「老イテマスマス耄碌」(対談:吉行淳之介・山口瞳/新潮社)絶版

→最晩年の文士ふたりによる対談。
ここまで脱力した対談は読んだことがないので、逆に新鮮だった。
この対談が行なわれたのは両者ともに亡くなる直前である。
なんの生産的な話題も出てこない。
老いた文士の生活雑感はまったく噛み合うということがない。
ボケ老人のひとり言をふたりぶん収録したようなものである。
むろん、文学とはなんぞや、なんていうテーマは出ない。
生きるとは、もない。目前に迫った死を語ることもない。
どちらの老人もむかしを懐かしみ、現在の不如意(主に病気)を愚痴るのみ。
この非生産性が、酒をのみながら読むのにとても適していた。
対話はこんな感じである。ひとコマを抜き出してみる。

吉行「僕は、国民年金はないんだ」
山口「払ってないんでしょう」
吉行「払ってない」
山口「それは駄目。払ってない人は駄目。
だいいち、芸術院会員が年金がないなんて言っちゃいけない」
吉行「しまったなあと思ってる。こんなに生きるとは、全然思わなかったから」
山口「七十になるとバスが無料になるでしょ」
吉行「六十五じゃない?」(以下えんえんと内容のない会話が継続する。P144)


おもしろいのは飛躍である。年金の話から、突然バスに話題が移る。
吉行淳之介もなんなくこの転換についてゆく。
老人ならではのトボケぶりがたまらない。
内容のまったくない本がこうもおもしろいとは思わなかった。
日々実益ばかり追い求めているせいかもしれないと反省する。
「バカのための読書術」(小谷野敦/ちくま新書)

→知ってる、知ってる? 
うちのブログ、あっちゃん(小谷野先生)からコメントをいただいたことがあるんだ。
いきなり学歴の話をされて、ほんものだと身震いしたものである。
ちなみに柳美里のブログは読んでいないが、あっちゃん先生のは毎日拝読している。
容赦のない他者攻撃など影響を(たぶん悪影響)受けた部分も少なくない。

本書は小谷野敦先生の読書論。むろん、初読のわけがない。
数年前、書店で立ち読みして多大な影響を受けた。
買うつもりだったのだが、読み始めたらおもしろくて、うっかりその場で読了してしまった。
あまりにもおもしろい本というのは、損をすることがある。
再度読みたいと思っていたが、一度読み終えたものを買うのは気乗りしない。
ブックオフ105円ゲットを待っていたのだけれども、
小谷野先生のご著作は「もてない男」以外ほとんどブックオフには出回らない。
今回、やっとのことで入手、再読したしだいである。

あらためて良書であることを確認。
この読書論のすばらしさは「わからない」にこだわっているところである。
わからないものには毅然としてわからないという小谷野先生の姿勢に感銘を受けた。
「おもしろい」ものを希求する態度も好ましい。
わからなくてつまらない本をもてはやす学界への強烈な異議申し立てである。
2ちゃんねるでよく言われていることだが、氏は評論家評論の達人である。
小説評論は理が勝ちすぎていまいち。
かたい本格評論も氏のユーモアセンスが生かせない。
評論家を評論するとき、小谷野敦の筆はもっとも冴え渡るように思う。
なんにせよ、いまいちばん動向が気になる論客である。
「過敏性腸症候群はここまで治る」(伊藤克人/主婦と生活社)

→今年に入ってから、どうもヘソの下あたりが痛い。
思い当たるのは酒しかない。
もう通常の人間が一生のうちにのむ酒量の倍は体内に摂取しているはずである。
いつ死んでもいいと思うがゆえの過剰飲酒である。
死んでもいいけど、あのねボク、痛いのはいやなの(かわいく)。
酒をやめたら痛みがとれるかと禁酒日を多くした。
しかーし、痛みは取れない。そろそろ寿命か、なんて思ったり。
お医者さんに告白。「ボク、お腹イタイイタイでちゅ。肝臓でしょうか?」
笑われてしまった。肝臓はもの言わぬ臓器。
肝臓が痛むというのは医学的にありえないらしい。

ようやくこの本の出番である。
なーんだ、腹痛も過敏性腸症候群の症状に入ってるじゃん!
過敏性腸症候群は日本人の15%が罹患。
便通の異常である。便秘と下痢にわかれる。心理的なストレスが原因とされている。
わたしはこれへの対策としてずっと整腸剤(ビオフェルミン)を処方されている。
もう半年以上も服用しているが一切効果がないのでお医者さんへゴーなのだ!
「やっぱりお腹イタイイタイでちゅ。ボク、ご本を読んだんです」
本書のことである。
するとマイドクターも、やれやれ仕方がないか、といった感じで、
オピオイド作動薬(セレキノン)を処方してくれる。
のみつづけて今日が10日目。ちょっとは効いているのかな、くらい。
完全に腹痛がなくなったわけではない。
以上、どうでもいい闘病記、お読みくださりありがとうございマッスル、マッスル♪
「心理療法個人授業」(河合隼雄・南伸坊/新潮文庫)

→思えば、定期的に河合隼雄のライトエッセイを読むようになった。
癒されるわけさ。がんばればなんでもできるなんて言わない。
運命の存在をはっきりと肯定している。
多数の苦悩者と対面してきた河合隼雄がそう言っていると思うとこころが安らぐ。
あの河合先生が言ってるんだぜ。がんばったって、どうしようもねえって。
あの河合先生が言ってるんだぜ。どうしようもねえ運命というものは、ぜったいあるんだ。
河合隼雄の心理学なんてウソ八百のインチキだと大学の先生は言うかもしれない。
インチキでなにが悪いか。ウソを信じるのがなぜいけないのか。
「あ~、これシンクロニシティかも♪」なんて楽しみながら生きていきたい。
「論語 生き方のヒント」(ひろさちや/日本経済出版社)

→宗教ライターひろさちや先生のペテン術は人間国宝レベルである。
仏教の本でも、キリスト教の本でも、この論語の紹介でも先生はおなじ主張をしている。
ひろさちやには確固とした自分の考えがあるのである。
しかし、それはあまりにも非常識なので
小心者の先生は聖書、仏典、論語を持ち出してくる。
ほうら、これら聖典にも書いてあるじゃないか、という戦法である。

本書も、ところどころにある、ひろさちやならではの味わいが絶妙であった。
論語の紹介書のくせに、専門領域外だから間違えるのが怖いのか、
しきりに仏教の話をする。
ひろ先生くらいのレベルになったら仏典も論語も一緒くたにしていいのである(笑)。
わたしはひろさちやのファンである。
おそらくかれの宗教エッセイは学問的に見たら誤りだらけなのだろう。
だが、それでもいいではないか、と愛読者としては開き直りたいのだ。
太古のむかしから現代まで多くの人間が宗教に救われてきた。
かれら庶民のどれほどが正確に聖典を理解していたというのだろう。
どのみち、信仰とは誤解で成り立っているのである。
ならば、ひろさちやのような存在は否定されるべきではない。
本書で大笑いしたのは、ひろさちやが孔子を否定しているところ(114ページ)。
論語を反面教師にしよう、なんて書いてある。
ひろ先生はついに孔子を超えたかと腹を抱えて笑った。
「プロの小説家になる 作家養成塾」(若桜木虔/KKベストセラーズ)

→本書を読んで自分がなぜ小説を書けないのかよくわかった。
この小説作法の売りは、プロ寸前の小説が全文掲載されていること。
上段はプロ一歩手前の小説、下段が若桜木虔のダメだしという構成である。

これまでかなり難解な小説論や文学論にも目を通してきたが、なんのことはない。
小説とは描写なのである。
いかに読者の脳内に人物、風景、せりふ、心理を言葉によってイメージさせるか。
言葉による情報伝達で読み手をもてなすのが小説なのである。
すなわち、描写が小説の命ということだ。
風景描写、服装描写、表情描写、口調描写、心理描写、感覚描写――。
わたしはこの描写がどうしてもできない。不得手である。
だから、書くものが小説らしくならないのである。
目が極端に弱いのが原因だと思う。視覚が劣っている。
ひとと逢っても、どんな服装をしていたかまるで憶えていない。気にしていない。
風景を見ても、からきし見とれるということがない。いきおい記憶にも残らない。
絶景を言葉で描写したいと欲したことはない。
恥ずかしいが、ひとの顔がみなおなじに見えるのである。
芸能人はまったく識別できない。
これはいまから努力してなんとかなる問題だろうか。
先天的な能力が欠けているという気がしてならない。
耳はいいのである。ひとから話を聞いたら、驚くくらい憶えている。
反面、目がてんでダメである。ひとの顔をあまり注意して見ていない。
読者が小説の世界に入るとき、まず重んじるのが顔だと思われる(とくに女性読者は)。
わたしはその顔の描写がぜんぜんできない。
美人とか、美人ではない、といったような、月並みで凡庸な描写しかできない。
どうして書くもの書くものがエッセイになってしまうのか。
原因は描写の欠如であった。そして、わたしはどうにも描写が苦手である。
これはもう小説を書くことを断念すべきなのだろうか。
かんたんなことなのである。小説は描写だ。これに長いこと気がつかなかった――。

小説家志望向けの読書法というのがたいへん参考になった(41ページ)。
・主人公のキャラクター造形の手腕(いかに早く主人公をイメージさせるか)。
・ひとつのシーンをどのくらいの枚数を用いて書いているか。
・場所や日時が変わる場合、シーンの切り替えにどういった工夫をしているか。
・緊張シーンとゆったりシーンの比率、配合(メリハリのつけかた)。
・会話と心理描写の分量、巧拙に注意する。

作家になってからのことも説明されていて納得した。
新人賞を取るためにはオリジナリティあふれる斬新な小説が必要。
けれども、いざプロになったらばワンパターンでも読者はついてきてくれる。
水戸黄門のようなワンパターンを好む読者はかならずいる。
西村京太郎、内田康夫、赤川次郎が長者番付常連なのはこのため。
おなじ理由で高額所得作家は冒険をしないから文学賞とは縁遠い。
作家志望者が勉強として小説を読むならばデビュー作を読んだほうがいい。
プロの作品をつまらないと思うのはいいが、あの退屈はプロだから許されるのである。
いったんプロになったらプロだからと許されることがけっこうある。
だが、新人にたいしては文学賞選者も編集者も読者も非常に手厳しい。
新人賞取得と作家生活の継続はまったく別物と考えてもいい。
――作家の裏側の赤裸々な告白です。
「プロ作家養成塾」(若桜木虔/ベスト新書)

→とても参考になった。論評すべきことはなにもない。
以下は教わったことを自分なりの言葉でまとめたノートのようなもの。

・回想シーンは避ける。現在でないと緊迫感が弱まるため。

・「~~」と言った、とやらない。「」で会話というのはわかっている。
つぶやいた。ささやいた。どなった。ののしった。など「言う」に代わる言葉を用いる。
思いつかないならば表情を描写しながら「と言った」とやるといい。
真っ赤な顔で言った。眉間にしわをよせて言った。おどけて言った。などなど。

・読者は生活に疲れ果てている。気楽に楽しめるものを書かなければならない。

・非日常的な行動から書き始めると読者をうまく物語に誘導できる。
走っている。喧嘩している。盗んでいる。尾行している。などなど。

・エンターテイメントを書くのはサービス業とおなじ。いかにすれば読者は満足するか。
「意外なテーマ」「話が起伏に富み退屈しない」「共感する人物設定」「的確な描写」

・言葉をもって読者に情景をイメージさせるのが小説。
登場人物の容貌、骨格、服装を効果的に提示する。
人間関係、居住関係もなるべく早めに読者へ伝達しなければならない。

・小説の分量と、タイムスパン、登場人物数は相関する。
たとえば原稿用紙50枚なら2日以内、登場人物は3人以内。
500~1000枚もあるならば5年以内、登場人物は10人以内(詳細は123ページ)。

・売れなければ話にならない。手にとってもらえるようにタイトルを工夫する。

・読者は主人公になりかわっていろいろな出来事を疑似体験したいのである。
そのために必要なことは――。
「視点の固定」「共感をよぶ心理描写」「時系列の遵守」「情報の効果的提示」。

・人物と人物を新しく知り合わすと描写に手間取る。はじめから友人という設定にすべき。
同様、人物を新しい環境に投げ込まない。いつものところで動かす。
以上は物語の停滞を防ぐため。物事がぽんぽん起こらないと読者は退屈する。

・5W1H(いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どのように)を小説の冒頭で、
可能なかぎり速やかに読者のあたまに植えこまなくてはならない。
「作家養成講座」(若桜木虔/KKベストセラ-ズ)

→エンターテイメント小説の指南書。
著者はライトノベルやミステリーを多数出版している。
出版業界の厳しさを教えられる。作家というのは個人事業主で、
いかに編集者とうまくわたりあうかが食っていく秘訣だという。
どのくらいの頻度で編集者に関心を持ってもらえる企画をだせるか。
書けといわれたら期日のあいだに書き終えられるか。
編集者から直しを命じられたとき、うまく改善できるか。
若桜木虔によると、作家は営業職なみの社交性が必要なようである。
とても自分には無理だと読後だいぶ打ちのめされた。
文学の世界では、人生苦が文章の深みにつながるといったような定見(錯覚?)がある。
もっというなら、小説はいかに生きるかを問うべし、という態度のことである。
こういった人間観が著者にはまったく欠如しているのが、
かえっていかにもエンターテイメント作家らしくて新鮮だった。
自分にはとてもエンターテイメント小説はむずかしくて書けないだろうと絶望する。
若桜木(わかさき)先生の教えから――。

「体験がなければ書けないのであれば、
大多数のミステリー作家は殺人事件を扱った物語を書けないことになる。
体験のなさを想像で膨らませることによって、
現実よりも迫真性に富んだ物語にすることも可能なのである。
いや、体験がないが故に、
体験がある作家よりもかえって面白い作品に仕上げられる例も多々ある」(P107)

「万に一つも体験できる可能性がないからこそ、読者は物語にのめり込む。
実社会では「非現実的」であっても、
物語の虚構の世界では一貫した統一性の下に寸分の狂いもなく構築されているかぎり、
「現実的」なのである」(P186)
「文章心得帳」(鶴見俊輔/潮文庫)絶版

→桑原武夫はよい文章の理想を、いわば外向性に見たわけである。
文章が外部へ向けて働きかける。そういった文章を是としている。
鶴見俊輔は文章の内向性に着目する。

「文章を書くことは他人に対して自分が何かを言うという、
ここで始まるものではない。
実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、
文章が自分の考えをつくる。自分の考えを可能にする。
だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書くとすれば、
それがいい文章です」(P23)


みなさまも経験があると思うが、文章は書いているうちにわかってくることがある。
書き始めたときは思いもよらなかった方向に筆が進んでしまう。
言葉が言葉を呼ぶことがある。このことを鶴見俊輔は言っているのだと思う。
日記というものは公開を前提としない。
だから、桑原武夫の言にしたがえば日記が名文になるはずがない。
ところが、日記文学という言葉があるくらいで、日記からも名文が生まれうる。
この理由を鶴見俊輔は説明しているのである。もう少し引いてみよう。

「それでは私にとって、文章がうまいというのはどういうことか。
言葉をたくさん知っていて、むつかしい言葉をたくさん使うからというのではないし、
紋切型を巧みに使うということでもありません。
究極的にいい文章というのは、重大な問題を抱えてあがいているというか、
そのあがきをよく伝えているのが、いい文章なのではないかと思います。
きれいに割り切れているというものは、かならずしもいい文章ではないのです」(P58)


まったく同意見である。わたしも文豪のいかにもな美文は嫌い。
苦しみのなかから答えを求めてうめいている文章を名文だと思う。
柳美里の初期のエッセイはどれだけ美しかったか。
こんな苦しんでいるひとがいるのかと思った。そこが、美しかった。
宮本輝も若いころはあがきにあがいていた。
かの作家の文章がどのくらい多くの読者の琴線に触れたか。

「言語表現法講義」で加藤典洋が指摘していたが、
本書は数ある文章読本のなかで唯一「文間文法」について論じている。
「文間文法」とはひとつの文章から、つぎの文章へどこまで飛べるか、である。
飛躍の距離は、意味の隔たりを意味する。
読み手は、意外なほど意味の飛躍に耐えられる。
それどころかむしろ飛躍は快感にもなりうる。意外性の快楽である。
なんとか実例をあげようとさきほどからあたまをひねっているがろくなアイディアが出ない。
酒でものみはじめるか(←へたくそな飛躍の具体例)。
「文章作法」(桑原武夫/潮文庫)絶版

→桑原武夫は文章の理想をこのように定義している。

「文章の理想というのは、その文章によって外界が
――恋文であれば好きな人の心ですが――ともかく、
自分以外の人間または物が何ほどか変化する。
それが大切なのではないか、というふうな気がします」(P23)


言葉の重さを熟知する学者の言葉である。
人間は言葉によって外界を変えていくことができる。
たとえばいい小説を読んだとする。その日、1日気分がよかった。ひとに親切もした。
このとき小説家は外界を変えたといえるのかもしれない。

桑原武夫は名文の例として、自分の書いた文章を提示するのだが(P41,53,86)、
その勇気は賞賛されるべきとしても、文章自体は決してよいものとは思えない。
自分の書いた文章がどのようにいいか解説する桑原武夫には辟易した。
本書の後半は、しろうとの書いた文章の添削である。
というのも、本書はしろうと向けの文章講座を書籍化したもの。
この添削もあまり興味を引かなかった。原因は文章に向きあう姿勢にあると思う。
この文章講座の受講者は毎回お題を与えられて作文を書く。
こういった文章がおもしろくなるはずがないのである。
重要なのは自発か強制か、というところにあるのではないか。
テーマを与えられて書かされた文章がおもしろくなる可能性は低い。
書かざるをえない文章がひとの心を打つのである。外界を変えるちからを持つ。
本書に掲載されたしろうとの文章例を読みながら嘆息した。
書きたいことがないのなら書かなくてもいいのではないかと思った。

井上ひさしがかつて文章講座でだしたお題はこうである。
「いま悩んでいること」を書いてください。
桑原武夫と井上ひさし。学者と実作者の相違である。どちらが深いかは言うまでもない。
「蜘蛛の巣 ユージーン・オニール一幕劇集」(山吉張・須賀昭代:監訳/京都修学社)

→ユージン・オニールの一幕劇がすべて収録されている。
オニールはアメリカ演劇の父にして、ノーベル賞作家だが、最近は忘れられて久しい。
テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーを
はるかに凌駕する力量を持った劇作家なのに残念でならない。
この著作は奇蹟といってもよい。というのも、去年の3月に出版された新刊なのだ。
甲南女子大学大学院の秀才が集い10年ものときをかけて出版にこぎつけた大作である。
定価は7140円だが完売しても採算などまったく取れないと思う。
このような書物は昨今濫造されるベストセラーとは段違いの価値を持つ。
読みながら甲南女子大学大学院の研究者への感謝で胸があふれた。
原文で読めやしないくせに、生意気にも
わたしは日本でいちばんのユージン・オニール愛好者だと思っているのだ。
「本の山」のカテゴリー「ユージン・オニール」は、
この劇作家の根源に迫りえているという自負がある。
ひまがあればぜひともお読みいただきたい。
自身も今回かつての記事を再読してあらためてこの劇作家への思慕を募らせた。

オニールの初期の劇作は海洋を舞台にしたものが多い。
これはこの劇作家自身の経験による。
オニールは青年時代、船乗りをしながら世界各地を放浪していた。
いまの時代のような安全な航海ではない。つねに危険のつきまとうものであった。
青年オニールは、航海に劇的なるものを発見したと思われる。
航海とは、過程である。出航してから目的地にたどり着くまでが航海。
船夫はたえず海と向き合っていなければならない。海が荒れれば船は沈没してしまう。
いつなんどきでも死と隣り合わせというこの極限状況は、
まさしくオニール劇の特徴である。
人間が生まれ死ぬのはあたかも航海のようだと青年オニールは思ったのかもしれぬ。

オニール劇は死を背景とした生の横溢(おういつ)である。
横溢であって、断じて生の賛歌などではない。
ならば、オニールにとって生とはなにか? 苦しみである。
人間はおよそ自由意志とは無縁なところで、望みもしない環境に誕生させられる。
人間である限り、だれもが欲望を持つ。だが、この欲望がかなえられることは少ない。
なぜならば、他者がいるからである。自分以外にも、欲望の主体たる人間がいるからだ。
人間が欲望に従い行動すると、かならず他者の欲望と衝突する。
したがって、かれの欲望は満足することが少ない。思うがままにならぬ。
この状態を「苦」と定義したのが仏教の開祖ゴーダマ・ブッダであったが、
キリスト教徒のユージン・オニールはこの「苦」を劇として描くのである。
ブッダは「苦」を消滅させるためには、
煩悩(ぼんのう)という名の欲望を断つことだと説いた。
いっぽうでユージン・オニールは欲望という炎(ほむら)にガソリンをそそぐ。
人間の「苦」を描くことが劇であるという信念に基づく。
人間はままならぬ。だが、欲望は壁を突き破らんとする。
壁の向こう側にいるのはもうひとりの人間である。
欲望と欲望の衝突こそ人間苦の最たるものであり、またこれ以外に劇などあるものか。
オニールの鋭い眼光は「人間・この劇的なるもの」の本質を看破している。
この劇作家の強い人間不信、異常なまでの悲観論的世界観を忌むものも少なくない。
だが、わたしにとっては、とても懐かしいものに思われる。

20編収録されている一幕劇のなかから「蜘蛛の巣」に注目したい。
これはユージン・オニールの処女作と目されるもの。
子持ちの娼婦、ローズは肺を病んでいる。
いくら売春をして稼いでもヒモのスティーブにカネを巻き上げられてしまう。
ローズの唯一の生きがいは、赤ん坊である。
だが、赤子のいる部屋で春をひさぐわけにはいかない。
ヒモのスティーブは赤子を取り上げて孤児院へ送り込もうとする。
ここに描かれているのは、どうしようもない陰鬱な絶望である。
娼婦のローズはもはや真っ当な仕事につくことはできない。
何度か女中の職を求めたこともあったが、決まって娼婦の過去がばれてクビになった。
いまは赤子もおり、できることといったら売春しかない。
ところが、いくら体も売ってもカネは貯まらない。スティーブに持っていかれてしまう。
これを拒むことができない理由がある。
街娼をしているローズが検挙されないのは、
スティーブが警察にワイロを支払っているためなのである。
ローズはもうにっちもさっちも行かない。
この日も赤子の処遇をめぐってローズはスティーブから殴られていた。

これを止めに入ったのが隣室に住むティムである。かれはスティーブをのしてしまう。
ローズの人生にはじめて希望のようなものが生まれたのはこのときである。
ふたりはその場で恋に落ちる。ティムは大金を持っていた。
驚くローズにティムは重大な告白をする。実は金庫破りの常習犯で指名手配されている。
ティムはローズに大金をわたす。いまは逃げるが、いつか再会しようというのである。
このおカネで人生をやり直そう。がんばればかならず人生をやりなおすことができるさ!
社会の最底辺でうごめくふたりの苦悩者があたたかな希望につつまれた瞬間である。
だが、これも長くは続かない。警察の追っ手が迫ってきている。
屋根裏から逃げようとする指名手配犯人のティムを、戻ってきたスティーブが射殺する。
拳銃をその場に打ち捨てスティーブは逃げていく。
ここに警察官が入ってくるのである。ローズは大金を持っている。
そのまえにはティムの死体。ローズはティムを殺害した罪で連行される。
この娼婦は生きがいだった赤子とこうして引き離されたわけである。
なんとも救いのない暗澹(あんたん)たる劇である。

金庫破りのティムのせりふから引用する。
街娼のローズはいままでの悲惨な半生をティムに告白する。
この金庫破りはいたく同情する。じぶんもおなじような人生を送ってきたからである。

「聞いてくれよ! まっとうな暮らしをしようたって、そうはいかないって言ってたね
――実を言うと、俺も同じ目に遭ってるんだ。
子どものころ、盗みを働いたというんで少年院送りになったんだ。
でも本当はやっていない。年上の不良仲間に加わってたんだが、
自分でも何やってるのか分かっちゃいなかった。
奴らは俺を身代わりに仕立てたのさ。
俺は少年院でいっぱしの悪に育っちまった。
シャバに出たときゃ、まっとうな人間になろうと努力もしたし、
仕事だってちゃんと続けようとしたよ。だけど少年院にいたことがばれたとたんに首。
あんたの場合と同じさ。で、また盗みを働いたー―飢え死にしないためにね。
取っ捕まって、今度は五年間の豚箱行きってわけさ。それで諦めた。
所詮無駄だって分かっちまった。
再び出所すると俺は金庫破りの一味に入って、手口を教わった
――それ以来ずっと金庫破りさ。人生の大半は刑務所(ムショ)暮らしだった。
だが、今は自由の身だよ」(P381)


ティムは脱獄したのである。ようやく運命の女とも思えるローズに逢う。
だが、それも束の間、射殺されてしまう。ローズも冤罪で服役である。
このユージン・オニール処女作のタイトルに留意したい。「蜘蛛の巣」である。
たしかに人間は蝶のように美しい。蝶のように自由に大空を飛べると夢想する。
ところが、この人間という蝶は、蝶は蝶でも「蜘蛛の巣」にからめとられているのである。
いくら飛翔を夢見ようが決して飛び立てぬ美しい蝶々たち――。
青年劇作家ユージン・オニールの目に映じた人間のすがたである。

(追記)劇の構造は「ふたつにひとつ」であると何度も指摘してきたが、
この一幕劇集においても具体例を挙げていきたい。
「霧」で漂流者は救助船を呼ぶか呼ばぬかの「ふたつにひとつ」を迫られる。
「鯨油」でキーニー船長は妻への愛か大漁かの「ふたつにひとつ」に直面。
「無謀」でボールドウィン夫人は財産か愛情かの「ふたつにひとつ」に煩悶。
「ドリーミー・キッド」でドリーミーは逃亡か祖母の看病か「ふたつにひとつ」で迷う。
人間は「蜘蛛の巣」にとらえられた蝶のような存在である。
だが、蝶は飛躍せんとする。欲望があるからである。
このとき別の蝶の存在に気がつく。この蝶もまた「蜘蛛の巣」の囚人である。
ある蝶が飛び立つためには別の蝶を踏み台にしなければならないときがかならず生じる。
このとき人間という蝶のまえに「ふたつにひとつ」が現前するのである。
蝶は大空での自由な飛翔を夢見ながらどちらかひとつを選択・実行する――。
これはオニール劇のみならず、劇全般の骨組みともいえよう。