「往生要集 (上)(下)」(源信/ 石田瑞麿訳注/岩波文庫)

→もとより専門教育を受けていないわたしに学術論文を求めるものはいないだろう。
とはいえ、1ヶ月近くかけてようやく読了することのできた大著。
このまま内容を忘れてしまうのはもったいない。
簡単な感想を記しておくのも悪くはないと思う。

学者の梅原猛は「往生要集」に日本のセンチメンタリズムの故郷を見る。
身の程をわきまえずに難解な古典世界に分け入ったのは、
梅原の言を灯火(ともしび)にすればこそである。
最初に「往生要集」を意識したのは近松門左衛門の劇作を読んでいたときだった。
近松劇は仏教文学の要素が極めて強い。
ならば、近松の仏教思想はなにに依っているのか。
国文学者の信多純一は、せいぜい「往生要集」を読んでいたくらいだろうと記している。
いつかくだんの仏教書を読んでみたいと思ったのはこのときである。
その後、梅原猛の名著「地獄の思想」を読むにいたって覚悟を決めたしだいだ。
近松門左衛門のセンチメンタルなところが好きである。
近松劇の感傷は、間違いなく現代の山田太一や倉本總のドラマに通じている。
演歌の世界といってもよい。敗者の美学とまでいっていいのかはわからない。
ともあれ、あの美しいセンチメンタリズムは、ほんとうに「往生要集」から来ているのか。
ならば、どうにかしてその甘美を我がものにできないか。
このたび無謀にも徒手空拳で仏教世界に立ち向かってみた。

最低限の知識を書いておく。「往生要集」は985年に源信が著した仏教書。
だいたい平安時代の中期くらいだと思ってくださればいい。
この仏教書は「枕草子」や「源氏物語」にも影響を与えたという。
さらに仏教的に見てみると、源信のまえには最澄、空海がいる。
ふたりの高僧は中国仏教をさんざん輸入したわけである。
源信は最澄が開いた日本天台宗の出身。
なお源信は日本浄土教の始祖という位置づけをされている。
源信の「往生要集」の世界から後の法然、親鸞が誕生したわけだ。
南無阿弥陀仏に深く心を寄せているわたしにとって、
「往生要集」は避けては通れない書物といえよう。
このように読むことのできた僥倖(ぎょうこう)を大きなものに合掌して感謝したい。
いまだにこの巨大な存在を名づけることはできないでいる。
なんとか阿弥陀仏と呼びかけてみたいといま仏教を独学しているところだ。

「往生要集」は、膨大な引用から形づくられている。シナ仏典からの引用。
Aの仏典にこういうことが書かれている。Bの仏典には、Cの仏典には――。
で、その合間あいまに源信の言葉が挿入されている。
まあ、ずるいやりかたと言えなくもない。
AもBもCも仏典の引用で正しいから、
自分の教説も正しいと見せかけようとしているのだから。
しかし、こうやるほかないのである。
いち個人が釈迦はこう言った、阿弥陀仏はこう言ったと書いても、
信じるものは少ないだろう。以上が「往生要集」の外形である。

つぎに「往生要集」の中身を荒っぽく紹介する。
おまえら地獄に堕ちるぞ! 地獄はこんな恐ろしいところなんだからな。小便ちびるなよ。
こうやらかしておいてから、おまえら極楽浄土に行きたくはないか、と攻めるわけだ。
どうしてって極楽浄土はこんなすばらしいところなんだぜ、とユートピアを紹介する。
もうこうなったら極楽浄土に行くしかないだろう、と追い立てる。
そのうえで、浄土への行きかたを述べるわけである。念仏するしかないよ、と。
源信の念仏は、口称念仏(口を開いて「南無阿弥陀仏」という)に限定していない。
むしろ本来の念仏、つまり正しく仏を念じる方法をこと細かに指定している。
根拠はなにかというと中国の仏典。
わたしが読んだことのある「浄土三部経」からもだいぶ引かれていた。
ひと言でいえと迫られたらどうしよう。「往生要集」の内容をひと言でいえ!
いささか古めかしいが「アミダブツさま萌え~♪」とでも答えておこう。

聖典というのは、当たり前のことが書いてあることが多い。
このため書き写してもみなさんにあきれられてしまうかもしれない。
このブログで何度も書いてきたことを繰り返そう。
発言は内容ではない。説教もおなじこと。だれがいうかが重要なのである。
どんな当たり前のことでも釈迦や阿弥陀仏の言葉ならありがたいのだ。
一瞬だけ筆者を釈迦とでも思ってくだされ。さあ、行くぞ!
あわれな凡愚どもよ、ひれ伏して聞け。
レイプをしてはいかんぞ。尼さんを無理やり犯してはならん。
そんなことをしたら地獄に堕ちる(上巻P22)。
どんなグルメだってウンコになるんだから美食を求めるなかれ。
人間なんてウンコのつまったくっさいゴミと心得よ(上巻P60)。
人生は無常よ。意味わかる? あんたもいつ死ぬかわからんってこと(上巻P64)。
でね、死んだら終わり。カネも地位もなーんにも持参できない(上巻P72)。
人生なんて生まれて老いて病んで死ぬだけなんだから(上巻P140)。
しかし「煩悩即菩提」、すなわちマイナスはプラスでもある(上巻P168)。
自己中(自利)はダメよ。他人にやさしくしましょうね(上巻P197)。
仏教書といいながら道徳の教科書みたいでしょう。
これをくだらないと思うか、くだらないことこそ真実と思うかは、あなたしだい。
「往生要集」には風変わりなことも書かれてある。
仏のチンコはどんな形をしているのか。知りたいなんてみなさんもエロいな~♪

「如来の陰蔵は平なること満月の如し。
金色の光ありて、猶し日輪の如く、金剛の器の如く、内外倶に浄し」(上巻P225)


「くそお、だれでもいいからやりてえ」なんて思ったときは、
仏さまのオチンチンを思うといいらしい。
性欲の消えるのみならず、限りない功徳まで得られるとのこと。
たしかに仏さまのイチモツを想像したら萎えるだろうよ。みなさん、勉強になったねえ!

いかん。マジメになろう。
「往生要集」の後は法然、親鸞と南無阿弥陀仏を追求していく予定である。
法然、親鸞が「往生要集」のどこに着目したか追っていきたい。
つづいて、筆者が本書のなかで魅せられた部分も紹介してゆく。
わたしは知的興味から仏教書を読んでいるわけではない。
いうまでもなく救済を求めているのである。
まず浄土宗の開祖、法然は「往生要集」のどこに心打たれたか。

「往生の業は念仏を本となす」(上巻P347)

法然が「選択本願念仏集」(これから読む!)の冒頭に記した有名な文言らしい。
注意したいのは、この文句がシナ仏典からの引用ではなく源信の言葉であること。
つまり、正しいという保証はない。
(現代的解釈を用いれば、もとより中国大乗仏典も釈迦の真説ではないけれど)
法然が強く主張したのは口称念仏の功徳である。
源信は、「念仏は口か心か」という問いに摩訶止観からの引用で答えている。
どちらも重要であると(上巻P262)。
法然は、おなじ問いに「口だけでいい」と答えた。ここに法然の新しさがある。
とはいえ、根っこは源信の以下の宣言である。繰り返す。
「往生の業は念仏を本となす」

法然の弟子で、浄土真宗の開祖とされる親鸞は「往生要集」のどこに惹かれたか。
注にしたがい一箇所を紹介する。引用最初の「かの」とは「仏の」という意味である。

「かの一々の光明、遍く十方世界を照し、念仏の衆生を摂取して捨てず。
我もまたかの摂取の中にあり。
煩悩、眼を障(さ)へて、見ることあたはずといへども、
大悲、倦(ものう)きことなくして、常にわが身を照したまふ」(上巻P237)


法然は客観的に往生の方法を求めているのに対し(「念仏を本となす」)、
親鸞は極めて主観的に「わが身」の救済に関心を寄せている。
と考えるのは、あまりに梅原猛の仏教観に毒されているのかもしれない。
親鸞の思想として著名なものに悪人正機説がある。
善人が救われるんだから悪人のほうがもっと救われるだろう、というやつである。
みなさんも日本史の時間に学校で教わったでしょう。
あれは実のところ、法然が先に言い出したことなのである。
親鸞は師匠の教説を真似したに過ぎない。
これはいまや仏教学の常識となっている(けれども学校日本史では教わらないはず)。
では、法然はどこから悪人正機などというアイディアを思いついたのか。
どうやら「往生要集」の一文がきっかけになったということである。引用する。

「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」(下巻P112)

源信はこれを(シナ仏典の)観無量寿経に書いてあることだという。
しかし、正確な引用ではない。こんな文句は観無量寿経のどこにもない。
学者は注であいまいにぼかしているが、ここは捏造(ねつぞう)と考えるべきではないか。
仏典に書いてもないことを源信は書いてあると主張してしまったのである。
ところが、おもしろいことにそういうインチキから仏教思想が発展してゆく。
この箇所は(漢訳仏典に記載はないけれど)あるいは源信の願いだったのかもしれない。
こうであったらばいい。悪人だって念仏で救われてもいいだろう、という願望だ。
ウソといってはならない。希求であり夢想である。
この強い思いが源信をして筆をすべらせた。観無量寿経に記載ありと。
この誤記が法然、親鸞の信仰を刺激するのだから仏教はおもしろい。
もしかしたらこのような誤解、誤記を許す寛容性が仏教の真髄なのかもしれない。
包容性といいかえてもよい。正誤にことさらこだわらない深みである。
最後の引用はわたしの好きなところ。おつきあいください。

「父母に子あり 始めて生れて便ち盲聾なるも 
慈悲の心慇重(おんじゅう)にして 捨てずして養活す
子は父母を見ざれども、父母は子を常に見るが如く、
諸仏の衆生を視そなはすも猶し羅睺羅(らごら=仏弟子のひとり)の如し
衆生は見たてまつらずといへども 実に諸仏の前にあり」(上巻P295)


源信はこの文章を「ある懺悔の偈に云く」と断わっているが、
注にしたがうと例によってそんな偈は存在しない。
源信は仏僧ではあったが、決して仏教学者ではなかったという証拠である。
ある経典に似た文句があることはあると訳注者は指摘している。
引用部分の意味がわからないかたがいるかもしれない。簡単に説明する。
男女に赤子が生まれた。子は目と耳が不自由であったという(メクラ、ツンボ!)。
父母は子を捨てずに慈悲の心をもって養育した。
我われと仏さまの関係もおなじようなものである。
こちらは仏さまの存在を判断できる視力や聴力を生まれ持ってはいない。
にもかかわらず、仏さまのほうは永年我われを限りなく慈(いつく)しんでくださっている。
いちばん親しみを覚える宗教感覚である。南無阿弥陀仏とは、このことではないか。
このとき我われはキリスト教のように裁かれたりはしない。

本書の注で紹介されている仏教の業の考えかたに興味を持った(下巻P192)。
3つの業があるという。順現業、順生業、順後業である。
違いは、いつ業の報いを受けるか。
報いをこの世で受けるところの業(順現業)。
報いを次に生まれ変わった世で受けるところの業(順生業)。
報いを第2回目の生を受けた後およびそれ以後に受けるところの業(順後業)。
身口意(やったこと・話したこと・思ったこと)の三業は断じて消えぬという、
仏教思想の恐ろしさをまざまざと見せつけられた思いがした。
業はいつかかならず報いを受ける。それは今生とも来世とも限らない。
来々世以降まで視野に入れている仏教の時間感覚には人をぞっとさせるものがある。
いまのあなたの不幸は、もしかしたらあなたの前々世の悪業の報いなのかもしれない。
おなじように現在のあなたの幸福は、いつの世だかの善業の報いかもしれない。
ひとたび口にしたことをすぐ打ち消すのは申し訳ないが、
決して消えぬとされている悪業も念仏すれば消滅すると説くのが「往生要集」である。
なぜなら念仏ほどの善業はなきがゆえに。
念仏すれば悪業も消えうせ西方浄土に往生することが可能だ。

最後に「往生要集」とはいかなる価値を有しているのか考えてみたい。
源信のどこが偉大かといったら、ホラ吹きの凄みではないか。
日本で源信ほど壮大なホラを吹いた人間はいないと思われる。
なるほど「源氏物語」は世界に誇る日本文学の代表作であろう。
けれども、あれはいってしまえばリアリズム小説なわけでしょう。
当時の日本貴族社会を舞台にした、あるかもしれない(あったかもしれない)物語だ。
「平家物語」にいたっては、事実を基にしたしたノンフィクションのおもむきさえある。
ひるがえって「往生要集」の破天荒ぶりはどうか。
たしかにシナ仏典に多くを頼っているとはいえ、日本人があれほどのウソをつけるだろうか。
一発逆転の思考ではないか。人間が死んだ後も地獄と極楽があるという。
こう考えたら現世における幸不幸など、どうでもよくなってしまうのだから。
当時の平均寿命がいくつだが知らないが、人間は長生きしたところで百年よ。
ところが、死後には百年を何万倍もしたような永久にも近い時間があるのかもしれない。
いくらこの世で富貴に恵まれようが地獄に堕ちてしまったら救われようがない。
どれほど不運、不幸だといっても、現世の苦しみなど、たかだが数十年ではないか。
死んでから極楽往生できるのなら、今生の苦悩などたわいもないものである。
「往生要集」はすべての価値を転倒させる破壊力を持っているのだ。

こうまで力強いウソを現実に突きつけた日本人はほかにいないだろう。
極楽浄土は、現実にはないものである。現実ではないものでもある。
したがってウソという当面の判断をくだした。極楽浄土はウソ、虚構、フィクション――。
ところが、考えてみよう。
果たして源信にウソをついているという自覚があっただろうか。
浄土教の始祖におのれがホラ吹きだという認識はつゆなかったはずである。
自分はほかならぬ真実を著しているとの自信が
「往生要集」作者になかったとは考えられぬ。
源信は西方かなたに極楽浄土のあることをまったく疑っていなかったに相違ない。
だからこそ「往生要集」を書くことができたのである。
さあ、問題は現代を生きる我われに移行する。
果たして現代人は源信をホラ吹きと愚弄することができるのか。
たしかに源信が依拠した漢訳大乗仏典は釈迦の真説ではない。
ここまでは現代科学で断言することが可能である。
しかし、死後の世界はどうだ。「往生要集」の説く極楽浄土はどうだ。
最先端の現代科学をもってしても極楽浄土が存在せぬことを証明できない。
同様、地獄が死後にないことも科学は断定できない。
人間よ、科学よ、なんと無力であることか。
こう考えたとき源信は果たしてウソつきなのだろうか。
「往生要集」はフィクションなのだろうか。
悪徳政治家連中は死んだら地獄行きというようなことはないのだろうか。
努力するも報われなかった善男善女が極楽浄土に往生しているとは考えられぬか。

センチメンタルについて書きたい。
梅原猛は「往生要集」を日本センチメンタリズムの故郷であると評している。
センチメンタルとは、人間の甘さのことであろう。
「往生要集」は我われに「もうひとつの世界」を提示しているわけだ。
現実だけではないと主張している。生存は、この現実だけではない。
だとしたら現実のどんな苦悩も絶望さえも甘美な輝きを放ちはしないか。
もちろん、光明は極楽浄土から来ているのである。
我われ凡夫は南無阿弥陀仏の大輝に照らされているに過ぎぬ。
ならば、艱難も悲痛も慟哭もみなみな美しくは見えないか。
夕陽に照らされると万物が輝くのとおなじことである。
センチメンタルとは、感傷とは、あの夕陽のことをいうのではないか。
夕陽に照らされた我われの輝きをセンチメンタルというのではないか。
夕陽を見て涙するのが感傷であろう。
あの夕陽を、赤き日輪を、ちっぽけな人間が見たとき南無阿弥陀仏というのではないか。
夕陽に包まれている歓喜が、南無阿弥陀仏の法悦ではないだろうか。
ひとまず「往生要集」は閉じよう。法然、親鸞へと進むためである。
南無阿弥陀仏の核心(確信)を得るためでもある。
まだ30そこそこで南無阿弥陀仏を問題にしている自分が恥ずかしい。
まるで夕陽に向かって走っているようなこそばゆさがある。

考えようとおのれを戒めている。自分の頭で考えよう。
だれそれがこう言っていたから、というのはやめよう。
「○○先生がこう書いていたから正しい」というのは考えていないのだ。
ならば考えるとはどういうことか。疑うことである。考えるとは疑うこと。
わたしはこのことを「もてない男」の小谷野敦氏から学んだのだと思う。
なにも疑わないで生きるのは楽かもしれない。しかし、考えよう。考えたいのだ。
最高の指導者というものは、みずからへの批判をも育ててしまう存在ではないか。
指導を通して、生徒固有の内的世界を育てる。
結果として指導者への疑いの目まで養育できる先生がいたら、これは大人物である。
「自分を超えてみろ」と言える教師だ。なかなかいないと思う。
生徒の考えるちからを伸ばすというのは、そういうことだ。
だとしたらイエスはユダを育てたことによって、
偉大なる師であることを証明しているのかもしれない。

考えようと書いた。疑おうと書いた。
果たして壇上でものを言っている人間はほんとうに先生なのだろうか。
この逆もあるわけだ。
あれだけ叩かれている池田大作先生はほんとうにただの俗物に過ぎぬのか。
考えるとは、疑うとは、こういうことだ。
従来の価値を否定する。新たな価値を創造する。
では、なんのために考えるのか。なんのために疑うのか。
考えるために考えているところでとどまっていてはいけない。
(失礼ながら小谷野敦氏はこの段階から先へ行けない生まれつきのようだ)
考えるだけではいけない。疑うだけではいけない。
最終的に信じるために、考えよう疑おうとわたしは言いたいのである。
自分を信じよう。他人を信じよう。つまり、人間を信じよう。人間を信じたい。
このために考えてみないか、疑ってみないか、と申し上げている。
信じるために、生きるために、考えよう、疑ってみよう。

昨日「往生要集」を読了した。あまたの仏典からの引用がなされていた。
仏教にはひとりの人間が一生かかっても読みきれないほどの経典がある。
しかし、膨大な仏典など読まなくても仏教徒にはなれる。
文盲の民でさえ仏教徒になることは可能だ。
なぜなら、ある行ないを為せばいいだけだからである。信じればいい。
仏さまの存在を信じることができたら、あなたは立派な信者である。
けれども、人間はなかなか信じることができない。信仰を持つのは難しい。
このために恐ろしいほどの分量まで仏典がふくれあがったのであろう。
思考の極点は、狂気か信仰である。
(ふたつは同じものかもしれないが)願わくば、信仰を持ちたい。
小さなものも、大きなものも信じたい。
シナリオ・センター第8回提出課題。「ハンカチ」(7枚)。

<人物>
黒石昇(32)詩人
松本美紀(29)その恋人
白川正(26)警察官

○黒石兄妹の部屋
黒石昇(32)が携帯電話で話している。
黒石「だからミッキーあれはないよ。ふつう人のうちにパンツを忘れていくか。
妹に見つかったら地獄よ。
お兄ちゃん、私のいない間に女連れ込んだのって話で。
うん。いや、わかる。違う。愛してるって。好きだよミッキーが。
だからさ、もうつきあって半年。そろそろいいじゃん。
人んちの風呂まで入ってダメってどういうことよ。
うん。愛してる。ええ、今から? わかった」

○商店街
黒石昇が自転車で走る。

○公園
遊ぶ子供達。ベンチに黒石。膝にカバン。横に自転車。警官の白川正(26)が登場。
白川「ちょっと、いいですか」
黒石「ほうら来た。来ると思った。
これで3度目。今年に入って職務質問されたの3回目。
そんなに僕は怪しいのかね。フフフ」
白川「いえいえ。ええと、ご職業とか、その」
黒石「僕は黒石昇。詩人やってます。言葉の魔術師ね。
あ、わかってる。次は自転車でしょう。人を見たら泥棒と思え。悲しい職業だね。
ダメよそれ(自転車)。九州の友達からもらった。防犯登録なし。
製造番号も消えてるから照会できない。ヘヘ、フフ」
白川「カバンの中見せてもらっていいですか」
黒石「お巡りさん、名前は?」
白川「白川ですが」
黒石「ふうん。
白川さんはお巡りさんの制服を着ているから僕のカバンを開けることができるわけだ。
白川さんは本物の警官かな? いや、いいです。
そんなものはいくらでも偽造できる。あんたが警察官という証拠はない。
昔、芝居を少しかじった。警官の役をやったことがある。
セリフの少ないつまらない役だったよ。ハハハ」
白川「カバン、いいですか」
黒石「どうぞ、白川さん。開けてください。あ、いや、ちょっと」
白川「なにか」
黒石「ええと、そのあの、ああ、どうしよう」
白川がカバンを開けるとビニール袋が出てくる。黒石は慌てる。
白川は中身を取り出す。女物の白いパンツである。
白川「これはなんですか?」
黒石「ハンカチよ、それハンカチ」
白川「バカを言ってはいけませんよ。これは女性用の下着でしょう」
黒石「ヘヘ、盗んだと思っているわけだ。
僕のようなもてなさそうなおっさんがそれ(パンツ)を持っていたら犯罪者。
白川さんは想像力が貧しいね。
ところがそれはハンカチ。僕は詩人だからそれはハンカチ」
黒石は携帯電話を見る。
公園の入口から松本美紀(29)が登場。
黒石「ミッキー、これなんだい?」
黒石は美紀のパンツを振る。
美紀「バカ! やめろ、しまえ!」
黒石「なあに、これはハンカチじゃないか」
黒石はパンツで顔をぬぐう。
美紀「ハンカチ! うん、それハンカチ(だったらいいのに)」
黒石「どうですか白川さん。これで二対一。勝負あった。お、汗をかいておられる」
黒石はパンツを白川の顔に近づける。逃げる白川。笑う黒石。白川も苦笑い。


(補)前回はセンチメンタルが目標。今回はコメディを書きたかった。
うまくいっているかは賢明なる読み手のみなさまにゆだねます。
赤が入るとしたら「うん、それハンカチ(だったらいいのに)」のところか。
「映像になりません。心理描写です」なんて
添削の(60過ぎの)おばあさんに書かれるのか。
しかし、これは女優が「ハンカチ」をどう言ったらいいかわからないでしょう。
なぜパンツをハンカチと言ったのか。
だから、赤字が入ってもどうしても書きたかったのです。ご了承ください。
終わり。「ありふれた奇跡」終わり。
3ヶ月のあいだにひと組の若々しい夫婦が生まれた。
ひとつの浮気が終わった。元夫婦がよりを戻した。
電車に飛び込んで死のうとした孤独な中年男が「おれひとりじゃないよ」とピースをした。
男の名前は藤本誠。4年まえの火事で愛する妻子をいっときに喪(うしな)った。
だから、死のうとしたのである。
そのとき自殺をとめた男女――田崎翔太と中城加奈もかつて死のうとしたことがある。
死をそれぞれ引きずった3人の男女が偶然出逢い「ありふれた奇跡」が始まった。

藤本誠は知っていただろうか。田崎翔太と中城加奈は知っていただろうか。
きみたちは深く愛されていたことを。だれにか。
脚本家の山田太一にである。
一度でも小説やシナリオを書いたことがあるものならわかるだろうが、
創作者はおのれの生みだした生命をことのほか強く愛するものである。
藤本誠さん、田崎翔太くん、中城加奈さん、きみたちを愛するのはひとりではない。
わたしもあなたたちを愛した。我われみんながあなたたちを愛したのである。

米国最大の劇作家、ユージン・オニールはかつて言った。
近代劇は人間と人間の関係を描いているようだが、そんなものはどうでもいい。
自分の興味があるのは、ただひとつ。人間と神の関係である。
オニールに強い影響を与えたのはスウェーデンの作家、ストリンドベリ。
かれほど神に近づいた人間はいないだろう。
ストリンドベリは開けてはならない箱の中身をちからづくで見ようとしたのである。
結果として男は膨大な光に目をやられ暗黒の世界に落ち込んだ。
わかりやすく言えばストリンドベリは狂ったのである。
シェイクスピアほど神と仲良くなった人間はいないのではないか。
オニールやストリンドベリが立ち向かった神とシェイクスピアは仲良く腕を組んだのである。
どうしてそんなことができたのかはわからない。
だが、シェイクスピア劇に満ちる神々しい輝きはこのためとしか思えない。

山田太一の話に戻ろう。「ありふれた奇跡」の話をしよう。
ドラマのなかで藤本誠は苦しむ。
藤本ほどではないが田崎翔太も中城加奈も苦悩する。嗚咽する。
なにゆえかれらは泣かなければならなかったのか。だれに責任があるのか。
考えるまでもない。かれらをもっとも愛するもののせいで苦しまなければならないのだ。
ほかならぬ山田太一その人こそ藤本、翔太、加奈の3人を泣かせた張本人である。
しかし、3人はそんな事情は知らない。
かれらは自分たちがどうしてこうも苦しまなければならないのか理解できないのである。
山田太一の存在など思い浮かびもしないだろう。

我われは果たしてどうだろうか。
だれもが苦しいとき、悲しいとき、「どうしてわたしが」と苦悶するだろう。
そのときどうして自分が大きなものから愛されていることを知ろうとしないのか。
いや、知っているのである。知っているけれども知らない。
人間は全知であるにもかかわらず無知である。
だから、我われはドラマを見るのではないだろうか。
こうまでドラマを愛するのではないだろうか。
ドラマのなかの人間は絶望もしよう、屈辱で打ちのめされもしよう。
しかし、かれらは深く愛されているのである。愛ゆえに苦しまなければならないのである。
「ありふれた奇跡」でもっとも苦しんだのはだれか。藤本誠であろう。
わたしは脚本家がもっとも愛を注(そそ)いだのは主役の若い男女ではないと思っている。
山田太一がいちばん愛した生命は藤本誠ではないだろうか。
全11話にわたるドラマの最初と最後に登場したのはだれかを考えればわかることだ。

ドラマとはなんだろうか。
「ありふれた奇跡」はどこぞのスクールよりもよほどドラマの本質を教えてくれる。
我われは第8話でドラマが感情であることを学んだ。
第9話では人間による発見がドラマの構造と深く関わっていることを知った。
最終話で我われが認識するのは、ドラマの最根本であろう。
ドラマとは愛ではないか。
脚本家は自己他者をふくむ人間を深く愛することから新たな生命を誕生させる。
シナリオ作家が登場人物を愛さないでどうしてドラマが生まれようか。
作家は愛しているがゆえに辛い試練を人間に与えるのである。
観客がドラマを見る楽しみは、これまた愛とは言えないだろうか。
作品に登場する人間を愛することこそドラマを見る喜びではないか。
脚本家が愛から創造した人間を視聴者は愛するのである。
観客はドラマに酔っているあいだ、たとえ意識することなくとも、
もうひとつの大きな愛に包まれているのである。
造物主の愛である。すなわち、視聴者は、
ドラマのなかの人間が強い愛で見守られているのをきっと感知するはずだ。
同時に、我われもまたなにものかによって見守られていることを、
どうしてドラマから暗示されないと言えようか。
心弱きものよ、ドラマによって人間を愛すること知れ。
心貧しきものよ、ドラマによって人間が愛されていることを知れ。
我われの脚本家をなんと呼ぶのも自由である。神さまでも仏さまでも――。
かわいらしい妖精が我われのドラマを書いていると思ってもよい。

「ありふれた奇跡」最終話の話をしよう。
この日、最終回にしてようやく翔太と加奈はホテルに行こうとしている。
場所はショッピングモールの休憩所。ふたりの気持は固まった。
そこに若い女性が現われる。お腹が痛いと言う。赤ちゃんを預かってくれと言う。
生後まもない赤ん坊である。いきおいでふたりは預かってしまう。
子どもができないことで苦しんでいる加奈の両腕に、
かわいらしい赤子が舞い込んだのである。
母親はいつまで経っても戻ってこない。赤ちゃんは泣きだす。
翔太と加奈は赤子をあやすので大忙しである。
警察に届けるしかないと翔太が提案する。
母親はかならず戻ってくると加奈は言い張る。
翔太は藤本誠に連絡を取る。藤本は知己の警官、権藤を連れてやってくる。
もう日が暮れている。
捨てられた赤ちゃんを警察に引き渡しに行く4人のまえに母親が戻ってくる。
だれも若い母親を責めない。藤本と権藤が、困っているなら相談に乗ろうと言う。
どうしてこんなことが起こったのだろう。
子どもが大好きなのに子どもができないことに悩む加奈のもとにどうして赤子が――。
赤ん坊を藤本と権藤に任せたふたりはホテルに行く。
翔太がシャワーから出ると、疲れた加奈は眠っている。
翔太は恋人の身体に手をつけることなく(ベッドではなく)ソファーで眠る。
1日の開始を告げる荘厳な朝日がカーテンから差し込む。加奈は翔太を起こす。
このシーンはまるで「ロミオとジュリエット」第3幕第5場のように美しい。
ロミオとジュリエット、今生の別れのヒバリが鳴く場面である。
もちろん、脚本家がシェイクスピアを模倣したわけではない。偶然である。
いや、必然でもある。美々しいシーンというのは、どうしても似通ってしまうのだ。
平成日本のロミオとジュリエットの会話を聞いてみよう。
ふたりはホテルの一室から朝日を見ている。

加奈「一緒に見たくて起こした」
翔太「うん」
加奈「ゆうべ魔法にかけられたみたいに眠かった」
翔太「慣れないことをしたから」
加奈「なんだったんだろう」
翔太「うん?」
加奈「急に赤ちゃんが来て、急にまたいなくなった」
翔太「うん」
加奈「妖精の仕業(しわざ)?」
翔太「ううん」
加奈「どうして?」
翔太「妖精なんて、いないから」
加奈「よりによって私に赤ちゃんを預けるなんて」
翔太「うん」
加奈「だれかの仕業のように思えてしまう」
翔太「うん」
加奈「こっちはされるまま。無力」
翔太「そうかな?」
加奈「うん?」
翔太「すぐ警察へ届けなかった。本気であの坊やを大事にした」
加奈「うん」
翔太「無力じゃなかった」
加奈「うん」
翔太「朝日のせいかもしれないけど」
加奈「うん」
翔太「おれたち無力じゃなかった」
加奈「――うん(泣く)」
翔太「――(加奈の肩を抱き寄せる)」
翔太と加奈は朝日を背景に抱き合う。


どうしてこんなことが起こったのだろう。当事者以外の言葉に耳を傾けてみよう。
シーンはさかのぼって、赤子を抱えた加奈と翔太のもとに藤本と権藤が駆けつける。

藤本「こんばんは」
権藤「こんばんは」
加奈「こんばんは」
翔太「このままってわけには行かないだろう」
藤本「かれ(翔太)から電話もらってね。
警察(権藤)の見解を聞いたら、勤務明けだから一緒に行こうって言ってくれてね」
権藤「とんだ目に遭ったね」
加奈「いいえ」
藤本「(加奈は)ふつうより思いが深いからね」
権藤「ああ、そういう人に赤ちゃんを預けるとは、神さまも困ったもんだ」


権藤はなにかの宗教にでも入っているのだろうか。
後日、翔太と加奈が交番に挨拶に行ったときも、こんなことを言う。
どうして、あんなことが起こったのか。
あろうことか加奈に赤ちゃんが捨てられ、母親を信じて待っていたら戻ってくる――。

権藤「やっぱり、どっか、神さまかなんかのちからを、感じるね」
翔太「はい」
加奈「はい」


みなさんはあの事件の真相を知っておられる。
加奈は妖精の仕業かと疑う。警察官の権藤は神さまのちからではないかと言う。
いな、である。真犯人はご存じ、このドラマの脚本家、山田太一である。
山田太一がこの状況を仕組んだのである。
むろん、翔太も加奈も権藤も、
小憎らしいほど人生に通暁(つうぎょう)した絶対者の存在を知りえない。
絶対者と書いたが、果たしてほんとうに山田太一は絶対的なちからを有しているのか。
山田太一は唯一神のごとく万能なのだろうか。違うのである。
ここに人生とドラマの面白味があると脚本家は言いたいのかもしれない。
翔太と加奈の朝日をまえにした会話を思い返してください。
加奈は無力ともらす。人間は、されるまま。人間は、無力。
そうかな、と翔太は疑問を呈する。人間は無力じゃないのかもしれない。
たしかに唐突に赤子を渡されたが、そこから先はこちらの判断である。
この行動のおかげで赤子と母親の再会が容易になった。
あの母親は戻ってきて我が子がいなかったら永遠に子どもを捨てていたかもしれない。
これは妖精の仕業でも、神のちからでも、ない。人間のちから。人間は無力じゃない。

ハコ書きというシナリオ創作手法がある。
ハコ書きとは、はじめにドラマの最初から最後まで構成を決めてシナリオを書くこと。
山田太一はこのハコ書きをやらない稀有な脚本家として知られている。
スクールや作法書でやたらとすすめられるハコ書きを「ありふれた奇跡」の作者はやらない。
どういうことか。第1話の時点で翔太と加奈はこの先どうなるかだれもわかっていない。
神の座にいる山田太一でさえわからないのである。
これがハコ書きをする脚本家だったら、最初からすべてが決められている。
つまり、人間に自由はない。翔太と加奈に自由はない。無力。まったくの無力。
しかし、ドラマ「ありふれた奇跡」はそうではない。
翔太と加奈は生きることができる。
よく小説家や脚本家が言うでしょう。作中人物が勝手に動きだすと。
山田太一が「ありふれた奇跡」を書いているとき、翔太と加奈が自己主張したのである。
「私たちはあなた(山田太一)の言いなりにはならない。無力じゃない」と――。
山田太一ほどの創作の喜びを知る作家は少ないのではないか。
創作とはなにか。生きることである。
翔太と加奈が生きることだ。山田太一が生きることだ。人間が生きることだ。
翔太と加奈は、脚本家から試練を与えられ動かされるだけの存在ではない。
みずから動くこともできるのである。
ならば、我われ人間もおなじではなかろうか。
神さま仏さま、あるいは妖精の手のひらのうえで転がされるだけの存在ではない。
もとより自由なはずはないけれども、それでも無力じゃない。我われは無力じゃない。

「ありふれた奇跡」でいちばんよかったのは藤本誠が救われたことである。
あのときの子連れヤンママと、我らが藤本誠がいい仲になったようなのである。
もちろん、藤本は否定する。自分はヤンママの代理の父に過ぎないと。
けれども、我われ視聴者は藤本誠に扮する陣内孝則の軽薄ぶりをよく知っている。
口ではそうは言いながらも娘ほどに若い母親に手をつけたという疑いを禁じえない(笑)。
脚本家の山田太一は真相がどうなのか詳細な情報を提示しない。
そこがまたいいのである。よかった。「ありふれた奇跡」のラストはよかった。
藤本誠とヤンママ、赤ちゃんが3人で第1話に登場したベンチに座る。
藤本の命を救った田崎翔太がカメラを構える。
フレームの中の藤本がピースをしながら言う――「おれひとりじゃないよ」

「ありふれた奇跡」は学校であった。ドラマの創作技法をだいぶ学んだ。
いいシナリオを書くには、人間を愛することだと思う。
自分を愛そう。他者を愛そう。見知らぬ人間を愛そう。
愛するとは憎むことでもある。憎悪に転じる危険のない愛情は偽物だと思う。
ならば、自分を憎もう。他者を憎もう。見知らぬ人間を憎もう。
そうすれば、より深い愛をものにできるのではないか。
我われのなすべきことは、心中にためこんだ愛を用いて創作することである。
愛をもってシナリオや小説の世界で新しい生命を誕生させよう。
新しい生命を可能なかぎり愛するしかないのである。
すると、もしかしたら、この新しい命がみずから動き始めるかもしれない。
こうなったらこっちのものである。
以上が「ありふれた奇跡」の作者から教わった創作技法ということになる。

終わった。山田太一最後の連続ドラマが終わった。
もっと続けてほしかったという声をよく聞く。
わたしとしたら複雑である。もう限界に近づいているのだ。
毎回、感想を書くのがこれほど辛いとは思わなかった。パンク寸前である。
一銭も報酬を与えられないのによくやるもんだと我ながらあきれる。
いや、報酬ならいただいている。莫大な報酬を手にしているではないか。
「ありふれた奇跡」のおかげで掲示板「ドラマ・ファン」のみなさまと知り合えた。
そのご縁で、なんと山田太一先生ご本人と喫茶店で同席することができた。
いまでもあれは夢ではなかったかと思うくらいである。
ひと言も会話を交わせなかったが十分に満足している。
「ありふれた奇跡」最終話の感想を書いてしまったから今後寂しくなるのだろう。
なにより毎週木曜日の楽しみが失われたのが寂しい。それから、だ。
山田太一ドラマへの関心から「本の山」をご覧くださっているかたが多いと思う。
おそらく明日からアクセス数が大幅に減るのではないか。
責めているのではありません。感謝しています。
いままでお付き合いくださり、ありがとうございました。

しかし、「ありふれた奇跡」はほんとうに終わったのか。
まだ始まったばかりではないか。
翔太と加奈の夫婦はこれからもいろいろゴタゴタを起こしそうである。
あの頑固な翔太の祖父が、使用人の家族と穏便に同居できるわけがない。
ヤンママと交際している藤本誠がいちばん危ない。
あの男はぜったいにスナック「妙」のママも狙っているはずである(笑)。
そうなのである。「ありふれた奇跡」はまだ終わっていない。
それどころか新しく始まったものもある。我われの「ありふれた奇跡」だ。
世界は「ありふれた奇跡」に満ちているのかもしれない。
あなたはそう思いませんか。わたしはそう思う。
明日からわたしの「ありふれた奇跡」を生きようと思う。


スクールに通っていながら、いまだにシナリオを教わるということがよくわからない。
何年(何十年?)もシナリオを書いてないような先生が楽しそうにシナリオを教えている。
いっぽうで現役のシナリオ作家である山田太一氏は顔を曇らせる。
氏は大昔、40年近くもまえに初めてシナリオを教える機会があったという。
朝日カルチャー・スクールの初期である。
引き受けたものの誠実な氏は戸惑う。どう教えていいか、さっぱり見当がつかない。
原稿用紙の書き方くらいしか教えられそうに思えない。
長くなるが引用する。「いつもの雑踏いつもの場所で」(新潮文庫P115)より。

「引き受けて、最初に考えたのは、自分がもし教えられる立場だったら、
どういう講義をしてもらいたいか、ということであった。
それがいけなかったのかもしれない。どういう講義も受けたくないのであった。
シナリオについて誰かにこう書けなどといわれ、
その通りに書くなどということはうんざりだし、
またいわれた通りに書けるものではない、と思った。
だいたい誰かがある物語をあるシーンからはじめようとした時、
脇から私如きが、ああしろこうしろなどと、どうしていえるだろう?
それは私の世界に引き込むことであり、その人の存在を薄くさせ、
私の作品に似たものをつくらせることになってしまう。
無論ある程度は、私だって自分をはなれることができる。
その書き手の資質に合せて、それを生かす方向で忠告することができなくもない。
しかし「自分を抑えた」忠告は、多分ありきたりだろう。
自分に書けないことを相手に要求することになるだろう。
そして、なにより、そういう指導に従順な人間を私は好きになれないだろう。
つまるところ、なにをどう書いてもいいのだ。
でき上がりに魅力があればいい、人を打つものがあればいい。
そして、そういう世界を持っているかどうかは、
教室に来る前から決まっているのであって、
教えて独自な世界を持たせることはできない。
理想をいえば、本人も気づかなかった独自性をひき出して育てていくような教育も
あり得るだろうが、三ヵ月四十人という場所で、そんな成果はまずのぞめない。
つまりは一般論の世界にとどまるしかないのであって、
しかし一般論で二十六時間も、なにをしゃべることがあるだろう。
ドラマを書くというのは、いわば個別にこだわることであって――
と講義のはじまる前に、私は疲れ果ててしまったのであった」


わたしはどうしてあるスクールに通うことを決めたのだろう。
スクールの説明会では、代表さんがハッスルしていらした。
「うちのスクールに通ったらシナリオも小説も書けるようになります。
夢はまず第一歩踏み出すことから始まるのです。
迷っているあなた、夢の第一歩を踏み出すのはいましかないと思いませんか。
なにもしなかったら世界は変わりません。夢はこちらから向かってゆくもの。
夢をかなえた人たちはまず行動したのです。いましかない!
あきらめなければかならず夢はかないます」
こんな底の浅いセールストークをわたしはやりきれない思いで聞いていた。
人生への無知を無理やり装っているスクール代表に憐れみさえ感じたものである。
どうして入学を決めたかといえば周囲の反応である。
信頼できる人全員に相談してみたらひとり残らず「行きなさい」というお答え。
「なにかのキッカケになるかもしれないじゃない」
奇しくも引用した山田太一氏によるエッセイのタイトルは「キッカケの男」――。
氏のシナリオ講座は中年女性の集ういいキッカケになったというのである。
そのことを山田太一氏はある女性から手紙で感謝されたと文章を結んでいる。
むろん、わたしもスクールに通ったからといって脚本家になれるとは思っていない。
なにかのキッカケくらいは得たいが、実はそれさえ難しいことも知っている。
シナリオ・センター第7回提出課題。「一年後」(6枚)。

<人物>
磯塚素子(42)主婦
磯塚直樹(44)その夫で会社員
磯塚大輝(14)その息子
住職(60)
大輝にそっくりの少年(15)

○寺・庫裏
セミの声。磯塚大輝(14)の遺影。
畳の上で磯塚直樹(44)、磯塚素子(42)の夫婦と住職(60)が向き合う。
夫婦の脇に骨壷。素子の膝に大輝の遺影。
住職「いまのあんたらには何を言っても無駄でしょう。
これもおかしなご縁。私も息子を自殺で亡くしています。9年も前になる。
幸い私にはもう一人息子がいたが(と言葉に詰まる)さぞかしお辛いことでしょう。
ナムアミダブツがわかった。親から受け継いだもんで(と袈裟を示す)
息子に死なれて初めてナムアミダブツがわかった。お坊ちゃんの」
素子「大輝です。大きく輝くと書いて大輝」
住職「大輝君はいまごろ極楽浄土で遊んどる。笑顔で、必ずだ。
自殺は罪だなんていう宗教は間違い。
自殺するほど苦しんだものはあの世で楽ができる。
あんたらはこれから苦しいでしょうが、ナムアミダブツじゃなくていい。
ただ大輝君と呼んであげ、手を合わせ目をつむる。
きっと笑っている大輝君が見える。見えるんですよ、見える」

○大輝の遺影
居間の一角に遺影が置かれている。
その上に窓があり空が見える。
遺影の前に梨。窓外は曇天。
遺影の前にミカン。窓外は降雪。
遺影の前にイチゴ。窓外は快晴。

○歩行者天国
雑踏の衣服は薄着。素子が立ちどまる。大輝そっくりの少年である。
素子「大輝? 大輝でしょう」
少年は逃亡。名を呼びながら追う素子。

○磯塚家・居間(夜)
遺影の前にはスイカ。テーブルに素子と直樹。弁当を食べ終わっている。
素子「今日ね」
直樹「うん?」
素子「なんでもない」
直樹「スイカ買ったんだ」
素子「大輝が大好きで(と声を震わせる)」
直樹「だから、ずっと買わないのかと」
素子「食べよう」
素子は冷蔵庫からスイカを取り出す。
夫婦はスイカを味わう。
直樹「(きみが)塩をふる(と驚く)」
素子「あの子、どうしてスイカに塩なんて」
直樹「おれに似たんだ」
素子「甘い。スイカってこんなに甘かった?」
直樹「甘いね。こんなに甘いのは滅多にない」
素子は笑う。笑いが泣きに転ずる。直樹は素子の肩に手を置く。直樹も泣く。
素子「大輝――」
素子は合掌して黙祷する。

○天国
大輝が笑顔でスイカを食べている。


(補)一部セリフのなかに括弧でト書きを入れているから、
また添削者に赤字で注意されるんだろうな。
「ト書きはセリフの外に出してください」とか。
狂ったようにシナセンルールを強制する先生には参るよ……。
そんなに新井一は偉いのかねえ。新井一の代表作ってなによ(笑)?
困ったのが、これだと原稿用紙に書き続けなければならないこと。
後藤先生は、赤字が少ない人にしかパソコンでの課題提出をお許しにならない。
おれ、原稿用紙に字を書くのが大嫌い。
ううん、土下座をして頼んでみたらどうだろうか。
やれやれ、これから1時間かけて、このデータを原稿用紙に書き写します。
最初は住職ではなく坊主と書いていたけれど、
添削者に朱筆を入れられるのが嫌だから住職に直しておいた。
ほんとうは坊主と書きたい。坊主でいいじゃん。
「こんなじゃないよ」ときみはテレビドラマを見ながら言うかもしれない。
現実は、こんなものではない。ついていけない。白けてしまう。
かといって、きみの思う現実そのままのドラマを見せられてもきみは退屈するはずだ。
「つまらない」とチャンネルを変えてしまうだろう。
現実は味気ない、つまらない、なにも起こらない。
だから我われはドラマや小説といったフィクションを求めるのだが、
そこであまりにひっちゃかめっちゃかな偶然を乱発されると今度は怒りたくなる。
のみならず「このドラマは現実を描いていない」なんて、
さも現実をわかっているかのようなことを口走ってしまう。
本当に現実は味気ないのか、つまらないのか、なにも起こらないのか。
もしかしたらきみの目には入らないだけで、
現実にはいろいろなことが起こっているのかもしれない。
奇跡とも言うべき偶然が毎日のように発生しているのが現実でないとどうして断言できよう。
だれが現実を完全に把握していると言い切れようか。
たしかにきみの人生にはドラマのような偶然は起こっていないのだろう。
だから、なんだというのだ? だから、なにか証明できるとでも思っているのか?
だから、だから、だから? きみのいままでの人生は、
明日ドラマのような偶然が生じないことを確約するものではない。
昨日までのことなど忘れてしまえ。明日がーんと来るかもしれない。どーんとかもしれない。
それが来ないことをだれひとりとして明言することはできないのである。
むろん詭弁であるが、詭弁であることをどうにかしてごまかしたいと思っている。
そう思うことが生きるということだと思っている。おのれを偽らずに凡人は生きられない。

降参だ。白旗をあげるほかあるまい。
やはり現実は現実で逃れようもなく重くのしかかる。
「ありふれた奇跡」の田崎翔太と中城加奈が生きる現実もおなじである。
喫茶店「イフ」でふたりは向かい合っている。

加奈「ケルトの――。ケルトの話をして。ケルトの昔話」
翔太「ケルトの人たちは」
加奈「うん」
翔太「いままでだれも見たことのないものにあこがれた」
加奈「だれも見たことのないものってなんだろう」
翔太「現実ではないもの」
加奈「うん」
翔太「どこを見ても現実ばかりだと息が苦しいから」
加奈「いいね。そういうの」
翔太「いいかな」
加奈「よくない?」
翔太「弱さでしょう。そんなの」
加奈「そうかな。現実じゃないものを空想するって強さじゃないのかな」


このセリフのあとに山田太一は、女装した加奈の父親を登場させるのである。
娘のデートしているところに女装した親父が現われる確率は考えるまでもない。
「現実ではないもの」である。「だれも見たことのないもの」である。
こんな偶然は現実にはありえないという抗議への反論を脚本家は直前に提示している。
「現実ばかりだと息が苦しくなりませんか」と。
いや、これが現実ではないとだれが言い切れるものか。
加奈も翔太も、女装子の正体に気づいていないのである。
同様、加奈パパもおなじ空間に娘がいるとはまさか思ってもいないだろう。
もしかしたら、こういうことは考えられないか。
もしかしたら、もしかしたらだ、「イフ」の話だ、我われが知らないだけで、
世の中にはこんな偶然で満ちあふれているのかもしれない。
どうしてそう考えられないのだろうか。
あんな偶然は現実にはありえないと批判するだけじゃ、寂しくはないか。
もしかしたらと現実に「イフ」をつけることで、どれほど現実が豊かになることか。

4年まえに妻子を火事で亡くした50歳の藤本誠に唐突な救いが訪れる。
アルコール依存症の孤独な五十男にどんな救済があるというのか。
視聴者の身でありながら、藤本誠はどうにも救いようがないと難じていた。
なにが藤本を救ったか。カネである。それじゃあんまりだろうと言ってもカネである。
最初は日雇いで始めた不動産のセールスが大当たり。
続けざまに5件の契約を成立させたという。百万円の臨時ボーナスだ。
実際に藤本誠の口から聞いてみよう。
藤本は、(文字通り)命の恩人の翔太と加奈を高級料亭に招待している。

藤本「とにかくさ」
翔太「はい」
藤本「その部長は、ゲンナマでね、実は百万少し欠けるんだけどね、
ポンとね(と札束をテーブルに置く)」
翔太「はい」
加奈「ええ」
藤本「これからも頼むってもう一息で言いそうな感じで、握手なんか求めてきてね」
翔太「はい」
加奈「ええ」
藤本「とにかく10円、15円切り詰めてた身が、百万近いカネどーんと手にするとね。
ゲンキンなもんとはよく言ったね。嬉しかった。
死んだ女房も娘も忘れて、いっとき1千万でも手にしたような気分だった」
加奈「はい」
藤本「それからお二人にお礼を言いたかった。元はといえばお二人のおかげ」
翔太「そんな」
加奈「(翔太に和して)はい」
藤本「見栄を張っても昼の料亭弁当が限度ですが」
加奈「いいえ」
翔太「(加奈に和して)はい」
藤本「(正座をして)ありがとうございました」
翔太「おめでとうございます」
加奈「おめでとうございます」


おいおい、そんなに現実は……と喉まで出かかった。
そんな現実は甘くない。うまくいきやしない。都合よく偶然が続くものか。
しかし、しかし、しかし――。
ドラマ冒頭で中城加奈が作成していた人形はケルトの妖精。フォータブルピーポー。
妖精は人間の忘却を手伝うという。過去を忘れさせてくれるという。
そのうえ、そのうえである。
藤本誠はカネがないことで、翔太ジジにも加奈パパにも屈辱的なあつかいを受けた。
そのうえ、翔太ジジは結婚披露宴の来賓とかでスピーチの練習をしていた。
「おめでとう」と何度も口にしていた。
だから、いや、だからとは言わない。
だからとは言わないが、最後に「おめでとうございます」を聞きたくなりはしないか。
藤本誠に「ありがとうございます」と言わせたくないか。
あのとき自殺をとめてくれてありがとうと。
翔太と加奈に「おめでとうございます」と言わせたくないか。
なにより我われが藤本誠に「おめでとうございます」と言いたくはないか。
なら、こういったドラマがあってもいいのではないか。
こんな救済が傷心の人間に与えられてもいいのではないか。
現実にこういうことが起こらないとも限らない。現実を安っぽく見限るのはやめよう。

長らくわたしの自己イメージは藤本誠と等しかった。
愛する家族との死別を乗り越えられないでいた。
いいじゃないのと思った。こんなことがあればいいと思った。
ドラマのようなことが起こらないかと思った。
立派な仕事をして評価されたら、もしかしたら舞い上がるような気分になるのかもしれない。
いっとき死者のことなど忘れ去ってしまうような生の歓喜がないとどうして言えようか。
藤本誠のように「ありがとうございます」を言いたいとずっと思っていた。
わたしには感謝すべき人間が大勢いる。
いつか謝意を伝えられる日が果たして来るのだろうか。
「ありふれた奇跡」が現実に起こる日をテレビのまえでわたしは涙ながらに夢見た。
藤本誠の「ありがとうございます」はよかった。
翔太と加奈の「おめでとうございます」もよかった。
現実にこんなことがあればいいと思った。あるかもしれないと思った。
信じられるものがないという。いまはなにも信じられないのかもしれない。
わたしが信じているものを書きたい。

「テレビブロス」の携帯サイトに山田太一のロングインタビューが掲載されているのは、
だいぶまえから知っていた。見ていない。
携帯電話でネット接続しないからだ。できないからといったほうがいいのかもしれない。
どうしたら携帯電話でネット情報を見られるのかまだ若いのにわからない。
こういうときにあきらめるのは、山田太一ドラマから学んだ人生作法である。

たまさかの僥倖(ぎょうこう)があって、かのインタビューを本日読むことができた。
いちばん印象に残ったのは偶然だ。
「ありふれた奇跡」といえばエンヤの楽曲の影響が大である。
脚本家が第1話を書いていたときは、エンヤもなにもなかった。
しかし、山田太一は偶然にも第1話にアイルランドのエピソードを入れた。
直後に関係者からアイルランドの歌手エンヤの話があって、
脚本家はその偶然に驚いたという。

日本を代表するドラマ作家の山田太一は口を閉ざしているが、
かの脚本家はこの偶然を必然ととらえたことは疑いえない。
なにも信じられない世の中だが、これだけは信じてよいのではないか。
わたしが信じているものでもある。偶然。偶然だけは信じられる。
偶然出逢った人間ほど信じられるものはない。
わたしの生きかたである。あなたを信じるのはこのためである。
死なないで生きていこうと思うのは、
どんな偶然が起こるのか見てみたいからかもしれない。
シナリオ・センター第6回提出課題。「駅」(5枚)。

<人物>
大久保美香(22)美人東大生
上野勇治(36)会社員
吉岡実(50)会社員
ミニスカートの女性A、B、C
男性会社員A、B、C

○駅・階段
般若心経が流れるほかは無音。
女性3人が階段を登る。
ミニスカートの中が見たい。盗撮アダルトビデオのように。
大久保美香(22)が階段を登る。露出過剰な服。今度は見えるか。見えない。
一度たりとも下着を見せてはならない。

○同・ホーム
ホームの線路寄りで喫煙する美香。その後ろで煙を手で振り払う上野勇治(36)。
上野「やめないか。ここは禁煙だよ禁煙」
美香は挑発するように喫煙を続ける。
上野「聞こえているだろう。煙草やめなさい」
美香「Fair is foul, and foul is fair.
シェイクスピア。マクベス。なにがいいの? なにが悪いの? 
くだらないルールに縛られたつまらない人生! なんにもない」
上野は虚をつかれる。動揺。反撃。
上野「私は喘息なんだ。煙草はやめてくれ」
上野は美香の肩をつかむ。美香は煙草を線路内に投げ捨ててから叫ぶ。
美香「この人、痴漢です」
吉岡実(50)が現われる。美香の頬を張る。
吉岡「バカを言うな。私はすべて見ていたぞ」
美香「この人も痴漢。だれか来て。助けて」
周囲には男のみ。くたびれた会社員が3人。みな真相を知っている。
怒気を含ませて美香を囲む。美香は後ずさる。
駅の放送「まもなく1番線を電車が通過いたします。
危ないですから黄色い線までお下がりください」
美香は上野、吉岡を含む計5人の男に包囲されている。背後には線路が迫る。
駅に向かって疾走する電車。
5人の男は鬼の面をそれぞれかぶっている。
これ以上は後ろにも下がれずその場にへたれこむ美香。
媚態。あらわになった胸の谷間。だらしなく開かれた足の奥からは下着がのぞく。
美香のすぐ後ろを電車が通過する。まくれあがるスカート。
いまや5人の男は鬼ではない。鬼面は消えている。人生に敗れた男たち。
美香はそのままの姿勢で勝利の笑みを浮かべる。
美香「Frailty, thy name is woman!」

○般若の面
美香が着用。背景は無地。
T「弱き者よ、汝の名は女なり(ハムレット)」

(注)最後のTはタイトルの意味。文字を画面に映す。汝=なんじ=おまえ。
ドラマに登場する田崎翔太の真似をして親指を舐めてみたけれども、
いいアイディアは浮かばなかった。
中城加奈のようにブランデーのお湯割をのんでみたものの、
ディオニュソスもアポロンも味方してくれなかった。
明後日には第10話が放送されてしまうのである。このままではいけない。
感想を公開することをおのれに課している。
しかし、「ありふれた奇跡」については、もう語り尽くした感があるのだ。

ケルトの話をしようか。ケルトの神話だ。本を読んでみた。改めて思う。
神話にはすべてが描かれている。人間は誕生する。成長する。老衰する。死亡する。
そのあいだに恋をする。むろん、すべての恋がうまくいくわけではない。
ひとりの女を求めてふたりの男が争そうこともあろう。
人間は愛するためだけに生まれてくるのではない。人を憎むことだってある。
結果、殺しもしよう、殺されもしよう。
人間は親を敬い子をかわいがるものだが、親子が殺しあうこともないとは言えない。
友情はたしかに美しいのだろうけど、人間が絶対に親友を裏切らないという保証はない。
幸福な人間がいきなり不幸のどん底に突き落とされるもある。
不幸な人間が長らく逆境に耐え忍んでいたら幸運の舞い込むこともある。
人間は喜ばしいことがあったら笑い、悲しいいことがあったら泣く。
かと思えば、喜ばしいことがあったと泣き、悲しいことがあったと笑うものもいる。
いくら喜ぼうが悲しもうが笑おうが泣こうが、人間はなんぴとたりとも死を逃れえぬ。
人は死ぬ。人生はままならぬ。ところが、死を超越したものがいる。
人間を超える存在を我われは神と呼ぶ。
人生ままならぬ人間と神の関係を描いたのが、ケルトのみならず神話というものである。
田崎翔太はケルトの神話に引かれた。

やはり「ありふれた奇跡」の話をしよう。
いや、山田太一ドラマについては語り尽くしたのであった。
ならば、ドラマの話をしよう。山田太一を飛び越えてドラマ全般の話をしよう。
「ありふれた奇跡」第9話を何度も見返し気づいたのは、
ドラマとは発見ではないかということである。ドラマは発見ではないか。
登場人物がなにかを発見するのがドラマ。
関連して視聴者がなにかを発見するのがドラマ。
「ありふれた奇跡」第9話から発見のシーンを書き写してみよう。
翔太は複雑にこじれた加奈との関係を藤本誠に相談しに行く。
4年前に妻子をいっときに火事で亡くした藤本は翔太に「逢いに行ってこい」と言う。

藤本「子どもがどうだろうと、結婚しなかろうと、逢えばいいじゃないか」
翔太「彼女がそれでいいかどうか」
藤本「将来ばっかり見てどうすんだよ。子ども結婚、それがダメだったら逢わないのか。
いまはなんなんだよ。いまが大事だろう。
明日なんかないかもしれないんだ。今晩すべてが引っくりがえっちまうかもしれないんだ」


母に目のまえで飛び降り自殺をされたわたしは藤本誠のセリフにことさら共感する。
手垢(てあか)のついた表現をすれば「一寸先は闇」である。
人間は明日、いや今晩でさえなにが起こるのか予知することはできない。
それは起こってから知るほかないのである。
あなたの愛する人がいきなり死んでしまうかもしれない。
あなたが今晩生きているかでさえ実のところ定かではない。
いくら交通法規を遵守していようが、酔っぱらい運転に突っ込まれたらパアだ。
終わり。なにもかも終わり。どれだけ苦情を言ったところで無駄。
泣こうが喚(わめ)こうが、終わり。それっきり。あとはなし。終わり。
我われはだれもがこの事実を知っている。「一寸先は闇」と。
けれども、忘れたふりをしている。テレビや新聞のなかだけの事件と片付けている。
むろん、田崎翔太も我われとおなじである。
藤本誠から諭(さと)されて初めて発見する。知らなかったわけではないが発見する。
なにかを発見した人間は、その発見をもとに行動する。
翔太は加奈と逢おうと決意する。
このような発見と行動の絶え間ない連鎖をドラマというのであろう。

翔太と加奈は、とあるテーマパークの喫茶店に来ている。
窓のそとでは大道芸人たちがパフォーマンス。
それを見ているのはカップル、友人連れ、家族連れ。幼い子どもを連れた夫婦が多い。
みんな大道芸を見て笑っている。楽しそうである。
風船が配られているようだ。

加奈「ケルトの話をして。昔話」
翔太「ケルトには海の底とか地の底とかに大きな町があるという話がよくあって」
加奈「幸福な町ね」
翔太「そうじゃなくて」
加奈「そうじゃないの?」
翔太「寂しい人も悲しい人も、弱い人もずるい人も冷たい人もいる」
加奈「幸福な人は?」
翔太「いる、もちろん」
加奈「じゃあ、このへんとおなじじゃない」

幸福そうなカップル、友人同士、家族連れが点描される。

翔太「このへんは見えない」
加奈「なにが?」
翔太「寂しさや苦しさが」
加奈「そうね。休みにここらへ来る人だから」
翔太「みんな幸福?」
加奈「そんなことはないと思うけど」
翔太「その町では人の人生がよく見える」
加奈「どんなふうに?」
翔太「寂しい人は寂しい色、幸せな人は幸せな色、悲しい人は悲しい色」
加奈「それもきつい」
翔太「でも、そういう町なら自分だけ寂しいなんて思わないで済むだろう。
どうしてこの町では悲しい色、寂しい色が見えないのだろう。
自分だけ苦しい、自分だけ寂しいと思えてしまうのだろう」


青空の下、だれかがうっかり手を放したのだろう。
(幸福の)黄色い風船がひとつ天高く舞い上がる――。
もとより、これはケルトの話ではない。山田太一の創作である。
田崎翔太31歳が「ありふれた奇跡」をこれまで8回、生きてきたことで発見したことだ。
我われ視聴者も翔太の発見を共有する。
言うまでもなく、新奇な大発見ではない。
「苦しいのはきみだけじゃない」「寂しいのはきみだけじゃない」なのだから。
とはいえ、我われがしばしば忘れがちになることでもある。
ドラマは発見をうながす。
脚本家は登場人物になにごとかを発見させる。気づかせる。
そのことによって観客たる視聴者にもなにかしらの発見をしていただく。
場合によっては登場人物の発見はなく、観客のみの発見もあるだろう。とにかく発見だ。
これこそドラマの実体ではないだろうか。ドラマの楽しみではないだろうか。

ドラマは発見であると書いた。発見には小さいものと大きいものがある。
シナリオ作家のみならず人はだれもがドラマを生きている。
毎日、小さな発見があるでしょう。他人の意外な側面を発見することはないだろうか。
自分の思ってもみなかった一面を発見して驚いたことはありませんか。
脚本家も日々、小さな発見がある。
彼はその発見をなんとかドラマに生かそうとするだろう。
他方、大きな発見は「ない」のである。人間は生きていてもめったに大発見をしない。
ここで言う大きな発見とは、常識とも換言できること。
たとえば、神話に描かれていることである。
人間はそれを知らないのではない。忘れているだけのものである。
あるいは、目をそむけているのかもしれない。
人間が本来的に知っているけれど忘れやすいことを発見する手伝いをする。
これが真のドラマ作家の仕事ではないだろうか。

ドラマの本質はメッセージではない。
むろん、ドラマにメッセージ的要素はあるが、あくまでも二義的なもの。
シェイクスピアに、これといった個人的主張があったとは思えない。
ただシェイクスピアはドラマを愛した。
なにごとかを発見する人間をかの文豪は好んで描いた。
人はシェイクスピア劇を名言の宝庫という。
なんのことはない。文豪は人間に生きる知恵を発見させただけである。
なるほど「ハムレット」はタメになることわざであふれていよう。
だが、シェイクスピアはことわざを観客に伝えたかったわけではない。
劇作家はハムレットその人に人生の実相をあまた発見させたに過ぎぬ。
座付き作者は、結果として観客が多くの発見を我が物とすることを知っていた。
彼は人間が発見を喜びとすることを熟知していた。
この英国人は、過大な信頼を観客に置いていたのだろう。
もしや人間は生まれ落ちたときから全知なのではないか。
なにも学ばなくても人間はすべてを知っている。
知らないというのは忘れているだけなのだ。
芝居によって、人間は生きる知恵を思い出す。
見物の男女はこれを発見と感じるのかもしれない。
劇作家は観客を強く信じた。シェイクスピアの天才たるゆえんである。

たとえば、諸行無常というだれもが知っている思想がある。
万物は流転する。なにものも永遠に形をとどめはしない。冬もいつしか終わり春が来る。
諸行無常を知らないものはいないだろう。
ドラマ作家の仕事は、諸行無常を視聴者に伝えることではない。
作家はドラマ登場人物に諸行無常を発見させなければならないのである。
メッセージは古くもなろうが、人間の発見はいつでも新鮮である。
三流脚本家がちっぽけな脳味噌を酷使して珍奇な(大)発見を試みても無駄。
発見はないのである。はるかむかしに発見は完成している。
神話を読もう、聖書を読もう、仏典を読もう、である。
あなたは人間知がとうに究極まで至っているのを知ることだろう。
面倒でしょうが「新約聖書」をお読みになったらすぐにわかることである。
聖書に目新しいことはほとんど書かれていない。
我われが知ってはいるものの忘れていることが聖書の内容の大半ではないか。
人間はいろいろなことを知っている。
けれども、すぐに忘れてしまう。おおかたを忘れている。
人間がドラマを必要とするのはこのためかもしれない。

「ありふれた奇跡」からとんでもない地点へ話が飛躍してしまった。
もっぱらこのドラマの魅力によるところが大きい。
大げさなようだが、わたしは山田太一をシェイクスピアに比す天才だと評価している。
いや、日本のテレビドラマファンはシェイクスピア劇を見てもわけがわからないだろう。
仕方がないことだ。
両者の仕事に根源的な相違がないことを気づくのはやはりなかなか難しいと思う。
わたしは山田太一をバカにして英国古典劇を重んじるインテリの無知蒙昧を愚弄したい。
かりに山田太一がくだらないならおなじ程度にシェイクスピアもチンケなのである。
ドラマを見たところで腹がふくれるわけでもない。
しかし、シェイクスピア劇が有益なら同様に山田太一ドラマも価値がある。
この記事をお読みのみなさまはわたしの主張を理解してくださると信じている。
シナリオ・センター第5回提出課題。「イライラしている人」(4枚)。

<人物>
小森厚(30)もてない男
北野純子(19)売子

○繁華街
日曜日。スーツの上にハッピをはおった小森厚(30)がチラシを配っている。
小森「こんにちは。ヤマダカメラです。よろしくお願いします」
ティッシュなしのチラシ。だれも手に取ってくれない。
やっとのことで手渡してもその場に捨てられてしまう。
小森、笑顔。チラシを配る。
どうして世の中には幸福な人間がこうもいるのだろう。カップル、カップル、カップル。
死ね。幸福なやつらは死ね。
と思うくらい幸福を見せつけてください。小森は笑顔で大勢の人と出逢い別れる。

○駅(夜)
小森が改札から出てくる。ひとり。

○スーパー(夜)
弁当売場。定価と半額の生姜焼き弁当。
小森はあえて定価の弁当をカゴに入れる。
レジは5つ。やる気のないパートのおばさん4人。一番奥のレジに北野純子(19)。
純子はひとり初々しい。
純子「お待たせしました」
商品をレジに通す。
純子「550円がおひとつ」
小森は財布から百円玉を6枚出す。1枚落としてしまう。転がる百円玉。
純子「待てえ」
純子はレジを離れ百円玉の行く先へ。無防備にしゃがむ。
スカートの中が見えそうになる。見えてもよい。
小森「縁ないの。おカネ、縁ない。すぐ逃げてっちゃう」
純子「(百円玉)ありますよ」
小森「ないよ。ないない」
純子「ありました、ほらこれ」
小森「ほんとう。ありがとう。ありがとう」
小森、笑う。純子もつられて笑う。
4ヶ月ぶりに神保町へ行く。まえ来たのは10月のブックフェスティバルだった。
この本の町は我が故郷と言ってもよい。
引越するまえは週に2度はかならず行っていたのだから。
もはや悠長に古本など買っている場合ではないとこの数ヶ月思っていた。
ひさびさの神保町である。帰郷したという感傷につつまれる。
なじみの古書店を巡回する。小宮山書店が大幅にリニューアルしていたので驚く。
諸行無常である。

田村書店ワゴンは収穫なし。というか、もう本はいらないのである。
そろそろ読書をやめなければならない。本を買っている場合ではない。
週末恒例の小宮山書店ガレージセールへ。深い感動につつまれる。

「あゝ荒野」(ユージン・オニール/北村喜八訳/文藝春秋新社)絶版
「テネシー・ウィリアムズ最後のドラマ」(ブルース・スミス/鳴海四郎訳/白水社)絶版
「上出来の人生だが サマセット・モームの警句とお喋り」(森村稔編著/産能大学出版部)絶版


3冊でたったの500円である。ワンコイン。
驚いたのは、オニールの「あゝ荒野」。ずっと探していた古書である。
どうしてこの探求書が今日こうして安価で入手できたのか。
つい先日、オニールの「氷人来たる」を読んだばかりである。
意味深い偶然に打ちのめされる。
この神保町から歩いて15分の日本エディタースクールでは、
本日より土曜校正教室が開講されている。ここに通うのはほぼ決めていた。
土壇場でくつがえしたのである。カタギの人生に「あっかんべえ」をした。
すると、神保町で長らく探していた「あゝ荒野」を激安で買えてしまう。
人間を超える存在から祝福されたような感激をいだいた。
「ふたつにひとつ」でこちらを選択してよかったのだと大きなものから肯定された気がした。
この感覚はオカルトと紙一重だからあまり詳述したくはない。
ただわたしは深い感動を覚えたということだけ記しておく。

あれだけの本がわずか500円で買えたのだからと、よけいな買物をしてしまう。
山田太一シナリオ掲載の「月刊ドラマ」バックナンバーである。
もちろん矢口書店ではない。
ヴィンテージという古書店が「ドラマ」のバックナンバーを少数揃えている。
まえから知っていた。価格は定価の半額程度の400円。
ところが、ケチなわたしはこの雑誌が100円でしばしば入手できることを知っている。
ずっと購入するのをためらっていた理由である。
この日、一気に買ってしまう。400円×4冊で1600円。
どのみち、いまとなったら神保町への交通費だけで往復1000円近くかかる。
ならば、こんなところでケチケチしてもしょうがないのではないか。
そのうえ、いまを逃したら、もうダメかもしれない。いまもいま、ドラマの勉強をしたい。
なんとかドラマで、あるいは文筆で、収入を得たいのである。

「大丈夫です、友よ」「結婚まで」「奈良へ行くまで」「旅立つ人と」品切れ 1600円

ものは考えようである。雑誌を400円で買ったと考える必要はどこにもない。
今日は書籍雑誌をふくめて7冊購入した。合計金額が2100円。
こう考えればいいのである。得をしたバンザイと思っていられる。バンザイ!
今年こそ飛躍できないかと狙っている。まだあきらめていない。あきらめきれない。
一発、二発、三発と花火を打ち上げてやりたいと思っている。
願わくば、今日購入した本がよき火薬にならんことを!
第7話が田崎翔太の受難としたら、第8話は中城加奈の受難であろう。
このため前回がどちらかといえば男性の関心(同情)を刺激したのに対し、
今回は女性の気を引いたのではないかと思われる。
とある漫画原作者さんが第8話を「中だるみ」と批判していたが、これは鋭い。
たしかに今回は筋売り(ストーリー紹介)と説明(子のできぬ辛さ)が、
ドラマの大半を占める。わたしは第6話の感想としてわからないと書いた。
加奈の自殺したいと思った理由がわからない。
いまは結婚をしたくてもいろいろな事情でかなわぬ男性が多いと聞く。
わたしもそのひとりなのだが、我われもてない男にとっては第一が結婚(オンナ!)。
子どもは二の次になってしまうので、加奈の苦悩が理解しにくいのである。
わたしもたまにのぞくけれど、2ちゃんねるの「孤独な男性」板はすごいことになっている。
彼らは決して加奈の不幸を認めはしないだろう。

あの第6話への(一部の)憤懣に対する回答が第8話だといってもよい。
連続ドラマならではである。脚本家は加奈の苦悩をことさら強調する。
わざわざ加奈をモデルルームにおびき寄せ子ども部屋を見せる。
加奈に捨てられた子猫を抱かせ、新しい命のあたたかみを教える。
子どもができないことはいかに不幸であるか。
加奈の母親のもとに赤子連れの母親を集合させる。
翔太の祖父に、孫を渇望する(=石女の嫁を拒否する)凝りに凝った告白をさせる。
だからといって、脚本家によるわかりやすい仕掛け(作為)に嫌気がさすかといったら、
そんなことはない。なぜなら「ありふれた奇跡」もすでに8話目。
批評家ならぬひとりのファンたるわたしは、すっかり登場人物に感情移入してしまっている。
あたかも自分の周囲にいる人間のように思えてならないのだ。
加奈は困ったおねえちゃん。翔太は頼りないあんちゃん。藤本は厄介なおっさん。
完全に脚本家の手のひらに乗せられてしまっている。
今回のような加奈の受難を見せられたら、おいおい泣かぬわけにはいくまい。

感情移入と書いた。わたしが山田太一の連続ドラマをリアルタイムで見るのは、
「ありふれた奇跡」が最初で最後である。毎回、真剣にドラマ世界と向き合っている。
だからだろうか。ドラマについて悟ったような気がするのだ。
もちろん、錯覚なのかもしれないが、ドラマとは――。
ドラマは感情を描くものではないか。
当たり前のことを、仰々しく言うなとお叱りを受けるかもしれない。
なるほど、言葉にしてしまえばなんということはない。
ドラマは感情を描く。喜怒哀楽を描くのがドラマである。
「ありふれた奇跡」のおかげで、ドラマの実体が腹の底からわかったように思うのだ。
山田太一はこのドラマにことさらメッセージを込めてはいない。
脚本家は「自殺するな」とも「堕胎はよくない」とも言わない。
それは視聴者のみなさまが各自考えてくださればよろしいと思っているに相違ない。
ただ山田太一は人間の喜怒哀楽を描きたかった。
人間の細やかな感情を丁寧に描写したかった。
意味ありげなメッセージ(愛は大切、夢をあきらめるな、友情はすばらしい)よりも、
味のある風景で我われをもてなそうとした。

脚本家は「柱」「ト書き」「セリフ」「物語」でドラマを創作する。
すべては感情のためにである。
ある俳優に深い感情体験をさせるために物語を整え、
セリフをあてがうのが脚本家の仕事ではないか。
俳優は巧みに感情を味わわなければならぬ。
上手な演技とは、いかにうまく感情を味わって見せるかではないか。
役者はなんのために複雑な感情を我がものとし表出しなければならないのか。
観客たる視聴者がおなじ感情をわずかながらでも味わうためだ。
一般視聴者は役者とは異なり、感情を巧みに味わうことができない。
だから、視聴者の代表として俳優が演じる必要があるのだ。
脚本家は感情を描く。俳優は感情を味わい見せる。視聴者は喜怒哀楽を味わう。
ドラマとは、この感情の流れのことを言うのではないか。
8回にわたる「ありふれた奇跡」から教わったことである。

前回、第7話のあれはよかった。加奈パパの岸部一徳が翔太を恫喝するシーンである。
岸部一徳は恐ろしいほど巧みに感情をセリフに乗せていた。
鬱病経験者が視聴していたらおかしなトラウマがよみがえってしまうほどにだ。
そこにいきなり加奈ママの戸田恵子が口を開く。まったくの突然だ。
その場にいるものはセリフがなくても、他人のセリフを聞いている。ハッとさせられた。
加奈ママは言う。「あなたは。あなたはそうやって人を打ちのめして部長になったのね」
唐突に加奈の両親による本音の口論が始まってしまうのである。
何度このシーンを見返しても、ここで涙が込み上げてくる。
感情はいいよなと思う。むきだしの感情と感情がぶつかるのはもっといい。
これがドラマである。ドラマとはなんと凄まじきものかと拍手したくなる。

ところが、葛藤ばかりがドラマではない。
シナリオ・スクールなんかではバカのひとつ覚えのように、
ドラマは葛藤だと教えているらしい。
ドラマの味は葛藤にばかりあるのではないことを、
山田太一ほど熟知している脚本家はいないだろう。
たとえば第8話では、このなにげない母子のやりとりがよかった。
どうしたらこんな会話を思いつくのか天才シナリオ作家の頭の中を見てみたいくらいだ。
翔太の母親が息子に逢いに行く。精子の検査をしたことがあるか問うためである。
金欠の母親は、離婚した元旦那から借金しているため依頼を断われなかった。
並みの脚本家だったら問答を手早く済ませ、
ストーリーを展開させるのみで終わってしまうところ。
母親は息子に精子のことを聞きづらく言いよどんでいる。すると――。

翔太「なに?」
母親「バカなこと聞けるかよって言ったんだけど」
翔太「あ」
母親「うん?」
翔太「今日おれ5千円札持ってるよ」
母親「へええ」
翔太「5千円札集めてるって言ったろ」
母親「1万円札もだけどね、ハハハ」
翔太「はい(と手渡す)」
母親「ありがとう。助かるわ。お弁当買おう」
翔太「うまいよ(あそこ)けっこう」
母親「値段見てね、ハハ」
翔太「なに、ひと言って?」
母親「あんた精子調べたんだって?」


翔太とて母親が5千円札を収集しているのではないことを知っているのである。
けれども、母親の自尊心を重んじながら、なおかつ好意を示したい。援助したい。
なんとあたたかい心配りであろう。母親もありがたく息子から小遣いをせしめる。
実はこのとぼけた味わいを出せるのが、
ドラマ作家・山田太一の天才たる理由なのかもしれない。
葛藤は意識の計算で書けもしよう。だが、この人間味は意識からは出てこない。
無意識の発想によっていると言ったほうがよい。
意識的に「ハコ書き」(シナリオ創作技法のひとつ)をしていたら、
断じてこの会話は書けないのだから。
山田太一は「ハコ書き」をしない、めずらしいシナリオ作家として知られている。
この作家は無意識を武器にしているのである。余人かるがるしく真似できるものではない。