「脱ぐしか選択肢のなかった私。」(波乱万丈インタビュー制作委員会/英知出版)

→AV女優11人のインタビューを集めたもの。
アダルトビデオは好きではない。どこがおもしろいのかさっぱりわからない。
ただやっているだけでしょう。まるで動物じゃないか。
動物はなまで見るからせめてもの感興があるのであって(動物園!)、
動物をただ録画した映像など、たとえそれが交尾シーンだとしても退屈極まりない。
「物語=意味」こそ人間が人間たるゆえんである。
わたしはむしろ交尾シーンがカットされているものに欲情する。
見えないもの、隠されているもののほうがよほど煽情的ではないだろうか。
もしかしたらとても恥ずかしい性的嗜好を告白してしまったのかもしれない。
ムッツリスケベなどという死語でカテゴライズされるくらいなら死んだほうがマシだ。

本書の感想を書こう。
AV女優の壮絶な人生が赤裸々に語られるというのが本書の売り。
悪くない企画だと思う。ひとの不幸はなんだかんだいってもおもしろい。
といっても、ありがちなんだけどね。
義父にレイプされた。兄との近親相姦的関係。まあ、トラウマだな。
それから親の貧乏、離婚、アル中、性的乱倫といった古典的な不幸。
たしかに過激なのだけれども、どこかで聞いたような話ばかり。
なまの手ざわりといったものが感じられない。
まあ、そういう固有性を扱うのが文学で、まさか英知出版の本に期待してはいけない。

それにこういうことを言っちゃあれだけど、
AV女優はまだ恵まれているほうなのである。
なにしろアダルトビデオに出られるほどの容姿を持って生まれている。
おなじような生育環境で不美人な女性はいくらだっているはずである。
そのうえ本書に登場するのは人気AV女優ばかり。
世の中には一度もスポットライトを浴びずに死んでゆくものがいくらだっているのだ。
(たとえば、わたしのようにね!)
ほんの一時期でもちやほやされる幸運を得たのだから、あまり贅沢を言ってはならない。

英知出版さんへお願い。
本書は、ありがちながら、人間の根源的知識欲を満たす良書だと思う。
できましたら次回は、写真をもっと多くしてもらえませんか。
AV女優の不幸自慢はいまのままで構わないのです。
けれども、女優さんの写真を増やしてほしい。
カラーは言うまでもなく、プライベート写真からヌード、カラミ写真まで多様に。
「物語=意味=左脳」と「外見=視覚=右脳」が合体したら最強だと思う。
頼みましたからね。

ちゃんと読んだという証拠に一箇所くらい引用しておこう。AV女優、若葉かおり。

「これまでの人生を振り返って? 『重かったなぁ』の一言です(笑)」(P250)

うん、この子は顔もきれいだし、あたまも切れる。わかっている。
人間はそれぞれいろいろなものを持って生まれてくる。
その軽重が人生のドラマを形づくる。重いものを持って生まれてくるものがいる、
いっぽうで比較的、軽めの境遇で誕生するものもいる。
おのおの重さは違う。他人に重量を分担してもらうことが、ときに可能なこともある。
けれども、たいがいの場合、重みと向き合えるのは自分でしかない。
重みに押しつぶされるものがいる。重みをなんとかこらえるものがいる。
この重みはいったいなんによってもたらされるのか。宗教の世界である。
つまり、アダルトビデオは宗教の門を開くきっかけともなりうる。
「インド大修行時代」(山田和/講談社文庫)絶版

→とてもいい本だと思う。インド旅行を疑似体験させてくれる。
このくらいならだれでも書けると思う読者もいるかもしれないが、
このくらいを書くのがたいそうな骨折りなのである。
インド旅行体験者のだれもが味わうことをコミカルな筆致で描いている。
幼稚な日本批判、ひるがえってのインド礼賛をあざわらうものはわかっていないのだ。
あれはよわい50を過ぎた著者のサービス精神と見るべきである。
インドへ行ったものはみなみな悟ったような錯覚をいだく。
山田和は、あのインチキ達観を、じつに巧妙ないかがわしさで描写する。

個人的な利点は、インドの不愉快さを思い出させてくれたこと。
インドはふしぎな国で、どれだけいやなことがあっても、また行きたくなる。
そういうリピーターを作ってしまう国なのである。
いまふつふつとインドへの情熱が復活している。
この本を呼んだおかげで、あんな国は行くものではないと思い直すことができた。

ひとつ鋭いと思った指摘を。
インドのカジュラーホで有名なのがミトゥナ像(男女合歓像=セックス体位の彫刻)。
山田和の感想である。

「『遠野物語』には、馬と人間の女性との愛の物語がある。
日本語には「情交」という言葉があるように、
セックスには「情」がついてまわることになっている。
たとえその相手が動物であろうともだ。
ところがカジュラーホのセックスには、まったくそのようなものがなく、
あくまでも器械体操のようなのであった。
括(くび)れた腰やドッチボールにも似た豊かな胸さえ、
地球儀の一部と差はなかった。
性の概念がまったくちがうのである。
それらは、人体に対する興奮よりも
幾何学的な興奮を呼び覚ますといったら言い過ぎだろうか」(P130)


ほんとほんと、インド人って、わけがわからん。
天竺はクレージーな国だと思う。
大学生のとき、初めてインドに行ったのだった。
そのときバラナシのホテルドパリスの従業員と約束したのだった。
新婚旅行でかならず再訪すると。あはは、いろんな意味で無理ぽ。

9月27、28日に代々木公園でインド祭りが開催されます。
今年もひとりで行く予定。みんなも行こうぜ、ゴーゴーインド! 代々木から第一歩だ!
「木下恵介伝 日本中を泣かせた映画監督」(三国隆三/展望社)

→木下恵介にまつわる古今の情報を広く集め要所をまとめたものである。
独創的な論説は皆無だが、そのぶん手堅い評伝に仕上がっている。
手堅いというのは、面白味がないことでもある。
著者の態度は、木下恵介の作品ならすべて価値があるという前提に基づく。
映画監督を天皇にまつりあげたうえでの評伝である。
著者の木下恵介への傾倒ぶりがうかがえる。

・ストーリー・テラーなのは幼少時、父から布団で物語を聞かされていたから。
・酒が好きで、女が嫌いである。
・実家が裕福なため31歳で監督デビューするまで親の仕送りを受けていた。
・とびきりの自己愛者である。

「ときどき、木下作品の試写会も開かれた。まだビデオが普及していない当時、
デビュー作からワイド・スクリーンになるまでの自作を十六ミリで、
ホーム・ムービーとして所蔵し、映写機まで持っていた。
木下はみんなの真ん中に座り、自分の映画を見ては大声で笑ったり、
泣きミソのようにポロポロ涙を流したりした。
そして、助監督に向かって無邪気に「ボクって、なんて、うまいんだろう」
と言ったりした」(P112


著者はおそらく知っていたのだろうが、本書に書かなかったことがある。
木下恵介は同性愛者(ゲイ・ホモ)なのだ。
映画監督の不名誉になると著者は判断したのかもしれない。

同性愛者というのがわからない。
レズピアンのわからないのは男だから当然なのだがホモも理解できない。
男を性的な意味で愛するという感覚がイメージできない。
2ちゃんねるの関連スレッドを見ると、
木下作品の端々からゲイ的なものを感じるものがいるらしい。
わたしは都合8つの木下恵介作品に目を通したが、
とりたてて同性愛的なものは感受しなかった。
ことさら作者の性的嗜好を重要視する風潮には疑問を感じる。

あれだけ最新風俗に敏感な山田太一だが、
考えてみると同性愛をテーマにしたものはひとつもない。
もしかしたら師匠の性癖が関係しているのだろうか。
若いころの山田太一はそうとうな美青年である。
木下恵介は周囲に美青年をはべらすのを好んだと聞く。
……ああ、いまおかしな想像をしてしまった自分が恥ずかしい。懺悔(ざんげ)する。
「父よ母よ!」(木下恵介/月刊「シナリオ」1980年10月号)品切れ

→映画シナリオ。昭和55年公開作品。
シナリオには原作があってジャーナリスト齋藤茂男の同名のルポルタージュ。
当時の不良少年、不良少女に肉迫したものらしい。
映画界の巨匠・木下恵介はこの書物に強い影響を受ける。
「せめて自分の仕事で参加しよう」(「演出のことば」より)と映画化に取り組んだとのこと。
といってもドキュメンタリーではなく劇映画である。
書籍のなかのエピソードを編集して子役に喋らせたのが映画「父よ母よ!」になる。
本を読むことのできる最低限の知力があればこの映画は不要なのではないか。
とはいえ、世の中には本を読めないような知的弱者が存在する。
映画「父よ母よ!」の存在意義であろう。

一貫した物語のようなものはない。
不良の少年少女が順番に現われ、それぞれ非行に走った経緯を述懐する。
ほとんどの問題児童が、これまた問題のある父母を持っていることが明らかになる。
だからタイトルが「父よ母よ!」なのだと思われる。
「親の因果が子に報いる」を痛感する。
どこの父母のもとに生まれ落ちるかで人生が決まってしまうのである。
「父よ母よ!」では言及していないが、
非行に走る子を持つ両親もまた問題のある家庭に育ったことは疑いえない。
不幸は連鎖する。
親の因果が子に報い、その子が親になると再び子に因果を伝える。
おそらくどこにも救いのない無間地獄なのであろう。

映画後半で北海道の救護院「家庭学校」が紹介される。

記者の声「ここには、小学校四年生から中学卒業までの
七十九人の少年たちが収容されていた。
父母の離婚、蒸発、病死、自殺、アル中、一家離散
――この白い森の学校に送られてくる少年たちの過去は、
この世のあらゆる不幸を凝縮したかのようであった」(P134)


この「家庭学校」の礼拝堂である。全校生徒が集まっている。
校長先生が壇上に立ち話すのは、水上勉の本のことである。
作家が少年時代の思い出をつづったものだ。
七つか八つのころ、冬のある一日のこと。村ぐちで大人たちが集まって騒いでいる。
やがて鉄砲を持った四、五人の男が走って来て、どこだ、どこだとわめいている。
熊が出没したのである。雪はまだあちらこちらに残っている。
一本の杉の木が突き出ていて、そのてっぺんになにやら黒いかたまりが見える。
まだ子どもの熊である。登ったはいいが、降りてこれなくなったようだ。
子熊はあわれにも、ふるえて啼いている。
水上少年をはじめ子どもたちは子熊がかわいそうで見ていられない。
いつ鉄砲の音がなるのかと不安で仕方がない。
ところが、大人たちは子熊を殺さないのである。
どうしてだろうと少年たちはふしぎに思う。
あれは母熊が来るのを待っているのだと大人から教えられる。
水上少年は熊の母子の会話を空想する、

子熊「お母さん、来ちゃあいけない、来たら殺されるよ」
母熊「そんなこと言ったって、お前がそんな木の上に登るから」(P142)


パーンと鉄砲の音が一斉に鳴る。血みどろの母熊が運ばれてくる。
まだ大人は木のてっぺんにいる子熊を殺さない。父熊が来るのを待つのである。

「212 礼拝堂
谷先生「だんだん昏れてきた。杉の梢の上で熊の子が啼く声がした。
それは人間の子が泣くような、かなしい寂しい声であった。
梢は鼠いろの空につきたてたように残っていて、
黒いかたまりは、泣き声とともにかすかにゆれた。
それから、大人たちが、夜になって、もう一頭の熊を射止め、ついでに、
その梢の子熊も射止めたという話をきいたのは翌日であった」
浅川先生も聞き入っている。

213 杉木立(アニメーションではなく)
子熊が梢から落ちて行く。

214 礼拝堂の外
一同が出て来て、それぞれの寮に帰って行く。

215 森の中の道
浅川先生も生徒たちと帰って行く。年少の少年Sが、先生の横に来て並ぶ。
S「先生」
浅川「う? どうした――」
S「今日のお話し、とてもよく分ります」
浅川「そうか」
S「心配をかけて、ほんとにすいません(涙ぐんでいる)」
浅川「(たまらなくかわいくなって、その肩を抱き)分りゃあいいんだ、分りゃあ」(P142)


いいシーンだと思う。いま書き写しながら涙がこぼれた。
読んでいるときも泣いたのだから、泣いてばかりで恥ずかしい。
これこそ木下恵介から山田太一に通じる叙情の美しさなのである。
人間はひとりひとり無力である。生まれてくる両親さえ選ぶことはできない。
そのくせ人間は孤独に苦しめられる。孤独はやりきれない。押しつぶされそうだ。
人間は他人の孤独をどうしてやることもできない。
いや、そっと肩を抱くくらいならできるのではないか。
無力な人間も肩を組めば少しなら苛酷な現実に向き合うことができるのではないか。
木下恵介、山田太一の師弟が共通して描く人間ドラマの根本思想である。
「女の園」(木下恵介/日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和29年公開作品。
上演時間は137分。いったいだれがこんな映画を最後まで観るのだろう。
娯楽の少ない昭和29年。映画館に閉じ込められている。なおかつ料金を支払っている。
時代、場所、代金。この3要素が「女の園」を名作なんぞにしたとしか思えない。
どこがおもしろいのかまるでわからぬ。

校則の厳しいお嬢さま女子大。学校の管理体制に抗議する一部の女子大生がいる。
そのうちのひとりが出石芳江(高峰秀子)である。
芳江は結婚を誓った恋人がいるものの親からは交際を禁じられている。
自由か義務かの相反する規範に引き裂かれ芳江の精神は異常をきたす。
自由恋愛か、それとも親への義務か。
自由な大学生活か、それとも伝統のある校則か。
自由と義務のあいだで揺り動く幾人かの女子大生が活写される。
芳江はあらゆる葛藤を背負い込み大学の教室で睡眠薬自殺を遂げる。
「日本の悲劇」とおなじ自殺オチはいささか工夫が足らないと思う。
たしかに主役を殺せば映画は終わるが、だからといってポンポン自殺させないでほしい。

この映画の退屈な理由はいくつかあるが、最大のものはエロがないことではないか。
濡れ場がないのである。
暴力シーンの不足は舞台が女子大のため致し方ないが、
せっかく女子大生を使うのだからもう少しエロを入れられなかったのだろうか。
芸術映画に不純なことを言うなと怒られてしまいそうだけれども。

137分もえんえんとおかたいテーマに向き合わされるのは苦痛以外のなにものでもない。
べつに映画からなにか教えてもらおうとは期待していないのだ。
知識だったら本を読むのだから。
むかしの映画はどうして観客を教育しようとするのだろう。
楽しませてくれればそれでいいのに、不遜な映画監督が多いのには困ったものである。
「日本の悲劇」(木下恵介/日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和28年公開作品。
上演時間は116分だが、映画だったらとても最後まで観ていられなかったと思う。
シナリオだからこそなんとか持ちこたえることができた。
巨匠・木下恵介は当時の日本を悲劇的状況にあると解したわけである。
そこで映画「日本の悲劇」を製作し、国民に自覚をうながす。

暗くてやりきれない物語である。テーマは、うめくビンボー人ども(苦笑)。
夫を戦争で亡くした春子はときに娼婦まがいのことをして一男一女を育てる。
けれども、息子も娘も母親からの干渉を嫌い逃亡する。
具体的には、医学生の息子は裕福な開業医の養子に入るという。
美しい娘は、妻子ある男性を誘惑し駆け落ちする。
戦後の乱世をがむしゃらに生き抜いた結果がこれである。
息子からも娘からも迷惑がられ孤独な40歳の春子はいまある男性のもとへ向っている。
春子はもうけ話に引っかかり相場で大損をしてしまった。
借金を身体で返す羽目におちいったのである。
春子は駅にいる。いまから好きでもない男に身体を預けに行くのである。
電車がやってくる。春子は駆け出す。
ホームから飛び降りる。電車が急ブレーキをかける。
春子の死をもって悲劇は幕を閉じる。

明るいシーンがほとんどない暗いだけの押しつけがましい映画である。
ひとつ良かったシーンを紹介する。
春子の娘、歌子はとびきりの美少女である(桂木洋子)。
このシナリオ集には写真がついていて、見ると清純そうでとてもいい。
さて、春子は子どもふたりを養育するため旅館に出稼ぎに出る。
家は亡夫の兄一家に貸し、子どもの面倒を見てもらうことにする。
ところが、この義兄夫婦というのが意地が悪く、弟の子どもの世話など一切しない。
それどころか家をのっとり、庭のバラックに姉弟を押し込む始末。
親戚から意地悪をされても、ぐっとこらえる美少女、歌子と弟であった。
一生懸命に我慢していたら、いつか幸せになれると信じてである。
叔父夫婦にはひとり息子がいるのだが不良大学生である。
勝男は両親が姉弟をいじめるのをニヤニヤしながら眺めている。
ときにはこんなふうにからかう。15歳の歌子が理不尽ないじめを受け泣いている。

勝男「なんだい、泣いてんのか、俺が慰めてやろうか、な、遊ぼうよ」
歌子「向こうへいって」
勝男「何時もぷりぷりしてやがる、一寸ばかり綺麗だからって威張るない」(P108)


歌子も黙ってばかりではない。
勝男一家が闇商売をしてもうけているのを警察に匿名で告発する。
だが、警察とこの一家は通じていたのである。
密告がばれた歌子は叔父からこれでもかと折檻を受ける。

「闇で儲けてますとは何事だ! こんな手紙警察へ出したって、
警察はちゃんと叔父さんのところへ知らせに来てくれるんだ、
今度こんなことしやがったら、半殺しにしてくれるから……」(P110)


正しいことが必ずしも通るわけではないことを薄幸の美少女は知る。
それでも正義や希望を信じたい歌子は16歳になっていた。

「66  歌子と清一(=弟)の住むバラック(昭和廿二年冬)
   戸をあけて勝男が入ってくる。
勝男「どうしたんだい。風邪ひいたんだって?
蜜柑(みかん)持ってきてやったよ……(布団の傍に坐って)
熱があるのか、どら……(手を出す)なんだい、もぐっちゃうことないじゃないか、
人が親切にいってやってんのに、一寸頭、さわらしてごらんよ、
熱があったら俺がひやしてやるよ」

67  バラックの外
   雨がふっている。
   窓ガラス一枚、割れる。

68  バラックの中
   土間に蜜柑が転がる。
   ガラスの割れた所に雨がふりこんでいる。
勝男の声「お前のおふくろだって、パンパンじゃないか
――この野郎――生意気な――畜生ッ」

(中略=現在のシーンが入る)

70  バラックの中
   勝男が戸口に行ってふり返った顔。
勝男「おふくろに云いやがると承知しねえぞ、黙ってりゃこれから優しくしてやらあ」
   雨の中へ出てゆく」(P122)


風邪で身体が動かないところを襲われ勝男のなぐさみものになる16歳の歌子――。
まわりにだれも味方はいない。弟には恥ずかしくて言えない。
母屋との力関係からして、一度許してしまったらこれからも勝男を受けいれざるをえない。
いやあ、ヘンタイのようだけれど、不幸ってエロいですよねえ。
いまのAVなんかよりよほど劣情をあおるところがある。
この映画には具体的な描写はない。
ガラスが割れる。蜜柑が転がる。これだけで情事を暗示するわけだ。
貧しいながらも正義感を失わない薄幸の美少女がよこしまな欲望に汚される。
ううん、いやらしい。じつによろしい。こういうのが娯楽になるのである。
不幸は豊かなのである。
現実の不幸はやりきれないが虚構世界でなら不幸は豊饒をもたらす。

気になるかたのために歌子の今後を書くと、ひどい人間不信におちいる。
自分に気を寄せる妻子ある中年男と、愛してもいないのに駆け落ちする。
男の家庭をめちゃくちゃにすることに喜びを見いだしているのである。
おそらく歌子はこの中年をすぐに捨てるだろう。
つぎにさらなる獲物を探す。
このように不幸が連鎖してゆくさまはさぞ壮観かと思われる。