繰り返しになるが、本はもういらないのである。
いまうちにある本を読むだけでも何年かかるかわからない。
だのに、なにゆえ本を買おうとするのか。
この日、行ったのは「リブロ池袋本店春の古本まつり」。
19日、来週の火曜日までやっている。
古本デビューするには最適の環境なので、
なにかのきっかけにしていただけたら書き手としてこれほどうれしいことはない。

おそらくなにごとにも相性というものがあるのだろう。
池袋リブロの古本まつりは、これまで何度も行っているが、決まって収穫がある。
いっぽうで何度行こうがだめな古書市というのもあるのだが(銀座は嫌い)。
いい本を安く買うというのはたまらない快楽である。
人間は裏切るが、人間の書いた本は決して裏切らない。
人間は日々変化する。1年前とおなじでいるわけにはいかない。
だが、かれの書いた本ならば1年前のままなのである。
書籍の魅力である。読書の無益もこのことが関係する。人間は変わる。書物は変わらない。

リブロ3Fの特別催事場へ。あこぎな古本世界とは相反する上品さに目がくらみそうになる。
とある棚のまえで立ちどまる。死を思う。
だれかが死んで遺族が蔵書を放出したとしか思えない。
本キチガイならわかるであろう一貫性を有する西洋文学書籍が並んでいる。

「オレアナ」(デビット・マメット/酒井洋子訳/劇書房)絶版 400円

米国戯曲。死者は演劇にも興味があったのかとうれしくなる。
「オレアナ」は探していた絶版本である。
いぜん1000円で見かけたが、買わなかった。定価は1400円。
待てば400円で買えるのである。
さあて、演劇関係があるのならば、この近辺の棚は落ち着いて見なければと思う。
すると、かつて探していた本が激安で売られているではないか。

「ラシーヌ戯曲全集ⅠⅡ」(人文書院)絶版 1050円

昭和39年に出版されたラシーヌの全集である。
ラシーヌは、コルネイユ、モリエールとならび評されるフランスの古典劇作家。
現存する作品は12。そのうち読んでいるのは3つである。
作品自体は筑摩書房の「世界古典文学全集48」(鈴木力衛編)を持っている。
ここに全作品が収録されている。
けれども、どうしてもこの2冊完結の全集がほしくなる。
翻訳が筑摩書房のものよりも新しい。活字が大きいのも読みやすい。
しかし、とためらう。買っても読まないのではないか。
ラシーヌの代表作はすでに読んでいる。
全作品を読みたいと思うほど影響を受けた作家ではない。
迷う。わたしは知っている。この2冊は貴重な本なのである。

ビニールカバーにくるまれている。きれいな帯までついている。
こうまで美品のラシーヌ全集が1050円というのはいけない。
せんじつめれば、これが購入理由かもしれない。
買ったのち、ビニールカバーをはずしてみると、思いのほか状態がいい。
とても45年前に出版されたものだとは思えなかった。

やはり池袋リブロとは相性がいい。
もう本はいらないといっているのに、本のほうからよってくるのだから。
ためしに「もう女はいらん」なんていってみようかしらん(笑)。

「’90年鑑代表シナリオ集」(シナリオ作家協会編/映人社)絶版 600円

1990年に上映された映像作品のシナリオを収録したものである。
もしやと思い、目次を調べる。歓喜する。こいつはついているぜ!
篠田正浩監督「少年時代」シナリオが収録されている。
この映画のシナリオが山田太一なのである。
山田太一は、めったに原作のあるもののシナリオは書かない。
映画とも距離を置いている。
そんな山田太一の手なる稀有な映画シナリオがこの「少年時代」なのである。
600円という価格がうれしい。定価は2800円。
収録作品数の10を考えるとやむをえない金額なのだろう。
だが、わたしの読みたいのは「少年時代」のみ。
1000円だったら躊躇したかもしれない。
600円という値付けをした古書店のどれほどセンスがいいことか。

映画「少年時代」はむかしテレビで見たことがある。
むろん、いまでも難なくレンタルビデオで借りられるのだろう。
しかし、わたしは読みたいのである。映像になるまえのシナリオを読みたい。
「’90年鑑代表シナリオ集」をカゴに入れる。
今日はなんて運のいい日なのかと身震いがとまらなかった。
持って生まれたものと関係しているのかもしれない。
やたらとひとから話しかけられるのである。見ず知らずのひとから話しかけられる。
といっても、キャッチセールスからは声をかけられない。
若い女性から逆ナンパされたことは一度もない。
そこいらのおじさん、おばさんからひんぱんに話しかけられるのである。
意識したことはないが、温厚な顔なのかもしれない。
耳のひとなのだと思う。目も鼻も口も頭も悪い。悪くないのは耳だけである。

ここ1週間でもだいぶ話しかけられた。
土手を歩いていたらおばさんから声をかけられる。あそこに布団が落ちているというのだ。
見てみると、たしかに土手の斜面に布団一式が置かれている。
「あそこで寝ていたんでしょうかね?」
おばさんに聞いてもわかるはずはないのだが。
「盗んできたのよ。私は毎日、ここを通るからわかるの。
いろんなものが捨てられているのよ。ぜんぶ盗んできたものだと思う」
いっときなど女性ものの下着が大量に捨てられていたこともあったという。
「こわいわねえ」とひそひそ声でいわれる。
「はあ」とあいまいな笑みを浮かべる。

電車でとなりに座っているひとに話しかけられることもある。
気づくと向こうが話していた。こちらが聞いていた。スーツすがたのおじさんである。
左足が麻痺して動かないという。「神経がやられてしまってね」
こういうことはなれているので「はい、はい」と合いの手を入れ傾聴する。
降りる駅までかれの闘病生活を聞くはめになった。
嫌いではないのである。話すのは苦手だが、聞くのをいやだと思うことはほとんどない。
たとえ愚痴だろうが、話を聞くのはさして苦痛ではない。
とはいえ、聞き上手だなどと思い上がってはいない。
いいことをしているというつもりもない。
のぞき見をしているような恥ずかしさを感じることもある。

ある立ち飲み屋でとなりのおじさんから話しかけられた。
平日だがラフな格好をしていた。自営業者なのかなと思った。
「そのカンパチおいしいでしょう」
「ええ」と答える。
おじさんもカンパチを食べている。
なんのことはない。カンパチを注文したのは、
このおじさんの食べかたがあまりにうまそうだったからである。
そのむねを伝えると、うれしそうに笑った。この店の常連なのだという。
いつしか話しこむ。いや、わたしは話さない。聞き役に徹する。
年齢を問われ答えると、このおじさんの息子さんとたいしてかわらないらしい。

息子さんは32歳。足の骨のガンで、2年前に余命5年と医者から宣告された。
もう歩くことができないので車椅子生活。それでも高校教師をつづけている。
教えているのは国語。往復の通勤は、父親のかれが車で送迎しているという。
いま息子さんを自宅まで送りとどけた。ちょいと一杯と思い、近所の立ち飲み屋へ。
話を聞きながらいろいろなことを考えた。
いうまでもなく、考えたことを話したりはしない。できるのは聞くことのみとわかっている。
32歳といったら、わたしとそうかわらないではないか。
そうか、30を超えると人間はいつガンになってもおかしくないのか。
しかし、わからないものである。
満ち足りた顔で酒をのんでいる、こんなどこにでもいそうなおじさんだというのに。
息子さんの余命は、医師の宣告にしたがえばのこり3年ということになる。
あと3年しか生きられないのに、なんで高校教師などしているのだろう。
遊んだらいいじゃないか。
思い直す。いざあと3年となったら、
なにかをのこしたい、教えたいと思うものなのかもしれない。

おじさんの携帯が鳴り、会話が途切れた。
急ぎの用ができたそうで、あわてて店を出て行った。
「じゃあ、また。へんな話をしてごめんね」
のこされたわたしはもう1本ビールをたのみゆっくりのんだ。
あの顔はいいとあらためて思う。カンパチを口に入れたときに見せた顔である。
最後のひと切れを口に放りこみ、真似をしてみた。
それからグラスのビールをのみほす。あのような顔はまだまだ遠いものだと思う。
最近、これはやばいと危惧していることがある。
ウソだろうと笑われそうだが、ほんとうなのである。
ルサンチマンが、うん? どういえばいいのだろう。
ルサンチマンが、減るというのか。弱まるというのがただしいのか。
消えてはいないのである。けれども、以前に比べたらだいぶ小さくなっている。
よくない。よどんだ鬱積は表現の熱源と思うとき、これはたいへんよくない。

2年前、三浦しをんが直木賞を取ったときは苦しかったものである。
この作家はわたしとおない年。早稲田の一文出身というのもおなじ。
めらめらめそめそした記憶がある。
ところが、なのだ。先ごろ芥川賞を受賞した川上未映子も昭和51年生まれ。
おどろくほど、平気なのである。まいらない。
きれいなひとだな。こういうひとを才色兼備っていうんだろうか。
なんて、のほほんとしている。才能のある人間はうらやましいと思うが、
それはマイナスの感情をともなわないおだやかな感嘆に過ぎない。
「平成の樋口一葉」とうたわれた川上未映子の広告写真をみる。
いまが彼女の人生でいちばん楽しいときなんだろうなとなんだかほほえましくなる。

いったいわたしはどうしてしまったのだろう。
死期がせまっているのではないかと不安になるくらいである。
ルサンチマンの減退のみならず、
もっとよくないのはこのごろおかしなものが心中に芽生えているのだ。
希望である。春がすぐそこまで来ているような希望をもちはじめている。
ふしぎなのは、どこからこの希望が生まれたのかさっぱりわからないことである。
まるで根拠というものがない希望だ。
年齢的にも健康的にも経済的にも、どこからも希望など生まれるはずはない。
にもかかわらず、このところ希望というほかない肯定的な感情をいだいている。

いっときの迷いならいいのだが、これが続くとなると心配である。
むかしのわたしに戻りたい。
バレンタインデーに出刃包丁片手に渋谷を疾走したいと熱望したあのころがなつかしい。
むろん、今年もチョコなどひとつももらっていない。
そのくせテレビに映る幸せいっぱいのカップルをみながらニコニコしているのである。