「カルメン故郷に帰る」(木下恵介/日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和26年公開作品。
ひなびた農村で、ちょっとした騒ぎが巻き起こっている。
上京したノータリンの娘、きんが帰ってくると知らせてきたからだ。
きんは東京でダンサーとして成り上がったらしく、いまはカルメンと名乗っている。
「カルメン故郷に帰る」である。

カルメンはもはや田舎の少女ではない。東京で名の売れた芸術家の先生である。
ダンスはストリップショーと紙一重なのだが、都会ではこれが芸術なのだろう。
とびきり珍妙な格好で帰省するカルメンであった。
きんの父親は娘の出世が嬉しいながらも、とても娘を芸術家とは思えない。
半裸のプロマイドにサインして配っている娘が恥ずかしくて仕方がない。
村一番の成金である丸野は、これをビジネスチャンスと捉える。
カルメンにダンスの上演会を依頼する。
村の男どもは、見知った美少女きんちゃんの裸が見られるのでわんさか押し寄せる。
みんな口にするのが芸術、芸術、芸術――。
カルメンはすっかり芸術家気取りで、幼なじみの男たちのまえで素っ裸になる。
遅れた農村に芸術と文化を伝えたカルメンはこうして東京へ戻ってゆく。

物語の救いは、盲目の音楽家、春雄である。
春雄はかつては教師だったのだが、戦争で負傷してめくらになってしまった。
働けないため借金はかさむばかり。
カルメンはストリップショーのギャラを父に託したのだが、、父は受け取ろうとしない。
このカネが結局、春雄の借金返済にまわされるのである。
いんちき芸術がほんとうの芸術を救ったというオチであろう。

木下恵介の文化批判。カルメンの父のセリフを引用する。

「うまいこというのは止めて貰おう。わしは親だからちゃんと分ってるだ。
子供の時からいつも学校はビリッ尻、十八になるまで鼻をたらしていた奴が、
そんな立派な芸術とかいうものができるわけはねえ、
それをみんなで面白がって、彼奴(きゃつ)の裸をからかってるに違いねえだ」(P82)


木下恵介作品の特徴のひとつ、説教臭さがよく出ている。
かの映画監督は国民を導かなければならないと思っていたふしが見られる。
作品、作品に明確なメッセージがあるのである。
映画がなにかを伝えるための道具になっているのだ(「真の芸術とはなにか?」等)。
また木下は自分の内部に、大衆に伝えるべきなにものかがあると信じている。
少々高みから、観客に考えさせようとする。
いまの言葉でいうなら「上から目線」がちらほら散見される。
好みのわかれるところであろう。

(おしゃべり)女優さんが映画で芸術のために脱ぐとか言うのっておかしいよね。
これはストーリー上なくてはならないシーンなんてみんなで口裏あわせ。
前提にあるのは映画=芸術。だから脱ぐのは恥ではない。芸術、芸術、芸術――。
男にとっちゃ脱いでくれさえすれば芸術なんてどうでもいいんだけどね(笑)。
芸術ぶった取り澄ました顔で素っ裸になる女優を見ると男はみんなバッカだなと思う。
まあ、美人女優のこういった白痴的行為こそ、
我われ男性陣の劣情をこのうえもなく刺激するのでありますが。
「女」(木下恵介/日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和23年公開作品。
これを映画で観たのならいちおう巨匠の作品だから女優の演技がどうの、
監督の演出がどうの、と講釈をたれることが可能なのかもしれない。
けれども、シナリオで読んでしまうと、なんてことはない。
ヒモのチンピラと、かれに吸血される踊り子の逃避行である。
チンピラはいましがた強盗をしてきたばかりで女との逃亡をはかる。
最後は女から見捨てられ、あわれブタ箱行きと相成る。
ことさら感嘆するような点はシナリオから発見できなかった。
意地悪なことを言うなら、娯楽の少なかった時代である。
スクリーンに美男美女が映写されていたら観客はなんでもよかったのではないか。
ともあれ、木下恵介ならではのセリフを一箇所、引いておこう。
チンピラは戦争が自分を悪くしたのだと言い張る。

「俺は弱いんだ、俺はどうせ弱いんだ、おっかなびっくり悪い事をして、
お前にも嫌われちゃって、首をしめられるまで、一人で逃げ廻るより仕方ないんだ。
でも敏子、俺は本当にお前を愛していたんだぜ、
お前だけを一番愛していたんだ、それだけはいつ迄も忘れないでいて呉れ」(P41)


ああ、おいらも女からつくされ、みつがれ、されてえもんだ。
そのためにゃあ口をうまくせんといかんが、これがダメなんだな。
悪いことをできるようなタマでもなし。いけねえ、いけねえ、人生さっぱりだ。
「わが恋せし乙女」(木下恵介/日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和21年公開作品。
木下恵介は、日本を代表する映画監督。あの黒澤明と比されることも多い。
山田太一のお師匠さんでもある。
脚本家は木下恵介のもとで長いあいだ助監督をしながら映像のイロハを学んだ。
あの山田太一を育てた映画監督のシナリオである。
どれほどのものだろうと期待は大きかった。
ちなみに「二十四の瞳」「新・喜びも悲しみも幾歳月」のシナリオは既読。

結論から先に書くと、このたび6つのシナリオを読んだが、
よかったのは「わが恋せし乙女」くらい。
映画監督としては一流なのかもしれないけれど、
脚本家としては二流、三流と言わざるをえない。
映画を観ないでこのようなことを書くことを批判されるかもしれない。
だが、シナリオのつまらない映画はとても観ていられないのである。
途中で消してしまう。
これがシナリオならたとえ相当に退屈でも最後まで読み通すことができる。
ビデオで借りればいいものを、わざわざ絶版シナリオで読むのはこのためだ。

佳作「わが恋せし乙女」に話を移そう。
センチメンタルでとても美しい話である。
敗戦直後の絶望のなかで、この映画がどれほど観るものを感動させたことだろう。

健康的な光につつまれた牧場の物語である。
甚吾は恋をしている。相手は、小さいころから兄妹として育てられた美子。
ふたりは血がつながっていないのである。
美子は赤ん坊のころ、この牧場に捨てられていた。実母は近くで自死を遂げた。
不幸な生まれの美子だが、さいわいこの家のものに愛されながら養育され、
いまは美しい女性となっている。
戦争から復員してきた甚吾は、美子へプロポーズしようと考えている。
ところが、美子は好きな男がいるという。結婚したいという。
野田というインテリの青年である。負傷兵として戦場から送り返された。
ひどいびっこでまともに歩けないほどの片輪である。
甚吾は迷う。ふたつにひとつである。自分の幸福か、美子の幸福か。
野田に逢ってみようと甚吾は決める。
美子にぜひ野田を牧場につれてくるようすすめる甚吾であった。
この物語の美しさは野田にあるのではないか。恋敵である。
たいていの物語作家なら、この野田を悪人にしてしまうだろう。
だが、木下恵介はびっこの野田を人格的にすぐれた青年として描くのである。
重傷を負い片輪になったことで野田は人間として成熟した。
甚吾と野田は、おなじ戦地におもむいていたことが判明する。

「お互にひどい目に会いましたね」
「思い出してもゾッとしますよ」
   甚吾は野田の口許に見入っていました。
「僕は思うんですけど、死ぬほどの苦しみをして来た人でないと、
本当に生きている事の有難味が判らないじゃないかしら、
そうして又、生きている事の有難味を知っている人なら、
決してくだらない生き方をしないと思うんですけど」
「でも、そんな負傷をしなければ、もっと良かったとは思いませんか」
「そうは思わないんです、このびっこのこの足をこうやってなでていると、
よくも生きていられたと思って、この足が堪らなく可愛いくなってくるんです。
こんな醜い足でさえ可愛いんですもの、世の中のことは何でも可愛いですよ、
まして憎んだり怨んだりする気持にはなりませんから」
   そう言われて甚吾は自分の気持を見詰る」(P28)


甚吾は美子へ愛を伝えることを断念する。
ふたりの幸福な結婚を祝福しようと思い定める。
「わが恋せし乙女」が好いた男と結婚して幸福になるのならいいではないか。
自分はいさぎよく身を引こう。なんと清潔感あふれる恋慕のかたちであろうか。
甚吾の本心を知る母親はこれで本当にいいのかと息子を問いつめる。
甚吾の決心は揺るがない。

「甚吾や、おっ母さんは今夜ほどお前を褒めてやり度いと思ったことはないよ」
   甚吾、笑い顔になって、
「いやだな、おっ母さんから褒められちゃテレ臭いじゃないか、さあ……」
   と二人外に出てゆく。
   外では若人達の唄声が楽しそうに聴えています」(P32)


シナリオを読みながら涙がとまらなかった。敗戦がこの物語を作ったのだと思った。
打ちひしがれた国民がこの物語を必要としたのである。
人間は捨てたもんじゃない。
いくら焼け野原になろうと真に美しいものは焼失せずに残存している。
勝つばかりが能じゃあない。負けたっていいではないか。
恋に敗れたって構わない。そこに美しいものがあれば。「わが恋せし乙女」がいれば。
断念しよう。あきらめよう。それから、笑おう。できたら、笑おう。
敗戦国民のいかほどが映画「わが恋せし乙女」に救われたことだろうか。