果たして人が酔っぱらって話すことは本音だろうか。
酒をのんで腹のうちをさぐりあう、という。
だが、人間はほんとうに酒に酔ったら本心を白状するのだろうか。
もしかしてそのような通念は大きな間違いをはらんでいるのではあるまいか。

昨日13年ぶりに東京大学本郷キャンパスの学食へおもむいた。
どうして行ったのか、いま考えてもよくわからない。
流れとしかいいようがないのである。
友人と会った。まだ日の暮れぬまえから東京ドームのビアガーデンでのんだ。
ここに来るにいたったのもほんの偶然である。
友人とは、神保町にある演劇シナリオ専門古書店、矢口書店のまえでおちあう約束だった。
この待ち合わせ場所へ行く途次、たまたまそのビアガーデンの広告を見たのである。
アサヒスーパードライ飲み放題がキャンペーン価格で、90分たったの1000円!
うっひょお、と思ったものである。
外で酒をのむのを好まないのは、もっぱらふところ事情による。
これだったら家でのむよりはるかに安上がりである。

久しぶりにのむビールはうまかった(ふだんは第三のビールゆえ)。
ハイペースでジョッキを空にした。
通常90分飲み放題だとラストオーダーが60分なのだが、ここは90分まるまるOK!
つまみ代をあわせても、しっかり元を取ったと思う。
気持よく酔っぱらったのである。ここからの行動が自分でも意味不明だ。
どうしてだかわたしは引越すまえの住居近所へかれを導いた。
覚えてはいないが、どうでもいい昔話をしたのかもしれない。
そこからなぜだか上野へ行くことになった。
かつて上野往復をわたしが散歩コースにしていたからだと思う。

上野へ行く過程で東京大学本郷キャンパス内を通過する。
ここでわたしの悪い虫がうずいたのだと思う。
連れを無理矢理に東大の学食へ連行する。ここでのもうというのだ。
しかし、友人は限界で、これ以上、酒をのめない。わたしだけ酒をのむことにする。
ここからが大問題なのである。わたしがなにを話したか。
白状すると、わたしは東大に落ちている。
河合塾で浪人までしたけれども、東京大学文科3類に入学することは認められなかった。
浪人生のころ仲間と1回、この東大学食に来たことがあった。
泥酔状態で、かのトラウマが「おいで、おいで」したのだろうか。
かくしてビアガーデンの二次会が東大学食になったわけである。

かすかな記憶としてしか残っていないのだが、
この学食で酔ったわたしはめちゃくちゃな発言をした。
将来有望な東大生が憎らしかったのだと思う。
「加藤くん」とわたしはいった。秋葉原通り魔の加藤くん――。
人を殺すのなら秋葉原なんかより、この東大学食にいる連中をやればよかったんだ。
こいつらは恵まれている。だれかがガツンとやってやったほうがいい。
しゃべりながら気持がよかったのを覚えている。
けれども、これは本音だろうか。
というのも、翌朝には昨夜のことをほとんど覚えていないのである。

なら、どうして思い出したのか。
先ほど、その友人から電話があったからである。
お互い、酒会のことはブログに書かぬと取り決めていた。
「書いてもいいかな」と電話口の相手はいう。「どんなことを?」
「ぶっ殺すとか、そういうこと」
この瞬間である。わたしは昨夜の暴論をほぼ正確に思い出した。
他人のことを好き勝手に書いてきているわたしである。まさか書くなとはいえまい。
だいぶ悶絶したものである。

この記事を書いた理由は明白である。ふたりの共通した知人が幾人かいる。
かれにかの女に弁明するためである。東大生をぶっ殺せというのはギャグなのだと。
ルサンチマンではない。ほんのふざけた軽口なのだと。
電話で友人に聞いたら、ブログ更新は10時半ころから始めるという。
いち早く手を打ったのはこのためである(現在9時半)。先手必勝である、がはは。
「北欧演劇論」(毛利三彌/東海大学出版会)絶版

→副題は「ホルベア、イプセン、ストリンドベリ、そして現代」。
いちおう通読はしたが、関心のあるのはストリンドベリの箇所のみ。
毛利三彌はストリンドベリを日本に紹介してくれた恩人である。
(それも戦前のようなドイツ語訳からではなく、原典スウェーデン語から!)
大正時代にストリンドベリブームがあったものの戦後はまったく鳴かず飛ばずのこの作家を、
ほそぼそながら日本の読者に紹介してきた毛利三彌の功績は大きい。
だから、悪口めいたことは書きたくないのだが、本書はゆるいと言わざるをえない。
座談会形式のため、なにかのシンポジウムの採録かと思ったら、
すべて毛利三彌の自作自演なのである。
司会、E(英文学者)、F(仏文学者)、D(独文学者)から本人の毛利まで、
みなみな著者のかたちを変えたすがたである。
「~~さんはどう思いますか」「いえ、それはこうなんですよ(笑)」――。
終始、このような軽めの会話スタイルである。大学出版会の本とは思えない。
ひとり何役もこなしつつ、(笑)とか書いて恥ずかしくならないのだろうか(ごめんなさい)。
要するに、著者はまじめな形式の文章を書くのが億劫なのであろう。
対話形式にしたら楽ちんだとズルをしたわけである。

おとしめておいて今度は持ち上げるが、むしろこれでいいのだと思う。
口語体のため読みやすい。
内容は論述というよりも、ほとんど北欧劇作家のゴシップに近い。
ならば、堅苦しい評論めいたものにするより、こちらのほうがよほどすっきりしている。
最近思うのだが、日本人の外国文学研究というのは意味がないのではないか。
とくに西欧文学研究などそうである。
東の果ての島国の研究者が西欧文学を論じても、本場では相手にされないわけでしょう。
おなじ日本人相手に西欧の威光で偉ぶるくらいが関の山。
もとより、学者などいらないと主張しているわけではない。
学者先生は外国文学のおもしろさを紹介すればいい。翻訳すればいい。
知の享楽を独占せず一般社会に還元することこそ学者の役割ではないだろうか。
本国研究者も日本の一般読者も読まない、
――つまりだれも読まないような外国文学研究のどこに意義があるのだろう。
こう考えると毛利三彌は学者の鑑である。理想の学者といえよう。
我われふつうの日本人はスウェーデン語を読めない。
だが、我われになりかわって毛利三彌が読んでくれるのである。
そこで知りえた知識を書物で一般読者に知らしめる。
まこと有意義な知的業績ではないだろうか。
毛利三彌には渡辺守章のようなゆがんだ虚栄心がない。
いちばんおもしろいのは文学者にまつわるゴシップ、裏話のたぐいだとよくわかっている。
人間として正直である。

さて、いまから毛利先生より教わったことを再紹介しよう。

・ノルウェー語、デンマーク語、スウェーデン語はよく似ている。
方言の相違程度である。
ノルウェー語とデンマーク語が書くとほとんどおなじ。話すとぜんぜん違うけれども。
ノルウェー語とスウェーデン語は話すとおなじようなもの。だが、書くと異なる(P8)。

・イプセンやストリンドベリが当時の代表作家のようになっているが、
それは後世からながめた演劇史としての評価である。
両作家の存命時の演劇界の主流は相も変わらぬ娯楽劇。ウェル・メイド・プレイ(P96)。

・イプセンは観客をぜんぜん信用していなかった。
結局のところメロドラマを好む観客にほとんど嫌気がさしていた。
けれども、劇作家は観客のために書かねばならぬ。
イプセンはこの矛盾に苦しんだ(P123)。

・ストリンドベリの短編小説集「結婚生活」は神を冒瀆しているとして起訴された。
まえにも該当箇所を引用したことはあったが、あれは翻訳がひどかった。
毛利三彌の訳で再び――。

「千八百年以上も前に処刑された大衆煽動者ナザレのイエスの血と肉だと言って、
牧師どもが差し出す一壜(びん)六十五エーレの酒に
ポンド一クローネの玉蜀黍(とうもろこし)パンで行なう恥知らずなペテン行為……」(P167)


・ストリンドベリは一幕物の芝居なら2日で書けると手紙で豪語している。
演出家に送った手紙のなかでである。「イプセンはもうあてにならない」とも。

・毛利三彌は指摘する。
ストリンドベリの心をもっとも強く捕えていたのは最初の妻シリではないか。
考えてみれば、のちの結婚はどちらも数年で終わっているが、
シリとの結婚生活は15年近くもつづいている(P179)。

・ストリンドベリは地獄期(分裂病増悪期)、神秘家のスウェーデンボリに救いを見いだす。
作家の読んだのはドイツ語に訳された「天界と地獄」と想定される。
邦訳もあってタイトルは「天界とその驚異及び地獄」。
(この神秘家の著作で入手しやすいのは「霊界日記」角川文庫。読もうかしらん)
ストリンドベリの悟った内容を毛利三彌は簡潔にまとめている。

「ストリンドベリはこの本(「天界と地獄」)によって、
他人への恐れが自分の心に由来すること、
すべては自分のなした悪の報いであり、この地上ですでに地獄に堕ちていること、
しかもこの苦しみはそれまで悪の力だと思っていた<知られざる力>によって
天界へ導かれる道程であることなどを悟ったと言います」(P181)


・ストリンドベリ3度目の結婚、お相手は女優。このとき劇作家52歳、女優22歳――。
ストリンドベリは家庭的で夫を敬う妻をのぞんでいるように見えて、
実際に妻とするのは決まって自立心の強い知的な女性である(P187)。

・ストリンドベリ晩年の小説「黒旗」は、特定できるモデルが文壇に幾人かおり、
ほとんど個人攻撃になっていたという。このためたいへん世間を騒がせた。
ストリンドベリ自身も激しい反撃の矢面に立たされた(P188)。

・ストリンドベリは晩年、自身を熱烈に信仰する演出家ファルク(24歳!)と交際を持つ。
この結果としてできあがったのがストリンドベリ劇場=「親和劇場」である。
ストリンドベリはこの劇場で監督の役についた。
けれども、極度の人間嫌いで、人前で話すことができない。
舞台稽古に参加するのは2、3回だけ。あとは手紙で劇団員に指示を出した(P191)。

・演出家ファルクともわずか3年で喧嘩別れする。
原因はファルクが「親和劇場」でメーテルリンクの「闖入者」を上演しようとしたから。
これにストリンドベリは激怒。
「私の戯曲のみ上演して他のどの作家も許さないということ!」
ストリンドベリはメーテルリンクを尊敬していたが、
それでも自分の劇場で自作以外の上演されるのが我慢できなかった。

ストリンドベリ(笑)――。