「泣き言はいわない」(山本周五郎/新潮文庫)

→酒をのみながら文豪の名言集を読むのはまたとない幸福である。

嘘というのは作者が心底から信じていないと読者をだますことができない。
物語作家の山本周五郎は、あるものを狂信していた。
狂ったように信じていた。
だから、山本周五郎の小説は名もなき庶民の慰めになったのであろう。
人間は本当のことに救われはしない。嘘こそ人間を生かす。
だが、どんな嘘でもいいというわけではない。
作者が狂おしいまでに、「かくあれ」と願っている嘘でなければ人は救われない。
嘘をつくなら、まず自分からだまさなくてはならない。
自分もだませぬような嘘が他人をだませるはずがないのである。

「人間がこれだけはと思い切った事に十年しがみついていると大抵ものになるものだ」(P30)

「人間はみんなが成りあがるわけにはいきゃあしない、
それぞれ生まれついた性分があるし、運不運ということだってある」(P37)

「人間にいちばん大切なのは逆境に立ったときだ、
借銭などでいちじを凌(しの)ぐ癖がついたら、
とうてい逆境からぬけ出ることはできない、どんな苦しくとも、
自分の力できりぬけてこそ立直れるものだ」(P70)

「人間以上の「或る力の存在」を想定することなしには人間は生きることができない」(P133)

「妻をもち、子が生れ、温かい家庭ができる。勤めにも故障がない、
という状態が、精神をふやけさせ、人間を飼い犬のようにする」(P180)

「私は、自分がどうしても書きたいというテーマ、
これだけは書かずにおられない、というテーマがない限りは、
ぜったい筆をとったことがありません。それが小説だと思うんです」(P221)
「「デタラメ思考」で幸せになる!」(ひろさちや/ヴィレッブックス)

→ひろさちや氏の言うことだから話半分で受けとったほうがいいのかもしれないが、
デタラメの語源は「サイコロの出た目次第」だという。
ならば氏のように人生はデタラメと看破するのはいろいろ有意義かもしれない。
サイコロをふってなにが出るのか人間はわからないのである。
けれども、人間はこれまでの記録や周囲の状況から予測をせずにはいられない。
たまさか当たったら努力が報われたなどと喜ぶのがあんがい人間ではあるまいか。
サイコロを転がしているのは、
人間がいくらのっても平気なほど広いお釈迦様の手かもしれないのに。
ちっぽけな人間がサイコロの目をどうこうできると思っているは笑止である。
(ストーリーテラーのモームが物語作法をサイコロにたとえていたことは意味深い)

ひろさちや氏の主張をひと言でまとめれば「がんばるな」である。
いくら努力しようがどのみちデタラメだというのが理由である。
うふふ、読者諸兄、ひろさちや氏を甘く見てはいませんか。

「文筆業者という者は、
書くこととやることのあいだに大きな乖離のある人種なんですよ」(P73)


実のところ、ひろさちや氏ほどがんばるのが好きな人間もめずらしいのである。
いま紀伊国屋書店HPで調べたら、これまで出版された氏の著作は480点。
これほど多作なライターは、そうはいないのではあるまいか。
いやいや、たしかにこれだけ著作があっても主著というべき代表作はひとつもないから、
がんばっていないのは確かだなんて、氏を傷つけることを言ってはいけない。
ひろさちや氏はこんな言い訳を用意している。

「わたしの尊敬する仏教学者で、しかし晩年になると、
自分はこの仕事を完成させてから死にたいと、
執念のごとく仕事に打ち込んでおられた先生がいました。
あれはあれで立派なんでしょうが、わたしはその「執念」にいささか辟易しました。
わたしであれば、もっとゆったり生きるのに……と思いました」(P150)


努力しているのか楽をしてもうけているのかよくわからない、
このいかがわしさこそ宗教ライターひろさちや氏の最大の魅力であろう。
「「狂い」のすすめ」(ひろさちや/集英社新書)

→宗教ライターひろさちや先生のベストセラー。
もしかして、ひろ先生の本がこうまで売れたのはこれが初めてなのではないだろうか。
本書の内容は、愛読者のわたしにとったら、いつもとおなじ。
定価で買ったわけではないし不満はない。
気分は「水戸黄門」をひいきにする視聴者と変わらない。
ひろ先生の説くひろイズムに、うふふんであーる。

このところひろさちや先生の説教の定番だったのが「で・あ・い」。
その詳細は「デタラメ・あきらめ・いいかげん」の「で・あ・い」。
人生はデタラメである。だから、あきらめて、いいかげんに生きようという主張である。
ひろイズムが、本書「「狂い」のすすめ」でついに陽の目を見たともいえよう。
というのも、ひろさちや先生は、とにかく濫作を好む。
愛読者のわたしは知っているが、著作によって質の高低がたいそう異なる。
なかには異様なほどクオリティの高いのもあったがあっさり絶版になっていた。

ところが、この集英社新書である。
ひろ先生のほかの書籍と比べたら、とてもレベルが高いほうだとはいえない。
にもかかわらず、爆発的に売れてしまう。
まったく人生はデタラメである。
あきらめていいかげんに生きていた先生にとっては、嬉しいタナボタ。
ファンのわたしもなんだかほのぼのしてしまう。

商魂たくましい先生は、早速「~~のすすめ」という類似書を濫発している。
こんな単純さが、ひろさちや先生の魅力である。
ベストセラーの恩恵か、先生の顔写真入りのポップを書店で見かける。
「ほんと売れちゃっていいの?」といった、おどおどした感じがたまらない。
詐欺師めいたいかがわしさもだいぶ様になってきたようである。
「人の心はどこまでわかるか」(河合隼雄/講談社+α新書) *再読

→河合隼雄もこの著作でにおわせるだけで決して強くは主張できないことが、
もしかしたらカウンセリングや心理療法の本質なのではないのだろうか。
なにかというと難しいことではない、金銭を支払うことである。
およそ廉価とはいえぬ料金を支払うことによって人間は治るのではあるまいか。
ユングやフロイトの理論で神経症が治るわけではない。
人間は高額の料金を支払うと元を取ろうとする。だから、治るとは考えられはしないか。
たとえば風邪。あんなものは放っておけばそのうち治るのである。
けれども、我われは治ろうとしない。ついつい酒をのんだり夜更かしをしてしまう。
ところが、医者にかかる。これはよほど治したい気持が強いわけである。
医者にもかかった。薬ものんだ。
こうまでして夜遊びをしたりするものはいないでしょう。
なるべく安静にしている。したがって治りも早い。
カウンセリングや心理療法もこれとおなじ仕組みなのではないだろうか。

わたしは河合隼雄のファンのひとりだが、カウンセリングにかかったことは一度もない。
また、今後カウンセリングを受ける予定もゼロ。
理由は、恥ずかしいものだが、カネがもったいないからである。
1回5千円や1万円も払って、偉そうな先生なんぞに話を聞いてもらうのはご免。
そもそもカウンセリングで自分のあまたある神経症が治るとは思えない。
ざらに治らなかったときを考えると憂鬱なのである。
10回通ったとする。5万円の出費。
このときまったく治っていなかったら、わたしはカウンセラーを許さないと思う。
一生立ち直れないほどの傷を
カウンセラーにつけてやろうと思うはずである(たかが5万でというなかれ!)。
おそらく実行してしまうと思う。
こういう面倒なことを起こすくらいなら、ひとり苦しんでいたほうがまだいいと思うのである。
カウンセラーだって、わたしのように迷惑なクライエントに来られたら困るはず。
以上、わたしがカウンセリングに行かない理由と、
ある種の人びとがカウンセリングで治る理由を同時に述べたつもりである。
「河合隼雄のカウンセリング入門」(創元社) *再読

→引用を中心にしてカウンセリングについて整理してみたい。
ストレートの直球勝負、カウンセリングとはなにか――。

「カウンセリングというのは悩みをなくすというようなものではなくて、
「悩みを正面から悩む」ものだと言えるでしょう。(中略)
もっと正面からこうだと欠点を見る態度、これがカウンセリングだと思います。
だから、そういう意味では、
カウンセリングというのは非常に厳しいものです」(P126)


カウンセリングとは「悩みを正面から悩む」ものならば、
その根底にある思想はいかなるものか――。

「僕はさっき「もの好き、もの好き」と言いましたけれども、
そんな仕事をやっているたった一つの拠り所は、人間というのは、
相当な悪環境に放り込まれて、相当な悩みがあり、相当に嫌なことがあっても、
自分で立ち上がってくる、そういう力を持っているということですね。
それを確信しているからこそ、カウンセリングをやるわけです」(P52)


ではでは、そのご大層なカウンセリングとやらの実際を見てみよう。

「ほとんどの人が自分の悩み、辛さを訴えます。(中略)
それに対して、こっちは聴いているばかりです。
ところがある程度まできたら、だいたい言いたいことが尽きてくる。
そうすると、たいていの場合「どうしましょう」と言われます。
しかし実際のところ、どうしたらいいかこちらにもわかりません。
わかったら何とか言いたいのですけれども、わからないことが多いわけです。
だからわれわれは、クライエントが「どうしたらいいんでしょう」と言っても、
「どうしたらいいんでしょうね」と言って、まだ聴いている」(P212)


これ以上はないほどのわかりやすい説明だが、これをさらに整理してみる。
「どうしようもない」→「どうしたらいいんでしょう」→「どうしたらいいんでしょうね」
ふたたび「どうしようもない」に戻るのである。
これが河合隼雄のいう「悩みを正面から悩む」であろう。
果たして治るのか。河合隼雄の回答はこうである。
カウンセラーがクライエントの「自分で立ち上がる力」を信じていると治る。
めいめいが体験してみるほか確かめようがないようである。
「河合隼雄のカウンセリング講座」(創元社)

→河合隼雄が興味深い事例を述べている(P120)。
相談者は主婦で、いま夫と離婚しようか迷っているという。
おかかえの運転手と意識しあう関係である。
この主婦が河合隼雄に問う。ふたつにひとつ、どちらがいいと思いますか。
離婚しないでこのままを維持するか。それとも運転手との不倫に走るべきか。
この問いに、カウンセラーは答えられないわけだ。
どちらがいいか神ならぬ人間には知りようがない。
また、こうしなさいと助言した結果、失敗したとしても責任の取りようがない。
カウンセラーは主婦がみずから決定をくだすのを見守るほかない。
待っているうちにいろいろ動き始めるという。
これは小説家と作中人物の関係に類似してはいないか。
嘘か本当かわからないけれど、小説家は作中人物が勝手に動きだすというでしょう。
これはカウンセラーと相談者の関係にとてもよく似ていると思う。

希代の詐欺師(治療師)・河合隼雄がノイローゼについてこんなことを述べている。

「“三年間ノイローゼの治らない人”というのは、ある意味では、
“三年間ノイローゼになりうる力をもった人”ではないか」(P249)


不治のノイローゼをいくつかもっている当方には意外なほど慰めとなった。
「カウンセリング」(水島恵一/放送大学教育振興会)

→家族システム論が興味深かった。
これはひとりだけではなく家族全体をカウンセリングしようとする学派。
クライエントは家庭のいかなる事情によって生み出されるか。
本書から引用する。

「症状や問題行動は、たいてい家庭内の均衡が脅かされたり、
それをくつがえすような変化が生じたときか、
あるいはそのような変化が予期されたときに出現する。
ここでは変化とは、家族の一人が家を出る、結婚する、転職する、就学する、
離婚する、青年期になる、中年になる、病気になる、死ぬなどである」(P117)


お気づきのかたもおられるかもしれないが、すべて家族ドラマの事件である。
家族ドラマを動かすものとおなじものが、
クライエント(問題行動、症状)を生み出すということだ。
とすると、シナリオライターは大忙しである。
まず変化を起こし家族の一員を病ます。
かと思えばかの病者を治すのもシナリオライターの仕事。
みずから火をつけておきながらもったいぶって消火するおかしさがドラマ作家にはある。

本書の最終章で治らないクライエントについて述べられている。
人間には限界があるということである。
なんでも治せると思うな。どうにもならないことがあるという戒めだ。
カウンセラーは治らないものにも尊厳を見いだしあたたかく見守る必要があるという。
これは脚本家、小説家が死にゆく作中人物を見やる視線とおなじといえよう。
この場合、(虚構ならぬ現実を扱う)カウンセラーはより骨を折らなければならない。
昨日、放送された「本当と嘘とテキーラ」の感想を記す。

危機管理コンサルタントの佐藤浩市は、スポーツメーカー社長の山崎努に指示する。
こう言ってください。「全責任は社長の私にある」
それから佐藤浩市は下っ端の課長に過ぎぬ柄本明の演技指導にうつる。
つぎにこう言いましょう。「いえ、社長、責任はすべて検品をおこたった私にあります」
少年野球チームに卸したユニフォームが欠陥品だったのである。
ユニフォームが大会までに間に合わない。
このスポーツメーカーは野球チームの父母のまえで謝罪会見をすることになった。
危機管理コンサルタントの佐藤浩市が呼ばれたのはこのためである。
会見はいちおうの成功を見せる。本当のことは露見せず、ことなきを得た。

仕事を終えた佐藤浩市のもとに中学生の娘・夏未エレナから携帯へ連絡がある。
佐藤浩市は2年前に妻を亡くし、いまは父と子のふたりだけの生活。
娘の様子がおかしいのでわけを聞くと同級生の女の子が自殺したという。
仲が良かったわけではないという。ただの同級生だったという。
だが、どこか娘は参っているようで佐藤浩市は疑問に思うが、
仕事で疲れていることもあり、これ以上問いつめるわけにはいかない。
翌日、娘の通う中学校の担任教師・戸田菜穂から連絡が入り佐藤浩市は面談におもむく。
そこには担任の戸田菜穂と教頭のふたりが待っていた。
ここだけの秘密があるという。自殺した少女は遺書めいたものを遺していたという。
佐藤浩市がコピーを見せてもらうと娘の名前が記されていた。
それからアッカンベエをした顔の絵。「死んでやるよ」
この遺書は警察にも見せていないという。
このことを知っているのは校長、教頭、担任、それから遺書を発見した体育教師。
4人のみである。亡くなった少女の両親には教えていないという。
担任の戸田菜穂は言う。「亡くなった少女はひどい子だったんです」
みんなから嫌われていた。教師の手にも負えないような子だった。
この遺書を公開したら犯人探しが始まってしまう。
もう死んでしまった子のことで、遺されたものが苦しむ必要はないのではないか。
佐藤浩市は恐るおそる言う。「もし私がもみ消してくれとお願いしたら……」
戸田菜穂は答える。この5人だけの知る秘密として闇に葬ろうと思っている。
こうしてまたひとつ本当のことが隠されたわけである。

佐藤浩市は社員研修の講師をしている。「さあ、言ってください。テキーラ」
有能なビジネスマンらしく実に堂々としている。
「今度は声を出さずに口の中だけで、はい、テキーラ」
「……(参会者、テキーラと口だけで)」
「テキーラとは心を隠して笑顔になる呪文です。
みなさんはお客さんのまえでは常に笑顔でいなくてはなりません。
だから、テキーラです。テキーラというと口角があがる。笑顔になる。
はい、もう一度、今度は声に出して言ってみましょう。さんはい、テキーラ」
最初の謝罪会見で登場した柄本明がこの会場にすがたを現わす。
佐藤浩市はあわてる。アポなしでこんなとこまで来るのは異常である。
柄本明はあの不祥事がきっかけで勤続38年の会社を懲戒免職になった。
形式上、だれかが責任を取らなければならなかった。
柄本明が選ばれた。社長からじきじきに頭をさげられたら文句は言えない。
金銭面でもだいぶ優遇してもらった。それでも不満である。おかしくはないか?
「本当のことが隠されていいのかね」
以降、柄本明は佐藤浩市の私設秘書の座におさまり(無給だが)、
このドラマにおいて道化の役を担わされる。
自殺という深刻な事件をやわらげるために用意されたポジションであろう。

本当のことの復讐が始まる。
自殺した少女はあるノートを遺していたのである。
そこにはただこう書かれていた。「尾崎朝美(=夏未エレナ)へ」
少女の母親で雑貨商を営む樋口可南子は思う。本当のことを知りたい。
本当のことが知りたくて樋口可南子は佐藤浩市を雑貨店に呼ぶ。
いつも山田太一ドラマを見て思うことだが、
だれかがだれかに逢おうとするときの顔がみな決然としている。
そのときどの役者も逢うということの重みを背負っている。
見知らぬ人間と人間が逢うことからしかドラマは生まれない。
ならば逢うという行為は果し合いに近いものではないか。
このことに山田太一ドラマは非常に自覚的である。
樋口可南子は佐藤浩市に言う。このようなノートが見つかった。
ノートを家に持ち帰った佐藤浩市は娘にただすが返答は「パパ、しつこい」。
娘からこう言われると、もうこれ以上は聞けない父親である。
樋口可南子は娘さんに逢わせてくれと佐藤浩市に頼む。
断わられると樋口可南子は父親に無断で夏未エレナを連れ出してしまう。
この場面は「誘拐された」とまで思う佐藤浩市のがわから描写される。
ふたりのあいだでなにがあったかは視聴者もわからないのである。

帰ってきた娘に佐藤浩市はたずねる。どうだったんだ?
「本当のことは言わなかったから」と娘は答える。
「パパにだけは、その本当のことを教えてくれないか」
ここで夏未エレナは微笑む。「テキーラ!」「テキーラ?」
父親が酔っぱらって話したのを娘は聞いて覚えていたというのである。
佐藤浩市は頭をかかえる。自分と娘の関係もテキーラに過ぎなかったのか。
テキーラではいけない。ビジネスならいい。家族でテキーラはいけない。
佐藤浩市がビジネスマンからひとりの人間になるのはこのときである。
娘は本当のことを話し始める。
山田太一はここまで視聴者を、ただただ、
本当のことへの興味から引っぱってきたことに注意したい。
本当のことはそれだけドラマを牽引する動力となりうる。
本当のことは、あっけない事件であった。
少女が自殺する2日前、下校する夏未エレナは突然、裏門で襲われた。
少女であった。どうして殴りかかってくるのかわからなかった。
話したこともない同級生である。
夏未エレナは応戦した。殴られたから、殴り返した。それだけの話である。
組み合っていたふたりが離れた。そのとき夏未エレナは少女に言ったのである。
「死ねば!」
本気ではなかった。まさか本当に死ぬなんて思わなかった。
いままでだれにも言えなかった。怖かった。夏未エレナは号泣する。

父娘ふたりは樋口可南子の雑貨店へ行き、本当のことを話す。
自殺した少女の母親は錯乱する。それは本当のことではないのではないか。
おかしくはないか。どうしてなにもないのにうちの娘は夏未エレナに殴りかかったのか。
本当のことは別にあるはずだと樋口可南子は叱責する。
しかし、本当のことは、この程度のことなのである。なにも出てきやしない。
感情の昂(たか)ぶった樋口可南子は夏未エレナに言い放つ。「死ねば!」
その場でうずくまり慟哭する夏未エレナであった。
自宅へ戻ってからも夏未エレナは部屋にひきこもったままである。
ここで立ちどまって考えたい。
このような状況は本当なら断じて解決しないものである。
何年も、ときには10年近くかけなければ、いろいろな傷は癒えないであろう。
本当ならそれまで優等生だった夏未エレナは不登校になるはずである。
樋口可南子は精神に異常が生じ医療の世話になるのが本当である。
人間がひとり死ぬというのは本当ならそういうことなのだ。
テキーラ。「本当と嘘とテキーラ」

この晩、山崎努が現われるのはテキーラである。
覚えておられるだろうか。ドラマ冒頭の謝罪会見で登場した社長である。
たまたま柄本明とこの社長が鰻屋で会食していた。
元部下から一連の話を聞いた山崎努は夏未エレナにひと言声をかけたくなったという。
だから、普通ではないが、突然お邪魔した。
「お嬢さん、聞いてください」
山崎努は部屋のそとから話しかける。
この非常識を視聴者に許容させるためには山崎努の怪演が必要であった。
本当ならこんなことは起こるはずがないのである。
「お嬢さんは偉い。本当のことを言ったお嬢さんは偉い」
このことだけを言いたくて来たのだと山崎努は話しかける。
自分は本当のことを言えなかった。
謝罪会見で本当のことを言ったらめちゃくちゃになってしまっていた。
保身のためにどうしても本当のことは言えなかった。
けれども、お嬢さんは本当のことを言った。
とても言えないような本当のことを言った。だから、偉い。お嬢さんは偉い。

このときふたたびテキーラが生じる。
夏未エレナがひきこもっていた部屋のドアを開けるのである。
佐藤浩市がふたりを見送り、部屋に戻ってくると、夏未エレナは笑顔で夕飯を食べていた。
本当なら解決しようがない問題をひと晩で落着させたのは、
(かりに視聴者がそう受けとったとしたらばの話だが)
もっぱら山崎努のテキーラ(演技力)によるところが大きい。
翌朝、学校を休んだ夏未エレナはひとりで樋口可南子に逢いに行く。
どうして自殺した少女が殴りかかってきたかの説明である。
夏未エレナは言う。「あたし優等生ぶっていたから目障りだったんだと思う」
「ううん。本当に優等生なんでしょう」
「ちがう。むかつかれても仕方がなかったのだと思う」
夏未エレナは少女のことをこのように思い返したという。
「いま思えば、さみしかったんだと思う」
テキーラ。なぜか樋口可南子と夏未エレナは和解する。
後日、今度は樋口可南子と佐藤浩市の仲直りである。
娘がひとりで樋口可南子のもとを訪れたことを聞き佐藤浩市は驚く。
放送時間終了におびえたかのようにふたりは握手する。
最後は主要人物せいぞろいでの花見である。
みんな笑っているけれども、あの笑いはテキーラではないかとわたしは意地悪く思った。

このような見方をするのには理由がある。
私事だからここに詳述する気はないが、
わたしは「死ねば」と言った肉親に自殺されてしまったという過去を持っている。
本当のことである。このドラマの嘘にやりきれない思いがした。
昨年だが、「自死遺族のつどい」に参加した。
子どもを自殺で亡くした何人もの母親とお逢いした。
ケースバイケースとは知りながらも、どう考たところで樋口可南子は本当ではない。
子どもを自殺で亡くすと数年笑えなくなるなんていうのはざらである。
山田太一のポリシーとして事件を書かないということがある。
ところが、今回は主義を変えたわけである。自殺は事件だ。
テレビドラマの殺人事件はかなりの部分をお約束として処理される。
実際の殺人事件とは似て非なるものでも構わない。
むしろ、脚色されたものを視聴者は好む。
これとおなじで山田太一は自殺を、お約束程度にしか捉えられなかったのではないか。
ストーリーを転がす大道具のひとつでもあるかのように自殺を取り扱った。
わたしにはそのように見えてならない。
むろん、異なる経験をお持ちのみなさまが違う感想をいだくのは存知している。
あくまでもわたしの個人的な感想であるから、
反論されても「あなたはそう思いましたか」とお答えするほかない。
正しい感想などもとよりないのである。

山田太一ドラマ「本当と嘘とテキーラ」は、
本当と嘘がきれいにわかれすぎていると思う。
本当のなかにもかなり嘘があり、嘘といいながらもかなりの本当がある。
これは、なんのことはない、いままで山田太一が描いてきたドラマ世界である。
わたしは山田太一ドラマで本当と嘘の複雑な関係を学んだといってもよい。
「本当と嘘とテキーラ」は、あたかも計算式のようである。
冒頭で本当を隠し嘘でごまかす山崎努を登場させる。
ドラマの終盤、嘘を排し本当を公開したことで傷ついている夏未エレナ。
前者が後者の問題を解決するのである。まるでプラスマイナスゼロとでもいうように。
ドラマが作者の構図に縛られすぎているように感じた。
遊びの部分がほとんどないので気詰まりすることもあった。
唐突なハッピーエンドには取り残されたような孤独感を覚えた。
不満を書き連ねたが、
いままで述べたことはすべて山田太一作品への期待の裏返しである。
たかがテレビドラマと思わず、精一杯論じてみた。この気持に嘘はない。

*3年後にシナリオで読んだときの感想はこちら↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2850.html
山田太一ドラマ「本当と嘘とテキーラ」が明日テレビ東京系列で放送されます。
みなさまぜひぜひご視聴をお忘れなく。
なんらかのハプニングに備えて、いまから録画予約をおすすめします。
自称日本一の山田太一ファン「本の山」では、
放送終了直後に感想を公開する予定です。

テキーラ♪ 怒りたくなったらこの呪文を口に出さずにとなえましょう。テキーラ♪
長年にわたる大量のアルコール摂取でいつだったか忘れてしまったが、
髪を切りに十条のなじみの床屋へ行ったのだった。
ここにもブックオフがあるのは知っていたけれど、訪問するのはこれがはじめて。
こんな田舎のブックオフでさえ単行本105円が200円に値上げされているので驚く。
これも原油高の影響だろうか、テキーラ♪

「新編 綴方教室」(池内紀/平凡社) 200円
「図解雑学 発達心理学」(山下富美代=編著/ナツメ社) 200円
「パークライフ」(吉田修一/文春文庫) 105円


「綴方教室」は帰宅してから調べてみたら、やはり文庫化されていた。
ちょっと口惜しい平凡社ライブラリー現在入手可能。
ぱらぱらめくってみたら名著の予感がした。
ナツメ社の図解雑学シリーズのファンである。定価でも図解雑学は買う。
いわんや200円をや、であーる。
吉田修一先生はちょっとまえに芥川賞を取ったと思ったのだが、
もうどこだったか文芸誌の選考委員をしておられる(ちがった?)。
とまれ、勉強、勉強であります。

こちらは数日前だったような気がするのだが、テキーラ♪
アル中のため、すっかり記憶が弱くなってしまった。
歩いて10分のブックオフである。つい最近、ここの価値を知った。
いまでも書籍は全品半額である。
105円棚を見ると、テキーラ? テキーラ?
定価4400円(+税)の帯つき美本が105円に落ちている。それも、みすず書房だ。

「可能世界の心理」(ジェローム・ブルーナー/田中一彦訳/みすず書房)絶版

ふたつの驚きにつつまれる。世の中には定価で4400円もする書籍があるのか。
そしてそして、ブックオフではそれが105円、いや、ここは半額だから、
52円で買えてしまうのか。4400円が52円とは、テキーラ、テキーラ♪
帯にはこう書かれている。
「心はどのように詩や物語を作るのか。20世紀思想と手を携えた新しい心理学」。
文芸評論系の心理学ですな。
なんだか読んでしまいそう。だって定価が4400円(しつこい?)。
おまけにもうひとつ、テキーラ!

「リスク心理学入門」(岡本浩一/サイエンス社)52円

これなんかも定価は2000円近くするぞ。大学の教科書らしい。
これら専門書の値段の3倍もする文庫本も酔狂から購入する。

「どこまでもアジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)150円

これは続きもので、第1巻をこのブックオフで52円で買ったのだった。
酒をのみながら読んだのだが、これほどおもしろい本があったのかと感動。
続刊も買わなければならないが、500円とはいえなんだか定価で買うのはな。
ということで、ブックオフ依存症、テキーラ♪
だけど、この文庫本が「可能性の心理」の3倍も高額なのが信じられない。
なんというかブックオフはあらゆる価値観を崩壊せしめる魔界だと思う。

それではまた明日、会いましょう、テキーラ♪
母校へおもむく。講演会に呼ばれたのでないのが残念でならない。
「第12回早稲田古書店街・春の古本まつり(早稲田大学構内正門前)」である。
見てろよ、思う。いつか同期を見返してやる。
わたしにとっては遁世や世捨て人なぞ、まるでわからぬ境地である。
なんとか出世したい。石にかじりついてでも、世に出てやろうと思っている。
一発当ててやりたい。一発当てたら二発、三発と当ててやる。
カネもオンナもなかばあきらめたが、これだけはあきらめられない。
どうにかして名を挙げたいと熱望している。
自分は無名のままくすぶっている人間ではないという驕りが、いい年のくせしてある。
いつか母校に呼ばれてなにかしゃべることがあったら後輩をこれでもかと煽るつもりだ。
「就職なんてしてはいけない。1回きりの人生じゃないか。夢を追おう!」
地獄にひとりでも多く引きずり込む計画である。

今日はひとりのお客さん。いい本を安く買いたいな。
早稲田大学本部キャンパスの特設会場へ向かう。
ちなみにここはまるで母校という気がしない。
というのも、わたしの卒業した文学部はべつにキャンパスがあるからである。
まあ、いい。さてさて、本の山ですよ。
書物を物色していると昼休みなのか拡声器で騒ぐ若者が登場する。
うるさくて我慢ならない。街で騒いでいる連中よりも音量が上である。
内容を聞くと、おなじことを繰り返している。
なんでも入学式で左翼学生がひとり逮捕されたらしい。
それを抗議しているとのことである。もうわかったから、何度も繰り返すな。
わたしはつかつかと拡声器片手の学生に近寄る。
「あのう、ちょっといいですか。うるさいんですけど、どうにかなりませんかね。
静かな環境で本を選びたいんですが」
男子学生は血相を変える。髪はもじゃもじゃで、ひげもそっていない。
風呂へ入らない主義なのか異臭がする。
「答えはノーだ。なぜならあの古本市は営利活動だからだ。
我われは毎日、ここで政治活動をしている。あなたに邪魔される理由はない」
狂人めいた怒鳴り声にわたしはあきれる。
「静かに本を読む権利みたいなものはないのでしょうか」
「ない。そんなものはない。我われが苦しんでいるのだから犠牲は仕方がない」

これはもう話してもダメだと古本まつりへ戻る。
自己陶酔たっぷりの大音量が妨げとなり、書物を選ぶことさえできない。
あの学生さんは抗議があったことに腹を立てたのだろう。
それまで門の脇でやっていたのが、正門の中心に仁王立ちして、
いままでよりもさらに大きな声で絶叫している。
もちろん、演説を聞いている学生などひとりとしていやしない。
見ると、演説者が替わったようである。
この人なら話が通じるかもしれないと、わたしはふたたび挑戦する。
若いのに頭の薄くなった学生さんである。
かれの態度には驚いた。わたしが話しかけても完全無視である。
いくら話しかけても、こちらを振り向こうともしない。
ぶん殴ってやろうかと思ったが、警察沙汰になるのも面倒である。
このとき左翼学生が拡声器で論じていた内容が笑えるのである。
「早稲田大学文学部の職員は我われとの話し合いをかたくなに拒否している!」
おいおい、おまえだっておれとの対話を拒絶しているだろうが。
こんな運動が成功するわけがないぞ。
他人に迷惑をかけておいてなにが自治だ。なにが活動だ。なにが平和だ。
すべての左翼に告ぐ。みんなのためだったら、ひとりを犠牲にしてもいいのか?
かりに是だとして、そのときのみんなっていったいだれなんだい?

だれも聞いていない大音量はやむことがない。
再度、話者が最前のひげもじゃ学生に戻ったので話し合いに行く。
ところが対話にならない。
相手が一方的に自分の主張を話すのみである。なんとか押しとどめ意見する。
「あなたはおかしい。だって、わたしのほうが年上でしょう。
さきほどからわたしは一貫して丁寧にあなたに対話を求めています。
けれども、あなたはいっさい丁寧な表現を用いません。
人間としておかしくはありませんか」
この返答も野卑な絶叫であった。この青年は敬語を知らないのかもしれない。
かれのなかでは、わたしがずるいおとなになっているようである。
さしずめこの青年は、汚いおとなに負けない純粋な若者か。
こういったいかにも善行をしているという自己陶酔には反吐(へど)が出る。

方針を変えることにする。
「あなたはどこに所属しているんですか。なんというグループで代表者はだれですか」
すると、男は答えようとしない。
これは街でやっている左翼活動とおなじである。
グループ名を言わない。代表者がいない。責任の所在がはっきりしない。
わたしはまず名乗り、それから誰何(すいか)すると、この活動家はタケモトというらしい。
さらに詳細を突き止めようと思ったが、男は拒絶する。
「このビラを読んでください。ここにすべて書いてある。署名にご協力を!」
本気でわたしが署名するとでも思っているのだろうか。
だとしたらこのタケモトはほんとうのキチガイである。
ビラを読んだが、これもおなじで責任者の名前が書かれていない。
将来の就職に備えたのかい、左翼学生さんよ?
「早稲田大学入学式不当逮捕抗議署名事務局」とだけ記載されている。
携帯電話の番号があるのみである。

わが母校よ、よくやったと拍手を贈りたい。
左翼学生などみんな、とっ捕まえてブタ箱に押し込んでやればいいんだ。
古本まつりに戻ろう。

「世阿弥芸術論集」(田中裕:校注/新潮社) 500円
「イギリス一幕劇集1」(劇書房)絶版 250円
「メソード演技」(エドワード・D・イースティ/米村晰訳/劇書房) 315円
「高校生のための実践劇作入門」(北村想/白水社) 210円
「東京・居酒屋の四季」(太田和彦/新潮社) 400円
「近松名作物語」(高野正巳/教養文庫)絶版 250円
「私の文学漂流」(吉村昭/新潮文庫)絶版 100円


最後の絶版文庫は小谷野敦のおすすめで、探していた本である。
作家になるまでのなみだなみだの物語がつづられているという。
ついでだからと古書街を歩く。古書現世にて。

「小説家と作中人物」(F.モーリヤック/川口篤訳/ダヴィッド社) 400円

神と人間の関係は、小説家と作中人物の関係とイコールである。
モーリヤックは遠藤周作が強い影響を受けたカトリック作家。
各店舗をまわり最後はブックオフ高田馬場店へ。

「グッドタイム・グッドバー」(サントリー不易流行研究所・編/エビック)絶版 105円

酒をのみながら読む本である。さあ、帰宅して安酒でものむとするか。
いままでインターネットを甘く見ていたかもしれない。
どれも無料で閲覧可能な情報なのだから、たかが知れている。
どのみちネットが書籍を超える日など来るわけがない。
過日、こんな驕(おご)った考えがくつがえされた。あるサイトの存在を知ったからである。
みなさまもそうではないかと思うのだが、
基本的にネットを見るときは上から目線ではありませんか?
物好きが報酬もないのに書いていやがる。どれどれ見てやるか。
わたしはここまで傲慢ではないものの(断じて!)、
かといってどれほどの敬意をもってそのサイトを閲覧したかは疑問である。
ところが、読みだしたらとまらなかった。
夜の23時にそのサイトを発見したのだが、朝の7時までぶっ通しで読みつづけた。
ほとんどすべてのコンテンツを読了した。じつにおもしろかった。
インターネットの醍醐味を満喫したといってよい。
なぜならそのサイトは書籍には決してならないからである。
というのも、成功をしていないからだ。耳目を引くような不幸もない。
これでは書籍にならない。
したがって、我われはこのような人間が存在することを通常なら知りえぬ。
このたび異常なほどの興味をもってそのサイトを読了したゆえんである。

むろん、このサイトにみなさま全員が関心を持つとは思わない。
(それでも少数者は……と期待するが)。
みなさまとわたしは違う。好きなものが異なるのも当たり前だ。
だったら、なぜ紹介するのかと問われると答えに窮してしまう。
そのサイトの作者さんは「世捨て人」を自称しておられる。
掲示板もなければ、メールアドレスも公開していない。
どこにも感想の書きようがないのである。リンク、引用は自由らしい。
ところが、どのサイトからリンクされても見ないと断わっている――。
遁世(とんせい)の極みというほかなく、実に潔(いさぎよ)い。
えせ世捨て人の哲学者・中島義道に比べたら段ちがいの、いわばホンモノだ。
この記事を書くのは、もっぱらリスペクトゆえである。
わたしなどが敬意を表さなくても、世に知られたサイトである。
作者が公開したアクセス数を見ると、うちのほぼ10倍。
そのうえ2ちゃんねるにヲチ(監視)スレッドまで建てられ、
なおかつ批判スレッドがいまでは38だとか。とにかく延びている。
いまさらうちのような過疎ブログが取り上げるまでもない大御所である。
それでも、わたしはこのサイトを紹介したい。

「世捨て人の庵」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~azma/iori/


どこを見ればいいのかわからないでしょう。このへんがとくにおもしろいです。

「ほぼ世捨て人」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~azma/iori/hobo/idx-ho.html


どれかひとつの記事をといわれたら、これしかない。
たいへん感銘を受けた。同意する。真似をしたいと思う(凡愚のわたしには無理そうだが)。

「問答無用のすすめ」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~azma/iori/hobo/ho5/co20503g.html


若輩が大御所を僭越(せんえつ)ながら紹介しますが、
「世捨て人の庵」は名のとおりいかに世を捨てるかを一途に念じてきた男性の記録だ。
姿勢は一貫している。
それは10年近くにもわたって欠かすことなく記されてきた報告が証明する。
これほどおもしろいドキュメントはめったにないと思う。
常識にあらがいつづけてきた氏の生き様には胸打たれる。
とにかく会社に拘束されたくない。自分の時間を持ちたい。
このためフリーターを選び取り、生活を極度に切り詰める。
作者AZMA氏の1日の食費はわずか200円だそうである!
2005年10月に作者は夢の生活に入る。
これまでアルバイトで貯めた750万円を運用して株で生計を立てようとの計画である。

このサイトのおもしろさはここにあるのかもしれない。
コラムを読んだかぎり、AZMA氏はそうとう優秀な個性ある人物と思われる。
かれの文章からは才能としかいいようのないものを感じる。
このAZMA氏なら株でも成功するとわたしなどは思ってしまう。
ところが、現実はそうではないのである。
これまでの人生で千円を大金と考えてきたAZMA氏が、
株取引を始めた月に30万円近くも損をする!
それを作者は正直にサイトで報告する。
いい勉強になったというのである。これから株の勉強を続けたらかならず取り戻せる、とも。
2005年からの株式収支報告がいちばん驚いた。
あれだけ頭のいい節約家のAZMA氏が株で負けつづけるのである。
当初750万円あった運用資金も、この2年半で1/3になったようである。
それでもAZMA氏は株をやめようとしない。
それどころかむしろ、株式にのめりこむ。
勉強が足りなかったから損をしたと相変わらず思っているのである。
努力して株の研究をすれば、かならず損失を取り戻せると信じている。
あたかもドストエフスキーの小説のようである(「賭博者」)。
今月の7日には株の研究のため9年継続してきたサイトを休止している。
(氏を批判するつもりは毛頭ないが、株にはまってからコラムの質の低下は著しい。
このサイトの休止も必然だったのかもしれない)

いろいろなことをAZMA氏から教えられた。
日本には氏のように、まったく世間から知られぬ賢人が存在する。
だが、このように極めて優秀な人間でも株で失敗してしまう。
こういった無名人のドキュメントをマスメディアは決して取り上げない。
ネットからしか学べぬこともあるようである。
最後に、わたしはAZMA氏の一発逆転を期待していることを記して小論を終える。
夢はかならずかなうの夢ではありません。あれは少年の夢です。
夜、布団のなかで見る夢のこと。あの夢をぞんぶんに見ようではありませんか。
現実はままならない。
たいがいの人間にとって思うとおりにならないのが現実です。
日々憂さもたまることでしょう。辛い。苦しい。
夜な夜な2ちゃんねるで成功者を中傷するのも仕方ないのかもしれません。
顔も知らぬ他人をネット上で批判して夜もすがら相手の反応を楽しむのも、
たしかに現代的なストレス発散方法なのかもしれません。
けれども、自戒をこめていうのですが、パソコンのまえから離れて、
さっと布団へ入ってしまうのが人間のいちばんの喜びなのではないでしょうか。
なぜなら夢のなかまでは、めったに現実も侵入してしてこないからです。
我われは夢のなかでなら、死んだものと再会することができます。
子どもになって屋台のたこ焼きを思うがままにほおばることもできます。
美女と熱愛をするどころか、あんなことこんなことまで可能なのが夢です。
たとえ現実では失敗つづきでも、夢のなかなら成功者になれるのです。

毎日、たっぷり夢を見ましょう。
夢のなかに成功のヒントがあるだの、自己実現のきっかけだの、
現実的な打算を捨てて、夢そのものを味わい尽くそうではありませんか。
そのうちなんとなくわかってくるかもしれません。
この辛く苦しい現実も、あるいは夢のようなものなのかもしれないと。
成功者はたしかに存在します。
我われが夢でしか味わえないような快楽を現実で享受している人間はいます。
しかし、それもまたひとつの夢と思えないこともないはずです。
成功者の人生とて、我われの夜ごと見る夢のひとつと大差ないではありませんか。
現実はどうしようもありません。ままならぬものです。
能力のないものは一生かかっても出世できないし、
もてない人間は残念ながらもてないままです。
いま貧乏な人間が今後大金を手にする可能性は限りなくゼロに近いでしょう。
そのいっぽうで裕福な家に生まれた人間は教育から就職まで恵まれ、
もてる男女は幼いころから老いるまでもてつづけるのもまた現実です。
繰り返しますが、現実はままならぬ。
だから、夢を見ようではありませんか。夢は少年の独占物ではない。
このところ夢のありがたみをしみじみ思います。
これだけブログが普及しているのだから、きっとどこかにあると思うのだが、
検索能力が足らないのかいまだ探しだせずにいる。
ご存じのかたがいらしたらぜひぜひ教えてください。
お酒をのみながら楽しめるような飲兵衛ブログのことである。
居酒屋を訪問した記録を掲載しているブログならたくさんあるはずなのだが、
気持よく読める(呑める)ところをいまだ発見していない。
やはりそれだけプロの作家先生やライターさんは偉いということか。
太田和彦、なぎら健壱、「下町酒場巡礼」のようなエッセイが好きでたまらないのだが。
「酒場百選」として書籍化された某有名ブログはたしかにレベルが高いものの、
少し店側に腰が引けているのが物足らない。
素人ならではなのストレートな物言いがブログでは必要だと思う。

「居酒屋ジャンキー」
http://www001.upp.so-net.ne.jp/izakayajunky/


ここはかなり楽しませていただいたが、とっくに更新がストップしている。
居酒屋ブログなど星の数ほどあるはずなのだが、
それだけにかえってどこがおもしろいのかわからない。

書籍でも、ありそうでないものがある。
海外を放浪(バックパック旅行)しながら酒を呑みつづける旅行記のことだ。
どうしてもバックパッカーは貧乏を好むため酒をぜいたくと忌む傾向にある。
そのうえ慣れぬ異国で鯨飲(げいいん)するのは危険な暴挙。
このため海外飲酒放浪の旅エッセイが極めて少ない。
もしあれば多少割高でも購入するのでどうか編集者のみなさまにお願いしたい。
わたしの知っているものは以下の2冊のみ。

「ユーラシア大陸飲み継ぎ紀行」(種村直樹/徳間文庫)
「女二人東南アジア酔っぱらい旅」(江口まゆみ/知恵の森文庫)


どちらもとても満足する仕上がりだった。
こういうものをほかにも読みたいのである(もちろん、お酒を呑みながら)。
海外放浪記と酒場探訪をミックスさせたものだ。
宣伝をすると、プロの作品と比べるとはなはだつたないものでしょうが、
実は「本の山」の「アジア漫遊記」は上記2冊に準ずるものとして書いたという面がある。
なんのことはない、自分が読みたいものを書いたのである。
読みたいブログを探す手間を考えると、どうしても本屋で書籍を購入するほうがいい。
こうまでネットが普及していても、なお出版業界が潰(つい)えぬゆえんであろう。
近所にブックオフのある生活環境にどれほどあこがれたことか。
もし近場にかの新古書店があれば、セドリでもしようかと思ったくらいである。
引越の結果、念願のブックオフ徒歩10分に住まいを持った。
ところが、おかげさまでブックオフの実態を知った。
都内とはいえ、辺境のブックオフの在庫などたかが知れているのである。
こういう差別的なことは言いたくないが、
ブックオフの在庫は近隣住民の知的レベルに左右される。
この地域は極めて知的活動とは縁遠いと引越1ヶ月後に結論を出した。

それからほとんどこのブックオフへ顔を出すことはなかった。
たまに思い出したように足を向けたが、いつもさんさんたるありさまであった。
ゴールデンウィーク明けのこの日、なんとはなしにこのブックオフを再訪。
驚くべき貼り紙が店外店内に掲示されている。
本は全品半額というのである。
こんな田舎でなにゆえこんなバーゲンが?
入店してレジで質問。「閉店するんですか?」
なんでもゴールデンウィークから半額はやっていたとのこと。
経営母体の変わる関係で今月いっぱい半額セールをやるという。

うむむ、すべてが半額ですと?
聞くと、105円のものまで半額になるというのだから。

「いつかライオンの夢を」(岩佐憲一/雲母書房) 400円
「図解雑学 心理学入門」(久能徹・松本桂樹 監修/ナツメ社) 52円
「河合隼雄のカウンセリング講座」(創元社) 52円
「日本を降りる若者たち」(下川裕治/講談社現代新書) 175円
「「狂い」のすすめ」(ひろさちや/集英社新書) 200円
「「デタラメ思考」で幸せになる!」(ひろさちや/ヴィレッブックス) 175円
「仏像のこころ」(梅原猛/集英社文庫)絶版 52円
「君は弥生人か縄文人か」(梅原猛・中上健次/集英社文庫)絶版 52円
「脳のからくり」(茂木健一郎・竹内薫/新潮文庫) 52円
「ソクラテスの弁明・クリトン」(プラトン/講談社学術文庫) 52円
「文章を書くこころ」(外山滋比古/PHP文庫)絶版 52円
「アジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫) 52円


全12冊で総額1370円。
出版サイドのご意向をまったく無視して物申すと、文庫はブックオフ105円でも高い。
文庫の平均価格は500円程度。
割引して売るなら105円ではなく52円くらいが適当かと。
これは貧乏人の不当請求だと思います。
貧民のぶんざいでの妄言、どうかお許しください。
しかし、本を安く買えることほど嬉しいことはありません。
むずかしいのは、なにもしないことだと思う。
人間はなにかぜずにはいられない。
無為をつらぬくことができない。
たとえば、ついうっかり努力などしてしまう。
なにかぜずにはいられないためである。
老荘の説く無為は難業すぎるのだ。
愚かな人間のひとり、わたしも無為に耐えられない。
ありていにいえば、ボ~っとしていることができない。
ついつい少しでも時間があると、知識でも増やすかと本を手に取ってしまう。
なにもしないことに耐えられないがためである。
不眠症なのは、眠りに落ちるまでの無為が我慢できないせいではないかと思っている。

遊ぶこともまたむずかしい。
なにが苦手かと問われたら、遊びと答えるかもしれない。
こんなことを書くと、みなさんに笑われてしまうのか。
時間さえあれば自分なら24時間遊んでいられると。
けれども、ちょっと待ってください。
それはほんとうに遊んでいますか。遊ばれているだけではありませんか。
わかりやすくいえば、消費しているだけではないか。
だれかに教えられた遊びを反復しているだけとは考えられませんか。
ほんとうの遊びとは、気づいたら時間が過ぎていたという感覚に近い、
ほとんど無為と変わらないものではないかとわたしは思っている。

無為と遊戯について書きました。
最後にもったいぶったほのめかしをしましょう。
ほんとうの芸術とは、狂人めいた無為や純粋すぎる遊戯から生まれるのではないか。
あるいは、そうであってほしいという願望の吐露かもしれません。
いけない快楽を憶えてしまいました。
いただいたコメントを情け容赦なく削除する快感です。
ブロガーのみなさんはコメント欄に複雑な感情を抱いているのではありませんか?
反応があったほうが、もちろん嬉しい。
けれども、的外れなキチガイめいたコメントが来るとそうとう神経にこたえる。
心ないコメントがきっかけでブログを閉鎖したかたも少なからずおられると思います。
それなのになにゆえ、かなりのみなさんが迷惑なコメントを削除しないのでしょう。
うちのブログもそうです。「生きている価値なし」「死ね」「バカ」「アホ」――。
すてきな言葉をたくさん贈られていますが、まったく削除していません。
最近、はたと気づいたのです。これは偽善ではなかろうか?

なぜ管理人は批判コメント、中傷コメントを削除しないのか。
理由はこんなものでしょう。すなわち、いい人に思われたい。
自分は客観的だ。批判を受け容れる度量がある。議論の価値を知っている。
しかし、冷静に考えてみませんか。
人間、話し合うことでわかりあえるものでしょうか。
しかも実際逢うわけでもなく、顔の見えないネット上オンリーで。
どう考えても無理という結論に到達すると思います。
だとしたら、残る障壁はひとつです。
自分は正々堂々、批判を受け容れる覚悟があるという誇りの問題です。
これはそう深刻に考えなくてもいいのではないでしょうか。
なぜなら管理人と閲覧者は対等な関係ではありません。
閲覧者は好き勝手なことを書いて、もうそのブログを二度と見ないという選択肢も可能。
けれども、管理人はそのとき受けたダメージの癒えぬまま、
ブログを続けなければなりません。どうして対等な関係でありえましょうか。

かりにコメントを削除したとして、デメリットはなんでしょうか。
ひいきにしてくれている読み手のみなさんから、逃げたなどと思われることのみです。
心が狭いと思われる懸念もあるかもしれません。
断言しますが、これは誤解です。
逃げる・逃げないを言うなら、コメントを書き込んだものこそ逃げ放題なのですから。
「本の山」でもよくあります。
ここが間違いだと指摘される。そうではないと反論する。
すると、もう指摘者からの返答がないのです。
自らの誤読を詫びることなどめったにありません。
ならば、この指摘があった時点で削除してしまうのが、どうしていけないのでしょう。
心が狭いと思われる点は、あきらめようではありませんか。
そもそも「本の山」をお読みのみなさんのなかで、
わたしの心が広いと思っておられるかたはほとんどいないでしょう。
最初からばれている。だったら、いいではないか。

こんな思考経路を経たのかどうか、先日うざいコメントを削除してみました。
名前欄になにも記入しない。はじめての書き込み。
そのくせ丁寧表現なしの上から目線、オレ様評論。
いつもなら、やれやれ、どういじくるか……と頭を悩ませるところです。
しかし、このときは削除ボタンをぽちっと押す。
うひょお♪ うざいオレ様コメントがきれいさっぱり消えてしまいましたよ♪
ああん、なんてすっきりするんでしょう。クリーン、クリーン!
もちろん、相手を書き込み禁止にするのは忘れません。
翌日のことです。日付が変われば、残念ながら書き込み可能になります。
同一人物がふたたび携帯から書き込んできました。
「コメントが消えています。トラブルだと思います。
再投稿してもいいでしょうか」
こんな感じだったと思う。ようやく丁寧表現をするようになったかとほくそ笑む。
ここは2ちゃんねるじゃねえんだぜ!
再投稿? ダ~メ! 事故とかトラブルじゃありません。
いひひ、わたしが手ずから削除したのですよ。
このコメントも削除して、再度書込み禁止リストに加える。
らららん♪ なんて気分がいいのでしょう。まるで神にでもなったような気分。
目障りなものよ消えてしまえ! ニフラム、ニフラム!

ブロガーのみなさん、削除の快感を憶えるとブログ運営が楽になるかもしれません。
そのためにはいい人を卒業することです。うっふん、あたしゃ悪人よ、と開き直りましょう。
ある法則があるように思う。成功者ほど努力を強調することだ。
ベンチャーで成功したものなど、しきりにいかに自分が効率的に努力したかを誇る。
成功者がみなみな一様に努力を強調するがために、
成功するには人の何倍も努力しなければならないと我われは思うようになる。
だから、努力をする。だが、成功できない。
努力が足らないせいだと反省してさらに歯を食いしばって努力する。
それでも成功することはできない。努力が足らないのだ。
なんでこうも自分はダメなのだろうと自己嫌悪におちいる。自分が嫌いになる。
とはいえ、努力しかない。努力すれば人間できないことはないのだ。
成功者はみんな口裏を合わせたかのように努力を称揚している。
だから、努力する。毎日、努力ばかりで人生、楽しいことのひとつもなかった。
すべて努力に捧げてきたのである。努力すればかならず夢はかなう。
失敗者はみんな努力が足らなかったのだ。
あんなゴミのような人間になってたまるか。自分は成功する人間だ。
だから、努力する。昨日も努力した。今日も努力する。明日も努力しかない。
努力のせいで精神、肉体ともにボロボロである。
それでも努力する。いつしか老いる。自分より年の若い人間の成功に何度も遭遇する。
かれらは努力したのだと自分に言い聞かせる。
努力をしないものは人間のクズだ。酒はのまぬ。遊びもやらぬ。
1日24時間、いかに多く努力に費やせるかに気を配る。努力、努力、努力――。

こういう人間は努力家といわれ、世間からは持てはやされるようである。
最近、「努力厨」という言葉を2ちゃんねるで知って、なんとうまいネーミングかと感心した。
厨とは厨房のことだ。
厨房はネットスラングで「中学生のように幼稚で愚昧」といった意味合いである。
努力厨の意味も推して測られよう。
冒頭の法則に戻る。これを疑問形に変えてみたい。
なにゆえ成功者ほど努力を強調するのか?
これから述べるのは試論であって、断じて努力の価値を認めないわけではない。
努力はすばらしいと思う。努力している人間は美しいと思う。
さて、なにゆえ成功者ほど努力を強調するのか?
ここで悪魔のキーワードを出してしまうと運である。
成功者はおのれの成功を絶対に運のおかげとは思いたくないのである。
運がよかったから成功したとは認めたくない。
したがって努力を持ち出す。努力をしたから成功したのだと信じ込む。
しかし、かれとて人間。まわりの失敗者を見ると自分と紙一重で落伍している。
いやいや、努力だ。失敗したものは努力が足らなかったのだ。
自分は人より努力をしたのだから、過分とも思える成功の甘い蜜を吸う権利を有する。
どうして自分はこうも恵まれているのか?
人生って考えてみたら不公平だよな。いな、それは違う。
自分は努力をしたのだから、この報酬を受け取る正当な理由がある。
こうして自信のない成功者ほど努力にすがるようになる。
若者を見たら努力せよと説教する成功者がひとり完成したわけである。

「あんたは努力が嫌いなようだが、ブログなんて努力してるじゃん」
お世辞だろうが、こんなことをたまに言われる。
だが、「本の山」は努力ではないのである。
まず本を読むのが好きだ。本を読んでも感想を書かなかったらなにも残らないと思う。
だからと感想を書いてみると、文章を書くのはなかなか楽しいのだ。
書いてゆくうちにわかってくることがたくさんあるからである。
結果がこのブログである。
本人には努力しているという意識はあまりない(ちょっとウソかも)。
好きなことをしているだけだ。
しかし、読書や作文の嫌いな人には「本の山」がたいそうな努力に見えるのかもしれない。

若手作家の金原ひとみ氏が芥川賞を受賞したときの言葉が忘れられない。
作家の「受賞の言葉」が「文藝春秋」に掲載されるのである。
金原ひとみ氏は「がんばっている人を見るとなんか笑っちゃう」とお書きになった。
これを読んだとき、当時20代だったわたしはムカッと来たものである。
20代はわたしも努力ばかりしていた記憶がある。
30を超えたいまとなって、考えが変わった。
さすが才能ある作家は言うことが違うと感心したのである。
金原ひとみ氏の父親は売れっ子翻訳家の金原瑞人氏である。
いわば血筋がいいのである。先天的に恵まれたところがたぶんにあろう。
そのうえ美貌にも恵まれた天才・金原ひとみ氏は学校へも行かず、
同級生がいやいや勉強しているのを尻目に、
セックスやドラッグ――動物的快楽に明け暮れたのである。
金原ひとみ氏は我われの1/10も努力をせずして、
我われの知る快楽の10倍を味わって生きてきたのだ。
この天才美人作家は21歳にして日本でもっとも栄えある文学賞を受賞する。
同人誌で何十年も努力していて、いまだ芽の出ない文学中年は失神したのではないか。
金原ひとみ氏は芥川賞を受賞して放言する。
「がんばっている人を見ると笑っちゃう」
これは才能のある作家にしかいえない名言だと思う。
金原ひとみ氏は努力家を努力厨と看破する慧眼を若年にしてお持ちだった。
三十路に入ってようやく愚鈍なわたしも金原ひとみ氏のご発言を理解したのである。
人生で1回でも金原ひとみ氏のように脚光を浴びてみたいが、
氏のような光り輝く才能がないからおそらく無名のままで朽ち果てるのだろう。
せめて夢を見るくらいはお許しいただけませんか?
もし世に出ることがあったら――。
ああ、金原ひとみ氏の半分の栄誉でもわたしにはもったいないほどである。
よしんば、世に出るようなことがあり、インタビューなどされたら――。

「努力は必ず報われる!」

わたしはこのように断言するつもりである。
理由はふたつある。
ひとつはあくどい理由で、こうしたほうが世間の受けがいいという計算。
もうひとつは、たしかに「努力は必ず報われる」なんていうのは真っ赤なウソだが、
そのウソを支えに生きている大勢の人を適度に励ましたいと思うからである。
ああ、成功したい。夢は必ずかなうと叫びたい。
人生で一度でいいから、美女を連れて高級寿司屋へ行って、盛大にぼられてみたい。
おっと、夢ばかり見ていてはいけない。
成功するためには……成功するには……あれれ、どうしたらいいのだろうか?
ううん、ほかにすることもないから努力でもするとしますか(トホホ)。
板橋警察署へ運転免許更新のためおもむく。
受付でいろいろな書類を渡される。記述して2階へ行けとのことでしたがう。
ところが2階でおかしなことが。
ここで視力検査をするようなのだが、そのまえに書類を渡さなければならぬらしい。
受付のおっさんが言葉を発さないのである。
わたしが手に持っている書類を出す。
違うようである。手がべつの書類を求めている。わたしは発言する。
「なにが欲しいのか言葉で言ってくれないとわかりません!」
板橋警察署の中年職員は背筋に電流が走ったかのようにピクン(かわいいね)とした。

「~~の書類と~~のコピーをください」
言われれば該当するものを渡すことができる。
このようにおなじ作業を四六時中やっている公務員が横柄になるのはわかる。
だが、その横柄を指摘されると、こうも従順(?)になるのには驚いた。
やたらサービスがいのである。懸念していた視力検査は楽々クリア。
つぎは更新料の支払いだが、おっさんはニコニコしながら、
「さっきはごめんなさいね」
肩までたたくフレンドリーぶりである。

写真撮影を終え1階のビデオルームへ。
ちなみに、ここにいるものはみなゴールド免許保持者だ。
わたしに限定すれば、なんのことはない。くるまに乗らなかっただけの話である。
いま運転しろと言われても困る。免許を取得してから運転したのは1回きりである。
まったく運転できる自信がない。身分証としてしか免許証は使用していない。
ビデオルームは免許更新者でほとんど埋まっている。
うしろのほうの座席を確保する。
ビデオが始まると福留さんの登場だ。いや、驚きましたよ、税金で福留さん。
官憲もなかなかやるものである。思わずビデオ(DVDかな?)に見入ってしまう。

事故の再現ドラマが放送される。
ちょっとした運転手の気のゆるみが事故を引き起こし、
相手のバイク運転手はまだ若いのに下半身不随になったという。
「あひゃひゃ」
わたしは不謹慎にもふきだしてしまう。つまり、笑ってしまったわけだ。
何人かの参席者がわたしを振り返った。
ほかにはだれも笑っていない。ここは笑うべきではないことを了解する。
だが、笑うほかないではないか。
ほんの偶然で青年が下半身不随になる。笑うほかになにができよう?

反省して画面に見入る。おもしろくてたまらない。
すなわち、笑いたくなるのである。しかし、どうやらここで笑ってはならないようだ。
ある男――酔っぱらい運転でひとを殺してしまう(実刑で懲役へ)。
挙句、事故死亡者遺族から補償金を請求され(何億という大金だった)、
これを苦にした男の妻は自殺。
自殺をこのように軽々しく使うのはいかがなものかと思うが、これが役人根性である。
酒をのんだら運転しちゃいけないと思わせるために、
こうまで幼稚なドラマを血税で制作しなければならぬ国家とはいったいなんだろうか。

板橋警察署を出たわたしは古本屋「ふたご堂」へ。
おもてにワゴンがある。3冊2百円だという。

「冬構え」(山田太一/大和書房)絶版
「男たちの旅路1、2」」(山田太一/大和書房)絶版


このあと事前に調べておいた板橋の古書店4つをまわるが収穫はゼロ。
某古書店で流れるニュースにより上野動物園のパンダ、
リンリンが死んだことを知り思わずなみだぐむ。
さてこれからどうするか。なぜか都営三田線に乗りたくなる。
新板橋駅から西台駅へ向かう。西台のブックオフへゴーなのだ。ブックオフ西台店にて。

「地獄の思想」(梅原猛/中公文庫)105円
「くるいきちがい考」(なだいなだ/ちくま文庫)105円
「星よまたたけ」(井上靖/新潮文庫)絶版105円
「完訳 バガヴァッド・ギーター」(鎧淳訳/中公文庫)絶版105円


「バガヴァッド・ギーター」はずっと探していたから、感激でなみだしたのだが、
いま検索してみたらおなじものが3月に講談社学術文庫から再刊されていた。
この口惜しさも本を買う愉しみのひとつだと思いたい。
先ほど万引の初体験をした。新宿紀伊国屋書店本店。知的万引である。
このようなときよかったと思うのは無名であることだ。
かりにわたしが有名作家だったら2ちゃんねるにさらされ、
恵まれないみなさんからさんざん叩かれたに違いない。
わたしは有名作家になる予定だから(おいおい!)、
デビューしたあかつきには真っ先にこの記事を消さなくてはならない。
なにを万引したのか。雑誌「考える人」の情報である。
というのも、かの雑誌で「海外の長編小説ベスト100」という特集を組んでいた。
著名人がそれぞれ海外長編小説のベスト10をあげる。
それらを集計して100個の優良海外長編小説を決める企画だ。
いかにも定年団塊世代を対象にした雑誌が考えそうなことだと思う。

顔ぶれは知らない学者先生ばかりだったのだが、もしやという期待がありページをめくった。
山田太一先生が寄稿している予感があったのである。
当たりでございました。先生がベスト10を決めておられる。
さあ、どうするか。わずか20センチにも満たない情報のために、
1400円も払ってこの団塊雑誌を買うべきか。
ごめんなさい。万引しました。
当初、こっそり携帯のカメラ機能で撮影しようと思ったのだが、
わが電話機は旧式のため、うまく盗み出すことができない。
仕方ない。メモ機能に書き込むしかない。
だが、おもむろに左手に雑誌、右手に携帯を持って盗むのは自尊心が許さぬ。
酒のせいで弱った記憶力をフルに活用して盗んだ。
雑誌を見て携帯に書き込むを、何度繰り返したことか。
以下は盗んだ宝物である。山田太一セレクション海外長編小説ベスト10。

1.「マルテの手記」(大山定一訳)
2.「南回帰線」 (ヘンリ・ミラー)
3.「走れウサギ」(ジョン・アプダイク)絶版
4.「審判」(カフカ)
5.「ロリータ」(ナボコフ)
6.「魔術師」(ジョン・ファウルズ)
7.「ヴェニスに死す」(トーマス・マン)
8.「軽蔑」(モラヴィア)絶版
9.「裸者と死者」(ノーマン・メイラー/山西英一訳)絶版
10.「ペスト」(カミュ)


山田太一ベスト10のいくつをわたしが読んでいるかは伏せておく。
未読のものはいつか必ず読みたいと思う。
しかし、立ち読みしながら驚く。世界には長編小説がこれほど多くあるのか。
そしてそして、これをわたしが言ってしまったらおしまいなのだが、
ここにあげられている超長編小説を読んでいるかたはどんな生活をしているのか。
まともに生きていたら海外長編小説など、
(「考える人」読者のように)定年するまで読めないのが当たり前なのだから。

この雑誌には欧米諸国選定の名作ベスト100がいくつも転載されていた。
大いに笑えたのは、どのリストにも日本の作品はあげられていなかったことだ。
「源氏物語」も川端康成も欧米人は知らないのである。
そのくせ日本人と来たら、欧米礼賛でこんな企画を立てる。
これを恥ずかしいと思わない「考える人」編集部と購読者である。

山田太一先生にご無礼は働いていないつもりだ。
本日、久しぶりに新刊書籍を購入した。
山田太一先生の戯曲集「二人の長い影」(新日本出版社)である。
定価は1890円と高い。
だが、いままでわたしは山田太一ドラマに生かされてきたのである。
少し迷ったものの、これを刊行した出版社に感謝しながらレジへおもむいた。
「いつも旅のことばかり考えていた」(蔵前仁一/幻冬舎文庫)

→蔵前仁一は本書所収の「旅に出たいが出られない」というエッセイで
示唆に富むことを書いている。学校を卒業してからいかに長期旅行に出るか。
どうやって周囲の反対を押し切るのか。
もとの生活レベルには戻れないが、それでもいいのか。
帰国してからの生活はどうする?
出世コースに再度、戻ることなど金輪際できないのだぞ!

えんえんと留保がついたまだるっこしい文章ののちに著者はぼそっともらす。
長期旅行をすると――。

「早い話が、三菱商事の社長より自分の方が幸せかもしれないと思えるのである
(くどいようだが、あくまでもたとえですよ)。
三菱の社長より長期旅行者の方が幸せであるなどと
断言することはもちろんできないのだが、
要するに人の生活などいろいろだと思えるのだ。
何でそう思うのかというと、
それこそが旅をしてさんざん見てきたことだからなのである」(P209)


著者の言いたいことがよくわかる。
長期旅行ほどおもしろいものはないのである。
わたしも昨年アジアをふらふらしながら、
自分ほど幸福な人間はいないなどと不遜なことを考えたものである。
たとえ若年で某有名文学賞を受賞した某作家だろうが、まるでうらやましくなかった。
そのくらい海外長期旅行は楽しいし、いろいろわかるものがある。
世界各地と日本を比較すると、なにが幸せだかわからなくなる。
それほどに世界は多様である。がためにおもしろい。
蔵前仁一は大企業の社長よりよほど幸せな人生を送っていると愚かなわたしなどは思うのだが……。
「ドストエフスキイ後期短編集」(米川正夫訳/福武文庫)絶版

→おれがドストエフスキーを読んだのは母親がおっ死(ち)んだころだ。
おふくろは9階から身を投げて、おれのまえでカエルのようにぺちゃんこになって死んだ。
最後におれの名前を呼んだ。おれはなにもできなかった。
それから恋人どころか友人も知人さえももいなかった
ひとりぼっちのおれはドストエフスキーを読んだ。
かたっぱしから読んでいった。ドストエフスキーの孤独と狂気がおれを生かした。
あれから8年経っておれはまたドストエフスキーを読んでいる。
ドストエフスキーのこんなところがおれは好きだった。

「なるほど、気位の高い女だ! わたしは自体、気位の高い人間が好きである。
気位の高い女はことにいい、わけても……わけても、
彼らに対する自己の優越のもはや疑いのない時には、なおさらである」(P29)

「まったくのところ、わたしは学校時代にも、ついぞ人から愛されたことがなかった。
わたしはどこへ行っても、いつも嫌われものであった」(P61)

「このふた月というもの、おれは毎晩、
家へ帰りながら、今日こそ自殺しようと考えた。
そうして、たえずきっかけを待っていた」(P201)

「生活も世界も、いわばおれ次第でどうでもなるのだということが、
はっきり頭に浮かんできた。それどころか、
今では世界もおれ一人のために造られたものだ、とさえもいうことができる。
おれがどんと一発やったら、世界も失(な)くなってしまう、
少なくとも、おれにとってはそうなのだ。実際、おれの死んだ後は、
いっさいが何人(なんびと)のためにも存在しなくなるのかもしれないのだ。
おれの意識が消えるが早いか、
全世界はさながらおれ一人の意識の付属物かなんぞのように、
幻のごとく消えて失くなってしまうかもしれない。
なぜなら、この世界ぜんたいも、これらすべての人々も、
結局、おれ自身、おれ一人だけにすぎないからかもしれないのだ」(P207)


へ、へ、へ! おれはね、あのころからいっさい変わっちゃいねえよ!
「白夜」(ドストエフスキー/小沼文彦訳/角川文庫)*再読

→ドストエフスキーというとインテリを気取った連中が深刻な顔をしはじめる。
かれらが決まって口にするのは「罪と罰」からはじまる長編小説である。
これほどの悩みはないといった物々しさでドストエフスキーを論じる。
バカを言いなさんなと思う。
「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」――こんなものを日本人がわかるものか。
長ったらしいのはもっぱら思想ゆえだが、
幾人の読者がロシアのキリスト教を知っているのか。
おれは特別、おれは悩んでいる、おれはすごいんだ、
なぜならドストエフスキーを読んでいる。
こういう手合いには、だったら自殺か殺人でもしてみなさい、と言いたくなる。

「白夜」が好きである。もてない男の失恋を描いたこの小説は、
「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」よりもよほど深刻な小説だと思う。
(実は「未成年」はまだ読んでいない。近日中に読みはじめる予定)
もてない男がなにゆえどうしようもなくもてないかが巧みに描かれている。
女がどれほどずるくて卑怯で男を両天秤にかけるか。
女という生き物がいかに自分のことしか考えずに男を都合よく利用するか。
しかし、ではなく、だからこそ、その悪魔性ゆえに、どれだけ女は美しいか。
ドストエフスキーが「白夜」で描いたことである。
この小説をロマンチックだの笑えるだのと評する男に告ぐ。
きみはドストエフスキーをまったくわかっていないな。
女は女は女は(ハァハァゼィゼィ)「白夜」を読んでみなみな懺悔せよ。
26歳のもてないインテリ男が17歳の無学だが美しい少女ナースチェンカにいう。
なみだぐましいというほかないセリフだ。この哀切をきみはわかるか?

「いまこうしてあなたのそばにすわって、あなたと話をしていると、
未来のことを考えるのがなんだかひどく恐ろしいみたいです。
だって未来もやっぱりー―例のあの孤独、あのかびくさい、
なんの役にも立たない生活の連続なんですからね。
それにこうしてあなたのそばにいると現実にこんなにも幸福なんですから、
なにもいまさら空想することなんかありませんよ!
おお、どうかあなたに天の恵みがありますように、
あなたは本当にやさしい娘さんです。
だってあなたはぼくを頭からしりぞけようとなさらなかったんですからね、
自分の生涯でたとえ二晩でも本当に生きたと、
いまこそぼくははっきりと言うことができるんですからね!」(P48)


ナースチェンカは「ぼく」をさんざん利用し、振りまわしておきながら、
結局は別の男の胸に飛び込むのである。
ナースチェンカは、自分のことを好きな男の愛情を味わいつくし、
この愚か者の善意をほかの男のためにずるがしこく利用して、
挙句の果てにポイと棄てるのである。
ナースチェンカは結婚するが、相手は「ぼく」の存在を知ったからこそ、
この女と結婚しようと思ったに相違ない。
もし「ぼく」が道化を演じなかったら、
ナースチェンカは意中の男性から振られていたはずである。
いつの時代もどこの国でも、男は単純なのだ。
私事だが、わたしも女から「昨日部長に告白されて」などと言われたことが近年ある。
女の策略だとわかっているのだが、男はバカだからだまされてしまう。
女がいかに男の気を引こうとするか。
まるで蜘蛛の巣である。そして捕まえた男を容赦なく殺すのが女である。
もっといい男を捕まえる餌にするために、もてない男でも捕まえておくのが女である。
しかし、繰り返しになるが、こんな女こそ魅力的で男は参ってしまうのである。
ドストエフスキーは女の美しさを熟知していた。
「賭博者」( ドストエフスキー/原卓也訳/新潮文庫)*再読

→「賭博者」はドストエフスキーの最高傑作だと思っている。
もとより、入手可能なすべての作品を読んだうえでの結論である。
このたび再読してみて、あらためてとんでもない小説だと震えた。
いままで読んだ小説のなかで間違いなく五本の指に入る。
この小説を読む悦びを他人から奪うのはもはや犯罪だと思うため、あらすじは紹介しない。
ドストエフスキーの小説の魅力は狂っているところだと思う。
小説家が狂人なのはめずらしくもなんともないが(むしろ凡庸である)、
狂った小説を書けるものは極めて少ない。
文学など、言ってみればどれも狂人の書く美しい物語である。
ところが、「賭博者」は物語が狂っている。
禍々(まがまが)しい世界で、踊り狂う賭博者たちはわが心底を震わしめる。
完全な正常な人間しか「賭博者」のような小説は書けないと思われる。
人間はだれしもみな少しずつ狂っていることで世界と渡り合う。
だが、狂気のひとかけらもない純粋正常人格のドストエフスキーよ!
あなたは完全に狂っている。
1ミリも狂わぬあなたの正しさは、狂わぬ人間よりどれだけ狂っているか。
ドストエフスキーは待ち合わせ時間に遅れないのである。
かといって、5分前に現われるというわけではない。
このロシア文豪は待ち合わせ時間に1分1秒も遅れず早まらず登場せんとする。
この男にとって世界はどのように見えたか。他人はどのように見えたか。
ドストエフスキーの小説を読む悦びである。
ああ、かれにとって愛とはどれほど無私のものだったか。
ああ、かれほど孤独を享楽したものがいるか。
ドストエフスキーのなかでは、愛したい愛されたいが、殺したい殺されたいに変換される。
ドストエフスキーはゼロなのである。
プラス0.1もマイナス0.1もない、誤差のなき正真正銘の座標軸ゼロ。

「でも、どこに賭けます、お祖母さん?」
「ゼロさ、ゼロだよ! またゼロだよ! できるだけたくさん賭けとくれ!」(P130)


物語中盤にお祖母さんが登場するまで「賭博者」は異常なほど退屈である。
なんとか耐え忍んで後半のジェットコースター的な熱狂を味わってください。
ギャンブルがしたい。賭けたい。全か無かの勝負をしてみたい。
神よ、あなたを見たい。全能なる神よ、あなたに勝ちたいのです。
「シナリオ通信講座(上巻)(下巻)」(監修:新井一/シナリオ・センター )非売品

→シナリオ学校の老舗「シナリオ・センター」の通信講座受講生のための副読本である。
「シナリオ・センター」のレッスンは、講義と実作からなる。
地理的な理由から来校できないもののために通信講座が創設されたわけだ。
したがってかのスクールの講義内容は、すべてこのテキストに記載されている。
本来なら非売品のため、2万6千円を支払って通信講座を受講しないと、
この教材を入手することができない。
古本祭りでこのテキストを安価で購入できた幸運をとてもうれしく思う。
いままでいくつかシナリオ作法、小説作法の本を読んできたが、
このテキストほど有益なものはなかった。
新井一はシナリオ作法の古典ともいうべき「シナリオの基礎技術」を公刊している。
だが、手の内をすべて見せていたわけではなかったことが、この教材で判明する。
書籍にすべて書いてしまったら「シナリオ・センター」に来るお客さんがいなくなってしまう。
2冊からなるテキストは、「シナリオの基礎技術」よりはるかにわかりやすい。
受講生の習作を取り上げ添削しているのが非常にためになった。
テキスト最終章の「カセ」について述べられたところは家宝にしたいほどである。
あらゆるドラマの組み合わせかたが詳述されている。
これまでずっと物語やドラマの作りかたがわからなかったが、
この「カセ」の部分をながめていたらいくらでもストーリーが思い浮かぶのには驚いた。
(入手を希望されるかたはヤフオクに注意。たまに出品されるようです)
以下にテキストの内容をところどころ自分の発見を加えながら、
ノートふうにわかりやすくまとめてみる。

(1)映像の特徴

演劇と映画の相違はキャメラの有無に起因する。
キャメラとは「枠」のことであり、この「枠」の活用が映像の魅力をいや増しする。
たまにテレビで舞台が放送されるが、あのつまらなさを考えると理解が早い。
芝居の場合、観客は舞台上のどこを観ても構わない。
セリフを発話している役者から遠く離れた脇役も舞台では演技をしているからだ。
だが、これをテレビで放送するとなると、キャメラは発話者をアップで映してしまう。
突きつめれば、これが演劇と映画の違いなのである。
キャメラはどこを観るかを観客に強制する。
キャメラの「枠」とは、枠内を「見せる」こと、枠外は「見せないこと」、ふたつの作用を有する。
(「枠」に入ったもの=映されたものは、なんであれ意味があると観客は受け取る)
キャメラの自由性から映像は主観性をも持ちうる。「見た目」といわれる技術である。
深夜の墓場を歩いているシーン。キャメラは歩く役者の視界と同一化する。
突然、何者かが現われる。このとき観客は役者と驚きを共有することが可能となる。
これが「見た目」である。
この技術の有無から演劇は客観的、映画は主観的なものといえよう。

(2)話の転がしかた

シナリオはスケッチではない。
自分が経験した夫婦喧嘩、上司とのいざこざをそのまま描写してもシナリオにはならない。
おもしろい友人がいたとして、かれの行動をスケッチしても、これはシナリオではない。
シナリオには作者の目が入っていなければならない。
なにかを伝えるために、シーンは描かれる必要がある。
さて、シナリオには人間が出てこなければならないが、観客はかれのことを知らない。
どんな人物かわかってもらうためには、この人間に刺激を与えるのがいちばんだ。
リトマス試験紙とおなじである。たとえば帰宅時に人身事故で電車がとまっている。
怒るもの、じっと待つもの、売店でビールを買い浮かれるもの。
いろいろな反応を人物は示す。このことでかれがいかなる人間か判明するのである。

太郎が生きていることを、右から左への移動で表わすとする。

(未来)←太郎←(過去)

この太郎をそのままスケッチしてもシナリオにはならない。
ならば、どうすればいいか。事件と事情を作ることが必要である。
ドラマを作るとは、事件と事情を創作することにほかならぬ。
これを図示すると以下のようになる。

(事件)⇒(未来)←太郎←(過去)⇔(事情)

いうなれば、事件と事情で両方向から人間を追い詰めることがドラマである。
前後から(事件と事情によって)サンドイッチの具のように挟まれた人間の、
食べられまいとせんがためのあがきがドラマといえよう。

()「隠しごと」はドラマのかなめ

人間にはいろいろな事情がある。たとえば、妻子がいる。
ところが、偶然から美女と行動をともにすることになる。男は妻子の存在を隠す。
このように事件と事情に挟まれた人間は「隠しごと」を持つケースが多い。
「隠しごと」とは秘密のことである。
秘密によってドラマが動く、すなわち話を転がすことができるようになる。
以下にドラマにおける秘密を分類してみる。

(A)観客に対する秘密(例:仲のよい父子が実は血がつながっていない。父は既知)
(B)登場人物に対する秘密(abのふたつにわかれる)
(a)登場人物も観客も知らないもの(例:癌で余命を宣告されていたが誤診と判明)
(b)登場人物は知らないが観客は知っているもの(例:検察官が実はならず者)

わかりにくいと思うので整理してみると4つにわかれる。
登場人物と観客の知識が問題となっている。既知を○、未知を×とする。

1.登場人物○、観客○(→ドラマが盛り上がらない)
2.登場人物○、観客×(→A):「ハムレット」で父王の殺害者はだれか。
3.登場人物×、観客×(→Bのa):「ペリクリーズ」で死んだ妃が生きていた。
4.登場人物×、観客○(→Bのb):「夏の夜の夢」における妖精パックの活躍。

()「伏線」と「ハプニング」の必要性

「伏線」も「ハプニング」もどちらも観客をだます技術である。
ドラマを動かすためには事件が必要だが、唐突に事件が起こると不自然な感じがする。
このために伏線を準備しておかなければならない。
伏線とは、事件のきっかけをそれとなく観客に見せておくことである。
たとえば、母親が子どもにカップラーメンばかり食べさせているシーンを作る。
のちにこの子どもが少年犯罪をやらかしても観客はなんとか許してくれる。
ハプニングは伏線の反対である。
観客というものはドラマを見ながらつぎにどうなるかつねに予測している。
これを裏切るのがハプニングである。
たとえば、妻子にバカにされ部下のOLからも嫌われている中年男性がいる。
ところが、このおっさんに若くて美しい愛人ができる。
観客は驚き、さらに先を知りたくなるわけだ。

(3)いろいろな描写

()心理描写

映像で心理を描写するために以下の4つの方法がある。

(a)セリフ(しかし、「セリフはウソつき」だから内心と反対のこともある。
たとえ恋焦がれていても、さまざまな事情から口では「大嫌い」ということがある)
(b)シャレード(カメラフレームのこと。ひたいの汗をアップで映したら動揺を示せる)
(c)リアクション(ゆかいな気分のときは転んでも笑っていられる)
(d)小道具(親が亡くなった子の写真を見ていたら心理が浮かび上がる)

このうち(b)シャレードと(d)小道具は(演劇ならぬ)映像だけに可能な心理描写である。

()人物描写

人物を造形するのはふたつのやりかたがある。
身近なモデルを模倣する。あるいは、テーマから必要な人物をでっち上げる。
ドラマに登場する人物には遠近感がなければならない。
全員が主役だとドラマにならないのである。主役、脇役、チョイ役の3種類だ。

()場面描写

戯曲は場面にあまりこだわらないが、シナリオは場面描写にことさら留意したい。
なぜなら映像の特徴は空間と時間をいくらでも飛ばせることだからである。
場面がドラマを作ることもある。
北海道の雪景色でなければ成立しないドラマがある。
「二十四の瞳」は、場面が東京繁華街にある小学校だとしたら無理がある。
ラーメン屋がふたつ並んでいる、向かい合っている、というのもドラマになる。
お互いの競争や交流がドラマを生み出してゆくわけだ。
場面が異なることによる距離もドラマになる。
瀕死の女性がいる。このとき婚約者がパリに留学していたら、
帰国が間に合うか観客をハラハラさせることができる。

(4)時間の盗みかた

シナリオでいちばん難しいのは時間の盗みかたである。
たとえば「女の一生」80年を2時間ドラマでやらなければならないとする。
ぜんぶ放送しようと思ったらほんとうに80年間かかってしまうわけである。
とはいえ、テレビのなかで流れている時間はこちらがわとおなじ。
どうにかして時間を盗むしかないのである
以下に時間の盗みかたを紹介するが、そのまえに原則的なことを。
「昼→昼→昼」や「夜→夜→夜」は時間の経過がわかりにくい。
「昼→夜→朝→夜」といったようにつなぐのがいい。

(a)タイトル法(「~年後」のように画面に出してしまう)
(b)小道具法(カレンダーや時計を映す)
(c)インサート法(電車が走る、飛行機が飛ぶ、といったシーンを挿入する)
(d)記号法(フィードイン、フィードアウト、ワイプといった画像処理)
(e)しりとり法(「バーにでも行くか」と男が同僚を誘うと次のシーンがバー。
男が水面に自分の顔を映しているシーンから、鏡をまえで化粧する女のシーンに飛ぶ。
深夜、男が暗闇で吸うタバコの火をアップにとらえるシーンから、
朝、女がガスコンロの火で目玉焼きを調理しているシーンへ飛ぶ)
(f)カットバック法(A1→A2→A3→A4→A5→A6をどうカットするか?)
1.空き巣法(A1→B→A6):同時間の別のシーンを挿入する。
2.スリ法(A1→A6):あいだの重要でないシーンをこっそり抜き取る。

(5)「カセ」を作ろう!

カセとは業界用語だという。撮影所でよく飛び交っていた言葉らしい。
「このホンはカセがきいていない」といった表現がされる。
なんの不自由もなくたらたら生きている人間を見せられてもつまらないわけだ。
したがって、カセが必要となる。
カセによって登場人物を極限状態に追い込む。
カセのちからで登場人物を二者択一の修羅場へ誘導する。
ドラマ作法をふたたび図示する。

(事件)⇒(未来)←太郎←(過去)⇔(事情)

このときカセとは事情のことである。たとえば血縁はカセである。
母ひとり子ひとりの家で、息子が海外赴任をしたいとき、血縁がカセとなる。
事業を新展開させるためには顔なじみの小売店を廃業に追い込まなくてはならない。
この場合は、ビジネスマンの良心がカセになる。
命の恩人というほかない牧師が何人もの少女をレイプしていたことを知る。
つぎにこの牧師と顔を合わせたとき、どういった態度を取るべきか。
カセとはままらなぬことだと思う。人間を縛りつけるもの。だが、人間は自由を欲する。
かくしてドラマが盛り上がるわけである。
このテキストには具体的なカセが列記してあるが、
そのなかでも重要なのは誤解のカセだと思う。
秘密が話を転がすことは前述したが、誤解は秘密とセットをなすカセではないか。
シェイクスピアの喜劇のほとんどは誤解が解けることで閉幕している。
いまこれを書きながら具体的なカセを探している。
おそらくいいカセを思いつく、うまいカセを作りあげるのが、ドラマ作法なのであろう。
だとしたら、ドラマの創作はサド的行為に類似する。
美男の足にカセをかけ、この男に近づこうとする美女を縄で縛るのがドラマなのだから。
これからドラマを見るとき、シナリオを読むときはカセに注意したいと思う。

(追記)この記事を書いている途中、
いままでテレビやシナリオで味わってきた山田太一ドラマを思い返したが、
どうやら氏のドラマ作法はこのテキストとは異なるようである。
なぜなら山田ドラマではめったに事件など起こらないし、これ見よがしなカセもない。
思えば、それこそ山田太一ドラマが好きな理由なのである。
ライターごとにおのおのシナリオ作法のあるのが実際なのだろう。
いまのテレビはつまらない番組ばかりである。
むかしのテレビはもっとおもしろかったのにと残念に思う。
だが、これは間違いなのだ。
むかしは、ガキのころは、屋台のたこ焼きや焼きそばが実にうまそうに見えた。
祭りや縁日の際に売られているあれだ。
ところが、親は不衛生だの、もっとうまいものがあるだので、
なかなか買い与えてくれなかった。
たまに屋台のものにありつく機会があると、
こんなうまいものが世界にあるのかと感動したものである。

このガキがおとなになると、すっかり屋台嫌いになっている。
屋台で売られているものを食べたいなどからきし思わない。
焼きそばで5百円も取るのは暴利にもほどがある。
そのうえどう考えても清潔ではない環境だ。
作っているものの顔を見ると、落としたものでも平気で鉄板にのせそうだと思う。
とてもご馳走には思えない。

屋台で売っているものはむかしから変わらないのである。
変わったのはわたしだ。味覚だ。
最初の話に戻るが、テレビはむかしもいまもつまらないのである。
むかしもいまもおもしろいと言い換えても構わない。
実際、女子供のみなさんはいまのテレビ番組を嬉々としてご覧になっている。
むかしからテレビは成年男性をあまり相手にしてくれないのである。
(財布のひもをにぎっているのは女性様とお子様ゆえ)
むかしはよかったなどとつゆ思ってはいけない。
これはテレビのみならずあらゆるものに当てはまるのではないかと思っている。
自分のことをとても大卒とは思えやしない。
高卒か高校中退くらいだろうと自嘲したくなる。
なぜなら専門がないからである。
大学ではなにひとつ学ばなかった。ただ遊んでいた。

そもそも専門という概念が恥ずかしながら理解できないのである。
「芥川が専門だから2ちゃんねるの該当スレッドには決して書き込まない」
こんなことを言う女性と逢ったことがある。
以前「本の山」でラシーヌの翻訳を批判したことがあった。
コメント欄で反対意見をくださったのは、あとで知ったのだが仏文学の研究者だった。
専門とは、こだわりのことかもしれない。
これだけはというものが、わたしにはないのである。

専門はなにでわかるか。出身学部で判明する。
さらに卒業論文を聞いたら、特定が可能である。
わたしの出身は文学部。
ここから細かにわかれて、文芸専修というところが、わたしの2年過ごした場所だ。
文芸専修とは、なにをするところか。なにもしないのである。
いや、小説の書きかたを学ぶというのがいちおうの名目だ。
しかし、小説作法など、とても大学で教えられるものではない。
文芸専修では必修の授業が極めて少なかった。
売れない作家の文壇噂話。
なぜか作家の自筆原稿を見ようという、はなはだ退屈な演習もあった。

単位の取得は、ほかの専修へおもむかなければならない。
作家になるためには、いろいろなことを知らなければならないから、との理由らしい。
どの専修で取得した単位もカウントされるというしだいだ。
ふまじめなわたしは楽勝科目ばかり選択して授業にはほとんど出席しなかった。
卒業論文は創作小説である。
完成もしていない小説を提出したら、なんの問題もなく卒業させてくれた。
久間十義先生、ありがとうございます。

だが、このためか、わたしは専門がないのである。
大学でなにを勉強したのか。なにも学んでいない。
2年間の語学――中国語の予習復習が苦しかったという記憶のみ残っている。
「本の山」もおなじである。専門性が皆無だ。
たしかに演劇や宗教の本をたくさん読んでいるが、とても専門とは言えない。
そもそもわたしは大学でなされている(らしい)研究がいかなるものか知らないのである。
「文学なんて、うんざりだ」は、ネットアイドル工藤伸一氏の「文学界」一次予選落選小説。
いいタイトルだなと思う。
内容は作者が知人のため、評することはできない。
もし興味をお持ちのかたがいらしたらネットで読めます。検索してください。

うんざりというよりも、いま文学なんて存在しているのかと疑問に思うのだ。
文芸誌というものがある。
だが、あんなものはだれも買っていないでしょう。
最新小説を、文芸誌を買ってまでチェックせずにはいられない作家などいますか?
(わたしは一時期の柳美里氏がそうでした。小谷野敦氏は立ち読みどまり)
正直、文芸誌なんてただで送られてきても迷惑なだけ。
あんなスペースを取るものを置いておく場所がない。
読もうとしたって活字のつめすぎで目が痛くなってしまう。
文芸誌が部屋にあると思うと、落ち着けない気がする。
だって、文芸誌――。
あのぶ厚い雑誌に文章を書いているひとがみんな、
自分は特別で世界でいちばんだと思っている。
そう思うと自意識・自己愛・自己陶酔の腐臭が文芸誌からただよってくるようで、
とてもあんなものを自室に置いておけない。

いまや文芸誌は新人賞の告知部分のみ有用なのではないか。
文学新人賞は、断じてなくしてはならないものだと思う。
あの入口のあるがゆえに、
過去の傾向を分析するため文芸誌を購入するものがいるのだから。
それに新人賞の選考委員に与えられる報酬は、
既存の作家の数少ない安定収入である(かなりの高額だという)。
新人賞をやめてしまったら幾人かの作家は餓死するのではないか。

話はかわるがミクシィには「足あと」という機能がある。
だれか訪問してくれると、その記録が残るのだ。
いまわたしの加入しているFC2ブログも履歴の機能がある。
訪問者がおなじFC2ブログだと、記録が残るのである。
わたしはマジメだから履歴のあったブログはすべて拝見している。
記事全文を読むかといったらこれは微妙で、ほとんどは拝読している。
けれども、極度に退屈なものは申し訳ないが飛ばしてしまう。

おなじことが文学の世界でもあるのではないか。
文学など、いまや献本で成立しているだけではないだろうか。
小説を上梓したら、評論家、書評家、お仲間の小説家に献呈する。
しかし、だれも読まない。
にもかかわらず献本されたほうは、お礼ということで新著を送付する。
とはいえ、この小説家もただでもらった本など読みやしない。
置いておく場所もないのでブックオフに売り飛ばす。
こうして割引されてはじめて読者の手にする本も少なくないと思うのだが。
なにを言いたいのかというと、現代文学はブログとおなじで、
だれも読んでいないのではないか。
ブログはカラオケみたいなものである。
書くものは大勢いるが、だれも読んでいない。
もしや、わがあこがれの文学も、そのようになってはいないか。危惧している。
「狐狸庵食道楽」(遠藤周作/河出文庫)

→遠藤周作のエッセイのうまさには舌を巻く。
著者の過剰な感傷とわたしは相性がいいのだろう。
おそらく「沈黙」に感動した読者の何十倍何百倍も、
遠藤の狐狸庵ものや中間小説に生きる慰めをもらった読者がいるはずである。
丸山健二は作家がテレビに出ることを軽蔑し、
自身はすごい文学作品を書くために日夜努力しているという。
しかし、一流の文学作品などだれが読むのだろう。
ひどく読者を限定するのではないか。
そして、それがすごい文学だったとして、だからなんだというのだろう。
丸山健二はすごいとほめられたいのだろうか。
なにを言いたいのかというと、
一流の文学作品よりも、ほどよく脱力して書かれたもののほうがひとを救うこともある。
まさに遠藤周作のエッセイや中間小説のようにである。
選民意識に支えられた一流文学がどれほど偉いのだろう。
それより無学・不遇の人間を少しでも慰める作品のほうがよほど価値あるのではないか。
遠藤周作の上質なエッセイを読むと、そんなことを考えさせられる。

「飲みはじめたころ……」というタイトルのエッセイが秀逸である。
遠藤の学生時代だから、終戦直後の話だ。焼け野原も多かった。
ある日の夕暮れ、遠藤青年が飲み屋街をぶらぶら歩いていると
エプロン姿の娘から声をかけられた。
「あんた、わたしのこと憶えていない?」と言うのである。
初めて会う顔だからキョトンとしていると、小学校のとき一緒だったと言われる。
娘があんまり懐かしげに見つめるので遠藤は人違いだと言えなくなった。
彼女は戦争でなにもかも失い、いまは母親とふたりで暮らしているという。
飲み屋の手伝いをすることでふたりの生活費を稼いでいる。
うちの店に来なさいと誘われたが、
遠藤は約束があるとウソをつき、その場から逃げるように去った。
このことも忘れかけた別の日に、遠藤は娘と再会する。
今度は誘われるがままに彼女の店に入ってしまう。
昔話をしきりにする娘である。
遠藤は酔ったふりをして適当な相槌を打っていた。
話しながら娘は嬉しそうだった。
ほんとうのことを話して、いまさら彼女を幻滅させるわけにはいかない。
遠藤が立ち上がり勘定を支払おうとすると、娘は奢るからいいという。
小学生のころ、硯(すずり)を貸してくれたお礼だという。
また来てくれと言われたが、遠藤は二度とこの飲み屋街に足を運ぶことはなかった。

とてもいいエッセイだと思う。
ほんとうのことがなんだ。ほんとうだからなんだって言うんだ。
ウソのほうがひとを救うのならウソでいいではないか。
などといろんなことを考える。
そして、娘と遠藤、双方のやさしさに胸のつまる思いがするのである。
「孤独について」(中島義道/文春新書)

→よくある成功者の自伝なのだが、中島義道の苦労自慢は笑える。
大学教授になるという夢がかなうまでを赤裸々につづっている。
成功本によくある美談がほとんどないのがすばらしい。
こんな下劣な人間が姑息に生きていても運しだいで成功できるという事実が励みになる。
中島も、このことを訴えたかったのだと本書で書いているのだから自覚的である。

「私はつねに他人を家柄・学歴・職業・社会的地位あるいは容貌によって細々と採点し、
自分と比較し「上か下か」判定することをやめることができない」(P59)


こんな最低の人間でも大学教授のみならずベストセラー作家にまでなれるのである。
なまじそこいらの自己啓発本を読むよりよほど元気が出てくるではないか。
「古代秘教の本」(学研)

→本書はキリスト教成立以前の秘教・神話を特集している。
といっても、東洋が登場するわけではない。
あくまでも「進んだ」ヨーロッパ界隈である。
神話のふしぎな話は好むところ。
神話には、ふたつの側面があるように思う。歴史と科学である。
神話は歴史の代用にも、科学の代用にもなる。
歴史をさかのぼると神話に行き着く。
世界とはなにかを説明するのが科学だが、
これはかつて神話がカバーしていた領域である。
一見すると歴史と科学によって、神話は息吹をとめられたようだが、そんなことはない。

たとえば恋人が交通事故で死んだとする。
どうして死んだかに医学は出血多量としか答えようがない。
しかし、当人はなぜよりによって自分の恋人が死んだかを知りたいのである。
このとき神話の残酷な物語は慰めになる。
もしかしたら、ふたりの恋愛がゼウスの怒りを買ったのかもしれないなどと思えばである。
神話には科学では知りようがない死後の世界の描写がある。
死んだ恋人のその後を想像するのもたいそうな慰めとなろう。
歴史や科学では決して説明のつかないことが世界にはあるのである。
神話が現代なお必要とされるのはこのためである。
インチキ宗教にカネをむしりとられるくらいなら、
古来の神話を活用するほうがよほどいいではないか。

秘教・神話のふしぎな物語に触れながら、これらはふたつのものを結合していると思った。
神話には、絶対的に対立するふたつのものを調和させる働きがあるのではないか。
たとえば「生と死」「男と女」「火と水」「光と闇」「善と悪」「豊と枯」――。
絶対的に対立するほかない二者を神話は物語のちからで融合させているように思う。
ふと夢を思う。
夢では、整合性のない、だが異常なほど生命力に富むイメージの現出することがある。
あの不可思議な魅力を言語化したら神話のようなものになるはずである。
「チベット密教の本」(学研)

→チベット密教の性質は、
インドと中国に挟まれているという地理的要因によるところが大きいという。
この宗教の最大の見どころは活仏、ダライ・ラマである。
生まれ変わりなど、もとよりフィクションである。
だが、ダライ・ラマのような壮大なホラを考えだすのだからチベットはすごいと思う。
生きてゆくうえでフィクションほど大切なものはない。
チベット密教は神秘的な大乗仏教で、口伝を重視する。
教えは師(ラマ)から学ぶほかはない。独学はできないのである。
この学研のシリーズは、写真の充実しているのがいい。
ぼんやり曼荼羅(まんだら)を眺めていると、
いま自分が生きている以外の世界があることに安らぎを覚える。
「まだ見ぬ書き手へ」(丸山健二/朝日新聞社)絶版

→この小説作法の最大の特徴は、ひとりの作家もひとつの作品も登場しないところである。
みずからの作品もふくめて既存の文学作品が取り上げられることはない。
読者には一流の書き手を目指してほしいから、というのがその理由である。
いまあるような文学作品を超えるものを読者は目標にしてほしい。
したがって、丸山は作家に憧れるタイプの書き手には厳しい。
既存の作品で満足しているのなら、おまえが書く必要はないではないかというのだ。
極めて硬派の、精神論めいた小説作法書である。
丸山は酒をのむ小説作者など認めはしない。その理由はこうである。

「薬物やアルコールは確実に脳細胞を死滅させ、
死んだ細胞はほとんど再生しないそうです。
薬物やアルコールに手を出さなくても、脳細胞は毎日減ってゆくのです。
ましてやそれらを体内にせっせと取り込む者の脳細胞は……、
言わずもがなでしょう。
文学と酒は切っても切り離せないものである、
などとうそぶきながら飲み続けている書き手は、現在でも大勢います。
酒に縋ってしか生きてゆけないほど繊細な神経の持ち主である創作者は、
たしかにそれなりの作品を生み出すことができます。
しかし、それを超える作品は絶対に無理なのです。
酒はサラリーマンの飲み物です。
他人に雇われ、こき使われ、対人関係のうんざりする泥沼に投げ込まれ、
人生の鍵を握られてしまった人々にとっては、それはまさしく命の水なのです。
でも本物の自由を生き、
未知なる創造の道をどこまでも突き進もうとする者にとっては、
シアン化カリウムと何ら変わらないのです」(P144)


なんともストイックだが、これは全編にわたって共通する姿勢である。
ひと言でまとめるならば、丸山は努力せよ、と主張しているのである。
がんばればいい小説ができると信じて疑わないのである。
人気作家が銀座でのんだ翌朝、
二日酔いのあたまで書いた小説の質が良いはずはないと丸山は信じている。
丸山健二は努力、努力、努力の作家である。
本書にも10年後、20年後という表現がよく出てくる。
作家志望たるもの何十年後を見据えて小説を書いていかなければならぬらしい。
著者が実践していることでもあるようだから恐れ入るほかない。
この「がんばれ、がんばれ」は10代や20代の読者のこころには響くのだろうが、
30を過ぎたものにとっては作者のゆがみに辟易してしまう。
これまた中年に近づきつつある読者のいやらしい読みかたになるが、
23歳で芥川賞を受賞したことがどれほど丸山の人生観を狂わせたかと思うとぞっとする。
若年で名誉ある文学賞を受賞した作者はいろいろなやっかみを経験したことだろう。
ことの必然、23歳の芥川賞作家は、
この名誉がすべて自分の努力の結果だとかたくなに信じ込むしかなかった。
丸山健二が努力第一主義になったのは、このへんに理由があるのではないか。

丸山の女性観もゆがんでいておもしろい。紹介する。酒のつぎは女である。
「女性にも気をつけてください」と著者は言う。なぜなら――。

「もしあなたが小説家でなかったのなら、
彼女たちは果たしてあなたに近づいてきたでしょうか。
あなたが普通の勤め人をしていたら果たしてどうだったでしょうか。
その辺りのことをよく頭に入れておいてください。
彼女たちの目的、本当の狙いは、あなたをだしにして、
現実から遊離した、文学的な、絵空事の大恋愛なるものを、
さながら小説の主人公のように演じてみたいのです。
そうやって灰色だった自分の人生に色をつけたがっているのです。
いちいち相手になってやる必要はありません」(P131)


注意してください。小説家に近づいてくる女が「彼女たち」と複数形になっている。
さぞかし23歳の芥川賞作家は女からもてたのだろう。
もててもてて仕方なかったのだと推測される。
しかし、人生は奇妙なもので、女からもてることが逆に女性観をゆがませる。
丸山健二などはその典型であろう。
もてないことから女嫌いになるのはよく知られているが、
丸山のように極度にもてることも女性嫌悪に通じてしまうのだから皮肉である。
引用文の最後がよろしい。「いちいち相手になってやる必要はありません」だと!
世のもてない男どもが殺意をいだくに十分な挑発的な発言といえよう。

本書は小説家を夢見る学生さんが読むのに適している。
たぶんに啓蒙されることがあると思われる。
だが、人生に絶望した三十路のアル中が読むには、いささか純粋すぎるようである。
「ルーヂン」(ツルゲーネフ/中村融訳/岩波文庫)品切れ

→ルーヂンはまるでわたしの生き写しのようである。つまり、口だけの男。
なにか大きなことをやりそうな気配に満ちているが、いつまで経っても実行しない。
そのくせ口を開かせると野望に野心、大言壮語がつぎからつぎへという手合いである。
ルーヂンはいつまでも実現不能の夢ばかり見ていて、
ついに無視していた現実から復讐される。
35歳、まだぎりぎり夢が許される年齢の青年ルーヂンは饒舌に語る。

「大体この、否定ということは、それも一から十まで残らず否定するということは
――ほめたことではありませんからね。
あれも駄目、これもいけないとあらゆるものを否定し去ると、造作なく、
あの人はえらいという評判になる。これはよくある手です。
否定する人の方がえらいにきまっている、
と人の好い世間ではすぐそうきめてかかるからです。
が、これは時おり当たらないことがあります。
第一、欠点のないものはないのですし、第二に、筋道が通った話でも、
やはりそれは碌なことになりません、
というのも、否定だけに向いていると頭脳が貧弱になり、涸(か)れてしまうからです。
自尊心ばかり満足させていると、観照の真の悦びを失ってしまいます、
つまり生が――生の本質が――
浅薄で気短かな観察の間からつるりと滑り落ちてしまって、結局、
当人は罵倒をしたり、他人を笑わせることだけで終わってしまうものです。
ですから、非難したり、罵ったりしてもいいのは、愛することも出来る人に限ります」(P57)


このルーヂンという男、口ではなかなかもっともなことを言うでしょう。
では、なにをしているのか。なんにもしていないのである。
とある金持の未亡人に気に入られ、居候させてもらっている。
年増の婦人ダーリヤはもしやルーヂンはそうとうの大物かもしれないと、
この素寒貧で官職もない、まったく無名の青年を厚遇している。
ルーヂンのせいでこの屋敷のサロンから追い出されてしまった老人は、
この新参者を以下のように評する。老人はルーヂンの本質を見ていた。

「――あの小才子は俺は好かん、――と彼は口癖のように言っていた
――口のききようが不自然で、まるでロシヤの小説の人物と寸分違わぬ顔つきで、
「私はですね」とやらかす。それから思入れよろしくあって、
また「私は、私はですね……」が始まる。
またいつも実に長ったらしい言葉を使う」(P81)


まるでわたしのことではありませんか!
みなさまのまわりにもルーヂンはいませんか?
しかし、ルーヂンとわたしの違うところは、この青年がもてることである。
ルーヂンは未亡人の娘から惚れられる。
大いに笑えるのは、ルーヂンがこの娘っこにとんでもないホラをふく場面である。
自分は「大きな論文」を仕上げると宣言するのである。
それも「人生と芸術における悲劇的なるものについての」(P85)なのだから。
35歳にもなって貧乏で、そのうえなんの肩書きもない青年が
年のはなれた少女に向かって論文の話をかますのである。
さらにルーヂンという男は! 
少女に向かってあなたのためにこの論文を執筆するとふかすわけである。
ものを知らない娘は有頂天になってしまう。
ルーヂンさんはとてもすごいひとなのに、どうして世間からは認められないの?

資産家の娘から愛を告白されたルーヂンは有頂天となる。
ところが、ふたりの密会を盗み聞きしていたものがいる。屋敷の執事だ。
かれは女主人ダーリヤにこのことを告げ口する。
ダーリヤもようやく目が覚めるわけである。
考えてみればこのルーヂンという青年は財産もなければなんの業績もない。
そんな男がうちの娘とどうこうなど不届きにもほどがある。
ダーリヤは娘にルーヂンとの交際の禁止を命じる。
だが、恋に燃える娘は監視の目をくぐりぬけルーヂンに逢いにゆく。
さあ、ルーヂンはどうするか。娘と駆け落ちをするのか!
しないのである。母親に反対された結婚なら財産がついてこない。
いま娘と駆け落ちしたら生活苦が待っているだけである。
及び腰になったルーヂンは得意のおしゃべりでごかまし少女を屋敷に帰してしまう。
愛されていなかったことを知った娘は深く傷つく。

この小説でいちばんおもしろいのは最終章である。
この恋愛事件からおよそ5~10年後のことが描かれている。
身をやつしたルーヂンは大学時代の旧友、レジネフと再会する。
レジネフは裕福な地主となっている。
かたいやルーヂンは目も当てられないほどの零落ぶり。
白髪頭で身なりもみすぼらしい。
レジネフはルーヂンに夕飯をご馳走しながら、かれの来歴を聞く。
ルーヂンはあれからいろんなことをやったが、なにひとつうまくいかなかったという。
夢見がちな青年の末路を描写するツルゲーネフの筆は冴え渡る。
注意したいのはレジネフが堅実な労働をしたから裕福だとは必ずしも言えないところ。
レジネフはもとから財産があったのである。
いっぽうルーヂンは生まれが貧しかった。
だから、夢見るほかなかったのだと分析することも可能である。
哲学者の中島義道がこの「ルーヂン」をとりあげ、
現代日本の夢見る青年に批判的な言及をしている。

「「人間嫌い」のルール」(中島義道/PHP新書)

わたしも中島にならって、この古典作品「ルーヂン」を題材に夢について語ってみよう。
いま日本のマスコミは「夢を見よう!」と、うるさいことこのうえない。
「夢は必ずかなう」などとわめきたてている芸能人も多数存在する。
よくよく考えてみれば、
いま夢を追っている若者というのは貧困家庭の出身が多いのではないか。
夢を見るくらいしか人生に希望がないのである。
裕福な家庭に生まれたものは夢など見ずに堅実な生活に入ってゆくと思われる。
では、なぜ夢がこうも持てはやされるのか。
夢でも与えておかないと若年貧困層の不満がたまり犯罪に結びつく可能性がある。
資本家がバイトという形式で安価な労働力を得られるのもかれらが追う夢のおかげ。
こう考えると新たな視点で「ルーヂン」を眺めることが可能になる。
ルーヂンが口舌の徒になったのは、かれが持たざるものだったからではないか。
ルーヂンが夢ばかり見ていたのは、
夢を見るしかかれの環境が許さなかったからではないか。
たとえこの青年がなにかやろうと思ったところで元手になるものがなかったのである。
中島の言うように、いまの日本には青年ルーヂンがあふれている。
かれらが中年になったとき、果たしてどうなるのか。
わたしも平成のルーヂンのひとりとして切実な問題である。

(追記)この古典作品の構成をメモしておく。
小説「ルーヂン」の全体は210ページ。
P36→ルーヂン登場。
P54→1日目終了。2日目開始。
P80→2日目終了。2ヶ月経過。
P168→2年経過。
P186→また数年が過ぎた。
「辨天娘女男白浪」(河竹黙阿弥/新潮文庫)絶版

→「辨天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)」は別名「白浪五人男」。
この別名はいまネットで検索して知ったしだい。
「白浪五人男」なら歌舞伎とは無縁のわたしでさえ名前くらいは知っている。
有名な作品をそうとは知らずに読んでいたことになる。

劇作家・河竹黙阿弥をどう演劇史のなかで位置づけたらいいのか悩んでいる。
同時代の他国の劇作家を調べてみたらミュッセ、ゴーゴリ、イプセン――。
「ぬすっともの」という括(くく)りかたをすれば、
1世紀ほどまえだがシラーの「群盗」がある
だが、黙阿弥とこれら劇作家を同列に比較するのは障害があるように思えてならない。
歌舞伎に普遍性がないためである。
というのも西欧の芝居を翻訳して日本人の役者が上演することは可能である。
いっぽうで海外で西洋人が歌舞伎をやるとなると、
かの紅毛人が着物を着てチョンマゲを結うわけだが、これはお笑いにしかならない。
黙阿弥は劇作家というよりも、いまでいう放送作家くらいの捉えかたがいいのかもしれない。
放送作家は、いかにタレントが映(は)えるかを考え、番組を企画する。
黙阿弥のやったこともおなじではないだろうか。

日本では劇作家および脚本があまり重視されないようである。
このたび黙阿弥の記事を書くにあたってだいぶネットの観劇記を参考にしたが、
どれひとつとして黙阿弥の劇作について言及しているものはなかった。
どの歌舞伎俳優のこんなしぐさが良かった、悪かった。
あの歌舞伎俳優はべつの某と比べると力量が落ちる、うんぬん。
これは歌舞伎のみならず現代の映像作品についてもおなじである(TV・映画)。
たとえば山田太一ドラマが放送される。
翌日あたりにブログを検索すると、そのほとんどが役者について語ったものなのだから。
日本人は有名俳優が泣いて笑って怒っていたら、それで満足するのかと疑ってしまう。

だが、河竹黙阿弥は評論家でも啓蒙家でもなかった。
観客を批判するのは黙阿弥の役割ではない。
かれは創作者であった。目的は、観客を楽しませることのみである。
かくして「白浪五人男」のような人気芝居が完成することになる。
本作品を執筆時に黙阿弥のあたまにあったのは、
それほど難しいことではなかったのではないか。
人間とはなにか。人間を動かす大きなものとはなにか。つまり、劇とはいかなるものか。
「白浪五人男」を書いている黙阿弥は、まったくこのような問いとは縁がなかった。
この歌舞伎役者の脳内に浮かんでいたのは商売仲間の俳優だったことだろう。
かれを結婚前の武家の娘に女装させたら、さぞかし美しいのではないか。
名家の娘、それもとびきりの美少女が付き添いのものと呉服屋におもむく。
この美少女が店内で万引をするなんざ、なんて意外ではないか。
娘はわざとばれるように大っぴらに布をふところへ隠すものだからすぐに発覚する。
呉服屋の店員に、指摘されると少女は震えるばかりである。
店員にはこんなことを言わせよう。

「年中商売をいたしをりますれば、ちらりと見たら間違ひはござりませぬ」
「たつて知らぬと言ひなさりや、裸にして詮議をする」(P232)


なんともいやらしいではないか。良家の子女が万引の疑いで身体検査である。
店側と付き添いのあいだでもみあいとなる。
娘の取ったという布が取り出されたが、これはどういうことだろう。
他店で買った、なんの問題もない布であった。濡れ衣だ。さあ、呉服屋はどうする。
付き添いが指摘するのは、さきほどのいざこざで娘のひたいに傷がついた。
嫁入りまえの娘の顔に傷がついたとなったら大問題だ。
おい呉服屋、いったいどうしてくれるんだい? 
百両の慰謝料を呉服屋が支払うことで話がまとまったそのときである。
「ちょっと待って下され」と奥座敷から身分の高そうな侍、駄右衛門が現われる。
駄右衛門はふたりに疑いをかける。ことにそこの娘! おぬしはもしや――。

駄右「ことに縁組定まりし女といふも、まさしく男」
弁天(=娘)「や、(トちよつと男の容子を見せ、)なんで私を男とは、(トやさしき女の思入)
駄右「女というても憎からぬ姿なれども、某(それがし)が男と知つたは二の腕にちらりと見たる櫻(さくら)の彫物、なんと男であらうがな」
弁天「さあ、それは」
駄右「但し女と云ひ張れば、この場で乳房を改めようか」
弁天「さあ」
駄右「男と名乗るか」
弁天「さあ」
駄右「さあ」
両人「さあさあさあ」(P240)


おとなしい娘は仮のすがた、その正体は弁天小僧であった。
弁天小僧は女物の着物すがたであぐらをかき、煙管片手に啖呵(たんか)を切る。
美少女が美少年にはや相成り、とはいえ変わらぬ娘の格好でヤクザな口上を述べる。
倒錯的な美しさのあるこの場面は、歌舞伎随一との評判もある。
歌舞伎作者・河竹黙阿弥は、この場面を書きたかったのである。
筋立ても、人物造形も、この場面の美しさに比べたら、なんてことはないおまけである。
あらゆるすべての条件が、この場面のために必要とされたに過ぎない。
弁天小僧のせりふは有名なので、お約束として引いておこう。

「知らざあ言つて聞かせやせう。浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人(ぬすびと)の種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で年季勤めの稚児ヶ淵、江戸の百味講(ひゃくみ)の蒔銭(まきせん)を当てに小皿の一文字(いちもんこ)、百が二百と賽銭のくすね銭せえだんだんに悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の枕捜しも度重なり、お手長講と札付きにたうとう島を追出され、それから若衆の美人局(つつもたせ)、ここやかしこの寺島で小耳に聞いた祖父(じい)さんの似ぬ声色で小ゆすりかたり、名せえ由縁(ゆかり)の弁天小僧菊之助といふ小若衆。
ト片肌脱ぎ、櫻の彫物を見せ、きっと見得」(P242)


ここから先はかなりややこしいのだが、いまの歌舞伎上演ではたいがいカットされるらしい。
かんたんに紹介しておく。
弁天小僧の女装・騙りを見破った駄右衛門は、呉服屋主人とその息子から感謝される。
奥座敷にまねかれ酒やらなにやら歓待される駄右衛門であった。
呉服屋父子からなにかお土産を差し上げましょうといわれると、
駄右衛門の答えは意外や意外。
カネがほしいというのである。駄右衛門は豹変する。
かれこそ大盗賊団の首領であったのである。
さきほどの弁天小僧もやってくる。すべては呉服屋をだます芝居だったのである。
ところがところが、ジェットコースターのように話は展開する。
この盗賊の大親分、駄右衛門には17年前に捨てた赤子がいた。
ひょんなことからこの呉服屋の倅(せがれ)が駄右衛門の実子であることが判明する。
では、呉服屋のほんとうの息子はいまどこにいるのか。
ご都合主義と批判されそうだが(このため上演ではカットされるのだろう)、
なんと弁天小僧が呉服屋の実の息子であった。
もう駄右衛門は盗みを働く気などなくしている。
呉服屋も呉服屋で、どうぞ全財産お持ちなさいと金品を差し出す始末。
ともあれ、17年ぶりの再会になみだを流す二組の父子である。

だが、こうしてはいられない。呉服屋番頭が屋敷を抜け出し通報したのである。
追っ手がせまってくる。
駄右衛門、弁天小僧ら「白浪五人男」は呉服屋から逃亡する(白浪とは泥棒の意味)。
(ここから先はふたたび上演されることの多い見せ場である)
五人は土手にかかる。追っ手から包囲されたようである。
「白浪五人男」は正々堂々、逃げも隠れもしないで、
順番に朗々とおのが来歴を述べる。
この場面も黙阿弥が描きたかった美しさに満ちている。
黙阿弥が問題とするのは人間観や人生論ではない。思想ではないのである。
黙阿弥はただ美を描きたかった。
たとえ表層的とあなどられようが黙阿弥はみずからの美意識を信じるしかなかった。
また、観客もこの美を受け容れてくれるに違いないと黙阿弥は信じていた。
「稲瀬川勢揃いの場」は黙阿弥歌舞伎の極点であるといえよう。

筋に戻ると「白浪五人男」は命からがら当面の逃走に成功する。
ほとんどの上演では「稲瀬川勢揃いの場」で閉幕するという。
すなわち、これから先は上演されることがめずらしい。
結末だけ述べると、美青年の弁天小僧は捕り手に囲まれ、
実父に恩返しすることもなく、あたら若い命を割腹自殺で散らす。
ほかの「白浪五人男」もつぎつぎにみじめな死にかたをする。
親分の駄右衛門が捕まる場面をもって芝居「辨天娘女男白浪」は終わりとなる。
黙阿弥歌舞伎は、人間の生きかたも高邁な思想も提示することはない。
だが、観客は満足して帰ってゆく。
なぜなら黙阿弥の描く美を俳優を通して胸に焼きつけたからである。
「新皿屋舗月雨暈」(河竹黙阿弥/新潮文庫)絶版

→「新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)」は無難な佳作といったところか。
河竹黙阿弥と近松門左衛門を比較するのが正しいのか無学なわたしは知らないが、
どうにも黙阿弥からは近松で得られた満足感を享受できない。
非科学的な表現だが、たましいに重く響いてくるものが黙阿弥芝居にはないのである。
近松人形浄瑠璃はそうではなかった。
近松の芝居を読み終えてから近所のスーパーへ酒のつまみを買いに行くときなど、
ずっと不断にあたまのなかで南無阿弥陀仏が鳴り響いているので恐ろしくなった。
近松劇によって生きることができた。
だが、黙阿弥作品に許されるのはせいぜい遊ぶくらい。
あそこがよかったとくすくす笑うくらいである。
黙阿弥は女子供の手慰み。近松は男子一生の仕事。
こんなふうなことを書いたらだれかを傷つけることになるのだろうか。
しかし、これがわたしの正直な実感である。

「新皿屋舗月雨暈」の話をしよう。
魚屋を営む宗五郎がこの芝居の主役である。宗五郎には妹がいた。
妹は旗本のお殿さまに気に入られ妾(めかけ)として奉公していった。
このときの謝礼で宗五郎の魚屋は経営難を乗り切ったという過去がある。
ところが、この妹が死んだという。
なんでもお殿さまに不義の疑いをかけられ、まったく無実の罪で切り捨てられたらしい。
宗五郎は「ふたつにひとつ」の葛藤に苦しむ。
お殿様には恩がある。しかし、妹の無残な死は言いようもなく口惜しい。
酒乱の宗五郎は長いこと禁酒をしていた。
だが、身内の不幸をきっかけに酒をのみはじめるとこれがいけない。
すっかり泥酔して大虎になった宗五郎は身分もわきまえず妹の奉公先へ抗議におもむく。
結局、宗五郎は酔っていたという理由で
旗本家での非礼および乱暴狼藉を許されるのだが、
この宗五郎の酔っぱらうさまがこの芝居の売りらしい。
もちろん脚本では知りようがない。役者の力量の問題である。

わたしはいままで役者の凄みのようなものを知覚したことがないのだが、
名高い歌舞伎作者の黙阿弥は、さぞかし役者のちからを信じていたと思われる。
おそらく劇作家の俳優への信頼がこの芝居によくよく現われているのだと思う。
理解できないおのれが残念である。
この芝居の結末を記すと、およそ完全なハッピーエンドである。
お殿さまは魚屋ふぜいに謝罪して、今後の生活費も保証する。
カネと自尊心が報われた魚屋は喜色満面である――。
「船辨慶」(河竹黙阿弥/新潮文庫)絶版

→じつは歌舞伎を見たことが一度もないのである。
何年かまえ勉強のためと思い、チケットショップで招待券を安く買って、
あれは銀座だったか、重い腰を上げ繰り出したものである。
ところが、定員オーバーで入場できず、
チケットは紙切れになってしまったという、思い出すにも口惜しいことがあった。
仕方がないからライブはあきらめてテレビで見ようとしたのだが、
これがダメなのである。つまらなくて10分と見ていられないのだ。
なにを喋っているのかわからないし、なにもかにも意味不明で退屈極まりない。
苦手の不条理演劇よりも歌舞伎はよほど不条理だと思った記憶がある。
銀座で行列していたとき、周囲の人間に相容れないものを感じたことも忘れられない。
歌舞伎を見にいくのは、おばさん、おねえさんが圧倒的に多いようである。
たまにおばさんに連れられたおじさんがいるくらいで、
成年男子はほとんどいなかったのを憶えている。
場違いなところにいると思わざるを得なかった。

どうなのだろうか。歌舞伎がわからないと言うと馬鹿にされるのだろうか。
教養が足らない。美的センスが欠如している。
とはいえ、だれでも努力したら歌舞伎の楽しさがわかるものなのか。
さらに言えば、努力してまでおもしろさをわからなければならぬほど歌舞伎は偉いのか。
申し訳ないが、歌舞伎会場にたむろしていたあの女性軍団が、
ひとり残さず自分よりも知的で高尚なのか疑問に思ってしまう。
歌舞伎役者にキャーキャー熱狂するミーちゃんハーチャンだとまでは断定しないが。
わたしは黙阿弥を読んで劇文学のひとつとして楽しむことができる。
だからなんだと言われたら、おれは馬鹿じゃないんだと返答する。
余談だが、劇作家・評論家の木下順二は、学生時代、
現物を一度も見ていないうちから歌舞伎脚本のみ読み込んでいたという。

よし、ここにお願いをしよう。歌舞伎ファンのみなさん。
どうかわたしを歌舞伎へ誘ってくれませんか(男女年齢未婚既婚不問)。
いまさらあの女だらけのなかにひとりで入ってゆく勇気はないがだれかと一緒なら。
座席はいちばん安いところ。一幕見席可能。料金は各自負担。
ぜひぜひ凡愚の野人に日本文化のすばらしさを教えてください。
お礼というわけではありませんが、もし希望者がいたらプロレスへの案内を務めます。
血まみれになりながら蛍光灯で殴りあう大日本プロレスなどなど。
うふふ、告知してしまったよ。
思うに、江戸時代の歌舞伎はプロレスみたいなものだったのではないか。
それがいつしか上品な芸術になってしまったというだけで。
黙阿弥の描く単純なストーリーは、まるでプロレスの八百長芝居のようである。

「船辨慶」の話を少しだけ。これはもう劇ではないだろう。
パフォーマンスというか、歌謡ショーというか。
兄の頼朝公に睨まれ逃避行に旅立つ義経一行は、静御前と別れることになる。
最後にと舞を踊ってみせる静御前であった(ヒューヒュー)。
船を出航したら海が荒れて平家の亡霊が登場する(こわいよ~ママ)。
しかし、弁慶が念仏をとなえると霧散するのであった(弁慶ったら、いかすぅ)。
「高時」(河竹黙阿弥/新潮文庫)絶版

→さあ、まずこの芝居の「さあさあ」シーンから。
三郎は浪人の身ながら、老母と息子を連れて鎌倉へ出て来ている。
ここで三郎は、将軍・足利高時公の愛犬を打ち殺してしまう。
かの犬が老母を傷つけたためである。
護衛の侍・次郎は、仲間を総動員して三郎を捕らえんとするも、
三郎は強く太刀打ちできない。
次郎は卑怯にも三郎の老母と息子を人質にする。

次郎「さあ、手向ひなさば此の母と、倅(せがれ)をここで殺さうか」
三郎「さあ、それは」
次郎「尋常に縄にかかるか」
三郎「さあ、それは」
次郎「刺し殺さうか」
三郎「さあ」
次郎「さあ」
皆々「さあさあさあ」(P123)


神妙に縄にかかる三郎であった。
場面は打って変わって将軍・高時公の屋敷。
三郎を許すかどうかが問題となる。
この「高時」のみならず黙阿弥脚本には人の出し入れにある特徴がある。
それは盗み聞きだ。一座のものがある問題を話し合っている。
そこに、これまでの話は裏ですべて聞きましたと新参者が登場する。
自分の意見を言うためである。この新参者によって議論の流れの変わるのが特徴。
いちいち指摘していたら切りがないほど黙阿弥の芝居にはこのパターンが多い。
決してうまい作劇法ではないが話を転がすにはちょうどいいのだろう。
黙阿弥歌舞伎において人物は主張をともない登場する。

かような新参者のせいで高時の意見は二転三転するが、最後は無益な殺生はしない。
君主たるもの配下のものの手本となるべく行動する。
以上の諌言を聞き入れた高時は愛犬を殺した三郎を放免することにする。
一件落着で高時は愛妓と酒を酌み交わす。催馬楽でも踊ろうかとしたときのことである。
どこからともなく天狗が現われ不吉な舞踊を披露して去ってゆく。
近代的な解釈をすれば高時のこころの暗部が天狗として顕現したとも取れる。
不気味な展開が気に入ったが、もし舞台で上演するなら、
よほど天狗に趣向を凝らさないと観客は白けてしまうかもしれない。
「雪暮夜入谷畦道」(河竹黙阿弥/新潮文庫)絶版

→「雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」は、
前記の「天衣紛上野初花」のなかに含まれており、
この部分だけ上演するときにタイトルのように称されるという。

直次郎は詐欺のとがが露見して、いまは指名手配されている身。
一刻も早く江戸から逃げ出さなければならぬが、
夫婦の契りを交わした遊女の三千歳と最後に逢いたいと思っている。
策略をめぐらし、なんとか三千歳の家に忍び込むことに成功する。
三千歳は逃げるなら自分も連れて行ってほしいと懇願する。
以下に引用するのがこの芝居における「ふたつにひとつ」の場面である。
喜兵衛はこの屋敷の留守番をまかされているもの。

直次「これが常の旅ならば連れて行くまいものでもねえが、
跡より追手の掛る身の上、女を連れれば目に立つて足の附くのは知れたこと、
どうも連れては行かれねえ」
三千「そんなら殺して下さんすか」
直次「何でそなたが殺されよう」
三千「そんなら、連れて逃げて下さんすか」
直次「さあ」
三千・喜兵「さあ」
三人「さあさあさあ」(P102)


このとき三千歳を身請けしたという侍の市之丞が突然現われたため、
直次郎は屏風の裏にすがたを隠す。
この「隠れる」も「変装」とおなじで演劇の古典的手法。
国は違えどシェリダンの「悪口学校」に屏風の裏に隠れるそっくりのシーンがある。
のちに市之丞と直次郎はチャンチャンバラバラやりあい観客を楽しませるが、
ここでヒーローであるはずの直次郎があっさり敗北するのは、
近松門左衛門も好んで描いた「弱い男」の伝統ゆえか。
まさかこの芝居だけで「日本の女は悪くて弱い男が好き」などと決めつけるつもりはないが、
あながち大きな誤りでもないような気がしてしまうのはどうしてだろう。

もはや黙阿弥を大きく跳び越えるが、どうして女は悪い男が好きなのだろう。
かつあげされる男の子がもてたという話を聞いたことがない。
もてるのはいつだってかつあげをする不良のほうである。
弱い男を女が好むのはわかる。「あたしが守ってあげる」なんて思うのだろう。
はっきりいうが、わたしは直次郎のような悪くて弱い男は嫌いである。
しかし、婦女子どもは直次郎タイプに惹かれてやまないのだ。

このような瑣末(さまつ)にこだわるのは、ぞんがい歌舞伎の本道かもしれない。
つまり、歌舞伎など演劇ではないと馬鹿にしているに近い。
この芝居は冒頭の蕎麦屋のシーンが有名らしい。
たしかにここを読んでわたしも蕎麦を食いたくなった。酒をのみたくなった。
(ちなみにアル中のわたしが断言するが黙阿弥はそうとうな飲兵衛だったはず)
歌舞伎の観客は、直次郎の蕎麦の食いかたに注目するようである。
「ううん、あれはいなせで、江戸っ子らしい」とかなんとか。
蕎麦をすするシーンなど、芝居全体から見ればたいしたものではないのは明瞭。
ところが、この蕎麦の食いかたのわかるのが見巧者だのなんだのとほめそやされる。
歌舞伎俳優もたかが蕎麦をかっこむくらいに芸を見いだすようになる。
本末転倒と言わざるを得ないが、
もしかしたら明治のころから歌舞伎とはそのようなもので、
わたしがものを知らないだけかもしれない。
ともあれ、歌舞伎のこういった瑣末主義が好きになれない。

芝居の結末を書いておこう。チョイ悪ヘタレ男の直次郎は追っ手に捕らえられる。
愛する三千歳の目前でみじめにも連行される直次郎。がはは、ざまあみやがれ!
「天衣紛上野初花」(河竹黙阿弥/新潮文庫)絶版

→河竹黙阿弥は幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作者。
「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」は黙阿弥晩年の代表作。
坪内逍遥は黙阿弥を以下のように評しているという。
(新潮文庫「黙阿彌名作選」巻末における河竹繁俊の解説による)

「近松門左衛門は徳川文藝の興隆期に於ける最初の最大の集大成者なりしが、
黙阿彌は其(その)頽廃的に於ける最後の集大成者なり……
近松の浄瑠璃を讃美して、我劇詩の旭光となすべくは、黙阿彌の諸脚本は、
少くとも其華やかなる夕陽たるの光栄を荷ふ価値あるべし……
彼は眞に江戸演劇の大問屋なり……」(P291)


日本演劇における黙阿弥の公的な位置づけである。
このたび黙阿弥作品をいくつか読んだ私見では、
黙阿弥と近松を並べ評するのはどだい無理がある。
というのも、近松劇の有する(宗教的というほかない)深みを、
黙阿弥脚本はからきし持ち合わせていないからである。
近松ほど黙阿弥は芝居のなかの人間を嬲(なぶ)らない。
危険な挑戦はしないということだ。
近松のごとく劇中で人間の生きかたを深く洞察しようとは黙阿弥は思わぬ。
黙阿弥の目は舞台上よりも、むしろ観客席に向かう。
いかに観客を沸かせるかが黙阿弥にとって人間性の追及よりも大切だったのであろう。

イプセンやストリンドベリの翻訳で知られる演劇学者の毛利三彌が、
黙阿弥と、同時代西欧で活躍したウェルメイドプレイ作家の類似性を指摘している。
(「東西演劇の比較」放送大学教育振興会)
黙阿弥をウェルメイドプレイの範疇に入れてしまうのは卓見だと思う。
それほどに黙阿弥は観客の喝采のみを求めている。
黙阿弥脚本には込み入った筋はない。
観客はなにを見に来ているのか。歌舞伎役者である。
ならば、歌舞伎役者がもっとも光ることのできる筋立てに仕上げるのが芝居作者の務め。
現代なおも絶大なる人気を誇る歌舞伎作者・河竹黙阿弥の作劇術である。

「天衣紛上野初花」に話を移す。筋はいたってシンプルである。
世代によっては知らないものもいるだろうが「スーパーマリオ」とおなじ。
悪者に連れ去られたピーチ姫を連れ戻せマリオ! てな感じ。
悪ふざけが過ぎたかももしれない。まじめになろう。
質屋の娘が大名屋敷に奉公に行ったが、
お殿様に気に入られて年季があけても返してもらえない。
実家のものが思案しているところに現われるのは河内山宗俊。
「おれが娘を連れ出してやるから、かわりにカネを融通してくれ」
河内山宗俊は高僧に変装して大名屋敷に乗り込みまんまと娘の奪還に成功する。
(変装は手垢のついた古典的演劇手法)

ところが、めぐり合わせが悪く、宗俊の正体がばれてしまう。
旧知の北村大膳に見つかってしまったのである。
最終的には宗俊の頬にあるほくろが決め手となる。
ここがこの歌舞伎芝居の見せ所であろう。敵にとりまかれて宗俊は――。

「いかにも使僧と偽ったのは、お数寄屋坊主の頭たる河内山宗俊だ」

自己紹介である。さあ、語るからみなのもの聞きやがれ!

「悪に強きは善にもと、世の譬(たとへ)にも言ふ通り、親の嘆きが不憫さに、娘の命を助けようと、腹に企みの魂胆を練塀小路にかくれのねえ、お数寄屋坊主の宗俊が頭の丸いを幸ひに、衣(ころも)でしがを忍ぶが岡、神の御末の一品親王、宮の使ひと偽つて、神風よりか御威光の風を吹かして大胆にも、出雲守の上屋敷へしかけ仕事の曰窓(いはくまど)。家中一統白壁と思ひのほかに帰りがけ、邪魔なところへ北村大膳、腐れ薬をつけたら知らず、抜きさしならねえ高頬(たかほ)のほくろ、星をさされて見出されちやあ、そつちで帰れと言はうとも、こつちでこのまま帰らねえ、此の玄関の表向き、おれに衒(かた)りの名をつけて若年寄へ差出すか、但しは衒(かた)りの名をかくし、御使僧で無難で帰すか、二つに一つの返事を聞かにやあ、ただ此儘(このまま)にやあ帰られねえ」(P64)

かねてからわたしが主張しているようにドラマの原理は「ふたつにひとつ」である。
これは古今東西いかなる劇にも共通する原理だ(不条理劇、前衛劇はのぞく)。
この「ふたつにひとつ」を歌舞伎作者も巧みに用いている。
繰り返すが、ギリシア悲劇から、シェイクスピア、ラシーヌ、シラー、オニール、
日本では近松門左衛門、現代の山田太一にいたるまで、
ドラマとはみなみな「ふたつにひとつ」だ。
歌舞伎(黙阿弥?)の場合、
「ふたつにひとつ」の葛藤の場面で「さあ」「さあ」「さあ」「さあ」と盛り上げるのが流儀らしい。
黙阿弥も「ふたつにひとつ」の劇的昂揚を熟知していたのだろう。
この状況を説明すると、宗俊を司法の場に突き出し事を荒立てるか、
このまま丸く収めるかの「ふたつにひとつ」である。
敵方は後者を選択する。悪漢・河内山宗俊の高笑いで芝居は閉幕する。

「馬鹿め。むむ、ははははは」(P68)
さきほど書いた記事のこの表現は正しいのか不安になっている。
「めっきり読書力があがったと思う」の一文である。
「めっきり」は「目立って変化するさま」を表わす副詞だからいいとも思うのだが、
例文は「めっきり衰えた」「めっきり涼しくなった」といったていで、
そうなると減少や低下を示す言葉があとに来ないといけないのではないかと思ったのだ。
「めっきり」のあとに「あがる」が来てもいいのだろうか。
ここは「めっぽう読書力があがったと思う」と書き直したほうがいいのだろうか。
しかしここで「めっぽう」を使うのは自信過剰で嫌味な感じを他人に与えはしないか、とも思う。

もうひとつ、長年疑問に思っている表現がある。「おられる」である。
ドイツ文学者の高橋義孝が山口瞳との対談で困ったものだと嘆いていた。
「おられる」は謙譲語なのに尊敬語として使うのはおかしいという指摘だ。
これを読んで、それまで自分がずっと「おられる」を誤用していたことに気づき恥ずかしくなった。
「学者でおられる○○先生」といった表現である。
「学者をなさっている○○先生」としなければならなかった。
ところが、ところが。誤用も大勢がやらかせば正しくなるのか。
この「おられる」には、この数年注意しているのだが、
文豪といわれるような作家先生でさえ「おられる」を尊敬語として使っている。
ひどく礼儀に厳しかったことで知られる遠藤周作も「おられる」を尊敬語として多用している。
ということは、いまや「おられる」は尊敬語ということでいいのだろうか。
たしかに尊敬語「おられる」は便利なのである。
この「おられる」が使えないとなると「いらっしゃる」を用いるしかないのだが、
「いらっしゃる」はどうにも締まらない印象がある。

読み手にとっては「めっきり」も「おられる」もどうでもいい問題なのはわかっている。
わたくし、このところめっきり偏屈になってきております。
「わからない文章の書きかた」という本はないだろうか。
好きなので文章作法のたぐいはよく読むが、どれもわかりやすい文章を推奨している。
いや、文章はそんな単純なものではないのではないか。
だれからも理解されない文章もあっていいはずである。
わからない文章の書きかたをだれか教えてくれないものかと思う。
わたしが文章を書くと、どうしてもわかりやすくなってしまうのである。
なぜか噛み砕いてしまう。
カタカナを多用した、もっともらしい、これ見よがしに深遠なそぶりの文章が書けない。
ついつい相手の顔色をうかがってしまう。
言うなれば、ニコニコほほ笑みかけてしまうのである。

おそらくブログ「本の山」にはひとつとして難解な記事はない。
一度でいいからだれも最後まで読めないような、
インテリぶった高尚な記事を書いてみたいものである。
めっきり読書力があがったと思う。
というのも、大学時代などは新書1冊読むのに数日かかった記憶がある。
そのうえたった1冊の新書でそうとうお腹いっぱいになった。
恥ずかしい話だが、
新書を1冊読んだくらいで、たいそう頭がよくなったような気がしたものである。
おそらく頭の悪い大学生のひとりだったのだろう。

いまではあのころの自分が信じられない。新書など、おやつ感覚。
主食をいただいて、まだ満腹しないときにつまむものとなっている。
もちろん、新書のレベルがここ10年で大幅に低下したことも原因のひとつだろうが、
それだけとは考えられない。やはり読書力が向上しているのである。
なにゆえ読書力がついたか。これは量の問題しか思い浮かばない。
質よりも量である。たくさん本を読むうちに読書力は望まずともあがる。
知識の蓄積が一定基準を超えると、あらゆる分野に応用が効く。
(学者先生に比べたら足元にも及ばぬわたしの大言をどうかお許しください)

では、読書力の内実とはなんだろうか。なにをもって読書力というのか。
読まないことではないかと思う。
読書力とは、いかに本を読まないかの技術ではないだろうか。
大学生のころは本を書くようなおとなは雲の上のひとだと思っていた。
書籍のなかでわからないところがあったら、
理解できない自分が悪いのだと何度も読み返していた。

いまはまったく違う。
ぱっと見てわからないところがあったら、すぐに読み飛ばす。
このクソボケ、きちんとわかるように書かんかい! と思いながらである。
わからない文章は読者が悪いのではなく著者の罪だと思うがゆえである。
重要なのは読者の意識変容ではないかと思う。
教えを乞う学生の意識を捨てて、商品を購入したお客さまにならなければならぬ。
お客さまは神さまである。本の著者など恐れるに足らずだ。
いくら大学教授だろうが、わからせなかった時点で著者の負けである。
断じて、こわもての主人にびくびくしながらラーメンをすするような客になってはいけない。
カネを払っているのだから、まずければまずいと言ってもいいのである。
学生気分から脱皮することが読書力アップの秘訣なのかもしれない。