久しぶりに雑記でも書いてみよう(むろん、酔っておりますよ)。
最近、カテゴリー「雑記」の更新が少ないのは、シナリオにすべて吸い取られてしまうため。
フィクションを書くのは、尋常ならぬパワーを要する。
ノンフィクションを書くのとは桁違いのエネルギーを消費してしまう。
もしかしたらフィクションを創作する才能がないのかもしれない。
しかし、フィクションを書き上げたときの快楽はなにものにも比しがたい。
「雑記」を書いたくらいの満足は、毛虫ほどに感じてしまうのである。
とはいえ、これは人間と文章のふしぎなところ。
おそらく読者様におかれましては、わたしの「雑記」を好まれるかたが多いでしょう。
まあ、おカネをいただいていませんから、どうかお許しください。

そうだ、久々の「雑記」は「どうして」――。
どうして、あんなにまで多くの人間ががんばれば成功できると信じているのだろう。
どうして、成功すれば幸福になれるとああまで無防備に錯覚できるのだろう。
なにゆえ、たかだか人間の努力で成功の果実が味わえると思えるのか。
なにゆえ、世間でいわれる成功が不幸の原因になると気づこうとしないのか。
努力なんてしなくても血縁で成功している人がいくらだっているじゃないの。
だからといって、果たして成功者がみなみな幸福を味わえるとなんで思うのよ。
成功者は忙しい。友人とだべる余裕もない。酒を飲みながら語らう時間もない。
たえず成功者でなくなる不安におびえながら過ごさなければならぬ。
こんなものの、どこが幸福ですか。成功者ほど不幸な種族はいないのかもしれない。
成功を失うのが恐くて、好きなことをなにもできない。
好きな本を読めない。好きな人とも話せない、遊べない。
もとより、おカネだけはあるかもしれないけれど、人が買えるものはそんなにないでしょう。

あまりガツガツしなさんなと言いたい。
どうして世間は成功を幸福と等号で結びつけたがるのでしょう。
むしろ、成功は不幸と、失敗は幸福と親和性が高いのではなかろうか。
成功していくらもてたところで、あなたの肩書が愛されているだけなのだよ。
そんなんで楽しいかね。
いくら「もてない男」とバカにされようが、いやだね、そんな色恋は。
で、思うわけさ。お互い、あんま必死に無理するのはやめないか。
努力すればかならず成功する。成功は幸福である。以上、ふたつを疑おう。

プロレスラーの三沢光晴は、
過剰にがんばったがゆえにリング上でみじめな死に様をさらさなければならなかった。
いえ、三沢の人生を否定しているわけではないから。
最高の人生のひとつだと思う。夢をかなえて、さらなる夢への途上で突然死。
本人はまったく意識していない自身の死。最高だと思う。
けれども、わたしのように三沢の死を最上と思えない人も多いでしょう。
ならどうして努力して成功しようとするのか。成功を幸福と錯覚するのか。
あらゆることは自然(じねん)だと半歩下がってみるのも、
それほどの悪徳ではないと思うのですが、みなさまにおかれましてはいかがでしょうか。
成功するのも、失敗で終わるのも自然ゆえ、お気楽に行こう。
なんて思うのは、わたしだけですよね、トホホ♪
「歎異抄 三帖和讃」(親鸞/伊藤博之:校注/「新潮日本古典集成」)

→「新潮日本古典集成」は、表題の「歎異抄」と「三帖和讃」のみならず、
親鸞の書簡集「末燈鈔」、付録として親鸞の妻「恵信尼の手紙」を収める。
説明するとこうなる。
「歎異抄」=弟子の唯円が著した親鸞の語録。
「三帖和讃」=親鸞がやさしい和語を用いて仏を讃えた韻文。
「末燈鈔」=親鸞が各地の弟子に宛てた手紙で、回し読みされた。
「恵信尼の手紙」=妻の恵信尼から見た親鸞の姿がわかる。

「歎異抄」は何度も読み返しているので問題はなかったが、「三帖和讃」が苦しかった。
重度の不眠症のくせに睡魔に襲われるという貴重な経験をした。
「末燈鈔」のわかりやすさには驚いた。
とても難解な「教行信証」を書いた宗教家の手紙とは思えない。
いな、書簡とは、そういうものなのだろう。
「教行信証」は読まなくていいから、
「歎異抄」ついでに「末燈鈔」に目を通すのはいいかもしれない。
「和讃」も「岩波文庫」で読むよりは「新潮日本古典集成」のほうがいいだろう。
なお岩波版の「親鸞和讃」は新潮社版にはない聖徳太子への「和讃」を収録する。
ちなみに、読んだうえでの話はむろんだが、聖徳太子和讃はあまり重要ではないと思う。

いままで源信「往生要集」、法然「選択本願念仏集」、親鸞「教行信証」と、
南無阿弥陀仏の系譜をたどってきた。
親鸞の新しさを校注者の伊藤博之は簡潔にまとめているので紹介する。

「親鸞の浄土観の新しさは、源信が『往生要集』で強調した西方極楽浄土を
「方便の浄土」とみるところにあった。
人々が極楽図や阿弥陀仏の像を通して感覚的に思い描いてきた浄土を、
仮の浄土・方便の浄土とし、色もなく形もない「虚空のごと」き浄土、
言葉を媒介にしてのみ直覚される浄土を「真仏・真土」として、
明確に区別したのである」(P39)


つまり、親鸞は南無阿弥陀仏を未来形から現在形にしたということだろう。
極楽浄土は死後向かうものではない。未来として思い描くものではない。
浄土はいまここにあり。わが胸にあり。この信心の歓喜を浄土と言わずしてなんというか。
親鸞の称えたのは、いまを生きるための南無阿弥陀仏だ。

南無阿弥陀仏を追求する旅もこれで終わりである。
あらゆる信仰は、個人の領域でのみ芽生える。
わかりやすく言えば、信じる信じないは人それぞれ。
ならば、可能なのは、おのれの獲得した南無阿弥陀仏を語るくらいではないか。
むろん、だれかをおなじ信仰に引き入れようとは思わない。
人はひとり生まれ、死んでゆくのだから。

南無阿弥陀仏は涙と深く通じているように思う。
音の類似が、ふたつの親和性を象徴しているのではないか。
「なむあみだぶつ」と「なみだ」は、日本語として音が似ている。
(浄土真宗本願寺派では「なもあみだぶつ」と読む)
ふざけて言っているわけではない。本気で大まじめに書いている。

南無阿弥陀仏がわからないという人には、こういう説明をしたらどうだろうかと思う。
日本人は、喜怒哀楽のすべてで泣くでしょう。
喜んでいるのに泣くのが日本人の特徴ではないか。
五体満足の赤子が生まれる。このとき親は泣くはずである。
背後に「大きなもの」の存在を無意識的に感知して若い両親は泣く。
人間なんて無力に過ぎぬという認識が日本人を泣かせる。
この涙を言葉にしたら南無阿弥陀仏になるのではないか。
障害を持ったお子さんが生まれてくる場合もあるだろう。
両親は、どうして我われが、と「大きなもの」に怒りの矛先を向けるに相違ない。
しかし、結局のところ泣くしかない。
ふたたび、この涙が南無阿弥陀仏ではなかろうか。
死産ということもあろう。流産もありうる。
哀しいときにも日本人は泣く。だれに抗議をしても始まらない。無力。
この深い自覚に日本人が到達するとき、泣くほかないのだ。
楽しいときにも泣く。桜の花をめでながら亡き人を思い人は泣く。
みたび、この涙こそ南無阿弥陀仏ではないだろうか。

問いが生ずる。人間存在を根底からくつがえす問いである。
果たして人は泣いているのか。「大きなもの」に泣かされているのではないのか。
このように考えたとき、
この「大きなもの」を阿弥陀仏と命名し得た仏教者の歓喜はいかほどか。
では、阿弥陀仏とはなにか。不思議だと親鸞は言う。思議がかなわぬ。
人間ごときの思いはかることのできぬもの――阿弥陀仏である。
どうして五体満足の子が生まれ、障害児がときに生まれるのか、人間はわからない。
ならば、思議できぬなら、どうしたらいいのか。

「仏智うたがふつみふかし
この心(しん)おもひしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし」

「仏智を疑う罪はまことに深い。この疑惑の心の咎を思い知ったならば、
悔いる心をもととして仏智の不思議をたのむべきである」(P169)


仏智とは人智を超えたものである。人間のものさしではない仏のものさし――。

「罪障功徳の体(たい)となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さわりおほきに徳おほし」

(さとりを妨げる悪業こそが功徳の本体となるのである。
罪障と功徳との関係は、氷と水の関係のようなもので、
罪障の氷が多ければ多いほど功徳の水も多いことになる」(P114)


人間世界ではマイナスはマイナス、プラスはプラスである。
しかし、仏の世界ではマイナスがむしろプラスになると親鸞は言うのである。
かるがゆえに「仏智の不思議をたのむべし」。しかし、どのようにすればいいのか?

「子の母をおもふごとくにて
衆生仏(ほとけ)を憶すれば
現前当来とほからず
如来を拝見うたがはず」

「子が母をしたうように衆生もまた仏を憶念すると、
業による障りが除かれて今生にも仏を見奉り、
浄土に生れたときはまちがいなく如来をまのあたりにすることになる」(P97)


アニメ「みなしごハッチ」のイメージである(ご存じですか?)。
「母をたずねて三千里」でもいい。
迷子の自分を心配してくれるお母さんはかならずどこかにいる。
疑うなかれ。母の愛を信じて生きろ。これもまた南無阿弥陀仏である。
以上は、子から見た母。つぎに母の子への声援を聞いてみよう。

「無明長夜(むみやうぢやうや)の燈炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海の船筏(せんばつ)なり
罪障おもしとなげかざれ」

「弥陀の本願は、煩悩に覆われて長い夜のように闇(くら)い心を照らす
大きなともしびである。だから、真実を見る智慧の眼がくらいと悲しむことはない。
弥陀の本願は、無限に続く生死の苦しみの大海をわたして、
我われを浄土にとどける船であり、筏(いかだ)である。
罪障が重いからといって歎くことはない」(P154)


人智は無明(=無知)の暗闇から抜け出ることがない。仏智という光明に出逢わなければ。
ちなみに、南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来は同義。
「弥陀の本願」とは、簡単に言えば、法蔵菩薩の人類救済宣言である。誓言でもある。
これは仏典の「大無量寿経」に書かれている。
(法蔵菩薩が誓願を立てたうえ長い修行の結果、阿弥陀仏になったというのが主な内容)
親鸞は「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」と説く(「教行信証」)。
この先は、信じるか信じないかしかない。仏智に人智は及ばぬがゆえ。
「大無量寿経」の正否は人智には判断しようがない。

阿弥陀仏は母のごとく子たる我われを慈(いつく)しむ。
子が泣くときは、この母もきっと涙を浮かべていることだろう。
また阿弥陀仏は智慧の光明として無明の生死をただよう我らが凡夫を照らしたまう。

「煩悩まなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり」

「念仏を称える時、すべての人はまさしく弥陀の本願力と出会うはずなのに、
煩悩に妨げられて、
われわれを摂(おさ)め取らないではおかない仏のはたらきをこばみ、
光明の前に眼をとじて光を見ようともしない。
しかし、仏の大悲はそのような凡夫を見捨てることなく、
常にわが身を照らし、はたらきかけをやめないのである」(P133)


親鸞は、智慧光明の源泉たる阿弥陀仏を海のイメージを用いて讃える。
人間はなにゆえ泣くのか。水分を摂取しているからである。
どこから水を汲むのか。井戸から河から、水道の蛇口から。
自然のサイクルを思い起こしていただきたい。
太陽が海を照らす。蒸発した水分が雲を作る。この雲が山で雨を降らす。
雨水は河となり山野をくだる。河が集まり大河となる。大河は海へ流入する。
太陽を中心とした水の循環が自然といってもよい。
このとき阿弥陀仏の起源を太陽に求める学説はたいへん興味深い。
人間はどうして泣くのか。
この問いに太陽(阿弥陀仏)があるから、と答えるのはひどい誤まりなのだろうか。

「弥陀智願の広海に
凡夫善悪の心水も
帰入しぬればすなはちに
大悲心とぞ転ずなる」

「すべての河の水が海に流れ入って一味の潮となるように、
弥陀の本願にそなわる深広な智慧のはたらきに触れると、
自力をはげまして善を修めようとする心も、煩悩に狂わされて悪を犯す心も、
たちまちに大慈悲心となりかわる」(P156)


この意訳のもとになったのは、和讃に付記された親鸞自身の手なる注である。

「さまざまの水の海に入りて即ち潮となるが如く、
善悪の心の水みな大悲の心になるなり」(P156)


河が流れ海に抱きとめられるのが自然ならば、
人間の頬を涙が流れるのも自然なのかもしれない。
問題は、この自然をなんと読むかである。親鸞は「じねん」と読む。
この自然こそ親鸞思想のかなめであるように思う。
親鸞の書簡集「末燈鈔」で最重要なのは第五書簡ではないか。
ここにおいて(「歎異抄」では決して説明が十分とは言えない)
「自然法爾」(じねんほふに)について詳述されている。冒頭を引用する。

「自然法爾の事
自然といふは、自はおのづからといふ、
行者のはからひにあらず、然といふは、しからしむといふことばなり。
しからしむといふは、行者のはからひにあらず、
如来のちかひにてあるがゆゑに、法爾といふ。
法爾といふは、この如来の御ちかいひなるがゆゑにしからしむるを、
法爾といふなり。
法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、おほよす行者のはからひのなきをもて、
この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。
すべてひとのはじめてはからはざるなり。
このゆゑに義なきを義とすとしるべしとなり」(P190)


賢明なるみなさんをもってしても意味が取りにくいでしょう。
意味は無視して一度だけ音読してください。
「はからひにあらず」と「しからしむ」と、このふたつの類似語がやたらと多いでしょう。
これでもうわかったも同然。親鸞の説く自然(じねん)とはなにか。
人間の「はからひにあらず」して「しからしむ」るのが自然である。
人間の思いはからいを超えて、自ずから然らしめられているものが自然――。

自力で成仏が可能だという仏教思想がある(禅宗や密教など)。
これを否定したのが法然であり、親鸞である。
自力を否定したわけだ。おのれの無力を自覚せよと説いた。
そのうえで南無阿弥陀仏。南無の意味はお任せする。
阿弥陀仏さまにお任せする。これが南無阿弥陀仏の意味である。
自力往生はかなわぬものとあきらめ、他力(他の力=阿弥陀仏)をたのむ。
この他力の実相が自然であると親鸞は「末燈鈔」第五書簡で説いている。

わたしはこの自然というキーワードで他力のこころがわかったように思う。
飛躍して独自な解釈をしてみる(あんがい飛躍ではないかもしれないぞ)。
自然(じねん)とはなにか。偶然でも必然でもないということではないか。
人間は偶然と必然のあいまを揺れ動きながらおのが生をまっとうする。
ふたつの考えかたがある。
人は偶然に生まれ偶然に死ぬ(=唯物論と言ってもいいだろう)。
人は必然として生まれ必然として死ぬ(=いわゆる運命論である)。
偶然と必然――。
人間は失敗すると原因を偶然に求めたがる(=運が悪かった)。
反面、成功すると必然だと思いたがるものである(=努力の結果)。
親鸞の他力信仰=自然法爾は、偶然と必然を広く包み込むのではないか。
偶然と必然を否定するのではない。
この二律背反を肯定も否定もせずに受容するのが自然ではなかろうか。
人間は偶然に生まれるのかもしれないし必然として誕生するのかもしれぬが、
まあ自然として生を授かったと考えるのがよろしい。
人間が死ぬのはまったくの偶然かもしれぬし定められた必然かもしれないが、
まあ自然の流れのなかで生をまっとうしたと考えるのがよろしい。
浮き世の儚(はかな)い成功や失敗もおなじように考えてみたらどうだろうか。
すべては自ずから然らしめられている。

偶然はまったき空虚を感じさせる。必然は絶対的で息苦しくなる。
比して、自然はどうだろうか。
人間は無力だが、人智及ばぬ「大きなもの」がちゃんと計算してくれている。
春夏秋冬を人間が変更することはできないが、かならず変化は訪れる。
なにによってか。自然の力があるからである。これを他力というのではないか。
人はなぜ生まれるのか。なにゆえ死ぬのか。どうして喜びと悲しみがあるのか。
すべては偶然なのか。それとも、すべては必然なのか。
これらの難問に、親鸞の南無阿弥陀仏はひとつの回答を与えはしないか。
いや、回答ではない。なぜなら南無阿弥陀仏は人間の思議を超えているのだから。
南無阿弥陀仏は、言葉にならない。
たぶん慰めのようなものを南無阿弥陀仏はもたらすのだろう。

「また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。
義と申すことは、行者のおのおののはからふことを、義とは申すなり。
如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏の御はからひなり」(P195)


ひと言に要約すれば、人間を超えるものがある、ということに尽きるのだろう。
人力、自力を超越した力が人間世界にたしかに存在する。
これを他力という。これを自然という。
我われ人間がこの「大きなもの」に接触するのは南無阿弥陀仏を通してほかない。
しかし、人間の念仏は、実のところ他力=自然が言わせてくださっているのだ。
「大きなもの」を思うとき、人間のさまざまな悲喜の色合いがあざやかになる。
人間は無力ゆえ「大きなもの」からもたらされる悲喜を選ぶことはできない。
しかし、「大きなもの」=阿弥陀仏の光明は夕陽のごとく万物を照らす。
不可思議の光線を受けると、どのような悲しみも美しい輝きを放つ。
我われはこの輝きを味わうほかない。だが、これは大きな歓喜ではないだろうか。

親鸞の南無阿弥陀仏は現世の幸福を問題にしていない。

「仏号むねと修すれども
現世(げんぜ)をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらはるる」

「弥陀の名号をもっぱら称えるものでも、現世の幸福を祈るものは、
これも雑修と名づけ、千人中に一人も往生できないとしりぞけられる」(P123)


南無阿弥陀仏があれば成功と縁のない、
不幸つづきの人生でも立派に生き抜けると思う。死んでいけると思う。
南無阿弥陀仏があれば、
どんな人生のありかたもかなりのところまで肯定できるのではないか。
南無阿弥陀仏をこのたび学べたことをたいへんな僥倖と感謝したい。
この記事を書くのにどれほど骨を折ったか。
とはいえ、最後までお読みくださったかたは極めて少ないと思われる。
リアル友人にも「読んでくれ」とは頼めない長さである。
これだけは自分のために書きたかったと開き直るほかあるまい。
5年前のインドにおける仏教八大聖地の巡礼からスタートした旅が、
やっとのことで終わろうとしている。
仏教、牛歩の旅は、いまやアンチ念仏の日蓮を残すのみである。ありがてえ♪

シナリオ・センター第20回提出課題。「職業またはジャンル」(20枚)。

ラブコメディ。

<人物>
増島実(25)会社員
嶋田明日香(22)大学生
牛山勝志(25)プロレスラー
近藤義道(29)プロレスラー
レスラーA
工場長(48)
イケメン(28)

○後楽園ホール・全景(夜)

○後楽園ホール・場内(夜)
プロレスの試合が行なわれている。
牛山勝志(25)と近藤義道(29)のシングルマッチ。
場内は満員。観客は男性ばかり。そのうえデブ、不細工の割合が高い。
いい大人がプロレスのTシャツを着て絶叫している。
近藤コール。牛山コール。声援は近藤のほうが勝る。
みなリングに熱中。
観客席に増島実(25)と嶋田明日香(22)が並んで腰かけている。
増島「牛山、負けるな!」
明日香「――(増島を冷やかに眺める)」
近藤が牛山にラリアット。倒れる牛山。近藤は後ろ向きにトップロープを登る。
声援が一瞬静まる。おかしな間が生じる。
倒れている牛山が近藤のほうに少しずつ身体を動かす。
こうしないとうまく技を受けられないのである。
近藤は牛山の位置を確認してムーンサルトプレス。大歓声。
カウントが数えられる。「123」――ゴングが鳴る。
近藤がレフリーに手を上げられる。

○後楽園ホール・入口(夜)
大勢の観客が出てくる。その中に増島と明日香がいる。

○小汚い焼鳥屋(夜)
明日香「おっかしい」
増島「なにが?」
明日香「言っていた。プロレスなんて八百長。
最初から勝ち負けは決まっている」
増島「うん」
明日香「牛山が近藤に勝つことはない。
なぜなら近藤はいま会社からプッシュされている。牛山はルックスがよくない」
増島「うん」
明日香「だから、かならず近藤が勝つ」
増島「勝ったでしょ?」
明日香「なのに」
増島「え?」
明日香「あんな真剣に応援していた」
増島「だって」
明日香「うん?」
増島「つまらないじゃない。感情移入しないとつまらない」
明日香「そうだけど」
増島「きみ、そういう人?」
明日香「え?」
増島「小説とかドラマとか、夢中になったことない?」
明日香「そうじゃないけど」
増島「もしかしたらってことがあるんだよ。
たしかに勝敗は決められている。牛山が近藤に勝つことはない」
明日香「そうでしょう」
増島「牛山が決まりを破るかもしれない。だれが見たって牛山のほうが強い。
カッとして本気を出して近藤をぶちのめす(と、こぶしをにぎる)」
明日香「(会話を引き継ぎ)こと、ある?」
増島「――ない」
明日香「負けると決まっているのに闘うって、どんな気持なんだろう」

○プロレス会場1(夜)
レスラーAが牛山にバックドロップ。
レスラーAが牛山に覆いかぶさる。「123」――ゴングが鳴る。

○とある町工場
増島が工場長(48)の後を追う。
工場長「無理なもんは無理だよ」
増島「そこをなんとかお願いします」
工場長は増島にヘッドロック。
増島は工場長をバックドロップの要領で少し持ち上げる。すぐに降ろす。
増島「アイテテテ。ギブアップ。参った」

○六本木ヒルズ
明日香がイケメン(28)と並んで歩く。

○プロレス会場2
牛山が腕立て伏せをする。
後ろから近藤が近づき脇をくすぐる。
笑う牛山。笑う近藤。

○お洒落なバー(夜)
明日香とイケメンがカクテルを飲む。

○プロレス会場2(夜)
タッグマッチ。近藤が牛山にムーンサルトプレス。「123」――ゴング。

○アパート・増島の部屋(夜)
ワンカップ焼酎「まけへんで」を飲む増島。
手にはスポーツ新聞。格闘技欄は牛山の敗北を伝える。

○イメージ映像
リングで増島とイケメンが相対する。
イケメンのプロレス技を食う増島。

○お洒落なバー(夜)
増島がカウンターでウイスキーを飲んでいる。落ち着かず周囲を気にする。
遅れて入ってくる明日香。
バーテン「いらっしゃいませ」
明日香「モスコミュールを」
バーテン「かしこまりました」
増島「試している?」
明日香「うん?」
増島「少しは勝ち目があるのだろうか」
明日香「ここすぐわかった?」
増島「友だちから言われた。
女の子をプロレスになんか連れていっちゃいけない。焼鳥屋も最悪だって」
明日香「そんなことない」
増島「僕たち恋人じゃないよね」
明日香「――」
増島「候補にはなっているのだろうか」
明日香「(こくり)」
増島「けれど、勝てる気がしない」
明日香「そんな」
増島「がんばれって?」
明日香「うん」
増島「フフ、煽るんだ」
バーテン「どうぞ(とモスコミュール)」
増島「自分が女だったらと」
明日香「うん?」
増島「稼ぎよくないし、顔だってこれだし、女だったらいやだと思う」
明日香「そう」
増島「しかし、うぬぼれもある。内面じゃだれにも負けない、なんて思っている。
明日香さんを、明日香さんを」
明日香「うん」
増島「好きなことでは、だれにも負けない」
明日香「へえ(と酒を飲む)」
増島「だから、勝てると思っている」
明日香「うん」
増島「しかし、勝てるはずがないとも思っている」
明日香「フフ(と苦笑)」
増島「おかしいでしょう」
明日香「私が男だったら」
増島「うん」
明日香「おれについて来い」
増島「へえ」
明日香「強引に手を引っぱっていく」
増島と明日香、顔を見合わせ笑う。

○道(朝)
ランニングをする牛山。

○とある会社
増島が電話に出ている。ペコペコ。
増島「いえいえ、ありがとうございますです。ホントうちとしては大助かりでして」

○大学・教室
講義を聞きノートを取る明日香。

○後楽園ホール・入口(夜)
手をつないだ増島と明日香が入場する。明日香が先導するように見える。

○後楽園ホール・場内(夜)
リング上では牛山と近藤が相対する。
声援「牛山、今日こそ勝てよ」
増島「――」
明日香「牛山、負けるな!」
増島「へえ(と明日香を見る)」
牛山が近藤をロープに振る。帰ってきた近藤にラリアット。しかし、かわされる。
再びロープに飛んだ近藤はエルボー。牛山は倒れない。
増島「牛山、いいぞ」
再度、近藤のエルボー。牛山は倒れぬ。
増島「顔、張れ。牛山、顔を引っぱたけ」
牛山は一瞬増島を見る。牛山は近藤の頬を張る。
ガチで痛い。近藤はムカッ。
しかし近藤は当たり障りのないエルボー。牛山は手加減なしのビンタ。
近藤もえぐいエルボーで対抗。乱打戦。
大歓声。近藤のムーンサルトプレスを牛山がかわす。近藤、怒りのエルボー。
フォール。「123」――ゴング。
負けた牛山はリング上で大の字。

○道(夜)
増島は明日香の手を強引に引っぱる。明日香は苦笑い。
増島は前後を窺う。だれもいない。明日香の顔を手で挟み唇を奪おうとする。
明日香は抵抗する。増島の頬を張る。
大げさに倒れる増島。増島は路上で大の字。
増島「負けた」
明日香「フフ、悪くない気分でしょ」
なんだかおかしくなって笑う二人。


(補)最後までお読みになったかたはいらっしゃらないのでは?
そうとうの苦痛でしたでしょう。鬼のようにつまらない。退屈だ。
書き手をバックドロップで殺したいと思うのが当然の感想であります。
「負ける味わい」を書きたかったのですが失敗しました。
どこが「ラブコメディ」だって話ですよね。お詫びに舌を噛んで死にたい。
「まけへんで」は実在する激安焼酎。愛飲しております。
「負け組」しか飲まない「まけへんで」に免じて書き手をどうかお許しください。
ああ、大の字になりたい。「負けた」――。
「虹を見た日」の自作解説。

原作ありといっても、あれはほとんどオリジナルですから。
原作の童話「赤い屋根」は――。
「いちょうのちょうすけ」が主人公(とわたしは解釈した)。
少年「ちょうすけ」は「赤い屋根」に恋をしている。
いちょうの木が生長したので、
ようやく「ちょうすけ」は「赤い屋根」と会話が可能になる。
ところが「赤い屋根」は毎年来る「風」に思い焦がれている。
一緒に連れて行ってくださいと「赤い屋根」は「風」に懇願する。
しかし、「赤い屋根」は「家」をずっと守ってきている。
「風」は「赤い屋根」を連れ去っていいのか迷う。
しかし「風」とても、こんなに熱い求愛は初めてのことである。
また「風」のやってくる季節になる。
ようやく「風」は決意を固める。
「赤い屋根」を強奪しようとする。
けれども、「赤い屋根」は重かった。
赤いカワラを数枚、落としたくらいであった。
逃避行はかなわなかった。
時が経ち、「赤い屋根」はいつしか塗り替えられ「青い屋根」になる。
「赤い屋根」に片恋慕していた主人公の「いちょうのちょうすけ」は思う。
もしボクがもっと早く大人になっていたら、
「赤い屋根」は赤いままだったのではなかろうか。

「いちょうのちょうすけ」=蜂屋長介
「赤い屋根」=赤沢佳子
「家」=赤沢志郎
「風」=風見純平

アマ作品の創作舞台裏なんでだれも興味がないでしょう。
図々しくも書いていますが、ここにおのれの厚顔無恥をお詫びします。
これは実際なかなか書けませんでした。
提出期限の5時間前でさえ、なにもアイディアはなかったです。

ひとつ、タイトルを決めていたのがよかったのかもしれません。
「虹を見た日」。
これは以前、虹を見たことがあって、タイトルだけストックしていた。
それからメッセージがありました。言いたいこと。
「蟹(かに)ってよくね?」という。
いまはほんとだれもが鬱に囲まれている世相じゃありませんか。
身近に鬱病患者のいない人は少ないのではありませんか。
だのにマスコミもネットも「前向きになろう」ばかりでしょう。
がんばれ! 前進! 前を向け!
あきらめるな! あきらめなければ、かならず夢はかなう!
夢を持とう! 夢を持たない人間は最低だ! 夢へ向かって進め! 
これはやりきれないと思います。
鬱にもなりたくなるさ、と思いませんか?

一方で後ろ向きな考えかたも一部ネットやサブカルでは盛んです。
2ちゃんねるの自殺スレッドとか、すごいですよね。
後ろ向きにも際限がない。
どうせがんばっても報われないよ。
結局は生まれじゃないか。
持って生まれたものがすべてを決める。
初期設定の貧富、美醜が人生を決定する。
これは安易なプラス思考よりもよほど正しい。
ある面で、人を救うのかもしれません。
しかし、こればかりだとやりきれない。

だから、なのです。蟹になりませんか?
蟹は前向きじゃないでしょう。
前に進めやしないのだから。
しかし、後ろ向きでもない。
立ちどまって悩んでいるわけではない。
蟹の歩行は愛らしいものがある。
ならば、蟹になってみませんか。
これ以上、傷つけられぬよう厚い甲羅で身を守る。
敵が来たらハサミでジョキン。
このハサミ、まるで人間のピースみたいじゃないですか。ブイ。ピース。
ほのぼのと明るくていいと思いませんか。ピース。

「虹を見た日」というタイトル。
「蟹になりませんか」というメッセージ。
これだけを頼りにシナリオを5時間で書き上げました。
書いているとき5行先でさえ、まったく決まっていない。
いわんや、ラストシーンをやです。
まったくなにも決まっていないで最初から書き始める。
頼みの綱は「虹を見た日」と「蟹」のみ。
出来の巧拙はともかく、なんとか完成してしまうので驚きました。
締切のおかげです。シナセンのおかげと言い換えてもいいでしょう。
書いていて楽しかったです。
苦しかったけれども楽しかった。
お読みのみなさまはひたすら苦行だったかもしれません。
もしそうでしたら、ここに謝罪します。
しつこいですが感謝も。
ふつう赤の他人(そのうえアマチュア)の創作(原稿用紙10枚)は読めないでしょう。
お読みくださりありがとうございます。深々と頭を下げたいです。
シナリオ・センター第19回提出課題。「原作ものの脚色」(20枚)。

<人物>
蜂屋長介(14)中学生
赤沢佳子(14)中学生
赤沢志郎(49)その父親
風見純平(25)美術教師

○赤沢家・佳子の部屋
蜂屋長介(14)と赤沢佳子(14)が向き合って座る。
どちらも画板を首からかけている。お互いを色鉛筆で模写している。

○赤沢家・外観
雨風が激しい。
佳子の声「聞こえない?」
蜂屋の声「え?」
佳子の声「足音」
蜂屋の声「だれの?」
佳子の声「台風」

○河岸
河が増水している。
佳子の声「大きな恐ろしい台風が来ればいい」
蜂屋の声「そんな」
佳子の声「みんな、なにもかも流してしまえ」
蜂屋の声「冗談(でしょ?)」
佳子の声「絵なんか描いている場合じゃない。台風が来る。
わあって叫びたい。表に出て、雨に打たれて、叫ぶの。いらっしゃい」
蜂屋の声「いらっしゃい?」
佳子の声「そう。いらっしゃい。ようこそ、はるばる。ずっと待ってた。いらっしゃい」

○赤沢家・佳子の部屋
佳子は画板を放り投げる。
蜂屋が顔を上げると佳子の顔がすぐそばにある。
蜂屋は描いた絵を隠そうとする。美しい佳子が模写されている。
蜂屋も床に落ちている絵を見る。
蜂屋とは似ても似つかぬ赤ん坊の顔が描かれている。
蜂屋「これだれ?」
佳子「長介くん。私にはこう見えるの」
蜂屋「これは僕じゃない」
佳子「足音(と蜂屋から離れる)」
急なノックの音。返事も聞かずにドアが開く。赤沢志郎(49)である。
佳子「お父さん」
赤沢「いや、お茶をな」
佳子「疑っている? 私と長介くん(と笑う)。
見て。このチビ介。喧嘩したら私がやっつけちゃう。チビ介を男として見られない」
蜂屋「僕だって、こいつ、女かよ。女なんかじゃなくて」

○佳子の絵
八歳の佳子が稚拙に描かれている。
十歳の佳子が描かれている。
十二歳の佳子が美しく描かれている。

○赤沢家・佳子の部屋
赤沢「夕飯も食べていきなさい」
赤沢、蜂屋、佳子は部屋を出る。
蜂屋の描いた十四歳の佳子の絵。

○公立中学校・全景
快晴である。
蜂屋の声「いろいろな台風がある」

○公立中学校・美術室
授業中。窓が開いている。合唱が聞こえる。
黒板のまえに風見純平(25)。
風見の話を聞き入る生徒たちの中に蜂屋と佳子がいる。佳子は風見に見入る。
風見「絵はどう描いたって構わない。要するに目の問題だ。
なにをどう見るか。どのような見方をしてもいい。
しかし、人間はなかなか自由にものを見ることができない」
佳子「フフ」
蜂屋「――(佳子を見ている)」
風見「才能とはなにか。むろん、こんなことは中学校で教えることではない。
絵がいくらうまくたって、せいぜい教師くらい」
佳子「(小声で)そんなことない(と首を振る)」
風見「こんなところで先生をやっている人間に才能があるわけがない。
だが、才能のなんたるかはわかる。見えないものを見る。これが才能だ。
天才はだれにも見えないものを見てしまう。描いてしまう」

○公立中学校・全景
放課後で帰途に着く生徒たち。
蜂屋の声「見えないものを見る」

○公立中学校・美術準備室
美術室にはだれもいない。
蜂屋が入ってくる。脇にある準備室で物音が。
蜂屋がのぞくと、佳子と風見が抱き合ってキスをしている。
蜂屋は佳子と目が合う。蜂屋はその場から逃げ出す。

○道(夕方)
蜂屋が歩く。後ろから佳子が肩を叩く。
夕陽が郵便ポストを照らす。
佳子「どんなふうに見えた(得意気)」
蜂屋「どんなって」
佳子「才能の問題」
蜂屋「そうかな」
佳子「そう。ものをどう見るか。先生と生徒がいけないんだ。なんて思ってるでしょ」
蜂屋「ううん(しかし図星)」
佳子「どうしてくだらない規範から自由になれないのだろう。
本当の姿が見えないのだろう。愛が、見えないのだろう」
蜂屋「愛、なの?(ショック)」
佳子「先生、すごい才能があるの。絵を見せてもらった。驚いた。
まるでものの見方が違う。世界はこうも見えるのか」
蜂屋「愛、してるの?」
佳子「コンクールでもいいとこ行っているらしい。
早く先生なんかやめたいって。先生はぜったい一流になると思う」
蜂屋「本物じゃないと思う」
佳子「え?」
蜂屋「あの先生は一流かもしれないけれど、本物ではない」
佳子「やいてるの? 先生、もてるから」
蜂屋「違う」
佳子「フフ。もてないくせに。チビ介が」
蜂屋はひとり駆け出す。

○赤沢家・居間(夜)
赤沢「(電話口で)長介くんも知らないか」

○蜂屋家・居間(以下随時カットバックで)
蜂屋「(電話口で)はい」
赤沢「いきなりだ。今夜は友だちの家に泊まる。ガチャン。
だれのところか言わない。こんなことは初めて。携帯も切っている」
蜂屋「ええ」
赤沢「さっぱりわからない。へんてこなことを言う。
最初の鳥は、どうして飛んだか」
蜂屋「鳥ですか?」
赤沢「最初の鳥は、どうやって飛ぶことを覚えたのか」
蜂屋「さあ」
赤沢「風にうまく乗ったからだと言うんだ。最初の鳥は、風に飛ばされた」
蜂屋「へえ」
赤沢「佳子がだれと一緒か心当たりはないか」
蜂屋「ええと、ないです。ありません」

○道(夜)
街路樹の紅葉。強風で葉が散る。
風見と佳子がホテルに入る。

○蜂屋家・蜂屋の部屋(夜)
蜂屋が夢中で絵を描いている。
裸体の佳子である。蜂屋の周辺に絵が散乱している。すべて全裸の佳子。

○河岸(夜)
風が強い。雨が降り始めている。

○空港
蜂屋の声「やはりあれは台風のようなものだったのかもしれない」
旅客機が飛び去る。見送る佳子。

○蜂屋家・蜂屋の部屋
蜂屋が絵を眺めている。シナリオ冒頭で描いた佳子の絵である。美しい。
蜂屋の声「僕はこの絵がいちばん好きだ。見たままを描いたからだ。
見えないものを見るのがそんなに偉いのだろうか。
僕は一流にはなれないかもしれない。
けれど、思う。本物になってやろう。本物になるからな」

○河岸
制服姿の蜂屋が写生している。制服姿の佳子が通りかかる。
物音を立てずに蜂屋に近寄る。佳子は蜂屋の後方から手を回し両目を覆う。
佳子「なにが見える?」
蜂屋「真っ暗。なにも見えない」
佳子「見える」
蜂屋「見えない」
佳子が手を外す。
蜂屋は目をつむっている。
蜂屋「見える。佳子の泣きっ面が見える。
あいつに振られてわんわん泣いている佳子が見える。なにが愛だ。愛なもんか」
佳子「やめて」
蜂屋「ニューヨークに行くから、さようなら。
みなさん、夢はあきらめなければ、かならずかなう。夢を見ましょう。
佳子のことなんて、これっぽっちも頭にない」
佳子「ひどい」
蜂屋「ザマアミロだ(と目をあける)」
佳子が泣いている。
蜂屋「バカヤロウ(と蜂屋も泣いてしまう)」
河が流れる。
笑顔の蜂屋と佳子が横向きに蟹(かに)歩き。
蜂屋「辛いときは蟹になろう。蟹は前向きになんかならない。前進もしない。
厚い甲羅で身を守り、憎い敵はジョキンだ」
蜂屋は手でピース。
佳子「ジョキン(と蜂屋を真似てピース)」
蟹男と蟹女が河原を遊歩する。

○蜂屋の風景スケッチ
河岸の彼方、大空に虹がかかっている。


(補)オリジナルではなく原作があります。課題の原作はみんなおなじ。
「赤い屋根」というタイトルの短い童話を原作にしなければなりません。
禁じられているナレーションを使ってしまいました。
最近は添削者の先生からも見離されているので、自棄気味です。
いまや誤字すら指摘してくれません。自業自得でしょう。
長いものを最後までお読みいただき本当にありがとうございます。
みんなさ、ブログで怒ってるじゃないの。なんの小説がつまらん、かんの映画で眠った。
いえ、いいんですよ。絶賛記事より批判記事のほうが、おもしろいですから。
しかしね、とひと言だけ。むろん、みなさまに逆らうつもりはございません。
こう考えてみたらどうでしょうか。むしろ、つまらないのが当たり前なのではないか。
このところスクールに通っている関係もあってか、
いわゆるアマの作品を目にすることがあります。つまらないことも、おもしろいこともある。
アマですから(それに友人知人ですから)つまらなくても怒ることはありません。
おもしろいこともある。やるなあ、とライバル心を刺激されます。

さあ、言いたいこと。メッセージ(笑)。
いやね、プロでもアマでも、めったにおもしろいのはないということ。
アマがつまらないのは、言っちゃ悪いけれど、まあ、当然でしょう(拙作も含めて)。
けれども、プロでもつまらないのは数限りなくあるのではありませんか。
で、結局のところ、統計を取ってみたら相違があるのかどうか。
このたび提言したいことです。
ぶっちゃけ、自称プロの新作を読んでも9割はつまらない。
1割、10%くらいしかおもしろいものはない。
考えてみたら、アマの作品でも比率はおなじくらいなんですよ。
新作はつまらないのがとにかく多い。
これが古典なら、半分、5割といったら大げさかな(古典の定義があやふやでサーセン)。
まあ、3割くらいは傑作と思う。
だから、わたしは古典作品を愛好するのです。

くだらないフィクションをブログに公開するようになりました。
つまらないと思われているのがわかります。申し訳ない。
言い訳として考えたことです。新作の9割がつまらない。
新しい小説、映画、テレビドラマの90%は退屈である。
こう開き直ったらどうでしょうか。
血圧が下がるかもしれない。かといって、長生きしたらいいことがあるとは限らない。
どのみち、人生は有限。なんのために生きるか。
回答のひとつにこんなものがあるかもしれません。感動するため。
願わくば、人生で多くの感動を味わいたいものです。
実人生でも、フィクションでも、です。感動するために生きる。
シナリオ・センター第18回提出課題。「あらすじ」(800字)。

<人物>
二宮藍子(34)
二宮真司(38)その夫
橋本弘道(32)藍子の兄(年齢は享年)
橋本幸子(33)その妻
榊原祐一(32)真司の元同僚
斉藤竜二(46)真司の上司
清水拓也(48)真司の上司

(注)ここに記した年齢は、水難事故から四年経過した時点でのものである。

荒川土手で引越会社の懇親会。バーベキュー。
酔った二宮真司(34)、橋本弘道(32)、榊原祐一(28)がふざけて河に飛び込む。
集まるパトカー、消防車、救急車。
河岸で上半身裸の二宮と榊原が泣き叫ぶ。橋本の水死体が見つかる。

それから四年後。
二宮藍子(34)は二人の子供と共に退院してくる夫の二宮を待つ。
二宮はアルコール依存症。藍子の期待も空しく二宮は酒を飲み始める。
夫婦の修羅場の最中、二宮が秘密を告白する。
四年前の水難事故の原因は自分にある。
嫌がる後輩の橋本を無理やり河へ誘った。
死んだ橋本は、藍子の実兄である。夫が兄を殺したのか?

自殺を口にする夫の二宮を前に藍子は打開策を提案する。
死んだ兄の元妻、橋本幸子に逢いにいったらどうか。
幸子もまた鬱病で苦しんでいる。詫びる二宮に幸子は告白する。
四年前、幸子は不倫をしていた。
相手は榊原。河へ飛び込んだ三人のうちのひとりである。

榊原は事件後、幸子と別れ、転職している。
橋本はなぜ死ななければならなかったのか。
苦しむ藍子、二宮、幸子が榊原に逢いにいくと、榊原のみ平穏無事に生活している。
榊原は言う。あの事故は上司の斉藤竜二(46)と清水拓也(48)の責任である。
二宮は忘れていたが、河へ飛び込むよう命令したのは斉藤である。
嫌がる酒を三人に飲むよう強制した清水にも罪はある。
二宮は榊原の平安が憎い。幸子との不倫を暴きたて攻撃する。榊原も苦しむ。

藍子の計略で四年ぶりに藍子、二宮、幸子、榊原、斉藤、清水が一堂に会する。
藍子は兄の遺影を胸に抱く。突然のことで動揺する斉藤と清水。
六人はそれぞれ自己と他者を傷つけあう。
藍子は斉藤と清水のどうしようもなかった事情を知る。いったいだれが悪いのか。

半年後、藍子は偶然に幸子と再会する。
幸子が榊原の子を身ごもったことを知る。結婚も決まったという。新しい生命。
榊原と幸子の新居への引越を手伝うのは二宮、斉藤、清水、藍子。
引越後、六人は事件現場に行く。


(補)実体験です。修羅場を目撃しました。
助かったふたりの泣き叫ぶ声が耳から離れません。
酔っぱらって冗談半分で河へ入ったことへの後悔。
生きていることへの安堵。
そのすぐそばで責任のなすりつけあいも起こっていました。
人が死んだのに、酒を飲みながら、部下の責任を指摘する上司。
その上司も、さらなる上司にはペコペコする。
引越会社の実態を目の当たりにしました。
水死体も見た。32歳。同年代です。前の日、彼は翌日に死ぬと思ったか。
なぜ彼は死ななければならなかったのか。
わたしも海外でメチャクチャをやっています。
泥酔して危険地帯を歩き回ったことも。
しかし、わたしは生きている。水死体。生きている。バンザイ! バンザイ!
最近、死体をよく目撃します。決まって河のそばです。
河が流れる。「河の底には」いったいなにがあるのでしょう。
水難事故を目撃する。

荒川に飛び込み男性死亡=河川敷で酒飲み-東京
6月10日20時38分配信 時事通信

 10日午後5時45分ごろ、東京都北区志茂の荒川で、「人が川に飛び込んだ」と119番があった。警視庁赤羽署によると、東京消防庁の隊員が川底に沈んでいた練馬区の30代男性を救助したが、搬送先の病院で死亡が確認された。水死だったという。
 同署によると、男性は午後3時ごろから、河川敷で勤務先の同僚ら約30人とバーベキューをしていた。同署は男性が酒に酔って川に飛び込み、おぼれたとみている。
 一緒に飛び込んだ男性もいたが、同僚に引き揚げられて無事だった。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090610-00000199-jij-soci



荒川に3人転落、1人死亡 会社のバーベキュー中
6月10日23時14分配信 産経新聞

 10日午後5時45分ごろ、東京都北区志茂の荒川の河原でバーベキューをしていた女性から「会社の同僚3人が川に落ちた」と119番通報があった。川に落ちた3人はいずれも運送会社に勤務する男性で、2人は自力で川岸に上がったが、1人は約30分後、水深約4メートルの川底に沈んでいるところを発見された。この男性は病院に運ばれたが、死亡が確認された。

 警視庁赤羽署は、死亡したのは同社アルバイトの男性(32)とみて身元の確認を進めている。

 同署によると、同社の同僚ら約30人が同日昼ごろから、バーベキューをしていたところ、酒に酔った3人が誤って川に転落した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090610-00000642-san-soci



ニュースはある真実を隠している。
「GO」(脚本・宮藤官九郎、原作・金城一紀/角川書店)

→第53回読売文学賞戯曲・シナリオ賞作品(2001年)。
直木賞作品の原作小説も行定勲監督の映画「GO」も縁がなかった。
映画は国内外で激賞されたと聞く。脚本の評価もとても高かったようである。

宮藤官九郎はいまもっとも勢いのあるマルチ作家ではないかと思われる。
わたしも幾度か氏のテレビドラマを拝見したことがある。
恥ずかしいのだが、センスがないために笑いが理解できない。
これは皮肉でもなんでもなく、こちらの欠陥である。
宮藤官九郎作品は、現代における最高基準にあるのであろう。
衆目の一致するところである。
いまテレビドラマを書く脚本家で天下のプロデューサーに「NO!」をいえるのは、
(山田太一、倉本聰等の大御所を除くと)クドカンと三谷幸喜くらいしかいまい。
いさぎよく認めたい。こちらにセンスがないからクドカンのよさがわからない。

「GO」を映画(ビデオ)で観ていたら、おそらく途中で消していたのではないか。
主演の窪塚洋介が大嫌いなのである。
いや、柴咲コウのパンチラがあるらしいから(脚本で指定されているのよアハハ)、
早送りしながら半分くらいまで我慢したかもしれない。
厄介な「在日問題」を扱っているのにお洒落でクールでバイオレンス満載だって?
ハンサムで喧嘩も強い高校生の恋愛物語なんざ、観たくねえんだよ、けっ!
ええはい、もっぱらシナリオの勉強として読みました。

テンポがいい。ひとつのシーンが短い。柱をバンバン立てている。
昨日観た小津安二郎監督の「東京物語」とは大違いである。
柱の立て方のサンプルをいくつか。
在日の男子高校生、杉原が将来の自分を予想する。これを映像で出したい場合どうするか。
クドカンはこうやっている。

○校庭
行進の準備をしている民俗学校の生徒。
生徒A「ハンサンチュンピ!(いつでも準備)」
杉原M「順当に行けばヤクザの構成員」

○イメージ映像
ヤクザの襲名みたいな席。
もの凄い数のヤクザに紛れている杉原。
杉原M「今から勉強して大学入って就職しても、こんなもんだ」

○イメージ映像
丸の内のサラリーマンに紛れている杉原。



それから電話のシーン。男と女が電話で話す。
古いシナリオ作法に従うなら、いちいち柱を立てなきゃならないでしょう。
クドカンはこう処理していた。

○杉原家・廊下
杉原「……(電話に)ごめん、今日、行けなくなった」

○ホール・前(以下随時カットバック)
携帯で話している桜井。
桜井「なんで?」
杉原「友達が、死んじゃったんだ」
桜井「……いつ?」
杉原「水曜」



シナリオの構成は王道と言いたいくらい素直。
在日の男子高校生、杉原の身辺紹介(暴力シーンの連続)。
杉原は謎の美少女と逢う。
杉原の(これまた在日の)親友が死ぬ。
杉原は親友の妹と泣く。
杉原は美少女と一回別れる。
杉原は父親と殴りあう(久々の暴力シーン)。
杉原は美少女と仲直りする。

荒事(暴力シーン)と色事(ラブシーン)を巧妙に並べていたと思う。
クドカンの強みは、独特の笑わせ台詞を書けること(センスのないわたしは笑わないが)。
泣かせるシーンでは、しっかり杉原と親友の妹を泣かせていた。
でも、まあ、泣かせるシーンはだれにでも書けるのよ。
要は先に登場人物を泣かせてしまえばいいのだから。
笑えるシーンこそ才能がないと書けないもの。センスが勝負となる。
天才作家の宮藤官九郎があちこちでもてはやされるゆえんである。

「ファンキー!――宇宙は見える所までしかない」(松尾スズキ/白水社)

→第41回岸田國士戯曲賞作品(1997年)。
本作品を読んで松尾スズキはたいへんな才能を有する演劇人であると思った。
日本の演劇人の才能とはなにか? どのくらいうまく子どもをだませるか、である。
テレビにも映画にも音楽にも漫画にも夢中になれない繊細なあたし・ぼく。
少年少女の傷つきやすい感受性は演劇を志向するようである。
こう考えると、松尾スズキは日本の正統的な演劇人であることが了解される。
すなわち、寺山修司、アングラ演劇、つかこうへい、鴻上尚史の後継者といえよう。
子どもだましと大人は笑うだろうが、果たしてどちらをだますのが簡単か。
ぞんがい、大人をだますほうが容易なのかもしれない。
いつの時代も子どもは大人のつく嘘を敏感に察知して身構えるものである。

かなり幼稚なわたしだが、松尾スズキの劇作は理解できなかった。
むしろ、わたしのような保守派がバカらしいと感じるところに子どもは感動する。
唐突な暴力が「ファンキー!」では頻出する。
のみならず、車椅子の障害者を笑いながら殴ったりする。
テレビ番組「愛は地球を救う」への批判なのかもしれない。
「ファンキー!」で車椅子の少年がおなじ車椅子の少女に恋をした。
すると、松尾スズキは役者の口を借り、少年に罵声を浴びせるのだ。

「……障害者だからか。エリカが障害者仲間だから、好きなのか?
人生とは、そんなに、平べったいものなのか……。
(泣く)自分が障害者じゃなくても、エリカのことが好きになるって、
どうやって証明できる? なめないでくれよ。私たちを。レベルが違うんだよ」(P39)


こういう世界を歓迎する子どもが存在することはわからなくもない。
車椅子の少女エリカは、父親と近親相姦の関係にある(と思わせる)。
これが新しい演劇だといわれたら、そうなのかもしれないね、とため息をつくしかない。

ところどころ毒舌のギャグらしきものを飛ばしている気配があるがわからない。
なにゆえか。発言の大原則を思い起こしていただきたい。
人間の発言は内容が重要なのではない。発話者が問題とされる。
要するに、だれが言ったか、である。
くだらない文言でも成功者の口から出たら金言となる。
どんな名文句でもホームレスの言葉ならだれも見向きもしない。
松尾スズキの芝居でもおなじことである。
おそらく個性的な(つもりのキチガイぶった)役者が大勢いたのだろう。
劇作家の毒舌ギャグをキチガイ役者がハイテンションで叫んだら、
まあ、子どもが大喜びするのは理解できなくもない。

「ファンキー!」は戯曲の体裁をなしていない。
舞台を実際に見たものにしか戯曲が読めないようになっているのだ。
最初に人物表くらいつけてくれよと哀しくなる。
たとえば「シゲマサ」という登場人物がいる。てっきり男とばかり思う。
ところが「あたし」などという一人称を使っている。
巻末の上演記録を見るとシゲマサは「田村たがめ」という役者が演じたとのこと。
この名前では男か女かわからない。
さすがにわざわざネットで検索するのは面倒くさい。
「ファンキー!」には「ボク」を一人称として用いる女性が登場する。
結局のところ、「シゲマサ」なる人物の性別はわからない。

岸田國士戯曲賞は、優れた戯曲に与えられる賞でしょう。
実際の舞台はともかく「ファンキー!」が優秀な戯曲とは思えない。
当時の選考委員はほんとうにこの戯曲をすらすら読めたのだろうか。
松尾スズキはいまもっとも人気のある劇作家のひとりと聞く。
ファンも多いことだろう。
万が一、この記事を目にしてもお気を悪くしないでいただきたい。
わたしはあなたたちのように繊細な感受性を持っていないのだから。
天才を理解する松尾スズキファンは感性豊かで優秀なのだろう。
どうか浅学非才かつ鈍感なわたしに同情してください。

(注)いま検索したら「田村たがめ」は女優でした……。

「萩家の三姉妹」(永井愛/白水社)

→第52回読売文学賞戯曲賞作品(2000年)。
これも実におもしろい。のみならず極めてまじめにテーマを追求している。
「萩家の三姉妹」のテーマはフェミニズム。
長女=フェミニズムを研究する大学助教授。独身。
次女=専業主婦。子持ち。
三女=パラサイトシングル。夢追いニート。貞操観念がないヤリマン。
三様の姉妹を描くことで、劇作家は女性の生きかたを模索しようとする。
おかたいテーマにもかかわらず、うまく娯楽性を加味している。

異なる意見を衝突させることで劇が生まれることを見せつけられた。
Aという考えかたがある。反対のBという考えかたがある。
劇作では「A+B=C」とする必要はないのだ。「A+B=B+A」で構わない。
つまり、AはAのままでよい。同様、Bもそのまま。
ただしAはAの考えが深まり、Bも同様に深まる。「萩家の三姉妹」における男女論である。
どのような仕組みでテーマは深まるのか。A、Bはお互いを鏡面とするからだろう。
男は女になれない。女も男になれない。可能なのは、自己と他者をよく知るくらい。
しかし、この過程がうまい劇作になりうる。
ひとつの作劇術としてたいへん勉強になった。
いろいろな考えがあるから劇が生まれる。
身もふたもないことを言えば、男女をひと組、舞台にあげたら劇が始まるのだろう。
なぜなら男と女は異なる――。

一箇所くらい引用をしよう。長女の勤める大学の教授先生の台詞である(男性)。
劇作家は恥じらいもなく露骨にテーマを出してくる。きまじめな女性なのだろう。

「確かに男性は、女性に対して相当身勝手にふるまってきました。
セクハラもレイプも、圧倒的に男が加害者だ。
しかし、イジメ自殺も中高年の自殺も、これまた男が圧倒的です。
男性中心社会の中で、男性のあがきももう限度に達しているんです。
勝たなきゃいけない、恐がっちゃいけない、泣いちゃいけない、甘えちゃいけない、
男なんだから……僕は父親にこう言われ続けて育ちました。
子供の頃から、弱々しい感情を禁止され、
あらゆる場所で男らしさを求められる男性のストレスがどんなものだかわかりますか。
男性の犯罪や性衝動は、そういうストレスが引き金になるということも考えに入れないと」(P91)


ふと思ったのだが、作者の永井愛は果たして男になりたいと思ったことがあるのだろうか。
わたしはつねづね女になりたいと思っている。女は得だよな。
現代の日本は有史以来、最大に女性権益がふくらんでいるのではないか。
わたしは早く死んで女に生まれ変わろうと心に決めている。もちろん、美人限定よ♪

「兄帰る」(永井愛/而立書房)

→第44回岸田國士戯曲賞作品(2000年)。
岸田賞作品だからまったく期待せずに読み始めたらすぐさま引き込まれた。
このごろわかったのは、新作戯曲はつまらないのが当たり前なこと。
現代日本演劇の主役は、観客ではなく演者たち。
だれがもっとも楽しいかといったら舞台に上がっているものである。
脇役たる観客は、主役の俳優陣の肉体を愛(め)でなければならない。
要するに、戯曲というのは二の次、三の次なわけ。
出版してもだれも読まないのだから劇作家もあまりこだわらない。
以上のような理由で戯曲は退屈でなければならないのである。
つまらなければつまらないほど、かえって新しいとか評価される不思議な世界だ。
だから、「兄帰る」には驚かされた。
こんなおもしろい作品に岸田國士戯曲賞を与えては、
むしろ失礼になるのではと心配したくらいである。

ホームレスの格好をした(もはや中年の)兄が16年ぶりに姿を見せる。
結婚して妻子もいる弟の家に転がり込んだのである。
兄は16年前、ギャンブルにはまり会社のカネを横領した。金額にして2000万円。
親族会議の結果、家屋敷を売り払い返済に充てることになった。
おかげで兄は刑事罰を逃れることができたという経緯(いきさつ)がある。
つまり、帰ってきた兄は厄介者以外のなにものでもないのだ。
しかし、人間には本音(本当)と建前(嘘)がある。
なかなか実兄に向かって本音を吐けるものではない。
そこの弱みを兄のほうでもうまくつけこむわけである。
まずこの兄さんの仕事先を決めるところで揉めることになる。
揉める。すなわち、芝居になる。

人の悪口というのはおもしろいでしょう。
身内の悪口は、身内ゆえに辛辣でもっとおもしろい。
たいがいどこも父方の親戚と母方の親族はうまくいかないもの。
かならず変わりもののおじさん、おばさんというのがひとりはいる。
こういう事情を実に巧妙に芝居に仕立てあげている。
そこらへんにいるおっさん、おばさんに見せても大笑いは必定。
だから芸術的ではない(笑)と本作品を否定しなかった岸田賞選考委員に拍手したい。

人物の出し入れが天才的である。
AがいないところでB、CはAの悪口を言うでしょう。
そのうえB、Cは建前として仲の良いふりをする。
で、Aが戻ってくる。Cが座を外す。
すると、今度はAとBが、とても本人には聞かせられないようなCの噂話をする。
AとBのC批評が勢いづいてくると、Cが戻ってきて盗み聞きをする。
Cが鋭い皮肉を言うのなら、このタイミングしかない。
A、B、Cが喧々囂々(けんけんごうごう)やっているとDが現われる。
DはA、B、C共通の敵であったりする。
さっきまで喧嘩していたA、B、Cが突如、手をつないで同盟を結んだりする。
以上が「兄帰る」のおもしろさの正体である。

少しだけ引用しよう。兄=幸介、弟の嫁=真弓。弟夫婦の息子=拓(ひらく)。
劇の冒頭である。兄、ホームレスのなりで帰る。

幸介「(写真立てを見つけ)これが拓クンですか!」
真弓「ええ……」
幸介「精悍な目ですねぇ。ああ、この目はあなたの目だ。今のその目と同じです」
真弓「目が保(=夫)似だとよく言われます」
幸介「三週間したら会えるんですね。楽しみだなぁ……」
真弓「……」
幸介「もちろん、私がここにいればの話です、ここにいるとは、
そんなお許しが出るとは限りませんから」(P17)


爆笑した。うまいよな~。
もう一箇所。幸介の姉の百合子は、弟の就職先に酒屋を考えている。
叔母夫婦の経営している酒屋である。店員募集をしていた。
しかし、叔母の登紀子も16年ぶりに帰ってきた幸介を身請けするのは不安がある。

百合子「店員募集って、赤マジックで、お店の前に貼り出して……」
登紀子「出しはしたんだけど、どうかなぁって、ここんと売り上げも悪いし……」
百合子「何だ、そうなんだ……」
登紀子「せめてバブルの時期ならねぇ。出てくるのが遅かった……」
百合子「じゃ、二人でいくのね、店員なしで?」
登紀子「うん、まあ……」
百合子「(鋭く)大丈夫よ、確かめに行ったりしないから……」
登紀子「え……(用心する)」
百合子「(吹き出し)もうっ、用心しちゃって、やだぁ……(と、笑う)」
登紀子「……(どう反応すべきか用心する)」(P47)


親族で厄介者をたらい回しにする感覚が見事に描写されている。
ちなみに傑作「兄帰る」に岸田國士戯曲賞を与えた選考委員は――。
このときの顔ぶれがすごいのである。
井上ひさし、太田省吾、岡部耕大、佐藤信、竹内銃一郎、野田秀樹、別役実。
まともな芝居を書いているのが井上ひさししかいないのだから。
まともな芝居とは八百屋のおっさん、魚屋のおばさんが見てもわかるという意味。
選評を読むと、日本の演劇人の空理空論に絶望する。とんでもない村社会だ。

「第44回岸田國士戯曲賞選評」↓
http://www.hakusuisha.co.jp/kishida/review44.php

「捨てた夢プレイバック」(山田太一/飛鳥新社)絶版

→山田太一ドラマの名言集。
具体的には、「ふぞろいの林檎たち」の「ⅠⅡⅢ」から収集した名台詞。
選び抜かれたものからさらに選んでみよう。
山田太一の才能はどこにあるのか。実(柳沢慎吾)、良雄(中井貴一)――。
両者ともにサラリーマン。

実「うん?」
良雄「いろんなことがあって」
実「ああ」
良雄「俺、ひとり、ただ会社往復だ」
実「同じよ」
良雄「転職すっかなあ」
実「え?」
良雄「希望ないんだよなあ」
実「同じよ」
良雄「そうか」
実「希望があったら、ごたごた人のことなんか考えるかよ」
良雄「ああ」(P105)


脚本家の山田太一は長らく映画会社・松竹で助監督をしていた。
たしかにサラリーマンだが、映画会社は毎日がお祭り。
とても山田太一が会社員の無味乾燥な生活を味わったとは思えない。
ところが、書いてしまう。
おのれが経験していないことを、さらりとリアルに書いてしまう。
これが山田太一の天才にほかならぬ。

わたしもブログ「本の山」のおかげでいろいろな人と知り合った。
多様な本音を聞く機会に恵まれた。
しかし、どうにも聞いた話を創作に生かせない。
どうしてか自らの体験にこだわってしまう。
肝心なのは、どこまで他人の身になれるかではないか。
努力したからといって、どうにかなる問題とは思えない。
これを才能というのであろう。

「『老いる』とはどういうことか」(河合隼雄/講談社+α文庫)

→ライト・エッセイ。河合隼雄は戦後日本最大の賢者ではないかと思っている。
賢いとはどういうことか。なにが河合隼雄の賢さ、つまり卓見の証拠になるのか。

「誰の心のなかにも住んでいる老人と童子の対話が、
何かを生みだしてくれると感じられるのである」(P199)


これに尽きると思う。河合隼雄のなかには150歳の老人がいた。
にもかかわらず、幼稚園に入ったばかりの子どものような斬新な視線も有する。
いや、氏の記憶は幼稚園、保育園にとどまらない。
マイナス10歳の記憶も河合隼雄は持っていたはずである。
すなわち、前世の記憶を――。

河合隼雄は人生の達人である。ならば、人生とはなにか。生きるとはなにか。
人はなんによって生きるのか。生きる裏側にはなにがあるのか。

「人間にとって秘密というものは不思議なものだ。
それをかかえて頑張ることが支えとなるときもあるし、
それを誰かに打ち明けることによって支えを得ることもある。
ただ、いつ、どこで、誰にというところがむずかしいことのようである」(P239)


生きるのにもっとも重要なのは秘密かもしれない。
だとしたら、かの秘密はどのように明らかになるか。
秘密は公開されてはじめて秘密だったのだとばれる。
ならば、秘密はなにによってあらわになるのか。

「人生でも、非常に重大なことが起こっているときは偶発的なことが多いわけでしょう。
あの人に会ったから、どっかから落ちたとか、
それがなかったらどうなっていただろうと。
すごい契機になったけれども、しかし視点を離して見ると、
偶然というよりは必然みたいに見えてきますね。
必然的にある人に会ったんだと後で言いたくなるような流れみたいのがあるでしょう」(P257)


要約しよう。
河合隼雄は、類いまれな感性――老賢者と無垢な赤子に象徴される――
を生まれ持ち、なおかつ努力して育てあげたおかげで人生の神秘――秘密と偶然――
への深い洞察を獲得した。

「貧血と花と爆弾」(井上靖/文春文庫)絶版

→好きな作家の短編小説集を酒をのみながら読むほど楽しいことはない。
こんなことが書かれている。

「木谷はよく真物(ほんもの)だという言葉を使った。
『あいつは真物だぜ』」(P18)

「木谷はこの六十近い自らは不遇でしかない芸術家の、
用捨なく人間の真贋(しんがん)を見破る能力を、
彼の芸術に対する異常な執着と共に高く買っていた」(P25)


世の中、すべてのひとやものに真物と贋物(にせもの)があるのだろう。
いくら高い値札がついていても偽物ということはある。
たとえほとんど価値がないと世間から目されていても真物はいる。ある。
40歳を超えるまで世に出なかった作家にしか書けぬことである。

我われは通常、高い評価のなされているものを買う。
行列のできる料理店に並ぼうとする。
いつ行っても客のいないレストランではうまいものは食えぬと決めてかかっている。
仕方がないことだ。それが生活するということなのだから。

しかし、世間に迎合しているばかりではつまらない。
「あいつは真物だぜ」と言ってみたいじゃないですか。
そのためにはどうしたらいいのだろう。
もとより、答えのない問いである。
以下に引用するのは断じて正答ではない。ヒントにもならないかもしれない。

「あのね、人間どんな不可(いけ)ないことをしてもたいしたことじゃあないと思ったの」(P243)

「人間やりたいことをやらんといけませんな。
やりたいことをやっても一生、遠慮して何をしなくても一生!」(P285)


「常識を疑え」などという処世訓には決してまとめたくない。

「スナフキンの手紙」(鴻上尚史/白水社)

→第39回岸田國士戯曲賞作品(1995年)。
作者がある種の才能を有しているのはわかる。
本書の「あとがきにかえて」では、自信過剰とも思われる弁舌を見せる。
鴻上尚史の自信の根拠は自身が「作・演出」する「第三舞台」の大成功にあるようだ。
とにかくチケットが売れに売れたらしい。若者から熱狂的な支持を受けた。
戯曲を読むと、その理由もわからなくはないのだが、
著者によるとわかってはいけないらしい。

「演劇というメディアと直接握手するような戯曲が書きたいと思っています。
そして、それはたぶん、読むだけだと混乱を与える戯曲なのです」(P182)


「メディア」ってなによ? とクスクス笑いたくなるけれど自制する。
うーん、だったら三谷幸喜みたいに戯曲は出版しなければいいのに。
ホンを公刊しておいて、読んでもわからんよと言われても……。
まあ、成功者にはなにを言っても無駄である。
おのれの成功を勝ち誇る下品な成功者を久々に見た感激に包まれている(笑)。

内容は、パラレルワールドもの。
日本はなんでも交戦状態にあるらしく敵味方が多様に別れている。
美少女アイドルがいて、あちこちのセクトの広告塔になっている。
死体を売り歩く、自殺コンサルタントを自称するセールスマン。
日本政府軍兵士は、2ちゃんねるを思わせる匿名掲示板を主催。
これだけでなんだかわかったような気になりませんか?

戦後の演劇は子どもをだますことが出世とイコールであった。
大人を相手にしてはいけない。
いかにものを知らない子どもをちょろまかすかが芝居の要諦である。
この意味で鴻上尚史は、アングラやつかこうへいの正統な後継者といえよう。
子どもが成長したら文化人面をすればいいと計算しているのもおなじ。

いつの時代も「生きづらさ」を感じている若者というのがいるでしょう。
ほんとうは安っぽい悩みなんだけれど、
本人は自分が繊細だからなんて勘違いをしている。
現代だったら「なんとか人格障害」とか病名を告げられ大喜びするタイプ。
かといって、知力がないから古典作品に触れることはない。
こういう悩めるノータリン・ハムレットたちが鴻上尚史の芝居に飛びついたのだろう。

ポップカルチャーの皮相な模写。安っぽい悩みを意味ありげに代弁する台詞。
空疎な笑いと、その肯定。
鴻上尚史の芝居を要約すれば以上のようになる。
大人が見たら「バッカじゃねえ」のひと言なんだけど、子どもは好きなのよ。
だれであれ人から認められるのは才能の証拠である。
鴻上尚史の才能を否定するつもりはない。
だけど、若くして世に出た人間って、鼻持ちならないやつが多くて困る。
これが結論。もちろん、単なる嫉妬だから。

「道元の冒険」(井上ひさし/新潮文庫)絶版

→第17回岸田國士戯曲賞作品(1972年)。
井上ひさしの喜劇は、優等生を思わせる。健康的なのだ。
たしかに演劇の先生からは褒められるし、多数決で学級委員に選ばれるのだろう。
けれども、その敵を作らないところが、好きになれない。
だれからも悪く言われない。みんなから是認される。
上演中はしきりに笑い声が聞こえる。
クライマックスでは涙を流す観客がいるかもしれない。
だが、裏にすべてを計算している作者がいると思うと興醒めしてしまうのだ。
むろん、アングラ演劇なんかに比べたら数段いい。
客あっての芝居である。サービス精神の過剰を批判するのはおかしい。
おそらく優秀な学級委員に対するひがみのようなものであろう。

井上ひさしほど舞台効果を知り尽くしている劇作家はいまい。
たとえば、喜劇効果のひとつに「繰り返し」がある。
これは戯曲で読んでも決しておもしろく感じない。
ところが、いざ客席で見ると笑いがとまらなくなるのだ。
「禅問答」と題されたシーンで道元少年は師匠の頬を何度も張る(P146)。
戯曲で読むとちっとも笑えないが、舞台で演じられたら爆笑を呼ぶであろう。
「天童如浄」のシーンも同様(P187)。
何度も何度も道元青年は問答後に修行僧たちから袋叩きにされる。
この不毛な「繰り返し」が禅における悟りをうまく風刺している。
なおかつ、観客を笑いの渦(うず)に巻き込むのだから巧妙である。

井上ひさしが天才であることは否定できない事実である。
しかし、天才を好きにならなければならないという定めはない。
井上ひさしの芝居は嫌いではない。むしろ、好きである。が、大好きではないのだ。

井上ひさしの歯(すごい出っ歯だよね)で噛み砕かれた「禅宗の悟り」とは――。

「道元君、悟りもこれと同じなのだ。
金鉄五尺のからだに、これでもかこれでもかと、修行の成果を叩き込む。
どんどんつめこむ。修行をどこまでもつめこむと、ある一点で、
何も入らなくなり、逆に外にこぼれだすときが来る。
それが時機というやつだよ。そのときまでは、焦ってはならない」(P192)


これは井上ひさしの創作方法でもある。
たいへんな勉強家の作家ははじめにこれでもかと資料を読み込むそうである。
読んで読んで読み尽くして、この時点から執筆が開始されると聞く。
いかにも優等生らしい。いや、あんがい優等生ではないのか。
要するに、夏休みの宿題をなかなかやらないということなのだから。
井上ひさしの遅筆は家庭内暴力とともに広く知られている(笑)。

「十日の菊」(三島由紀夫/「戯曲全集」/新潮社)絶版

→第13回読売文学賞戯曲賞作品(1961年)。
日本語で書かれた戯曲のなかでの最高傑作だと思う。
これほどの劇作が日本人によって書かれていたのがとても信じられない。
崇高かつ宇宙的な広がりのある戯曲である。
シェイクスピアやギリシア悲劇に匹敵するほどの劇作を、いち日本人が書いたとは。
世界に誇れる日本産の劇作であることは疑いえぬ。
いまさらわたしごときが指摘するまでもないが、
三島由紀夫の天才には恐れ入ったというほかない。

戯曲の教科書とも言いたくなるような定式どおりの劇作である。
みなさまの読書の快楽を妨げる権利は有していないので、
ストーリーの紹介は最低限にとどめる(=芝居はやはり筋でしょう)。
開幕すると、登場人物が自己紹介を始める。
天下の三島由紀夫でも説明台詞からは逃げられないのかとおかしくなった。

里枝「お兄様、大へんでございます。菊がもうすぐ家へやつてまゐりますよ」
森「え、菊が? そんなばかなことが。
あいつは十六年もついぞ姿を見せたことがなかつた」(P674)


菊さんはかつての女中頭である。家政婦はなにを見たのか。
ともあれ、だれかがやって来るのは芝居の定型である。
こうして16年前の秘密が観客のまえに明らかになる。
登場人物は10人以上と多い。
人物の出し入れで秘密を操作する手腕には舌を巻く。
具体的には、AがいなくなったらB、C、DにAの噂話をさせるのである。
これで情報を公開、秘匿することが可能だ。
三島由紀夫の人物操作は、職人技と言いたくなるほど巧妙だ。
過去が現在を揺るがす。この結果として新しい現在が招来される。
このふたつの現在のあいだにかならず変化が生じている。
これこそ「オイディプス王」の時代から変わらぬ劇の正体である。
「十日の菊」では人間の劇が実に巧みに気高く構築されている。

三島由紀夫は劇作の対象が人間だけではないことをよく知っていた。
ギリシア悲劇やシェイクスピアがなにゆえ名作か。
人間がうまく描かれていたらそれだけでいいのか。いなである。
人間を超えるものと人間との関係を、名作戯曲はどれも描いている。
(ユージン・オニールを見よ。ストリンドベリを見たまえ。
そしてベケットは人間と神との断絶を退屈に描くしかなかった)

重高「菊さん、死んだやつはみんな仕合せだとは思わないかね。
こんな澄んだ秋の朝空には、死んだ奴らの霊が嬉々として戯れてゐる。
空は奴らの霊でひしめいてゐる。満員の高架鉄道みたいに。
しかし肩をすり合はせ、肘をすり合はせてゐても、奴らは厭ぢやない。
固体といふものがなくなつて、透明な全体の中に溶け合つてゐるからだ。
……われわれのやうに、生きてゐるといふことは、
つまり何ものかに嘲られてゐるといふことだ。
その大きな嘲笑ひの前には、われわれはちつぽけな虱(しらみ)だよ」(P697)


我われ凡人は劇作を書こうとすると、くだらぬ日常に引っぱられてしまう。
日常生活でこんな言い回しはしないなどと生活に土下座してしまうのだ。
しかし、三島由紀夫の書く台詞の美しさときたらどうだ。
詩的イメージにあふれており何度も台詞を口にしたものである。
劇作家は役者が舌に乗せたくなるような台詞をどうして書こうとしない。
たわいもない現実とやらから悠然と離陸してもいいのではないか。
かように天才の仕事は、凡人には刺激が強すぎる。
この作品で露(あらわ)になる三島の倒錯したエロスがたまらない。
ほんとうの変態(天才)は、どれほど助平なシーンを妄想(創造)することか。

かつて女中頭であった菊は、なんのために16年ぶりに現われたのか。
かつての主人、森を菊はどうしようというのか。

森「……なあ、菊、ひとつ訊くが、お前はこの家へ何を狙つてやつて来たんだね」
菊「何を申してもよろしうございますね」
森「ああ、いいともさ」
菊「旦那様がこの世で一等愛(いと)しがつていらつしやるものを
探しにまゐりましたんです」
森「それを探して……そして見つかつたら、それをぶちこはすためにだね」
菊「(――間)はい。さやうでございます」(P716)


ぞくそくするね。いいね、いいよ。さらに愛憎は深まる。

菊「どうしろと仰言るんです」
森「だからわしにとつて一等愛しいものを、わしの目の前で殺したらいい」
菊「え?」
森「わからんのか。お前が自殺すればすむことぢやないか。
……さうすればわしは多分、悲しみのあまりお前の跡を追ふだらう、……多分な」(P722)


引用部分で「十日の菊」の世界観が若干(じゃっかん)にしろおわかりいただけたと思う。
生と死、愛と憎――。
正反対だと一般に思われているものが、実のところ同一物なのかもしれない。
名作から我われが教わることである。
我われは本来すべてを知っているのではないか。ところが、忘れている。
思い出すために劇作を見る。小説を読む。感動する。

(注)ある人に「十日の菊」を強くすすめた。
高価な古本で買ったそうである。
調べたところ新刊書店で購入可能。しかも文庫で出ている。
調査不足をここにお詫びします。
河出文庫「英霊の聲」に収録されている。
わが国、最高峰レベルの劇作ゆえ、もしお暇がございましたらお読みください。

「戯曲 蒲田行進曲」(つかこうへい/角川書店)

→むかしの話だが、はじめて「蒲田行進曲」に触れたのは映画。
えらくおもしろくて小説を読んだら、こんなものかとがっくり。
このたびの戯曲にはさらなる肩透かしを食わされた。

とはいえ、才能がある人なんだろうね、つかこうへいさん。
若いころから世に認められて、芝居でも小説でも賞賛の嵐。
みんながあこがれるような人生だけれど、本人はどうなんだろう。
あんがい、なんでもないことなんだろうな。むしろ、つまらないくらい。
当たり前のことだけれど、成功者は失敗者の人生を味わえない。
どちらの人生が美味かはそう簡単にはわからない。

「蒲田行進曲」の物語において、銀ちゃんは才能ある成功者。
ヤスは才能のない失敗者。両者とも、典型として描かれている。
じゃあ、どちらの人生が格好いいかといったら、圧倒的にヤスだもの。
人生は一度きり。一回ポッキリ。稀有なる成功者のつかこうへいは、
あるいは失敗者への憧憬から「蒲田行進曲」を書いたのかもしれない。

「飛龍伝'90 殺戮の秋」(つかこうへい/白水社)絶版

→第42回読売文学賞戯曲賞作品(1990年)。
つかこうへいは本作において同世代の学生運動を総括した。
と思われるのだが、よくわからない。理由は「作・演出」だから。
つかこうへいが自分で脚本を書いて演出もやっている。
作家は稽古中にどんどん改作していくことでも知られている。
したがって、つかこうへいの頭には読者がいない。
となると、読者は困ったことになる。文章から舞台が想像できないのだ。
ひんぱんに舞台上でなにが起こっているのかわからなくなった。
つかこうへいが詳細を書いていないからである。
おそらく口頭で役者に指示を出したのであろう。

一般に劇作は昂揚のあったほうがよいとされる。
舞台上の高まりである。熱気の上昇だ。
これを感じたいがために観客は劇場へおもむく。客は陶酔したいのである。
なにもない日常からいっときでも解放されたいのだ。
しかし、現代において我われは燃えあがることが可能だろうか。
現代を描いて果たして昂揚を演出できるのか。
平成2年、つかこうへいは学生運動を回想するしかなかった。
日本現代史における最後のお祭りが全共闘だったのである。

芝居は、映画とは異なり、小数の観客を相手にすればよい。
そうとうに実験的なことができる。
しかし、現代はなにもないでしょう。どこもかしこも燃えかすだらけ。
ファンタジーを入れるほか燃焼しようもない。
秋葉原にトラックで突っ込んだって単発の祭りにしかならない。
演劇は事件である。演劇は祝祭である。
だとしたらば、今現在いかなる芝居が求められているのか。
もはや回想するしかないのか。ファンタジーに逃げるしかないのか。
表現者は生まれた時代の影響を強く受ける。つかこうへいを羨ましく思う。

「熱海殺人事件」(つかこうへい/角川文庫)絶版

→第18回岸田國士戯曲賞作品(1974年)。
どうして岸田國士戯曲賞が演劇界の芥川賞といわれるのかようやく了解した。
日本でもっとも栄誉ある文学賞である芥川賞受賞作品は決まってつまらないでしょう。
わたしなんかも芥川賞作品は、つまらないと覚悟して読み始める。
時代の最先端(笑)を行く文学をそうそう我われ凡人が理解できるはずがない。
岸田國士戯曲賞もおなじである。
だれもがわかるようなおもしろい作品にこの戯曲賞を与えるわけにはいかない。
一部の人(感性の優れた若者、フフ)しかわからぬ作品にハクをつけてやる。
選考委員は、みなみな才能あふれた演劇人。
時代の空気を読む達人たちである(笑)。
若者から評価されているものに理解を示す度量を見せなければならない。
おそらく以上が岸田國士戯曲賞の裏側かと思われる。

つかこうへい。全盛期は若者にすごい人気だったんでしょう。
劇作「熱海殺人事件」を読むかぎり、どこがおもしろいのかわからない。
ひるがえると、この理解不能な部分ゆえに当時の若者から支持されたのだろう。
ある人から嫌悪されない作品は、またべつの人から熱愛されることがない。

つかこうへいは西洋古来の劇作術を無視して、役者を重視した芝居を創造する。
劇作家は日本の観客の実相を見破っていた。
芝居の観客はなにが目的で劇場に足を運ぶか。
言うまでもなく、役者である。好きな役者を少しでも長く見ていたいのだ。
なら、劇作家の仕事は、いかに役者を輝かすかである。
つかこうへいが、台本なんて紙くず同然と目していたのは疑いえぬ。
だから、戯曲「熱海殺人事件」を退屈だと批判しても始まらないのだろう。

つかこうへいの劇作の特徴は、テンポのよい辛口の台詞であろう。
毒舌によって観客を笑わせるのである。
刑事が「熱海殺人事件」の容疑者に向かって口にする言葉を聞こう。

「笑わせるんじゃねえ、海が見たいだと。
フン、職工ふぜいが、シナつくるんじゃねえよ」(P145)

「尻の下にハンカチ一枚敷けば強姦は成立しないって、
おまえたち工員には常識だってな。
ヌード写真ベタベタはった会社の寮で、
どうしようもなくいじけた先輩が田舎から出てきたばかりのおまえらに、
そんなことばっかり教えるんだってな」(P154)

「欲求不満がこり固まって、工員は仕事中でも鼻血出すんだってな。
トルコかようほど給料はもらっちゃいめぇ。
それで手頃なブス海に誘って欲求を満たす。
ところがブスはここぞとばかり結婚を迫る」(P156)


まあ、笑えないこともないか。

「ぼくらが非情の大河をくだる時」(清水邦夫/新潮社)絶版

→第18回岸田國士戯曲賞作品(1974年)。
どうすればこんな退屈なものを書けるのか教えを乞いたくなってしまう。
夜の公園。公衆便所。男色(ホモ)の連中が集まるところ。
ここに気が狂った詩人が舞い込んでくる。
あとから詩人の兄と父が、なぜか棺桶(!)を背負って登場する。
この設定は、恥ずかしいよな。
しかし、清水邦夫もいまは日本演劇の重鎮なんでしょう。
若いときにこんなものを書くのなら作者は自殺しなければならないのに、
のうのうと長生きして権力の蜜を味わうとは。
この世代には、どれだけ厚顔無恥が多いのだろう。
過去を総括したら自殺するほかない人間が大手を振って歩いていやがる。

一箇所、笑えるところを抜粋する。

詩人「でも結論は出た、知識とは何か!
階級社会があらわれて以来、世界にはただ二種類の知識しかない。
ひとつは階級闘争の知識といい、ひとつは生産闘争の知識という。
自然科学と社会科学が、この知識の二種類の結晶であり、
哲学は自然に関する知識と社会に関する知識の総括なのだ。
(突然客席にむかって)これ以外にどんな知識があるか。
え、これ以外にどんな知識があるかいってみろ」(P144)


まったく意味の取れない観念語の羅列により、作者の低知能ぶりがよくわかる。
笑えるのは、客席にむかって魂の叫びを訴えるところ。
わたしが観客席にいたらペットボトルかなにか投げつけると思う。
こんな恥ずかしい劇作を書いていた人間が長生きしたら目も当てられない。
最後は俳優陣が意味不明のボクシング(笑)。
いやあ、熱いっすね。ヒューヒュー。風送りましょうか。パタパタ。

詩人「くそ、死ね! 死ね! 死ね!」(P158)

バカヤロウ。おまえが死ね。

「赤い鳥の居る風景」(別役実/三一書房)

→第13回岸田國士戯曲賞作品(1968年)。
演劇は、もっとも古い芸術分野のひとつである。小説やシナリオと比較しての話だ。
演劇の特徴は、不自由なところにあるように思う。
小説やシナリオ(映画)のような自由がない(時間経過、場面転換)。

ギリシア時代から多くの劇が創作されてきた。
なにを言いたいのか。もはやパターンのようなものがあるわけである。
こういうところで観客は感動するという型が、ある程度わかっている。
じゃあ、若手劇作家の新しい創作の余地はどこに残っているのか。
定型のどこを残して、どこを崩すかにかかっている。
「起承転結」のようなわかりやすいパターンは早々と壊される。

時代の旗手(笑)であった別役実は、意外と古い定型を利用している。
まず舞台に新参者を登場させる(「旅行者」)。
ある夫婦を自殺させ、理由の判明で客の気を引く。
「仕事」か「逃亡」かの「ふたつにひとつ」の選択を役者に迫る。
いきなり「刺殺事件」を起こし観客を驚かせる。

新しさは乾いた台詞なのだろう。観客に感情移入を許さない。
なんのためか。ありがたくも客に(当時の)現代日本を撃たせるためであろう。
ブレヒトあたりの演劇理論にかぶれたのではないか
喫茶店でカタカナを連発して優越感に浸った世代の劇作だ。
とてもわたしが理解できるはずがない。
いや、当時の観客もわかったはずがない。
わからないことに価値を見いだす青臭い若者が大勢いたのだろう。
深読みしたらなにか重大な意味がありそうな台詞で満ちている。
だが、申し訳ない。わたしはきみに興味がないんだ、別役実よ。

「マッチ売りの少女」(別役実/三一書房)

→第13回岸田國士戯曲賞作品(1968年)。
感想は「わけがわからない」。
ある夜、初老の夫婦のもとへ女が現われる。
市役所から紹介されてきたという。3人は意味不明な会話をやりとりする。
いきなり女が、自分は夫婦の娘であると告白する。
弟まで連れてきているというのだから驚きである。
不条理極まりないのはわかるが、おもしろくないのだ。
製作サイドからはこういった反論が来るのかもしれない。
このすばらしい劇作品を理解できないのは、おまえの問題意識が低いからだ。
わからないことを恥じろ!
これは戦後日本の急所をクリティカルに指弾した芸術作品なのだ。

あっそう。だから、なに? つまらない。わからない。
この別役実クラスがいまの日本演劇の重鎮なのでしょう。恥ずかしい国である。
劇作家は、観客に考えさせよう、などと思うべきではない。
無理じいされなくても人間はどんなときでも(自分のことを)考えているのだから。
芝居は、政治の道具ではない。
(演者も観客も)やたらカネのかかる道楽に過ぎぬではないか。

「少女仮面」(唐十郎/学芸書林)絶版

→第15回岸田國士戯曲賞作品(1970年)。
新しいものは、すぐに古くなってしまう。カルチャーの寿命は短い。
若者は大人たちが理解できないものを、まさにそれが理由で熱狂的に支持する。
「これ、よくわかんないけど、ちょー新しくね?」という感覚である。
これから確認していくが、日本現代演劇は、常に若者を対象にしてきた。
演劇は若者のもの。大人になったら卒業するもの。
西洋伝来の新劇(言葉の劇)が、この国に根づくことはなかったようである。

「少女仮面」はまるでわからない。
意味不明な古臭い(がために当時は最新の)コントが繰り返される。
意味ありげだが意味なんてありはしない奇天烈な動作と台詞が空々しい。

「ね、わかるかい、お前、俺たちは愛の幽霊であるとともに肉体の乞食なんだ」(P47)

はあ? 「わかるかい」だと? なれなれしい口をきくんじゃない。
わかってたまるかバカヤロウである。
この恥ずかしい台詞に日本現代演劇の未熟が象徴されている。
日本における演劇の愛好者は、劇のなかの言葉を読み取る能力がないのだ。
彼ら彼女らの目に入るのは、役者の肉体のみである。
しかし、それは断じて新しいものではない。歌舞伎の観客とおなじなのだから。
ほんとうに新しいのは、西洋伝来の言葉の劇なのである。
とはいえ、翻訳劇をやるといっても客は集まらない。
興行主はアイドルを起用するしかないわけだ。「肉体の乞食」とはだれだろう。
役者か観客か。おそらく、どちらもであろう。

シナリオ・センター第17回提出課題。「別れ」(20枚)。

<人物>
浜村務(59)会社員
浜村和代 その妻・故人・享年(44)
田中道子(52)「善良酒庵」おかみ
田中聡美(28)その娘
酔客(60)男

○河岸(夕方)
雨が降っている。傘をさした礼服の浜村務(59)。
手には結婚式の引き出物。浜村は河を見ている。
映像にならないが、浜村和代(44)のことを考えているのだ。
和代の声「河岸の向こうにはなにがあるんだろう。
小さい頃、近所に大きな河があってね。そんなことばかり考えていた。
田舎でね。夏は泳ぐの。行っちゃいけない。河の真ん中は流れが速い。
大人から注意されていて、そうすると逆に行きたくなって」

○浜村家・居間(夕方)
仏壇に和代の遺影が置かれている。

○河岸(夕方)
雨。浜村が同じように河を見ている。
和代の声「河岸の向こうにはなにがあるんだろう。
大人になっても同じようなことを考えている。
結婚してからずっとあなたはあちら側にいた。
河の向こうに行きたい。心を通わせたい。わかってほしい。
わかってくれないあなたが憎い。わかれ。許せない」

○「善良酒庵」の前(夜)
雨。礼服の浜村が近づく。
閉店セールの貼り紙。入るのを一瞬ためらう。

○「善良酒庵」店内(夜)
小さな飲み屋。繁盛。
田中道子(52)、田中聡美(28)の二人で切り盛りしている。
聡美「いらっしゃいませ。
(浜村と気づき)めずらしい。いつも土曜日なのに」
浜村「いや、ちょっとね。店、閉めるんだ?」
聡美「そう。ちょっとね、こっちも。急だけど、思い切って。いつものでいい?」
カウンターに座る浜村の前にビールと酒肴数品。
横の酔客(60)が話しかける。
酔客「あなた、前にも見た。哀しいでしょう」
浜村「はあ」
酔客「哀しいじゃないの。常連はみんな、哀しみの涙に暮れております。
聡美ちゃん、出来ちゃった結婚。だから、店を閉める」
聡美「バカ(言わないでいいのに)」
酔客「ボクは聡美ちゃんが高校生の頃から知っております。
お母さん思いのいい子でね。ずっとファンでした。
それがいつの間にかお腹に赤ちゃんがいるという」
浜村「へえ(と聡美を見る)」
道子「娘のことだけじゃないんですよ。ちょうど賃貸の更新の関係もありましてね」
酔客「ボクはこれから淋しくなったらどこへ行けばいいんですか。
あなた(と浜村の肩を叩く)。あなたも淋しいでしょう」
浜村「はい。突然で、その」
酔客「哀しいとき、淋しいときはナンマンダブがいい。呪文のようにとなえる」
浜村「ナンマンダブ、ですか」
酔客「いえ、ナンミョウホウレンソウでも、アーメンでもソーメンでもいいのです。
ボクはナンマンダブね。ナンマンダブと口にする。
河が流れるように、こう、ゆるやかにね。哀しみや淋しさが流れてゆく」
浜村「(酔客の物真似口調で)ナンマンダブ」
酔客「そうそう。うまい、うまい」
酔客、浜村、道子、聡美、みな笑う。
道子、聡美「ありがとうございました」
グループ客が出て行く。もう例の酔客はいない。客は二人連れと浜村のみ。
浜村「じゃあ、私も(会計を)」
聡美「(小声で)お客さん、ちょっと残ってくれませんか。お話が」
浜村「なにかな?」
聡美「ジェラシー。嫉妬(と含み笑い)」
道子、聡美「ありがとうございました」
二人連れが店外へ。客は浜村のみ。
浜村「(聡美に)ジェラシーって?」
聡美「私、これでも結構自信があって、この店、持っているの、私のおかげ、なんて」
浜村「違うの?(からかい気味)」
聡美「お客さん、いつもママのほうを見ていた。悔しかった(と笑う)。
それに知ってるの。ママも、お客さんに出す料理は特別。
いいところだったり、量が増えていたり」
浜村と道子、顔を見合わせる。
聡美「最後の親孝行。もう片付け、ほとんど終わってるし、
私いなくなるから、二人で。お客さんも、いいよね。ママきれいでしょ」
店外の提灯の明りが消える。
店内には浜村と道子の二人のみ。カウンター。
浜村「ええと、その(気まずい)」
道子「十年もいらしてくださっているのに、いざこうなると。客商売ですのに」
浜村「九年です。十年前は酒をやりませんでした。
お酒の味は、この店に教えてもらったようなもんです。
酒はいい。酒はうまい。酒は楽しい」
道子「はい」
浜村「今日の酒はとくによかったです。娘の結婚式の帰りでね。
うまい酒が飲みたくて来てみたら閉店だという。お嬢さんがご結婚なさる。
こんな偶然があるのかと」
道子「あるんですね。あの子は、早く父親に死なれたのに、
ぐれるようなこともなく、立派に育ってくれました」
浜村「いい娘さんです。私は妻を亡くしてから、だいぶ娘とやりあいました」
道子「そうですか」
浜村「娘の母親がこれだったもんで(と両手で自分の首を絞める)」
道子「え?」
浜村「首を吊った。お父さんのせいだ。お父さんがいけない。
娘からさんざん責められました。
そりゃあ、一度や二度の浮気をしたかもしれない。けれど、死ぬことはない」
道子「ええ」
浜村「それが九年前。九年前、おたくで酒の味を知りました。
九年が経つ。先ほど結婚式で娘から、ありがとう。
ありがとうお父さんと娘が言ってくれた。嬉しかった」
道子「おめでとうございます」
浜村「うまい酒を飲みたくなった。めでたいことは続く。
お嬢さん、おめでとうございます。これを二人で飲みませんか」
浜村は引き出物袋からワインを出す。
道子「うちワイングラスなんてなくて」
浜村「おめでたい席で細かいことはなし」
ワイン瓶が空になっている。
道子「お願い。一回、一回だけでいいからデートしませんか。おめでたいデート」
浜村「一回だけならご免です。二回、三回とそのあとも逢えるのでしたら」
浜村と道子はワインの入ったビールグラスで乾杯する。美酒を味わう。

○走る電車
浜村が窓外を眺める。田園が広がる。

○墓地
浜村が和代の眠る墓に水をかける。
浜村「元気かい、なんて死んでいる和ちゃんに聞くのはおかしいね。
寛子(娘)がとうとう嫁に行ったよ。孝史(息子)は相変わらず。
インドだったか、ネパールだったか。ふらふらしている。生きていればいいさ」
カラスが鳴く。墓前の花。
浜村「なにを話せばいいのだろう(と墓石をなでる)。
これまでもう数え切れないほど和ちゃんに話しかけてきた。詫びた。怒った。
しかし、死んでしまった人間には、どうしようもない。
和ちゃん、寛子はとてもきれいでしたよ。
和ちゃんの花嫁姿を思い出して、込み上げて来てね。和ちゃん」
和代の声「聞こえる?」
浜村「え?」
和代の声「私の声、通じていますか?」
浜村「うん」
和代の声「嬉しい。ふつう最低十年はかかると言われているの。
なかには何十年経っても無理な人がいる。まだ九年でしょう」
浜村「なんのこと?」
和代の声「霊界通信(と笑う)。ウソ。お話し。生きている人とのおしゃべり」
浜村「こんなこと(あるんだ)」
和代の声「こっちに来ると色んなことがわかる。
そっちの世界では想像もできないことばかり。ふしぎなことがいっぱいわかる」
浜村「そう」
和代の声「言いたかった。私が自殺をしたのは、あなたのせいではないから。
だれのせいでもない。命はロウソク。命は炎のようなもの。
長いロウソク、短いロウソク、色いろ。ロウソクが尽きると命も消えてしまう。
だから、自殺も病気で死ぬのも理由は同じ。
交通事故で死ぬのも、ロウソクが終わっただけ。こっちに来るとよくわかる」
浜村「ありがとう」
和代の声「ありがとうはこっち。まさかこんなに早く言葉が通じるなんて。
でも、今日はどうして。命日でもない」
浜村「うん?」
和代の声「なんかやましいことある?」
浜村「いいえ(と手を振る)」
和代の声「これは一回だけ。一回だけ許されたご褒美。寛子や孝史によろしくね」
カラスが鳴く。墓前の花。
浜村「さようなら、さようなら(と泣く)」

○河岸
晴天。浜村が河を眺める。歩き出す。

○電車の中
吊り革につかまる浜村。肩を叩かれる。浜村が振り向くと、道子である。
道子「偶然、同じ電車。赤い糸かも(と笑う)」
浜村「ホント。待合せる必要がない(と笑う)」

○鉄橋
河がゆるやかに流れる。ふたつの河岸をむすぶ鉄橋を電車が通過する。


(補)補うようなことは、今回にかぎりなにもございません。
書きたいものを書きました。死者との「別れ」を書きたかった。
ペラ20枚にもなる拙作を最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。