みなさまにはどうでもいいことなので、サーセン(すみません)。
昨日、提出したシナリオでひとつ失敗をしました。
「男女がひとつのベッドで寝ている。事後である」
このところです。「事後である」「と書いても映像になりません」と赤字が入る。
「乱れたシーツ。布団から男女の裸の肩がのぞいている」とか、
書かなければならなかったのかしら。どうなんでしょうね。
ふつう監督が台本に「事後である」と書いてあるのを見たら、どういう演出をするか。
ここは赤字が入っても納得します。というか、入れてくださいよ。お願いします。
しかし、「走れキッチ」以降、添削者の先生が朱筆を入れなくなりました。
おそらくご気分を害されたのでしょうね。
「夕方」→「夕」、「情景」→「全景」といった修正がよくわかりませんでした。
肝心なところでしたら、ご指導を感謝するのですが……。

ほんとみなさまにはどうでもいい話でごめんなさい。
まあ、ブログなんて本来そういうものですから、ご勘弁ください。
小説やシナリオといったフィクションの感想には「つまらん」と「おもろい」しかない。
もっといえば、好きか嫌いかである。
世に評論というものがあるらしいが、
あれは要するにおのれの好き嫌いを正当化しているわけである。
本来なら好き嫌いでしか語れない領域に無理やり正誤をぶち込んでいる。
「この作品が好きなのは正しい」「この作品が嫌いなのは正しい」――。
評論の正体などこんなものである。

勤勉な読者はある評論を読んで、この作品を好きにならなければならないと思う。
売れている流行小説をバカにしなければならないのだと思う。
しかし、たいがいの場合、好きなものをなかなか嫌いにはなれない。
嫌いな作品を再読するのは難業である。
人間は複雑だから、稚拙だけれどもいいと感動する作品がある。
高尚なのだろうけれど、自分の趣味に合わない作品もあろう。
それでいいのである。結局は、好き嫌いしかないのである。
作家はおのれの好きな世界を構築するしかできない。
不特定多数の受け手の愛好する世界を創造するのは個人の仕事ではない。
作家はみずからの好きと嫌いを極めるしかないのだ。
結果、作品が読み手に好かれるか嫌われるかは相性である。
嫌いと言われたら、これはもうどうしようもない。反論は不可能。
「ごめんなさい」と頭をさげるほかない。
ただし重要なのは、嫌われないものは好かれないということだ。
ある人からひどく嫌われるものが、べつの人から好かれるのではないか。
みんなに好かれようと思っていると、だれからも嫌われないかもしれない。
けれども、熱心な愛好者がひとりもいない、ということもありうる。

日記はへたくそでも、まあ、読めてしまうのである。
しかし、未熟なフィクション(小説、シナリオ)は、ほんとうに読めない。
読了してつまらないと書き手をぶん殴りたくなる。
日記や雑文では、そういうことがない。
おそらくフィクションで読み手は、より深く他者の世界観と衝突するからだろう。
こうしてシナリオを公開していて、読み手に申し訳なく思う。
リアル友人知人のなかには義理でお読みくださっているかたもいるでしょう。
つまらなかったら、ごめんなさい。
わたしがすべて悪い。心よりお詫び申し上げます。
シナリオ・センター第16回提出課題。「ラブシーン」(18枚)。

<人物>
森田満(23)会社員
宮下琴美(26)その恋人
平井武志(26)その同僚
斉藤和夫(28)その同僚

○ある会社・ビル・全景(朝)
大勢の会社員がビルに吸い込まれていく。

○ある会社・オフィス内
働く森田満(23)。働く平井武志(26)。働く斉藤和夫(28)。
具体的には、デスクで書き物をする。パソコンを眺める。
平井は立ち上がり斉藤のデスクへ行く。
電話が鳴る。宮下琴美(26)が受話器を取る。
琴美「顧客管理課です。え、課長さん? なにそれ。ウソ。
ちょっと(小声で)やめて。切りますよ。切りますからね」
琴美は電話を切る。
森田は琴美を見る。平井、斉藤も琴美を見る。ふたりは含み笑いをする。

○動物園
にぎわっている。象、猿、キリン。
つまらなそうに琴美が立っている。
動物園には場違いな服装。派手なミニスカート。
森田がソフトクリームをふたつ持って走ってくる。
森田「はい(と手渡す)」
琴美「ありがとう」
森田「あっちでね、思った。きれいだなって。
琴美さん、すらっとしていて、とてもいい。ウワア、美人がいる」
琴美「やめて。恥ずかしい。人に聞かれるじゃない」
森田「でも、本当のことだよ」
琴美「バカみたい」
森田「幸福。動物園で、晴れていて、好きな人と、ソフトクリームを食べる。
クウウ、幸せだな。踊りだしたい」
琴美「バカ(苦笑。森田がかわいい)」
森田はシェーのポーズ。
孔雀が羽を広げる。

○アパート・琴美の部屋(夜)
ひとつのベッドに森田と琴美が寝ている。事後である。

○道(朝)
スーツ姿の森田と琴美が手をつないで歩く。
立ちどまる。辺りの様子をうかがう。バイバイと別れる。
そんなふたりを見ているものがいる。平井である。

○ある会社・給湯室
森田が味噌汁のカップを持って近づく。中にいるのは平井と斉藤。
平井「びっくり仰天。まさにシェーだよシェー。
宮下琴美。あいつ今度は新入りに手を出しやがった」
森田は給湯室に入るのをとどまる。立ち聞きする。
斉藤「悪く言うのはやめないか。おまえもお世話になったんだろう」
平井「斉藤さんが教えてくれたんじゃないですか。天使のような子だって」
斉藤「俺は課長から教わったんだ」
平井「ということは、わが課の伝統かな」
平井は笑う。斉藤も笑う。
森田はその場から駆け去る。

○バー(夜)
森田がカウンターでウイスキーのオンザロックを飲んでいる。
森田「おかわり」
バーテン「かしこまりました」

○アパート・琴美の部屋の前(夜)
森田がベルを鳴らす。ドアをバンバン叩く。ドアが開く。

○同・琴美の部屋(夜)
森田は素早くベッドに目を走らせる。だれもいない。
床にどさりと腰を下ろす。
琴美「減点、五十ポイント。森田くん、百ポイントしかないから。
ポイントがなくなったら終わりだから」
森田「ラーメンでも作ってくれないか」
琴美「なに、その口の聞き方」
森田「ラーメンならプラス十ポイント。
なにか手料理だったら二十ポイントくらい上げてもいい」
琴美「調子にのんなよ、バカ。インスタントラーメンならあるから自分で作りな。
マイナス三十ポイント」
森田「俺と琴美さんの関係って何かな」
琴美「少なくとも、主人と家政婦ではない。こんな酔っぱらって」
森田「酔っちゃいない。ビールあるでしょ。くれないかな」
琴美「マイナス二十ポイント。これでもう後はないからね」
琴美は冷蔵庫から缶ビールを取り出す。森田に放る。
琴美「私のこと好きなんでしょう。いいのかな、こんなことして」
森田はビールをぐいとあおる。
森田「笑わせんなよ、この公衆便所が! ヤリマン、アバズレ、肉便器!
おまえ、だれとでも寝るんだろう」
琴美「うう」
森田「やっすい女だな。みんな、おまえのことバカにしてんぞ。
最低の女だって。生きていて恥ずかしくないのかよ。
俺だったら自殺してるね。生き恥め」
琴美「だから?」
森田「え?」
琴美「だから、なんなのよ。文句ある?」
森田「だって」
琴美「私の勝手でしょう」
森田「好きだから」
琴美「関係ない」
森田「俺、琴美さんのこと好きだから、そういうこと聞いてショックで」
琴美「わからない」
森田は琴美を抱きしめる。
琴美は森田の頬を張る。
琴美「私、人を好きになるってわかんない。人を愛したことなんてない」
森田「憎んだことは?」
琴美「ある。いまあなたを憎んでいる。苦しめてやりたい。
これでもかと痛めつけてやりたい」
森田「俺も琴美さんが憎らしい」
琴美「いつまで経っても琴美さん(と呼ぶ)。
森田くんもてないもんね。私がはじめてだったんでしょう」
森田「そんなことは」
琴美「課長さん、セックスうまかった。
森田くんなんて比べものにならない。何度も何度もいかされた」
森田「平井さんや斉藤さんとも」
琴美「(残酷な喜びに打ち震え)うん、何度かね。
二人とも遊んでるから。お洒落なレストラン、ホテル、セックス」
森田「ウウ、アア、ウワア」
森田はうめきながら崩れ落ちる。
琴美「愛とか、好きとか、ややこしいことを言わなかった。
森田くんは子ども。甘ちゃん。なんにも知らない」
森田「(下から見上げ)悔しいけど、いまの琴美さん、
いままででいちばんきれいだ。苦しい。けれど、美しい」
琴美「フフ、コラッ(と森田の頭をちょこんと蹴る)。どうした。
反撃してこないか。負けを認めるか。どうだ」
森田「(土下座の姿勢で)負けました」
琴美「ふむ、素直でよろしい。褒美を取らそう。おもてをあげい」
琴美は膝をつく。森田の顔を両手で挟みキスをする。
琴美「次は風呂場で洗ってしんぜよう」

○同・風呂場(夜)
洗面所から風呂場の中がシルエットになって見える。
全裸の森田と琴美が抱き合う。

○駅・プラットホーム(朝)
通勤、通学の利用客で混雑している。森田と琴美が並んで歩く。
森田「琴美。こっち向いて」
森田は強引に琴美に口づけをする。
琴美は手を振り上げるが森田に押さえられる。再びキス。
物珍しそうに通勤、通学客が振り返る。
森田「今日、会社なんて行きたくない」
琴美「うん、休んじゃおう」
電車がホームを通過する。ベンチに森田と琴美が座っている。
二人とも手に缶ビール。通勤、通学客は二人を見ないふり。
森田と琴美は乾杯する。朝日がまぶしい。


(補)サーセン(=すみません)。妄想爆発です。
これほど書けないで苦しんだことはありません。書けて嬉しい。バンザイ。
わたし、人生で、何人もの女性からこの言葉を聞かされました。
「私、人を好きになるってわかんない。人を愛したことなんてない」
逢う女性、逢う女性が同じようにこのセリフを口にします。
もしかしたら、わたしもまた愛を知らない人間だからかもしれません。
拙作をお読みいただき、ありがとうございます。
多くの人が目指しているシナリオライターだが、果たして実在するのか。
いや、理想はかならずしも現実にならなくてよい。
決して現実化できぬ理想だから美しいということもありうる。
理想がなくては人間は生きづらい。シナリオライターを目指すのはいい。

どうすればシナリオライターになれるのか。
テレビ局主催のコンクールで大賞を取ったらどうか。
しかし、現実は受賞してもシナリオを書かせてもらえない。
ひたすらプロットを書かされるとのこと。
プロットとは、ストーリーの要約。あらすじのようなもの。

だれが偉いのか。テレビ局正社員のプロデューサーである。
天皇だ。むろん戦前の天皇。Pなどと俗称される。
Pは多くの底辺自称脚本家にプロットのみ書かせる。
いちばんすぐれているとPの思うものが採用される。
なにゆえPの判断は正しいのか。テレビ局のお偉いさんだからである。
時代の先読みをできるのはPのほかにいようか。

で、天皇陛下は脚本家にプロットを渡す。
このプロットでシナリオを書いてくれ、と下請け自由業者に出すのである。
かの脚本家もプロット出しから、ようやくここまで出世したわけだ。
他人の作ったプロットで、なるべく数字(視聴率)の取れるシナリオを完成させる。
この過程にも、わずかながら創作の余地は残されているのだろう。
さて、出来上がったシナリオはどうなるか。
プロデューサー、ディレクターにこれでもかと改変を命じられる。
断わったら首を切られるのである。代わりは掃いて捨てるほどいる。

脚本の無断改変にもシナリオライターは耐えなければならない。
あたまの悪いジャニタレ(ジャニーズタレント)のひと言で何行も消される。
「このセリフはボクの芸術性が言わせません」
人気タレントはプロデューサーよりも偉いことがある。
「まったくご指摘の通りです。セリフをカットしましょう」となる。

くだんのシナリオライターはぐっと堪えるしかない。「いつかいつか……」
数字を取れなかったらシナリオライターの責任。
数字が取れたらプロデューサーやタレントの業績となる。
我慢をつづけたシナリオライターは、いきなりPからこんなことを言われる。
「最近、~~ちゃん、ホン(シナリオ)がよくないよ。いきおいがない。
なんかひとつオリジナルで書いてみる?」
シナリオライターは、はたと思う。自分はなにを書きたいのだろう。
長いこと仕事はプロットに縛られていた。
自分が恐ろしいほど枯渇していることに気づく。
書きたいことなんてあったのだろうか。
いや、自分はプロだから、みんなの見たいものを書かなければ。
しかし、みんなはいったいどこにいるのだろう。そして、自分はだれなのだろう。
自分探しをしているうちにポストは新人に奪われていく。

よくスクールが新人のデビューを宣伝しているんでしょう。
あれの真の意味は恐ろしいと思う。
ポストは限られているのである。作られるドラマの数は変わらない。
としたらば、ひとりデビューしたら、そのぶんひとりが消えているのではないか。
いったいシナリオ作家はどこにいるのだろうと疑問になる。

(追記)プロットについて。
新人がかならずやらされるプロット書きだが、わたしは出来ないように思う。
プロットとは、はじめにスタート地点とゴール地点を決めること。
ハコ書きを前提としているわけだ。
なぜプロットが重宝されるかといえば、裏方に都合がいいのだろう。
プロデューサーはスポンサーに説明する。こういうプロットです。
同様、芸能事務所にも説明する必要がある。プロットはこれです。
プロットがないと予約の詰まった人気タレントのスケジュールを取れない。
(ちなみに、わたしは恐るべき芸能界オンチ。
みんなが知っている人気タレントでさえ知らないことがある。
現代風俗や流行にも極めて疎い)

ドラマの可能性をプロットは狭めるように思う。
たいがいの小説家はラストを決めないで作品を書き始めている。
あるシーンを書いたことで、べつのシーンが浮かんでくるというやりかただ。
登場人物が自由に動く。結末も最初の予定から変更もありうる。
ところが、プロットを書いてしまうと作品の自由がなくなってしまう。
結末は最初から決められている。人間はドラマ世界を自由に動けない。
ちなみに倉本聰はプロット(ハコ書き)肯定派、山田太一は否定派として知られる。
プロットがないなら最初の企画書をどうするか。
山田太一くらいになると適当なことを書いておいても許されるらしい。
プロットらしきものは企画書に書くが、いざ書き始めるとまったく別物になるという。
新人が真似をしたら即刻、職を失うであろう。

(どう考えてもわたしには、とてもテレビは……)
我われの生まれるだいぶまえに母国は「もはや戦後ではない」と宣言したらしい。
ならば、2009年には、こう言いたくはならないでしょうか。「もはや現実ではない」と。
共有されるべき現実が、完全に失われたのが現代ではありませんか。
ある人の現実は、べつのものにとってはおよそ理解できないものとなっている。

たとえば、現実として、こういうことがあると言われているでしょう。
ナンパした女性とその日のうちに肉体関係を持つ。
こういうことは現実には少なくないらしいが、わたしにはまったく信じられない。
創作シナリオにそのような男女関係を描こうとする。
からきし書けないわけである。
どんなセリフのやりとりの果てに初対面の男女がホテルに行くのかわからない。

しかし、「もはや現実ではない」――。
いまという時代は現実も虚構もメチャクチャになっている。
いわゆる、ナンパもののアダルトビデオ。
これを見たら、いかにして男が女を口説くかがわかる。
たしかに「やらせ」は多いのでしょうが、そうばかりではないとも思う。
見ようとしたことはあるけれども、見終わったことはない。
なにゆえか。つまらないからである。

たとえば男が路上で女を口説く過程を文章に起こしたとする。
シナリオ風に書いたとしましょう。
おそらく読者は退屈でしようがなくなるはずである。
もしかしたら、読み手から言われるかもしれない。
「こんなこと現実にあるはずないじゃん」
しかし、現実には陳腐な会話の結果、ホテルへ向かう男女がいる。
これは現実にもかかわらず「ありえない」「つまらない」と言われてしまう。

どういうことか。作家がゆきずりの関係を描こうと思ったら嘘を書かなければならない。
うまいフィクションを創作したら読者からの賞賛と納得が得られる。
ここで問いたい。いったい現代における現実とはなんだろうか?
それぞれの現実があるものの、お互いに共有はできない。
現実が現実とは思えない。虚構しか現実のように思えない。
もしかしたら、これがいまの現実ではなかろうか。

ふたたび、たとえばを使おう。たとえば、最近できた友人の話である。
かれはブログを運営している。ブログにコメントをくれた妙齢の女性――。
あっさり男女はホテルで結ばれてしまうのである。
そのうえ男はブログに女の半裸写真を掲載する。
わたしはこういったことを、とても現実とは思えない。嘘だろうと思ってしまう。
シナリオや小説にしたとしても、たぶん読者から納得してもらえないだろう。
だが、しかし、けれども、これがまさしく現実なのである。
わたしはブログにコメントをくれた女性とホテルへ行くなど、現実として受けいれがたい。
まさかブログごときで女体が釣れるとは思わない。
現実は、そういうものではないと思っている。
今後もブログによって色恋の恩恵にあずかれるとは、どうにも思えない。

ところが、現実はわたしを否定するのだ。
いったい果たして現実とはなにか?
あなたの現実はわたしの願望。あなたの願望はわたしの現実。
もしかしたら、これこそがほんとうの現実なのかもしれない。
ひっきょう、信じていればよろしい。現実は、なにが起こるかわからない。
現実を知るために生きている価値がある、
という言論もあながちまったくの誤謬ではあるまい。
アマチュア作家の自作解説ほどつまらないものはないわけよ。
ところが、自称作家にかぎってこの自作解説とやらを好んでやる。
未熟だから作品にすべてを込められないわけだ。
作品を説明したくなってしまう。だれもそんなものは興味ないのにね。
したがって、この記事はリアル友人知人10人程度しか読んでくれないと思う。
いや、この10名のなかにも読もうとしないかたはいるはず。
いいのである。だって、書きたいんだも~ん。

シナリオ「もはや現実ではない」はそうとう真剣に取り組んでいる。
いやね、あるじゃないコンクール。
これから書くのは「起承転結」の「起」。
これをふくらませてどこかの懸賞に応募しようとみずからに課した。
しかし、そうなると逆にプレッシャーが強くて書けないの。
「時代を撃とう」とかキチガイめいたことを考えているから(笑)。
時間制限ぎりぎりで追い込まれ、わけもわからずに書いたのがあのシナリオ。
幽霊を出せないかと狙っていた。
あの自殺する青年の幽霊とかれの友人、それから女子大生。
この3人が野原を歩いているシーンが見たい。
こういう欲望がどこかにあった。

首吊り死体目撃は、あれ実体験よ。
いつだったか、ちょっとまえ河原で自殺死体を見た。深く感動した。
あれを現実らしくないと批判されても押し返せる。
たしかにわたしの目撃した首吊り自殺死体はきれいだったのだから。
糞尿や嘔吐のある場合もあるらしいが、目撃した死体は汚くなかった。
刑事を怒鳴りつけたのもほんとう。
なんか自殺を侮辱されたような気がしてね。
「おい、撮るんじゃない」と叱り飛ばした。
あとで聞いたら刑事なので驚いた。警察手帳を見せられたよ。

で、幽霊の話に戻る。女子大生は自殺した男に恋をしていないか。
あの女子大生も電車に飛び込んでくれたりしないか。
幽霊男、幽霊女、生身の男の三角関係――。
なんておバカな思いつきがどこかにあったことを白状する。
締切時間が迫っているので、なにも考えずに書き始めるわけである。
いつになっても幽霊が出てこない。
通常はシナリオを書き終わったあと、細部を手直しするけど、あれは書いたまま。
最初から最後まで一気に書いて、まったくあとから手を入れていない。
だから、後記で「最低最悪ゴミクズカス」なんていう煙幕を張ったのかもしれない。

あのシナリオ、翌日読み返したら、悪くないと思った。
異常な自己愛の表明みたいでものすごい恥ずかしいけれども。
ものを書く喜びを深く味わったのだけは、まぎれもない事実。
最後、とりあえず男女を駅の改札内で別れさせる。
再会を約束させたうえで。「起承転結」の「起」ということを強く意識したゆえ。
さて、別れた。どうするか。タイムリミットは残り15分とかになっている。
プリントアウトする時間を考えると5分もないかもしれない。
このとき、いきなり主人公が走り始めたのね。
ひとたび入った改札を出て、なぜか公園へ向かう。
のみならず、いきなり友人が首吊り自殺した木に抱きついた。
びっくりした。こんなことを男にさせようとはまったく思っていなかったから。

土壇場で劇中人物が勝手に動き始める。
ぞっとするほどの快感を味わった。創作の感動を満喫した。
もちろん、だからといって、あのシナリオがいいとは言わない。
お読みくださったみなさまの8割がつまらないと思われたことでしょう。
しかし、書き手は満足した。
あらゆる創作において重要なのはこの満足だと思う。
評価されるかどうかは作者の才能や運が関係しているからどうにもならない。
だが、創作の感動は評価とはまったく無関係のところに存在しているのではないか。
なかなか同意を得られない考えかたかもしれない。

あのシナリオの貴子さんには、ある種のモデルとも言うべき存在がいてね。
名前もおんなじ貴子さん。
ブログ経由でメル友になって、2回お逢いしていただいたのだったか。
一昨年の話だから、もう書いてもいいでしょう。
とびっきりの美人で、もう緊張してブルブルだったよ。
「彼氏はいるんですか?」もこわばって聞けなかった。
ものすごくお洒落でさ。こんな子と話すことが、まさかわが人生にあるとはと驚いたもの。
いまごろなにしてるのかな。ミステリー作家の有栖川有栖が好きだとか。
あんがい結婚とかしていたりしてね。
この貴子さんと、約束したんだ。
いつか有名作家になって、リッチなディナーをご馳走しまっす。
さて、何年後になるのやら。実現したら、悪くない美談じゃない?
あ、下心なんて、ないない。住んでる世界が違うから。
おれのまえで「あたしメンクイだから」とおっしゃった貴子さん、いまお元気ですか?
シナリオ・センター第15回提出課題。「出会い」(16枚)。

<人物>
門倉史郎(28)会社員
漆原龍一(28)死人
久保貴子(21)大学生

○公園(夕方)
久保貴子(21)が走る。人だかりができている。
なにが起きているのかわからない。あたりを見回す。
ベンチに門倉史郎(28)が座っている。貴子は門倉の横に腰をおろす。
門倉はある方向を指さす。漆原龍一(28)の首吊り死体である。
うまいこと木に縄を縛りつけている。
門倉「近づかないほうがいい」
貴子「死んでる、の、ね?」
門倉「ああ、死んでいる。見事なもんだろう」
救急車のサイレンが近づく。
スーツ姿の男と女が死体に接近する。女は持っているカメラで死体を撮影する。
門倉は男女を怒鳴りつける。
門倉「おい、なに撮ってるんだ! 見せもんじゃねえぞ。おい、おまえらやめろ!」
男女は一瞬振り返るが、門倉を無視して撮影を続ける。
漆原の死体を西日が照らす。貴子は門倉を見る。

○漆原龍一の首吊り死体
死体をあらゆる角度から映してください。
死をこれでもかと見せつけてほしいのです。死体は美しい。
門倉の声「あれ俺の友だち。死にたい、死にたい言っていた。
とめなかった。俺も死にたかったから。やったね。ついにやった。
電話をもらった。やると言った。やったね」
貴子の声「(門倉の興奮がうつって)そう」
門倉の声「終わり。これでぜーんぶ終わり。きれいさっぱり終わり。
もう朝起きて会社に行くこともない」
貴子の声「うん」
門倉の声「カップルを見てムカムカすることもない。
どうして俺には彼女ができないんだろう。
あいつらに俺は人間として劣っているか。俺はそんなにダメなのか。
くそったれ。ぶち殺してやりたい。
てめえらばかり素っ裸でいちゃいちゃしてんじゃない。
なんてことを、なんてことを」
貴子の声「うん」
門倉の声「もてない男同士、電話で、話さないで済む」
貴子の声「へえ」
門倉の声「いや、話したりはしなかった。
しかし、お互いそう思っているのがわかった。
どっちも相手をどこかで軽蔑していた。相手の人生を見下していた。
生きていることをバカにしていた」
死体の腕が動く。動くはずがないのに動いたのである。

○公園(夕方)
写真撮影を終えた男女が場を離れる。
門倉はベンチから立ち上がり男女に近づく。貴子も従う。
門倉「写真、なんで?」
女「必要なんです。書類」
貴子「もしかして」
男「刑事です」
女は警察手帳を見せる。
救急隊員三人が死体に近づく。
タンカに乗せられた漆原龍一が門倉と貴子の横を通り過ぎて行く。
貴子「(場違いな大声で)お疲れ様でした」
周囲の者が貴子を見る。
貴子「(臆せず)お疲れ様でした」
門倉「(貴子に勇気づけられ)お疲れ。お疲れさん。お疲れ様でした」
去ってゆく漆原龍一。
制服姿の巡査が姿を見せる。
巡査「通報したのはどなたですか」
貴子は門倉を見る。門倉は駆け出す。貴子も駆ける。
逃げられるとつい追ってしまう巡査である。

○居酒屋(夜)
門倉と貴子が入ってくる。
店員の声「いらっしゃいませ。お二人様どうぞこちらへ」
店内は混雑している。友人同士で飲んでいるもの。カップルも少なくない。
そのうちのひとつ。門倉と貴子が向き合って着席している。
二人のまえには生ビールとつまみ数種が出ている。
門倉「不謹慎かもしれないけど、ドキドキしている。ワクワクしている。
この感じ、なんなのだろう。俺、変じゃない?」
貴子「わからない。いつものあなた知らない」
門倉「変でいいんだ。もっとおかしくならなければならない。
どうしてもっと変にならないのだろう。こんなふつうなんだろう」
貴子「ふつう?」
門倉「友人が自殺をした。
ふつうならもっと悲しんだり、怒ったり、落ち込んだりするもんじゃないか」
貴子「わからない」
門倉「舞い上がったような気分になっている。浮かれている。
いったい現実ってなんだろう。ずっと思ってきた。
現実はつまらない。退屈だ。なにも起こらない」
貴子「そうかな?」
門倉「――はずだった。なにも起こらないはずだった。
ところが、やつはやりやがった。簡単じゃないか。
ポイよポイ(と手で自分の首を絞める)」
そのまま門倉はテーブルに頭を乗せる。死んだふり。異常なほど長く。
貴子「ちょっと。大丈夫」
門倉「(がばりと身を起こし)あいつはもうこの世にいない。
いまどこにいるのか。一発、でかいことしやがった。
やったねえ(と嬉しそうでさえある)」
貴子「きれいだった」
門倉「そう、きれい。あんた、きれい。こんなきれいな子を俺がナンパしている。
女子大生となんか俺、話したことがない。フフ、高卒でね。いつもならビビッて」
貴子「首吊り死体って、あんなきれいなのね」
門倉「いまの俺、なんでもできちゃうよ。携帯電話の番号、聞いちゃう。
また逢いませんか、なんて誘っちゃう」
貴子「おかしい」
門倉「俺?」
貴子「違う。みんな、おかしい。見て。
あの人たち(酔客)、あのカップルも、あいつらも、あいつら全員、みんな、おかしい。
生きているって、おかしい(と狂ったように笑う)」
門倉「え、ちょっと待って。なによ。なにそれ。どうした。酔ったかな?(と戸惑う)」
貴子「酔ってたら?」
門倉「え?」
貴子「酔っていたら、このままホテルに連れ込めるかもしれない」
門倉「まさか。今日、初めてじゃない。いきなり、そんな」
貴子「現実はなにが起こるかわからないんでしょう」
門倉「あんの、そんなこと?」
貴子「あったら?」
門倉「現実にはそんなことないでしょう」
貴子「わからないわよ」

○駅・改札内(夜)
貴子「じゃ、私、こっちだから(と階段へ)」
門倉「また逢えるかな」
貴子「うん」
門倉「電話する」
貴子は去ってゆく。門倉はその場に立ちすくんでいる。
別の階段へ向かうが、引き返す。改札を出る。

○公園(夜)
門倉が公園に入ってくる。深夜の公園にはだれもいない。
門倉は漆原が首を吊っていた木に駆け寄る。
門倉「バンザイ、バンザイ、バンザイ!」
門倉は木に抱きつく。


(補)最低最悪ゴミクズカスです。
こんな失敗作でみなさまのお目を汚して申し訳ありません。
「起承転結」の「起」を描こうと思ったら失敗しました。
才能ないです。ごめんなさい。
シナリオ・センター第14回提出課題。「魅力ある叔父さん」(14枚)。

<人物>
吉行飛吉(よしゆき・とびきち)(42)無職
吉行教太郎(49)その兄で大学教授
吉行鏡子(44)教太郎の妻・専業主婦
吉行まるみ(18)その娘・女子高校生
吉行ぎんが(15)その息子・男子中学生

○吉行家・外観(朝)
広い庭のある大邸宅である。

○吉行家・居間(朝)
十三月のカレンダー。Mademberと英語表記。十三月一日に赤丸。
吉行教太郎(49)、吉行鏡子(44)、
吉行まるみ(18)、吉行ぎんが(15)が円陣を組んでいる。
教太郎「飛吉が出てくる。いいか」
吉行家の四人「えいえいおう!」

○吉行家・ぎんがの部屋(一階)
窓が開く。吉行飛吉(42)が窓から入ってくる。手に靴。
机でエロ本を眺めていたぎんが、振り向く。二人の目が合う。
ぎんが「キッチおじさん――」

○吉行家・長い廊下(非現実的でよい)
飛吉とぎんががキッチ・トレイン(電車ごっこの要領)をする。
後ろのぎんがが飛吉の腰をつかむ。
鐘が連続して鳴る。
多様な地獄絵がかけられている。
飛吉の声「ヘヘ、マセガキがマスかいてやがる。
不登校は治ったんだってな。どうせまた学校でいじめられてるんだろう。
目に浮かぶようだ。ギンガは会社に入ってもかならずいじめられる。
嫌だ嫌だと言いながら、それでも会社に行くんだ。学校に行くように。
なんのためにか。信じている。
そうしなきゃオマンマを食えない。オマンコできない。
けれども、大したオマンマを食えるわけでもない。
オマンコだって、きったないお古。ブスからもったいぶって食わされる。
無理して学校なんて行くことはない。好きなことを好きなだけやってりゃいい」

○吉行家・まるみの部屋
飛吉とぎんがが鐘のように荒々しくドアをノック。まるみドアを開ける。
まるみ「キッチおじさん――」

○吉行家・長い廊下(まえとおなじでよい)
飛吉、ぎんが、まるみが生き生きとキッチ・トレイン。
鐘の鳴る音が早まる。
飛吉の声「てっきりママになっているかとね。
手紙、読んだ。産みたい。反対されても産む。
うちでは一番見所があると感心した。フフ、怖くなったか。
顔が綺麗だ、頭がいい、そんなのは若いうちだけ。
どんな有名大学に入ろうがたかが知れている。
どこそこの菓子はうまい、あのブランドの服はいい。ほざくようになる。
大学なんて行くな。パパに言えばいいのさ。
大学のおカネをください。世界中を旅すればいい。
なんのために英語を学んでいる。
大学に入るためか。世界中の人間と話すためじゃないのか」

○吉行家・台所
キッチ・トレインがキッチンになだれ込むと鏡子がチキンを切っている。
鏡子「飛吉さん――」

○吉行家・長い廊下
飛吉、ぎんが、まるみ、鏡子がキッチ・トレイン。
鐘の連打が最高潮になる
飛吉の声「嘘だ。おねえさんは嘘をついている。
家庭の幸福? なにも起きないのが幸せ? 
むかしの鏡子さんは、そんなじゃなかった。
ぶるぶるって来るくらいイイ女だった。
どうしてこんな人が兄さんのところに来るのか不思議で。抜群だった。
兄さんに内緒で飲みに行ったこともあったね。いまだって捨てたもんじゃない。
ちょっとお洒落をすればまだまだ男が言い寄ってくる。
燃えるような恋があるかもしれない。人生こんなものじゃないかもしれない。
ねえさん、本当はそう思っている。亭主と子どもだけじゃ満足できない」
キッチ・トレインは階段をのぼる。

○吉行家・教太郎の書斎のまえ
飛吉、ぎんが、まるみ、鏡子(=キッチーズ)が部屋のドアをたたく。
飛吉「あなたは完全に包囲されている」
ドアが開く。キッチ・トレイン突入する。
ものが倒れる音、壊れる音が派手に。

○吉行家・教太郎の書斎
本棚が倒れている。床に散乱した書籍。
そこに教太郎とキッチーズが車座。
教太郎「言いたいことはわかった。だが、いいかな。
きちんとしたルールが人間には必要だ。
たとえば言葉。言葉がないと人間は生きていけない。
では言葉とはなにか。突きつめればルールだ。
ルールに人間は生かされている。
春の次には夏が来る。夏の次にはなにが来るか、ギンガ」
ぎんが「秋」
教太郎「その通り。夏の次に春は来ない。冬の次に来るのが春だ。
人間は生まれる。生まれた人間は最後どうなるか、マルミ」
まるみ「死ぬ」
教太郎「そうだ。死なない人間はいない。
これはルールだから人間には変えられない。さあ、聞いてみよう。
私はいったい何者か。それからこの飛吉は果たして何者だろう」
みな飛吉を見る。
ぎんが「むかしキッチおじさんに宿題を教わった。答えが違うと先生から言われた」
まるみ「嫌だった。お風呂でキッチおじさん、洗うふりしてあそこに指を入れる」
鏡子「飛吉さん、なぜ働かないんですか。いつも口では大きいことばかり言うけれど」
飛吉は書籍を破り頬張る。咀嚼(そしゃく)、嚥下(えんげ)。
教太郎「(飛吉の姿に胸を突かれ)バカヤロウ。
おまえらに飛吉のなにがわかる。なんだ、その顔は(みんな)。
死人のような顔をしている。みんないい顔をしていた。この部屋に入ってきたとき」
飛吉「生きよう(と立ち上がる)」
教太郎「そうだ。たとえ死ぬと決まっていても人間は生きる(と立ち飛吉と握手する)」

○吉行家・庭・玄関のまえ
屋敷から煙。
包丁、フライパン、金属バッドで武装した吉行家キッチーズ五人が登場。
これを撮影しているカメラに襲いかかる。
画面の輪郭がゆがむ。画面全体が赤く染まる。
まるでこの習作シナリオのように。この文章も赤線で消される。映像になりません。
誰だ? あなたは誰ですか? 
人様の作品に朱筆を入れておいてなぜ名乗らないのですか? 
失礼では? ルールだから? 
くだらないルールなどキッチーズに破壊されたらいい。
屋敷が炎上する。赤い炎が美しい。壊されたカメラが転がる。
キッチーズは別のカメラ(=あなた)を襲撃する。

○お花畑(夕方)
キッチーズ五人がラインダンス。
全員「ご覧くださり、ありがとうございます」


(補)先手を打っておこう。
「(非現実的でよい)」は「映像になりません」。
「キッチ・トレイン」は「映像になりません」。
「キッチーズ」は「映像になりません」から「人物をすべて書いて下さい」。
「セリフは3行以内にしてください」。
「(飛吉の姿に胸を突かれ)」は「心理描写で映りません」。
真っ赤になったシナリオが帰ってくるのが楽しみよ。
それこそこの作品の狙いゆえ。

説明ゼリフの大洪水、ごめんなさい。さぞかしお見苦しいでしょう。
廊下のキッチ・トレインは絵柄が単調というご指摘があるかと。
いちおう地獄絵を複数かけてくれ、と要請していますが――(わずか1行)。
このシナリオを思いついたとき、声に出して笑いました。
クスクス笑いながら書いていったものです。
しかし、読み手のみなさまがお笑いくださるとは限りません。
失笑をもよおされたかたには深く非力をお詫びします。
平成12年放送作品の再放送を視聴する。放送日は5月6日だからだいぶまえ。
9年まえにも見たはずだが、まったく覚えていなかった。
ラストには、どっひゃあ、と叫ぶしかなかった。
巨匠はどえらいことをやらかすな、と申しましょうか。
このドラマの最後、
ふたりのエリートサラリーマンとその家族が各駅停車の電車に乗っている。
いや、もうサラリーマンではない。
ふたりは妻のすすめを聞き入れ激務の仕事を辞めたのである。
いまはぶらっと旅行に来ている。田舎の各駅停車は、よくとまる。
きれいな風景である。
ホームに出て、今日はここで一泊しようか、なんてのん気な会話を交わす。
そこに急行列車が通過するというアナウンスが入るのである。
各駅停車を尻目に急行は猛スピードで通過してゆく。
おいおい、と笑いがとまらなくなった。
メッセージをいささかも隠そうとしない、このドラマの泥臭さはなんだろう。
こうまで直球を投げつけていいのか。いや、山田太一ならいいのである。
この田舎紳士めいたどん臭さこそ山田太一ドラマの魅力なのだから。
急行電車に乗っていると、風景の細かな味わいがわからない。
だから、「小さな駅で降りる」のはいかが? 会社を辞めて休んでみたらどうだろうか?
ストレートなメッセージである。テレビはこうじゃなきゃいけない。
お上品に芸術を気取っていたら視聴者はついてきてくれないのだ。
フルチンで踊ったっていいじゃないか。脚本家のある種の覚悟にわたしは打たれた。

いやらしい分析をしてみよう。
「謎が提示される」=リーマンの会社に怪文書が届けられる。
「告白1」=リーマンの妻たちが犯行を自供する。
「告白2」=スーパーの店長(山崎努)が、リーマンに廃業の事情を語る。
仕事ばかりしていたら、奥さんがボケてしまった。
山田太一はしっかり山崎努を泣かす。
「変化」=リーマンは会社を辞めて「小さな駅で降りる」。
「旅立つ人と」(山田太一/「月刊ドラマ」1999年12月号」)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成11年放送作品。フジテレビ。単発もの。
ちょっとラフな紹介をしてみよう。かえってドラマ作りがわかるかもしれない。
謎の若い女性が市原悦子の周辺に現われる。
これで視聴者の関心をゲットするってえわけだな。
女の正体が明らかになる。この女の父ちゃんが余命いくばくなんだと。
母ちゃんは病死している。娘さん、薄幸だねえ。
いんや、脚本の都合上、不幸に追い込まれているわけだが。
山田太一さんも業が深い。いままでいく人、シナリオで人を殺したのだろう。
あんな温和そうな顔をして、かれは実のところ殺人鬼なんだな。
ぽっこぽこ人を殺したり、不幸にしたり、まったく脚本家ってやつは。

おっと脱線失礼。で、女の父ちゃんが町で見かけた市原悦子に一目ぼれ。
市原悦子は町工場のお母さん。息子、旦那、お舅(しゅうと)さんと同居している。
女は市原悦子に頼むのね。父を見舞いに来てくれませんか。
悦ちゃんがオッケーしなきゃドラマにならない。
お父ちゃんはなかなかいい男で驚く。渡瀬恒彦だっちゃ。
渡瀬恒彦はかかえた事情をおしゃべり。どこで市原悦子を見かけたか。
看護婦さんが、不思議がる。どうしてツネには見舞い客が来ないのか。
直後、いきなりツネが事情を告白する。
人事部でリストラ(首切り)の仕事をしていたから、仲間がいなくなった。
プレイボーイのツネは、娘さんともいろいろ事情がある模様。

山田太一ドラマの、あまりにもあまりにも典型だね、これは。
さまざまな事情をかかえた人物がおのれの過去を告白する。
で、一方が「うん」「はい」「ああ」「そう」の連続でカウンセラーのごとく聞き続ける。
こればかりだとストーリーだらけになってしまうから、
ときおり、まったく筋とかかわらない無駄な(しかし味わいある)会話を挿入する。
最後は娘の手配で、ツネのまえにかつての同僚が姿を現わす。
人間の涙を愛する脚本家がツネを泣かさないはずがない。
渡瀬恒彦はきちんと殺す。山田太一が殺すのは美男ばかりで爽快である(笑)。
(統計を取ったわけではない。しいていえば期待値程度ゆえ証明は勘弁)

「謎を作る」→「無駄な会話」→「告白合戦」→「笑う・泣く」→「変化」
なんて山田太一ドラマの定型を指摘したら失礼になるのだろう。
しかし、氏の台本における「告白」はどんな意味があるのだろう。
全盛期は、あまり「告白」を用いなかった気がする。
「告白」は過去のことだからアクション(行為)を生みださない。
いきおいセリフ劇の要素を強める。
もしかしたら脚本家の足腰の強弱とドラマ内容が関係しているのかもしれない。
いや、老いるほど過去の蓄積が増えるから、とも考えられる。
過去と未来のどちらが多いか、である。
渡瀬恒彦のような末期患者は過去にすがりつくしかない。
試案だが、ドラマを過去形と未来形に分類するのは一興かもしれない。
難しいことではない。おおよそ若者が登場するドラマは未来形、
老人が登場するドラマは過去形になるのだろう。

(追記)思えば、「ありふれた奇跡」は究極の過去形ドラマであった。
過去に囚われた病者たちがピチャピチャお互いの傷を舐めあう。
ぞくぞくするほど現在や未来と縁がないドラマ世界が構築されていたように思う。
好みの大きく別れるドラマである。わたしはたまらないと感じた。
もしかしたら人間にも過去形と未来形の分類が可能なのかもしれない。
「大丈夫です、友よ」(山田太一/「月刊ドラマ」1999年1月号」)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成10年放送作品。フジテレビ。単発もの。
山田太一さんはロマンティストだよね。
こんなことがあったらいい。こんな人がいたらいい。こんなシーンがあればいい。
こういった願望からシナリオを書いているのがよくわかる。痛いほどわかる。そこが涙を誘う。
じゃあ、どういう回路を通ってフィクションが創作されるかといったら、
対極から電流が流れてくるのだと思う。電池のようにプラスとマイナスがある。
したがってエネルギーが発生する。人の胸打つ作品を創造することが可能となる。
ロマンティストの反対はなんなのだろう。ペシミストなのかな。
物事に対する醒めきった態度である。
現実にドラマのようなことは起こらない。ドラマのような人間はいない。
現実は退屈だ。すべてが忘れられてゆく。死ねばなにも残らない。
ままならぬ生死に挟まれた人間にほとんど自由の余地はないのかもしれない。
たったひとつ許された自由がフィクションではないだろうかと脚本家は考える。
フィクションの世界でなら人間は多少の自由を獲得できるかもしれない。
フィクションを使えば残酷かつ無味乾燥な現実を乗り越えられるかもしれない。

フィクションは現実の鏡面である。現実があるから鏡にものがうつるのだ。
フィクションを鏡にかざしたところでなにもうつりはしない。
幽霊が鏡のまえに立ってもおのれの姿は見えないということだ。
人間を鏡のまえに起立させなければならない。
しかし、鏡にうつった人間は正確には本人ではない。
なぜなら左右反対になっている。
ところが、人間は鏡を使わないと自己の姿がわからないと来ている。
ここにフィクションの実体と役割が極めて明快に象徴されていると思う。
我われはフィクションがないと自分の姿がわからない。不安である。
フィクションにうつった我われは左右反対になっている。

「大丈夫です、友よ」という鏡面は、なにをうつしだしているのか。
東京で事業に失敗した58歳の男が地元の九州へ旅をする。
自殺を考えているのである。男は田舎で同級生だった女と再会する。
女は、地元から離れず、これまた同級生の妻として暮らす。
平々凡々の人生である。女はむかし男を好きだったことを告白する。
男は浩司(藤竜也)、女は良子(市原悦子)。良子の娘は東京で一人暮らしをしている。

浩司「ま、一人でなんとかやってれば、親はよしとしなけりゃ」
良子「うん、フフ、こっちも、どっか行きたかとよ。
じいちゃと、ひとのことなどなんも考えん亭主と、福岡てちゃろくに行かんとよ」
浩司「うん――」
良子「チューリップの唄、知っとる?」
浩司「チューリップ?」
良子「咲いた咲いたて――」
浩司「ああ」
良子「あれの替え唄あったとでしょ」
浩司「よう覚えとるなあ」
良子「せまいとこにおるで、こまいことおぼえとるんよ」
浩司「どんな?」
良子「口癖みたいに、出てしまうことある」
浩司「全然、覚えとらん」
良子「(『チューリップ』のメロディで)咲かない咲かない、チューリップの花が。
咲かない咲かない黒くて灰色、いつまでたっても咲きやせん」
浩司「――(目を伏せている)」
良子「――」
浩司「良子ちゃん」
良子「――うん?」
浩司「俺と――」
良子「うん?」
浩司「思っきり贅沢せんか?」(P100)


咲かないチューリップを鏡にうつすとなぜか咲いているのである。
現実は年3万人の自殺者にドラマのようなことは皆目起こらない。
だから、ドラマでは、浩司は良子のおかげで自殺を思いとどまる。
ふたりはハウステンボスで遊び、園内にあるホテルに宿泊する。

浩司「用心せんと、同級生で、同級生の女房や。これ以上、手は出さん」
良子「フフ、そんなことやないの。
こんな一日があるなんて、人生、捨てたもんやないなあって、思うとるだけ」(P116)


翌朝の会話から。

良子「ああたが、その気なら(=自殺)、
とても、うちには、止めようもないけど――」
浩司「んにゃあ、止めて貰うた」
良子「うん?」
浩司「昨夜、良子ちゃんが楽しそうにしとるのを見て――」
良子「楽しそうやなか。ほんなこつ楽しかった」
浩司「生きる喜びっちゅうもんが、まだまだあるんやて――」
良子「そうや。うちも、昨夜、ほんと、そう思うたと」(P117)


みなさんはどう思いますか? 果たして「こんな一日」は現実にあるのか。
ないのかもしれない。おそらく、ないのだろう。ないに決まっている。
しかし、あると思うのは悪くない。もしかしたら一生に一度くらいならあるかもしれない。
あってもいいではないか。あるだろう? あるはずである。
以上がマイナス(=ない)からプラス(=ある)へのエネルギー流動の道すじである。
フィクションのひとつの作りかたである。
「奈良へ行くまで」(山田太一/「月刊ドラマ」1998年3月号」)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成10年放送作品。テレビ東京。単発もの。
ゼネコン(総合建設業)の談合問題を背景にしたドラマである。
役所から発注される建設は、実のところ競争で決まっているわけではない。
この談合に一矢を報いようと男が奔走するものの結局、現実はあまり変わらない。

ヘタをすると説明ゼリフの大洪水になってしまう危険があるドラマゆえ、
作者は丹念にドラマ世界を構築する。
視聴者にうまくゼネコン問題の裏側を情報として提示しなければならない。
けれども、いきなり黒板が映って先生が登場するわけにはいかないのである。
先生がゼネコン問題を講義するわけにはいかない。
では、どうするか。銀行から建築会社に出向した会社員を主役に仕立てる。
これによって視聴者は業界新米の主人公と共に裏事情を知ってゆくことができる。
それでも説明ゼリフの過剰はいかんともしがたい。
山田太一はどのような対応をしているか。随所に感情セリフを織り込むのである。
説明ゼリフがどうして見苦しいかといったら感情が入ってないからである。
発話する必然性が感じられないからである。作者の都合が見え隠れするからである。
本来、人間はおのれの都合・事情でしかセリフを口にしないものだ。
山田太一は独特の情緒あるセリフを登場人物にしゃべらせる。

長年、ゼネコン業界の談合世界を営業として生きてきた永野は、
新米の正治に酔ってもらす。

永野「システムや習慣は、それなりの理由があって出来たんです。
表向きは変っても、なかなか体質は変りません」
正治「でも、それじゃあ、身動きできないじゃないですか?」
永野「できません」
正治「いい齢をした銀行屋がいうことじゃありませんが、
それでいいんでしょうか?」
永野「ですから(と伏せたグラスを戻し、ビールを取り、注ぎながら)
私は時々口をおさえられなくなる。
(太い声で)やってらんねえよ、やってらんねえや、バカヤロウ」(P116)


山田太一さん、「バカヤロウ」が好きだよな。
このまえ再放送されていた「小さな駅で降りる」でも「バカヤロウ」があった。
「バカヤロウ」キター!と大はしゃぎしましたよ(笑)。
「ありふれた奇跡」でも重要なところで「バカヤロウ」を使っていた。
(いま検索してみたら「男たちの旅路」でも「岸辺のアルバム」でもありました!)
考えてみれば、テレビドラマなんて「バカヤロウ」に尽きるのかもしれない。
(高級な映画ならぬ)テレビドラマでも見るか、
なんて思う視聴者は毎日「バカヤロウ」と叫びだしたい誘惑にかられているのである。
しかし、うっかり口にしてしまうと、身の破滅になってしまう。
だから、視聴者は現実で「バカヤロウ」をなかなかいえないのである。
だから、だから、テレビドラマで――。

現実は「バカヤロウ」と愚痴るだけかもしれない。
だが、フィクションの世界でなら少しくらい現実を変えられるのではないか。
「奈良へ行くまで」はバカヤロウからスタートするドラマといってもよい。
古参の永野は新米にけしかける。

永野「大きな仕事は大手、中堅は中堅どころで仕切られて、
ガチンガチンになって身動きできない。
どうもどうもと愛想よくしてれば、それなりの仕事が回ってくる。
どっちを向いても、あたりさわりのない顔ばかりで、逢えばお辞儀ばかりしている」
正治「――」
永野「人間はこんなもんじゃないだろ。もっとくやしがったり、
やっつけたり、恨んだり蹴落としたりするもんじゃないですか?」
正治「――」
永野「大手がとるような仕事をとって、そんなのアリかと、
とみんながカッとするっていうの、どうですか?」
正治「どうですかって――」(P125)


正治は銀行屋だから、やっても大丈夫だろうとそそのかしているわけだ。
正治はやろうと思う。やってやろうじゃないか。
中学校からの友人、泰之が通産省に勤めている。
ライバルでもあった泰之に正治がコネの依頼をしたのはなにゆえか。

正治「俺はもう、これきりだよ」
泰之「なにをいってる」
正治「あんたと、中学、高校、大学とトップを競って、沢山のこと我慢して、
勉強して、お互い第一級の仕事を選んだ。
そのつもりだったが、もう俺は終わりだ」
泰之「冗談いうな」
正治「銀行で、さき行きの芽はない。
いまの会社でも、身動きできない。あんたの勝ちだ」
泰之「勝ちも負けもあるか」
正治「一発だけ、めざましいことがしたい。七十億の仕事をとりたい。
じゃなきゃ、俺の人生は、なにもない」(P133)


「ない」から「ある」「たい」を目指してゆくのが山田太一ドラマの根本にある力学である。
しかし、個々の人間は無力ゆえ、がらりと世界が変わるようなことはない。
ちょっとした変化でもよしとしなければならない。
現実においては小さな変化でさえなかなか起こらないことを我われは知っている。
我われはつねにめったに起こらぬ変化を求めているといってもよいのではないか。
このため古今、ドラマが愛されるのであろう。
「結婚まで」(山田太一/「月刊ドラマ」1990年11月号」)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成2年放送作品。NHK。単発もの。
子育ての終わった夫婦がお互いと向き合う。
かといって、一緒にやることないので、冗談半分で仲人でもしようかと思う。
都合よく、夫の友人にまだ独身の娘がいる。
どこかにいい男はいないだろうか。妻はばったりいい男とめぐりあう。
じゃあ、この男女が結ばれるのかというと、
その通りで結果的には「結婚まで」行き着く。
だが、その過程でちょっとしたスッタモンダがある。ドラマである。
夫は友人の娘と、妻は知り合った青年と怪しい雰囲気になるのだ。
しかし、不倫が成立することはない。恋愛沙汰には発展しない。
夫婦はおのおの老いを意識しながら、若い男女のお見合いに立ち会う。

夫婦の浮気未遂をカットバック(二つのシーンの同時進行)で描いているのがうまい。
シーンとシーンをタクシーでつないでいるところは職人の手腕をかいま見た思い。
妻の浮気未遂。ふたりはタクシーに乗り込む。走るタクシー。
しかし、違うタクシーで、乗車しているのは夫と若い娘である。

いいと思ったセリフを書き写しておこう。
夫=彰一、妻=文子、(夫の)友人の独身娘=翠。
彰一は妻に友人の娘を引き合わせる。喫茶店。

翠「私、結婚をする気ないんです」
彰一「そりゃあ、まだ若いから分るけど」
文子「いらっしゃるの? どなたか」
翠「いいえ、ただ、仕事、いま面白いし」
彰一「全然、結婚したくない?」
翠「全然ってことはないけど、した方がいいですか?」
彰一「そりゃあ、した方がいいよなあ(とちょっと文子に助けを求める)」
文子「ええ」
翠「私の周り、なんだか悲しくなるような夫婦、いくらでもいて、
相手の悪口ばっかりいってる人とか、やたら浮気してる人とか」
彰一「そういう夫婦も、無論いるけど」
翠「ぱっとお二人で、結婚した方がいいっておっしゃるなんて、
とってもいい結婚なさってるんですね」
彰一「フフ、キツイ皮肉をいうね」
文子「(苦笑)」
翠「皮肉じゃありません。入って来た時、あ、素敵なご夫婦だなあって」
彰一「からかうな、こら。(笑った目でにらむ)」
文子「ほんと。(と苦笑)」
翠「本気でいってるんですけど」
三人、笑っている。(P29)


どんなセリフがおもしろいかといったら、皮肉のやり取りである。
この夫婦はドラマ終盤、お互いの浮気未遂を察知して皮肉合戦を繰り広げる。
ストリンドベリ「死の舞踏」を思わせる(むろん、あれほど壮絶ではない)
とても魅力的なシーンだが、長いので割愛する。
どうしたらうまい皮肉をいえるか。より意地悪になることである。
性格よろしき御仁は皮肉など思いもつかないだろう。
いま社会勉強の一環として仕方なくネットでデリヘル嬢を眺めていた。
最初は、なんてきれいな子が裸になっているのだろうと感激したのね。
しかし、30人も見たら(助平ちがう! お勉強、社会科見学よ!)飽きが来る。
みんなおんなじ顔をしていることにうんざり。
おそらく写真加工をしているのだろうけれど、みなみなきれい過ぎるわけ。
ありえないと興醒めしてしまう。というか、こんな子たち、つまらない。
全員のおっぱいが大きいのも奇妙な話。舐めているのではないかと憤りさえ感じた。
男はみんな巨乳が好きだと思っているのか。ブスより美人を好むと思っているのか。
こんなことをうっかり書いてしまうと(エヘヘ、書いちゃったよ)変態あつかいされかねない。
きみはわたしをブス専だの貧乳(微乳)好きだのとカテゴライズ(分類)して、
フフンとさもわかったように鼻で笑わうかもしれぬ。
しかし、そうまで筆者は変わりものなのだろうか。
人間の、ひいては女性の魅力とは、そんな簡単なものなのか。
顔が整っていればいいのか。胸が大きければいいのか。なにかに洗脳されていないか。

人間は人間のプラスしか愛せないものなのか。
友人のことを思う。わたしは決してかれのプラスばかりを好きになっているわけではない。
むしろ、かれのマイナスこそ魅力である。いいなと思う。つきあいたいと思う。
プラスだらけの人間はつまらない。
顔が良くて頭も良くて性格も良くて――なんて人間を相手にすると疲れてしまう。
問う。きみは他人のどんなところを愛しているか。
ならば、どうしてきみはプラスばかり伸ばそうと努力するのか。
おのれのほんとうの魅力をきみはわかっていないのではないか。
愛する。好きになる。人間にとって、とても大切なことだ。
現代日本には巨大な誤謬(ごびゅう)がはびこっているのではないかと疑ってみるのも悪くない。
シナリオ・センター第13回提出課題。「兄弟姉妹」(12枚)。

<人物>
星野蛍太(39)不動産屋
星野蜂郎(31)その弟
星野あかり(26)蜂朗の妻
デリヘル嬢(21)娼婦

○病院・個室(夜明け前)
星野蛍太(39)とデリヘル嬢(21)がひとつのベッドで寝ている。
ともに裸である。
デリヘル嬢「もう朝?」
蛍太「『ロミオとジュリエット』に別れのいいセリフがあった。
ちょっとまえに読んだはずだが思い出せない。ヒバリが鳴いて」
デリヘル嬢「コケコッコー」
蛍太「芝居になりもしない(と苦笑い)」
デリヘル嬢「おっかしい(と笑う)。あなた、おかしい。
病院に呼ばれたの初めて」
蛍太「悪くないだろう」
デリヘル嬢「うん(と頷く)。すごかった。病人じゃないみたい。
あなた、なんの病気?」
蛍太「ただの風邪だよ」
蛍太は封筒をデリヘル嬢に渡す。女は封筒の中身を確認する。
デリヘル嬢「こんなにいいの?」
蛍太「いいさ。無理を言ったんだ。遊ぶがいい。
うまいものをたっぷり食えばいい」
デリヘル嬢「学費(にするの)」
蛍太「まだ学生か。勉強もいい。遊びもいい。
セックスもいい。生きているのはいい」
女はベッドから飛び出す。全裸。
カーテンの隙間から朝日。裸身を照らす。

○病院・情景(朝)

○病院・個室
蛍太のまえで星野蜂朗(31)が土下座。
蛍太「このハイエナが。このウジムシが」
蜂朗「お願いします。兄さんしかいないんだ」
蛍太「おれが死ぬのを待てないか。どのみち、ぜんぶおまえのもんになる」
蜂朗「いまどうしても必要なんです」
蛍太「おまえはなんと言った。
兄さんはカネだけだ。生きるということを知らない」
蜂朗「本当に生きていない、と言いました。カネの亡者、と言いました。
撤回します。僕の負けです。兄さんには負けました」
蛍太「嘘をつけ。おまえは勝ったと思っている。おれはもうすぐ死ぬ。
カネを稼いだところで使うまえに終わりだ。全く下らん」
蜂朗「いえ、そんな(ことはありません)」
星野あかり(26)が病室に近づく。ドアは開いている。
土下座している夫。あかりは病室に入らないで立ち聞きする。
蛍太「こうしよう。あかりさんを一晩貸してくれ。
それでいい。ほしいだけやるよ」
蜂朗「ふざけんな!」
蜂朗は蛍太に殴りかかる。あっさり組み伏してしまう。あかりが止めに入る。

○同
蛍太が見舞客たちと酒盛りしている。

○同(夜)
ベッドの蛍太が目を明ける。あかり。
あかり「来ちゃった。下(とスカートをつまむ)履いてない。上もつけてない」
蛍太「あいつに行けと言われたのか?」
あかり「違う。いいの。抱いて、いいの」
あかりは蛍太に抱きつく。逃げる蛍太。
病室の電気がついている。
蛍太「おかしいな、あかりさんは(と笑う)。冗談に決まってるじゃないか。
しかし、健気。旦那のためなら身体まで差し出すか」
あかり「そうじゃなくて。洗濯物を取り込んだの。あったかい。
太陽の光、たくさん吸い込んでる。いいと思った。幸せと思った」
蛍太「そう」
あかり「それから可哀想と思った。
お兄さん、可哀想。可哀想。何もできない(と泣く)」
救急車のサイレンが聞こえる。
蛍太「兄弟喧嘩なんていつ以来だろう。初めてあいつに負けたよ。
あのバカ、強くなったねえ、フフ。あかりさんのおかげかな」
あかり「いえ」
蛍太「あいつは母親の顔をろくろく覚えていない。
早いうちに死なれてね。親父も後を追うように死んじまったから」
あかり「聞いています。ほとんどお兄さんに育ててもらったようなもんだって」
蛍太「そのくせ反抗をする。演劇だなんだと遊んでばかり。
会社勤めをバカにする。世の中は、そんなに甘くはない」
あかり「はい」
蛍太「説教をする。生意気に言い返してくる。兄さんもシェイクスピアくらい読め」
あかり「仲が良い(と笑う)」
蛍太「ずっとふたりきりだったから。
初めてあいつがあかりさんを連れて来たとき驚いた。母さんにそっくり」
あかり「本当?」
蛍太「ふしぎな縁を感じたね。母さんはやさしかった。
いつも笑顔で、やさしかった。やさしいお母さんが、大好きだった」
あかりは蛍太を抱きしめる。
蛍太「いい。もうしばらく、こうしていてくれないか。
結局、やさしいのが一番。人間、顔じゃない。むろんカネなんかじゃない」
あかりは蛍太の顔を強く胸に抱く。
あかり「お兄さんも、やさしい。みんな、やさしい。
私の周り、やさしい人しかいない」
蛍太「おれはやさしくなかった。やさしくなんてしたら、食い物にされちまう。
そう思って生きてきた。だが、あいつは、弟は、やさしい。やさしいのはいい」
あかり「うん」
蛍太「もうじきやさしかった母さんに逢える」
あかりは泣く。蛍太も泣く。

○道
カレーの移動販売車「微笑亭」。蜂朗とあかりが働く。
なかなかの繁盛。行列の最後の客に蜂朗がカレーを手渡す。
蛍太である。かなりやつれている。
蛍太「いい。この店はいい。屋号がいい。微笑亭。
どうした? 笑え。微笑亭だろう?」
蛍太は笑う。蜂朗、あかりも笑う。


(補)「余命いくばく」はずるいですか? ごめんなさい。
経験したことがないのでネットでデリヘルを調べました。
若くてきれいな子がたくさんいるんですね。驚きました。
ともあれ、最後までお読みくださり、ありがとうございます。
「教行信証」(親鸞/金子大栄校訂/岩波文庫)

→哲学者の梅原猛いわく――。

「人は『歎異抄』を読んで、親鸞に興味をもつ。
そして『教行信証』を読んでみようとする。
しかし、もし『教行信証』を全部通読することができる人があったら、
その人はたいへん根気のいい人である。たいていの人は途中で本を投げ出す。
読み始めると、経典、また経典の引用である。
そして多くの経典の引用のあとに親鸞の文があるが、
それはほんの少しだけ、また長々とした経典の引用続く」(「仏教の思想Ⅱ」P309)


なるほどたしかにただならぬ根気を必要とした読書であった。
なんとか通読したものの、では親鸞の思想がわかったかといったら、そんなことはない。
これほどわからないものを書かざるをえなかった親鸞のかかえる闇をかいま見た程度だ。
同著で梅原猛は「教行信証」難解の理由を以下のように分析している。
「教行信証」は破邪顕正の書ではない。
正しい仏法を主張し、おのが信仰に余人を引き入れるために書かれた書ではない。
「教行信証」は「説得の書」ではないと梅原は言うのである。
ならば、いかなる目的で親鸞は筆を取ったのか。
親鸞は「教行信証」を他人に向けて書いてはいない。自己に向かって書いている。
ふたたび梅原猛の言葉を借りよう。

「私はこの本は、やはり彼の信仰告白の書であると思う。
彼が自らのために書いた信仰告白の書、
その本は人に見せるべきものではないのである。
その意味において。この書は、一つの説得の書ではなくて、内省の書なのである」(同P311)


哲学者の力強い断定を足がかりにして、いまいささかの飛躍をたくらんでいる。
我われは梅原猛をして難解と言わしめる「教行信証」からなにを学ぶべきか。
「教行信証」はいかなる書物か。
わたしは思う。「教行信証」は信仰のありかたを詳述したものではなかろうか。
いや、度を過ぎた跳躍である。まず浄土教を時系列的に整理してみよう。
日本における西方浄土への欣求(ごんぐ)は源信により開始された。
かの高僧の執筆したのが「往生要集」である。
内容は死後の世界のガイドブック。美しい極楽浄土があると源信は主張した。
だから、信じなさい。壮麗な極楽浄土に往生したくば信仰しなさい。
美しいから信じろ、と源信は言ったわけである。
源信の説いた信仰は、広く貴族から支持された。日本浄土教の出発点である。
浄土信仰を平易化したのが法然である。
それまでは貴族しかかなえられなかった極楽往生を庶民にも可能なものとした。
ただひと言、南無阿弥陀仏と称えればそれでいい。
法然の主著は「選択本願念仏集」である。
極めてわかりやすいこの書物で法然が論じたのは念仏信仰の正しさである。
すなわち、正しいから信じなさいと法然は言ったわけだ。
なにゆえ信じるか。
この問いに源信は美しいから、法然は正しいから、と答えていることになる。

いよいよ親鸞の登場である。親鸞は法然の直弟子。
親鸞の主著「教行信証」はなにを訴えているのか。
ほとんどが経典の引用から成るこの書物はわたしの理解を超えている。
とはいうものの、字面を眺めるくらいなら可能なわけだ。
気がついたのは、肯定の感情をあらわす文字が多いこと。
「歓喜」という言葉が頻出する。
もっと直接的な「たのしい」「よろこぶ」もやたら目を引いた。
親鸞は経典を引用することでなにをしたかったのか。
親鸞とて人間である。我われに引きつけて考えてみよう。
みなさまはどのようなときに引用をなさいますか。
我われはたいがい「いいな」と思ったところを抜き書きする。
忘れたくない部分を、あとから見返すときのために抜粋するのが、まあ普通だろう。
抜き書きは源信、法然がおのおの「往生要集」「選択本願念仏集」でやったことでもある。
ならば、源信、法然と親鸞の相違はどこにあるか。
前二者は経典からの引用を後ろ盾にして自己主張をしている。
経典にこう書いてあるから、美しい極楽浄土は存在する(「往生要集」)。
経典にこう書いてあるから、念仏信仰は正しい(「選択本願念仏集」)。
ところが、親鸞は引用をもとにしてなんら思想らしきものを論述しない。
短い述懐をもらすのみである。論理展開はなく感情表出にとどまる。
一箇所、有名な部分を引いてみよう。

「まことにしんぬ。かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、
名利の太山に迷惑して、定聚のかずに入ることをよろこばず、
真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」(P192)


荒っぽく訳すとこうなる。
「おいらは愚かもん。エロは好きだし有名にもなりてえ。
聖人にゃ、なれん。サーセン。すんません」――。
これが経典の引用のあとに書かれているのである。
具体的にいうと直前には、外道が往生できぬ由を抜き書きしている。
ここからなにがわかるのか。親鸞が学者ではないということだ。
上記引用文から極度に幼稚な読書感想文を連想しないだろうか。
名作を読んだけれども、内容が偉大すぎて、感想を論じることができない。
やむなく延々と引用をしてしまう。
それからボソッと本音を述べる。「とてもボクには真似できません」と。
頭脳優秀な法然なら、こんなことは決してしなかったであろう。
ここで問題にしたいのは親鸞はただの劣等生に過ぎなかったのか、ということだ。
もしかしたら親鸞は法然よりもよほど大きなものを経典から発見してしまったのではないか。
法然が見たものよりもはるか巨大な光明を親鸞は仏典から感得したとは考えられないか。
偉大なものへは感嘆するほかない。巨大な光明は仰ぎ見るほかない。
うっかりすると盲目になりかねない輝きを親鸞は感じ取る能力を持っていた。
なるほど感想文としては法然の書いたもののほうが受けはいいのだろう。
しかし、果たしてどちらが対象の核心にたどり着いたのか。
引用ばかりのぎこちない感想文しか書けぬ親鸞の視力は法然より劣っていたのか。
たとえば小説の感想で考えてみよう。
こざかしい評論めいたものを書く優等生がいる。
他方、小説の引用ばかりで「ここがいい! ここもいい!」としか書けぬ劣等生がいる。
さあ、どちらが対象の小説を深く味わったであろうか。
どちらがより深く小説に感動しているであろうか。
このようなたとえが、もしかしたら難解な「教行信証」を理解する手がかりになりはしないか。
「教行信証」は難解なのか。もしや稚拙なだけではなかろうか。純粋と言ってもよい。
親鸞は晦渋を好んだのか。もしやただ無垢だったのではないか。無邪気とも言う。
男はひたすら純粋だったのではないか。

しかし、親鸞が劣等生だったというのはどうやら事実のようである。
源信、法然は存命時に頭脳明晰な高僧として名が知れ渡っていた。
一方、親鸞は関東で小さな教団を指導していた程度。
全国区でいえば無名の田舎坊主に過ぎなかった。
そのうえ多くの識者が指摘していることだが、親鸞の知力はあまりかんばしくなかった。
源信、法然と比べたら、まさしく劣等生であったという。
なにしろ漢文(中国語)が読めない。
たとえば「教行信証」に引用されている経典の多くが、読みかたを間違えている。
要するに、オツムの弱かった親鸞さんは経典を正しく読めなかったわけよ。
で、間違えた読みかたで経典を「教行信証」に引用している。
のみならず、スバラシイと涙を流さんばかりに感動する。
熱狂的な信者のなかには、親鸞がわざと読み間違えたと主張するものも少なくない。
親鸞は完全な漢文知識を有していたが、
天才的な宗教センスによってわざと意図的に経典を読み換えたと弁解するのである。
しかし、この弁明はいくらなんでも苦しいように思う。身びいき過ぎるだろう。

ここで想像力に冒険をしてもらおう。タイムマシンが完成した。
時代をさかのぼって親鸞に逢いに行く。
そうして僧の身でありながら妻帯した田舎坊主に漢文の誤りを指摘したとしよう。
おそらく親鸞はさほど動揺しないのではないか。
なぜかは後述する。再度、タイムマシンに乗ろう。法然に逢うためである。
我われは法然の誤りもまた知っている。
法然の信じた大乗仏典が釈迦の真説ではないことを教えてやったらどうなるか。
たぶん法然は寝込むと思う。その場で卒倒してしまうかもしれない。
親鸞はわずか6年ながら法然と共にいた時期があった。
このとき親鸞がいたとする。倒れた法然を介抱する親鸞に再度、教えてやる。
大乗非仏説(=大乗仏教は釈迦の教えにあらず)をである。
親鸞は、「だからどうした?」と開き直るのではないかと思う。だから、どうした?
師匠と弟子の相違はどこから生じるのか。
源信の信仰は美しかった。法然の信仰は正しかった。
そして親鸞の信仰は強かった。いや、楽しかった。
親鸞は楽しい信仰を持っていた。楽しいから信じた。信じるのが楽しかった。
信仰があると生きているのが楽しい。だから親鸞は信じた。
美しいから信じるのも(源信)、正しいから信じるのも(法然)弱いのである。
楽しいから信じる親鸞の信仰は磐石(ばんじゃく)のごとく揺るがない。

「教行信証」は不可思議な信仰なるものの実態を描いた稀有な書物ではないか。
教説の正しさは論理でもって説明されるから言語化が容易である。
ところが、信仰の楽しみは感情に属するため、なかなか言葉にならない。
この本来なら言葉にならぬ喜びを文字に筆写したのが「教行信証」とは考えられぬか。
人間はなにゆえ宗教を信じるのだろうか。
美しいからか。正しいからか。いな、こう考えてみたらどうだろうか。
人間は信じたいから信じる。この「信じたい」のなかに人間独自のちからがある。
乱暴なことを書く。お叱りを受けるかもしれない。嘲笑われるかもしれぬ。
「教行信証」がわかったというものは、信心のなんたるかを理解していないのではないか。
「教行信証」はわからないところに価値がある。
人間の信仰は千差万別である。ひとりとしておなじ信仰を持つものはいない。
他人の信心は理解できるものではない。
だが、それでいい。信じたいものを信じるほどの喜びは人間にはないのだから。
「教行信証」から我われはなにを学ぶのであろうか。
親鸞の信仰は理解できない。しかし、親鸞の歓喜は共感可能だ。
信仰の楽しみ、喜びはなんと不可解なものなのか。
我われは親鸞とまったくおなじの信心を持とうと思ってはならない。
それぞれの信心を持てばいいのである。あなただけの信心を持てばいい。
なぜなら楽しいからである。信心を持つと生きているのが楽しくなる。
他人には理解されぬ自分のみの信仰がどれほど人間を楽しく生かすことか!
ほとんど理解不能なほど難解とされる「教行信証」をわたしは以上のように読解した。
正しいのか誤りなのかはわからない。
わかっているのは「教行信証」があまり正誤に重きを置いていないこと。
かの書物が信心の歓喜・悦楽――つまり信楽(しんぎょう)から書かれていることである。

以下にわたしの心に響いた言葉を抜き書きする。
もとより、みなさまには伝わらないと思う。
だが、繰り返そう。信楽するとは、そういうことなのではないか。
わたしの仏法理解が誤まりだと破邪顕正にやってくる仏教徒がいるかもしれない。
彼には、こうお答えしたい。
どうして楽しんで生きているのをわたしは責められねばならぬのかわからない。

「讃阿弥陀仏の偈にいはく、(曇鸞和尚の造なり)
あらゆるもの阿弥陀の徳号をききて、信心歓喜して、
きくところをよろこばんこと、いまし一念におよぶまでせん。
至心のひと(=弥陀如来)回向したまへり。
生ぜんと願ずれば、みなゆくことをえしむ。ただし五逆と謗正法とをばのぞく。
かるがゆへにわれ頂礼して往生を願ず」(P133)


法然が尊敬したシナ僧は善導。
対して親鸞は曇鸞に導かれるところが多かった。
(むろん両者とも対面ではなく書物を通じての影響である)
「教行信証」は結局のところ、この曇鸞の歓喜に尽きるであろう。
親鸞は「教行信証」でこの歓喜を何度も何度も繰り返し味わっているに過ぎぬ。

「うやまふて一切往生人等にまふさく、
弘誓一乗海は、無碍無辺、最勝深妙、
不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。
なにをもてのゆえに、誓願不可思議なるがゆへに。
悲願はたとへば大虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆへに。
なをし大車のごとし、あまねくよくもろもろの凡聖を運載するがゆへに。
(中略)なをし好蜜のごとし、一切功徳のあぢはひを円満せるがゆへに。
(中略)日輪の光のごとし、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するがゆへに。
(中略)なをし厳父のごとし、一切もろもろの凡聖を訓導するがゆへに。
なをし悲母のごとし。一切凡聖の報土真実の因を長生するがゆへに。
なをし乳母のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまふがゆへに」(P111)


阿弥陀仏の本願(=みんな極楽浄土に往生させちゃる!)を説明したもの。
本願がいかにありがたいかを説いている。
こんなところに胸打たれるなんて、どれだけわたしは不幸なのだろう(苦笑)。

「おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素(きせんしそ)をえらばず、
男女老少をいはず、造罪の多少をとはず、修行の久近を論ぜず。
行にあらず、善にあらず。頓にあらず、漸にあらず。
定にあらず、散にあらず。正観にあらず、邪観にあらず。
有念にあらず、無念にあらず。尋常にあらず、臨終にあらず。
多念にあらず、一念にあらず。
ただこれ不可思議、不可称、不可説の信楽なり。
たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。
如来誓願のくすりは、よく智愚の毒を滅するなり」(P169)


信心という薬がどんな人間にも楽をもたらすことを説いている。
いま気づいたけど「薬」と「楽」って漢字が似ているね。当たり前だけど。
さあ、最後にこの薬物の正体を明かそう。
苦しむ人間に与えられる薬とは光明のことである。

「つしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり。
土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち大悲の誓願に酬報す。
かるがゆへに、真の報仏土といふ。すでにして願います。
すなはち光明寿命の願これなり」(P279)


仏さまっちゅーのは、ピッカピカなんだぜ。
お住まいの土地もキラキラ光っている。
どうしてそれがわかるかというと、古い経典に以下のように書かれているから。

「大経にのたまはく、たとひわれ仏をえたらんに、光明よく限量ありて、
しも百千億那由他の諸仏のくにをてらさざるにいたば、正覚をとらじと。
また願にのたまはく、たとひわれ仏をえたらんに、寿命よく限量ありて、
しも百千億那由他劫にいたらば、正覚をとらじと」(P279)


阿弥陀仏の大昔の誓いが浄土教のよりどころなのよ。
なにそれ~? とか言われちゃうと、ショボンとうつむくしかないよボク……。
さて阿弥陀仏(=無量寿仏)の光明はいかほどか。

「願成就の文にのたまはく、仏、阿難につげたまはく、
無量寿仏の威神光明、
最尊第一にして諸仏の光明のおよぶことあたはざるところなり。
乃至 このゆへに無量寿仏をば、
無量光仏、無辺光仏、無碍光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、
歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏と号す。
それ衆生ありて、このひかりにまうあふものは、三垢消滅し、身意柔濡なり。
歓喜踊躍して、善心ここに生ず。
もし三塗懃苦のところにありても、この光明をみれば、
みな休息をえてまた苦悩なし。寿終之後に、みな解脱をかうぶる。
無量寿仏は光明顕赫にして、十方を照曜す。諸仏の国土にきこえざることなし」(P280)


とにかく阿弥陀仏が光っているのはわかるでしょう? この光明が救いなのよ。
闇が深ければ深いほど、恵みの光明が輝きを増してゆく。
絶望のどん底(最奥)には、すべてを反転する大光明、大歓喜が待ち構えている。
人間の喜びも悲しみも、この光明に端を発しているわけだ。
ここから人間は生まれ、死ぬとふたたびこの光明に戻ってゆく。
――という信仰めいたものをわたしは持っているが正しいかどうかはわからない。
むろん、みなさまに強制しようなんざ、これっぽっちも思っていない。
ただ申し上げたいのは、この光明を信じると生きているのが楽しいということ。
いまのところわたしは南無阿弥陀仏をこのように解釈している。