「東京居酒屋探訪」(大道珠貴/講談社)

→好きな作家は決まって低学歴である(いま不適切な発言がありました、謝罪します)。
山本周五郎、中上健次、宮本輝、柳美里、大道珠貴、西村賢太――。
低学歴作家の魅力はインテリなら死んでも言えないような実感のある言葉である。
学問ちゅうのは建前なんだということを、尊敬する低学歴作家たちから幾度教えられたか。
そのたびにかなわないなと思う。大学なんて行かなければよかったと思うくらいである。
本書の初出は、芥川賞作家が講談社の編集者と居酒屋めぐりをするという文芸誌の企画。
ある有名な居酒屋で、こういうことがあったという。
呑み屋を経営する夫婦が、客が講談社の社員と知り、しゃしゃりでて来る。

「おばさんは、なんかよくわからんが本を出してほしいらしく、
来る客で出版社の人がいると、今までだした自分の本を見せているんだそう。
まだ出したいのか。一冊で充分じゃない。
大将も、なんとかとかいう俳号で、料理に通じる俳句を載せていた。
ふむふむと私たち、まわし読み。
こういうとき、私は、同行者たちにちょっぴりホの字だ。
職業柄だろうが、実にやさしい。ちゃんと読んでいる。興味を示している。
人の書くものにはまったく興味がない私は、
ほう、とか、へえ、とか言いつつまるで読んでいない。
頭にてんで入ってないのだ。
こういう態度は、学生時代から。
いかにも聞いていそうなふりをして、まったく聞いていない。
うなずいたり、唇をかんで難しそうな顔をしたり、
顎(あご)に手をあてて深く瞑想したりして見せながら、熟年先生の股間の中、
今日は右寄りだとか左寄りだとかを想像していたっけ」(P91)


あたかも野良犬のような自由奔放さである。
いまさらなにをしたところで太刀打ちできないと絶望するほかない。
文章をさしだされたら、へへえ、と読んでしまうような意気地のなさがわたしにはある。
大道珠貴のようには、とてもいかない。
この育ちの悪さ、学のなさが、大道珠貴の魅力である。
この作家のこういうところが好きなのである。

もう一箇所、本書から引用したい。大道珠貴はひとを顔で判断する。
この企画で、著者は毎月編集者と居酒屋で顔をつきあわせる。
ふしぎなのは顔だと大道は書いている。

「この集団、見事にかしこそうな美男美女。こんなことも珍しい。
編集者にブスもブオトコもいないのはなぜ(あ、ブオトコはまれにいるか)。
(中略) なんていうかなあ、四十年近く生きてくると、見えちゃいますね。
きれいだと性格もいいし、でしゃばらなくても、しあわせが降ってきている。
恵まれているからますますきれいに光り輝く。
きれいじゃないと、ひがみが容姿にあらわれている。
性格も悪い。直りそうもない。見ているだけで不愉快。
私は人間全体にあまり近づかないようにしているが、
特にきれいじゃないともう全然近づかない。
人生、限られているもん、それならなるべくきれいなものを見て過ごしたい。
きれいの基準は人それぞれなんて言ってられん。
きれいなのは誰が見てもきれい」(P119)


なにをしたってこの芥川賞作家にはかなわないと平伏する。
なまじ大学なんて出ていると、どうしても人間は見た目ではないと思ってしまう。
なんの学問的根拠もなしに、こうもおのれの美感を打ちだせる大道珠貴――。
おそろしい才能だといわざるをえない。
この天才作家をドキュンだの低能だのと愚弄する高学歴は、
おそらく人間というものをわかっていないのではあるまいか。
「おいしい中国屋台」(浜井幸子/情報センター出版局)絶版

→わたしはペシミストの自殺志願者なのだが(笑)、
それでも人生に楽しいことはいくつかあると思っている。
そのひとつが異国の屋台である。
屋台限定というわけではなく、
地元の人間が集まる店といったほうが正しいのかもしれない。
言葉もおぼつかない異国で、
にもかかわらず、勇気をだしてにぎわっている店(屋台)へ入る。
注文方法もわからないから、近くのひとの食べているものを指さす。
このときの緊張感がたまらなく楽しい。
人生にこんな楽しいことがほかにあるのかと思うほどである。
店のひとも、こちらが外国人だと知り、いささかの緊張が走る。

世界各地、ほとんどのところで酒はのまれている。
危険なのはわかっているが、あえて地酒にチャレンジする。
とはいえこれも、あれをくれとのんでいるひとを指さすしかない。
名前も知らぬ大衆食を食べながらあやしげな地酒をのむのがどれほど楽しいか。
そのうち地元の飲兵衛から声がかかる。
片言の現地語と英語でコミュニケーションをはかる。
かれとは今日ここに来なければ逢わなかったことを思うと、
この世の神秘に打たれる思いもする。
けれども、酒をのんでいるうちに、そんなむずかしいことはどうでもよくなる。
酔いの昂揚から外国人と意思の疎通ができたような錯覚にとらわれる。
さかずきをかさねる。人間が、生きていることが、とても愛おしくなる。
世の中にこんなぜいたくな酒とつまみはないのではないかと思うのはこのときである。

本書「おいしい中国屋台」の著者、浜井幸子さんは、酒こそのまないものの、
いま書いているような旅の愉楽を、屋台の歓喜を、解明せんとした偉大な冒険家である。
「お金は銀行に預けるな」(勝間和代/光文社新書)

→ひさびさになまぐさい本を読んでみたら、たいへん刺激的だった。
愛も幸福もおカネで買えると悟ったならば(いっときの錯覚だろうが)、
そのとき哲学や文学の無意味がわかるのかもしれない。
本書を読んでからしばらくのあいだ、経済ニュースがおもしろくてたまらなくなった。
わたし程度の人間にも理解できるのだから、
このベストセラーが良書であることは疑いない。
本書の主張をひと言でまとめれば、投資をしよう! である(=お金は銀行に預けるな)。
著者の売りは、経済学を大学院で学んだプロであるということらしい。
本書はばくち打ちが書いたもうけ話ではなく、
学術的根拠のある金融講座だというのである。
無学なわたしは、学問と聞いただけでいずまいを正してしまう。
勝間和代先生の学問的主張を引用する。

「金融で儲けるためには、労働で儲けるのと同じくらい、
あるいはそれ以上の勉強と努力が必要だということは理解しておいてください」(P47)


日本人は無宗教だといわれるが「努力教」がこうもすみずみまで浸透していることに驚く。
学問的にも、努力がたいせつだそうである(笑)。
勉強も必要。勉強したから勝間先生は偉いという理屈ですね。
お勉強の結果を教えていただこうではありませんか。

「私は、資本主義というものは、厳しいいい方をすれば
「賢くない人から賢い人へお金が流れるしくみ」だと思っています」(P125)


なるほど。賢い勝間先生へは、さぞお金が流れているのでしょう。
勝間先生自身はどのような資産運用をなさっているのでしょうか?
本書のどこにも書かれていませんが。手の内を明かさないとは、たしかに賢い。

「ただ、リスクが高いというのは、
リターンのばらつきが大きいといおう意味でもあります。
したがって、そのようなポートフォリオを作ると、
ジェットコースターのような値動きに一喜一憂しなければならないため、
精神衛生上の観点からもあまりお勧めできません」(P184)


正直、いままで先生のことをバカにしていたが、ここでようやく賢さに気づく。
いや、ここまで心の問題が無視されてきたということはよほど鈍いのもしれぬ。
もう学問はわからん。直球勝負、勝間先生の生きかたを知りたいと思う。

「つまり、私たちは、資本主義との関わりにおいて、
これまでのような受け身的な姿勢でいると、老後に受け取る年金は乏しくなる上、
これまで述べてきたように所得格差も開いていく一方になる事態を
招くことになりかねないのです。
なぜなら、これまでの金融資産のあり方――蓄財のために住宅をローンで買う、
若死にするリスクに対しては生命保険でカバーする、
老後は公的年金でカバーする――といったようなモデルでは、
もう自分を守りきれなくなるなるからです」(P208)


ここでポカーンとしたのはわたしだけでしょうか。
さらりととんでもないことが書いてある。
「若死にするリスクに対しては生命保険でカバーする」
これはいったいなんでしょうか。もちろん意味はわかる。
著者は3人の子どもがいる母親。
自分が若死にしても、生命保険で子どもにおカネを残せるということだろう。
だが、こんなかるがるしく自分の死というものを片づけてしまっていいのだろうか。
若死にするリスクって、人生はおカネがすべてかい?
こんな青臭いことを思うわたしは、やはり文学青年なのだと思う。
どうしても、こういうドライな人生観にくみすことができない。

おカネの話に戻ろう。本書で勉強した結果はこうである。
「お金は銀行に預けるな」を読んで、おカネは銀行に預けておくのがいちばんだと思った。
なぜならおカネを増やそうと思ったら、著者のように勉強しなければならない。
この勉強がしたくないのである。労働とまるでかわりないではないか。
さらに投資にはリスクがつきまとう。つまり、目減りする可能性があるということだ。
人間だれにも先のことはわからない。未来を言い当てられる人間などいない。
ならば、確実な投資などあるわけがないではないか。
結局は、投資も運任せなのである。
そのくせもうけた人間は、自分には先見の明があった、努力して勉強した結果などと誇る。
投資の不確実性は、人生の不明に通じる。
人生すらわからないのに、どうして投資などできようか。
時間をかけて勉強して、その結果、投資で失敗したらこんな悲惨なことはない。
また、投資は日々の市場の上下に一喜一憂しなければならない。
これはひどく心の平安を阻害するものである。
投資なんてしたら、毎日、不安にさいなまれることになる。
以上のことを考慮に入れると、さほど増えないにしても、
決して減らない銀行預金がいちばんよろしいのではありませんか。
ニュースでどきどきすることもない。結果の保証されない努力も勉強も必要ない。
投資なんてするものではないというのが本書を読んだ結論である。
(いまは10万円もあればFXでそうとう投機ができるらしい。
ちょっと興味を持ったのも事実です)
「ユングと共時性」(イラ・プロゴフ/河合隼雄・河合幹雄訳/創元社)

→共時性(シンクロニシティともいう)はとても危険な思想である。
一にも二にもそのことを忘れてはいけないと思う。
共時性なんてことを真剣に考えるようになると、狂気へひた走るしかないのかもしれない。
共時性とはユングの提唱した概念で、意味のある偶然の一致のこと。
たとえば精神分裂病(統合失調症)の患者さんは、この共時性を過剰に認知してしまう。
身のまわりのことすべてが意味のあることに見えてしまう。
あらゆることに意味のつながりを見てしまい、
運命だの世界がわかっただのとおかしなことを言い始める。
タイのグリーンカレーを昼食に食べた日に、緑さんという女性と知り合ったとする。
これを運命だ。ふたりは運命の赤い糸(緑の糸?)で結ばれていたんだ!
こういうふうに思い込み猪突猛進するのが共時性の悪い面である。
「あれ、なんだろうこの偶然。なんかあるのかな」程度に思うのがいいと思う。

共時性の反対に位置するものの見方が因果律である。
例をあげるなら、子どもが公園で遊んでいて遊具に指をはさみ切断してしまったとする。
因果律で考えると、これは遊具が悪い、公園の管理が悪いということになる。
まえにこのような事件があって、
公園から特定の遊具が取りのぞかれたことをご記憶のかたも多いでしょう。
マスコミのひとはだれも言わなかったけれども、
視聴者のなかでこの事件をこう考えたひとは少なくないと思う。
それが常識というものだとわたしなんかは思ってしまうのだが。
すなわち、指を切断した児童は運が悪かったのではないか。
それはもうどうしようもないことで、公園の管理うんぬんの問題ではないのではないか。

因果律で生きていると息づまるわけである。
努力したから成功する。ならば成功していないものは努力していない。
そうだとすれば、成功していないものは人間として劣っている。
いまはこういうガチガチの因果律思考が世の中をおおっている。
このような閉塞的な状況でやりきれないとき、
共時性というのをあたまに入れておくとかなり楽になるという面があると思う。
共時性にのめりこむのではなく、
因果律からもれるものにも目を配ることで生きやすくなることもあると思うのである。
共時性が提示する人生観はこうである。

人生は偶然に左右される。

このとき偶然ってなんだろうと考えていくのが共時性である。
偶然は別名を運ともいう。なんだか運がいい日というのはあるでしょう。
なにをやってもうまくいかない日というものもある。
これは因果律では説明がつかない。共時性へのとびらなのかもしれない。
人間の運命というものは、偶然が重なって形づくられるものである。
そのとき、どれだけ意味のある偶然を見つけられるかというのは生きかたの問題になる。
あまり偶然が見えすぎるのもいけない。
かといって、偶然を単なる偶然と片づけてしまうのもよくない。
ここに共時性のむずかしさとおもしろさがあると思う。

河合隼雄の解説から引用する。

「われわれ心理療法家のもとに訪れる方の多くは、
「不可能と思われる課題に直面」していると思われる状態にある。
そのような人がしばしば自殺を企図されるのも、
無理からぬことと感じられるのである。
その人に接するわれわれも別に妙案があるわけではない。
言うなれば、われわれの唯一頼りとするのは、「希望すること」である。
解決の道はないと本人が思い、周囲の人もそう思い込んでいるときに、
心理療法家の、解決を希望し続ける態度が支えとなり、
そこに「奇跡」つまり共時的現象が生じて、
思いがけない解決の道が見えてくるのである。(中略)
因果的思考のみに頼っていると、まったく解決不能と思えるようなことでも、
共時的事象の存在を前提とすることによって、
そこに何らかの希望を見出せるということは、素晴らしいことである。
私は心理療法家としてこのような考えに支えられて、
誰もが見離すような人たちにお会いしてきたと思っている」(P202)


雑誌「考える人」の河合隼雄追悼特集を立ち読みしていたら、
小川洋子との対談で氏はこんなことを語っていた。
カウンセリングをしていると、信じられないような偶然がひんぱんに起こる。
発表してもだれも信じてくれないような偶然がぽんぽん生じる。
クライアントがカウンセリングルームを出たら
1億円が落ちていたというような偶然もめずらしくない。
こういう偶然を通して人間が治っていくことに深い感動をおぼえると仰せだった。
日本ウソツキクラブ会長を自称する河合隼雄のこの発言は
もしかしたらウソいつわりなき正真正銘の真実なのかもしれない。
「中国古典紀行2 唐詩の旅」(監修:陳舜臣/講談社)絶版

→漢詩って、なんか男らしくねえか?
いまはどこも女が強いだろう。男なんて女からすっかり見くだされている。
女ごときに品定めされ、男はといえば女のご機嫌取りに終始しなければならない。
ここで中国文学だと思ったのだ~よ! それも詩がいい。
漢詩というのはぜったいにメスが入ってこれない聖域ではないかと思う。
でんとあぐらをかき、一升瓶から茶碗に酒をそそぎ、ぐいとひと息でのみほす。
それから、キッとまえをにらみつけながら、おもむろに漢詩文を野太い声で朗誦する。

くうう、男の世界だぜ!

比べて西洋文学というのはいけねえ。あれは女子供のためのもの。
お洒落なバーかなんかでランボーの詩を口ずさむひ弱な男なんざ、殴らなければいかん。
女に媚びるのもいいかげんにしろと怒鳴りつけたい。
男なら東洋文学だろうが、おまいら!
シャネルだのグッチだのポストモダンだのジェンダーだの、
カタカナのなんとしまりのないことか。
仁愛、忠義、忍耐、薔薇、南無阿弥陀仏。漢字のどれだけ重々しいことか。
日本語には浮ついたカタカナと重量感あふれる漢字がある。
いまはかなしいがカタカナ(=女)の時代である。
なんとかして少しでも漢字(=男)を復権させなければならない。
いまわたしが漢詩にこだわっているゆえんである。そこんとこ夜露死苦たのむな!

朗誦用の漢詩を引用しておく。
これを憶えたら、なにおれだって、おい、なかなかのもんだぜ。
惚れるなよ、女郎(めろう)ども!

「幽州台に登る歌」

前に古人を見ず
後に来者(らいしゃ)を見ず
天地の悠々たるを念(おも)い
独り愴然として涕(なみだ)下(なが)る


(おれのまえに道はねえ 
ふりかえるがだれもいねえ
どでかいじゃないか天よ地よ 
これは涙ではない汗だ  訳Yonda?)

「客中の作」李白

蘭陵(らんりょう)の美酒 鬱金香(うっこんこう)
玉碗に盛り来たる琥珀(こはく)の光
但だ主人をして能(よ)く客を酔わしむれば
知らず何(いず)れの処か是れ他郷


(地酒はうめえぜこの香り
おっとっとこぼれちまうよ酒が光が
注がれればいくらだってのむよ
今日からここがおれのふるさとだ  訳Yonda?)
「中国の思想」(溝口雄三/放送大学教育振興会)絶版

→放送大学のテキストだから期待していたが、さっぱりわからなかった。
わからない本はどうするか。読まないという手がある。
しかし、なんだかもったいないような気もする。わたしもそう思うひとりである。
ならどうするかというと、速読するのである。
意外に思われるかもしれないが、わからない本ほど速読に適している。
(わかりやすい本はじっくり読むに限る)
一定のスピードで眼を右から左へ動かす。
なにをしているかというと、意味がわかる一文を探すためである。
わかった文章をつなぎあわせたら、それが理解したということである。
わからない本を熟読するのはバカバカしいと思っている。

本書の前半のテーマは、日中の漢字の意味の相違。
「天」「理」「自然」「公」といった語は中国思想を理解するうえで重要なキーワードだが、
おなじ漢字文化圏という安心感から、
いままでこれらの語の中国語的文脈が鑑みられることはなかった。
本書は中国世界から「天」「理」「自然」「公」といった用語の理解を深めていく。
というのが前半で、後半からはがらりと内容をかえ、
近世以降の中国思想潮流を人名をあげながらだらだらと羅列する。
本書に誤まりはないのであろう。けれども、さっぱり意味がわからない。
原因は溝口雄三の文章力があまりにも低いからである。
学者はただしい文章を書けばいいと思っているのだからあきれてしまう。
溝口の文体は眠気をさそう。
「Aは~~をしており、Bは~~をしており、Cは~~をしました」。
えんえんとこれが続くのである。悪文の見本をさらして、終わることにする。

「結局、朱子は王安石と同じく皇帝制中央集権の官僚国家体制を志向しながら、
その官僚制の末端には地主層の権益を認めた郷村共同体を設定しており、
王安石がそういった郷村共同体に顧慮しなかったのと、はっきり異なるのであり、
新法・旧法の対立の根底にはこのような路線上の対立が横たわっていた」(P88)


なんのこっちゃ(苦笑)。
「中国古典散歩」(駒田信二=編/文春文庫)絶版

→本書の構成はエッセイと解説からなる。
12人の文学者が、めいめい思い入れのある中国古典について気ままに語る。
直後に中国文学者の駒田信二が、それぞれの作品の解説をするという仕組み。
もういい年なのでいまさら中国古典を逐一しらみつぶしに読破していくのは不可能。
こういった軽めの一般書籍でアンテナにひっかかる古典を探すしかない。
もし見つかれば、その古典のみ重点的に読み込もうと思っている。
もとより、世界の古典を読破するなど無理なのである。
安易な一般書にたよる姿勢をどうかお許しください。

通読したがとくに気になった中国古典はなし。
ひとつ困ったのは、みなさま引用するときに、書き下し文のままのこと。
むかしは学校教育で論語の素読をやっていたらしいから当たり前なのかもしれないが、
わたしの受けた程度の漢文教育では書き下し文のままだと意味が取れない。
現代語訳がないため意味不明な箇所がいくつもあった。

「史記」に書かれているという呂后と戚夫人のエピソードがおもしろかった。
カッコ内の記述はわかりやすくするため筆者が補記しました。

「(権力をにぎった)呂后が(生前)高祖の愛姫だった(美しい)戚夫人の
手足を断ち切り、眼球をくりぬき、耳をくすべて聾(つんぼ)にし、
瘖薬(いんやく)を飲ませて唖(おし)にし、
便所の中に置いて「人彘(ひとぶた)」と名づけたこと、
それを見せられた(呂后の息子の)恵帝が、
「これは人間のすることではありません。わたしは太后(ははうえ)の子として、
とても天下を治めることはできません」といって泣き、
そのために病気になって一年あまりも起きることができなかったということは、
「呂后本紀」によって広く人に知られている話だが、
呂后のような冷酷な非人間性を持った女が、
それによって絶対者になり得たということに司馬遷は人間の歴史を見たのである。
「人間のすることではないこと」をするのは人間なのである。
「非人間性」も人間性にほかならないのである。
司馬遷は現実的な峻厳な姿勢と冷徹な眼で、人間の歴史をとらえていこうとする」(P34)
「中国文学入門」(吉川幸次郎/講談社学術文庫)

→薄い本ながら1冊で中国文学全体の俯瞰図(ふかんず)が得られる。
むかしの大学者はこういったわかりやすく、
かつおもしろい入門書を書いてくれるので助かる(池田亀鑑の「日本古典入門」もそう)。
本書で知りえた知識をまとめてみる。
現在の学説からは否定されているものもあるかもしれないが、
一般読者にとってそんなことはたいした問題ではない。

中国文学の特徴は以下の3点である。
・ノンフィクションを重んじる。虚構を軽んじる風潮がある。
・文学は政治と密接な関係をもつ。政治に参与しようと思ったら文学は不可欠。
・恋愛よりも友情を尊ぶ傾向がある。

さらに付加するならば、中国文学は詩文の歴史が長い。
8世紀になって韓愈(かんゆ)が登場することで、
ようやく散文に価値が見いだされるようになる。
といっても、韓愈の書いたのは実際に起こったことのみ(ノンフィクション)。
中国文学において虚構がはじめて登場するのは13世紀、
元の時代の戯曲をもってである。
もっとも元代に隆盛した演劇は知識人に評価されたわけではない。
一般大衆に支持された演劇は、幻想的なものではなく、
やはり中国的というべきか、現実的・叙事的・庶民的なものであった。
これと関係することだが、中国に古代ギリシアのような荒唐無稽な神話は存在しない。
中国人にとって人を救う神という超越的な存在は考えられなかった。
この結果、生みだされたのが聖人という観念である。
聖人は神ではなく、人の延長線上に位置する。中国人は神のかわりに聖人を待望した。
中国文学史をかんたんにまとめると以下のようになる。

詩経(無名人による日常賛歌)
 ↓
楚辞(感情的な激しさを有する=抒情詩の高まり)
 ↓
五言詩(定型の完成)
 ↓
陶淵明(自然賛美。詩作の対象が人間から自然へ)
 ↓
李白・杜甫(中国詩の最盛期)
 ↓
白居易(白楽天ともいう。日本王朝文学への影響大)
 ↓
韓愈(散文のはじまり)
 ↓
戯曲(虚構のはじまり。市民階級に愛された)
 ↓
「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」(小説のはじまり。町人文学)
 ↓
魯迅(ろじん)の文学革命

本書で杜甫の魅力を教えられた。もとより、いまだに杜甫をいいとは思わない。
ただ、広く杜甫が詩聖とあがめられている理由を了解したということである。
杜甫には、有名な、子どもを亡くしたときの詩がある。
その詩のどこがいい(と一般的に思われている)のか。
杜甫が最愛の子を亡くした悲嘆を述べるにとどまらず、
自分よりもさらに苦労している貧民がいることに思いを馳せているからである。
なるほど、いかにも道徳的というか教科書的というか。
たとえは悪いが、不幸な健常者が障害者の苦労を思いやるようなものである。
杜甫のそのような箇所がすばらしいと評価されているようである。
もうひとつ、杜甫には有名な詩がある。
嵐に遭遇して自宅が崩壊したときのことを描いた詩である。
このとき杜甫は夜半、雨にぬれながら、ある夢想をしている。
大きな家があったらいいのに、というのである。
そこに貧しい人が集まりみんなで幸福に住める、
そんな家があったらいいのに、と杜甫は詩で嘆く。
もしそのような施設ができるのであれば、自分などは死んでもいいとうたっている。
無学なわたしなどは、なにを甘ったれた絵空事をいっているのだと思うが、
世界の文学愛好家はこういった杜甫の人類愛に感銘を受けるものらしい。
本書のおかげで、杜甫がどうしてああも名声を勝ち得ているのか理解することができた。