シナリオ・センター第12回提出課題。「喜び」(11枚)。

<人物>
本山純治(41)予備校講師
池谷光輝(みつてる)(27)会社員
桜木絵美(27)池谷の婚約者。会社員
岡田兎夢(とむ=男性)(27)靴職人
万引女子高生(17)
スーパーの店長(53)
買物客ABC
浪人生ABC

○道
私服の女子高生(17)が走って逃げる。
追う本山純治(41)。ジャージ姿である。

○別の道
池谷光輝(27)、桜木絵美(27)、岡田兎夢(27)が並んで歩く。
岡田がふざけて絵美のお腹をさわる。笑う絵美。笑う池谷。

○スーパー・店外
本山が女子高生の手を無理やり引っぱる。スーパーのまえ。店内へ入る。

○スーパー・店内
本山と女子高生の周囲に人だかり。
本山「だからね、この子が万引するのを見たんだ。
ごそっとカバンの中に入れた」
女子高生「入れてねえ。知らねえ。
ってゆうか、こいつ痴漢、変態。腕、つかむな」
スーパーの店長(53)が現われる。
店長「お話はうかがいましたが、
お客様のカバンを無断で開けるわけには、どうも」
女子高生「警察呼べって。エロオヤジ逮捕」
本山に視線が集まる。皆が本山を見る。
そこに池谷、絵美、岡田が現われる。
絵美「本山先生!」
店長「先生? この人、先生なんですか?」
池谷「そう、高校の先生。僕たちみんな本山先生の教え子。
とても立派ないい先生」
岡田「先生は変わらないな。相変わらず熱い」
本山「いや、違うんだ。違う。昔とは違う」
この隙に女子高生が逃亡する。

○本山のアパート・部屋
本山、池谷、絵美、岡田が入ってくる。
本山「そこらへんに置いといて」
池谷がスーパーの買物袋を床に置く。
本山「女房、子供に逃げられたのも、高校を辞めたのと関係していてね」
絵美「いいです。無理に(話さなくても)。
今日は私、たくさん料理作りますから」
池谷「とりあえず乾杯しましょうよ。ビールの味、先生に教えられた。
本山先生は、高校生にアルコールをすすめるんだから」
岡田「破天荒だったよな。よく言っていた。くだらない常識なんてぶち壊せ」
池谷「先生、こいつ(岡田)すごいんですよ。
靴のデザイナー。カリスマ。雑誌、テレビ」
四人はビールで乾杯する。
四人のまえに手料理が並ぶ。
本山の顔が赤い。本山はビールを一気にあおる。
本山「純粋になれ、なんて言えた義理じゃねえ。
教師失格よ。人間も失格。亭主も失格」
絵美「そんな――」
本山「おまえらが卒業してすぐのことだ。ワルだった。
思わず手をあげてしまった。殴った。翌日、十一階から飛び降りやがった」
池谷「バカなことを(と頭をかかえる)」
本山「人殺しと言われた。人殺し。
たしかにおれは人殺しだと思った。教師が殺人」
岡田「そんなこと絶対ありません」
本山「だいぶ荒れた。女房、子供を連れてサヨウナラだと。
高校も辞めてやった。でも、元教師なんてツブシがきかないもんでね」
絵美「先生が可哀想(と顔をおおい泣く)」
本山「色々やって、何とか予備校の仕事にありついた。
くだらんよ。偏差値がどうした」
あらかた食された皿。ウイスキー。
岡田「純粋を貫け。妥協するな。どこかで誰かがおまえを見ている。
日和(ひよ)るな。先生の言葉、生きる支えになりました」
池谷「僕もです。恐れるな。胸を張れ」
岡田「いつか成功して先生にお逢いしたいと思って生きてきました。
お礼が言いたい。ありがとうございますと。先生のおかげ」
ケーキが出されている。ウイスキー。
絵美「私たち結婚するんです。
この人(と池谷を指す)ずっと私を見ていてくれた」
池谷「やっと正社員になれました。岡田と比べたら屁みたいなもんだけど嬉しい。
まっすぐに生きてきてよかったと思います」
岡田「こいつら出来ちゃった結婚」
絵美「女の子だったら純子ってつけようと思うんです。
純粋の純。純粋に生きてほしい」
池谷「本山純治先生――(とかしこまる)」
池谷、絵美、岡田「ありがとうございました」
本山「おめでとう。おめでとうございます。
こんな日が来る。生きていてよかった」

○同(夕方)
窓から西日が射す。洗われた食器。
本山が大の字に寝ている。天井を見つめる。横に卒業アルバム。
池谷、絵美、岡田を含む高校生と本山の集合写真。
本山の頬を涙が伝わる。

○予備校・教室(朝)
五十人ほどの浪人生が着席している。
本山「(一点を見つめ早口で)こんなことを言ってはいけないのかもしれないが、
どこの大学に入ろうが大した問題ではない。行かなくたって構わない。
高卒でも上等な人間はいくらだっている」
あくびをする学生。携帯電話をいじる学生。真剣に話を聞く学生。
本山「くだらない常識に縛られてはならない。豊かに生きよう。重要なのは――」
携帯が鳴る。マナーモードにする学生。
本山「重要なことは大学に入ってから考えればいいか。
いまは受験勉強一本で行こう」


(補)わたしにもひとり成功したらお礼を言いたい先生がおります。
ちなみにシナセンでは柱に「夕暮れ」と書くと赤で消され「夕」と書かれます。
おそらく「夕方」も赤で消され「夕」と直されるのでしょう。
「純粋」が「うるさい」かもしれません。ごめんなさい。
これでシナリオセンター作家養成講座の半分が終了したことになります。
「アジアの路上で溜息ひとつ」(前川健一/講談社文庫)絶版

→男は30を過ぎると小説を読まなくなるのではないか。
わかったような思いにとらわれる。
書くのはいいが新たなもの(=小説)を読もうとは思わない。

同様、男は30を過ぎると冒険ができなくなる。
他人の冒険を読んで満足するしかなくなる。
人間にとって、いちばんおもしろいのは海外一人旅であろう。
しかし、30を過ぎたら勝手気ままは許されぬ。

本書はすばらしい。
著者に敬意を払っている。引用するのはこのため。

「オプティミストでなければ、ひとり旅を続けられない。
そして同時に、ロマンチストあるいはセンチメンタリストでなければ、
旅を続けるおもしろさがない」(P31)


旅は人生である。引用箇所の旅を人生にかえてほしい。
しかし、忘れてはならない。人生は旅のように(あるいは旅よりも)楽しい。

「アジアの少年」(小林紀晴/幻冬舎文庫)絶版

→小林紀晴の才能は悔しいが認めざるを得ない。
かれはこだわっている。自分が自分であることに。
イコール、他人が自分ではないことに深く傷ついている。
がために一瞬の光景に感動するというわけだ。
わたしはあなたではない。
だから、あなたの写真を撮る。だから、あなたのことを書く。
小林紀晴の流儀である。

「ベトナム乱暴紀行」(金角&銀角/スターツ出版)

→いまを時めく人気ライター、ゲッツ坂谷(=金角)の処女出版である。
因縁の不可思議さを深く考えさせられる書籍だ。
ゲッツ坂谷はこの2週間ちょっとの旅行が縁でカモちゃん(鴨志田穣)と知り合った。
のちのベストセラー「怪人紀行」シリーズはすべてカモちゃんのおかげかもしれない。
そもそもこの出版が可能になったのは、
板谷が人気漫画家サイバラ(西原理恵子)と親友だったから。
さらにカモちゃんとサイバラが結婚した――。
コネというと人は顔をしかめるがすべては因縁なのだろう。
コネとはありがたき因縁のことである。
わけのわからぬ縁によって人生が動いていく。
いまはサブカル(漫画やルポ)のほうが、よほど文学らしいと思う。
いつかは現在のサブカルも学問に堕し新たなものが活気を帯びるのであろう。

「ばらっちからカモメール」「鴨志田穣・西原理恵子/スターツ出版)

→ご存じ人気漫画家・西原理恵子とダメ人間・鴨志田穣(享年42)による共著。
バカップルという言葉はかの夫婦にこそふさわしい(賞賛ですよ)。
ネットで検索すると、本書の漫画しか評価しないものが多い。
わたしは反対。
鴨志田穣の文章(ではなく生きかたか)はなかなかと思うが、サイバラ漫画はわかりません。
このふたりがめぐりあい結婚したことに力づけられる。
人生にはこんなことがあると笑いだしたくなる。
ふたりとも偶然の出逢いを必然と思ったに相違ない。いいなと思う。
正反対のものが出逢い惹かれあう。奇跡である。
ここから(わたしには理解できぬ)サイバラ漫画の傑作が生まれた。
とても意味深いと思う。

カモちゃん(鴨志田穣)の文章を読みながらメチャクチャの魅力を思い起こす。
人生なんてメチャクチャでいいんだ。常識なんてぶっ壊せ。
これが芸術である。文学の世界である。
ところが、いまはそうではない。メチャクチャは許されない。
作家は編集者に土下座せよと教えられる。
脚本家はプロデューサーの靴を舐めろと指導される。

こんな世だから鴨志田穣の破天荒ぶりが心地よいのだろう。
むかしだったらこのくらいの無頼はあちこちにいたのである。
現代社会は無頼を許さない。
わたしが文才のない(しかし現代を生きた)鴨志田穣に惹かれるゆえんである。

「井上靖 文学語彙辞典」(巌谷大四編/スタジオVIC)絶版

→井上靖の小説から名言を集めたもの。
井上靖の文学世界を決定づけたものは、43歳での芥川賞受賞だったのではないか。
ふつうこの文学賞は新人が若年で取るものとされている。
ところが、小説家は43歳でこの栄誉を手中におさめた。
作家の心中はいかほどだったであろうか。
名言集から引用するのはだらしのない話だが、あえてする。

「酬(むく)われるというようなことは、その人その人の持つ運であって、
世の中には立派な仕事をして酬われない人は沢山いる筈(はず)である。
人間の生き方というものは、恐らくそうしたこととは全く無関係なものであろう」(P147)


では、「人間の生き方」とはどのようなものか。井上靖はどのように生きたか。

「変な言い方であるが、私が父親から貰(もら)った一番大きいものは、
父親の持っているものを受け継いだことではなく、父親に反発することに依って、
自分を父親とは少し違ったものに造り上げようとして来たその過程であると言っていい」(P96)


父親だけでは文豪・井上靖は誕生しない。

「私は口には出さないが、母に心の中で話しかける時がある。
「お母さん、あなたからいろんなものを貰いましたね。
いいところも、悪いところもみんな貰った。
あなたの持っているものは、僕もみんな持っている。
間違いなく僕はあなたの子供ですよ。
あなたのお腹の中から、あなたの総てを持って生れて来た子供ですよ」(P126)


父と母がその日たまたま抱き合ったから井上靖は生まれたに過ぎぬ。
人間は偶然から生まれ偶然にもまれ偶然に死んでいく。
ならば、人間の一生は作家の目にどのように映ったか。

「人間というものの一生は、なかなか公平にはできていない。
らくに一生を送る者もあれば、
苦労の連続で一生をあえぎあえぎ過す者もある。
同じ人間なのに、人生の乗車券は特等から十等くらいまである。
幸福と不幸の分配は甚だうまく行っていない。
この方は、神さまが決めることであって、人間の力ではどうすることもできない」(P116)


井上靖の後継作家といえば、真っ先に宮本輝が思い浮かぶ。
しかし、宮本輝の文学世界は結局、井上靖まではいたらなかった。
これを日蓮が好きな宮本輝と、親鸞に惹かれていた井上靖の相違と見ることも可能だ。
だが、わたしは両者の違いを芥川賞受賞の年齢に見る。
31歳で天下の芥川賞を受賞してしまった宮本輝の幸運がかの作家の世界を狭めた。
芸術家にとって、なにが恵まれているのかはさっぱりわからない。
なにせ死んでから認められるものがいるくらいである。
ただしあの年齢で芥川賞を取らなかったら井上靖の文学は深まらなかった。
不運だけが文学世界を豊かにするわけではない。
幸運が人間の芸術を深めることもある。
宮本輝のように幸運がのちのち芸術にとってマイナスになることもあろう。
ひっきょう、人生はわからないということだ。
人生を描く文学がわかったというものを信用してはならないのはこのためである。

「ケルトの神話」(井村君江/ちくま文庫)

→ケルト神話に書かれていることを箇条書きにする。
・人は死ぬ。
・人間の周囲には目に見えぬ力が働いている。
・死は終わりではない。人間は生まれ変わる。
・貧しさも悲しさも苦しみもない世界がきっとどこかにある。
・男女問わず恋の病にかかることがある。恋は病なのかもしれない。
・ひとりの女を求めてふたりの男が争うことがある。
・人間は唐突に幸福から不幸のどん底に転落する。
・子を殺す親もいる。
・友人同士が殺しあわねばならぬこともある。
・美人は得とは限らない。
・人間はときに自殺をする。
・偶然になにが起こるかわからない。
・親指を舐めると知恵がひらめくことがあるかもしれない。
・人間が死ぬのは運命である。

新しい発見はひとつもないと思う。
我われは神話に描かれていることをすでに知っている。
だが、ほんとうに知ってはいない。
頭で知っているだけで、自分で発見していないからである。
人生は発見の連続である。喜びも悲しみも発見を通して味わうしかない。
発見を繰り返しながら、人生の苦みと甘みを味わうのが、生きるということだ。
大昔から人間はそうして生きてきた。これからもそのように生きていくのだろう。
神話から教えられることである。

(注)神話は語りかたがすべてだが、著者の口調は饒舌とは言いがたい。
もしケルト神話に興味をお持ちのかたがいらしたら、他の入門書を当たられるといい。
(だったら下に広告を貼るなよな、おれよ!)

「大人の友情」(河合隼雄/朝日新聞社)

→友人と花見に行く前日、偶然にも近所のブックオフで発見。
105円ゆえ購入。その晩に1時間半で読了した。
河合隼雄の言うところの「無意識で生きる」を実践しているのかどうか、
自分でもわからない。意識だけではなく無意識にも視野を広げる。
心理療法家のすすめる生きかたである。
意識は常識によって、がんじがらめに縛られている。
常識をいったん捨て置くのが、無意識の重視のような気がするが正しいのかどうか。
河合隼雄の深みは、幸福を説かないところにあるのかもしれない。
流行のスピリチュアルは「こうしたら幸福になれる」とやってしまうでしょう。
シンクロニシティ(偶然の一致)をつかまえたら、幸福になれる! なんてさ(笑)。

河合隼雄は人生や人間がそんな甘っちょろいものではないことを知っていた。
無意識に着目することで、むしろ世間的には不幸になる可能性も述べている。
だが、ものさしを変えてみたら、それはほんとうに不幸なのか。
その不幸のなかでしかわからぬ人生の味わいがあるのではないか。
幸福のなかの苦みを、不幸のなかの甘みを心理療法家は知っていた。
幸福や不幸なんていう世間的尺度でははかれぬ深みを人間に見ていた。
なぜこうまでの洞察力を氏が持ちえたのかといえば、苦しみのおかげであろう。
セラピストとして多くのクライアントと向き合った。
心理療法家として、人間のあまたの苦しみと寄り添った。
人間の苦しみと真剣に対峙する。これは釈迦やイエスがやったことである。
河合隼雄がときに神々しく見えるのはこのためかもしれない。

友人との花見の前日に「大人の友情」を読む。偶然を重んじてみたわけだ。
冒頭から河合隼雄は、鋭いところを突いている。
努力しても友人はできない、と書いてある。
たしかに人脈なら努力でなんとかなるのかもしれないが、友人は無理である。
作者は日本語特有の表現に注目する。
「虫が好かない」「馬が合う」――。
なるほど、人間関係はこれに尽きると思う。
なんとなく虫が好かない人間がいる。どうしてか馬が合ってしまう人間がいる。
これはほかの言葉ではうまく説明できない。
親しくなる理由は、まったく馬が合うからとしか説明しようがない。
最初の章を作者はこうまとめている。

「友だちが欲しい、と思っても、それほど簡単ではない、と言えるし、
ひょこっとできるものだ、とも言える。
そこには虫や馬や、人間の力を超えたものがいろいろとはたらいていて、
自分の意思や努力だけではどうにもならない面があるからである。
とは言っても、そこに相当な努力や工夫が必要となるときがあるのも事実である」(P23)


なぜ河合隼雄のファンなのか。
「人間の力を超えたもの」に言及する論者だからだと思う。
だれにでもわかる平易な言葉で語るのもいい。
ほとんどフィクションでしか伝えられぬ領域を、氏は見事に物語っている。
「人間の力を超えたもの」を我われは、たとえば偶然のなかに見るだろう。
その偶然を必然と信じたときに人生は動くのかもしれない。
人生が動く。結果、幸福になるか不幸になるかはわからない。
幸福がいいのか、不幸が悪いのかも、実のところわからない。
わかっているのは、人間は苦しむ――。
河合隼雄は人間の苦しみのなかに価値を見いだした。

本書のなかで河合隼雄は自分の幅広い交友関係についてまったく語っていない。
友人の存在を誇るのは嫌味なものだと思ったのかもしれない。
たしかにそうである。馬が合う人間がいるものは幸福である。
心理療法家は、人間以外を友とすることもできると書いている(P101)。
わかりやすいのは、ペットである。いや、なに、生き物でなくてもよい。
石でもぬいぐるみでも友とすることができると河合隼雄は説いている。
思えばわたしには数年間、パンダのぬいぐるみだけが友の時期があった。
このパンダとの友人関係は死ぬまで続くことを書いて記事の締めとしよう。

「人が、つい とらわれる心の錯覚」(安野光雅・河合隼雄/講談社+α文庫)

→画家と心理療法家の対談。
河合隼雄の言葉がいま驚くほど生きる支えになっている。
人生や人間のわからなさをあれほどわかっている人間がかつて日本にいた。
我われにとって河合隼雄を持てたことは、どれほどの財産だろうかと思う。
心理療法家は人間が本当では生きていけぬこと、
本当が同時にまた嘘でもあることを熟知していた。
正誤のレベルで河合隼雄を判断しようというのが、そもそもわかっていないのである。
本書から引用しよう。

「自分が好きなようにしないで努力ばかりしていると、げっそりしてしまう。
考えて、努力して、気をつかって、それで失敗したら、もうあかん。
だけど、好きなことをやっていた人間は、
「これまで好きなことをやってきたのだから、このへんで頑張ろう」となる」(P31)

「たとえば、「原稿用紙十枚にあなたの自伝を書きなさい。
しかし、ほんとうのことはひとことも書いてはいけません」と言ったら、
むずかしいでしょうな。
やはり、どこかでチラッチラッとほんとうのことが入ってきますね」(P201)


人間はまったくの嘘をつくことができない。たしかにそうだよな。
どんな嘘にも本当のことが入ってきてしまう。
画家の言葉も紹介しよう。画家の創作方法である。たいへん参考になった。

「わたしの場合、表現するとき、こうあったらおかしい、
このへんに屋根が赤いのがあったら、
このへんにも赤い屋根がなきゃならないというような気持ちになるんですよ。
なぜかよくわからないけど。そうあってほしいというだけじゃなくて、
こうでなきゃならないと思ってしまう。(中略)
その、「ねばならぬ、ねばならぬ」で絵ができていくんです。
それは自分の意志というより、
なにか命令するものがあって描いている感じなんです。
マジカルな意味じゃなくて」(P210)


無名の身で僭越ながら、この感覚は「わかる、わかる」と思った。
「こうであってほしい」と書いていくと、「こうでなければならぬ」に到達する。
自分で書いているような気がしない。書かされているかのごとく思う。
偶然を必然に化学変化させる、魔のひと時の愉楽を画家は正直に告白している。
この部分を河合隼雄が画家に白状させた、とも読むことも可能である。

「ケルト巡り」(河合隼雄/NHK出版)

→河合隼雄はアイルランドで魔女に逢う。現代の魔女である。
魔女はタロット占いで客の相談に乗る。
タロットとは「多種類のキャラクターが描かれたトランプの前身のようなカード」。
むろん有料。職業、魔女。
常識にとらわれない河合隼雄はすぐさまタロットと心理療法の類似性を発見する。

「そのとき魔女がほとんど助言をしないのを見て、
「これは相当な人だ」と感心した。
私たち心理療法士は助言や忠告をほとんどしない。
私たちはタロットは使わないので、ただ「どうですか?」などと言う」(P149)


相談者から出てくるものを大切にするわけである。
魔女はおのれが触媒となることでタロット(=偶然)のイメージを伝える。
そのイメージを用いて相談者自身に考えてもらう。

魔女のみならず河合先生は、おいおいと言いたくなる世界にもクビを突っ込む。
みなさまはあれをご存じですかね。銅線を2本持って歩くという。
要所のうえに来ると銅線が交差する――。
これに河合隼雄はトライするのだ。1回目はなんの反応もない。
2回目に氏は、「無意識な態度に自分を切り替えて試してみる」。
すると、銅線が重なったというのである。
こういう非科学的な話について来れない人が多いのかもしれない。
わたしは、なんとか後追いできるタイプの人間らしい。尾行可能だ。
河合隼雄の解説を聞こう。

「この現象は意識を強く持っていると絶対に起こらない。
「こんなバカなことはない」とか「科学的に見ても重なるはずがない」
というようなことを強く思っていると、銅線は動かない」(P178)

「意識的にコントロールせずに無意識に任せていると、
案外そういうことが起きる」(P178)

「自然科学の体系というのはきれいにできており、信頼に足るものなのだが、
それは、自然科学の対象とする範囲内において有効なのであり、
自分の心の深いところ、無意識の層が動きはじめると、
自然科学では割り切れない面白いことが起こるのである」(P178)


人生にはどんなふしぎなことが起こるかわからない。
「面白いこと」が起きるかもしれない。
そのためには無意識に着目することだと河合隼雄は主張する。
これは学問的に正誤を確かめられる問題ではない。信じるか、信じないか、である。
故・河合隼雄氏は「日本ウソツキクラブ」の会長でもあった。

人間は無力であるという自覚を失いたくないと思う。
わたしは他人を救うことができない。助けることはできない。
ほんのちょっとした親切くらいならできるかもしれないし、
やるべきなのだろうが、それもよほど丁寧になさないと失敗する。
善行をなすのは、むしろ悪行よりも難しいのかもしれない。
助言はたいていの場合、効果がないのではないか。
助言は相手よりも、発言者の精神安定に効果がある、とは考えられないか。
唯一、役立つ助言がある。こちらから乞うた助言だ。
信頼できる人に対面や電話でうかがった助言はとても役立つ。
わたしも何度も助けられたことがある。

では、お願いしていない助言はどうだろうか。
お節介と紙一重である。相手は自分のためを思って助言してくれている。
これは信じていいのかもしれない。
しかし、乞うてもいない助言に腹立たしい思いをしたかたも少なくないだろう。
いや、このような助言を否定しているわけではない。
助言をしてくれる人がいるというのは、ありがたいことだ。
なぜなら、ひとりではないことがわかる。
人間にとってもっとも辛い孤独から解放される。

対面での助言はよろしい。不快感もあるだろうが、それはお互いさま。
こちらもいらぬ助言をしてしまうかもしれない。
ひとつ、わからないことがある。ネット上での助言である。
それも乞いもせぬ助言。これがわからない。いったいなんなのだろうと思う。
逢ったこともない他人に助言する神経がわからない。
わたしがやらないからだろう。
顔も知らない人間のブログを読んで助言しようとは思わない。
教え導こうとも思わない。
自分と違う考えかたが書かれていても意見はしない。
相手がそう思っている以上、こちらがどう言おうと他者の考えは変わらないだろうから。

古い人間なのかもしれない。疑い深いのかもしれない。
逢ってもいない人間を、信用することができないのだ。
人間は逢うとかなりのことがわかる。文章なんて嘘っぱちだとわかる。
逢っていない人間はわからない。しかし、わからなくていいこともある。
作家は作品を理解するしかないのだろう。
人間に踏み込みたくても作家が故人だった場合、どうしようもない。
謙虚になれ、と言われるのかもしれない。
逢ったこともない人間からの助言を謙虚に聞きいれよ。
ならば、きみも謙虚になりたまえ。逢ってもいない人間に助言できると思うな。

地位も肩書もないわたしだが、ごくたまに助言を求められることがある。
実のところ、助言などあてにされていない。
意見を差し挟まないで、相手の話をなるべく丸ごと聞こうと努めている。
けれども、こちらは訓練を受けたカウンセラーではない。
我慢できないでうっかり助言してしまう。
自分の言葉が相手を助けるとは、あまり信じていないが、
こらえきれないのだから仕方がないだろう。
いま考えが一歩進んだ。
もしかしたらわたしの文章は他人をしてこらえきれなくさせるのだろうか。
だったら、読まなきゃいいと思うが、そうもいかないのか。
しかし、かりにわたしが成功者だったら、だれも軽々しく助言しないだろう。
そういうことなのだ。そういうことなのである。
「あゝ荒野」(ユージン・オニール/北村喜八訳/文藝春秋新社)絶版

→作家と作品(フィクション)の関係は、現世と来世みたいなものだと思う。
現世の業(=行ない)が来世に強く影響するように(仏教思想では)、
作家の実人生での経験が創作物の色合いを決定づける。
人間にとって現世はなかなか自由になるものではない。
ところが、現世の苦労が来世で生きると考えたらどうだろう。
現実に作家の味わう悲喜が、フィクションに登場する人物の行動に影響をおよぼす。
現世でかなわなかった願望が来世で成就するかもしれない。
小説家の宮本輝は一度も熱愛を経験したことがないと言っている。
フィクションの職人の口から出た言葉だから、どこまで本当かはわからない。
あんがい嘘ばかりではないと思っている。
だから、宮本輝は恋愛小説をあのように大量に創作できるのではないか、と。

一度きりの人生で人間が体験できることは限られている。
このため来世があるのではないか。フィクションがあるのではないか。
人間は1回生きたら、それで終わりではない。
このことを本能的に察知するためにフィクションがあるとは考えられないか。
善人が不幸つづきの人生を、そのうえ短命で終わるかもしれない。
どうしてこんな理不尽が、と憤る人がいる。
いな、それが人生なのである。それでいいのである。
なぜなら来世が、フィクションがあるのだから。

こんな話をある人にしたら、親子関係もそうだねと指摘される。
なるほどと感心する。
たしかに作家と作品の関係は親と子である。
親は子に自分のかなわなかった夢を託すかもしれない。
子は親を見て育つ。二様に子は親を見る。
あのようにはなりたくないという反抗心があるだろう。
しかし、生まれ持ったものはみな両親からもらっている。
めったな幸運でもない限り、特殊な才能に恵まれはしないだろう。
所詮、親とおなじような人生しか送れないのかもしれない。
同様に作品も作者を超えることはまれである。
けれども、作品は作者の人生を否定しようとする。
否定しながらも結局は肯定するしかない。
作家と作品は、親と子である。現世と来世の関係もあるのかもしれない。

米国演劇の祖、ユージン・オニールの父親は有名俳優だった。
若いころ俳優は芸術を志したようである。
だが、ある通俗芝居で当たりを取ってからは、そればかりするようになった。
つまり、堕落した。この堕落によって財をなしたのだから責められるいわれはない。
オニールの人生もまた父の影響を強く受けている。
まず確実に演劇的な才能を持って生まれている。
だが、オニールは芸術にこだわった。
あらゆる劇作にチャレンジしたのが、ユージン・オニールである。
とはいえ、オニール劇を読んだものは、
かならずやこの作家の通俗性と感傷趣味に気づくだろう。あきれるかもしれない。
疑いもなく人気役者だった父親の血が原因である。
作家はおのれを超えようと多様な挑戦をするも根本の血はいかんともしがたい。
オニールの人生である。また作品もそうではないか、とわたしは主張したい。
劇とは、そういうものではないか。
劇中人物はおのれを超越せんとするが血(父母)のまえに敗れ去る。
人間は自由を求めるものの宿命に敗北すると言い換えてもよい。
かりそめの自由を味わうことがあるかもしれない。
しかし、大きなものに最終的に勝つことはできない。
オニール作品から教わった劇のありかたである。人間の生きかたである。

「あゝ荒野」はオニール晩年の長編喜劇。わずか1ヶ月で仕上げたという。
息子と父親の対立、和解をテーマにした、わかりやすい芝居である。
オニール特有の通俗性に苦笑し、感傷趣味には赤面した。
ところが、わたしはオニールのこの短所(長所?)が好きなのである。
観客もおなじだったらしい。短期間で書かれたこの芝居は大当たりだったという。
オニールによる自作解説が残っている。
以下の引用は「現代演劇 特集 ユージーン・オニール」(英潮社)による(P138)。
「あゝ荒野」は――。

「単純な喜劇であり、わが国の典型的な町の、典型的な家庭の、
わたしの若き日の、ノスタルジックでセンチメンタルな追憶であり、
今日のそれとは対照的な当時の習慣やモラルについて書いたもの」


オニール唯一の喜劇「あゝ荒野」を、作者の願望だと見る評者が多い。
現実の少年時代はこうではなかった。だから、牧歌的な喜劇を作りあげた。
最高傑作「夜への長い旅路」で知られるよう、オニールは凄惨な家庭で育っている。
言うなれば、「あゝ荒野」と「夜への長い旅路」はコインの裏表なのだろう。
たいがいの作家が片面しか描けない。
天才劇作家、ユージン・オニールは人生の両面を描く筆力を有していた。

「あゝ荒野」読了。これでオニールの邦訳戯曲を完全読破したことになる。
さみしい気もするが、なにごとも終わりがあるのである。
でなければ、始まりもない。親が死んでも子は生きる。
親の世代が死ぬから子は活躍できるのかもしれない。
親は子がいるから安心して死んでいけるという面もあるのだろう。
そのうち子も親になりやがて死ぬ。これが劇なのだろう。
人は生まれ死ぬ。だが、子を残すことはできる。
子は親に従い、ときに逆らうが、いずれおのれも親になる。悲劇も喜劇もここから生まれる。

シナリオ・センター第11回提出課題。「告白」(10枚)。

<人物>
棚橋美紅(みく)(18)高校生
山本清志(18)高校生
河村真治(18)高校生

○プラネタリウム・場内
満天の星。
棚橋美紅(18)、山本清志(18)、河村真治(18)が並んで着席。
三人とも制服姿。中央に美紅。
手をつないでいる。右手は山本と。左手は河村と。
場内、明るくなる。手を放す二人の男子。

○地方県立高校・教室(夕)
美紅と山本、二人のみ。
美紅「つきあってるし。じゃあ、いまはつきあってないの?」
山本「だから、そういうのじゃなくて、その、なんていうか」
美紅「エッチなことがしたい?」
山本「いや(と慌てる)」
美紅「キスがしたい?」
山本「だから、美紅ちゃん、テレビなんかで見る女の子よりずっといい。
それ自信ある。だから(と言葉に詰まる)」
美紅「だから?(からかっている)」
山本「だから、うるさい。バカヤロウ。わかっているくせに」
教室を出る山本。笑いながら追う美紅。

○地方県立高校・校庭(朝)
通学する高校生の群れ。
校庭の隅に美紅と河村。
美紅「ふむ(と腕を組む)」
河村「難しいこと、聞いたかな?」
美紅「これがもてる女の辛さなのか」
河村「山本のほうがいいのかよ」
美紅「成績は、そうだよね」
河村「身体じゃ負けていない」
美紅「フフフ。怖い。襲ったりしないで」
河村「いい子だよ。美紅ちゃん、自分で思っているよりよほどいい。
わかんないかな」
校舎に駆け出す美紅。追う河村。

○道
祭囃子(まつりばやし)が聞こえる。ハッピを着た人たち。子どもが三人はしゃぐ。
美紅、山本、河村が並んで歩く。美紅は浴衣。

○広場(夜)
盆踊り。太鼓の音。踊る人々。その中に美紅。
山本と河村が踊る美紅を見る。
山本「どこにいてもすぐわかってしまう」
河村「ほんと。顔はテレビのアイドルなんかに比べたら大したことはない」
山本「でも、いい。どこがいいのか」
河村「わかってるんだけど言葉にならない」
山本「おまえ、わかってるよな」
河村「おまえもな。だけど、今日でこういうの終わり。仲良しごっこは終わり」
屋台が並んでいる。綿飴を買う山本。
河村が美紅の手を取り駆け出す。美紅は振り返る。
釣り銭をもらう山本。二人を追う山本。見失う。綿飴を頬張る。

○神社・境内(夜)
河村と美紅が入ってくる。賽銭箱まえの階段に山本が座っている。
美紅「どうして?」
山本「ここの違いだよ(と頭を指す)。
嘘。偶然。いや、偶然じゃない。ここに来る」
美紅「よかった。河村君、鼻息荒くて」
山本「来なかったらひとり寂しく飲もうと」
山本の横にコンビニ袋。中に缶ビール。
空き缶が四つ転がっている。
山本と河村は片手にビール。美紅の手にはなし。
三人は並んで座っている。美紅が真中。
美紅「もうあきらめた。大学、どうしても行きたかったわけではないし。
それよりお父さんが心配。リストラなんて、まさか」
空き缶が六つ転がっている。
河村「美紅ちゃん、そろそろ決めてくれよ。おれと山本、どっちを取るんだ?」
美紅「二人とも好き。二人の友情とてもいい。
壊したくない。ずっとこうしていたい。
(二人を見比べ)どっちが大きくなるんだろ」
山本「おれは医者になる。立派な医者になる」
河村「おれだって、おれだって。
頭悪いからわかんないけど、大物になる。見てろよ」
美紅「ウハ、頼もしい。私はお嫁さん。取柄ないから。
でも、子ども、いっぱいほしい」
河村「クウウ、思わせぶりな。悩ましい」
山本「おれ、いいパパになるよ」
美紅「(二人を見比べ)私、ダメだったほうの奥さんになる。
成功できなかったら可哀想。だからうんといい奥さんになってあげる」
山本「美紅ちゃんの、そういうところ好き」
河村「おれも。こんな子、ほかにいないよ」
山本「二人とも成功しちゃったら、美紅ちゃんはずっと独身か。
赤ちゃん、抱けないね」
美紅「それも困る」
美紅は笑う。山本と河村も笑う。
美紅「今日は星あんま見えない。どれが私たちの星なんだろう。
この先、どんなことがあるのか。今日で時間がとまってほしい」
山本と河村は首肯。ビールをあおる。


(補)前回、張り切りすぎたからかな。今回はぜんぜんテンション上がらず。
いつもなら書きながら昂揚が「来る」のですが、このシナリオではなし。
だけど、書き手が気に入っていないのを読み手が好むことはままあるので……。
「選択本願念仏集」(法然/大橋俊雄校注/岩波文庫)

→南無阿弥陀仏は日本最大の思想ではないかと思う。
これほどの大思想を日本人が発明しえたことに驚く。
いや、海外では通用しない極めて日本的な思想が南無阿弥陀仏なのだろう。
南無阿弥陀仏ほど日本人になじむ感覚はないのではないか。
西方に極楽浄土があるという。そこで南無阿弥陀仏である。
南無は帰依するの意味。お任せしますだ。
つまり、「阿弥陀仏さん頼みます助けてくれ」とお願いしたら死後浄土に生まれ変われる。
だったら、この辛い浮き世も、もうちっとばかしがんばろうかという気にもなろう。
そのうえ、ひとりではない。南無阿弥陀仏。阿弥陀仏さんがいつも一緒にいてくださる。

南無阿弥陀仏はすべてを包み込むやさしさにあふれている。
我われは南無阿弥陀仏と言いながら自殺ができるのである。
神風特攻隊を日本人が結成できたのは底流に南無阿弥陀仏があったからではないか。
南無阿弥陀仏は人を殺すこともできる。殺人の罪も念仏すれば許される。
この六文字は慈母のごとく万民を許す。
こんな甘えた思想がどこの国にあるだろか。そして、これは果たして甘えなのか。
甘美でもありはしないか。
ひるがえって、この甘い美しさほど信じられるものを我われは有しているのか。
美しいものを美しいからという理由で信じてきたのが日本人ではなかったか。

仏教学者の井ノ口泰淳によると、阿弥陀仏信仰は太陽信仰に端を発している。
いな、慎重な学者は断定をしていない。氏の推測でのひとつある。
場所はインドではなく中央アジアでの話だ。
拝火教(ゾロアスター教)の影響を学者は指摘する。
さて阿弥陀はサンスクリット語アミタの音写だという。漢字に音を写したわけだ。
原語サンスクリットによる意味は、「ア+ミタ」。「ア」は否定で「ミタ」は動詞で「はかる」。
すなわち、「アミタ(アミダ)」は「はかり知れない」という意味。
ならば阿弥陀仏とは「はかり知れない仏」である。
なにがはかり知れないのか。寿命と光明。ふたつ説があるとのこと。
このうち光明が「はかり知れない仏」と解釈した場合どうなるか。
はかり知れない光明とは太陽にほかならぬではないか。
かくして阿弥陀仏信仰と太陽信仰の類似性が論じられることになる。
(以上は「仏教―流伝と変容―」による)

マルクスの共産党宣言ならぬ法然の南無阿弥陀仏宣言に目を向けよう。
源信は「往生要集」で壮大な世界観を提示した。
恐ろしい地獄と美しい浄土を描写したわけである。だから、念仏せよ。
美しい極楽浄土に往生したければ念仏するしかない。
これが日本浄土信仰の曙(あけぼの)たる「往生要集」の主張であった。
法然の訴えもおなじである。救われるには念仏しかない。
しかし、法然は、源信のように「美しいから」とはやらない。
では、なにゆえ念仏をすすめるのか。正しいからである。
法然が主著「選択本願念仏集」で論じているのは念仏の正しさである。

なにが正しいかという問題は実のところそうとう厄介である。
計算問題なら正解が決まっているのだから困難はない。
この計算式の延長線上にあるのが科学である。
だが、世の中には答えのない問題がいくつも存在する。
こういう問いの答えは、回答者のひとりを信じるしかないのだ。
たとえば、釈迦がこう言ったという。イエス・キリストがああ言ったという。
だから、どうした? とはねつけてしまえば終わりなのである。
釈迦の言うことなら正しいのだろう。イエスの口から出た言葉なら正しいはずだ。
正解のない問題の答えは、信じるか信じないかになってしまう。
そして、世界は人生は、どれほど正解のない問題であふれていることか。
人間は問いのまえで苦しみ悶え、ひとつの回答(者)を選択するしかない。
「選択本願念仏集」は法然の選択の道筋を極めて明快に描いている。
古文の教養のないわたしでさえ、わずか1日で読むことができた。
「選択本願念仏集」の特徴のひとつは、わかりやすさなのであろう。
わかってもらわなければ意味がない。
学識のある高僧だけが理解しても人間は救われぬ。
法然が(貴族ではない)民衆相手の布教を目指していたことがよくわかる名文である。

法然は選択をする。あまたの仏典、仏教書のなかから文章を選び取る。
おのれの正しさは他者の言葉で証明するほかないのだ。
法然が信じた文言が多数「選択本願念仏集」に引用されている。
少し丁寧に見ていきたいと思う。
南無阿弥陀仏はなにゆえ正しいのか。信仰の根本はどこにあるのか。
浄土仏典のひとつ「無量寿経」を法然はかかげる。
仏典だから言うまでもなく釈迦の教えという形式で書かれている。
が、我われは「無量寿経」がインド人の釈迦その人の教えではないことを知っている。
人間釈迦とはなんら所縁(ゆかり)もない後世の創作である可能性が高い。
したがってバカらしい、と投げだす人間は生涯宗教を理解しないだろう。
不幸を知らない恵まれた人間である。
どうして「無量寿経」作者が念仏三昧の境地で釈迦に逢わなかったと言えようか。
死んだ人間とは逢えないときみは言うのかもしれない。
しかし、かりに釈迦が人間でなかったとしたらどうか。
大乗非仏説(大乗仏教は釈迦の教えではない)など、らくらく乗り越えられるのだ。
人間を舐めてはいけない。人間の信仰を軽んじてはならない。
人間の苦しみの偉大を知れ。

法然は仏典「無量寿経」のどこに注目したか。

「たとひ我(われ)仏を得たらむに、
十方の衆生、心を至し信楽(しんぎょう)して、我が国に生じぜむと欲して、
ないし十念せむに、もし生じぜずといはば正覚(しょうがく)を取らじ」(P40)


阿弥陀仏さまの宣言である。仏はまだ菩薩(ぼさつ)であった時代のことである。
菩薩は、仏になるまえの修行の身をいう。
法蔵菩薩は願をかけたと仏典に書いてある。
たとえ将来この先、おのれが仏になることがあろうと――。
仏教徒が我が国(浄土)に往生したいと欲して「十念せむに」(十念したのに)、
もし往生できなかったら「正覚を取らじ」(仏にはならないよ)。
ところが、ご存じのように阿弥陀仏さまはいらっしゃる。
だから、「十念」したらかならず浄土に往生できるということである。
これは正しい仏典に書いてあることなのだから正しい。

賢明なみなさまはお気づきでしょう。
ここで重要になるのが仏典の「十念」をどう解釈するかなのである。
謙虚な法然は身勝手な解釈をつつしむ。
中国僧の善導が「無量寿経」のこの部分をこう解釈している。
善導の「観念法門」によると――。

「もし我成仏せむに、十方の衆生、我が国に生ぜむと願じて、
我が名号を称すること下十声に至らむに、
我が願力に乗つて、もし生ぜずば正覚を取らじ」(文庫解説P213)


善導がこう解釈したからといって正しいとは限らない。
だが、500年以上もまえの、しかも海を隔てた異国の高僧の解釈である。
信じるにたるのではないかと法然は思った。挙句(あげく)、信じたのである。
「我が名号を称すること下十声に至らむに」は善導の解釈だ。
阿弥陀仏という名号を称(とな)えたらば――。
信じなければならぬ法然の心持を想像してみたい。
もうひとつ強い確証がほしいと頭脳明晰な法然が考えたことは疑いえぬ。
法然はここで(シナのみならず)日本の高僧の著述に注目する。
我われにはもうなじみ深い源信の「往生要集」である。
法然は「往生要集」のどこに魂を揺り動かされたか。
「選択本願念仏集」には「往生要集」からの引用が少なくないけれど、
法然がもっとも感動したのはここではないだろうか。

「問うて曰く、一切の善業、おのおの利益ありて、おのおの往生を得。
何が故ぞ、ただ念仏一門を勧むるや。
答へて曰く、今念仏を勧むることは、
これ余の種々の妙行を遮(しゃ)せむとにはあらず。
ただこれ男女貴賤、行住坐臥を簡(えら)ばず、
時処諸縁を論ぜず、これを修するに難(かた)からず、
ないし臨終に往生を願求するに、
この便宜を得たるは念仏に如(し)かざればなり」(P51)


男女も貴賤も問わない。男も女も金持も貧乏人もだれもが往生できる。
高僧の源信がそう書いているのなら正しいのだろう。
ただし源信は、口称念仏(口で称える念仏)をすすめているわけではない。
源信の論じる念仏は、もう少し大がかりなものである。
その部分は、善導のほうを信じたらどうだろうかと法然は考える。
日本人よりも外国人のほうが信じられると浄土宗開祖が思ったかは知らない。
法然の生きた時代は、末法の世とも言うべき混乱に明け暮れていた。
武士階級が台頭した動乱の世である。さぞかし苦しみも多かったであろう。
人間を苦しみから救いたいがために法然は信じたのである。
「無量寿経」を、善導を、「往生要集」を――。
かくして南無阿弥陀仏が生まれた。

「選択本願念仏集」の感想ながら、いまだ法然の言葉を引いていない。
法然の言葉を見てみよう。男の信心はすでに固まっている。
「無量寿経」の確約を、善導の信仰を、「往生要集」の保証を法然は得た。

「問うて曰く、
何が故ぞ、五種の中に独り称名念仏をもつて、正定の業とするや。
答へて曰く、
かの仏の願に順ずるが故に。
意(こころ)に云く、称名念仏はかの仏の本願の行なり。
故にこれを修すれば、かの仏の願に乗じて必ず往生を得るなり」(P27)


これはいままでのような仏典や高僧からの引用ではない。
浄土宗開祖、法然の断言である。なんと力強い言葉であろうか。
強大な信念に裏打ちされなければ言えぬことである。
ただただ南無阿弥陀仏と口で念ずれば人間は苦しみから救われる!
念仏すれば人間にいかなる救いがもたらされるのか。
ふたたび法然の言葉を引いてみよう。

「しかのみならず、念仏行者をば観音・勢至、
影と形との如く、暫くも捨離(しゃり)せず。
また念仏者は、命を捨て已つて後、
決定(けつじょう)して極楽世界に往生す。
余行は不定なり。
およそ五種の嘉誉(かよ)を流し、二尊の影護を蒙る。
これは現益(げんやく)なり。
また浄土に往生して、ないし仏に成る、
これはこれ当益(とうやく)なり」(P138)


念仏には現益と当益、ふたつメリットがある。現世と来世で念仏者はお得だよ。
生きているあいだは観音菩薩と勢至菩薩につきっきりで保護される。
死んだあとは極楽世界に往生することができる。
どうしてみなみな念仏しないのだろうか。
浄土宗は、死んだあとのことばかり。生きているうちが重要じゃないか。
こう思って南無阿弥陀仏を嫌悪しているかたがいるかもしれない。
実のところ、わたしもそう思っていた。
ところが、法然はきちんと現世での功徳も記していたのである。
「選択本願念仏集」ばかりではない。
法然が依拠した仏典「無量寿経」もまた、現世の苦悩する人間を問題にしている。
以下の引用は、「無量寿経」から法然が選択引用した部分である。

「無量寿仏(=阿弥陀仏)に八万四千の相あり。
一々の相に八万四千の随形好(ずいぎょうこう)あり。
一々の好(こう)に八万四千の光明あり。
一々の光明、遍(あまね)く十方世界の念仏衆生を照らし、
摂取して捨てたまはず」(P84)


阿弥陀仏は光明のかたまりのような存在である。
冒頭で学者の論説を紹介したが、阿弥陀仏は太陽のように我われを照らす。
阿弥陀仏は、夕陽ではなかったか。わたしの思い込みである。
西方に沈む深紅の日輪を見て、人間は極楽浄土を思い描いたのではないか。
あの光明の彼方にかならずや極楽世界があるはずだ。
そして、西日に照らされた万物はどれほど美しいことか。
これが南無阿弥陀仏の救済ではないかとわたしは思う。
夕陽に照らされると、どんなものでも美しく見える。弥陀の光明である。
むしろ、もとから綺麗なものは夕陽に照らされても映えない。
満開の桜に射し込む西日など嫌味なものである。
しかし、打ち捨てられたものを包む西日のぬくもりはどうだろうか。
ハエのたかる生ゴミの袋でさえ夕陽が射すと意味深く美々しい。
だれからも見向きもされないものが、夕陽により輝きを放ち始める。
これが南無阿弥陀仏ではないだろうか。
夕陽には笑い顔よりも泣き顔が似合う。
成功した人生の勝者が夕陽を背に高笑いをする。
およそこれほど俗悪なシーンはないだろう。
反面、願いかなわず人生に敗れた男女。
かれらに降り注ぐ落陽の光明は恵みと言ってもいいくらいあたたかい。
ふたたび、これが南無阿弥陀仏ではないだろうか。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

つぎは法然の弟子、親鸞の「教行信証」を読む。難解で知られる書物だ。
おととしのいまごろ、中国の西安にいた。
善導を記念して建立された香積寺を参拝したことを思い出す。
あの日はよく晴れていた。夕陽がとても美しかった。
長かった仏教の旅がもうすぐ終わろうとしている。

シナリオ・センター第10回提出課題。「喧嘩」(9枚)。

<人物>
小泉美子(27)精神科医
柏倉高志(34)アルバイト
柏倉良子(30)その妹
神崎稔(36)美子の恋人。精神科医。
警官A(45)
警官B(24)
看護婦(看護師)A(42)
看護婦(看護師)B(25)
男性患者(21)

○道(夜)
公園の紅葉。その横の道。
車の中に柏倉高志(34)。目を閉じている。横に練炭。
車の外に警官A(45)B(24)。Aが無線連絡。
走る救急車。

○××病院・病室
個室。ベッドに柏倉。横に小泉美子(27)。
小泉は眼鏡をかけていない。笑う柏倉。
美子「何がおかしいんですか」
柏倉「おれも年を取ったもんだと思ってね。先生、いくつ? いや、いい。
若いな。綺麗だ。先生は何も知らない。なぜ助けた?」
美子「生きたくても死んでしまう人がいます」
柏倉「だから、何だっていうんだ? くだらない。いいことをしたつもりか。
恨んでいる。おれを助けた医者を恨んでいる」
美子「柏倉さん、治ります。みなさん良くなります。お薬をしっかりのんでいけば」
柏倉「教科書にそう書いてあったか(と嘲笑う)。
無駄手間をしやがって。まあ、いい。ここを出たら、今度こそ死ぬ」
美子「やめてください」
柏倉「どうして? どうやってとめられる? いい仕事だな。人命救助か。
毎日うっとりしてるんじゃないか。人助け。私は偉い」
美子「こっちだって本気ですから。死なせない。
柏倉さん、初めての患者。研修でぐるぐるまわって、落ち着いて、初めての」
柏倉「先生のためにおれは死んじゃいけないのか。
身勝手だな。何ができる?」
柏倉は美子の胸をつかむ。美子は柏倉の頬をひっぱたく。
柏倉「生きている(と頬をさする)。
もう一度、たたいて。先生、たたいてくれませんか」
美子「ふざけないで」
柏倉は美子のスカートをめくる。美子はひっぱたく。
柏倉、今度は胸をつかむ。美子はたたく。
スカート。たたく。胸。たたく。柏倉は笑う。美子も笑う。
柏倉「ガキのころみてえだ。よかった」
花のない花瓶に強い西日が射す。
美子は着席。柏倉の手を両手で包む。
柏倉「ふしぎだ。女から愛されたことがない。生きていたら、こんなことがある。
孤独。一家心中よ。中学生だった。オヤジが火をつけた。
オカン死んだ。妹は大やけど。それからずっと孤独。ひとり。
死んだらオヤジとオカンに逢える。逢いたい。逢いたい」
美子「妹さん(がいるじゃない)」
柏倉「結婚が決まった。相手は一流企業よ。
もういいと言われた気がした。もういい」
柏倉は泣く。美子も泣く。西日が射す。
六人部屋を出る柏倉と柏倉良子(30)。
柏倉の両手に荷物。一礼する良子。

○××病院・診療室
秋服の柏倉に殴りかかる美子。
美子「生きなさい。死んじゃダメ。生きて」
看護婦A(42)に後ろから抑えられる美子。
看護婦B(25)は柏倉に頭を下げ謝罪。
柏倉「いいんです。なんでもないんです」
机上のカレンダー。休診日に赤丸。
神崎稔(36)と対座する冬服の柏倉。
神崎「まあ、笑っていることですよ」

○柏倉のアパート(夜)
テレビからお笑い番組。紙パックの焼酎をがぶのみする柏倉。笑わない。

○繁華街(夕)
神崎と腕を組み笑顔で歩く美子。
神崎の携帯が鳴る。携帯を耳に当てる神崎。
トラックが急ブレーキでとまる。
神崎「行かなくていい。人間はわからない。
人生は怖い、大きい。だから、行くな」
神崎をひっぱたく美子。美子は走る。

○通夜の会場(夜)
良子ひとり。美子が駆け込む。
棺桶の中の柏倉と向き合う美子。
美子は柏倉をひっぱたこうと腕を上げる。力なく下ろす。
良子「寿命だったのだと思います」

○××病院
構内の桜並木の下を歩く美子。
医務室に入る。神崎と挨拶。
診療室に入る。眼鏡を取り出しかける。
机上の眼鏡ケース。
男性患者(21)と対座する美子。
美子「生きてれば、うんといい事があります」


(補)ありきたりな人間と人間の喧嘩を書きたくなかった。
人間と神仏との喧嘩を書きたかった。和解を書きたかった。
書けたかどうか自信はない。書きたいものを書けるとは限らない。
9枚にこれでもかとぎっしり詰め込んだ。
柱(=○)を新しく建てるとどうしても字数を食ってしまう。
個室が六人部屋になって退院するところなど柱を建てろと指導されるのかもしれない。
最後の柱「××病院」は逐一、柱を建てなければならないのだろう。
作品の弁解が許されないのを知らないわけではない。しかし、弁明したい。
どうしても入りませんでした。書きたいものを書き込みたかったのです。
シナリオ・センター第9回提出課題。「写真」(8枚)。

<人物>
青野吾郎(70)無職
滝沢美歩(17)その孫。高校生
安藤秀一(17)その恋人。高校生
山下学(70)青野の高校時代の同級生

○青野家・庭(朝)
青野吾郎(70)がたき火をしている。
アルバムの写真を一枚一枚はがして燃やす。
滝沢美歩(17)が背後から近づく。
美歩「やだ。なにしてるの?」
青野「(振り向かず)死なないよ。生きるために燃やしてるんだ」
美歩「なんのこと?」
青野「自殺すると思ってるんだろう」
美歩「おじいちゃん、おばあちゃんを大好きだったでしょう」
青野「人は死ぬ。ただそれだけのことだ。お母さんに伝えてくれ。
死なない。ボケてもいない。元気だ。かわいい孫をありがとう」
たき火が燃える。
ふたりは並んでしゃがんでいる。美歩が一枚の写真を手に取る。
美歩「これおばあちゃん?」
女子高生の白黒写真。制服姿で美しい。
青野「(首を振り)おばあちゃんと出逢ったのは会社に入ってからだ」
美歩「恋人?」
青野「(うなずき)人を初めて好きになった。
初めてのデート。手をつないだ。チュウはしていない。でも、手をつないだ」
美歩「(そこまでは)聞いてない(と笑う)」
美歩の携帯電話が鳴る。メール。
青野「行ってこい。日曜日にこんなところにいてどうする。いいんだ、行きなさい」
美歩「それ燃やさないほうがいいよ」
青野「みんな燃やす。おれも燃えるんだ。まだ終わっていない。これからだ」
美歩「おじいちゃんのいうこと、いつも芝居がかってる」
青野「うるさい。行きなさい」
美歩「また来るから」
美歩は出て行く。見送る青野。

○繁華街
雨が降り始める。安藤秀一(17)と美歩が手をつないで走る。
軒先に駆け込む。美歩は手を放し安藤に向き合う。
美歩「行かないから。なんか、わかるの。
安藤くん、このあと行こうとしている。手をつないでいるとわかる。
あ、ホテル行こうとしているって。行かないよ。安藤くんのことは好き」
安藤「おれだって」
美歩「でも、行かない。流されたくない。待とう。ゆっくり待とう。
私たち、まだ時間はたくさんある。待とうよ」
美歩は笑いかける。安藤も苦笑い。

○青野家・庭(夕)
晴れている。雨にぬれた跡のあるたき火の燃えかす。強い西日が射す。
日が暮れている。青野家の居間に灯り。

○青野家・居間(夜)
青野は電話を切る。相手は山下学(70)。
青野はソファーに座る。前のテーブルには先程の白黒写真とウイスキー。
山下の声「よお青野か。奥さんのお葬式以来だな。
どうだ。変わりないか。ひとりでちゃんと生きているか。
あんまり気を落とすなよ。この歳になってくよくよしたって始まらないからな。
おう、そうか。いや、おれもまだ燃えている。終わるもんか」
青野はウイスキーを飲む。白黒写真。
山下の声「忘れるもんか。咲子ちゃん(写真の女子高生)。
我われのアイドル。みんな好きだった。
ぞくっとするほど綺麗で清楚で。いきなり転校しちまった。
だれも抜けがけできなかった。青野は話したこともなかったんじゃないか。
懐かしいな。燃えていた。熱かった。本気だった。純粋だった。
今度飲もうな。咲子ちゃん、どんな顔をしていたっけな。写真の一枚でもあれば」
青野「バカヤロウ(涙声)」
青野は自分の老いた手を見つめる。


(補)甘くとろけるくらいセンチメンタルなものを書きたかった。
ペギー葉山の「学生時代」を聴きながら書いた。
書いていてとても楽しかった。
前回の添削でセリフのなかにト書きを入れても赤字が入らなかったから、
調子に乗ってがんがんシナセン(後藤先生)のルールを破ってみた。
師もいまさら原稿用紙に戻れとは仰せにならないだろう。
シナリオを書き始めたとき、いつか女子高生を出したいと思った。
このたび念願を果たしたことになる。
シナリオのなかでならだれもが女子高生になれることを知った。