「書きたい! 書けない!」(マリサ・デュバリ/別所里織訳/愛育社)

→著者は米国人女性ストーリーアナリスト(物語分析家)出身。
映画産業が日本のように斜陽になっていない米国では、
映像製作が(趣味ではなく)巨大な利益を生み出す投資行為となっている。
映画の根幹をなすのがシナリオである。
失敗の許されないシナリオ創作の助言をするのがストーリーアナリスト。
米国映画産業ならではのビジネスだ。
著者はここからスタートしていまはシナリオのスペシャリストになっているという。
本書は、ハリウッド映画の作りかたとでも言おうか。
非常にアメリカ的なシナリオ創作論が展開される。
いい映画とはなにか? できるだけ多数の観客に支持され収益を見込める映画である。
この定義に疑義をはさむものを著者は理解しないだろう。
ならばシナリオライターはなんのために作品を仕上げるか。

「ライティングはある意味、面白くて、名も売れて、金銭的にも報われる職業である。
ポスターや広告、劇場の看板に自分の映画の題名を見るのは
とてつもない快感があるし、
スターたちも集まる自分の映画の祝賀会やプレミア上映に出席するにいたっては、
もう最高の気分だろう。
栄光やお金、華やかなパーティー、有名人の友達。これらはまさに、
あなたが目標に到達するのに費やした信念と努力の報酬なのである」(P158)


これらのものを得るにはどうしたらいいのか。
著者は技術論よりも、むしろ精神論に重きを置く。
シナリオ創作に必要なのは、ポジティブ・シンキングと潜在意識の活用である。
ありゃあ、と落胆したものは正しい。
このふたつは安っぽい成功哲学やビジネス本の両輪なのだから。

ポジティブ・シンキング――。
毎日、成功した自分をイメージしよう。どうして成功できないのか。
ほんとうは成功をしたくないと思っている自分がいるため。
だからこそ、ネガティブな思念をいだかないようにする必要がある。
信念を強く持てばかならず願望がかなうことに気づこう。

潜在意識――。
人間には表層意識の下に巨大な潜在意識が眠っている。
脳科学的に説明すれば、左脳が表層意識、右脳が潜在意識である。
ふだん使われない潜在意識=右脳をうまく活用すれば良質なシナリオが書ける。
例によって、オカルト好きの教祖、ユングがもっともらしく引き合いに出される。
シナリオ創作で行き詰ったらどうしたらいいか。
眠りなさい。きっと夢で答えが与えられる。さもなければシンクロニシティが生じる。

ポジティブ・シンキングと潜在意識を活性化させるためにはどうしたらいいか。
ノートを作ろう、である。ただのノートではない。マジック・ノートを作ろう。
このノートによってマジックが起こるのだ。
思いついたことをなんでもマジック・ノートに書き込みなさい。
右脳を刺激するためにカラフルなペンを何色も使うのが好ましい。
それからマインドマップを作成するとよろしい。
例のノートに思いついたストーリーをそのまま書いてゆく。
左脳の働きよりも早いスピードでアイディアを書き散らすことがポイント。
左脳は右脳の思いつきをすぐに批判してしまう。
この左脳による検閲を避けるためにあなたはマインドマップを作るのだ。
やりかたは、思い浮かんだことを左脳が判断するまえに紙に書き出せばOK。

本書に技術論も記載されている。とはいえ、後出しジャンケンであるのは否めない。
成功した映画を例に挙げ、ここがすぐれていると紹介するのみ。
売れた映画の共通項を箇条書きにして、なにかを説明したつもりになっている。
こういう映画が売れるというのは、だれでもかなりのところまでわかっているのだ。
ところが、どうしたらそういった売れる映画のシナリオが書けるのか。
みなみなここがわからずに苦しんでいるわけである。
この問いに本書が与える答えは、ポジティブ・シンキング(笑)。潜在意識(笑)。
毎日成功している自分をイメージしよう。
いいシナリオが書けるよう願いながら毎晩枕元にマジック・ノートを置いて夢を見よう。

売れるシナリオになるかどうかのチェックリストを著者は書き出しているので引用する。
当たり前だよな、とみなさまに苦笑していただきたいからである。

「1.創作中のストーリーを1つ選び、自分に聞いてみよう。
>主人公は観客がひと目で好感と共感を持てる人物か。
>ストーリーは観客を惹きつけ、90分以内にどう終結するのだろうと興味を持たせられるほど面白いか。
>鍵となるシーンでキャラクターの変化や成長があるか。
>すでに作られた古典的なストーリーに新鮮なアプローチを取っているだろうか。
2.脚本の構想を、初め、中、終わりからなる3章構成で考えよう。
3.出演してもらいたい人気スターをあげてみよう。
4.アクションや特殊効果が必要となりそうなシーンをあげてみよう。
5.緊張感やサスペンスに満ちたシーンをあげてみよう。
6.主人公がその成功に賭けているものは、観客が感情移入できるほど重要なものか。
7.キャラクターたちがぶつかる壁は何か書き出してみよう。
8.即座に観客の興味を惹きつける冒頭シーンをどう作るか。
9.ストーリーの中に読み取れる葛藤をあげてみよう。
10.危機感をどう生かすか。
11.サスペンスをどう生かすか。
12.ストーリーの中の普遍的なテーマや願望を書き出してみよう」(P41)


どうしたらすべてのチェック項目を満たすシナリオが書けるのか。
ポジティブ・シンキングで生きながら潜在意識におうかがいをたてろ、ということか(笑)。

(追記)これはテレビドラマと映画の相違とも関係すると思うのだが、
本書でこんな指摘がなされている。

「私の経験で言えば、あるシーンでの会話や出来事が、
ストーリーを進展させなかったり、
キャラクターについての興味を持たせるような情報がない場合は、
そのシーンやセリフは削るべきである」(P52)


山田太一のドラマ作法と正反対である。
必要のないシーンが作品に味わいをもたらすと日本の脚本家は考えている。
無駄のないほうが洗練されていていいのか。それとも無駄はあってもいいのか。
大きく意見のわかれるところだと思う。
アメリカ的合理主義か、あるいは、あえて非合理を重んじるか。
毎度の買った本のご報告。9月某日――。
ぐったりと疲れてブックオフ早稲田店へ到着。
この日、医師から血液検査の結果を伝えられた。
疲労はこのためであろう。無頼を気取っているくせに病気が怖いチキンなわたし。
かつて1週間の禁酒を断行したのは、なんのことはない。
血液検査に備えてだったのですね。
1週間の禁酒で肝臓はどのくらい復活するものなのか。
だれも興味がないでしょうが書く。
γ-GTP=274。これが飲酒三昧だったころの数値。
1週間禁酒してどれくらい下がったか。

γ-GTP=151!

やはり数字に顕著にあらわれるものですね。
しかし、これでもまだ基準値をはみだしている。
男性だと90までが正常。酒のみならまず無理な数値だと思う。
2ちゃんねるを見るとγ-GTP、500とか600のつわものがいて笑えます。
人間って意外と死なないものなんです。
もう死んじゃったけど中島らもは1300までγ-GTPがいったらしい。
もちろん即時入院。このへんは小説「今夜、すべてのバーで」に詳しい。

血を見るかぎり、もう少し生きることができそうだ。
なら本でも買うか。

「脱ぐしか選択肢のなかった私。」(英知出版)版元倒産のため入手不可 105円
「騒音文化論」(中島義道/講談社+α文庫) 105円
「私本歳時記」(山口瞳/新潮文庫)絶版 105円


ブックオフ早稲田店はむかしはよかったのだが、規模を縮小してしまい残念。
かつては2店舗あったのである。
いまはひとつの店舗にCD、ゲーム、書籍、漫画をぜんぶ詰め込んでいる。
がために書籍スペースが狭くなった。
ブックオフを出て、早稲田の古書店街をまわる。
この日の収穫は1冊のみ。ワゴン本だが美本。

「テレビドラマ創作講座」(西条道彦/映人社) 105円

別の日、近所のブックオフ。
105円で(ここ重要!)探していた「ふぞろいな秘密」が3冊もある。
ところが、200円と来た。悔しい。
ケチくさいのはブックオフか、それともわたしか。
手元に50円の割引チケットがある。これで150円。
まあ、構わないかという結論に達する。

「ふぞろいな秘密」(石原真理子/双葉社) 200円

この暴露本のレビュー、アマゾンにたくさんあったけど、あれはひどいもんだね。
考えてみたら年に数冊しか本を読まない人も大勢いるわけで、
その数冊のうちの1冊が「ふぞろいな秘密」の可能性も少なくないわけで……。
こんな暴露本を読んだくらいで熱く女性の生きかたを語られてもねえ。
いえ、決して本を読まない人をバカにしているわけじゃないんですよ。

「何も持たず存在するということ」(角田光代/幻戯書房) 105円
「青春放浪」(壇一雄/ちくま文庫)絶版 105円


人気作家・角田光代のエッセイは2008年の6月に出版されたもの。
こんな早く105円に落ちることもあるんですね。
ちゃんとプロパー(半額+50円)のシールが貼ってあって、
そのうえに105円シールだから正規のルートを踏んでいる。
出版されてすぐにブックオフに売られたのでしょう。
それが最短の3ヶ月で105円に落ちたと。
これじゃ作家はやっていけませんね。
だけど、この不況時代、作家のエッセイを1600円も支払って買う人っているのかな。
角田光代のエッセイを買ったのは新しくて物珍しかったから。
人気作家の私生活ってきっと輝いているんだろうな(うっとり)。
酒でものみながら読むことにしよう。成功者から学ぶざ~ますよ、おほほ♪
「東京横町の酒房」(笹口幸男/講談社)絶版

→意外な良書である。
今現在、居酒屋評論の権威といえば太田和彦の名が挙げられる。
バブル景気のころ居酒屋を評論する風潮ができあがったのだと思われる。

同時期に居酒屋エッセイを書いていた笹口幸男の名を知るものはいないだろう。
ふたりの作家の相違は明白である。
太田和彦は酒やつまみのよくなかった居酒屋の名を伏せるが、
笹口幸男は満足できなかった呑み屋を実名で批判する。
おそらくこの姿勢が両者の行く末を決定したのだろう。
こう書いてしまったら身もふたもないが、
敵を作らない太田和彦のような甘口タイプが日本では受けいれられる。

笹口幸男は金額にも厳しい。高すぎるものは高いとはっきり書いている。
なかなかグルメ紹介で金額の不満は書けない。
ほんとうに居酒屋を愛する酒徒、笹口幸男の居酒屋本はこの1冊だけである。
文章も悪くない。酒好きの文士の言葉がおりおり引用されるのもよろしい。
隠れた名著と言えるのかもしれない。
「私は障害者向けのデリヘル嬢」(大森みゆき/ブックマン社)

→著者の大森みゆき(仮名)は現代に舞い降りた天使ではないかと思う。
いくらカネを取るとはいえ、彼女の存在が身体障害者のどれほどの慰めになったか。
山田太一が「男たちの旅路」で身体障害者の性欲を描いたのはおよそ30年まえ。
障害者問題は少しずつ改善していっているのかもしれない。
さて、どうして大森みゆき(仮名)は身体障害者の性のはけ口を志願したか。

「身体障害者のお客様なら、比較的女性に慣れていないような気がして、
過激で高度なテクニックを持たない私でも
手や口のサービスだけでイカせられるかも、と思ったからだ」(P38)


動機はなんでもいい。あんたは偉い! えろいではない、えらい!
いざ始めてみるといろいろな発見があったという。
たとえば、身体障害者のチ○○○はチ○○がたまっていて非常に不潔である。
自主規制はやめよう。
身体が不自由な人のペニスは恥垢が異様なほどたまっているらしい。
さすがのヘルパーもそこまでは洗わないからだ。
これをフェラチオをするのは地獄だったと大森みゆき(仮名)は述懐する。

盲目の人でおかしな人がいたという。風俗嬢はお客さんに抜いてもらおうと思う。
だが、この盲人は目も見えないくせに(いや、それだからか)、
やたら女をイカせることに執心していたという。
著者はひたすら演技をした。
顧客は1回も射精しなかったが、これで満足したらしい。
なんともリアルな実体験である。

言語不自由のみならず手足さえも動かぬ障害者を相手にしたときの告白は壮絶だ。
まず大森みゆき(仮名)は全裸になる。
それから四苦八苦してお客さんの衣服を脱がせる。
このときも言葉によるコミュニケーションができないのだから骨折りである。
言葉も通じない相手の男根をどうにか刺激して射精まで持ってゆく。
大森みゆき(仮名)は結局、最後まで顧客が満足したのかどうかわからなかった。
しかし、この障害者と意思疎通の可能なヘルパーによると、
身動きもままならぬ当該人はかつて味わったことのない満足を経験したという。
著者はこの仕事に圧倒的なやりがいがあることを知る。

本書における大森みゆき(仮名)の主張はこうである。
身体障害者にも性欲があって当たり前だ。
日本社会はどうにかして障害者の性欲を充足させるシステムを作るべきではないか。
わたしはまったく賛成である。
著者の勇気ある告白に拍手したいと思う。

けれども、最後のメッセージがいけない。
大森みゆき(仮名)が身体障害者に説教をするのである。
いわく、あきらめるな!
かの風俗嬢が仕事をしていたとき、驚いたのは障害者がみんな恋愛をあきらめていたこと。
それではいけないと風俗嬢は訴える。
たとえ身体障害があろうと自分を磨けば、必ず恋愛対象は現われる。
だから、あきらめるな!
どこかのテレビ局の障害者特番を真に受けたのだろう。

申し訳ないが、著者の主張は矛盾していると指摘したい。
障害者は性欲を持て余している。だから、せめてデリヘル設備を充実すべきでは?
これが大森みゆき(仮名)の提言のひとつ。
もろ手をあげて賛成したい。
だが、おなじ著者が障害者に自由恋愛をあきらめるな、と訴えるのはおかしくはないか。
自由恋愛が可能ならデリヘルなどいらないのだから。
大森みゆき(仮名)は、
自分だったら内面がすぐれていれば障害者とも恋愛をすると宣言している。
この発言がどれほど残酷か気づかないのだから、さすがは低知能の風俗嬢である。
これを読んだ交際相手のいない障害者は自分の内面がダメなのだと絶望するだろう。

ながながと書いてきたことをお詫びしたい。
風俗嬢あがりの、まだ二十歳そこそこの小娘の発言に本気になるのは阿呆である。
本人も書いた意味を、それほど深くは考えていなかったと思われる。
著者を責めるのは忍びない。よくもまあ障害者の汚い○○○を
舐めつづけてくれたものだと拍手してこの記事を終わろう。
そこいらのボランティアより、よほど大森みゆき(仮名)は立派ではないか。
「図解雑学 株のしくみ」(寺尾淳/ナツメ社)

→とても良心的な本だと思う。虚心坦懐に読み通せば、
素人は株になど手を出してはいけないことがわかるよう書かれている。
どうして株で大損をする一般人が絶えないのだろう。
「楽をして儲ける」というのは人間にとって麻薬のようなものなのかもしれない。
ふしぎと自分だったら失敗しないような気がしてしまうのだろう。
人間の哀しくも浅ましい弱点である。
我われよりもはるかに学習、経験を積んだプロの証券マンでさえ株で損をする。
本を数冊読んだくらいで株を始めるのは、
いかだで太平洋に繰り出すようなものではないか。
必ず儲かる株などあるわけがない。
なぜなら正確にはだれも明日のことを知りえないからである。

それでも確実な未来を予想しようと世界中の投資家が情報を集めている。
結局は情報量の勝負になってくるのだと思う。
個人投資家がプロに比するほどの質の高い情報を集められるはずがない。
そのうえ情報収集には切りがないのだ。
いくら集めようと情報は際限もなく現われるだろう。
24時間情報収集に当てても足らないくらいではないか。
これではたとえ儲けても時給換算したらどのくらいになるのだろう。
株で生活しようと思ったら1日24時間、こころ休まるときがなくなると思う。
餓鬼にも等しい精神状態におちいることだろう。

本書に投資家必携のバイブル、会社四季報が転載されている。
これを見てあるものにそっくりだと思った。
健康診断などでもらう血液検査の結果表である。
数字がずらりと並んでいるあれだ。
投資家は会社四季報を見て、株を購入するかどうか検討する。
医者は血液検査の結果を見て、成人病のリスクを伝える。
株のいかがわしさと血液検査のそれは相通じるものがあるのではないか。
中性脂肪が高かろうがコレステロールが高かろうが長生きするものはいるのである。
逆に血液検査の数値がどんな良くても脳卒中で早死するものがいる。
にもかかわらず、医師は血液検査の数値を重んじる。
投資家は会社四季報の情報を重宝する。
両者とも人生のなんたるかを知ろうとしない傲慢さが似通っているように思う。
要するに、数字では計れぬものの存在に鈍感なのである。
人間の無力を知らない、と言い換えてもよい。
「図解雑学 ゲーム理論」(渡辺隆裕/ナツメ社)

→最先端の学問領域を図解雑学シリーズでおいしくいただく。
読書家の知る喜びのひとつである。なにも小説を読むだけが読書ではない。
ゲーム理論は、ミクロ経済学から細分化された専門領域のひとつ。
高等数学の到達点のひとつでもあるらしい。
たとえば、有段者がコンピュータと将棋をやって負けてしまうことがある。
このときコンピュータのやっているのがゲーム理論の計算なのだ。
ルールが一定、なおかつ偶然性が介入しないとき、相手の行動をいかに予測するか。
ゲーム理論は、いまでは企業経営などにも活用されている最先端の学問である。
といっても、経済学だからやっぱりインチキなんだけどね(笑)。

有名な「囚人のジレンマ」を紹介しよう。
美香は伸一と夫婦である。ところが、美香は昇との熱愛に落ちる。
ふたりにとって伸一は邪魔な存在である。伸一よ、死んでしまえ!
美香と昇は伸一を殺害する。
刑事は重要参考人として美香と昇を警察署へ引っ立てる。
このときの状況をゲームとして考えてみるとこうなる。
ふたりに許された行動はふたつ。自白するか、黙秘するか。
1.美香と昇がともに黙秘したら無罪放免。
2.美香が黙秘して昇が自白したら、美香が主犯となり懲役10年。昇は懲役2年。
3.美香が自白して昇が黙秘したら、昇が主犯となり懲役10年。美香は懲役2年。
4.美香と昇がともに自白したら、共犯が成立し美香も昇も懲役7年。

図にしたらわかりやすく、ふつうはそうするのだが、技術がない。すんません。
このゲームの解は決まっているというのがゲーム理論の主張である。
解は必ず4になるという。ふたりとも自白する。
本来なら1になるのがいちばんいいのである。どうして1にならないのか。
美香の身になって考えてみよう。
美香はふたつの選択肢がある。自白するか黙秘するかだ。
もし自分が黙秘して、昇が自白したら主犯にされてしまう。
自分が自白して、昇が黙秘していたらわずか懲役2年で済む。
どちらも黙秘していたら最高なのだが、
狡猾な刑事は昇が自白したことをにおわせることだろう(たとえ事実でなくても)。
よって、美香は必ず自白する。
おなじような論法で昇も間違いなく自白する。
したがって、このゲームの解は4以外にないというのである。

応用してみたい。
今度のプレイヤーは創価学会と日蓮正宗。ふたつの宗教団体は反目している。
取りうる選択肢はふたつあるとする。
ひとつは、相手を誹謗中傷する。もうひとつは、相手の長所を認める。
このゲームの結果として予想されるのは4つ。
1.創価学会、日蓮正宗ともに相手の長所を認める。
2.創価学会が日蓮正宗の長所を認めて、日蓮正宗は創価学会を誹謗中傷する。
3.創価学会が日蓮正宗を誹謗中傷して、日蓮正宗は創価学会の長所を認める。
4.創価学会、日蓮正宗ともに相手を誹謗中傷する。

このなかでもっとも良いのは1である。
最悪なのは4。誹謗中傷合戦は一般人から気持悪い、怖いと思われてしまう。
創価学会にはふたつの選択肢がある。誹謗中傷か相手を認めるか。
もし創価学会が相手を認めて、日蓮正宗が誹謗中傷してきたら、
信者の何割かが向こうに行ってしまう。
日蓮正宗が創価学会を認めてくれ、こちらが日蓮正宗を誹謗中傷できたら、
向こうの信者の何割かが創価学会へ入ってくれる。
こう考えたら取りうる選択肢は、相手を誹謗中傷するしかない。
日蓮正宗もむろんおなじように考える。このため宗教ゲームの解は4しかない。
創価学会と日蓮正宗はいがみあうしかないわけである。
一般の日本人は、ふたつの宗教団体を見て引いてしまう。
これは創価学会にも日蓮正宗にもプラスにならない。けれども、結果は変えようがない。
まさしく「囚人のジレンマ」である。

なるほどと感心してしまったあなたはだまされている。
ゲーム理論の根本にあるのは、プレイヤーが合理的に行動することへの信頼だ。
ところが、人間は実のところ、まったく合理的ではない。
このことこそ逆説的にゲーム理論が証明してしまったことなのではないか、
という考察さえも可能かもしれない。
たとえば、最初のケース。美香は情熱的な女である。ほんとうに昇を愛している。
だから自分が黙秘して、昇が自白しても構わないと考える。
愛する昇の懲役年数が減るのならいいではないか。
このときゲーム理論は誤まったことになる。最先端の学説が齟齬(そご)をきたす。
宗教戦争とておなじことである。
創価学会名誉会長の池田大作氏が本物の宗教者なら、
他宗を誹謗中傷などしないはずである。断じてさせないはずだ。

ゲーム理論の弱点は人間を舐めているところである。
人間など知れたものと高をくくっているところがたぶんにある。
人間は自利(我欲)だけで利他は行なわぬと決めつけてかかっているのだ。
人間は一銭の得にもならぬことでもがむしゃらに遂行する存在である。
あえて損をするようなことさえなしうる。わざとゲームで負けることもある。
ゲーム理論の主張では「走れメロス」のメロスは帰ってくるはずがないのである。
ところがどっこい、メロスは戻ってくる。
文学やドラマは、ゲーム理論にあてはまらない人間を描くものといえよう。

企業戦略にゲーム理論を取り入れようという風潮があるらしい。
おのおのをプレイヤー、全体をゲームとしてとらえるやりかたである。
ゲーム理論に成功の秘訣があると思い込む企業人もいる模様。
だが、ゲーム理論の主張など大したことはないのである。
要は「相手の立場になって考えよう」なのだから。
これは大昔にカーネギーが成功哲学の古典「人を動かす」に書いたことではないか。
ゲーム理論的ビジネス作法など、実はめずらしいものでもなんでもない。

インセンティブというカタカナもゲーム理論の用語。
インセンティブとは動機、誘因のこと。
たとえば、保険契約。
ひとたび保険に加入してしまうと気がゆるみ病気になりやすくなる(暴飲暴食)。
たとえば、固定給。
給料が定額だと社員が努力をしなくなる(適当に働いても給料はおなじ)。
どちらもモラルハザード(道徳の荒廃)から生じると考えられる。
この場合、インセンティブをつければいいとゲーム理論は主張する。
保険では、10年間病気をしなかったら10万円のボーナス。
職場では、よく働いたものに臨時ボーナスの支給を約束する。
こうしたら全体の利益が上がるという経済学の知見である。

ほんとうにそうだろうかと思ってしまう。
ゲーム理論は、人間を甘く見ているところがないか。
たとえインセンティブなどなくても、石橋をたたいて渡る健康オタクもいるのではないか。
たとえ固定給でも仕事に誇りを持ち、立派に職務を遂行している労働者はバカなのか。
人間は合理的ではない。
安価なものと高価なものがあったとき、あえて高価なものを買うのが人間だ。
たとえ1億円貯金があっても自殺してしまうのが人間ではないか。
ゲーム理論なんぞに洗脳されて企業経営をしたらとんだ失敗をするはずである。
経済学は趣味にとどめるべきで決して実践に移してはならないと思う。
「図解雑学 ミクロ経済学」(嶋村紘輝・横山将義/ナツメ社)

→経済学の目的は、なるべく多くの人間の欲望を充足すること。
そのためには、どのようにカネを扱えばいいのか。経済学の問題である。
経済学には、大きくわけてふたつの潮流があるという。
新古典派経済学とケインズ経済学である。
人間が欲望のままに商取引をすると市場の「見えざる手」が働きすべてうまくいく。
需要のないものは値下がりして買われ、高価なものは供給過多により値下がりしていく。
放っておけば市場のメカニズムが機能して万人が満足するという、いわば楽観論である。
これが新古典派経済学と呼ばれている。

もうひとつは、市場というのはそんなに万能ではないのではないかという疑義から始まる。
もっと政府が市場に介入したほうが結果的にうまくいくのではないか。
たしかに自由競争はいいのだが、放置しておくと市場がとどこおる。
政府が規制を加えることで、より自由な競争、つまり市場が活発化するのではないか。
そのためにはどうしたらいいかを問題にするのがケインズ経済学である。
新古典派経済学とケインズ経済学。
ふたつのうちどちらが正しいかという問いはナンセンスらしい。
ある局面では新古典派経済学を応用し、べつの場面ではケインズ経済学で解決する。
いまの経済学のありかたである。
傾向としては、マクロ経済学ではケインズ経済学との関連が深い。
ミクロ経済学は、おもに新古典派経済学のもとに理論が進められる。

マクロ経済学では市場全体の効率が考えられたのとは対照的に、
ミクロ経済学では名の通り個々の家計、商店、企業の経済が問題となる。
ミクロ経済学においても、一見もっともらしい計算式やグラフが登場する。
自営業者ならだれでも耳にする損益分岐点なんざもミクロ経済学出身の用語。
経済学という学問が経営のノウハウまで指導してくれるのだ。
ミクロ経済学のインチキはマクロ経済学よりも証明しやすいように思う。
たとえば、ミクロ経済学が専門の大学教授が商店を経営したら必ず成功するか?
ここにミクロ経済学のウソが明確に現われてしまう。
つまり、役に立たないのである。
おそらくミクロ経済学をまったく知らないで成功した商売人も多いはずである。

赤字経営の居酒屋があったとする。
ミクロ経済学的には操業停止点(=やめなさい!)という判断がくだせるとする。
けれども、居酒屋の大将は店を閉めません。
人間には見栄があるからである。この見栄を経済学ではとらえきれない。
居酒屋のオヤジなんていう人種はツブシがきかない。
いまさら他店の皿洗いなんてプライドが邪魔をしてやれないのだ。
こうして経済学的には意味のない赤字経営をつづけている。
すると近所のビルにテナントが入り、そこの社員がお得意さんになってくれた。
もしくは火事に巻き込まれる。火災保険が入り、逆にもうかってしまう。
このような偶然を経済学はからきし予想することができないわけである。
ミクロ経済学は見たところ役立ちそうだが、その実、机上の空論なのであろう。

ミクロ経済学から教わったことをまとめてみる。
まあ、どれも当たり前のことと言えなくもないのだけれど。
通常、価格が下がると需要は増え、価格が上がると需要は下がることになっている。
けれども、必需品(食料、住居、電気、ガス、日用雑貨)は価格と需要の相関性が少ない。
たとえ価格が上がっても需要はさほど変わらないということだ。
野菜が豊作になるとかえって農家の収入が激減してしまうことの説明はこれでつく。
供給が多いと価格は下がるものの需要はあまり変わらないゆえである。
この事実をもっともらしくグラフで説明するのがミクロ経済学だ。
いっぽう奢侈品(しゃしひん=必ずしも必要ではないもの)は必需品とは異なる。
安くすれば、そのぶんだけ売上も上昇する。
家電量販店が安売合戦でかえって利益をあげているのはこのためである。

閑話休題。みなさまに質問。書籍は必需品か奢侈品か。
通常の場合だとむろん奢侈品に分類されることと思われる。
けれども、いくら安くなろうと興味のない本は(ゴミゆえ)いらないでしょう。
いっぽうある種の活字中毒者にとって書籍は食料同然の必需品となる。
かといって、いくら高い本でも買うというわけではない。
無学を恥じる高卒の経営者なぞは、読みもしない高額な書物を頻繁に購入する。
この書籍の例ひとつをとってもミクロ経済学では説明のつかないことが多過ぎはしないか。

なぜ映画館には学割があるのか。
これをミクロ経済学的に説明すると、つぎのようになる。
大人は価格弾力性が小さい(価格に鈍感)ゆえ値下げによる増員は期待できない。
だから1800円である。
学生は価格弾力性が大きい(価格に敏感)ゆえ値下げによる増員が期待できる。
だから1500円である。
なんだかわかったような気分になったあなたはだまされている。
学問っぽい気がするのは「価格弾力性」という専門用語があるため。
これがなかったら、なにが学問なんだという話になる。
映画館の学生割引は経済学的な意図はなく、ただの慣習とも考えられはしないか。
そもそも経済学自体、慣習や慣行の追認に堕している部分が少なくないと思う。
俗に言うところの後出しジャンケンである。この点、社会学と一脈を通じる。
数々のハレンチ行為を引き起こした経済学者・植草一秀、
別名ミラーマンはかれの専攻する学問を象徴する存在のように思えてならない。
「図解雑学 マクロ経済学」(井堀利宏/ナツメ社)

→マクロ経済学になるとお手上げ。なぜかというと計算式が出てくるから。
計算式に応じたグラフまで登場する。
30を過ぎたあたまにこれを理解しろというのは厳しい。
だから、これは負け惜しみになるとあらかじめ断わっておく。
どうしてだか計算式やグラフがうさんくさく感じるのだ。
「経済実態→計算式」
乱暴に言えば、この右向きの矢印(→)がマクロ経済学を学問と認めさせているわけだ。
きちんと計算式(法則)に当てはまるのだから学問に相違なしという理屈である。
だが、果たしてほんとうに逆方向はうまく適応できるのだろうか。つまり――。
「経済実態←計算式」
なんだかこちらは怪しいというのが経済学の実態ではあるまいか。
計算式に合わない現実が生じると、また新たな計算式(法則)を作りごまかす。
現実の条件が違っていたのだから計算式も異なるのは当然と言い逃れる。
まさかそんなことはないと思うけれど。
どうか数学嫌いの文系人間の根拠なき中傷とお笑いください。
以下に、不勉強者のわたしがせめて本書から学びえたことをまとめてみる。

赤字国債、財政破綻の問題はあんがい大丈夫ではないかという説もあるらしい。
というのも、たしかに日本の借金は膨大である。
だが、わが国にはそれを上回る資産があるというのだ。
政府の資産が約1000兆円。個人の金融資産が約1400兆円。
うまいこと増税したら、難なく借金は返せるという考えである。
まあ、だれも税金なんて払いたがらないけどね。

株のありかたを知らないものは少ないと思う。
要するに資金のない企業が出資者を募るのが株式である。
ところが、これは建前らしい。
日本ではほとんど正常な株式は機能してこなかった。
企業の株は大企業同士、または親会社子会社で持ち合う。
資金調達は株式ではなく、もっぱら銀行からの融資で行なわれていた。
通常、株主は大きな配当を期待するが、単なる債権者に過ぎぬ銀行はリスクを嫌う。
よって、銀行融資を資金源にしてきた企業は安定経営を志す傾向にあった。
銀行と大企業が仲良く手を組んできたからこそ日本の経済成長は成功したともいえる。

選挙と経済は連関するという。
選挙まえに与党政権は、好景気を作り出そうとする。
公共事業や金融政策で失業率低下をもくろむ。
いざ選挙で勝ったら今度はひきしめる。財政再建である。
不景気を作りあげるわけだ。
つぎの選挙のまえに、選挙に勝つため、ふたたび好景気を演出する。
アメリカではそうなっているらしい(P244)。
「図解雑学 日本の経済」(松原聡 = 監修/ナツメ社)

→いままでいろいろな経済入門書を読んできたが、これがいちばんわかりやすい。
松原聡は監修で名前を貸しただけだとしたら、功績は執筆協力の山田由佳にあるのか。
山田は日芸の文芸科出身。失礼だが、あまり偏差値的なおつむはよくないのだろう。
だからこそ、本書のような極めてわかりやすい本を書けるのだと思う。
あたまがいい人は、こんなことはだれにでもわかるだろうと基礎の基礎を書かない。
バカはそこのところを手抜きしない。頭脳明晰がかならずしもいいとは限らないわけだ。
もっとも人はわたしを笑うのかもしれない。
ここに書かれていることさえ知らなかったのかと。
恥ずかしながらそうである。文学部出身。だれも教えてくれるものはいなかった。
本書から教わったことをまとめてみる。わたしの経済への無知をお笑いください。

人間は欲望がある。そして、だれもが欲望をかなえようとする。
上の1行が政治・経済の根本にあることを知る。
欲望をかなえるには相手になにかを提供しなければならない。
これがカネである。政治とは権力の別名だが、権力とは人を動かすことにほかならぬ。
なにによって人は動くか。欲望充足の代替品=カネで人間は動く。
政治はカネなりとは、このことだったのである。
この点、領域違いだが、無欲を説く(原始)仏教はおもしろい。
国民全員が仏教徒になってしまえば、政治も経済も立ち行かなくなる(笑)。

さて、経済とはなにか。カネのやりとりのことである。
人間は、どうしてカネを使うか。欲望をかなえるためだ。
とすると、経済とは欲望のやりとりと言い換えることができる。
人間はいかようにカネ(欲望)をやりとりするか。ふたつある。
カネをもらう(所得)とカネを使う(消費)である。
ここで注意したいのは、所得はなんによってもたらされるかだ。
所得とは、だれかの消費にほかならない。
ならば、資本主義経済において「消費は美徳」は絶対の真実となる。
みんなが消費をすることでみんなの所得も増えてゆく。
だれも消費しなければ、みんなの所得も増えない(不景気)。
みんながじゃんじゃん消費をすれば、しだいに所得も増える(好景気)。
だが、不景気のとき、だれが最初に消費を始めるかという問題が生じる。
ここに政府の経済政策の必要性がある。
公共事業、金融政策によって、政府は不景気を好景気にしようとする。
なにゆえ政府は好景気を欲するのか。税収を増やすためである。
(ああ、なんて当たり前のことを、もっともらしく書いてしまったのだろう。恥ずかしい)

株のはじまりは400年まえのヨーロッパ。
東インド諸島まで胡椒(こしょう)の買い付けに行きたいが航海のためのカネはない。
そこである冒険者が航海のための資金を募った。
買い付けに成功したら莫大な分け前をあげるという約束のもとにだ。
これが株の原形という(P79)。

本書のバブル経済の説明がとてもうまい。
ひとつの絵画がある。絵そのものにはなんの価値もない。
実のところ、子どもがふざけて描いた絵である。
ふつうの人にとったらただでもいらないもの(ゴミになるから)。
ところが、この絵画はすばらしいと言い出すものが登場する。
100万円だしてもほしいという。
権威ある美術評論家が、この絵は1千万円の価値があると主張する。
著名な古物商が、1億円で買おうと手をあげた。
絵画の複製が限定で製作さればんばん売れる。
ところが、子どもがばらしてしまう。「あれボクが描いたんだよ」
みんなこんな絵は価値がないことに気づき手ばなす。
どんどん値段は下がってゆく。最後には紙切れになってしまう。
このたとえにおける子どもの絵が、バブル時代の土地や株ということである。
実際には相応する価値のないものが異常に値上がりする。
みんなが買い求める。イコール、みんなが消費する。
度を超した好景気になる(バブル景気)。
どうしてバブルがはじけたかは不動産総量規制とかちょっと難しいから割愛。

けれども、このバブルというのは、いろいろ使えないだろうか。
日本人はベストセラーだと煽るとみんな買い求める傾向がある(書籍なんて特に)。
土地のバブルははじけたが、はじけないバブルもまたあるのではなかろうか。
うまく評論家や各種メディア、クチコミを買収すればバブルを演出できはしないか。
まあ、アホのわたしでさえ気づくようなことだ。
とっくにどこかでだれかがやっているのだろう。
さあ、身のまわりを振り返ってみよう。なにかバブルはありはしないか(笑)。

話を変える。赤字国債を考えついたものは、どれほど優秀だったのだろう。
(国債とは、国が利子を約束して国民から借金すること)
カネがない。どうしようか。借金しよう。ここまではだれでも考えること。
だが、どこから借金するか。自分から借りよう。これが赤字国債である。
なんてあたまがいいのだろう。
借金には利子がつく。収入(税収)のかなりが利子で消えてしまう。
カネがない。借金をするしかない。借金で利子を返せばいいではないか。
このあたりは天才的思考法だと思う。
いまがよければそれでいい。あとは野となれ山となれ。
わたしは赤字国債を開始した旧世代を責めようとは思わない。
むしろ、その現世享楽的な生きかたに共感する。
このまま赤字国債がふくれあがったらどうなるのだろうとワクワクさえする。
あんがい無限に赤字国債を発行していられるのではないか。
国民全員が気づかないふりをしていたら、あと50年100年はいけるのではないか。
そのあいだに世界最終戦争が起きないとも限らない。
そうなったらすべてチャラである。
まあ、そうは事が運ばなくても消費税を50%にしたらいいだけの話。
年金支出を消費税収入で回収してしまえばよろしい。
生活できなくなったお年寄りには首をくくってもらう。
めざせ年間自殺者30万人! これで少子高齢化対策もばっちしだ(笑)。
うふふ、だれも見ていない過疎ブログだから、こんな冗談も書ける。

倒産とは、銀行取引停止処分を受けること。
1回不渡りを出す。不渡りとは、約束の手形のカネを支払えないこと。
この不渡りののち、6ヶ月以内にもう一度不渡りを出すと銀行取引停止=倒産。
こんなことも知らなかったのです。バカにしてください。

カネ=貨幣とは、つまり信頼のことである。
世界ではアメリカドルが基軸通貨になっているが、これはもっとも信頼が高いゆえ。
冷静に考えてみたら、ドル紙幣など紙切れに過ぎない。
これを貨幣足らしめているのがアメリカ国家への信頼である。
もしアメリカが国家として機能しなくなったらと考えるとどドキドキする。
もし世界中の人間の持っている金銭がゴミになったとしたら――。

(おまけ)ちなみに、この段階で登場すると思われるのが金(きん)。
古来から金は価値があるものとされてきた(いったいなぜなのだろう)。
そして、錬金術(金を人工的に作る術策)により世界を崩壊させようとしたのが、
ブログ「本の山」いち押しの作家・ストリンドベリである。
「図解雑学 政治のしくみ」(石田光義/ナツメ社)

→早稲田大学教授の解説する「政治のしくみ」は退屈であった。
だが、これは断じてこの教授先生が悪いわけではない。
そもそも政治機構があまり学んでおもしろいようにはできていないのである。
ここで注意書きを必要とすする。表の政治は、たしかに異様なほどつまらない。
参議院と衆議院の議員数やら在任期間やら、知ったことではない。
表の政治の話である。言うまでもなく、なにごとにも本音と建前がある。
表があれば裏もある。政治のおもしろさは表ではなく裏にあるのではないか。
とはいえ、「政治のしくみ」でスキャンダラスな裏ネタを暴露するわけにもいかない。
早稲田の教授は、やはりつまらない建前を紹介しなければならないのである。

本書から学んだことを整理する。
政治とはなにか。ひと言でいえ! 権力のことである。
まだわからない。権力とはぶっちゃけなんのことなのか。カネである。
最初と最後をくっつけるとこうなる。政治とはカネである。
「鉄のトライアングル」はその好例といえよう(P125)。
日本の今現在の社会体制を支配しているのは、
政界(政治家)、官界(官僚)、業界・圧力団体(資本家=金持)の三者である。

わかりやすく言うなら、若人が成りあがろうと思ったら、建前上は3つの道がある。
政治家になるか、高級官僚になるか、リーマンで出世するか。
実のところ、政界(血縁)と業界(コネ)はバックがないと容易ではない。
よって、家柄も財産もない若者が権力をにぎりたいのなら官僚になるしかない。
話が少し脱線したが元に戻そう。
「鉄のトライアングル」――政界、官界、業界・圧力団体、以上三者の癒着のこと。
この三者の関係はつぎのようになる。
「業界・圧力団体>政界」(選挙資金、票の取りまとめを提供できるため)
「政界>官界」(法律・予算の決定、役人の人事を支配しているため)
「官界>業界・圧力団体」(活動の許認可、行政指導を行なえるため)
*このほかにも業界による賄賂、天下りポストの提供が癒着を強化する。

あなたはいま政界、官界、業界のいずれかにいますか。
ただいるだけじゃいけない。上層部にいなければ意味がない。
政治というものは、こういう人たちが操っているものなのです。
国民の政治などはどこにもありません。
社会構造におけるトップエリートたちの権益合戦のおこぼれにあずかるのが我われ国民。
あなたの一票は国を変えやしません。けれども、どのみちつまらぬこの人生。
自分の一票が国政を変えうるというフィクションを信じて生きるのも悪くない。
神秘的な夢を見た。
とはいえ、他人の夢の話ほど退屈なものはないから大幅にはしょると、
まあ、わたしは夢の中で世界の真理を追い求めていたのだよ。
夢を見ながらこれは夢だと自覚している無敵状態。
とうとう、守護神に巡りあうことができた。
かれは長いことわたしを見守ってくれていたという。そして、これからも。
最後にひと言、守護神が言ったのである。
「上下(かみしも)の教会に行きなさい」
これが夢だと知っているわたしは忘れないうちにと自力で目を覚ます。
メモ帳に「上下の教会」とだけ書いて、ふたたび愉しい眠りに落ちた。

ネットで「上下教会」で検索してみると、ほんとうに実在するのである。
驚いたね。もしや待ち望んでいた神のお告げか来たのか。
「上下教会」はふたつあった。
金光教上下教会と上下キリスト教会である。
どちらも広島県の府中市にある。この地名に記憶はない。
バタ臭いキリスト教は苦手。
とすると、この金光教がわたしの進む道なのか。
調べてみると、金光教は神道系の新興宗教団体。
作家にして芥川賞選考委員の小川洋子氏が信仰していることで知られている。
守護神のお導きにしたがい、金光教の教義を調べようとしたときである。

広島の「上下教会」――これは「かみしも」と読むのではないことを知る。
「じょうげ」なのである。「じょうげきょうかい」。
ああ、わが守護神はたしかに「かみしも」と言ったのである。
ここではないということになる。
ふとわれに返る。なにをバカなことをやっているのだろう。
夢のお告げなんて言い出したら、精神病だぞ。
とくにわたしは精神病の家系である。いつ発症してもおかしくない。
くわばら、くわばら。あやういところであった。
おかしな夢のことは忘れよう。わたしは苦いコーヒーをのむために立ち上がった。
「脱ぐしか選択肢のなかった私。」(波乱万丈インタビュー制作委員会/英知出版)

→AV女優11人のインタビューを集めたもの。
アダルトビデオは好きではない。どこがおもしろいのかさっぱりわからない。
ただやっているだけでしょう。まるで動物じゃないか。
動物はなまで見るからせめてもの感興があるのであって(動物園!)、
動物をただ録画した映像など、たとえそれが交尾シーンだとしても退屈極まりない。
「物語=意味」こそ人間が人間たるゆえんである。
わたしはむしろ交尾シーンがカットされているものに欲情する。
見えないもの、隠されているもののほうがよほど煽情的ではないだろうか。
もしかしたらとても恥ずかしい性的嗜好を告白してしまったのかもしれない。
ムッツリスケベなどという死語でカテゴライズされるくらいなら死んだほうがマシだ。

本書の感想を書こう。
AV女優の壮絶な人生が赤裸々に語られるというのが本書の売り。
悪くない企画だと思う。ひとの不幸はなんだかんだいってもおもしろい。
といっても、ありがちなんだけどね。
義父にレイプされた。兄との近親相姦的関係。まあ、トラウマだな。
それから親の貧乏、離婚、アル中、性的乱倫といった古典的な不幸。
たしかに過激なのだけれども、どこかで聞いたような話ばかり。
なまの手ざわりといったものが感じられない。
まあ、そういう固有性を扱うのが文学で、まさか英知出版の本に期待してはいけない。

それにこういうことを言っちゃあれだけど、
AV女優はまだ恵まれているほうなのである。
なにしろアダルトビデオに出られるほどの容姿を持って生まれている。
おなじような生育環境で不美人な女性はいくらだっているはずである。
そのうえ本書に登場するのは人気AV女優ばかり。
世の中には一度もスポットライトを浴びずに死んでゆくものがいくらだっているのだ。
(たとえば、わたしのようにね!)
ほんの一時期でもちやほやされる幸運を得たのだから、あまり贅沢を言ってはならない。

英知出版さんへお願い。
本書は、ありがちながら、人間の根源的知識欲を満たす良書だと思う。
できましたら次回は、写真をもっと多くしてもらえませんか。
AV女優の不幸自慢はいまのままで構わないのです。
けれども、女優さんの写真を増やしてほしい。
カラーは言うまでもなく、プライベート写真からヌード、カラミ写真まで多様に。
「物語=意味=左脳」と「外見=視覚=右脳」が合体したら最強だと思う。
頼みましたからね。

ちゃんと読んだという証拠に一箇所くらい引用しておこう。AV女優、若葉かおり。

「これまでの人生を振り返って? 『重かったなぁ』の一言です(笑)」(P250)

うん、この子は顔もきれいだし、あたまも切れる。わかっている。
人間はそれぞれいろいろなものを持って生まれてくる。
その軽重が人生のドラマを形づくる。重いものを持って生まれてくるものがいる、
いっぽうで比較的、軽めの境遇で誕生するものもいる。
おのおの重さは違う。他人に重量を分担してもらうことが、ときに可能なこともある。
けれども、たいがいの場合、重みと向き合えるのは自分でしかない。
重みに押しつぶされるものがいる。重みをなんとかこらえるものがいる。
この重みはいったいなんによってもたらされるのか。宗教の世界である。
つまり、アダルトビデオは宗教の門を開くきっかけともなりうる。
「インド大修行時代」(山田和/講談社文庫)絶版

→とてもいい本だと思う。インド旅行を疑似体験させてくれる。
このくらいならだれでも書けると思う読者もいるかもしれないが、
このくらいを書くのがたいそうな骨折りなのである。
インド旅行体験者のだれもが味わうことをコミカルな筆致で描いている。
幼稚な日本批判、ひるがえってのインド礼賛をあざわらうものはわかっていないのだ。
あれはよわい50を過ぎた著者のサービス精神と見るべきである。
インドへ行ったものはみなみな悟ったような錯覚をいだく。
山田和は、あのインチキ達観を、じつに巧妙ないかがわしさで描写する。

個人的な利点は、インドの不愉快さを思い出させてくれたこと。
インドはふしぎな国で、どれだけいやなことがあっても、また行きたくなる。
そういうリピーターを作ってしまう国なのである。
いまふつふつとインドへの情熱が復活している。
この本を呼んだおかげで、あんな国は行くものではないと思い直すことができた。

ひとつ鋭いと思った指摘を。
インドのカジュラーホで有名なのがミトゥナ像(男女合歓像=セックス体位の彫刻)。
山田和の感想である。

「『遠野物語』には、馬と人間の女性との愛の物語がある。
日本語には「情交」という言葉があるように、
セックスには「情」がついてまわることになっている。
たとえその相手が動物であろうともだ。
ところがカジュラーホのセックスには、まったくそのようなものがなく、
あくまでも器械体操のようなのであった。
括(くび)れた腰やドッチボールにも似た豊かな胸さえ、
地球儀の一部と差はなかった。
性の概念がまったくちがうのである。
それらは、人体に対する興奮よりも
幾何学的な興奮を呼び覚ますといったら言い過ぎだろうか」(P130)


ほんとほんと、インド人って、わけがわからん。
天竺はクレージーな国だと思う。
大学生のとき、初めてインドに行ったのだった。
そのときバラナシのホテルドパリスの従業員と約束したのだった。
新婚旅行でかならず再訪すると。あはは、いろんな意味で無理ぽ。

9月27、28日に代々木公園でインド祭りが開催されます。
今年もひとりで行く予定。みんなも行こうぜ、ゴーゴーインド! 代々木から第一歩だ!
「木下恵介伝 日本中を泣かせた映画監督」(三国隆三/展望社)

→木下恵介にまつわる古今の情報を広く集め要所をまとめたものである。
独創的な論説は皆無だが、そのぶん手堅い評伝に仕上がっている。
手堅いというのは、面白味がないことでもある。
著者の態度は、木下恵介の作品ならすべて価値があるという前提に基づく。
映画監督を天皇にまつりあげたうえでの評伝である。
著者の木下恵介への傾倒ぶりがうかがえる。

・ストーリー・テラーなのは幼少時、父から布団で物語を聞かされていたから。
・酒が好きで、女が嫌いである。
・実家が裕福なため31歳で監督デビューするまで親の仕送りを受けていた。
・とびきりの自己愛者である。

「ときどき、木下作品の試写会も開かれた。まだビデオが普及していない当時、
デビュー作からワイド・スクリーンになるまでの自作を十六ミリで、
ホーム・ムービーとして所蔵し、映写機まで持っていた。
木下はみんなの真ん中に座り、自分の映画を見ては大声で笑ったり、
泣きミソのようにポロポロ涙を流したりした。
そして、助監督に向かって無邪気に「ボクって、なんて、うまいんだろう」
と言ったりした」(P112


著者はおそらく知っていたのだろうが、本書に書かなかったことがある。
木下恵介は同性愛者(ゲイ・ホモ)なのだ。
映画監督の不名誉になると著者は判断したのかもしれない。

同性愛者というのがわからない。
レズピアンのわからないのは男だから当然なのだがホモも理解できない。
男を性的な意味で愛するという感覚がイメージできない。
2ちゃんねるの関連スレッドを見ると、
木下作品の端々からゲイ的なものを感じるものがいるらしい。
わたしは都合8つの木下恵介作品に目を通したが、
とりたてて同性愛的なものは感受しなかった。
ことさら作者の性的嗜好を重要視する風潮には疑問を感じる。

あれだけ最新風俗に敏感な山田太一だが、
考えてみると同性愛をテーマにしたものはひとつもない。
もしかしたら師匠の性癖が関係しているのだろうか。
若いころの山田太一はそうとうな美青年である。
木下恵介は周囲に美青年をはべらすのを好んだと聞く。
……ああ、いまおかしな想像をしてしまった自分が恥ずかしい。懺悔(ざんげ)する。
「父よ母よ!」(木下恵介/月刊「シナリオ」1980年10月号)品切れ

→映画シナリオ。昭和55年公開作品。
シナリオには原作があってジャーナリスト齋藤茂男の同名のルポルタージュ。
当時の不良少年、不良少女に肉迫したものらしい。
映画界の巨匠・木下恵介はこの書物に強い影響を受ける。
「せめて自分の仕事で参加しよう」(「演出のことば」より)と映画化に取り組んだとのこと。
といってもドキュメンタリーではなく劇映画である。
書籍のなかのエピソードを編集して子役に喋らせたのが映画「父よ母よ!」になる。
本を読むことのできる最低限の知力があればこの映画は不要なのではないか。
とはいえ、世の中には本を読めないような知的弱者が存在する。
映画「父よ母よ!」の存在意義であろう。

一貫した物語のようなものはない。
不良の少年少女が順番に現われ、それぞれ非行に走った経緯を述懐する。
ほとんどの問題児童が、これまた問題のある父母を持っていることが明らかになる。
だからタイトルが「父よ母よ!」なのだと思われる。
「親の因果が子に報いる」を痛感する。
どこの父母のもとに生まれ落ちるかで人生が決まってしまうのである。
「父よ母よ!」では言及していないが、
非行に走る子を持つ両親もまた問題のある家庭に育ったことは疑いえない。
不幸は連鎖する。
親の因果が子に報い、その子が親になると再び子に因果を伝える。
おそらくどこにも救いのない無間地獄なのであろう。

映画後半で北海道の救護院「家庭学校」が紹介される。

記者の声「ここには、小学校四年生から中学卒業までの
七十九人の少年たちが収容されていた。
父母の離婚、蒸発、病死、自殺、アル中、一家離散
――この白い森の学校に送られてくる少年たちの過去は、
この世のあらゆる不幸を凝縮したかのようであった」(P134)


この「家庭学校」の礼拝堂である。全校生徒が集まっている。
校長先生が壇上に立ち話すのは、水上勉の本のことである。
作家が少年時代の思い出をつづったものだ。
七つか八つのころ、冬のある一日のこと。村ぐちで大人たちが集まって騒いでいる。
やがて鉄砲を持った四、五人の男が走って来て、どこだ、どこだとわめいている。
熊が出没したのである。雪はまだあちらこちらに残っている。
一本の杉の木が突き出ていて、そのてっぺんになにやら黒いかたまりが見える。
まだ子どもの熊である。登ったはいいが、降りてこれなくなったようだ。
子熊はあわれにも、ふるえて啼いている。
水上少年をはじめ子どもたちは子熊がかわいそうで見ていられない。
いつ鉄砲の音がなるのかと不安で仕方がない。
ところが、大人たちは子熊を殺さないのである。
どうしてだろうと少年たちはふしぎに思う。
あれは母熊が来るのを待っているのだと大人から教えられる。
水上少年は熊の母子の会話を空想する、

子熊「お母さん、来ちゃあいけない、来たら殺されるよ」
母熊「そんなこと言ったって、お前がそんな木の上に登るから」(P142)


パーンと鉄砲の音が一斉に鳴る。血みどろの母熊が運ばれてくる。
まだ大人は木のてっぺんにいる子熊を殺さない。父熊が来るのを待つのである。

「212 礼拝堂
谷先生「だんだん昏れてきた。杉の梢の上で熊の子が啼く声がした。
それは人間の子が泣くような、かなしい寂しい声であった。
梢は鼠いろの空につきたてたように残っていて、
黒いかたまりは、泣き声とともにかすかにゆれた。
それから、大人たちが、夜になって、もう一頭の熊を射止め、ついでに、
その梢の子熊も射止めたという話をきいたのは翌日であった」
浅川先生も聞き入っている。

213 杉木立(アニメーションではなく)
子熊が梢から落ちて行く。

214 礼拝堂の外
一同が出て来て、それぞれの寮に帰って行く。

215 森の中の道
浅川先生も生徒たちと帰って行く。年少の少年Sが、先生の横に来て並ぶ。
S「先生」
浅川「う? どうした――」
S「今日のお話し、とてもよく分ります」
浅川「そうか」
S「心配をかけて、ほんとにすいません(涙ぐんでいる)」
浅川「(たまらなくかわいくなって、その肩を抱き)分りゃあいいんだ、分りゃあ」(P142)


いいシーンだと思う。いま書き写しながら涙がこぼれた。
読んでいるときも泣いたのだから、泣いてばかりで恥ずかしい。
これこそ木下恵介から山田太一に通じる叙情の美しさなのである。
人間はひとりひとり無力である。生まれてくる両親さえ選ぶことはできない。
そのくせ人間は孤独に苦しめられる。孤独はやりきれない。押しつぶされそうだ。
人間は他人の孤独をどうしてやることもできない。
いや、そっと肩を抱くくらいならできるのではないか。
無力な人間も肩を組めば少しなら苛酷な現実に向き合うことができるのではないか。
木下恵介、山田太一の師弟が共通して描く人間ドラマの根本思想である。
「女の園」(木下恵介/日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和29年公開作品。
上演時間は137分。いったいだれがこんな映画を最後まで観るのだろう。
娯楽の少ない昭和29年。映画館に閉じ込められている。なおかつ料金を支払っている。
時代、場所、代金。この3要素が「女の園」を名作なんぞにしたとしか思えない。
どこがおもしろいのかまるでわからぬ。

校則の厳しいお嬢さま女子大。学校の管理体制に抗議する一部の女子大生がいる。
そのうちのひとりが出石芳江(高峰秀子)である。
芳江は結婚を誓った恋人がいるものの親からは交際を禁じられている。
自由か義務かの相反する規範に引き裂かれ芳江の精神は異常をきたす。
自由恋愛か、それとも親への義務か。
自由な大学生活か、それとも伝統のある校則か。
自由と義務のあいだで揺り動く幾人かの女子大生が活写される。
芳江はあらゆる葛藤を背負い込み大学の教室で睡眠薬自殺を遂げる。
「日本の悲劇」とおなじ自殺オチはいささか工夫が足らないと思う。
たしかに主役を殺せば映画は終わるが、だからといってポンポン自殺させないでほしい。

この映画の退屈な理由はいくつかあるが、最大のものはエロがないことではないか。
濡れ場がないのである。
暴力シーンの不足は舞台が女子大のため致し方ないが、
せっかく女子大生を使うのだからもう少しエロを入れられなかったのだろうか。
芸術映画に不純なことを言うなと怒られてしまいそうだけれども。

137分もえんえんとおかたいテーマに向き合わされるのは苦痛以外のなにものでもない。
べつに映画からなにか教えてもらおうとは期待していないのだ。
知識だったら本を読むのだから。
むかしの映画はどうして観客を教育しようとするのだろう。
楽しませてくれればそれでいいのに、不遜な映画監督が多いのには困ったものである。
「日本の悲劇」(木下恵介/日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和28年公開作品。
上演時間は116分だが、映画だったらとても最後まで観ていられなかったと思う。
シナリオだからこそなんとか持ちこたえることができた。
巨匠・木下恵介は当時の日本を悲劇的状況にあると解したわけである。
そこで映画「日本の悲劇」を製作し、国民に自覚をうながす。

暗くてやりきれない物語である。テーマは、うめくビンボー人ども(苦笑)。
夫を戦争で亡くした春子はときに娼婦まがいのことをして一男一女を育てる。
けれども、息子も娘も母親からの干渉を嫌い逃亡する。
具体的には、医学生の息子は裕福な開業医の養子に入るという。
美しい娘は、妻子ある男性を誘惑し駆け落ちする。
戦後の乱世をがむしゃらに生き抜いた結果がこれである。
息子からも娘からも迷惑がられ孤独な40歳の春子はいまある男性のもとへ向っている。
春子はもうけ話に引っかかり相場で大損をしてしまった。
借金を身体で返す羽目におちいったのである。
春子は駅にいる。いまから好きでもない男に身体を預けに行くのである。
電車がやってくる。春子は駆け出す。
ホームから飛び降りる。電車が急ブレーキをかける。
春子の死をもって悲劇は幕を閉じる。

明るいシーンがほとんどない暗いだけの押しつけがましい映画である。
ひとつ良かったシーンを紹介する。
春子の娘、歌子はとびきりの美少女である(桂木洋子)。
このシナリオ集には写真がついていて、見ると清純そうでとてもいい。
さて、春子は子どもふたりを養育するため旅館に出稼ぎに出る。
家は亡夫の兄一家に貸し、子どもの面倒を見てもらうことにする。
ところが、この義兄夫婦というのが意地が悪く、弟の子どもの世話など一切しない。
それどころか家をのっとり、庭のバラックに姉弟を押し込む始末。
親戚から意地悪をされても、ぐっとこらえる美少女、歌子と弟であった。
一生懸命に我慢していたら、いつか幸せになれると信じてである。
叔父夫婦にはひとり息子がいるのだが不良大学生である。
勝男は両親が姉弟をいじめるのをニヤニヤしながら眺めている。
ときにはこんなふうにからかう。15歳の歌子が理不尽ないじめを受け泣いている。

勝男「なんだい、泣いてんのか、俺が慰めてやろうか、な、遊ぼうよ」
歌子「向こうへいって」
勝男「何時もぷりぷりしてやがる、一寸ばかり綺麗だからって威張るない」(P108)


歌子も黙ってばかりではない。
勝男一家が闇商売をしてもうけているのを警察に匿名で告発する。
だが、警察とこの一家は通じていたのである。
密告がばれた歌子は叔父からこれでもかと折檻を受ける。

「闇で儲けてますとは何事だ! こんな手紙警察へ出したって、
警察はちゃんと叔父さんのところへ知らせに来てくれるんだ、
今度こんなことしやがったら、半殺しにしてくれるから……」(P110)


正しいことが必ずしも通るわけではないことを薄幸の美少女は知る。
それでも正義や希望を信じたい歌子は16歳になっていた。

「66  歌子と清一(=弟)の住むバラック(昭和廿二年冬)
   戸をあけて勝男が入ってくる。
勝男「どうしたんだい。風邪ひいたんだって?
蜜柑(みかん)持ってきてやったよ……(布団の傍に坐って)
熱があるのか、どら……(手を出す)なんだい、もぐっちゃうことないじゃないか、
人が親切にいってやってんのに、一寸頭、さわらしてごらんよ、
熱があったら俺がひやしてやるよ」

67  バラックの外
   雨がふっている。
   窓ガラス一枚、割れる。

68  バラックの中
   土間に蜜柑が転がる。
   ガラスの割れた所に雨がふりこんでいる。
勝男の声「お前のおふくろだって、パンパンじゃないか
――この野郎――生意気な――畜生ッ」

(中略=現在のシーンが入る)

70  バラックの中
   勝男が戸口に行ってふり返った顔。
勝男「おふくろに云いやがると承知しねえぞ、黙ってりゃこれから優しくしてやらあ」
   雨の中へ出てゆく」(P122)


風邪で身体が動かないところを襲われ勝男のなぐさみものになる16歳の歌子――。
まわりにだれも味方はいない。弟には恥ずかしくて言えない。
母屋との力関係からして、一度許してしまったらこれからも勝男を受けいれざるをえない。
いやあ、ヘンタイのようだけれど、不幸ってエロいですよねえ。
いまのAVなんかよりよほど劣情をあおるところがある。
この映画には具体的な描写はない。
ガラスが割れる。蜜柑が転がる。これだけで情事を暗示するわけだ。
貧しいながらも正義感を失わない薄幸の美少女がよこしまな欲望に汚される。
ううん、いやらしい。じつによろしい。こういうのが娯楽になるのである。
不幸は豊かなのである。
現実の不幸はやりきれないが虚構世界でなら不幸は豊饒をもたらす。

気になるかたのために歌子の今後を書くと、ひどい人間不信におちいる。
自分に気を寄せる妻子ある中年男と、愛してもいないのに駆け落ちする。
男の家庭をめちゃくちゃにすることに喜びを見いだしているのである。
おそらく歌子はこの中年をすぐに捨てるだろう。
つぎにさらなる獲物を探す。
このように不幸が連鎖してゆくさまはさぞ壮観かと思われる。
「カルメン故郷に帰る」(木下恵介/日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和26年公開作品。
ひなびた農村で、ちょっとした騒ぎが巻き起こっている。
上京したノータリンの娘、きんが帰ってくると知らせてきたからだ。
きんは東京でダンサーとして成り上がったらしく、いまはカルメンと名乗っている。
「カルメン故郷に帰る」である。

カルメンはもはや田舎の少女ではない。東京で名の売れた芸術家の先生である。
ダンスはストリップショーと紙一重なのだが、都会ではこれが芸術なのだろう。
とびきり珍妙な格好で帰省するカルメンであった。
きんの父親は娘の出世が嬉しいながらも、とても娘を芸術家とは思えない。
半裸のプロマイドにサインして配っている娘が恥ずかしくて仕方がない。
村一番の成金である丸野は、これをビジネスチャンスと捉える。
カルメンにダンスの上演会を依頼する。
村の男どもは、見知った美少女きんちゃんの裸が見られるのでわんさか押し寄せる。
みんな口にするのが芸術、芸術、芸術――。
カルメンはすっかり芸術家気取りで、幼なじみの男たちのまえで素っ裸になる。
遅れた農村に芸術と文化を伝えたカルメンはこうして東京へ戻ってゆく。

物語の救いは、盲目の音楽家、春雄である。
春雄はかつては教師だったのだが、戦争で負傷してめくらになってしまった。
働けないため借金はかさむばかり。
カルメンはストリップショーのギャラを父に託したのだが、、父は受け取ろうとしない。
このカネが結局、春雄の借金返済にまわされるのである。
いんちき芸術がほんとうの芸術を救ったというオチであろう。

木下恵介の文化批判。カルメンの父のセリフを引用する。

「うまいこというのは止めて貰おう。わしは親だからちゃんと分ってるだ。
子供の時からいつも学校はビリッ尻、十八になるまで鼻をたらしていた奴が、
そんな立派な芸術とかいうものができるわけはねえ、
それをみんなで面白がって、彼奴(きゃつ)の裸をからかってるに違いねえだ」(P82)


木下恵介作品の特徴のひとつ、説教臭さがよく出ている。
かの映画監督は国民を導かなければならないと思っていたふしが見られる。
作品、作品に明確なメッセージがあるのである。
映画がなにかを伝えるための道具になっているのだ(「真の芸術とはなにか?」等)。
また木下は自分の内部に、大衆に伝えるべきなにものかがあると信じている。
少々高みから、観客に考えさせようとする。
いまの言葉でいうなら「上から目線」がちらほら散見される。
好みのわかれるところであろう。

(おしゃべり)女優さんが映画で芸術のために脱ぐとか言うのっておかしいよね。
これはストーリー上なくてはならないシーンなんてみんなで口裏あわせ。
前提にあるのは映画=芸術。だから脱ぐのは恥ではない。芸術、芸術、芸術――。
男にとっちゃ脱いでくれさえすれば芸術なんてどうでもいいんだけどね(笑)。
芸術ぶった取り澄ました顔で素っ裸になる女優を見ると男はみんなバッカだなと思う。
まあ、美人女優のこういった白痴的行為こそ、
我われ男性陣の劣情をこのうえもなく刺激するのでありますが。
「女」(木下恵介/日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和23年公開作品。
これを映画で観たのならいちおう巨匠の作品だから女優の演技がどうの、
監督の演出がどうの、と講釈をたれることが可能なのかもしれない。
けれども、シナリオで読んでしまうと、なんてことはない。
ヒモのチンピラと、かれに吸血される踊り子の逃避行である。
チンピラはいましがた強盗をしてきたばかりで女との逃亡をはかる。
最後は女から見捨てられ、あわれブタ箱行きと相成る。
ことさら感嘆するような点はシナリオから発見できなかった。
意地悪なことを言うなら、娯楽の少なかった時代である。
スクリーンに美男美女が映写されていたら観客はなんでもよかったのではないか。
ともあれ、木下恵介ならではのセリフを一箇所、引いておこう。
チンピラは戦争が自分を悪くしたのだと言い張る。

「俺は弱いんだ、俺はどうせ弱いんだ、おっかなびっくり悪い事をして、
お前にも嫌われちゃって、首をしめられるまで、一人で逃げ廻るより仕方ないんだ。
でも敏子、俺は本当にお前を愛していたんだぜ、
お前だけを一番愛していたんだ、それだけはいつ迄も忘れないでいて呉れ」(P41)


ああ、おいらも女からつくされ、みつがれ、されてえもんだ。
そのためにゃあ口をうまくせんといかんが、これがダメなんだな。
悪いことをできるようなタマでもなし。いけねえ、いけねえ、人生さっぱりだ。
「わが恋せし乙女」(木下恵介/日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和21年公開作品。
木下恵介は、日本を代表する映画監督。あの黒澤明と比されることも多い。
山田太一のお師匠さんでもある。
脚本家は木下恵介のもとで長いあいだ助監督をしながら映像のイロハを学んだ。
あの山田太一を育てた映画監督のシナリオである。
どれほどのものだろうと期待は大きかった。
ちなみに「二十四の瞳」「新・喜びも悲しみも幾歳月」のシナリオは既読。

結論から先に書くと、このたび6つのシナリオを読んだが、
よかったのは「わが恋せし乙女」くらい。
映画監督としては一流なのかもしれないけれど、
脚本家としては二流、三流と言わざるをえない。
映画を観ないでこのようなことを書くことを批判されるかもしれない。
だが、シナリオのつまらない映画はとても観ていられないのである。
途中で消してしまう。
これがシナリオならたとえ相当に退屈でも最後まで読み通すことができる。
ビデオで借りればいいものを、わざわざ絶版シナリオで読むのはこのためだ。

佳作「わが恋せし乙女」に話を移そう。
センチメンタルでとても美しい話である。
敗戦直後の絶望のなかで、この映画がどれほど観るものを感動させたことだろう。

健康的な光につつまれた牧場の物語である。
甚吾は恋をしている。相手は、小さいころから兄妹として育てられた美子。
ふたりは血がつながっていないのである。
美子は赤ん坊のころ、この牧場に捨てられていた。実母は近くで自死を遂げた。
不幸な生まれの美子だが、さいわいこの家のものに愛されながら養育され、
いまは美しい女性となっている。
戦争から復員してきた甚吾は、美子へプロポーズしようと考えている。
ところが、美子は好きな男がいるという。結婚したいという。
野田というインテリの青年である。負傷兵として戦場から送り返された。
ひどいびっこでまともに歩けないほどの片輪である。
甚吾は迷う。ふたつにひとつである。自分の幸福か、美子の幸福か。
野田に逢ってみようと甚吾は決める。
美子にぜひ野田を牧場につれてくるようすすめる甚吾であった。
この物語の美しさは野田にあるのではないか。恋敵である。
たいていの物語作家なら、この野田を悪人にしてしまうだろう。
だが、木下恵介はびっこの野田を人格的にすぐれた青年として描くのである。
重傷を負い片輪になったことで野田は人間として成熟した。
甚吾と野田は、おなじ戦地におもむいていたことが判明する。

「お互にひどい目に会いましたね」
「思い出してもゾッとしますよ」
   甚吾は野田の口許に見入っていました。
「僕は思うんですけど、死ぬほどの苦しみをして来た人でないと、
本当に生きている事の有難味が判らないじゃないかしら、
そうして又、生きている事の有難味を知っている人なら、
決してくだらない生き方をしないと思うんですけど」
「でも、そんな負傷をしなければ、もっと良かったとは思いませんか」
「そうは思わないんです、このびっこのこの足をこうやってなでていると、
よくも生きていられたと思って、この足が堪らなく可愛いくなってくるんです。
こんな醜い足でさえ可愛いんですもの、世の中のことは何でも可愛いですよ、
まして憎んだり怨んだりする気持にはなりませんから」
   そう言われて甚吾は自分の気持を見詰る」(P28)


甚吾は美子へ愛を伝えることを断念する。
ふたりの幸福な結婚を祝福しようと思い定める。
「わが恋せし乙女」が好いた男と結婚して幸福になるのならいいではないか。
自分はいさぎよく身を引こう。なんと清潔感あふれる恋慕のかたちであろうか。
甚吾の本心を知る母親はこれで本当にいいのかと息子を問いつめる。
甚吾の決心は揺るがない。

「甚吾や、おっ母さんは今夜ほどお前を褒めてやり度いと思ったことはないよ」
   甚吾、笑い顔になって、
「いやだな、おっ母さんから褒められちゃテレ臭いじゃないか、さあ……」
   と二人外に出てゆく。
   外では若人達の唄声が楽しそうに聴えています」(P32)


シナリオを読みながら涙がとまらなかった。敗戦がこの物語を作ったのだと思った。
打ちひしがれた国民がこの物語を必要としたのである。
人間は捨てたもんじゃない。
いくら焼け野原になろうと真に美しいものは焼失せずに残存している。
勝つばかりが能じゃあない。負けたっていいではないか。
恋に敗れたって構わない。そこに美しいものがあれば。「わが恋せし乙女」がいれば。
断念しよう。あきらめよう。それから、笑おう。できたら、笑おう。
敗戦国民のいかほどが映画「わが恋せし乙女」に救われたことだろうか。
「シナリオ創作論集」(松本孝二編/映人社)絶版

→月刊誌「シナリオ」に掲載された作家の創作論を集めて1冊にしたものである。
初版は30年まえだが、この時代からすでに映画で食べていくのは難しかった模様。
作家たちを支えている映画への情熱に圧倒される。
実のところ、わたしは映画に関心がない。
むしろ、嫌いと正直に言ってしまったほうがいいのかもしれない。
思えば3年まえに原一男監督の新作を観て以来、映画館へ足を向けていない。
映画の押しつけがましさに辟易するのだ。
監督の思い入れが強いぶんだけ、そのワタクシ性に重苦しいものを感じてしまう。
たとえれば、自慢話をえんえんと聞かされる不愉快に似ている。
「おれの話を聞け」「おれの映画を観ろ」――おれおれおれである。
完全娯楽映画なら観ても構わないのだが、あいにくテレビで間に合っている。
わざわざカネを払ってまで観たいとは思わない(そのうちテレビで放送されるしね)。

では、なにゆえこんな書物を読むのか。
不遜な話で恐縮だが、シナリオなら書けるかもしれないと思ったからである。
とにかく風景描写が苦手である。シナリオは場所指定だけで描写が不要。
これならばと甘く考えたのだ。
さいわい戯曲なら人よりも数を読んでいる。
うまくいけばカネになるものを書けるかもしれない。
言うまでもなく、創作はそんな動機で志すものではない。
あらためて本書から教えられたことである。
創作の根本には表現欲がなければならぬ。

「私の場合も、最初はコンスト(箱書き)なんかは作りませんでした。
こういうことを書きたい、こういう事件を描きたい、こういう理不尽なことを訴えたい、
さまざまな衝動はあるでしょうが、その衝動にかられて、
いきなり思いついたファースト・シーンから書き、人物名もその場その場で考え、
とにかくワン・シーンを書いたら、次のシーンが自然に浮かんで来る。
浮かぶというより、自然の流れとしてそうなる」(P150 国弘威雄)


「……シナリオを書いた。書いたというより書きなぐった。
そしてあっという間に書きあげた。
他人に読んで貰うとか、シナリオ・ライターになりたいとか、
欲も得もなかった、ただ書きたかっただけなのであった。
シナリオ・コンクールに当選したがそれはあくまでも結果であり、
とまどい以外のなにものでもなかった」(P311 勝目貴久)


まったくその通りだと思う。書きたいことがないものは、書かなければよろしい。
書けないのなら、書かなくていいのだ。
しかし、時間というものがある。時間が解決することもまたあるのではないか。

「以来九年間、私はスクリプターとしていろいろな映画造りに参加して
病気の為に廃業したが、いつまでもブラブラしている訳にも行かず、
志してから約十年目に、初めてシナリオを書いてみた。
師となる人はいなかったが、書けば書けたのである」(P277 小山内美江子)


「大学を卒業したものの、私はあまりに晩学に過ぎて、思うような就職口がなかった。
在学中からのアルバイトを続けることで糊口をしのいだ。
学校へ行かなくてもよくなっただけ暇ができた。
そこで、思い出したように、実に十年ぶりでシナリオを書き始めた」(P307 松田昭三)
だれにでも穴ってあると思いませんか。
エッチな穴のことではなく知識の穴のことです。
みんな知っているようなことを知らない。
ほんと大学出たの? なんてバカにされそうだけど、わたしの穴、見せちゃいます。
いやん、恥ずかしい見ないで。
でも、あたい、露出狂かも。見られると感じるの。
わたしの穴は12月を英語で覚えていないこと。
いまあるブログを見ていて、そこの日付が英語なのね。
Septemberが何月のことかわからない。ウソじゃなくてマジっす。
たしか月の名前って中学1年で覚えることになっていたはず。
このときにきちんと暗記しておかなかったのがいけないのだと思う。
あいまいのままウン十年も経ってしまった。
こうなるともういまさら覚える気にならない。
だけど、生きていて困ったことないよ。
高校も大学も入れてくれた。海外旅行で困ったこともない。
だって日付を数字で書けばいいだけの話。
いま平然とこんな告白をしてしまったが、もしかしたらみなさんドン引きしてますぅ?
なんだか猛然と恥ずかしくなってきたぞ。
とんでもない秘密を白状してしまったのではないか。
お約束ですが、穴があったら入りたい。
ブックオフ。あなたならどうする~?
105円本を物色していると、横にあるアダルトコーナーに男の子がやってくる。
ひとり。おそらく未就学児。まだ小学校へ行っていない。いや、1年生くらいかも。
興味深げにアダルトDVDを棚から取りだす。
児童は目を輝かせながらパッケージに見入っているのである。
わたしはお子様を凝視する。
見られていることに気づけば退散するのではないかと思ったのだ。
ところがエロぼうずは、アダルト世界に陶酔している。
見ると、全裸のAV女優が四つんばいでお尻を向けているポーズ。
おちんちんをくださいの格好である。
未就学児はうっとりと手に持ったDVDに見惚(みと)れている。

大人としたら、こういうときにどうしたらいいのだろうか。
このガキをブックオフに連れてきた親はいったいどこにいるのだろう。
小さな男児がアダルト作品にたましいを奪われているさまはグロテスクであった。
もとより、わたしは他人に説教できる身分ではない。だが――。
「おい、なにを見ているんだ」
低い声で男子に話しかけた。
少年はすてきな顔を見せた。おろおろ周りを見回し、恥ずかしそうに逃げていった。
無言で消え去ったのだ。この日、こうして禁じられたことが、
将来、男児の性を豊かにするのではないかとわたしは満足した。

「世界一周恐怖渡海記」(車谷長吉/文藝春秋) 105円
「歩くとなぜいいか」(大島清/PHP文庫) 105円
「医師がすすめるウオーキング」(泉嗣彦/集英社新書) 105円
「公明党vs.創価学会」(島田裕巳/朝日新書) 105円
「道化の目」(小田島雄志/白水uブックス) 105円


1冊をのぞいてどれも定価で買おうか迷った本である。
このうち1冊はつい数日まえ、新刊で買うはずだった。
だが、少し待ったらこのようにブックオフ105円で買えてしまう。
出版社はブックオフをどうにかしないと本当に潰れてしまうのではないか。

言い訳をさせてください。むかしは礼儀ただしい読書家だった。
絶版ではない書籍は断じてブックオフでは買わない。
この流儀を通していた時期がだいぶあった。
魔が差したとしかいいようがない。
定価の高いハードカバーなら絶版でなくても105円で買ってもいいのではないか。
最後のとりでは安価な新書、文庫であった。
絶版や品切れでない限り、いくら105円でもブックオフからは買わぬ。
この自制心の崩れたのが2年前である。
いまや節操なくブックオフ105円本を愛好している。
まったく恥ずかしいことだと思う。出版界のみなさまには土下座してお詫びしたい。

ブックオフを出る。近くの商店街でお買い物。
がっつりお酒のつまみを仕入れる。
レトルトのサムゲタンが期待大。韓国料理。499円もした。
さぞかし美味しいのではないか。ふたつ購入。
さあ、帰宅しよう。お酒が待っている。もうひとつわたしを待っているものがある。
録画予約をしておいた再放送番組。
ギャル曽根がアジアを旅しながら食べまくるという番組だ。
うふふ、ギャル曽根ちゃんってかわゆいよね。
白痴的な笑みを浮かべながら、
お口をおっきくあけて食物を片づけてゆくギャル曽根ちゃん。
こんなに癒される存在はほかにない。
むかしからこの大食い女王には目をつけていた。
テレビをつければギャル曽根がいる。ああ、生きてるのは、なんて楽しいのだろう。

(追記)ギャル曽根アジア大食い番組は録画されていませんでした。
きっと番組が変更されたのでしょう。雑誌テレビライフを参考にしたのが失敗か。
ちなみにギャル曽根ちゃんのアジア番組パート2が明日17日に放送予定。
これはなにがあろうと見逃せません!
やはり負けるより勝つほうがよろしい。
勝つ。勝利。うん、いい言葉だね。
本日とうとう難敵に勝利をおさめたのです。

今日と明日は近所のお祭り。神社に老人が集まり朝から酒をのむ。
勝手にやりゃあいいのだが、向こうが放っておいてくれない。
ピーヒャラドンドンとかいう祭りの音楽があるでしょう。
あれを拡声器を通して近隣地域に流すわけだよ。
休みなく朝から夕暮れまで。
ここに引越してきたのは去年。ぶったまげましたね。
なんだこれはと。窓を閉めていても聞えてくるほどの大音量。
その場で、うるさいと抗議に行ったものである。
なにを考えているんですか。静かにしてください。

「いんや、これはむかしからだど。
音楽ば流さんと祭りさやってること、わからんじゃけ。
町内会長さんはもっと音を大きくしろと言ってるくらいだで」
まったく話が噛みあわなかった。
目のまえにレコードがあり(古い!)、これが元凶である。
おなじメロディーをえんえんと繰り返しやがって。
これをぶち壊したらいいんだろう。
犯罪者的思考におよんだが、育ちのよさ(え?)が蛮行をとどめる。
結局、2日間外出する羽目におちいった。
家にいても本なんか読めやしない。

今年の祭りはまえまえから覚悟を決めていた。
どうせ聞き入られないだろうけれど、抗議にだけはおもむく。
迷惑しているということをはっきり伝えよう。
電車でウォークマン。音楽がイヤホーンからもれてうるさい人がいるでしょう。
みなさん(老人連中)も不快な気分を味わったことがありませんか。
あれとおなじことをみなさんはいまなさってるんですよ。
聞きたくもない音楽は非常に耳ざわりです。

このように説得するロジックまで考えていたのである。
と同時に、どうせ音楽をやめてはくれないだろう。
この地域から逃げ出さなくてはならない。
だが、出不精ゆえ行きたいところなどありはしない。
だれか逢ってくれないかと数少ない友人知人に連絡を取ったが、
わたしの調子のいいお願いを了承してくれるものはいなかった。
いよいよ、当日である。朝の9時からやつらはおっぱじめる。
ううん、どうした? 聞えないのである。10時になっても音楽は流れない。
もしや、勝利の笑みがこぼれる。12時、勝利確定であーる。

田舎もんども、おぬしらも聞く耳はあったか。
感謝を伝えに行かなければならないと思った。
このへんは育ちがよいのか狡猾なのか微妙である。
というのも、計算があった。
くそジジイが、音楽がないとさみしいなどと、いつ言い出すか知れたものではない。
ここは先手を打っておかなければならない。
明日のこともある。
いつまでここに住んでいるかわからないが、来年復活しないとも限らない。
騒音撲滅にはあらゆる手立てを取らなければならぬ。

「あのう、去年、音楽がうるさいと苦情を言ったものですけれど」
酒盛りをしている老人たちに話しかける。
神社は、音楽こそ流れているものの去年のように拡声器を使用してはいない。
ふたりのジイさんが相手をしてくれる。
ひとりは険しい目でわたしを睥睨(へいげい)している。
あ、こいつは音楽続行派だったのだな。
もうひとりに向け感謝の言葉を伝える。
ありがとうございます。あたまもしっかり下げておく。
帰途、スキップしそうになった。
わたしは勝ったのである。青空に向けて勝利のブイ♪を決める。それから――。

\(^o^)/バンザーイ
だれもが犯罪はよくないという。
ほんとうだろうか。
宮崎勤、宅間守、加藤智大は、そこまで極悪人なのだろうか。
凶悪犯罪者の出現によって儲かるものの存在を思い起こそう。
マスコミである。
この中でいちばん古い宮崎勤でいえば、
出版界における宮崎効果をぜひとも算出してほしいものだ。
関連する書籍、雑誌がどれだけ生まれたか。
ワイドショーの視聴率はどうだったか。
問題にしているのは、どのくらい関心を持たれたかである。
つまり、収益はいくら上がったのか。
宅間守、加藤智大、両氏のケースも同様である。
「犯罪はいけない」と伝えるがわが、その実、犯罪のおかげで食っているのである。
「負け組」が残虐な事件を起こすことを
ほくそ笑みながら待っている「勝ち組」の存在を断じて忘れてはならない。
神保町に本を仕入れ(なのか?)に行くのは3ヶ月ぶりである。
引越すまえは週に最低2回は行っていたのだからさみしいものだ。
ブログ「本の山」は、かつて神保町に隣接していた。
めずらしい本が多数登場したのも地縁によるものなのかもしれない。

まずは嫌われもの田村書店のワゴンから調べる。収穫はゼロ。
つづいて週末限定の小宮山書店ガレージセールへ。
いまやわたしにとって神保町はご近所様ではない。
悲しいかな、観光地のようなものになってしまった。
ならば、お土産を買わねばなるまい。ああ、情けなし田舎暮らし。

「半自伝 このままでいいのか、いけないのか」(小田島雄志/白水社)
「現代演劇 バーナード・ショー」(現代演劇研究会編/英潮社新社)
「タナトロジー≪死ぬ技術≫」(内村直也/日本放送出版協会)絶版


3冊で500円、すなわちワンコインなのだから安いものだ。

なじみの古書店をぶらぶらまわる。
最新の出版情勢を調べるため東京堂書店へ。
ここの3階にあるトイレはみんなの人気者。
ふたたび小宮山書店のまえに。
ううう、これはなんだ。
わたしは小宮山書店といえば、ふたつしか知らなかった。
お高くとまった店内(1冊数千円)と、乞食相手のガレージセール(3冊500円)。

小宮山書店まえの屋外に並んでいる書籍に初めて気づいた。
これも売り物なのだろうか。
目についたのは、ずっと集めていたシリーズがあったからであろう。
白水社の「現代世界演劇」だ。1冊に戯曲が複数つまっている。
ちなみにこの企画が商業的に失敗したせいで戯曲は売り物にならなくなったのだと思う。

白水社「現代世界演劇」は全18巻で40年ほどまえの出版物。
このうち15巻をすでに集めている。残りは3冊。
小宮山書店まえワゴンには「現代世界演劇」がずらりと並んでいる。数えると16冊。
2冊欠けていたせいでこうも不遇をこうむる羽目になったのか。
さて1冊いくらかと調べたら信じられない。
だれも戯曲なんて読まない現代とはいえ、これは安すぎる。1冊わずか500円である。
わたしはこのシリーズをすでに15冊買い集めたが、どれも500円よりは高かった。

携帯電話のメモ機能に「現代世界演劇」のバックナンバーを残しておいてよかった。
おかげで足らない巻がわかる。何度も何度も確認する。

「現代世界演劇2 近代の反自然主義(2)」(白水社)絶版 500円
「現代世界演劇5 実存的演劇」(白水社)絶版 500円
「現代世界演劇6 不条理劇(1)(白水社)絶版 500円


これでようやく白水社の「現代世界演劇」全18巻が集まったわけだ。
のべでかかった年数は4年か、5年か。
ともあれ、ひとつのことが終ったのだと思う。
終わりは始まりという。なにか始まるものがあるといいのだが――。
出版不況が洒落にならないくらい深刻なようである(例によって2ちゃんねる情報)。
なにが悪いのか。
書き手のレベル低下。出版社のモラル喪失。国民の活字離れ。
こういった建前はもうやめませんか。
みんながんばっているのだ。
作家はだれもが必死になって本を書いている。
出版社の編集者はそれを懸命に応援している。
読者はそうして完成した書物を読みたいと待っている。
この構図はむかしから変わらない。

ところがブックオフが登場してしまった。
このため「作者・出版社(編集者)・読者」の美しいトライアングルがめちゃくちゃに――。
なにがいけないかというとブックオフの価格だ。
大勢の人間の苦労によって生み出された書籍がブックオフでは105円で販売されてしまう。
ブックオフは卑怯なのである。
なぜなら、かの企業は書籍の製作にまったくかかわっていない。
そのくせ図々しくも完成品の価値のみネコババしているのだから。

とはいえ、ブックオフの顧客を責めるのは間違いではないか。
ひとたび出版されて間もない定価1500円の書籍をたったの105円で買ってしまった。
この読書家は今後、新刊書店で四桁もする書物を頻繁に買うだろうか。
よほどの富裕層でもない限り、難しいと思うのだが。
我われが享受している資本主義世界とは、なんのことはない、安ければいい世界だ。
ひとり勝ちした資本主義には、
世界における理想や、かく生きるべしという人生論がない。
カネがすべての世界である。
その手段がどうであろうと、本を安く売るからブックオフはもうかるのである。

ブックオフがこのまま発展するのかは疑問だ。
新古書店は、そもそも新刊書籍あっての商売。
このまま出版不況がつづき、新刊もいいかげんなものしか出なくなると、
ドミノ倒しのごとくブックオフも経営が立ち行かなくなるのではないか。
新刊書籍があってこそのブックオフ。
だのに、寄生虫ブックオフは出版社の血を死に至るまで吸い取ろうとする。
しまいには、みんないなくなるだろう。

7月15日ブックオフ新宿靖国通店。

「インド大修時代」(山田和/講談社文庫)絶版

350円だったものの割引券があったので250円。

同日、ブックオフ大久保明治通り店。

「煮え煮えアジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫) 105円
「最後のアジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫) 105円
「ラ・ロシュフコー箴言集」(二宮フサ/岩波文庫) 350円


失敗をいくつか。
ラ・ロシュフコーを知ったのは山田太一ドラマ「時には一緒に」。
岩波文庫のラ・ロシュフコー「箴言と考察」は品切れだった。
だから、古書店で見つけたら買おうと思っていたのだ。
ところが、この「ラ・ロシュフコー箴言集」は、
山田太一ドラマ放送後に新訳として出版されたもの。
ふつうに新刊書店で買えたのである。
105円ならいざ知れず、わざわざブックオフ半額で買うべきものではなかった。

「アジアパー伝」シリーズは「もっと煮え煮えアジアパー伝」が欠けている。
これを105円でそろえて、ようやく完結となる。
文庫くらい定価で買うべきなのに、ほんとうにごめんなさい。
ブックオフもいけないが、わたしはもっといけませんね。

同日、早稲田の正統的な古書店で買った古本。

「裸者と死者ⅠⅡ」(ノーマン・メイラー/山西英一訳/新潮社)絶版 1000円

いまはだれからも忘れ去られた長編小説。
わたしも敬愛する山田太一先生の推薦図書でなかったら買わなかったと思う。
使命が終ってしまった書籍といえよう。
だが、こういった古書も古本屋があるおかげで読者に流れる。
むかしながらの古本屋とブックオフはまったく役割がちがう。
ブックオフはかつてなら資源ゴミで捨てられていた紙くずをただ同然で引き取り売りに出す。

ブックオフから本を買ってはいけないのだろう。
だが、きみは餓えた乞食がコンビニの廃棄食物をあさるのを悪とまでは言うまい。

8月27日、近所のブックオフ。

「東京横町の酒房」(笹口幸男/講談社)絶版 105円
「無責任のすすめ」(ひろさちや/ソフトバンク新書) 105円
「思考の整理学」(外山滋比古/ちくま文庫) 105円
「篠山紀信 シルクロード[一][二][三]」(集英社文庫)絶版 315円


つまるところ、本を愛するわたしが本を殺しているのかもしれない――。
終戦記念日の2日まえ「西武池袋本店夏の古本まつり」へおもむく。
おかしなものである。ちかぢか読書をやめようかと思っている(当時)。
「本の山」もやめてしまおうかと(過去推量形?)。
それなのに古本祭があると、ついつい行ってしまうのだから。
自分に言い訳する。本は読むだけのものではない。
本を読むのは、むろん楽しい。だが、買うのはそれ以上の快楽なのであーる。
おらおら、考えておくれやす。
旅行しているときよりも、航空券を取ったときのほうが満足感がありませんでしたか。
とすると読書中よりも、本を買う瞬間のほうが楽しいのは、
むしろ人間として自然なことかもしれない。

しょっぱなから見たくないものを見てしまう。
ストリンドベリの古本(大正時代)が安価で投げ売りされているのである。
去年迷いに迷ったすえ2100円も支払い入手した戯曲集が
たったの300円で売られている。
「ストリンドベルク戯曲全集2 自然主義劇と一幕物」
これだけではなく、状態は良くないもののストリンドベリの未読小説がある。

「或魂の発見」(ストリンドベルク/和辻哲郎訳/岩波書店)絶版 500円

だれもこんな細かいことに関心はないと思うが、すまん許せ。
「或る魂の発見」は自伝小説「女中の子」の続編である。
「女中の子」は「下女の子」と訳されて出版されたこともある。
「女中の子」は読んでいるのである(戦後に出版された創元文庫で)。
だが、「女中の子」と「下女の子」は訳している分量が異なる。
「女中の子」では訳されなかったものが「下女の子」に入っている。
たぶんこの詳細をわかるものは書き手のわたし以外いないだろう。

「下女の子」(ストリンドベルク/小宮豊隆訳/岩波書店)絶版 300円

もはやだれも耳を傾けてくれぬ独り言になっていると思うが、
わたしは大正時代出版の「下女の子(女中の子)」もまた所有しているのである。
ところが、いま手に取っているものが、うちにあるのと同一のものかがわからない。
ストリンドベリは大正時代に大ブームがあり、訳本がいくつもあるのである。
うちにある「下女の子」と、いまここの「或魂の発見」がうまく接続するかがわからないのだ。
たかが300円である。だのに、わたしは購入を躊躇するのだから。
結局、おれは将来かならず大作家になるのだからと自分に言い聞かせ(きみいくつ?)購入。
このわずか300円の冒険は成功だった。
うちにあったのは岩波書店ではなく新潮社の「女中の子」。当然、訳者もちがう。
もしこのとき買わなかったら、あとでどれだけ後悔したことだろうか。

ともあれ、古本散策のスリルと興奮をご理解いただけたら幸いです。
断わっておくと、この日の段階で既に「本の山」のストリンドベリ記事は終幕を迎えている。
いまさら買うのかと思うが、これが本を愛するものの実相だ。
見習え。いな見習うな。地獄ゆえ。いな天国かも。いかん、混乱している、いけません。
池袋リブロの古本まつりに戻ろう。文庫本を2冊。

「近松物語の女たち」(水上勉/中公文庫)絶版 210円
「インド思想史」(J・コンダ/鎧淳訳/中公文庫) 262円


ガガーン。「インド思想史」は岩波文庫で復刊されていた。

「世界文学の歴史」(阿部知二/河出書房新社)絶版 800円
「私の小説作法」(毎日新聞社学芸部編)絶版 315円


「世界文学の歴史」はとにかく美品だったから購入。
まえの所持者がたいせつにしていたものだとわかる。
おそらく内容は知識自慢だろうが、わたしも読むとしたら「知ったか」目的ゆえOK。
わたし、意外と海外古典文学に穴があるんです。
(みなさんもそうでしょ、現役の作家さん評論家さん!)
「私の小説作法」は初めて見た。
小説家になりたいな。作家になったら書籍購入代金は経費で落とせるのでしょうか?

「現代演劇 テネシー・ウィリアムズ」(現代演劇研究会編/英潮社新社) 420円
「野生馬狩り」(アーサー・ミラー/岡崎涼子訳/早川書房)絶版 300円


ウィリアムズとミラーは、日本の春樹と龍のようなもの。
テネシー・ウィリアムズの邦訳戯曲はぜんぶ収集した。
あとは読むかどうか。
もしかしたら「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」、この2作だけの作家なのだろうか。
まさにこの2作品を読んでウィリアムズのファンになったのだが。
アーサー・ミラーはわたしが唯一、定価(新刊)で全集を購入した劇作家である。
「野生馬狩り」は短編小説集。
本は読まなくてもいいのだ。買うのがこんなに楽しいのだから十分に元を取っている。
「無責任のすすめ」(ひろさちや/ソフトバンク新書)

→ひろさちや先生のご本は、わたしにとって精神安定剤のようなもの。
薬としては効くわけである。
薬効のない書籍なんてたくさんあるから、体質に合っているのでしょう。
けれど、効き目が長続きしない。あっという間に元に戻ってしまう。
だから、定期的にひろさちやを入れなければならない。
ひろさちや中毒。なんかむかしのヒロポン中毒みたいでおかしい。くすっ。
先生のご著作は500冊以上あるから、読んでも読んでも終わらない。
もしかしたら頭脳優秀なひろさちや先生のこと。
すべては計画のうちなのかもしれない。
家電メーカーが壊れやすいものをあえて製造するようなもので。
製薬会社もどうやって収益をあげるか考えたら、患者を中毒にしてしまえばいいのだから。
精神安定剤のデパスなど、さぞ中毒者が多いと思われる。
わたしもそのひとり。デパスはよく効く。おなじように、ひろさちやも効く。
デパスとひろさちやは心弱き者の味方です♪
「文章を書くこころ」(外山滋比古/PHP文庫)絶版

→そうだよなあ、と思ったことをまとめてみる。

・制限文字数が短い文章ほど書くのに時間がかかる。
長い文章は思ったよりもずっと書きやすい。短くまとめるのが難しい(P18)。

・読んでくれる人がいることで文章が上達する(P38)。

・「熟したテーマは向うからやってくる」(バルザック)
テーマが熟してくると、放っておいてもテーマが書いてほしいと呼びかけてくる(P57)。

・せっぱつまって早く書かなければならないときほど、かえっていい文章になる。
時間をかければいいというものではない(P62)。

・わかりやすい文章を書くコツは、おなじ言葉を繰り返さないこと。
400字の原稿用紙なら1枚の中におなじ語を用いない覚悟が必要(P122)。

・接続詞はなるべくカット。いきおいよく飛ぼう(P126)。

・音読しながら書くと、耳ざわりな文章を避けられる。「~~が~~が」など。
名文を音読することで耳が鍛えられる。結果として文章もうまくなる(P152)。

初めて知ったようなことはひとつもない。
どれも日ごろ文章を書きながら気にかけていることである。
初心忘れるべからずと、あえて箇条書きにしてみた。