ボクはきみに憤っています。いまも憤っています」
このとき、Uさんがなにゆえ憤っているのか正直わからなかった。
後日ようやくわかる。Uさんは自分の不人気ぶりを気にしていたようだ。
ぶっちゃけ、U先生はひどく人気がない講師なのよ。
おなじ曜日の人気講師A先生のゼミなんか20人近く出席しているのでは?
ところが、Uさんのゼミは毎回数人。
課題シナリオを持たずにUさんの話を目当てに出席するものは少ない。
資本主義の世界は厳しい。
わたしも最初にUさんのゼミに入ったとき、あまりのひどさに落胆した。
みなもUさんの指導から同様の感想を抱いたのであろう。
どんどんUさんのゼミから人が離れていく。時間がもったいないと出席しなくなる。
このたびは貴重な受講生がふたりもゼミから離れた。
人気講師ならなんでもないのだろうが、Uさんには憤るに価する事件。
こんな本音をぶちまけてしまっていいのだろうか、とUさんのことが心配になる。

ちなみに余談。あのときUさんのゼミを離れたふたりのうち女性のほうが、
いま2ちゃんねるでわたしを中傷している。
この女性に話しかけられて、あまりの意地の悪さにオドオドしたのをよく覚えている。
2ちゃんにその通りのことが書かれているのだから。
たしかにあのときはオドオドして目を合わせられなかったよ。
この女性はおなじ曜日のべつのゼミに移っている。
だから、偶然にシナリオ・センターで逢ってしまうこともありうる。
わたしは彼女の顔もフルネームも把握している。
顔を合わせたら、どうしたらいいのだろう。
おそらくシナセンに来たら殴ってやると書いたのもこの女性と思われる。
いやはや、顔を(名前も)知っている人が2ちゃんに書き込んでいると思うと複雑です。
一応、ばれていることだけは通達しておくからね♪

Uさんによると、わたしの質問は他の受講生(といってもふたり)に迷惑らしい。
「きみは他の受講生の大切な時間を奪っている自覚を持ちなさい」
なんでもUさんは情報の宝庫で、受講生はみなみなそれを知りたがっているらしい。
わたしが質問をすることで、他の受講生はチャンスを失ってしまう。
驚くのは、Uさんが自分の教えに過剰な自信を抱いていること。
この日は1時間20分近くUさんの授業が展開された。
やたらもったいぶった話しかたをするのはどうしてなのだろうか。
いきなり黒板に「企画書」と書いて、企画書の書きかたを話し始める。
なんでもシナセン人気講師Kさんの企画書講座があるとのこと。
U「おっとこれ以上、話したらK先生の営業妨害になってしまう。
ボクは知っているけれど、そういう事情で教えられないから」
他の受講生がラジオドラマの書きかたを質問したときもおなじ。
U「ラジオドラマの書きかたはH先生の本が事務局に売っているから読んでね。
あまり話すと営業妨害になってしまうから、このへんで」
わたしが下読みについて質問したときも同様。
(下読みは応募者の名前がわかるのか?)
U「おっとこれ以上は企業秘密だから話せないな」

Uさんの自己イメージは、自分はシナリオについてなんでも知っている博識の先生。
だったら、もったいぶらずに話せばいいと思うのだが、わけわかんないよな。
成功と縁のなかったUさんの人生を考えるともうどうしようもないのだろうが、
この先生の見栄、虚勢、ハッタリには目を覆いたくなる。
見ていて痛々しいのである。もう少し自虐の技術を学んだほうがよろしい。
まあ、あまり自虐をされるとUさんの場合、とんでもないことになりそうだが……。

ラーメン屋さん。客が来て「まずい」と言う。「代金はいらないから帰れ!」
これは正しい。代金を取っておいて「帰れ!」はない。
ラーメン屋ならおいしいラーメンを作る努力をしなさい。
シナセン講師なら、いかに受講生を満足させられるか一生懸命に考えなさい。
アリストテレスの件もそうだが、Uさんは勉強不足。
いまNHKでやっているドラマの名前でさえパッと出てこなかった。
来週も出席者は少ないだろう。どんな名講義を聞かせてくれるのか楽しみである。
いちばんいいのは自分の話をしてしまうこと。
コンクールに落ちたときの悔しさ。再度挑戦するまでの気持の運びかた。
初めて自作の3分アニメがテレビで放送されたときの喜び。
こういうUさんでなければ話せないことを、わたしは教えてもらいたいと思う。
見栄や虚勢を捨てて裸になったU先生のお姿はすばらしいと思いますよ。
それは成功とか失敗に関係のない人間本来の魅力になるのだから。

こんなことをUさんから言われたな。「きみのことはG先生からよく聞いている」
G先生とはシナリオ・センターの所長さんである。思えば、あの情熱が懐かしい。
わかったのは、わたしの存在が想像以上に内部で噂になっているらしいこと。
これで研修科初日のUさん行動の真相がわかった。
そうとうGさんからわたしの噂を聞いていたのだろう。
Uさんはおかしなハッスルをして、「やっつけてやろう」と思ったに相違ない。
結果、あの不幸な出逢いとなってしまったわけである。

ひとつ心配していることがある。Uさんが壊れてしまわないだろうか。
来年の3月までなんとか持ちこたえてほしい。あと22回お互いがんばりましょう。
というのも、Uさんがちょっとおかしいような気がするのだ。
シナセンには会報の「シナリオ教室」という月刊誌がある。
Uさんのまえにこの雑誌が開かれて置いてある。
見ると、黄色い蛍光のマーカーであちこち塗りつくされているのだよ。
ふつう人は重要な部分にしるしをつけるでしょう。
ところが、Uさんはページ全体を黄色の蛍光ペンで塗りたくっている。
黄色に光る「シナリオ教室」からわたしは狂気を感じてしまった。

悔しいのであえて書かなかったが「辞めなさい」と十回以上命令されてひどく傷ついた。
この長文記事の分量から、わたしの尋常ならぬ苦悶をご理解いただけると信じている。
なんとかこの屈辱をシナリオ創作に生かしたいと思う。
Uさんも追いつめられたところからシナリオを書けばいいのにと心底から思う。
五十代からのプロデビュー。格好いいではないか。
たとえコンクールで入賞しなくても書けばいい。なぜならシナリオを書くのは楽しいからだ。
シナリオ・センター研修科課題第8回目。「不安」(20枚)。

<人物>
朝倉今日子(28)主婦
朝倉道夫(32)その夫
朝倉知典(とものり)(5)その子
坂東義雄(27)主夫
坂東孝史(4)その子

○スーパー・中
朝倉今日子(28)がカゴを片手に買い物。そばに朝倉知典(5)がいる。
野菜売場。今日子は見切り品コーナーの黒ずんだ枝豆を手に取る。半額シール。
今日子は半額の枝豆を元に戻すと通常販売コーナーへ向かい、
きれいな枝豆をカゴに入れる。今日子と知典は惣菜コーナーへ。
知典が奇声を上げハンバーグに向かう。知典はハンバーグを手づかみにする。
今日子「トモ、やめなさい」
知典は泣き喚(わめ)く。不愉快な泣き声。
買い物客が今日子と知典を振り返る。
男A「うるさい!」
今日子「すいません」
今日子は知典を黙らせようとするが、かえって大声を上げる。
店員が駆け寄る。床に落ちたハンバーグ。
今日子「すいません。代金は支払います」
店員「いいえ結構です」
知典が泣き喚きながら別方向へ駆け出す。追いかける今日子。

○同・全景(夕方)

○同・中(夕方)
坂東義雄(27)が見切り品の枝豆をカゴに入れる。
惣菜コーナーでハンバーグを三つビニールパックに入れる。

○公園(夕方)
今日子と知典がベンチに座る。ランドセルを背負った小学生の集団が通りかかる。
今日子は小学生と知典を見比べる。
知典が水飲み場に行き蛇口をひねる。勢いよく流れでる水。

○朝倉のマンション・リビング(夜)
コップにビールが注(そそ)がれる。横に枝豆。
コップを一気に飲み干す朝倉道夫(32)。向き合って今日子が座る。
今日子「見て、これ(と紙をさしだす)」
朝倉「うん(見ていない)」
今日子「ポストに。今年に入って三度目」
中年女性の声「どうか深夜および早朝はお静かにお願いします。
おたくのお子さんの騒ぎ声に大変迷惑しています。
改善しない場合、警察への通報も検討中です」
今日子「これいったいだれ。名前を書かないなんて卑怯じゃない。謝りにも行けない」
朝倉「うん」
今日子「説明もできない。うちの子は障害があるって。それでも私は精一杯やってる」
朝倉「うん」
今日子「聞いてるの? どうして私だけこんな目に遭わなければいけないの。
元はといえば」
朝倉「やめろ」
今日子「ぜったいうちの血じゃない」
朝倉「その話はしない約束じゃなかったか」
今日子「どうして?」
朝倉「聞きたくない(と立ち上がる)」
今日子「どうしてお兄さんの自殺を隠していたの? 事故だなんて。
亡くなったお兄さん、おかしかったんでしょう。だから、だから、うちのトモも」
朝倉「メチャクチャを言うな」
朝倉は今日子を引っぱたく。今日子は泣く。知典が現われ泣き叫ぶ。

○同・今日子の部屋(夜)
知典が寝る。横に今日子が添い寝。
読書灯の消し忘れ。その下にノートパソコン。
画面。「知的障害の男性、幼女に性的暴行」「老母、知的障害の長女を絞殺」。
今日子が目を開く。横の知典をじっと見つめる。

○同・全景(朝)

○同・朝倉の部屋(朝)
知典の奇声。朝倉が布団から起きる。

○同・リビング(朝)
台所の三角コーナーに枝豆の皮。朝倉と知典が現われる。
朝倉「お母さんはどこかな?」
朝倉は携帯電話をかける。着信音が鳴り響く。
テーブルに今日子の携帯があるのだ。携帯の下に置手紙。
今日子の声「トモはまかせた」
朝倉「このままなんてことないよな、おい」
朝倉は知典を見つめる。

○繁華街
お洒落した今日子が歩く。横から坂東。
坂東「もしもし、おねえさん」
今日子「はあ?」
坂東「これ落としましたよ」
今日子「え?(と見る)」
坂東「落し物(と手には五円玉)」
今日子「――」
坂東「――」
今日子「からかってる?」
坂東「いいえ」
今日子「ナンパでしょ?」
坂東「まあ」
今日子「本気でこんなのに女が引っかかると思ってる?」
坂東「いえ、フフ、ですよね」
今日子「なにかの罰ゲーム?」
坂東「ひどいな。せっかく勇気を出して」
今日子「私、五円で釣れるような女?」
坂東「とんでもございません」
今日子「行こう」
坂東「え? どこへ?」

○ラブホテル・全景

○同・中
身体にバスタオルを巻きつけた今日子が整ったベッドの端に腰かける。
今日子「――」
下半身タオルの坂東が現われる。
坂東「ここまで来て、なんかおかしいけれど」
今日子「うん?」
坂東「よくわかんないっていうか、嘘だろうっていうか、信じられないっていうか」
今日子「うん」
坂東「ナンパなんてしたことなくて。え? こんなのありなの? なんて今更だけど」
今日子「わかる」
坂東「え?」
今日子「私もナンパなんて初めて」
坂東「へえ」
今日子「そういうことしたことないし、自分がするはずがない。そう思っていた」
坂東「そうなの」
今日子「でも、こんなことになっている。私が無理やりホテルに連れ込んだのに」
坂東「いえ」
今日子「悪いけれども、こんなの初めて」
坂東「フフ、似た者同士」
今日子「メチャクチャしたくて、とっても悪いことしたくて、人生にアッカンベエしたくて、
でも、いざとなると(と震える)」
坂東「そういうこと、ある」
今日子「あなた悪い人じゃなさそうだったし」
坂東「マヌケなナンパで」
今日子「恥ずかしい話だけれど、いま裸で震えている。怖い。本当は――」
坂東「いい。本当、いらない」
今日子「いらない?」
坂東「一日だけ。本当にサヨウナラ」

○東京タワー・全景(夕方)

○同・展望室(夕方)
今日子と坂東が夕陽に照らされた東京を眺める。東京湾が見える。

○出港する大型汽船(夜)
東京湾納涼船の「さるびあ丸」である。

○さるびあ丸・デッキ(夜)
浴衣(ゆかた)姿のものが多い。
今日子と坂東が夜の海を見ながらビールを飲む。
今日子「いま私は海外に売り飛ばされようとしている。
なにひとつ悪いことをしていないのに、運命の悪戯で。ああ、なんて可哀想なのだろう」
坂東「そこに小船に乗ったヒーローがやってくる。悪いやつを次々に倒していく」
今日子「ふたりはとうとう巡り合い」
坂東「いまこうして勝利の美酒を」
ふたりは乾杯する。
今日子「こんなことあるんだね」
坂東「うん?」
今日子「人生、なにが起こるかわからない」
坂東「うん」
雨が降り始める。
今日子「おかしい。今日はずっと晴れだって」
坂東「わからないね」
今日子「本当」
ふたりは笑う。雨が激しくなる。
坂東「雨の東京もなかなか」
今日子「うん、こうして見ると」
さるびあ丸が港に戻る。

○療育センター「たんぽぽ園」・全景

○同・中
今日子が知典と手をつなぎ歩く。
知典が駆け出す。前方の坂東孝史(4)にぶつかりそうになる。
今日子「ごめんなさい」
孝史の横の坂東が振り返る。
今日子と坂東は顔を見合わせる。お互いの子どもを見る。状況を理解する。
あまりのことに今日子と坂東は笑い出してしまう。知典と孝史は泣き喚く。


(補)10年以上もまえ大学生のころ繁華街で女子高生をナンパしたことがあります。
言うまでもなく、成功の理由は相方のルックス、トークが抜群だったからです。
カラオケに行って、「じゃあ、さようなら」でした。
いえいえ、シナリオとはなんの関係もない思い出話です。
シナリオは、Uさんが「感情移入できない」と批判してくるから障害を利用。
しかし、(身体障害者と異なり)知的障害者に人は同情できないので、その母親を。
書いていてあまり楽しくなかったです。おのれの枯渇を意識しました。
どこかあきらめているところがある。
わたしのシナリオは耳で聞いてもたぶんわからないであろう。
どうか読んでいただきたいと思っている。
耳よりも目のほうをわたしは信じている。
耳は不自由なものではないか。というのも、耳は漢字を識別できない。
「ガッショウスル」と耳で聞いたとする。これがぱっと「合掌」に漢字変換できるだろうか。
目であったら「合掌」と「合唱」は容易に区別することが可能だ。
「ゲッコウスル」と聞いて即座に「激昂する」と変換できるか。
しかも、この場合、わたしは「激高」ではなく「激昂」を使っている。
この微妙な相違を耳で聞き分けることは完全に不可能というほかない。
食堂の名前などでも、おなじこと。耳は漢字を理解する能力を持たぬ。

音は発声者のスピードですぐに消え去ってしまう。文字は異なる。
だから、あれっと思ったら読むスピードを遅くすることが文字なら可能なのである。
ここは飛ばし読みして、重要な部分をじっくり読み込むということもできる。

シナリオ・センターの言い分は一貫している。
視聴者は耳で聞いている。だから、耳で聞いてわからないシナリオはダメ。
一見、正しいようだが、賢明なみなさまは疑問を感じるのではありませんか。
いったいだれがシナリオを聞くのだろうか。
コンクールの下読みはシナリオを耳で聞くのだろうか。選考委員も同様。
ディレクターはシナリオを耳で聞くと思う人はいますか。
役者はシナリオをもらったら、まずどうするか。
やはりシナリオは読まれるものなのではないだろうか。
最終的には、このようにありとあらゆる人間が読み込んで、
わかりやすく再構成されたシナリオがドラマとして視聴者の目と耳に届けられる。
9月3日、表参道にあるシナリオ・センターへおもむく。
今日は7時半の男。まず事務局で月謝を払う。8500円。
教室へ入る。今日も受講生は少ない。すぐさま発表の順番になる。
もうニヤニヤするしかないわけね。今回の課題は「やっつけ」だから。
はなから誉められようとも、理解されようとも、期待していない。

受講生の感想は「わからない」「わからない」「わからない」。
わたしはニヤニヤしながら「ごめんなさい」。
Uさんがなんか激しているのね。怒っている。「はあ?」とわけがわからなかった。
感情を昂ぶらせて、「この主人公にはまったく感情移入できない」。
悪意がビンビンで「やっつけてやろう」と思っているのがひしひし伝わってくる。
Uさんはほかの受講生をあおる。「本音を言ってやりなさいよ」
わたしを吊るし上げたいようなのである。
くだらないシナリオなのは認めるけれど、こうまでUさんが切れている理由が意味不明。
あとで冷静になって思い返したら、
シナリオのなかの「アリストテレス」や「ドラマは葛藤だ」がUさんを刺激したのかな。

U「きみはわかっていないが、人間の個性というのはね。個性的の意味はね」
こう早口で言いながら、Uさんは黒板に「個人的」と書く。
わたし「先生、漢字が違いますよ」
U「――(あわてて黒板消しを使う)」
人間の個性についての五十男ならではの卓見を聞くことはできなかった。

U「きみは山田太一が好きなんでしょう」
わたし「はい」
U「山田太一のシナリオの人物は感情移入できるでしょう」
わたし「はい」
U「ほうら。きみももっと感情移入できる人間を書きなさいよ」
わたし「――」
U「ありきたりなものを書いてくださいよ(得意気)」
わたし「――」
U「そうだ、こうしよう。次回の課題は『不安』。ボクが言ったとおりのシナリオを書きなさい」
わたし「私は人からこう書けと言われたものは書けません」
U「これは講師の命令だ」
わたし「書けません」
U「――」
わたし「――」

またまたUさんからシナリオ・センターを辞めるように言われる。
理由がすごいんだな。これを本当に言われたのですからね。
なんでもわたしのシナリオは、聞くものにとって不愉快すぎる。
わたしのシナリオは他の受講生に失礼である。
わたしのシナリオを聞くのがいやで教室へ来なくなってしまう受講生もいるのではないか。
だから、シナセンを辞めて独学したほうがいい、と講師のUはのたまった。

拙作がそんなに強い影響力を持つのなら、はなはだ光栄のいたりと言うほかない。
けれど、たかだか10分でしょう。いくら退屈でも我慢してくださいよ。
Uさんはなにか勘違いしているようだが、わたしは毎週2千円、あなたに金銭を施している。
Uさん自身が口にした言葉を使えば、「お客さん」でしょう。
ここまで失礼な暴言を吐く神経がわからない。
どうやらUさんの評価のなかでは、拙作シナリオが最低レベルにあるらしい。
この人はね、「正義の味方が悪役を打ち負かす」といったシナリオが好きなのよ。
こういうシナリオを受講生が発表すると「なかなかやるね」と絶賛するのだから。

拙作への講評は早々と終了する。で、なにが始まると思いますか。
シナリオ・センター講師のU先生によるご講義――。
あまりシナセン研修科での授業風景は知られていないから公開してみるのも悪くない。
締切の迫った短編シナリオコンクールが話題になっている。
U「ボクは毎日、受講生に気を送ってるんだからね。
きみ(女性受講生)はかならず今晩、びくっと感じるはずだから。
それボクよ。ボクの送った気が通じたの。シナリオを書きなさいという気。やる気。
みんなのところへも毎晩、気を送っているからね。シナリオを書けるようになる気」
わたし「――(ポカーン)」

わたしはマゾなのだろうか。毎週2千円も支払って、こんなゼミに参加するなんて。
いや、サドかもしれないぞ。ゼミは毎週、5分前に終わる。
ほかの受講生が退室したことを確認してからUさんに話しかける。
わたし「Uさんはそのコンクールに向けてシナリオを書かないんですか?」
U「ボクは書きません」
わたし「Uさんが書いたらぜったい入選するんでしょうね」
どんな切り返しをしてくるのか期待していたら、お返事をいただけない。
「はい」とも「いいえ」ともおっしゃらない。
見ると、Uさんは怒りと屈辱で小動物のようにプルプル震えていた。
プルプルするってことはまだなにかあるのかもしれない。
Uさんのなかのいったいなにがプルプルを生みだしたのだろうか。

わたしはUさんのことを嫌いになれない。
今日の拙作シナリオだって、大人の講師なら適当にごまかすことができるのよ。
「アハハ、なかなかの実験作じゃないんですか。
でも、まあ、どうかな。ちょっと外したのではないですか。まあ意気込みはいいです。
来週に期待しています」
このような大人の態度を取ったら受講生から恨まれることもないのである。
ところが、Uさんは大人になりきれていない。
おそらく、極端に社会経験が少ないのだろう。
シナセンで「先生」と呼ばれたことも症状を悪化させるきっかけとなった。
才能がないくせにプライドばかり高く、幼児的に感情をすぐに表に出してしまう――。
Uさんにそっくりな人をわたしは知っている。
ふふふ、Uさんはわたしと瓜二つなのではないか。
おそらく、わたしがあと20年間、成功できなかったらU先生になるのだろう。
Uさんと接していると、将来の自分の姿を見せつけられているような思いにとらわれる。
講師を心底からは憎めない理由である。

最後にU先生のいいところをひとつ書いておきたい。
取り巻きがひとりもいないのである。
これはU先生の稀有なる人徳がもたらした結果なのだろう。
たいがい、このようなカルチャースクールでは、講師に取り巻きがついている。
講師への崇拝者が決まっているものである。
講師は取り巻きに守ってもらえるから、安心して自説を述べられるわけだ。
ところが、Uさんには、ひとりとして取り巻きがいない。
シナセン講師のなかでおそらくただひとり孤高の道を歩まれておられる。
こういうひねくれた部分を、わたしはU氏の魅力だと思っている。
シナリオ・センター研修科課題第7回目。「宿命」(20枚)。

<人物>
志賀哲也(33)自称映画監督
高瀬千春(29)その恋人で自称映画監督
古家眞(54)O田区立小池小学校校長

*男女はドキュメンタリー映画作家を自称している。

○アパート・千春の部屋
高瀬千春(29)が床に座る。
志賀哲也(33)が千春をビデオカメラで撮影している。
志賀「スタート」
千春「――」
志賀「ほら、なにか言わないと」
千春「――」
志賀「そろそろ観客が怒り始めるよ」
千春「――」
志賀「いくら自主映画の観客だって、そこまで寛容じゃない。
なにも喋らない女優のアップをずっと見ていてはくれない」
千春「編集で切ればいいじゃない」
志賀「第一声が出たね。その調子だ」
千春「それに私は女優じゃない」
志賀「きみはだれか?」
千春「――」
志賀「だれ?」
千春「哲学?」
志賀「哲学者のアリストテレスは言っている。
ドラマとは行為である。行為の再現がドラマである。
肝心なのはアクションだ。きみはいま大勢の人間に見られている。さあ」
千春「なにがしたいの?」
志賀「ドラマを撮りたい。人間を撮りたい。
魅力的な人物の登場する映画を撮りたい。人を感動させたい。人から評価されたい」
千春「なにを言えばいいの? なにをすればいいの?」
志賀「きみは台本をもらわないとセリフひとつ言えないのか? 
自分の言葉というものを持っていないのか? 
言いたいことはないのか? この大根役者め!」
千春「もしかして喧嘩、売ってる? なにそれ。バカみたい。
どこかのシナリオスクールで教わった? ドラマは葛藤だ」
志賀「――(ニヤニヤと撮影する)」
千春「つかみかかればいい? カメラを取り上げればいい? 
どんな葛藤を作ろうか? そんなことして本当におもしろい映画になると思う?」
志賀「――(ニヤニヤと撮影する)」
千春「ねえ、なんか言って。ちょっと、フフ、怖い。ねえ、なにをしたらいい?」
志賀「シナリオはない。なにをしてもいい」
千春「じゃあ、なにもしない」
志賀「それはいけない」
千春「どうして?」
志賀「カメラがまわっている。観客がきみを見ている。きみはなにかしなければならない。
観客を満足させるなにかを。刺激的なセリフを言ってくれても構わない」
千春「わからない」
志賀「――(ニヤニヤと撮影する)」
千春「――」
志賀「早く」
千春「なにもない。私にはなにもない」
志賀「――(ニヤニヤと撮影する)」
志賀「だから(と立ち上がる)、せめて、脱ぎます。ごめんなさい」
衣服を脱いでゆく千春。
志賀は撮影をやめない。

○アパート・志賀の部屋
志賀がウイスキーをロックで飲む。
今度は千春が志賀をビデオカメラで撮影している。
千春「スタート」
志賀「(カメラに向かって)みなさんはディオニュソスをご存知ですか? 
ギリシアの神さま。別名バッカス。お酒の神さまで、陶酔や興奮と縁がある」
千春「フフ」
志賀「演劇の起源はギリシア悲劇だが、
古代ギリシアでドラマはこのディオニュソスに捧げられた。
だから、酒が演劇を作ったと言ったら語弊があるのかもしれないが」
千春「――(ニヤニヤと撮影する)」
志賀「酒を飲むと思い切った行動ができるのは事実だ。さあ、行こう。町へ出よう」

○古家家・玄関
志賀がドアのチャイムを押す。千春が志賀をビデオカメラで撮影している。
古家眞(54)がチャイムに答える。
古家の声「どちらさまですか?」
志賀「わたくし、先生の二十年前の教え子で、志賀と申しまして、
今日は、ちょっとその、お話が」

○同・居間
志賀がテーブルまえに着席。千春が志賀を撮影。
麦茶を持った古家がやって来ると千春は古家にカメラを向ける。
古家「(カメラに戸惑いながら)いえね。妻は娘と出かけていまして」
志賀「お構いなく」
古家「――」
志賀「――」
千春「――(志賀と古家を撮影している)」
古家「ご用は――」
志賀「――(緊張している)」
古家「懐かしいな。嬉しいんですよ。むかしの教え子が来てくれるなんて」
志賀「――(爆発一歩手前)」
千春「――(志賀を煽るようにカメラで撮影)」
古家「なにかな?」
志賀「おい、謝(あやま)れ! おまえ、おまえ! 
二十年前になにをしたのか覚えているか」
古家「――」
志賀「さんざんおれを殴ってくれたよな。この体罰教師が! 
えこひいきも激しかった。自分の気に入った生徒だけかわいがる。嫌いな生徒はぶん殴る」
古家「なにを――」
志賀「変態ロリコン教師が! 
おまえ、女子の身体検査を決まって自分でやっていたよな。
ほかのクラスはみんな保健室。おまえだけ六年の女子を教室でパンツ一丁に」
古家「コノヤロウ」
志賀「いまは校長だと? 変態暴力教師が出世したもんだな、おい。
おれは二十年間、おまえを許していないぞ。
偽善者で、ロリコンで、すぐ子どもを殴る。最低教師! 謝れ。ここで手をついて謝れ!」
古家「コノ、コノ、コノ(と激昂する)」
志賀「土下座して謝れ!」
千春「――(撮影をやめない)」
古家「おい、女、なにを撮っている!」
古家はカメラを取り上げようとする。
志賀「構わない。続けてくれ」
古家と志賀はもみあいになる。古家は急に力なく床に座る。
そうなると志賀もどうしたらいいかわからない。おなじようにその場にしゃがみこむ。
古家「(困りきって)なんなんだよ、おまえら」
志賀「ハハ。アハハハハ」
古家「おかしいよ。変だって」
志賀「古家先生、変わってないっすね」
古家「いきなり、なんだよ」
千春「志賀くん、ダメ! もっと、もっと」
志賀「もういいよ。なんかバカらしくなった」
千春「志賀くん!」
志賀「先生がかわいそうでさ」

○道(夕方)
志賀と千春が歩く。
志賀の肩にカメラの入ったバッグ。
志賀「後味(あとあじ)が悪い」
千春「でも――」
志賀「うん?」
千春「ありきたりじゃなかった。今日はありふれた一日ではなかった」
志賀「明日になってすごい後悔しそう」
千春「でも――」
志賀「なんかね、自由に行動したって気がしないんだ。
やった、ではなく、やらされた、という気がしてさ」
千春「私に(やらされた)?」
志賀「違う」
千春「じゃあ、だれに?」
志賀「うん(と突然、背後を振り返る)」
千春「どうした?」
志賀「だれかに見られているような気がして」
千春「大丈夫?」
志賀「これだ!(と千春のスカートをめくる)」
千春「なに?」
志賀「ダメだ。あいつに先回りすることは、どうしたってできない」
千春「あいつ? どういうこと?」
志賀は立ち止まる。異常なほどの沈黙。
千春「わけわかんない」
志賀「なにを言っても、そのセリフはすでにシナリオに書いてあるような気がしてしまう。
どんな行動をしても、それはきっとト書きに書かれている。――自由が、ない」
千春「そんなことない。これからどうするかは私たち次第。
ケーキを食べに行っても、お酒を飲みに行ってもいい」
志賀「人を殺せるか?」
千春「え?」
志賀「自殺できるか?」
千春「極端」
志賀「こうしよう。役割を変えよう。
いまからおれはお姫さま。千春は王子さまという設定で話そう。
いや、ダメだ。こんなことではあいつの裏をかくことはできない。
くそ、なんとかして出し抜いてやるぞ」
志賀はバッグからビデオカメラを取り出し、この映像を撮影しているカメラに迫る。
カメラの「合わせ鏡」状態。
志賀「ダメだダメだダメだ! くだらない。ありきたりだ。
ああ、笑い声が聞こえる。みんながおれを嘲笑っている。
つまらないことしかできないデクノボウ!」
千春「落ち着いて」
志賀「気が狂いそうだ。どうしたらいい?」
千春「いまから私が言うことを、そのまま繰り返して。これは私が考えたことだから」
志賀「ああ」
千春「つまらないシナリオでごめんなさい。けれど、私たちはこの人生を愛しています。
たとえ、あなたにはつまらなくても、私たちにとってはかけがえのない人生だから」
志賀は千春のセリフを繰り返す。


(補)とにかく書けなくて。コンクール応募作に没頭していたため心が栄養不足。
なにか書こうと思っても、内部が乾燥しきっており、なにも生まれてきません。
連続課題提出記録もこれにてストップと八割がたあきらめていました。
スクール開始時間は6時半。3時半に書き始めたのが、このシナリオであります。
説明しますと、役者にとってシナリオは宿命でしょう。
役者に自由はない。かならず決められたセリフを言わなければならない。
動作もト書きで指定されています。ひるがえって、我われはどうでしょうか。
ほんとうに我われのシナリオ(宿命)がないと言い切れるものでしょうか。
ところが、この問題を突きつめると、狂気にいたるしかありません。
ひと言で要約すれば、「古臭い前衛ドラマ」です。
つまらない。わからない。しかし、わかったところで「クスッ」と笑うくらいでしょう。
これをあろうことかシナリオ・センターに持って行くことのできるおのれの強心臓が恐ろしい(笑)。
8月27日、8時およそ10分前にシナリオ・センターへ到着。
ここのゼミは6時半から8時半まで。もうほとんど終わりかけで入室したわけである。
この不良行動は先輩(笑)から学んだ。
8時ごろにやってきて自作の発表だけして帰る先輩が幾人かいたのよ。
もちろん誉められる行為ではないが、まあ、許される行為だとは思っている。
というのも、時間ギリギリまで書いていたのだから。

今回書いたのはコンクールに応募する作品でもある。
いままでの最高傑作を書くつもりであった。
ところが、このように事前に目標設定を高くすると、なかなか書けない。
アイディアが降ってくる場所は、わたしの場合、主にふたつ。
いちばん多いのは散歩中である。
ストリンドベリはもっぱら散歩から作品を創作したが、
思わずかの(忘れられた)文豪とおのれを比べたくなるほど似ている(恐れ多いぞ!)。
緑のなかを歩いていると(田舎者め!)思いもかけないものが次々と降ってくるのだ。
で、ごくたまに散歩後も、なにも思いつかないことがある。

これがふたつ目のアイディア発想場所。
なんのことはない、パソコンのまえである。書きながら、ひらめく。
しかし、これほど恐ろしいことはない。
先がどうなるか、ゴール地点のまったく定まっていない状態で書き続けるのは恐怖だ。
どこに向かえばいいのかわからないのに、とりあえず走り始めるのである。
この日がまさにこれであった。

何度も投げ出してしまいたいと思った。なにがわたしを駆り立てたか。
締切である。シナリオ・センターである。ぶっちゃけ、おカネである。
この日に作品を発表しないと、卒業が1ヶ月延びてしまう。8千5百円の損失。
1万円近い金額をドブに捨てたくない。この一念がシナリオ創作の原動力となった。
時間が刻々と経過する。あせる。遅刻が決定する。
もうダメかと思う。このときに動くものがあるのだから!
最初に何気なく(なんの意味か自分でもわからず)書いておいたシーンが、
最後の伏線になっていたことに気づくのである。
できあがったのは当初書こうと思っていたものとはまったく別のシナリオ。
しかし、こういうものを書き上げたときの喜びといったら!

限界状態でおのれの無力を実感したときに、ふっと動くものがある。
このときはがむしゃらだから、自分がなにを書いているのかもわからない。
どうしてかものすごいスピードで手が勝手に動くのだ。
アハハ、天才みたいなことを言ってしまった。
むろん、わたしは天才ではない。才能も皆無である。
だが、この瞬間の幸福はなにものにも比しがたい。この快楽をわたしは知っている。
はっきり言って、コンクール入賞なんて、この時点でどうでもよくなっている。
この快感を味わえたということだけで充分なのである。
「それじゃプロになれない」と訳知り顔で批判されそうだが、
プロなんてなろうと思ってなれるもんでもないでしょう。
たまたま運よく、なってしまうものではありませんか。

自分の満足するものが書けたときの幸福感は格別である。
これから先はもうどうしようもないわけ。
だって、評価するのは自分ではないのだから。他者からの評価はどうにもならない。
わたしの可能なのはおのれの満足できるレベルに接近することのみ。
他者からの評価は、相性や時代によって変わるものだから、どうしようもない。

午後7時50分、スキップしながらシナリオ・センター到着。
教室のドアに耳を近づける。
講師と受講生が和気あいあいと歓談している声が聞こえる。申し訳ないなと思う。
「ごめんなさい」と一回合掌してドアを開ける。
瞬間、殺伐(さつばつ)とした雰囲気になるのね(笑)。だから、ごめんなさいって!

発表する。今日のゼミはタメになったなァ。
コンクール応募作品だからこちらも必死なのね。なんとか受賞したいと思っている。
受講生の感想はとても参考になる。
この日、聞いた感想をもとにして後日シナリオを書き直したことを報告しておく。
そろそろ波長が合ってきたのか。
今日のU先生はいままでになく冴えていた。
ここ「どうなの(おかしいんじゃない)?」と指摘されたところは、
たしかにわたしも「どうかな」と思っていたところ。
後日、Uさんのご指摘にしたがい書き直した。
「こう直したらいい」という全面的な「修正指導(?)」は今回初めてなかった。
まあ、これだけ入れ込んだ作品だから、おそらく熱意が伝わったのだろう。
タイトルをこう直したらと指摘される。
いいなと思った。Uさん、うまい指導をするなと初めて感心した。

あれからだいぶ迷ったが、結局のところタイトルは変えないことにした。
というのも、どうせ落ちるのでしょう。
だったら、落ちたときにUさん考案のタイトルだったらぜったいに後悔する。
どのみち落ちるのならオリジナルのタイトルで落選したい。
このタイトルを呪文のように唱えながらシナリオを書き上げたのだから。
教室にいたのはわずか40分だったが、
わたしにとってはいままででいちばん充実したゼミであった。
もしかしたらシナセン生活もいい方向に進んでいるのかもしれない。

あさってはまた木曜日――。果たして新作シナリオを書けるのか。
ひとつ自信になっていることがある。
わたしはいままで一度もシナセンの課題を落としていないのだ。
(書き上げたのに忘れたことはあるけれども……)
「だから、書ける」と信じて毎週パソコンに向かっている。「だから、書ける」――。
できたら今週は遅刻したくない。「8時の男」にはなりたくない。
先ほどコンクール応募用のA4封筒を買ってきた。
コンクールに応募するのは人生でこれが最初である。
シナリオ・センターに通ってよかったと本心から思う。

(追記)いい機会だから講師のUさんの長所を書き連ねておきたい。
なによりよろしいのはシナリオの外形をとやかく言わないところ。
たぶん、男性だからなのだろう。女性講師はくだらない細部を指摘する。
「作家養成講座」のころの添削担当者のT(女性)さんはひどかった。
どうでもいいシナリオの外形をことさら重視するのだ。
おそらく、そうすることでシナリオを書けないやましさを払拭(ふっしょく)していたのだろう。
または指導欲やら支配欲を満足させていた。
Uさんは細かいところにまるでこだわらない。
セリフの「(ト書き)」も、映像にならない表現も、心理描写もまったく注意しない。
とてもいいと思う。すばらしい。
今回発表したシナリオはコンクール応募用のため、
筆にまかせるまま雨嵐のように心理描写を書き込んだが、なんのおとがめもなし。
もしかしたら、(わたしにとって)最適の講師に当たったのかもしれない、とまで思う。