こういう情報は共有しなければなりません。
BSフジで放送中のドキュメンタリー情報番組「堂々現役~巨匠からのメッセージ」に、
脚本家の山田太一さんが出演します。
放送は12月14日の21時から55分。再放送は21日。
この番組のメインキャスターは福田和也なのですが、だいぶ痩せたようですね。
いえ、どうでもいい話です。

もちろんBSに加入していないわたしはこの番組を視聴できません。
数少ないつてを当たるつもりですが、おそらく無理でしょう。
不可能だったらいさぎよくあきらめます。断念します。
山田太一ドラマからわたしが教わったのは断念の美学だからです。
あきらめるのは弱いとばかりかぎらない。あきらめるのはある種の強さが必要だ。
努力すればみんな夢がかなうなんていうのは幻想に過ぎぬ。

どうしていまのテレビドラマは「前向き」なものばかりなのでしょう。
昨今のドラマを見ていて興醒めするのはテレビから説教されることです。
がんばろう。あきらめるな。前向きになろう。夢はかならずかなう。
シナリオ作家がみなみな、なにかおかしな宗教にでも入っているのかと疑ってしまいます。
それは広告主にとっては都合がいいのでしょう。
みんながんばってお金を稼いで必要もない新商品をたくさん買おうね。
ばんばん恋愛して実体価値にそぐわない高いだけの不用品をありがたがろうね。

反吐がでるほどくだらないではありませんか。
山田太一は断じて、このような「前向き」ドラマを書きませんでした。
「前向き」なラストを書いたとしても、裏にはかならずなにかの断念がありました。
「ふぞろいの林檎たち」の柳沢慎吾はいくら「前向き」になっても、
手塚理美や石原真理子といった美女には相手にされなかったでしょう。

いささか話が飛躍してしまいました。
BSフジを視聴可能なかたは、ぜひぜひわたしの代わりにこの番組をご覧くださいませ。

(ソース)
http://blog.television.co.jp/entertainment/entnews/2008/11/20081127_07.html
「日本の昔話」(柳田国男/新潮文庫)

→思ったことをいくつか書きとめておく。
まず日本の昔話には、どうしてエロがないのだろう。
老若男女を問わず、みなさん、その実お好きでしょう。
目を皿のようにして探したものの、該当するのは「瓜子姫」しかなかった。
留守番をしている美しい瓜子姫。
あまのじゃくにだまされ戸を開けてしまい、全裸に剥(む)かれ木に縛りつけられる。
いいじゃない、いいじゃない、こういうの。どうしてほかにないのかふしぎ。

それから動物にやさしくしようと思った。
なんでも小動物の命を助けてやったりすると、あとで娘のすがたでやってくるという。
お嫁さんになってくれるためである。
もてようと髪型やファッションにこだわっているヤングは人生の法則をわかってないんだ。
昔からのルールをヤングは知ろうとしないからいけない。
ポイントは小動物なんだよ小動物。
これからは困っている小動物がいないか注意しようと思う。

偶然のすばらしさを昔話から学んだように思う。
日本昔話の物語構造でよくあるのが、正直者が偶然から得をするというもの。
あとから強欲者が真似をするが偶然は二度は起こらない。
かえって欲深者は損害をこうむってしまうことになる。
偶然というのは一度きりしか起こらないのである。
ねらって偶然を起こそうと思っても決して成功しない。
これはなにか人生の深い智慧を暗示しているような気がする。
「山の人生」(柳田国男/岩波文庫)

→柳田国男は、いったいなにがすごいんだか。
都や村の人生以外に「山の人生」があると。
むかしは狂って山へ入ったものが少なからずいたという。
山人とよばれるけったいなものたちの記録も残っている。
精神病は狐つきということで医者いらずの祈祷程度で治ってしまった例もある。
子どもの神隠しもあったとさ。
いやあ、人生いろいろ。都の人生。村の人生。山の人生。
山があるから生きていられた人もいたのかもしれないね。

ところで、いま閉鎖病棟の狂人を野に放ったらどうなるのだろう。
町へ行って大量殺人をするのか、それとも山にこもるのか。
山にこもってくれるなら医療費が軽減できていいなんて言うものは
人非人(にんぴにん)だぞう♪
「遠野物語」(柳田国男/角川文庫)

→付・遠野物語拾遺。いまさらながら古典を読んでみた。
なんというかインターネットと正反対の世界だね。
非情報化社会のこゆ~い噂話=「遠野物語」かと思われる。
いつの時代の人間もゴシップが好きなようだ。
娯楽に餓えている田舎もんどもは、かといってテレビもインターネットもないので、
事実を何倍にもふくらませ、人間ならではのどす黒い不健康な知識欲を満足させていた。
その証(あかし)がこの「遠野物語」なのだろう。
他人の幸福はねたましいし、長者が没落したら手をたたいて大笑いしたいのが本音。
けれども、閉鎖的な村落社会でそれをやるわけにはいかない。
だから、「遠野物語」のようなふしぎな話が生み出されたのではないか。
幸福になったものは善行をしたから、不幸になったものは悪行の報い。
とりあえず、こういうことにしておいて、他人が悪いことをしてたんまり稼ぐのを防ぐ(笑)。
「遠野物語」は断じて健康な作品ではない。
よってたつところは、疑いもなく人間のマイナスの部分
――下世話、嫉妬、嘲笑、恐怖、無知――である。

物語は偶然を必然に変えるために必要なものである。
ある家で障害児が生まれたら、それは偶然ではなく、河童の子でなければならない。
ある家が火事で焼かれたのなら、その家は寺に不義理をしていたに相違ない。
人間はよほど偶然を怖がる生き物のようである。
かつての遠野地方の住民は、偶然をこのような物語で無害化した。
では、現代の日本人は、偶然をどのように処理しているか。
偶然を人間のちから(努力)で支配できると錯覚しているのがいまの日本人だ。
努力すればかならず幸福になれる。不幸なのは努力していないからだ。
努力して健康を保てば長生きができる。
あたかも人間のちからは万能のような捉(とら)えかたがされている。

たしかにこの現代日本の風潮と引き比べると「遠野物語」が魅力的になるのだろう。
それはわたしも認めるところである。
だが、この「遠野物語」自体に文学的な価値があるかのような見解には与(くみ)しない。
学問的な価値はあるのだろうが、文学作品として見た場合、大した魅力はない。
よほど時間がありあまっているものでなければ、読む必要はないと思う。
まさに学生のための古典なのだろう。古典作品にはこのようなものが多い。
若いやつはなにをするかわからなくて危なっかしいから、
古典でも読ませておこうと思いついたかつての支配階級は偉大である。

(追記)おっと、この「遠野物語」がまるっとぜんぶフィクションだという説もあるらしいね。
正直、フィクションならもちっとヒネリを入れてほしいところ。話がつまらん。
田舎もんの知能程度を模倣したというのならわからなくもないけれども。
「私の小説作法」(毎日新聞社学芸部編)絶版

→68人もの作家の小説作法が開陳(かいちん)されている。
みなさんどうやって小説を書いているのでしょう。
むかしの作家が多いようですが、耳を傾けてみるのも悪くありません。

「……小説家はむしろ、
自分で解決できないほどの矛盾や対立を背おいこんでいる方が、
たのもしいのである。
もしも、このような扱いにくい矛盾と対立が、自分の中にかくされていなかったら、
作家は、どうやって長編の中の人物たちに、
火花をちらす対話をやらせることができるだろうか。
いや長編ばかりではない。
きわめて短い小品にとりかかろうとする直前にも、何らかの迷い、
ためらい、恥を、つまり困った状態がなかったら、
彼にとって書くこと自体が意味がないこと、つまらないことなのである」
(武田泰淳P42)


これではまるでせっかく紹介してもらった仕事を
1日でばっくれるくらいの「どうしようもなさ」が、
作家には必要だと言っているようなものではありませんか。
いやいや誤読しているのかもしれません。

「電車の中や、寝床へはいってからも、場面、場面や心理の描写が文章となって、
頭に浮かぶ場合が、よい作品が出るようです。
したがって私は原則として、そういうふうに、
テーマが熟してこない限り、筆を執らないことにしています」
(大岡昇平P72)


やっぱ文豪なら締切なんて無視だよね!

「そこで私の小説は、私が作るのだといっても、
悟性の支配する範囲内の私ではなく、
無意識の世界が大部分を作りあげてくれているわけで、
したがってそこにはなんらの努力というものは伴わない」
(中村真一郎P128)


「寝ているうちに成功する!」みたいな怪しい成功本と変わらない?

「波瀾にとんだ母の一生は、また私の人生でもある」
(丹羽文雄P132)


持って生まれたものですね!

「『自分の好きな人を、小説の中に作りあげて、それで楽しんでいるんでしょう?』
と笑いながら訊いた人がいた。私は黙って答えなかった。
小説というものは、そんなものではない、と思う気持とは別に、
どこか真実に触れて来るもののあるのを、私はひそかに感じていたからだ」
(澤野久雄P216)


あんな人がいたらいいな。こんな人いないかな。
ドラえもん方式ですね。わかります。こころの四次元ポケットよ開けゴマ!

「私の小説は、いわば『物語風』とでもいう種類の書き方かも知れない。
聴き手があって、その聴き手に向かって、心に浮かんだ順序に従って話しをする。
一番原始的な、一番古風な方法である」
(宇野千代P249)


本質はいつもこのようにシンプルなのかもしれません。

「本当のところ、自分の小説作法の秘密などというものは、
いくらおだてられても、私といえども、決して人前に出したりはしないものである」
(瀬戸内晴美P12)


それを言っちゃあ、おしめえよ!
「姨捨」(井上靖/新潮文庫)絶版

→井上靖の初期短編を集めたもの。
「四つの面」というタイトルの小説が印象深かった。
ここで作家は、中国六朝時代を生きた、とある偉人の逸話を紹介している。
ある日、友人がこの男のもとを訪れると、男は女との情事にふけっていた。
男は見られているにもかかわらず平然と戯れを終えるとこう言ったという。

「どんなところを見られても、俺はいっこうに平気だ。
だが、ただ一つ、厠(かわや)にはいっている時だけは、
絶対に扉を開けないようにしてくれ」(P268)


また別の日、友人が訪問すると男のすがたが見えない。
さてはと思い、ほんの悪戯のつもりで厠の扉を開けると、果たして男はいた。
言わずもがなだが、厠とはトイレのことである。
便所の中で男は、全裸で髪を振り乱し、短刀を口に銜(くわ)えていたという。
ほどなくして男もその友人も非業の死を遂げることに相成った。
作者は中国の古人に思いを馳せる。
ちなみに、男の名は郭○(←かくぼく:漢字が出ない)という。

「それにしても、全裸で、髪を振り乱し、短刀を口に銜えていた郭○の姿は、
凄(すさま)じくはあるが、
人間の持っているどうすることもできない悲しみや怒りに触れ、それと同時に、
そこにある救いがあるように私には思われる」(P270)


引用文の主語を井上文学に替えてもおなじことが言えるのではないか。
ためしにやってみよう。
井上靖の文学作品は、凄じくはあるが、
人間の持っているどうすることもできない悲しみや怒りに触れ、それと同時に、
そこにある救いがあるように私には思われる。
この主語は宮本輝とも山田太一とも、いや日本人のみならず、
ユージン・オニールともアウグスト・ストリンドベリとも代替可能であるように思う。
願わくば、いつかわたしの名前も、この文章の主語にならんことを!
「霧の道」(井上靖/文春文庫)絶版

→物語を考えるうえで持って生まれたものというのは最重要条件ではないか。
「霧の道」はつぎの一文から始まる。

「三弥子が自分の顔に痣(あざ)があることを、なんとなく意識し出したのは、
小学校へ上がるようになってからである」(P225)


この痣が物語を作ってゆくわけである。
少女は思う。自分は他人と決定的に異なる。
女学生のころ親友の家で逢った画学生を三弥子は忘れることができない。
学生はふたりの似顔絵を描いた。三弥子の似顔絵には痣が描かれていなかった。
逆上した少女はクレヨンを取り上げ絵に痣をつけくわえる。
すると画学生は悲しそうな眼で言ったのである。

「莫迦(ばか)だな、自分の顔も知らないで!」(P240)

画学生は画用紙をびりっと破り、庭に捨てた。
この一回だけの出逢いが三弥子に恋心を抱かせた。
後年、少女は画家となった男に再会する。
画家のそばには美人で知的なきぬ子がおり、しきりに求愛していた。
ところが、画家は美少女ではなく痣のある三弥子に求婚するのである。
以降、画家をあいだに挟んだ三弥子ときぬ子の対立が、物語を進展させてゆく。

「芸術家なんて、持っているものは結局のところ一生変りはしないさ。
顔が一生変らないと同じことだと思うね。
ただその変らない顔が、空々しくなったり、ゆったりと落着きを持って来たり、
極く少しどこかの部分が変るんだな」(P324)

「『痣があるからわたし特別なのね』(中略)
痣そのものに対する特殊な意識からは解放されたが、小さい時から、
長い間痣のために自分が持って来た特殊な考え方は、
あるいは特殊な感じ方は、今もそのままそっくり自分は持っていると思った」(P335)


だれもが見える見えないにかかわらず痣を生まれ持っているのかもしれない。
このどうしようもない痣は人間をときに孤独にし、ときに寄り添わせる。
痣は見えないことのほうが多いだろう。
だが、どれほどわれわれはこの痣に生きかたを制限されているか。
物語とは、気ままな自由人の交歓ではない。
痣に縛られた囚人たちのうめきではなかろうか。痣は死ぬまで取れないのである。
「山の湖」(井上靖/文春文庫)絶版

→すべてのことは偶然である。
チビのダメリーマンが通勤ラッシュ時、満員電車にかけこんだら、
きれいなおねえさんのおっぱいに顔を押し込むことになった。
これが痴漢逮捕に相成るのか、大恋愛に発展するのかはわからないが、
男と女が出逢ったのはまったくの偶然である。
安手の小説はぽんぽん都合のいい偶然が起こるので読むにたえない。
上質の物語は、なぜだか物事が起こるように起こっているという錯覚を読者に抱かせる。
おなじ偶然なのに物語にするとどうして相違が生じるのだろう。

信仰のある作家のなかには偶然なんかひとつもないんだとさえ言うものがいる。
たとえば、遠藤周作や宮本輝である。どちらも物語を好む作家である。
偶然がないのならば、すべては必然なのか。
だとしたら、偶然を必然として描きだすことが物語創作の秘密なのだろうか。
さらに論をすすめると、どうしたら偶然を必然のように描けるのか。
歴史は必然ではないか。
歴史を概観するとき人間はなにかしらの必然を感じるものである。
だが、このさき日本の政治がどうなってゆくかは、
われわれ有権者の手にかかっているように思えるのもまた事実である。

すべて起こることを偶然ならぬ必然とみなすだけなら愚か者にもできる。
しかし、偶然を必然のようによそおって描く、
すなわち物語創作はだれにでもできることではない。
うっかり書くと偶然ばかりじゃないかと読者にあきれられてしまう。
実際あったことを書くのなら、それは神仏がわれわれに与えたもうた偶然なのだから、
物語の形式で描くことは可能である。
ところがまったくの無から、のちに必然となる偶然を、
人間に与えるためにはどうしたらいいのか。
われわれは神仏ではないのである。
これをやれるのが物語作家なのである。遠藤周作、宮本輝、そして井上靖――。

小説「山の湖」は三津子のもとにある手紙が届けられることから物語が動く。

「三津子は夏木から突然斯(こ)うした手紙を貰うことも予想していなかったが、
それよりも、夏木からの手紙が、誕生日という特殊な日に、
しかもそれを思い出して幾何(いくばく)も経たない時に、
自分の手に舞い込んだことに、なにか異様なものを感じた。
偶然ではない何か運命的なものがそこには匿(かく)されているような気がした」(P178)
「黯い潮」(井上靖/文春文庫)絶版

→行動を描くのが物語なのだと思う。
この小説の主人公は中年新聞記者の速水。下山事件のキャップを命じられた。
国鉄総裁の下山定則が遺体として発見された事件である。
おのおの新聞社は独自の見解を発表する。

「しかし、下山の死は自殺か、他殺かなんですからな」(P103)

ふたつにひとつである。速水は自殺路線を新聞で押し進める。
新聞記者には暗い過去があった。
新婚直後、二十歳の妻は男と駆け落ちして心中してしまったのである。
現在の事件と過去の事件が並行して物語られる。
速水の思惑どおり下山の死は自殺ということで落ち着きそうである。
喜んでいる同僚に向かって速水はヒステリックに食ってかかる。

「下山の自殺の原因について、つべこべ言うなよ。
死んだ原因なんて、死んだ人間しか、判っちゃいないんだからな」(P161)


いまだに妻の死をひきずっている速水であった。
速水は恩師の娘と再婚するか迷っている。
下山事件の取材を通して再度、妻の自殺を見直した速水は独りで生きてゆくことを決める。

だれかの行動がべつのだれかの行動に影響するのが物語ということになる。
行動する。なんらかの反応が他者の行動というかたちで返ってくる。
これを踏まえて人間は新たな行動を取る。
下山の自殺(?)も、妻の心中(自殺)も行動である。
速水の語るようにほかの人間の行動(自殺)の原因なんて本人しかわからない。
では、なにゆえ物語作家の井上靖は複数の人間の行動を巧みに描けるのか。

「下山の気持なんか、下山しか知っちゃあいないんだ。
他の者に判って堪るか! 死者に対する冒瀆(ぼうとく)はよせ!」(P161)


あるいは、こうも考えられぬか。
果たして自殺者は、自分の死ぬ原因がわかっていたのだろうか。
人間は自分の気持を正確に知ることが可能なのだろうか。
人間の行動はほんとうに本人が決めているのか。
このあたりに物語創作の秘密があるように思うのだが、どうでしょうか。
「道は開ける」(デール・カーネギー/香山晶訳/創元社)*再読
「人を動かす」(デール・カーネギー/山口博訳/創元社)*再読

→このたびの精神的なバブル崩壊にともない真っ先に読んだのがこれ。
カーネギーはすごい。なんとか死ぬことを思いとどまることができた。
むろん、こんな自己啓発書はごかましである。ウソである。
けれども、人間は自分をごまかさなければ、
ウソに頼らなければ生きていけないのではないか。
今回は破滅の寸前まで精神が恐慌をきたした。
ところが、破滅できないのである。持って生まれたものが破滅させてくれない。
堕ちようと思えばもっと堕ちられるのだけれど、堕ちることができない。
具体例をあげれば鴨志田穣のように堕落することができないのである。
わたしという人間の限界だと思う。

カーネギーの自己啓発書の効き目はすばらしい。
いまのわたしはノーリードの犬から吠えかけられても笑顔を崩さない。
そばでタバコを吸われてもにこやかにその場を退散するだけである。
なんとかいやな上司にぺこぺこできるくらいまでもっていきたいところ。
そのためにはなるべく本書を開くようにしなくてはならない。
毎朝、軽く読むのがいちばんなのだろう。
この2冊の本を支えに少しずつ自分を立て直していきたい。

「道は開ける」の勘どころをひと言でいうなら宗教になるのだと思う。
明日なにが起こるかはだれにもわからない。大きなものにお任せするしかない。
ジタバタするのはやめよう。人間を超えるちからを信じるしかないではないか。
「人を動かす」の根底にあるものは、あきらめになるのではないか。
自身を振り返ってみよう。あなたはあなたがいちばんかわいいでしょう。
これは地球上の全人類がおなじなのである。
だから、他人とつきあう最良の方法は相手を重んじること。
わたしがわたししか目に入らぬよう、みなもそうなのである。
だったら相手の立場になって考えるしかないではないか。
「道を開ける」はおのれの御しかたを、「人を動かす」は他人との接しかたを教える。
社会は二種類の人間で構成されている。自分と他人である。
このふたつの人間をなんとかうまく取り扱いながら生きていきたいと思う。
なぜ生きるのかは考えてはならないこととして。

過去の感想はこちら↓。
「道は開ける」「人を動かす」(2007年1月7日)
「道は開ける」(2006年1月27日)
「人を動かす」(2006年1月27日)