日本語にはおかしな決まりがあります。
学校で教えられている。かなりの文章読本にもそう書かれている。
「ですます」と「であるだ」をわけようというルールのことです。
すなわち、「である」「だ」に語尾を一貫させよう。
「です」「ます」を用いたら「である」「だ」を使うのはやめよう。
いったいだれがこんなことを決めたのでしょうか。
「ですまるであるだ」をぶち壊すと本当におかしなことになるのか。
そんなことはない。日本語はもっと柔軟なものだ。

ブロガーのみなさまへ。
「ですます」文体を使っていたら「であるだ」でも書いてみましょう。
「であるだ」を愛用されているかたは、たまには「ですます」も新鮮ですよ。
「ですます」と「であるだ」を交互に書いたら、
今度は「ですます」と「であるだ」をおなじ文章のなかで使ってみましょう。
なんの問題も生じない。
かえって日本語が生き生きしてくるはずです。
文章を書くのがずっと楽しくなるはずだ。

(注)ひとつまえの記事も「ですますであるだ」文体です。

(追記)清水義範氏によると、商業出版で「ですます」と「であるだ」の混合は無理とのこと。
というのも、かならず校閲にはじかれてしまう。いわく「文が乱れています」。
よほどの大作家ならそのままでも押し通せるのだろうが、
まあ、たいがいは訂正する羽目におちいるらしい(「大人のための文章教室」より)。
我われ素人は、プロでもひるむような危ない冒険をするべきではないのかもしれません。(6/12)
酔ってるんだろうな。人生とは、なんて語りたくなってしまうのだから。
待つことだと思います。人生とは、待つこと。
なにかあるかもしれない。そう思って待つ。これが人生ではありませんか。
なにもないのはよくよくわかっているのである。それでも待つ。
待っているうちにいつしか死がやってくる。
なにも起こらなかったが、死者は待っていた。
人間の真っ当な生き方だと思います。
どうせ現実はなんにもないんだと自暴自棄になってはいけない。
ウソとなかば知りながらも、なにかが来るのを待つ。
死ぬその日まで「いつか」と思っているのが、生きる知恵というものではないでしょうか。

わたしはこんな批判をされるかもしれない。
「おまえにはなんの才能もない。作家になんかなれるはずないだろうが」
お答えしましょう。「その通りです」
しかし、わたしは信じています。
いつか、だれかひとりでもいい。心底震わしめるものを書いてやる。
いや、書く。書くことになっている。
現実はきっぱりあきらめる。それでも虚構を信じつづける。
はて、現実ってなんだろう。虚構ってなんだろう。
こんなふうに生きることも(死ぬことも)可能だと思うのです。