持って生まれた吃音症に悩んでいた時期がだいぶありました。
吃音、どもりです。みなさんのクラスにもひとりはいたのではありませんか。
つっかえて言葉がうまく話せないため、笑いものになっていた児童です。
村上春樹は「ノルウェイの森」でどもりの青年を嘲笑的に描写しています。
死ねよ春樹と思いましたが、一般の人間の吃音者への認識はこの程度なのでしょう。
当事者はたいがい死ぬほど苦しんでいるんですけどね。
言葉がつっかえて出てこない状態の人って健常者から見たらそんなにおかしいんですか。
あわてないで落ち着いて話せばいい、なんて思っているのでしょう。
ちがいます。吃音は癖というよりも神経症の一種です。つまり、病気なんです。
治るかといったら、ほとんど治らない。軽くなることはあるらしいですけれど。
わたしがどもりになった原因は判明しています。
父も吃音症。疑いもなく遺伝です。
父もどもりのせいでそうとう偏狭な性格になっています。
うまく言葉が話せない。相手と意思疎通ができない。
鬱屈した思いをかかえるのは必然です。
父の3人いる兄妹にどもりはいなかったと聞きます。祖父母も吃音とは無縁。
それなのにどうしてか父はどもりになってしまい、息子のわたしが引き継いだ。
子どもを作る予定(相手かな)はありませんが、万が一、子どもが生まれたら、
やはりどもりになるのでしょうかね。遺伝子学的に興味があります。
この調査に協力してくださる女性がいらしたらメールをお待ちしています。

文学的な両親を持ったものだと思います。
父は神経症(どもり)、母は精神病なのですから。
どもりはみごと遺伝されました。精神病もおそらく遺伝的には入っているのでしょう。
発病するかどうかは、ちょっとわかりません。
わたしの持って生まれたものです。
作家になりたいのは、この吃音が大きく関与しています。
うまく話せないのがいやなんです。たとえば、友人と酒をのんで話している。
寸鉄人をさすようなせりふが思い浮かぶ。ところが、言えないんです。
つっかえてしまう。なんとか言いにくい言葉を避けて内容を伝えたいと思う。
言い回しを変えて、必死のていで言い終えても、ぜんぜん意味をなしていない。
相手の理解していないのがわかるのです。
ああ、頭に浮かんだ通りのことが言えたらどんなにいいだろう。
吃音者は人生で数知れぬほどこの苦渋を味わわなければならないのです。
どもりはおもしろい話が浮かんでも相手にうまく説明できません。
話し言葉はつっかえるからです。発声できない言葉があるからです。
ところが、書き言葉だったら、たとえどもりでも自由に使用することができます。
思い浮かんだ最適の言葉を、計算通りの順番で、相手のまえに提示することができる。
吃音者にとって、こんな嬉しいことはありませんよ。
文章を書くのが好きなのはこのためです。
ここに書いたようなことをわたしは相手にうまく話せないのですから。
小説とは物語だと思っています。物を語る。
ねえねえ、こんな話があったんだよ。聞いて聞いて。
日本のフィクションの源流はこれではありませんか。ホラ話で場を盛り上げる。
わたしがやりたいのもこれなのだと思います。
ところが、どもりだから話者にはなれない。書き手になろうと思ったゆえんです。

他人に向かってどもりであることを告白するのは冒険なんです。
本人は吃音を隠してうまく話しているつもりですから。
吃音者はひとり残らず自意識過剰です。疾病がそうさせるのです。
この人間がどもりをカミングアウトするのは、どこかから飛び降りるような荒行になります。
吃音者はどもりであることを自身の根幹たる秘密として持たざるをえません。
わたしがどもりの悩みをはじめて他人に告白したのは9年まえの夏でした。
大学生で、夏休み。映画「ゆきゆきて、神軍」で知られる原一男監督の
主催するシネマ塾の合宿に参加していました。山口県の萩です。
若人よ、日本を揺り動かすような表現をぶちかましてみないか、というアジがよかった。
原一男先生には、当時通っていた早稲田大学で教わっていました。
合宿の夜、打ち上げみたいなことがあります。
原先生は全共闘世代なんですね。みんなで酒でものんで腹を割って話そうじゃないか。
師弟の別をとっぱらった和気あいあいとした世界を好む。
わたしは缶ビール片手に原一男先生のそばに近づいていきました。
大学の授業でも、なぜかわたしは原先生にかわいがってもらっていたのです。
なんの前置きもなく、ぽつりと告げました。
「原先生、わたしどもりなんです」
映画監督・原一男は「そうかあ」と受けとめてくれました。
ほんと受けいれられた、理解してもらったという気分になったものです。
このときわたしは生まれてはじめて他人に心を開いたのかもしれません。
たかだかどもりで笑われるかもしれませんが、当事者には深刻な問題です。
「そうかあ」と原一男先生はわたしの悩みを上手に引き取ってくださった。
「いいか」と名前を呼ばれました。
「どもりのやつ。指が欠けているやつ。カタワもんだな。
こういうやつらは刑務所に多いんだ」
原一男先生はひと息置きました。
「だがな、芸術の世界でもおなじだ。指の欠けたやつや、どもり。
障害を持ったものが多い」
だから、がんばれよと励まされました。それから――。
「おまえはかならずものになる」
これは教え子全員に言っているサービス精神あふれた言葉なのかもしれません。
生涯でいちばんの思い出となっているすてきな夜の話です。

いまではすっかりどもりを克服しています。
吃音症が治ったというわけではない。どもることが気にならなくなったのです。
きっかけは母の自殺です。さんざん書いたように目のまえで飛び降りられてしまった。
悪口ざんまいの日記を遺されたうえです。
どう言ったらいいのか。ちっぽけな不幸がでかい不幸に塗りつぶされた。
どもりが地獄だと思っていたら、ところがどっこい、そんなものは地獄ではなかった。
母の自殺によって、どもりなんてどうでもよくなったのです。
もはやどもりどころではない。どもりがどうした、という開き直りです。
母の自殺のあとだいぶ原一男先生のご厄介になりました。
父がどもり、つまり神経症で、母が精神病であったこと。
どのようにして神経症の父がエキセントリックな母を愛するようになったのか。
父の成育環境から、母の生い立ちまで話しました。
ふたりは出逢った。結婚してわたしが生まれた。
母が息子のまえで絶命するまでの物語をわたしはふしぎとどもらずに話しました。
原先生はどんなカウンセラーよりもうまくわたしの話を聞いてくださいました。
最後に感想らしきものをひと言、いただいたのです。
「親の因果が子に報いるって言葉があるが、そうとしか言いようがないな」

表現を命がけで志してから早9年。さっぱり、ものになりません。
好きなことをやりつづけてみろ。かならずだれかがおまえを見ていてくれるからな。
ひよるな。表現をするなら大きなものを目指せ。日本を揺り動かすような表現をしてみろ。
恩師・原一男先生のお言葉を懐かしく思い出します。
しかし、ほんとうに師の恩に応えられない不肖の弟子です。
いちばんの恩返しは、世に出て、
いまのわたしがあるのは原一男先生のおかげです、と感謝することなのですが。
いささか吃音症から話が飛躍してしまったかもしれません。
いや、飛躍してはいない。
いまもってこの生まれ持った業病は、わたしの精神の根深いところで幅をきかせている。
ちっともどもりを克服していない。
吃音は治すものでも、克服する対象でもないというのが正しいのかもしれません。
なぜなら持って生まれたものだからです。
父と母が与えてくれたものを棄てて人は生きるわけにはいかない。
わたしはわたし以外のなにものにもなれない。表現の原点です。

(追記)どもりの有名人として知られているのは大江健三郎と重松清ですね。
大江健三郎の吃音は治ってしまったようです。
後年、どもりの会(言友会だったか)から公演を依頼されて、
にべもなく拒絶した大江は笑えます。
重松清はどもりを商売道具にしています。テレビに出演してどもりまくっています。
すわ吃音利権を奪われたか、と悔しがったものです。
このつぎに狙うべきなのは自殺利権でしょうか。
タイトルは日本ウソツキクラブの会長だった故・河合隼雄氏の名言のひとつである。
なにしろすごい会の、それも会長さんだから、この言葉の真偽は定めがたい。
ウソであれほんとうであれ考えさせられる文句ではないか。
人気作家を考えてみよう。だれからも好かれる作家は少ない。
強烈なアンチを持つのとまったくおなじ理由で、
その作家はべつの読者から心酔されているのである。
太宰治など、その典型であろう。
とはいえ、「ふたつよいことさてないものよ」で、だれからも嫌われない作家もたまにいる。
夏目漱石なんてそうではないだろうか(だれも読んでいないだけかもしれないが)。
我われは年収1千万の人間にあこがれる。
だが、冷静に考えてみると、この人物はいくら税金を払っているのだろう。
最低の政治家連中に大金を渡さなければならないのはさぞ悔しいのではないか。
もちろん、年収1億円で脱税に成功しているものがいないわけではない。
河合隼雄氏も指摘しているが、
「ふたつよいことさてないものよ」のキモは「さて」にあるのだろう。
ふたつよいことはまったくないわけではないが、まあ、めったにないのである。
この「さて」のとぼけた感じがとても好きである。河合隼雄氏の魅力であった。
あらためて日本は偉大な人間をかつて持ち、そして失ったのだと思う。

(注)「ふたつよいことさてないものよ」は「こころの処方箋」(新潮文庫)に登場する。
人は不幸というとマイナスイメージしかいだかないようだが、そうばかりでもない。
不幸になると酒がうまくなるのだ。酒の味がわかるようになる。
ここで酒のみならず文学の味もわかるようになると書いたら、
(まこと正しいけれども)嫌いな文学論になってしまうので、これ以上は言及しない。
どうしてか不幸は人をして酒の味覚を発達せしめる。
おそらく飲酒が夢想、幻想、すなわち現実逃避の入口なのだからと思う。

これはよいのか悪いのか。
最近、酒の味がめっきりわからなくなった。
不幸からいくばくか遠ざかったということなのだろう。
ウイスキーをロックでのむことがなくなった。
かつての不幸絶頂期なら、
ほとんど生(き)のままのウイスキーをいくらでものむことができた。
そのうえ、うまかった。酒精を堪能することができた。
このところは、もっぱら炭酸割りである。

あのころが懐かしいとも、もう二度と味わいたくないとも、思う。
だが、わたしは知っている。
勝利の美酒より、よほど敗北のやけ酒のほうがうまいことを。
順風満帆な成功者は、ほぼ酒の味を知らぬと思ってよい。
ゴキゲン!
大失敗をしてしまったと思ったら、とんだラッキーが。
ビックカメラのポイントカード。思えば1年以上、使っていない。
あわわ、いくらだったか、ポイントが入っていたのにやっちまったぜ。
カードの裏には有効期限が1年としっかり記載されている。
まずった。泣きたい。おカネをどぶに捨てたようなもんだ。
しっかし、なのだ。電話で問い合わせてみたら大丈夫とのこと。
いまはポイント使用期限が2年間に延長されているらしい。
これはタナボタ。さっそく池袋ビックカメラでお買い物。
ポイントは2500円も入っていたことが判明。
健康器具コーナーで歩数計を買おうと思う。
ところが、種類がいっぱいあって、どれがいいのかわかんないよ~。
おばさん、いやベテラン店員さんがそばにいたので質問。
「あの千円前後の歩数計でおすすめってありますか」
即座にひとつのメーカーを推薦される。じゃあ、これにしますね。
最近、迷ったときは偶然にまかせるようにしている。
ポイントでご精算。ただで歩数計が手に入ってしまった。

歩数計(オムロン)980円→無料

1階へ。そうだ! ずっと携帯電話を換えようと思っていたのだ。
もう4年近く、いまの機種を使用している。いつ壊れてもおかしくない状態。
こういうのは勢い。いま機種変更してしまおう。
エーユーの携帯コーナーにおもむく。店員さんにいろいろ聞く。
驚いたのは、いまって機種変更0円じゃないんだね。
4年使っていても新機種を求めるとなるとウン千円かかるとのこと。
よくわからないのだけど、今日はジャイアンツ優勝セールで88円の携帯があるとのこと。
だけど、携帯の料金設定というのはわかりにくい。
考え抜かれた計算式のもと決められているのだろうけれど複雑すぎる。
店員さん、才能あります。わたし、徹底的に質問します。即座に逐一お答えくださる。
うん、これは才能。とても真似できるものではない。
とはいうものの、こちらのあたまのなかはチョコレートパフェ。
「あのう、せっかくですが、一度家で考えてみたいのですが……」
「もちろん構いませんが、この価格はジャイアンツ優勝セールですから、次回は」
損をしたくない!
「買います。これでいいです。お願いします」

携帯電話 W62K(京セラ) 88円

いま調べてみたら、これジジババ向けらしい、あはっ。
わけのわからん機能は廃して、使いやすさを重視したタイプだってさ。
うん、いいよいいよ。どのみち携帯なんて通話とメールしか使わないから。
携帯でテレビなんざ見たくはない。

せっかく池袋に来たのだから都内最大売場面積をほこるジュンク堂書店へゴー。
ほしい本がある。岩波文庫、今夏の復刊だからまだあるはずだが……。

「往生要集 (上)(下)」(源信/ 石田瑞麿訳注/岩波文庫)1680円

1階のレジへ。いつもはずらりと女性店員なのだが今日は男性が多い。
ふたつ空いた。イケメンとキモメンである。
人と違ったことをしたい! キモメン店員に岩波文庫をさしだす。
ところが最低最悪! いままでこんなひどい客あしらいを受けたことがない。
キモメンはわたしの手から本を(まさに!)奪い取ると有無を言わさず袋へ投げ込む。
怒りよりも哀しくなった。
「あのねえ、あなた。ふつうブックカバーをつけるかどうか聞くでしょう。
そういう接客はないのではありませんか。
だったら、こっち(イケメン)のレジに並べばよかったじゃない」
男はロボットのような声で「すみません」と発話する。
ブックカバーをお願いする。
「いやね、わかるよ。安いバイト代でそんな愛想なんてふりまけないよね。
だけどさ、あんまりじゃないかな」
どうせ、おまえ、おれが美少女だったら丁寧な応対をしたんだろう!
本心はこう問いただしたかったが、趣味が悪いのでやめた。

やりきれない思いで店外へ出る。
美男美女の店員から失礼な接客をされたことはほとんどない。
相手を舐めたような応対をする店員は決まって……。
いや、かれらだって、もし客が美男美女なら……。
顔が悪いと性格も悪くなるというのは真実なのだろうか。
もとより自身をかえりみたら明々白々なのだが、そうではないと思いたいのである。
いつまでも理想を追い求める自分がいやになる。
それにしても、この世はせちがらい。

丸の内線で後楽園へ。ここから神保町まで歩く。
途中にある古書店のワゴンをひやかしながらである。
神保町の古本屋をひと通りまわるも収穫はゼロに等しい。
唯一は恒例の小宮山書店ガレージセール。

「異国の星 (上)(下)」(井上靖/講談社文庫)絶版 200円

思えば、三省堂書店神田本店も久しぶりである。
どんな新刊が出ているのか店内をキチガイのような荒々しい眼で物色する。
勝間和代さん、なんだかすごいことになっとるYO!
この世で恵まれている人はいいよな。どれだけ楽しいのだろう。
勝者と敗者をへだてる壁は厚い。
もうあの世に期待をかけるしかない。よし、ここは南無阿弥陀仏だ。
とうとう親鸞の「教行信証」を買う羽目におちいったか。
だけんど梅原猛によるとガチで難しいそうだからな。バカのおいらは心配だ。
岩波文庫で買っていいのか。そうそう!
わたしは日本古典は新潮社の古典集成で読むことにしている(ヨンダだからね!)。
たしか新潮日本古典集成に親鸞の巻があったはず。
こういうときは大書店の強み。店員さんにありかをたずねると4階とのこと。
ううむ、新潮社の集成は「歎異抄・和賛」で「教行信証」は入っていない。
なら岩波文庫で買うしかないのか。校訂の金子大栄は嫌いなんだけど。

およよ、これはなんだ? 日本古典文学コーナーの横に臨時の古書ブースがある。
老舗の三省堂書店も古書店との提携を始めたようである。
見ると、関心はどんぴしゃり。演劇コーナーがある。
軽い気持で棚を眺めると、この4、5年、ずっと探していた古書がある。それも2冊だ!
いったいこれはどういうことだろう。この本はどこにもなかった。
日本全国の古書店を網羅するネット販売でも見つけられなかった戯曲である。

「氷人来たる」(オニール/石田 英二・井上宗次訳/新潮社)絶版 1890円

署名入りのほうを購入。「田所茂様 恵存 井上宗次」と書かれている。
田所茂がなにものか、いまググったがわからなかった。
いやあ、生きているもんだね。
ユージン・オニールの「氷人来たる」を入手できる日が来るとは。
これを読んだらもう死んでもいいよ。悔いはない。
死んだあとは浄土へ行こう!

「教行信証」(親鸞/金子大栄校訂/岩波文庫)630円

ついでだから親鸞の師匠、法然の「選択本願念仏集」も買おう(読もう)と思ったら、
店内在庫には汚れがある。どうせ定価で求めるのなら美品で買いたい。
神保町を徘徊する。東京堂書店、書泉グランデには在庫なし。
交差点の横に岩波の直営店があったと思い出す。
行ってみるとすでに閉店している。

ふたたび池袋ジュンク堂書店へ。今日2回目である。
こうなったらやけくそ。なんでも買ってしまおう。

「選択本願念仏集」(法然/大橋俊雄校注/岩波文庫)630円
「天台小止観」(関口真大訳註/岩波文庫)630円
「酒場のオキテ」(吉田類/青春文庫)580円


シナ仏典の「天台小止観」が630円で買える国など日本をおいてほかにあるまい。
執筆時(=本日)のドル価格は驚愕の92円! キチガイめいた円高である。
勤勉な日本人のパワーは、岩波文庫を見たらわかるのかもしれない。
円高で大損をする国外輸出向け企業には、どうにも言葉のかけようがありませんが……。

ともあれ、今年の目標ができた。浄土仏典を読了したい。
今日購入した智(ちぎ)、源信、法然、親鸞の書物をなんとか本年中に読み終わろう。
浄土信仰をかためるためである。
いくらこの世で犬死にしようともあの世なら……という希望だ。
勉強しよう。もっともっと勉強しなくてはならない。
死ぬくらい勉強しなくては。できるのは勉強だけだ。
血を吐くまで勉強しようと思った。ゴキゲン!
いま世界の経済がぶっ壊れようとしています。
言い換えれば、資本主義社会の崩壊です。
我われはソ連解体で社会主義(共産主義)の崩壊をあざ笑いました。
しかし、どうしてこちらの資本主義が正しかったといえましょうか。
いま世界で起こっているのは、ひと言でいえば資本主義の終焉です。
発達した資本主義が必然として複雑な金融工学を産みました。
モノがカネを産む段階から、カネがカネを産む段階に進歩=変化=退歩したのです。
結果が、投機マネーの暴走。
人間はみずからが発明したカネ(貨幣)に逆に支配される存在に成り下がりました。

資本主義とはなんであったか確認しましょう。
もちろん、学問的にではありません。
庶民の眼からであります。
安いものを買う。これが古い資本主義の大原則です。
安いものはいい。高いものは悪い。もとより、これは消費者の話。
労働者としては、給与が高いほどいい。安いのはよくない。
とはいえ、これはおなじ資本主義倫理に支配されているといえましょう。

先ほどテレビで「デパ地下の怪人」を見ました。
実演販売のカリスマです。
高級和牛でもなんでも顧客に買わせてしまう実力者。
かれがこう言いました。
「お客さんはお買い得だから買うのではありません。
損をしたくないから買うのです」
このような市井人から真実が告発されるのだとたいへん感動しました。
たしかにそうなのです。
安いから買うのではない。損をしたくないから買う。
少なくとも、わたしが今年に入ってから購入したものは、すべてこの理由からです。

これをいま買わなかったら損をしてしまうかもしれない。
得を考えていないのです。損しか考えていません。
これが最高度に発達した資本主義社会のすがたではないでしょうか。
今現在、世界金融危機で地球全体が揺れ動いています。
資本主義の最終形態といえましょう。
このカネの流れを動かしているのはなにか。
断じて得をしたい、ではないと思うのです。
損をしたくないではありませんか。
この株安のチャンスを逃さなかったら大損してしまう。
銀行に預けていたら大損失。
こう思うことから投機マネーは生まれるのではないでしょうか。

いまわたしはほしいものがありません。
必要なものはあるけれど、心底からほしいものはなにもない――。
これはわたしだけなのでしょうか。みなさんも本心ではそうお思いではありませんか。
ところが、これでは消費がとどこおってしまいます。
我われはおカネを遣わなければなりません。しかし、なにもほしくない。
この期におよんで、損という概念が生じるのではないでしょうか。
これを買わなかったら損をしてしまう。
いまの日本社会の消費行動の第一の理由はこれだと思うのです。
損をしたくないから――。
世界金融危機もこの理由のため生じていると思うのですが、いかがでしょうか。

ご賢察をお待ち申し上げております。

資本主義=「モノがほしい」→「カネがほしい」
「通夜の客」(井上靖/角川文庫)絶版

→ひでえ作品だな。小説的にも倫理的にも、これはひどい。
昭和24年に発表された「通夜の客」は「猟銃」「闘牛」につぐ第3作品。
かつての愛人、白神喜美子によると翌年「闘牛」で芥川賞を受賞するまえに、
すでに完成していたとのこと。
物語作家の井上靖にはめずらしい私小説である。
いや、正確には私小説ではない。
このころ井上靖は、ふみ夫人と愛人の白神喜美子との板ばさみに苦しんでいた。
作家は京都で愛人と暮らしながら、ときおり妻子の住む東京へも顔を出す。
二重生活である。愛人の存在は妻にばれている。
井上靖はどうして妻子のもとに戻らないのか。
愛人といたほうが霊感を受けるからである。小説創作の情熱がわく。
残酷だが、ふみ夫人は文学に通じる熱いものを生来、持っていなかったのだろう。

井上靖はおのが火宅をどのように描いたか。
愛人の立場から描く。女になりかわる。
まず作家本人を思わせる42歳の元新聞記者を脳溢血で殺す。
男は終戦を機に新聞記者を辞め宣言する。
3年間田舎の山奥で晴耕雨読の生活をするというのである。妻子は東京へ残してだ。
3年目の今年ようやく東京へ戻ってきたが、かつての同僚と大量飲酒したため死にいたる。
通夜である。若い女性の客が登場する。焼香を済ますとすぐさま場を後にした。
この女の手紙が小説の大部分をなす。出すつもりのない手紙である。
女は3年のあいだ山奥で男の愛人をしていた。

「由紀さん(=男の本妻)、私はあなたに読んでいただきたくて、
これを書き始めたんです。
私は自分の生命を賭けた果し状のようなつもりで、これを書いて行きます。
あなたがこれをお読みになってどんな気持がなさるか、
勝ったと思うか、敗けたと思うか、
あるいは私を憎いと思うか、可哀そうだと思うか、
一切そんなことについて私は知らない。
あなたが悦ぼうと悲しもうと、そんなことにお構いなく、私はこれを書いて行きます。
書かずにはいられない気持だから書いて行く」(P177)


この女の書く手紙というのが、まこと男、ひいては井上靖にとって都合がいいのである。
女は一途に妻子ある男性を愛する。報酬を求めない無償の愛である。
ときには嫉妬をする。しかし、この苦しみを愛で乗り越える。
井上靖の実体験を思わせる男女のいさかいの描写に、
作家の裏事情を知るわたしは苦笑を禁じえない。
結局、この聖女は嫉妬も男の死も、愛ゆえ克服することに成功する。

井上靖は、いい気なもんだ。
「通夜の客」である女は、永眠する男の顔にかけられた白布をさっとはずした。
一瞬、男の死に顔を見たのである。
そのとき、男の目元が少し動いた。あれはいったいなんのメッセージだったのだろうか。
この疑問が物語の終局で解決する。
あれはきっと「ありがとう」と伝えたかったのだと女は悟るのである。
作家の自己中心主義にあきれてしまう。
井上靖はこの「通夜の客」を発表のまえ愛人に読ませて感想を聞いているのだから。
愛人にこの聖女を見習ってくれといっているに近い。
どうかあまり騒がないでくれ。感謝している。だから、おれを愛してくれ。

一般に人格者のように思われている井上靖のとんだ裏面ではないか。
むろん、わたしは井上靖を非難するつもりはない。
芸術とはこういうものだからである。
食うか食われるかの人食い地獄を経なければ、めったな芸術作品など生まれはしない。
「通夜の客」で井上靖は自身の地獄を、さも美しい物語のように偽装した。
こういうごまかしのもと書かれた小説がおもしろくないのは仕方がないのだろう。
途中で投げ出さないで最後まで読んだのは、作者のプライベートに興味があったからである。

今月の12日、井上靖の妻でエッセイスト(笑)のふみ氏が亡くなった。
ふみ夫人はどんな気持で「通夜の客」を読んだのだろう。
小説内でこんな描写がある。

「勝ったと思うか、敗けたと思うか」

井上靖の正妻として98歳まで長生きしたふみ夫人は、
果たして死ぬ間際、夫のかつての愛人、白神喜美子に勝ったと思ったのかどうか。
もとより、だれをしても聞けぬことである。
だが、この地獄からしか文学は生まれないのだと思っている。
「春の嵐」(井上靖/角川文庫)絶版

→芸術家は孤独だという。芸術の創作は孤独な作業だという。
これはウソではないだろうか。いくら芸術家でさえもだれかを必要とする。
いや、芸術家こそ、もっともだれかを必要とする人種ではなかろうか。
さみしげな幼児を思い浮かべてはいけない。かれは人食い人種なのだから。
芸術は、生きた人間を丸ごと頭からかじりつくほどの食欲から創られるのではないか。
芸術家はだれかを必要とする。
師匠かもしれない。愛妻かもしれない。愛人かもしれない。編集者かもしれない。
いずれにせよ、だれかと食うか食われるかの修羅場を経ないと
芸術作品は生まれないのではないか。

我われはすでに井上靖が愛人、白神喜美子の人生をめちゃくちゃにしたことを知っている。
「花過ぎ 井上靖覚え書」参照
昭和27年発表の「春の嵐」は、白神喜美子の助力がなかったら完成しなかった作品。
愛人はかつてダンサーとして働いていた。
このときの同僚に不良少女「おけつちゃん」がいた。
白神の紹介で作家はこの少女と逢う。
ふたりはすき焼きでサントリー大瓶を1本空けたという。
この際、井上靖の耳に蓄積された物語が、この青春小説の原型になっていると思われる。

5人のダンサーの青春群像である。夢と希望を持った少女たちの青春は美しい。
恋心をあきらめ無難な結婚におさまる少女がいる。
純潔すらも大金と引き換え、女事業家に成り上がる踊り子もいる。
かと思えば、国際ギャング団に入るもの。恋破れ田舎に戻る美少女。
妻子のいる画家に一生を捧げるダンサーがいる。
どうしておなじ年代の少女の人生がこうも多様に枝分かれしていくのか。
持っているものがそれぞれ違うからである。
40を過ぎてようやく文壇デビューした井上靖の達観といえよう。

「人間の世の中には幸福と不幸の星が、
節分の豆のようにばらばらとばら撒かれている(P12)

「よくも短い期間に、これだけダンサアができたと思われるほど、
終戦は大量のダンサアを生み出したものであった。
しかし、第一期の清子、オミツ、美代子を初めとする二十人ほどの連中が
一番人間として面白いものを持っていた。
他の連中が決して持っていない、何かを持っていたようである」(P53)

「(事業家の)彼がどうして百人近くいるダンサアの中で、
目立たないおけいさんに眼をつけたか、わたしには理解できなかったが、
無理にその理由を探せば、彼女の持っている目立たない、貧し気な、影の薄い、
要するに左近鉄平の持っているものの正反対のものに
なべて惹かれていたのかも知れない」(P111)

「オミツのように不良上がりの女の子の見る男性観は、
わたしたちの持ったそれとは全く違っているようだった。
人間の持っているものの本質を見抜く眼力にかけては、
あるいは彼女らが一番確かなものを持っていたかも知れなかった」(P115)


あなたの持っているものはなにか。わたしの持っているものはなにか。
宝石なのだろうか。それとも、ただの路傍の石なのか。
肝腎なことは、人間は持っているものを交換できないということである。
なぜなら、そもそも自分がなにを持っているのかさえ知るのが難しい。
この持っているものに従い、人間は異性に恋をするのであろう。
あるものはいっときの幸福を味わい、べつのものは不幸にひた走る。
幸福も不幸も大した相違はない。というのも、どちらもいずれ終わるからである。
臨終にいたって人間は持っているものの返還を迫られるわけである。
「何も持たず存在するということ」(角田光代/幻戯書房)

→人気作家の最新エッセイ集を読んでみた。
角田光代はいかにもだれからも嫌われないような優等生の物書き。
だからダメという人も多いのかもしれない。

30歳を過ぎてようやくわかったのは、女は男とはまったく別の生き物だということ。
もしかしたらおなじ人間だと思うのが間違えているという可能性もある。
このため女流作家のエッセイを読むのは動物園を見学するような楽しみがある。
もとより、大人に動物園がおもしろいはずがない。
けれども、酔っぱらっていたら話がちがうのである。
たいがいの動物園は酒を禁じているから、この愉楽はなかなか知られていない。
実のところ、酒をのんで動物を見物するのはなかなか悪くない。
カンボジアや中国で、よくやったものである。
酒をのみながら角田光代のエッセイ「何も持たず存在するということ」を読んだ。

おそらく著者は書いたことの重みを気づいていないのだと思われる。
しかし、驚くべき記述があった。
角田光代は長いこと携帯電話を持っていなかったという。

「ところが不便なこともあった。編集者からの電話である。
『こないだの小説のタイトルはまだ決まらないのか、今すぐ決めてくれ』だの
『この小説の、ラストの部分がどうしても納得できない。至急変えてほしい』
だのという電話だ」(P72)


言うまでもなく、直木賞を受賞するまえの話だろう。
それにしてもと驚いた。編集者の権力はこうまで強かったのか。
たかだかひとりのサラリーマンが気に入らなかったからという理由で、
作家は小説を書きなおさねばならなくなるとは。
収入の不安定な作家が、まさか編集者の注文を断わるわけにもいくまい。
最近思い当たったのだが、文壇の最後のタブーというのが編集者ではないか。
編集者の正体が客観的に明かされることは少ない。
なぜなら編集者は、不利益になるものを揉み消せる立場にいるのだから。

天下の直木賞作家、角田光代でさえ、かつては編集者の言いなりであった。
作家志望者はみな、この事実の意味することをよくよく噛みしめなければなるまい。
「医師がすすめるウオーキング」(泉嗣彦/集英社新書)

→恥ずかしいのでいまでも公開するのはためらわれるが、
4ヶ月ほどまえからほぼ毎日ウオーキングをしている。
断じて健康オタクになったわけではない。
医者からすすめられたということもない。歩いてみたら気持がよかったんだよね。
むかしから歩くのは好き。
引越してから近所に散歩コースのようなものがあるのも好都合。
ほんと健康キチガイになったのかと疑われるほど毎日長時間歩いている。
「レ・ミゼラブル」の影響ということにしておこう。
かの長編小説で恋わずらいに悩む青年が毎日散歩をするという描写がある。
おい、なんか散歩って文学的じゃねえか、おまいら! と真似をしたくなった。

なんの気なしに読んだこの新書に驚愕の事実が書いてあったのである。
わたしからしたらノーベル賞をあげてもまだ足らないくらいの新発見だ。
医師の著者は、データをだしてウオーキングをしたら肝機能もよくなると書いている。
いや、正確には異なる。

「歩くことが生活習慣病を予防・改善するメカニズムについては、
まだ詳しくわかっているわけではありません」(P88)


とはいえ、本書記載のウオーキング実践例、4つすべてで肝機能が向上している。
酒量を減らすしか肝臓をよくする方法はないといままで思っていた。
もしかしたらウオーキングで肝機能が復活するのだろうか。
でも、しかし、どうして? 
いやいや、まだまだ科学には証明できないことがあるに相違ない。
死ぬ最後の日まで酒をのみつづけたいと思っているわたしに、
この本はとびきりの希望をもたらしてくれた。
どのみち早くて40、遅くても50には死ぬのだろうと思っていたアル中だが、
趣味のウオーキングのため人生設計の変更を迫られることになるのかもしれない。

※実際、ウオーキングを始めてから肝機能の調子がいい。
いちばん最近の血液検査でも肝機能は上昇していたので驚いた。
恥ずかしくも酒は、友人の実家の別荘で朝からのみ、作家の白石昇とも激しくのみで、
まったく肝臓には気を遣っていなかった、にもかかわらずである。もしやもしやこれは……。
「ヤマトタケル」(梅原猛/講談社)絶版

→梅原猛が60を過ぎて初めて書いた歌舞伎脚本。
市川猿之助が演出、主演。スーパー歌舞伎として大当たりを取った作品である。

梅原猛の文章は読者を煽り立てるような狂熱を持っている。
その意味において、
この哲学者の膨大な著作群は純粋な学問とは言いがたいのではないか。
疑いのまなざしで梅原をみるものも少なくないだろう。
あまりにも詩的な表現が多いのである。
学者の思い込みが強いため、情念のこもった文章になってしまう。
正確性を第一義とする学問からみたら、これはマイナスにならざるをえない。
というのも、学問の世界では正しければ、たとえ退屈でもなんでも構わないのだから。
したがって梅原猛の姿勢は、正統的な学者像から逸脱している。
梅原は事実(こうである!)よりも願望(こうであったら!)を重んじる傾向がある。
熱烈な夢想から仮説を立て、無理やり事実をねじまげることで、
仮説の正しさを証明する――といったような、
およそ曲芸に近いことをやりかねない危うさが梅原にはある。

ところが、これこそ人間・梅原猛の才能なのである。
既存の事実にさえ変更を迫るほどの強い情熱を梅原は生まれ持っている。
さあ、問う。果たして事実は人間の熱望で変わらないと言い切れるだろうか。
事実とは、それほど確固たるものか。
事実が人間の燃えるような情熱で焦げつかないとだれが断言できよう。
わたしは事実もまた人間とおなじく変わりうると思っている。
(もとより梅原がこの意見に与すことはなかろうが)
この立場から、梅原猛を日本知性の最高峰に屹立する学者として仰ぎ見る。

大学者・梅原猛が劇作を手がけたらどんな作品に仕上がるのか。
読むまえの期待は高かった。
壮大な研究をものにした梅原の文学的素養はどのような作品に結実するのか。
歌舞伎台本「ヤマトタケル」は思っていたほどのものではなかった。
あまりに理路整然としているのに驚く。礼儀正しいのである。
学問の世界ではアウトローな魅力が輝いたものの、
ひとたび芸術の世界に入れば異端はむしろ凡庸な属性に成り下がることを知る。
高校では番長だった不良学生が、ヤクザの世界に足を踏み入れたようなもの。
梅原の評論でみられたような病的なまでの熱気がからきし感じられない。
すぐれた戯曲の多くが、作品世界に病みを隠し持っている。
「ヤマトタケル」には読み手を巻き込むような狂気が欠如しているのだ。
まるで教科書のような正しい劇作であった。
言うまでもなく、芸術は正しければいいというものではない。

スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が大ヒットをしたのは、演出と役者がよかったのだろう。
そもそも戯曲をみにくる歌舞伎ファンなどいるわけがない。
言語芸術の新劇とは異なるのである。歌舞伎は身体芸術。
せりふなどたとえ聞き取れなくても一向に構わない観客が大勢いよう。
梅原猛の脚本の長所を強いてあげればなんになるのだろう。
作者の名前ではないか。
そこいらの人間が歌舞伎の脚本を書いても、見向きもされないのが通常。
学者として名を馳せた梅原猛の作品だから歌舞伎にのせられるという理屈だ。

学力ならぬ芸力を考えるうえで興味深い作品である。
学問と芸術、ふたつの世界がある。
両方の世界を制覇するのは相当にむずかしいことのようだ。
とはいえ、学問をするとき芸力が武器になるのは梅原が証明した通り。
おそらく芸術創作の際に学力が役立つこともあるのだろう。
そして、学力と芸力を混同すると、ときに悲劇や喜劇の生じることがある。
どちらの力も持ち合わせぬ凡愚の身には、やはり梅原猛は巨人である。
「ヤマトタケル」からわかるのは梅原の学力と芸力が同程度ではなかったことで、
この学者の半分の芸力しか持ち合わせぬ自称芸術家などいくらでもいるのだから。
「君は弥生人か縄文人か」(梅原猛・中上健次/集英社文庫)絶版

→「嫌いな作家はだれ?」という質問は相手の性格を知るうえで役立つ。
もうひとつ、お役立ち情報を。この質問も人間理解に有効よん。
「どの作家の愛読者が嫌い?」
「好き」よりも「嫌い」なものを問うほうが、よく人間性が現われると思う。
なぜなら人は好きなものでは見栄を張るが、嫌いは感情だからウソがつけない。
長い前置きになった。
わたしは中上健次の愛読者ほど嫌いな人種はいない。
大江健三郎の愛読者より嫌いと書いたら、
どれほど忌み嫌っているかわかるだろう(わかるわけねえだろ!)。
ちなみに中上、大江、両氏は決して嫌いではない。
どちらの作家もある時期、夢中になって読み込んだことがある。
だからこそ、愛読者が嫌いと断言できるのである。きみたち痛いよお。

くだらないことを書き連ねたのは、この本が悪い。
対談本だから仕方がないのだろうが、中身がすかすかなのね。
けれど、中上の信者は、こんな本でも聖典のように奉るのだから笑止。
引用しよう。

「梅原 今の作家で誰がいいですか、中上さん。
中上 今の作家で、誰もいませんねえ、ぼくしか(笑)」(P205)


( ゚д゚) ポカーン

あのう、質問していいですか?
中上先生の発言の最後に(笑)がついているけど、なにがおもしろいんですかね。
なんかおかしなことを、だれか言ったのでしょうか。
たまに「中上で文学が終わった」とかいう人がいます。
あれもお笑いですよね。中上で文学が終わった(笑)。……これもおもしろくありません。

ふう、まじめなことも書いておこう。読書というのはドミノ倒しのようなもの。
あるドミノを倒したら、つぎに倒れるべきドミノが生じる。
ある本を読んだら、つぎに読むべき本が決まる。

「梅原 柳田国男は日本民俗学を大成した学者であるというのはぼくは賛成だし、
明治以後の日本の学者の中で、確かに少なくとも、五指の中に入る、
後世に残る本当の学者の一人だと思うんです。
たくさんの人文科学の学者がいるけれど、多くは外国の思想を借りているわけで、
自分の足で立っていないんですよ。外国の思想家の足で立っている。
そういう中にあって、自分の足で立っている数少ない学者の一人が柳田国男で、
柳田国男の業績はすばらしい」(P92)


いま梅原猛がいいことを言った!
そうよね。ほとんどの学者って、外国の権威にすがりついているだけかも。
なんかすぐカタナならぬカタカナをふりまわすし。
ふんふん、柳田国男は偉大なのか。恥を告白するが、読んだことないんだオラ。
ずっと積ん読しておる。そろそろ年貢の納め時か。「遠野物語」くらい読むか。

「梅原 ちょうど自然主義の時代ですよね。
自然主義の田山花袋なんか、柳田はつまらんと思っていたにちがいない。
もっとそういう民話の中にすごい文学がある。
なかばあれは柳田の創作だと思うんですけれども。
『遠野物語』は、柳田が、小説をつくるつもりで書いたんじゃないかと、
ぼくは思うんですけれどね。
いまは民俗学ということになっちまったけども、あの当時、柳田は、
作家になろうか、学者になろうか、岐(わか)れ道に立っていた。
中上 そうですね。柳田国男の本が出たあとから遠野へ行って、
だれもこんな話知らないとか、
憶えてないとかいわれて帰ってきたという民俗学者がいましたね。
梅原 ……(笑)」(P104)


ふええ。「遠野物語」は創作小説なのか。読むのが楽しみじゃわい。
「地獄の思想」(梅原猛/中公文庫)

→人はなんのために学ぶのか。建前として学者は真理追究のために学ぶ。
人は名誉を求めて学ぶこともある。助教授になりたい、教授になりたい。
賞が欲しくて学ぶものもいよう。周囲から評価されたい。偉くなりたい。
さて、梅原猛は生きるために学んでいる。
少なくとも40を過ぎて初めての単著「地獄の思想」を上梓するまでは。
生きるために学ぶ。
なぜならこの男にとって生きることは容易ではない。
内なる地獄をかかえているからである。人間の地獄が見えてしまうからである。
地獄から逃げ切れぬと観念したとき、男の腹が決まったのであろう。
地獄があるならば地獄をつぶさに観察すればいいではないか。
極楽を断念し地獄を生きようと決意した梅原猛は地獄の魅力にとりつかれる。
地獄はかならずしも穢土(えど)ではなかった。見れば地獄にしか咲かぬ花もある。
地獄の住民たる梅原は、生きるために日本文学を読んだ。
源氏物語、平家物語、世阿弥、近松、宮沢賢治、太宰治――。
西洋哲学に疲弊した梅原は母国の文学に生かされたのである。
さらに踏み込もう。文学のなにによって、この悩み多き男は救われたのか。
このとき梅原猛は日本文学の根本に地獄の思想があることを発見する。
地獄によって地獄から救われる。
この地獄はどこから生じたのか。三国伝来の仏教である。
ならば、仏教を知らなければならぬ。
「地獄の思想」第1部では、日本仏教における地獄思想の推移が論じられる。
第2部では、日本文学の代表作がとりあげられ、
いかに地獄思想が個々の作品世界を深めているかが検証される。

ひさびさにたましいが震えるような刺激的な評論と出逢った。
「地獄の思想」は、福田恆存の名著「人間・この劇的なるもの」に匹敵する重量感を有する。
福田恆存は西欧文学の叡智に生きる指針を見いだした。
梅原猛は、隣の庭へ逃げない。
我が家の狭い庭で泥んこになりながら大生命の喜びをつかんだ。
梅原猛は、庭でつかまえた蛇(へび)を手にして哄笑する。
蛇は邪悪ではない。この蛇を見よ。この生命を見よ。これが光だ。これが仏だ。

仏教の地獄思想を鳥瞰(ちょうかん)した第1部がとりわけ輝いている。
これはよほど仏教の内外に通じていないと書けるものではない。
いや、たとえどれほど仏教に通暁(つうぎょう)していても、
書くのを躊躇するほどの巨大な内容である。
梅原猛は仏教という大きな山を野武士のごとく一刀両断する。
あまりにあざやかな切り口に見物客は奇術でも見せられたのかと疑うほどである。
本書にそって切り口を見ていきたい。

梅原猛が「地獄の思想」で重要視するのは、
天台宗開祖の智(ちぎ)と「往生要集」の作者・源信である。
従来あまり注目されなかった両僧こそ、
その実、日本地獄思想の形成に大きな役割を果たしたからである。
なるほど、我われは仏教というと釈迦を思う。最澄、空海を思う。法然、親鸞、日蓮を思う。
だが、梅原は抗議する。なにゆえ天台智と源信の功績を無視するのか。
平安時代に話を移そう。

「今ここで、日本の思想を平安時代までで区切ってみよう。
それまで日本にあった宗教は、神道と奈良仏教と平安仏教。
このうち奈良仏教は、最初、竜樹の思想を中心とする三論が支配的であったが、
のちに世親の教学を中心とする唯識が中心となる。
奈良時代末に一時、華厳が流行するが、
最澄と空海により始められた天台と真言が平安時代以来、圧倒的に優勢となる」(P28)


当時の文化状況である。
若き最澄が読んで心打たれた天台智の教説とはいかなるものか。
乱暴に言ってしまえば、智、この中国僧が地獄思想のみならず、
日本仏教思想までも決定づけたのである。
なぜなら智に学んだ最澄の開いたのが日本の天台宗である。
のちの仏教指導者は、みなこの天台宗の卒業生なのだから。
法然も、親鸞も、日蓮も、一遍も、みなみな比叡山から野にくだった仏僧である。
ならば、祖に帰れ。智の教えを聞け。

「智の思想的功績は、大体二点であるといわれる。
教相判釈(きょうそうはんじゃく)と止観(しかん)の思想である」(P66)


教相判釈とは、釈迦の経典の時代判定とその価値判定のこと。
当時、存在していた仏典は、多種にわたっていた。
なかには相互に内容が矛盾しているものもある始末。
教相判釈は智のまじめな性格がなさせた仕事だと梅原は指摘する。
智は、文献の混乱を許せなかったのだろう。
五時八教というインチキ理論で文献を整理する。
ややこしいとこは飛ばして結論だけ書くと、とにかく法華経が最上のものであるとした。
法華経のみが釈迦の真説、正説。残りの経典はすべて方便の教えに過ぎぬ。
智が到達した真理であり、日本の最澄も無批判にこれを鵜呑みにするわけである。

智は深い内省の人であったと梅原猛は言う。
止まって観る。智は止観によりなにを悟ったのか。内なる心になにを観たのか。
この智の止観が日本の地獄思想の母胎となったのである。

「智は、心のおりなす世界を十に分かつ。
つまり、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天のいわば六道の迷いの世界に、
声聞、縁覚、菩薩、仏の四つのさとりの世界を加えたものである。
声聞は、いわば釈迦の教えを聞いてさとりをえた人間、
縁覚はひとりさとった人間、菩薩は利他の教えを実践する人間、
仏は真にさとりに入った人間である。
声聞、縁覚は小乗の教え、自利の教え、
菩薩は大乗の教え、利他の教えに配せられる。
智はこの四つの仏教の発展段階、あるいはさとりの段階を、
六つの苦の世界につけ加えて、ここに十界なるものをつくり出したのであろう」(P69)


(余談だが、懐かしい。創価学会の教学書を読みあさったとき、詰め込んだ内容だから)
梅原猛が感嘆するのは、智がさらに十界互具(じっかいごぐ)を創造するからである。
十界に、またそれぞれ十の世界があるという思想だ。
地獄から仏までの十の世界にそれぞれに十の世界がある。

地獄→(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)
餓鬼→(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)
(中略)
菩薩→(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)
仏→(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)

例の秋葉原の通り魔(=地獄)にも、人間の心はある。
ほら、ナイフを買った店で店員さんと歓談していたでしょう。
有名な高僧でさえ婦女にみだらな思いをいだく(=畜生)ことがないとはいえない。
どんな悪人にも仏の心はある。どんな聖人も心底に地獄を有している。
これが梅原猛(や宮本輝)を感動させた十界互具の思想である。
さらに智はこの十界互具を一念三千の思想へ高める。
一念三千とは――。

「智は、なおこの十カケル十、すなわち百の世界に、
それぞれ十の様相があると考える。これが十如是という思想であり、
各世界の十の様相を智は克明に観察する。
そして百カケル十、すなわち千の世界に、五陰と衆生と国土の三世界があり、
世界は全部で千カケル三、三千世界であるとする。
今、一瞬の心に三千の世界がある。
この心を深く観ずれば、すべての世界の秘密がとけるというわけである」(P71)

「天台智は深い地獄の観察者であった。
戦乱のなかで生きた彼は、つぶさに地獄の相をこの世に見た。
人間への絶望。彼は人間の悪と苦を徹底的にみつめた。
そして、静かに心を観ずることにより、この心の不安をとりのぞける。
そこに彼の哲学の核心がある」(P72)


日本の精神世界を支配する地獄の思想は、中国で生まれたのである。
さらに梅原は智の三諦円融(さんたいえんにゅう)の教説を紹介する。
内外の地獄を生きる智慧であろう。智は地獄を観ずるのみの仏僧ではなかった。
地獄をどう生きるか。
三諦円融は「地獄の思想」著者の生きかたとも通じているはずである。
なぜなら三諦円融を語る梅原猛の口吻は異常な熱気を帯びる。

「人生は空しく、仮である。
けれど否定に執する愚か者、もういちどこの人生に帰ってこい。
空と知りつつ、仮と知りつつ、この人生を生きよ。
またなおこの人生に安定してはいけない。
たえずこの人生を空と仮と観ぜよ。
空も仮も知らず、人生を中とのみ考える人間がある。
よくいえば現実主義者、悪くいえば俗物である。
人生を空しいと知って、空しいという思想に安住する人がある。
よい意味の批判的インテリ、悪い意味の空想家である。
智はこのような一つの諦に偏してはいけないという。
たえず三つの諦をもて。人生は空しき、仮なるものとして、
しかもこの人生にしっかり足をつけて生きたらどうだ」(P73)


梅原の情熱に気おされ、いささか天台智にスペースを取りすぎてしまったようである。
智の地獄は、どのように日本に移植されたか。
だれが内省の達人たる智の地獄に感応したか。
だれが智の地獄を自身の内面に見いだしたか。
梅原は指摘する。それは源信ではないか。
「往生要集」で浄土宗の基礎を作ったとされる源信である。
源信は天台宗の僧であった。
梅原猛は源信の地位を引き上げんと試みる。
源信こそ天台宗と浄土宗を折衷(せっちゅう)することに成功した、
まれに見る価値の創造者ではないかというのだ。
「往生要集」の描写は、もっぱら天台の六道観によっているという。
ところが、源信は六道より上、つまり声聞、縁覚、菩薩、仏を描かなかった。
十界互具の下6つしか採用しなかったのである。
この六道輪廻から逃れるにはどうしたらいいか。
源信は智の三諦円融を説こうとしない。
救済は、善導の浄土教にたのもうというのである。
善導は俗世否定者で、熱烈な浄土欣求を訴えた中国僧である。

「……源信は、下部だけは天台の方法を用い、上部は善導の方法を用いている。
十界互具の世界の観は、ここで六道と一仏界の観となってしまった。
しかもその一仏界は、天台智のように現世のさなかにあるというよりは、
来世にあるものとされるのである。
これは思想的に一世界主義から二世界主義への転化である」(P86)


天台智は現世の魑魅魍魎たる地獄を説いたが来世のことは説かなかった。
善導は来世、つまり浄土の救済を説きはしたが地獄に関しては口を閉ざしている。
源信がふたつの中国仏教思想を切り貼りしたのである。
かくして日本オリジナルの極楽と地獄がセットになった世界観が誕生する。
源信の価値創造をごまかしだのなんのと軽侮するだけでいいのだろうか。
ここに日本仏教思想の固有性の発芽を看取できないだろうか。
源信の「往生要集」には浄土を求める人間の悲しさと甘さがよく描かれているという。
これこそ日本的センチメンタリズムの原型であると梅原猛は看破する。
つまり、日本人の肌感覚にあう仏教世界観を初めて創出したのが、
かの源信だと言うのであろう。

のちにこの地獄思想はどうなったか。駆け足で見ていこう。
梅原は親鸞において地獄は意味をなさなくなったと言う。
親鸞にとって地獄は堕ちゆくものではなかった。
生きていることそのものが、かの念仏者には地獄にほかならぬ。
地獄のただなかで親鸞は――。

「親鸞において、悪は隠さるべきものではなかった。
絶望は癒されるべきものではなかった。
徹底的におのれの悪をみつめよ。徹底的におのれの絶望をつきつめよ。
その徹底のなかに救いが生まれる。いや、救いが生まれるというよりも、
阿弥陀仏が向うのほうから手をさしのべて、
極悪非道なわれわれを救ってくれるのだ」(P99)


親鸞の絶対他力信仰によれば、阿弥陀仏様はだれでもお救いくださる。
地獄はもはやどこにも見いだせぬ。来世にも外部にも地獄はない。
あるとすれば内部だが、地獄を観ずることが、阿弥陀仏救済の機縁となるのである。
地獄がそのまま浄土往生への道標となる。
ところで、親鸞は浄土に区別をつけている。真仏土と仮仏土である。
自力で善を積んで往生せんと思うものは、真仏土へ行けぬ。
まず仮仏土へ迎えられ、長い年月を経たあとでないと真仏土には住めぬ。
この真仏土と仮仏土はほかに典拠のない親鸞オリジナルの考えだが、
梅原猛は、親鸞が「往生要集」をヒントにして思いついたものではないかと推測する。

釈迦はインドで人生の苦を説いた。欲望があるから苦が生じるのである。
ならば、多くの欲望がかなえられぬ状態は地獄である。
釈迦の説く苦の思想は、地獄の思想と極めて近しい。
自己内省から地獄の諸相を体系づけたのは中国の天台智であった。
冷静沈着なペシミストの最澄は智から多くを学んだ。
最澄の思想は、人間の苦悩を内省する哲学といってもよい。
同時代に活躍した空海は、対照的に生命讃美を謳っていた。
生の否定と生の肯定がいちどきになされた平安時代の奇蹟に梅原猛は感動する。
多くの後進を育てたのは最澄であった。光は苦悩よりいずる。
天台思想と浄土教、おのおのの利点をとりあげ源信は「往生要集」を書いた。
浄土信仰の誕生である。この世ならぬ美しき王国への憧憬が生まれたのである。
この世ではかなわぬがあの世ならば。このあきらめの悲しさのなかには甘さがある。
浄土は美しければいいのか。美よりも苦ではないか。美麗より救済ではないか。
人間の地獄が救われなくてなんの仏道か。親鸞の登場である。

「親鸞において地獄はなくなったようにみえたが、
むしろ地獄は足下にあったのである。
われわれは、彼において地獄をつきつめることによって、
無限の生の喜びにいたる思想をみた。
無限の生の喜びにいたるには、人はやはり地獄を通らねばならないのだ。
私はやはり親鸞はすばらしい人だったと思う。
魂の真率さと深さ、何事にもあれ、彼は小器用に偽ることなどできない人であった。
深い深い命の底なる苦悩と歓喜の声を、いつも聞いていた人である。
私は彼において地獄の思想の帰結をみる。
地獄の思想を徹底さすことにより、彼の前にかえって大生命の歓喜があらわれる。
地獄の思想は、そこでは生命の思想のなかにのまれてしまわないか。
親鸞はどこかで空海とつながりはしないか。
阿弥陀の仏は、大日の仏とどこかで通じないか」(P107)


かくして梅原猛による地獄の吐露、地獄への沈潜、地獄の浄化は終わりを遂げる。
地獄はむしろ作者を光明へと導いたことを読者は知る。
梅原猛が「地獄の思想」を書いたことで、ある難所を通りぬけたのは疑いえぬ。
読後、暗所から太陽のもとに引き出されたような爽快感があるのはこのためだろう。
ならば、「地獄の思想」が学術論文であるわけがない。みごとな文学作品である。
したがって第2部「地獄の文学」の正否を問うのは誤まりである。
人はなにもて生きるか。正誤か。否である。善悪か。否である。
人は内なる地獄によって生きる、いや生かされる。これぞ「地獄の思想」の真諦である。
「仏像のこころ」(梅原猛/集英社文庫)絶版

→梅原猛の処女出版にして大ベストセラーにもなった「仏像-心とかたち」(共著)から、
梅原執筆担当ぶんのみを採録、文庫化したものである。
ちなみに、オリジナルのNHKブックス版は現在でも新刊書店で購入可能。
いろいろな仏像の相違を、日本人の精神との関連から論述する。
たいへんわかりやすく教えられるところが多かった。
このたびの読了報告では、なるべく自分の意見は差し控え、
梅原猛の豊かな語り口を丁寧に追っていこうと思う。

仏像の種類にはどういったものがあるか。
本書における梅原猛の分類は以下である。

「……主な仏像として、釈迦、薬師、阿弥陀、大日の四如来(にょらい)と、
観音、地蔵、弥勒(みろく)の三菩薩(ぼさつ)、
それに明王と天部、達磨(だるま)、地蔵。極楽図を加えて十一の柱とし、
その像に現われた形と心について研究することにした」(P23)


さあ、わからない言葉がたくさん登場したのではありませんか。
啓蒙を性分として備えたかに見える学者・梅原は平易に解説する。

「仏像は、如来、菩薩、明王、天の四部に分けられる。
如来は、すでに悟りを得た真の仏であり、
菩薩はこれから仏になる候補者であり、
明王は如来か菩薩を守る力をもった守護の神であり、
天部は仏教以外のバラモン教などから移入された神々である」(P24)


仏教あっての仏像である。仏教はインド、中国、日本、三国伝来の教え。
そもそも日本人にとっての仏教とは、いかなるものであったか。

「無常観に慈悲の思想、これがすべての宗派の別を越え、
日本人に最も深い影響を及ぼした仏教の思想ではないか。
大乗仏教は中国をとおって、日本に移入された仏教であった。
しかしこの大乗仏教のもっとも大乗的な精神、
生の否定より生の肯定、苦行による悟りより慈悲による救いを、
日本人は仏教の思想として受け取りそれを発展させたのである」(P40)


釈迦如来像の解説では、釈迦とキリストの臨終の相違が取り上げられる。
寿命をまっとうしておだやかに死んでいった人間・釈迦。
対して、謀反者として反体勢力から殺害された神の子・キリスト。
非合理な殺害はあとに復讐の禍根を残す。
血塗られたキリスト教史は、イエスの死から始まっていたのである。
比して、釈迦のなんと温和なことよ。仏教の円満なる精神よ。

薬師如来は奈良時代に流行した。
お医者さんの仏さまである。祈願すれば難病も平癒は確実とされる。
これまで研究者が軽視してきた薬師如来を梅原は重んじる。
薬師信仰に見られる実利精神、現世利益願望こそ、
日本人が隠し持ってきた属性ではないかというのだ。
平安時代中期を過ぎると阿弥陀信仰が盛んになる。来世信仰である。
こうして忘れ去られたかに見える薬師信仰だが、
その実、この現世利益信仰は脈々と生きながらえたのではないかと梅原は指摘する。
ともあれ、表面的な仏教史から見れば、薬師は阿弥陀に人気の座を譲る。
人びとは現世よりも来世、浄土往生に目を向けるようになった。
浄土信仰は、実利精神の否定として説明できる。
この実利精神、現世利益願望を復活させるのが南無妙法蓮華経の日蓮である。

4つの如来の特徴を梅原猛はいささか乱暴にも見えるやりかたで定義する。

「釈迦、薬師、阿弥陀、大日、この四如来のうち、
釈迦はどちらかと言えば善、大日は知、薬師は利の価値を代表する。
阿弥陀は、主に美の価値を代表したのではないか。
こうして阿弥陀崇拝はかつての日本人の精神になかった、
想像力の豊かさを日本人に与えた」(P89)


この美的浄土教を強く印象づけるのが源信「往生要集」の世界である。
一方、阿弥陀信仰は、倫理的な側面も持ち合わせた。
来世の存在を前提にしたうえでの、現世の善悪の問題である。
この倫理的問題を追及したのが法然、親鸞である。
ふたりの偉大な念仏者はたしかに浄土信仰を広く民衆に伝えたかもしれぬ。
だが、反面、阿弥陀信仰の有する美的荘厳を法然、親鸞は殺さなかったか。
美の熱烈なる崇拝者、梅原猛の歯ぎしりするところである。

大日如来は我われとなじみが薄い。
これはかの仏さまが真言密教の本尊であるためだ。
教科書なら、平安時代の加持祈祷をもっぱらとする貴族仏教として片付けられてしまう。
ところが空海の真言密教こそ、こののち梅原が力を入れて研究する領域である。
早くから梅原猛は密教の魅力を察知している。

「われわれの生命はどこから来たのか、われわれの生命が親から来たとしよう。
親の親の親と、だんだんさかのぼって行くと、
われわれの人類が猿と祖先を共通にしていたある時点に至るであろう。
またさかのぼればさかのぼるほど、
われわれと動物との親戚関係がはっきりしてくる。
やがてわれわれの生命の起源はアメーバまで至るであろう。
アメーバはどこから生み出されたのであろうか。
天地自然の中には、生命を生み出す根源の力のようなものがあるのではないか。
この自然の中の力は生命そのものを生み、われわれの生命の中には、
このような根源的な自然の生命力に通じる何かがあるのではないか」(P114)


梅原は宇宙神の存在に思いを馳せる。
この宇宙神に至ろうとしたのが真言密教ではなかったか。
さらに空想家の梅原猛は飛躍する。思想よ跳躍せよ。
親鸞の教える絶対他力の大歓喜も、この生命の根源からもたらされるのではないか。
日蓮の説く生命礼賛もまた、この真言密教の達した宇宙法則と意を同じくしてはいないか。

如来から菩薩に話を移そう。菩薩とは、仏になるまえの修行者のこと。
あえて民衆を救わんがために菩薩の位に甘んずる心優しき救済者たちである。
梅原は観音菩薩に民衆のヒーローの原型を見る。
芝居、講談、大衆小説の英雄は、観音菩薩を祖に持つのではあるまいか。
千手観音像を見よ。千もの手をもって、
すなわち、あらゆる手立てを駆使して苦悩者を救わんとする観音のありがたさはどうだ。

「観音の特質は慈悲であった。それは無限のやさしさである。
観音を真似するとき、心は無限の慈悲にあふれ、怒りや憎しみや欲望は去って、
そこでは世界のすべてのものが愛の光につつまれるのである。
塵(ちり)にまみれ埃(ほこり)にまみれて人間救済に努力する観音の心、
それは多く、愛故に他人のために献身的な努力をし、
そして犠牲と献身を却(かえ)ってよろこびとした日本の庶民の、
最も美しい行為の源泉であったかに見える。
特に観音信仰は婦人に多いけれど、
日本の婦人のやさしさとこの観音信仰は深い関わりがあるのであろう」(P140)


観音菩薩から地蔵菩薩に移行する。両者の相違から梅原は語る。

「観音において既にわれわれは、
日本の民衆の苦しみ、悲しみ、絶望、喜び、希望、畏敬などの感情の現われを見た。
しかし今、地蔵の世界について論じようとする時、
われわれは日本の民衆の底辺に達した感じがする。
地蔵は、もはや御厨子(みずし)の中に収まっている仏ではない。
それは野の傍(かたわら)で、雨に当たり風に当たって立っている仏なのである」(P147)


「地蔵は、どうやら民衆の苦悩をいやすことを専門業とする仏なのである。
しかも生者の苦悩のみでなく、死者の苦悩をもいやす仏なのである。
人生は苦悩に満ちている。
しかも、政治の圧制の苦しみを最もよく受ける民衆の苦悩は一番ひどい。
そして、苦悩の生涯を送って死んで行った親しき人に対して、
生き残った人は痛恨の涙を流す」(P149)


この涙をそっとぬぐってくれるのが地蔵菩薩だと言うのである。
死者のことは地蔵にお任せする。地蔵によって死者を死者たらしめるわけだ。
われら生者の世界に死の侵入を許すな。地蔵様、死者のことはよろしくお頼みします。
どのみち遅かれ早かれ死ぬかりそめの命なのだから、
生きているあいだはせめてもの喜びを求めようではないか。
これを民衆の智慧とのみ判断するものには地蔵のありがたみがわかるまい。

つぎは弥勒菩薩である。

「弥勒は五十六億七千万年の未来にこの世に出現して、
釈迦によって救済されなかった衆生を救済する仏なのである」(P169


「未来の仏、弥勒菩薩。仏教では未来を示す仏はこの弥勒だけであろう。
阿弥陀も、われわれが未来にゆくべき極楽浄土を支配する仏であるが、
阿弥陀は死者を迎えに来るのみで、この世に王国を造ろうとする野心はない。
阿弥陀はあくまでも向こう側の、彼岸の仏なのである。
しかし弥勒は、五十六億七千万年という未来に、
このわれわれの住む世界に下りて来て、
そこで実際にわれわれを救済する仏なのである」(P171)


梅原猛は弥勒の来迎に、イエス・キリストの再臨を重ねる。
西洋哲学から学究を開始した梅原らしい考察である。
イエスに比すと弥勒の登場は、およそ信じられぬほど先の未来である。
ほとんど永遠ともいえる末法の暗闇を経たのちにようやくお越しくださる弥勒菩薩。
この暗黒時代の絶望を乗り切らんために浄土信仰が盛んになったと梅原は説く。

不動明王はインドや中国ではそれほど崇拝されない日本固有の信仰対象。
梅原猛は斬新な着眼から読者を不動明王の世界へいざなう。
ニーチェの説いたアポロ的精神(冷静沈着な観察、静的な造形物の世界)と
ディオニソス的精神(猛り狂う陶酔、動的な音楽の世界)である。

「如来と菩薩の像を見て来たわれわれは、
いささかアポロ的精神の過剰に苦しんだのである。
もちろん種々の仏の精神的意味は違うが、
その精神はややもすれば単調な音色を発しなかったであろうか。
瞑想の優位、沈黙の支配、静止の緊張、
われわれは余りに完成されたものを前にして、
もっと人間臭いものを求める欲求にかられはしなかったであろうか。
このような不満は明王の像を見ることによって解消される。
そこには静かな完成された音楽を破る、急テンポな荒々しい音楽がある。
そこにはアポロ的精神により統一された仏教にとってむしろ異質な
ディオニソス的なものがある」(P204)


これは明王がバラモン教(のちのヒンドゥ教)から産まれたものゆえ。
密教の隆盛とあいまって、バラモン教の神々が仏教に取り入れられたのである。
密教は、本来なら仏教と相容れぬ、
ヒンドゥ的な生の歓喜と恍惚まで内部に取り込んだわけだ。
日本文化全体を俯瞰(ふかん)する大学者・梅原猛は、
この不動信仰が鎌倉時代の武士に広がり、
のちの武士道を産出する基盤になったとの仮説を構築する。

不動明王とおなじく異教出身ながら仏教のほとけとして愛されるのが天部のものたち。
四天王、大黒さま、吉祥天、弁天、帝釈天などである。
特徴はことさら人間的な姿かたちにある。

「平安末から天部信仰は強くなり、鎌倉、室町、江戸を通じて
時代と共に盛んになっていくかにみえる。そして今日もなお、
おさいせんだけで生活してゆけるほとけ様には天部が多いのである。
日本人は宗派としては、浄土真宗だの禅宗だの日蓮宗だのである。
しかし、彼らは必ずしもそれらの宗派一本を信じているのではない。
彼らは、それらの信仰は信仰で、別に、弁天様や大黒様や、
お稲荷さんにおまいりするのである。
そしてそれらの理屈をおっしゃらないほとけ様に、
ひとびとは高尚な禅や、浄土の教えよりはるかに親しみを感じている」(P231)


自分がインテリなのにインテリを嫌う庶民派学者・梅原猛の語り口は熱い。
こののち「地獄・極楽図」の項では、日本文化における地獄思想の豊饒が語られる。
のちのベストセラー「地獄の思想」の端緒がはっきりと見て取れる。
「達磨像」の項では、苛烈な禅宗批判が行なわれる。
禅はインテリのものと思うがためである。
たしかにインテリは禅から自由を獲得するであろう。
だが、庶民の熱望するものは、自由などではなく楽ではないか。
苦の反対にあるものは自由なのか。いな、楽ではないだろうか。
梅原が禅と対置するのは天台止観。天台宗の人間心理分析である。
天台の色鮮やかな一念三千の世界と比べると、
禅の単色的枯淡はなんと物足らないことか。
仏教から生命の大歓喜を得た梅原猛ならではの禅宗批判といえよう。

以上、駆け足で本書の流れを追ったつもりだが、短距離走ではなく、
マラソンというほかない遠路を読み手のみなさまに課してしまったようである。
伏してお詫びしたい。
もし最後までお読みくださったかたがいらしたら、伴走に感謝する。

(参考)これまで学んだ梅原仏教学は以下。
「仏教を考える 梅原猛全対話3」(集英社)
「仏教の思想Ⅰ、Ⅱ」(梅原猛著作集5、6/集英社)
このたびの世界同時株安、金融不安から我われはなにを学ぶべきでしょうか。
努力の弊害を、この世界的事件から知ることができるように思うのです。
日本社会はことさら努力を重んじます。
努力せよ。努力すればなんでもできる。
だれでも東大に入れる。だれでも金持になれる。だれでも成功できる。
だとしたら、人生に敗れたものは努力が足らなかったのだ。
この前提にあるのが、人間はみんな平等という考えです。
生まれの相違をまったく考慮しない極めて浅薄な人生哲学だというほかありません。
人間は不平等です。そもそも無力な存在なのです。いくら努力しようが不可能なことはある。
いや、努力は無意味どころか、むしろ害悪になることさえあるのではないか。
我われが今現在の金融危機から教えられることであります。

今回の経済危機で損をした日本人はいったいだれでしょうか。
努力していた日本人なのです。
お金を銀行に預けているだけでは満足できない。
なんとかして資産を増やしたい。
そのためには勉強も辞さない。新刊を購入する。情報に敏感になる。
こういった金を儲けるための努力をしていた人が、いま泣いているわけです。
株も投資信託も全滅。外貨預金も目も当てられない惨状です。
つまり、ほとんどすべての金融商品が損失を出しています。
結局、お金は銀行に預けているのがいちばんよかった。
なにも努力をしなかった人がもっとも得をしているのです。
豊かな老後を夢見て資産運用していた中高年のどれほどがいま嘆いているか。

努力と成功には4つのパターンしかありません。
1.努力したから成功した。
2.努力したけど成功できなかった。
3.努力しなかったが成功した。
4.努力もなし、成功もなし。
このうちどうして1ばかりが強調されるのでしょう。おかしいとは思いませんか。
いまの金融危機は2よりもみじめなのです。
なぜなら「努力をしたせいで不幸になった」のですから。
目をぎらつかせていた金の亡者が、その物欲ゆえにいま歯ぎしりしている。
果たして努力はそんなにいいものでしょうか。

おなじく時事ネタでいえば、倒産した留学仲介会社の「ゲートウェイ21」。
この被害者も努力したからこそ不幸になったといえなくはないのです。
ふつうにありのまままで生きていればよかった。
村上龍の自己啓発エッセイでも読んだのでしょうか。
おかしな希望を持ってしまいました。スキルアップだのなんだの、です。
留学して箔(実力?)をつけようと彼らは努力しました。
本業以外のバイトをして留学資金を貯めた。禁酒した。タバコをやめた。
必死に努力して留学のためのお金を準備したら、この倒産です。
努力が、かえって彼らを不幸にしたとはいえないでしょうか。
自己責任だ。留学を仲介業者に依頼した顧客が悪い。
こんな暴論も聞こえてきますが、なんと冷たい人間がいるのでしょう。
だれがあの会社の倒産を予測できたというのか。
旅行会社のツアーに申し込んだら倒産してぜんぶフイになった。
このとき、どこに被害者の落ち度があるというのでしょうか。

この記事でなにをいいたいのか。
あまり努力、努力とがめつくいいなさんな、ということです。
もっと気楽に生きようではありませんか。
努力なんてしなくたって、人間は幸福になれることに気づきましょう。
あなたは明日1億円を拾うかもしれません。
わたしは明日とびきりの美人から告白されるかもしれません。
畢竟(ひっきょう)、人生なにがあるかわからない。
わたしはどの経済学者よりも、経済について理解していると自負しております。
学者はわかっていないからです。
経済の先行きなんて、だれにも予測できないことを――。
みなさん、いまこそ明日の輝きをインテリ連中から取り戻そうではありませんか。

(追記)去年ベストセラー「お金は銀行に預けるな」を上梓した勝間和代は、
いまなにを想うのか。この本にだまされて大損した読者はどれほどいるのでしょう。
いくら「投資の自己責任」を説いているとはいえ、罪深さに変わりはありません。
もしわたしがこの新書の著者だったら深刻な鬱状態におちいったことと思います。
著者の精神状態を心配していたら、おとといだったか、
勝間和代がテレビのニュース番組に出演していました。
自信たっぷりの上から目線で驚いたものです。
成功するにはこうまでの厚顔無恥が必要とされるのかとたいへん勉強になりました。
「もてない男」の小谷野敦が恩師をつけねらっているという情報を耳にした。
教え子としては座視できぬ。微力ながら恩師を守らんと思う。
恩師とは、当時(いまも?)法政大学教授だった文芸評論家の川村湊先生。
わたしは先生の教え子のひとりである。
この法政大学教授は、どうしてだか早稲田の文学部に教えに来ていた。
おそらく複雑なおとなの事情があったのだろう。

教科書は、「戦後文学を問う」(川村湊/岩波新書)。
教室は、文学部キャンパスでいちばん大きなAVルームであった。
文学部の学生ならだれでも受講できる講座だったのだと思う。
川村湊は、どうしてだかいつも慌てていた。
汗っかきなのだろう。季節にかかわらず、いつもタオルで汗を拭いていた。
恩師はなにを教えていたか。

ひたすらいろんな小説のあらすじを話していた。
ある小説のあらすじを話したら、関連する別の小説のあらすじも話す。
とはいえ、だれも聞いていないのである。
半分は寝ている。残り半分は、おしゃべり。
大教室である。だれも聞いていないのに話しつづける川村湊。
ここが教室だということを忘れて歓談する男女。
お菓子をつまんでいるものもいる。
いまや文芸評論の権威、法政大学教授、川村湊教室の風景である。

先生の偉大さを伝えなければならぬ。
川村湊は忙しいという理由で、前期後期ともに試験をしないのである。
レポートさえない。
こんな講座は、いくら無責任な早稲田大学でも、これだけであった。
試験やレポートを課すことなく単位を与える授業などあっていいのだろうか。
いいのである。これが文芸評論家・川村湊の有する権力である。
(ちなみにわたしが先生の教え子だったのは、およそ10年まえ)
川村御大は、たまに出席を取ることがあったと記憶している(出席カード)。
ところが、これも先生は無視する。
聞くところによると、一度も出席していない学生にも「優」をつけていた。
つまり、全員「優」。学生はみんなよろしい。
われら教え子が恩師を慕うのは、このためなのかもしれない。

今現在、どのくらい川村湊先生のお世話になったものがいるのだろう。
我われ教え子で恩師を守ろうではないか。
学生のだれもがあの先生を見下していた。
だからこそ、あの評論家先生は世俗のことから保護される必要があるのではないか。
なにも難しい話をしようというわけではないし、もとよりできる頭もないのだけれど、
資本主義の実体を考えるうえでバブル現象はとてもわかりやすいと思う。
いまバナナが品薄だという。バナナダイエットが流行しているためらしい。
以下はニュースで見たことなのだが、
以前なら1房100円くらいのバナナがどんどん値上がりしている。
おそらく卸値は変わっていないと思われるから、青果店主人の胸先三寸である。
商店街にある八百屋などはかわいいもので150円で売っている。
度胸がないのか、あまりあこぎなことをしたくないのか、どちらかだろう。
150円のバナナはすぐさまダイエットを目指す女性に売れてゆく。
スーパーなど大規模店は250~300円の値札をつけている。それでも売切れてしまう。

大笑いしたのは、上野アメ横の青果店である。バナナ1房がいくらだと思いますか。
1000円である。紙幣を取ってしまう。
さすがインチキ商店の巣窟・アメヤ横丁というほかない。
1000円でも買うものが少なからずいるから、ここまで値上げしたのだろう。
いちゃもんをつけるつもりはない。
バナナ食ったくらいで痩せるかよバカ。
八百屋は調子こいて汚ねえ商売するんじゃねえアホ。
マスコミ(=流行)の奴隷どもはシネ。
いないないな、バカアホシネなどと言うつもりは毛頭ないのである。
なぜならこれが資本主義なのだから。

いまバナナ・バブルが起こっているわけだ。
どんどんバナナの価値が上がっていっている。多くのものが求めるゆえである。
これはいけると踏んだのか今度はキウイ・ダイエットを流行らそうとしている一派がいる。
まあ、バナナもキウイも、半年もすれば元の値に戻っているはず。
微笑ましいバブルとも言えよう。
だが、不況の資本主義社会にとっては歓迎すべき流行であった。
1000円のバナナであぶく銭を手に入れたアメ横の商人は、
ふだんは家で酒をのんでいるのに居酒屋で祝杯をあげるかもしれない。
赤字続きだった居酒屋は、この収益で店内改装に踏み切る可能性もある。
今度は内装工事の請け負い業者に金銭がまわるわけだ。
結果として、みんながお金を手に入れ、みんなが遣っている。
こうして資本主義社会は回転してゆく。

当たり前のことをながながと失礼した。
以上は前置きなのだ。本題に入ろう。
いま日本でもっとも勢いのあるバブルは若い女性ではないだろうか。
このバブルのあるおかげで日本経済はなんとか維持しているとさえ言えなかろうか。
あたかもバナナのように若い女性の価値が(実体をともなわず)上昇している。
「若い女性に人気の~」というフレーズほど効果のあるものはない。
いまの日本経済は、若い女性に依存しきってはいないか。
もしこれがバブルだとしたら、このバブルがはじけたときなにが起こるのだろう。
それとも若い女性は、バブルではなく本来的な価値を有するゴールド(金)なのか。

むかしブログ経由でいまどきの若い女の子(おっさんくせえ!)に逢ったとき、
その物欲に驚いたものである。ブーツが欲しい、コートが欲しい、カバンが欲しい。
(もちろん初対面のわたしにねだったわけではない。日常会話の流れだ)
値段を聞いたらどれも数万円するという。経済感覚の違いに仰天した。
いや、その女性を責めているわけではない。
若い女性にとってお洒落は自己投資である。
なるたけ身のまわりを飾りたて早いうちに優秀なオスをつかまえなければならぬ。
とてもお洒落な女性であった。ぜんぜん釣りあっていないのである。
ああ、なるほどと思ったものである。
若くてきれいな女の子と交際しようとすると金がかかる。
プレゼントが必要なのは常識。
こちらの条件(容姿・年齢)が悪ければ、それを物で埋め合わせなければならない。
そのうえ、デートも公園で済ますわけにはいかない。
どこか流行のスポットへ行く必要がある。そのつぎは高級レストランである。
こちらの格好もユニクロなんて言語道断。高価な衣服を身にまとわなければならない。
こうまでしてもホテルに連れ込める保証はないのだから割に合わぬ投資かもしれない。
しかし、この過程でどれほどの金銭が支払われたことであろう。
まさに若い女性こそ日本経済の救世主なのである。

現代はもう物が行き渡っている。テレビ、洗濯機、冷蔵庫がどうしたという話。
高級レストランへ行かなくても冷凍食品でそこそこおいしいものが食べられる。
ところが、これでは消費がとどこおってしまう。
消費がなされないと資本主義経済は立ち行かなくなる。
ここに若い女性を異様なほど持ち上げる共通認識が生まれたのではないか。
資本主義がたかだか年少のメスを神にも近き座に上げてしまったとは考えられないか。
いやいや、わたしは学者ではない。
むかしから若い女性はもてはやされたという事実があるのかもしれない。
ならば一過性のバブルではなく不滅のゴールドになる。
だが、言いたいのは、昨今の若い女性礼賛はやりすぎになってはいないだろうか。
そんなに若い女性は価値があるのか。
もしかしたらひと皮向けばバナナのようなものではないか。

バナナ・バブルの崩壊はだれもが予測するだろう。
どんなバブルもいつかは、はじけるのである。
もし若い女性の異常な称揚がバブルなら、これもいつしか終焉を迎えることになる。
日本のバブル景気がどうして終わったのかご存知ですか。
投機対象になった土地の急激な値上がりで、一般の人が家を持てなくなった。
このため政府が銀行、企業の土地所有を制限した。
結果として、土地を売りに出してみたら、さっぱり値がつかなかった。
実体のともなわぬ価格でやりとりしていたことが判明したわけだ。
賢明なみなさんにはこの先、言いたいことがおわかりでしょう。
いま若い女性の値段が急騰したため一般男子の手に届かないものになってはいないか。
(「結婚相手の男性に求める年収は1千万円以上!」)
「もてない男」「非モテ」などは相対的に価値が急落した男性の悲鳴と考えられないか。
さあ、若い女性はバブルなのか、ゴールドなのか。問うている。

持っているうちに古くなるものがゴールドなもんかという意見もあろう。
古くなったら捨てて新しいゴールドを買えばいいのである。
いくら少子化が進んでいるとはいえ、このゴールドが枯渇することはない。
(わかりやすく言い換えると、個々のバナナは食べれば消えるが、にもかかわらずバナナ人気は消えない)

*関係あるのかないのか。NHKスペシャル「個人破産―アメリカ経済がおかしい」。
いまから5年まえだかに放送されたもの。おもしろくて最後まで見てしまった。
日本のバブル時代もこんな感じだったのだろうか。

http://video.google.com/videoplay?docid=-4896448479819549272

これを見るとアメリカ経済がふっ飛んで世界恐慌が起こるというのはあながちウソとも。
とまれ、アメリカ人ってサイコーにおもしろいですね♪
世界恐慌2008が起こるかもしれないってね。金融危機である。
ものすごく乱暴なことを言ってしまうと、金融というのはフィクションなのよ。
たとえば、あなたが銀行に10万円を預けている。
これはフィクション以外のなにものでもない。
貯金通帳に10万円と記載されていても、それはなにも保証しないわけ。
通帳を八百屋に見せたからといってトマトを売ってくれはしない。
この論理を推し進めると、金融(=株式)そのものがフィクションだということになる。
極めて危ういフィクションのもとに成り立っているのが株式ではないだろうか。
だって、いくら株を持っているからといって、ご馳走が食べられますか。酒がのめますか。
言いたいのは、株式という制度が極度にもろい信頼のうえに成立している実態。
株は貨幣ほどの流通性がないでしょう。
いくら株券をさしだしてもスーパーでビール1本買えやしない。
この役立たずの株券の価値を支えているのが信頼である。
いま株価がどんどん下がっている。みんな株の虚構性に気づいたわけだね。
いっせいに株を現金にしようとする。株が売られる。株価の低下がとまらない。
世界の金融が崩壊したらどうなるのか。めちゃくちゃになるとしか言えない。
天才経済学者だって、金融が壊滅したあとの世界を予測することはできないはずだ。
いま世界ではとんでもないことが起こっているのね。
だけど、テレビではいつものように芸能人がわいわい騒いでいる。
わたしものんきに本を買いに行く。第23回早稲田青空古本祭(穴八幡宮境内)。
毎年、行っているように記憶している。
去年の成果はこちら(まあ、他人の買った本なんてだれも興味ないけどね)。

古書の世界は経済学そのものではないか。
古本をやりとりしていると、経済本来のすがたに気づかされる。
これは決して新刊書籍では味わえないことだ。
新刊書店では本の価格は一定である。ところが、古本はそうではない。
いろいろな古書店の集う、今日のような古本祭になれば、おなじ本でも価格が異なる。
ここに経済の原始的な実相が現われる。
つまり、おまえはいくらだったら買うか?
古本の価格は定められていない。言うなれば、あなたが値札をつけるのである。
その金額に見合わなければ買わない。合致すれば買う。
これこそミクロ経済学ではないだろうか。
この日、第23回早稲田青空古本祭で購入した書籍はゼロ。
むろん、ほしい本はいくつかあったが、こちらの希望価格と合わなかった。
べつに落ち込んではいない。わたしは異常なほど古本の幸運にめぐまれている。
どうしてか、毎回のように古書巡礼で掘出物に出逢う。
今日のような不運があるとかえって安心するのはこのためである。

会場をあとにして早稲田の古本街をぶらぶら。やはり求める本はない。
量販店ドンキホーテへ。タバスコが安い。
それから味盲の味方、レトルトカレー「LEE20倍」。

タバスコ 118円×3
LEE20倍 208円×2


坊主(=無収穫)のままブックオフ高田馬場北店に到着する。
先日、病院がえりに寄ったばかりだから、収穫はないはずである。
これで今日の購入書籍はゼロなら、積ん読が減って実によろしい。
そう思っていたところ、おのれブックオフめ――。

「ノンフィクションを書く」(ビレッジセンター)絶版 105円
「RPGシナリオメイキングガイド」(桐生茂/新紀元社)絶版 105円


困ったことである。自称作家のパンダとしては買わざるをえないではないか。
こののちもブックオフ店内をふらふらしていると井上靖の文字が目に入る。

「毎日グラフ別冊 追憶 井上靖」(毎日新聞社)入手不可

定価は1600円。どうせ売値が渋いブックオフ高田馬場店(これ有名よ)。
よくても800円くらいかと裏表紙をめくったら、なんと300円。
裏表紙が少し折れているせいかもしれない。
中身を見ると、貴重な作品が復刻(再掲)されている(一部分だけれど)。
井上靖は「猟銃」でデビューしたとされるが、
実のところ、そのずっとまえに懸賞小説に当選していたのである。
言うなれば、作家の本当の処女作が公開されている。
たとえ半額の800円でも買っていたであろう。それが300円というのだから悪くない。
なにゆえこうも古本のヒキがいいのでしょうか。

JRに乗車し帰宅する。最寄り駅横のスーパーに入店。
今日は10月1日。月のはじめは、ほとんどのスーパーで特売をする。
本日は両手が自由。
あまり古書を買い込まなかったのがよかった(ポジティブ・シンキング!)。
この特売で採算をプラスにしようではないか。
ジャンクフードは嫌いではない。レンジでチンの冷凍食品はむしろ好きである。
おお、広告には掲載されていない冷凍焼きそばが半額の168円になっている!
これは買い込まなければならない。
小麦価格が高騰したいま安価な焼きそばは嬉しい。
ところが、レジを通すと合計金額が想像以上に高い。
レシートを確認すると冷凍焼きそばが316円で入っている。定価だ。

ここですぐにクレームをつけたらいけない。
よしんば、こちらのミスだったら今後、
このスーパーを(恥ずかしくて)利用できなくなってしまう(自意識過剰!)。
即座に売場を確認する。
やはり売値は半額の168円になっている(むろん正確な半値とは20円違う)。
間違いない。わたしは間違っていない。
ひとのよいわたしだ。レジの女にこう問いただす。
「会計が間違っているんですけど、また並ばなければダメですか」
この時間はどのレジも行列である。
バイトの指示にしたがい、わたしはふたたび列の最後尾に並ぶ。
意外に思われるかもしれないが、こういうところでは怒らない。
ようやくわたしの順番。
「いえ、あなたのミスじゃないんですよ。店のミス。書かれている売値が違っています」
売り子は金額チェックに駆け出す。
二度も確認しているのだ。わたしが間違っているはずがない。
どうなるのかと思った。
定価でしか売れないというのか。それとも売値通り返金してくれるのか。
どのみちとあきらめていたが、嬉しいことに返金してくれるという。
わたしは168円の冷凍焼きそばを4つ購入したことになる。
不満がなくもない。この段階で午後8時を過ぎている。
特売価格開始の午前9時から11時間も経過しているわけだ。
このあいだどれほどの顧客が316円の冷凍食品を168円だと思って買っていたことか。
だれひとりとして指摘しなかったのは(わたしがだまされた)売値から明らかである。
みなさん、買い物のあとはレシートを確認しましょう。これしか言えない。

いま自作のチンジャオロースをつまみながら酒をのんでいる。
明日から3、4日、禁酒するつもりだ。
またまた血液検査ゆえ。
とある事情でかかりつけの病院をかえなければならなくなったのである。
なるべく肝臓の異常を知られたくない。
いや、いくらでも言い逃れはできるのだ。
医師から毎日の酒量を問われても、ビール2、3本とウソをつけばいい。
ほとんど酒をのまないのに肝臓の数値が悪いものがいる。
いっぽうでいくら鯨飲しても肝臓に異常が見られないものもいる。
実際、わたしだって医師が知ったら卒倒するほどの酒をのんでいるのに、
2年前まで血液検査に異常は見られなかった。
とはいえ、たまには禁酒もいいのかもしれない。
いまのんでいる酒をしばらくのめないのだと思うと、いつもより何倍もうまい。
しばしの別れだ。あばよ酒よ!
「偶然の恋人」(ドン・ルース/藤田真利子・伊東奈美子訳/愛育社)

→映画シナリオ。2000年公開作品。
おい、いいかげんにしろ。なんなんだこの映画は!
空港。天候不良。飛行機の運航異常。乗客の混乱。
イケメンのエリートビジネスマンが、バーで知り合った男に航空券をゆずる。
好意からではなく空港勤務のアバズレと一戦交えるためだから自分勝手なもの。
ところが、この飛行機が墜落しちゃいましたとさ。
イケメンは命びろいしたもののアル中になってしまう。よって断酒会参加。

酒の抜けたイケメンが死んだ男の妻に逢いに行く。
子どもがふたりいるけれど、この女がビジンなのである。
イケメンは正体を隠してビジンに言い寄る。
最初は経済的援助だけのつもりだったが、下半身が反応してしまったわけだよ。
ビジンの下半身も共鳴する。いんや、共濡といったほうがいいのかな。
イケメンの正体がいつばれるかで観客の気を惹きたいのはわかるけれど、
いくらなんでも焦らしすぎだって(シナリオ全体の半分が焦らし……はあ)。
そのあいだに、むろんチンコとマンコはくっついている(=性交済み)。
いったん離したほうがふたたび結合する喜びがあるでしょう。

したがってイケメンの正体がばれ、チンコとマンコは「おあずけ」を食らう。
最後はなんか葛藤があったほうがよくない?
よし、裁判いっちゃおう! 慰謝料の問題がチンコとマンコを隔てる壁となる。
裁判所で損得度外視で発言するチンコ、ではなくイケメンか。
ビジンはテレビ報道でチンコの(しつこいぞ!)、いやイケメンの立派なさまを見る。
ふたりのあいだの壁を破るのはなにか。
ここだけはイケメンではなくチンコと呼ばせてもらおう。
壁を破るチンコ。そこにはマンコが。おまえらちょっとはナニを隠せよ!

こんな映画に感動するのはどこかに障害があるんじゃないか。
美男美女にだまされやがって。これはチンコとマンコの物語なんだぞ。
おい、おまえだよ、この映画で泣きましたとか言ってる、おねえちゃん!
ふたりの顔がよくなかったら、なんと節操のない下半身だと顔をしかめるんじゃないか。
アル中のおっさんが下半身丸出しで追いかけてきたらどうする?
おまえさん、逃げるだろう。逃げないと? 愛に殉じると?
ならメールをくれ。真性アル中のおいらが怒涛のような求愛をしてやるから。
「シックス・センス」(M.ナイト・シャマラン/豊岡真美訳/愛育社)

→映画シナリオ。1999年公開作品。
「シックス・センス」を知らなかったというのは、どのくらい恥ずかしいのだろう。
名前を聞いたこともなかったが、調べてみたらあまりにも有名な作品らしく驚いた。
とはいえ、日本人のどれほどが今年の芥川賞作家、直木賞作家を知っているかと思うと、
ぞんがいハリウッド映画に無知なのもさほど恥ではないのかもしれない。

ふたつの創作方法があるように思う。個か全体か、である。
自分という個にこだわって、だれかひとりの個に向けて作品を創作する。
作家の個性に賭けるやりかたである。
結果として全体からも受けいれられることがある。
もうひとつは、個をなかば捨ててでも、全体を計算に入れて創作する方法だ。
できるだけ多くの人間に好まれるよう最初から狙うのである。
かといって、かならずしも売れるとは限らないのがむずかしいところ。
脚本家の山田太一や小説家の村上春樹は前者であろう。
そして後者にあたるのがハリウッド映画ではないか。

「シックス・センス」のシナリオは緻密な計算のもとに書かれたことがうかがえる。
ひとつ残念だったのは、
映画上演時にあった有名なプロローグがシナリオに収録されていないことだ。
映像では監督だか俳優が冒頭に登場して、
この映画には秘密があると観客に語りかけたという。
どうか観終わったあとにその秘密をだれにも話さないでください。
俗に言うところのネタバレの禁止をお願いしたらしい。
これがあるかないかで大きく作品の感想が変わると思う。
シナリオには最初の「謎かけ」が記載されていなかった。
もしあればなにが秘密だろうと楽しめたと思うゆえ残念でならない。

では、シナリオの設計を見ていこう。
スクリーンには小児専門の精神科医、マルコムが登場する。
医師はいま得意の絶頂である。仕事が認められ市長から表彰された。
かたわらには美しい妻がいる。
ふたりはいま自宅でささやかながら祝賀会を開いているのである。
ハリウッド映画である。冒頭で観客の心をわしづかみにせねばならぬ。
さっそく事件が勃発するのはこのため。
むかしマルコムの患者だった青年が銃を持って屋敷に侵入するのだ。
青年は泣き叫ぶ。「あんたは僕を救いそこなったんだ」
ピストルが発射される。腹部に銃弾を受けるマルコム。
青年はピストルを頭部に向け自殺する。つかみはOKといえよう。

2年後、マルコムは休んでいた診療を再開しようとしている。
2年ぶりの患者はコール。9歳か10歳か。
コールは自殺した青年の少年期とどこか似た雰囲気を持っている。
マルコムがコールを治療する――これがゴールではないかと観客は予測する。
心を病んだコール少年の秘密とはなんなのか。
観客を退屈させないためのフックである。
コールは、妻を亡くした近所の老人にやさしく接する。
具体的には老妻の隠していた日記を発見して夫にさしだす。
この光景を目撃した医師マルコムはただならぬものを感じる。
さて、少年が老人を癒す。ともに泣く少年と老人。いかにも万人が感動しそうである。
これが作者の計算なのは言うまでもない。

シナリオ中盤でコールの秘密が明らかになる。物語の進展だ。
まず医師のマルコムが秘密を開示する。
自分にはかつて救えなかった少年がいる。コール、きみはかれに似ている。
だから、なんとしてでもきみを救いたい。
コールも秘密を告白する。

COLE 「I see people. I see dead people...Some of them scare me」

死人が見えるというのである。驚愕の事実だ。マルコムは驚く。
今度は日本語訳で(笑)。

「マルコム:死んだ人っていうのは、お墓や棺おけに入っている人たちのこと?
コール:ううん。歩いている。普通の人みたいに……
死んでいる人たちは、ほかの死んでいる人が見えないんだ。
だから、自分が死んでいることを知らない人もいる。
マルコム:自分が死んでいることがわからない?
間を置く。
コール:僕には幽霊が見えるんだ」(P121)


マルコムにはコールの言うことが信じられない。
小児精神分裂病を疑う。これは薬物治療するほかないのではないか。
自分にこの少年は救えない。精神科医マルコムは挫折しかかる。
観客はハラハラするわけである。がんばれ、マルコム!
かわいいコール少年が口を開く。「僕を信じて」

マルコムは成長(アメリカ的!)している。むかしとは違うのである。
医師は少年を信じようと思う。どうして幽霊は少年のもとに現われるのか。
マルコムは仮説を立てる。幽霊はコールに救いを求めているのではないだろうか。
ここで精神科医のプライベートを紹介しておこう。
あの事件以来、マルコムは妻と口を聞いていない。
夫婦仲はすっかり冷めてしまった。マルコムは妻とよりを戻したいと思っている。
この葛藤も観客を惹きつけるフックといえよう。
さあ、シナリオは後半に入る。

おりしもコールのもとに嘔吐する少女の幽霊が現われる。
嘔吐する少女! なんとも猟奇的な絵ではないか。もとより、作者の計算である。
マルコムとコールは連れ立ってこの少女の家におもむく。
死んだ少女の葬式が開かれようとしている。
コールは隠されていたビデオテープを見つけ父親に渡す。
このことをコールは幽霊から依頼されたのだろう。
ビデオを再生すると、少女のスープに洗剤を入れる母親の姿が映っていた。
死んだ少女は指人形を撮影するのが好きだったことから、
このシーンは偶然に録画されたのだと思われる。
ともあれ、真相の発覚である。父親と会葬者は母親に詰め寄る。
死んだ少女には幼い妹がいた。コールは指人形を持って妹に近づいてゆく。
「きみが欲しがってたって、お姉さんから聞いたよ」
コールは指人形を渡す。少女は姉が死んだことを知る。もうこの世にはいないことを。
幼い少女に寄り添うコール少年。
ふたりを感動しながら見つめるものがいる。マルコムである。
精神科医は今度こそ少年を救ったことを知る。
さて、悲しみにくれる少女と、なぐさめている少年の絵――。
このシーンを見て感動しないものがいようか。ついにコール少年は救われたのである。
さあ、泣いてください。どんどん泣いてください。作者のメッセージである。
わたしはシナリオを読みながら、安手な感動だと鼻白んでいたけどね。

もう終わりが近い。ひとつ残っていた問題がなかったか。
そう、マルコムの夫婦関係である。
深夜、マルコムの妻アンナは、ふたりの結婚式のビデオをつけながらうたた寝している。
もしかしたら泣き暮れているのかもしれない。
声をかけるのは忍びない。これは美しい妻の寝言なのか。

「アンナ:なぜ、私を置いて、いなくなったの?
マルコム:僕はここにいるじゃないか」(P225)


アンナの手から結婚指輪が落ちる。拾うマルコム。
夫は妻の指に結婚指輪を戻そうとする。ところが、指輪はそこにあるのである。
これはいったいどういうことか。マルコムは自分の手を見る。指輪がついていない。
マルコムがすべてを悟るのはこのときである。

「僕は行かなければならないようだ」(P229)

アンナにはマルコムが見えていなかったのである。
これも寝言だろうか。アンナは言う。「おやすみ、マルコム」
マルコムはアンナには決して伝わらない返答をする。「おやすみ」
暗闇のなか結婚式のビデオが流れつづけている。
そこには人生最高の幸福を喜ぶマルコムがいる。この世にはもういないマルコムが。
コールを救ったつもりになっていた精神科医のマルコムだが、
実のところ幽霊の自分が少年に救われていたのである――(完)。

あひゃひゃ、マルコムは死んでいたのかぁぁぁとぶっ飛んだ。
思えば、たしかにマルコムはコールとしか話していないのである。
ストーリーには、コールと(かれを女手ひとつで育てる)母親の葛藤もあるのだが割愛した。
ここで問題にしたいのは、たしかにやられたとは思ったけれど、
壮大な感動といったものはなかったこと。
ところが、ネットで調べてみると、この「シックス・センス」はたいへん評価が高い。
どのくらいかというと、たとえばアマゾンでこの作品に否定的なレビューには、
「参考にならない」が集団いじめのように降りかかっている(苦笑)。
これこそハリウッド映画の醍醐味だと逆に感動したくらいだ。
イエスは100匹のなかの1匹を救えと教えたもうたが、
ハリウッド映画は1匹を切り捨て99匹をもてなさんとするのである。
宗教とビジネスの相違であろう。
ことによると99匹が密林(アマゾン)で1匹をいじめるかもしれないが知ったことではない。

シナリオとしての評価は高い。
たしかに最後のオチの一発勝負で、それまでの流れは良いとは言いがたい。
あのオチがなかったら、なんでもない作品である。
だが、このシナリオはとても斬新だった。読んで勉強になった。
戯曲(演劇)と台本(映画)の相違を実感として理解することができた。
台本は映像によって観客をだますことが可能である。
なぜならば、映像は(芝居とは異なり)観客の視点を固定できるからである。
具体的には、少年には見える幽霊が精神科医には見えない。
このシーンは残念ながら演劇では表現不能。
(と思ったが、ハムレットが母親には見えない亡父の幽霊を見るシーンがあったね。
だけど、あれはいかにもウソくさいでしょう、舞台でやると)
シナリオ「シックス・センス」には驚かされた。
しかし、ビデオを借りてきて見ようとは思わない。DVDレコーダーはまだない。
そういえば、ツタヤから会員証更新のお知らせメールが昨日届いた。
この1年で借りたビデオの数はゼロである。