8月19日、シナリオ・センターへ行く。疲労困憊していた。
このスクールを辞めようか本気で迷ったもの。
講師から「辞めろ」と怒鳴られて、だったらもう潮時かなと思ったわけ。
まえのブログ記事はだいぶリアル友人知人からも批判された。
Uさんへの攻撃は、弱いものイジメ。
Uさんは仕事として先生をやっているだけなのだから、あそこまで批判したら可哀想。
言い訳ではないが、わたしもひどく傷ついたということは書いておきたい。
自分の意見を物申しただけで「辞めなさい」と言われたのは心外だった。
バカヤロウと(ブログで)叫ばなければ、こちらがおかしくなっていたと思う。

個性なんて障害のようなものではないか。
他人と異なるということが個性だとしたら、それは(知的・精神的・身体的)障害に等しい。
障害者は弱者として存在するから許されるのであって、
おのれの正義をことさらに主張したら周囲の健常者から八つ裂きにされるのは間違いない。
個性は育てるものではなく、つぶすものなのである。
どれだけ踏まれても、なお成長をやめようとしないのが本物の個性なのであろう。
個性は美点ではない。はた迷惑な欠点を個性というのである。
繰り返すが、個性を育てることはできない。
教育者、指導者は全力をあげて個性の芽を摘み取るべきである。
この努力がかえって逆説的に個性を伸ばす。
自由な校風の学校から個性的な人材はめったに生まれはしない。
校則でガチガチに縛られた学校から、むしろ個性的な逸材が誕生する。
この意味でシナリオ・センターは名門なのだろう。
同様、U先生も指導者の役割をよく心得ている。

この日、シナリオ・センターに行くまえ、2ちゃんねるを見たら素敵なことが書いてある。
今日わたしをセンターで見かけたら、その場で襲撃するという予告だ。
これって犯罪予告だろう。わたしが警察に通報したら、どうなるのだろう。
2ちゃんねるが完全匿名の世界だと信じているものがまだいるのだろうか。
犯罪となったらいくら匿名掲示板でもすぐに投稿者は特定されてしまう。
もっともわたしは通報する気もなかった。いいよ、殴りかかってこいよ、である。
毎日、なにか劇的なことがないか期待しているのだから。
襲撃でもなんでも非日常的なことは歓迎する。

ゼミでの拙作「ほんのり赤く」に対するU先生の講評は――。
やはりあのままではダメだと言われるのである。
おそらくU先生は(受講生が)高名な脚本家のシナリオを書き写しても、
こうしたらもっとおもしろくなると指摘するのだろう。
それが自分の仕事だとかたくなに信じていらっしゃるご様子。
なんでも設定はこれでいいとのこと。
けれども、男がもっとキャッチセールスにだまされなければならないらしい。
そうしたら観客はもっとハラハラするのでよろしい。
(「リンゴ」と「蛇(へび)」の扱いかたがうまいともったいなくもお褒めいただく)
ところが、授業の後半で、「先生のご指摘はこうでしたか?」と上記の内容を問う。
すると、「そうではない」とのお答え。人間の限界を強く意識する。
U先生が一生懸命なのは痛いほどわかるのである。
最初にお逢いしたときとは、まるで姿勢が異なる。
あたかも全身を耳にするかのごとく拙作をお聞きくださっている。
命がけと言ってもいいくらいの真剣ぶりで、こちらは恐縮してしまう。

にもかかわらず、なのだが、人間はわかりあえない。
わたしはU先生がなにをおっしゃっているのかどうしてもわからないのだ。
これはもう人間の能力の限界というほかないではないか。
わたしの能力が低くて、ベテランの先生のご指導が理解できないのかもしれない。
あるいは、僭越ながら、受講生のほうが講師よりもレベルが高いということもありうる。
どちらが正しいのかは、だれにもわからない。
もうこれでいいのではないかと思う。能力の限界まで行き着いたのだから。
どちらも一生懸命に尽力して、最後のどうしようもない壁に突き当たった。
ここで満足しなければ、人間全体をあきらめるほかなくなってしまう。
U先生はわたし(の作品ひいては世界観)を理解できない。退屈だと思う。
わたしもU先生の指導内容がよくわからない。的外れだと思う。
救いがないわけではない。どちらもこれ以上はないほど真剣にやっているのだから。
これからも両者は懸命に努力するだろう。
一度くらいなら相互理解があるかもしれないし、そんな甘いことはないかもしれない。
これが人間というものである。

Uさんから某局主催の短編シナリオコンクールの情報を教えてもらう。
まったく知らなかった。
いまの習作シナリオとおなじ程度の枚数で応募できるらしい。
来週の課題としてコンクール作品を書こうと決める。
次回の課題は「死」。これはわたしの永年のテーマである。
これまでの習作シナリオの7割がたが「死」を取り扱っている。
集大成となるものを、なんとか来週の課題として書きたいと思う。
他の受講生が質問したのだったか。
シナリオ・センターは「S1グランプリ」というコンクールを主催している。
U先生もこのコンクールの下読みをなさっているとのこと。
「いや、ハハ、ボクなんかぜんぜん下っ端だから」
胸打たれるものがあった。
五十を過ぎた男性がこのセリフを口にするときの心情を考えたら言葉がない。
「いや、ハハ、ボクなんかぜんぜん下っ端だから」
もしかしてわたしの存在が言わせたのだとしたら自己嫌悪でやりきれない。
わたしがこのまま五十歳を越したとしたら決して言えぬセリフである。
Uさんに心底から頭の下がる思いがする。

とても疲れた一日だった。長く苦しい木曜日であった。
おそらくU先生も、そうであったのではないか。
断じてからかっているわけではなく、Uさんはひどく動揺していた。
2時間の授業中10回近く黒板消しを落としていたことからわかる。
弁明だが、わたしも「辞めろ」と怒鳴られた翌々週に
新たなシナリオを書き上げるのは異常な骨折りだった。
ゼミが終わり教室を出るとき、U先生にかけた言葉は本心からである。
「お疲れ様でした」――。
わたしも疲れたけれど、U先生のお疲れはその比ではないと思う。
もしわたしがUさんだったら、とてもこんな受講生の相手はできない。
したがって、あれは精一杯の真情あふれる「お疲れ様でした」だったのである。
シナリオ・センター研修科課題第5回目。「誘惑」(20枚)。

<人物>
音部詩郎(26)会社員
板橋美枝(よしえ)(26)アルバイト
ホームレス(55)男性

○道
駅の改札が間近にある。駅の利用客が一斉に出てくる。
スーツ姿の音部詩郎(26)が携帯電話を耳に当てる。
板橋美枝(26)が改札から出てきた人に声をかけては、そのたびに断わられている。
音部「(電話に)ここで、ですか? わかりましたよ。
やりゃあいいんでしょう。いえ、やらせていただきます。
(大声で)社訓その一、あきらめは敗北である」
通行人が何事かと音部を振り返る。
音部「社訓その二、勝利のためには前進あるのみ。
社訓その三、限界はおのれが作るもの。社訓その四、努力の道に障害はなし」
美枝「――(音部を見る)」
音部「(電話に)音部詩郎、全力を尽くして仕事へ邁進しまっす(と電話を切る)」
改札からの人の流れはみな去っている。
この場にいるのは音部と美枝のみ。
音部「フフ、恥ずかしいとこ見られちゃった」
美枝「いえ」
音部「なにかな?」
美枝「手相の勉強をしています。手相を見せていただけませんか」
音部「占いが好きでね。朝はかならずテレビの占いをチェックする」
美枝「え?」
音部「フフ、もちろんいい年をした男が本気で占いなんか信じているわけじゃない」
美枝「はあ」
音部「毎日、こう、なんかないかなと思ってる。
いやでたまらない。同じことの繰り返しに飽き飽きしている。わかるかな?」
美枝「はい、まあ」
音部「今日は双子座がトップ。嬉しいじゃないの。運命の人と出逢えるかも、だとよ」
美枝「――」
音部「きみダメじゃない。こういうときはお約束でしょう」
美枝「はい?」
音部「偶然、私も双子座です、と言わなきゃ」
美枝「私、天秤座だし」
音部「嘘でいいんだよ。営業なんて嘘から始まるようなものなんだから」
美枝「営業?」
音部「なにか買わせたいんでしょう?」
美枝「いえ、手相を」
音部「ごめん。興味ないから」
音部は立ち去ろうとする。
美枝「それって、あんまりじゃない」
美枝は強引に音部の手をつかむ。
音部「アッ!」
美枝「ごめんなさい」
音部「いや、いいの。いいのよ」
音部は右手を美枝に差し出す。美枝はもっともらしく手相を鑑定する。
音部「どうなの?」
美枝「お仕事は?」
音部「会社員。歩きながらでいい?」

横断歩道の青信号が点滅している。音部と美枝は駆け足で渡る。
直後、赤信号になる。車の往来が激しい。
二人は歩きながら話す。美枝が音部を追う。
音部「(少し息が乱れ)なに?」
美枝「だから、いまが転換期です。この先、幸福になるか、それとも不幸になるか」
音部「フフ、大変だな。なにを買えばいい?」
美枝「――」
音部「先走りして、ごめん」
美枝「いま幸福ですか?」
音部「高いツボかな」
美枝「いま幸福ですか? 毎日、退屈なんでしょう。このままでいいのですか?」
音部「あの人には(と道ばたを指さす)」
道ばたにホームレス(55)が新聞紙を敷いて座る。白痴的な笑みを浮かべる。
音部「あの人には聞かないの? いま幸福ですか? こうしたら幸福になれますよ」
ホームレスはゆっくりと袋から真っ赤に完熟したリンゴを取り出す。
美枝「ちょっと。失礼じゃない」
トラックが急ブレーキで止まる。前の乗用車と接触寸前。
音部と美枝は車道を見る。運転手が現れる。口論になる。
この間にホームレスはリンゴをかじろうと口へ近づけるが、
大きなアクビを一回すると、ごろりと横になる。
手から離れた真っ赤なリンゴが転がる。
運転手Aの声「危ないじゃないか。もう少しで大事故だよ。どうして急に止まった?」
運転手Bの声「蛇(へび)が横切ったんだ」
運転手Aの声「蛇? バカを言うな。こんなところに蛇がいるわけないだろう」
運転手Bの声「大蛇が車の前を横切った。轢(ひ)いちゃいけないと思った。
ブレーキを踏むしかない。本当だ。信じてくれ」
運転手Aの声「居眠りしてたんだろう」
いくつもクラクションが鳴る。
美枝が足もとのリンゴに気づく。美枝はリンゴをホームレスの横に置く。
美枝「気持よさそうに寝ている」
音部「フフ、いいところあるじゃない」
美枝「――」
音部「見直した」
美枝「じゃあ、ちゃんと話を聞いてくれる?」
音部と美枝は歩き始める。
音部「営業のコツは相手の話をまず聞くこと。
それから決して押売りしない。相手が欲しいと思うように工夫する」
美枝「――」
音部「なんて言える身分じゃないか。フフ、上司の受売り。そちらもノルマ厳しい?」
美枝「――(こくり)」
音部「でも、いいよな。売るものに自信があるでしょう。
こちらは全然。どうということのない事務用品。他と違いなんかない」
美枝「そんなことない」
音部「そうなの?」
美枝「うん?」
音部「自信、ないの?」
美枝「言っちゃいけないんだけど」
音部「フフ、似た者同士」
美枝「フフ、まったくね」
音部「正直、うらやましかった。ほら、きみ、駅で、自信満々で」
美枝「そうだった?」
音部「よく上司から言われる。
もっと自信を持て。胸を張れ。当たって砕けろ。しかし、粘りも忘れるな」

二人の前方に果物の移動販売車。
音部「ここで待ってて。逃げないから大丈夫」
音部は移動販売車に向かい走る。
移動販売車が去る。
音部と美枝が道ばたのベンチに座りリンゴをかじっている。
音部の脇にはリンゴが入った袋。
音部「これ、特別に無理を言ってもらった」
音部は新しいリンゴを取り出す。まだ熟す前の、ほんのり赤いリンゴである。
音部「食べてみない?(と手渡す)」
美枝「(リンゴをかじり)酸っぱい」
音部は酸っぱいリンゴを美枝から受け取り、反対側をかじる。
音部「そこがよくない? いまは甘いリンゴばかり。
どうしてなんだろう。どうしてみんな酸っぱいリンゴのよさに気がつかないのだろう。
甘ければいいのだろうか」
美枝「フフ、お説教してる?」
音部「まさか。そんな資格ない。じゃあ、悪いけれど、このへんで(と立つ)」
美枝「待って」
美枝は音部の腕を引き寄せる。音部の腕が美枝の胸の谷間に挟まれる格好。
音部「――」
美枝「――」
音部「意外。見た感じ、わからない」
美枝「バカ(と腕を離す)」
音部「ディ、ディズニーランド行かない?」
美枝はいま来た方面へ引き返す。
今度は音部が美枝を追う。ベンチの上のリンゴの食べかす。
音部「ろ、六本木ヒルズ行かない?」
美枝「いま幸福だから」
音部「お、お台場、行きませんか?」
美枝「いま幸福だから」
音部「なにそれ?」
美枝「なにそれはこっち。芯のあるようなことを言うから、
わりかしいい男かなと思ったら、要はオッパイなんでしょう」
音部「高いツボでもなんでも買うから」
美枝「もうそんなの、どうでもいい」
音部「いいんだ?」
美枝「いい」
音部「きみ、いくつ?」
美枝「二十六」
音部「偶然。おれも二十六よ」
美枝「営業のテクニック?」
音部「ううん。本当に正真正銘、二十六歳」

救急車が走る。
人だかり。音部と美枝も加わる。その中心には倒れたホームレス。
タンカを持った救急隊員が輪の中に入る。
音部と美枝が走る。
住民Aの声「昨日まで元気だったのに」
住民Bの声「やはり死んでいるの?」
住民Cの声「ナンマンダブ」
住民Dの声「いい死に顔だったよ」
住民Eの声「ぽっくり逝(い)けて幸せだったろう」
音部と美枝は駅の改札前でとまる。
ほんのり赤い西日がバス停を照らす。
美枝「あんな簡単に人って死ぬんだ」
音部「もしかしたら、あのとき死んだのかな」
美枝「私たち、なにかできたのかも」
音部「考えるのはやめよう」
美枝「ねえ、手相を見て(と右手を差し出す)。
怖い。この先、どんなことがあるんだろう」
音部「(手相なんて)わからない」
美枝「なら、ぎゅっと握(にぎ)って。力一杯握って」
音部「こう?(と美枝の手を力強く握る)」
美枝「とっても、いい。なんだか安心する。私も握るね。思いっきり握るから」
音部「本当だ。いいね。フフ、元気が出る」
美枝「もうしばらくこうしていたい」
手をつないだ二人が改札へ消える。


(補)一回でいいから、柱(=○)ひとつで20枚を書いてみたかったのです。
そのうえ、人物はふたりのみ。おのれにあえて制限を課してシナリオを書きました。
実験作です。実験の結果は……成功とは程遠いと言わざるをえません。
要するに失敗作です。劇作家の苦労がよくわかりました。
おそらくシナリオよりも戯曲のほうが、より難しいのでしょうね。
読者様の便宜を考え(読みやすいように)原文にはないスペースをあえて入れました。
このスペースは時間経過でもあるのですが、果たしてご理解いただけたか。
このシナリオは言うなれば「出来の悪い純文学」(笑)。
最後までお読みくださり、本当にありがとうございます。
いろいろ騒がしくなって来ましたので、しばらくコメント欄を承認制にいたします。
いただいたコメントはむろん、すべて丁寧に拝読するつもりです。
お答えが必要と思いましたものを適宜、公開する予定でおります。
正直、顔の見えないコメント欄のやり取りに疲れました。
まるで議論に興味がないからです。
手厳しい批判コメントはご指摘に感謝したうえで心中にのみ保存させていただきます。
どうしてもお返事が必要な案件がございましたらお手数ですがメールをください。
(アドレスはプロフィール欄をご参照くださいませ)

暑い日はランチにアイスもいいものですね♪
8月6日、表参道にあるシナリオ・センターにへ行く。駅の入口を出るたびに驚く。
お洒落できれいな女性が多いからである。
5分前に教室へ入る。U先生に「こんちは」と挨拶する。
威嚇(いかく)しているわけではない。基本的には仲良くやっていきたいのだ。
ふたつシナリオを書いてきたのだが、どちらも発表していいとのことでホッとする。
U先生によると1回の講義で(1ヶ月分の)4作品発表しても構わないらしい。
早く全課程を修了したいわたしはいいことを聞いたと喜ぶ。
この日の出席者は8人だったか。新顔がふたりいる。
どうやら研修科は、毎回出席するものではないのかもしれない。

発表されるシナリオは、わたしの2つを入れて計5作品。
作者がシナリオを朗読したのち、受講生が感想を言っていく。
最後に講師のUさん(五十代男性)が講評をつけるというゼミ形式だ。
ふたりめのシナリオの講評で疑問を抱く。
U先生はこうしたらよくなるとシナリオの改良案を口にしたのだが、
それがあまりにもありきたりすぎる設定なのだ。
その場で質問をする。これがゼミ形式のメリットであろう。
わたし「先生がおっしゃったように変えたら、ありきたりになると思うんですが」
Uさんはこのあと他の意見を挟ませず、まくしたてる。
U先生「ありきたりでいいんですよ、ありきたり大歓迎。
どんどんありきたりなものを書いてください。ベタなものを書いてください。
どうせ習作シナリオなんだから、ありきたりで構わない」
一呼吸を置きUさんが、わたしの目を見たような気がした。
「どうせみなさんはありきたりなものさえ書けないでしょう。
課題さえこなしていたら、あとはいいんです。ありきたりで結構」

世にあまた創作スクールがあれど、
「ありきたりなものを書け」と指導するのはシナリオ・センターのU先生くらいではないか。
すごい先生だなと感心する。これ以上、物申すことはできなかった。
わたしはぜったいにありきたりなものは書きたくないと思っている。
大げさに言えば死力を尽くしてでも、ありきたりを避けたい。
しかし、結局のところ、人間の想像力など限られているから、
ありきたりにならざるを得ない。これがほんとうのところだろう。
最初からありきたりなものを書こうなんて思ったら、
ありきたりなものさえ書けるはずがないではないか。
U先生はいったいどのようなお考えをお持ちなのかまるで理解できない。

わたしのシナリオ発表の番である。
Uさん「これどういう話? 作者さん、よろしく」
まず最初に書き手が自作の概要を話すのが、この先生のゼミのルールらしい。
拙作「平成ハムレット」は「復讐」の課題として書いた。
わたし「ギリシア悲劇の時代は、比較的に復讐がしやすかったと思うんです。
それがハムレットの時代になると、父親を殺されてもなかなか復讐できない。
でも、まあ、結局は復讐を果たしますね。
ひるがえって、現代はどうか考えてみたのです。現代に復讐は可能か?
わたしは不可能だと考えました。親族を殺されても司法の手に任せるしかない。
じゃあ、現代における復讐とはなにか。自殺ではないかと思うのですね。
神に対する復讐が自殺であると。
こういう考えのもと、数年前に流行ったネット心中を書きました」

「平成ハムレット」は自作ながら恥ずかしくて笑いだしそうになってしまう。
昭和天皇とか池田大作とか悪趣味でしょう(笑)。
受講生の感想は、当たり障りのないあたたかいものばかり。
それはそうなのよね。自分がシナリオを書いていたら、
一本仕上げるのにどれだけエネルギーを消費するかわかる。
手厳しい批判が、どれだけ相手にダメージを与えるか想像できるのだ。
Uさんの講評は、どんなだったか。「まあ、フン、よく書けていますよ」
それから課題に合っていないのがいけないとのこと。
人間の人間への復讐を書きなさい。
言い訳は、あるのよ。人間への復讐なんて書いても、つまらないじゃない。
大人になったいじめられっ子が、かつてのいじめっ子に復讐しようとする。
こんなものはくだらないでしょう。嫌いな上司に部下が復讐してもつまらない。
嫌いな先生に復讐しても、なんかチンピラめいていて……。

U先生「この前原(=ネット心中の企画者)って人は変な人なのかな?」
またかと思う。どうしてかわたしの創造した人物はUさんから「変な人」と批判される。
すべてのシナリオでそうである。
わたしはこんな人がいたらいいと思って書いているのである。
それがUさんの目に映る(耳に入る)と、だれもが「変な人」になってしまう。
こういうとき、U先生は多数決を取る。少数派を虐(しいた)げるいじめの論理である。
U先生「この前原って人が変だって思った人はいる?」
おばさんがひとり手をあげたのみ。
U先生「そうかな。ボクは変な人だと思うけどな」
わたし「わたしは変な人しか書けませんから(皮肉)」
U先生「――」

もうひとつアドバイスがあった。
なんでも最後、夢香に「変な人」の前原を批判させるともっといいシナリオになるらしい。
わけがわからないので質問する。
わたし「夢香に前原をなんて批判させればいいんですか」
U先生「――」
わたし「――」
U先生「ううん、心中で集まって、自殺をやめようなんて話はよくあるわけで、
フフン、なかなかの意欲作じゃないんですか」
あとおカネを燃やすのは法律違反とのこと(そんなことくらい存じ上げております)。

そうそう、U先生は二度ほど昭和天皇と平成天皇を間違える。
ちゃんと耳で聞けていたのだろうか。
そもそもからして、この指導形式が正しいのかどうかわからない。
習作シナリオとはいえ、ひとりの人間が5~10時間かけて書いた作品よ。
そのうえ作者の30年以上の全知識、全体験が詰め込まれているわけだ。
そのシナリオをわずか5~10分で聞いて理解して、
少しも間をおかず講師がその場でこうしたらもっとよくなると指導するのは可能なのか。
もしかしたら釈迦でもイエスでも不可能なことをU先生はやろうとしているのではないか。

おつぎは「トンボの唄」である。色いろな意味でUさんの講評が楽しみだ。
受講生の感想は、どれもやさしいもので安心する。
U先生「なかなかよく書けてるんじゃないですか」
で、Uさんの言うようにすれば、あのシナリオがもっとマシになるとのこと。
なんでも夫婦を最初にラブラブにさせておけばいいらしい。
そうすればキャバクラで対面したときの驚きが倍化されておもしろくなる。
いかにも何十年もシナリオを書いていない先生の意見だと思う。
あの「トンボの唄」は序盤に「夢を見た」、中盤に「変な夢を見てね」、
終盤に「夢を見てね」と配置することで作品世界(偉そうでゴメン)を保っている。
最初に夫婦をラブラブにしちゃうと、最後のキスシーンがうまく描けなくなる。
あれははじめ意思疎通のうまくいかなかった夫婦が、
キャバクラで逢うこと(マイナス)によって、一瞬の相互理解(プラス)に至るドラマ。
冒頭をラブラブにしちゃうと、わけがわからなくなってしまうでしょう。
U先生は、シナリオを創作するときの精神(スピリッツ)をすっかり忘れているわけ。
何十年もシナリオを書いていないから、
人はどのようなメカニズムで虚構世界を創造するかわからなくなっている。
的外れの指導(なのか?)ばかりするのは、おそらくこのためであろう。

まあね、たとえ最初をラブラブで書いても、今度はこう批判されるのではないかしら。
あんな仲のよかった夫婦の奥さんが、キャバクラで働くのはおかしい。
このスクールに長く通っていると批判(あら探し)の技術だけうまくなるような気がする。

U先生のいいところも紹介しておきたい。なにしろ講義が早いのである。
スピード重視。今日はひとり長く感想を述べる女性受講生がいらした。
Uさんは自己主張が激しいのか支配欲なのか、感想を途中でやめさせてしまうのだ。
最後まで言わせないで、もういいからと口を挟む。
わたしはシナリオを書けない某先生の指導より
創作を継続中の受講生の発言のほうが重たいと思うが、講師に逆らえるものはいない。

5作品の発表と講評が1時間半で終わってしまった。残り時間30分。
Uさんがまえにも話したおなじことを軽薄な口ぶりで繰り返す。
U先生「シナリオを書くのは実は簡単なんですよ」
黒板に「葛藤」「感情」「変化」と書く。
U先生「シナリオは簡単。人間を葛藤させればいいんです。
なにかのきっかけを作って葛藤を発生させる。結果として、感情に変化があればいい。
要は葛藤なんです葛藤。ドラマは葛藤がすべてなんです」
ムカムカしてくる。ドラマの魅力はそれだけではないだろうが。
わたし「ドラマは葛藤だけではないと思いますが」
U先生「(声を荒らげ)あん? ドラマは葛藤だよ」
わたし「それだけではないでしょう」
U先生「ドラマは葛藤」
わたし「だれの教えですか」
U先生「――(言葉に詰まる)」
わたし「――」
U先生「ドラマは葛藤である。きみはアリストテレスを知っているかな」
わたし「むかし岩波文庫で読みましたよ」
U先生「アリストテレスが言っている。ドラマは葛藤だ」
わたし「そんなこと書いてあったかな」
U先生「書いてあるよ。アリストテレスだけじゃない。
シナリオ・センターの新井先生の本にも書いてある。どのシナリオ作法書にも書いてある」

U先生は満足気に黒板に「アリストテレス」と書く。
それから学者のように黒板の「アリストテレス」を二度ばかり叩いた。
Uさんはギリシアの哲学者から勇気を得たのだろう。突如、激昂する。
切れたのかと思った。いきなり激して怒鳴り声をあげたのである。
U先生「きみは独学したほうがいいんじゃないか。
シナリオ・センターは、ドラマは葛藤だと教えている。
この教えに従えないようならシナリオ・センターを辞めてもらうほかない」
わたし「――(ポカーン)」
U先生「ドラマは葛藤なんだ。シナリオ・センターの方針だ。
この決まりに文句を言うのなら、辞めたほうがいい。独学しなさい」
わたし「――」
U先生「わかったかな?」
わたし「――」
U先生「わかったかな……」
わたし「――」

わたしは葛藤がドラマの魅力のひとつであることを否定したわけではない。
ただ葛藤ばかりじゃないと言いたかったのである。
ところが、Uさんは聞く耳を持たず。ひとり激して大声をだす。
思うんだよ。ドラマの魅力は葛藤だけではなく、色いろあるよね。
まず人物の魅力があるでしょう。こんな素敵な人間がいるとドラマから教えられる。
あとセリフの魅力もあるでしょう。うんと情感に満ちたセリフは心に残る。警句もね。
才能ある脚本家はなんでもない生活のひとコマを魅力的に描く。
こういうほかの魅力を、たまさか葛藤が殺してしまうこともなくはないでしょう。
ドラマは葛藤だ。葛藤を増やせ。葛藤を作れ。こればかりではいけない。

たとえば旧友が4年ぶりに再会したとする。
何気ないけれども、じんわりあたたかいセリフを交(かわ)し合う。
こういう会話をシナリオ・センター講師は否定してくる。
もっと葛藤をつけろ。ふたりがむかし絶交していたことにすればおもしろくなる。
これはアンチ(シナセン用語)という技術でね、葛藤を高めるんだ。
けれども、そうとは限らないのではありませんか。
キチガイのように葛藤、葛藤と叫ぶのはやめないか。
人間の細かな情感を葛藤は殺すことがあるでしょう。
たとえを用いるならば、食材の味わいを香辛料が殺すようなもの。
シナセン所長、Gさんご推奨の映画「東京物語」なんかも葛藤が弱いでしょう。
山田太一さんのドラマは概して葛藤があまり強くない。
「え?」「ああ」「そうかな」「フフ」「うん」「でもさ」「」どうした」――。
こんなやり取りを延々と交わしているドラマがあっても構わない。
むかしから日本人は他人との葛藤・対立をあまり好まないのだから。

シナリオ・センターは宗教みたいなもんで洗脳されるとおかしなことになる。
「このドラマは葛藤があるからいい」
こうなるともはや宣教師や信者でしょう。
正しくは、いいドラマのなかには葛藤をうまく用いているものがある。
葛藤があるからいいドラマというのは間違い。
葛藤が弱くても人を感動させるドラマはいくらだってあるのだから。
同様、どんなに葛藤があってもつまらないドラマはあるでしょう。
したがって「葛藤を描こう」も、かなり宗教がかっているように思えてならない。
書き手が考えるべきなのは「いいドラマを書きたい」ではないでしょうか。
結果として、ドラマのなかに葛藤が現われるかもしれない。
「葛藤を書こう」ではなく、「人の心を少しでも揺り動かしたい」「思いを伝えたい」。
ドラマとはこういう姿勢で書くべきではないでしょうか、シナリ・オセンターのみなさま。

そのうえ20枚シナリオなんてわずか10分でしょう。
1時間ドラマの10分といったら、わずかな部分。
1時間ドラマぜんぶが葛藤というわけにはいかない。
だから20枚シナリオで葛藤のない部分を書いてもいいのではないだろうか。
(わたしとしては書きたいけれども、実のところ、書けないのである。
葛藤を用いないで人に最後まで読んでもらう20枚シナリオは、
よほどの才能がなければ書けないと思う。山田太一や野島伸司のように)

このようなことを言いたいけれど、Uさんは人の話をあまり聞こうとしないのだ。
わたしも吃音だから、そう能弁に語れるわけがない。
次回講義でこの記事のいち部分をプリントアウトして持って行こうかな。
きっとU先生は、ひどく面倒くさそうな顔をすることだろう。
Uさんに決定的に欠けているのは向学心である。受講生から学ぼうという姿勢が皆無。
ふつう講義というのは教える側と教わる側が高めあっていくものでしょう。
ところが、Uさんには自分は教えるだけだと思っているようである。
いったいあの自信はどこから来るのだろうか。
某有名脚本家と名前が近似しているので血縁かうかがったら無関係らしい。

果たしてUさんは講義の翌日に書店へ寄ったのだろうか。
岩波文庫を買うためである。アリストテレス「詩学」――。
「ドラマは葛藤だ。アリストテレスが書いている」と言い放ったのだから。
かりに買い求めていないならば、講師としてどうだろうか。
いや、失礼だが、お読みになっても「詩学」は理解できないかもしれない。
あれはそうとうなギリシア文学への知識がないとわからない。
いったいシナセンの講師風情がギリシア悲劇をぜんぶ読んでいるものだろうか。
むろん、いくら知識があったところで、いいシナリオが書けるわけではない。
けれども、人にシナリオを教える立場なら――。
このたびアリストテレスを4年ぶりに再読してみたら、U先生の無知が歴然と判明した。
「ドラマは葛藤である」などと、どこにも書いていない。
おそらく、むかしUさんはなにか安手のシナリオ作法書で、
アリストテレスの名前を聞きかじったのだろう。
ギリシアの哲学者の名前を出したら自分の権威があがると勘違いした。
とっさにアリストテレスなんていう名前をだすのはかわいいじゃないか。
アリストテレスいわく、ドラマの原義は行為。人間の行為を再現するのがドラマである。
目を皿のようにして精読したが「葛藤」という文字すら出てこなかった。
逐語のみならず文意の面から見ても同様である。

ドラマとはなにか。わたしは喜びと悲しみだと思う。喜怒哀楽と言い換えてもよい。
もとより、この定義が唯一で正しいというわけではない。
それは「ドラマは葛藤である」が唯一絶対の正義でないのとおなじことである。
人間の喜びや悲しみを丁寧に描くのがドラマではないだろうか。
人間はこんなことで喜ぶ、悲しむ、怒る。ドラマは人間の多様な感情を描く。
結果としてドラマは観客の感情を刺激する。
(役者の)感情と(観客の)感情の触れ合いがドラマではないだろうか。
何度も繰り返すが、これだけがドラマの定義ではない。
ほかにもいろいろあるだろう。そのひとつが葛藤なのだと思う。
ドラマはUさんがおっしゃるようにテクニックで書くものだろうか。
人間(自分)はどんなときに悲しむか、どういうことで喜ぶか。
これを突きつめるしかないと思う。
自他を問わず人間の細やかな感情を観察してゆくしかないような気がするのだが。
もちろん、実績のないわたしの考えだから間違っているかもしれない。
かといって、Uさんに実績があるのかと考えると――。

これからUさんはどんな講義をするのだろうか。
おそらく今回で味をしめたはずである。
わたしがなにか異議を挟むと、
自分の教えに従わないならセンターを辞めろと言うのではないか。
わたしは辞めるつもりはない。シナリオ創作ほど楽しいことはないからだ。
とはいえ、怠惰な身ゆえおカネを払って締切を買わないといまのところ書けない。
シナリオを書きあげたときの解放感はなににもましてスバラシイのである。
人生にこんな楽しいことがあるとは知らなかった。
創作ほどおもしろい遊びをわたしは経験したことがない。
だいたい1回の講義で支払う金額は2千円――。
創作の愉悦と金銭を比較すると十分に釣り合うのだ。感覚として、元が取れる。

あんがいUさんと相性がいいのかもしれない、とも思う。
このところのわたしの旺盛な創作欲ははっきり言って異常でしょう。
自分でさえこんなハイペースでシナリオを書けるとは思わなかった。
せいぜい月に2本くらいしか書けないだろうとあきらめていた。
ところが、U先生のことを思うと、反骨心というのかエネルギーがわきあがってくるのだ。
反面教師といったら失礼が過ぎるのだろうが、こういう先生がいてもよろしい。
むろん、これからもこのペースで書けるかはわからないのだが。

わたしはUさんを「変な人」だと思う。
どうしてああも自信家なのかわからない。変だよな。
映像化されたシナリオは、たった4分のアニメのみ。コンクール受賞歴なし。
にもかかわらず、どうしてああまで自信たっぷりに指導できるのか。
どの受講生のシナリオも、自分だったらもっとうまく書けると思っていそうなのだ。
「変な人」は、いったいなにを隠し持っているのだろう。
受講生のシナリオ(作品)を手にしたときがすごいのである。
椅子にふんぞりかえって人様のシナリオ(作品)をことさら乱暴にめくる。
格好いいから真似したいが、わが器量ではとてもできるものではない。
Uさんは、どこか人間として愛らしいところがあるのかもしれない。
これから幾度、黒板のアリストテレスを得意気に叩いていた先生を思い出し爆笑するか。
人間の魅力は色いろなのだろう。
実際的な問題として、シナリオ・センター講師の8割が女性。
女性講師相手にこういった荒っぽいことはできないからやはりU先生がいいのだ。
時間をかけて付き合えばUさんの魅力がもっとわかるようになるかもしれない。
先生も徐々に本気を出してくれるのではないか。
ほんとうに納得するような助言をいただくことがぜったいにないとは限らない。

なお、断わっておくがU先生は講師のなかでも変わっているほうだと思う。
「書きたいものなんか書かなくていい」「ありきたりなものを書きなさい」――。
たぶんこういう指導をするのはシナセンでも少数なのではないか(と思いたい)。
所長のGさんも人気講師のKさんも「書きたいことを書け」と教えていたのだから。
U先生のようなプライドの高い変人とは、ぞんがい似た物同士でいいのかな。
「変な人」のU先生とはこれからどれくらいのお付き合いになるのだろうか。
届かないだろうが、呼びかけてみよう。

U先生いわく、ドラマは「葛藤」と「変化」。

ならこれから葛藤を通してお互い変化していきましょう。

新しいドラマを作るために――。



(追記)ネットの匿名掲示板2ちゃんねるでびっくりする書き込みを見つける。
この日、U先生とわたしの話した内容がなぜか2ちゃんねるに書き込まれているのだ。
ふたりのやり取りを知っているのはわずか9人のみ。
いったいだれがこの書き込みをしたのだろうか。

ところで、シナセンは、いよいよ講師から退学を勧告されたそうだよ。
しかも、丁々発止の議論に昨日は無残に敗れたそうだ。

今日はどんな嘘武勇伝を書くのかな?

まあ、こんな話が数時間後にあっという間にセンターを駆け巡る存在に一瞬でも
なれたんだから、やつにとっては贅沢な位の散り際だろ。

http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1218145529/755n



考えられる可能性を列記する。
1.Uさん自身が書き込んだ。しかし、これではあまりにグロテスクである。
これはないと思う。というか、そう思いたい。

2.Uさんから話を聞いた事務局員が書き込んだ。
U先生「今日、例のクレーマーを打ち負かしてやったよ(アリストテレス!)」
事務局員「さすが、U先生。よくやってくれました」
U先生「辞めろと怒鳴ってやったから、あいつはもう来ないと思うな」
事務局員「お疲れ様です(と拍手する)」
こののち事務局員が2ちゃんねるへ書き込んだ。

3.この日、出席した受講生のひとりが書き込んだ。
偉い先生に逆らう不届き者と思ったのかもしれない。

4.出席した受講生の友人・知人が話を伝え聞き書き込んだ。
人と変わったこと、目立つ言動をするものは、この国では叩かれるのが相場である。

この4パターンでぜんぶであろう。
これから時間をかければ真相が判明するかどうかはわからない。
わかることも、わからないこともあるだろう。
ともあれ、なにかを主張したら批判は覚悟しなければならない。
どのみち、正面からわたしに向かって言えない批判ゆえ、あまり気にしても詮無い。
来週、U先生と逢うのが楽しみである。
わたしは「変な人」と付き合うのがそれほど嫌いではない。
次週はどんな「葛藤」があるのだろう。「変化」は生じるのか。
とどのつまり、ドラマは生まれるのだろうか――。

(参考1)アリストテレス「詩学」の感想。
4年まえの記事なので、かなりいいかげんです。少しは成熟したのか。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-213.html

(参考2)後日、アリストテレス「詩学」を読み直す。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2139.html
戦後まもなくに少年・青年時代を送られた山田太一先生は、
いっさいグルメ批評はやらないという。
食べられるものがあるだけで嬉しかった時代を生きた人間の矜持(きょうじ)らしい。
先生のこういうところが好きなのである。
同時に脚本家は、グルメ批評をする人間を断じて軽蔑したりはしない。
人間の多様性を深く理解しているからであろう。
ふたたび、作家を尊敬するゆえんである。

飽食の時代に育ったものとしては、ついなにかと「うまい/まずい」を言ってしまう。
このたび申し上げたいのは、うまいもまずいも、
はなはだ当てにならぬものではないかということだ。
おなじ食べ物でも行列して豪華なレストランで食べるのと、
がらがらの食堂で食べるのとでは味が違ってしまうのではないだろうか。
言うまでもなく、行列して食べたら、なんでもうまく感じる。
客のいない食堂で口にしたらどんな美食も台無しになる。
これが人間ではないだろうか。

だれと食べるかによっても味は大きく異なる。
好きな人といっしょに食べたらなんでも美味しく感じるのが人間ではないか。
嫌いな人間と何万円もするフルコース料理を食べたところでうまいものか。
いままでは外的環境のことを述べた。
これだけではなく、内的な事情も味覚には関係すると思う。
生まれつき嫌いなものというのはどうしようもないのではないか。
たとえ高級品でも苦手なものはあると思うのだが。
たとえば、わたしは蟹(かに)や数の子を美味と感じない。
とくに蟹である。あんなもののどこがうまいのかまるでわからない。
しかし、蟹は高級食材。たいがいの場合、わたしが「おかしい」ことになる。

賢明なみなさまは、山田太一ファンのわたしが、
かならずしも味覚だけの話をしているのではないことをご理解していると思う。
しかし、まだ舌の話で引っぱりたい。
先日、生まれて初めて上野の立ち飲み屋でレバ刺しを食べた。
世界にこれほどうまいものがあるのかと感銘を受けた。
ところが、この感想の正しいのかどうかはわからない。
なにしろ、いっしょに食べた相手が絶世の美女。
むろん、わたしごときが恋愛対象になるはずもない。
彼女は旦那さんがいらして、いまは香港在住。つぎいつ日本に来るかわからない。
こうなると美味とはなにか、からきしわからなくなる。

値段が高ければ、うまいのか、
他の人びとが賞賛していればうまいのか。
同伴相手が美女ならば、みなうまくなるのか。
うまいの基準はいったいなんだろうか。
「うまいの、まずいの」と簡単に判断することで、我われはなにかを見失っていないか。

ここから書くのは食べ物の話ではない。
たとえば、料理学校に通うとする。
この学校では、こうしたら美味しい料理ができると教えている。
ところが、その教えかたが独特なのである。
各自に料理を作らせる。それをみなで食すのである。
最後に講師とやらが「うまいの、まずいの」と決めつける。
こうしたらうまくなるという指導をする。
ところが、問題があって、この講師は料理を作れないのである。
もう何十年も包丁およびフライパンをにぎっていない。
そのくせ「うまいの、まずいの」だけは揺るぎもない自信をもって断言する。
この講師はかつて料理コンクールで受賞したことも、
食堂を経営したこともない、にもかかわらずである。
「先生だったらかならず名品が作れる」との幻想のもとに料理学校が開催されている。

いまさら言うまでもないが、わたしの通学しているシナリオ・センターの日常だ。
山田太一先生のように、あまり人前で「うまいの、まずいの」を言う人間にはなりたくない。
グルメ批評はいやらしいということを忘れたくない。
通信販売の食材や持ち帰りの弁当ならともかく、
作り手のまえでは感謝をこめて「美味しかったです」と言いたいと思っている。
このところうちのブログには、シナリオ・センター関係者からの批判が相次いでいる。
どうかこの記事は見逃してほしいと思う。
シナリオ・センター研修科課題第4回目。「背信」(20枚)。

<人物>
後藤恵太(32)公務員
後藤光子(28)その妻
前島武(27)後藤の同僚
女子職員(27)
キャサリン(22)キャバクラ嬢

○後藤家・外観(朝)
団地が並ぶ。その一室である。

○同・室内(朝)
目覚まし時計が鳴る。ベランダで後藤恵太(32)が洗濯物を干している。
布団で眠る後藤光子(28)。
トースターのパンが焼きあがる。エプロンをつけた後藤がフライパンをふるう。
食卓で向き合う後藤と光子。
後藤のまえにはご飯、味噌汁、目玉焼き。
光子のまえには食パン、目玉焼き、オレンジジュース。
テレビからニュースが流れる。
後藤「夢を見た」
光子「まあ、ひどい」
後藤「夢を見てね」
光子「やはり犯罪の影に女あり」
後藤「こんな夢を見たんだ」
光子「見た?」
後藤「うん」
光子「(テレビを指し)人は見かけによらない」
後藤「聞いてくれ」
光子「なにを?」
後藤「印象的な夢を見た」
光子「いやらしい」
後藤「どうして?」
光子「それ性欲だから」
後藤「いまどきフロイト?」
光子「浮気したい?」
後藤「そんなことは言っていない」
光子「そういうふうに聞こえた。フフ、たまってる?」
後藤「なによ(とあわてる)」
光子「バカ。ストレスのこと」
後藤「そうね、わかったようなことをね」
光子「わかってる」
光子は後藤に抱きつく。
後藤は振り払い、席を立つ。
光子「もう行くの? 私、今日遅くなるから」
後藤は振り返らずに去る。

○××町役場・全景

○同・中
勤務中の前島武(27)と女子職員(27)がこそこそ話している。
女子職員「火傷しそう」
前島「ほんと」
女子職員「クウウ、いけいけ」
前島「ブチュウ」
ふたりの目線の先に熱々のカップル。キス直前まで顔を寄せ合っている。
後藤が前島に近づく。
後藤「前島くん」
前島「え? は、はい」
後藤はカップルを見て顔をしかめる。
後藤「外まわり」
前島「はい」
後藤「ここはホテルじゃない」
前島「はい、まったく」
後藤と前島は建物を出る。

○道
後藤と前島が歩く。
後藤「ああいったバカに注意もできない。
すぐに言われる。税金泥棒。市民の敵。別にね、おまえさんから給料をね」
前島「ええ(と含み笑い)」
後藤「どうした?」
前島「いえ」
後藤「フフ、おかしいかな」
前島「そんな」
後藤「今朝がた、変な夢を見てね」
前島「はい。どんな夢ですか?」
後藤「――」
前島「どうしました?」
後藤「前島くん、きみ、いい奴だね」
前島「いきなりどうしたんです?」
後藤「ふつう他人の見た夢なんか興味を持たないだろう。嬉しいね。いい後輩を持った」
前島「急におかしなこと言わないで下さいよ」
後藤は前島の肩をゆすり笑う。

○食堂
店員「へい、お待ち」
熱々の天ぷらうどんがふたつ後藤と前島のまえに出される。
後藤「なんかこう、パーッとおかしなことをしたいね(と割り箸を取る)」
前島「はい(と箸を割る)」
後藤「あれ、まだ通ってる?」
前島「なんですか?」
後藤「ほら、口で」
前島「ピンサロですか。やめて下さいよ。こんなところで。
最近は、あっちです。キャバクラ。お気に入りの子ができまして」
後藤「へえ」
前島「そうしたらもう風俗なんてバカらしくて。
身体じゃないんです。心。ハートが癒されるんです。そうだ。一回どうです?」
後藤「私はいいよ」
前島「一回、僕のピカリンちゃんに逢ってほしいな。かわいくていい子なんですよ」

○繁華街・情景(夜)

○キャバクラ「とんぼ倶楽部」・中(夜)
入ると男性従業員が頭を下げる。豪華な内装。あちこちに客とキャバクラ嬢。
そのうちの一組が後藤と前島である。
従業員「トンボちゃんのご指名は」
前島「ピカリンちゃんを」
光子とキャサリン(22)が登場。後藤と光子は顔を見合わせる。
光子はもの凄いミニスカート。後藤は思わず見入る。
キャサリン「乾杯」
四人は水割りで乾杯する。
前島「この人、僕の上司。まだ若いのに部長。バリバリの営業マン。すごい人よ」
光子「へえ(と薄笑い)」
後藤「いや(と咳をする)。しかしね、前島くん、こちらのきれいな人は」
前島「ピカリンちゃんです。二十三歳で」
後藤「二十三歳?」
光子「あ、その(と咳込む)」
前島「いま大学院で心理学を勉強しているんです。
キャバクラは学費のため。いまどき、こういういい子がいますかね」
後藤「いないだろうね」
前島「若くてかわいくて頭がよくて」
後藤「二十三歳の大学院生はいないだろうね」
光子「――」
前島「はい?」
光子「こちらの部長さん(と後藤の足を踏む)、奥さんはいらっしゃる?」
前島「ええと、どうだったかな」
後藤「おります。いまごろブティックで働いているかと思います」
光子「へえ。旦那がキャバクラへ行っていることを知っているのかな」
後藤「ピカリンさんは彼氏とかいないの?」
前島「どうしちゃったんです?」
キャサリン「キャバ嬢は、彼氏がいてもふつう隠しますから」
グラスを伝わる水滴。
後藤はキャサリンの手をにぎる。
後藤「キャサリンちゃん、かわいいね。きみに逢いに毎日、来たくなっちゃうな」
キャサリン「ほんとうですか」
光子は前島にしなだれかかる。
光子「いっぱい来てくれて嬉しいな。今度、ふたりでどこか行かない?」
前島「いいんですか。夢みたいだな」
後藤と光子はにらみ合う。
後藤「(早口で)おまえパンツ見えてるぞ」
光子「(早口で)デレデレにやけるなバカ」
前島「え?」
キャサリン「どうしちゃったの?」
前島「今日の部長は」
光子「部長?(と前島をにらむ)」
キャサリン「ピカリンさん」
後藤「ピカリン?(とキャサリンをにらむ)」
前島「フフ、参っちゃうな」
キャサリン「楽しみましょうよ」
後藤「夢を見てね」
光子「どんな?」
後藤「私は騎士でね」
キャサリン「騎士って、昔のヨーロッパの?」
後藤「騎士は困っている兎(うさぎ)を助けてやるんだ」
前島「フフ、聞きましたよ。兎がお姫様になるんでしょう」
後藤「違う。兎は悪魔の手先で恩人の騎士に噛みつく。痛い。苦しい。目が覚めた」
光子「騎士は忘れていたのでしょう。かつて兎を踏みつけにして謝らなかったことを」
場内アナウンス「さあ、みなさんトンボ・タイムです。トンボのように舞って下さい」
店内が暗くなる。チークタイム。
光子は素早く後藤の手を取る。
踊っているように見せかけて、光子は後藤の足を何度も踏む。痛がる後藤。
後藤「ごめん。悪かった。忘れていた。たしかに兎を踏んでいた」
光子「思い出した?」
後藤「もうひとつ思い出したことがある。
夢の中で兎は、最後の最後でやっぱりお姫様になるんだ」
光子「甘いこと言ってる」
後藤「夢の話だから」
光子「どっちの?」
後藤「え?」
光子「夜見る夢と、願望の夢」
後藤「それはもちろん」
光子「もちろん?」
後藤「こうなったらいいという夢だよ」
店内が明るくなる。後藤と光子が抱き合ってキスをしている。
前島とキャサリンは呆気(あっけ)に取られる。

○屋台(深夜)
後藤、光子、前島、キャサリンがおでんをつまみながら酒を飲む。
前島が泣く。後藤が前島の背中をさする。
前島が後藤の酒を奪い飲む。みな笑う。


(補)最近、街で見かける女の子がやけにきれいに見えます。
理由がようやく判明しました。
ほら、男って自分より年下の異性を対象(って、なんのよ)にするでしょう。
もういい年だから対象が大幅に拡大しているわけですね。
まあ、どうせもてないから、だからどうだという話ではありません。
キャバクラって行ったことないけれど、男にモテの錯覚を与えてくれるのでしょう。
万が一、成功したら、はまるのかしら。でも、お酒はひとりで飲むのがヨクネ?
「アジア帰りに沖縄ふらり」(下川裕治/双葉社)

→著者の評価が低いのはふしぎである。
百年後には、もしかしたら「平成の芭蕉」と呼ばれているかもしれない。
アジア放浪作家の近著から学ぶことは多い。
いちばん新鮮だったのは香港事情。
なんでも香港では日清食品のインスタントラーメン「出前一丁」が大ヒットしているらしい。
おなじみの「ごまラー油味」である。
朝食に食べられるほどの人気と知り感動する。
実のところ、2年前の中国旅行以来、
朝食のインスタント麺はありかどうか逡巡(しゅんじゅん)していた。
答えはイエスであろう。迷いが吹っ切れた。

平成の現代日本における松尾芭蕉といったら下川裕治のほかにいないのではないか。
氏にとって旅とはなにか――。
とはいえ、どんな旅も書かれなければ人の目に触れない。

「旅を書くということは、おそらくそういうことなのだろう。
車窓を眺めながら、酒を啜(すす)り、昔の女を思い出し、
綱渡りをつづけてきた人生を肴(さかな)にしてみる。
そこには乗り物に揺られることへの少年のような感動も必要で、
それがからみあってこなければ、旅など書けるものではない」(P119)


「仏教のこころ」(五木寛之/講談社)

→いま仏教利権を手にして高笑いしているのが
五木寛之、瀬戸内寂聴の両氏であります。
これを成功者と言わずしてなんと言うのでしょう。
人びとからの尊敬を集め、高みからいかに生きるかを説き、美食を愛する両作家は尊い。
およそ勝ち組の最たるものでありましょう。
言うまでもなく、わたしは五木寛之、瀬戸内寂聴の両氏を尊敬しています。
編集者を寝転がせて、顔を汚い足で踏める数少ない作家だからであります。
にもかかわらず、そんな蛮行をしない常識人だから好きなのです。
わたしには何千年修行しようと到達できない境地に両作家はおられるのでしょう。

五木寛之先生と対談した河合隼雄先生の言葉を本書から引用――。

「幸福というのは宗教にとっての大きなテーマですが、
あれを達成した、これをもってる、とか、
そういう我執(がしゅう)に含まれる西洋的幸福ではなくて、
仏教においては「楽」「大楽(だいらく)」とか
「安心(あんじん)」「安心立命(りゅうめい)」ということですよね。
執着を捨てよ、安心すればいいじゃないか、
というのと、幸福を追求しろ、というのは大きく違います」(P75)


だれよりも(西洋的)幸福を手に入れた五木寛之、瀬戸内寂聴の両氏が、
老齢になっても凄まじき自己表現をなさねばならぬ哀しみはどうでしょうか。
仏教利権をむさぼる五木寛之、瀬戸内寂聴の両氏が安心とは縁遠いのは宿業でしょう。
むろん、ふたりともおのれの哀しさをよくわかっているのです。
しかし、本人をまえに正体をあばく河合隼雄先生のキラーぶりといったら(笑)。
おそらく五木寛之、瀬戸内寂聴の両先生より、よほど深く仏教を理解していたのでしょう。

「山頭火 一日一句」(石寒太/北溟社)

→わたしに思想的バックボーン(訳すと背骨になる?)のようなものはない。
ただ乞食俳人の山頭火に似た感傷があるのみである。
論理を信じることができない。努力も信用できない。
人力を信頼できないと書いたら、多くの人間から否定されるであろう。
どうして人間は前向きにがんばっていたらどんな夢もかなうと思うのだろうか。
おそらく、甘ったるいコーラを某国から飲まされた影響であろう。
むかしコーラはなかった。人は水を飲んだ。
この水が人間の汗になった。涙にも尿にもなった。言葉になった。山頭火の句になった。
日本人は米と水で酒を作った。

「酔へばあさましく酔はねばさびしく」

「酒飲めば涙ながるるおろかな秋ぞ」


酒におぼれた山頭火のいたった境地は――。

「日ざかり泣いても笑ふても一人」

人間は泣くしかない。笑うしかない。だから、酒を飲むしかないのかもしれない。

「対話する人間」(河合隼雄/潮出版社)

→もう限界というところで、
ブックオフ購入の河合隼雄105円本を読むとたいへん癒される。
もしかしたら宗教のようなものなのかもしれない。
しかし、宗教とは異なる。わたしは河合隼雄批判に反論しようとは思わない。
河合隼雄を理解しない(むしろ嫌悪する)人とも笑顔でつきあえる。
この姿勢は重要ではないだろうか。
「考えは人それぞれ」を深く呑み込んでおいたほうが生きやすいと思う。
おのが崇拝者に対する批判へいちいち声を荒らげるのは大人気ないのではないでしょうか。

わたしは河合隼雄の言説がインチキだろうが一向に構わない。
人はなにかしらに頼って生きるほかないでしょう。
「なにも信じられぬ」に依拠するのもおおいに結構。
この論理でいくと、インチキを信じるのも生きる方便として決して悪くない。
そもそも生きていたらそれでいいのかという問題が発生してくる。
可能な限り「死」をつつみこもうとしたのが河合隼雄の文章。
わたしがこうまで惹かれるゆえんかもしれない。
言うまでもなく、あなたが氏のファンになる必要はありませんよ。

河合隼雄の主張をひと言でまとめたら、たぶん――。
「人生は不可思議」……になるのかもしれない。
たとえば優秀なサラリーマンがいる。ところが、チョイミスで上司に叱られてしまう。
くよくよ落ち込みながら自宅へ直帰する。
めずらしく早く帰宅した父親に幼い息子が「おかえりなさい」。
ふだんなら気がつかなかったこの言葉のありがたみをサラリーマンは知るかもしれない。
畢竟(ひっきょう)――。

「こうして、度忘れをして上司に叱られ、
失敗をして落とし穴に入ったように思うのですが、
かえってそういう体験をしたために、他人(ひと)の心のあたたかさがわかる、
ということがあります。このように、<無意識>からパッと突き上げてくるものが、
マイナスのかたちでおきてくるようにみえながら、よくよく考えてみたら、
そこをもうひとつ踏まえていくとプラスに変わるのだ、
ということをユングはいっているわけです」(P144)


あまり近視眼的にプラスとマイナスを判断しないほうがよろしい。

「じっくりと何かに取りつき、ゆっくりすすんでゆくことによってこそ、
本当に大切なものが身についてくるのです」(P338)


「推理小説常習犯」(森雅裕/KKベストセラーズ)絶版

→数少ない友人のひとりが送ってくださったご本。
著者はミステリー作家らしく、内容は小説作法に見せかけた、出版界の内幕の暴露。
この本を書いたことによって著者は出版界から干されたとの説もあり。
というのも、作家にはぜったいに書けないタブーがある模様。
いわく、出版社と編集者の悪口である。
たしかに編集者の批判を目にすることはめったにない。いや、まったくなかった。
それどころか、ほとんどの著者があとがきで編集者への過剰なまでの謝意を表明している。
なにゆえかという事情を本書を読んで了解することができた。

作家に必要なのは小説作法よりも編集者対応マニュアルかもしれない。
著者がこの本で強調していることである。
いわく、断じて編集者を敵に回してはならない。
文芸編集者と作家の関係は、よほどの人気がない限り、上司と部下のようなもの。
言うまでもなく、編集者が上司である。
ゆめゆめ編集者に逆らってはならぬ。
とはいえ、編集者は作家にいろいろなことを仕掛けてくるとのこと。
作品タイトルの改変くらいは当たり前らしい。
プライドの高い大出版社編集者は、おのれを作家よりも数段の高みに置く。
こういうとき具体的にどうしたらいいかを著者は経験から説く。
「たしかにいいタイトルですね。しかし、もう少しだけ考えさせてください」
これで校了日まで乗り切れば、編集者の考えたタイトルから逃れられるとのこと。

編集者は作家のことを商売道具以上には考えられないらしい。
売り上げが悪くなったら、てのひらを返すように切られる。
編集者は有名作家の家族の葬式に行くものの、本人の葬儀には欠席することが多い。
もはや利用価値のなくなったものに関心を示さないのが文芸編集者だからである。
結論をいうなら、作家におかしな夢を抱かないほうがよろしい。
よほどの人気作家にならない限り、好きなものを書くことはできない。
編集者から命令されたものを書くのが作家である。
内容を無断で改変されるのは日常なので、いちいち怒っていたらたいへんである。
たとえ大出版社といえども、原稿料さえ払われないことがある。
著者は担当編集者からひどい心の傷を受けたとのこと。
こっぴどい自著の批判記事を「参考になれば」とわざわざ郵送されたとのこと。

万が一、(まあ、ありませんよ)作家になることができたら、
編集者の感情だけは害さないようにしたいと決心する。
文章を編集者にリライトされるのも、ぐっと堪えようと思う。
しかし、なんのためにだろう。これは考えてはならない問題だ。
だれもがわたしのようにいつ死んでも(自殺しても)いいと思っているわけではないのだから。
どうにかこの名著を読んだ経験を、今後に生かしていきたい。

「文筆家と編集者の喧嘩はよくあることではあるが、
よほどの売れっ子でもない限り、干されて生活苦に陥るのは作家である。
「私は会社という組織に守られているので大丈夫」と広言する編集者もいる。
こういう人種と争そうのは、時間と神経の浪費である」(P199)


「ポトスライムの舟」(津村記久子/「文藝春秋」2009年3月号)

→第140回芥川賞受賞作品。
非の打ちどころのない小説であります。芥川賞受賞おめでとうございます。
将来は国語の教科書に載るのではないでしょうか。
もしかしたら道徳の教科書かもしれません。
いやいや、戦前にあった修身の教科書こそが最適というご意見もあるでしょう。
作者は小説を書く若い女性であるにもかかわらず品行方正。
昨今の女流作家がセックスのことばかり書くことを考えると、品のよろしいこと。
そのうえ作者を投影した主人公ナガセ29歳は勤勉な契約社員であります。
ナガセはおカネに困っているのに、家出した友人を助ける優しさも持ち合わせている。
赤貧のただなかの友情。これで感動しない人間は心が腐っています。
終盤、ナガセの咳がとまらない。
ここまで来たらもう結核しかないだろうと読者は期待をふくらませる。
ところが、風邪をこじらせたのみ。「わたし」ことナガセは医者に行く。反応が冷たい。

「診療室のドアを閉めながら、
わたしはあの人の気に入らないことを何か言っただろうかと考えた。
ナガセより何歳か年下のかわいらしい女の医者だった。
若くてかわいくて女で医者だなんて、もう人生八割がた勝ったも同然なんだから、
せめて視線ぐらいくれたっていいだろう、
と点滴がもどかしく管の中を伝っていく様を凝視しながら思った」(P378)


ここでナガセはどうするのか。偉いのですよ。
自殺を考えたり、自棄になったりはいたしません。
人間は不公平だが、負け組はどうあるべきかを作家・津村記久子は説く――。
この後の引用に津村文学の真骨頂があります。

「ほとんどわざとらしいほどの動作で、布団に倒れこみ、
咳をしながらテレビのチャンネルをザッピングする。
どの番組も結局つまらなくて、
母親が置いていったミネラルウォーターのラベルを読み始める。
その銘柄を買うと、
一リットル購入のたびに、アフリカに十リットルの安全な水が生まれるのだそうだ。
ナガセは、肩越しに縁側のガラス戸の向こうで降りしきる雨を眺める。
まだ相当降るとテレビは言っていた。
雨のある国に住んでいるだけでも幸せなのかもしれない、と思いながら、
ナガセは眠りに落ちていった。あの若い女医にその話をしたいと思った。
彼女はなんと言うだろうか。
何も言わず、やはりこちらに背中を向けたまま、というのが正解だろうか」(P379)


負け組は文句を言ってはなりません。
なぜなら「雨のある国に住んでいるだけでも幸せなの」だから――。
若い女医はこんな深いことを考えることができない。
芥川賞作家・津村記久子氏の人生を見る深さはどうでしょうか。
作家はなかなかの美人であります。だからといって読者は恨んではなりません。
たとえば、こんなふうに。
「若くてかわいくて女で芥川賞作家だなんて、もう人生八割がた勝ったも同然」。
どうしてか。繰り返しますが、みなさんは幸せなのです。
「雨のある国に住んでいるだけでも幸せなのかもしれない」と思いましょう。
若年女子とは思えぬ津村記久子氏の深遠な人生哲学に打たれたものは多いでしょう。
むろん、わたしもそのひとりであります。

ふう、疲れた。しかし、この「文藝春秋」とかいう雑誌の勝ち組くささはひでえな。
グラビアには超高級グルメの紹介記事。
本文もスペシャルな成功者による「大きな物語」ばかり――。
芥川賞受賞作が「文藝春秋」に掲載されるのは、ある意味、象徴的ではないか。
芥川賞作家は、名だたる成功者集団の末席を汚す権利を与えられるのだから。
大出版社のイケメン編集者と結婚した芥川賞作家の金原ひとみ氏のように、
津村記久子氏にもせっかくのチャンスをしっかりつかんでほしいと思う。

*たまにはブックオフ105円で買った芥川賞作品を読むのも悪くありませんよ。

「時が滲む朝」(楊逸/文藝春秋)

→第139回芥川賞受賞作品。著者は中国人。
少年時代に読んだ「ワイルド・スワン」を思い出す。まあ、中国人ボーナスかな。
夢を抱いて農村から大学へ出てきたふたりの学生は親友同士。
ちなみに、男同士ね。天安門事件まえの中国が舞台よ。
ふたりは朝、湖畔を散歩しながらポエム朗誦に酔う(おいおい!)。
そろそろかなと思ったらやっぱり出てくるヒロインの少女。
学生運動の昂揚と、その挫折。シメはあれだぜ。尾崎豊の「I LOVE YOU」。
なにかの悪ふざけかパロディかと疑うが、作者は本気でこれを書いているわけだ。
おっと、作者の楊逸さんは中国人だったから、ぜんぜんOKという結末だわさ。
「書きたいことがある」と中国人の楊逸さんをおほめになった
日本の選考委員のみなさんは、果たしていま「書きたいことがある」のか。
もしかしたら「時が滲む朝」はかれらの目に、
書くべきことが書き尽くされた砂漠に咲く一輪の花として映ったのかもしれない。
「時が滲む朝」を書ける作者がうらやましい。
現代日本で創作にたずさわるものが、およそ共通して抱く感想なのかもしれない。

「アサッテの人」(諏訪哲史/講談社)

→第137回芥川賞受賞作品。
くだらないテレビドラマなんざこのところ見ていたせいか、やけにおもしろく感じた。
バカな大衆に媚びない姿勢が純文学(……うふふ♪)らしくイサギヨイ。
おのれの吃音(きつおん)体験とその克服から生じた喪失感をうまく小説に仕立てている。
一見、複雑な語りの構造も、心地よい知的刺激となった。
いやはや、我輩は大衆ぶっていたが、どうやらインテリのようだ(笑)。
大衆の軽薄な理解をこばむ作者の姿勢にたいへん好感を持つ。
最後には大笑いをしたものである。
おそらく創作スクールなどでこう書きなさいと指導されるであろう伏線を
すべて書き出したうえで、やるもんかよアッカンベエと舌を出している。
いいぞ、そうでなければ、絶滅寸前の純文学(笑)でなくなってしまうと拍手した。
日常に押しつぶされそうな現代人と、そこからの解放がテーマ。
ふつう人間はキノウ、キョウ、アシタに縛られて生きるほかない。
だから、作者は「アサッテの人」にあこがれる。がために、作中人物を造形する。
どうして「叔父」は「アサッテの人」になったのか。
ある日、突然に吃音が治ってしまったからである。

「あらかじめ放逐を宿命づけられた言葉の鬼子、それが叔父の吃音であった。
彼の歪曲された言語感覚を思えば、「言葉が不可能である」
という言い回しが単なる衒学(げんがく)的な比喩ではなく、
彼にとって真に生々しい事件だったことに得心がいく。
しかし、それまでの彼の人生観を決定づけていた吃音が突如消滅し、
疎遠であった「統一」が掌(てのひら)をかえしたように馴れ合いを求めてくると、
叔父は一転ひどく戸惑わねばならなくなった。
そして、自分が統一の中へなしくずしに平定されてゆくのに、
なにか本能的ともいえる嫌悪感を抱いたのにちがいない」(P112)


作者の諏訪哲史は今現在、愛知淑徳大学文化創造学部准教授とのこと。
芥川賞を取ったら大学の准教授になれるのかと驚く。
この一発逆転の夢が多くの文学青年、文学中年の人生を狂わせるのであろう。
くわばら、くわばら、であります♪
お互い、あんまり「アサッテの方角」(P121)を見るのはやめましょうね、ご同輩♪♪