「何がなんでも作家になりたい!」(鈴木輝一郎/河出書房新社)

→このような実用書を欲していたのである。
ぶっちゃけ、作家って、どーなのよ、という本。
いくら作家だって税金払わなくちゃなんないでしょう。おカネが肝心。そこんとこ、どーよ?
切実なタイトルにふさわしい内容にいたく感動する。
小説作法はかなり読んできたつもりだが、税金対策に触れられていたのは本書が初。
たいへん勉強になった。小説家は税法上では漁業の分類に入るとのこと。
年々売上の異なる業種として判断される。
したがって過去5年の所得を平均して課税されるとのこと。
文庫化や重版の収入は不労所得と見なされ税率が上がるらしい。
確定申告のためには領収書の収集・保存がもっとも重要。
業界のルールも教えられる。フカスことがポイントだという。
腰が低いと舐められるから、どんな相手にも強気の姿勢でいくべし!
出版社にとって作家は商品にほかならない。
この事実を認められないものは職業作家になれないという。

「誰かにあなたの心の叫びを聞いてもらう手段として小説を選ぶのならば、
職業小説家を目指すべきではありません」(P131)


「ぼくを含めて、小説家を指向する人は、資質的に、夢見がちで社会性に乏しく、
享楽的です。くどいようでも重要なので何度でも書きます。
小説家の世界はユートピアではありません。
職業特性として『人間関係が楽』『達成感が圧倒的』であるだけです。
遊び気分でなれる人がいるのは事実ですが、あなたが天才である確率は、
そうでない確率よりはるかに低いことを忘れずに」(P158)
「オレアナ」(デビット・マメット/酒井洋子訳/劇書房)絶版

→戯曲。アメリカ産。初演は92年だから新しい演劇といってもよい。
ここで問題にしたいのは、演劇に新しいという宣伝文句をつけることの無意味。
「オレアナ」の新しさは、
ディスコミュニケーション(和製英語で相互不理解の意)とフェミニズムのようだ。
かつて人間と神々の関係を問うことから演劇は誕生したが(ギリシア劇)、
近代社会が成長するにしたがい劇は人間と人間の関係を描くように変化した。
現代においては、人間と人間の関係は描かれ尽くされたといえよう。
この地点から世界は不条理演劇へ傾斜したわけである。
だが、アメリカ劇界はリアリズム演劇の歴史を長く持つ。
くわえて不条理演劇とて、いまさら目新しいものではない。
かくしてディスコミュニケーションがテーマになるわけである。
なるほど新しいのだろう。だが、これを観て楽しめる観客などいるのだろうか。

登場人物ふたりのリアリズム劇である。大学教員のジョンと女子大生のキャロル。
ジョンは教授昇進が目前で浮き足立っている。
非常に学力の低い大学生のキャロルがジョンをたずねて研究室に来ている。
キャロルは単位がほしいのである。
自宅購入も目前にした有頂天のジョンは正直、キャロルに構っていられない。
学生は先生の教科書を読んだけれどもわからないと訴える。
教育学を専門とするジョンは噛み砕いて教えようとするがキャロルは理解できない。
好人物のジョンは学歴および大学教育の無意味をも主張するが、
これまたあたまの悪いキャロルには理解できないことである。
したがって会話は成立しないのである。
そのうえ作者のデビット・マメットはリアリズムを重んじ、会話を現実に似せる。
たとえば、電車内の見知らぬ他人同士の会話を聞いていてもなかなか理解できない。
おなじことを劇場でやろうとしたわけである。
なにゆえか。新しいからである。新しい演劇は認められなければならない。
終始、相互の理解のともなわないまま第一幕は終了する。

第二幕はジョンとキャロルの立場が逆転しているのである。
なぜならキャロルはあるグループに入れ知恵されてジョンを大学に訴えたからである。
たしかに第一幕の最後でジョンはキャロルの肩に触れた。
性交渉のたとえを用いて学歴問題を論じた。
これをセクシャルハラスメントとしてキャロルは大学に訴えたのである。
このためジョンの教授昇進もふいである。なんとか撤回してもらいたいと呼びだした。
だが、またもや会話が成立することがない。
第一幕とは反対に、今度はジョンがキャロルの主張を理解できない。
噛み合わない会話がえんえんとつづき退屈だが、これは芸術だから構わない(苦笑)。
第三幕においても教員と学生が理解しあうことはない。
最後が衝撃的だという評判だが、なんのことはない。
ぶち切れたジョンがキャロルを殴り蹴飛ばすのである。
「さおたけがあろうがおまえのマンコなんかつつかねえよ!」と叫びながら。
キャロルは答える「それでよし(That's right!)」。
この結末はフェミニストから非難が集中したという。

男女間の闘争、立場の逆転というテーマから比較すると、
本作品はストリンドベリ「令嬢ジュリー」の1/10ほどのおもしろみもない。
だが、スクールハラスメントやセクシャルハラスメントのような現代的テーマゆえ、
新しいという評判を勝ち得たのだろう。
日本でも上演されたが検索すると寝ている観客もいたとのことである。
おそらくわたしも観客席にいたら寝ていただろう。調べたらチケット代金は7千円だったが。
「宗教と科学の接点」(河合隼雄/岩波書店)絶版 *再読

→8年ぶりに河合隼雄に関心をいだいている。
といっても、関心のレベルはだいぶ異なる。
8年前は河合隼雄からがんばって学び、現状を打破しようとしていた。
ところが、いまはすっかりあきらめている。もう現実は徹底的にどうしようもない。
諦念のただなかで河合隼雄のデタラメがとても懐かしく思い出されるのである。
ユング派の心理学者、河合隼雄の言説は、おそらくインチキである。
そして、いまのわたしは学問的真実などよりよほどいかがわしいホラ話に好感を持つ。

本書を再読して、ふたつ感興をもよおしたところがあるので紹介したい。
ユング心理学では人間の意識を浅いほうから3段階にわける。
意識、個人的無意識、集合的無意識である。
意識とは我われが通常の生活で用いている領域のこと。
個人的無意識とは、フロイトの発見したいわゆる無意識のこと。
フロイトはここに抑圧した性欲が蓄積され神経症の原因になると考えた。
かつてはフロイトの弟子だったユングの新しさは、さらに深い無意識を想定したことにある。
これが個人的無意識の下層に位置する(とされる)集合的無意識である。
この集合的無意識において人類はみなつながっているとユングは指摘する。
世界各地で同型の神話が採取されるのは、この集合的無意識のためだという。
テレパシーや夢のお告げが生じるのも集合的無意識の存在ゆえ。

A:意識
B:個人的無意識
C:集合的無意識


専門というには程遠いが、わたしは劇にも関心を寄せている。
劇は、おもに人間の欲望の対立である。欲望と欲望の相克(そうこく)が劇の実相だ。
人間の欲望はユング心理学で考えるとAの意識の領域から発生する。
だが、劇中では対立する人間でさえ(ユングにいわせると)
C の集合的無意識で相通じている。
このC の領域が、あるいは劇の完成において大きな役割を果しているのではないか。
まるで学問的根拠もない(そもそもユングは学問ではなくオカルトだが)思いつきである。

話を移す。
ネイチャー(nature)という言葉の扱いに河合隼雄は東西思想の相違を見る。
西洋においてネイチャーとはアート(art)、すなわち人工に対する自然であった。
日本人はこのネイチャーの訳語に自然を用いることにしたが、
古来、日本および中国においては、この自然にもうひとつの意味があった。
「おのずから然(しか)る」という意味での自然である。
ユングは東洋思想に興味を持ったが、東洋の宗教思想は自然がカギになるのではないか。
河合隼雄の指摘である。
西洋は自然を人間の支配化におくことで科学を発達させてきた。
科学は、因果関係が根本にある学問領域である。
この因果律のみではかなわぬとユングは東洋思想に接近する。
結果、共時性という概念を生みだすにいたる。
共時性は意味のある偶然。因果律によらないものごとの生起基準である。
整理すると、因果律は「原因→結果」、共時性は「自然=おのずから然る」となる。
この整理は、河合隼雄の飛躍のさらに上をゆくわたしの果敢なジャンプだ(笑)。
もとより河合隼雄はインチキ扱いされることも少なくないから、
ここでわたしがさらにトンデモない方向へ突き進んだとしてもさして問題ではあるまい。

西洋科学=因果律=「原因→結果」
東洋思想=共時性=「自然(おのずから然る)」


河合隼雄は版画家の棟方志功を例に挙げる。
美術評論家の柳宗悦が、この版画家をつぎのように評していたという。
「棟方の仕事には『作る』という性質より『生れる』という性質のほうが濃い」
ここに河合隼雄は、東洋における自然の作用を見るのである。
最終章で河合は、みずからの専門領域、心理療法についてこんな説明をする。
心理療法は患者を「治す」わけではない。患者はだれもが自己治癒力を持つ。
心理療法家は患者が「治る」お手伝いをするだけだという。
そのとき心理療法家にとって重要なのは、人為を加えず自然にまかせること。

芸術=「作る」(人為)と「生れる」(自然)
治療=「治す」(人為)と「治る」(自然)


人為が有効なのは、そこに因果関係があるときのみである。
では、いっぽうの自然にまかせるときはなにに留意すればいいか。
河合隼雄はコンステレーション(布置)という言葉を持ちだす。
コンステレーションとは、たとえば夜空における星座のような全体の見取り図のこと。
因果律を超越した宇宙的視野のことである。
コンステレーションに配慮するとき、意味のある偶然が見やすくなる。
この偶然によって事態の改善を望もうというのが河合隼雄の心理療法である。

考えるに、子作りという言葉はあるが、どこまで先端医学が進もうとも、
子どもは作られるものではなく、生れてくるものでしかない。
ならば、なにゆえ、我われは芸術作品を個人が創作可能であると考えるのか。
芸術も子どもとおなじように自然に生れてくるものとは考えられぬか。
この考えにはだいぶ慰められた。インチキ学問の効用である。

(追記)本日「本の山」カテゴリーに新しく「河合隼雄」を加えた。
以前の調査だが、うちのブログは河合隼雄に複雑な感情を抱いているかたの訪問も多い。
「一握の砂・悲しき玩具」(石川啄木/新潮文庫)

→26歳で早世した石川啄木、晩年の歌である。

「何か一つ騒ぎを起こしてみたかりし、
  先刻(さっき)の我を
  いとしと思へる。」


この歌が啄木の短い生涯を象徴していたように思えてならない。
かれの年譜を見たとき、落ち着きのなさにいらだったものである。
ひとつのことをやり通すということがない。いつもここではないどこかを求めている。
理由は、容易に理解できる。自分が正当に評価されていないと思っていたのだろう。
石川啄木のすさまじい自己愛にわたしはかれの天才を見る。
そう自己愛というのは才能なのである。どれくらい自分を愛せるか。
他人という他人をバカにしきった啄木の顔写真は尋常ではない輝きを放つ。
文学者は人間を知らねばならぬ。
ところが、人間は自分という身を通してしか人間を知ることができないのである。
このとき自己愛は表現者の武器になるというわけだ。

「一度でも我に頭を下げさせし
 人みな死ねと
 いのりてしこと」


キャハハ、わかるわかる、である。
だが、このように啄木に共感してしまう読者は実のところよくない。
いつ啄木のような自己愛者(いまは自己愛性人格障害という)
からカモにされるかわからないからである。
他人を傷つけても平気でいられる能力、これもまた才能なのである。
他人にめいわくをかけても気にしない図太さも同様。
啄木の歌はいい。けれども、啄木のような人間には注意が必要だ。
かといって、愛読者を危険視しろというわけではない。
むしろ啄木ファンは、感情豊かで協調性に富む人間が多いと思われる。
注意しなければならないのは、啄木を知っている人間だ。啄木の危険を、だ。
人間が人間を知るためにはどのような方法があるのか。
もう賢明な読み手諸氏は、だれに気をつけたらいいかおわかりでしょう。
「老人と海」(ヘミングウェイ/福田恆存訳/新潮文庫)

→老人と海の物語である。
老人がひとり小船で海へくりだすのは、漁をするためである。
この日まで老人は84日間ものあいだ1匹も魚が釣れていないかった。
老人は見たこともないほど巨大なカジキマグロと遭遇し、
2日にもわたる挌闘のすえ勝利する。
だが、帰港するまでの航程で獲物をサメにぜんぶ食べられてしまう。
ストーリーといえばこれだけで、残りはみな描写である。

あたまの弱い老人の狂人めいたあきらめの悪さに身震いした。
これがアメリカなのかとぞっとした。
とにかく、あきらめないのである。がんばれ、がんばれとおのれを叱咤する。

「おれは死ぬまで闘ってやるぞ」 (P106)

結果、なにもかも失ってしまう。命のみたずさえて帰還するのである。
ヘミングウェイはギャンブラーだったらしいが、
この「老人と海」において作者は実に巧みに賭博者の心理を描きこんでいると思う。
84日間の不漁、つまり運が悪いのである。いや、と逆転の発想をする。
今度こそ、つきがまわってくるのではないか。
案の定、ひとりでは獲れないほど大きい魚と遭遇する。
ここであきらめていればよかったのである。
だが、ギャンブラーは一発逆転などとおかしなことを考える。
あらゆる犠牲(=身体的苦痛)をものともしないで、大物にのみ照準を合わせる。
捕獲したときの感動は、競馬で大穴を当てたときの喜びとおなじである。
おれは運をつかんだ(未来を見通した)。人間の(神への)勝利をうたいあげる瞬間である。

「いいことってものは長続きしないもんだ」(P92)

獲物をねらってサメが近寄ってくる。
ここで老人が漁獲をあきらめていたら、その後危険に遭うこともなかったのである。
だが、例によってこの低知能な老人はあきらめようとしない。
あきらめたら負けなんだ。人間は最後の最後まで闘いつづけなければならぬ。
これはどれだけ負けつづけても賭けをやめない異常者の心理にほかならぬ。
老人はなんの収穫もなく、そのうえ身心ぼろぼろの状態で航海を終えることになる。

「老人の海」の感想としてよくあるのが、「艱難に負けない老人の勇気に感動した」。
おいおい、と肩をたたきたくなる。道徳の教科書じゃないんだぜ。
わたしの感想はこうである。「ギャンブルって楽しそうじゃん」
一攫千金を夢見ながら賭けて賭けて賭けつづけるほど楽しいことはないのではないか。
「丁か半か」ふたつにひとつである。どちらになるかは賭けてみるまでわからない。
全財産を失うまで負けたことにはならない。
たとえ完全敗北しようとも、ある達成感が賭博者には残るのである。
「おれは神と向き合った」という満足感のことである。
このようにギャンブルを推奨する「老人と海」は、
断じて健全な青少年に読ませてはならないと思った。

(教訓)がんばっても報われない。
が、あきらめないでがんばっていると人間を超えるものと向き合うことができるかもしれない。
まあ、どちらにせよ負けるんだけどね(笑)。
がんばっているうちにドツボにはまる展開は「オイディプス王」と似ていなくもない。
「藍より青く・上下」(山田太一/中央公論社)絶版

→昭和47年のNHK連続テレビ小説。本作はこのテレビドラマの小説版。
シナリオを手がけた山田太一が自らの手で小説に仕上げた。
執筆時、山田太一は37歳。31歳でフリーのシナリオライターになった著者が、
全力をあげて固有の世界観を打ちだしているところに注目したい。
この記事ではあらすじを追うにとどめる。
物語を紹介しながら山田太一ドラマのキーワードにスポットをあてていきたいが、
果たしてうまくゆくか自信がない。

昭和18年の天草で物語は開幕する。才媛の少女、真紀がこのドラマの主人公。
同村の周一と恋に落ちるが、校長をしている父親から猛烈な反対にあう。
というのも、周一は徴兵をまぢかにひかえる青年。もうすぐ戦地におもむく身なのである。
いま結婚してしまったら1年足らずの新婚生活を味わうのみで、
夫と別れなければならない。
戦死する可能性もある。そうしたらば、真紀ははやばやと未亡人になってしまう。
父親が娘の結婚に猛反対する理由である。
時空を超えた地点からこのドラマを俯瞰するとき、恋愛の障害になっているものは運命だ。
戦争というのは、個々人のちからではどうにもならない運命のひとつ。
父親は娘の熱意に負け結婚を許可する。喜ぶ真紀とその妹。喜ぶ周一とその朋友。
父親としては、人生を知らぬ浅はかな娘から裏切られたような哀しみが残る。
とはいえ、娘の喜ぶすがたを見ると、これでよかったのかとも思う。
山田太一の描くものは運命にほんろうされる人間の喜びと哀しみである。
お嫁に行く日、真紀は父に別れを告げる。その席上にいたものはみなみな涙する。

周一の家に嫁いだ真紀は、嫁姑のあつれきに遭遇する。
日常のくだらぬ細部が、いかに人間にとって骨折りか。山田は日常をぞんぶんに描写する。
真紀は、周一との別れ、出産、周一の戦死、を経験する。
父親からしたら、ほら見たことか、である。だが、人間だれしも先のことがわからない。
そのときの判断で人間は行為を選択(ふたつにひとつ!)してゆくしかないのである。
人間の劇的なる行動を物語に変質せしめるのは時間である。
真紀は息子の周太郎と実家に戻る。父親はまだ若い娘をけしかける。
子どもを置いて島を出たらどうか――。

「この土地におったら、真紀の一生は見当がつく。
せめて、真紀だけは見当のつかん人生を、歩かせてみたかつよ」(P337)


福岡に出た真紀は、職場で情熱的な寡婦・睦子に出逢う。
一緒に東京へ行かないか、と真紀を誘うのである。
このまま福岡にいてもなんにもならない。
なら、いっそのこと東京へ行ってしまったらどうだろうか。むろん、不安はある。
けれども、ひとりではない、ふたりならば、ふたりでがんばれば。
山田ドラマの人物は「かくある」すがたを自覚しながら、「かくありたい」と夢想する。
ふたりで東京へ向かう日、駅で睦子は東京行きを断わる。
死んだと思っていた夫が、よりによってこの日、復員してきたのである。
ご都合主義とも思えるこの種の偶然は物語にはなくてはならぬものである。

東京で闇米のかつぎ屋からスタートした真紀は、
おなじような境遇の独身女性を仲間にして、ラーメン屋を開業するまでこぎつける。
4ヶ月ぶりに真紀と周太郎の母子が東京で再会するシーンは読者の涙を誘う。
まず母親から捨てられたと思っていた周太郎が泣く。
真紀も泣く。真紀の父親も妹も泣く。
みんなを泣かせるというのは、山田太一がひんぱんに用いるドラマ手法である。
喜びで泣くもの。哀しみで泣くもの。もらい泣きするもの。
どうしようもない巨大なちからに、微々たる人間はあらがうことなどできぬ。
どうしてこうなったのかわからないが、いまこうである。人間は泣くしかない。
山田太一は運命に立ち向かう英雄ではなく、運命に泣かされる庶民を描く作家なのである。

周太郎を引き取り、ラーメン屋で日々働きながら真紀は思う。
自分の人生はこれで終わりなのだろうか。もうすぐ20代も終わろうとしている。
味気ないじゃないか。味気ない。これも山田ドラマに頻出する形容詞だ。
味気ないから人間は、生きている味わいを求める。たとえば、恋のようなものを。
真紀に正式に求婚する男性も現われる。
事業家ではぶりがよい。だが、3人の子どもがいる。
ふたつにひとつである。求婚に応じるか、こばむか。
向こうの家に入ったら周太郎が苦労するのは目に見えている。
息子を取るか再婚を取るか。
どちらを選択するかで大きく人生が変わるのである。
しかし、片方を選んでしまったら、残りの選択肢の行く末を知ることは決してできない。
これが劇的なるものの本質であり、また、この劇的行為の連なりが物語となってゆく。
真紀は再婚をあきらめ、息子と仕事のために生きる決意をする。
ここに真紀の青春が終わったのである。

時は経ち、いまや周太郎は、戦死した周一とおなじ年齢になろうとしている。
周太郎は優秀で国立大学の法学部に所属している。
のちのちは官僚になろうという身。
真紀は仲間と別れ、新宿で中華料理屋を営業している。まあ成功者である。
父親を天草から引き取っている。楽ではないが平安な日常を送っている。
ところが、息子の周太郎が大学を中退すると言い始めたのである。
かつて真紀は父親の反対を押し切って周一と結婚した。
その真紀が息子の周太郎から裏切られるのである。
真紀は「見当のつかない人生」にあこがれて東京へ出てきた。
周太郎もまた「見当のつかない人生」を望んでいるという。
山田ドラマに特徴的な青臭いせりふを抜粋してみよう。周太郎はいう。

「(大学を)やめてなにをやりたいって、お母さん言ったね? 
そうなんだ。やめたいと思って、じゃなにをやりたいんだって考えたら、
なにがやりたいんだかわからないんだ。なんにもやりたいことなんかないんだ。
それは、ぼくが受験勉強みたいなことばかりしてたからじゃないかね?
自分の気持をおさえて、やりたいことをあんまりやらなかったせいじゃないかね?
だから、なにをやりたいのかわからないほど、
自分がなくなっちゃったんじゃないかね?」(P294)


もはや娘ならぬ母親の真紀はおとなの見識をもってこう反論する。

「周太郎。お母さんもね、この頃そんなことを言う人がいるのを知ってる。
新聞なんかでも読むことがある。
サラリーマンは見当がついているとか、エスカレーターだとか。
でも、そんなこと決してないのよ。
勤めてみればそんな簡単なもんじゃないことは、よくわかるはずよ。
あなたは官庁に勤めることが、見当のついた人生だと言ったけど、
そんなことはない。その中で生きてみれば、

そりゃあ、努力もいるし、運もいるし、

やりがいももちろんあるのよ。
ひと口に、毎日通って五十五で定年でと言えば、
わかってしまった人生のように思えるかもしれん。
でも、そんなことを言えば、人間の人生なんて、誰てちゃ見当がついとる。

生れて、年をとって、死ぬだけたい。

だからて、見当がついたから、生きとるのをやめようと何人の人が思うかしら?
見当などつかないのよ。
見当がついたと思うのは、お母さん、とんでもない思い上がりだと思う」(P291)


周太郎は2年間の休学ののち、復学することなくやはり退学するという。
メキシコでエビ漁をする会社に親には無断で就職したのである。
真紀は周太郎のために再婚を断念して仕事に専念してきたのだが、
その息子は母親を捨てて遠く離れたメキシコへ行ってしまうというのである。
真紀は過去を回想する。かつて自分は父親の期待を裏切って嫁いだ。
いま息子が自分を裏切ってメキシコへ行こうとしている。
「藍より青く」である。青は藍より出でて藍より青し。子は親から出でて親よりも――。
だが、断じて子どもは赤にはならないのである。藍より出でて赤くなることはない。
子は親を裏切るが、親の影響から離れることはない。
山田太一は「藍より青く」というタイトルに上のような意味を込めたとあとがきで書いている。
ドラマの終幕はサイパン旅行である。
真紀と周太郎が、周一の戦死したと目されるサイパン島へおもむく。
昭和42年。真紀と周一が恋に落ちてから24年が経っていた。
「老イテマスマス耄碌」(対談:吉行淳之介・山口瞳/新潮社)絶版

→最晩年の文士ふたりによる対談。
ここまで脱力した対談は読んだことがないので、逆に新鮮だった。
この対談が行なわれたのは両者ともに亡くなる直前である。
なんの生産的な話題も出てこない。
老いた文士の生活雑感はまったく噛み合うということがない。
ボケ老人のひとり言をふたりぶん収録したようなものである。
むろん、文学とはなんぞや、なんていうテーマは出ない。
生きるとは、もない。目前に迫った死を語ることもない。
どちらの老人もむかしを懐かしみ、現在の不如意(主に病気)を愚痴るのみ。
この非生産性が、酒をのみながら読むのにとても適していた。
対話はこんな感じである。ひとコマを抜き出してみる。

吉行「僕は、国民年金はないんだ」
山口「払ってないんでしょう」
吉行「払ってない」
山口「それは駄目。払ってない人は駄目。
だいいち、芸術院会員が年金がないなんて言っちゃいけない」
吉行「しまったなあと思ってる。こんなに生きるとは、全然思わなかったから」
山口「七十になるとバスが無料になるでしょ」
吉行「六十五じゃない?」(以下えんえんと内容のない会話が継続する。P144)


おもしろいのは飛躍である。年金の話から、突然バスに話題が移る。
吉行淳之介もなんなくこの転換についてゆく。
老人ならではのトボケぶりがたまらない。
内容のまったくない本がこうもおもしろいとは思わなかった。
日々実益ばかり追い求めているせいかもしれないと反省する。
「バカのための読書術」(小谷野敦/ちくま新書)

→知ってる、知ってる? 
うちのブログ、あっちゃん(小谷野先生)からコメントをいただいたことがあるんだ。
いきなり学歴の話をされて、ほんものだと身震いしたものである。
ちなみに柳美里のブログは読んでいないが、あっちゃん先生のは毎日拝読している。
容赦のない他者攻撃など影響を(たぶん悪影響)受けた部分も少なくない。

本書は小谷野敦先生の読書論。むろん、初読のわけがない。
数年前、書店で立ち読みして多大な影響を受けた。
買うつもりだったのだが、読み始めたらおもしろくて、うっかりその場で読了してしまった。
あまりにもおもしろい本というのは、損をすることがある。
再度読みたいと思っていたが、一度読み終えたものを買うのは気乗りしない。
ブックオフ105円ゲットを待っていたのだけれども、
小谷野先生のご著作は「もてない男」以外ほとんどブックオフには出回らない。
今回、やっとのことで入手、再読したしだいである。

あらためて良書であることを確認。
この読書論のすばらしさは「わからない」にこだわっているところである。
わからないものには毅然としてわからないという小谷野先生の姿勢に感銘を受けた。
「おもしろい」ものを希求する態度も好ましい。
わからなくてつまらない本をもてはやす学界への強烈な異議申し立てである。
2ちゃんねるでよく言われていることだが、氏は評論家評論の達人である。
小説評論は理が勝ちすぎていまいち。
かたい本格評論も氏のユーモアセンスが生かせない。
評論家を評論するとき、小谷野敦の筆はもっとも冴え渡るように思う。
なんにせよ、いまいちばん動向が気になる論客である。
「過敏性腸症候群はここまで治る」(伊藤克人/主婦と生活社)

→今年に入ってから、どうもヘソの下あたりが痛い。
思い当たるのは酒しかない。
もう通常の人間が一生のうちにのむ酒量の倍は体内に摂取しているはずである。
いつ死んでもいいと思うがゆえの過剰飲酒である。
死んでもいいけど、あのねボク、痛いのはいやなの(かわいく)。
酒をやめたら痛みがとれるかと禁酒日を多くした。
しかーし、痛みは取れない。そろそろ寿命か、なんて思ったり。
お医者さんに告白。「ボク、お腹イタイイタイでちゅ。肝臓でしょうか?」
笑われてしまった。肝臓はもの言わぬ臓器。
肝臓が痛むというのは医学的にありえないらしい。

ようやくこの本の出番である。
なーんだ、腹痛も過敏性腸症候群の症状に入ってるじゃん!
過敏性腸症候群は日本人の15%が罹患。
便通の異常である。便秘と下痢にわかれる。心理的なストレスが原因とされている。
わたしはこれへの対策としてずっと整腸剤(ビオフェルミン)を処方されている。
もう半年以上も服用しているが一切効果がないのでお医者さんへゴーなのだ!
「やっぱりお腹イタイイタイでちゅ。ボク、ご本を読んだんです」
本書のことである。
するとマイドクターも、やれやれ仕方がないか、といった感じで、
オピオイド作動薬(セレキノン)を処方してくれる。
のみつづけて今日が10日目。ちょっとは効いているのかな、くらい。
完全に腹痛がなくなったわけではない。
以上、どうでもいい闘病記、お読みくださりありがとうございマッスル、マッスル♪
「心理療法個人授業」(河合隼雄・南伸坊/新潮文庫)

→思えば、定期的に河合隼雄のライトエッセイを読むようになった。
癒されるわけさ。がんばればなんでもできるなんて言わない。
運命の存在をはっきりと肯定している。
多数の苦悩者と対面してきた河合隼雄がそう言っていると思うとこころが安らぐ。
あの河合先生が言ってるんだぜ。がんばったって、どうしようもねえって。
あの河合先生が言ってるんだぜ。どうしようもねえ運命というものは、ぜったいあるんだ。
河合隼雄の心理学なんてウソ八百のインチキだと大学の先生は言うかもしれない。
インチキでなにが悪いか。ウソを信じるのがなぜいけないのか。
「あ~、これシンクロニシティかも♪」なんて楽しみながら生きていきたい。
「論語 生き方のヒント」(ひろさちや/日本経済出版社)

→宗教ライターひろさちや先生のペテン術は人間国宝レベルである。
仏教の本でも、キリスト教の本でも、この論語の紹介でも先生はおなじ主張をしている。
ひろさちやには確固とした自分の考えがあるのである。
しかし、それはあまりにも非常識なので
小心者の先生は聖書、仏典、論語を持ち出してくる。
ほうら、これら聖典にも書いてあるじゃないか、という戦法である。

本書も、ところどころにある、ひろさちやならではの味わいが絶妙であった。
論語の紹介書のくせに、専門領域外だから間違えるのが怖いのか、
しきりに仏教の話をする。
ひろ先生くらいのレベルになったら仏典も論語も一緒くたにしていいのである(笑)。
わたしはひろさちやのファンである。
おそらくかれの宗教エッセイは学問的に見たら誤りだらけなのだろう。
だが、それでもいいではないか、と愛読者としては開き直りたいのだ。
太古のむかしから現代まで多くの人間が宗教に救われてきた。
かれら庶民のどれほどが正確に聖典を理解していたというのだろう。
どのみち、信仰とは誤解で成り立っているのである。
ならば、ひろさちやのような存在は否定されるべきではない。
本書で大笑いしたのは、ひろさちやが孔子を否定しているところ(114ページ)。
論語を反面教師にしよう、なんて書いてある。
ひろ先生はついに孔子を超えたかと腹を抱えて笑った。
「プロの小説家になる 作家養成塾」(若桜木虔/KKベストセラーズ)

→本書を読んで自分がなぜ小説を書けないのかよくわかった。
この小説作法の売りは、プロ寸前の小説が全文掲載されていること。
上段はプロ一歩手前の小説、下段が若桜木虔のダメだしという構成である。

これまでかなり難解な小説論や文学論にも目を通してきたが、なんのことはない。
小説とは描写なのである。
いかに読者の脳内に人物、風景、せりふ、心理を言葉によってイメージさせるか。
言葉による情報伝達で読み手をもてなすのが小説なのである。
すなわち、描写が小説の命ということだ。
風景描写、服装描写、表情描写、口調描写、心理描写、感覚描写――。
わたしはこの描写がどうしてもできない。不得手である。
だから、書くものが小説らしくならないのである。
目が極端に弱いのが原因だと思う。視覚が劣っている。
ひとと逢っても、どんな服装をしていたかまるで憶えていない。気にしていない。
風景を見ても、からきし見とれるということがない。いきおい記憶にも残らない。
絶景を言葉で描写したいと欲したことはない。
恥ずかしいが、ひとの顔がみなおなじに見えるのである。
芸能人はまったく識別できない。
これはいまから努力してなんとかなる問題だろうか。
先天的な能力が欠けているという気がしてならない。
耳はいいのである。ひとから話を聞いたら、驚くくらい憶えている。
反面、目がてんでダメである。ひとの顔をあまり注意して見ていない。
読者が小説の世界に入るとき、まず重んじるのが顔だと思われる(とくに女性読者は)。
わたしはその顔の描写がぜんぜんできない。
美人とか、美人ではない、といったような、月並みで凡庸な描写しかできない。
どうして書くもの書くものがエッセイになってしまうのか。
原因は描写の欠如であった。そして、わたしはどうにも描写が苦手である。
これはもう小説を書くことを断念すべきなのだろうか。
かんたんなことなのである。小説は描写だ。これに長いこと気がつかなかった――。

小説家志望向けの読書法というのがたいへん参考になった(41ページ)。
・主人公のキャラクター造形の手腕(いかに早く主人公をイメージさせるか)。
・ひとつのシーンをどのくらいの枚数を用いて書いているか。
・場所や日時が変わる場合、シーンの切り替えにどういった工夫をしているか。
・緊張シーンとゆったりシーンの比率、配合(メリハリのつけかた)。
・会話と心理描写の分量、巧拙に注意する。

作家になってからのことも説明されていて納得した。
新人賞を取るためにはオリジナリティあふれる斬新な小説が必要。
けれども、いざプロになったらばワンパターンでも読者はついてきてくれる。
水戸黄門のようなワンパターンを好む読者はかならずいる。
西村京太郎、内田康夫、赤川次郎が長者番付常連なのはこのため。
おなじ理由で高額所得作家は冒険をしないから文学賞とは縁遠い。
作家志望者が勉強として小説を読むならばデビュー作を読んだほうがいい。
プロの作品をつまらないと思うのはいいが、あの退屈はプロだから許されるのである。
いったんプロになったらプロだからと許されることがけっこうある。
だが、新人にたいしては文学賞選者も編集者も読者も非常に手厳しい。
新人賞取得と作家生活の継続はまったく別物と考えてもいい。
――作家の裏側の赤裸々な告白です。
「プロ作家養成塾」(若桜木虔/ベスト新書)

→とても参考になった。論評すべきことはなにもない。
以下は教わったことを自分なりの言葉でまとめたノートのようなもの。

・回想シーンは避ける。現在でないと緊迫感が弱まるため。

・「~~」と言った、とやらない。「」で会話というのはわかっている。
つぶやいた。ささやいた。どなった。ののしった。など「言う」に代わる言葉を用いる。
思いつかないならば表情を描写しながら「と言った」とやるといい。
真っ赤な顔で言った。眉間にしわをよせて言った。おどけて言った。などなど。

・読者は生活に疲れ果てている。気楽に楽しめるものを書かなければならない。

・非日常的な行動から書き始めると読者をうまく物語に誘導できる。
走っている。喧嘩している。盗んでいる。尾行している。などなど。

・エンターテイメントを書くのはサービス業とおなじ。いかにすれば読者は満足するか。
「意外なテーマ」「話が起伏に富み退屈しない」「共感する人物設定」「的確な描写」

・言葉をもって読者に情景をイメージさせるのが小説。
登場人物の容貌、骨格、服装を効果的に提示する。
人間関係、居住関係もなるべく早めに読者へ伝達しなければならない。

・小説の分量と、タイムスパン、登場人物数は相関する。
たとえば原稿用紙50枚なら2日以内、登場人物は3人以内。
500~1000枚もあるならば5年以内、登場人物は10人以内(詳細は123ページ)。

・売れなければ話にならない。手にとってもらえるようにタイトルを工夫する。

・読者は主人公になりかわっていろいろな出来事を疑似体験したいのである。
そのために必要なことは――。
「視点の固定」「共感をよぶ心理描写」「時系列の遵守」「情報の効果的提示」。

・人物と人物を新しく知り合わすと描写に手間取る。はじめから友人という設定にすべき。
同様、人物を新しい環境に投げ込まない。いつものところで動かす。
以上は物語の停滞を防ぐため。物事がぽんぽん起こらないと読者は退屈する。

・5W1H(いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どのように)を小説の冒頭で、
可能なかぎり速やかに読者のあたまに植えこまなくてはならない。
「作家養成講座」(若桜木虔/KKベストセラ-ズ)

→エンターテイメント小説の指南書。
著者はライトノベルやミステリーを多数出版している。
出版業界の厳しさを教えられる。作家というのは個人事業主で、
いかに編集者とうまくわたりあうかが食っていく秘訣だという。
どのくらいの頻度で編集者に関心を持ってもらえる企画をだせるか。
書けといわれたら期日のあいだに書き終えられるか。
編集者から直しを命じられたとき、うまく改善できるか。
若桜木虔によると、作家は営業職なみの社交性が必要なようである。
とても自分には無理だと読後だいぶ打ちのめされた。
文学の世界では、人生苦が文章の深みにつながるといったような定見(錯覚?)がある。
もっというなら、小説はいかに生きるかを問うべし、という態度のことである。
こういった人間観が著者にはまったく欠如しているのが、
かえっていかにもエンターテイメント作家らしくて新鮮だった。
自分にはとてもエンターテイメント小説はむずかしくて書けないだろうと絶望する。
若桜木(わかさき)先生の教えから――。

「体験がなければ書けないのであれば、
大多数のミステリー作家は殺人事件を扱った物語を書けないことになる。
体験のなさを想像で膨らませることによって、
現実よりも迫真性に富んだ物語にすることも可能なのである。
いや、体験がないが故に、
体験がある作家よりもかえって面白い作品に仕上げられる例も多々ある」(P107)

「万に一つも体験できる可能性がないからこそ、読者は物語にのめり込む。
実社会では「非現実的」であっても、
物語の虚構の世界では一貫した統一性の下に寸分の狂いもなく構築されているかぎり、
「現実的」なのである」(P186)
「文章心得帳」(鶴見俊輔/潮文庫)絶版

→桑原武夫はよい文章の理想を、いわば外向性に見たわけである。
文章が外部へ向けて働きかける。そういった文章を是としている。
鶴見俊輔は文章の内向性に着目する。

「文章を書くことは他人に対して自分が何かを言うという、
ここで始まるものではない。
実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、
文章が自分の考えをつくる。自分の考えを可能にする。
だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書くとすれば、
それがいい文章です」(P23)


みなさまも経験があると思うが、文章は書いているうちにわかってくることがある。
書き始めたときは思いもよらなかった方向に筆が進んでしまう。
言葉が言葉を呼ぶことがある。このことを鶴見俊輔は言っているのだと思う。
日記というものは公開を前提としない。
だから、桑原武夫の言にしたがえば日記が名文になるはずがない。
ところが、日記文学という言葉があるくらいで、日記からも名文が生まれうる。
この理由を鶴見俊輔は説明しているのである。もう少し引いてみよう。

「それでは私にとって、文章がうまいというのはどういうことか。
言葉をたくさん知っていて、むつかしい言葉をたくさん使うからというのではないし、
紋切型を巧みに使うということでもありません。
究極的にいい文章というのは、重大な問題を抱えてあがいているというか、
そのあがきをよく伝えているのが、いい文章なのではないかと思います。
きれいに割り切れているというものは、かならずしもいい文章ではないのです」(P58)


まったく同意見である。わたしも文豪のいかにもな美文は嫌い。
苦しみのなかから答えを求めてうめいている文章を名文だと思う。
柳美里の初期のエッセイはどれだけ美しかったか。
こんな苦しんでいるひとがいるのかと思った。そこが、美しかった。
宮本輝も若いころはあがきにあがいていた。
かの作家の文章がどのくらい多くの読者の琴線に触れたか。

「言語表現法講義」で加藤典洋が指摘していたが、
本書は数ある文章読本のなかで唯一「文間文法」について論じている。
「文間文法」とはひとつの文章から、つぎの文章へどこまで飛べるか、である。
飛躍の距離は、意味の隔たりを意味する。
読み手は、意外なほど意味の飛躍に耐えられる。
それどころかむしろ飛躍は快感にもなりうる。意外性の快楽である。
なんとか実例をあげようとさきほどからあたまをひねっているがろくなアイディアが出ない。
酒でものみはじめるか(←へたくそな飛躍の具体例)。
「文章作法」(桑原武夫/潮文庫)絶版

→桑原武夫は文章の理想をこのように定義している。

「文章の理想というのは、その文章によって外界が
――恋文であれば好きな人の心ですが――ともかく、
自分以外の人間または物が何ほどか変化する。
それが大切なのではないか、というふうな気がします」(P23)


言葉の重さを熟知する学者の言葉である。
人間は言葉によって外界を変えていくことができる。
たとえばいい小説を読んだとする。その日、1日気分がよかった。ひとに親切もした。
このとき小説家は外界を変えたといえるのかもしれない。

桑原武夫は名文の例として、自分の書いた文章を提示するのだが(P41,53,86)、
その勇気は賞賛されるべきとしても、文章自体は決してよいものとは思えない。
自分の書いた文章がどのようにいいか解説する桑原武夫には辟易した。
本書の後半は、しろうとの書いた文章の添削である。
というのも、本書はしろうと向けの文章講座を書籍化したもの。
この添削もあまり興味を引かなかった。原因は文章に向きあう姿勢にあると思う。
この文章講座の受講者は毎回お題を与えられて作文を書く。
こういった文章がおもしろくなるはずがないのである。
重要なのは自発か強制か、というところにあるのではないか。
テーマを与えられて書かされた文章がおもしろくなる可能性は低い。
書かざるをえない文章がひとの心を打つのである。外界を変えるちからを持つ。
本書に掲載されたしろうとの文章例を読みながら嘆息した。
書きたいことがないのなら書かなくてもいいのではないかと思った。

井上ひさしがかつて文章講座でだしたお題はこうである。
「いま悩んでいること」を書いてください。
桑原武夫と井上ひさし。学者と実作者の相違である。どちらが深いかは言うまでもない。
「蜘蛛の巣 ユージーン・オニール一幕劇集」(山吉張・須賀昭代:監訳/京都修学社)

→ユージン・オニールの一幕劇がすべて収録されている。
オニールはアメリカ演劇の父にして、ノーベル賞作家だが、最近は忘れられて久しい。
テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーを
はるかに凌駕する力量を持った劇作家なのに残念でならない。
この著作は奇蹟といってもよい。というのも、去年の3月に出版された新刊なのだ。
甲南女子大学大学院の秀才が集い10年ものときをかけて出版にこぎつけた大作である。
定価は7140円だが完売しても採算などまったく取れないと思う。
このような書物は昨今濫造されるベストセラーとは段違いの価値を持つ。
読みながら甲南女子大学大学院の研究者への感謝で胸があふれた。
原文で読めやしないくせに、生意気にも
わたしは日本でいちばんのユージン・オニール愛好者だと思っているのだ。
「本の山」のカテゴリー「ユージン・オニール」は、
この劇作家の根源に迫りえているという自負がある。
ひまがあればぜひともお読みいただきたい。
自身も今回かつての記事を再読してあらためてこの劇作家への思慕を募らせた。

オニールの初期の劇作は海洋を舞台にしたものが多い。
これはこの劇作家自身の経験による。
オニールは青年時代、船乗りをしながら世界各地を放浪していた。
いまの時代のような安全な航海ではない。つねに危険のつきまとうものであった。
青年オニールは、航海に劇的なるものを発見したと思われる。
航海とは、過程である。出航してから目的地にたどり着くまでが航海。
船夫はたえず海と向き合っていなければならない。海が荒れれば船は沈没してしまう。
いつなんどきでも死と隣り合わせというこの極限状況は、
まさしくオニール劇の特徴である。
人間が生まれ死ぬのはあたかも航海のようだと青年オニールは思ったのかもしれぬ。

オニール劇は死を背景とした生の横溢(おういつ)である。
横溢であって、断じて生の賛歌などではない。
ならば、オニールにとって生とはなにか? 苦しみである。
人間はおよそ自由意志とは無縁なところで、望みもしない環境に誕生させられる。
人間である限り、だれもが欲望を持つ。だが、この欲望がかなえられることは少ない。
なぜならば、他者がいるからである。自分以外にも、欲望の主体たる人間がいるからだ。
人間が欲望に従い行動すると、かならず他者の欲望と衝突する。
したがって、かれの欲望は満足することが少ない。思うがままにならぬ。
この状態を「苦」と定義したのが仏教の開祖ゴーダマ・ブッダであったが、
キリスト教徒のユージン・オニールはこの「苦」を劇として描くのである。
ブッダは「苦」を消滅させるためには、
煩悩(ぼんのう)という名の欲望を断つことだと説いた。
いっぽうでユージン・オニールは欲望という炎(ほむら)にガソリンをそそぐ。
人間の「苦」を描くことが劇であるという信念に基づく。
人間はままならぬ。だが、欲望は壁を突き破らんとする。
壁の向こう側にいるのはもうひとりの人間である。
欲望と欲望の衝突こそ人間苦の最たるものであり、またこれ以外に劇などあるものか。
オニールの鋭い眼光は「人間・この劇的なるもの」の本質を看破している。
この劇作家の強い人間不信、異常なまでの悲観論的世界観を忌むものも少なくない。
だが、わたしにとっては、とても懐かしいものに思われる。

20編収録されている一幕劇のなかから「蜘蛛の巣」に注目したい。
これはユージン・オニールの処女作と目されるもの。
子持ちの娼婦、ローズは肺を病んでいる。
いくら売春をして稼いでもヒモのスティーブにカネを巻き上げられてしまう。
ローズの唯一の生きがいは、赤ん坊である。
だが、赤子のいる部屋で春をひさぐわけにはいかない。
ヒモのスティーブは赤子を取り上げて孤児院へ送り込もうとする。
ここに描かれているのは、どうしようもない陰鬱な絶望である。
娼婦のローズはもはや真っ当な仕事につくことはできない。
何度か女中の職を求めたこともあったが、決まって娼婦の過去がばれてクビになった。
いまは赤子もおり、できることといったら売春しかない。
ところが、いくら体も売ってもカネは貯まらない。スティーブに持っていかれてしまう。
これを拒むことができない理由がある。
街娼をしているローズが検挙されないのは、
スティーブが警察にワイロを支払っているためなのである。
ローズはもうにっちもさっちも行かない。
この日も赤子の処遇をめぐってローズはスティーブから殴られていた。

これを止めに入ったのが隣室に住むティムである。かれはスティーブをのしてしまう。
ローズの人生にはじめて希望のようなものが生まれたのはこのときである。
ふたりはその場で恋に落ちる。ティムは大金を持っていた。
驚くローズにティムは重大な告白をする。実は金庫破りの常習犯で指名手配されている。
ティムはローズに大金をわたす。いまは逃げるが、いつか再会しようというのである。
このおカネで人生をやり直そう。がんばればかならず人生をやりなおすことができるさ!
社会の最底辺でうごめくふたりの苦悩者があたたかな希望につつまれた瞬間である。
だが、これも長くは続かない。警察の追っ手が迫ってきている。
屋根裏から逃げようとする指名手配犯人のティムを、戻ってきたスティーブが射殺する。
拳銃をその場に打ち捨てスティーブは逃げていく。
ここに警察官が入ってくるのである。ローズは大金を持っている。
そのまえにはティムの死体。ローズはティムを殺害した罪で連行される。
この娼婦は生きがいだった赤子とこうして引き離されたわけである。
なんとも救いのない暗澹(あんたん)たる劇である。

金庫破りのティムのせりふから引用する。
街娼のローズはいままでの悲惨な半生をティムに告白する。
この金庫破りはいたく同情する。じぶんもおなじような人生を送ってきたからである。

「聞いてくれよ! まっとうな暮らしをしようたって、そうはいかないって言ってたね
――実を言うと、俺も同じ目に遭ってるんだ。
子どものころ、盗みを働いたというんで少年院送りになったんだ。
でも本当はやっていない。年上の不良仲間に加わってたんだが、
自分でも何やってるのか分かっちゃいなかった。
奴らは俺を身代わりに仕立てたのさ。
俺は少年院でいっぱしの悪に育っちまった。
シャバに出たときゃ、まっとうな人間になろうと努力もしたし、
仕事だってちゃんと続けようとしたよ。だけど少年院にいたことがばれたとたんに首。
あんたの場合と同じさ。で、また盗みを働いたー―飢え死にしないためにね。
取っ捕まって、今度は五年間の豚箱行きってわけさ。それで諦めた。
所詮無駄だって分かっちまった。
再び出所すると俺は金庫破りの一味に入って、手口を教わった
――それ以来ずっと金庫破りさ。人生の大半は刑務所(ムショ)暮らしだった。
だが、今は自由の身だよ」(P381)


ティムは脱獄したのである。ようやく運命の女とも思えるローズに逢う。
だが、それも束の間、射殺されてしまう。ローズも冤罪で服役である。
このユージン・オニール処女作のタイトルに留意したい。「蜘蛛の巣」である。
たしかに人間は蝶のように美しい。蝶のように自由に大空を飛べると夢想する。
ところが、この人間という蝶は、蝶は蝶でも「蜘蛛の巣」にからめとられているのである。
いくら飛翔を夢見ようが決して飛び立てぬ美しい蝶々たち――。
青年劇作家ユージン・オニールの目に映じた人間のすがたである。

(追記)劇の構造は「ふたつにひとつ」であると何度も指摘してきたが、
この一幕劇集においても具体例を挙げていきたい。
「霧」で漂流者は救助船を呼ぶか呼ばぬかの「ふたつにひとつ」を迫られる。
「鯨油」でキーニー船長は妻への愛か大漁かの「ふたつにひとつ」に直面。
「無謀」でボールドウィン夫人は財産か愛情かの「ふたつにひとつ」に煩悶。
「ドリーミー・キッド」でドリーミーは逃亡か祖母の看病か「ふたつにひとつ」で迷う。
人間は「蜘蛛の巣」にとらえられた蝶のような存在である。
だが、蝶は飛躍せんとする。欲望があるからである。
このとき別の蝶の存在に気がつく。この蝶もまた「蜘蛛の巣」の囚人である。
ある蝶が飛び立つためには別の蝶を踏み台にしなければならないときがかならず生じる。
このとき人間という蝶のまえに「ふたつにひとつ」が現前するのである。
蝶は大空での自由な飛翔を夢見ながらどちらかひとつを選択・実行する――。
これはオニール劇のみならず、劇全般の骨組みともいえよう。
タイトルは伏せるが久しぶりに小説を読もうとして愕然とした。
小説が読めないのである。内容があたまに入ってこない。
小説はいつ以来か調べてみると、およそ3ヶ月ぶりに読んだことになる。
もしかしたら小説の読みかたを忘れてしまったのかもしれない。
小説の読書というのをできの悪いあたまで分析してみると、要するに映像化ではないか。
小説の文章群は、さまざまな言葉から形成されている。
当たり前のことをいうようだが、言葉は意味を伝えるためのもの。
だとすれば、小説の読解とは文章の意味を理解すること、すなわち映像化にある。
むろん、前衛的な小説はこの限りではない。
とはいえ、たいていの小説は映画化することが可能である。
なんのことはない、小説を読むとは言葉を映像に変換することではないか。
この作業ができなくなっているのである。
言葉から「絵」を思い浮かべることができない。
めんどうと正直に書いてしまったら怠惰を責められよう。
映画が嫌いである。特定個人の意識下で撮影・編集された思い入れの強い映像を
強制的に一定時間で見せられることに耐えられないのだ。
おなじ意味合いで小説が読めなくなりつつある。
言葉によって脳内に映写される光景を追っていくのが苦痛になりつつある。
このまま小説が(書けない、のみならず)読めなくなるのかと思うと恐ろしい。
だが、30歳を過ぎた男は一般的に小説など読まなくなるのではないか、とも思う。
繰り返しになるが、本はもういらないのである。
いまうちにある本を読むだけでも何年かかるかわからない。
だのに、なにゆえ本を買おうとするのか。
この日、行ったのは「リブロ池袋本店春の古本まつり」。
19日、来週の火曜日までやっている。
古本デビューするには最適の環境なので、
なにかのきっかけにしていただけたら書き手としてこれほどうれしいことはない。

おそらくなにごとにも相性というものがあるのだろう。
池袋リブロの古本まつりは、これまで何度も行っているが、決まって収穫がある。
いっぽうで何度行こうがだめな古書市というのもあるのだが(銀座は嫌い)。
いい本を安く買うというのはたまらない快楽である。
人間は裏切るが、人間の書いた本は決して裏切らない。
人間は日々変化する。1年前とおなじでいるわけにはいかない。
だが、かれの書いた本ならば1年前のままなのである。
書籍の魅力である。読書の無益もこのことが関係する。人間は変わる。書物は変わらない。

リブロ3Fの特別催事場へ。あこぎな古本世界とは相反する上品さに目がくらみそうになる。
とある棚のまえで立ちどまる。死を思う。
だれかが死んで遺族が蔵書を放出したとしか思えない。
本キチガイならわかるであろう一貫性を有する西洋文学書籍が並んでいる。

「オレアナ」(デビット・マメット/酒井洋子訳/劇書房)絶版 400円

米国戯曲。死者は演劇にも興味があったのかとうれしくなる。
「オレアナ」は探していた絶版本である。
いぜん1000円で見かけたが、買わなかった。定価は1400円。
待てば400円で買えるのである。
さあて、演劇関係があるのならば、この近辺の棚は落ち着いて見なければと思う。
すると、かつて探していた本が激安で売られているではないか。

「ラシーヌ戯曲全集ⅠⅡ」(人文書院)絶版 1050円

昭和39年に出版されたラシーヌの全集である。
ラシーヌは、コルネイユ、モリエールとならび評されるフランスの古典劇作家。
現存する作品は12。そのうち読んでいるのは3つである。
作品自体は筑摩書房の「世界古典文学全集48」(鈴木力衛編)を持っている。
ここに全作品が収録されている。
けれども、どうしてもこの2冊完結の全集がほしくなる。
翻訳が筑摩書房のものよりも新しい。活字が大きいのも読みやすい。
しかし、とためらう。買っても読まないのではないか。
ラシーヌの代表作はすでに読んでいる。
全作品を読みたいと思うほど影響を受けた作家ではない。
迷う。わたしは知っている。この2冊は貴重な本なのである。

ビニールカバーにくるまれている。きれいな帯までついている。
こうまで美品のラシーヌ全集が1050円というのはいけない。
せんじつめれば、これが購入理由かもしれない。
買ったのち、ビニールカバーをはずしてみると、思いのほか状態がいい。
とても45年前に出版されたものだとは思えなかった。

やはり池袋リブロとは相性がいい。
もう本はいらないといっているのに、本のほうからよってくるのだから。
ためしに「もう女はいらん」なんていってみようかしらん(笑)。

「’90年鑑代表シナリオ集」(シナリオ作家協会編/映人社)絶版 600円

1990年に上映された映像作品のシナリオを収録したものである。
もしやと思い、目次を調べる。歓喜する。こいつはついているぜ!
篠田正浩監督「少年時代」シナリオが収録されている。
この映画のシナリオが山田太一なのである。
山田太一は、めったに原作のあるもののシナリオは書かない。
映画とも距離を置いている。
そんな山田太一の手なる稀有な映画シナリオがこの「少年時代」なのである。
600円という価格がうれしい。定価は2800円。
収録作品数の10を考えるとやむをえない金額なのだろう。
だが、わたしの読みたいのは「少年時代」のみ。
1000円だったら躊躇したかもしれない。
600円という値付けをした古書店のどれほどセンスがいいことか。

映画「少年時代」はむかしテレビで見たことがある。
むろん、いまでも難なくレンタルビデオで借りられるのだろう。
しかし、わたしは読みたいのである。映像になるまえのシナリオを読みたい。
「’90年鑑代表シナリオ集」をカゴに入れる。
今日はなんて運のいい日なのかと身震いがとまらなかった。
持って生まれたものと関係しているのかもしれない。
やたらとひとから話しかけられるのである。見ず知らずのひとから話しかけられる。
といっても、キャッチセールスからは声をかけられない。
若い女性から逆ナンパされたことは一度もない。
そこいらのおじさん、おばさんからひんぱんに話しかけられるのである。
意識したことはないが、温厚な顔なのかもしれない。
耳のひとなのだと思う。目も鼻も口も頭も悪い。悪くないのは耳だけである。

ここ1週間でもだいぶ話しかけられた。
土手を歩いていたらおばさんから声をかけられる。あそこに布団が落ちているというのだ。
見てみると、たしかに土手の斜面に布団一式が置かれている。
「あそこで寝ていたんでしょうかね?」
おばさんに聞いてもわかるはずはないのだが。
「盗んできたのよ。私は毎日、ここを通るからわかるの。
いろんなものが捨てられているのよ。ぜんぶ盗んできたものだと思う」
いっときなど女性ものの下着が大量に捨てられていたこともあったという。
「こわいわねえ」とひそひそ声でいわれる。
「はあ」とあいまいな笑みを浮かべる。

電車でとなりに座っているひとに話しかけられることもある。
気づくと向こうが話していた。こちらが聞いていた。スーツすがたのおじさんである。
左足が麻痺して動かないという。「神経がやられてしまってね」
こういうことはなれているので「はい、はい」と合いの手を入れ傾聴する。
降りる駅までかれの闘病生活を聞くはめになった。
嫌いではないのである。話すのは苦手だが、聞くのをいやだと思うことはほとんどない。
たとえ愚痴だろうが、話を聞くのはさして苦痛ではない。
とはいえ、聞き上手だなどと思い上がってはいない。
いいことをしているというつもりもない。
のぞき見をしているような恥ずかしさを感じることもある。

ある立ち飲み屋でとなりのおじさんから話しかけられた。
平日だがラフな格好をしていた。自営業者なのかなと思った。
「そのカンパチおいしいでしょう」
「ええ」と答える。
おじさんもカンパチを食べている。
なんのことはない。カンパチを注文したのは、
このおじさんの食べかたがあまりにうまそうだったからである。
そのむねを伝えると、うれしそうに笑った。この店の常連なのだという。
いつしか話しこむ。いや、わたしは話さない。聞き役に徹する。
年齢を問われ答えると、このおじさんの息子さんとたいしてかわらないらしい。

息子さんは32歳。足の骨のガンで、2年前に余命5年と医者から宣告された。
もう歩くことができないので車椅子生活。それでも高校教師をつづけている。
教えているのは国語。往復の通勤は、父親のかれが車で送迎しているという。
いま息子さんを自宅まで送りとどけた。ちょいと一杯と思い、近所の立ち飲み屋へ。
話を聞きながらいろいろなことを考えた。
いうまでもなく、考えたことを話したりはしない。できるのは聞くことのみとわかっている。
32歳といったら、わたしとそうかわらないではないか。
そうか、30を超えると人間はいつガンになってもおかしくないのか。
しかし、わからないものである。
満ち足りた顔で酒をのんでいる、こんなどこにでもいそうなおじさんだというのに。
息子さんの余命は、医師の宣告にしたがえばのこり3年ということになる。
あと3年しか生きられないのに、なんで高校教師などしているのだろう。
遊んだらいいじゃないか。
思い直す。いざあと3年となったら、
なにかをのこしたい、教えたいと思うものなのかもしれない。

おじさんの携帯が鳴り、会話が途切れた。
急ぎの用ができたそうで、あわてて店を出て行った。
「じゃあ、また。へんな話をしてごめんね」
のこされたわたしはもう1本ビールをたのみゆっくりのんだ。
あの顔はいいとあらためて思う。カンパチを口に入れたときに見せた顔である。
最後のひと切れを口に放りこみ、真似をしてみた。
それからグラスのビールをのみほす。あのような顔はまだまだ遠いものだと思う。
最近、これはやばいと危惧していることがある。
ウソだろうと笑われそうだが、ほんとうなのである。
ルサンチマンが、うん? どういえばいいのだろう。
ルサンチマンが、減るというのか。弱まるというのがただしいのか。
消えてはいないのである。けれども、以前に比べたらだいぶ小さくなっている。
よくない。よどんだ鬱積は表現の熱源と思うとき、これはたいへんよくない。

2年前、三浦しをんが直木賞を取ったときは苦しかったものである。
この作家はわたしとおない年。早稲田の一文出身というのもおなじ。
めらめらめそめそした記憶がある。
ところが、なのだ。先ごろ芥川賞を受賞した川上未映子も昭和51年生まれ。
おどろくほど、平気なのである。まいらない。
きれいなひとだな。こういうひとを才色兼備っていうんだろうか。
なんて、のほほんとしている。才能のある人間はうらやましいと思うが、
それはマイナスの感情をともなわないおだやかな感嘆に過ぎない。
「平成の樋口一葉」とうたわれた川上未映子の広告写真をみる。
いまが彼女の人生でいちばん楽しいときなんだろうなとなんだかほほえましくなる。

いったいわたしはどうしてしまったのだろう。
死期がせまっているのではないかと不安になるくらいである。
ルサンチマンの減退のみならず、
もっとよくないのはこのごろおかしなものが心中に芽生えているのだ。
希望である。春がすぐそこまで来ているような希望をもちはじめている。
ふしぎなのは、どこからこの希望が生まれたのかさっぱりわからないことである。
まるで根拠というものがない希望だ。
年齢的にも健康的にも経済的にも、どこからも希望など生まれるはずはない。
にもかかわらず、このところ希望というほかない肯定的な感情をいだいている。

いっときの迷いならいいのだが、これが続くとなると心配である。
むかしのわたしに戻りたい。
バレンタインデーに出刃包丁片手に渋谷を疾走したいと熱望したあのころがなつかしい。
むろん、今年もチョコなどひとつももらっていない。
そのくせテレビに映る幸せいっぱいのカップルをみながらニコニコしているのである。
2月9日。持病の頭痛がひさしぶりに発症する。いつ以来だろうか。
ここ1年は頭痛と縁がなかった。このようなときに長年ブログをやっていると助かる。
「頭痛」で検索すると、これまでの歴史が判明する。
検索のできる日記=ブログを継続していてよかったと思うのはこんなときくらい。
2006年3月からおよそ1ヶ月間。2006年12月11日から1ヶ月半。
で、このつぎに来たのが今回というわけである。2008年2月9日頭痛再来。
強力な痛み止めのロキソニンがあるのでさっそく服用。
長いこと頭痛は罰であると苦しむがままにまかせていた時期があった。
ふとしたきっかけから、痛み止めを処方される。すると、これがなかなか効くのである。
いままでのマゾ的な我慢をアホらしく思ったものである。
痛みは薬で消せばいい。そんなことも知らずに嘆いていた時期が5年ほどあった。

翌日も朝からロキソニンをのむ。痛みと薬物のたたかっていることがわかる。
午後、ひさびさに荻窪へ行く。いつものように、ささま書店から。
ここのワゴンがはどうしてこうもサービス過剰なのだろう。
なつかしの「ノーベル賞文学全集」があるではないか。
川端康成ノーベル賞受賞を記念して主婦の友社が歴代受賞作品を全集として刊行した。
おそらく採算度外視でやったのではないか。
この全集でしか読めない作品、翻訳というのがいくつもある。
以前、お世話になったのはバーナード・ショーとユージン・オニールが収録されたもの。
この全集に感謝したものである。この日、ささま書店にあったのは全集のうちの4冊。
メーテルリンクがあるのであわてて収録作品を調べると「青い鳥」でがっかり。
これは自慢だが、わたしは邦訳されたメーテルリンクの劇作はすべて読んでいる。
「ビョルンソン/エチュラガイ/ハウプトマン/ベナベンテ」の巻をチェック。
エチュラガイ、ハウプトマン、ベナベンテの劇作は残念ながら岩波文庫で既読。
しかしビョルンソンは読んだことがない。
ビョルンソンはイプセンに先行するノルウェーの文豪。
かれの戯曲「人の力を超えるもの」が収録されている。
この作品が日本語で読めるのはこの全集のみ。いそいでカゴに入れる。315円。
もうひとつ300円棚に似つかわしくないものが。

「ベストプレイズ 西洋古典戯曲」(白凰社/西洋比較演劇研究会編)

有名古典戯曲の新訳が12収録されている。定価4500円が300円。
ふしぎに思い、なかを調べると一箇所だけあたまの悪そうな線引きがある。
イプセン「人形の家」に汚い線が引かれている。
ふたたび自慢させていただくが収録作品12のうち11は読んだことのある戯曲。
未読なのはビューヒナー「ダントンの死」ひとつ。
口惜しかったのはシラー「群盗」宮下啓三訳が収録されていること。
昨年1500円も払って買う必要はなかったではないか。
こういうときは買い足すに限る。たったの315円(税込み)なのだから。
ついでと教養文庫の「中国神話伝説集」も105円で購入。

ブックオフ荻窪店へ。まずは単行本コーナー。

「創作のとき」(叙情文芸刊行会・編/淡交社)200円

有名作家の18人へのインタビューを集めたもの。
テーマは創作。いかにして書くかである。
寺山修司、沢木光太郎、井上靖、山田太一と顔ぶれは豪華。
定価1900円が200円で買えるのだからしあわせである。
文庫も少々。

「アジア・旅の五十音」(前川健一/講談社文庫)絶版105円
「こんどは俺の番だ」(井上靖/文春文庫)絶版105円


携帯で時間を見るとすでに22時を過ぎている。
本とたわむれていると時間を忘れてしまうのだ。
早く帰宅しなければならない。酒をのむという神聖なる行事が待っている。
会計を済ませ店外へでたとき、いま頭痛がやんでいることに気づく。

(追記)酔いにまかせて書いたためいくつか誤まりがある。原因は記憶違い。
ここに訂正します。メーテルリンクの戯曲で読んでいないものがある。
いづれも大正時代出版ゆえ極めて入手困難。
それからビョルンソンの「人の力を超えるもの」は「人力以上」のタイトルで、
昭和2~5年出版の世界戯曲全集で邦訳されている。(2/12)
もう本は買うまいと思っている。というのも、本を読んでもろくなことがない。
自分が賢くなったような錯覚をして、ひととの距離を広げるのみ。
他人の気持を理解するということができなくなる。
それはあの本に書いてあった感情だ、なんて一般化してわかったふりをする。
読書をしても、ひとに親切になるということがない。
読書などしたところで、おのれをわけのわからぬ高みにおき、周囲を見くだすくらいだ。
だいいち、読んでいたら書けないではないか。
読書などしていたらいつまで経っても自分のものを書けない。
とはいうものの、本があったらついつい読んでしまう。
最近、なるべく本を買わないようにしているのはこのためである。

ところが、これがストレスになるのである。
どうやらわたしにとっては、本を買うことが唯一のストレス発散だったのかもしれない。
本を買うのは、博打に似た楽しみがあるように思う。
偶然性に身をまかす愉楽が書籍購入にはある。古本ならなおさらのことである。
その日、どのような本と出逢うのかはすべて運任せである。
この本を買いたいと思っても古書店の場合、そうはいかない。
したがって、古書店での書籍との邂逅はみなみな運命を感じざるをえない。
運命という言葉が大げさなら、ご縁といってもよい。
人間とのお見合いは心理的負担が高いが、本とのお見合いなら気も楽だ。
かくして気がつくとブックオフに入っている。近所のブックオフでの釣果(ちょうか)。

「神と私 人生の真実を求めて(遠藤周作名言集)」(監修:山崎哲雄/海竜社)
「老イテマスマス耄碌」(対談:吉行淳之介・山口瞳/新潮社)絶版
「過敏性腸症候群はここまで治る」(伊藤克人/主婦と生活社)
「図解でわかる仕事の基本 ビジネスマナー」(下條一郎/JMAM)
「知識ゼロからのビジネスマナー入門」(弘兼憲史/幻冬舎」


ふうう、本を買うとすっきりする。すべて105円だから合計金額は525円。
いまの時代だと、新刊ならこれでは文庫本1冊も買えるかおぼつかない。
ランチなら無理であろう。しかし、ブックオフならという話である。
ワンコイン(500円)でストレスが発散できるのだから、読まなくても後悔はない買物だ。

おっと、こんなこばかり書いていると本にカネをつかわないやつだと思われてしまう。
そんなことはないのである。高い本でも買いまっせ。
昨年、購入した本を書き忘れていたので、この際書いておこう。
講談社の世界文学全集である。
講談社のこのシリーズはよほど売れなかったのか文学全集にしては遭遇率が低い。
買うかどうか迷ったのは「レッシング/シラー/クライスト」の巻。
収録されているドイツ戯曲はすべて岩波文庫で読んだことがある。
なら買う必要はないじゃないか。
それもそうなのだが、シラー「群盗」宮下啓三訳の入っているのが気になる。
「群盗」は岩波文庫の久保栄訳で読んでいたく感動した。
新しい訳で読みたいとは思うものの白水社「シラー名作集」は希少かつ高価。
そのねらっていた宮下啓三訳の「群盗」がこの全集に収録されている。
こんなことを書いていると、どのくらいこの本が高いのかと思われるかもしれない。
金額を書くとたいしたものではない。たかだか1500円である。
しかし、目当ての戯曲ひとつに1500円は高くはないか、とも思うわたしがいる。
これを見つけたのは中野にある古書店である。ビニールカバーがかかっていた。
中身を実際に確認したいので、ビニールを取ってもいいかと店主に聞く。
ハサミで切ってもらう。内容を確認すると、読んだことのないシラー戯曲が収録されていた。
未完の史劇「ディミトリー」である。これでもまだ買う決心がつかない。迷う。
店主の視線が気になる。そうだよな。ふくろを開けてもらって買わないのはせこい。
よし、よし、買おうじゃないか。
いつか有名作家になったらこの程度の投資など安いもんだ。
こういうしだいで定価920円、売価1500円の多少割高な古書を購入したわけである。

(追記)白水社の「シラー名作集」に収録されている「群盗」の訳者は、
宮下啓三ではなく内垣啓一でした。ここに訂正します。(2/12)
「東京居酒屋探訪」(大道珠貴/講談社)

→好きな作家は決まって低学歴である(いま不適切な発言がありました、謝罪します)。
山本周五郎、中上健次、宮本輝、柳美里、大道珠貴、西村賢太――。
低学歴作家の魅力はインテリなら死んでも言えないような実感のある言葉である。
学問ちゅうのは建前なんだということを、尊敬する低学歴作家たちから幾度教えられたか。
そのたびにかなわないなと思う。大学なんて行かなければよかったと思うくらいである。
本書の初出は、芥川賞作家が講談社の編集者と居酒屋めぐりをするという文芸誌の企画。
ある有名な居酒屋で、こういうことがあったという。
呑み屋を経営する夫婦が、客が講談社の社員と知り、しゃしゃりでて来る。

「おばさんは、なんかよくわからんが本を出してほしいらしく、
来る客で出版社の人がいると、今までだした自分の本を見せているんだそう。
まだ出したいのか。一冊で充分じゃない。
大将も、なんとかとかいう俳号で、料理に通じる俳句を載せていた。
ふむふむと私たち、まわし読み。
こういうとき、私は、同行者たちにちょっぴりホの字だ。
職業柄だろうが、実にやさしい。ちゃんと読んでいる。興味を示している。
人の書くものにはまったく興味がない私は、
ほう、とか、へえ、とか言いつつまるで読んでいない。
頭にてんで入ってないのだ。
こういう態度は、学生時代から。
いかにも聞いていそうなふりをして、まったく聞いていない。
うなずいたり、唇をかんで難しそうな顔をしたり、
顎(あご)に手をあてて深く瞑想したりして見せながら、熟年先生の股間の中、
今日は右寄りだとか左寄りだとかを想像していたっけ」(P91)


あたかも野良犬のような自由奔放さである。
いまさらなにをしたところで太刀打ちできないと絶望するほかない。
文章をさしだされたら、へへえ、と読んでしまうような意気地のなさがわたしにはある。
大道珠貴のようには、とてもいかない。
この育ちの悪さ、学のなさが、大道珠貴の魅力である。
この作家のこういうところが好きなのである。

もう一箇所、本書から引用したい。大道珠貴はひとを顔で判断する。
この企画で、著者は毎月編集者と居酒屋で顔をつきあわせる。
ふしぎなのは顔だと大道は書いている。

「この集団、見事にかしこそうな美男美女。こんなことも珍しい。
編集者にブスもブオトコもいないのはなぜ(あ、ブオトコはまれにいるか)。
(中略) なんていうかなあ、四十年近く生きてくると、見えちゃいますね。
きれいだと性格もいいし、でしゃばらなくても、しあわせが降ってきている。
恵まれているからますますきれいに光り輝く。
きれいじゃないと、ひがみが容姿にあらわれている。
性格も悪い。直りそうもない。見ているだけで不愉快。
私は人間全体にあまり近づかないようにしているが、
特にきれいじゃないともう全然近づかない。
人生、限られているもん、それならなるべくきれいなものを見て過ごしたい。
きれいの基準は人それぞれなんて言ってられん。
きれいなのは誰が見てもきれい」(P119)


なにをしたってこの芥川賞作家にはかなわないと平伏する。
なまじ大学なんて出ていると、どうしても人間は見た目ではないと思ってしまう。
なんの学問的根拠もなしに、こうもおのれの美感を打ちだせる大道珠貴――。
おそろしい才能だといわざるをえない。
この天才作家をドキュンだの低能だのと愚弄する高学歴は、
おそらく人間というものをわかっていないのではあるまいか。
「おいしい中国屋台」(浜井幸子/情報センター出版局)絶版

→わたしはペシミストの自殺志願者なのだが(笑)、
それでも人生に楽しいことはいくつかあると思っている。
そのひとつが異国の屋台である。
屋台限定というわけではなく、
地元の人間が集まる店といったほうが正しいのかもしれない。
言葉もおぼつかない異国で、
にもかかわらず、勇気をだしてにぎわっている店(屋台)へ入る。
注文方法もわからないから、近くのひとの食べているものを指さす。
このときの緊張感がたまらなく楽しい。
人生にこんな楽しいことがほかにあるのかと思うほどである。
店のひとも、こちらが外国人だと知り、いささかの緊張が走る。

世界各地、ほとんどのところで酒はのまれている。
危険なのはわかっているが、あえて地酒にチャレンジする。
とはいえこれも、あれをくれとのんでいるひとを指さすしかない。
名前も知らぬ大衆食を食べながらあやしげな地酒をのむのがどれほど楽しいか。
そのうち地元の飲兵衛から声がかかる。
片言の現地語と英語でコミュニケーションをはかる。
かれとは今日ここに来なければ逢わなかったことを思うと、
この世の神秘に打たれる思いもする。
けれども、酒をのんでいるうちに、そんなむずかしいことはどうでもよくなる。
酔いの昂揚から外国人と意思の疎通ができたような錯覚にとらわれる。
さかずきをかさねる。人間が、生きていることが、とても愛おしくなる。
世の中にこんなぜいたくな酒とつまみはないのではないかと思うのはこのときである。

本書「おいしい中国屋台」の著者、浜井幸子さんは、酒こそのまないものの、
いま書いているような旅の愉楽を、屋台の歓喜を、解明せんとした偉大な冒険家である。
「お金は銀行に預けるな」(勝間和代/光文社新書)

→ひさびさになまぐさい本を読んでみたら、たいへん刺激的だった。
愛も幸福もおカネで買えると悟ったならば(いっときの錯覚だろうが)、
そのとき哲学や文学の無意味がわかるのかもしれない。
本書を読んでからしばらくのあいだ、経済ニュースがおもしろくてたまらなくなった。
わたし程度の人間にも理解できるのだから、
このベストセラーが良書であることは疑いない。
本書の主張をひと言でまとめれば、投資をしよう! である(=お金は銀行に預けるな)。
著者の売りは、経済学を大学院で学んだプロであるということらしい。
本書はばくち打ちが書いたもうけ話ではなく、
学術的根拠のある金融講座だというのである。
無学なわたしは、学問と聞いただけでいずまいを正してしまう。
勝間和代先生の学問的主張を引用する。

「金融で儲けるためには、労働で儲けるのと同じくらい、
あるいはそれ以上の勉強と努力が必要だということは理解しておいてください」(P47)


日本人は無宗教だといわれるが「努力教」がこうもすみずみまで浸透していることに驚く。
学問的にも、努力がたいせつだそうである(笑)。
勉強も必要。勉強したから勝間先生は偉いという理屈ですね。
お勉強の結果を教えていただこうではありませんか。

「私は、資本主義というものは、厳しいいい方をすれば
「賢くない人から賢い人へお金が流れるしくみ」だと思っています」(P125)


なるほど。賢い勝間先生へは、さぞお金が流れているのでしょう。
勝間先生自身はどのような資産運用をなさっているのでしょうか?
本書のどこにも書かれていませんが。手の内を明かさないとは、たしかに賢い。

「ただ、リスクが高いというのは、
リターンのばらつきが大きいといおう意味でもあります。
したがって、そのようなポートフォリオを作ると、
ジェットコースターのような値動きに一喜一憂しなければならないため、
精神衛生上の観点からもあまりお勧めできません」(P184)


正直、いままで先生のことをバカにしていたが、ここでようやく賢さに気づく。
いや、ここまで心の問題が無視されてきたということはよほど鈍いのもしれぬ。
もう学問はわからん。直球勝負、勝間先生の生きかたを知りたいと思う。

「つまり、私たちは、資本主義との関わりにおいて、
これまでのような受け身的な姿勢でいると、老後に受け取る年金は乏しくなる上、
これまで述べてきたように所得格差も開いていく一方になる事態を
招くことになりかねないのです。
なぜなら、これまでの金融資産のあり方――蓄財のために住宅をローンで買う、
若死にするリスクに対しては生命保険でカバーする、
老後は公的年金でカバーする――といったようなモデルでは、
もう自分を守りきれなくなるなるからです」(P208)


ここでポカーンとしたのはわたしだけでしょうか。
さらりととんでもないことが書いてある。
「若死にするリスクに対しては生命保険でカバーする」
これはいったいなんでしょうか。もちろん意味はわかる。
著者は3人の子どもがいる母親。
自分が若死にしても、生命保険で子どもにおカネを残せるということだろう。
だが、こんなかるがるしく自分の死というものを片づけてしまっていいのだろうか。
若死にするリスクって、人生はおカネがすべてかい?
こんな青臭いことを思うわたしは、やはり文学青年なのだと思う。
どうしても、こういうドライな人生観にくみすことができない。

おカネの話に戻ろう。本書で勉強した結果はこうである。
「お金は銀行に預けるな」を読んで、おカネは銀行に預けておくのがいちばんだと思った。
なぜならおカネを増やそうと思ったら、著者のように勉強しなければならない。
この勉強がしたくないのである。労働とまるでかわりないではないか。
さらに投資にはリスクがつきまとう。つまり、目減りする可能性があるということだ。
人間だれにも先のことはわからない。未来を言い当てられる人間などいない。
ならば、確実な投資などあるわけがないではないか。
結局は、投資も運任せなのである。
そのくせもうけた人間は、自分には先見の明があった、努力して勉強した結果などと誇る。
投資の不確実性は、人生の不明に通じる。
人生すらわからないのに、どうして投資などできようか。
時間をかけて勉強して、その結果、投資で失敗したらこんな悲惨なことはない。
また、投資は日々の市場の上下に一喜一憂しなければならない。
これはひどく心の平安を阻害するものである。
投資なんてしたら、毎日、不安にさいなまれることになる。
以上のことを考慮に入れると、さほど増えないにしても、
決して減らない銀行預金がいちばんよろしいのではありませんか。
ニュースでどきどきすることもない。結果の保証されない努力も勉強も必要ない。
投資なんてするものではないというのが本書を読んだ結論である。
(いまは10万円もあればFXでそうとう投機ができるらしい。
ちょっと興味を持ったのも事実です)
「ユングと共時性」(イラ・プロゴフ/河合隼雄・河合幹雄訳/創元社)

→共時性(シンクロニシティともいう)はとても危険な思想である。
一にも二にもそのことを忘れてはいけないと思う。
共時性なんてことを真剣に考えるようになると、狂気へひた走るしかないのかもしれない。
共時性とはユングの提唱した概念で、意味のある偶然の一致のこと。
たとえば精神分裂病(統合失調症)の患者さんは、この共時性を過剰に認知してしまう。
身のまわりのことすべてが意味のあることに見えてしまう。
あらゆることに意味のつながりを見てしまい、
運命だの世界がわかっただのとおかしなことを言い始める。
タイのグリーンカレーを昼食に食べた日に、緑さんという女性と知り合ったとする。
これを運命だ。ふたりは運命の赤い糸(緑の糸?)で結ばれていたんだ!
こういうふうに思い込み猪突猛進するのが共時性の悪い面である。
「あれ、なんだろうこの偶然。なんかあるのかな」程度に思うのがいいと思う。

共時性の反対に位置するものの見方が因果律である。
例をあげるなら、子どもが公園で遊んでいて遊具に指をはさみ切断してしまったとする。
因果律で考えると、これは遊具が悪い、公園の管理が悪いということになる。
まえにこのような事件があって、
公園から特定の遊具が取りのぞかれたことをご記憶のかたも多いでしょう。
マスコミのひとはだれも言わなかったけれども、
視聴者のなかでこの事件をこう考えたひとは少なくないと思う。
それが常識というものだとわたしなんかは思ってしまうのだが。
すなわち、指を切断した児童は運が悪かったのではないか。
それはもうどうしようもないことで、公園の管理うんぬんの問題ではないのではないか。

因果律で生きていると息づまるわけである。
努力したから成功する。ならば成功していないものは努力していない。
そうだとすれば、成功していないものは人間として劣っている。
いまはこういうガチガチの因果律思考が世の中をおおっている。
このような閉塞的な状況でやりきれないとき、
共時性というのをあたまに入れておくとかなり楽になるという面があると思う。
共時性にのめりこむのではなく、
因果律からもれるものにも目を配ることで生きやすくなることもあると思うのである。
共時性が提示する人生観はこうである。

人生は偶然に左右される。

このとき偶然ってなんだろうと考えていくのが共時性である。
偶然は別名を運ともいう。なんだか運がいい日というのはあるでしょう。
なにをやってもうまくいかない日というものもある。
これは因果律では説明がつかない。共時性へのとびらなのかもしれない。
人間の運命というものは、偶然が重なって形づくられるものである。
そのとき、どれだけ意味のある偶然を見つけられるかというのは生きかたの問題になる。
あまり偶然が見えすぎるのもいけない。
かといって、偶然を単なる偶然と片づけてしまうのもよくない。
ここに共時性のむずかしさとおもしろさがあると思う。

河合隼雄の解説から引用する。

「われわれ心理療法家のもとに訪れる方の多くは、
「不可能と思われる課題に直面」していると思われる状態にある。
そのような人がしばしば自殺を企図されるのも、
無理からぬことと感じられるのである。
その人に接するわれわれも別に妙案があるわけではない。
言うなれば、われわれの唯一頼りとするのは、「希望すること」である。
解決の道はないと本人が思い、周囲の人もそう思い込んでいるときに、
心理療法家の、解決を希望し続ける態度が支えとなり、
そこに「奇跡」つまり共時的現象が生じて、
思いがけない解決の道が見えてくるのである。(中略)
因果的思考のみに頼っていると、まったく解決不能と思えるようなことでも、
共時的事象の存在を前提とすることによって、
そこに何らかの希望を見出せるということは、素晴らしいことである。
私は心理療法家としてこのような考えに支えられて、
誰もが見離すような人たちにお会いしてきたと思っている」(P202)


雑誌「考える人」の河合隼雄追悼特集を立ち読みしていたら、
小川洋子との対談で氏はこんなことを語っていた。
カウンセリングをしていると、信じられないような偶然がひんぱんに起こる。
発表してもだれも信じてくれないような偶然がぽんぽん生じる。
クライアントがカウンセリングルームを出たら
1億円が落ちていたというような偶然もめずらしくない。
こういう偶然を通して人間が治っていくことに深い感動をおぼえると仰せだった。
日本ウソツキクラブ会長を自称する河合隼雄のこの発言は
もしかしたらウソいつわりなき正真正銘の真実なのかもしれない。
「中国古典紀行2 唐詩の旅」(監修:陳舜臣/講談社)絶版

→漢詩って、なんか男らしくねえか?
いまはどこも女が強いだろう。男なんて女からすっかり見くだされている。
女ごときに品定めされ、男はといえば女のご機嫌取りに終始しなければならない。
ここで中国文学だと思ったのだ~よ! それも詩がいい。
漢詩というのはぜったいにメスが入ってこれない聖域ではないかと思う。
でんとあぐらをかき、一升瓶から茶碗に酒をそそぎ、ぐいとひと息でのみほす。
それから、キッとまえをにらみつけながら、おもむろに漢詩文を野太い声で朗誦する。

くうう、男の世界だぜ!

比べて西洋文学というのはいけねえ。あれは女子供のためのもの。
お洒落なバーかなんかでランボーの詩を口ずさむひ弱な男なんざ、殴らなければいかん。
女に媚びるのもいいかげんにしろと怒鳴りつけたい。
男なら東洋文学だろうが、おまいら!
シャネルだのグッチだのポストモダンだのジェンダーだの、
カタカナのなんとしまりのないことか。
仁愛、忠義、忍耐、薔薇、南無阿弥陀仏。漢字のどれだけ重々しいことか。
日本語には浮ついたカタカナと重量感あふれる漢字がある。
いまはかなしいがカタカナ(=女)の時代である。
なんとかして少しでも漢字(=男)を復権させなければならない。
いまわたしが漢詩にこだわっているゆえんである。そこんとこ夜露死苦たのむな!

朗誦用の漢詩を引用しておく。
これを憶えたら、なにおれだって、おい、なかなかのもんだぜ。
惚れるなよ、女郎(めろう)ども!

「幽州台に登る歌」

前に古人を見ず
後に来者(らいしゃ)を見ず
天地の悠々たるを念(おも)い
独り愴然として涕(なみだ)下(なが)る


(おれのまえに道はねえ 
ふりかえるがだれもいねえ
どでかいじゃないか天よ地よ 
これは涙ではない汗だ  訳Yonda?)

「客中の作」李白

蘭陵(らんりょう)の美酒 鬱金香(うっこんこう)
玉碗に盛り来たる琥珀(こはく)の光
但だ主人をして能(よ)く客を酔わしむれば
知らず何(いず)れの処か是れ他郷


(地酒はうめえぜこの香り
おっとっとこぼれちまうよ酒が光が
注がれればいくらだってのむよ
今日からここがおれのふるさとだ  訳Yonda?)
「中国の思想」(溝口雄三/放送大学教育振興会)絶版

→放送大学のテキストだから期待していたが、さっぱりわからなかった。
わからない本はどうするか。読まないという手がある。
しかし、なんだかもったいないような気もする。わたしもそう思うひとりである。
ならどうするかというと、速読するのである。
意外に思われるかもしれないが、わからない本ほど速読に適している。
(わかりやすい本はじっくり読むに限る)
一定のスピードで眼を右から左へ動かす。
なにをしているかというと、意味がわかる一文を探すためである。
わかった文章をつなぎあわせたら、それが理解したということである。
わからない本を熟読するのはバカバカしいと思っている。

本書の前半のテーマは、日中の漢字の意味の相違。
「天」「理」「自然」「公」といった語は中国思想を理解するうえで重要なキーワードだが、
おなじ漢字文化圏という安心感から、
いままでこれらの語の中国語的文脈が鑑みられることはなかった。
本書は中国世界から「天」「理」「自然」「公」といった用語の理解を深めていく。
というのが前半で、後半からはがらりと内容をかえ、
近世以降の中国思想潮流を人名をあげながらだらだらと羅列する。
本書に誤まりはないのであろう。けれども、さっぱり意味がわからない。
原因は溝口雄三の文章力があまりにも低いからである。
学者はただしい文章を書けばいいと思っているのだからあきれてしまう。
溝口の文体は眠気をさそう。
「Aは~~をしており、Bは~~をしており、Cは~~をしました」。
えんえんとこれが続くのである。悪文の見本をさらして、終わることにする。

「結局、朱子は王安石と同じく皇帝制中央集権の官僚国家体制を志向しながら、
その官僚制の末端には地主層の権益を認めた郷村共同体を設定しており、
王安石がそういった郷村共同体に顧慮しなかったのと、はっきり異なるのであり、
新法・旧法の対立の根底にはこのような路線上の対立が横たわっていた」(P88)


なんのこっちゃ(苦笑)。
「中国古典散歩」(駒田信二=編/文春文庫)絶版

→本書の構成はエッセイと解説からなる。
12人の文学者が、めいめい思い入れのある中国古典について気ままに語る。
直後に中国文学者の駒田信二が、それぞれの作品の解説をするという仕組み。
もういい年なのでいまさら中国古典を逐一しらみつぶしに読破していくのは不可能。
こういった軽めの一般書籍でアンテナにひっかかる古典を探すしかない。
もし見つかれば、その古典のみ重点的に読み込もうと思っている。
もとより、世界の古典を読破するなど無理なのである。
安易な一般書にたよる姿勢をどうかお許しください。

通読したがとくに気になった中国古典はなし。
ひとつ困ったのは、みなさま引用するときに、書き下し文のままのこと。
むかしは学校教育で論語の素読をやっていたらしいから当たり前なのかもしれないが、
わたしの受けた程度の漢文教育では書き下し文のままだと意味が取れない。
現代語訳がないため意味不明な箇所がいくつもあった。

「史記」に書かれているという呂后と戚夫人のエピソードがおもしろかった。
カッコ内の記述はわかりやすくするため筆者が補記しました。

「(権力をにぎった)呂后が(生前)高祖の愛姫だった(美しい)戚夫人の
手足を断ち切り、眼球をくりぬき、耳をくすべて聾(つんぼ)にし、
瘖薬(いんやく)を飲ませて唖(おし)にし、
便所の中に置いて「人彘(ひとぶた)」と名づけたこと、
それを見せられた(呂后の息子の)恵帝が、
「これは人間のすることではありません。わたしは太后(ははうえ)の子として、
とても天下を治めることはできません」といって泣き、
そのために病気になって一年あまりも起きることができなかったということは、
「呂后本紀」によって広く人に知られている話だが、
呂后のような冷酷な非人間性を持った女が、
それによって絶対者になり得たということに司馬遷は人間の歴史を見たのである。
「人間のすることではないこと」をするのは人間なのである。
「非人間性」も人間性にほかならないのである。
司馬遷は現実的な峻厳な姿勢と冷徹な眼で、人間の歴史をとらえていこうとする」(P34)