「東京・居酒屋の四季」(太田和彦/新潮社)

→たとえばブックガイドのようなものがある。「必読書150」なんて書いてある。
ほんとうにこういう書物で紹介されているものはすべて読まなければならないのだろうか。
いやいや、決して嫌いなわけではないのである。
かえりみれば、演劇に興味を持ったのは大学を卒業してからなのだ。
海外戯曲のどれがおもしろいのかさっぱりわからなかった。
「演劇100選」のような小著がどれほど役に立ったことか。
しかし、ガイド本は最低限の参考にとどめるべきだと思う。

本書も同様のガイド本である。東京の有名居酒屋が36店紹介されている。
ちなみに、わたしはこのうちひとつも行ったことがない。
今後もおそらく行かないと思う。
この書籍は居酒屋のガイドのみならず酒ののみかたまで定めている。
たとえば、居酒屋では冷奴、枝豆、蛸ぶつ――。
こういった家でも食べられるものを注文するのが真の酒のみとされている(P78)。
わたしは居酒屋において、家では決して口にできぬものを食すと決めている。
だが、居酒屋の権威は、冷奴をたのまぬ酒のみは邪道だという。
さて、どうしたらいいのだろうか。

権威とどうつきあえばいいのか、である。
原点に戻り、権威の定める律法とはいかなるものか考えてみよう。
なんのことはない、どれも極めて個人的な好みである。
ところが、この人間が成り上がった。すると権威ともてはやされる。
かの人物の好き嫌いが絶対化されるのはこのときである。
どういうことかというと、権威を信じるものは、みな阿呆である。
たとえば、皇室御用達のなにがしをもったいぶってありがたがるのは白痴以下というほかない。

なぜなら、どうして自分自身を権威と思わないのか。
おまえさんはそんなに安っぽいのかい。
なんとか評論家(皇室)に比べてあんたはそこまで安上がりなのかい。
どうしてもっと自分に自信を持たない?
よしんば、あなたが成り上がったならば、あなたの価値基準が権威になるのだよ。
こう考えるようになったら、どのようなガイド本も、にやにや眺めることができる。
へええ、あんたはそう思っているの。だが、おれはちがうよ。
男はこれでいいのである。
ランキングに一喜一憂して情報にふりまわされるのは女性様のお仕事と心得よ!
「こんどは俺の番だ」(井上靖/文春文庫)絶版

→昭和31年に雑誌連載された中間小説。
嫉妬が物語をすすめる筋立てになっている。
三十路の会社員、雲野八一郎は売れない映画女優の十津川光子に恋をしている。
女優はまだ二十歳(はたち)を超えたばかり。
小説の冒頭、雲野は4階のビルによじのぼる。
光子につきまとっているゴロツキと賭けをしたのである。
もし成功したら光子と今後一切縁を切るという約束だ。
雲野青年は命からがらビル登攀(とうはん)に成功する。

雲野は自分ひとりだけが女優・光子の才能を理解していると思っている。
がために光子と関係のある男に嫉妬するのである。
いや、嫉妬なのだが、本人は嫉妬と気がついていない。
ゴロツキは光子のもとから去った。
ところが、もうひとり光子の心から信頼している男性がいるという。
光子がなかなか男の素性を言おうとしないので雲野はいらだつ。
とうとう光子は口を開いたのだが、とんでもないエピソードまでついてきた。

「言ってしまおうかな」
と(光子は)独り言のように言った。
その表情が雲野には類いなく美しいものに見えた。
「言えよ」
「じゃ、言うわ。あのね、その人とずっと前に一回だけあったの」
「あったって!?」
そう言ってから、その言葉の意味に気付くと、
雲野は急に顔をくしゃくしゃに歪めて、ごくんと生唾を飲んだ。
「それじゃ、なんでもなくはないじゃないか」
思わず大声を出して言った。喉がかさかさに乾いていた」(P58)


相手は四十過ぎの会社社長であった。雲野は三十ちょいの平社員である。
年寄りにだまされて、この若い肉体がもてあそばれたのか!
燃えるような嫉妬に雲野は苦しめられる。
かの主人公がヒロインへの恋愛感情を明確に意識したのはこのときであろう。

「ビア・ホールへ行こう」
雲野は腹を立てて言った。今夜の光子のどの言葉も、雲野には気に入らなかった。
併(しか)し、厄介なことに、今までのいかなる時の光子よりも、
今夜の十津川光子が、彼には魅力的に見えていた」(P62)


雲野は社長のもとを訪問する。もう光子と逢ってくれるなと通告するためである。
どんな悪漢かと思ったら、社長はじつに気持のいい一本気な男だった。
雲野にとっては、運が良いのか悪いのか、社長は会社が倒産して一文なしになっていた。
そのうえ自殺を考えているという。
こちらも負けず人のよい雲野は社長に、自分の姉の嫁ぎ先で静養しないかとすすめる。
とんだ顛末(てんまつ)になったわけである。

これでもう光子のまわりに男はいなくなったのか。雲野は問いただす。
だが、まだ男友達が複数いるという。嫉妬した雲野はその人物に逢いに行く。
そのたびにどうしてか気のいい雲野は恋敵の援助をする羽目におちいってしまう。
立場が入れ替わる瞬間が登場する。
光子の男友達のひとりに妹がいた。
この妹の手助けをなにやかにやと雲野はしてやっていた。
その現場を光子は目撃してしまうのである。
嫉妬した光子が雲野に当たり散らす。
いな、光子は自分が嫉妬していることに気づいていない。
むろん、雲野もおなじこと。どうして光子からこんな理不尽な対応をされるのかわからない。
ふたりは年末に別れてしまう。

両者ともに相手と逢いたくてたまらないが、なんとかこらえようとする。
光子の言い分はこうである。あやまれ! つきあってくださいと低頭せよ!
雲野は冗談じゃないと思う。光子のほうから前非を悔いるべきである。
雲野は金輪際、光子と逢うまいと誓うが、みずからその誓いを破ってしまう。
おのれへ罰をくださなけれなばらないと思った雲野はふたたびビル登攀を企てる。
深夜の危険な冒険である。そこに光子が現われる。
雲野の友人に、またビルに登ろうとしていることを教えられたのである。
光子は雲野の胸に飛び込んでゆく。烈しい力でつかんで離さない。
雲野はこれならビルに登るほうがまだ楽かもしれないと思う――。

好人物しか登場しない井上靖の青春小説の魅力を堪能した。
小旅行の際、持って行くなら井上靖の中間小説に限る。
恋愛不感症のわたしがこんかい井上靖の恋愛小説から学んだこと。
だれかを愛するとは嫉妬することなのだと思う。
そして、いま哀しくも嫉妬を感じるような異性はいない。
いい年をして断わるまでもないが、
女優の誰某(だれそれ)の醜聞を聞いたところでいささかも嫉妬は起きぬ。
ぜひぜひ嫉妬したいと思う。嫉妬したときほど異性が美しく見えるときはないのだから。
「こだわりを捨てる 般若心経」(ひろさちや/中央公論新社)

→ひろさちやが好きである。
こうまであたまのいい人はめずらしいのではないか。
具体例の用いかたが滅法うまい。おかげで難しいことがすんなりあたまに入る。
簡単なことでさえ難しく言い換える人が多いなか稀有な存在だと思う。
だが、わたしはひろさちやの屈折したファンになるのだと思う。
たとえば、山田太一とは異なるのだ。
山田太一のシナリオのすばらしさなら、ひとりでも多くの人に知ってもらいたいと願う。
友人に山田太一のシナリオをプレゼントしたこともある。
けれども、ひろさちやの本をだれかにあげたいとは思わない。
むしろ、ひろさちやの本を読まれることを恐れている。
こんなのが好きなのだとバカにされそうだからである。
山田太一の場合なら、おなじような反応をされても、
「わからないおまえのほうがバカだ」と言い返せる。
ところが、ひろさちやになると、ちょっとしょげてしまうところがある。
こんなのが好きで、おれやばいよな、とうつむきかげんになってしまうかもしれない。

巻末の鼎談(ていだん)で文学者連中がひどいことをやらかしている。
水上勉、瀬戸内寂聴、ひろさちやが仏教を語り合う。
ちなみに肩書きは前二者は言うまでもなく作家。
ひろさちやは宗教思想研究家と、なんともいかがわしい。
さて鼎談だが、文士というのはほんとうに意地が悪いとぞっとした。
じっこんの間柄の水上勉と瀬戸内寂聴がふたりだけで話して、
ひろさちやを仲間はずれにしているのである。
たまにひろさちやの発言が入るが、明らかにゲラで手を加えたとわかるもの。
まったく話が噛みあっていない。
一般書を濫作するようなライターは文士から侮蔑されても仕方がないのだろうか。
ひろさちやを強く擁護できない理由はこのへんにあるのかもしれない。
「1年で600冊の本を読む法」(井家上隆幸/ごま書房)絶版

「なにかあるかな? と期待して買って、
読んでみるとなんにもなかったという本はけっこう多い。
書いたご当人は「どうだ、どうだ」と得意気だが、
なにがどうなんだ、といいたくなるような本もある。
もちろん、こんな本は買うまえにかぎわけて
騙されないようにしなければならないのだが、なかなかそうはいかない。
間違って買ってしまうこともしばしばある」(P99)


( ゜д゜)ポカーン
「打たれ強くなるための読書術」(東郷雄二/ちくま新書)

→京都大学教授の読書指南。
といっても、最近の流行だろう。やけにくだけた文体である。
東京大学のゲンダイシソウ系を揶揄したり、
なんとか読者を笑わせようと無理をしているところに好感を持つ(踊る京大教授!)。
主張を要約すれば、受動的読書をやめて能動的読書をしましょう。
本の内容をうのみにしないで、たえず問いかけながら読もうね、
するとボクみたいに大学教授になれるかといったらそう甘くはないが
(深読みまたは被害妄想)、
きみのなかで知の組み換えが起こって、世界の見えかたが違っちゃうかもしれないぞ。

参考になったのは著者の造語で一次本と二次本。
本にはこの二種類があるという。
歴史研究における一次資料と二次資料をまねて命名したとのこと。
一次本とは、著者自身が実地調査・現物調査をして書いた書物のこと。
二次本は、本から作った本のこと。
二次本は情報源を他の書物から得ているため、元の本の誤謬が継承されてしまう。
だから、なるべく一次本を読もうと著者は主張する。

本書はおもにノンフィクション系の読書術だがフィクションにも当てはまるかもしれない。
一次本と二次本の区別が、である。
実体験にある程度基づいて書かれたフィクション(一次本)のある一方で、
本ばかり読んで本から作ったようなフィクション(二次本)もあるように思う。
私見では、フィクションの場合、一次本と二次本の優劣はつけがたいのではないか。
「あなたが大好き」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和63年放送作品。単発ドラマ。
あとがきに書かれたテレビドラマの製作秘話がおもしろかった。
赤坂の天ぷら屋でこの下町ドラマは生まれたという。
TBSディレクターの高橋一郎と山田太一が会食した。
脚本家は、演出家が10本近いビールをあけるので驚いたらしい。
つくりりたいドラマがつくりにくくなっている演出家の無念を山田太一は感じる。
TBS社員の高橋一郎は、気負わずに気持のいい話をつくりたいという。
自由業の山田太一は何度もこんな言葉が口から出そうになった。

「気負わず気持のいい話を、なんてよしましょう。
気負った気持の悪い話を異物のように今のテレビの中に投げ込みましょう」


山田太一は思いとどまる。

「しかし、そんなことをして、
有能で得難い演出家の可能性をつぶすようなことは出来なかった。
連続ドラマならともかく、短編一本では、そういうものをつくっても
おびただしい番組の中に埋れてほとんど力になり得ない。
その代り内部では、そういうものをつくった人間は警戒されてしまう。
それではなにもならない」(P271)


いろいろなことに気づかされた。当たり前のことだが見逃していたように思う。
いくら庶民のドラマとはいえ、製作するのは大会社の高給取りである。
赤坂の料亭にて会社の経費でのみくいしながら下町ドラマをつくるのだ。
言いかたはよくないが、まるで高級料亭で密談する政治家である。
いかに庶民をだますか策略を練っているところは両者相通じるのではあるまいか。
さらにテレビドラマはほとんど芸術ではない。
ディレクターとはいえ出世をめざす宮仕えの身なのだ。
表現する気概と出世する願望が衝突したら、
ためらわず後者を選択する男たちがテレビドラマをつくっている。
へんなドラマをつくってしまえば、社内で目をつけられ出世に響く。
テレビドラマシナリオほど自由の利かない表現形式はめったにないのであろう。
にもかかわらず、独自の世界を描きつづける山田太一の交渉能力には恐れ入る。
脚本家は小説家よりもはるかに難しい仕事と思われる。

「気持のいい話をつくりましょう」を合言葉に完成したのが「あなたが大好き」である。
好き合っている若いふたり(美男美女)が、困難にもめげず結ばれる話だ。
果たして江戸指物の職人の家に、石油会社重役のお嬢さんは入りこめるのか。

「うまく行くわけないからいってるの。世田谷のね、重役のお嬢さんがね、
こんな家へ来ようっていうのは、なんかあるわよ。自然じゃないわよ。
ただ誠一が好きになったっていうんじゃないのよ。
そのくらいのこと分らなくて、どうするの、誠一」(P184)


「なんかあるわよ」が浮気性の視聴者を逃さない、いわば伏線である。
結局、「なんかあるわよ」の答えは「あなたが大好き」となる。
「あなたが大好き」とべっぴんでハイカラな娘さんが、
下町の人情味あふれる家庭に入ってゆく。
たしかに「気持のいい話」である。評判や視聴率はいかほどであったのだろう。
思わず、ビールの好きなTBS社員、高橋一郎の心配をしてしまった。
「表通りへぬける地図」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和63年放送作品。全2回。
成功者がいる。失敗者がいる。美人がいる。ブスがいる。だから、ドラマが生まれる。
ユキエと理佐はどちらもおなじ22歳である。ふるさとの高校で同期だった。
美人のユキエは、学校の勉強はできなかったが、いまはマスコミの寵児である。
原宿のブティックのカリスマ社長。この店では新しい商法を用いている。
お客さんを店長のユキエが一対一でカウンセリングするのというもの。
その後、カウンセリング結果に基づき、上から下までファッションをコーディネートする。
これが大当たりした。いまや行列店である。社長が若くてきれいな女性というのもよかった。
ユキエは寝る間もないほど忙しい。ルームメイト兼家政婦を募集したのはこのため。
やってきたのは高校の同窓だったデブス(デブ&ブス)の理佐である。
理佐はユキエとは異なり勉強がよくできた。いまは東京の有名大学に在学中。
4年生で就職を控えている。ユキエと理佐は高校時代たいして仲も良くなかった。
ユキエはどうして理佐が来たのかわからないが、
かつての優等生をあごで使えるのは悪い気はしない。
こうしてふたりの同居生活は始まった。

ユキエのバックにはパトロン(出資者)がいた。平出善彦、妻のいる中年男性である。
善彦は理佐の存在をあやしむ。どうしてユキエのもとに現われたのだろう。
ふたりは対面する。理由を問われた理佐は白状する。
就職しなければいけないという。それが駄目なのだという。
善彦には、わけがわからない。なにをこの女はいっているのか、わからない。
理佐は自分を採用するかと問う。テスト次第では、と善彦は答える。

理佐「テストなんて関係ないの。成績はいいの。
聞いてるのは、私みたいな女を採用するかどうかよッ。
しないのよ。みんなバカだってなんだって可愛い子を選ぶのよ。
面接で男たちは可愛い子を選ぶのよッ。
笑う奴もいたわ。君、受かると思ってるのかって。
痩せようとしたわよ。でも、痩せられないのよ。二〇キロが限界なのよ。
食べなきゃいい。死ぬ気で痩せろって、就職課の先生にも怒鳴られたわ。
でも、なんで死ぬ気にならなきゃいけないの?
仕事が出来るかどうかが問題じゃないの?
高校だって大学だって、私はトップクラスだった。
ところが、就職は面接で、誰も相手にしてくれないのよッ。
友だちからユキエさんの成功したこと聞いたの。お手伝いさん募集してるって。
原宿のマンション住んでるって。綺麗な人は得ねって。
そうなのよ。綺麗な人は得なの。インチキよ。そんなの。
高校でひどい成績だったユキエさんが、どうしてすぐ社長になれるの?
なにかあるに決ってる。きっと、あやつり人形なんだ。
化の皮をはがしてやる。どうせこっちはいくら走り回ったって採用されないんだ。
いいわ、綺麗な女が、どんなにバカバカしくいい思いしてるか、つきとめてやるって」(P144)


事実の指摘を、断じてブスの怨念といってはならない。
ユキエの部屋を飛び出す理佐である。
ユキエは理佐を探し出す。理佐はユキエにも本音をぶつける。建前ではない本音を。
このときユキエも本当のことを高校の同級生に語り始める。
ブティックの社長なんていうのは大嘘である。
実際は裏に本当の社長がいて自分は雇われているに過ぎない。
ファッション診断というのも嘘で、実のところ衣服をコーディネートしているのは裏方である。
ユキエの役割はミニスカートをはいて時おり足を組みかえながら談笑するだけ。
男性客なんていうのは若い美人から相手にしてもらえたらなんでもいいのである。
けれども、若い女が社長で、なおかつ、
たたきあげとなるとマスメディアから取り上げられる。
最初はTシャツ1枚を売るのがたいへんで。
こんな作り話をすると、よけいに持ち上げられる。えらいねってなる。人気があがる。
本当はこんなものである。自分にはセンスも才能もない。ユキエは理佐に告白する。

つまらないね。本当のことって、どうしてこんなにつまらないんだろう。
パーッとやらない? 男の子呼んでお酒でものんでパーッと発散しない?
ユキエはおずおずとラブレターをくれた気弱そうな青年を思い出し電話する。
こっちは女ふたりだから、そっちも友人呼んで来なさいよ。
デブスの理佐はなかなか部屋から出てこないが、3人から励まされすがたを見せる。
山田太一ドラマである。乱交などするわけがない。
4人は楽しく酒をのみ、陰鬱な夜と味気ない現実を吹き飛ばす。
ユキエはもらす。美人だって楽ではない。

男「そんなこといってないじゃないですか」
ユキエ「いったよう。美人は人柄が悪い。美人は頭がパアだ。
美人は他に才能なんかない」
男「全然いってないよ」
ユキエ「美人もね、あんた、偏見にかこまれてるのよ。
美人というだけで憎まれたり馬鹿だと思われたり冷たいと思われたり、
いろんな目にあってるのよ」(P157)


ユキエは嘘まみれの仕事に嫌気をさし辞職を申し出るものの、
生活のかかっているスタッフから辞めぬよう懇願される。さあ、どうしたらいいのだろう。
ここで先ほどの平出善彦が妙案を思いつく。
実際にユキエにファッションを決めさせたらどうかというのである。
いままでずっと裏方の仕事を見てきたのだからセンスも磨かれているのではないか。
試してみたら果たしてそうである。
裏方のスタッフはこれから仕入れに専念することになる。
ユキエは嘘を演じているうちにいつしか本物のセンスを身につけていたのである。
デブスの理佐は、善彦の妻からファッションモデルにならないかと誘われる。
いままでの女性美の基準は均一化し過ぎているとの理由である。
太っている女性の美しさをアピールしてもいいではないか。
ユキエと理佐、どちらもハッピーエンドである。
最後に対照的なふたりの女性の会話からひとつ引用したい。

ユキエ「それにしてもさ、男って、どうして綺麗な若い女に寄ってくるのよ?
洋服の相談なら、誰だっていいじゃないの。
どうして、若い女じゃなきゃ商売にならないの?
まったく、どっちを向いても若い女。
銀行のポスターも製鉄所の宣伝もラーメンの宣伝からお墓のコマーシャルまで若い女
――なんなのよ? これ(と目を閉じる)」
理佐「ほんと――ぜーんぶ、若くて綺麗な女ばっかり(とユキエを見下ろしてポツリという)」(P161)


風宮ユキエ――麻生祐未。桐原理佐――中島唱子。
「なつかしい春が来た」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和63年放送作品。正月ドラマ。豪華キャスト。4時間。
テレビドラマを製作するのは、ほんとうに空しい、ほとんど自虐的な行為なのかもしれない。
テレビというのはたしかにタダだから多くの人間に見てもらうことができる。
だが、映画のように残らない。いまは少し事情が変わったようだが、
ほんの20年前のテレビドラマでさえもうどこにも残っていない。忘れ去られている。
あのころはインターネットもなかったから、だれも記録を残していないのだ。
「なつかしい春が来た」で検索しても、まったくヒットしないのには唖然とした。
これほど笑えて泣ける良質なドラマが、である。
山田太一はあふれる才能の大半を消えてゆくものへつぎこんだ。

いや、前言をひるがえすようだが、山田ドラマは消えていないはずである。
形のうえでは作品は残っていない。しかし、多くの人びとの記憶に焼きついているはずだ。
あのときあのドラマを見た。なにかしらを、もらった。
おかげでどれだけ生きるのが楽になったか。生きかたが変わったか。
ネットで検索していると、一見すると
どこにでもある取るに足らない日記ブログで山田ドラマの記憶が熱く語られている。
たとえタイトルは忘れてしまっても、人間は感動を忘れない。
たかがテレビ、されどテレビなのである。

おばあちゃんがぼけてしまった。
死んだおじいちゃんの声が聞こえるという。すがたが見えるという。
おとなはみんなまともに取り合わない。
ただひとり中学生の孫娘だけが祖母の声に耳を傾ける。

孫娘「いい? おじいちゃんは3年前に死んだのよ。逢いたい気持は分るけど、
出て来るはずがないの。分るでしょう?」
祖母「一度――」
孫娘「一度?」
祖母「ああ」
孫娘「一度なに?」
祖母「一度でいいからね」
孫娘「うん?」
祖母「だまされたと思って、心の底から、おじいちゃんに逢いたいって、
思ってくれないかな」
孫娘「思ってるわ。そりゃ、おじいちゃんには逢いたいわ。
でも、出来るわけないでしょう」(P57)


この孫娘は国民的美少女の後藤久美子なので顔のかわいらしいのはもちろんだが、
さらにキュートなのはその晩にひとり自室で試してみるところである。

孫娘「(窓をあけ、空を見る)」
月。
孫娘「(小さく)おばあちゃん、やってみるわ。怖いけど、やってみる。
(部屋の方へ振り向き、深呼吸をし)おじいちゃん(目を閉じ)逢いたいわ。
おじいちゃんに、心から逢いたいわ。お洒落で(微笑が浮び)やさしくて、
可笑(おか)しいおじいちゃんに、ほんとに逢いたいわ。
(と目を閉じたまま間があって、目をあける。ポカンとする)」
祖父「(ドアの前に立っている。微笑している)」
孫娘「(驚きの余り口をあけ、それから悲鳴をあげそうになる)」
祖父「いかん。シーッ。消える。今日は消えるから。シーッ(と消えてしまう)」
孫娘「――(口をあけて、震えている)」(P59)


なみだがこみあげるのね。いいじゃないと思う。こういうのいいじゃない。
言うまでもなく、現実にこんなことがあるわけがない。
だけど、あったっていいじゃない。せめてテレビくらい、そういうの見たいじゃない。
現実はなにもないんだから。

幽霊のおじいちゃんには3人の子どもがいる。
長女、長男、次女。うえのふたりは子供ももうけている(ひとりが後藤久美子)。
最初はみんなおじいちゃんの現われることを信じない。
おとなのうち初めておじいちゃんと逢うのは血縁関係のない長男の嫁である。
若いほうが処世の垢がたまっていないのだろう。長女の娘も祖父と逢う。
さらに次女のまえにもこの幽霊は現われる。
長男は嫉妬する。どうして自分のまえには出ないのか。嫌われていたのか。
ついに長男のところにも現われ感激する。
長女のまえにだけは現われないが、これは薬剤師をしているためであろう。
理系であった。非科学的なことは信じられない。
ひとりこの長女をのぞき、みんながみんな幽霊との対話に没頭する。

なにを話すのか。生きている人には話せないことである。相談だ。
人間には死んでしまったものにしか打ち明けられない秘密がある。
めいめい相手がなにをおじいちゃんと話しているのか気になる。
葛藤が生まれる。いろいろな秘密が露見する。
長女の娘の悩みが明らかになる。ハイミスである。婚期を逃した。
とはいえ一流会社の課長である。部下だっている。
悩みは、好きな人ができた。結婚しようか迷っている。
というのも、相手は自分の勤務する会社の下請けの下請けの営業マン。
月給だって自分よりも安い。

「いったでしょ。私ってお体裁屋なの。
誰が見てもいい男で、一流会社か、青年実業家か、お医者さんか、
そういう人と結婚したいって見栄を捨てきれないの」(P102)


母は逢ってみる。とてもいい人である。結婚すればいいじゃないかと思う。
してみると、おじいちゃんの幽霊が現われたおかげで、むしろいろいろ好転したのである。
最後まで幽霊の存在を信じなかった長女のまえにもおじいちゃんは現われる。
批判的なことをさんざん言っていたのに、いざすがたを見ると泣きだす長女である。
このシーンはとてもいい。しかし、これは別れの布石であった。
幽霊はエンマ様かお釈迦様かにある約束をしていたのである。
家族のみんなと逢ったら帰らなければならない。
別れの場面では、消えかかっているおじいちゃんを囲み、
家族みんなで童謡を歌う。「春が来た」である。
センチメンタルなんだろうけれど、こういうのとってもいいと思う。好きだな。いいよな。

本作品のテーマとなるせりふをひとつ引用する。
長女の娘、桜田淳子のせりふである。

「みんな新しいものに倦(あ)きちゃったのよ。たいしたもの出て来ないじゃない。
大体、新しいつもりでなにかを愛そうとすると、
すぐそれは古くなって次の新しいものが出て来るじゃない。
新しいものが、あんまりはかないんだもの。つき合ってると、やりきれなくなるの。
だったら振りかえって、昔の中から自分に合ったものを愛そうっていうわけ。
プレスリーは、もう死んでるから変わらない。
とっくに古くなってるから、今更古くならないわ。
そういうものなら、落ち着いて愛せるわ」(P100)


(追記)あとがきで山本周五郎賞受賞作「異人たちとの夏」は、
「なつかしい春が来た」の副産物であると作者が述べている。
「異人たちとの夏」は小説も映画も残ったが、
テレビドラマ「なつかしい春が来た」は消えてしまった。まるで幽霊のように。
今月いっぱいでストリンドベリと山田太一を終わらせ
次なるステップ(いや堕落か)へ進むつもりだったのだが、計画倒れである。
とてもとても今月で読みきることなどできない。
何が悪かったかと反省すると問題は読書にはないようだ。
書く。こちらがいけない。感想を書くことに時間を取られすぎる。
2時間の山田太一ドラマの感想を書くのに3時間かかってはダメである。
上演時間60分のストリンドベリ芝居の詳細を記すのに2時間……。
感想を「本の山」に書く必要がなければ楽々クリアできたのである。
読書のスピードは人並程度はあると思っている。
けれども、読んでから書くまでが手間取る。
パソコンに向き合って最初の1行がすらすら出てくることなどまれだ。
プロでもないのに恥ずかしいことを告白してしまった。

感想なんて書かなければいいじゃないか、というご意見もあろう。
だが、もし書かないと何も残らないような不安にかられるのである。
おそらく、感想を記さなくなったら、いまの倍は読書できると思う。
もしかしたら3倍くらいまでいってしまうかもしれない。
とはいえ、だから何? と思ってしまう自分がいるのだ。
いくら本を読んだところで、それは他人の言葉である。すぐに離れていってしまう。
読んだという自己満足だけで何も身につかないのではないだろうか。
どうすれば自分のものになるか。読書は泥棒である。
自分の言葉で相手を組み伏せなければならない。
著者を自分の土俵にあげて、えっちらおっちらやりあわなければならない。
歯が立たないこともあろう。逆に、きれいに投げ飛ばせることもあろう。
これを繰り返すしか強くなる道はないと思うのである。
いまブログ「本の山」のやっていることである。

ストリンドベリとは壮絶な死闘を繰り広げているところだが、
現段階で勝ち越しているのではないかという自負がある。
感想を書きながらストリンドベリを自分の言葉で追い詰めている手ごたえがあるのだ。
たぶん原典に当たるより、うちの感想を読んでいるほうが楽しいと思う。
大物と向き合うとたいそう疲弊するが、闘いの後はとてつもなく爽快である。
苦しんだぶんだけ返ってくるものも大きい。
「分け入つても分け入つても本の山」はプロレスや格闘技のようなものである。
読者のみなさまはどう思われるかわからないが(お聞きしたいです)、
わたしは感想をひとつ書くたびに1ミリ程度なら前進しているという満足(錯覚?)がある。
たとえ1ミリでも(いや、もっと短いかもしれない)前進(後退?)したら、
かならずやどこかに到達すると思ってブログを運営している。

来月の11日に歌舞伎を観にいくから、この日までに終わらせたいが、
たぶん無理なような気がする。
というか、あせると読書が苦役になってしまう。
ストリンドベリも山田太一もとびきり好きな作家なのである。
これを読んだらもう死んでもいいと思うくらいに(むろん自殺するつもりは当面ないが)。
本来ならいちばん楽しい行為を苦行にしてしまってはいけない。
期限を1ヶ月のばそうかと思っている。来月いっぱいなら――。
「夕陽をあびて」(山田太一/日本放送出版協会)絶版

→テレビドラマシナリオ。平成元年放送作品。全3回。
テーマは老後の海外移住である。放送当時は最新のトピックだったのだろう。
土屋昭子(八千草薫)は夫の竜作(大滝秀治)の無気力ぶりに呆れ果てている。
とあるきっかけから、海外移住に興味を持つようになる。オーストラリアのパース。
昭子は嫌がる竜作の尻をたたいてパースを見学するツアーに参加する。
参加したのは土屋夫妻と電気技師をしている中年男性の3人。
かれらは、実際パースに移住している老夫婦、ツアーコーディネーターに影響を受ける。
海外で生きることの裏表を教えられ新しい地平が開けたかのような感動をおぼえる。
わずか1週間の滞在であった。
だが帰国後、なかば人生をあきらめていた竜作が前向きになったのが大きな変化である。

変化をセリフで見てみよう。まずは旅行まえ。

昭子「仕事をやめたころのファイトはどうしたのよ。
『平家物語』をちゃんと読むんだ、運動靴履いて東京じゅう歩くんだ、
スケッチもやってみるんだ、展覧会も好きなだけ見にいけるって」
竜作「やったでしょう。全部やったでしょうが。
書もやった、碁もやった、古代インド仏教講座なんてもんにも出た。
盆栽もやった。全部ね。ぜーんぶ、つまんない」(P17)


きっかけは――?

昭子「うんと、ガラッと、ガラガラッと生活変わったらどう?
外国で暮らしはじめたら、どう?
いやおうなしに、英語使わなきゃならないでしょう。
見るもの聞くもの新しくて、やることいっぱいあって、夫婦で力合わせるしかなくて、
運転免許も取らなきゃならないし、前庭の芝生をきれいにしとかなきゃならないし、
こんなふうに、じっとしていられないんじゃない?」(P62)


旅行を経て変身したかつての粗大ゴミ、竜作老人の優等生発言。

「自分の老後を、せまーく、用心深く、どっかあきらめて生きてたなあって、
とっても思いましたよ。(中略)
どっかで、自分の人生は、もうここまで、そうやって見切りをつけたとこあったけど、
そうでもないな、まあ、外国で暮すっていうのは、ともかくとしても、
まだまだ、思ってもいなかったことをやれるかもしれない。
そう思えて、なんか気持、明るいんですよ」(P188)
「タクシーサンバ」(山田太一/「月刊ドラマ」1982年1月号/映人社)品切れ

→テレビドラマシナリオ。昭和57年放送作品。70分の全3回。
テレビドラマと説教はいったいどういう関係なのだろうか。
手始めに、この事実を認めてください。
テレビドラマでは説教が頻出する。これは客観的な事実ではないかと思う。
なにゆえかと考えるに、どうやら視聴者はテレビにおける説教を好んでいるようである。
そうとしか考えられない。
ちなみにわたしが山田太一作品以外のテレビドラマをあまり見ないのは、
説教の存在が関係している。
どうしてそこいらの三流シナリオライターに説教されなければならないのかわからない。
だが、こうとらえる視聴者はめずらしいのである。
たいがいの視聴者はシナリオ作家のことなど考えない。
まるで説教を、それを口にする有名俳優の思想であるかのように思うものらしい。
おかしなもので俳優のほうにもセリフを自分の哲学であるかのように錯覚する馬鹿がいる。
武田鉄矢なんぞはその典型であろう。
本人は役になりきっているつもりだろうが、
実際は無個性な人間が役に食われたに過ぎない。

山田太一が初めて書いた本格説教ドラマは、
昭和51年の「男たちの旅路 第一部」である。
鶴田浩二の扮する戦中派ガードマンが若者に説教を垂れ流す。
わたしはこの作品をそれほどすごいとは思わないが(少なくとも第一部は)、
どうしてか視聴者に爆発的に支持されてしまった。
おそらく山田太一自身もこのドラマがああも受けるとは思っていなかったのではないか。
のちにシリーズ化されたのは、もっぱら視聴者の要請ゆえらしい。
山田太一の天才はきっと危うい真実に気がついたことだろう。
もしかしたら視聴者は良質なドラマなどあまり求めていないのかもしれない。
視聴者の大半はインテリとは縁のない大衆である。
かれらはその弱さゆえ生きかたが定まらない。
有名俳優にびしっと説教されると大衆は喜ぶのである。
飼い犬がしつけられるとしっぽを振るようなもの。
「男たちの旅路」のヒットで、山田太一は大衆の愚昧をどこかしら感じたのではないか。
プロの作家は求められるものを書かねばならない。
以降、山田太一はドラマに説教を組み入れることを是とする。
むろん、いかにもこの作家らしい反抗も忘れない。
鶴田浩二が役に食われ私生活でも説教を始めたのを知ると、
脚本家は「男たちの旅路」の続編でかの役をダメ男に変じさせる。
「シャツの店」でも道化役を鶴田浩二に依頼する徹底ぶりも山田太一ならではである。

ようやく「タクシーサンバ」に話をうつす。
「男たちの旅路」とおなじNHKで放送された本作品は正統派説教ドラマである。
シナリオで読むと「勘弁してよ」と苦笑したくなるほどの、
まさしく正論というほかない説教がたびたび登場する。
だが、シナリオでこのドラマを判断してはならないのだろう。
説教について、だれでも知っていることを改めて記す。
説教というものは、内容が重要なのではない。
ほとんどの説教は手垢のついたものなのだから。
どう語られるかというのもあまり関係ない。
なぜなら説教はがいして退屈だからである。唯一の例外をのぞいて――。
これがもっとも肝心なことだが、説教はだれが言うかなのである。
おなじ説教でも、だれの発言かでまったく印象が変わってしまう。
赤提灯でしょぼくれた会社員が説教してもだれも本気で聞きやしない。
有名俳優が演技たっぷり思わせぶりに説教するから効くのである。
有名でもなんでもない無知蒙昧だが自尊心だけは人並にある視聴者は、
著名な俳優がしもじもの我われに扮して庶民論理をとうとうと述べるすがたに陶酔する。

したがって、ここに説教を引用することはあまり意味をなさない。
映像で見てこそ価値があるのである。
とはいえ、山田節は絶好調で引用の誘惑を逃れがたいのもまた事実。
元エリート商社マンの緒方拳はタクシー運転手に身をやつす。
仕事上のトラブルと離婚がダブルパンチになった。
カネカネカネの生活はもういやだ。ひとりでもやれる仕事としてタクシーを選んだ。
仕事を通して緒方拳は、
商社マン時代なら知りえなかったような庶民の懸命な生きかたを知る。
自分がいままで人間を知らなかったことに思い至るのである。
エリートは人間のクズ。最底辺の庶民は正しくて温かい。
山本周五郎的とも言いうる世界観を脚本家はこのドラマで選択した。
それだけ職場の取材で受けた印象が強かったのであろう。
虚業を営む山田太一の実業者へのおそれを見たと書いたら意地悪すぎる。

まずは愛川欽也のせりふを第一話から。説教というより愚痴かもしれない。
けれども、しっかり視聴者への説教になっている。
こうまでストレートな説教を出す気恥ずかしさからか、
山田太一は愛川欽也を酔っているという設定にしている。
都の清掃局に勤務する愛川欽也――。

「毎日都民のゴミを集めてます。それは、やたら自慢することでもないけど、
別にかくすような事だとは思っていない。(……)
しかしだ。息子が勉強が出来てね、嬶ァ(かかあ)の奴が、
一生懸命やれ、しっかりやれっていってる。
あんたはお父さんより偉くなれって言ってる。
そういう時よ、父親の俺怒れる?
冗談じゃねえ、俺ぐれェになりゃあ上等だ、なんていえる? いえないよ。
そりゃあね、そうだ、頑張れ、俺みたいになるなっていうよ。(……)
しかしね、ほんとの気持、俺は自分の何処が悪い? と思ってる。
え? だってよ、人間のね、運命ってのはねえ。
その人間の責任ばっかりじゃないよ。
病気したり、運が悪かったり、余儀なく色んな目にあっていくんだよ。
問題はね、どこにいたってね、どれだけちゃんと仕事してるか、
責任果してるかって事じゃないの?(……)
俺は、ちゃんとやってるよ。ちゃんと責任果してる。
親父みたいになりたくねえなんて、そんな事いわれるいわれは、まったくない。
(……) チャランポランな政治家とよ、真面目なおれたちとよ、
どっちが上かっていやあ、そりゃあ商売としちゃあ向うのが上かもしれねえけど、
人格ってことになりゃあ、俺のが上って事だってないとはいえないんじゃないの。
(……) 俺はね、キチーンと真面目につとめてる。
仕事で手抜きなんざしたことないよ。(……)
それでもしょうがねえっていう。(……)
誰がって、かみさんとか、子供とか、みんなそう思ってる。勉強しろっていう。
お父さんみたいになるなあ、新聞記者とかよ、商社マンとかよ、
そういうのになれエッっていう。銀行つとめろっとかいう。
しかし、そりゃおかしいんじゃない? そういうとこつとめりゃあ、えらいの?
そうじゃないだろう。問題は、そこで、どうちゃんとやってるか、
ちゃんとずるくなく、卑怯じゃなく、汚なくなく生きてるかってことでしょうが?
(……) しかしね、そんな事は、誰もいわないよ。
なんか世間体のいい仕事につけエっていう。この為に勉強しろオっていう。
仕事はなんでもいいから、ずるい人間になるな、とか、そういう事はいわない。
人格をみがけなんていわない。たーだ、勉強しろオっていう。
そんな事でいいのかね? いいのかね?」(P90)


おつぎはタクシー運転手の緒方拳の説教を第三話から。
説教する相手は、犯罪者に間違われたことで人間不信になってしまった青年。
緒方拳は商社マン時代の話から始める。
会社の方針にさからったら干された。すると、だれも味方になんかなってくれない。

「いい時には、それぞれ、癖はあっても、気のいい戦友だと思っていた連中が、
情けないほどみんなよそよそしくて、ひどいもんだ。
私生活でもダメージがあってね。タクシーならひとりでいられると思って逃げこんだ。
しかし、そんな自分が、情けないとも思っていた。
無理矢理他人の事に首をつっこもうとしたりもした。
そこへ君の話を聞いた。人と逢いたくない。人を信用出来ない。
他人事にまきこまれたくない。
自分の、あまり見たくない部分を見るような気がしたよ。
君を殴ったが、半分は自分を殴ったようなものだ。
たしかに、自分以外の人間はどこか分らない。
分っているつもりの人間も、突然思いがけない面を見せたりする。
不気味だ。たしかに、他人は不気味だ。
しかし、一人きりでいる、というのも――やりきれないじゃないか。
不気味でも、何処かで誰かとは、多少ましなつき合いが出来るんじゃないか、
と思って行くしかないんじゃないか?」(P141)
「最後の航海」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和58年放送作品。単発ドラマ。
青函トンネルが開通し、いまや青函連絡船は斜陽である。
おりしも、ある一等航海士が人生の夕暮れを迎えていた。定年退職するのだ。
小林桂樹演ずる本庄幹雄の「最後の航海」がしっとりと描かれる。
幹雄は同僚の開いてくれる送別会に乗り気ではない。
妻の文子(八千草薫)は、
幹雄がわざわざ「最後の航海」を通知する招待状を送っていることを知る。
どうしてこんなことをしたのか妻に問いつめられ、幹雄は白状する。

「俺だってな、四十年勤めてりゃあ、身投げも六人や七人は助けてる。
心から、ありがとうっていわれたこともあるんだ。(……)
通り一遍の送別会で一丁上りなんてのは、やりきれねえ。(……)
バカみてェに思うか知れねえが、最後の航海で、心からさ、
俺のことを、なにものかだと思ってる人にだ、来て貰ってだ。
あん時はああだったなあ、いまは幸せそうだなあって、そんなことを、
ちっとでもしゃべり合えたら、俺の四十年も多少は意味があったと思えるべ。
俺がいてよかった、俺が船で働いていてよかったと思ってくれる人にさ、
二人でも三人でも来て貰えたらって思ったんだ」

幹雄「それはな、それは、誰も来ないかもしれない」
文子「うん――(そうしたら、どうするの、と心配でうなずく)」
幹雄「俺だって、そんな甘かあない。だから、この事は、誰にもいうな」(P90)


生活するというのは、ありきたりな日常に耐えることである。
昨日とおなじ今日を生き、今日とおなじ明日を待つこと。
劇的なことなど起こってもらったら困る。平和がいちばんと思わなくてはならない。
けれども、こんな生活者にもありきたりではない日が訪れる。「最後の航海」だ。
この日くらいなんかあってもいいではないか。
ささやかであれ劇のようなものが自分の人生に生じてもおかしくはないはずだ。
生活者の願望はいじましくも切実である。

さて「最後の航海」にだれか参上するのか。
視聴者は先が知りたくてうずうずする。これこそドラマの王道である。
当日、老体をおしてかつての上司が来てくれた。
同僚の粋な取り計らいで妻の文子が乗船する。
男の仕事場に家族は入れぬという方針から、妻が夫の船に乗るのはこれが初めてである。
それから連絡船あてに電報がいくつか届いた。
こんなものである。招待に応じてくれたのはひとりきり。
だが、これでよしとしなければならない。悪くない「最後の航海」ではないか。

船は函館から青森へ向かう。青森港でのことである。
知った顔がひとり乗船する。うらぶれた水商売風の女。落合宮子である(賠償美津子)。
幹雄はむかし一度だけこの女と浮気をしたことがある。呑み屋の女だった。
向こうが本気になったと思った幹雄はすぐに女から去っていった。
自分はこの女を傷つけたのかもしれない。
平凡な人生のなかで唯一のボヤであった。
宮子には今日が「最後の航海」だとは知らせていない。
どこでこの「最後の航海」を知ったのだろうか。
妻もおなじ船に乗っているからばれてはいけない。あわてる幹雄である。
航海中は妻の相手をしながらも幹雄は宮子が気になって仕方がない。
身投げがおきる! てっきり宮子だと思った幹雄は狼狽する。
だが、身投げしたのは若い男だった。ぶじ救い上げられた。
宮子のすがたを発見した幹雄はかけよる。
話しかけたはいいが、宮子はまったく幹雄を覚えていなかったのである。

幹雄「忘れるなんて、忘れるなんて俺には――信じられない」
宮子「フフ、あの頃はね、毎日男を相手にしてたからね」
幹雄「――」
宮子「いちいち、情けないけど、憶えていないの」(P117)


愕然とする幹雄である。船は函館に戻る。娘や近所の人が歓迎してくれる。
妻と送別会に向かう幹雄である。こうして「最後の航海」は終わった。
「ダマスクスへ 第三部」(ストリンドベリイ/茅野蕭々訳/第一書房)絶版

→幕が開き、知られぬ人の仰ぎ見るのは、山上高くにそびえる白き僧院である。
第三部を書くにいたり作者ストリンドベリはようやく救われたとの感慨を持つ。
この三部作を書いたことでストリンドベリは地獄期を脱することができたという。
キリスト教への信仰に回帰したのである。
絶命する直前、病床のストリンドベリは聖書を胸に抱いて述べたという。
すべてここに書いてあると。
「ダマスクスへ」はストリンドベリが信仰を取り戻すために経なければならぬ旅であった。
第三部は、山頂の僧院での出家を目指す知られぬ人の道行きが描かれる。
またもや夫人がつきまとうのも全編共通したところである。
夫人は第二部で出産した赤子が死んだことを知られぬ人に伝える。
これもストリンドベリの実体験である。
知られぬ人は前妻とのあいだにもうけた娘と再会して旅立ちの決意を固める。
終盤、僧院に達した知られぬ人は、かの地で聖なる秘儀に参加する。
第三部のあらすじを簡単に紹介した。

男女間のあらゆる関係を闘争と見たのがストリンドベリである。
では、なにゆえ男女は争そわねばならぬのか。
ある事件の裁判がきっかけで男女問題の根本原因が突きとめられる。

僧院のある山中で知られぬ人は「誘惑者」と出逢う。
これから裁判があると誘惑者は言う。
同行を求められ知られぬ人は裁判を傍聴する。
ある若い男が殺人の罪に問われている。新婚の妻を殺したというのである。
厳罰を言い立てる聴衆に犯人は弁明する。
自分は3年ものあいだ妻となる恋人のために尽くしてきた。
ところが、妻には自分のほかに3人の男と密通していたのである。
殺人者は、自分は愛を守るために女を殺したのだと言い訳する。
なるほどそれなら男は悪くないと裁き手たる聴衆は犯人を許す。
ここで登場するのが殺された娘の父親である。
父親は娘の弁護をする。
うちの娘がああもヤリマン(淫乱)になってしまったのは、ある男に誘惑されたのが原因だ。
聴衆はその男の名を父親に問う。罪のある男はこの場にいると父親は告げる。
知られぬ人の横に立つ誘惑者こそ娘を悪徳の道へ誘い込んだ張本人であった。
集会者は誘惑者を吊るし上げようとする。
だが、誘惑者にも言い分はあるのである。
自分は長いこと潔癖であった。決して堕落せぬよう注意して生活していた。
それがある女に誘惑されてついに肉欲のよこしまな世界に沈んだ。
悪いのはあのときの女である。すると参会者のなかから名指しされた女が現われる。
「罪また罪」で際限がない。

官吏「諸君、私は議論を中止しなくてはなりません。
それでないと我々は極楽のイヴまで遡ることになる……」
誘惑者「あのアダムの青春を誘惑した女ですね。
丁度其処まで我々は行かうと思つたのです。
イヴ、出ておいでイヴ。(外套を空中にふり廻す)」
(樹の幹が透明になり、髪に蔽われ、腰に帯をしたイヴが現はれる)
誘惑者「さあ、イヴ、お母さん。あなたは我々の父を誘惑しましたね。
被告人。あなたは何か弁護することがありますか」
イヴ「(簡単に威厳をもつて)蛇が私を誘惑したのです」
誘惑者「よく答へた。イヴの言訳は立つた。出ろ蛇、蛇」
イヴ「(消える)」
誘惑者「出て来い。蛇」
(蛇が樹の幹の中に現はれる)
誘惑者「諸君我々凡ての誘惑者が此処にゐます。さて、誰がお前を誘惑したんだ」
凡ての人々「(驚いて)静(しい)つ。神聖を涜す奴め」
誘惑者「蛇、答へをせい」
(電光と共に雷鳴。倒れた誘惑者と、巡礼と、知られぬ人と、夫人との他はみな逃げる)
誘惑者「(寝ながら、しかし元気を回復しながら、
古代彫刻の「砥師」又は「奴隷」に等しいやうな位置になる) Causa finalis
即ち最後の原因は――さう、それは解らないんだ。
……しかし若し蛇に罪があるなら、我々は比較的に罪が無いのだ。
――だがそれは人間には云つてはならないのだ。
……兎に角、被告は此の事件からは免れたやうに見える。
さうして法廷は煙のやうに消えてしまつた。さうださうだ。
審判(さば)いてはいけない、審判いてはいけない、裁判官」(P413)


言わずもがなだが、聖書の創世記までさかのぼっているわけである。
なにゆえ男女は争そわなければならないのか。
イヴがアダムを誘惑したからである。
ところが、イヴをそそのかしたのは蛇である。
さあ、この蛇を登場せしめたのは何者か。もしや全知全能のあのおかたが――。
ここで思考を停止するのである。ここから先は進んではならぬ。
文豪ストリンドベリが到達した愛欲地獄の源泉である。
男女間の闘争をも偉大なる神は嘉(よみ)してくださるとしたらば――。
苦悩する天才、絶望する狂人、ストリンドベリに与えられた救済である。

第三部で「ダマスクスへ」はいよいよ完結する。
ストリンドベリの苦悶する魂もいっときの安息を得たのである。
さあ、壮大なる問いへ向き合おう。男にとって女とはいかなる存在か。

知られぬ人「考へてみよう。女を憎むといふのか。――憎むのか。
……それは私はしたことが全くない。逆だ。
八歳の時から私はいつも一つの熱狂を、一番喜んで無邪気な熱狂を持つてゐた。
さうして火を吐く山のやうに三度恋をした……。
しかしお待ち、私がいつも感じたのは、女が私を憎むといふことを……
それから私をいつも苦しめたといふことだ」(P387)

誘惑者「(現はれる)何を夢想したんだい。話し給へ」
知られぬ人「私の最も好ましい希望であり、
私のぼんやり持つてゐる憧憬であり、又私の最後の祈祷でもある……
女性によつての人類との和解です……」
誘惑者「君に憎むことを教へた女性と……」
知られぬ人「それは丁度私を此の地球に結び附けてゐるからです。
奴隷が逃げられないやうに足に引張つて歩いてゐる円い球のやうに……」
誘惑者「ははあ、女性、いつも女性だ」
知られぬ人「さうです、女性です。始で終だ。――少なくとも我々男子にとつては」(P418)

知られぬ人「私はお前を見ることの出来るために
或る距離を保つてゐなくてはならないんだ。
今お前は焦点の内側にゐる。それでお前の姿が不明瞭なんだ」
夫人「近づく程遠いのですね」
知られぬ人「お前はそれを云ふんだね。
……しかし我々が離れると、お互に憧れあふ。
さうして再び逢ふと離れることを望むのだ」(P430)
「ダマスクスへ 第二部」(ストリンドベリイ/茅野蕭々訳/第一書房)絶版

→相も変わらぬ夢うつつのなか、知られぬ人は夫人と苦しめあう。
知られぬ人は実験室で錬金術の研究に没頭する。
金の製造に成功したと思い祝賀会に参加するものの、
実のところ詐欺に遭っていただけのことであった。
祝賀会の開催費用を払えない知られぬ人は牢屋に収監される。
出獄して夫人の実家へおもむくと夫人は赤子を出産している。
この子が本当に自分の子か疑心暗鬼にかられる知られぬ人である。
夫人も復讐のために子の父親についてあやふやなことを告げる。
狂気におちいった知られぬ人は酒場で呑んだくれる。
まったく出口(救い)らしきもののない、暗くよどんだ迷路のような芝居である。

いままでどうしてストリンドベリほどの近代的知識人が、
あろうことか錬金術のとりこになったのか理解できなかった。
本作品を読んで、ようやく理由がわかった。
ストリンドベリにとって錬金術とは、すべての価値の破壊を意味した。
かなりの分量だがとてもおもしろいので引用したい。

知られぬ人「私が何者だといふのかい。
私は未だ誰もしなかつたことをした人間だ。
黄金の小牛を倒し、商人の帳簿を覆す人間だ。
私は地上の運命を坩堝(るつぼ)の中に入れてゐる。
さうして一週間で金持の中の一番金持が貧乏になるんだ。
間違つた価値の標準となつてゐる黄金は支配力を中止して、
総べての者が等しく貧乏になるんだ。
さうして人間は塊になつてゐるところを擦られた蟻のやうにあるくんだ」
夫人「それが私たちに何の役に立つたでせう」
知られぬ人「あなたは私が自分たちや他人を金持にする為に
黄金を作ると思つてゐるのか。さうぢや無い。
全体の世界の秩序を力の無いものにし、破壊するためなんだ。
ねえ、私は破壊者だ、分解者だ、世界を焼く人間だ。
さうして若し総べての物が灰燼(かいじん)になつてしまつたら、
破片の間を歩いて、これは私がしたんだ、
最終だと云へる世界歴史に私が最後のペエジを書いたのだと考へて喜ぶだらう」(P284)


キチガイというほかないが、なんという破壊思想であろう!
万物の頂点に位置するのは金である。
紙幣貨幣は金本位に裏づけられた虚構に過ぎぬ。
ならば、もし錬金術に成功したら世界は崩壊する!

崩れ落ちよ、世界よ潰えてしまえ!

荒廃した精神のただなかでストリンドベリは世界の破滅を熱望していたのである。
これがかの天才(狂人)にとって錬金術の意味することなのだ。

安酒場で泥酔した知られぬ人はおのれが「夜の労働者」に囲まれていることを知る。

知られぬ人「……之はみんな死んだ人達なのか。
町の下水の泥溝から上つて来たやうに、
又は地方監獄や、養育院や、病院から出て来たやうに見える。
夜の労働者だ。
悩み、喘(あえ)ぎ、呪ひ、争ひながら彼等は互に苦しめ合ひ、卑しめ合ひ、妬む」(P323)


ストリンドベリ・ワールドである。以下、同様。

乞食「永遠なる御力よ。この男(=知られぬ人)の理性をお救ひ下さい。
此の男は総べての悪を真実と思ひ、総べての善を虚言だと思つてゐます」(P330)


知られぬ人「何故我々は逢はなければならなかつたのか」
夫人「お互を苦しめる為にね」(P342)
「ダマスクスへ 第一部」(ストリンドベリイ/茅野蕭々訳/第一書房)絶版

→「ダマスクスへ」はのべ3年の時を経て完成したストリンドベリ晩年の戯曲大作。
三部からなる長編戯曲はゲーテの「ファウスト」と比較されることもある。
表現主義戯曲、象徴主義戯曲のさきがけとなった作品でもある。
どういうことか平易に説明すると、リアリズムではないということに尽きる。
我われの生活シーンとは異なる芝居である。
すなわち、時間・空間・背景が非リアリズムである。
実際には起こりえぬ現象が舞台で繰り広げられる。
「ダマスクスへ」はストリンドベリの地獄期を描いたものとされる。
精神分裂病が悪化して強制入院までさせられた晩年の数年を、
作者は地獄期と命名している。
通常の精神病患者の場合、狂気の世界へ行ってしまうと戻ってこれない。
運よくこちらがわに帰ってきても、目撃した狂熱世界を記憶していないのが大概である。
だが、天才ストリンドベリはおのれの目に映ったまがまがしき狂的世界を、
劇作として昇華することに成功した。「ダマスクスへ」である。

精神分裂病が、現実への夢の侵食であることがよくわかる。
第一部が開幕すると、ストリンドベリを思わせる「知られぬ人」が広場にたたずんでいる。
かれは何もかもがわからない。
なぜ私が存在しているのか。なぜここに立っているのか。どこへ行けばいいか。
何をなすべきかもわからない。まるで夢の世界である。
知られぬ人のまえに夫人が現われる。
この夫人を追いかける。逆に追いかけられる。
出逢うが一緒にいると耐えられず別れる。ところが、別れるとお互い狂おしいほど恋しい。
「ダマスクスへ」の長大な物語を要約すれば、この繰り返しである。

夫人はストリンドベリがいままで出逢い別れてきた女性の混合体として描かれる。
夢は現実の影響を受けるが、決して現実そのものではないのと同様である。
夫人は医師と結婚している。知られぬ人は医師から夫人を奪うのである。
ストリンドベリの最初の結婚相手が男爵夫人だったことと共通している。
ストリンドベリにとっての男爵が、知られぬ人に対する医師の関係である。
知られぬ人は医師への罪悪感に苦しむ。
この医師は乞食、贖罪師と何度もすがたを変え登場する。
ストリンドベリにとって普遍的な敵の象徴といえよう。
突如、少年時代の忌まわしき記憶がよみがえる。
知られぬ人は窃盗の罪を友人になすりつけたことがあった。
おなじ苦しみである。他人のものを盗む。人間はおなじあやまちを幾度も繰り返す。
知られぬ人は夫人と逃避行におもむく。夫人の実家をめざすのである。
実家の父母はどちらも知られぬ人を嫌悪する。
みなが自分を嫌うのは自身が呪われた存在だからだと男は思う。
かれがひとり山道を歩いているとき事故に遭う。
気づいたら救護院のベッドのうえである。3ヶ月もここに入っていたと知らされる。
これはストリンドベリの精神病院体験と相応すると思われる。
知られぬ人は夫人を探す旅に出る。おりしも夫人も知られぬ人を探す旅の途次にいた。
第一部の終わりでふたりは再会するが何も解決することはない。

「ダマスクスへ」の救われない陰鬱さをいくつか紹介したい。
まるで悪夢のようである。そのうえ夢固有の神秘めいたところもある。
我われは夢のなかで人生のからくりをかいま見ることがまれにある。

知られぬ人「何かして貰ひ度いことがあるのかい」
夫人「ええ、一つ。あなた私を殺して下さい」(P152)

知られぬ人「――判決は下された。
しかしそれは私が生れない前に下されてゐたに相違ない。
何故かといふと、私は子供の時にもう罰をうけ始めたのだから……
私の生涯には喜んで顧ることの出来るやうな点は一つもない」(P158)

知られぬ人「今こそ手袋が投げられたのだ(=決闘の合図)。
さああなたは偉大な者同士の接戦を見るだらう。
(上着と胴着をあけ、驚異的な目を上に投げる) さあ、来い。
やるなら、お前の電(いかずち)でおれを打殺してみろ。
出来るなら、お前の嵐でおれを驚かしてみろ」(P162)

(夫人の)母「あなたは未だ疑つてゐるのですか」
知られぬ人「さうです。種々の事を。また沢山の事を。
しかし茫乎(ぼんやり)と解りかかつて来てゐることが一つあります……」
母「と仰しやると?」
知られぬ人「私がこれまで信じなかつた種々の物や……力があるといふことです」
母「あなたの数奇な運命を操つてゐるものは、
あなたでも他人でも無いことにお気がつきましたか」
知られぬ人「丁度そのことが認められるやうに思ふのです」(P207)


第一部の終わりで知られぬ人は医師に再会しなければならぬと思う。
おのれが妻を奪ったあの医師にである。

知られぬ人「私はある――病院に病んで臥てゐました。
熱があつたんです……しかしそれは非常に変な熱でした」
医師「何がそんなに特殊だつたのです」
知られぬ人「かういふ質問をしてもいいでせうかね。
人は覚めていながら、それで妄想に耽ることが出来ますかつて」
医師「あります、気が狂つた時には。ですがその場合に限りますな」(P238)
「最初の警告」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→一幕劇。婦人にとってストリンドベリから愛されるのはたいへんなことなのである。
ストリンドベリは女性嫌悪で知られているが、同時に女性崇拝も持ちあわせている。
二種の女性観はこの男にとってコインの裏表なのだ。
ストリンドベリは女性の美を絶対化して崇拝する。
だが、むろんのこと女性とはいえ人間である。絶対美にはなりえぬ。
ストリンドベリは不満である。がために女性を苛烈に攻撃する。
ひどい嫉妬妄想の持ち主であったといわれている。
妻が絶対的に美しいとする。ならば、ほかの男が放っておくわけがない。
天才の脳内で美は嫉妬に変換される。
こうして妻を独占しなければ気が済まなくなる。
妻がちょっと下男と話しただけで色目を使ったと思い込む(責める)。
女友達のひとりでもいようものなら同性愛を疑う始末である。
ストリンドベリと結婚するには、他の人間関係をすべて断ち切らなくてはいけない。
妻にしてみれば、たしかに愛されているのである。激烈な愛だ。
だが、この作家の愛に応えられる生身の女性はいないだろう。
ストリンドベリの結婚が毎回、数年で破綻するのはこのためである。

「最初の警告」は作者自身の夫婦生活をモデルにした劇作である。
嫉妬深い夫は妻にこんなことを言う。

主人「お前がさつさと年を取つて、見つともなくなつて、あばたが出来て、
歯がなくなつてしまへばいいと思つたこともどの位あるか知れやしない。
それと言ふのも、ただお前と言ふ者をわたし一人でかかへ込んで、
このいつ迄も止むことのない不安な心持をなくしてしまひたいばかりなのだ」(P609)


ストリンドベリはこの男の妻にこんなことを言わせる。

細君「わたしつい、あなたを憎んだことなんぞありませんわ。
ただ軽蔑するだけよ。なぜでせうね。
多分すべて男の人の方から――さあ、なんと言ふのでせうね――
まあ惚れて来るのだわね、さうするとすぐに軽蔑してやりたくなるわ」(P611)


コケットな女である。わざと男の嫉妬をかりたてるようなことを言う女がいる。
ストリンドベリが好んだのはこのたぐいの女だったのだろう。
いや、概して男はこういう女にまいってしまうものである。
なぜなら嫉妬は苦しいのはもちろんだが、あの燃え立つ感触はまた快くもあるからである。
旦那を亡くした宿の女主人に、ストリンドベリを思わせる主人公は語りかける。

主人「失礼ですが奥さん、あなたは御主人を失つたよりも、
寧ろ嫉妬の相手を失つたのが惜しいのですね」
男爵夫人「さうかも知れません。わたしの嫉妬は、
わたしをあの幻につなぎとめた目に見えない絆でしたから……」(P623)


訳者の楠山正雄による解題も紹介する。
ストリンドベリに従えば、妻の美が失われゆくのもまた夫の喜びとなりうる。

「『最初の警告』は作者自らが最初の妻との間に経験したそのままを
脚色したのださうである。作者の妻が初めて前歯を失つて、
わづかに老の至つたのを感じたといふ事実によつて作つたので、
作の題ももと『最初の歯』と呼ばれたのを、
後に本にする時今のやうに改めたのだといふ」(P7)
「きづな」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→一幕悲劇。裁判ものである。あらそうのは男爵と夫人。
いわゆる離婚訴訟である。問題になっているのは子どもの親権。
裁判のまえに男爵夫妻は話し合い協定を結ぶ。
最悪の事態だけは防ごうとの考えで両者一致するのである。
最悪の事態とは、子どもを陪審員のもとで育てる、という判決だ。
こうなったら子どもの成育環境は最悪である。
最低でもどちらかに親権が残るようにしようと夫婦協定を締結する。
ところが、いざ裁判が始まると、双方憎悪が積み重なるばかりで、
壮絶な暴露合戦が展開される。

夫人は男爵の浮気を告発する。
あたまに来た男爵は、最初に浮気をしたのは夫人だと言い放つ。
これは夫婦間のタブーになっていたらしく夫人は顔色を変える。
しかし、夫人はほくそ笑む。証拠の恋文は夫婦同意のもとで焼いてしまった。
夫人は自分は密通などしたことがないと言い張る。
裁判官に問われ神にかけての宣誓までする。ふふふ、証拠がないのだから!
これで夫人は優位に立つかと思いきや、ところがところが。
男爵は不倫の証拠の恋文を取り出す。こっそり写しを取っていたのである。
神かけての宣誓まで虚偽であったと夫人はばらされたのである。
結局、判決は夫婦がもっとも望まぬものとなる。
子どもは夫婦から取り上げられ、品性下劣な陪審員の家で育てられることが決められる。
この訴訟はなんだったのか。めいめいの言葉を引きたい。

男爵夫人「ああ、わたし達は何をしたのでせう。
腹立ちまぎれに何をやつたのでせう。
男爵と男爵夫人が裸になつて、お互に鞭打ちあふのを見たら、
世間の人はさぞ喜ぶだらう。
――おお寒い、まるで裸のままでゐたやうに」(P491)

男爵「いけない、いけない。
――わたしかお前か、どちらか一人滅びなくてはならない。
お前か、わたしか」(P492)

判事「とにかくお互に愛し合つた二人の人間が、
却つて相手を滅さうとしてゐるのは見るも恐しいことですね。
そつくり戦争でも見てゐるやうです」
牧師「これが愛ですよ、判事」
判事「では憎みといふのは」
牧師「憎みは、着物の裏ですね」(P495)


翻訳者の楠山正雄は本書の解説で実に的を射た要約をしている。
これもあわせて紹介したい。

「愛情の結合から離れ、更に法律上の関係から離れても、
夫婦はやはり「子供」といふ「きづな」に依つてつながれてゐる。
夫婦がいかに憎み合つても、憎みのどん底までつき詰めて行くと、
そこに愛の天使が悪鬼のやうな父母に笑ひかける。
けれども人情を超越した裁判の結果、子供は相争ふ二人から取り上げられて、
十二人の陪審員の中の最も愚昧な二人に預けられる。
絶望した男女は法廷の夕闇の中に恐しい空虚を見つめながら、
むだな夫婦の争ひの跡を悲しく回顧する」(P8)
「賤民」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→一幕劇。ふたりの男がいる。X氏は考古学者。
Y氏はアメリカ帰りというほか素性定かならぬ男でX氏宅に寄寓している。
ふたりの男のまえに金塊がある。
X氏が他人名義の土地から無断で掘り出してきたものである。
考古学者は迷う。研究のためにこの金塊を金銭に換えていいものだろうか。
正直に告白してしまったら、大部分を土地所有者に取られてしまうだろう。罪とはなにか。

金をまえにして人間のやることはひとつしかない。
X氏とY氏はお互いを探りあう。X氏はY氏が前科者であることを見抜く。
どうして見抜くことができたのかX氏は語る。
自分にも罪を犯した記憶があるからだという。
青年時代のことである。乗っている馬車が事故を起こした。
転倒したX氏は怒りから御者をぽかりと殴ったら、あろうことか死んでしまった。
しかし、このことは事故ということで片付いた。
死んだ御者には妻子係累ひとりもいなかったのでさほどの罪だとは思っていない。
悪気はなかった。殺すつもりなどつゆほどもなかったのである。
Y氏の罪状は手形の詐欺である。こちらは露見してアメリカで服役した。

Y氏は思うわけである。どうしておなじく罪を犯したものなのにこうも待遇が異なるのか。
いままでびくびくしていたY氏は豹変してX氏を脅迫する。
金を渡せというのである。おまえだけ得をして不公平だというのが理由である。
X氏は脅しに屈せず、逆にY氏をどやしつける。
いますぐ警察官を呼んでやろうか。私は自首をしよう。だが、おまえも捕まるのだぞ。
たしかにアメリカで服役したのだろうが、この地ではまだ裁かれていない。
おまえはもう一度刑務所暮らしをすることになる。
それが嫌ならいますぐここを出て行け!
Y氏も負けていない。手紙を書いてやろうかというのである。匿名の手紙。
X氏の妻に宛ててだ。おまえの旦那はむかし殺人を犯した卑劣漢だ!
これにはまいったX氏だが、なお負けを認めようとしない。
強がるのである。あの殺人のことなら結婚まえに妻に話してある。
手紙など送られても、ちっとも困らない。ついにX氏はY氏を屋敷からつまみだす。

ここで閉幕である。いかにもストリンドベリらしい人間不信の劇である。
ストリンドベリにとって人間関係は闘争以外のなにものでもない。
勝つか負けるかしかないのである。
人間は勝つために相手の弱みをにぎろうとする。
よしんばおのれの弱点を知られたら、
それを帳消しにするほどの傷を相手から見つけださなければならぬ。
劇作「賤民」は、ふたりの罪びとがお互いを賤しめあう、なんともやりきれぬ芝居である。
「なかま同士」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→劇作「なかま同士」は、おなじく自然主義戯曲の「父」と対になっている。
こう指摘するのは訳者の楠山正雄である。
また楠山はストリンドベリの女性観におもしろい表現を与えている。
ストリンドベリは女を吸血鬼だと思っている。
そして、作品に登場する女はみなみな吸血鬼的である。
見事にして的確な評言といえよう。
この見かたは引き継がれ山室静も「痴人の告白」解説で吸血鬼的と用いている。
楠山正雄の解説に戻ろう。
楠山によると、「父」では吸血鬼的な妻が夫を打ち負かす。
すなわち、妻が娘と共謀し夫を狂人に仕立て上げ家庭から追放する。
これに対して「なかま同士」は、夫が吸血鬼的な妻を打ち負かす筋立てである。
たしかにふたつの作品はおなじテーマのもと描かれている。
違うのは結果のみである。夫が勝つか妻が勝つか。男が負けるか女が負けるか。

夫は知られた画家である。妻も最近になって絵を学び始めた。
むろん夫が直々に教えてやることもある。
そればかりではなく夫が金を払って、妻を絵画教室にも行かせている。
いま夫婦はおなじコンクールに出品したところである。
夫の作品は入選確実と言われている。問題は妻である。
ずるがしこい妻は画家の夫に頼み、選者へ根回しをしてもらう。
おりしも妻は夫の絵が落選したことを知り小躍りする。
これで自分の作品が入選すれば夫婦の立場は逆転する。
妻は自作が入選確実という情報を仕入れる。
いままで自分を見下してきた夫にはこっぴどく復讐してやらなければならない。
妻は自宅でパーティーの計画を立てる。同日に落選作は送り返されてくる。
みんなの見ているまえで夫を笑いものにしてやろうというのである。
ところが、いざ落選作をあけてみると、それは妻の描いた絵であった!
夫は妻の出世を願い、出品の番号を取り替えておいたのである。
夫と絶縁して画家として独り立ちする予定だった妻は、
傷心のていで屋敷をあとにする。夫の完全勝利に終わったわけである。

読後、なんとも爽快な気分に包まれる。
こざかしい女郎(めろう)が男性の援助を受けながら男性社会に進出してくる。
そのあげく女は、女性は男性よりも優秀だと主張するのだから。
男に媚び成り上がった女が、恩をあだで返すかのごとく男の頬を張ろうとする。
こういった生意気な女をストリンドベリは劇作で糾弾したのである。

「なかま同士」における夫婦の主張を取り上げてみよう。まずは妻から。

「ええ、昔は、昔の夫婦関係では、さういふもの(=夫は妻を扶養)でしたわ、
けれどもわたし達はさうしたくないのです。
わたしたちは仲間同士でありたいと思ふのですよ」(P126)


対する夫の言い分はこうである。

「……わたし達は決して仲間ではない。
仲間としてお前達が何の頼りにもならぬといふことをわたしは痛感してゐる。
仲間といふ以上、大なり小なり信義のある競争者であるのに、
わたし達は始めつから敵同士なのだ。
わたし達(=男性)が鎬(しのぎ)を削つてゐる最中に、
お前達(=女性)は藪の陰にねころんでゐる。
そしてわたし達が食卓を用意した時分には、
お前達はもとからこの家の人のやうな顔をしてぬくぬくと座り込むのだ」(P145)
「白鳥姫」(ストリンドベリ/山室静訳/学研)絶版

→ストリンドベリはこの童話劇を3番目の妻に婚約の記念として贈呈した。
3人目の被害者は年若き女優である。
つくづく女は馬鹿だと思う。どうしてこの狂人の求婚を受けいれてしまうのだろう。
この時点でストリンドベリ52歳はバツ2(離婚歴2)である。
「痴人の告白」を読めば、この天才がいかなる男かわかるだろうに。
ストリンドベリはこの長編小説で1回目の結婚生活の詳細を暴露している。
内容は一方的な被害妄想。
作者は小説で妻を殴ったことを告白している。
それどころか元妻の性器の形状まで公開しているのだから。
2番目の妻とのいさかいの原因となったのも「痴人の告白」である。
ストリンドベリが読むなと禁じていたこの小説を夫人は読んでしまったのだ。
なぜ若く美しい女優がストリンドベリの3番目の妻になることを決意したか。
女の虚栄心というものであろう。
文名高い大作家が自分ひとりのために作品まで書いて愛を告白してくれた。
いくら地獄が待ち構えていようともこの求愛から逃れられる女はいまい。

「白鳥姫」は童話劇である。愛のすばらしさが描かれている。
白鳥姫は継母(ままはは)に意地悪されている。
実はこの継母は魔女で、あやしげな魔術を用いて白鳥姫を監視している。
父親の公爵は妻の正体を知らない。
公爵が戦地へ向かったのち、白鳥姫の教育係として他国の王子がやって来る。
ふたりは禁じられていた恋をしてしまう。
継母はふたりの仲を裂こうと悪だくみの限りをつくす(かわいそうな白鳥姫!)。
戦禍はこの屋敷に迫る。王子は他国へ戻らなくてはならない。
引き離される白鳥姫と王子である。
継母の魔の手はひとりとなった白鳥姫を抹殺せんとする。
ああ、白鳥姫が姦計にしてやられてしまう。
そのとき父の公爵が帰還して、あらゆる悪だくみが露見する。
おりしも王子の亡骸(なきがら)が運ばれてくる。
国へ戻る途中、嵐に巻き込まれ水死してしまったのである。
いまもうひとり死なんとしているものがいる。
魔女の正体がばれてしまった継母が公爵から罰せられようとしているのだ。
心優しき白鳥姫は父の公爵に継母の助命を懇願する。
かたきの命乞いである。父は娘の願いを聞き入れる。
継母は白鳥姫の愛に打たれ、改心して真人間となる。
しかし、かわいそうなのは白鳥姫である。死んだ王子はなにをしても生き返らない。
継母は白鳥姫に語りかける。

「お前は愛することができて、人を許すこともできます……そうよ、
だから、お前にはどんなこともできるのです、万能の娘よ」(P316)


お前の手をあの人の胸の上にのせるのだ。そうして恋しい人の名前をお呼び。
かならずお前の声はあの人の耳に届くはずだよ。
言われたとおりに白鳥姫は王子の胸に手をおく。
耳元で三度、愛するものの名をささやいたとき――。
もはや決して動かぬと思われたものが息を吐き目を明け白鳥姫を見たのである。
愛は死という断絶すら乗り越えることができる!

だから結婚しないかい?
男根鬼ストリンドベリは女の耳元で甘く愛をささやく。
こうして3度目の愛憎地獄が始まったのである。
現代日本の閉塞感は異常だと思います。
いつ第二、第三の秋葉原事件が起こってもおかしくありません。
むろん、殺人はいけないことです。
しかし、人間は負けがこむと、いつしか復讐を誓うようになります。
この病をどうしたらいいか考えてみたいのです。

人生において、どうしようもなく人間はなにものかによってふるいわけられます。
勝つものと負けるものに、です。
これは近年日本で発見されたものではなく(「勝ち組」「負け組」!)、
世界各地で古代から現代まで変わることなく勝者と敗者は存在しました。
「負け組」のみなさんは自分を特別な人間だと思ってはいけません。
人生に負けた人間は過去にも他国にも信じられぬほど大量に存在するのです。
むしろ、勝利者のほうがめずらしいというのが正しいのかもしれません。

これから処方する負け薬は決してわたしが発明したものではありません。
古来より「負け組」のために与えられてきた慰めをリライトしたものです。
幼稚な思想だとバカにしないで、ぜひぜひまっさらな心でお読みください。
なぜというに、少なくともわたしには効いたからです。
この負け薬をのんだおかげで、わたしは自殺も殺人も思いとどまりました。
もちろん、あなたに効くかはわかりません。それがいちばん重要なことです。
けれども、試してみる価値はあるのではないでしょうか。

あなたは負けました。今後一切の勝利が期待できないとします。
そんなことは人間世界にはないと主張する人もいますが、完全な敗北はあります。
いくら本が好きでも失明してしまったらおしまいなのです。
知的障害を持って生まれたら、大学教授になることは不可能です。
脳卒中を発症して下半身不随になってしまったらセックスはできません。
回復不能のどうしようもない敗北は哀しいかな存在するのです。

負けたときに、その不幸をどう受けとめたらいいのでしょうか。
断じて努力ではありません。
あなたが不幸なのは努力しなかったからではありません。
努力できるのもまた才能なのですから。
そのうえいくら努力しても避けられない不幸はあります。
では、かの人の不幸はなにゆえでありましょうか。
あなたはわたしは、どうして不幸なのでしょう。
こう考えてみたらという提案です。
あなたが不幸なのは前世で悪いことをしたから。
前世であなたは悪をなしたのではありませんか。
だから、いま不幸が生じたと考えてみてはいかがでしょう。
前世のことは取り返しがつきません。
いまさらじたばたしても遅いのです。

なんで幸福な人がいるのか。
不幸なあなたはかならずやこの問いに悩まされたことと思います。
こう考えてみたらどうでしょう。
いま幸福な人間は前世で善をなしたから。
信じられないほど幸福な人間はたしかに存在します。
かれらは報われているのです。
現世のことではありません。前世でよほどの善行をなしたに違いありません。
こう思えば、あなたの不幸も成功者の幸福も一応の説明がつきます。
すべては前世が決めたことなのです。

さて、そうだとしたら、「負け組」はどう生きたらいいのか。
来世を信じることだと思います。
(あなたを不幸にする)前世があるのなら、かならず来世もあります。
あなたはいまがんばって生きているのでしょう。
自殺も殺人もしていません。なんと立派なことではないでしょうか。
(いえ、自殺も殺人もどうしようもなくなったらしても構わないのです。
その不幸ですら前世で決められていたことなのですから)
あなたは立派です。いま生きている。それだけでたいそうな努力だと思います。
かならずや来世で報われます。
来世で間違いなく幸福になれます。人生に勝ちます。

あなたは前世と来世について知りました。
このへんで落ち着いて周囲を見回してみませんか。
あなたは本当に不幸なのでしょうか。
現代日本に生まれてきたというだけでかなりの幸運かもしれません。
インドの低カーストに生まれたら、生涯成り上がりの夢さえいだけないのです。
アフリカの僻地に生まれたら、おとなになることでさえ難しくなります。
いえ、あなたが不幸なのは変わりありません。
あなたが自分を不幸と思うかぎり、あなたは絶対的に不幸です。
そして、その不幸はすべて前世のためなのです。

あきらめませんか。すべて前世が悪いのですから。
微笑みましょうよ。それでも来世があるのですから。
ここでこの負け薬の本質に向き合いましょう。
果たして前世や来世はあるのか。
もしあるのならば、この薬は効き目を見せます。
だが、もしないとしたらどうなるのでしょう。
この心配は杞憂です。我われはそこでとどまっていてはいけません。
なぜなら前世や来世の存在は、最先端の科学をもってしても証明できないからです。
だから、ないと即決するのはおかしい。
前世や来世がないこともまた現代科学では証明できないからです。
人間は前世や来世がないということを断言できないのです。
いまあなたはどこにいるか。信じるか信じないか、であります。
信じてみませんか、といまわたしはお誘いしています。
どうか御一考くださいませ。

*なお「勝ち組」のみなさまには本文無用。反論勘弁。
みなさまの勝利は努力のおかげ。おめでとうございます。あなたはえらい!
小説や漫画を読んでいて思いませんか。
テレビドラマや映画を見ていて思いませんか。
主人公がピンチにおちいると、なぜか偶然救助がやってくる。
自殺しようと思っていると、美女と出逢い相思相愛になる(頻出のため例示しない)。
大量殺人を企てていると、旧友に出逢う(ドストエフスキー「未成年」)。
言うまでもなく、現実はこうではありません。
年間3万人を超える自殺者は、死ぬ直前までなにかあると期待したことでしょう。
通り魔の加藤智大氏も実行する直前まで救いがあると思っていたはずです。
しかし、現実にはなにも起こらない。

小説漫画ドラマ映画はおかしいじゃないか、ということにならないか。
これらを詐欺だと訴えるものは、なにゆえいままでいなかったのか。
フィクションだからです。最初からウソだと断わっているゆえ、詐欺罪に相当しない。
真っ当なおとなは現実とフィクションを混同してはならない。
では、どうして多くの人間が初めから詐欺だとわかっている商品をあえて買い求めるのか。
わざわざ自分からだまされようとするのか。
現実が辛いからです。現実があまりにも味気ないからです。
びっくりするほど、なにもないからです。
だから、震えるような思いでフィクションにすがりつく。
現実をごまかす。もしかしたら明日なにかあるかもしれないと思う。
けれども、現実はやはりそう甘くなく、ちっともうまくなんかいきやしない。
苦しい。ため息が出る。小説を読みます。テレビを見ます。
翌日にはもう少しがんばってみようと思っている。
フィクションの効能であります。

わたしはフィクションを書いて生活するものになりたいと思っています。
ところが、書けない。どうやってフィクションを創造したらいいのかまるでわからない。
現実にはなにも「ない」のに、どうしてなにか「ある」ものが書けるのか。
わたしがぶつかっている壁です。整理してみます。
なにも「ない」から、フィクションを書け「ない」。
これがいままでの思考法です。だが、こう考えたら――。
なにも「ない」から、なにか「ある」ものを書く。
「ない」から「ある」を生みだすことがもしできたら――。
そのためにはどうしたらいいのか。また新たな壁に衝突したようです。
安いものが好きなんだよな。
好きなお酒を例にとると、ビール、日本酒、焼酎、ワイン、ウイスキー。
すべていちばん安いものを愛飲している。
トリスハイなんぞ、こんなうまいものがあっていいのかと思う。
4リットル2700円のウイスキーを炭酸水で割っただけのものがこれだけいける。
舶来のスコッチなどいらないくらいのうまさである。
ビールでいえば、わたしは第三の雑酒でもエビスビールでもおなじ感動を味わえる。

そもそもさ、思わないかな。高いのなんて、大したことないじゃん。
いい材料を使って作ればうまくなるのは当然。
ここで安物なのである。安価の最低品質の材料を用い、ある物品を製造する。
そこには知恵・工夫・努力といったあらゆる人力が求められる。
こうしてできあがった安物を、どうして金持連中はさげすむのだろうか。
安いということは、それだけ発明があるとは思わないか。
わたしはこの人力を味わいたいと思う。
将来、万が一出世しても、安物をバカにする人間にだけはなりたくない。
それは人間の力を軽視するということなのだから。
ちょっと視線を変えるだけで、いとも速やかに人間は幸せになれるのでしょうが、
その「ちょっと」がえらく難しい。
我われの生活には、こういうところがたぶんにあるように思います。
ほんとうにちょっとなのですが、そのちょっとがひどく困難に感じられる。
いま冷酒をのんでいます。2リットル980円の安酒です。
これがうまいのですね。今年初めてのむ冷酒だからかもしれません。
こんな美酒が世の中にあっていいのかとさえ思う。
トマトをつまんでいる。これも口にふくむと、実にいい味がします。
ただのトマトなのです。なんでもない、ありきたりなトマト。
けれども、「1個百円のトマト」という既成概念をとっぱらって、
このみずみずしい赤い食物に向き合うとぞくりとするような味わいがある。
それから水に似た透明な液体をのみほす。
これはいったいなんだろうと思う。名前を忘れてしまうのです。
すると、なんという美味と陶酔が与えられることでしょう。
そのものと向きあう。これがヒントなのかもしれません。
もしかしたら面倒な廃棄ペットボトルの処理も、またとない遊戯になるのかもしれない。
洗濯も食器洗いもおなじことです。自戒として書きました。
「どこまでもアジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)

→西原理恵子の漫画も仕方なく読んでいると、
カモがアル中の教科書みたいで笑える。典型的な症例である。
いまどきここまで悪化するアルコール依存症患者は少ないと思う。
おれも、朝から酒をのまなきゃなと思った。んで、2代目カモを襲名することにしよう。
それでもあと10年は生きられるのである。
カモの単著は3冊か。このくらいは超えなきゃな。
まずは嫁さん探しからだ。
どこかに第二の西原理恵子はいませんか~♪ ここにカモ2世がおりますよ~ん♪
「アジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)

→世間的には漫画家の西原理恵子のほうがはるかに有名らしい。
元旦那のカモちゃんこと鴨志田穣など、おまけみたいなもの。
反対である。わたしは西原理恵子がダメだった。
購読している「スピリッツ」で連載されていた「ぼくんち」がどうしても読めなかった。
ケチなので買った漫画雑誌はすべて読むと決めていたのにもかかわらずである。
しかし、なぜだか「ぼくんち」は人気があるという。わけがわからなかった。

本書は探していた本というほかない。
いままで西原理恵子の名前が邂逅を妨害していた。
こうしてこの書籍に出逢えた幸福をなんと表現したらいいかわからない。
飲兵衛が海外でメチャクチャやる話をずっと読みたいと思っていた。
まさしくこの本である。
アル中のカモちゃんのアジア体験記が、その内容だ。

ダメな人間の想像を超えるダメぶりがダメな視線から描かれている。
これほど癒されるものはない。
下には下の人間がいるのである。
その最下層の人間を、カモちゃんはさらなる下にもぐって観察する。
学者研究者とは、真逆の方法である。

カモちゃんは去年、42歳で死んでしまった。
「大人のための文章教室」(清水義範/講談社現代新書)

→本書の効能を知りたかったらアマゾンのレビューを見るべし。
文章力がついたかどうか一目瞭然のはずである。
なんて、皮肉を言ってはいけませんね。
アマゾンのレビューなんて2ちゃんねるの書き込み以下ですから。

この本は、えとあのその、なんと言えばいいのか。
模範の文章を、作者自身がお書きになっているのですが、ううん。
まさかプロの作家先生の筆なる文章を素人のわたしが、そのう。
模範文が、模範文が、模範文が……。

清水先生はとてもいい人なのでしょう。
けれども、思ったのは性格の悪い人間ほどおもしろい文章を書くのではないか。
だから、先生はとっても立派な人なんです。
105円で買って1時間で読んだ新書にこれ以上意見すべきではないと思う。
「すぐに稼げる文章術」(日垣隆/幻冬舎新書)

→アマゾンの素人レビューを叩いているところが笑えた。
ほんとアマゾンのレビューってひどいもんね。
あんなもんを参考にして本を買うものの気が知れない。
わたしがアマゾンのレビューを読むのは当該書籍を読了後。
もちろん、半笑いでだよ。
どんなおバカな感想文があるのかなと。
バカがインテリぶって書いた文章ってバカ丸出しだと思わない?
いっぱしの知識人ぶって覚えたての難解語を用いるかわゆさよ。
テキトーな脳内統計だけど、アマゾンのレビューで参考になるのなんて、
1割いかないと思うね。

で、本書がアマゾンレビューを叩いているからか知らんけど、
この本もアマゾンのおバカさんたちからすごい攻撃を受けている。
どれもピリッとしないんだよな。
へたくそな批判でかえってお里が知れますよというか。
いくつかあったのがタイトルへの批判。
「すぐに稼げる」とついているが、本文では1万時間以上の努力を推奨している。
これが詐欺だのなんだのと鬼の首でも取ったかのようにはしゃいでいる。
アマゾンのレビュアーって白痴が多いんですか。
「すぐに稼げる」なんて惹句を真に受けるおまえらはあたま大丈夫かい?
へんな宗教とか詐欺商法で大金を失っても知らんよ。

「インパクトのある文章の正体とは、
読んだ人の3割から反発を招く文章だと考えてください。
逆に言うと、3割程度の人から反論や反発が来ない文章というのは、
たいした中身ではないということです。たいしたことのない文章とは、
つまり、たいして人には読まれないということですね」(P135)
「教員室」(山田太一/中央公論社)絶版

→芝居台本。初演は昭和60年。元はテレビで放送されたものを舞台化している。
このテレビ版ならツタヤで借りて観た記憶がある。
幸か不幸か、ほとんど内容を覚えていない。
この戯曲を読んで改めて山田太一が天才脚本家であることを思い知らされた。
というのも、これは作り手からしたら、とんでもなく難しいドラマなのである。
ひとつの場面に大勢の人物を同時に登場させて、
なおかつ人物を描きわけるというのはプロでもかなり困難なのではないか。
たとえば、レジナルド・ローズの「十二人の怒れる男」である。
「教員室」では、かの古典的名作のさらにうえをいく15人もの人間を、
一場面に登場させている。
そのうち校長、教頭、用務員は役職つきだから役柄も想像つく。
だが、残りの12人は性別、担当科目が異なるだけの、ただの教師である。
読むまえにはうんざりしたが、いざページをめくると、
実にうまくこの12人が書きわけられている。

この中学校の教師は2年9ヶ月まえ、生徒を殴らないという決まりを作った。
ところが、この日、赴任してきたばかりの教師が札付の不良を殴ってしまった。
不良少年は「教員室を血の海に沈めてやる」と言い残し逃げ去った。
さあ、どうするかである。生徒への暴力を解禁するか。
それでも、あえて殴らずをつらぬくか。殴られっぱなしで生徒へのしめしがつくのか。
理想をいえば殴らないのがいちばんいい。話し合えばわかると信じたい。
しかし、現実はそう簡単にはいかない。
教師によって反応はまちまちである。教員室にも派閥があるのだ。
暴力断固反対を主張しつづける理想に燃えた若手教師集団。
これを機に暴力で風紀を取り締まろうと狙う校長および体育教師のグループ。
学校のことよりプライベートのことを優先したい教師もいる。
理想を説く教師は、恋人がいるのかと揶揄される。
恋人がいないから人間の不合理さがわからないのだと批判される。
いや、問題は子どもを理解することだと独身教師は反論する――。
このような議論がえんえんと続くのだが、息をのむほど刺激的だった。
芝居のおもしろさ――人間のおもしろさ――人間と人間が相対するおもしろさを満喫する。
雰囲気を味わっていただければと、ほんの一部分を抜粋する。
(引用文における話者の性別は、最初の宇佐美のみ女性で残りは男性)

宇佐美「(中略)血の海は大げさていわれましたばって、私は、
あの子らはやりかねンと思います。そんな簡単に安心出来ません」

中沢「ぼくもそうです。奴ら、得体が知れませんけン」

小林「君がそげなこというて、どげンする。
教師が子供のこと、得体が知れんというたらしまいたい。
得体は知れとるとよ。俺たちも子供だった。その頃と、どう変っとるていうとね?」

中沢「変っとるやなかですか」

小林「表面的なことばい。心のあり方が、たかが十年や二十年で、変るもんやなか」

中沢「そうでッしゃろか」

小林「たしかにとりまく社会状況が変っとる。だけん、現われ方も変っとるばってェ。
仮に俺が、いま子供で、この状況の中で中学生やったら、
いまの生徒と似たような反応示すやろうと思うね。少しも不可解ではなか」

岩島「んにゃあ人間は不可解です。同世代でも不可解。他人は全部不可解です」

小林「私は哲学や文学の話ばしとるんじゃありまッせん。
教育するもんの姿勢ばいうとるとです」

岩島「私もそうです」

小林「(相手にせず)たとえば俺は、中学ン時、いじめっ子やった」(P208)
「早春スケッチブック」(山田太一/中央公論社)絶版

→芝居台本。昭和59年初演。
テレビドラマ「早春スケッチブック」を舞台化したものである。
かのテレビドラマは山田太一の最高傑作との呼び声も高い。
わたしのいちばん好きな山田太一作品も「早春スケッチブック」である。
シナリオは何回も読んでいるし、借りてきたDVDは全12回を1週間で2度も観た。
山田太一でなにかひとつと問われたら、この「早春」しかないと思う。

舞台版も楽しみにしていたのだが、期待は裏切られた。
テレビドラマのダイジェストになってしまっているのである。
芝居のメリットは、ひとつの場面でじっくりと人物を煮詰めることができること。
あたかも最初は冷たい水だったのが沸騰するようにである。
なのに、この作品では、テレビのように場面をぽんぽん飛ばしてしまっている。
わざわざ舞台でやる意味がわからない。

ストーリーもおかしなことになっている。
「早春スケッチブック」のテーマは、いうなれば日常と非日常の対立である。
生活者と表現者の衝突といってもよい。
なんとかごまかしながら幸福な生活を送っている一家に、
死期の迫った非常識人が襲いかかるというのが物語だ。
堅実な生活を送るお父さんがテレビドラマでは輝いていた。
だが、この舞台版では、かれがただのダメ親父になっている。
で、代わりにだれが活躍するかというと、お母さんである。

どうしてこんなことになったのかわからなかったが、あとがきを読んで了解する。
お母さん役を演じたのが八千草薫だったのである。
山田太一はことさらこの女優をあがめている。
だから、八千草の見せ場が多いように話を作りかえたのだろう。
原作ファンとしては噴飯ものだけれど、ミーハーな山田太一もかわいらしく、
あまり厳しく追及する気にはなれない。