「東京・居酒屋の四季」(太田和彦/新潮社)

→たとえばブックガイドのようなものがある。「必読書150」なんて書いてある。
ほんとうにこういう書物で紹介されているものはすべて読まなければならないのだろうか。
いやいや、決して嫌いなわけではないのである。
かえりみれば、演劇に興味を持ったのは大学を卒業してからなのだ。
海外戯曲のどれがおもしろいのかさっぱりわからなかった。
「演劇100選」のような小著がどれほど役に立ったことか。
しかし、ガイド本は最低限の参考にとどめるべきだと思う。

本書も同様のガイド本である。東京の有名居酒屋が36店紹介されている。
ちなみに、わたしはこのうちひとつも行ったことがない。
今後もおそらく行かないと思う。
この書籍は居酒屋のガイドのみならず酒ののみかたまで定めている。
たとえば、居酒屋では冷奴、枝豆、蛸ぶつ――。
こういった家でも食べられるものを注文するのが真の酒のみとされている(P78)。
わたしは居酒屋において、家では決して口にできぬものを食すと決めている。
だが、居酒屋の権威は、冷奴をたのまぬ酒のみは邪道だという。
さて、どうしたらいいのだろうか。

権威とどうつきあえばいいのか、である。
原点に戻り、権威の定める律法とはいかなるものか考えてみよう。
なんのことはない、どれも極めて個人的な好みである。
ところが、この人間が成り上がった。すると権威ともてはやされる。
かの人物の好き嫌いが絶対化されるのはこのときである。
どういうことかというと、権威を信じるものは、みな阿呆である。
たとえば、皇室御用達のなにがしをもったいぶってありがたがるのは白痴以下というほかない。

なぜなら、どうして自分自身を権威と思わないのか。
おまえさんはそんなに安っぽいのかい。
なんとか評論家(皇室)に比べてあんたはそこまで安上がりなのかい。
どうしてもっと自分に自信を持たない?
よしんば、あなたが成り上がったならば、あなたの価値基準が権威になるのだよ。
こう考えるようになったら、どのようなガイド本も、にやにや眺めることができる。
へええ、あんたはそう思っているの。だが、おれはちがうよ。
男はこれでいいのである。
ランキングに一喜一憂して情報にふりまわされるのは女性様のお仕事と心得よ!
「こんどは俺の番だ」(井上靖/文春文庫)絶版

→昭和31年に雑誌連載された中間小説。
嫉妬が物語をすすめる筋立てになっている。
三十路の会社員、雲野八一郎は売れない映画女優の十津川光子に恋をしている。
女優はまだ二十歳(はたち)を超えたばかり。
小説の冒頭、雲野は4階のビルによじのぼる。
光子につきまとっているゴロツキと賭けをしたのである。
もし成功したら光子と今後一切縁を切るという約束だ。
雲野青年は命からがらビル登攀(とうはん)に成功する。

雲野は自分ひとりだけが女優・光子の才能を理解していると思っている。
がために光子と関係のある男に嫉妬するのである。
いや、嫉妬なのだが、本人は嫉妬と気がついていない。
ゴロツキは光子のもとから去った。
ところが、もうひとり光子の心から信頼している男性がいるという。
光子がなかなか男の素性を言おうとしないので雲野はいらだつ。
とうとう光子は口を開いたのだが、とんでもないエピソードまでついてきた。

「言ってしまおうかな」
と(光子は)独り言のように言った。
その表情が雲野には類いなく美しいものに見えた。
「言えよ」
「じゃ、言うわ。あのね、その人とずっと前に一回だけあったの」
「あったって!?」
そう言ってから、その言葉の意味に気付くと、
雲野は急に顔をくしゃくしゃに歪めて、ごくんと生唾を飲んだ。
「それじゃ、なんでもなくはないじゃないか」
思わず大声を出して言った。喉がかさかさに乾いていた」(P58)


相手は四十過ぎの会社社長であった。雲野は三十ちょいの平社員である。
年寄りにだまされて、この若い肉体がもてあそばれたのか!
燃えるような嫉妬に雲野は苦しめられる。
かの主人公がヒロインへの恋愛感情を明確に意識したのはこのときであろう。

「ビア・ホールへ行こう」
雲野は腹を立てて言った。今夜の光子のどの言葉も、雲野には気に入らなかった。
併(しか)し、厄介なことに、今までのいかなる時の光子よりも、
今夜の十津川光子が、彼には魅力的に見えていた」(P62)


雲野は社長のもとを訪問する。もう光子と逢ってくれるなと通告するためである。
どんな悪漢かと思ったら、社長はじつに気持のいい一本気な男だった。
雲野にとっては、運が良いのか悪いのか、社長は会社が倒産して一文なしになっていた。
そのうえ自殺を考えているという。
こちらも負けず人のよい雲野は社長に、自分の姉の嫁ぎ先で静養しないかとすすめる。
とんだ顛末(てんまつ)になったわけである。

これでもう光子のまわりに男はいなくなったのか。雲野は問いただす。
だが、まだ男友達が複数いるという。嫉妬した雲野はその人物に逢いに行く。
そのたびにどうしてか気のいい雲野は恋敵の援助をする羽目におちいってしまう。
立場が入れ替わる瞬間が登場する。
光子の男友達のひとりに妹がいた。
この妹の手助けをなにやかにやと雲野はしてやっていた。
その現場を光子は目撃してしまうのである。
嫉妬した光子が雲野に当たり散らす。
いな、光子は自分が嫉妬していることに気づいていない。
むろん、雲野もおなじこと。どうして光子からこんな理不尽な対応をされるのかわからない。
ふたりは年末に別れてしまう。

両者ともに相手と逢いたくてたまらないが、なんとかこらえようとする。
光子の言い分はこうである。あやまれ! つきあってくださいと低頭せよ!
雲野は冗談じゃないと思う。光子のほうから前非を悔いるべきである。
雲野は金輪際、光子と逢うまいと誓うが、みずからその誓いを破ってしまう。
おのれへ罰をくださなけれなばらないと思った雲野はふたたびビル登攀を企てる。
深夜の危険な冒険である。そこに光子が現われる。
雲野の友人に、またビルに登ろうとしていることを教えられたのである。
光子は雲野の胸に飛び込んでゆく。烈しい力でつかんで離さない。
雲野はこれならビルに登るほうがまだ楽かもしれないと思う――。

好人物しか登場しない井上靖の青春小説の魅力を堪能した。
小旅行の際、持って行くなら井上靖の中間小説に限る。
恋愛不感症のわたしがこんかい井上靖の恋愛小説から学んだこと。
だれかを愛するとは嫉妬することなのだと思う。
そして、いま哀しくも嫉妬を感じるような異性はいない。
いい年をして断わるまでもないが、
女優の誰某(だれそれ)の醜聞を聞いたところでいささかも嫉妬は起きぬ。
ぜひぜひ嫉妬したいと思う。嫉妬したときほど異性が美しく見えるときはないのだから。
「こだわりを捨てる 般若心経」(ひろさちや/中央公論新社)

→ひろさちやが好きである。
こうまであたまのいい人はめずらしいのではないか。
具体例の用いかたが滅法うまい。おかげで難しいことがすんなりあたまに入る。
簡単なことでさえ難しく言い換える人が多いなか稀有な存在だと思う。
だが、わたしはひろさちやの屈折したファンになるのだと思う。
たとえば、山田太一とは異なるのだ。
山田太一のシナリオのすばらしさなら、ひとりでも多くの人に知ってもらいたいと願う。
友人に山田太一のシナリオをプレゼントしたこともある。
けれども、ひろさちやの本をだれかにあげたいとは思わない。
むしろ、ひろさちやの本を読まれることを恐れている。
こんなのが好きなのだとバカにされそうだからである。
山田太一の場合なら、おなじような反応をされても、
「わからないおまえのほうがバカだ」と言い返せる。
ところが、ひろさちやになると、ちょっとしょげてしまうところがある。
こんなのが好きで、おれやばいよな、とうつむきかげんになってしまうかもしれない。

巻末の鼎談(ていだん)で文学者連中がひどいことをやらかしている。
水上勉、瀬戸内寂聴、ひろさちやが仏教を語り合う。
ちなみに肩書きは前二者は言うまでもなく作家。
ひろさちやは宗教思想研究家と、なんともいかがわしい。
さて鼎談だが、文士というのはほんとうに意地が悪いとぞっとした。
じっこんの間柄の水上勉と瀬戸内寂聴がふたりだけで話して、
ひろさちやを仲間はずれにしているのである。
たまにひろさちやの発言が入るが、明らかにゲラで手を加えたとわかるもの。
まったく話が噛みあっていない。
一般書を濫作するようなライターは文士から侮蔑されても仕方がないのだろうか。
ひろさちやを強く擁護できない理由はこのへんにあるのかもしれない。
「1年で600冊の本を読む法」(井家上隆幸/ごま書房)絶版

「なにかあるかな? と期待して買って、
読んでみるとなんにもなかったという本はけっこう多い。
書いたご当人は「どうだ、どうだ」と得意気だが、
なにがどうなんだ、といいたくなるような本もある。
もちろん、こんな本は買うまえにかぎわけて
騙されないようにしなければならないのだが、なかなかそうはいかない。
間違って買ってしまうこともしばしばある」(P99)


( ゜д゜)ポカーン
「打たれ強くなるための読書術」(東郷雄二/ちくま新書)

→京都大学教授の読書指南。
といっても、最近の流行だろう。やけにくだけた文体である。
東京大学のゲンダイシソウ系を揶揄したり、
なんとか読者を笑わせようと無理をしているところに好感を持つ(踊る京大教授!)。
主張を要約すれば、受動的読書をやめて能動的読書をしましょう。
本の内容をうのみにしないで、たえず問いかけながら読もうね、
するとボクみたいに大学教授になれるかといったらそう甘くはないが
(深読みまたは被害妄想)、
きみのなかで知の組み換えが起こって、世界の見えかたが違っちゃうかもしれないぞ。

参考になったのは著者の造語で一次本と二次本。
本にはこの二種類があるという。
歴史研究における一次資料と二次資料をまねて命名したとのこと。
一次本とは、著者自身が実地調査・現物調査をして書いた書物のこと。
二次本は、本から作った本のこと。
二次本は情報源を他の書物から得ているため、元の本の誤謬が継承されてしまう。
だから、なるべく一次本を読もうと著者は主張する。

本書はおもにノンフィクション系の読書術だがフィクションにも当てはまるかもしれない。
一次本と二次本の区別が、である。
実体験にある程度基づいて書かれたフィクション(一次本)のある一方で、
本ばかり読んで本から作ったようなフィクション(二次本)もあるように思う。
私見では、フィクションの場合、一次本と二次本の優劣はつけがたいのではないか。
「あなたが大好き」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和63年放送作品。単発ドラマ。
あとがきに書かれたテレビドラマの製作秘話がおもしろかった。
赤坂の天ぷら屋でこの下町ドラマは生まれたという。
TBSディレクターの高橋一郎と山田太一が会食した。
脚本家は、演出家が10本近いビールをあけるので驚いたらしい。
つくりりたいドラマがつくりにくくなっている演出家の無念を山田太一は感じる。
TBS社員の高橋一郎は、気負わずに気持のいい話をつくりたいという。
自由業の山田太一は何度もこんな言葉が口から出そうになった。

「気負わず気持のいい話を、なんてよしましょう。
気負った気持の悪い話を異物のように今のテレビの中に投げ込みましょう」


山田太一は思いとどまる。

「しかし、そんなことをして、
有能で得難い演出家の可能性をつぶすようなことは出来なかった。
連続ドラマならともかく、短編一本では、そういうものをつくっても
おびただしい番組の中に埋れてほとんど力になり得ない。
その代り内部では、そういうものをつくった人間は警戒されてしまう。
それではなにもならない」(P271)


いろいろなことに気づかされた。当たり前のことだが見逃していたように思う。
いくら庶民のドラマとはいえ、製作するのは大会社の高給取りである。
赤坂の料亭にて会社の経費でのみくいしながら下町ドラマをつくるのだ。
言いかたはよくないが、まるで高級料亭で密談する政治家である。
いかに庶民をだますか策略を練っているところは両者相通じるのではあるまいか。
さらにテレビドラマはほとんど芸術ではない。
ディレクターとはいえ出世をめざす宮仕えの身なのだ。
表現する気概と出世する願望が衝突したら、
ためらわず後者を選択する男たちがテレビドラマをつくっている。
へんなドラマをつくってしまえば、社内で目をつけられ出世に響く。
テレビドラマシナリオほど自由の利かない表現形式はめったにないのであろう。
にもかかわらず、独自の世界を描きつづける山田太一の交渉能力には恐れ入る。
脚本家は小説家よりもはるかに難しい仕事と思われる。

「気持のいい話をつくりましょう」を合言葉に完成したのが「あなたが大好き」である。
好き合っている若いふたり(美男美女)が、困難にもめげず結ばれる話だ。
果たして江戸指物の職人の家に、石油会社重役のお嬢さんは入りこめるのか。

「うまく行くわけないからいってるの。世田谷のね、重役のお嬢さんがね、
こんな家へ来ようっていうのは、なんかあるわよ。自然じゃないわよ。
ただ誠一が好きになったっていうんじゃないのよ。
そのくらいのこと分らなくて、どうするの、誠一」(P184)


「なんかあるわよ」が浮気性の視聴者を逃さない、いわば伏線である。
結局、「なんかあるわよ」の答えは「あなたが大好き」となる。
「あなたが大好き」とべっぴんでハイカラな娘さんが、
下町の人情味あふれる家庭に入ってゆく。
たしかに「気持のいい話」である。評判や視聴率はいかほどであったのだろう。
思わず、ビールの好きなTBS社員、高橋一郎の心配をしてしまった。
「表通りへぬける地図」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和63年放送作品。全2回。
成功者がいる。失敗者がいる。美人がいる。ブスがいる。だから、ドラマが生まれる。
ユキエと理佐はどちらもおなじ22歳である。ふるさとの高校で同期だった。
美人のユキエは、学校の勉強はできなかったが、いまはマスコミの寵児である。
原宿のブティックのカリスマ社長。この店では新しい商法を用いている。
お客さんを店長のユキエが一対一でカウンセリングするのというもの。
その後、カウンセリング結果に基づき、上から下までファッションをコーディネートする。
これが大当たりした。いまや行列店である。社長が若くてきれいな女性というのもよかった。
ユキエは寝る間もないほど忙しい。ルームメイト兼家政婦を募集したのはこのため。
やってきたのは高校の同窓だったデブス(デブ&ブス)の理佐である。
理佐はユキエとは異なり勉強がよくできた。いまは東京の有名大学に在学中。
4年生で就職を控えている。ユキエと理佐は高校時代たいして仲も良くなかった。
ユキエはどうして理佐が来たのかわからないが、
かつての優等生をあごで使えるのは悪い気はしない。
こうしてふたりの同居生活は始まった。

ユキエのバックにはパトロン(出資者)がいた。平出善彦、妻のいる中年男性である。
善彦は理佐の存在をあやしむ。どうしてユキエのもとに現われたのだろう。
ふたりは対面する。理由を問われた理佐は白状する。
就職しなければいけないという。それが駄目なのだという。
善彦には、わけがわからない。なにをこの女はいっているのか、わからない。
理佐は自分を採用するかと問う。テスト次第では、と善彦は答える。

理佐「テストなんて関係ないの。成績はいいの。
聞いてるのは、私みたいな女を採用するかどうかよッ。
しないのよ。みんなバカだってなんだって可愛い子を選ぶのよ。
面接で男たちは可愛い子を選ぶのよッ。
笑う奴もいたわ。君、受かると思ってるのかって。
痩せようとしたわよ。でも、痩せられないのよ。二〇キロが限界なのよ。
食べなきゃいい。死ぬ気で痩せろって、就職課の先生にも怒鳴られたわ。
でも、なんで死ぬ気にならなきゃいけないの?
仕事が出来るかどうかが問題じゃないの?
高校だって大学だって、私はトップクラスだった。
ところが、就職は面接で、誰も相手にしてくれないのよッ。
友だちからユキエさんの成功したこと聞いたの。お手伝いさん募集してるって。
原宿のマンション住んでるって。綺麗な人は得ねって。
そうなのよ。綺麗な人は得なの。インチキよ。そんなの。
高校でひどい成績だったユキエさんが、どうしてすぐ社長になれるの?
なにかあるに決ってる。きっと、あやつり人形なんだ。
化の皮をはがしてやる。どうせこっちはいくら走り回ったって採用されないんだ。
いいわ、綺麗な女が、どんなにバカバカしくいい思いしてるか、つきとめてやるって」(P144)


事実の指摘を、断じてブスの怨念といってはならない。
ユキエの部屋を飛び出す理佐である。
ユキエは理佐を探し出す。理佐はユキエにも本音をぶつける。建前ではない本音を。
このときユキエも本当のことを高校の同級生に語り始める。
ブティックの社長なんていうのは大嘘である。
実際は裏に本当の社長がいて自分は雇われているに過ぎない。
ファッション診断というのも嘘で、実のところ衣服をコーディネートしているのは裏方である。
ユキエの役割はミニスカートをはいて時おり足を組みかえながら談笑するだけ。
男性客なんていうのは若い美人から相手にしてもらえたらなんでもいいのである。
けれども、若い女が社長で、なおかつ、
たたきあげとなるとマスメディアから取り上げられる。
最初はTシャツ1枚を売るのがたいへんで。
こんな作り話をすると、よけいに持ち上げられる。えらいねってなる。人気があがる。
本当はこんなものである。自分にはセンスも才能もない。ユキエは理佐に告白する。

つまらないね。本当のことって、どうしてこんなにつまらないんだろう。
パーッとやらない? 男の子呼んでお酒でものんでパーッと発散しない?
ユキエはおずおずとラブレターをくれた気弱そうな青年を思い出し電話する。
こっちは女ふたりだから、そっちも友人呼んで来なさいよ。
デブスの理佐はなかなか部屋から出てこないが、3人から励まされすがたを見せる。
山田太一ドラマである。乱交などするわけがない。
4人は楽しく酒をのみ、陰鬱な夜と味気ない現実を吹き飛ばす。
ユキエはもらす。美人だって楽ではない。

男「そんなこといってないじゃないですか」
ユキエ「いったよう。美人は人柄が悪い。美人は頭がパアだ。
美人は他に才能なんかない」
男「全然いってないよ」
ユキエ「美人もね、あんた、偏見にかこまれてるのよ。
美人というだけで憎まれたり馬鹿だと思われたり冷たいと思われたり、
いろんな目にあってるのよ」(P157)


ユキエは嘘まみれの仕事に嫌気をさし辞職を申し出るものの、
生活のかかっているスタッフから辞めぬよう懇願される。さあ、どうしたらいいのだろう。
ここで先ほどの平出善彦が妙案を思いつく。
実際にユキエにファッションを決めさせたらどうかというのである。
いままでずっと裏方の仕事を見てきたのだからセンスも磨かれているのではないか。
試してみたら果たしてそうである。
裏方のスタッフはこれから仕入れに専念することになる。
ユキエは嘘を演じているうちにいつしか本物のセンスを身につけていたのである。
デブスの理佐は、善彦の妻からファッションモデルにならないかと誘われる。
いままでの女性美の基準は均一化し過ぎているとの理由である。
太っている女性の美しさをアピールしてもいいではないか。
ユキエと理佐、どちらもハッピーエンドである。
最後に対照的なふたりの女性の会話からひとつ引用したい。

ユキエ「それにしてもさ、男って、どうして綺麗な若い女に寄ってくるのよ?
洋服の相談なら、誰だっていいじゃないの。
どうして、若い女じゃなきゃ商売にならないの?
まったく、どっちを向いても若い女。
銀行のポスターも製鉄所の宣伝もラーメンの宣伝からお墓のコマーシャルまで若い女
――なんなのよ? これ(と目を閉じる)」
理佐「ほんと――ぜーんぶ、若くて綺麗な女ばっかり(とユキエを見下ろしてポツリという)」(P161)


風宮ユキエ――麻生祐未。桐原理佐――中島唱子。
「なつかしい春が来た」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和63年放送作品。正月ドラマ。豪華キャスト。4時間。
テレビドラマを製作するのは、ほんとうに空しい、ほとんど自虐的な行為なのかもしれない。
テレビというのはたしかにタダだから多くの人間に見てもらうことができる。
だが、映画のように残らない。いまは少し事情が変わったようだが、
ほんの20年前のテレビドラマでさえもうどこにも残っていない。忘れ去られている。
あのころはインターネットもなかったから、だれも記録を残していないのだ。
「なつかしい春が来た」で検索しても、まったくヒットしないのには唖然とした。
これほど笑えて泣ける良質なドラマが、である。
山田太一はあふれる才能の大半を消えてゆくものへつぎこんだ。

いや、前言をひるがえすようだが、山田ドラマは消えていないはずである。
形のうえでは作品は残っていない。しかし、多くの人びとの記憶に焼きついているはずだ。
あのときあのドラマを見た。なにかしらを、もらった。
おかげでどれだけ生きるのが楽になったか。生きかたが変わったか。
ネットで検索していると、一見すると
どこにでもある取るに足らない日記ブログで山田ドラマの記憶が熱く語られている。
たとえタイトルは忘れてしまっても、人間は感動を忘れない。
たかがテレビ、されどテレビなのである。

おばあちゃんがぼけてしまった。
死んだおじいちゃんの声が聞こえるという。すがたが見えるという。
おとなはみんなまともに取り合わない。
ただひとり中学生の孫娘だけが祖母の声に耳を傾ける。

孫娘「いい? おじいちゃんは3年前に死んだのよ。逢いたい気持は分るけど、
出て来るはずがないの。分るでしょう?」
祖母「一度――」
孫娘「一度?」
祖母「ああ」
孫娘「一度なに?」
祖母「一度でいいからね」
孫娘「うん?」
祖母「だまされたと思って、心の底から、おじいちゃんに逢いたいって、
思ってくれないかな」
孫娘「思ってるわ。そりゃ、おじいちゃんには逢いたいわ。
でも、出来るわけないでしょう」(P57)


この孫娘は国民的美少女の後藤久美子なので顔のかわいらしいのはもちろんだが、
さらにキュートなのはその晩にひとり自室で試してみるところである。

孫娘「(窓をあけ、空を見る)」
月。
孫娘「(小さく)おばあちゃん、やってみるわ。怖いけど、やってみる。
(部屋の方へ振り向き、深呼吸をし)おじいちゃん(目を閉じ)逢いたいわ。
おじいちゃんに、心から逢いたいわ。お洒落で(微笑が浮び)やさしくて、
可笑(おか)しいおじいちゃんに、ほんとに逢いたいわ。
(と目を閉じたまま間があって、目をあける。ポカンとする)」
祖父「(ドアの前に立っている。微笑している)」
孫娘「(驚きの余り口をあけ、それから悲鳴をあげそうになる)」
祖父「いかん。シーッ。消える。今日は消えるから。シーッ(と消えてしまう)」
孫娘「――(口をあけて、震えている)」(P59)


なみだがこみあげるのね。いいじゃないと思う。こういうのいいじゃない。
言うまでもなく、現実にこんなことがあるわけがない。
だけど、あったっていいじゃない。せめてテレビくらい、そういうの見たいじゃない。
現実はなにもないんだから。

幽霊のおじいちゃんには3人の子どもがいる。
長女、長男、次女。うえのふたりは子供ももうけている(ひとりが後藤久美子)。
最初はみんなおじいちゃんの現われることを信じない。
おとなのうち初めておじいちゃんと逢うのは血縁関係のない長男の嫁である。
若いほうが処世の垢がたまっていないのだろう。長女の娘も祖父と逢う。
さらに次女のまえにもこの幽霊は現われる。
長男は嫉妬する。どうして自分のまえには出ないのか。嫌われていたのか。
ついに長男のところにも現われ感激する。
長女のまえにだけは現われないが、これは薬剤師をしているためであろう。
理系であった。非科学的なことは信じられない。
ひとりこの長女をのぞき、みんながみんな幽霊との対話に没頭する。

なにを話すのか。生きている人には話せないことである。相談だ。
人間には死んでしまったものにしか打ち明けられない秘密がある。
めいめい相手がなにをおじいちゃんと話しているのか気になる。
葛藤が生まれる。いろいろな秘密が露見する。
長女の娘の悩みが明らかになる。ハイミスである。婚期を逃した。
とはいえ一流会社の課長である。部下だっている。
悩みは、好きな人ができた。結婚しようか迷っている。
というのも、相手は自分の勤務する会社の下請けの下請けの営業マン。
月給だって自分よりも安い。

「いったでしょ。私ってお体裁屋なの。
誰が見てもいい男で、一流会社か、青年実業家か、お医者さんか、
そういう人と結婚したいって見栄を捨てきれないの」(P102)


母は逢ってみる。とてもいい人である。結婚すればいいじゃないかと思う。
してみると、おじいちゃんの幽霊が現われたおかげで、むしろいろいろ好転したのである。
最後まで幽霊の存在を信じなかった長女のまえにもおじいちゃんは現われる。
批判的なことをさんざん言っていたのに、いざすがたを見ると泣きだす長女である。
このシーンはとてもいい。しかし、これは別れの布石であった。
幽霊はエンマ様かお釈迦様かにある約束をしていたのである。
家族のみんなと逢ったら帰らなければならない。
別れの場面では、消えかかっているおじいちゃんを囲み、
家族みんなで童謡を歌う。「春が来た」である。
センチメンタルなんだろうけれど、こういうのとってもいいと思う。好きだな。いいよな。

本作品のテーマとなるせりふをひとつ引用する。
長女の娘、桜田淳子のせりふである。

「みんな新しいものに倦(あ)きちゃったのよ。たいしたもの出て来ないじゃない。
大体、新しいつもりでなにかを愛そうとすると、
すぐそれは古くなって次の新しいものが出て来るじゃない。
新しいものが、あんまりはかないんだもの。つき合ってると、やりきれなくなるの。
だったら振りかえって、昔の中から自分に合ったものを愛そうっていうわけ。
プレスリーは、もう死んでるから変わらない。
とっくに古くなってるから、今更古くならないわ。
そういうものなら、落ち着いて愛せるわ」(P100)


(追記)あとがきで山本周五郎賞受賞作「異人たちとの夏」は、
「なつかしい春が来た」の副産物であると作者が述べている。
「異人たちとの夏」は小説も映画も残ったが、
テレビドラマ「なつかしい春が来た」は消えてしまった。まるで幽霊のように。
今月いっぱいでストリンドベリと山田太一を終わらせ
次なるステップ(いや堕落か)へ進むつもりだったのだが、計画倒れである。
とてもとても今月で読みきることなどできない。
何が悪かったかと反省すると問題は読書にはないようだ。
書く。こちらがいけない。感想を書くことに時間を取られすぎる。
2時間の山田太一ドラマの感想を書くのに3時間かかってはダメである。
上演時間60分のストリンドベリ芝居の詳細を記すのに2時間……。
感想を「本の山」に書く必要がなければ楽々クリアできたのである。
読書のスピードは人並程度はあると思っている。
けれども、読んでから書くまでが手間取る。
パソコンに向き合って最初の1行がすらすら出てくることなどまれだ。
プロでもないのに恥ずかしいことを告白してしまった。

感想なんて書かなければいいじゃないか、というご意見もあろう。
だが、もし書かないと何も残らないような不安にかられるのである。
おそらく、感想を記さなくなったら、いまの倍は読書できると思う。
もしかしたら3倍くらいまでいってしまうかもしれない。
とはいえ、だから何? と思ってしまう自分がいるのだ。
いくら本を読んだところで、それは他人の言葉である。すぐに離れていってしまう。
読んだという自己満足だけで何も身につかないのではないだろうか。
どうすれば自分のものになるか。読書は泥棒である。
自分の言葉で相手を組み伏せなければならない。
著者を自分の土俵にあげて、えっちらおっちらやりあわなければならない。
歯が立たないこともあろう。逆に、きれいに投げ飛ばせることもあろう。
これを繰り返すしか強くなる道はないと思うのである。
いまブログ「本の山」のやっていることである。

ストリンドベリとは壮絶な死闘を繰り広げているところだが、
現段階で勝ち越しているのではないかという自負がある。
感想を書きながらストリンドベリを自分の言葉で追い詰めている手ごたえがあるのだ。
たぶん原典に当たるより、うちの感想を読んでいるほうが楽しいと思う。
大物と向き合うとたいそう疲弊するが、闘いの後はとてつもなく爽快である。
苦しんだぶんだけ返ってくるものも大きい。
「分け入つても分け入つても本の山」はプロレスや格闘技のようなものである。
読者のみなさまはどう思われるかわからないが(お聞きしたいです)、
わたしは感想をひとつ書くたびに1ミリ程度なら前進しているという満足(錯覚?)がある。
たとえ1ミリでも(いや、もっと短いかもしれない)前進(後退?)したら、
かならずやどこかに到達すると思ってブログを運営している。

来月の11日に歌舞伎を観にいくから、この日までに終わらせたいが、
たぶん無理なような気がする。
というか、あせると読書が苦役になってしまう。
ストリンドベリも山田太一もとびきり好きな作家なのである。
これを読んだらもう死んでもいいと思うくらいに(むろん自殺するつもりは当面ないが)。
本来ならいちばん楽しい行為を苦行にしてしまってはいけない。
期限を1ヶ月のばそうかと思っている。来月いっぱいなら――。
「夕陽をあびて」(山田太一/日本放送出版協会)絶版

→テレビドラマシナリオ。平成元年放送作品。全3回。
テーマは老後の海外移住である。放送当時は最新のトピックだったのだろう。
土屋昭子(八千草薫)は夫の竜作(大滝秀治)の無気力ぶりに呆れ果てている。
とあるきっかけから、海外移住に興味を持つようになる。オーストラリアのパース。
昭子は嫌がる竜作の尻をたたいてパースを見学するツアーに参加する。
参加したのは土屋夫妻と電気技師をしている中年男性の3人。
かれらは、実際パースに移住している老夫婦、ツアーコーディネーターに影響を受ける。
海外で生きることの裏表を教えられ新しい地平が開けたかのような感動をおぼえる。
わずか1週間の滞在であった。
だが帰国後、なかば人生をあきらめていた竜作が前向きになったのが大きな変化である。

変化をセリフで見てみよう。まずは旅行まえ。

昭子「仕事をやめたころのファイトはどうしたのよ。
『平家物語』をちゃんと読むんだ、運動靴履いて東京じゅう歩くんだ、
スケッチもやってみるんだ、展覧会も好きなだけ見にいけるって」
竜作「やったでしょう。全部やったでしょうが。
書もやった、碁もやった、古代インド仏教講座なんてもんにも出た。
盆栽もやった。全部ね。ぜーんぶ、つまんない」(P17)


きっかけは――?

昭子「うんと、ガラッと、ガラガラッと生活変わったらどう?
外国で暮らしはじめたら、どう?
いやおうなしに、英語使わなきゃならないでしょう。
見るもの聞くもの新しくて、やることいっぱいあって、夫婦で力合わせるしかなくて、
運転免許も取らなきゃならないし、前庭の芝生をきれいにしとかなきゃならないし、
こんなふうに、じっとしていられないんじゃない?」(P62)


旅行を経て変身したかつての粗大ゴミ、竜作老人の優等生発言。

「自分の老後を、せまーく、用心深く、どっかあきらめて生きてたなあって、
とっても思いましたよ。(中略)
どっかで、自分の人生は、もうここまで、そうやって見切りをつけたとこあったけど、
そうでもないな、まあ、外国で暮すっていうのは、ともかくとしても、
まだまだ、思ってもいなかったことをやれるかもしれない。
そう思えて、なんか気持、明るいんですよ」(P188)
「タクシーサンバ」(山田太一/「月刊ドラマ」1982年1月号/映人社)品切れ

→テレビドラマシナリオ。昭和57年放送作品。70分の全3回。
テレビドラマと説教はいったいどういう関係なのだろうか。
手始めに、この事実を認めてください。
テレビドラマでは説教が頻出する。これは客観的な事実ではないかと思う。
なにゆえかと考えるに、どうやら視聴者はテレビにおける説教を好んでいるようである。
そうとしか考えられない。
ちなみにわたしが山田太一作品以外のテレビドラマをあまり見ないのは、
説教の存在が関係している。
どうしてそこいらの三流シナリオライターに説教されなければならないのかわからない。
だが、こうとらえる視聴者はめずらしいのである。
たいがいの視聴者はシナリオ作家のことなど考えない。
まるで説教を、それを口にする有名俳優の思想であるかのように思うものらしい。
おかしなもので俳優のほうにもセリフを自分の哲学であるかのように錯覚する馬鹿がいる。
武田鉄矢なんぞはその典型であろう。
本人は役になりきっているつもりだろうが、
実際は無個性な人間が役に食われたに過ぎない。

山田太一が初めて書いた本格説教ドラマは、
昭和51年の「男たちの旅路 第一部」である。
鶴田浩二の扮する戦中派ガードマンが若者に説教を垂れ流す。
わたしはこの作品をそれほどすごいとは思わないが(少なくとも第一部は)、
どうしてか視聴者に爆発的に支持されてしまった。
おそらく山田太一自身もこのドラマがああも受けるとは思っていなかったのではないか。
のちにシリーズ化されたのは、もっぱら視聴者の要請ゆえらしい。
山田太一の天才はきっと危うい真実に気がついたことだろう。
もしかしたら視聴者は良質なドラマなどあまり求めていないのかもしれない。
視聴者の大半はインテリとは縁のない大衆である。
かれらはその弱さゆえ生きかたが定まらない。
有名俳優にびしっと説教されると大衆は喜ぶのである。
飼い犬がしつけられるとしっぽを振るようなもの。
「男たちの旅路」のヒットで、山田太一は大衆の愚昧をどこかしら感じたのではないか。
プロの作家は求められるものを書かねばならない。
以降、山田太一はドラマに説教を組み入れることを是とする。
むろん、いかにもこの作家らしい反抗も忘れない。
鶴田浩二が役に食われ私生活でも説教を始めたのを知ると、
脚本家は「男たちの旅路」の続編でかの役をダメ男に変じさせる。
「シャツの店」でも道化役を鶴田浩二に依頼する徹底ぶりも山田太一ならではである。

ようやく「タクシーサンバ」に話をうつす。
「男たちの旅路」とおなじNHKで放送された本作品は正統派説教ドラマである。
シナリオで読むと「勘弁してよ」と苦笑したくなるほどの、
まさしく正論というほかない説教がたびたび登場する。
だが、シナリオでこのドラマを判断してはならないのだろう。
説教について、だれでも知っていることを改めて記す。
説教というものは、内容が重要なのではない。
ほとんどの説教は手垢のついたものなのだから。
どう語られるかというのもあまり関係ない。
なぜなら説教はがいして退屈だからである。唯一の例外をのぞいて――。
これがもっとも肝心なことだが、説教はだれが言うかなのである。
おなじ説教でも、だれの発言かでまったく印象が変わってしまう。
赤提灯でしょぼくれた会社員が説教してもだれも本気で聞きやしない。
有名俳優が演技たっぷり思わせぶりに説教するから効くのである。
有名でもなんでもない無知蒙昧だが自尊心だけは人並にある視聴者は、
著名な俳優がしもじもの我われに扮して庶民論理をとうとうと述べるすがたに陶酔する。

したがって、ここに説教を引用することはあまり意味をなさない。
映像で見てこそ価値があるのである。
とはいえ、山田節は絶好調で引用の誘惑を逃れがたいのもまた事実。
元エリート商社マンの緒方拳はタクシー運転手に身をやつす。
仕事上のトラブルと離婚がダブルパンチになった。
カネカネカネの生活はもういやだ。ひとりでもやれる仕事としてタクシーを選んだ。
仕事を通して緒方拳は、
商社マン時代なら知りえなかったような庶民の懸命な生きかたを知る。
自分がいままで人間を知らなかったことに思い至るのである。
エリートは人間のクズ。最底辺の庶民は正しくて温かい。
山本周五郎的とも言いうる世界観を脚本家はこのドラマで選択した。
それだけ職場の取材で受けた印象が強かったのであろう。
虚業を営む山田太一の実業者へのおそれを見たと書いたら意地悪すぎる。

まずは愛川欽也のせりふを第一話から。説教というより愚痴かもしれない。
けれども、しっかり視聴者への説教になっている。
こうまでストレートな説教を出す気恥ずかしさからか、
山田太一は愛川欽也を酔っているという設定にしている。
都の清掃局に勤務する愛川欽也――。

「毎日都民のゴミを集めてます。それは、やたら自慢することでもないけど、
別にかくすような事だとは思っていない。(……)
しかしだ。息子が勉強が出来てね、嬶ァ(かかあ)の奴が、
一生懸命やれ、しっかりやれっていってる。
あんたはお父さんより偉くなれって言ってる。
そういう時よ、父親の俺怒れる?
冗談じゃねえ、俺ぐれェになりゃあ上等だ、なんていえる? いえないよ。
そりゃあね、そうだ、頑張れ、俺みたいになるなっていうよ。(……)
しかしね、ほんとの気持、俺は自分の何処が悪い? と思ってる。
え? だってよ、人間のね、運命ってのはねえ。
その人間の責任ばっかりじゃないよ。
病気したり、運が悪かったり、余儀なく色んな目にあっていくんだよ。
問題はね、どこにいたってね、どれだけちゃんと仕事してるか、
責任果してるかって事じゃないの?(……)
俺は、ちゃんとやってるよ。ちゃんと責任果してる。
親父みたいになりたくねえなんて、そんな事いわれるいわれは、まったくない。
(……) チャランポランな政治家とよ、真面目なおれたちとよ、
どっちが上かっていやあ、そりゃあ商売としちゃあ向うのが上かもしれねえけど、
人格ってことになりゃあ、俺のが上って事だってないとはいえないんじゃないの。
(……) 俺はね、キチーンと真面目につとめてる。
仕事で手抜きなんざしたことないよ。(……)
それでもしょうがねえっていう。(……)
誰がって、かみさんとか、子供とか、みんなそう思ってる。勉強しろっていう。
お父さんみたいになるなあ、新聞記者とかよ、商社マンとかよ、
そういうのになれエッっていう。銀行つとめろっとかいう。
しかし、そりゃおかしいんじゃない? そういうとこつとめりゃあ、えらいの?
そうじゃないだろう。問題は、そこで、どうちゃんとやってるか、
ちゃんとずるくなく、卑怯じゃなく、汚なくなく生きてるかってことでしょうが?
(……) しかしね、そんな事は、誰もいわないよ。
なんか世間体のいい仕事につけエっていう。この為に勉強しろオっていう。
仕事はなんでもいいから、ずるい人間になるな、とか、そういう事はいわない。
人格をみがけなんていわない。たーだ、勉強しろオっていう。
そんな事でいいのかね? いいのかね?」(P90)


おつぎはタクシー運転手の緒方拳の説教を第三話から。
説教する相手は、犯罪者に間違われたことで人間不信になってしまった青年。
緒方拳は商社マン時代の話から始める。
会社の方針にさからったら干された。すると、だれも味方になんかなってくれない。

「いい時には、それぞれ、癖はあっても、気のいい戦友だと思っていた連中が、
情けないほどみんなよそよそしくて、ひどいもんだ。
私生活でもダメージがあってね。タクシーならひとりでいられると思って逃げこんだ。
しかし、そんな自分が、情けないとも思っていた。
無理矢理他人の事に首をつっこもうとしたりもした。
そこへ君の話を聞いた。人と逢いたくない。人を信用出来ない。
他人事にまきこまれたくない。
自分の、あまり見たくない部分を見るような気がしたよ。
君を殴ったが、半分は自分を殴ったようなものだ。
たしかに、自分以外の人間はどこか分らない。
分っているつもりの人間も、突然思いがけない面を見せたりする。
不気味だ。たしかに、他人は不気味だ。
しかし、一人きりでいる、というのも――やりきれないじゃないか。
不気味でも、何処かで誰かとは、多少ましなつき合いが出来るんじゃないか、
と思って行くしかないんじゃないか?」(P141)
「最後の航海」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和58年放送作品。単発ドラマ。
青函トンネルが開通し、いまや青函連絡船は斜陽である。
おりしも、ある一等航海士が人生の夕暮れを迎えていた。定年退職するのだ。
小林桂樹演ずる本庄幹雄の「最後の航海」がしっとりと描かれる。
幹雄は同僚の開いてくれる送別会に乗り気ではない。
妻の文子(八千草薫)は、
幹雄がわざわざ「最後の航海」を通知する招待状を送っていることを知る。
どうしてこんなことをしたのか妻に問いつめられ、幹雄は白状する。

「俺だってな、四十年勤めてりゃあ、身投げも六人や七人は助けてる。
心から、ありがとうっていわれたこともあるんだ。(……)
通り一遍の送別会で一丁上りなんてのは、やりきれねえ。(……)
バカみてェに思うか知れねえが、最後の航海で、心からさ、
俺のことを、なにものかだと思ってる人にだ、来て貰ってだ。
あん時はああだったなあ、いまは幸せそうだなあって、そんなことを、
ちっとでもしゃべり合えたら、俺の四十年も多少は意味があったと思えるべ。
俺がいてよかった、俺が船で働いていてよかったと思ってくれる人にさ、
二人でも三人でも来て貰えたらって思ったんだ」

幹雄「それはな、それは、誰も来ないかもしれない」
文子「うん――(そうしたら、どうするの、と心配でうなずく)」
幹雄「俺だって、そんな甘かあない。だから、この事は、誰にもいうな」(P90)


生活するというのは、ありきたりな日常に耐えることである。
昨日とおなじ今日を生き、今日とおなじ明日を待つこと。
劇的なことなど起こってもらったら困る。平和がいちばんと思わなくてはならない。
けれども、こんな生活者にもありきたりではない日が訪れる。「最後の航海」だ。
この日くらいなんかあってもいいではないか。
ささやかであれ劇のようなものが自分の人生に生じてもおかしくはないはずだ。
生活者の願望はいじましくも切実である。

さて「最後の航海」にだれか参上するのか。
視聴者は先が知りたくてうずうずする。これこそドラマの王道である。
当日、老体をおしてかつての上司が来てくれた。
同僚の粋な取り計らいで妻の文子が乗船する。
男の仕事場に家族は入れぬという方針から、妻が夫の船に乗るのはこれが初めてである。
それから連絡船あてに電報がいくつか届いた。
こんなものである。招待に応じてくれたのはひとりきり。
だが、これでよしとしなければならない。悪くない「最後の航海」ではないか。

船は函館から青森へ向かう。青森港でのことである。
知った顔がひとり乗船する。うらぶれた水商売風の女。落合宮子である(賠償美津子)。
幹雄はむかし一度だけこの女と浮気をしたことがある。呑み屋の女だった。
向こうが本気になったと思った幹雄はすぐに女から去っていった。
自分はこの女を傷つけたのかもしれない。
平凡な人生のなかで唯一のボヤであった。
宮子には今日が「最後の航海」だとは知らせていない。
どこでこの「最後の航海」を知ったのだろうか。
妻もおなじ船に乗っているからばれてはいけない。あわてる幹雄である。
航海中は妻の相手をしながらも幹雄は宮子が気になって仕方がない。
身投げがおきる! てっきり宮子だと思った幹雄は狼狽する。
だが、身投げしたのは若い男だった。ぶじ救い上げられた。
宮子のすがたを発見した幹雄はかけよる。
話しかけたはいいが、宮子はまったく幹雄を覚えていなかったのである。

幹雄「忘れるなんて、忘れるなんて俺には――信じられない」
宮子「フフ、あの頃はね、毎日男を相手にしてたからね」
幹雄「――」
宮子「いちいち、情けないけど、憶えていないの」(P117)


愕然とする幹雄である。船は函館に戻る。娘や近所の人が歓迎してくれる。
妻と送別会に向かう幹雄である。こうして「最後の航海」は終わった。
「ダマスクスへ 第三部」(ストリンドベリイ/茅野蕭々訳/第一書房)絶版

→幕が開き、知られぬ人の仰ぎ見るのは、山上高くにそびえる白き僧院である。
第三部を書くにいたり作者ストリンドベリはようやく救われたとの感慨を持つ。
この三部作を書いたことでストリンドベリは地獄期を脱することができたという。
キリスト教への信仰に回帰したのである。
絶命する直前、病床のストリンドベリは聖書を胸に抱いて述べたという。
すべてここに書いてあると。
「ダマスクスへ」はストリンドベリが信仰を取り戻すために経なければならぬ旅であった。
第三部は、山頂の僧院での出家を目指す知られぬ人の道行きが描かれる。
またもや夫人がつきまとうのも全編共通したところである。
夫人は第二部で出産した赤子が死んだことを知られぬ人に伝える。
これもストリンドベリの実体験である。
知られぬ人は前妻とのあいだにもうけた娘と再会して旅立ちの決意を固める。
終盤、僧院に達した知られぬ人は、かの地で聖なる秘儀に参加する。
第三部のあらすじを簡単に紹介した。

男女間のあらゆる関係を闘争と見たのがストリンドベリである。
では、なにゆえ男女は争そわねばならぬのか。
ある事件の裁判がきっかけで男女問題の根本原因が突きとめられる。

僧院のある山中で知られぬ人は「誘惑者」と出逢う。
これから裁判があると誘惑者は言う。
同行を求められ知られぬ人は裁判を傍聴する。
ある若い男が殺人の罪に問われている。新婚の妻を殺したというのである。
厳罰を言い立てる聴衆に犯人は弁明する。
自分は3年ものあいだ妻となる恋人のために尽くしてきた。
ところが、妻には自分のほかに3人の男と密通していたのである。
殺人者は、自分は愛を守るために女を殺したのだと言い訳する。
なるほどそれなら男は悪くないと裁き手たる聴衆は犯人を許す。
ここで登場するのが殺された娘の父親である。
父親は娘の弁護をする。
うちの娘がああもヤリマン(淫乱)になってしまったのは、ある男に誘惑されたのが原因だ。
聴衆はその男の名を父親に問う。罪のある男はこの場にいると父親は告げる。
知られぬ人の横に立つ誘惑者こそ娘を悪徳の道へ誘い込んだ張本人であった。
集会者は誘惑者を吊るし上げようとする。
だが、誘惑者にも言い分はあるのである。
自分は長いこと潔癖であった。決して堕落せぬよう注意して生活していた。
それがある女に誘惑されてついに肉欲のよこしまな世界に沈んだ。
悪いのはあのときの女である。すると参会者のなかから名指しされた女が現われる。
「罪また罪」で際限がない。

官吏「諸君、私は議論を中止しなくてはなりません。
それでないと我々は極楽のイヴまで遡ることになる……」
誘惑者「あのアダムの青春を誘惑した女ですね。
丁度其処まで我々は行かうと思つたのです。
イヴ、出ておいでイヴ。(外套を空中にふり廻す)」
(樹の幹が透明になり、髪に蔽われ、腰に帯をしたイヴが現はれる)
誘惑者「さあ、イヴ、お母さん。あなたは我々の父を誘惑しましたね。
被告人。あなたは何か弁護することがありますか」
イヴ「(簡単に威厳をもつて)蛇が私を誘惑したのです」
誘惑者「よく答へた。イヴの言訳は立つた。出ろ蛇、蛇」
イヴ「(消える)」
誘惑者「出て来い。蛇」
(蛇が樹の幹の中に現はれる)
誘惑者「諸君我々凡ての誘惑者が此処にゐます。さて、誰がお前を誘惑したんだ」
凡ての人々「(驚いて)静(しい)つ。神聖を涜す奴め」
誘惑者「蛇、答へをせい」
(電光と共に雷鳴。倒れた誘惑者と、巡礼と、知られぬ人と、夫人との他はみな逃げる)
誘惑者「(寝ながら、しかし元気を回復しながら、
古代彫刻の「砥師」又は「奴隷」に等しいやうな位置になる) Causa finalis
即ち最後の原因は――さう、それは解らないんだ。
……しかし若し蛇に罪があるなら、我々は比較的に罪が無いのだ。
――だがそれは人間には云つてはならないのだ。
……兎に角、被告は此の事件からは免れたやうに見える。
さうして法廷は煙のやうに消えてしまつた。さうださうだ。
審判(さば)いてはいけない、審判いてはいけない、裁判官」(P413)


言わずもがなだが、聖書の創世記までさかのぼっているわけである。
なにゆえ男女は争そわなければならないのか。
イヴがアダムを誘惑したからである。
ところが、イヴをそそのかしたのは蛇である。
さあ、この蛇を登場せしめたのは何者か。もしや全知全能のあのおかたが――。
ここで思考を停止するのである。ここから先は進んではならぬ。
文豪ストリンドベリが到達した愛欲地獄の源泉である。
男女間の闘争をも偉大なる神は嘉(よみ)してくださるとしたらば――。
苦悩する天才、絶望する狂人、ストリンドベリに与えられた救済である。

第三部で「ダマスクスへ」はいよいよ完結する。
ストリンドベリの苦悶する魂もいっときの安息を得たのである。
さあ、壮大なる問いへ向き合おう。男にとって女とはいかなる存在か。

知られぬ人「考へてみよう。女を憎むといふのか。――憎むのか。
……それは私はしたことが全くない。逆だ。
八歳の時から私はいつも一つの熱狂を、一番喜んで無邪気な熱狂を持つてゐた。
さうして火を吐く山のやうに三度恋をした……。
しかしお待ち、私がいつも感じたのは、女が私を憎むといふことを……
それから私をいつも苦しめたといふことだ」(P387)

誘惑者「(現はれる)何を夢想したんだい。話し給へ」
知られぬ人「私の最も好ましい希望であり、
私のぼんやり持つてゐる憧憬であり、又私の最後の祈祷でもある……
女性によつての人類との和解です……」
誘惑者「君に憎むことを教へた女性と……」
知られぬ人「それは丁度私を此の地球に結び附けてゐるからです。
奴隷が逃げられないやうに足に引張つて歩いてゐる円い球のやうに……」
誘惑者「ははあ、女性、いつも女性だ」
知られぬ人「さうです、女性です。始で終だ。――少なくとも我々男子にとつては」(P418)

知られぬ人「私はお前を見ることの出来るために
或る距離を保つてゐなくてはならないんだ。
今お前は焦点の内側にゐる。それでお前の姿が不明瞭なんだ」
夫人「近づく程遠いのですね」
知られぬ人「お前はそれを云ふんだね。
……しかし我々が離れると、お互に憧れあふ。
さうして再び逢ふと離れることを望むのだ」(P430)
「ダマスクスへ 第二部」(ストリンドベリイ/茅野蕭々訳/第一書房)絶版

→相も変わらぬ夢うつつのなか、知られぬ人は夫人と苦しめあう。
知られぬ人は実験室で錬金術の研究に没頭する。
金の製造に成功したと思い祝賀会に参加するものの、
実のところ詐欺に遭っていただけのことであった。
祝賀会の開催費用を払えない知られぬ人は牢屋に収監される。
出獄して夫人の実家へおもむくと夫人は赤子を出産している。
この子が本当に自分の子か疑心暗鬼にかられる知られぬ人である。
夫人も復讐のために子の父親についてあやふやなことを告げる。
狂気におちいった知られぬ人は酒場で呑んだくれる。
まったく出口(救い)らしきもののない、暗くよどんだ迷路のような芝居である。

いままでどうしてストリンドベリほどの近代的知識人が、
あろうことか錬金術のとりこになったのか理解できなかった。
本作品を読んで、ようやく理由がわかった。
ストリンドベリにとって錬金術とは、すべての価値の破壊を意味した。
かなりの分量だがとてもおもしろいので引用したい。

知られぬ人「私が何者だといふのかい。
私は未だ誰もしなかつたことをした人間だ。
黄金の小牛を倒し、商人の帳簿を覆す人間だ。
私は地上の運命を坩堝(るつぼ)の中に入れてゐる。
さうして一週間で金持の中の一番金持が貧乏になるんだ。
間違つた価値の標準となつてゐる黄金は支配力を中止して、
総べての者が等しく貧乏になるんだ。
さうして人間は塊になつてゐるところを擦られた蟻のやうにあるくんだ」
夫人「それが私たちに何の役に立つたでせう」
知られぬ人「あなたは私が自分たちや他人を金持にする為に
黄金を作ると思つてゐるのか。さうぢや無い。
全体の世界の秩序を力の無いものにし、破壊するためなんだ。
ねえ、私は破壊者だ、分解者だ、世界を焼く人間だ。
さうして若し総べての物が灰燼(かいじん)になつてしまつたら、
破片の間を歩いて、これは私がしたんだ、
最終だと云へる世界歴史に私が最後のペエジを書いたのだと考へて喜ぶだらう」(P284)


キチガイというほかないが、なんという破壊思想であろう!
万物の頂点に位置するのは金である。
紙幣貨幣は金本位に裏づけられた虚構に過ぎぬ。
ならば、もし錬金術に成功したら世界は崩壊する!

崩れ落ちよ、世界よ潰えてしまえ!

荒廃した精神のただなかでストリンドベリは世界の破滅を熱望していたのである。
これがかの天才(狂人)にとって錬金術の意味することなのだ。

安酒場で泥酔した知られぬ人はおのれが「夜の労働者」に囲まれていることを知る。

知られぬ人「……之はみんな死んだ人達なのか。
町の下水の泥溝から上つて来たやうに、
又は地方監獄や、養育院や、病院から出て来たやうに見える。
夜の労働者だ。
悩み、喘(あえ)ぎ、呪ひ、争ひながら彼等は互に苦しめ合ひ、卑しめ合ひ、妬む」(P323)


ストリンドベリ・ワールドである。以下、同様。

乞食「永遠なる御力よ。この男(=知られぬ人)の理性をお救ひ下さい。
此の男は総べての悪を真実と思ひ、総べての善を虚言だと思つてゐます」(P330)


知られぬ人「何故我々は逢はなければならなかつたのか」
夫人「お互を苦しめる為にね」(P342)
「ダマスクスへ 第一部」(ストリンドベリイ/茅野蕭々訳/第一書房)絶版

→「ダマスクスへ」はのべ3年の時を経て完成したストリンドベリ晩年の戯曲大作。
三部からなる長編戯曲はゲーテの「ファウスト」と比較されることもある。
表現主義戯曲、象徴主義戯曲のさきがけとなった作品でもある。
どういうことか平易に説明すると、リアリズムではないということに尽きる。
我われの生活シーンとは異なる芝居である。
すなわち、時間・空間・背景が非リアリズムである。
実際には起こりえぬ現象が舞台で繰り広げられる。
「ダマスクスへ」はストリンドベリの地獄期を描いたものとされる。
精神分裂病が悪化して強制入院までさせられた晩年の数年を、
作者は地獄期と命名している。
通常の精神病患者の場合、狂気の世界へ行ってしまうと戻ってこれない。
運よくこちらがわに帰ってきても、目撃した狂熱世界を記憶していないのが大概である。
だが、天才ストリンドベリはおのれの目に映ったまがまがしき狂的世界を、
劇作として昇華することに成功した。「ダマスクスへ」である。

精神分裂病が、現実への夢の侵食であることがよくわかる。
第一部が開幕すると、ストリンドベリを思わせる「知られぬ人」が広場にたたずんでいる。
かれは何もかもがわからない。
なぜ私が存在しているのか。なぜここに立っているのか。どこへ行けばいいか。
何をなすべきかもわからない。まるで夢の世界である。
知られぬ人のまえに夫人が現われる。
この夫人を追いかける。逆に追いかけられる。
出逢うが一緒にいると耐えられず別れる。ところが、別れるとお互い狂おしいほど恋しい。
「ダマスクスへ」の長大な物語を要約すれば、この繰り返しである。

夫人はストリンドベリがいままで出逢い別れてきた女性の混合体として描かれる。
夢は現実の影響を受けるが、決して現実そのものではないのと同様である。
夫人は医師と結婚している。知られぬ人は医師から夫人を奪うのである。
ストリンドベリの最初の結婚相手が男爵夫人だったことと共通している。
ストリンドベリにとっての男爵が、知られぬ人に対する医師の関係である。
知られぬ人は医師への罪悪感に苦しむ。
この医師は乞食、贖罪師と何度もすがたを変え登場する。
ストリンドベリにとって普遍的な敵の象徴といえよう。
突如、少年時代の忌まわしき記憶がよみがえる。
知られぬ人は窃盗の罪を友人になすりつけたことがあった。
おなじ苦しみである。他人のものを盗む。人間はおなじあやまちを幾度も繰り返す。
知られぬ人は夫人と逃避行におもむく。夫人の実家をめざすのである。
実家の父母はどちらも知られぬ人を嫌悪する。
みなが自分を嫌うのは自身が呪われた存在だからだと男は思う。
かれがひとり山道を歩いているとき事故に遭う。
気づいたら救護院のベッドのうえである。3ヶ月もここに入っていたと知らされる。
これはストリンドベリの精神病院体験と相応すると思われる。
知られぬ人は夫人を探す旅に出る。おりしも夫人も知られぬ人を探す旅の途次にいた。
第一部の終わりでふたりは再会するが何も解決することはない。

「ダマスクスへ」の救われない陰鬱さをいくつか紹介したい。
まるで悪夢のようである。そのうえ夢固有の神秘めいたところもある。
我われは夢のなかで人生のからくりをかいま見ることがまれにある。

知られぬ人「何かして貰ひ度いことがあるのかい」
夫人「ええ、一つ。あなた私を殺して下さい」(P152)

知られぬ人「――判決は下された。
しかしそれは私が生れない前に下されてゐたに相違ない。
何故かといふと、私は子供の時にもう罰をうけ始めたのだから……
私の生涯には喜んで顧ることの出来るやうな点は一つもない」(P158)

知られぬ人「今こそ手袋が投げられたのだ(=決闘の合図)。
さああなたは偉大な者同士の接戦を見るだらう。
(上着と胴着をあけ、驚異的な目を上に投げる) さあ、来い。
やるなら、お前の電(いかずち)でおれを打殺してみろ。
出来るなら、お前の嵐でおれを驚かしてみろ」(P162)

(夫人の)母「あなたは未だ疑つてゐるのですか」
知られぬ人「さうです。種々の事を。また沢山の事を。
しかし茫乎(ぼんやり)と解りかかつて来てゐることが一つあります……」
母「と仰しやると?」
知られぬ人「私がこれまで信じなかつた種々の物や……力があるといふことです」
母「あなたの数奇な運命を操つてゐるものは、
あなたでも他人でも無いことにお気がつきましたか」
知られぬ人「丁度そのことが認められるやうに思ふのです」(P207)


第一部の終わりで知られぬ人は医師に再会しなければならぬと思う。
おのれが妻を奪ったあの医師にである。

知られぬ人「私はある――病院に病んで臥てゐました。
熱があつたんです……しかしそれは非常に変な熱でした」
医師「何がそんなに特殊だつたのです」
知られぬ人「かういふ質問をしてもいいでせうかね。
人は覚めていながら、それで妄想に耽ることが出来ますかつて」
医師「あります、気が狂つた時には。ですがその場合に限りますな」(P238)
「最初の警告」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→一幕劇。婦人にとってストリンドベリから愛されるのはたいへんなことなのである。
ストリンドベリは女性嫌悪で知られているが、同時に女性崇拝も持ちあわせている。
二種の女性観はこの男にとってコインの裏表なのだ。
ストリンドベリは女性の美を絶対化して崇拝する。
だが、むろんのこと女性とはいえ人間である。絶対美にはなりえぬ。
ストリンドベリは不満である。がために女性を苛烈に攻撃する。
ひどい嫉妬妄想の持ち主であったといわれている。
妻が絶対的に美しいとする。ならば、ほかの男が放っておくわけがない。
天才の脳内で美は嫉妬に変換される。
こうして妻を独占しなければ気が済まなくなる。
妻がちょっと下男と話しただけで色目を使ったと思い込む(責める)。
女友達のひとりでもいようものなら同性愛を疑う始末である。
ストリンドベリと結婚するには、他の人間関係をすべて断ち切らなくてはいけない。
妻にしてみれば、たしかに愛されているのである。激烈な愛だ。
だが、この作家の愛に応えられる生身の女性はいないだろう。
ストリンドベリの結婚が毎回、数年で破綻するのはこのためである。

「最初の警告」は作者自身の夫婦生活をモデルにした劇作である。
嫉妬深い夫は妻にこんなことを言う。

主人「お前がさつさと年を取つて、見つともなくなつて、あばたが出来て、
歯がなくなつてしまへばいいと思つたこともどの位あるか知れやしない。
それと言ふのも、ただお前と言ふ者をわたし一人でかかへ込んで、
このいつ迄も止むことのない不安な心持をなくしてしまひたいばかりなのだ」(P609)


ストリンドベリはこの男の妻にこんなことを言わせる。

細君「わたしつい、あなたを憎んだことなんぞありませんわ。
ただ軽蔑するだけよ。なぜでせうね。
多分すべて男の人の方から――さあ、なんと言ふのでせうね――
まあ惚れて来るのだわね、さうするとすぐに軽蔑してやりたくなるわ」(P611)


コケットな女である。わざと男の嫉妬をかりたてるようなことを言う女がいる。
ストリンドベリが好んだのはこのたぐいの女だったのだろう。
いや、概して男はこういう女にまいってしまうものである。
なぜなら嫉妬は苦しいのはもちろんだが、あの燃え立つ感触はまた快くもあるからである。
旦那を亡くした宿の女主人に、ストリンドベリを思わせる主人公は語りかける。

主人「失礼ですが奥さん、あなたは御主人を失つたよりも、
寧ろ嫉妬の相手を失つたのが惜しいのですね」
男爵夫人「さうかも知れません。わたしの嫉妬は、
わたしをあの幻につなぎとめた目に見えない絆でしたから……」(P623)


訳者の楠山正雄による解題も紹介する。
ストリンドベリに従えば、妻の美が失われゆくのもまた夫の喜びとなりうる。

「『最初の警告』は作者自らが最初の妻との間に経験したそのままを
脚色したのださうである。作者の妻が初めて前歯を失つて、
わづかに老の至つたのを感じたといふ事実によつて作つたので、
作の題ももと『最初の歯』と呼ばれたのを、
後に本にする時今のやうに改めたのだといふ」(P7)
「きづな」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→一幕悲劇。裁判ものである。あらそうのは男爵と夫人。
いわゆる離婚訴訟である。問題になっているのは子どもの親権。
裁判のまえに男爵夫妻は話し合い協定を結ぶ。
最悪の事態だけは防ごうとの考えで両者一致するのである。
最悪の事態とは、子どもを陪審員のもとで育てる、という判決だ。
こうなったら子どもの成育環境は最悪である。
最低でもどちらかに親権が残るようにしようと夫婦協定を締結する。
ところが、いざ裁判が始まると、双方憎悪が積み重なるばかりで、
壮絶な暴露合戦が展開される。

夫人は男爵の浮気を告発する。
あたまに来た男爵は、最初に浮気をしたのは夫人だと言い放つ。
これは夫婦間のタブーになっていたらしく夫人は顔色を変える。
しかし、夫人はほくそ笑む。証拠の恋文は夫婦同意のもとで焼いてしまった。
夫人は自分は密通などしたことがないと言い張る。
裁判官に問われ神にかけての宣誓までする。ふふふ、証拠がないのだから!
これで夫人は優位に立つかと思いきや、ところがところが。
男爵は不倫の証拠の恋文を取り出す。こっそり写しを取っていたのである。
神かけての宣誓まで虚偽であったと夫人はばらされたのである。
結局、判決は夫婦がもっとも望まぬものとなる。
子どもは夫婦から取り上げられ、品性下劣な陪審員の家で育てられることが決められる。
この訴訟はなんだったのか。めいめいの言葉を引きたい。

男爵夫人「ああ、わたし達は何をしたのでせう。
腹立ちまぎれに何をやつたのでせう。
男爵と男爵夫人が裸になつて、お互に鞭打ちあふのを見たら、
世間の人はさぞ喜ぶだらう。
――おお寒い、まるで裸のままでゐたやうに」(P491)

男爵「いけない、いけない。
――わたしかお前か、どちらか一人滅びなくてはならない。
お前か、わたしか」(P492)

判事「とにかくお互に愛し合つた二人の人間が、
却つて相手を滅さうとしてゐるのは見るも恐しいことですね。
そつくり戦争でも見てゐるやうです」
牧師「これが愛ですよ、判事」
判事「では憎みといふのは」
牧師「憎みは、着物の裏ですね」(P495)


翻訳者の楠山正雄は本書の解説で実に的を射た要約をしている。
これもあわせて紹介したい。

「愛情の結合から離れ、更に法律上の関係から離れても、
夫婦はやはり「子供」といふ「きづな」に依つてつながれてゐる。
夫婦がいかに憎み合つても、憎みのどん底までつき詰めて行くと、
そこに愛の天使が悪鬼のやうな父母に笑ひかける。
けれども人情を超越した裁判の結果、子供は相争ふ二人から取り上げられて、
十二人の陪審員の中の最も愚昧な二人に預けられる。
絶望した男女は法廷の夕闇の中に恐しい空虚を見つめながら、
むだな夫婦の争ひの跡を悲しく回顧する」(P8)
「賤民」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→一幕劇。ふたりの男がいる。X氏は考古学者。
Y氏はアメリカ帰りというほか素性定かならぬ男でX氏宅に寄寓している。
ふたりの男のまえに金塊がある。
X氏が他人名義の土地から無断で掘り出してきたものである。
考古学者は迷う。研究のためにこの金塊を金銭に換えていいものだろうか。
正直に告白してしまったら、大部分を土地所有者に取られてしまうだろう。罪とはなにか。

金をまえにして人間のやることはひとつしかない。
X氏とY氏はお互いを探りあう。X氏はY氏が前科者であることを見抜く。
どうして見抜くことができたのかX氏は語る。
自分にも罪を犯した記憶があるからだという。
青年時代のことである。乗っている馬車が事故を起こした。
転倒したX氏は怒りから御者をぽかりと殴ったら、あろうことか死んでしまった。
しかし、このことは事故ということで片付いた。
死んだ御者には妻子係累ひとりもいなかったのでさほどの罪だとは思っていない。
悪気はなかった。殺すつもりなどつゆほどもなかったのである。
Y氏の罪状は手形の詐欺である。こちらは露見してアメリカで服役した。

Y氏は思うわけである。どうしておなじく罪を犯したものなのにこうも待遇が異なるのか。
いままでびくびくしていたY氏は豹変してX氏を脅迫する。
金を渡せというのである。おまえだけ得をして不公平だというのが理由である。
X氏は脅しに屈せず、逆にY氏をどやしつける。
いますぐ警察官を呼んでやろうか。私は自首をしよう。だが、おまえも捕まるのだぞ。
たしかにアメリカで服役したのだろうが、この地ではまだ裁かれていない。
おまえはもう一度刑務所暮らしをすることになる。
それが嫌ならいますぐここを出て行け!
Y氏も負けていない。手紙を書いてやろうかというのである。匿名の手紙。
X氏の妻に宛ててだ。おまえの旦那はむかし殺人を犯した卑劣漢だ!
これにはまいったX氏だが、なお負けを認めようとしない。
強がるのである。あの殺人のことなら結婚まえに妻に話してある。
手紙など送られても、ちっとも困らない。ついにX氏はY氏を屋敷からつまみだす。

ここで閉幕である。いかにもストリンドベリらしい人間不信の劇である。
ストリンドベリにとって人間関係は闘争以外のなにものでもない。
勝つか負けるかしかないのである。
人間は勝つために相手の弱みをにぎろうとする。
よしんばおのれの弱点を知られたら、
それを帳消しにするほどの傷を相手から見つけださなければならぬ。
劇作「賤民」は、ふたりの罪びとがお互いを賤しめあう、なんともやりきれぬ芝居である。
「なかま同士」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→劇作「なかま同士」は、おなじく自然主義戯曲の「父」と対になっている。
こう指摘するのは訳者の楠山正雄である。
また楠山はストリンドベリの女性観におもしろい表現を与えている。
ストリンドベリは女を吸血鬼だと思っている。
そして、作品に登場する女はみなみな吸血鬼的である。
見事にして的確な評言といえよう。
この見かたは引き継がれ山室静も「痴人の告白」解説で吸血鬼的と用いている。
楠山正雄の解説に戻ろう。
楠山によると、「父」では吸血鬼的な妻が夫を打ち負かす。
すなわち、妻が娘と共謀し夫を狂人に仕立て上げ家庭から追放する。
これに対して「なかま同士」は、夫が吸血鬼的な妻を打ち負かす筋立てである。
たしかにふたつの作品はおなじテーマのもと描かれている。
違うのは結果のみである。夫が勝つか妻が勝つか。男が負けるか女が負けるか。

夫は知られた画家である。妻も最近になって絵を学び始めた。
むろん夫が直々に教えてやることもある。
そればかりではなく夫が金を払って、妻を絵画教室にも行かせている。
いま夫婦はおなじコンクールに出品したところである。
夫の作品は入選確実と言われている。問題は妻である。
ずるがしこい妻は画家の夫に頼み、選者へ根回しをしてもらう。
おりしも妻は夫の絵が落選したことを知り小躍りする。
これで自分の作品が入選すれば夫婦の立場は逆転する。
妻は自作が入選確実という情報を仕入れる。
いままで自分を見下してきた夫にはこっぴどく復讐してやらなければならない。
妻は自宅でパーティーの計画を立てる。同日に落選作は送り返されてくる。
みんなの見ているまえで夫を笑いものにしてやろうというのである。
ところが、いざ落選作をあけてみると、それは妻の描いた絵であった!
夫は妻の出世を願い、出品の番号を取り替えておいたのである。
夫と絶縁して画家として独り立ちする予定だった妻は、
傷心のていで屋敷をあとにする。夫の完全勝利に終わったわけである。

読後、なんとも爽快な気分に包まれる。
こざかしい女郎(めろう)が男性の援助を受けながら男性社会に進出してくる。
そのあげく女は、女性は男性よりも優秀だと主張するのだから。
男に媚び成り上がった女が、恩をあだで返すかのごとく男の頬を張ろうとする。
こういった生意気な女をストリンドベリは劇作で糾弾したのである。

「なかま同士」における夫婦の主張を取り上げてみよう。まずは妻から。

「ええ、昔は、昔の夫婦関係では、さういふもの(=夫は妻を扶養)でしたわ、
けれどもわたし達はさうしたくないのです。
わたしたちは仲間同士でありたいと思ふのですよ」(P126)


対する夫の言い分はこうである。

「……わたし達は決して仲間ではない。
仲間としてお前達が何の頼りにもならぬといふことをわたしは痛感してゐる。
仲間といふ以上、大なり小なり信義のある競争者であるのに、
わたし達は始めつから敵同士なのだ。
わたし達(=男性)が鎬(しのぎ)を削つてゐる最中に、
お前達(=女性)は藪の陰にねころんでゐる。
そしてわたし達が食卓を用意した時分には、
お前達はもとからこの家の人のやうな顔をしてぬくぬくと座り込むのだ」(P145)
「白鳥姫」(ストリンドベリ/山室静訳/学研)絶版

→ストリンドベリはこの童話劇を3番目の妻に婚約の記念として贈呈した。
3人目の被害者は年若き女優である。
つくづく女は馬鹿だと思う。どうしてこの狂人の求婚を受けいれてしまうのだろう。
この時点でストリンドベリ52歳はバツ2(離婚歴2)である。
「痴人の告白」を読めば、この天才がいかなる男かわかるだろうに。
ストリンドベリはこの長編小説で1回目の結婚生活の詳細を暴露している。
内容は一方的な被害妄想。
作者は小説で妻を殴ったことを告白している。
それどころか元妻の性器の形状まで公開しているのだから。
2番目の妻とのいさかいの原因となったのも「痴人の告白」である。
ストリンドベリが読むなと禁じていたこの小説を夫人は読んでしまったのだ。
なぜ若く美しい女優がストリンドベリの3番目の妻になることを決意したか。
女の虚栄心というものであろう。
文名高い大作家が自分ひとりのために作品まで書いて愛を告白してくれた。
いくら地獄が待ち構えていようともこの求愛から逃れられる女はいまい。

「白鳥姫」は童話劇である。愛のすばらしさが描かれている。
白鳥姫は継母(ままはは)に意地悪されている。
実はこの継母は魔女で、あやしげな魔術を用いて白鳥姫を監視している。
父親の公爵は妻の正体を知らない。
公爵が戦地へ向かったのち、白鳥姫の教育係として他国の王子がやって来る。
ふたりは禁じられていた恋をしてしまう。
継母はふたりの仲を裂こうと悪だくみの限りをつくす(かわいそうな白鳥姫!)。
戦禍はこの屋敷に迫る。王子は他国へ戻らなくてはならない。
引き離される白鳥姫と王子である。
継母の魔の手はひとりとなった白鳥姫を抹殺せんとする。
ああ、白鳥姫が姦計にしてやられてしまう。
そのとき父の公爵が帰還して、あらゆる悪だくみが露見する。
おりしも王子の亡骸(なきがら)が運ばれてくる。
国へ戻る途中、嵐に巻き込まれ水死してしまったのである。
いまもうひとり死なんとしているものがいる。
魔女の正体がばれてしまった継母が公爵から罰せられようとしているのだ。
心優しき白鳥姫は父の公爵に継母の助命を懇願する。
かたきの命乞いである。父は娘の願いを聞き入れる。
継母は白鳥姫の愛に打たれ、改心して真人間となる。
しかし、かわいそうなのは白鳥姫である。死んだ王子はなにをしても生き返らない。
継母は白鳥姫に語りかける。

「お前は愛することができて、人を許すこともできます……そうよ、
だから、お前にはどんなこともできるのです、万能の娘よ」(P316)


お前の手をあの人の胸の上にのせるのだ。そうして恋しい人の名前をお呼び。
かならずお前の声はあの人の耳に届くはずだよ。
言われたとおりに白鳥姫は王子の胸に手をおく。
耳元で三度、愛するものの名をささやいたとき――。
もはや決して動かぬと思われたものが息を吐き目を明け白鳥姫を見たのである。
愛は死という断絶すら乗り越えることができる!

だから結婚しないかい?
男根鬼ストリンドベリは女の耳元で甘く愛をささやく。
こうして3度目の愛憎地獄が始まったのである。
現代日本の閉塞感は異常だと思います。
いつ第二、第三の秋葉原事件が起こってもおかしくありません。
むろん、殺人はいけないことです。
しかし、人間は負けがこむと、いつしか復讐を誓うようになります。
この病をどうしたらいいか考えてみたいのです。

人生において、どうしようもなく人間はなにものかによってふるいわけられます。
勝つものと負けるものに、です。
これは近年日本で発見されたものではなく(「勝ち組」「負け組」!)、
世界各地で古代から現代まで変わることなく勝者と敗者は存在しました。
「負け組」のみなさんは自分を特別な人間だと思ってはいけません。
人生に負けた人間は過去にも他国にも信じられぬほど大量に存在するのです。
むしろ、勝利者のほうがめずらしいというのが正しいのかもしれません。

これから処方する負け薬は決してわたしが発明したものではありません。
古来より「負け組」のために与えられてきた慰めをリライトしたものです。
幼稚な思想だとバカにしないで、ぜひぜひまっさらな心でお読みください。
なぜというに、少なくともわたしには効いたからです。
この負け薬をのんだおかげで、わたしは自殺も殺人も思いとどまりました。
もちろん、あなたに効くかはわかりません。それがいちばん重要なことです。
けれども、試してみる価値はあるのではないでしょうか。

あなたは負けました。今後一切の勝利が期待できないとします。
そんなことは人間世界にはないと主張する人もいますが、完全な敗北はあります。
いくら本が好きでも失明してしまったらおしまいなのです。
知的障害を持って生まれたら、大学教授になることは不可能です。
脳卒中を発症して下半身不随になってしまったらセックスはできません。
回復不能のどうしようもない敗北は哀しいかな存在するのです。

負けたときに、その不幸をどう受けとめたらいいのでしょうか。
断じて努力ではありません。
あなたが不幸なのは努力しなかったからではありません。
努力できるのもまた才能なのですから。
そのうえいくら努力しても避けられない不幸はあります。
では、かの人の不幸はなにゆえでありましょうか。
あなたはわたしは、どうして不幸なのでしょう。
こう考えてみたらという提案です。
あなたが不幸なのは前世で悪いことをしたから。
前世であなたは悪をなしたのではありませんか。
だから、いま不幸が生じたと考えてみてはいかがでしょう。
前世のことは取り返しがつきません。
いまさらじたばたしても遅いのです。

なんで幸福な人がいるのか。
不幸なあなたはかならずやこの問いに悩まされたことと思います。
こう考えてみたらどうでしょう。
いま幸福な人間は前世で善をなしたから。
信じられないほど幸福な人間はたしかに存在します。
かれらは報われているのです。
現世のことではありません。前世でよほどの善行をなしたに違いありません。
こう思えば、あなたの不幸も成功者の幸福も一応の説明がつきます。
すべては前世が決めたことなのです。

さて、そうだとしたら、「負け組」はどう生きたらいいのか。
来世を信じることだと思います。
(あなたを不幸にする)前世があるのなら、かならず来世もあります。
あなたはいまがんばって生きているのでしょう。
自殺も殺人もしていません。なんと立派なことではないでしょうか。
(いえ、自殺も殺人もどうしようもなくなったらしても構わないのです。
その不幸ですら前世で決められていたことなのですから)
あなたは立派です。いま生きている。それだけでたいそうな努力だと思います。
かならずや来世で報われます。
来世で間違いなく幸福になれます。人生に勝ちます。

あなたは前世と来世について知りました。
このへんで落ち着いて周囲を見回してみませんか。
あなたは本当に不幸なのでしょうか。
現代日本に生まれてきたというだけでかなりの幸運かもしれません。
インドの低カーストに生まれたら、生涯成り上がりの夢さえいだけないのです。
アフリカの僻地に生まれたら、おとなになることでさえ難しくなります。
いえ、あなたが不幸なのは変わりありません。
あなたが自分を不幸と思うかぎり、あなたは絶対的に不幸です。
そして、その不幸はすべて前世のためなのです。

あきらめませんか。すべて前世が悪いのですから。
微笑みましょうよ。それでも来世があるのですから。
ここでこの負け薬の本質に向き合いましょう。
果たして前世や来世はあるのか。
もしあるのならば、この薬は効き目を見せます。
だが、もしないとしたらどうなるのでしょう。
この心配は杞憂です。我われはそこでとどまっていてはいけません。
なぜなら前世や来世の存在は、最先端の科学をもってしても証明できないからです。
だから、ないと即決するのはおかしい。
前世や来世がないこともまた現代科学では証明できないからです。
人間は前世や来世がないということを断言できないのです。
いまあなたはどこにいるか。信じるか信じないか、であります。
信じてみませんか、といまわたしはお誘いしています。
どうか御一考くださいませ。

*なお「勝ち組」のみなさまには本文無用。反論勘弁。
みなさまの勝利は努力のおかげ。おめでとうございます。あなたはえらい!
小説や漫画を読んでいて思いませんか。
テレビドラマや映画を見ていて思いませんか。
主人公がピンチにおちいると、なぜか偶然救助がやってくる。
自殺しようと思っていると、美女と出逢い相思相愛になる(頻出のため例示しない)。
大量殺人を企てていると、旧友に出逢う(ドストエフスキー「未成年」)。
言うまでもなく、現実はこうではありません。
年間3万人を超える自殺者は、死ぬ直前までなにかあると期待したことでしょう。
通り魔の加藤智大氏も実行する直前まで救いがあると思っていたはずです。
しかし、現実にはなにも起こらない。

小説漫画ドラマ映画はおかしいじゃないか、ということにならないか。
これらを詐欺だと訴えるものは、なにゆえいままでいなかったのか。
フィクションだからです。最初からウソだと断わっているゆえ、詐欺罪に相当しない。
真っ当なおとなは現実とフィクションを混同してはならない。
では、どうして多くの人間が初めから詐欺だとわかっている商品をあえて買い求めるのか。
わざわざ自分からだまされようとするのか。
現実が辛いからです。現実があまりにも味気ないからです。
びっくりするほど、なにもないからです。
だから、震えるような思いでフィクションにすがりつく。
現実をごまかす。もしかしたら明日なにかあるかもしれないと思う。
けれども、現実はやはりそう甘くなく、ちっともうまくなんかいきやしない。
苦しい。ため息が出る。小説を読みます。テレビを見ます。
翌日にはもう少しがんばってみようと思っている。
フィクションの効能であります。

わたしはフィクションを書いて生活するものになりたいと思っています。
ところが、書けない。どうやってフィクションを創造したらいいのかまるでわからない。
現実にはなにも「ない」のに、どうしてなにか「ある」ものが書けるのか。
わたしがぶつかっている壁です。整理してみます。
なにも「ない」から、フィクションを書け「ない」。
これがいままでの思考法です。だが、こう考えたら――。
なにも「ない」から、なにか「ある」ものを書く。
「ない」から「ある」を生みだすことがもしできたら――。
そのためにはどうしたらいいのか。また新たな壁に衝突したようです。
安いものが好きなんだよな。
好きなお酒を例にとると、ビール、日本酒、焼酎、ワイン、ウイスキー。
すべていちばん安いものを愛飲している。
トリスハイなんぞ、こんなうまいものがあっていいのかと思う。
4リットル2700円のウイスキーを炭酸水で割っただけのものがこれだけいける。
舶来のスコッチなどいらないくらいのうまさである。
ビールでいえば、わたしは第三の雑酒でもエビスビールでもおなじ感動を味わえる。

そもそもさ、思わないかな。高いのなんて、大したことないじゃん。
いい材料を使って作ればうまくなるのは当然。
ここで安物なのである。安価の最低品質の材料を用い、ある物品を製造する。
そこには知恵・工夫・努力といったあらゆる人力が求められる。
こうしてできあがった安物を、どうして金持連中はさげすむのだろうか。
安いということは、それだけ発明があるとは思わないか。
わたしはこの人力を味わいたいと思う。
将来、万が一出世しても、安物をバカにする人間にだけはなりたくない。
それは人間の力を軽視するということなのだから。
ちょっと視線を変えるだけで、いとも速やかに人間は幸せになれるのでしょうが、
その「ちょっと」がえらく難しい。
我われの生活には、こういうところがたぶんにあるように思います。
ほんとうにちょっとなのですが、そのちょっとがひどく困難に感じられる。
いま冷酒をのんでいます。2リットル980円の安酒です。
これがうまいのですね。今年初めてのむ冷酒だからかもしれません。
こんな美酒が世の中にあっていいのかとさえ思う。
トマトをつまんでいる。これも口にふくむと、実にいい味がします。
ただのトマトなのです。なんでもない、ありきたりなトマト。
けれども、「1個百円のトマト」という既成概念をとっぱらって、
このみずみずしい赤い食物に向き合うとぞくりとするような味わいがある。
それから水に似た透明な液体をのみほす。
これはいったいなんだろうと思う。名前を忘れてしまうのです。
すると、なんという美味と陶酔が与えられることでしょう。
そのものと向きあう。これがヒントなのかもしれません。
もしかしたら面倒な廃棄ペットボトルの処理も、またとない遊戯になるのかもしれない。
洗濯も食器洗いもおなじことです。自戒として書きました。
「どこまでもアジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)

→西原理恵子の漫画も仕方なく読んでいると、
カモがアル中の教科書みたいで笑える。典型的な症例である。
いまどきここまで悪化するアルコール依存症患者は少ないと思う。
おれも、朝から酒をのまなきゃなと思った。んで、2代目カモを襲名することにしよう。
それでもあと10年は生きられるのである。
カモの単著は3冊か。このくらいは超えなきゃな。
まずは嫁さん探しからだ。
どこかに第二の西原理恵子はいませんか~♪ ここにカモ2世がおりますよ~ん♪
「アジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)

→世間的には漫画家の西原理恵子のほうがはるかに有名らしい。
元旦那のカモちゃんこと鴨志田穣など、おまけみたいなもの。
反対である。わたしは西原理恵子がダメだった。
購読している「スピリッツ」で連載されていた「ぼくんち」がどうしても読めなかった。
ケチなので買った漫画雑誌はすべて読むと決めていたのにもかかわらずである。
しかし、なぜだか「ぼくんち」は人気があるという。わけがわからなかった。

本書は探していた本というほかない。
いままで西原理恵子の名前が邂逅を妨害していた。
こうしてこの書籍に出逢えた幸福をなんと表現したらいいかわからない。
飲兵衛が海外でメチャクチャやる話をずっと読みたいと思っていた。
まさしくこの本である。
アル中のカモちゃんのアジア体験記が、その内容だ。

ダメな人間の想像を超えるダメぶりがダメな視線から描かれている。
これほど癒されるものはない。
下には下の人間がいるのである。
その最下層の人間を、カモちゃんはさらなる下にもぐって観察する。
学者研究者とは、真逆の方法である。

カモちゃんは去年、42歳で死んでしまった。
「大人のための文章教室」(清水義範/講談社現代新書)

→本書の効能を知りたかったらアマゾンのレビューを見るべし。
文章力がついたかどうか一目瞭然のはずである。
なんて、皮肉を言ってはいけませんね。
アマゾンのレビューなんて2ちゃんねるの書き込み以下ですから。

この本は、えとあのその、なんと言えばいいのか。
模範の文章を、作者自身がお書きになっているのですが、ううん。
まさかプロの作家先生の筆なる文章を素人のわたしが、そのう。
模範文が、模範文が、模範文が……。

清水先生はとてもいい人なのでしょう。
けれども、思ったのは性格の悪い人間ほどおもしろい文章を書くのではないか。
だから、先生はとっても立派な人なんです。
105円で買って1時間で読んだ新書にこれ以上意見すべきではないと思う。
「すぐに稼げる文章術」(日垣隆/幻冬舎新書)

→アマゾンの素人レビューを叩いているところが笑えた。
ほんとアマゾンのレビューってひどいもんね。
あんなもんを参考にして本を買うものの気が知れない。
わたしがアマゾンのレビューを読むのは当該書籍を読了後。
もちろん、半笑いでだよ。
どんなおバカな感想文があるのかなと。
バカがインテリぶって書いた文章ってバカ丸出しだと思わない?
いっぱしの知識人ぶって覚えたての難解語を用いるかわゆさよ。
テキトーな脳内統計だけど、アマゾンのレビューで参考になるのなんて、
1割いかないと思うね。

で、本書がアマゾンレビューを叩いているからか知らんけど、
この本もアマゾンのおバカさんたちからすごい攻撃を受けている。
どれもピリッとしないんだよな。
へたくそな批判でかえってお里が知れますよというか。
いくつかあったのがタイトルへの批判。
「すぐに稼げる」とついているが、本文では1万時間以上の努力を推奨している。
これが詐欺だのなんだのと鬼の首でも取ったかのようにはしゃいでいる。
アマゾンのレビュアーって白痴が多いんですか。
「すぐに稼げる」なんて惹句を真に受けるおまえらはあたま大丈夫かい?
へんな宗教とか詐欺商法で大金を失っても知らんよ。

「インパクトのある文章の正体とは、
読んだ人の3割から反発を招く文章だと考えてください。
逆に言うと、3割程度の人から反論や反発が来ない文章というのは、
たいした中身ではないということです。たいしたことのない文章とは、
つまり、たいして人には読まれないということですね」(P135)
「教員室」(山田太一/中央公論社)絶版

→芝居台本。初演は昭和60年。元はテレビで放送されたものを舞台化している。
このテレビ版ならツタヤで借りて観た記憶がある。
幸か不幸か、ほとんど内容を覚えていない。
この戯曲を読んで改めて山田太一が天才脚本家であることを思い知らされた。
というのも、これは作り手からしたら、とんでもなく難しいドラマなのである。
ひとつの場面に大勢の人物を同時に登場させて、
なおかつ人物を描きわけるというのはプロでもかなり困難なのではないか。
たとえば、レジナルド・ローズの「十二人の怒れる男」である。
「教員室」では、かの古典的名作のさらにうえをいく15人もの人間を、
一場面に登場させている。
そのうち校長、教頭、用務員は役職つきだから役柄も想像つく。
だが、残りの12人は性別、担当科目が異なるだけの、ただの教師である。
読むまえにはうんざりしたが、いざページをめくると、
実にうまくこの12人が書きわけられている。

この中学校の教師は2年9ヶ月まえ、生徒を殴らないという決まりを作った。
ところが、この日、赴任してきたばかりの教師が札付の不良を殴ってしまった。
不良少年は「教員室を血の海に沈めてやる」と言い残し逃げ去った。
さあ、どうするかである。生徒への暴力を解禁するか。
それでも、あえて殴らずをつらぬくか。殴られっぱなしで生徒へのしめしがつくのか。
理想をいえば殴らないのがいちばんいい。話し合えばわかると信じたい。
しかし、現実はそう簡単にはいかない。
教師によって反応はまちまちである。教員室にも派閥があるのだ。
暴力断固反対を主張しつづける理想に燃えた若手教師集団。
これを機に暴力で風紀を取り締まろうと狙う校長および体育教師のグループ。
学校のことよりプライベートのことを優先したい教師もいる。
理想を説く教師は、恋人がいるのかと揶揄される。
恋人がいないから人間の不合理さがわからないのだと批判される。
いや、問題は子どもを理解することだと独身教師は反論する――。
このような議論がえんえんと続くのだが、息をのむほど刺激的だった。
芝居のおもしろさ――人間のおもしろさ――人間と人間が相対するおもしろさを満喫する。
雰囲気を味わっていただければと、ほんの一部分を抜粋する。
(引用文における話者の性別は、最初の宇佐美のみ女性で残りは男性)

宇佐美「(中略)血の海は大げさていわれましたばって、私は、
あの子らはやりかねンと思います。そんな簡単に安心出来ません」

中沢「ぼくもそうです。奴ら、得体が知れませんけン」

小林「君がそげなこというて、どげンする。
教師が子供のこと、得体が知れんというたらしまいたい。
得体は知れとるとよ。俺たちも子供だった。その頃と、どう変っとるていうとね?」

中沢「変っとるやなかですか」

小林「表面的なことばい。心のあり方が、たかが十年や二十年で、変るもんやなか」

中沢「そうでッしゃろか」

小林「たしかにとりまく社会状況が変っとる。だけん、現われ方も変っとるばってェ。
仮に俺が、いま子供で、この状況の中で中学生やったら、
いまの生徒と似たような反応示すやろうと思うね。少しも不可解ではなか」

岩島「んにゃあ人間は不可解です。同世代でも不可解。他人は全部不可解です」

小林「私は哲学や文学の話ばしとるんじゃありまッせん。
教育するもんの姿勢ばいうとるとです」

岩島「私もそうです」

小林「(相手にせず)たとえば俺は、中学ン時、いじめっ子やった」(P208)
「早春スケッチブック」(山田太一/中央公論社)絶版

→芝居台本。昭和59年初演。
テレビドラマ「早春スケッチブック」を舞台化したものである。
かのテレビドラマは山田太一の最高傑作との呼び声も高い。
わたしのいちばん好きな山田太一作品も「早春スケッチブック」である。
シナリオは何回も読んでいるし、借りてきたDVDは全12回を1週間で2度も観た。
山田太一でなにかひとつと問われたら、この「早春」しかないと思う。

舞台版も楽しみにしていたのだが、期待は裏切られた。
テレビドラマのダイジェストになってしまっているのである。
芝居のメリットは、ひとつの場面でじっくりと人物を煮詰めることができること。
あたかも最初は冷たい水だったのが沸騰するようにである。
なのに、この作品では、テレビのように場面をぽんぽん飛ばしてしまっている。
わざわざ舞台でやる意味がわからない。

ストーリーもおかしなことになっている。
「早春スケッチブック」のテーマは、いうなれば日常と非日常の対立である。
生活者と表現者の衝突といってもよい。
なんとかごまかしながら幸福な生活を送っている一家に、
死期の迫った非常識人が襲いかかるというのが物語だ。
堅実な生活を送るお父さんがテレビドラマでは輝いていた。
だが、この舞台版では、かれがただのダメ親父になっている。
で、代わりにだれが活躍するかというと、お母さんである。

どうしてこんなことになったのかわからなかったが、あとがきを読んで了解する。
お母さん役を演じたのが八千草薫だったのである。
山田太一はことさらこの女優をあがめている。
だから、八千草の見せ場が多いように話を作りかえたのだろう。
原作ファンとしては噴飯ものだけれど、ミーハーな山田太一もかわいらしく、
あまり厳しく追及する気にはなれない。
「ラヴ」(山田太一/中央公論社)絶版

→舞台戯曲。山田太一の初めて書いた芝居台本である。初演は昭和58年。
山田太一の泥臭さにはファンとはいえ卒倒しそうになる。

「綺麗なこというっていわれるかもしれないけれど、
愛って呼んでもいいようなものが、あるつもりだよ」
「愛なんてないのよ。もともとないもんなのよ」(P35)

「君のいう通りだよ」
「え?」
「愛なんて、ないのかもしれないよ。言葉があるから、なんとなく、
何処かにあるような気がしているだけなのかもしれない」(P54)

「幸せ?」
「え?」
「それで幸せ?」
「フフフフフ、考えたことないわ」
「どうして?」
「どうしてって――考えたくないわ、そんなこと」(P68)


ひとつまえの記事で取りあげた山田太一ドラマ「午後の旅立ち」にもある。

「幸せじゃない?」(P15)

愛ってなんだろう、幸せってなんだろう、である。
現代では(いや、上演当時でさえ、おそらく)中学生も口にしないような、
手垢のついた幼い問いを山田太一は発するのである。
こんな質問をされたら大のおとなで赤面しないものは少ない。
それ幸せかな? それ愛かな?
そのくせ人間が生きていくということを突きつけると、どうしようもなくここに行き着く。
もちろん、天才芸術家なんかはこのかぎりではない。
それをいいことに三流の文士や映画監督までもが天才気取りで、
人間の幸福や愛の問題をさも解決済みであるかのような顔をしている。
衆目一致したかのように、幸せや愛について悩むのを、程度の低いことのようにいう。
だけど、それっておかしかないか。
人間にとって切実なのは、やっぱり幸せや愛の問題なんじゃないだろうか。
山田太一の問題提起である。

平凡な一家の居間が舞台である。
登場するのは、会社員のお父さん、専業主婦のお母さん、大学生の息子。
息子がひとり暮らしを始めて、お母さんはなんだかさみしい。
とある休日、証券会社に勤めるお父さんはひとりテレビのまえでくつろいでいる。
お客さんだ。会社のお得意さんであった。
お父さんはこのお得意さんに株で大損させてしまったのだった。
先日、お詫びもかねて呑んだのを思い出す。
お得意さんは、あれをやる決意がつきましたという。
お父さんは泥酔したので覚えていない。
なんのことだか判明する。スワッピングであった。
二組の夫婦がパートナーをかえて性交渉を持つ。
日常に忍び寄る非日常である。
日常で人間は、愛だの幸せだの、なかなか口にはしないがための仕掛けである。

「あなたを――愛してるわ」(P85)
「(迷ったあげく)お前を、愛してるよ」(P86)


あいだをすっ飛ばしたが、夫婦の到達した結論である。
おまけとして山田太一恒例の長ぜりふを一箇所採録しておく。
(酔っぱらって朗誦すると気持いいんだこれが。お試しあれ)
中年のお父さん、魂の叫びである。

「俺たちは、このまんまか? このまんまの延長で年をとって行くだけか?
別の生き方は、もう出来ないほど、おいぼれちまったのか?
そんなはずはない。まだその気になれば、
思いがけなくドーンとひらけた世界へ出て、身体中の血がたぎって、
指の先まで生き生きと力がみなぎって、
時のたつのを忘れるような時間が持てないはずはない。
周囲に気がねして、毎日毎日同じようなくりかえしの中で、
段々しわが増えて、髪の毛がぬけて、肝臓かなんかが悪くなって、
それでも鳴かずとばずで、微笑かなんか浮べて、
人生について諦めたような感慨を口にして、それで死んで行くんじゃあ、
男の一生はなんですか」(P42)
「午後の旅立ち」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和56年放送作品。全14回
主役のひとり、矢島精一が雑誌記者相手に心境を述懐している場面を引用する。
物語のほとんどが端的にまとめられていると思うからである。
国際線のパイロットだった矢島精一は、
アイルランドのダブリン空港で事故を起こしてしまう。
日本人の死者が出た。人的ミスとはいえぬ自然現象による不可避の事故であった。
だが、パイロットの矢島精一は事故の責任を負わされ、
不本意にも地上勤務に就く羽目におちいる。
おりしも事故調査委員会の調べで、精一に愛人のいることがわかってしまう。
妻の知るところとなり、家庭を壊す気のない精一は愛人と別れる決意をする。
一家は丸く収まったのかというと、そうではない。精一と妻は別居をしている。
この間の事情を元パイロットの矢島精一は次のように話す(ドラマ第10回)。
いかにも山田太一ドラマらしい長ぜりふをご賞味ください。

「あれ(=妻)と一緒になる時は、実は、こっちが大変な熱をあげてね。
(「そうですか」) それが、二十年近くいると、フフ、浮気を――している。
時折、はっきりいえば、嫌悪の目で、家内を見ている。
いなきゃいい、と思ったりしている。家内のほうも、きっと、そうだろう。
ふいと、昔のことを思うとね。あんな一緒になりたかった相手と、
なんということになっちまってるか、と思う。
しかし、いなきゃ不便だしね。ま、外へ出てる事が多かったんで、
いわば、さめたまんま、よそよそしく、あたりさわりのないように暮らしていた。
ところが、とべなくなった。女とも――切れた。
人によっては、そういう挫折を機会に、女房大事に、
温和しく暮すってことになるんだろうが、まだ油が残ってるんだね。
女房と、諦めたように暮すのは嫌だと思った。
お互いに、ひそかにうんざりしながら、しかし人生はこんなもんだろう、
と喧嘩するのを避け避け暮すのは、嫌だと思った。
二人共、あまり自由じゃなく、
『今日はちょっと遅くなる、それはどういう理由で』などと、つまらない説明をし、
そのくせお互い、深い関心を抱いていない。
あんなに一緒になりたがった二人の末路がこれじゃあ情けない。
人生そんなもんだと、とぼけて年をとってしまうのは嫌だと思った。
とんでいた頃、路線の関係で、半月あまり帰れない時がある。
すると、フッと女房が恋しいんだね。
家を出た時の気分とまったくちがう気持で、女房のことを考えている。
つまり、一緒にいて、両方で、なんとなく拘束し合っていることが、
お互いをやりきれなくさせている。
ま、そんなことから、一年間、お互いに自由にしてみたら、
どんなことになるかと思った。
少なくとも、諦めたようにして年をとって行くよりはいい、と思った。
家内が、どういうかと思ったが、それほどの事もなく同意した。
家内の気持の中にも、そういう欲求があったんだろう」(P236)


「人生こんなもんだろう」「人生そんなもんだ」への反発である。
高をくくるなというという作者恒例のメッセージといえよう。
ここから、期間限定別居のすすめになる。
愛情を確認するため1年、別居をしてみよう。
精一の大学生の息子には恋人がいる。
彼女がこの夫婦の影響を受けて、
あたしたちも1年間会わないでいましょう、なんて言い始める。
愛情は自然に任すのではなく、人為で育ててゆくものだという作者の恋愛観がうかがえる。
みなさんも真似してみませんか、とでも言いたげである。
このような臭いとも捉えられかねぬメッセージ性に山田太一の資質を見る。
山田太一は、たとえば純文学のように、わかる人のみわかればいい、
という自閉的な作家ではない。
社会を動かして行こうとする。もっといえば社会意識の変革まで狙っているところがある。
このためにはだれもが気軽に見られるテレビはもっとも適切な媒体となる。
作家・山田太一は、シナリオライターの枠に納まりきれぬ、
大きな視野を持っていたことがよくわかる。
この期間限定別居のすすめだが、
私見では作者個人の生活から思いついたものだと推測する。
山田太一は月に1度ホテルに缶詰になって作品を執筆するという。
その間、妻とはいっさい顔を合わさない。
あたかも国際線パイロットのよう生活である。
たしかに山田太一は社会派作家といわれることが多いけれども、
かの作家は社会からではなく「私」からスタートして社会を描いているのが特徴である。

「午後の旅立ち」に話を戻そう。
この作品にはふたつの流れがある。ひとつは矢島一家の別居騒動である。
もうひとつは、この一家を取材する若き雑誌記者・佐原誠の身辺だ。
佐原誠もまた問題をかかえている。
雑誌記者としての悩み。その場だけの皮相的な取材で書き散らしていいのか。
母親の悩みもある。佐原は母親とふたり暮らしをしている。
父親は12年前になんの書き置きもなく、ある日、煙のように蒸発してしまった。
そのときから母親は息子もまたいつか自分のまえから消えてしまうのではないかと、
異常なほど脅えるようになる。息子を縛りつけるようになった。
2年前誠に恋人ができたとき、息子は母親に紹介した。見かけは喜んでいた。
ところがある晩、母親は狂乱する。自分は息子の邪魔にしかならないと。
道路へ飛び出しバイクにひっかけられた。
救急車で運ばれる途中、あんな娘のどこがいいんだと叫んでいたという。
当然、誠は恋人と別れた。あれから2年である。
佐原誠は新しい恋人ができたものの、なかなか母に紹介することができない。
この葛藤もドラマのなかで進んでいく。

このエピソードの結末が、あまりに山田太一らしくないので驚いた。
万難を排して佐原誠は新恋人を母親に紹介する。
今度は大丈夫だよと老母が繰り返し言うからである。
会った翌日のことである。母親は息子に無断で恋人の実家に電話する。
交際をお断りするというのである。
いくら息子のことを思っていても、母の独占欲はどうにもならないのである。
反省した老母は、息子の幸福を願い、恋人の実家へ謝罪におもむく。
だが、このときも意識的か無意識的か、道路へ飛び出し車にひかれてしまう。
二度おなじことが繰り返されたのである。
母親は一命を取りとめた。佐原誠は宿命めいたものに愕然とする。
またもや、である。母親か恋人か。ふたつにひとつ。
誠は恋人と別れる決意をする。母は命がけで息子を呪縛するのである。
どうして山田太一がこんな恐ろしいエピソードを思いついたのかまるでわからない。
あきらめればいいのだろうかと佐原誠は思う。
こうやって母親の言いなりになっているしかないのだろうか。
やはり恋人は自分にとって大切な人間である。
入院している母親も息子に、あんないい子を逃してはいけない、と説く。

誠は、母の事故以来ずっと避けていた恋人に連絡を取る。
久しぶりのデートである。キャメラは雑踏にまぎれる若いふたりを追う。
このときである。画面が病院に替わる。
母親の容態が悪化したのである。看護婦は息子に連絡を取ろうとするが、
今日にかぎって息子は連絡先を教えていなかった。
若いふたりが逢い引きを楽しんでいるあいだに老母は絶命する。
山田太一は絶対にこのようなシーンを書かない(書けない)作家だと
思っていたので狼狽した。まさかこうなるとは思わなかった。
どうせこの三人もうまくいくんだろうと高をくくっていたらこれである。
どこにも救いのない話である。仏教の因縁さえ感じさせる深みのある物語である。
山田太一はこういった人間のどうしようもない宿業も見通す能力を有していた。
どうして作者がこの面での才能をこのあと発展させていかなかったのかはわからない。
あるいは、主として活躍するテレビシナリオには不向きと思ったからかもしれない。

雑誌記者の佐原誠は母の死後、自分の方針が定まったように思う。
これはほかならぬ山田太一その人とも通じる姿勢であろう。
佐原は語る。自分は飛行機事故のような耳目を引く事件よりも、
ある家族の騒動といった小さなものに注目していきたい。

「ぼくと母のことも、かくさず書いて、なんでもない、よくある人間たちの、
よくある悩みを、丁寧に記録出来たらと思っています。
ぼくたちを、本当に苦しめたり、救ったりしているのは、
そういう、よくある関係や出来事なのですから」(P306)


政権の交代やオリンピック、死刑制度、核問題、どこぞの大地震も、
むろん重要なことである。
けれども、我われは、もっとうじうじしたところで悩んでいる。
大きなこととは縁遠い、よくある、実にありきたりな関係や出来事に苦しんでいる。
ふたつ方法がある。よくある悩みに目をそむけ大きな事件に逃避するか。
それとも身近な関係や出来事を直視して、ささやかでも救いを見いだしていくか。
山田太一の描くドラマは、もっぱら後者である。
驚かれているかたもいらっしゃるかもしれない。
よくもまあ報酬もないのに長文を書き続けるものだと。
自己投資とおのれを偽っているが(いつかデビューするための礎!)、
いままでの投資がまったくの不良債権となる可能性の極めて高いのも理解している。
そのうえでの強がりである。
まったくの採算度外視でもないことを説明したい。
もしかしたら採算が取れているのかもしれない。
というのも、ものを書いていて楽しいのはいちばん最初の読者になれることである。
もっとも深くその文章を味わえる読者と言い換えてもよい。
わたしは読書感想文を書きながら、泣いたり笑ったり、まるでキチガイである。
最近ではストリンドベリ「島の農民」を書いている途中、笑いがとまらなくて困った。
お腹がつってしまうほど笑い転げた。自分の書いたものを読んでである。
これだけ笑わせてもらったのだから、
ブログのアクセス数が増えずとも、あるいは、たとえ最後まで読まれなくても(読んでね)、
贅沢を言ってはならないのかもしれないと思う。
書くことを楽しんだのだから、よしとしようという考えである。

書きながら笑ったりするのは自分だけかと思っていたが、そうではなかった。
先ほど戯曲集のあとがきを読んでいたら、
かの山田太一先生も作品を書きながら自分で笑っているという記述があった。
書きながらひとりで笑っていたが、果たして芝居の観客は笑ってくれるだろうか。
こういう文脈で創作秘話が述べられていた。
断じてあのような雲上人と自分ごときを同列に置くわけではないけれども、
なんだかとても嬉しくなったのである。
「大海のほとり」(ストリントベルク/斎藤晌訳/岩波文庫)品切れ

→とある孤島に配属された漁業検察官のボルクがなにものかに亡ぼされる物語である。
ボルクは博学でなおかつ頭脳明晰の極めて優秀な30歳の男。
ただし飛びぬけた知力をもつこの男は、少年時代からだれにも理解されなかった。
むしろ、嫉妬され迫害されてきたといったほうがよい。
このため、かれのような賢人が辺鄙な片田舎に派遣されるにいたったわけである。
漁業検察官の仕事は、現地で環境を調査をして漁獲高を増加させること。
ボルクは赴任直後に自分が地元の漁民・農民から敵視されていることを知る。
無知蒙昧な田舎の人間は、このように考える。

「(ボルクのような人間は)白痴(こけ)で人民の敵だあ、
彼奴等は分別のある漁夫より物が分ると思つてやがる!
長椅子に横になつて本を読んでゐて二千クローネンも金をとつている野郎共が!
洟垂れ小僧の癖に親爺に物を教へようつて太え了見でえ!」(P84)


これは現代の日本でも見られる現象である。
みなさまもテレビでいかにも学のなさそうな赤ら顔の第一次産業従事者が、
得意気に政治(=公務員、政治家)を批判しているのをご覧になったことがあると思う。
秀才のボルクはむろん無学な田舎者たちの反応は予想していたものの、
こうまで冷遇されるとは思っていなかった。
書物でえた知識をもとにボルクは漁民や農民に助言をする。
ボルクの言うようにすればかならず収益は上がるのである。
けれども、無知蒙昧な民衆は現場を知らないインテリを嘲笑し、
まったくボルクの提言を聞き入れようとはしない。
ボルクにしてみれば、まるで敵に全方位から包囲されているようなものである。
このへんの被害妄想的な描写は、この作品を執筆した数年後、
作者ストリンドベリが精神分裂病を発症したことを考えると興味深い。
漁業検察官ボルクは、ある結論に到達する。

「賤民は威嚇しなければならない!」(P85)

漁業検察官と賤民との対立の構図が明らかになったのである。
インテリと下層階級は断じて理解しあうことがない。
それどころか、両者は戦争状態に置かれている。
どちらかが勝ち、ということは、どちらかが亡ぼされなければならない。
孤独者ボルクの頼みの綱は国家権力のみである。
双方のパワーバランスが崩れる瞬間が到来する。
というのも、愚かな漁民たちが禁止されている網を使用したからである。
この網を用いて漁業を継続していると、かならず近い将来に資源は枯渇する。
このため使用禁止になった。
ところが、目先の利益しか考えられない愚民にはこれがわからぬ。
現場に居あわせたボルクは網の没収を命ずるも、漁民は言うことを聞かない。
あきれたボルクが警察を呼ぼうとしたそのときである。
ボルクの手を取る「若い女」が現われる。マリア嬢である。
この離島には母と静養に来ている。ボルクと知り合ったのは数日前。
マリアは漁業検察官に懇願するのである。
自分に免じて、かわいそうな漁師さんを警察に引き渡すのはやめてほしい。

「アクセス・ボルクは振放さうとした。
そして女の大きい眼から脇を向いた。あの眼付には耐へられない。
しかし自分の手がだんだんときつく握りしめられて、
結局には柔らかい胸へ推しつけられるのを感じた。
悩ましげな調子の声を聞いた。
彼はすつかり征服されて、美人に向かつて囁いた。
『放して下さい、私は事件を打切りませう。』」(P106)


ここに漁業検察官ボルクの敗北が決定したわけである。
このやりとりは多数の賤民に目撃されてしまった。
美人のひと言で前言をひるがえす役人の権威など地に落ちたも同然である。
では、ボルクはなにに負けたのか。引用文をよくご覧ください。
智者ボルクはマリアの「柔らかい胸」に負けたのである。
いっぽうで勝利したマリアは以後、賤民どもから女神のようにあがめられる。
これからの物語は、ボルクとマリアの戦争が中心となる。
ストリンドベリは美しい恋愛など決して描かない。
男女間のあらゆる交流は支配するか支配されるかの闘争である。
少し長いがボルクの女性観を引用する。
これは女性嫌悪者として名高いストリンドベリその人の思想でもあろうから。

「今まで女に対して恋愛や牽引を感じたことは少くない。
しかし女子といへば男子と小児との中間形式であつて
男子はこれに優越すると云ふ彼の定まつた意識があつた。
だからいつもさう云ふ物の見方を隠してゐることは不可能になる。
それで彼の関係は極めて継続の短いものであつた。
彼を強者として仰ぎ見るやうな女に愛せられたかつた。
自分が尊敬せられたかつた。尊敬したくはなかつた。
弱い芽枝が接木される台木たることを欲した。
しかし彼は幸か不幸か女性が伝染的誇大妄想狂に
犯されてゐる精神の疫病時代に生れ合せた。
蓋し群集の投票を要する野呂間政治家や堕落した病的な男共が
その誇大妄想狂を作り出したのだ。それゆゑ、ボルクは独身でゐた。
恋愛に於て男は与へなければならない、
欺されてゐなければならない、と云ふことや、
女に近づく唯一の方法は四つん這いになることであるのを
よつく承知してゐた」(P104)


翌日、ふたりは無人の離れ小島へあいびきにおもむく。戦闘開始だ。
ボルクは女が自分より年上の34歳であること、
幾多の男性遍歴を経ていることを知る。逃げろボルク! である。
しかし美しいマリアはボルクを捕らえんと悪だくみを働かせる。
ストリンドベリは女が悪魔であることをよくよく知っていたと思われる。
悪魔ならではのこうごうしい美しさもまた!
水切りで遊んだのちマリアはとっぴな提案をする。

「『水を浴びませう』と不意に女は叫んだ、
あたかも長らくその考へを抱いてゐて、
もうどうしても云はずにはゐられないと云ふ風に。
ボルクには、それが冗談なのかそれともその申出は真面目なつもりか、
即ち着物をわづか着たままでゐたいとか、
一部分脱ぎたいとか云ふことをそれとは云はずに暗示したのか、
見当がつかなかつた」(P105)


水着も持ってきていないのにこの女はなにを考えているのだろう。
まさかすっぱだかになるとでもいうのか。
美女の裸体を想像するのは男子の常である。
ボルクは紳士らしく、自分はあっちへ行っていると伝える。だから、お浴びなさい。
それでもマリア嬢はいっしょに泳がないかとボルクを誘う。
冷たい水が恐ろしいのかと挑発までする。
ボルクが固辞すると、マリアは衣服を脱ぎにかかりながらこんなことを言う。

「でもそこから、あたしをが見えやしなくつて?」(P129)

女は悪魔である。かよわき人間たるボルクが悪魔にかなうはずはない。
悪魔は人間を支配しようとする。女は男を支配しようとする。
マリアはボルクの漁業検察官としてのプランまで批判するのである。
そのうえで自分は人民の味方であると宣言する。
虐げられた人びとを、漁業検察官から守るとまで主張するのである。
無学な女の安易かつ感傷的な同情心にボルクは辟易するが、
かといってマリア嬢の魅力から逃れることはできない。
馬鹿な女が美しき肉体を武器に浅薄な思想を押売りしてくる! 馬鹿な女め!

「彼は此の瞬間、彼女を憎んだ。彼女から離れたかつた。
再び自分で自分を所有したかつた。が、もう既に遅い!
ねばねばして目にも見えない蜘蛛の網が彼の顔に絹のように軟かく
まとひついて除けることが出来なかつた」(P139)


この日からボルクとマリアによる一進一退の攻防が繰り広げられる。
孤独者ボルクはまったく自分の時間がなくなってしまったことを感じる。
高度な思想をもつ自分が、あの程度の精神性しかもたぬ女に所有されている。
マリア嬢はなんとかしてこの漁業検察官を完全に支配しようと試みる。
おりしも離島にまたひとり新参者がやってくる。
名分は漁業検察官の助手ということである。
二十歳そこそこの長身の男である。まったく独自の思想というものがない。
マリア嬢はさっそくこの助手に色目を使うのである。
もちろん、ボルクに嫉妬を起こさせ、かの男を完全に征服するためである。
筋肉馬鹿のような助手はマリア嬢の幼稚な思想を礼賛する。
その手には乗らないと賢明なボルクはふたりを見て見ぬふりをする。
ある日のことである。ボルクは自室で仕事中である。マリアという女は!

「ボルクはこの会話の始つたとき窓際に腰を下ろして、
マリア嬢と助手が球(ボール)を遊んでゐるのを眺めてゐた。
彼女が相手の球を捕へようと後方(うしろ)に仰向くたびに
彼女の着物の前がまくれ揚がるのも見えた。
ちやうどまた着物がまくれると助手がおどけた様子で俯向いて
身振や顔付で或物(あるもの)が見えるぞと云ふやうな風をするのが目に入つた」(P218)


この時代の西欧婦人のスカートのなかの事情に詳しくないため、
「或物」がなんであったか断定することはできない(つまり下着か女陰か)。
だが、マリア嬢はそうとうな阿魔(あま)である。
この阿魔っこはふたつのことを知っているのである。
「或物」を助手に見られていることを、ふたりをボルクが上から見ていることを。
このときのボルクの心中は察するに余りある。
なんという女に捕まってしまったのか。
そう、この時点で、ボルクとマリアはかりそめの婚約までしていたのである。
ボルクは女への復讐を敢行する。
明らかに嘘とわかる口実でもって婚約の解消を通告したのである。
おまえなんか愛していないんだ! あの小僧と仲良くおやりなさいだ!
マリア嬢は振られたことを知り歯ぎしりする。
よせばいいのにボルクは元婚約者の痛手のほどを調べにマリア宅を訪問する。
ふたたびふたりは壮絶に傷つけあう。傷ついた二匹の野獣は――。

「『いまあたし達も退屈になり始めたのねえ』
マリア嬢はコップを充たしながら彼の言葉を遮つた。
『ぢや何をして気をまぎらしたらいいのかい。』
誤解することの出来ない粗野な微笑を浮べながら恋人は訊いた。
『来て私のそばにお坐り。』
この挑みに伴うた野獣的な口吻や荒々しい身震によつて厭な感じも起さず、
女はさながら或る賞賛の念をこめて男を見上げた、
これまであまり恭々しい挙動のために殆ど軽蔑していた男の方を。
(中略)
そして彼が彼女に対して激しい嵐のやうな恋を告白したとき、
彼女は最高の幸福の憶ひ出によつて彼を縛らうと云ふ希望のうちに
彼に己(おの)が身を与へた」(P245)


女を口説きたいのなら筋の通った道理を言うのは馬鹿げている。
四つん這いになって掴みかからなくてはならない。
3度結婚して3度離婚した多情多恨のストリンドベリによる恋愛指南だ。
こむずかしい理屈を女に言っても無駄である。
「来て私のそばにお坐り」
これでいいのだ。犬を相手にするように男は女を遇すればよろしい。

ふたりは結ばれたわけだが、この濡れ場もストリンドベリの手にかかると、
このような陰惨な情景になってしまう。
女が男に身体を許すのは、よりきつく男を縛らんとするためである。
ストリンドベリの小説にハッピーエンドは似合わない。
ボルクはマリア嬢の奴隷になるのを恐れて婚約を復活させない。
いわゆる食い逃げである。
これでよかったのかと煩悶するボルクのもとにマリアからの手紙が届く。
読まないで放置するが、手紙が気になってなにも手がつかない。
さんざん迷ったあげく、手紙を燃やしてしまう。
こののちなんとか手紙を読もうと燃えかすに目を凝らすボルクは哀れである。
マリアは復讐の意味もこめてであろう。助手と結婚してしまう。
自分で自分を所有せんがために女と絶縁したボルクだが、
このあたりから自分の所有があやしくなる。狂気の兆候が見られ始める。
傷心の漁業検察官を意地悪な賤民どもが見逃すはずがない。
あの手この手を用いて賤民はボルクを辞職に追い込む。
無知蒙昧な人民がインテリを駆逐したのである。
ボルクの高貴な精神は賤しきもののためにすっかり荒廃してしまった。
いまやボルクは狂人を通り越して廃人に近い。
クリスマスの夜、ボルクは憑かれたようにボートで大海原へこぎだす。
星空からヘラクレス座を発見する。
ああ、ヘラクレス! 強かな英雄よ、男のなかの男よ!

「ヘラクレス、希臘(ヘラス=ギリシャ)の道徳的理想、
レルナの百の頭を持てる怪龍(ヒドラ)を殺し
アウギアスの厩屋(うまや)を掃除し、
ヂオメデスの人喰ひ馬共を捕へ、
アマゾン女王の帯を盗み、
冥府から番犬ケルベロスを連れ出した力と智慧の神、
そして最後には一婦人の愚昧によつて倒れた男、
気が狂つて三年の間、女精(ニムフ)オムフアレへ仕へた後、
純粋の愛からして一婦人に毒害せられた……」(P283)


いまもいま、またひとりのヘラクレスが婦人の毒により昇天せんとしている。
ボルクのボートが目指しているのは大海のかなた。いざ行かん!
萬有の母、生産と愛の源泉、生の根本にしてまた生の敵なる――大海を越えて、かなたへ。
「島の農民」(ストリンドベリ/草間平作訳/岩波文庫)品切れ

→陰惨な小説を好んで書く作者にはめずらしい牧歌的な娯楽小説である。
離島のとある屋敷に奉公へおもむいた下男(男の召使)の一代記。
下男が狡知を働かせ、屋敷の老未亡人に取り入り、ついには一家の主人となる。
むろん、下男の成り上がりたいという欲望が容易にかなうものではない。
未亡人の長男と、この下男は何度もあらそう。

ストリンドベリならではと思うのは、人を侮蔑する場面の多さである。
この作家はどれほど劣等感が強かったのだろうか。
作者は人が人を愚弄する場面をことさら好んで描く。
ストリンドベリ作品を読むと、他人を小馬鹿にするのがいかにおもしろいかわかる。
それにしても作中人物が、軽侮の念を隠すことなく相手にぶつけるのには驚く。
おそらく毛唐固有の野蛮性ゆえであろう。
歯をむきだしにして嘲笑するしぐさは日本人には似合わない。
あれは毛唐がやらないと様にならない最たるものである。

嘲笑される。悔しくて歯ぎしりする。機を見て復讐する。勝ち誇る。
ストリンドベリの作中人物が愛好する行動パターンである。
言うまでもなく、復讐されたほうは因果応報なのだが、
こちらも受けた屈辱を決して忘れずいつかの復讐を誓うからエンドレスとなる。
ストリンドベリ・ワールドでは、どちらかが死ぬまで人と人は傷つけあう。
なにゆえか。簡単なことである。
人を傷つけるのは楽しいのである。反対に傷つけられると悔しいのである。

教会の牧師が、下男にコーヒーをすすめられる。牧師は冷たく言い放つのである。

「お前はここの主人か、下男奴?」
「お前は、おのれの身分を知らんのか?」(P129)


のちにこの牧師は下男から復讐される。
田舎楽士が都会の教授にへつらう場面もたまらない。
楽士は地元の仲間を「土百姓」とおとしめるのだから。

下男と別荘の料理女との交情もいかしている。
料理女はべっぴんである。
けれども、所詮は料理女だろうと下男は交際を求めるのである。
祭りの夜、田舎ではいちばんナウかった下男は料理女との青姦に成功する。
おまんこさせてもらったわけである。
シーズンが終わり別荘の一行は都会へ帰ってゆく。
下男はすっかりモボ(モダンボーイ)気取りで感傷的な恋文を送る。
後日、都会へ行く用事があったので、下男はかの屋敷を訪問する。
料理女はいなかった。女中仲間からひどいことを教えられる。
下男の書いた恋文は、みんなに廻し読みされたという。
大いに物笑いの種になったというのである。
田舎の下男ふぜいが似合わぬロマンチックなことを書きやがる。
実は、料理女は都会に身分のある婚約者がいたのである。
婚約者をふくむたくさんの人間のまえで下男の恋文は繰り返し読まれたという。
そのたびに哄笑が起こった。

下男が老いた女主人と結婚して地位を手に入れようと決意するのはこのときである。
たしかに下男は金も身分もないが、とびきりの若さがある。
女主人は美貌がないとはいえ、財産と性欲がある。
うまく釣り合いが取れるというわけである。
ストリンドベリの狂える筆は、あらゆる美しきものを地に落とし踏みにじる。
地団太を踏みながら高笑いするストリンドベリから、
愛を痛切に求める赤子めいた物悲しさを感じはしないか。
「黒旗」(ストリントベルク/大庭米治郎訳/岩波書店)絶版

→ストリンドベリ作品をひと言でまとめるならば、
「せせら嗤(わら)う」になるのではないかと思う。
前提として病的なまでに強い作者の猜疑心がある。
ストリンドベリは現実を疑ってかかるわけである。
その結果、世界はまったく新しい様相を呈してかれのまえに立ち現われる。
世界のこの断面にだれも気づいていないとストリンドベリは思う。
みんなだまされているのである。真実を知るのはおのれのみではないか。
愚かなものどもよとストリンドベリはせせら嗤う。
そののちこれは断固として告発しなければならぬと文豪は筆をとる。
では、ストリンドベリの見たものとはなにか。人生の暗黒面である。
どんなきれいなものでも、かならずマイナス面のともなうのが現実である。
美しい友情が、その実、優越感に裏打ちされていることは少なくない。
純粋な愛情だって、独占欲と紙一重といえなくもないのである。
そこのところを我われは適当に目をつむりながらごまかして生きている。
ところが、ストリンドベリはそれをよしとしない。
あたかもタマネギの皮を一枚一枚むくように、人生から虚偽を取り払っていく。
現われるのは汚らしい我欲ばかりである。
我欲と我欲の火花散る抗争をストリンドベリは嬉々としながら書くのである。
これが真実だ。ものども目を覚ませ。

ストリンドベリは狂奔する! 暴いてやる!
本当のことを言おうではないか。他人の失敗ほど嗤えるものはないよな。
同情するふりなんてやめて声高らかに嗤い飛ばそうぜ。
本当のことを認めないか。みんなが幸福になれるわけがないだろう。
だれかの幸福はだれかの不幸なんだ。
だって、他人の幸福なんて妬(ねた)ましいだけだもんな。
ならば、こうしようぜ。幸福なら喜色満面で自慢してまわるんだ。
口惜しがっている他人のまぬけ面がどれだけおのれの幸福を倍増させてくれるか。
他人の不幸は腹をかかえて嗤おう。
不幸にのたうちまわっている虫けらを見ながら乾杯しようではないか。
これ以上の美酒はなかなかないぞ。
友情なんて青臭いことをいつまで言ってるんだ。
本当のことを白状してしまえ。まわりはみんなバカばかりだろう。
とはいえ、かれが自分の価値を認めてくれるかぎりにおいて、
その何分の一ほどか、自分も相手の価値に同意する用意がないわけではない。
友人なんていっても結局は利用できるか否かではないか。
利用されたぶんはきっちり元を取って相手を利用しなくてはならない。
いい年をして恋愛だのなんだのママゴトみたいなことを言うなって。
あらゆる男女間の関係は支配するか支配されるかの戦争だろう。
支配したほうがより多く相手から搾取できるってことだ。
愛するよりも、愛されるほうがどれだけ楽しいか。
自分が重んじられているという快感に勝るものはないね。
つまり、人生とは闘争なんだ。おまえはなにか。ひとつの我欲に過ぎぬ。
欲望はかならず他人の欲望と衝突する。
このとき勝つものと負けるものにわかれる。人生は勝利と敗北しかない。
人生は戦争である。戦場は地獄である。人生は地獄である。
どうしてこうまで明々白々なことがわからないのかとストリンドベリはせせら嗤う。
わからないなら教えてやろうとストリンドベリは執筆するのである。
おまえらみんな地獄に堕ちろ! いな、ここは地獄だ!

作者最晩年の小説「黒旗」には、ストリンドベリのすべてが凝集されている。
内容は、実体験をもとにした文壇の内実の暴露といったところか。
あさましい我欲にとらわれた品性下劣な男女が繰り広げる地獄絵図である。
ストリンドベリならではの病的に荒廃した人間模様に身震いする。
ところどころで笑いがとまらなかったのもまた事実である。
訳が古いのでいやいや読み始めたのだが、思いのほか満足できる読書となった。
最後に本書からいくつか引用をしたい。
ストリンドベリへのいざないのつもりである。

「ジェニーは続けて、娼婦根性を発揮した」(P58)

ジェニーは娼婦でもなんでもない主婦である。娼婦根性ってなによ! と大笑いした。
ジェニーの夫が作家のツァハリスである。

「ツァハリスは今葉巻を噛み砕いてしまつた、
で、唇は脹れ上り、唾液と煙草のかすで鳶色になつていた。
彼は愉快さうには見えなかった、なぜなら彼は新しい復讐を考へていた、
もう一度此女(こいつ)を孕(はら)ましてやらう」(P58)


ツァハリスは妻ジェニーの美貌が失われることに深い満足を覚えるのであった。

「ツァハリスは、自分の敵の女の一人が悪い扱ひを受けたと聞いた時、
哄笑(わらひ)のあまり泣き出した」(P447)


おまえ最高だよツァハリス!

「それに女といふものは人間の屑ですからね!」(P289)

真実を暴露したストリンドベリ作品が復刊される日は来ないであろう。
ちなみに「黒旗」では男が女を殴る場面がふたつある。そのうちのひとつから。

「淑女の叫声は彼の魂に快感を与へた」(P169)

こざかしい女を殴るのは快いと世界的文豪のストリンドベリが書いている。
もしわたしがこんなことを書いたら八つ裂きに遭うかもしれない。空恐ろしい。

「階級虚偽といふものがある。下層階級は常に、
上層階級は圧制者や過酷者や吸血者から成立すると信じてゐる。
さうして上層階級は常に、下層階級は下劣な不道徳な泥棒根性の嘘吐の
人間から成立してゐると確信する」(P298)


この小説でも終盤、主要人物のひとりが死ぬ。
かれの遺書から引用する。人生とはなんぞや。

「時代の児として、儂(わし)は、
人生といふものを自分の前に横はる戦場のやうに見て来た、
生存といふものを麺飽(パン)、地位、女を獲るための闘争だと考へて来た。
儂は切り進んで往つた。儂が一人の敵をあらゆる許された手段をもつて、
いな、切迫つまつた場合には許されざる手段も辞せずに、打ち倒した時、
儂は自分を正常だと考へた。それが所謂時代精神だつたのだ。
生活は、それ自身が自らの目的であつた。
良心は一種の病的状態で、慈悲は弱さであつた。
儂はさういふ考へをもつて産まれて来たのだと信じた」(P490)


狂人ストリンドベリは「知る」と「信じる」の相違を、
おもしろい具体例で説明しているので紹介したい(P226)。
引用するよりも噛み砕いて説明するほうがわかりやすいと思う。
今日は何曜日かをあなたは知っている。金曜日だ。カレンダーに書いてある。
だが、これは知っているのではなく、信じているだけではないか。
というのも、こんな人物がいたからである。阿片を吸って36時間も寝てしまった。
かれは今日が何曜日だかわからない。
実のところ、カレンダーには今日の日付など記載されていないのである。
みんなが口をそろえて今日は金曜日というから金曜日になるのである。
つまり、どういうことか。
あなたは今日が金曜日だというのを知っているのではなく、信じているだけである。
ほかの事柄にもこれは当てはまるのではないか。
我われは多くのことを知っているつもりになっている。
しかし、それは知っているのではなく、信じているだけではないだろうか。
――いっとき錬金術やオカルトに夢中になった天才ストリンドベリの思想である。
「赤い部屋」(ストリンドベルヒ/阿部次郎・絵馬修訳/新潮社)絶版

→よみがえれストリンドベリよ!
かの大巨人の腕(かいな)もて平成のスイーツ(笑)どもを細切れにしてくれよう。
ストリンドベリはイプセンを殺すために生まれてきた。
1879年は宿命の年だった。
イプセン「人形の家」初演。ストリンドベリ「赤い部屋」出版。
小説「赤い部屋」はストリンドベリ30歳が世に知られるきっかけとなる。
イプセンは女性解放の問題を劇作で追及した。
これはただならぬことだと世界でもっとも早く気づいたのがストリンドベリである。
女をつけあがらせてはいけない。
ストリンドベリの生涯は、女(=イプセン的なるもの)との闘争だったといってもよい。
かれは敗れた。いまの日本における知名度からして両者は雲泥の差がある。

ストリンドベリはどんな世界を描いたか。まさしく2ちゃんねるである。
極度の人間不信。異常なまでの孤独。嘲笑合戦 m9(^Д^)プギャー
女性嫌悪。露悪趣味。暴露志向。復讐不忘。電波沸騰。
なんのことはない、ストリンドベリは精神障害者だったのである。
しかし、かれは壮大な宇宙的視野を有する偉大な狂人であった。

「赤い部屋」に描かれているのは「青春の埋葬」(P477)である。
役人だったファルクは職を辞し文士をめざす。
文学青年はさまざまな芸術家志望者と交わる。画家志望、役者志望。
職なし、金なし、名もなき若者たちの青春群像を、ストリンドベリは風刺する。
対照として登場するのがファルクの兄である。
兄は商売で成功を収めている俗物。年の離れた若い妻をもつ。
ここでストリンドベリの描く世界を紹介しよう。
たとえば、この兄嫁。昼近くまでベッドから出てこない。

『何故お前は正午(ひる)近くになるまで女中の取締りもしないで寝てるんだ?』
『私それが面白いから。』
『お前は私(わし)が家事を見る気のない妻と結婚したと思うのかい? え?』
『ええ、さうなのよ! あなたは何故私があなたと結婚したとお思ひになるの!
私は千遍もあなたにお話ししたわ――働かなくてもいいためにですよ』(P63)


なかなか楽しそうな夫婦生活である。
この旦那も人格面では負けていない。
かれもまた、人間の善なるものをいっさい信じていない。
友人ふたりを会食に招待して開口一番こうである。

『飲め、貧乏人ども!』(P90)

友人など自分の財産を狙っているに過ぎぬと冷笑しているのである。
素晴らしきかな、ストリンドベリ・ワールド!
「赤い部屋」では、病的なしつこさをもって、このたぐいの風刺的描写がなされる。
根本にあるストリンドベリの思想はいかなるものか。
文豪は、ある演出家に幸福について語らせている。
演出家が若手女優に説いていわく――。

「僕は君に慰藉(なぐさめ)を与へてあげよう。君も知つてゐるだらう、
君の手に入る凡ての成功はいつでも他人に代価を払わせてやつて来るのだ。
君に一つの役がつけば他の女はそれを失ふ。
さうしてその女は踏まれた虫のように足宛(もが)き廻るのだ。
さうして君はさうする気もなしに悪いことをしたことになるの(だ)から、
幸福そのものも亦毒を含んでゐる」(P325)


この演出家も悪い子ちゃんで、自分に惚れている女優を用いて悪戯をする。
女優に命令するのである。ある無名の俳優を誘惑しろと。
だまされた俳優が女優との愛を真剣に悩んでいるのを見ながら、
この演出家は悪魔的な快感を覚えるのである。バッカじゃねえの m9(^Д^)プギャー

大正5年の翻訳は常軌を逸した読みにくさである。
おそらくいま日本でこの「赤い部屋」を最後まで読めるのは筆者だけだと思う。
こんな思い上がった気持からネタバレをすると、
無職文学青年のファルクは改心して役人の職に戻る。
文士になる夢を見切る。芸術から生活に帰還するのである。
それから芸術家仲間のひとりが無名のまま自殺をする。
仲間の自殺は青春小説の定番だが、
かのストリンドベリも殺人の誘惑にあらがえなかったのだろう。
または「赤い部屋」を書いたことによって、
この文豪の心中でなにかが死んだことの象徴なのかもしれない。
「赤い部屋」を書いたストリンドベリはもはや無名ではなくなったのである。
日本語にはおかしな決まりがあります。
学校で教えられている。かなりの文章読本にもそう書かれている。
「ですます」と「であるだ」をわけようというルールのことです。
すなわち、「である」「だ」に語尾を一貫させよう。
「です」「ます」を用いたら「である」「だ」を使うのはやめよう。
いったいだれがこんなことを決めたのでしょうか。
「ですまるであるだ」をぶち壊すと本当におかしなことになるのか。
そんなことはない。日本語はもっと柔軟なものだ。

ブロガーのみなさまへ。
「ですます」文体を使っていたら「であるだ」でも書いてみましょう。
「であるだ」を愛用されているかたは、たまには「ですます」も新鮮ですよ。
「ですます」と「であるだ」を交互に書いたら、
今度は「ですます」と「であるだ」をおなじ文章のなかで使ってみましょう。
なんの問題も生じない。
かえって日本語が生き生きしてくるはずです。
文章を書くのがずっと楽しくなるはずだ。

(注)ひとつまえの記事も「ですますであるだ」文体です。

(追記)清水義範氏によると、商業出版で「ですます」と「であるだ」の混合は無理とのこと。
というのも、かならず校閲にはじかれてしまう。いわく「文が乱れています」。
よほどの大作家ならそのままでも押し通せるのだろうが、
まあ、たいがいは訂正する羽目におちいるらしい(「大人のための文章教室」より)。
我われ素人は、プロでもひるむような危ない冒険をするべきではないのかもしれません。(6/12)
酔ってるんだろうな。人生とは、なんて語りたくなってしまうのだから。
待つことだと思います。人生とは、待つこと。
なにかあるかもしれない。そう思って待つ。これが人生ではありませんか。
なにもないのはよくよくわかっているのである。それでも待つ。
待っているうちにいつしか死がやってくる。
なにも起こらなかったが、死者は待っていた。
人間の真っ当な生き方だと思います。
どうせ現実はなんにもないんだと自暴自棄になってはいけない。
ウソとなかば知りながらも、なにかが来るのを待つ。
死ぬその日まで「いつか」と思っているのが、生きる知恵というものではないでしょうか。

わたしはこんな批判をされるかもしれない。
「おまえにはなんの才能もない。作家になんかなれるはずないだろうが」
お答えしましょう。「その通りです」
しかし、わたしは信じています。
いつか、だれかひとりでもいい。心底震わしめるものを書いてやる。
いや、書く。書くことになっている。
現実はきっぱりあきらめる。それでも虚構を信じつづける。
はて、現実ってなんだろう。虚構ってなんだろう。
こんなふうに生きることも(死ぬことも)可能だと思うのです。
この日、近所のブックオフがリニューアルオープンをするというので、
たいした期待もせずに訪問。店内改装をあいだにはさんだ1週間ぶりの入店である。
閉店前は全書籍半額でだいぶお世話になった。
なんでもオーナーが変わるのだとか。
フランチャイズのオーナーが降りて(赤字だったんだろうな)直営店になる。
もしくは、関連会社あつかいになる。
ともあれ、いままでの投げやりな経営ではなくなるということである。
それでも所詮は田舎のブックオフ。まったく期待していなかった。
店のまえでバイトが割引券を配っている。
やる気満々じゃないか。まったく雰囲気が変わっているので驚く。
割引券は50円の金券。わずか50円でも得をすると嬉しい。
パチンコは一度もやったことがないが、
かの賭博場に足を踏み入れる心持はもしかしたらこれに似たものがあるのかもしれない。
そんなことを思いながら、心底流れる軍艦マーチとともに入店。

やられたと思う。こんなことがあるのか。いや、これが古本の世界なのである。
ほんの数日前、ネット通販で買った山田太一のシナリオが105円で売られている。
「夕陽をあびて」。わたしはこの本を1000円近く支払って買ったのだった。
古本歴は5年になる。ひまにまかせて無数の古書市、古本屋に足を運んだが、
この「夕陽をあびて」は一度もお目にかかったことがなかった。
だから、わざわざ送料まで負担してネットで購入したのである。
それなのにわずか数日後にブックオフで出逢ってしまう――。
繰り返すが、これが古本なのである。古書はときに人間以上にドラマチックだ。
買ってしまおうかと思ったが、2冊あっても仕方がないので放流。
しかし、怒り心頭だったのは、わずかな時間である。

というのも――。この日、わたしは大勝ちしたのである。
結局、この店だけで32冊もの書籍を購入した。
おそらくこれだけ大量の本をひとつの店舗から買ったのはこれがはじめてだろう。
近所でなかったら、たぶん持ち帰ることができなかったはずである。重かった。
32冊だ。合計3360円。50円の割引券で3310円。
ブックオフでは3000円ちょいで、これだけの書物を仕入れることができるのである。
店員の声出しが以前の10倍でとてもうるさかったが、
たいへん満足できる買い物であった。以下に詳細を記す。
これを見たらみなさまもブックオフに行きたくなること必定。

「図解雑学 宇宙論」(二間瀬敏史/ナツメ社)105円
「図解雑学 脳のしくみ」(岩田誠:監修/ナツメ社)105円
「図解雑学 マクロ経済学」(井掘利宏/ナツメ社)105円
「図解雑学 ミクロ経済学」(嶋村紘輝・横山将義/ナツメ社)105円
「図解雑学 株のしくみ」(寺尾淳/ナツメ社)105円
「図解雑学 ゲーム理論」(渡辺隆裕/ナツメ社)105円
「図解雑学 キリスト教」(挽地茂男/ナツメ社)105円


大好きな図解雑学シリーズがぞろり、みーんな105円。
キリスト教のは、定価で買おうかだいぶ迷った記憶がある。
すべて書き込みなしの美品。わたし、いい年をして、勉強に目覚めている。
けれども、年も年だから、わからない本はいっさい読みたくない。
図解雑学シリーズは、こんなわたしがかなり信頼しているもの。

「インド思想史」(東京大学出版会)105円
「禅の智恵」(学研)105円
「神道の本」(学研)105円
「無門関」(西村恵信:訳注/ワイド版岩波文庫)105円
「こだわりを捨てる 般若心経」(ひろさちや/中央公論新社)105円


「インド思想史」なんぞ定価は3400円!
読むまえに買うのからしてたいへんな本である。ブックオフさまさま。
最近、禅関連の本をよく買う。悟ろうとしているのかなボクちん(笑)。

「トランスパーソナル心理学」(岡野守也/青土社)105円
「日本文学史」(久保田淳:編/おうふう)105円
「3日でわかる古典文学」(大橋敦夫・西山秀人:監修/ダイヤモンド社)105円
「カラー版 西洋美術史」(高階秀爾:監修/美術出版社)105円


そうそう、「日本文学史」も定価で買おうか迷ったものだ。
日本の文学史を1冊で理解できる大人向けの本は意外と少ないのである。
恥ずかしいけど「3日でわかる」のほうも、あと少しで買うところだった。

「1年で600冊の本を読む方法」(井家上隆幸/ごま書房)絶版105円
「打たれづよくなるための読書術」(東郷雄二/ちくま新書)105円


本は買うだけじゃなく、読まないといけませんね。

「こころに効く小説の書き方」(三田誠広/光文社)絶版105円
「すぐに稼げる文章術」(日垣隆/幻冬舎新書)105円
「大人のための文章術」(清水義範/講談社現代新書)105円
「書きたい! 書けない!」(マリサ・デュバリ/別所里織訳/愛育社)105円


本は、買う読むのみならず、書くこともできる。
早稲田で三田さんの指導を受けて作家になろうと高校生のわたしは思ったのだった。
結局、大学で三田さんの授業はひとつも取らなかった(取れなかった?)。
これが現在の失敗のもとになっているのでしょうか。
最後の翻訳書は本場アメリカのシナリオ作法書。定価1800円。
こんなのぜったいに定価じゃ買えないもんね。

「鹿男あをによし」(万城目学/幻冬舎)105円
「博士の愛した数式」(小川洋子/新潮文庫)105円
「夜のピクニック」(恩田陸/新潮文庫)105円


売れている本も読まなきゃな~。ふつうの人とわたしは正反対なんだ。
一般の読者が娯楽として読む本を、わたしは勉強としていやいや読む。
一般人が勉強のため張り切って読む書籍をわたしは娯楽として読む。
買ったけれど、読みたくないな。だけど、買わなきゃ読まないもんな。
「鹿男」の作者、プロフィールを見たらおない年だった。なにやってんだか、おれ……。

「ハノイの犬、バンコクの象、ガンガーの火、」(小林紀晴/幻冬舎文庫)絶版105円
「間違いだらけの海外旅行術」(西本健一郎/宝島新書)絶版105円
「アンコール・ワット 旅の雑学ノート」(樋口英夫/ダイヤモンド社)絶版105円


みどくつ先生(西本健一郎)の本を買ってしまいました……。
ほんとうに作家はたくさんいる。まぎれこめないものかしらん。

「もとの黙阿弥」(井上ひさし/文春文庫)絶版105円
「山頭火の虚像と実像」(上田都史/講談社)絶版105円
「自分探しが止まらない」(速水健朗/ソフトバンク新書)105円
「編集者という病い」(見城徹/大田出版)105円


そのためには編集者さまのご意向をうかがわなくては。
作家は読者と勝負するというのは建て前ではないか。
高学歴高収入にして自尊心も高い、出版社の編集者さまといかに付き合うか。
カリスマ編集者から幻冬舎社長に成り上がった見城徹から学びたい。
某月某日の「買った本の報告」。

早朝8時15分信濃町にある大学病院に到着。
この大雨。さすがに小生が一番だろうと思ったが、先んずるものあり。
二番手に甘んずる。医師、8時45分に診療室開放。
いつものことだが先生の笑顔には励まされる。
3分で診察終了。この日は風邪薬PL顆粒をもらったのが常ならぬこと。
以前頂戴したものを先だっての風邪で服用。
医者から処方される風邪薬ほど効能あるものなし。
次なる風邪に備え本日PL顆粒を所望したのはこのため。
医師いわく「頭痛に効くんだったんですよね」
記憶違い甚だし。小生、心配す。PL顆粒を頭痛止めに使うことあらんや。
適当に口裏を合わせ薬物を入手。医者が関心を持つのは患者ではなく疾病。
すべからく病者はこのことを知るべし。ならば、かの先生はまれなる良医なり。

薬品を受けとり失敗に気づく。痛み止めロキソニン3週間分処方されり。
小生の頭痛しばらく前に終了。ロキソニン不要。
だが、思い直す。友人に頭痛もちあり。このロキソニンを融通せん(薬事法違反)。
雨は激しくなるばかり。濡れ鼠でブックオフ新宿靖国通り店へ。

「ヨーガ・セラピー」(スワミ・クヴァラヤ-ナンダ/S.L.ヴィネ-カル/山田久仁子訳/春秋社)105円
「気分はいつもシェイクスピア」(小田島雄志/白水社)105円
「木下恵介伝 日本中を泣かせた映画監督」(三国隆三/展望社)105円
「偶然の恋人」(ドン・ルース/藤田真利子・伊東奈美子訳/愛育社)105円


世に決して文庫化されぬ書籍あり。このほうブックオフで買うべし。
まさか「買った本の報告」のなかで敗北を記す日が来るとは思いもよりませんでした。
ええ、たしかに、わたしはこの日、負けたのです。
長いこと敵視していた神保町の矢口書店に。
この古本屋は演劇シナリオ専門店として、また高額なことでも知られています。
この矢口書店で本を買わないことが「本の山」のプライドでした。
それが、あろうことか、とうとう、この古書店の軍門にくだったのです。
わたしは、あたかも俗物のえせインテリのごとく、
本にカネは惜しまぬと言わんばかりに、神保町の有名古書店で、
ワゴンではないものを棚から取りだし、主人のまえに突きだした――。

こんなことが軽々しく起こるはずがないのです。
少しまえから説明をしなければなりません。
週末恒例の小宮山書店ガレージセールで奇蹟が起こりました。
これは本の神様からの誕生日プレゼントだとわたしは思っています。
小宮山書店のガレージセールは3冊で500円。
正確には1冊でも2冊でも3冊でも500円。
古本初心者、神保町新参者は、まず小宮山書店のガレージセールをおすすめします。
本は読むものではなく買うものだということがわかるでしょうから。
この日のお買い物はというと。

「花の回廊」(宮本輝/新潮社)
「8月の果て」(柳美里/新潮社)
「ヤマトタケル」(梅原猛/講談社)絶版


宮本輝キター! です。「花の回廊」は去年7月の出版。
わたしは2000年から宮本輝の新刊はすべて単行本(定価)で購入しています。
やめたのは「にぎやかな天地」から。
おそらくかの大作家の作品を愚昧なわたしが理解していないのでしょうが、
宮本輝の説教がうざくなったのです。
先生のここ10年の小説は、ほとんど説教から出来ています。
どうしてこちらがカネを払ってまで説教されなければならないのかわからない。
たしかにサラリーマン。
上司は部下に呑み屋で説教するでしょうが、代金は上司が支払うもの、奢るもの。
どうしてこちらが奢っているのに説教されなければならないのか理解できない。
宮本輝先生の新刊を買わなくなった理由です。
ことに「花の回廊」は定価が2000円もする。
いまその書籍を、発売から1年も経たぬうちに激安価格で入手できるとは。
毎度のことながら、なぜかわたしは古本のヒキが異常なほどいいのです。

わたしという人間は、このくらいの買い物で、すっかりもう幸福になってしまいます。
それから有名古書店のワゴンを巡回する。
この古書街はたしかに概して高額ですが、店外のワゴンだけは例外です。
おっとっと。某古書店のワゴン――。100円だからとりあえず買っておこう。

「南回帰線」(ミラー/大久保康雄訳/河出書房新社版)絶版

「南回帰線」は講談社文芸文庫から新訳が出ていますが、評判はどうなのでしょうか。
とりあえず100円なら解説を読むだけでも元が取れます。購入した理由です。
演劇シナリオ専門古書店の矢口書店へおもむく。
この日も、言うまでもなく、買うつもりはなかったのです。
内心にやにやしながら店内の在庫と価格をチェックする。
優越感にひたるのが目的なのかもしません。
こんな高値がついている古書を、わたしは激安価格で買っている。
矢口書店で味わえる幸福とはこのことです。
「シナリオマガジン ドラマ」のバックナンバーで驚くことが。
山田太一作「タクシーサンバ」掲載号です。
この作品は山田太一もかなり思い入れがあるものだそうです。
「タクシーサンバ」掲載誌をはじめて見たのは、ところもおなじ矢口書店。
数年前だったと思います。2000円の価格がついていました。
ほしいけれども高い。迷いながら数日後に行ったら売り切れていました。
2回目に見たのは、ほんの10日ほどまえ。
このときは1400円でした、買おうかどうかだいぶ迷った。
しかし、状態がよくなかったのです。これで1400円は高い。
矢口書店に負けたくないという気持もありました。そして、この日。
宮本輝「花の回廊」を幸運にもバーゲン価格で入手した、この日――。

「ドラマ 1982年1月号」(映人社)品切れ 900円

これも決して美品ではありませんでした。だから900円なのでしょう。
あの「タクシーサンバ」を三桁で買うことができる。
だが、ここは矢口書店。
この古書店で買ってしまったら「本の山」の根幹が崩れてしまう。
物欲と自尊心の激しい交戦が繰り広げられました。
わたしは勝ちました。わたしは負けました。
2008年5月演劇シナリオ専門ブログ「本の山」、ついに矢口書店に屈する――。
「未成年」(ドストエフスキー/工藤精一郎訳/新潮世界文学14)絶版

→その日はわたしの誕生日であった。
長編小説「未成年」の感想を書こうと朝からパソコンのまえに座っていたが、
なにも思い浮かばなかった。
参考になるものがあればとネット検索を繰り返したが、ろくなものがない。
途中で読むのを挫折したという記述をよく目にしたことを憶えている。
このようなことはめずらしくなく、それでも3時間もうんうん唸っているうちに、
糸口のようなものを発見するのが常だった。
わたしの感想文の書きかたを紹介すると、こうである。
本を読みながらチラシの裏に気になったページと思ったことを走り書きする。
感想を書くときこのメモにしたがい再読すると、これらの点がおのずから線となるのだ。
だが、この日、何度も「未成年」を開いたが、
この大作をどのように切り取ればいいのかわからなかった。
6時間が経った。まだ1行も書けていない。
途中、干していた布団が風で飛ばされたのに気づき、あわてて階下まで取りに行った。
8時間経過。午後5時である。朝からなにも食べていないことに気づく。
せっかくの誕生日になにをやっているのかと自己嫌悪におちいる。
だれも祝ってくれるものもなく、ひとりパソコンとぶあつい文学書に向き合っている。
そのうえ読書感想文など書いても、一文の得にもならないのである。
こんなかび臭い古典作品の感想をだれも読もうとはしないだろう。
なにを悩んでいるのだ。苦しむ必要などないではないか。
べつにおまえが感想を書かなくたってだれも哀しみはしない。
書いたところで喜ぶものさえいない。いったいおまえは誕生日になにをしているのだ?

気晴らしにおもてへ出た。土手を散歩しようと思ったのだ。
歩くのが好きだ。ひとりで歩くのが好きである。唯一の趣味といってよいかもしれない。
夕暮れどきとはいえ5月の太陽はまだ高い。
道の両脇に生い茂る草花は陽の光を受けきらめいている。
春の輝きのなかで、わたしはロシアの陰気な小説を思った。
未成年アルカージイ、その父ヴェルシーロフ、
このふたりから愛される高慢な美女カテリーナを思った。
かれらを狂おしいほどに愛した。
1時間ほど歩くとふたつの川が行き交う地点に出る。
ここで引き返すことにする。
今度は西に向かって歩くことになる。朱(あけ)に染まった空めがけて進む。
このとき世界の均衡が崩れたような思いにとらわれ身震いがした。
異常な感覚がわたしを襲い、目まいがしてその場で倒れるかと思った。
体勢を整え、ふたたび歩を進める。
いままで一度も歩いたことがない川辺の細道を進路に選んだ。
光を失いつつある草花は、不穏な気配に満ちている。
胸騒ぎがしてよくないことが起こるだろうとふしぎな確信をいだいた。
だから、その男が現われてもまるで驚かなかった。
枯れ木のような男は、異様なほど痩せていた。
男は髪もひげも聖者のように伸ばしており、白髪まじりの灰色がいかがわしかった。
目は一点を見すえ、口ではなにやらつぶやいていたものの、その詳細はわからない。
こいつは廃人に違いないとわたしは昂(たか)ぶった。
無礼なほどじろじろ見つめたが男はいっこうに意に介さない。
男とわたしはすれ違い、別れた。道は行き止まりであった。
やむなく引き返すと今度は反対方向から男が歩いてきた。
危険を感じたわたしは道を離れ、男から逃げだした。

これといった道のない川辺の野原をわたしは歩いていた。
場違いな嬌声が聞こえ、出どころを見やると若い女が5、6人、円座している。
女だけの集団は、この世ならぬ熱狂のただなかにいた。
いま思えば、ドラッグかなにかで昂揚していたのだろう。
女たちがわたしの存在に気づいたことを、わたしも察知した。
お互いに気まずいものがある。
わたしはなにやら秘密をかいま見てしまったようなやましさにとらわれた。
見なかったことにしよう。顔をこわばらせ、一点を凝視して前進する。
セックスという叫び声が聞こえた。
明らかにわたしを意識して騒いでいるという声色であった。
「あやまれよ。昨日電話に出なかったのはセックスしてたからだって、あやまれ!」
わたしはびくりとするが振り返らない。
「ダメだって。セックスしてたからです、って言え」
同調するかのようなはやし声が聞こえる。ひとりをつるしあげているのかもしれない。
一瞬しか見ていないが、まだ十代といっていいほどの少女たちだった。
ここでなにをしているのだろう。秘密のたまり場なのだろうか。
笑いをふくんだ命令が繰り返される。
「昨日電話に出なかったのはセックスしてたからなんだろう。
わかってるんだって。あやまれ。声に出してあやまれ。セックスしてましたって言え」
誘惑に負けて、女たちのほうを見てしまう。
先ほどは気がつかなかったが車座の中心に上下とも下着姿の少女がいる。
一面の緑のなかで少女の白い下着がまぶしかった。
女たちはわたしが振り返ったことを知り、歓声をあげた。
焼きを入れているところなのかもしれない。
むざむざ女たちの誘いに乗ってしまった自分を恥じた。愚かな女どもめ。
ことさらなんでもないことのように振る舞いわたしは変わらぬ速度で歩きつづけた。
後方から女たちの笑い声が追いかけてきたが振り払った。

あいつに会いに行こうと思った。
川岸でテント生活をしている浮浪者がいるのである。
見たところ外貌はそれほど荒廃していないのがかえって新鮮だった。
この中年男性は毎日なにを思って生きているのだろう。
わたしはそこを通りかかるたびに話しかけたいという欲望を覚えたものだ。
むろん今日とて、わたしはかれに話しかけはしないだろう。
だが、このまがまがしい世界のゆがみはあの男によって正されるかもしれない。
このまま自宅に帰るわけにはいかないのである。
わたしは熱にうかされたように男の青色のテントをめざした。
男はテントのそとで椅子に座りながら料理をしていた。
男のまえのコンロからは煙が出ている。
我われの目が合い、男は隠遁者ならではの鋭い嗅覚でわたしの意図を察したようである。
読者のみなさまに信じてもらえるかどうかわからないが、
わたしはにやりと笑ってみせたのである。
すると男の目がぎらぎら燃えだした。異様なしわが額にちらと走った。
おそろしく陰鬱なしわである。男はぷいと後ろを向いた。
テントは道の行き止まりにあるため、ここからは道がない。
わたしは急勾配の土手を登らなくてはならない。
土手のうえから浮浪者を見おろした。立ちどまって、これ見よがしにじろじろ見た。
男は背中を向けていたが、間違いなくわたしの視線を意識していたことだろう。
わたしは男の背中に呼びかけたくてたまらなかったのである。
このときわたしがかれを二人といない親友とみなしていたといったら、
信じてもらえるだろうか。
異様な親しみが湧き上がり、わたしはいまにも土手をかけおり、
かれの手を取りたいほどだった。かれとわたしは一晩中でも話すことがあるだろう。
そうしてわたしは男を煽りたてるのだ。
やってしまえばいいではないか。我われは復讐しなければならない。
幸福な勝利者連中をひとりでも多くぶっ殺して、
世間をあざわらいながら不幸の歓喜のただなかで自刃しなければならない。
それは歓喜だ。不幸は歓喜なのである。
なにをくすぶっているのだ。燃え上がらなければならない。
火事は起こせるのである。なぜ火をつけない? 内なる業火を延焼させよ!
焼き尽くされた幸福を想像しながらわたしはほとんど有頂天になっていた。

わたしは歩きつづけた。陽は沈み夜の静まりが気分をいらだたせる。
作業着を着た若い工員3人が、土手の階段に座り込み酒盛りをしている。
見ると、安焼酎「いいちこ」の瓶がある。
わたしはみずからを罰する必要があるように思った。そのためになにをしたか。
なんのことはない、かれらの横を通りすぎるときに薄笑いをするだけでよかった。
人一倍、自尊心に敏感な若い工員たちは、すぐに色めきたった。
あとは振り返るだけである。薄笑いを崩さず、再度かれらを見やった。
ひとりの工員が立ち上がろうとするのを、のこりの二人が必死になってとめている。
どうした、さあ来い。わたしは殴られ蹴られ血まみれのどん底に落ちるのだ。
たとえ今日死んだとして、だからいったいなんだというのだろう。
生まれた日に死ぬのもなかなかおもしろいではないか。
どうした、来ないか、チンピラども。おまえらには刑務所がお似合いだぜ。
亡ぼしてやる! おまえらもわたしも世界も亡ぼしてやる!
このわたしが死ねば世界などその瞬間に亡びるのである。
男たちは動かなかった。
常軌を逸した憎悪を感じはしたものの、工員たちはわたしをにらむだけであった。

家に戻り酒をのんだ。みずからの誕生をひとり祝った。
とろとろ心地よい酔いにつつまれる。
だれからも誕生日のお祝いなどもらわなかったが、わたしは満足していた。
これまでの人生で出逢い、別れた人のことを思った。
かれらは存在した! わたしはいかようにもかれらと戯れることができる。
未成年アルカージイと、その家族のことを思った。
「未成年」を書いたドストエフスキーに思いを馳せた。
かれらもまたわたしにとって貴重な友人たちではないか。
わたしは今日という丸一日を未成年たちと遊んで過ごしたといってよい。
なんとぜいたくな誕生日であったことだろう。
わたしはロシアの友人たちと遊びほうけていたのだから――。
アルカージイの輪郭がとろけ、むかし別れた友人の某にまじり、
事実と虚構があいまいに混濁し、これらすべてがわたしという容器に流れ込む。
わたしわたしわたしである。アルカージイはわたしであった。
世界には「わたし」しかいないのである!
そのときわたしは言いようもない幸福の絶頂に達した。
生まれてきてよかったと心底より思った。生命の妙味を発見したとさえ思った。
結局、誕生日のこの日、「未成年」の感想を書くことはできなかった。
けれども、おかげで、
こうしてドストエフスキーに惑溺(わくでき)することができたのである。

※「未成年」ノート

・「未成年」はドストエフスキーの最高傑作であるように思う。
わたしは「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフ」よりも「未成年」を推す。
ただしこの小説は非常にスタートが遅い。
ジェットコースターとおなじである。
ジェットコースターはある高さまでゆっくり人工的な力で運ばれる。
そこからの落下は、人力をまじえぬまったく自然の力による。
「未成年」は三部にわかれるが、第一部はおよそジェットコースターの上昇に比される。
第二部から落下が開始すると思いながら読みすすめなくてはならない。
たしかに第一部の退屈さは異常なほどである。
しかし、第二部からの迫力もまた異常というべき魅力に富む。

・「未成年」は青春小説である。
私生児アルカージイが父との対決、友人との交流、美女への片思いを経験する。
アルカージイは未成年ゆえ未熟である。
多く誤まる。すなわち、誤解をする。
青年の誤解と発見のたえまないプロセスが「未成年」だ。
アルカージイのなんとかわいらしいことか。
この青年は愛する美女を破滅させる秘密の手紙を持っている。
この手紙を武器に女を屈服させようとの卑劣な考えを持つアルカージイ。
だが、いざ女のまえに出ると、未成年は自分の計画を告白して許しを請うのである。
女は身分の高い男爵と結婚しようとする。
私生児アルカージイはふたりの後を追うが男爵に打ちのめされてしまう。
愛する女のまえで這いつくばる未成年の屈辱は美しい。

・ドストエフスキーの作中人物は熱にうかされたように行動する。
有頂天とどん底を行ったり来たりするのがかれらの特徴である。
中間でじっとしているということがない。
有頂天かどん底でなければ満足できないのであろう。
かれらの見せる極端な愛情と憎悪もこのためと思われる。
憎んでいるかと思ったら、打って変わって、異様なまでの親愛を示す。
気分の浮き沈みは病的というほかないものがある。
こんな人間がそばにいたらたまらないが見ているぶんにはおもしろい。
で、見ていると真似をしたくなってくるのだからドストエフスキーには困ったものだ。

・シェイクスピアを愛したドストエフスキーならではの、
戯曲めいた小説構成が見られる。
この小説の動因をひとつに限定すれば遺産相続に関わる秘密である。
この秘密をなぜか未成年アルカージイが持っている。
この設定のため物語はアルカージイの行動とともに動いてゆく。
秘密のやりとりで話を進めるのはもっぱらドラマ作法と等しい。
「未成年」のなかで盗み聞きは3回発生する。
2回は未成年自身が盗み聞きを行ない、1回はかれが被害者となる。

・未成年とはドストエフスキー自身のことかもしれない。
かれの小説では老若男女がおそろしく幼稚な疑問にとらわれている。
いまどき日本の中学生でも悩まないような壁に衝突する。
だが、この幼稚さ純粋さが、ドストエフスキー作品の魅力なのかもしれない。
ガキ臭いことをだいのおとなが大まじめに議論するのである。
また、喜怒哀楽の激しさも、まるで幼児のようである。
ドストエフスキーの作中人物は感情を抑制するということを知らない。
すぐに怒る。かんたんに泣く。絶交も仲直りもシベリア超特急である。
だが、男女の性交にまでいたる速度はこのかぎりではない。

※「未成年」の言葉

長編小説「未成年」はアルカージイの手記という形式を取る。

「中学を卒業するとすぐに、わたしはまだ二十歳にもなっていなかったくせに、
すべての人と完全に関係を絶とう、それどころかもし必要とあれば、
全世界とさえ縁を切ろうと決心した」(P21)


「そう、わたしは陰気な男である。わたしはいつも自分の殻にとじこもっている。
わたしはしょっちゅう社会から脱け出したいと思っている。
わたしは、おそらく、人々に善をなすことになろうが、
しかし彼らに善をなさねばならぬこれっぽっちの理由も
見出せない場合が多いのである。
おまけに人々は、それほど気をつかってやらねばならぬほど、
決して美しいものではない。
どうして彼らのほうから率直に、胸を開いて、助けを求めに近づいて来ないのに、
どうしてこっちから先に、彼らのそばへ這いよって行かなければならないのだ?
わたしが自分に問いたいのはこのことである。
わたしは恩を知る男で、これはもう数知れぬばかげた行為で照明してきた。
わたしは胸を開かれるとすぐに胸を開いて応えて、
たちまちその相手を好きになるような男なのである。
そのとおりにわたしはしてきた。
ところが彼らはどれもこれもじきにわたしを欺して、
嘲笑いながらわたしから逃げてしまった」(P104)


未成年アルカージイの「ひきこもり宣言」といってよい。
だが、未成年は友情を知り、恋をおぼえる。
ところが、この恋は破れ、憂さを晴らしに友人とルーレットに行ったはいいが、
窃盗のぬれ衣を着せられてしまう。このとき友人は味方をしてくれなかった。
裏切りである。
盗人とさんざん面罵され賭博場を追い出されたアルカージイは夜道で夢想する。

「わたしの脳裏をこんな考えがかすめた。
『釈明がもうぜったいにできないし、新生活をはじめることもできないのなら、
いっそ負け犬になってやるか、うじ虫になり、下男になり、密告者になる、
もうほんものの密告者になってやるのだ、
そしてひそかに準備して、そのうちに――不意にすべてを空中に吹っとばし、
すべてを、罪のあるやつもないやつも、すべてのやつらをたたきつぶしてやるのだ、
そしてそのときはじめてやつらは、
これが――あのときみんなで泥棒呼ばわりしたあの男だ、と知るだろう……
それを見とどけたうえで、しずかに自分の生命を絶つのだ』」(P402)


「みんなぶっ殺しておれも死んでやる」である。こわいですねえ。
こんな未成年アルカージイに、あふれんばかりの愛情をそそぐものが現われる。
(しかし「未成年」において人物はなんと都合よく登場・退場することか!)
系譜上の父親、イワーノヴィチである。この老人は長年の巡礼のおかげか、
いまや聖者といった風格をただよわせている。ありがたい説教を拝聴しよう。

「わしは思うのだが、学問をおさめるほど、ますます退屈になるものらしい。
ま、考えてもみなさい、世界が生まれてこのかた、
いろいろな人がいろいろと教えてきたが、
世界がいちばん美しい、楽しい、そして喜びがいっぱいの住居になるような、
なにかいいことを教えてくれたかね? もひとつ言うとだな、
善美というものをもっておらん、もちたいという気持もないのだよ。
みんな破滅してしまった、そしてどれもこれも自分の破滅を自慢してるしまつだ。
ただひとつしかない真実のほうを向こうともしない。
だが、神のない生活は――苦しみでしかないのだよ」(P451)


工藤精一郎の訳はすばらしい。読むならこの訳で。
間違えても米川正夫の訳で読んではいけない。
うちに米川訳の「未成年」もあるので比べてみたが、米川訳は日本語になっていない。
しかし、どちらかといえば岩波文庫の米川訳のほうが入手しやすい。
どうしても工藤精一郎訳を所望するかたがおられましたらご一報を。
なぜか新潮文庫2冊組みも所有しているのでプレゼントします(状態は良くないが)。
いや、ビールの1杯くらいはおごってください。誕生日プレゼントとして、でも。
ほんとうに長いこと積ん読していた「未成年」をようやく読了した。
期待していた以上の傑作だったので、こんな嬉しいことはない。
なぜかだれも読んでいない「未成年」は、知る人ぞ知る、隠れた名作である。
みなさま、はじめてのブログにたどり着いたとき、どこからご覧になりますか。
プロフィール欄ではないでしょうか。
これを書いている人はどのような人物なのか。
これがわからないと、もしかしたら人間は文章が読めないのかもしれませんね。
相手の性別や年齢がわからないと落ち着かない。
文章にはこのようなところがたぶんにあると思います。
我われだけではないのです。安心しましょう。
ためしにこんな実験をしたらどうなるでしょうか。
どこかの雑誌に企画してもらいたいくらいです。
文豪の知られぬ小説をひとつ。まったくの新人の小説をいくつか。
芥川賞選考委員にでも読ませて、感想を書かせればいいのです。
むろん、すべての作者プロフィールを隠したうえです。
果たしてどんな結果になるでしょうかね。

「本の山」のプロフィール欄はブログ開設当初からほとんど変えていません。
気に入っているからというわけではないのです。
正直、申し上げると、改変したいと思っています。
だらだらとまとまりがない。これでは閲覧者に読む気を起こしてもらえません。
もっと簡潔に要点をまとめなければならないとつねづね思っています。
だが、いいアイディアがないのです。

(小谷野敦+中島義道)÷2=ヨンダ

こんなプロフィールにしようかと思った時期もありました。
たしかにキモいけれども、小谷野敦ほどではない。
たしかにウザいけれども、中島義道ほどではない。
この数式の意味するところです。
しかし、問題があって、このプロフィールは小谷野敦、中島義道、
両先生を知るものではないとまるで意味がわかりません。

最近、思いついたのは「自称作家」です。プロフィール欄をクリックしたら「自称作家」。
これはどんなものでしょうか。ご意見を聞かせていただきたいものです。
フザケンナ! とすぐにページを閉じられてしまうでしょうか。
それとも自称の響きのおかしさに気づいてもらえるのか。
自称のすばらしさを、わたしは日本の放送メディアから教わりました。
今年いちばん笑ったニュースからです。
「自称グラビアアイドルの某女史が秋葉原で秘所を公開(逮捕)!」
この「自称グラビアアイドル」を聞いたときからしばらく笑いがとまりませんでした。
「自称~~」というのは、差別語以上に対象者を愚弄するパワーがあります。
このパワーを逆利用して、あえて「自称作家」とプロフィール欄に書くのはどうか。
このところ煩悶していることです。
「自称作家」のユーモアが果たして万人に伝わるのか。
伝わらなかったかたを切り捨てる勇気が自分にはあるのか。
いまもどこか的外れなプロフィールを公開しているのはこのためです。
いんや、思い切ってプロフィール欄に「女子高生」などと書いてしまおうか。
以上、過疎ブログ管理人の独り言です。
先ほどアマゾン経由でメールをいただいた。
以下の3冊の発送を終了したという。
アマゾンのマーケットプレイス。すなわち、すべて絶版。
シナリオ「今朝の秋・春までの祭」(山田太一) 700円+340円
シナリオ「夕陽をあびて」(山田太一) 600円+340円
戯曲集「ラブ」(山田太一) 680円+340円
合計で3千円ちょうどだったのは、あたかもなにかの符合のようで嬉しかった。
偶然ながら3冊ともに送料込みで約千円。
これで山田太一の書いたシナリオ・戯曲をすべて収集したことになる。
(エッセイ「誰かへの手紙のように」、童話「リリアン」は未購入。
シナリオ雑誌「ドラマ」バックナンバーにいくつか未見の作品が残るけれど、
これはライフワークとしてゆっくり収集したい)

このたびアマゾンで購入するにあたって実のところだいぶ迷った。
というのも、わたしは異常なほど古本のヒキがいいからである。
理由はわからないが、なぜかほしい本と偶然にも安価で出逢うことが多々ある。
こんかい買った本にも、いつ百円でめぐりあわないともかぎらない。
「今朝の秋・春までの祭」は5つのシナリオを収録するが、2つは読んだことがある。
「夕陽をあびて」は、わずか3回で完結の、山田ドラマのなかでもマイナーな作品。
「ラブ」も(自信過剰なようだが)いかにも百円で入手できそうな本である。

しかし反面、決定的に出逢えない本というものもある。
もしかしたら上記3冊にこれから一生めぐりあうことがないかもしれない。
こればかりは運である。だれにもわからない。
ならば、適正価格で買えるうちに入手しておくのは賢いやりかたである。
書籍1冊千円は、まあ妥当な価格といえよう。
この買い物を後押しした動因のひとつである。

ブログをやっているくせに、白状するとネットでの買い物は苦手である。
現物を見ていないものを買うという感覚にどうにもなれることができない。
こんなわたしをネットに向かわせたのが、ほかならぬ山田太一シナリオであった。
この脚本家のシナリオは、いまではほとんど絶版。
神保町の矢口書店にはあるものの、値札を見ると安いもので2千5百円。
高いものは4千円近くする。
ところが、おなじものでもネットで買うと送料込みで千円程度なのだから。
機械操作が大嫌いのわたしにネット購入を覚えさせたのは、
およそインターネットとは縁遠いと思われる山田太一なのだからふしぎなものである。
好きな作家の作品をすべて読んでしまうと、あとは再読の喜びしかない。
そうとは知りながらも、昨日、購入を決意したのである――。
情報化社会といわれて久しい。
まるでなにかに脅迫されたかのように我われは知らなければならないと思っている。
知らなければ損をする。
他人よりひとつでも多くものを知っているものは偉い。
果たしてほんとうにそうだろうかと異議を唱えてみたいのである。

わたしは同年代の一流出版社編集者の年収がいくらか知りたいとは思わない。
知っても打ちのめされるだけだからである。
わたしは社会の裏側でどれだけコネが幅を利かせているか知りたいとは思わない。
知ってもどうしようもないからである。
共通するのは、知ることが幸福や満足に結びつかないということである。
むしろ、知ることが不幸や憂鬱の原因になる。
小作人は王侯貴族の生活の詳細など知る必要がないのである。
このかぎりにおいて小作人は小作人のままで幸福になることが可能となる。

もっと身近な話をしよう。
わたしは某フランチャイズ店の百円ハンバーガーの裏側を知りたいとは思わない。
知ったら怖くて食べられなくなると思うからである。
ネギトロは好物だったが、裏事情を知ってしまったため、
いまいち手が伸びない食品になってしまった。
知らなければよかったとさえ思う。
おなじ意味で中国産鰻や中国産焼き鳥の裏側を知りたいとは思わない。
おかげでいまでもおいしくこれらを食することができる。
一方で、むかしから居酒屋の食材使いまわしのことは知っていた。
だから、刺身のツマ(大根)に手をつけることはなかった。
むろん、食べたところで害はない。人間のからだはそこまでやわではないのだから。
とはいえ、知ってしまうとなかなか口にすることは難しい。

知らなくてよかったと思うことはまだある。
うちのブログは「スゴいカウンター」を設置している。
このカウンターでわかるのは、ほとんどアクセス数のみである。
あとブックマークで何人いらしたかもわかる。
少数の検索ワードも知ろうと思えば、知ることができる。
だが、これでもう限界だ。だれが何回来たかまではわからない。
なかにはあるブログを1日10回以上チェックする人間もいるようである。
それをやられて(正確には、なされたことを知って)恐怖するブロガーもいるという。
たしかにわたしもそんな事実を知ったらストーカーされているようで身震いする。
けれども、幸いなことに、うちのカウンターはそこまで調べられない。
だから、こうしてブログを継続できるのかもしれないと思う。

コメントをいただいてからわたしがお答えするまでのあいだ、
コメント者が何回「本の山」を訪問したかもわからない。
知らないことで精神の平安が保てる。
最近、ブックマークでいらっしゃるかたが急増している。
これは嬉しいことである。
しかし、もしかしたらひとりの人間が何回もブックマークで来ているのかもしれない。
わからない。というか、知りようがない。
このため、わたしは愛読者が増えたのだと好意的に解釈している。
ほんとうはどうだか知らないし、また知りたいとも思わない。
わたしの話ばかり長くしてしまって申し訳ない。
みなさまを例に挙げよう。
みなさまも知らないことで救われていることがある。
すなわち、みなさまの大半はわたしの顔を知らない。
これでみなさまがどれだけ恩恵をこうむっているか。
(こんなことを書くとまるでわたしがフランケンシュタインみたいな顔をしているようだが)

いちばん難しいのは人間に相対するときである。
どちらとも断言できない微妙なケースが多々生じてしまう。
尊敬している人間のことをどこまで知ればいいのか。
すべてを知らなければならないのか。
知らなくていいこともまたあるのか。
異性の恋愛対象者にもおなじことがいえよう。
相手のこれまでの恋愛遍歴をいったいどこまで知るべきなのか。
知ることが必ずしも幸福と結びつかないことがある。
知らないでいる勇気がときに必要とされることもあるのではないか。
しかし、ほんとうの恋愛は相手のすべてを知ることだという考えも一理ある。

言うまでもなく、一般的に知ることはたいせつである。
神保町の専門店でバカ高い書物をありがたがって買う老人は、
ネット古書店の存在を知ったほうがいいと思う。
(いや、知ってしまうとこれまでの損失に仰天してしまうから、
やはり知らなくてもいいのかもしれない)
知る権利があるという。ならば、知らない権利もまたあっていいのではないか。
そして、ふたつの権利の優劣は決めがたい。
この記事でわたしが言いたかったことである。知らないこともまたいいものだ。