シナリオ・センター第4回提出課題。「迷っている人」(3枚)。

<人物>
榊原鉄男(49)推理作家
田沢凛子(25)その愛人で編集者

○高層マンション・全景(夜)

○居間(夜)
ガラスの砕け散る音。床に叩きつけられたグラス。ウイスキーが床に広がる。

○11階のベランダ(夜)
泥酔した短躯の榊原鉄男(49)が居間から出てくる。
手にウイスキーの瓶。異常な興奮。
追うように田沢凛子(25)。
榊原はベランダから飛び降りようとする。下界の往来。榊原をとめる凛子。
榊原「たわいもない。一歩、一歩踏み出せばいい」
凛子「バカなまねはやめて」
榊原は凛子を突き放す。
凛子「先生には奥さんもお子さんもいる。大勢のファンがいる。あたしがいる」
榊原「だから、だから、だから」
榊原は残忍な笑みを浮かべる。
榊原「脱げよ」
凛子「ここで?」
隣室から家族団らんの声が聞こえる。
衣服を脱ぐ凛子の背後に大都会の夜景。下着を脱いだ凛子を榊原は検分する。
美しい。その場に崩れ落ちる榊原。土下座をするような姿勢。
一転、勝ち誇る凛子。意地の悪い笑み。
凛子は榊原に近づき頭をコツンと蹴る。動けない榊原。再度蹴る。かつらがずれる。
「狐狸庵読書術」(遠藤周作/河出文庫)

→精神的バブル崩壊が生じたため3ヶ月近く読書と無縁の時期がつい最近あった。
本を読まなくても、なんら支障なく生きていられることに驚いたものである。
呼吸や飲食ほど読書は人間にとって重要ではない。
いい年をして、こんな当たり前のことを知るにいたった次第だ。
とはいえ、やはり読書ほどおもしろいことはそうないのではないか。
賭け事や逢い引き、呑んだくれるのは、たしかにそう悪くはない。いや、極楽至極、楽しい。
けれども読書は、これらの誘惑に一向に引けを取らぬ。
なぜなら真の読書家はすべてを活字に帰すからである。
実人生でなにかしらあったとする。
それらすべてを活字情報と比較して黙考するのが読書家というやつらだ。
あの毒虫たちは実感よりも活字を重んじるのだから罵倒したくもなる。
思えば、わたしは遠藤周作に導かれ、悪しき活字の奴隷になったのだった――。

「本屋でぼくの本を見た〔作家デビュー物語〕」(新刊ニュース編集部編/メディアパル)絶版

→最近、作家なんていうのは都市伝説のたぐいではないかと疑い始めているが、
それでもこの職業、いなステータスへのあこがれを捨て切れない。
むろん、表現者と職業が等号で結ばれぬことなどいやというほど知っている。
職業作家でなくても立派な表現をしておられる御仁は山のようにいる。
もしかしたらわたしもそのひとりではないかと思うが、
うっかりそんなことを書いたら(えへへ、書いちゃったよ!)怒鳴られるかもしれない。
本書には作家先生のデビュー物語があまた掲載されている。
いろんな作家先生がいるものだと思う。
若年であっけなく作家になったものがいれば、苦節10年という苦労人もおられる。
すべての物語を解明するキーワードは縁である。因縁の縁。因縁時節の縁。
仏教の説く因果の法則に思いを馳せる。
因があっても縁がなければ決して果としては実らぬ。
かといって、人間の自由になるのはせめて因くらいのものである。
果報は寝て待て。待てば海路の日よりあり。
待っているうちに死ぬのも悪くない。最近至った諦観である(もちろんウソだけどさ!)。

「活字狂想曲」(倉阪鬼一郎/時事通信社)絶版

→著者は11年間を校正者として勤め上げ念願の職業作家になったという。
とはいえ、怪奇小説が専門らしいから、わたしが本職での仕事を拝見することはないだろう。
もっぱら校正者という職業への興味から読んだ。
校正という仕事の実態はなかなかわからないものである。
感想は、なまじの芥川賞小説よりよほどおもしろい。笑いがとまらなかった。
もっとも勉強になったのは、校正という仕事がいかにつまらないか。
必要なのは、根気だけ(P56)。
いくら本を読んでいても、商業印刷物の校正にはまったく役に立たない(P63)。
吃音だから校正職を夢見たのだが、ふつうに会社員としての会話能力が必要とされる。
11年校正者として勤務した著者の最後の基本給が20万にとどかない(P248)。
ならず者のおいらは校正という仕事に最後の理想郷を見ていたが、
そんなものはどこにもなかったようである。

「むかし、世をすねてガードマンたらんとしたとき、研修で教官がこう言った。
『最初からガードマンになりたいって人はまずいませんね。
みんなどこかで人生をしくじってくる。まあ吹きだまりみたいなもんです』
実態は果たしてそのとおりだったが、
校正者というのも似たような事情があるらしい」(P45)


校正者に愚かなあこがれを持っていた自分が恥ずかしい。
本書「活字狂想曲」を読了後、目をキラキラさせて校正者を志すものはいないだろう。
警備員とおなじく、ほかにできることがなく、どうしようもなく就く生業と思われる。
校正の資格を取るスクールに行こうか迷っていたがやめることにした。
校正者は、やる気をもってなるものではなく、やむをえずなってしまうものなのであろう。
人生を決めるのは偶然である。この本は読もうと思っていたが絶版。
わざわざアマゾンで注文するのも面倒と忘れていた。
すると偶然、いちばん近いブックオフに105円で落ちているのだから。
著者の倉阪鬼一郎はわたしの直々の先輩。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒である。
この本からもおかしなプライドがちらほら散見されて笑えた。
もしこの先輩に人生相談をしたら、おそらく校正者なんてやめろと言われることだろう。
校正者になるほかない運命なら将来仕方なく甘んじようと思う。

「ノンフィクションを書く!」(藤吉雅春/ビレッジセンター)絶版

→ノンフィクション作家へのインタビューを集めたもの。
登場するのは井田真木子、中村智志、吉田司、加賀孝英、小林 紀晴、
永沢光雄、野村進、江口まゆみ、金子達仁、高山文彦のみなさん。

「ここまで来たら校正なんかやめて、なにがなんでも作家になっちゃえよ」
なんて先日池袋の居酒屋で3年ごしの親友からけしかけられる。
本書を読むと、ノンフィクション作家の敷居が低いことに驚く。
要はフリーライターとかなんとか適当な肩書のついた名刺を作るだけの世界なんだな。
で、出版社に企画書を出す。取材費をくれというわけである。
ここで断わられても、ぜーんぜん平気。
自腹で取材してしまえばいいのだから。どうにか原稿に仕上げたらこっちのもの。
いろんな出版社に原稿を持ち込んでなんとか出版に持ち込めばいい。
けれども、運よく出版されたからといってノンフィクションは売れない。
取材費をペイできるかさえおぼつかないのが実態。
とはいえ、この時点で作家を自称することが可能になる(笑)。

わたしも「AV女優」の永沢光雄とおなじでノンフィクションなんかないと思っている。
ブログにノンフィクションめいたものを書いているが、
こちらの意識としてはぜんぶフィクションだから。
沢木耕太郎の「深夜特急」なんて、むしろ小説よりも嘘くさく感じる。
結論としては、なんでもいいからおもしろいものを書けばいいのではないか。
ジャンルわけはなんでもいい。
世間に強く訴えるもの、イコール興味を持ってもらえるものを書いたものが勝ち。
難しいことはなにもなかった。
しかし、取材中のノンフィクション作家は笑えるよな。
「ご職業は?」
「ええと、そのう、ノンフィクションを書いていまして」
ノンフィクション作家が嘘をついてどうする? 無職と正直に言え(笑)!

ノンフィクション(仮称)を書くにあたって重要なのは偶然だと思う。
いかにして偶然を味方につけるか。
だって、偶然たまさか取材対象、取材テーマに遇わなければ書けないわけでしょう。
わたしが書かない(書けない)のは幸運な偶然に巡りあっていないため。
こんな言い逃れをしてしまいたくなる。
人間は偶然を支配することはできない。これは宗教の領域だから。
そうそう、先に登場した友人から、某宗教団体に潜入取材をしてみたら、
と冗談半分に言われたことを、たったいま思い出した。
せっかくのご提案ですが、必然を感じないので、ちょっと……。

偶然を必然に感じたときに人は動く。

「鷹の井戸」 (イェイツ/高橋康也訳/「現代世界演劇2」白水社)絶版

→アイルランド詩人のイェイツが日本の「能」を見たそうだ。
で、いたくインスパイアされて完成したのがこの劇作らしい。
まあ、どこの国にも意味不明なものを愛好するスノッブがいるんだな。
あちきは、この作品を理解できますから、上品でございやしょう!
「死ね、バカ!」(小谷野敦)

「海へ騎りゆく人びと」(シング/小田島雄志訳/「現代世界演劇2」白水社)絶版

→戯曲。アイルランド産。一幕劇。
息子ふたりを海で亡くした老母が、おいおい泣いてらあ。
劇はいろんな定義が可能だが、そのひとつは「人間はままならぬ」。
ままならぬ人間を見るのが芝居である。

役者は舞台を飛び降りるわけにゃいかない。
決められたセリフを言わなきゃならない。
おなじように老母も苦しまなければならないってこった。
けれども、子と死別した母に自由がないわけではない。
人間(役者)は老母の悲痛なセリフをこれでもかと情感を込めて発声することができる。
悲しみを身振り手振りで表現することも可能。
そこにしか人間(役者)の喜びはないのかもしれない。
果たしてこの喜悦は小さすぎるのか。もしや偉大な生きがいをも与えてはくれないか。

このように演劇論と人生論を同列に論じたのは福田恆存である。
話は飛ぶが、山田太一の以下の発言も福田恆存の演劇論に相通じるのは興味深い。
もとより、山田は青年期に福田の本を愛読していた。

「セリフは宿命で、その不自由さの中でこそ、
俳優は自由を手にするものだと思っています」(「ドラマ」2009年3月号)


「研究社 英米文学評伝叢書 オニール」(清野鴨一郎)絶版

→昭和10年発行の小冊子。文学研究というのは、いったいなんなのか。
わたしは実作者を目指しているから研究者とは姿勢が異なる。
本書で英米文学者の清野鴨一郎氏がなさっているのはオニールの簡単な評伝。
学者は米国で出版された大本の評伝に言及している。
したがって本書で清野氏がした仕事は、英文を適宜和訳したくらいだろう。
それから代表作のあらすじが掲載されている。
これも学者でなければできぬ仕事とは思われない。
あらすじの最後に学者の感想めいたものが付記されているが大したものではない。
研究者がオニールからなにも得なかったことがわかるくらいである。

ならば実作者志願のわたしはなにをオニールから学んだというのか。
ひと言でいえばドラマの熱狂であろう。
ドラマはこうまで熱く燃え上がることがあるのだぞ。
芸術家は酒を呑みながら(一見は)人間と神を愚弄することによって、
凄まじき劇作を生み出す。
テレビで流れているのとは天と地ほども差があるドラマが世界には存在する。
オニール作「夜への長い旅路」を超えるドラマをわたしは見たことがない。

本書から敬愛するユージン・オニールの言葉を引く。

「芸術品は常に幸福である。他の凡ては不幸である。
私は人生が美しいから之を愛するのではない。美しいといふのは紙一重である。
私はそれよりももつと真実に愛するものだ。
私は裸の人生を愛する。醜の中にさへ美はある」(P109)
「氷人来たる」(ユージン・オニール/石田 英二・井上宗次訳/新潮社)絶版

→スウェーデンの作家ストリンドベリを天才と崇めたのがユージン・オニールである。
たしかに両者の暗い作風は似通っている。
利己的な人間全般への極度の絶望、がための悲観的な世界観。
物事全般に対する厭世的かつ嘲弄的な姿勢。なにゆえか。
神を希求する強さが、そのまま人間を直視する鋭さに変転してしまうからである。
世界には見てはならないものが山ほどある。神のみぞ知る領域がある。
ほんとうの現実、ほんとうの人間を見てしまった人間は狂うしかない。
かくしてストリンドベリは発狂した。
おそらくオニールもストリンドベリの目にしたものを見たのであろう。
だが、米国人は直後に酒をあおった。
オニールが狂わずに済んだのは、ひとえに酒の恩恵をこうむっている。
暗澹(あんたん)たるオニールの芝居に、
それでもストリンドベリ劇に見られぬ甘さがあるのは、酒精の影響が大きい。
どちらが偉大かと問われたらストリンドベリなのだろう。
しかし、ストリンドベリは人を寄せつけぬ狂気を帯びている。
オニールの甘さは心地よい。むろん、万民に支持されるには苦味が強すぎるけれども。

「氷人来たる」はノーベル賞作家ユージン・オニール晩年の大作。
あまたの劇作に触れてきたが、酒をテーマにしたものでは最高峰に位置する。
酒と人間のかかわりを、ここまでうまく描き出した作品をわたしは知らない。
同著者の「夜への長い旅路」をも凌駕する酒への深い洞察が散りばめられている。

「絶望酒場」「どん底バー」とも評せられる安酒場が舞台である。
14人のダメ人間が開幕から閉幕までここで酒を呑みつづける。
酒の効能はひとつしかない。現実逃避である。
酒のおかげで人間は今日から逃げることが可能になる。
酒のちからを借りたら、昔日の輝かしき思い出にひたることができる。
酒で朦朧(もうろう)としたら、今日やらなければならないことを明日に延期できる。
どうして安酒場の飲兵衛たちは酒を呑むのか。今日という現実がいやだからである。
もはや今日を生きられない、終わってしまった人間たちだからである。

酒に逃げる理由はさまざまである。
法科大学を卒業した呑んだくれがいる。この男が30代後半でいちばん若い。
いつも明日になったら弁護士になってみせると言いながら酒をあおっている。
戦争中の思い出話を始終、話しつづける老人たちがいる。
彼らも明日になったらあれをやろうこれをやろうとホラを吹くが、
言うまでもなくその明日は来たためしがない。
賄賂(わいろ)でクビになった元警察官も酒を呑んでは復職すると管を巻いている。
おれがその気になったら勤め口はいくらでもあると壮語する酒精中毒者は決して働かない。
この一群のなかでただひとり状況を冷静に分析しているのが元革命家のラリー。
哲学者を気取りながらラリーは周囲をこう分析する。

「奴らあ何とかして酔つぱらつては、たわいもない夢を見続けてるんだ。
そして奴らの人生の望みといつたら、唯それだけなんだから。
これ以上満足してる人間を、俺は知らんよ。
人間が本当に心の望みを達するなんてこたあ、あまりないことだからね」(P32)


ラリーは作者オニールの分身であろう。
米国最大の劇作家もおなじような発言をしている。

「人生は戦いである。つねにとは言えないにしても、
しばしばそれは負けいくさの戦いなのだ。
なぜなら、われわれはたいてい夢や欲望の成就を妨げる要素を
自分の内部に持っているからだ」(「20世紀英米文学案内14」P25)


人間は欲望を持つ。夢を見る。けれども、ほとんどの欲望、夢は実現しない。
このとき、どうするかである。現実を直視しよう、なんて言うのはどいつだ?
夢がかなわない現実を、欲望が満たされない現実を、きみは認められるのかい?
ほんとうにこの現実を凝視したら人間は狂うか、死ぬしかないのである。
おおかたの人間は現実をごまかすであろう。酒はその作業を手助けしてくれる。

14人のアル中はある人物を待っているの。ヒッキーと呼ばれるセールスマンだ。
この男は年に1回、酒場のオーナーの誕生日にやってきては大盤振る舞いをする。
酒場の常連はこれでもかとただ酒にありつくことができるのだ。
さて待ち人ヒッキーが現われたのはいいが、いままでと調子が異なる。
これまではみなと杯(さかずき)を交わしバカ騒ぎに乗じてくれたヒッキーの様子がおかしい。
いっさい酒を口にしないのである。
酒を必要としない平安を自分は手に入れたとヒッキーは誇る。
そのうえ、この酒場の常連も自分のようにかならずなれると熱弁するのだから。
覚醒者ヒッキーは呑み助どもを指導する。
「明日やる」とみなが言っていたことをけしかけて実行させてしまうのである。
司法くずれの青年にはカネを貸してやり弁護士になってみろとあおる。
元警察官さん、どうぞ復職してごらんなさい。
オーナーさん、あなたは政治家になるのでしたよね。
みなさんも勤め口の心当たりはあるんでしょうから、どうぞ働いてみてください。
ラリーをのぞいた飲兵衛連中は一様に強がって朝、酒場をあとにする。
ふだんなら朝から酒を呑んでいる連中がである。

さあ、晩である。どうなっているか。ひとり残らず安酒場に戻ってきているのである。
だれひとりとして有言実行がかなわなかった。みなくたびれて酒を呑んでいる。
ところが、いくら呑んでも酒に酔えない。
酔って管を巻くにも、すでに彼らは今日現実を知ってしまったからである。
このためもう明日の夢を見られない、すなわち酒に酔うこともできぬ。
みなの夢をつぶすことに成功したヒッキーは異常なほど興奮してある告白をする。
ここで少し立ちどまりオニールの巧みな作劇術に目を向けよう。
だれかが来るのを待っている。これは劇作の典型ともいいうる形式である。
登場人物紹介ののちに待ち人が現われる。
この待ち人が集団に波風を立てる。待ち人は湖面に投げ込まれた石に等しい。
最後にこの新参者が隠していた個人的な事情を告白して場がおさまる。
みなさまはこの「氷人来たる」とおなじ形式の劇作(ドラマ)を、
そうとは知らずに幾度も楽しんできたはずである。
オニールの天才は、芝居の定式から決して逸脱しようとしない。
芝居は小説よりもはるかに不自由であることを劇作家は熟知していたのである。

ヒッキーの告白はこうだ。
むかしから不良だった。いまの妻に救われたといってよい。
妻は本心から自分を愛してくれる。むろん、自分も妻を愛している。
ところが、ヒッキーは各地を飛び回るセールスマン。
旅先でついつい女と遊んでしまう。性病をもらって妻にばれたこともあった。
妻はそのたびに自分を許してくれた。今度こそはと夫に期待をかける。
しかし、ヒッキーは裏切ってしまう。自己嫌悪で酒におぼれることもしばしば。
翌朝には妻に謝罪する。妻は許してくれる。期待をかけられる。
今度こそは夫も不品行を改めるのではないかという夢想である。
ヒッキーは、妻を裏切るのが辛くなった。
妻を愛していることには変わりないが、酒と女をどうすることもできない。
自分が自殺したら妻は悲しむだろう。
ならば――、ヒッキーは拳銃で寝ている妻の頭を打ち抜く。
これでもう愛する妻はかなわぬ夢を見て苦しむことがなくなる。
ヒッキーは愛のために妻を殺害したのである。
このとき妻の夢と同時にヒッキーの夢も消えた。このためもう酒を欲しなくなったのだ。

セールスマンは事前に警察へ自首の電話をしている。
酒場にやってき警官にヒッキーは連行されて行く。
酒場の呑み助どもは、ヒッキーを気が狂っていたことにしてしまう。
みなで乾杯する。今度は酔いがまわるぞと喝采をあげるあわれな酔っぱらい。
酔ったらめいめいに好き勝手な夢を語り出す。明日こそは――。
ひとり乾杯しなかったものがいる。ラリーである。
ラリーはただひとりヒッキーの愛と、それゆえの苦しみを理解したのである。
直後にひとりの青年が自殺をして舞台は幕を閉じる。

我われもオニールのように日々酒盃を干そうではないか。
さもないとヒッキーのように、ストリンドベリのように気が狂ってしまう。
ユージン・オニールは主張する。

人間よ、目覚めてはいけない。
酔え、酔って踊れ。
酔って夢を見て、目覚めるまえに死ね。
酔うのはよろしい、夢見るのもよろしい、眠るのもよろしい、ただし目覚めるなかれ!


「皇帝ジョーンズ」(ユージーン・オニール/沼沢洽治・村田元史共訳/「現代世界演劇2」白水社)絶版

→オニールは米国最大の劇作家。アメリカ演劇の父。
ウィリアムズもミラーもオニールの先駆性のまえには影が薄くなろう。
本作品は1920年上演の実験作。
上演当時は絶賛されたそうだが、映像に慣れた現代人から見たら斬新なところはない。
通常、舞台上で行われる芝居では、回想シーンがやれないわけだ。
しかし、オニールは「皇帝ジョーンズ」において、ものの見事に回想を処理している。
当時の観客が感嘆したのもむべなるかなである。

舞台は西インド諸島のある小島。まだ白人に荒らされていない。土人が住んでいる。
アメリカの刑務所を脱獄してきた黒人のジョーンズがここで皇帝になる。
土人を支配下に置いたわけである。ところが、ある日、土人の反乱に遭遇する。
この段階で幕が開かれるのである。ジョーンズは土人に命を狙われていることを知る。
逃げなければならない。港には深い森を通り抜けなければ行けない。
ジョーンズの単独逃避行が芝居のメインだ。森に着くころには夜になっている。

夜の森で、ジョーンズは、過去の事件をふたたび目撃する。
男はこれまでの人生であまたの「ふたつにひとつ」の選択をした結果、
この小島の皇帝になった。
暗い森でジョーンズは、おのれの人生の重要事件を再体験する。
もちろんリアルではない。ジョーンズの心中風景と見るべきだろう。
もし映像作品だったら、こんなものは回想シーンをつなげればいいだけ。
目新しくもなんともない。だが、当時の観客には、
このような過去への遡及(そきゅう)が新鮮だったのかもしれない。

閉幕直前、ジョーンズは土人に殺害される。
人間は死ぬ直前に走馬灯のように過去を思い出すと言うから、
それを舞台化したと説明したらわかりやすいのだろうが、
反面あまりにも味気なくなってしまう恐れがある。
「皇帝ジョーンズ」でオニールは音響効果に工夫を見せている。
芝居のあいだ終始、土人のたたく太鼓の音を響かせているのである。
最初は人間の通常の(1分間)脈拍数72。だんだんとリズムを早めていく。
ジョーンズの死の直前、太鼓は最高の高まりを見せることだろう。
追われるものの恐怖を観客にも味わってもらうための劇作家の工夫である。

(追記)これから筆者がシナリオを書いていく際、音響効果にも目を配ろうと勉強になった。

「天台小止観――坐禅の作法」(関口真大訳註/岩波文庫)

→まあ浮世に出て行くまえにシナ仏典のひとつでも手土産に持参しようかとね。
まともに働いていたら、ぜったいこんな本は読まない、読めない。
といっても、内容はハウツー本だから、基本リーマンの読書と変わらない。
いまの日本の労働者諸君はどうしたら成功できるかを考えているようだが、
むかしの中国にはどうしたらよい坊さんになれるか悩んでいた人がいたんだ。
社長になりたいと思うのと高僧になりたいと思うのでは相違があるのか。
おなじとも言えなくもないのだよ。
要はいまのままの自分では満足できないということなのだから。
人間はどうしてか向上したいと思うらしい。そのうえでマニュアルを求める。
ふしぎなもんだ~ね。

本書は中国の偉い坊さん、天台大師智(ちぎ)が記した座禅マニュアル。
欲望をなくそう。欲望を起こすのは心だから心を御そう。
ぶっちゃけ、みんな空寂(くうじゃく)なのよ。欲望なんて持ったって空寂、空寂。
心をきちんと引き締めような。この世はみな空。この世はみな仮。
喉が乾いたときのビールだって空、きれいなおねえちゃんのオッパイだって仮。
世事みなみな空空寂寂よ! 
で、これさえわかればあんたも偉い坊さんになれるわけだ。
そうしたら酒池肉林よあんた。
きれいどころ集めてひん剥いて、酒のんでどんちゃん騒ぎだって、できらあ。
まずは欲望をなくすことから始めよう、な、な、な♪

第6話の感想として、わからないと書いた。
中城加奈の自殺をしようと思った理由がわからない。
たがだか不妊くらいで悲劇のヒロインぶるなよと書いた。
加奈は田崎翔太が自分の気持をわかっていないと言う。翔太はわかったつもりである。
第7話から引く。

加奈「舞い上がってる翔太さんが醒めたときが怖いの」
翔太「子どもについては醒めてるつもりだよ。
子どもがいらない夫婦なんていくらでもいるし」
加奈「いくらいたって関係ないの。私じゃないもの。
私はいらないなんて思ってない。
自分のせいで産めなくなったことに傷ついてるし、かえって子どもが頭から離れない」


ともすれば我われは善意から傷心の友を励まそうとする。
悲しんでいるのはあなただけではない。大勢の人が苦しんでいるのだ。
家族と死別した人間はあなただけではない。
失恋を経験したのはあなただけではない。
くよくよするのはやめよう。前向きになろう。できることからやっていこう。
こういった他者からの励ましに逆らえる正しい論理を人間は持ちようがない。
しかし、正しい助言は人間を苦しめるだけに終わることが多い。
加奈の言うよう「人間の気持はそんな簡単じゃないの」。
なぜなら自分とおなじ境遇のものが「いくらいたって関係ないの。私じゃないもの」。

しかし、こう言われてしまったら翔太はもうどうしようもない。なにも言いようがない。
いな、山田太一は翔太に言わせている。メールを送らせている。
ひと言「バカヤロウ」と。
この哀切極まる「バカヤロウ」を加瀬亮演ずる翔太がどれほどうまく発声していたか。
まさに真情があふれていた。何度聞いても胸の詰まる思いがする。
人間の限界にぶち当たったものが、どうしようもなくもらす「バカヤロウ」であった。
山田太一は役者による台本の改変を固く禁じている。
月刊誌「ドラマ」の最新号で脚本家がこんな演劇論を述べているのは注目に値する。

「セリフは宿命で、その不自由さの中でこそ、
俳優は自由を手にするものだと思っています」(「ドラマ」2009年3月号)


翔太の「バカヤロウ」を言うことで加瀬亮はいかほどの自由を味わったことか。
俳優の喜びを満喫したことか。
感情をセリフに乗せる喜悦を思うと役者に嫉妬せざるをえない。
いち視聴者として思うのは――。
うまく感情の盛られた名ゼリフというのは、どうしてああも耳に心地よいのだろう。

わたしは加奈の自殺しようとした理由がいまだわからない。
翔太も加奈が結婚に応じてくれない理由がわからない。
子どもが産めなくたっていいではないか。わからないよ、加奈さん。
わからないのは、大切なことである。
なぜなら山田太一もわからないから「ありふれた奇跡」を書いたふしがうかがえる。
番組公式HPに脚本家のこんな述懐が掲載されている。

「正直、僕は年間(自殺者)3万人という数字がわからない。
僕は戦時中や戦後の飢餓を経験していて、薬や食べる物に困り、
死にたくなくても死んでいった人をたくさん見てきた。
あの頃に比べると、今はまさに奇跡のような時代で、
そういう中で生きているにもかかわらずどうして自ら命を絶ってしまうんだろうと」


嫌味な言いかたになるが老年の成功者は自殺者の気持がわからないのである。
わからないから、わかろうとする。その過程でドラマが生まれる。
「ありふれた奇跡」も残り4話。まとめめいたものを書くとこうなるのではないか。
「わかる/わからない」「おかしい/おかしくない」の二項対立がドラマのかなめであると。
人間は孤独である。孤独は苦しい。だれかにわかってもらいたい。
おなじように相手のことを理解したいと思う。
しかし、わからない。わからないというのは、つまりおかしいということになる。
おかしいのは果たして相手か、それとも自分なのか。
おかしな人間は社会で生きていることを許されぬ。
おかしくなってはいけない。では、なにがおかしいのか。
他人からわかってもらえない人間は、おかしい人と後ろ指をさされてしまう。
わかる? わからないよ。おかしい? おかしくないよ。
わからない? わかるよ。おかしくない? おかしいよ。
「ありふれた奇跡」の登場人物は第7話まで延々とこの種の問答をしている。
ドラマに判定者たる精神科医が現われないことにも留意したい。

母親「あの人(=翔太)変だもの」
加奈「変じゃない人なんている? この世にいる?」
母親「理屈を言わないで」
いまNHKスペシャルの鬱病特集を視聴している。
テレビでこのクリニック(医師、治療法)で鬱が治ったという事例が紹介される。
きっと明日には患者が集中するのだろうと人間をあざ笑いたくなる。
人間よ、名医など存在せぬことを知れ。
患者全員を快復させる医者などひとりとしていないことにどうして気づかないのだろうか。
たくさんの患者が称揚していようがそれはあなたではない。
評判の悪い治療者が、たまさか難治の患者を再生させることがないとどうして断言できよう。
名医がひとりも患者を殺さなかったとでもあなたは主張したいのか。
さらに、そのひとりがどうしてあなたではないと言い切れるのか。

著名な医師だってミスをする。この医師もむかしは未熟だった。
青二才の医者が奇跡的な医術を見せることがある。
このときの患者がどうしてあなたではないと決めつけてかかるのでしょうか。

人生は、賭けるしかない。真似はやめようと申している。
宗教的に言うならば神の御心は計り知れぬと具申しているに過ぎない。
人間は成功すると語りたくなるようである。
成功者の自伝、啓発書、ビジネス本のなんと多いことか。
けれども、他人の真似をするのはやめませんか。
なぜなら、あなたは世界でひとりだけの存在なのだから。
こうしたら成功できるなどという妄言を腹の底から愚弄できる境地にあなたもご一緒しませんか。
わが身を助けるのは芸ばかりではない。
障害によって豊かな人生を生きることも可能なのではないだろうか。
いきなり告白するが、わたしは味覚障害者である。
ところが、このハンディキャップに筆者はどのくらい生かされていることだろうか。
99円ショップで買った豚骨ラーメンがうまくて仕方がない。
食すごとにうまいなと満足する。感動する。
まさかと思って翌日も食べる。驚くことに、また感動するのだから。
99円のカップラーメンばかりではない。
味全般について同様なのだ。たとえばトリスウイスキーが泣くほどうまい。
わたしはサントリーのトリスを某所で4リットル2600円で購入している。
いくらなんでも安すぎるとは思いませんか。
しかし、この妙味ときたらどうだ! トリスハイのうまさを知らないものは不幸なり。
ウイスキーソーダのことである。ウイスキーを炭酸水で割る。
このとき安価なトリスウイスキーほどマッチするものはない。
高い洋酒を炭酸水で割っても決してこれほどうまくはならない。
いや、わたしが味盲なのかもしれない。
この記事の主張があるとすれば、わが味盲であろうか。

断わっておくが、どんな障害も豊かさに通じると言いたいわけではない。
あるキリスト教作家が、すべてのマイナスはプラスになるなんてほざいている。
あれは成功者だから言える暴言である。
どうにもプラスに転じようがないマイナスというのは世界に存在する。
取り返しのつかないマイナスは、哀しいかな、この世にどうしようもなくある。
残酷な現実を認めよう。認めなくてはならない。
このたびわたしが書いたことは、マイナスの肯定ではない。
プラスのほうが生きているに都合がいいのは決まっている。偽善 戯言を言うなかれ!
少数の欠点が、利に転化する事例をひとつ紹介したのみ。
あまたあるマイナスのなかには、わずかながらプラスになるものもある――。
だから生きてみないか、なんて言える身分ではもちろんない。

(注)ちなみに大好きな99円カップ麺は、エースコックの「大盛ガラ炊き豚骨ラーメン」。
シナリオ・センター第3回提出課題。「身辺雑記」(2枚)。

<人物>
黒田一郎(29)自称作家
赤沢香織(26)その恋人

○墓地(昼)
快晴。黒田一郎(29)と赤沢香織(26)が並んで歩いている。
墓石がひとつ、ふたつ、みっつ――。
香織「いろんなお墓(があるのね)」
黒田「あっかんべえよ」
香織「なにそれ」
黒田「あっかんべえだよ」
香織「わかんない」
黒田は香織の手を取り笑う。香織も笑う。生きているのが楽しい。白い蝶が舞う。

○墓地(夕暮れ)
屹立する死者たち。だれもいない。

○酒場(夜)
個室ふうに区切られている。黒田と香織のまえにビール。
呑んだくれた黒田が泣いている。優しく見守る香織。
煙草のせいでわたしは大損をしているのかもしれません。
喫煙者は嫌いではないのです。紫煙は苦手ですが、
人間は煙草のように簡単ではなく、嫌いな人がいれば好きな人もいます。
「煙草が嫌いなんでしょう」
こんなふうに過剰反応されたことがあって戸惑いました。
知っている人間の吐きだす煙ならいいのです。
名前どころか顔も知らないような御仁が無神経に吸う煙草が許せない。
「煙草いいですか?」
ひと言、聞いてくださったら構いません。
いままでどれだけの喫煙者を敵にまわして来たかと思うとぞっとします。
罪を憎んで人を憎まず。煙を憎んで人を憎まず。
なにとぞご理解くださいますようお願い申し上げます。
あなたが煙草をやめられない気持はわかります。
なぜってわたしもお酒をやめられませんから。
同病相憐れむで仲良くやろうではありませんか、貴殿貴女♪
夢が現実化していることに戸惑うしかなかった。
夢といっても願望の夢ではない。
わたしは山田太一さんとお逢いしたいと思ったことはない。
氏の貴重なお時間をたとえわずかでも自分のために奪うのが心苦しい。
偉大な作家をまえにしてどんな言葉を発すればいいのかもわからない。
夢とは、夜見る夢のことである。
今年に入ってからだけでも数度、山田太一さんと夢でお逢いしている。
夢の中で脚本家はいろいろ教えてくださる。
わたしはなにか質問したくてやっきになっている。教えてくださる以外のなにかを、だ。
なにかを教えてほしい。なにかこれだという質問をしたいと思っている。
けれども、なにを問うたらいいいかわからない。
目が覚めたあとも、自分はなにを聞きたかったのだろうかと考え込む始末である。

あの夢そのままの光景が現実になっている。
池袋のジュンク堂近くの喫茶店。円卓に10人が着席している。
上座にいるのは山田太一氏、俳優の某氏、木下組の元チーフだかの某氏。
残りの7人は、インターネットのとある掲示板が縁となり集った。
全員が山田太一ドラマのファンであることは言うまでもない。
まえからオフ会は開かれていた。山田太一さんがいらしたことも一度あったという。
このメンバーのひとりがたまたま「本の山」を読んでおられ、
新文芸座における山田太一トークショーのことを教えてくださった。
そのうえ掲示板常連のオフ会に参加してもいいとのありがたいお話。
迷う間もなくお願いした次第である。

まさか山田太一さんご本人が、ファンと同席してくださるとは思っていなかった。
新文芸座から喫茶店に向かう途次、脚本家の背中を見るのもおそれ多かった。
いま目のまえにアイスコーヒーがあって、その先に山田太一氏がいる。
これが現実なのが信じられなかった。
なにか鋭い質問をして氏に少しでも痕跡を残そうという野心はすぐに消え去る。
なにものでもない自分を強く意識する。
右隣が映像作家の某氏、その隣が俳優氏、山田太一氏という順番である。
この場にいるもののなかで自分がいちばん格下であるという思いにとらわれる。
まさに末席を汚している状態だ。劣等感で身動きが取れなくなる。
同時にいま山田太一さんと同席していると思うだけで熱い感情が込み上げてくる。
涙がこぼれそうになって、あわてて違うことを考えたりもした。
わざとコーヒーの入ったグラスを倒してやろうかなんて思いもしたのだから異常である。

結局、わたしはひと言も敬愛する作家と言葉を交わすことはなかった。
ぞくぞくするような興奮もあった。
山田太一先生、ここにあなたから強烈な影響を受けた人間がいますよ。
けれども、それを先生は気づいていない。倒錯した喜悦が心中に満ちる。
サインや握手を乞うこともしなかった。
わたしに最大の影響を与えた作家はこの日わたしの存在に気がつかなかっただろう。
これでよかったのだと思う。
わたしの山田太一氏に対する思いはとても言葉にはならない。
安っぽい言葉に託すくらいなら、むしろ言葉にしないほうがおのれを偽らない。

この喫茶店のあとパブでオフ会が開かれた。
脚本家、映像作家、俳優と別れたのちのことである。
参加者のひとりに、なまの山田太一氏の感想を問われたとき、こう答えた。
「チェーホフの『かもめ』。あれに出てくる老作家に似ていると思いました」
どうしていきなりチェーホフなのか自分でもよくわからない。
山田太一さんから、オーラのようなものをまるで感じなかった。
怖いという感じはまったくない。我われとおなじふつうの人間だと思う。
むしろ、世慣れているのに驚いた。もっといえば軽薄、軽躁的でさえあった。
講演会などで氏は、かなり取り繕っているのがわかる。
顔見知りのファンや関係者のまえだとこうも油断した表情を見せるのかと嬉しくなった。
熱心な支持者や信仰者から賞賛されることに慣れているとでもいおうか。
こんなことを書くのは、下世話で趣味のよいことではないことは知っている。
しかし、わたしの知っている(想像する)のは、
ひとり孤独と原稿用紙に向き合っている山田太一氏の顔である。
こんな顔も持っていたのかという発見はやはり新鮮だった。

オフ会のみなさまにはいくら感謝しても足らないと思う。
恥ずかしい話だが、わたしの対人能力は極めて低い。
通常なら初対面の人ばかりの集団に溶け込めるはずがないのである。
さすが年の功と若僧はこうべを垂れるほかない。
こんなわたしにお気遣いいただき、山田太一ファンのありがたさを知った。
50を超えたご年配の男女の懐の深さに救われたといってもよい。
生意気な若輩はみなさまのお話をうかがいほんとうに勉強になりました。
ちゃんと家庭を持ったかたばかりなのが、いかにも山田太一ファンらしい。
山田太一ドラマの住人のように、それぞれ家族の心配事をかかえておられた。

オフ会参加者のだれひとりにも勝てないと思った。
作家・山田太一への熱狂の度合い、理解のレベルにおいてである。
わたしなどは新米の山田太一ファンに過ぎぬと思い知った。
決定的な相違は、山田太一氏をどう見るかではないか。
果たしてかの作家は、人か神かという問いに帰着する。
神というのは大げさかもしれない。人間を超える存在という意味合いで用いている。
わたしは山田太一氏を人間としか見られない。
この時点で、まだまだ程度の低いファンに過ぎないことが判明する。
またオフ会があったら、ぜひぜひ参加して勉強させていただきたいと思う。
以上が日曜日の池袋で起こった「ありふれた奇跡」の顛末(てんまつ)である。

最後にいちばん重要なことを書く。
採取した山田太一先生のお言葉を公開する。

<木下恵介監督について。新文芸座>

・晩年の木下さんは見ていられないところがあった。
昔の全盛期なら、たとえば木下さんがレストランに入るでしょう。
その瞬間、ぱっと場が華やぐ。場の主役を木下さんが奪っちゃうというかな。
そういうとても華のある人でした。
晩年、お逢いして「散歩でもしないんですか」と聞いたことがある。
木下さん、こう言うんですね。ひとりで散歩するのがいやだ。
あの木下恵介がお供を連れないで、さみしくひとり散歩していると思われるのがいやだ。
そうなのかと思いましたね。頂点に登りつめてしまった人の悲哀というのでしょうかね。
なまじ頂点を知っていると、そのぶん落差に苦しまなければならない。
その点、ボクなんか頂点もなにもないから平気でして。
(天下の山田太一先生がなにをおっしゃいますか!)

・木下恵介映画はセンチメンタルだと言われる。
センチメンタルというのは、マイナスの意味合いで用いられているわけです。
果たしてほんとうにそうなのだろうかと思いますね。
というのも、ボクの好きな詩人に立原道造という人がいる。
戦前の詩人なんですが、
立原道造はそんな大昔にセンチメンタル宣言というのを書いています。
センチメンタルをプラスにとらえていこうという試みです。
センチメンタルは人間にとって、ある種のちからになるのではないか。
センチメンタルがあるから、人間はなにかこう、変わろう、変わりたい、
そんなふうに思うことができるのではないか。
木下さんの映画を考えるうえでとても重要だと思いますね。

<「ありふれた奇跡」について。喫茶店>

・左官の取材をしたときのことです。
最初は職人の、その芸術的なほうの取材をしたんですが、
いまはコンクリートのほうが主流ということで、そちらも取材する。
驚きましたね。左官の人は言葉が悪いんです。
30過ぎくらいの左官職人が、親に向かって「うるせえ」とか言うんですよ。
(「山田先生がいるのにですか?」)
うん、そう。ボクがいるのに、ひどい言葉を親に使っていてね。
これはこれでおもしろいけど、これではドラマに使えないと思いました。
(へええ、田崎翔太はフィクションの純度が極めて高いということか)

・加奈の職業。あれも取材しています。ドイツの調理器具を輸入する会社。
クッキングライブもあんな感じでして。もちろん、制服とかは違いますけれど。
これも左官とおなじでいつか使いたいと思っていた仕事なんです。

・女装? さすがに体験はしていませんよ。
けれども、ああいうところは取材をするのが難しくてね。
インターネットで調べました。それから資料を請求しました。
それでまあ、書けると思いましてね。

・水道局はね、女装するのがイメージよくないと言われて。
名前を出さないでくれと。
(都のではなく)市の水道局。こう書き換えたらOKが出ました。
水道局の、あれはなんというのですかね。
夜にひとつひとつ漏れがないか確認する作業があるんです。
それを取材して、とてもいいと思いました。ぜったい使ってやろうと思った。
けれども、いざ書き始めると、どうにも使えなくて、結局使えませんでした。

・ナレーションの「メール」。あれがおかしいとよく言われます。
だけど、ほかに言いようがないでしょう。
メールって言わないとメールだとわからない。
テレパシーで通じていると思われちゃいけないから、メールって言わせたんです。
あんなメールを若い人は書かないともよく言われますね。
長すぎる。もっと短いって。
(そんなことはありませんよ山田太一先生! 翔太世代のわたしも長いメールを書きますから)
木下恵介監督映画。
こういう安易な表現を使うのはいやだけど、人生最高の映画体験だった。
映画にいい思い出がないのである。
思えば、映画館で映画を観て感動したという記憶がない。
そもそも映画館にはめったに行かないのだから当たり前なのだが。

「喜びも悲しみも幾年月」はよかった。
このあと山田太一トークショーがあるためか新文芸座は満席。立見もいた。
老人ばかりである。映画が始まると、みんなおいおい泣き始める。
わたしも泣く。たしかこの映画は3時間近くあるはずだが、ずっと泣きどおしだった。
泣くのが気持よかった。ひとりで泣いているのではないのがよかった。
隣のおばあさんが泣いている。その横のおじいさんも泣いている。
館内の湿度が上がったかと思うほど、みんなよく泣く。
泣くのはいいもんだと思う。大勢で泣くのがこんなにいいとは知らなかった。

世界は喜びと悲しみしかない。
じゃあ、人間は喜びと悲しみを支配できるのかといったら決してそんなことはない。
人間は、自発的に喜んだり悲しんだりするわけではない。
喜ばされたり、悲しまされたりする、極めて受動的な存在に過ぎぬ。
人間をあやつる大きなものを「喜びも悲しみも幾年月」では運命と定義している。
木下恵介が台本に運命という二字を書き込んでいる。
監督は映画終盤で役者に運命とはっきり言わせている。

子どもが生まれたら嬉しい。役者は喜びを全身で表現する。
愛妻と死別したら悲しい。役者は悲しみを全身で表現する。
世界は喜びと悲しみで満ちている。
恋が成就する喜びはどうだ。子どもと死別する悲しみはどうだ。
しかし、どんな喜びも悲しみも人間の思うようにはならない。
ならば、人間のなしうることはなんだというのか。
ひとつだけである。生きる。これしかない。生きる。喜ぶ。悲しむ。
映画冒頭、新婚の若々しいカップルが登場する。ふたりは誓う。
これからいろいろな困難がやってくるだろうが、ふたりで乗り越えようではないか。
このふたりの25年の悲喜こもごもが「喜びも悲しみも幾年月」の内容だ。

主人公は嬉しいことがあると表へ飛び出していく。
バンザイと叫ぶ。バンザイ! おれはこれだけ嬉しいんだ。喜んでいるんだ。
よほど幸運なものでないぎり、ほとんどの人生において悲しみは喜びにまさる。
「喜びも悲しみも幾年月」の夫婦においてもそうである。
だからこそ喜びが到来したときは喜びを身体いっぱいで味わう。バンザイ!
観客が悲喜どちらのシーンにも涙を誘われるのは、
人間を超える大きなものを感知するからであろう。
老いたものはおのれの人生の喜びと悲しみを反芻して泣いていたのかもしれない。
わたしは泣きながら酔っていた。
音楽がいい。きれいな風景がいい。忘我の境地で映画に陶酔した。
ビデオで借りていたらこうまでの感動は味わえなかっただろう。
この日、この場所で、大勢の老人たちと一緒に「喜びも悲しみも幾年月」を観て
わんわん泣いたことをわたしは忘れない。




木下恵介監督の映画。まったく期待しないで鑑賞。池袋の新文芸座。
目当ては映画2本を終えたのちの山田太一ドークショーゆえ。
原作の小説はだいぶまえに読んでいる。老母を山に捨ててくる話。
どうして結末を知っているのに2時間も観なければならないのかとうんざりしていた。
映画は苦手なのである。なにゆえか。酔えないからだ。
「楢山節考」が始まる。わたしは受けた刺激(=映像)をもとに考えようとする。
しかし、映画はわたしの思考などうっちゃって先に進んでいってしまう。
ならば、映画を鑑賞するというのは、一定時間白痴になれということではないか。
わたしは考えていたい。醒めていたいのだ。

この日、映画を観る喜びを知る。映画は映画館で見なきゃダメなのかもしれない。
映画は大きさがすべてなのかもしれない。大きいスクリーンと大音量。
言い古されたことをいまさら指摘している自覚はむろんある。
大勢の人間とひとつの映画を観るのがまたよろしい。
たとえば、「楢山節考」ではおだやかに死に向かう老母の対照として
ひとりの老人が登場する。山に行こうとせず、あさましくも生に執着する老人である。
この意地汚さが笑えるのである。わたしは大きな声をあげて笑う。
これは危険な笑いなのね。老人虐待のシーンで笑っているわけだから。
そのとき映画館で笑っているのはわたしだけだった。
わたしはどう観てもおかしいから笑うほかない。
すると、だんだん笑いが伝染していくわけだ。
その老人が登場するごとに笑う人が増えてくる。
しまいにはわたしの横に座っていたおばあさんも声をあげて笑うようになる。
こういうの、いいよね。
これは自慢のような話になってしまったけれど、逆もある。
泣きすする音が聞こえる。ここで泣く人がいるのかと映像を観る目が変わる。

映画は言葉ではないということも身体で理解した。
言うまでもなく、頭ではそんなことはとうに熟知している。
「楢山節考」の山場。孝行息子が老母を山に捨てに行く。
このとき村の長老たちから「しきたり」を教えられる。
そのうちのひとつが、山に入ったら決して口を聞いてはならないということ。
これが映画なのかと思った。言葉よりも映像美にこだわるのが映画なのか。
実際、山に入るとそこからは映像しかないわけである。
言葉にたよることができない。映像の重みが増してゆく。
息子は老母を山に捨て村への帰途に着く。
一度別れたら断じて振り返ってはならぬという「しきたり」がある。
役者は言葉にならぬ(できぬ)思いを全身で表現するほかない。
雪が降ってくる。雪が降ると苦しまずに寝ているあいだに凍死することができる。
孝行息子は「しきたり」を破る。全力疾走で母のもとに戻る。
さらに禁忌を破り、老母へ話しかける。「おかあちゃん、雪降ったね。よかったね」
母は雪に埋もれながら無言で両手を合わせている――。
これで泣かないやつは鬼畜だよね?

どうしようもないことはどうしようもなく存在する。
どうしようもないときは泣くしかない。泣いてあきらめるしかない。
いくらお題目をとなえたって死なない人間はいない。
人間は無力だ。世界は非情だ。どうしようもないことを人間に押しつける。
人間は泣くしかない。あきらめるほかない。
けれども、「楢山節考」の老母のように手を合わせられたら少しは慰められるのではないか。
合掌することで得られる平安がほしい。いまわたしが思っていることである。

わからない。他人のことはわからない。異性のことはわからない。
中城加奈の死にたいと思った理由がわからない。
良家のひとり娘としてかわいがって育てられた美人でプライドの高い加奈ちゃん(笑)。
加奈ちゃんのいままでつきあった男性はふたり。
その元カレのほうの子をはらむ。就職2年目のときだった。
おりしも、恋人に二股をかけられていたことが発覚する。
のみならず、もうひとりのほうの女性も妊娠していて最近中絶したばかりだと知る。
ここからわかるのは、加奈の元カレがプレイボーイであっただろうこと。
美女はキモメンとはつきあわない。きれいな加奈ちゃんが選んだのはイケメンの遊び人。
この美男美女の恵まれたカップルは遊びに遊んだことであろう。
このカップルが道を歩くだけで、どれだけのもてない男女に不幸を振りまいたことか。
夜になればやることはひとつ。避妊具もつけずに性の快楽におぼれる美男美女だ。

きっと「人生、楽勝!」とか思ってたんだろうな。
金持の子として生まれる幸運。類いまれな美貌を持って生まれた幸運。
おのれの幸運を意識しないでいられるほどの幸福というのはほとんど犯罪に近い。
父親が大企業へのコネを準備していてくれているのに、
それを蹴っ飛ばして自分で就職を決めるなんざ、なんとも高慢ちきな娘ではないか。
おそらく初めての不幸が、恋人の浮気(本気?)だったのであろう。
プライドの高い美人の加奈ちゃんは、間違いなく自分から男を振ったはずである。
さあ、妊娠をどうするか。だれにも相談できない。
浅はかな加奈ちゃんはろくろく調べもせずに東南アジアの某国に飛ぶ。
日本人の医師のまえで股をこれでもかとおっぴろげて性器をいじられるのがいやだったのか。
加奈ちゃんは東南アジアでおまんこから桃色遊戯の代償を引き抜いてもらう。
これで一丁上がり、あたしの人生は無傷と美女はアジアでほくそ笑んだのかもしれない。
ところがどっこい、そうそううまくはいかない。
東南アジアのヤブ医者は、ちっとばかり異国の美女の秘所をいじくりすぎたようである。
美人で自尊心の高い中城加奈は石女(うまずめ)になってしまったとさ。
だから死にたいって、なんだそれ?

このような物語を悲壮ぶって左官職人の田崎翔太に話す美女の気持がわからない。
いままで美人とは縁のなかった翔太は「子どもなんていらない」と即答する。
これを逃したらいつ自分のまえに女が現われるか不安である。
左官なんてしているとキャバクラに行くくらいしか女性と知り合うきっかけがない。
しかも、今回のはただの女ではない。とびきりのべっぴんさんだ。
まるでストーカーのように加奈の実家に突撃する翔太はほとんどあわれでさえある。
加奈は実家にいる翔太を見て逃げ出す。

翔太「気持は変わらない」
加奈「なに言ってるの」
翔太「子どもなんかいらない。子どものために結婚したいんじゃない」
加奈「結婚ってなによ(と逃げる)」
翔太「子どもいなくて、ちっとも構わない。気持は決まっている」
加奈「私が決まってないの(と立ちどまる)」
翔太「え?」
加奈「子どもほしいの」
翔太「でも、ダメなら」
加奈「だからずっと辛くて、ずっと情けなくて、死のうとしたときもあって」
翔太「わかるけど」
加奈「わかってない。本気で考えて。本気で想像して」
翔太「したつもりだよ」
加奈「ううん」
翔太「おれの気持は変わらない」
加奈「すぐ決めたことはすぐ変わる」
翔太「変わらない」
加奈「どうしてそんなにきっぱり言えるの。人の気持、なんだと思っているの(と逃げる)」


加奈さん、わからないよ。あんたの気持はわからない。
自分の気持を本気で考えろ、本気で想像しろというあんたの高飛車を憎みさえする。
美人はどれだけ甘やかされているのだろうと空恐ろしくなる。
中城加奈は人生で負けたことがなかったのではないか。
家柄もよろしい。容姿にも恵まれている。仕事も順調である。
ただひとつほかの女性に比べて負けているのが子どもを生めないこと。
この負けを認められなくて加奈は死にたくなったと言う。
あきらめられないわけである。いまだに「子どもがほしい」なんて口にする。
人生にはあきらめなければならないことがあることを知らないお嬢さんには参る。
比べて田崎翔太は、どれだけ人生であきらめを経験してきたことか。
マイナーな大学しか入れなかった敗北感。
就職しても同期でいちばん仕事ができなかった屈辱感。
おそらく女性からもてたこともないのではないか。
このたび美女と知り合えたのは奇跡と思ったに相違ない。
案の定、加奈は傷物だった。子どもを生めない不良品である。欠陥人間だ。
あきらめるのに慣れている田崎翔太はあっさり子どもを断念する。

もしかしたらこの記事は異論を呼ぶかもしれない。
子どもを生めない女性がこの文章を読んだら憤るのだろう。
あんたはなにもわかっていないと。
女にとって子どもを生めないのはどれほど苦しいことなのか。
死にたくなってもおかしくないことなのだぞ、と。
申し訳ないが、わからないのである。
だったら、あなたはわたしの苦しみがわかりますかと反論したくなってしまう。
わたしは子どもを持つことはあきらめている。結婚もあきらめている。
恋人くらいはと期待がなくもないが、なかばあきらめの境地である。
だからであろう、子どもが生めないくらいで自殺を考える美女には白けてしまう。
なに悲劇のヒロインぶっているんだよと茶化したくもなる。
第6話までさんざん加奈の秘密で引っぱってきて、これはないだろうと脚本家に言いたい。
第5話まで台無しにしてしまうのではないか。
中城加奈は藤本誠に「生きていくしかない」と説教できる身分なのだろうか。
あのとき加奈は藤本にチュウくらいさせてやったらよかったではないか。
オッパイくらいさわらせてあげればよかったではないか。
モップなんて構えて人生わかったようなこと言うなよ、お嬢さん!
こんなことを思ってしまうわたしは他人の苦しみを理解できないのだろう。
ならば、逆に問う。あなたもわたしの苦しみがわからないのではないか。
人間はわからない。人間はわかりあえない。山田太一ドラマのテーマのひとつである。

明日のバレンタインデーは例によって孤独でチョコなんてもらえるあてはないけれど、
こういうのは慣れているから死にたいとは思わない。
けれども、チョコがもらえないせいで自殺したくなる同性の気持はわかる。
たぶん、この男性の死にたくなるほどの孤独を理解できる女性は少ないのではないか。
畢竟、男女はわかりあえないのかもしれない。
「本の山」をお読みの女性はいらっしゃいますか。
百円の板チョコでいいからキモオタの男性にあげてごらんなさい。
貴女はひとりの男性の命をそうと知らずに救うことになるのかもしれない。
これは「ありふれた奇跡」のひとつであろう。
人間はどうして他人に興味を持たないのだろう。関心を寄せないのだろう。
初対面のスクールや会合の自己紹介では、
ほとんどの出席者が自分の言うことしか考えていない。
終わったら終わったで、だからといって他人の自己紹介をちゃんと聞こうとはしない。
自分の紹介が他人と比べておかしくなかったかをばかり考えている。
たとえ他人の自己紹介を礼儀正しく聞いていたとしても相手を心から理解しようとしない。
すぐに決めつけたがる。相手の風貌や話しかたで即断してしまう。
当人が真剣に考えていること、悩んでいることに思いを馳せようとはしない。
これはわたしだけではないと思う。
なぜならインターネット上の日記、ブログでは多くの人間が孤独に悩んでいる。
だれかに関心を持ってもらいたい。このために日記を書く。
だれかひとりでもいいから自分のことをわかってほしいと期待する。
けれども、自分は他人のブログを何度も何度も読み返すようなことはしない。
しないのではない。できないのである。これは人間の能力の限界だ。
我われは残念ながら自分のことしか考えられないように生まれついている。
この残酷な現実から山田太一ドラマは逃げようとしない。むしろ、直視する。
「ありふれた奇跡」の中城家を見よ。仲間由紀恵の一家だ。
いくら家族と一緒に住んでいようが、人間はどこまでも孤独に落ち込んでいってしまう。

相手のことを、相手の身になって共に悩み、苦しみのはほんとうに難しい。
河合隼雄の言うよう、まさに「人間理解は命がけの仕事である」(「こころの処方箋」)。
人間理解は、奇跡と言ってもよいのではないか。
だから、まれに人間理解が生じたときには、驚くほどのことが可能になる。
だれかが自分のことを全存在的に理解してくれようとしている。
わかってくれようとしている。応援してくれる。一緒に苦しんでくれる。心が通じ合う。
こういう他者がひとりでもいたら、どれほどの人間が立ち直ることができるか。
たとえ5年や10年引きこもりやニートをやっていても、
ひとりの人間が命がけて向き合ってくれたら再起できると思う。再生も可能だ。
いくど自殺未遂経験があろうと、どんな障害を持っていようとも、
よしんば余命わずかだろうが、かならずや人間は胸を張って生きていられるはずだ。
その人間が医師やカウンセラー、なにかの指導者の場合、大した意味をなさない。
傷ついた人間はすぐさま彼らの使命感の背後にある虚偽を読み取り絶望するだろうから。
孤独な人間、傷心の人間に、もし救いがあるとすれば、
それはおなじく独りの傷ついた人間との出逢いにしかないのではないか。
人間は人間によって大きく傷つけられる。
しかし、おなじ人間に救われることもなかったら、この人生はやりきれないばかりではないか。

「ありふれた奇跡」を生きている。
先週の日曜日、埼京線に乗車していたときのことだ。板橋駅で電車がとまる。
しばらくしてから車内アナウンスがあり、つぎの池袋駅で人身事故があったという。
ひとり死亡。間違いなく自殺だろう。日曜日の昼下がり、空は快晴、一名死亡。
山手線沿線で人身事故との続報が入る。
ホームから山手線に飛び込んだとしか思えない。「ありふれた奇跡」など起きなかった。
自殺者を身体を張ってとめるものは現れなかったのである。翔太も加奈もいなかった。
わたしは家族を自殺で亡くしているから、たまらなくなる。
これだけで涙がぐっと込み上げてくるのだ。
ホームレスでもないかぎり自殺者にはかならず家族がいる。
さあ、これからたいへんだぞと思う。なにもかも一変することだろう。
埼京線の車内では、だれもこの人身事故に関心を寄せない。
ごく少数迷惑そうな顔をするものがいるだけで、
大半の家族連れ、カップルは歓談を続けている。人がひとり死んだ。
わたしも遅刻する旨を約束していた相手にメールで伝える。
おなじ相手と6日後に池上駅で待ち合わせた。東急池上線の池上駅。
「ありふれた奇跡」第4話で翔太と加奈が待ち合わせた場所である。
先に到着していたわたしは、改札から出てくる相手に近づき
大まじめに「こんちわ」と言った。向こうも照れながら「こんちわ」と返してきた。
まずはふたりの歩いた商店街に足を向ける。
ドラマのエンディングで映る池上本門寺の長い階段をのぼる。
それから翔太が通ったことになっている小学校を高台から眺めた。
「ありふれた奇跡」を生きようとしているのである。
帰途、五反田駅で乗り換え山手線が来るのを待つ。
自問した。いまだれかが線路に飛び込もうとしたらわたしはとめるだろうか?
いくら考えても、いざその場に居合わせてみないとわからないことだ。

「ありふれた奇跡」第5話――。それはいつだっていきなり訪れる。
中城加奈がスナック「妙」に着くと、ママと藤本誠があわてて出てくる。
「あとは任せて」とママをタクシーに押し込む藤本である。
加奈は藤本の口から事情を知る。なんでもママの高校生になる息子が事故に遭った。
ママが離婚したのは息子が中学1年生のとき。息子は旦那がわに引き取られた。
その息子がバイクで電柱にぶつかって病院に運ばれたというのである。
4年前に火災で妻と娘をいっときに亡くした藤本誠は込み上げてくるものがある。
酒を飲みたくなるが、アルコール依存症でずっと禁酒している身。
50歳独身の藤本誠はアップルジュースで我慢する。

加奈「(ママに)息子さんがいたの」
藤本「親権、亭主に取られてるんだからママも色々あるんだ」
加奈「うん」
藤本「急にね」
加奈「うん?」
藤本「急にこういうことが起こる」
加奈「うん」
藤本「まさかママの息子が、今夜どうして。そんなこと言ったって無駄よ。
ガーンと急に来る。それで人生変わっちまう」
加奈「ええ」
藤本「元に戻りようもない」
加奈「ええ」
藤本「どうにかしたくたって、相手が死んでちゃ、
つるつるの壁登るようでどうにもならない」
加奈「ええ」
藤本「無力。ああすりゃよかった、こうすりゃよかったって言ったって、無力」
加奈「ええ」
藤本「こっちにだって多少の言い分はあるって言ったって、無力」
加奈「ええ」
藤本「死なれちゃどうにもならない」
加奈「ええ」
藤本「いや、ママの息子は死んではいない。死ななきゃどうにでもなる。
どういう救いだってある。生きててもらいたいね」
加奈「ええ」
藤本「――(アップルジュースを飲む)」
加奈「――(アップルジュースを飲む)」
藤本「アップルジュース冷えるね。コーヒーいれようか」
加奈「いいです、私は」
藤本「おれはいいんだ」
加奈「私、まえに――」
藤本「うん」
加奈「私にも取り返しのつかないことがあるって」
藤本「ああ。そう言ってたね」
加奈「藤本さんに逢ってもらいたくなったのは」
藤本「嬉しかったよ」
加奈「取り返しがつかないことわかってくれるの、藤本さんしかいないなと思って」
藤本「取り返しのつかないことか。
そう、そういうことは経験してないやつにはわからないからね」


電話が鳴る。ママからである。
アップルジュースを飲む藤本誠の気持が、わたしには痛いほどわかる。
8年まえに母が死んだ。飛び降り自殺である。
わたしの目のまえで母は死んだ。9階のベランダから母は飛び降りた。
落ちてきて絶命するまでを路上で目撃した。
遺された日記にはこれでもかと息子の悪口が書かれていた。
藤本誠のようにわたしも酒びたりになった。おなじように周囲から人がいなくなった。
いくどおなじベランダから飛び降りようとしたことだろうか。
肉親にどうしてあんなことをしたのか問いたいが、相手が死んでちゃどうにもならない。
山田太一の書いた「つるつるの壁登るよう」という表現がぴったしである。
死別はどうにもならない。「ありふれた奇跡」に話を戻そう。
果たしてスナック「妙」のママの息子は死んだのか。
人生の苦悩者、絶望者がまたひとり増えるのか。
このようなとき山田太一は人を殺さない作家であることをファンなら知っている。
もちろん「午後の旅立ち」のような例外はあるが、
この脚本家の書くものはヒューマンドラマといった評されかたをすることが多い。
大半の視聴者は高をくくっていたはずである。ところが、「ダメだった」――。

加奈「急にこんなこと」
藤本「やっぱり」
加奈「え?」
藤本「酒飲もうか」
加奈「ダメ」
藤本「しかし、少年がひとり死んだんだよ」
加奈「知らない人でしょう。逢ったこともない」
藤本「ママの子どもだし」
加奈「お酒飲む理由になんかならない」
藤本「そうね。まったく、そうよ。おれには関係はない」
加奈「そうまでは言わないけど」
藤本「しかし、こういうとき、どうしたらいい?」
加奈「どうしたらって――」
藤本「アップルジュース飲むだけじゃ、さみしい」
加奈「コーヒーいれるわ」
藤本「コーヒーなんかいらない」
加奈「卵があればオムレツ作るわ」
藤本「オムレツなんかいらない」
加奈「――」
藤本「(うめきながら頭をかかえ)やりきれないね。人が死ぬのは仕方ないけど、
こういうふうにすぐに死ぬのって参るね(と席から立ち上がる)」
加奈「――」
藤本「――(苦しむ)」
加奈「――(なにもしてあげられない)」
藤本「――(カウンターのなかにいる加奈を見る)」
加奈「――」
藤本「加奈さん」
加奈「なに?」
藤本「加奈さん――(と加奈を求める。駆け寄る)」
加奈「ダメ(と逃げる)」
藤本「――(カウンターの入口でつまづく。転倒する)」
加奈「――(モップで身を守る。モップの柄の部分を藤本に突きつける)」
藤本「――(気圧されながら立ち上がる)」
加奈「――」
藤本「わかった。ごめん。わかった(と前後どちらにも動けない)。
けど、おれにはだれもいない。抱きつける人間がひとりもいない」
加奈「めずらしくない」
藤本「どうしたらいい?」
加奈「生きていくしかない」
藤本「――」
加奈「生きて、いくしかない」
藤本「――(泣く。崩れ落ちる)」
加奈「――」
藤本「おれ加奈さんに、なんてことしちゃったんだ」
加奈「泣かないで。こんなことで泣かないで」
藤本「――(泣く)」
加奈「――(構えていたモップを下ろす)」


これは山田太一ドラマだろうかと涙がとまらない目を疑った。
山田太一はこのようなとき、藤本と加奈に酒を飲ませてしまう作家である。
しかし、「ありふれた奇跡」ではアルコール依存症というカセを設ける。
山田太一はこのようなとき、加奈と藤本を抱擁させる作家である。
しかし、「ありふれた奇跡」では、そんな甘くないよとモップを突きつける。
日本のテレビドラマ界を先頭で引っぱってきた脚本家はいったいどうしてしまったのか。
山田太一は腹をくくったのではないだろうか。
最後の連続ドラマである。もうネクストはないのである。
たとえこれで数字(視聴率)が取れなくても知ったことではない。
数字にのみこだわって現実から遊離したドラマばかり量産するテレビに嫌気が差した。
最後の最後でいままで決して抜かなかった刀を抜く。
鋭い刀剣を、突きつけた。だれにか。視聴者とテレビ界にである。
視聴者よテレビはそんなものではない、テレビよ現実はそんなものではない。
山田太一は弛緩(しかん)した両者に「ありふれた奇跡」を突きつける。

藤本誠はこの先どうなるのだろうか。2ちゃんねるの関連スレッドを見ていると、
藤本を自殺させるのではと予想していたものがいた。それはないと断言する。
山田太一はかならず藤本誠を残り6回のなかで救うはずである。
だれかが藤本誠のまえに現われる。
それはスナックのママかもしれないし、そうではないかもしれない。
孤独に絶望している人間を救うものはなにか。縁である。縁によって人間は救われる。
おなじく「ありふれた奇跡」第5話から引く。
早朝の田崎家である。駐車場で翔太がコンクリートの補修をしている。
そこに祖父の四郎が現われる。翔太の自殺未遂を発見したのはこの祖父だ。
それ以来、四郎はなにかにつけて孫の様子を気にかけてきた。
元職人の四郎は、翔太の左官仕事を手伝ってやる。さすがにうまい。
思い悩んでいる様子の孫に祖父は述懐する。

四郎「おれは、言いたかねえが、空襲で家族全員死んじまって、
10歳からひとりだったからな」
翔太「うん」
四郎「少し考えが偏屈かもしれねえが」
翔太「ううん」
四郎「縁てもんは、一生のうちいくらでもあるもんじゃねえ」
翔太「うん」
四郎「あの子(=加奈)は多少我がままかもしれねえが」
翔太「そんなこと言ってない」
四郎「フフ――。そんならいいが、きれいな子はとかく周囲が甘いからな」
翔太「うん、まあ」
四郎「フフ――。難しいよ。ヘヘ――」
翔太「ここ立入り禁止だからね」
四郎「うん。しかし、ついでに言うと、施設を出て、親方んところ住み込んで、
忙しくて、ほんとひとりだった」
翔太「うん」
四郎「お祖母ちゃんに逢えたのはほんとよかった」
翔太「悪口言ってたくせに」
四郎「フフ――。いや、よかった。じゃなきゃ、おまえもいねえ。
むろん、お父ちゃんもいねえ」


昨日わたしは池上本門寺の賽銭箱に5円玉を投げ入れ仏縁成就を祈った。謝した。
105期シナリオ作家養成講座。第1回提出課題「入学の動機」。

家族の不幸がもとで、廃人同様の生活を余儀なくされた時期がありました。
劇と出逢ったのはこのときです。まずギリシア悲劇とシェイクスピアを読破し、
浪漫派古典劇、近代市民劇、不条理劇、現代演劇と片っぱしから――。
劇世界に耽溺しました。手当たりしだい戯曲を読みあさったのです。
劇に生かされた。ストリンドベリ、オニール、シラー、近松門左衛門に生かされた。
ドラマは麻薬です。痛みをやわらげてくれるだけではない。
痛みが快楽であることもまたドラマから教わったことです。
人間は苦しみや悲しみから逃げるだけの存在ではない。
苦痛、悲痛でさえも我われは味わうことができる。それは喜びではないか。
あまたの劇作品から学んだことを要約したらこうなるのかもしれません。

山田太一ドラマにも夢中になりました。
公刊されているシナリオはたとえ絶版だろうが1冊残らず買い求めてむさぼり読みました。
月刊「ドラマ」の品切れバックナンバーの入手には苦労したものです。
世界には喜びと悲しみしかない。
だが、その喜びのなんと多岐にわたることか。悲しみの涙の多彩さはいかほどか。
人間の微笑のあたたかみを、悲涙の切実さを、わたしは山田太一ドラマで知りました。
ドラマは学校でした。学校にもかかわらずドラマは現実よりもおもしろい。

読んで、読んで、読んだのです。
これほどの量の劇作を味読した人間はそうはいないでしょう。自信があります。

だからといって書けるとはかぎらない。むしろ、書けないから、
書けないことをごまかすために読んでいるのかもしれない。
シナリオ・センターの登場です。毎週、提出課題があります。書かざるをえなくなる。
新井一の「シナリオの基礎技術」「シナリオの技術」は再読、三読しております。
古本屋で仕入れた非売品の「シナリオ通信講座」(監修新井一)まで読んでいるのです。
それでも書けない。締切がないからでしょう。シナセンに入学した動機です。

入学説明会でみんな若いので驚きました。きらきらしていてまぶしかったです。
夢を追っている若者に醒めた視線を送っている自分に気がつきました。
32歳はもう若くはない。夢ねえ、と思いました。
夢をあきらめるためにわたしはシナセンに入学したのかもしれない。
いくら読んでもろくなものが書けないことを確かめるために授業料を納めたのかもしれない。
もう若くはないわたしは長年の劇世界、ドラマへのあこがれ、
いや執着を断ち切る作業を、半年間にわたってする必要を感じたのではないだろうか。

やけに悲観的なことを書いてしまいました。
こんな夢のない「入学の動機」はほかにないでしょう。期待がないわけではないのです。
ずっと独学をしてきました。ひとりでした。
人と交わりながら学んだら、なにか新しい世界が開けるかもしれない。
思いもしなかったことが可能になるかもしれない。
ドラマのようなことが起きるかもしれない。なにか劇的なことがあるかもしれない。
夢見がちな若者でさえしないような空想をいだいてもいるのです。
なにか起きるかもしれない。なにか起こしてやる。

ともあれ、始まりましたね。始まってしまいました。
半年間、全力でドラマと向き合いたいと思います。とことんまで自分を追いつめたいです。
たとえ不出来なものであろうと課題はすべて提出することをここに約束いたします。
悔いのない半年間を送りたい。なにとぞご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。
「煮え煮えアジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)
「もっと煮え煮えアジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)
「最後のアジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)
「カモちゃんの今日も煮え煮え」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)


→いちばん近しい作家はだれかと聞かれたら鴨志田穣と答えるだろう。
鴨志田穣(かもしだゆたか)、人気漫画家・西原理恵子の元旦那、
愛称はカモちゃん、享年42歳――。
人の生き死にに関わる文章を書くのが文学者だとしたら(これはわたしの定義だ)、
カモちゃんは間違いなく文士である。人を生かし人を殺す文章を書く男だった。
酒を呑み酒に呑まれてカモちゃんは早々と逝ってしまった。
死にたくて酒を呑んでいたのだから本望といってもよい最期であったのだろう。
酒を大量に呑みながらカモちゃんの遺作を続けて読む。
そうだよなと泣き笑いする。まともに働くなんてくだらねえよな。
朝からがんがん酒を喰らったって構うことねえわ。
いつか一発当てりゃあ、そんでご和算だろうが!
かたぎに生きて、だからどうだって言うんだい?
こっちは早く死にたいんだ。あす死んだってどうってことはねえんだぞ。
戦場カメラマンをしていた鴨志田穣である。
たしかに文章はめちゃくちゃ下手くそ。フィクションを書いたらウソだとバレバレ。
自分がゴミだとわかっている人間の書いたゴミのような文章ばかりである。
どうしようもないアル中が酒臭い息をまきちらしながら吐いた文章だ。
カモちゃんは文章を吐く。こいつはゲロのようなくっさい文章を吐きやがる。
好きなんだよなカモちゃん。おまえ最高だよ。
どこぞのお偉い作家先生なんて、カモちゃんに比べたらなにもわかっていない。
ダメ人間のダメぶりを、ダメ人間の夢と甘えと虚無を、つまりダメ人間の魅力を――。
いつから作家が偉くなったのだろう。
わたしは鴨志田穣を最低の人間だと見下す。それから悪くない作家だったと見直す。


「月刊 シナリオ教室」2008年12月号(シナリオ・センター)

→脚本家養成の総本山、シナリオ・センターに資料請求したら送ってきた。
やけにサービスがいいと驚く。
ふつうはこういう寄贈本(雑誌?)は読まないもの。
わたしはふつうではないからあえて読む。
シナセン出身の女性脚本家のシナリオが3本掲載されていた。
TBS「恋うたドラマSP」全3話だってさ。
つまり、実際にテレビで放送されたわけである。そいつはすげえや!

で、読んでみて、いろいろなことを思う。箇条書きにするね。
わたしには退屈だったが、これをおもしろいと思う女性がいるのだろう。
テレビはこの視聴者層をターゲットにしているのだからわたしの感想など無意味。
ひどいシナリオばかりだったが、わたしはこのレベルも書けないかもしれない。
批評の才能と創作の才能はべつである。
ひとりの女性脚本家がことさら職務経験を自慢していた。
編集者経験があったから、あのシナリオを書けたと。
ところが、彼女のシナリオを読んでみると仕事のリアルがまるで感じられない。
あんがい仕事の経験などいくらでも捏造(ねつぞう)できるのかもしれないぞと思う。
「パークライフ」(吉田修一/文春文庫)

→先日、ある女性から「古典ばっか読んでる人ってやーね。
文学は終わってるとか言うバカは死ねって感じ。
新しいものを読まないでなに言ってるちゅーねん」(大意)とスターバックスで言われた。
恥ずかしながらスターバックスに入るのはこれが初めて。
いっぱいコーヒーがあったけれど、どう注文すればいいのかわからなかった。
偶然にも日本最高の文学賞たる芥川賞を受賞した本作品において、
このスターバックスが重要な役割を果たしている。
えとね、スターバックスに集う今時の若い女性の感性をすくいとった小説の模様。
おいらがそんなお洒落なセンスを理解できるはずないじゃん。
なにがおもしろいのかさっぱりわからなかった。もうおじさんだからオラ勘弁してけろ。
なんか、こう、若いもんの繊細な、そのう、あれがうまく描けているんじゃないかな。
そうそう、あれだよあれ。やっぱ最近の小説も読まんといかんぜよ。
女の子にももてなくなるしね。これがいちばん大事♪

「学問のすすめ」(梅原猛/佼成出版社)絶版

→成功者の自伝を読む。おそらく、いまがわたしにとって人生の転機なのだと思う。
いろいろなことを決断しなければならない時期が来ている。
どうして人間は成功者と失敗者にわかれるのだろうか。
成功の味を知らないわたしは、ふしぎでしようがない。なにゆえ成功するものがいるのか。
表舞台に出るのは成功者だけだから、
世界は夢と希望であふれているように見えなくもない。
だが、いまはネットの普及、具体的にいえば2ちゃんねるだ。
人生の失敗者も、おのが発言の場を持つことが可能になった。
成功者はみながみな成功するべくして成功したようなことをいう。
梅原猛もしかりである。あまたの失敗者は、どうして成功できなかったのだろう。
わたしはどうして成功と無縁なのか。
とびきりの成功者である梅原猛はこんな悟ったようなことをのたまう。

「私は近頃、だんだん次のように思うようになった。
人間が自らの力で何かをしようとしているうちは大したことはできない。
向こうから自ずから出てくるものこそほんとうのものである」(P79)


どうして梅原猛にだけ、「向こう」から幸運の使者が舞い込むのだろう。
世にはびこるヘボ学者のまえには現われなかったものが、である。
成功者は成功するべくして成功しているように思える。
なぜなら成功者はみなおなじようなことをいう。
ならば、失敗者も失敗するべくして失敗しているのだろうか。
いま目を凝らして「向こう」を見ている。果たして、なにか出てくるのだろうか。

「アンティゴネ」(ソポクレス/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→ギリシア悲劇の暗さが、とてもいとおしい。
西欧演劇の始祖たるギリシア悲劇は、どうしてこうも能弁に苦悩を語るのだろう。
不幸に対して、ふたつ人間に選択肢があるように思う。
ひとつ不幸を忘れる。ひとつ不幸を味わう。
ギリシア悲劇は不幸の味を微細にわたり味わいつくそうとする。
ギリシア悲劇の役者たちは、不幸をじょうぜつに語る。
なにが不幸かは言葉に出してみないとわからないとギリシア人は考えたのだろう。
不幸を無言でぐっとこらえるような文化は、かの国にはなかった。
不幸であるなら、どのように不幸か、
この不幸がどれほどの苦しみをおのれにもたらすかを言葉に託さなければならない。
いちばんの不幸は、死だ。愛するものとの死別は不幸の極みである。
アンティゴネはオイディプスの娘である。近親相姦で生まれた穢(けが)れた娘だ。
この一族は不幸と苦悩にまみれている。

「ライオス、オイディプスと、この一族の悲しみが、死者から死者へ受け継がれ、
子の罪がまたその子を縛る、どこからも一筋の救いの光も射しては来ない」(P143)


オイディプス王が死んだのちの世界である。
王のふたりの息子は反目する。挙句、まさしく刺し違えて死ぬのである。
王座はふたりの叔父、クレオンのもとに転がり込む。
クレオンの布告に反抗したオイディプスの娘アンティゴネは首を吊る。
それを見たアンティゴネの婚約者ハイモンは、クレオンの息子である。
ハイモンもまた自刃する。まだ死者の行列はとまらない。
息子の自害を知った母のエウリュディケもあとを追う。
夫のクレオンに呪いの言葉を残してエウリュディケは自殺するのである。
いくつ棺桶(かんおけ)が必要なのか。
愛する妻と息子をいっときに亡くしたクレオンは苦しむ。
おのれの愚行がふたりの死を招いたのだから王の苦しみは計り知れない。
クレオンは不幸の極点をこのように言語化する。

「おお、来るがよい、直ちに現れろ、わが運命にとって最良の日よ、
この俺の最期をもたらしてくれ――俺にとっては、それこそ最上の運命だ、
おお、早く! 俺に明日という日を見せるな」(P182)


死んだほうがましとクレオンは言っているのである。
ギリシア悲劇は我われに訴えかけてくる。
不幸を忘れるな。不幸を味わえ。もっと苦しめ、もっと泣け。
際限もなく悲嘆せよ、未来永劫まで呪詛せよ、与えられた運命を宿命を。
生きているかぎり苦しめ。死んだら苦しめなくなる。死ぬな、生きろ。苦しむために生きろ。

「オイディプス王」(ソポクレス/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→演劇の始原、ギリシア劇に劇的なるものの本質をご教授願おう。
偉大なる王オイディプスよ、劇とはいかなるものか。

「神の御加護のゆえに事はなるか、それとも万事滅びるか、
道は二つに一つだ」(P22)


これが劇である。ということは、おそらく人生も似たようなものであろう。
なにゆえこのオイディプスの悲劇は生じたのか。
人間の善意がことごとくテバイの王を追いつめているところが興味深い。
オイディプス王は、おのれにくだされた残酷な神託に終始悩んでいる。
この苦悩を癒さんがための助けがみなみなオイディプスを破滅へ追いやる。
妻のイオカステの助言がまずそうである。
神託など当たらぬという慰めが、かえってオイディプスの神託成就を押し進める。
父王が死んだとの情報を伝えてくるコリントスの使者も善意の人だ。
「父を殺し母をめとる」という神託の苦悩を解こうとわざわざ駆けつけてきたのである。
ところが、この知らせをきっかけにオイディプスはおのれの宿命を知ることになる。
最大の許されざる善意は、テバイの羊飼いの心にあった。
「殺せ」と命じられたにもかかわらず羊飼いは赤子オイディプスを生かしてしまった。
純朴な羊飼いには赤子を殺すなど、とてもできなかったのだろう。
だが、この良心、善意が、オイディプスの悲劇を生みだした。

人間の善意ほど恐ろしいものはないことをこの悲劇から理解できないだろうか。
または人間の無力を知れ。
ちっぽけな人間が善悪にとらわれたところで、なんにもならない。
むしろ、小人間の思う善が全体的な見地からすると最悪の惨事を引き起こす。
人間が善かれと思ってしたことなど、まったく当てにならぬ。
おなじように人間の悪行がかならずしも悪い結果を呼び起こすとはかぎらない。
人間を超える大きな存在の御心は、我われには知りようがない。
なしうるのは畏怖するのみではないか。

オイディプスはさまざまな善意に小突きまわされ、おのれの宿命を知るにいたる。
おのれは父を殺し、母をそうと知らずに妻にしていたのだ!
イオカステは首を吊って絶命した。もうなにも見たくはない。
光よ消え去れ。この世よ闇になれ。オイディプスは両の眼(まなこ)を手ずからつぶす。
めしいとなったオイディプスが人間を超えるのはこのときである。
たしかにこの男の口は神々への呪詛を吐き出すであろう、
だが、オイディプスの苦悩は永遠なる闇夜のなかで反対に光り輝くのである。
オイディプスは光の世界を捨てたのである。
どうしてオイディプスのうめきを、言葉どおりにとらえようとするのか。
男は闇の世界を生き始めたのである。光のなかでなら闇は闇だ。
ところが、漆黒の闇のなかでは、むしろ純然たる闇は光になるのではないか。
オイディプスはだれよりも神々を知る人間になったのである。
これがどうして歓喜でないと言えようか。
神々の神託はことごとく成就したのである。
人間オイディプスがいくら努力しようとも神々の掟(おきて)は変えられなかった。
神々は確固として存在する。
神々をこうも身近に感じた人間がオイディプスのほかにいようか。
いまやオイディプスは神々の座に列席することを許されたといってもよい。
オイディプスはテバイの国を石もて追われるだろう。
この盲人がおもむくのは光あふれる神々の世界である。
もっとも神々から嫌われたとも言うべきオイディプスは、
おなじほどに神々から愛されているのだ。人間よ、神の鞭(むち)を、神の愛と、知れ。

「十二夜」(シェイクスピア/松岡和子訳/ちくま文庫)*再読

→劇というのは葛藤なわけである。悲劇も喜劇もこの点ではおなじだ。
人間は欲望を持つ。したがって複数の人間が舞台上に上がれば衝突が生じる。
ありていにいえば、みんなが幸福にはなれないということ。
全員の欲望が満たされるような理想郷はどこにもないのである。
欲望と欲望がぶつかる。感情と感情がもつれる。
出世したいという欲望がある。恋も欲望だ。
愛する異性をひとり占めしたいという気持が欲望でなかったらいったいなんだ?
劇は、常にもつれた状態のもと開幕する。
閉幕するときに笑いがあふれていたら喜劇、涙に暮れていたら悲劇というわけだ。
なにものによって喜劇と悲劇にふるいわけられるのか。
この「十二夜」とて、ひとつ歯車が合わねば、悲劇になるほかないのである。

舞台上の役者は戯曲を変えられぬことを知っている。台本は渡されているのだ。
配役も決まっている。
知らぬふりをしているが、実のところ結末まで熟知しているのが役者である。
役者は常に葛藤のただなかにいる。
彼は彼女はセリフを言っているのか。なにものかに言わされているのか。
以下はおのれが役者に過ぎぬと知った人間のセリフである。

「運命よ、力を貸して。私たち人間には、自分で自分がどうにもならない。
これが定めなら仕方がないわ。成り行きに任せるしかない」(P48)

「ああ、時よ、これをほぐすのはお前の役目、私じゃない。
こんなに固くもつれていては、私の手ではほどけない」(P54)


「十二夜」から深い慰めをわたしは得る。
人間の問題を解決するのは人間ではないことを、
その一部始終を仔細にわたって、まざまざとこの目で見ることができるからである。
悲劇になろうが喜劇になろうが、それが劇ならばかならず終幕の時がおとずれる。
この「時」こそ人間を救うのであろう。役者は配役を解かれる時、なにを思うか。

「マクベス」(シェイクスピア/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→わたしはこのまま終わってしまう人間なのだろうか?
毎日、求人情報誌を眺めているが、やれそうな仕事は警備員しかない。
このたびシェイクスピアやギリシア悲劇を読んで、それも悪くないと思い直した。
これらの古典劇作品が身近にあれば、たとえ警備員で一生を終えてもよいのではないか。
内心にハムレットやマクベス、オイディプスを住まわせている警備員は悪くない。
連日夜空を見上げながら、いつ亡霊が現われるのかと(ハムレット!)、
決して出現せぬおのが宿命を待ち続ける人生も捨てたものではない。

マクベスになりたいのである。つまらぬとわかっていても成功したい。
成り上がりたい。のしていきたい。
なにゆえマクベスは王座まで登りつめることができたのか。
断じてマクベスひとりでは、あのような出世はできなかった。
なにがマクベスを成功せしめたのか。
ふたつの助けがあった。魔女とマクベス夫人である。魔女とはなんであろうか。
この世ならぬものである。異界の住人だ。狂人と言い換えてもよいのではないか。
人間を超えるものとコンタクトを取らなければ、人間世界でのしあがれない。
それからマクベス夫人である。自分を信じて応援してくれる女性。

「マクベス」劇のおもしろさは成功の悲哀を描いているところである。
人間は、成功することでかならずなにか大切なものをうしなう。
その覚悟がなければ成功などできぬ。
マクベスは成功の結果として、唯一の支持者たる妻をうしなう。
友情や愛情とは、すっかり縁のない人生になってしまった。
人間はひとつの人生しか生きることができない。
こうでなかった人生は決して味わうことができないのだ。
なにがマクベスの人生を変えたのか。ダンカン王を暗殺した事件である。
言葉は人生を変えない。人生を変えるのは、いつも行動である。
暗殺直前のマクベスの述懐はこうだ。

「だが、こうして脅し文句を並べているかぎり、相手はびくともせぬ。
言葉というのは、実行の熱をさますだけだ」(P36)


ならば、もう言葉を並べたてるのはやめよう。
願わくば、人生でこのマクベスのセリフを言ってみたいものである。
こういう劇を生きてみたい。

「その手は食わぬぞ、運命め、さあ、姿を現わせ、
おれと勝負しろ、最後の決着をつけてやる!」(P55)