すっかり酔っぱらって青島港へたどり着いたわたしが乗船手続きで戸惑っていると、
「どうかしましたか」と声をかけてくれる日本人がいる。
いかにも好漢といった容貌だが、旅行者ではないようである。
聞くと、やはり仕事で青島に来ており、このフェリーには何度も乗っているという。
お土産を買いすぎていたわたしはそのことを相談する。
「ホームページを見ると、持ち込める荷物の分量って決められているみたいなんです。
こんなにあって大丈夫ですかね」
わたしはバックパックのほかに小さなリュック、
それから食品のたくさん入った袋をかかえていた。
「そのくらいだったら、なにもいわれませんよ」
なんでも、これから乗るフェリーの本業は貨物船にあるらしい。
ついでにひとも乗せている。つまり、もののほうを人間よりも重んじているわけだ。
「ふざけた話ですよ」というと男はひとなつっこい笑みを浮かべた。
「ぼく、ほんとうは今日のチケットを持ってないんです。このつぎのを持っている。
で、いま変更してくれってお願いしたんだけど、らちがあかない。
ところが、このフェリーの船長と友だちだったことを思い出して、
そのことを話したら態度が豹変して一発で変更OK。中国人はこれだから困ります」
はじめて乗る船のことが不安で、船内はどうなっているのか聞くと、男は豪快に笑う。
「船に入ったらそこはもう日本ですよ。おカネも日本円しか使えないし。
放送や表記もぜんぶ日本語で行なわれます。食堂には日本料理もあるし」
すかさず、懸念していたお酒の有無を問う。
「もちろん、あります。いちおう免税だからちょっとは安いと思いますよ」
われわれは並んで乗船した。
食堂での再会を約束してかれは個室へ、わたしは大部屋へと向かった。

むろん個室は割高で、複数人が集う大部屋は安い。
その大部屋にも和室と洋室と二種類ある。
わたしは100元高い洋室のほうのチケットを買っていたが、選択が正しかったことを知る。
だれもいないのである。大部屋へ泊まるものはみな和室へ行ってしまったようだ。
大部屋洋室は二段ベットが大量に置かれている。
どこで寝たらいいのか乗務員へ聞くと、どこでもいいというではないか。
これでは広い部屋をひとり占めしたのと変わりがない。
わたしはもっとも窓に近いベッドに荷物を置くと、風呂道具を取り出した。
このフェリーは青島から下関を3日で運航する。
下関へ到着するのは明後日の朝ということである。
チケットを買う際、シャワーはあるのか聞いたのだった。
個室にはあるが大部屋にはないとのことで、丸二日も風呂に入れないのかと閉口した。
ところが、先ほどの男性によるとシャワーどころか、
銭湯にも比すような立派な湯ぶねがあるというのである。わたしはうれしくなってしまった。
風呂にも入れる。大部屋をひとりで使える。酒もある。いいこと尽くめではないか。

浴室へ入るとまだだれもいなくて、わたしが最初の客となった。
湯ぶねに浸かっていると、例の男が入ってきたので会釈をする。
見るからに精悍な体躯である。かれは湯ぶねに浸かるとこういった。
「中国人が入ってこれないようにお湯でうめちゃいましょう」
日本人の連帯というものかとおかしくなった。
旅先の気安さと双方裸体であることが相乗したのかわれわれは話しこむ。
いや、一方的にかれが話していたのだった。
タイ、カンボジア、ベトナム、中国とまわって、いま帰国しようとしている。
この説明だけでかれにはわたしという人間がわかってしまったのかもしれない。
話をうかがっているうちにこの男性がわたしなどとは器の大きさが違うことを知るにいたる。

男は37歳。妻子あり。マグロの仲介をやっているという。
日本から中国へマグロを輸出している。むろん、日本の高額なマグロではない。
南米で取れたマグロをいったん日本へ輸入する。それをさらに中国へ輸出するらしい。
下関でそういう会社を友人と経営しているという。
「マグロを中国人に食わしてやりたいと思いましてね。
ほら、中国人はなまで魚を食べないでしょう。マグロの味なんか知らないんです。
質の悪いものを食べてこんなもんだと思っている。
ぼく、中国人にマグロの味を教えてやりたいって思っているんです。
マグロはこんなにおいしいんだよって」
男によると、中国ではいまサーモンの刺身が流行しているという。
「つぎに来るのはぜったいマグロです。
中国人がマグロのよさに気づくときがもうすぐ来ます。
そのときぼくのビジネスはぐうんと成長すると思うんですがね」
バイタリティあふれた話しぶりだった。
夢をつかれたように話すこの男性にわたしはかなわないものを感じていた。
かれは近いうちに、マグロであれなんであれ、
大きな事業で成功するだろうという予感がした。

わたしとは縁のない世界の話が新鮮で、風呂場に思いのほか長居をしてしまった。
そのあいだ入ってきたのは日本人だけだった。
男の話だと、このフェリーの今日の乗客はわずか50人くらいということである。
ほとんどが日本へ出稼ぎに行く中国人女性。
一度など5人しか乗客のいないこともあったという。
貨物輸送がメインだからそれでも十分に採算が取れる。
男のマグロもこのフェリーで青島へ輸出している。
青島の日本料理店等へ卸している。
だが、中国人相手のビジネスは気を抜くことができない。
こうして男が頻繁に現地へ行かなければならない理由である。
いまは青島のみを対象にしているが、いつかは中国全土を相手にしたいと思っている。
そのための営業も少しずつはじめているという。
われわれは1時間近く風呂場にいたと記憶している。

大部屋に戻りベッドでごろごろしていると日本語と中国語で放送が入る。
いまから1時間、食堂を開く。みなさまのご利用をお待ちしている、という内容だ。
マグロ屋さんといっしょの座席に着く。かれから教えてもらう。
「いまこの食堂にいるのって、全員日本人ですよ。
なぜかっていうと高いでしょう。日本人にとっては大した金額じゃないけど、
中国人はとてもこんな食堂で食べられない。
いまごろ中国人は持ち込んだものを食べているはずです。
ところが、明日の朝になったら中国人であふれかえります。
なぜかというと朝食は料金にふくまれている。ただだと中国人は来るんです」
ベテランのかれにおすすめのメニューを聞くと、
ぜんぶ試したがひとつもおいしい料理はないということである。
「いつも船長にいってるんですよ。この食堂をもう少しなんとかしろって」

わたしは700円の唐揚げ定食と200円の青島ビールを注文した。
マグロ屋さんと乾杯する。
少し酔ったのか、船上の昂揚からか、男はこんな告白をした。
実は自分は在日朝鮮人だというのである。
いや、男は在日コリアンという言葉を使った。
自分が在日だと知ったのは中学卒業まえのことで、
日本人ではないのかと当時はそれなりにショックだった。
高校は朝鮮系のところへ行くことにした。そこで学んだから、いまではハングルも話せる。
男がどうしていきなりこんな告白をしたのかわからなかった。
月並みだが、ひとにはいろいろな事情があるのだとあらためて思う。
わたしの狭い交友関係に在日のかたはいないので新鮮だった。
「自分が日本人じゃない。コリアンだって、思うことはありますか」
そんなことを思うことはないと男はいう。ただ焼肉が好きらしい。
「とくにハラミが好きでしてね。家族と焼肉を食いに行くでしょう。
ぼくたちで店にあるハラミをぜんぶ食べちゃうんですよ。
早く日本へ着かないかな。腹いっぱいハラミを食べたい。想像するとよだれが出る」
奥さんは日本人だという。
わたしは男が妻子とハラミを食べているところを想像して微笑ましくなった。
このひとにはちゃんとした生活があるんだなと思う。
食堂が閉まるまでわれわれはビールをのみながら話した。
かれが話した。わたしは聞いた。
最後にマグロ屋さんは、「なんでこんな話をしちゃったんだろう」と首をかしげていた。

食後はこのマグロ屋さんが中心となり、日本人の有志がラウンジに集った。
芋焼酎を持っているものがいて、これでものみながら話そうということになったのである。
といっても、わたしを入れて5人の小さなグループである。
そのなかにわたしのように海外をふらふら遊び歩いているものはいなかった。
けれども、日本人はみないちようにやさしく、わたしを批難するような言葉は聞かなかった。
芋焼酎を提供してくれた50過ぎの男性は、若い中国人の奥さんと乗船している。
まだ小さい子どもがふたりいて、奥さんは子どもをあやしながら話に加わった。
こういっては失礼だが、男性には不似合いなほど、若くて美しい奥さんであった。
いまは奥さんの実家に里帰りした帰りだという。
旦那は会社員。中国人の奥さんは日本のガイドをしている。
日本を観光に訪れる中国人ツアーのガイドである。
一家は下関から新幹線で東京へ帰るという。

もうひとりの日本人は四国、香川の在住だそうだ。ひとのよさそうな老人である。
このたび定年退職になったのでひまができた。
下関から安くフェリーで行けることを知り、青島へ行ってみようかと思った。
海外をひとりで旅するのはこれがはじめてである。
「そのお年ですごいですね」と感心する。
いやいやと謙遜していたが、それでもまだ旅の興奮のただなかにあるようだった。
青島に1週間いたという。老人個人旅行者の武勇伝をみなで興味深く拝聴する。
奥さんはいるが、いまさら海外なんて行きたくないといっている。
「お土産はなにか買ったんですか」とわたしは聞いてみる。
かれはうれしそうにロレックスをふたつ取りだした。
「もちろんにせものなんですが、なかなかよくできているでしょう。
はじめは1000円っていってたのが、どんどんさがってふたつで1200円になっちゃった」
この腕時計の購入がいちばんの旅の思い出だったのかもしれない。
下関の税関で没収されないか不安で、とおびえていた。
消灯時間のアナウンスが流れ、散会した。
わたしはひさびさの芋焼酎にすっかりいい気分になっていた。
大部屋に戻りベッドに横になる。日本はいいなと思った。日本人はやはりすばらしい。
中国人のように自己主張が激しくない。おだやかである。謙遜を知っている。
とてもいい船に乗り合わせたとわたしは幸福のうちに眠りについた。

翌朝は寝坊して無料の朝食を食べ逃したが、船酔いだろう。
食欲もないので大して悔しいとは思わなかった。
この日は終日船のなかである。下関へ到着するのは明朝だ。
わたしは船内にある週刊新潮と週刊文春のバックナンバーをごっそり持って、
大部屋のベットへひきこもった。自動販売機で缶コーヒーを買ってきた。
3ヶ月半ぶりに日本の世界へどっぷり浸かろうと思ったのである。
週刊誌はどうでもいいうわさで満ちあふれており、これから日本へ戻ると、
自分もこれらどうでもいいことに深く関心を寄せていくのだと思った。
ランチタイムの放送があったので食堂へ行きビールとカレーライスを注文した。
それからまた大部屋へ戻った。どうしてかひとりになりたかったのである。
もう週刊誌を読みあさろうとは思わなかった。明日は日本なのである。
こんなところで情報収集などしなくても、日本は向こうから襲いかかってくることだろう。

わたしは寝転がり目をつむった。この3ヶ月半のアジア旅行のことを思った。
この3ヶ月半をいったいどのように総括したらいいのだろうか。
日本を目前にしたわたしは、たかだか旅行ではないかと知りながらも、
総括などという大仰なことを考えていた。
旅先で出会い別れたひとの顔がつぎつぎに思い浮かぶ。
その大半と今後の人生で会うことはないだろう。一回きりの出会いと別れであった。
わたしはかれらのことをなにも知りえなかった。
かれらも旅行者のことなどすぐ忘れることだろう。
しかし、われわれは出会いそして別れた。まったく無意味であった。
こんかいの長旅がこの先のわたしの人生で役立つことは決してないだろう。
だから、よかったのだと逆説的にわたしは思う。
この3ヶ月半を要約すれば、壮大な時間と金銭の無駄である。
人間にとって大切とされるふたつのものを、どぶに捨て去ったのだ。
それがよかった。どれだけ慰められたか。
おそらく幼稚なのだろう。この旅に出るまえのわたしはいつもおのが不遇を嘆いていた。
自分はいつも貧乏くじばかり引いていると幼児のように駄々をこねていたのである。
だが、いまとなってはもうそんなことは思わないだろう。
この3ヶ月半がどれだけ楽しかったか。生きていてこんなに充実した時間はなかった。
どこまでも無意味で無益な旅という享楽にわたしは溺れきったのである。
人生の帳尻があったと思う。これでプラスマイナスゼロである。
さあ、これからだとわたしは思った。
風呂場のオープンを知らせるアナウンスが船内に流れる。
まだ旅は終わっていないのである。よし、風呂に入るかとわたしは立ちあがった。
湯ぶねに浸かろう。汗をかこう。それからビールをのもう。メシを食らおう。
ひとがいたら話をしよう。ひとの話を聞こうじゃないか。まだ旅は終わっていない。
消灯時間になったらここへ戻ってくればいい。眠って朝になれば日本である。
わたしは風呂の準備を脇にかかえ、だれもいない大部屋からおもてへ出た。

(アジア漫遊記・完)
青島の朝は海を見に行くことからはじまる。
わたしは銀行やデパートが軒を連ねる青島随一の繁華街、
中山路にあるホテルをねぐらとしていた。
この旅、最後の宿泊施設はなかなかのものだった。
一日だけお湯の出ない日があったが、金額面でも立地の面でも申し分なかった。
歩いて5分以内の場所に銀行、ネットカフェ、24時間営業のスーパーまであった。
海もそのうちのひとつだった。
起床して洗顔をすますと、わたしはまるで日課のようにまず海をめざした。
それから朝食をどうするか考える。
屋台のその場で焼いてくれる中国風お好み焼き。
日本へ行ったことのない中国人のつくる巻き寿司(醤油はないかと聞いたら驚かれた)。
またある朝は、マクドナルドでフィレオフィッシュにかぶりつく。
おいしいものもあれば、そうでないものもあった。

朝食を終えると目的もなく歩いた。とりたてて観光をしたい場所は青島にはなかった。
ただ異国を歩きたかったのである。海岸線にそって歩くことが多かった。
水族館や博物館に行き当たるが、入ることもなく先を急いだ。
もうこのへんでいいかと思うと引き返す。
いま来た道なのになぜかそうではないような新鮮さがある。
急いでいるから汗ばむ。海風を意識する。大海を見やる。
急ぐ必要はなにもないのに急いでしまうのは横に海があるからかもしれない。
海の広さにちっぽけな人間はあせってしまう。
日差しがきつくなると、ひと休みする場所を探した。
どこにもかならずビールをのませる場所があった。
青島の人民は中国平均の3倍ものビールを年間で消費するという。
そのためには夜だけでは時間が不足するのだろう。
昼からビールをのむことが青島では罪悪ではなかった。青島はビールの町だった。

町のあちこちにビールの樽が置かれている。
青島で人民はこの樽からビニール袋にビールを入れてもらい持ち帰る。
スーパーでもらうようなビニール袋にビールを入れるのである。
そんなお土産ビールをぶらさげた人民がたくさん出てくる通りへわけいると、
そこは天国だった。お洒落な中山路を少しばかり脇道へ入っただけで、
こんな雑然とした海鮮市場があるとは思いもよらなかった。
ありとあらゆる海産物がハエにたかられながら売りに出されている。
魚のひとつをその場で焼き上げてくれる屋台がある。
香ばしい煙が食欲をそそりひと皿を買い求める。

どこで食べようか迷っていると、黒ビールのはかり売りをしている露店がある。
黄色い青島ビールの樽ならほうぼうで見かけたが黒ビールとはめずらしい。
ベンチとしても使えそうな置物があるので、ここでのんでもいいかと身振りでたずねる。
かまわないとおばさんがいう。先ほどの焼き魚を脇へ置き、黒ビールを指さす。
一度、例のビニール袋に入れ重さをはかってから定量分をわたされる。
どうやってグラスに入れたらいいかわからずまごついていると、
実にうまいものでおばさんがふしぎな手つきでビニール袋からビールを開放する。
黒ビールも焼き魚もけっこうな味である。
なによりいいのは往来の人民かもしれない。市場は雑多な人間が交差する。
かれらを見ていると、中国流の生活がなんとなくわかりおもしろい。
ひとりがわたしの横へ座り、おなじようにビールをたのむ。
やはりここはそういう場所だったのかとうれしくなりわたしは黒ビールをおかわりする。

いつしか夕餉(ゆうげ)の仕度をする時間になっていた。
この露店の左前にある店舗は総菜屋だったようで、できたてのおかずが山盛りにされる。
こういうご飯のおかずでのむ酒がうまいのである。
品数がそろった頃合を見はからい、中華風惣菜を数品、少しずつ買い求める。
選ぶのがことのほか楽しい。食べものをまえにするとうきうきしてしまう。
つくりたての家庭惣菜をつまみに黒ビールをのむ。
日本人の口にも合うものがあれば、これは勘弁してくれというものもある。
そうしているうちに買物客が集まり、惣菜の山々が徐々に崩されてゆく。
わたしは長居したことを詫び、日が沈むのでも見ようとふたたび海をめざす。

別の日、例によって歩いていると回転寿司屋を発見する。
高いのを承知で入ってみる。手に負えない金額だったらビールの1本で出てくればいい。
寿司なんてこの3ヶ月というもの見かけたことさえなかったので、
看板の誘惑にどうしても逆らうことができなかった。
寿司は高いものでひと皿100円程度。
帰国をまえにしたわたしはそう高いものではないと安堵したが、
考えてみれば寿司ひと皿の料金で中華ソバが楽に食べられるのだから贅沢品である。
そのためだろう。客はほとんど入っていなかった。
少ない客はみな寿司をカメラで撮影していた。
回転するレールはあったが皿はまわされておらず寿司は各自で注文する形式だった。
海産物の町、青島ということで期待したが、ネタにはがっかりさせられた。
これは使用されるものが青島に水揚げされる新鮮な魚介類ではなく、
どこかべつのところから運搬されてくる冷凍品だからではないかと思う。
それでもきんきんに冷えた青島ビールで、
形ばかりとはいえ寿司をつまめるのはうれしかった。
日本と異なるのはビールの安さ(90円)である。
少ない寿司でいかにたくさんの青島ビールをのむかが
中国の回転寿司屋におけるわたしの流儀だった。
2日通ったのだが2回とも料金を水増しされた。
指摘すると訂正するのだからかわいいものである。おかみは中国人であった。

青島で1日だけ観光をした日があった。
道教の聖地、労山をメインとしたツアーに参加したのである。
メンバーはわたしをのぞいて、全員が中国人だった。
ツアーは目的の労山へはなかなか行かず
午前中いっぱいをかけて青島の観光地をめぐり、
なにをするかといえばそこで労山へ行きたいものを集うのだから、
あまりの商魂たくましさに怒りを通りこして笑ったものである。
昼食は無理やり提携している食堂に連れ込まれた。
付近に食べもの屋がほかにないその食堂は客で満員だった。
なんのことはない。ツアー客は全員、ここに誘導されるのである。
料理は想像を絶する高さとまずさでこれまた笑うほかないものであった。
ビールだけはそれほど高額ではなかったことに青島の意地を見た思いがする。

労山へ到着したのは午後2時。
2時間後の4時にここに集合といわれてようやく労山観光である。
敦煌でツアーに参加したとき、
中国人の時間に対するいい加減さに度肝を抜かれていたので、
たかをくくって集合時間に5分遅刻したらわたしが最後のツアー客だった。
思えば、敦煌ツアーでは若年層の多かったことが原因かもしれない。
一人っ子政策のため甘やかされて育った中国の若者は、
小皇帝といわれるほど自分勝手だと聞いたことがある。
この労山ツアーに参加したもののうち、いちばん若いのはおそらくわたしであった。
ツアーガイドのおじさんにダメじゃないかと笑いながら怒られる。
帰りは帰りで土産物屋に3つも行かなければならなかった。
驚いたのは、中国人ツアー客がこの土産物屋訪問をさして嫌悪していなかったことだ。
むしろ、嬉々として商品を買い込んでいたすがたが日本人には新鮮だった。

青島の夜は浮気をせずにひとつの店に通いつづけた。
この呑み屋に最初に入ったのは青島へ到着した日の昼間である。
その日から青島を発つまで5日間も通いつめることになるとは思わなかった。
入ったきっかけは外からのぞくと客がたくさんいたからに尽きる。
界隈には似たような海鮮物をメインとする食堂が密集していた。
店に入ると、みんな昼間から酒をのんでいたので微苦笑する。
まわりがみなのんでいるのは瓶ビールではなくピッチャーに入れられた生ビールだった。
これがうわさに聞く、できたてほやほやの青島ビールかと感動して注文する。
値段の安さもまた感動に価したが、口にふくむとそれはベトナムのビアホイと似ていた。
軽くていくらでものめるが大味なのである。
瓶の青島ビールと比較したくてオーダーすると、瓶のほうは冷えていないという。
これはこの店だけではなく、青島でも瓶ビールは冷えていないところが少なくなかった。
冷やしてのむのは、もっぱら生ビールということらしい。
宿泊しているホテルから近いこの呑み屋にわたしは翌晩の再訪を約束して、
瓶の青島ビールを数本冷やしておいてもらうようお願いした。

この食堂兼呑み屋は男の料理人がひとり。女の店員がふたりで営業していた。
女のひとりがとりわけ印象的だった。でかいのである。
なじみになってから身長を比べてみたら、176センチあるわたしと遜色がない。
美人というわけではなかったが、スポーツ選手のようなすがすがしさが好ましかった。
性格も男勝りのようで、酔客をたしなめるところを一度ならず目撃した。
決まってジーンズとTシャツで、その服装がスタイルのいい彼女によく似合っていた。
翌日の晩、ふたたび店を訪れると客はだれもいなかった。
昨日の喧騒はなんだったのかと思いながらビールをのむ。
思ったとおり、ビールは瓶のほうが緻密に造りこまれている感じがした。
だが、そのあとにのんだ生ビールも決して悪いものではない。
二日目だからという余裕から聞いてみると、
ここの料理人とノッポの女はなんの関係もないらしい。
てっきり夫婦か兄妹かと思っていたので意外だった。
年齢もはずした。わたしとおなじくらいではと思っていたのだが、なんと22歳だという。

この日、キュウリの和え物と魚料理を注文すると女ふたりが困っている。
長身のほうが携帯電話でだれかと真剣に話している。
なかなかつまみが出てこないのでトイレへ行くふりをして厨房をのぞくと、
背の高いほうのおねえさんがキュウリと格闘していた。
それはまさしく格闘といった風体であった。
料理人が場をはずしていることを知る。
おそらくさっきの電話でレシピを聞いていたのだろう。
わたしに見られていることに気づくと女はよほどあわてたのか
包丁を持ったままこちらに近寄り、見ないでくれというしぐさをした。
包丁があぶないので、わたしも真顔で退く。
女も自分の手にしている凶器に気づき急いで包丁をおろし照れ笑いをした。
このキュウリ料理だけ何度も「おいしいか?」と聞くのがわかりやすかった。
しばらくすると料理人が戻ってきて魚の調理にかかった。
キュウリのそれは好物で中国各地で食べてきたが、これはひどくまずかった。
けれども、つくっているところを見た以上、まさか正直な感想を伝えるわけにもいかず、
「好吃(うまい)」といいながら残さず食べきった。

中国最後の晩もなぜかこの店に足が向いていた。
もしかしたらわたしが顔をだすたびに例の背の高い女の見せる、
また来たかこの呑み助め、
という薄ら笑いに被虐的な快感を感じ取っていたのかもしれない。
いつもの席に座り見まわすと今日はわたし以外に客もいるので安心する。
この食堂が盛況だったのは初日だけである。
しばらくビールをのんでいるうちに今日はあのノッポのねえちゃんがいないことに気づく。
どうしたのかをもうひとりの店員に聞くのもバカらしいので、
そのまま青島ビールをのみつづけていると、場にそぐわぬ格好をした女が入ってくる。
ぽんと肩をたたかれて見あげると、あの長身の女であった。
なにか店に言伝でもあったらしく、すぐに女はまた出て行った。
いつものようなジーンズとシャツといったラフな格好ではなく、
えらく短いスカートをはいていた。
似合わないのになと思いながらビールのおかわりを注文する。
あたらしいビールを持ってきた背の低いほうの店員が意味ありげな笑みを浮かべている。
なにやら中国語で話しかけてくる。
わたしは酔っぱらうと中国語のヒアリング能力が飛躍的に伸びるのである。
たぶん、こういっていたと思う。いや、間違いないと思っている。
――いまからあの子、デートなんだよ。残念でした!
誤解されていることに愕然とした。
わたしは断じて女目当てに店へ通うような酒のみではない。
きみは誤解しているということをなんとか店員へ伝えたかったが、
中国語でそれをどういえばいいのかわからない。
まったくひどい誤解だとわたしは憤慨した。侮辱されたとさえ思った。
カッカしながらビールをのみほしていったが、
そのうちほんとうに誤解なら怒ることのほうがおかしいことに気づき、
なんだか楽しい気分になったわたしはひとりでくつくつ笑ったのだった。
これが青島のみならず中国最後の晩であった。

翌日は朝からお土産の購入に忙しかった。
というのも、中山路の中国銀行ではどういうわけか外貨両替ができなかった。
わたしの目的を知ると、脇にバッグをかかえたあやしげな中国人が近寄ってくる。
両替なら請け負うよ、というのである。どうしてもかれを信用することができなかった。
わたしは余った人民元でお土産を大量に買うことに決めた。
土産品購入に思いのほか時間を取られ、
ホテルのチェックアウト時間にあやうく遅れるところだった。
下関行きフェリーの乗船受付の締め切りは16時でまだ時間がある。
さて、どこでのむべきかと迷う。
最初に思いつくのはノッポのねえちゃんの店である。
しかし、昨日受けた屈辱的誤解を思い出し、行くもんかと思い直す。
いやいや、とさらに思いをめぐらす。
ここで行かなかったらあの誤解を認めるようなものではないか。
自意識の鎖はここ中国においてもわたしをがんじがらめにするのである。

疲れ果ててここ青島に到着した日にのんだあのビールの感動が忘れられないと思った。
青島ビールをのみはじめたのがあの食堂なら、のみ終わるのもおなじでありたい。
わけのわからない理屈をつけて、わたしは例の食堂へ向かう。
店内へ入ると今日はまるで初日のような混雑ぶりである。
ランチタイムが忙しい店なのかもしれない。
ノッポのねえちゃんと目が合う。いつものジーンズすがたである。
また来たのか酔っぱらいめ、といった感じで女は顔をゆがめて笑った。
おまえなんか好きじゃないからな、おれはビールが好きなんだ。
目で精一杯語ろうとしたが、伝わったか自信がない。
注文しないうちにノッポがビールを持ってきたから、もしかしたら伝わったのかもしれない。
わたしは今日はじめての青島ビールを勢いよく流し込んだ。
日本へ帰れなくなるかもしれないとあわてたのは5月12日、
大連のネットカフェでのことだった。
朝から大連をあてどなく歩きまわったわたしは夕暮れどき、
目についたネットカフェに入った。
運よくここのパソコンは日本語を使うことができた。
この日の時点で帰国日は5月17日となかば決めていた。
青島からフェリーで日本の下関に入るという計画である。
青島港から出発するこの国際フェリーは毎日運航するわけではなく週に2回。
月曜日と木曜日が運航日である。わたしは17日の木曜日の便に乗るつもりだった。
帰国するとなったら大ごとである。間違いがあってはならない。
念には念を入れようと、そのときわたしは「青島-下関」のフェリーを運航している
オリエントフェリーのホームページを熟読していたのである。
時刻表と書かれたところをクリックするとカレンダーが表示された。
カレンダーの下にこう書かれていたので驚く。
「ゆうとぴあ号は5/17からドッグ(定期検査)入りのため運休します」

これはいったいどういうことだろうか。
もしかしたら17日からとうぶん下関行きフェリーは運休になるのか。
そうだとしたら、最後のフェリーは明後日14日の便ということになる。
ホームページで確認すると乗船する場合、
当日の16時までに手続きを済ませなければならないという。
もし17日からのフェリー運休が事実であれば、
明後日14日の16時までに青島港に行く必要が生じる。わたしは狼狽した。
いまだ帰国するということに実感がともなわなかった。
明後日に帰国する? とすれば、中国にいられるのは今日を入れてもあと3日。
それもゆったりできるわけではなく、
この期間のうちになんとか大連から青島へ行かなければならないのである。
最後の最後でとんでもないハプニングが起こったなと茫然とする。
だが、こうしている時間も貴重であることに気づく。
いまこの瞬間にいろいろなことを決定しなければならないことを知る。
万が一、青島から下関へ行けなかったら上海にでも行くしかないのか。
たしか上海から大阪まで鑑真号というフェリーが出ていたはずだ。
この場合、山口県での俳人・山頭火の遺跡探訪はあきらめるほかない。
青島から飛行機で日本へ帰るという手もある。
しかし、長旅の最後が飛行機では情緒がないし、費用面でも負担が大きい。
飛行機を使うとなれば、考えるまでもなく、ここ大連からも日本への飛行機はある。

ひどく混乱していた。自分がなにをしたいのかわからなくなっていた。
整理してみようと思う。なぜ青島なのか。どうして青島へ行きたいと思ったのか。
かの地は青島ビールで知られるよう、いわばビールの聖地である。
こんかいの3ヶ月にわたるアジア旅行でどれほどビールをのんだことか。
だから、最後に青島ビールで締めたいと思ったのではなかったか。
そのうえ青島から下関へフェリーが出ているというのも都合がよかった。
東京にストレートで戻るより、下関から上京するほうが旅として上質に思えたのだ。
やはり青島へ行きたい、行かなければならないと思う。
いつしか最後は青島ビールと夢見ながら中国大陸を移動していた。
ならば問題の所在はどこにあるのか。
果たしてほんとうに17日からの下関行きフェリーが運休されるのか、ということだ。
知らなければならないのはこのことである。

どうすれば知ることができるのか。直接問い合わせるのがいちばんである。
連絡先としてはふたつある。青島と下関である。
さらなる問題としては今日は土曜日ということがある。
週休二日のところなら業務は休みであろう。
ここで壁にぶつかる。わたしは中国で電話を使用したことがないのだ。
どうやって公衆電話を使えばいいのかわからない。
かりに電話が通じたとしても、わたしの語学力では意思疎通は不可能である。
ホテルのフロントにたのむという手段もあるのだが、
いま宿泊しているのは正規のホテルではないのでさすがに無理であろう。
となったら、下関のオリエントフェリーへ問い合わせるしかない。
ここなら日本語が通じる。だが、わたしは国際電話のかけかたを知らない。ひらめく。
日本にいるだれかが下関のオリエントフェリーに電話して聞いてくれればいいのだ。
かんたんなことだ。5月17日の下関行きフェリーは運航しますか?
これだけでいいのである。向こうはハイ・イイエで答えられる容易な問いだ。
困ったのはもう午後5時をわずかに過ぎている。定刻業務なら終了していてもおかしくない。
わらにもすがる思いで、わたしは2ちゃんねる文学板の雑談スレッドへ書き込んだ。
というのも、わたしは長いこと、この板のコテハン(固定ハンドル)だったのである。
だれかここへ電話して聞いてくださいと懇願した。
まさか日本の2ちゃんねるにこのような使いみちがあるとはこのときまで知らなかった。
当時、2ちゃんねる文学板に終日常駐していた鈴木雄介氏が反応してくれる。
かれはこちらの生殺与奪権を握っているとでも思ったか、やけに尊大な態度だった。
背に腹は代えられない。腰を低くしてお願いした。電話代ならいつか返すからと。
鈴木雄介氏が下関のオリエントフェリーへ問い合わせた結果は運休であった。
17日からしばらくのあいだ青島から下関へ行くフェリーは運休する。
このあと友人のムー大陸氏が電話してくれたようだが、そのときはつながらなかったという。

今日は12日。明後日14日が、下関行きフェリーに乗る最後のチャンスである。
腹を決めた。旅の最後がこうまであわただしいのも、わたしらしくていいのかもしれない。
動こうと思った。いまから全速力で青島へ向かおう。
大連から青島へ行くための最短ルートは、まず大連港からフェリーで煙台まで行く。
煙台から青島までは200キロほどの距離で、長距離バスが出ているという。
今夜のフェリーに乗船すれば明朝には煙台へ着くはずである。
当初の予定では煙台で一泊するつもりだったが、いまとなってはもう時間がない。
煙台観光を飛ばしてすぐさま青島へ向かえば計算上、
明日の昼くらいには青島へ到着する。
本音をいえば、夜の移動は嫌いなのだ。夜はゆっくりお酒をのむ時間だと思っている。
だが、もはや贅沢はいっていられない。
一刻も早く青島へ着き、一杯でも多く青島ビールをのまなくてはならない。
ネットカフェを出ると、その足で今晩の夜行フェリーのチケットを買いに行く。
大連のあちこちに営業所があるから便利である。
本日22時に大連港を出発する豪華客船「普陀島」の四等寝台のチケットを買う。
横になれる寝台席としてはもっとも低額のものである。160元(2400円)だった。

ホテルに戻り荷物をまとめる。
ほんらいならチェックアウトは明日だが緊急事態発生である。
小金をケチっていると日本へ帰れなくなってしまう。
それほどに長期旅行者にとって帰国のタイミングというのはむずかしい。
なにしろ復路のチケットを捨てているのだから。
冷蔵庫に缶ビールを冷やしていたことを思い出す。アサヒスーパードライである。
もったいないのでのむlことにする。まだ乗船までには時間がある。
事態の急変がわれながら呑みこめない。
日本製のビールをのみながら部屋のなかを歩きまわる。
このままいくと明後日には帰国の途に着くのか。
旅には終わりのあることを頭では理解していたが、なかなか実感がわかない。
あと3日しか中国にいることができないのか。何回、酒がのめるだろう。
まずは今晩。というか、いまのんでいる。それから明日青島に着いてから。
ああ、とうめきをもらす。とすると、明日が中国最後の晩になってしまうのか。
なにかまだ中国でやり残したことがあるような気がするが、それがなんだかはわからない。
気があせるばかりである。つづけざまに缶ビールをあける。
旅が終わるということが信じられない。
終わりを意識すると、このような一瞬一瞬がとても貴重に思えてくる。

バックパックをかつぎホテルを出る。
いまわたしは最後の目的地に向かおうとしている。そう思うと胸中に感傷が満ちた。
いざ、青島である。だが、酔わないといけない。わたしは酒をのまないと眠れない。
しかも今宵の寝床はとうてい快適とは思えぬ船のなかである。
少しでも多く酒を入れておかなければと思う。餃子の王将はやめよう。
もう日本へ帰るのである。帰国したらいくらだって行けるところではないか。
なら、どこへ行くか。時間に余裕はない。はじめての食堂で料理に時間を食われると困る。
わたしは昨夜売春婦と行った呑み屋をめざした。貝を炒めてもらいビールと食した。
ここから大連港までタクシーでどれくらいかを店のおばさんに聞く。
この程度の中国語ならいつのまにか話せるようになっていた。
もう中国語を話すこともあるまいと思うと、あらためて旅の感傷がこみあげてくる。

フェリーは思っていたよりもはるかに大きなものだった。
船内はあたかもホテルのようである。
ロビーあり、売店あり、客室あり。ホテルマンのかわりに乗務員がいる。
四等寝室は二段式のベッドが6つ並べられていた。12人が一室で眠る。
向かいのベッドを割り当てられたのは若い夫婦であった。
旦那のほうがカップラーメンをたくさん持参しているのを見て失敗したと思う。
ラーメンのひとつでも買ってくればよかった。あんがい船内でも買えるのかもしれない。
気のよさそうな若夫婦に、それはどこで買えるのか、と聞く。
中国語というより、ほとんど身振り手振りであった。
旦那さんが待てという。もう少しで出発だから、それを待っていっしょに行こうという。
「一起去」という中国語をわが耳は聞き取った。
さあ、行こうと旦那がいう。見ると、行列ができている。
船内の食堂が22時から1時間だけ開かれるものらしい。
カップラーメンくらいでよかったのだが、
せっかく食堂があるのなら、入ってみるのも悪くない。
男は、わたしが日本人ということで興味を持ったようである。
かれは中国語でいろいろ質問してくる。申し訳ないが、わかるのは断片のみである。
それでも、かれはあきらめないで、ジェスチャーをまじえて会話を試みている。
その真摯な姿勢はたしかに善意そのものというほかなく、わたしは打たれた。
知らないひとと話したい。ものを知りたい。仲良くなりたい。
そういった人間が根源的に有する率直な欲求をかれは全面に打ちだしていた。
旅先のせいか、帰国の迫っていたせいか、
わたしにはその態度がとても人間的で、なおかつあたたかいものに思えたのである。
人間が本気になれば、かなりのところまで言語を抜きに理解しあえるのかもしれない。
たぶん、かれはこのときこういっていた。
まったくの偶然にわれわれはおなじ船に乗り合わせた。
せっかくだから仲良くしようではないか。

船が動きはじめた。見てみろとかれが窓のそとを指さす。大連港が遠ざかってゆく。
ほどなくして食堂のドアが開くと、人民が行列を無視してなだれこんだ。
出来合いの料理が並んでおり、そこから乗客は食べたいものを選ぶのである。
わたしは無難な二品を選択した。冷たくはないがビールもあるようだ。
「あのビールって、いくらなの?」
かれにたずねると、今度はかれが中国語で大声をあげ聞いてくれる。
「6元だってさ。高いったらない」
たしかにスーパーで買えば2元、町の食堂でたのめば3元のビールが6元とは高い。
だが、日本円で考えたら、たかだか90円である。
人民元が余っていたこともあり、わたしはビールを2本注文した。
どう見ても年下のかれにご馳走したいと思ったのである。
聞くと、やはり年下で27歳。友人の結婚式に出席した帰りだという。
かれが冠婚葬祭用と思われるスーツを着ていた理由がわかる。
酒は嫌いではないらしく、おいしそうにのんでいたのだが、すぐに顔が赤くなった。
お互いのつまみをわけあいながらの船上での楽しい日中交流は
食堂が閉まるまでつづいた。
その間、もう一度、わたしはビールを買うためレジまえに行列した。
中華料理はどれもおそろしく塩辛く、わたしは白酒を欲した。
その旨を何気なく告げると、いいというのに、
どこかしらからかれは白酒の小瓶を持ってきた。
いくらお願いしても代金を受け取ろうとはしなかった。
中国では人間と人間の距離が近いのだなと思う。
それはときに異邦人をしてぶしつけと怒らせるたぐいのものなのだろう。
船の揺れはまるで感じなかった。
われわれはいまにも肩でも組みそうな連れ合いとして寝室へ戻った。
かれの奥さんは、顔の赤い亭主を見て、またこのひとはというような表情を浮かべる。
なんだか決まりが悪くなり、男ふたりは顔を見合わせる。
消灯の時間が来たので、それぞれベッドへ寝転ぶ。果たして眠れるか。
わたしはベトナムで買った睡眠薬の存在を思い出し、それを余った白酒で流し込んだ。

目が覚めると、船はすでに煙台港へ接岸していた。
船内のトイレに行き、旅の終わりにしてはじめて、
悪評高い中国便所の強烈な洗礼を受ける。
どの便器にも大便が幾層にもわたって積み上げられているのである。
流そうとしても流れない。腹中は急を要している。目をつむり鼻をつまみ用をたす。
わたしがドアを開けると、中国人が並んでいた。
便器の惨状が目に入った先頭の中国人がこれはひどいと顔をしかめる。
それはちがうと思う。この便器はまだましなほうなのである。
もっとひどいのがいくらでもあった。
このとき、おかしな充実感があった。このような便所を使いこなしたことで、
日本人のわたしもようやく中国へ受け容れられたようなふしぎな喜びを感じていた。
岸に降り、時計を見るとまだ朝の5時である。
同室の若夫婦と別れ、さてどうしようかと思う。
ガイドブックには青島行きバスの始発は朝の6時と書かれている。
とはいえ、煙台バスステーションがどこにあるのかもまだわからないのである。
まずはそこから探すとするかとバックパックをかつぎあげると、
「どこへ行くんだ」と聞かれる。青島と答えると、車に乗らないかという。
タクシーなんて乗れる贅沢な身ではないから断わろうとすると、たったの50元だという。
ガイドブックによると、バスで行ったとしても料金は50元である。
それならと承諾すると、あの車だと教えられる。
なんのことはない乗り合いタクシーであった。
それもおそらく許可を受けていない白タクと思われる。
自動車の前部に運転手と乗客2人。後部には4人が詰め込まれた。
わたしは後部座席の窓際の位置を確保した。
よくできているものだと思う。
バスが走っていない時間でもこのような白タクがあるのだから。

ほかの車がほとんど見当たらないまっすぐな道路をタクシーはかなりの速度で走る。
流れゆく風景をながめながら、こんなにうまくいっていいものかと思っていた。
この調子なら9時まえには青島へ到着するのではないか。
もし明日帰国しなければならないとしても、まだこの時間である。
今日という丸一日を青島観光に使うことが可能だ。わたしは興奮していた。
午前8時を過ぎたころ、乗客はみな降ろされる。ここが青島だという。
わたしが青島港へ行きたいというと、みんなタクシーへ乗るのがいちばんだという。
白タクの運ちゃんは、流しのタクシーをとめてくれる。
あと中国へいられるのもどのくらいかわからない。
ここでケチっても仕方がないとわたしはタクシーに乗ることにする。
下関行きのフェリーが発着する青島港へ着いたのは8時半であった。
カウンターが開くのは9時のようである。30分待つことになった。
下関という文字が大きく表示されているのを見て、
ここは日本へ通じているのだと熱いものがこみあげてきた。
9時になってもだれも現われない。
しびれを切らしたわたしは無人のカウンターで呼びかける。
「だれかいませんか。聞きたいことがあるんですけど」
日本語である。女性の服務員が登場する。日本語は通じないようである。
筆談もまじえながら、5月17日の下関行きフェリーは運航するのかどうか問う。
なんと、運航するというではないか。
あやしまれているのはわかっていたが、何度も何度もたずねた。
ほんとうに5月17日も、ここから下関行きのフェリーが出るのですね?
わたしの異常な喜びように最初は困惑していた服務員も、
なんだかよくわからないけどよかったねという感じに笑みを浮かべている。
今日は13日である。今日も入れたら、あと5日間も中国へ滞在できるのである。
明日帰国しないでも済むのだ。バンザイと叫びたい思いだった。
誤った情報を伝えた、2ちゃんねる鈴木雄介氏への怒りはまったくなかった。
ささいな怒りなど吹き飛ばしてしまうほど、わたしは歓喜していた。
最終目的地の青島へ到着したのがうれしかった。
青島に5日もいられるのがうれしかった。なんに怒る必要があるのかと思った。
わたしは3ヶ月ものあいだ馴れ親しんだバックパックをふたたびかつぎあげる。
最後の宿泊場所を探さなければならない。
そして、青島ビールでのどをうるおさなくてはならない。
建物を出る。快晴である。青島の日差しを全身に浴びる。
大きく息を吸いこみそれをすべて吐きだすとわたしは市街地へ向け歩きはじめた。
瀋陽、長春とかつて満州といわれた地域をめぐりこのたび大連へいたるにあたって、
いよいよわたしのなかで日本の存在感が増していった。
いつしか日本を思う旅になっていた。
旧満州地方に先の戦争関連の観光地は少なくない。
瀋陽では9・18博物館、長春では偽満皇宮博物院、偽満州国務院を参観した。
忌わしき日中戦争の記憶を風化させじという、
いうなれば戦争絶対反対の平和思想は少なくともわたしには感じ取れなかった。
罪を憎んでひとを憎まずと日本人が原爆を落としたアメリカ人を歓迎したのとは対照的に、
中国は日本の罪も国民も決して許さないぞと強くアピールしているのが印象的だった。
左翼思想も右翼思想も理解できないこの愚人は、
ただもう資料館のニッポンがなつかしかった。
中国共産党が人非人と弾劾する日本人兵士の写真、資料も、
無知な旅行者には故国を偲ばせるものでしかなかった。
日本を離れて3ヶ月が経過していたのである。

大連はこれまで訪問した中国の都市のなかでもとりわけニッポンを感じさせた。
繁華街を歩くと、マクドナルド、ケンタッキー、吉野家、おまけに餃子の王将まであった。
餃子の王将は大学時代にサークルのコンパで利用したものである。
そこには二店舗、日本資本と思われる中華料理屋が並んでいた。
右に餃子の王将。左横には味千ラーメンである。日本語でラーメンと書いてある。
このようないわば日本料理店は高いことを知らないわけではなかったが、
もう我慢できなかったのである。どちらに入ろうか迷う。
味千ラーメンというのは聞いたことがないから、こちらに入ろうかと左へ身を向けると、
餃子の王将から従業員が出てきて、どうしてわたしが日本人とわかったのか、
いかにも中国人らしい発音でそれも笑顔で「いらっしゃいませ」というのである。
餃子の王将に大学卒業以来、ひさかたぶりに入ることになった。

定番の焼き餃子7元を注文する。
のみものは生ビール。アサヒスーパードライ10元(150円)を勇気をだしてたのむ。
そこらへんの中国メシ屋ではビールは3元なのである。
それが餃子の王将で、それも日本製の生ビールとなると3倍の値段になる。
理不尽だという思いはぬぐえなかったがニッポンが恋しかった。
スーパードライをのみたかったのである。
ひと口のんで震えがとまらなくなる。ビールとはこうまでうまいものだったのかと驚いた。
ふくよかな麦の味が繊細で、口内のここかしこにやさしくしみこむのである。
これならつまみはいらないと思った。
このビールならつまみなどなくても、何杯でもビールだけでたのしめる。
焼き餃子が登場する。中国人は餃子を焼いて食べる習慣がない。
したがってこれは日本料理といってもよい。酢、醤油。ラー油をたっぷり。
餃子を口に入れる。中国でこれほどうまいものは食べたことがないと感動した。
どうにもこうにも日本人なのである。
エビチリ28元(420)円を注文したかったが、これは明日にしよう。
生野菜のサラダが食べたい。スモークサーモンの乗ったサラダをオーダーする。
味比べをしようと、中国製の北京ビール6元にのみものを変更。
大瓶だから先ほどのスーパードライよりはるかに分量はある。
しかし、スーパードライをのんだあとでは、こんなものはビールではない。
よくもまあ中国で毎日こんな小便くさいビールをのんでいたものだとあきれてしまう。
それからもう一杯アサヒスーパードライをのむ。
けちくさい話だが日本円で考えたら生ビールの150円は、それでもなお安いのである。

気持よく酔っぱらって店をあとにする。
思えば、これまでアジア各地でひたすら酔うためにだけ酒をのんできたなと反省する。
酒は味わうもの、そしてうまいものなのだと、
日本ではB級グルメに属するであろう餃子の王将に教えられる。
中国人とおぼしきひとり客がカウンターに大勢いたが、
そういえばだれひとりとして北京ビールなど注文していなかった。
全員、アサヒスーパードライである。それはそうだよな。
ひとたび日本のビールをのんでしまったら最後、中国のビールはとてものめやしない。
しあわせなほろ酔いのただなかでホテルへ戻りシャワーを浴びる。
こうなるともうすることがないので、ふたたび夜の大連へ繰り出す。
もうビールはたくさんだから中国でしかのめない白酒をいただこうという計画だった。

ホテルを出ると中国人女性が近寄ってくる。
わたしは高級ホテルの一室を偶然から格安で利用していた。
ホテルの服務員が、経営陣から夜勤や仮眠のときのためにあてがわれている部屋を、
こっそり内緒でまた貸しをする。そういう一室になぜかわたしは送り込まれた。
ある夫婦の客引きにつかまったのがきっかけである。
ツアー料金とセットで徴収された合計金額は、およそ信じられない安さであった。
こういう事情で、彼女はわたしを裕福な日本人旅行者と思ったものらしい。
だが、これではわたしが日本人であることを嗅ぎつけた理由にはなっていない。
おそらく彼女の長年の商売における勘が、
一見だけでは区別のつかない日中の相違を、判定させたのであろう。

「マッサージ、どうですか?」
片言の日本語である。日本語で書かれたカードを見せられる。
何年おなじものを使っているのか薄汚れている。
見ると、若い女性の半裸体が印刷された、いかにもなそれである。
価格は見なかった。「いらないよ」と日本語で断わる。
早足で先を急ぐ。ふと気づくとぴったり彼女に尾行されている。
「ついてくるなよ」
わたしが大声をあげると、彼女の取った行動がおもしろかった。
うえーん、と日本語そのままの発音でいい、
両手を目のところまで持ちあげ泣きまねをするのである。
こんな技術を教えたのはいったいどんな日本人なのかと思わずふきだしてしまう。
これが彼女の作戦だったのか、泣きまねのあとは笑う。
かなわないなと思う。わたしが適当なのみ屋に入るとこの女も図々しくついてくる。
無視してテーブルに座ると、ちゃっかり反対側に腰をおろしている。
白酒をたのむ。コップがふたつだされる。女はニコニコしている。
なんとはなしにふたつのコップに白酒をついでしまう。
どうしてか乾杯している。つまみも女が勝手に注文している。
この展開はなんなのだと戸惑う。すっかり女のペースになっている。
白状すると、少しだけおもしろがっている自分がいた。
出されたつまみはいままでわたしの食べたことがない類のもので、
悔しいけれどもかなり美味だった。金額をたずねると驚くほど安い。
気を許すわけにはいかない。わたしは無言のまま酒をのみ、ものを食う。
暗がりでは気づかなかったが、食堂の照明のしたで直視すると、
この商売女はとてもではないけれどもおねえさんという年齢ではない。
わたしよりも10は年上ではないかと思う。
はじめてこちらから質問をしてしまう。「いくつなの?」
中国語である。女は迷うことなく「22歳」と答える。
いつから時の流れがとまっているんだよ。厚顔無恥にもほどがある。
22歳だって! こらえることができなくて大笑いする。
すると彼女はまた、日本風の泣きまねをする。うえーん、と媚びを売る。
見ているとおかしくて、ついつい酒がすすんでしまう。

ひとり旅のわたしは白酒をこのときはじめて中国人と酌み交わしたが(ビールは経験あり)、
この強い酒はこうしてのむものなんだなと気づく。白酒はひとりでのむ酒ではない。
このへんでこよいも終わるかと会計を済ませるとおかしなことになっている。
女がわたしの横にぴったり寄り添っている。
腕を強引に組んでいるため、女の薄い胸の感触が伝わる。
さあ、行こうといったようなことを女がいうではないか。おかしい。ぜったいにおかしい。
反射的に女を振り切り、わたしは逃げだしていた。駆けだしていた。
だいぶ遠回りをしてホテルへ戻ると、あの女が待ち伏せしている。
あっけなく見つかってしまい、またわたしは逃げる。
あたりを注意して見ると、闇にまぎれてこの手の女があちこちにいるではないか。
宿泊したホテルがいけなかったようである。

近くのいかにも最底辺といった具合ののみ屋へ入りぬるいビールを時間をかけてのむ。
あの女のわたしを見る目には独特のものがあったと思う。
似ていると思ったのである。この日の昼はツアーに参加して大連観光をした。
といっても、払うものを払っていない。中国人グループのツアーにひとりで参加させられた。
聞くと、かれらは社員旅行ということであった。行くところの決定権はまるでこちらにはない。
安いからまあいいかと思っていたら、関東軍の施設跡地に連れていかれた。
反日教育をするための資料館になっているのである。
展示された資料は日本人への無理解、悪意、軽蔑に基づいたひどいものであった。
日本語の説明が申し訳程度についているのだが、ほとんどが誤っている。
正しい日本語からは程遠いのである。だが、怒る気にもならなかった。
中国人のための観光地である。日本人に配慮する仏要などない。
わたしはここでも故国のなつかしいにおいを満喫しようとした。
たとえば日本人兵士の使用したとされる水筒が展示されている。
わたしにはそれがとても愛おしいものに思えた。
この水筒の持ち主であった日本人を想像して、ご苦労さまでしたと心中で声をかけた。
資料館を出てバスに戻ると、
ツアーのアシスタントをしている若僧がにやにや話しかけてくる。
「どうだった?」というのである。むろん、わたしが日本人だと知ってのことだ。
かれはわけもなくほこらしげで無神経で押しつけがましく、
およそ中国人の持っている欠点をすべて集約させたような顔をしていた。
わたしは返答しなかった。
深夜の大連で、ぬるいビールをすすりながら、あの顔を思い出したのである。
似ていると思った。ツアー助手の若僧と売春婦がどうしてか似ている。
もしかしたらあれが中国人の顔なのかもしれないと思う。
一面愛らしくもあるが、べつの角度からながめると憎らしいとしかいいようがない。
物狂おしいほどに酔っぱらいホテルへ戻ると女はいなかった。
便座に腰をおろしてみる。こういうときは冷静にならなければならない。
あせってもなにもいいことはない。まず自分の置かれた状況を的確に判断することだ。
そうすれば、おのずから対策が見つかるはずである。
このアジア3ヶ月の旅でいろいろな難所をくぐりぬけてきたわたしだ。
かならずやこのたびの危機も乗り越えられるはずである。

謎の美女、石野梅子と会った翌朝のことだった。
目覚めるとひどい頭痛がする。これは二日酔いなんてものじゃないと思う。
まるで毒でも盛られたかのようである。
ジーンズにTシャツ。昨日の格好のままでわたしはベッドに倒れていた。
まずシャワーを浴びようと思ったのだ。
しかし、と思い直す。このホテルは朝食が宿泊料金に含まれている。
朝食は時間が決められていて7時から9時のあいだである。
時計を見ると8時45分。間に合ったとうれしくなる。
急いで洗顔、歯磨きを済ませ、最上階にある食堂へ向かう。
ビュッフェ形式の食べ放題である。
重症の二日酔いなのに、いざ食べ物をまえにするとがぜん食欲がわく。
まだわたしも若いのだとおのが頑健な肉体をほこりに思う。
朝食を済ますと1階のフロントへ行き延泊料金を支払う。
1泊108元(1600円)のビジネスホテルである。

部屋に戻ったわたしはシャワーを浴びることにした。
浴室はシャワーとトイレ、それから洗面所がいっしょになったものである。
ちなみに、バスタブはない。
着ているものをベッドのうえに投げ捨て、あたらしい下着とシャツを取りだした。
こうして全裸になったわたしは浴室へ入ったのだった。
ドアがなかなか閉まらなかった。ちからを込めてひっぱるとガチャリと変な音がした。
中国のホテルでは熱水が出ないこともめずらしくないが、
この部屋のシャワーは極めて良好である。湯量も申し分ない。
あたま、からだの順で身を清めたのだった。
大きなバスタオルでからだのすみずみまで拭く。
ツインの部屋のため清潔なタオルが2人分用意されている。大、小2枚ずつだ。
タオルをけちるホテルがたまにあるが、その点でもこのホテルは合格である。

さっぱりした自分の顔を鏡にうつす。
朝食も取った。シャワーも浴びた。満足、満足だ。
このとき、自分の投げ込まれた状況にはじめて気づいたのである。
浴室のドアが開かない。まさかそんなはずはあるまい。まだわたしは楽天的だった。
ノブを引く。ためしに押しもした。ガチャガチャと音がした。
こんなはずがない。わたしは現実を認めようとしなかった。
ドアが開かないなんてことはない。あってはならないことだ。
わかった。こういうときは、ちょっとしたコツが肝心なんだな。
ノブを微妙なちからで左右どちらかへ動かしたらカチャなんて音がしてドアが開くのである。
そうして、まったく中国のトイレには困ったもんだぜ、なんて笑うのである。
世の中はそういうふうにできているんだ。
社会の仕組みを知らない人間が、こういうトラブルでいちいち大騒ぎするのである。
だが、わたしはちがうよ。そんな安っぽい男と思われたら心外だな。
わたしはだれかに向けて話しかけていた。
余裕たっぷりにノブを数分間いじったが扉が開くことはなかった。

ほう、なるほど、そう来ましたか。
ふりかえると鏡にうつった自分の顔が目に入る。ひどく狼狽している。
いけない、いけませんね。笑顔をつくる。うん、よし、笑顔になった。
わたしはこのくらいヘッチャラである、と思いたかったのだ。
あわてても仕様がない。このようなピンチのときに、その人間の真価が問われるのである。
便座に腰をおろす。頬杖をつく。いよっ、「考える人」!
自分で自分に突っ込みを入れるが、ちっとも笑えやしない。
原因を考える。どうしてこんな事態におちいったのだろう。おれなんか悪いことしたかな。
いや、そういうことではない。あまり深刻に考えるのはよそう。
原因として考えられるのは、ドアの不具合、ただそれだけである。

自己啓発本を思い返す。困ったときには、どうすればいいか。
たしか最悪の事態を予想し、それを受け容れる覚悟を持つことが重要だと書いてあったな。
この場合、最悪の事態とは、このまま閉じ込められることである。いつまでか。
先ほど延泊料金を払ってしまったから明日の正午までわたしはこの部屋の使用権を持つ。
この期限が切れたらホテルの服務員が部屋を調べに来るだろう。
よし、最悪の場合、わたしは明日の正午までこの浴室にいなければならない。
これを受け容れる? 冗談じゃない。まだ朝の9時半くらいのはず。
丸まる24時間以上、こんなところでなにをしていればいいのだ。それも真っ裸で。
しかし、最悪のケースとはいえ、生命の危険はないのである。
なにしろ浴室だ。飲み水には困らない。たとえ腹を壊してもこのとおりトイレがある。

アチョー!!!!

便座から立ち上がったわたしは開かずの扉を思い切り蹴り飛ばした。
ドアは頑丈でぴくりとも動かない。ふざけんな、こらあ! しばいたろか、このドアホが!
狭い浴室で思いつくかぎりの罵声をあげながらわたしは扉と格闘した。
すなわち、蹴りこんだ。突っ張った。この場合、ドアが壊れようがこちらに非はない。
努力は報われなかった。ドアの丈夫さを思い知っただけで終わる。
この扉を人力で破壊することは不可能であると悟る。
ならば、タオルを腰に巻いただけの恥ずかしいすがただが、
ここは救援を求めるほかあるまい。外からドアのカギをなんとかしてもらうしかない。
だが、なんと叫べばいいのだろう。ここは日本ではない。助けて、なんて通じないだろう。
中国語でこういうときになんといえばいいのか思い浮かばない。
英語ならどうだろうか。ヘルプミーにしようと決める。
浴室のドアをどんどん叩きながらヘルプミーと叫びつづける。
5分ほどつづけるがまったく応答がない。
タオルを腰に巻いただけの男がドアを叩きながらヘルプミーはかなりマヌケである。
自己嫌悪に一瞬とらわれるが、いまとなってはなりふり構わずでいくしかない。

叫びつづけるのも疲れるものである。小休止を取ることにする。
狭い浴室を点検する。どこかに外へ通じているところはないか。
皆無である。完全な密室だ。浴室の壁を叩く。タイルのため手が痛い。音も反響しない。
やはり扉を殴り蹴りしながら声を出すのがもっとも効果的に思われる。
叫ぶ、疲れる、休むを何度か繰り返す。まったく気づいてもらえない。
またもや便座へ座り込む。とんでもない体験をしているのではないかと思う。
これを書いたらおもしろいものができあがるかもしれない。
ひとり芝居なんてどうだろう。浴室に閉じ込められた人間がどう変わってゆくか。
これはなかなか興味深いテーマではないか。
人間の神秘を解きあかす画期的な芝居になるかもしれない。
いや、現実逃避をしている場合ではない。一刻も早くこの状況から脱出しなければ。
そのためにはやはり外部にわが窮状を訴えるしか道はない。
だが、こんなふうに叫ぶことが、ほんとうに効果があるのだろうか。
山で遭難したときはなるべく体力を温存して救援を待つと聞いたことがある。
わたしもここはひっそりと待つことに専念すべきではないか。
それはちがうと思い改める。ここは山ではない。長春のホテルの浴室だ。
やはりちからのかぎり助けを求めるのが適切だと思われる。
ふたたびドアを叩きながらのヘルプミーを開始する。まったく反応がない。

壁に両手をつきうなだれた姿勢でわたしは神と向き合った。
こんなことを書くと笑われることだろうが、わたしは真剣だった。
もしここから助けられるようなことがあったら、と心中で神へ語りかける。
お酒は……やめられない。もう一度最初からだ
もし救援されたら、そのときは神に感謝して、わたしは生まれ変わりたいと思います。
そうだ、この危機から脱出できるようなことがあったら、やさしくなろう。
真っ当な人間になろう。親切な人間になろう。よりよき人間として生まれ変わろう。
だから、助けてくれ、である。神さま、仏さま、どうかお助けください。
どうしようもない苦境におちいった人間が決まってやる神仏との契約である。
わたしは一心に祈った。大げさなようだが、ここは万事行き届いた日本ではないのだ。
異国でこのような目に遭ったらだれしも心細くなるはずである。

それからどれくらい経ったのだろう。時計がないので時間感覚がおかしくなっている。
わたしは叫び続けていたのだが、向こうでひとが集まっている気配がする。
このときわたしがどれだけうれしかったか。感動したか。ひとのあたたかみを知ったか。
そうだ、いまわたしは困ってるんだ、ここだ、この部屋だ、浴室だ、気づいてくれ!
あらんかぎりの声で救援を求める。
部屋のドアが開けられる音がする。助かったと思った。なみだが出そうになった。
浴室の扉のまえに大勢のひとが集まっているのがうかがえる。
いま開けるといっているのだろう。落ち着いた中国語が耳に入る。
ここからもドアが開くまでにはだいぶ時間を要したのだが、わたしは平気だった。
人間にとっていちばん苦しいのは、だれにも気がついてもらえないことなのかもしれない。
いまの場合のように、だれかほかのひとがわたしの苦しみを知っていると思うと、
意外と苦境にも耐えられるものである。むしろ、苦しみは霧散する。
あとは開くだけだと知っているから、もう悩む必要はないのである。

結局、どのカギをためしても開かず、職人がよばれてドアノブを解体することになった。
扉が開いたとき、5人の中国人がことの成り行きを見守っていた。
わたしは疲れきっていた。バスタオル1枚のすがたで椅子に腰をおろした。
このホテルのマネージャーらしき長身の青年に声をかけられる。
かれの中国語はわからなかったが、わたしを心配してくれていることはわかった。
怒るつもりはまったくなかった。
このうえ怒ったりしたらどんな罰が当たるかと思ったのである。
ホテルの服務員はわたしを気遣って部屋から出てゆく。
下着をはき、あたらしいシャツを着る。時計を見ると11時半だった。
そうとう長い時間に感じたが、わずか2時間のことだったのである。
部屋は10階だった。窓から下を見おろすと変わらぬ長春の往来である。
わたしはおもてへ出た。長春の青い空を見あげる。
自分があの事件のまえとは完全に変わっていることを感じていた。
そして、この生まれ変わりの感覚を、
いっときの錯覚とあざわらう日が近い将来かならず来るだろうことも予感した。
それを食いとめなければならないと思った。
生まれ変わりたい、生まれ変わらなければならない、
そうわたしは5月の長春で決意したのだった。
5月6日は、もう何年も顔を合わせていない父の誕生日であった。
この日、瀋陽の父が生まれた場所を訪ね歩いたわたしは翌日長春へ向かった。
長春は満州時代の新京。父一家が数年住んでいた場所である。
瀋陽から長春へは現在なら高速バスで4時間ほどの距離だ。
ここ長春を訪問するにあたって、父のこととはべつに、もうひとつある目的があった。
石野梅子さんという日本人女性に会うことである。
彼女は、知人の友人。
「本の山」のようにメールアドレスを公開してブログを運営していると、
たまに見ず知らずのひとからのメールが舞い込む。
ハンドルネーム、マルさんとはそうして知り合った。
マルさんは文学好きの男性。かれとは何回かメールを交わしたくらいの関係である。
とりたてて親密な関係とはいえなかった。そもそも会ったこともないのである。
しいていえば、メル友ならではの浅く軽い関係が新鮮だった。

わたしが旧満州地方へ行くことを知ったマルさんから久しぶりにメールをもらった。
長春に友人がいるから紹介しようかというのである。
中国まで来て日本人と会うのはいささか億劫でもあったが、
せっかくのご縁を無にするのももったいないと思い直し、マルさんにお願いすることにした。
ただし、ひとつだけ条件をつけさせてもらった。
「本の山」の存在は、マルさんの友人へ教えないでくれというものだ。
このブログには過去のいろいろな出来事を書きつづっている。
せめて旅先では、過去のしがらみから自由でいたかった。
どうして旅先での出会いがすばらしい思い出になるかといえば、
たぶんお互いの過去とも未来ともかかわりのない
その場かぎりの邂逅(かいこう)だからだと思う。
このひとは自分の過去を知らない。別れが定められているから未来にも影響しない。
このような理由で、旅先の人間関係は気楽でいいのである。
わたしはマルさんの友人と、そういったかたちで会いたかった。別れたかった。
マルさんは、この身勝手なお願いをこころよく承諾してくれた。
あぶないところだったという。もう少しで教えてしまうところだった。

石野梅子さんからの最初のメールをわたしは瀋陽のネットカフェで読んだ。
マルさんの友人だから、てっきり男性かと思っていたのだが女性であった。
石野梅子とはえらく古風な名前だなと思い、どんな女性かマルさんにメールでたずねた。
妙齢の女性だという。
マルさんのべつの友人が彼女をねらっているから手を出さないでくれ、と書かれていた。
若い女性だと知って、会うのが面倒になる。
こちらは3ヶ月もアジアをふらふらしている身で、当然薄汚れた格好をしている。
引け目はそれだけではない。
格好だけではなく中身も決して見ばえがいいとはいえないのである。
見てくれはからきし自信がない。かといって、話がうまいわけでもない。
この石野梅子さんがわたしという人間におかしな期待を持っていたら、
がっかりさせることになる。だが、いまになって断わるわけにはいかない。

石野梅子さんからのメールは、丁寧すぎるといってもいいほどのものだった。
――マルさんに教えてもらい、このようなメールを差し上げます。
お酒が好きなのですが、周辺にあまりお酒をのめるひとがいません。
聞くところによると、たいへんお酒がお好きなようで。
よろしければお酒をごいっしょしてはいただけませんか。
長春に滞在していますから、観光情報等、お役に立てることがあるかもしれません。
ともあれ、堅苦しいことはぬきで、乾杯しましょう。
明日の午後4時、春誼賓館(旧ヤマトホテル)の石碑の前でお待ちしています。

当日は朝から石野梅子さんのための準備をした。
ジーンズをクリーニングにだしたのである。
わたしはバンコクで購入したジーンズひとつしか持っていなかった。
もちろん、まったく洗濯をしなかったというわけではない。
アジア各地で雨の降った日など、外出しない日にクリーニングにだしている。
しかし、思いおこすと中国へ入ってからはないようである。
毎日忙しく出歩き、1日たりとも、ホテルでだらだらする日などなかった。
ホテル受付の女性服務員が親切にも、クリーニング店まで案内してくれたので助かった。
その日の3時にできあがるという。待ち合わせ場所はホテルから歩いて5分。
ぎりぎりセーフである。
これが中国人と会うのならもっと肩のちからがぬけるのになと思う。
おなじ日本人にはすべてを見透かされそうでこわいのである。

石野梅子さんは約束時間に5分遅れて現われた。
メガネをかけた痩身の、はっと息をのむほどの美人であった。
「石野さんですか?」
そうだという。ふしぎなことに美人をまえにしたときの気後れのようなものはなかった。
「バスに乗りましょう」と彼女はいった。
わたしは彼女のあとにしたがう。
男ならみんなそうだと思うが、美人をまえにすると緊張するものである。
だが、どうしてかちっともわたしのほうに緊張感がない。
すぐに理由がわかる。彼女が挙動不審なのである。歩きかたからしてぎこちない。
なにを堅くなっているのかさっぱりわからなかった。
すっかり落ち着きをなくしている彼女を見ながら、皮肉なことだが、
わたしは平静を取り戻していた。
「これ秘密なんですけどね」と手を口にあてながら話すのが石野さんの癖のようだ。
何回もおなじ動作をする。
こそこそ内緒ごとを告白するような話しかたを好むのである。
顔はこんなにきれいなのに、
どうして井戸端会議の奥さんのようなおばさんくさい話しかたをするのか理解に苦しんだ。
なんでも長春の地下には旧日本軍が建設した秘密の巨大トンネルがあるという。
それがどうしたとは、間違ってもいえない真剣な話しぶりであった。

「ここだ、降りなきゃ」というので、わたしもあわてて下車する。
しばらく並んで歩いていると石野梅子さんは突然立ちどまる。
周囲をきょろきょろ見まわしている。
「ごめんなさい。降りるバス停を間違えました。ここどこなんだろう」
そんなことをいわれてもわたしにわかるわけがない。
石野さんはよりによって「地球の歩き方」の地図で現在地を調べている。
あっけに取られ、聞いてみる。
「長春にもうどれくらいいるんですか」
5ヶ月だという。ふきだすのをこらえながら提案する。
「あのう、適当に歩いてみませんか」
「そうだ。それしかない」
まるでアマゾンの奥地を探検するような意気込みである。
美人だけどぬけている。おっちょこちょいというのが梅子さんなのかもしれない。
いまさらながら聞かれる。「なにか食べたいものはありますか」
いえ、とくにありません。しかし、冷たいビールは必要不可欠です、と答える。
「犬はどうですか。このへんの名物で。鍋にもできるみたいですよ」
この美女が犬を食うのかと思うと、アンバランスで卒倒しそうになる。
うめくように返答する。
「……い、犬はやめてください。だけど、鍋というのはいいかもしれません」
われわれはその後いちばん最初に目についた鍋料理店へ入ることにした。
さいわい冷たいビールはあるとのことである。

四川料理、火鍋の専門店である。火鍋とは、中国風のからい鍋。
一度食べてみたかったのでうれしい。
さすがに鍋の専門店へひとりで入るわけにはいかない。
オーダー時に梅子さんはすっとんきょうな声をあげる。「ジャジャーン」
どう対応したらいいかひるんでいると、
「秘密兵器登場!」といいながら彼女はバッグから計算機のようなものを取りだす。
「これはなんだと思いますか?」
わかるわけないだろうが。
「電子辞書なんです。日本語を入力して、ポチッと押すと」
なんだ、爆発でもするのか?
「あらら、ふしぎ。日本語になるのであります」
ここで白けてはならないと思い、精一杯驚いたふりをするものの、
われながらあまりにも演技過剰で赤面しそうになる。
だが、梅子さんは気づいていないようである。大マジメだ。
「なにか食べたいものはありますか」と聞かれる。
「鍋といえばシイタケですよね」
秘密兵器で調べると、中国語では香というらしい。
わたしの思っていることを読んだようで彼女はこんなことをいう。
「まったく中国語ができないんです。驚いているでしょう」
「いえ、そんなことは」
「中国語を話せなくても、まわりのひとが親切でいろいろやってくれるんです」
「はあ」
「中国語が話せないとばれると会ってくれないと思って」
「いえいえ、とんでもない」

いったいなにをしているひとなのだろう。
なるべくぶしつけにならないようたずねてみる。
石野梅子さんはすばやく店内を見まわしてから、
例によって手を口にあて小声で教えてくれる。
聞こえないので、顔を近づける。「え、なんですか? もう1回」
「あたし、実はスパイなんです」
わたしは固まってしまう。
笑うところなのか、驚くところなのか、感心するのところなのか、さっぱりわからなかった。
あわせなければならない。「スパイ?」とオウム返しする。
「はい、ここだけの話です。あたし、秘密スパイなんです」
これ以上は聞けなかった。わたしもプライバシーを詮索されるのは好まない。
のむしかないかと思ったのはこのときである。なんでもいいからビールをのもう。
酔っぱらわないと石野梅子さんと会話することはできないのかもしれない。
うれしいことにこの火鍋専門店は店構えこそ立派だがビールは3元(45円)と格安である。
鍋も想像していたよりもはるかにうまい。
よくのみ、よく食べた。会話はどうにも噛み合わなかった。
石野さんとわたしのあいだになにか見えない壁があるような気がするのが、
それがいかなるものかは火鍋を食べ終わってもわからなかった。
会計はこれだけ飲食したのにふたりで100元(1500円)いかなかったと記憶している。

4時に待ち合わせしたので、まだ夜もはじまったばかりである。
もう一軒行こうということになる。社会科見学をしようということで話がまとまった。
今度は最底辺の呑み屋へ行ってみようというわけである。
わたしは毎日その種の食堂でのみ食いしているのだが、
石野梅子さんはなかなかそういうところへ行く機会がなかったという。
まったくわたしは酔っぱらうと先輩風をふかしていい気なものである。
タクシーをとめ乗り込む。駅前へ行ってもらう。
ふたりで界隈をふらふら歩いていると「ミシミシ、バカヤロー」とうるさい。
見ると、昨日ホテルを探す際に言葉を交わした客引きである。
悪気はないのである。かれらとしては唯一知っている日本語。
中日友好のつもりなのであろう。
だが、およそ文化的なるものとかけ離れた地域というほかない。
そのうちの一軒へ足を踏み入れる。なんと冷たいビールが2元(30円)であった。
中国各地をのみ歩いたが、食堂でビールが2元だったのは長春のここだけである。
いま思えば、この2元のビールがよくなかったのだ。
おそらくあれはあの食堂でアルコールを自主配合した偽ビールではなかったか。
気がつくと朝だった。ホテルのベッドのうえにいた。
いま自分がどこにいるのかしばらくわからなかった。
いちいち記憶をたどる。瀋陽から長春へ来て、そこで日本人と会い……。
石野梅子という名前を思い出す。きれいなひとだった。
昨夜はあれからどうしたのだろう。どうしても思い出せない。
メールで問い合わせると、ふつうに別れたと彼女はいう。
しかし、まったく記憶がないのである。
わたしは酔って記憶をなくすということはめったにない。
むろん、すべてを完全に覚えているというわけではないが、
酒席の断片くらいはかならずよみがえる。

この晩のことは、アジア3ヶ月半の旅のなかでただひとつの謎として残る。
石野梅子さんとも、彼女を紹介してくれたマルさんとも、
その後何回かメールのやり取りをしたが、いつしか両者とも連絡が途絶えてしまった。
そうなるとあの晩のことがふしぎでならない。
そもそも石野梅子なるインチキくさい名前の美女が存在したのかも自信を持てなくなる。
石野梅子。いかにも旧満州時代になら、いそうな名前である。
もしかしたらわたしはあの晩、タイムスリップしたのではないだろうか。
長春ではなく新京で、わたしは石野梅子という美女とさかずきを交わした。
そう考えると納得がいった。たしかに石野梅子は時代離れをした美貌であった。
あのような美しさをもった女性が現代の日本人であるわけがない。
いや、思い込みにもほどがあるぞ。思い直す。そこまで美人だったか。
なにか彼女は秘密を持っていたはずである。
その秘密が彼女を謎めいた美女に見せたのではないか。
もしや、とわたしは思った。そんなはずはない。だが、もしそうだとすると――。

8月のある日のことである。帰国してから3ヶ月が経とうとしていた。
メールボックスに石野梅子の名前を発見する。
梅子はいま日本にいるという。明晩、新宿で会えないか。のもうというのである。
待ち合わせ場所に立っている女性があのときの梅子だとは信じられなかった。
日本を背景にすると石野梅子はやけに浮きあがって見えた。
場違いな印象をぬぐえなかった。陸にあがった金魚のようであった。
金魚の美しさに変わりはない。しかし、潰(つい)える寸前といったはかなさが見て取れた。
わたしは疑問をぶつけるタイミングを見はからっていた。
石野梅子に連れられションベン横丁の焼き鳥屋へ入る。
どこか昭和のにおいのする、石野梅子を配置するにふさわしい舞台設定であった。
時間が早いためか。われわれが座敷にあがる最初の客であった。
天井には風鈴がつけられていた。冷房の風があたるのだろう。
絶え間なく、チリンチリンとうるさい。
「本の山」をお読みのかたならご存知でしょうが、わたしは騒音キチガイである。
異常なほど音に神経質なのだ。
店員をよび、風鈴を取り外してくれないかとお願いした。
石野梅子の顔を見る。少しもわたしの行動に引いていなかった。
知っているというような顔をした。
わたしは石野梅子にゆっくりと言葉をなげかける。
「石野梅子さん、あなたはマルさんですよね」
彼女はこくりとうなずいた。

石野梅子は性別を偽って男性のマルさんとしてわたしとメールをしていたのだ。
長春で会ったあの時点で梅子はブログ「本の山」を読んでいた。
はじめて会ったことには変わりないが、
梅子とわたしは以前に何度もメールを交換していたのである。
いってしまえば、あの晩、石野梅子はわたしをだましていたのである。
あの謎めいた美しさの正体がようやく判明したことになる。
聞くと、石野梅子というのも偽名らしい。
名前を教えてほしいと何度もたのんだが最後まで教えてくれなかった。
「名前なんて関係ないじゃない。たまに会って楽しくのむ。
あたし、名前なんて必要ないと思うな」
彼女の言い分である。わたしは本名を名乗っている。最低限の礼儀だと思っていた。
ところが、彼女はわたしもまた偽名を用いていると思っていたらしい。
「だって、名前がかっこよすぎるから……」
おかしな名前であることは認めるが断じて偽名ではない。

石野梅子がマルさんだとわかって気まずくなったかといったら反対である。
この晩はまたとないくらい楽しい酒宴となった。
石野梅子のことはマルちゃんとよんだ。
メール交換で気心の知れたマルちゃんなら話が早い。
麦焼酎をボトルでたのみロックで流し込んだ。
時間が来たので散会する。彼女はいまから深夜バスで大阪へ行くという。
なにをしに行くのか聞くと、「スパイだから秘密」と笑われた。
ふと、この女性と会うことはもう決してないだろうという予感が芽生えた。
それはすぐに確信へと変わった。
ひとつ聞いておかなければならないことがあった。
「これくらいは教えてくれない? 長春でマルちゃんと会ったじゃない。
あの晩の記憶がないんだ。おれ、もしかしてつぶれていた?」
マルちゃんはうなずく。
酔いつぶれたわたしをホテルまで送っていくのがひどい骨折りだったという。
気落ちするわたしを励ましてくれる。
「久しぶりに日本人に会ったから安心したんじゃない?」
「それにしても、異国で酔いつぶれるなんて。それもはじめて会ったひとのまえで」
わたしは悔恨に押しつぶされていた。
「大丈夫。変なこととか、いわなかったから」
そういうとマルちゃんは意味深な笑みをもらした。
なにか変なことをいったのかもしれないとわたしはおびえた。
最後の乾杯をしようということでコンビニで缶チューハイをふたつ買う。
路上でのみほす。
マルちゃんは「じゃあ」というと、去っていった。
そちらに深夜バスの乗り場があるのかわたしは知らない。
大阪へ行くというのも、あるいはウソなのかもしれない。

この晩の直感はあたり、石野梅子ことマルちゃんとの縁はぷっつり切れた。
わたしは彼女がいまどこでなにをしているのか知らない。
いや、おそらく世界のどこかでスパイ活動をしているのであろう。
実際はわたしを信用できないので名乗らなかったことは明々白々だが、
わたしは彼女のスパイ活動に支障がでるため名を秘したのだと信じようと思っている。
わたしは昂揚していた。これが旅だと思った。
5月4日深夜1時、わたしは北京駅発、瀋陽北駅行きの臨時列車に乗車していた。
0時58分、定刻にL61次の列車は動きはじめる。
瀋陽へ到着するのは同日の11時55分。
中国鉄道は通常なら9時間ほどで人民を北京から瀋陽へ運ぶようだが、
この臨時列車は鈍行のため11時間を要する。
列車が実際に動きだしたことを喜びながらわたしは思った。
これで丸3日、列車のなかにいることになるなと。2日連続の車中泊である。
5月2日、嘉峪関にて11時50分発の列車に乗る。
北京に着いたのは翌日の20時。
列車のなかでは寝ているとき以外ほぼ酒をのんでいた。
合計でビールを12本、ワインを1本。
敦煌料理店で入手した林芙美子の「放浪記」を読みながら大酒をのんだ。
32時間かけて北京駅へ到着したはいいが5月3日である。
大型連休、黄金週間のまっさかり。
客引きにいろいろふりまわされたが、結局23時になってもホテルは決まらなかった。
いうなれば、1年でいちばん混雑する時期の北京へ、
よりによって舞い込んでしまったわけである。
この時間になっても北京駅前はホテルの決まらない旅行者であふれていた。

北京にことさら強い関心があるわけではない。
ついでに立ち寄ったというのが正直なところである。
中国へ来たのだからせめて天安門と万里の長城くらい見てもいいかというのが本心だ。
しかし、わたしはこの3時間で北京という都市がすっかり嫌いになっていた。
ホテルの客引きはいいかげんなことばかりいう。
一度は契約してワゴンに乗せられたのだが、途中でおっぽりだされるということもあった。
タクシーで駅前まで引き返してきたのである。
もう北京はいいか、という気分になっていた。
だが、つぎの目的地、瀋陽へどう行けばいいのかわからない。
何度も北京駅のチケット売場で交渉したが、
ここ数日の瀋陽行き列車の予約は完全に埋まっていた。
あきらめきれずに少し離れたべつのチケット売場へも行く。やはりダメである。
ここで、あることをしている中国人の存在に気がつく。
列車のチケットを手に持ち、ひらひら見せながら混雑のあいだを移動しているのである。
見なれたピンク色の乗車券だが、ほんものかどうかはわからない。
ダフ屋みたいなものかなと思う。そのうちひとりがわたし近寄ってきた。
なんとはなしに見ると、まさに瀋陽行きのチケットである。
日付を確認させてもらう。いまから2時間後に北京を出発するものである。
値段を聞くと額面どおりでいいという。49元(750円)。信じられない安さである。
むろん硬臥(寝台)ではない。だが、無座でもない。
硬座と書いてある。座席指定ありだ。したがって、立ちっぱなしではないのである。
けれども、32時間かけて北京へ到着したその晩にまた列車に乗り、
さらに10時間以上も座りつづけることに果たして身体が耐えられるか。
あと2時間経てばこの乗車券はただの紙切れになるためだろう。
売人は買うか買わないか早く決めろという。
わたしが購入しなかったら、かれはべつの買い手を探さなければならないのである。
即決はしなかった。できなかった。

「稍等一下(しばし待たれよ)」とたのむ。
「早くしてくれ。買うのか、買わないのか、どっちなんだ」
ちょっと待ってくれと繰り返し、わたしはその場を離れようとする。
「どこへ行くんだ?」
わたしは公衆便所を指さした。これから列車に乗るとなれば、
お腹をすっきりさせておかなければならない。なにより考える時間がほしかった。
あと2時間もないのである。早く決断しなければならない。
こうしているうちにもあのチケットは売れてしまうかもしれないのである。
北京をどうするか。このまま北京でなにも見ないで瀋陽へ行ってしまっていいものか。
中国を長期旅行していて天安門広場や万里の長城へ行かないなんて、
ことによったら肉まんのアンだけわざわざ残すようなものかもしれないぞ。
一生後悔する可能性もある。
けれども、この偶然はいったいどういう意味を持つのだろうか。
わたしは北京に嫌気がさしていた。
瀋陽へ一刻も早く行きたかった。しかし、乗車券が取れない。
現在の状況である。そこにほんとうに偶然に瀋陽行きのチケットが現われた。
たしかに早く瀋陽へ行きたいのは事実。
だが、今日北京に着いて今日離れてしまうというのはあまりにもさみしくないか。
せめて北京に1泊くらいしてもいいのではないか。
しかし、その場合、この黄金週間のうちに、どうやって瀋陽へ行くかという問題が残る。
もはやバスしかないが、瀋陽行きのバスがどこから出ているのかも知らない。
混雑具合もまったく調べていない。
偶然である。まったくの偶然に、いま買おうと思えば、
黄金週間期間内の瀋陽行き乗車券を入手することができる。
公衆便所を出たわたしはまっすぐ売人のもとへ向かう。「買うよ。ください」

腹ごしらえをしておかなければ。しかし、時間がない。
せっかくなら北京名物を食べたいが、店を選んでいる時間などないのだ。
駅前のチェーン店らしきソバ屋へ入る。
経験からこのようなチェーン店は冷たいビールを置いていることを知っていた。
牛肉面とつまみ三点盛りをオーダー。ビールは予想にたがわず冷えていた。
久しぶりの冷たいビールでのどをうるおしながら買ってしまったなと思う。
いま目の前に瀋陽行きの乗車券があることが信じられないような思いである。
興奮していた。なんといっても、わたしは北京でなにも見ないことを決断したのだ。
乗車券を買ってしまったいまとなっては、もう後悔はなかった。
ぞんがい、おれらしいかもしれない。
北京の有名観光地をすっ飛ばすなんざ、なかなか愉快ではないか。
いざ行動を決めてしまうと、思いのほか痛快であった。
多くの日本人が北京に来る。天安門、万里の長城、故宮を観光する。
となれば、行くよりも、あえて行かないことのほうがおもしろいではないか。
敦煌の莫高窟でつくづく思い知ったものである。
観光地にわたしの求めるものはない。
さらば北京よ。わずか4時間滞在した北京に乾杯だ!
わたしは勢いよくグラスのビールをのみほした。

いま手にしている乗車券がにせものではないかという一抹の不安はあったが、
構内の売店でビールを3本、カップラーメンをひとつ買い込むと改札へ向かった。
改札を通過するとき、どのホームかたずねる。
いわれたとおりの方向へ進むとすんなり目的の列車が見つかった。
まるで旅という名前の波に乗っているようだと思う。
その波がこれほど心地いいとは。
さっき北京へ着いたというのに、いまわたしは瀋陽へ向かおうとしている。
それがいささかも不自然ではないのだ。
まるで最初からこうなるように決められていたかのようである。
とてもふしぎな感覚だった。
車両は、これでほんとうに走るのかと疑ってしまうくらい、古びている。
座席はすぐに見つかったが、車内もひどくすさんでいる。おかしな臭いまでする。
乗客に目を転じると、わたしがいままで見かけたことのないタイプの人民ばかり。
観光地へ来るような中国人民とは毛色がちがう。身なりがみすぼらしいのである。
考えてみれば、無理もない話である。
北京から瀋陽までバスで行くとしたら150元かかる。
それがこの列車だとわずか49元。1/3の金額である。
出発時刻も深夜で不便このうえない。
よほどカネに困っている人民しか乗るはずのない列車である。
わたしはこの夜汽車に乗り合わせた幸運を喜んだ。
こういう薄汚れた列車ほど旅を感じさせるものはない。
車内の灯りは暗い。おばさんが食べ残しを床へぽんぽん捨てている。
おじさんがだらしなく寝入っている。
目にうつるものすべてが華やいだ雰囲気からほど遠い。
この夜汽車は観光とはまるで縁のない、ただの移動手段だということがよくわかる。
座席は4人で座るボックスタイプ。わたしの前には労務者ふうの中年がふたり。
礼儀上つたない中国語で話しかけると、まったく愛想というものがない。
ひとりは失業して、とりあえず故郷に帰るのだという。
かれは「日本人が嫌いだ」といった。
年かさのもうひとりが、そんなことをいうもんではないとたしなめた。
ふたりは知り合いでもなんでもなく、ただ隣に乗り合わせただけの関係のようだ。

日本人が嫌い、か。嫌われても座席指定だから仕方ないよな。勘弁してくれ。
それにしてもやけにはっきりと物をいう男だな、と苦笑しながらビールの栓を抜く。
一昨日のみはじめてからこれで何本目のビールになるのか見当がつかない。
とりあえず酔ってしまえばなんとかなるだろうという甘い算段で、
いままでアジア各地を旅してきたのである。
音を立ててゆっくりと夜汽車が稼動する。車窓から薄暗いホームを見やる。
列車は駅を出る。北京市街のネオンが窓ガラスの向こうに見える。
ビールを口にふくみのみこむ。
このとき、しらふだったら赤面するしかないような大げさな旅情に胸を衝かれた。
旅をしていると思った。こんな旅をしたかったんだと思った。

運がいいことに、わたしの隣の座席にはだれも来なかったので、
横になって眠ることができた。朝が来て、目覚める。
人一倍神経質なわたしがこんな環境でもしっかり眠っていることに驚く。
もうすぐ瀋陽へ到着するのだという実感がわかない。
まずは北京だと思っていたからである。
瀋陽とどう向き合えばいいのかこころが定まっていない。
かの地へ行こうと思ったのは峨眉山においてであった。
中国へ入国して10日ばかり経っていた。
ようやくいま自分が中国にいるということを実感しはじめたころだった。
そうだ、満州も中国なのだと気づいたのである。
わたしの父は旧満州の奉天(瀋陽)で生まれ、新京(長春)で育った。
唐突に、遠いむかしのことを思い出したのである。
父から「いつかおれの生まれた満州へ行かないか」といわれた。
そのとき、軽い気持で約束したのだった。「ああ、いつかね」
いまこのオンボロ列車は、父の生まれた奉天へ向かっている――。
終点の瀋陽北駅に着く。
対面の日本人嫌いの中国人と目が合う。かれも終点まで乗車していた。
やっとのことで着いたな。そんな意味合いもあり、思わず笑いかけてしまう。
かれもにやりと笑い右手をあげた。わたしもおなじようにした。
次の日、莫高窟からバスで市街地へ戻るとまっすぐ敦煌料理店へ向かった。
ズイさんとは、昨日のことでお互い気まずい。
「喧嘩はよくあるから。みんなとよく喧嘩をしたね」
そういうと、かれはわたしの知らない日本人の名前をあげた。
「だけど、またビールをのむ。忘れる。楽しい。気にしない。大丈夫」
すでにのんでいるようで顔が赤い。
わたしはめずらしく昼のビールをのんでいなかった。
朝の10時から6時間、莫高窟にいた。昼食をとるひまがなかったのだ。
まずは冷たいビールである。
「つまみは?」と聞かれるが、あとでとお願いする。
厨房からトウさんがすがたを現わす。昨日とはちがいおだやかな顔をしている。
ズイさんに小声でたずねる。
「トウさんと仲直りしたの?」
ナカナオリ? と反復された。「どういう意味?」
このようにズイさんはかんたんな日本語が抜け落ちていることがある。
「仲直りとは、……関係がよくなる。喧嘩する。そのあとに愛してる」
ジェスチャーをまじえ笑いながらそう説明すると、
「仲直り。うん、いい言葉だ」
ズイさんはノートにメモしている。のん兵衛のくせに意外と勉強家なのである。

「ボク、トウさんと仲直りした」
さっそく使っている。
「昨日の晩、トウさん生理だった。だから、フェラチオしてくれた。愛してるって」
仲直りを知らない中国人がとんだ日本語を知っているものである。
わたしはあわてる。
「いいの? トウさん、そこにいるんだよ」
「大丈夫。トウさん、日本語わからない」
あけすけである。
「今度のトウさんとの喧嘩、ほんとうにつらかった。
ふだんはやらないんだけど、店の女の子とやっちゃった。セックスしちゃった。
口止めはしたけれど、トウさんにばれないか心配ね」
経営する風俗店の売春婦と関係をもったというのである。
このおっさんは、なんでこうもオープンなのだろう。警戒心がないというのか。
楽しくなったわたしはその場でビールを2本あけた。
ネットカフェへ行く旨を伝えるとズイさんは不満なようである。
かならず戻ってくるからと説得する。

ブログ「本の山」を更新をしながら思う。
敦煌の莫高窟はこんかいの旅の最終目的地として想定していたところ。
いまそこから帰ってきた。いったいなにを見たというのだろう。
莫高窟は絢爛(けんらん)たる仏教美術で名高い。
だが、そのひとつでも、ほんとうに見たといえるか。
なんでもいい。こころにぐさりと突き刺さるものはあったか。
美しいとさえ、わたしは思わなかった。
すべてが乾いていた。うるおいというものがなかった。
言うまでもないことだが、こちらの不勉強のためである。
生まれつき美術鑑賞能力が乏しいためもあろう。
あるいは、とも思う。大きな勘違いをしていたのかもしれない。
わたしの見たいものは、敦煌莫高窟のようなところには決してないものではないか。
とすると、そもそも期待するのが間違いだったということになる。

敦煌料理店へ戻ると、昨日のヤマグチさんがいる。ご飯を食べている。
かれは会社員で、飛行機を経由して昨日敦煌へ着いたばかり。
聞くと、これから天の川ツアーに参加するようである。
そのまえに腹ごしらえを、というところで、わたしが現われた。
なにを食べているのかたずねると、ロバの煮込みということである。
瞬間、昨日のズイさんとのやりとりを思い出した。そうだ。だからロバなのだ。
「カネがないのなら、旅をしないほうがいい」といわれたわたしは、
なら明日はこの店でいちばん高いものを注文するとやり返したのだった。
ロバが最高値のメニューというわけではない。
だが、どうしてか明日はロバを食うと宣言したのだった。
それを覚えていてズイさんはわざわざロバを仕入れておいてくれたのである。
ひとのよさにうなってしまう。
正直なところ、敦煌料理店を再訪するか朝の段階では迷っていた。
冷静になって考えてみると、やはり厨房をトイレとして使うのはおかしい。
そんなところで作られた料理は食べたくない。
ところが、莫高窟から戻ってくると、ごく自然に敦煌料理店に足は向いた。
そういえばヤマグチさんは知らないのだ。
このロバ料理は、昨晩ズイさんとわたしがさんざん小便をしたところで作られたことを。
「ロバっておいしいんですか」
かれは困ったような顔をする。そばにズイさんもいるのである。
「おいしいですよ」
かなり苦しそうだ。
「これがロバの肉なのかという感動ですね。おいしいです。うん、おいしい」
自分に言い聞かせるようなかれのしゃべりかたで味の想像がつく。
ズイさんのまえには、またもやビール瓶とグラスである。真っ赤な顔をしていう。
「これはね、トウさんが作ったから、おいしいですよ」
敦煌料理店、自慢の料理のようだ。
ヤマグチさんのありがたい助言を参考にして、
わたしは煮込みではなくロバ肉を野菜と炒めてもらうことにする。
それから茄子の冷菜。キュウリの冷菜もいただくことにした。
敦煌最後の晩である。

ヤマグチさんは昨日のわたしとおなじように天の川ツアーに向かった。
ズイさんもちょっとした用事があるとかでトウさんと出て行った。
留守番を頼まれた。ビールなら勝手に冷蔵庫から出してくれとのことである。
ビールをのみながら、することのもないので情報ノートを読みふける。
口がさみしくなると、トウさんお手製の料理をつまむ。
予想にたがわず、そのどれもまずかったが、ビールで流し込めないわけではない。
おそらくこのまずさは、
日本人の口に合う中国料理というものを過剰に意識した結果だと思う。

考えてみると、日本語の情報ノートなるものを熟読したのはこれがはじめてである。
タイ、カンボジア、ベトナムと日本人宿とはほとんど縁がなかった。
ノートはとても楽しいものだった。といっても、内容が楽しいというわけではない。
麻薬の入手方法と、どこがどれだけ安いという話ばかりである。
けれども、酔った目でそれらをながめていると、それもいいのかと思う。
勇気をだして忙しい日本から飛びだしたんだ。
せいぜいだらだらするがいい。麻薬でもなんでも好きなだけやればいい。
長期旅行に個人で出かけるような人間は、日本という国とうまく渡り合えないものが多い。
せめて海外にいるうちは羽を伸ばせばいいじゃないか。
いつか旅にも終わりが来る、その最後の日までは。
情報ノートに書き込むような旅行者は長期のものばかりだ。
短期の旅行であったら、このようなノートになにかを書く時間の余裕などない。
ノートには、いろいろな日本人の旅への思いがつづられていた。
3年かけて世界一周をめざしているもの。
上海からヨーロッパまで自転車で走破しようとしているものいる。
だれもかれも日本では得られないなにものかを求めているのである。
麻薬情報や格安情報の裏側に、そんなかれらの情熱が透けて見えるような思いがした。
せっかく生まれてきたのだから、なにものかを自分の目で見たい。
自分の耳で聞きたい。舌で味わいたい。身体全体で体験したい。
けれども、旅をしたからといってなにかが得られるとは限らない。
たいがいはなにも獲得できないことを確認する旅になることであろう。
いや、そんなことは旅立つまえからみんなうすうす気がついているのである。
それでも、どうしようもなく旅をしたい。日本を離れたい。

中国語で話しかけられる。顔をあげると、青年が店内をのぞいている。
「不明白。我是日本人」と答えると、かれの顔に笑みが広がった。
「なんだ日本人ですか。この店のひとかと思ったや」
ひと懐っこい笑顔である。まあまあ、とわたしはビールをすすめる。
話し相手ができたという気分である。
聞くと、かれは中国の広州で働いているカワハラさん。
黄金週間を利用して敦煌へ観光に来た。
年齢をたずねると、わたしとおない年であった。
そこにズイさんが戻ってくる。
カワハラさんは、中国語で話しかける。しばらくふたりは中国語で話していた。
まったく意味がわからない。ズイさんが厨房に入ってから内容をたずねると、
自分はベトナム人だと自己紹介したという。茶目っ気たっぷりに笑う。
日本人とばれないか実験をしたとのことである。
その声を聞きつけたズイさんが、やっぱりと厨房から出てくる。
「この店に入ってくる時点で、日本人と思って間違いない。
看板が日本語ですからね」
それから3人でビールをのみながらいろいろと話した。
カワハラさんは、広州で2年前現地の女性と国際結婚したという。
いまはふしぎな別居生活を送っている。
かれは奥さんの実家に住んで、そこから会社へ通っている。
いっぽうの奥さんは日本にいるという。それもカワハラさんの実家である。
日本語を勉強しているらしい。
ズイさんが先輩風をふかせてカワハラさんへいう。
「中国の女性は厳しいでしょう。最初はやさしい。びっくりするくらい、やさしい。
だけど、結婚をしたらがらりと変わる。急に厳しくなる」
「そんなことはない」とカワハラさんは反論する。
「ぼくの場合、最初から気が強かったですよ。日本人の子とは比較にならないくらい」

中国に住んでいる日本人ならわかるかもしれない。
長いあいだ疑問に思っていたことをカワハラさんに質問してみる。
いままで幾人か日本語のわかる中国人におなじことを問うたが、
だれも答えてくれなかった。
「あれはなんなのですか。中国人って、日本人を見るとミシミシっていうでしょう。
わたしが日本人だとわかると、ミシミシといいながら笑う。
なんとなくバカにされているのはわかるんです。けれども、どういう意味かはわからない」
これを聞くとカワハラさんは大笑いした。
「ミシミシとバカヤローは中国人ならだれでも知っている日本語なんです」
「え、あれは日本語だったんですか」
なんでもミシミシとは、日本語のメシメシがなまっているということである。
メシメシが中国人の耳にはミシミシと聞こえる。
中国では毎日のように抗日ドラマがテレビで放送されている。
日中戦争時代を背景にした、人民の愛国心を発揚するための戦争ドラマだ。
このドラマに登場する日本兵が、食事のときに決まって「メシ、メシ!」と怒鳴るらしい。
さらに日本兵は中国人民を「バカヤロー」と不当に叱りつける。
この結果、「ミシミシ」と「バカヤロー」が人民周知の日本語となった。
いわれてみれば、ミシミシと笑われるのは安食堂の店員からであった。
かれらからしてみれば食事を取るわたしのすがたは、まさにミシミシであったのだろう。
カワハラさんも奥さんのお母さんからいまだにいわれるという。
「食事の用意ができるでしょう。すると、ミシミシって呼びにくるんです」
今度はわたしが笑う番だった。「けど、むかつきませんか?」
「もう馴れちゃいましたよ。それに抗日ドラマ、あれは日本の時代劇みたいなものですから。
水戸黄門みたいに、毎回のように中国人民が日本兵を打ち負かします」

天の川ツアーからヤマグチさんが戻ってくると、
入れ替わるようにカワハラさんは去っていった。
「ぼく、ひどく汚い招待所へ泊まっているんです。1泊30元。
現地採用だから給料、安くって」
それからもズイさん、ヤマグチさん、わたしの3人でビールをのみつづけた。
今日は天気がよく星空がよく見えたとヤマグチさんがいう。
かれはアルコールがまったくダメらしいが、今日のような日はのみたくなるらしい。
ズイさんがわたしに釘を刺す。
「今日は遅くまではダメよ。トウさんが待っているから」
ヤマグチさんが笑いながら請け負う。
「おなじホテルだからいっしょに帰りますよ。ぼくがひっぱってゆきます」
すっかりわたしののん兵衛が知れ渡っているようである。
苦笑するしかない。それにしてもふしぎである。
旅先で出会うとどうしてこんなにかんたんに見知らぬひと同士が打ち解けてしまうのだろう。
これこそズイさんのまれに見る人徳のなせる業なのかもしれない。

「つぎでほんとうに最後の1本」をわたしが1回、ズイさんが1回やって、
この日の酒宴はお開きとなった。
ヤマグチさんがことさらわたしを心配してくれているのがおかしい。
見ると、よほど酒に弱いのか。かれのほうがふらふらしている。
われわれはズイさんに別れを告げ莫高賓館までの道を歩く。
突然、ヤマグチさんがうっとりしたような声でいう。
「やっぱ旅はいいな。ほんの数日前まで日本にいたなんて信じられないや。
いま敦煌にいるんだ。ぼくは敦煌にいる。
いろんなひとに会えて、お酒をのんで、敦煌へ来てよかった。
日本でたいへんだったけど、来てよかった」
同感だった。北京や上海なら、こういう大仰な物言いは似つかわしくない。
しかし、シルクロードの要所、東西文明の交差点たる敦煌でなら許されるような気がする。
むしろ、ふさわしいのではないか。
敦煌は壮大な感動をもって語られる地でなければならない。
「わたしも」といった。
「わたしも敦煌へ来てよかった。いまあの敦煌にいるなんて信じられない」
ふたりの酔っぱらいはホテルの廊下で手を振って別れた。

翌朝、バックパックを背負いホテルをチェックアウトすると敦煌料理店へ向かった。
店内をのぞくと、ちょうどズイさんが厨房から出てくるとこだった。
「じゃあな!」とわたしは元気よくいった。
「おう!」とズイさんは右手をあげた。はじめて見る酒の抜けた顔だった。
バスターミナルまで歩く。敦煌へ来てしまったのだ。もう帰るしかないとふっ切れる。
今日は嘉峪関へ行く、あさってには北京へ行く、と自分に言い聞かせる。
動きはじめたバスは敦煌料理店のまえを通過する。
窓から見下ろしたが店内にはだれもいなかった――。

以上で敦煌料理店の話はおしまいである。
帰国してからもう半年である。いまさらながらこれを書くきっかけとなったのは、
敦煌料理店が今年いっぱいで閉店することを知ったことである。
「バックパッカー相手の店はもうからない」とズイさんが述懐していたという話が、
12月2日付けのあるブログの記事として紹介されていた。
「だから、今年いっぱいで店を閉める」ということである。
閉店するのなら書いてもいいかと思った。むしろ、書くべきではないかとも思った。
かつて敦煌にはすばらしい食堂があった。
多くの日本人がその店で夜を徹して酒をのんだ。笑った。
見知らぬ日本人旅行者同士でも、ズイさんが中心にいることで、みんな仲良くなれた。
ネットで検索すると、ズイさんの記事がたくさん出てくる。
すべて読んだが、だれひとりとしてこの中国人のことを悪くいう旅行者はいなかった。
2002年3月から営業を開始した敦煌料理店は2007年暮れに閉店する。
もう日本人が敦煌へ行っても、あののん兵衛と乾杯することはできないのである。
いまとなってはズイさんが厨房で小便をしたことや、
裏で風俗店を経営していたことは笑い話であろう。
酒豪、性豪の善人であるズイさんを知るひとは、さもありなんとふきだすに相違ない。
もし敦煌料理店がつづいていたら営業妨害になったこの種の話も、いまや時効だと思う。
それでもなおズイさんのプライバシーを配慮して名前を漢字表記にしていない。
ズイさんの名前で検索してもこの記事は出てこないということである。

ふと思い出したのだが、こんな会話をズイさんと交わした記憶がある。
「40になったらビールをやめるんでしょ」
「ぜったいやめます」とズイさんはいった。
「いつ40になるの?」
この回答が、たぶん12月だった。
あんがいズイさんは公約どおりに酒をやめるのかもしれない。
店を閉じたズイさんが北京へ行って英語を勉強するといううわさをネット上で見つけた。
敦煌料理店の元主人の再出発に、海を隔てた日本からエールを送りたいと思う。
そして、お世話になった無数の日本人を代表して感謝したい。
ズイさん、お疲れさまでした。いままでありがとうございました、と。
ゆうべは部屋に戻るなりシャワーも浴びずにベッドへ倒れこんでしまったようだ。
つけたまま寝てしまった腕時計を見ると9時を過ぎているので、
飛天賓館を引き払うことにする。
すでに4日ぶんの宿泊料金を払っているのだが、
シャワーがお湯にならないと執拗に抗議したわたしを覚えていた受付の服務員は
あっさりと2日ぶんの宿代を返してくれる。
飛天賓館から莫高賓館までの200メートルほどを歩く。
たしかにこのホテルは飛天よりも格上という感じである。
部屋はこじんまりとしているものの、いかにも快適そうである。
熱いシャワーを浴び目を覚ます。清潔なベットにごろんと寝転がると気持がいい。
腹ばいになり「敦煌料理店」で借りた井上靖の「敦煌」を読む。
この小説では、登場人物がおのおのどうしようもないちからに動かされ敦煌へ向かう。
古都・敦煌は物語の最後に多くの人間を迎え入れ、
激しく燃え上がりながらかれらを死へとみちびく。
ひとは死ぬが仏典は残る。
かの仏典が長いときを経て発見されたのが、
敦煌でいちばん有名な観光地の莫高窟(ばっこうくつ)である――。

読み終わると、おもてへ出ることにした。
昼食ついでに敦煌の町をぶらぶら歩こうと思ったのだ。
5月を目前にした敦煌は暑い。Tシャツでちょうどいいくらいである。
敦煌は思っていたよりも、はるかに小さな町だった。
食堂を見かけるたびになかに入って聞いたが、どこにも冷たいビールはなかった。
やはり敦煌料理店へ行くしかないのかと引き返す。
しかし、昼も夜も敦煌料理店ではおもしろみがないと思っていると、
ジョーンズ・カフェという白人バックパッカー向けの食堂を見つける。
ズイさんには悪いが浮気することにした。
思ったとおりでここには冷えたビールが置いてあった。
わずかだが日本語書籍もある。日本人バックパッカーも来るのだろう。
ビールとチキンカレーを注文する。
このカレーは、インドカレーでも欧風カレーでも日本カレーでもなかった。
得体の知れないまずさに舌が悲鳴をあげ半分以上も残してしまう。
冷たいビールがあればそれでいい。多くを求めてはならない。
敦煌料理店の料理だって決してうまいものではないのだ。
ジョーンズ・カフェは店内にトイレのあるのが一段ばかり上という感じがした。

ネットカフェでメールをチェックして、それからブログ「本の山」の更新をする。
インターネットの普及はたしかに便利なことには違いないが、
反面、日本から離れているという感覚が希薄になる。
20年前バックパックをかついで世界を歩いた旅行者はもっと異国に肉迫したことだろう。
かれは孤独だったということだ。
ネットカフェには2時間ほどいたのだったか。それから敦煌料理店へ向かう。
天の川ツアーに参加しようと思ったのだ。
車で観光地化されていない砂漠へ行く。そこで日暮れと満天の星空を見るという内容だ。
価格はわずか50元(750円)。
敦煌料理店の旅行者情報ノートでいちばん人気があったものである。
思えば、あのノートには夜のツアーの感想はいっさい書かれていなかった。
敦煌まで来て女を買うようなすれた旅行者は
ノートに旅の感想を書くような幼稚な行為はしないのだろう。

敦煌料理店にはうわさに聞いていたトウさんがいた。
ズイさんの愛人である。トウさんは実際、とても美しいひとだった。
この店のオーナーとは、ちょっと釣り合わないかもしれない。
ズイさんはもう真っ赤な顔をしていたが、それでも笑顔で迎えてくれた。
「いまあなたのことを話してたんだよ。とんでもない日本ののん兵衛がいるって」
ズイさんのまえにはビール瓶とグラスが置かれている。
ゆうべのことはあまりよく覚えていないが、あやまっておく。
「昨日はだいぶ酔っぱらってしまって」
たいへんだったよとズイさんは恨みがましい顔をする。
朝からビールをのんでいるという。というのも、昨日わたしが帰ったのは深夜の2時。
朝の6時にはツアーに参加する日本人旅行者のために起きなければならない。
400元のツアーだからズイさんがじきじきにガイドをする。
だが、睡眠不足と二日酔いで、身体が動かない。仕方なく朝からビールをのんだという。
栄養源のビールが切れると身体が動かなくなる。またビールを入れる。
こんな感じで身体をごまかしながら、なんとかツアーを終えたそうである。
「あれはよくないよ」といわれる。
「白酒。昨日あなたがのんでいたあの白酒はなに?」
「いや、適当に安いのを買ってきたのですが」
「中国人だって、あんな白酒はあぶなくてのまない。
知ってる? 毎年、白酒をのんで死ぬひとがいるんだからね。
どこが造っている白酒か、きちんと調べてから買わないと」
心配してくれているのがわかる。「どうやって調べればいいんですか」
「あなたは中国語ができるんだから、今年流行している白酒はなにかって。
店のひとに聞いたら、かならず教えてくれるから」
「明白了(わかりました)」と中国語でこたえ、殊勝にうなだれてみせる。

車の準備ができたようである。
天の川ツアーといっても参加するのはわたしひとり。
ズイさんトウさんのカップルと別れ車に乗り込む。
途中でビールとピーナツを買い込み砂漠へ向かった。
運転手はチョウさん。日本語も英語も話せない。かえって気楽でいいものである。
車は郊外へ走る。20分ほどで車は停車した。砂漠の入口である。
ここからはひとり。
1時間半ほどしたら車へ戻ってくるようズイさんからいわれている。
懐中電灯とビールの入ったビニール袋を片手に砂漠へわけいる。
複数人で来ていたら奇声を上げてはしゃぐのだろうが、
ひとりだとなにもない砂漠である。
しばらくしたら砂漠を歩くことにもあきる。腰をおろしビールをのむことにする。
四方八方砂漠である。ひとひとりいない。
天気は曇りで壮大な落日というわけにはいかないようだ。
それでも日暮れにしたがい西方の雲々が朱色がかると、
なんだかものがなしいような気になる。静かである。音というものがない。
ときおり風が吹きつける。わたしは思い出したようにぬるいビールを口にふくむ。
日が沈む。満天の星空というには程遠いが、
それでもけっこうな数の星が輝いている。
いいなと思った。だれもいないのがいい。
星が雲に隠れていることさえ、つつましいようで、なんだかよく思われる。
いつしか星空以外は漆黒の闇である。
わたしはその場で1時間ほど動かず酒をのみつづけた。
闇のなかで光を見つめていた。時間が来たので立ち上がる。
いわれたとおり懐中電灯を点滅させた。
かなたでチョウさんが車のライトを点滅させている。
こうしてお互いの位置を確認するのである。

車は敦煌料理店へ戻る。トウさんは帰ったようである。
日本人がオムライスを食べている。その横でズイさんはビールをのんでいる。
わたしも冷えたビールを頼み、日本人へ話しかける。はじめて見る顔だ。
かれは会社員でゴールデンウィークを利用して敦煌へ来たという。
飛行機を経由して、まさに今日敦煌へ到着した。
わたしがタイ、カンボジア、ベトナムをめぐって、中国へ来たことを話すと、
「いいですね。ぼくもそういう旅がしたいです」といわれた。
そこにはわたしのように海外をふらふら遊び歩いている人間への蔑視はまるでなく、
素朴なあこがれをもらしたという感じでとても好感をもった。
年齢を聞くと、わたしよりふたつ上だった。ヤマグチさんというその青年は、
大学時代にインドをバックパック旅行したことが忘れられないという。
「オムライス、おいしいですか?」
ヤマグチさんは即答できずに言いよどんだ。
かれはズイさんが席をはずしていることを確認すると、
「……いやあ、日本のオムライスかっていわれたら、まったく違うけど。
これはこれで味があるというのか」
いいひとなんだな、と思い、うれしくなってしまった。
かれは明日、敦煌料理店のツアーに参加するらしい。
たまたま日本人が集まったので運がよかったと喜んでいた。
宿泊しているホテルを聞くと、おなじ莫高賓館であった。
そろそろホテルへ戻るというので、わたしも一緒におもてへ出ることにした。
尿意をもよおしていたのだ。まさか立ちションをするというわけにはいくまい。
敦煌料理店から50メートルほどのところへある公衆便所へ行く。
5角(8円)を支払わなければならない有料トイレである。

用をたして敦煌料理店へ戻ると、だれもいない。
軽い気持で厨房をのぞいたのだが、そこでとんでもない光景を目撃してしまう。
ズイさんが流しへ向けて放尿しているのである。
台所でオシッコをしているようなものだ。
ズイさんは悪いところを見つかったという顔をしている。
わたしは激怒する。
「勘弁してよ、ズイさん! ここは料理をするところでしょう。
そこでオシッコなんてしたら不衛生じゃない。なにを考えてるの?
食べたひとがお腹とか壊したらどうするの?」
ズイさんは最初こそわたしの剣幕に気おされていたが、しっかり反論する。
「大丈夫だって。ちゃんと洗うから。洗えばきれいになるから。
そんなこと気にしていたら中国でご飯を食べられないよ。
こんなこと、どこでもやっているから。トイレのない食堂はどこもおんなじ。
店のひとは厨房でオシッコしている。気にしない、気にしない、大丈夫ね」
わたしの怒りはおさまらない。
「毎日、こんなことをやっているの?」
「いつもはきちんとトイレへ行ってる。今日は酔っぱらっているから面倒で。
今日だけだし、それにきれいに洗うから大丈夫」
「大丈夫なんかじゃない。ズイさんわかってないけど、それとんでもないことだから。
料理をする場所でオシッコなんてしていることが知れたら」
わたしは意地悪な気持になっていた。
「このことを日本人が知ったら、だれも敦煌料理店になんか来なくなるよ」

とてもではないがここで作られた料理を食べる気にはならない。
わたしはズイさんに質問する。質問というより宣言のようだったかもしれない。
「ほかの店で作ってもらったのを、ここへ持ってきて食べてもいい?」
ここでなければ冷たいビールをのめないという事情があるのだ。
ズイさんは、弱みがあるためだろう。いいですよと承諾する。
敦煌料理店のまわりは飲食店ばかりだから店に迷うことはない。
キュウリの和え物と魚香茄子を持ってきてもらうよう手配する。
ズイさんは、オシッコなんかなんでもないというように、厨房で料理をはじめる。
自分のための食事である。
わたしが情報ノートを読みながら、他店の料理を口に入れていると、
ズイさんがあの厨房で作った料理を自分のテーブルに置く。
わたしはこの情報ノートに、
ズイさんは厨房で小便をするような人間だと書いてやろうかと迷っていた。
ズイさんは日本語を話せはするが、読むのはまだ十分ではない。
しばらく黙々とお互い口を動かし酒盃をほす。
ズイさんが日本人のわたしでも聞きなれない言葉を口にする。
メンツ、というのである。
「メンツが、メンツを」と自分の感情をうまく伝える言葉を探している。
なんだかおかしくて話しかける。
「よくそんな言葉を知っているね。面子でしょう。面子をつぶす」
「そう、それだ」とズイさんは思い当たったようだ。
「あなたはボクの面子をつぶしている」
かれはつづける。
「ほかの店で作られた料理をボクの店で食べる。これはボクの面子をつぶしている」
わたしは言い返す。
「だって、オシッコしたとこで作った料理なんて食べられないじゃない。
たしかにほかでもやっているかもしれないけど、それは見ていないから。
実際にズイさんがオシッコしているところを見ちゃうと、食べられないよ」

「ひとつ教えてあげましょう」
ズイさんが、真剣な顔をしていう。
「カネがないのなら、旅をしないほうがいい」
どうしてオシッコの話からそんな話に移ったのかはよくわからないが、
ズイさんがわたしを挑発していることだけはわかった。
「なに、ズイさん喧嘩を売ってるの?」
「カネがないのなら、旅をしないほうがいい」
ズイさんは繰り返す。最初はなんのことだがまるで意味がわからなかった。
しだいにバカにされていることがわかってくる。ふざけるなという思いだ。
「ああ、たしかにわたしは夜のツアーに参加をしていない。
ほかの日本人のように女を買わない。ここにおカネを落としていない。
参加したツアーも、格安の天の川のみ。
あのツアーはほとんど利益が出ないって、昨日ズイさん教えてくれたよね。
それに、うん、そうだ。ここでも高いものは注文していない。
安いビールをばかりたくさんのむ。遅い時間まで居座って迷惑をかけている。
なのに、ぜんぜんおカネは払っていない。悪いことをしたね」

ズイさんはもくろみどおりわたしを怒らせることに成功したのだが、
きっとひとがいいのだろう。今度は怒らせたことを申し訳なく思っているようだ。
「いえ、あなたはぜんぜんビンボーじゃない。
ドミトリーではなく、シングルに泊まっている」
いや、たしかにわたしはケチだったと反論する。
今度は立場が逆転して、なにをあらそっているのかわからなくなってくる。
ズイさんもそのようである。とにかく双方、よく酒をのんでいた。酔っぱらっていた。
わたしは勢いよくビールをのみほす。酔った頭で思い直す。
たしかに失礼な話だよな。ほかで注文した料理をここで食うなんて。
厚かましいにもほどがある。ズイさんの厚意に甘えすぎたかもしれない。
「いくら払えばいい、ズイさん? うん、悪いことをしたと思う。
ほかの料理をここで食べたら、ズイさんの面子をつぶしてしまう。
ビール代だけじゃなくて、おカネ払うよ。悪いことをした。ごめん。あやまるよ」
ズイさんは、おカネなんかいらないという。
「わかってくれたらそれでいいから」

お互い、気まずくなっている。どちらからともなく酒をのもうということになった。
ズイさんはいう。
「ビールなら、まだたくさん冷蔵庫にあるから。今日はがんがんのもう」
同意する。大量のビールでこのことを流してしまうしかない。
「しかし、ズイさん、よくのむな」
「あなたも。ふつう日本人、そんなにお酒をのまない」
日中ののん兵衛は顔を見合わせて笑った。
ふたたび尿意をもよおしたことをズイさんに告げる。
「ちょっと公衆便所へ行ってくるから」
すると、ズイさんは、厨房でしてしまえというのである。
一瞬、迷った。しかし、酔っていた。仲直りのチャンスだとも思った。
わたしは敦煌料理店の厨房で放尿した。
そのすぐあとにズイさんも、この店のトイレへ向かった。
ふしぎでしようがない。
「なんでトイレを作らなかったの?」
「中国の食堂、みんなこうだよ。トイレなんて作らない。
スペースがもったいないから。トイレを作るとおカネもかかるし」

それから、われわれはだいぶビールをのんだ。
ズイさんは、敦煌料理店を訪れた旅行者の話をおもしろおかしくしてくれた。
もう一度、わたしはこの店のトイレ、つまり厨房へ入った。
放尿しながら、こんなことにこだわる自分がちっぽけなようにも思えてきた。
ズイさんも、トイレに立った。戻ってくると、
「大丈夫、大丈夫。明日きれいに洗うから」と繰り返した。
わたしはこの店の厨房に洗剤のようなものがないことを知っていたが、
なにもいわなかった。
安食堂では汚れた食器を水で流すくらいで、洗ったことになるのである。
何度もすすめられたが、先ほど酔ったズイさんが作った料理だけは食べられなかった。
「カネがないのなら、旅をしないほうがいい」
わたしはかれの口真似をしてからかった。ズイさんは、勘弁してよという顔をした。
「もう忘れてよ」
いいひとなんだなと思った。酒のみに悪いやつはいないと思った。
「冷たくなければビールじゃない」
ふたたびズイさんの口癖を真似る。かれは今度は笑いながらオウム返しをする。
「冷たくなければビールじゃない」
こうして敦煌3日目も酒に明け暮れた。
敦煌のバスターミナルへ到着したのは4月27日の午後5時であった。
ホテルの客引きのおばさんから声をかけられる。
バスターミナル横の建物が招待所になっているようだ。
敦煌に着いたという感動からむげに断わることもできずついていく。
部屋を見せてもらうと、想像していた以上にひどい。汚いのである。
まるで監獄のようなのだ。バス、トイレは部屋にはついていないという。
これで60元(900円)でどうかというのである。断わる。
いくら安くてもここには泊まれない。せっかくの敦煌が台無しになってしまう。
おばさんはなにを勘違いしたのか50元でいいという。だから、ちがうんだ。
こんなに安いのになぜ泊まらないのかとおばさんはふしぎな顔をしている。
ひとのよさそうなおばさんをふり切り建物の外へでる。
青空を見上げる。太陽がまぶしい。これが敦煌の光なのかと思った。

ホテルはバックパッカーの定宿、飛天賓館に決めた。
一泊100元(1500円)である。
受付でおどされる。100元で泊まれるのはあと数日だというのだ。
というのも、5月1日から中国の大型連休、黄金週間がスタートする。
ここも5月1日からは宿泊料金が倍の200元にはねあがるらしい。
さいわいなことにわたしは4月30日に敦煌を発つ。
日本を離れたのはいちばん寒い2月のはじめである。もう3ヶ月も旅をしているのか。

飛天賓館に付属した旅行会社で明日のバスツアーへの参加を予約する。
熾烈な交渉であった。バスツアーというのは毎日、出ているわけではない。
旅行者が集まったときだけ開催されるのである。
すでに翌日のツアー開催が決定している。
すなわち、収入を見込める乗客を現段階で確保している。
もうバス運賃とガイド料金は変わらないということだ。
ひとりでも多く乗せたら、そのぶんがそのまま収益になるわけだ。
こちらはそこを突いてなんとかディスカウントさせたい。
向こうだって商売。そうそう値下げができるわけがない。
いかにもやり手といった鋭い印象の女性はいう。
「本来は150元だけど、あなたは特別で130元でいい」
こちらは足元を見る。「100元だ」
結局、120元まで下がったが、これ以下にはならないようである。
わたしは事務所を出るそぶりをする。甘い期待があった。
「待ってくれ」とさらに安い金額を提示してくれるのではないか。
ところが、声がかからない。事務所を出たわたしは負けたと思った。
いまさら引き返すわけにはいかない。
このツアーに参加したいのは事実なのである。4日間しか敦煌にはいない。
この期間で今度いつツアーが開催されるかもわからないのである。
ひとりでタクシーを借り切ったら400元、500元は取られる。困った。
一度、ホテルへ戻り、荷物の整理をする。
もう7時に近い。ちょうどこのくらいの時間が敦煌の夕暮れである。
さて、暗くなったから酒をのもう。
ホテルを出ると、先ほどの旅行会社から例の女性がすがたを見せる。
ツアー料金を110元まで下げてやるというのだ。
ここまで来たら100元にこだわることはない。
しめしめと思いながら110元で手を打つ。たかが10元。150円である。
せこいと思われるかもしれないが、ここはビールが3元の国なのである。

ビール3本ぶんが浮いたなとほくそ笑みながら敦煌の中心街へ足を向ける。
100メートルも歩いたかわからない。
「いらっしゃいませ」と日本語の看板が出ている。
大きく「旅人の家」とも書かれている。これが敦煌料理店との出会いだった。
テーブルが4つしかないような小さな食堂である。
なかを見るとだれも客らしきひとはいない。おっさんがひとりぽつんと座っている。
そのまえにはビール瓶とグラスがある。
「やあ、日本のかたですか」
敦煌料理店のオーナー、ズイさんが最初に発した日本語であった。
わたしがこのズイさんに最初にかけた言葉は――。
「冷たいビールって、ここありますか?」
ズイさんはふかぶかとうなずき口を開く。
「冷たくなければビールじゃない」
わかってるね、とうれしくなる。店内を見まわすと、ここは宝の山である。
日本語書籍の本棚があるのだ。
日本を発って3ヶ月。どれだけ日本語に飢えているか。
「ここの本って、交換してくれます?」
「いいです。いいですよ。まずは座ってください。ビール、のみませんか」
ズイさんの様子がおかしい。明らかに酔っぱらっているのである。
それも泥酔に近い。ふらふらしている。
このひと、やばいんじゃないかと一瞬あせった。
しかし、日本語書籍の誘惑にはあらがえない。
とりあえず書籍交換だ。いま交換してもらおう。
ズイさんが酔っているいまがチャンスなのかもしれない。
わたしは一度ホテルへ戻ることを伝えた。
「大丈夫です。ビールを何本、冷やしておきますか?」
このおっさん、おもしろいな。こよいはここでのみあかすか。
「5本でも6本でも。1本、いくら? 3元! ううん、安いな」

本を持参し急いで敦煌料理店へ戻る。
正確にはズルなのかもしれない。
わたしの持っている日本語書籍はやむにやまれず中国で買ったものである。
日本語の教則本だ。日本語の名文が左ページに書かれている。
右ページにはその中国語訳が載っているという体裁のもの。
「これでもいいですか」と問う。
ズイさんは気前がいい。
「大丈夫。大丈夫。早くビールをのみましょう」
日本語教則本3冊と引き換えにわたしが手に入れたのは以下の本である。
「放浪記」(林芙美子)、「人生論ノート」(三木清)、「敦煌」(長澤和俊)。
井上靖の「敦煌」もあったので、これはあとで返すからと借りる。
まさか敦煌で井上靖の「敦煌」とめぐりあえるとは思わなかった。
これを読んでいつか敦煌へ行きたいと思ったものである。
そして、いま敦煌にいる。

冷たいビールをわたしもいただく。
ズイさんはかなり酩酊している。急いで追いつかなければならない。
急ピッチでグラスを空けているとズイさんはにこにこ笑っている。
話したくてしようがないようである。
「いまタカシちゃんが、駅へ行っちゃってね」
酔っぱらいの話はなんのことだかさっぱりわからない。
いちいち意味を問うと、こういうことらしい。
ズイさんは日本人旅行者を下の名前で、なおかつちゃんづけで呼ぶ習慣がある。
タカシという日本人がここ数日、敦煌料理店へ入りびたっていたが、
先ほどウルムチへ旅立ってしまったということだ。
ここに名前を書けとノートを渡される。見ると日本人の名前がずらりと並んでいる。
わたしは名前を書きながら、それを中国語よみで発音した。
「へえ、中国語わかるの?」
「十年前に大学で勉強した」
これも中国語で返答する。

ズイさんはにやにや笑いながら、日本人の名前を順番に指さす。
「Aちゃんは買った。Bちゃんも買った。Cちゃんも買った。みんなスケベね」
これもなんのことがわからないので質問する。
あれを見ろとズイさんは壁に貼られた紙を指さす。
ツアーの紹介が8つ書かれている。
ここは旅行会社も同時に運営しているということである。
「あの7番目と8番目のコース、スケベね。日本人、みんな選ぶ」
1~6までのツアーは一般的な旅行ツアーらしい。
7、8番目のツアーはこう書かれている。
「7.夜の敦煌ツアー(当店オリジナル)」
「8.特別砂漠ツアー(当店オリジナル)一人分料金400元」
やけに高いなとわたしが反応すると、高くないとズイさんは笑う。
「特に8番目はここだけでしかできないよ」
ズイさんの説明だと、7番目は女を買うツアーらしい。
8番目はもっとすごいので聞きながら思わず笑ってしまった。
「8番目はうちの店でいちばんの人気メニュー。砂漠でセックスね」
なんでも売春婦と砂漠へ行って寝袋のなかで交わるコースだという。
「どこまで行ってもなんにもない砂漠。だれもいない。上を見たら星空。
ここでセックスしたら一生の思い出になります」
質問する。
「こんなコースに参加する日本人いるの?」
「いるいる、いっぱいいる。だから、あるんじゃない」
ズイさんは名簿の名前を指さしながら、
この子とこの子が参加したといちいち教えてくれる。

このおっさんは何者だろうと思う。
いくらなんでも会ったばかりの日本人に売春の話をしなくてもいいだろう。
いや、わたしの酔いが足らないのかもしれないと、さらにビールを頼む。
ズイさんもへべれけになりながらビールをのむのをやめない。
「なにか作りますか」とズイさん。
「そんなに酔っぱらって料理できるの?」
「大丈夫、大丈夫」
メニューを見ると、価格はわたしがふだん食べている食堂の1.5倍といったところだ。
高いが、ここは日本語書籍代と思うしかない。
肉入りの野菜炒めを注文する。ズイさんは厨房に入っていく。
ひとりでビールをのんでいたが不安になり厨房へわたしも入る。
「ちゃんと手を洗った?」
「もちろんだよ。信用して」
「野菜、水で洗わないの?」
「いまから洗うところ」
あわててズイさんは野菜を水で洗いはじめる。
このおっさん、どうしようもないなとあきれる。
できあがった野菜炒めは味がない。指摘すると、「大丈夫、大丈夫」である。
フライパンであたためなおし調味料を追加している。
これでなんとか食べられるものになった。

ズイさんはもうぐでんぐでんだ。明らかに人間として崩れている。
いきなり愚痴を話しはじめた。
聞くと、精神的にまいっていて昼からビールをのみつづけているという。
敦煌料理店はズイさんとトウさんがやっている。
トウさんは35歳の女性。
「そういえばズイさんはいくつなの?」
ズイさんは39歳だという。
トウさんのことは、この食堂に置いてある情報ノートを読んで知っていた。
従業員ということである。
少なくとも情報ノートにこの店の思い出を書いている日本人はそう思っている。
ズイさんは否定する。
「従業員じゃないの。トウさんは、ボクの愛人」
おいおい、と思う。はじめて会う日本人に、こんなこころを許していいのか。
それだけ酔っぱらっているということなのか。
わたしは日本でも海外でも、初対面のひとからいきなり悩みを告白されることが多い。
いってみれば、こういうことには馴れている。
グラスのビールをつづけざまにのみながらズイさんの話を聞きつづける。
ズイさんとトウさんは5年前に知り合った。トウさんは結婚して子どももいた。
けれども、ふたりは恋に落ち、結局トウさんは子どもを残して家を出たそうだ。
ズイさんも、むろん結婚している。子どももいる。
敦煌から少し離れたところに家はあるが、めったに帰らないらしい。
とにかくズイさんのほうは離婚していない。
だから、トウさんはズイさんの愛人ということになるのだ。
複雑な関係である。質問する。
「あれ、ズイさんの奥さんは、ズイさんに愛人がいることを知っているの?」
「知らない。知っているわけがないじゃない。秘密」

ズイさんとトウさんは今朝、激しい喧嘩をしたそうである。
原因はこの不平等な関係にあるみたいだ。
トウさんは、子どもまで捨ててズイさんのために尽くしている。
しかし、ズイさんは家族がいる。ひとり占めできない。
「トウさん、怒る。残してきた子どものことが忘れられないと泣く」
ふたりは喧嘩をした。
通常、この敦煌料理店の厨房、接客はトウさんの役目である。
旅行業務をズイさんが請け合っている。
トウさんと喧嘩してしまったいま、これからどうしたらいいかわからない。
こういう事情で、ズイさんはやけ酒をのんでいるわけだ。
ひとりでさみしくビールをのんでいた。そこにわたしが登場した。
これさいわいというわけである。
尿意を感じたのでその旨を伝えると、店にトイレはないという。
「そこでしちゃいなよ。立ちション」
店のまえはポプラ並木である。木に向かって放尿しろというのだ。
「ほんとうにいいの?」
「大丈夫。気にしない」
酔ったいきおいで実行した。この日はふたりで遅くまでのんだ。
宿泊している飛天賓館はすぐそこである。
日付が変わるまでふたりでビールをのんだ。敦煌最初の晩であった。

翌日の晩、敦煌料理店を再訪するとズイさんがあわてている。
「昨日、たいへんなことをしたでしょう」というのだ。
「なんのこと?」
「そこでおしっこをした」
ゆうべの立ちションを責められているようである。
「だって、ズイさんがかまわないっていったから……」
ズイさんは沈黙する。
聞くと、このポプラ並木は黄金週間まえだからということで、
つい先日、敦煌の自治体が木の幹を白い塗料で装飾したという。
「見てよ。それがはがれてしまっている」
見にいくと、たしかに色が落ちている。今度はわたしがいう番である。
「大丈夫。大丈夫。気にしない」

「あなたは、のん兵衛ですね」といわれる。
「ボクが中国ののん兵衛なら、あなたは日本ののん兵衛」
昨日はよくのんだものである。たずねる。
「ビールを何本のみましたか昨日」
ズイさんも覚えていないという。おカネを払った記憶はかろうじてある。
「昨日はのみすぎました」と中国ののん兵衛は反省している。
二日酔いでさんざんだったようである。
実はわたしも今朝はめったにない二日酔いでとんでもない失敗をした。
バスツアーが朝8時に飛天賓館から出発するのだが寝坊してしまった。
旅行会社の女性にドアをたたかれてようやく目が覚めた。
もうわたし以外は全員集合しているらしい。
あわててろくろく顔も洗わずに部屋を飛び出た。
ツアーには日本人の留学生が3人参加していたが、
女子学生の集団は酒臭いわたしを露骨に敬遠するので落ち込んだものである。
日本人留学生の友だちという中国人学生がただひとりわたしに親切にしてくれた。
日本人女子は遅刻したわたしを母国の恥のように思っていたのかもしれない。

今日は敦煌料理店に日本人旅行者がひとりいた。
わたしと同年代の男性である。
ゴールデンウィークを利用して飛行機で敦煌まで来たという。
そうか、もう日本はゴールデンウィークなのかと思う。
しばらく雑談したのち、かれはホテルへ戻っていった。
あまり酒は好きではないらしい。明朝、この敦煌料理店のツアーに参加するという。
400元(6000円)もするツアーにひとりで参加するのだからリッチである。
かれが去ると、ズイさんはわたしに耳打ちする。
「かれね、いま8番目のツアーから戻ってきたところ」
あの砂漠で売春婦と遊ぶツアーのことである。
「これ秘密だからね。ボクがいったっていわないでね」
なんて口が軽いんだよズイさん! 様子を見ると、なんだかおかしい。
「もしかしてズイさん、もうビールをのんでるの?」
「ちょっとだけよ、ちょっとだけ」
問いただすとすでに3本ビールをのんでいるとのこと。
かくいうわたしもバスツアーで立ち寄った売店で昼間から2本ビールをのんでいる。
ズイさんは、一心にビールを愛している。ビールのためだけに生きている。
毎朝、目が覚めると、今日は何本ビールをのむかを考えるらしい。
それが生きる楽しみ、だとも。しかし、ズイさんは固く決心している。
いま39歳だが、40歳になったらビールをきっぱり断つというのだ。
「無理でしょう」と同病相憐れむでからかう。
「いや、健康のことを考えないといけないから」

この晩もズイさんとふたりで酒盛りになった。のみ助同士で気が合うのである。
ズイさんはかつて旅行会社に勤めていた。日本人ツアー専用のガイドだった。
しかし、体力が持たなくて会社を辞めた。
なによりつらいのが汽車の移動だったという。
日本人旅行者をどこかへ連れて行く。日本人は飛行機で帰る。
ズイさんは汽車で戻らなくてはならない。
中国の鉄道はつねに混雑している。座れない。立ちっぱなし。
それがいちばん苦しかったということである。
のん兵衛同士が酒をくみかわすと、とんでもないことになる。
ふだん以上に酒がすすむのである。
あいつがあれだけのんでいるんだから、こちらも負けられねえ、となる。

酔うとズイさんはどんどん口のすべりがよくなる。
実は敦煌料理店のみならずズイさんは裏で風俗店を経営しているという。
「ええ? 中国ではそういうの禁止されているんじゃないの?」
「ワイロを払えば大丈夫。公安にワイロを払えばつかまらない」
「奥さん、家族はそのことを知っているの?」
「知っているわけないじゃん」
この敦煌料理店の夜のツアーは、ズイさんの経営する風俗店の女の子を使うらしい。
いまズイさんの風俗店には4人の女の子が勤めている。
どんな女の子が勤めるのか聞くと、田舎の少女らしい。
期間を定めて売春で荒稼ぎして、カネがたまったら田舎へ帰るというのが一般的だそうだ。
実業家のズイさんは経営事情を教えてくれる。
敦煌料理店なんかより風俗店のほうがよほどもうかるらしい。
なかでもいちばん収益が大きいのは夜の砂漠ツアーだという。砂漠でセックスだ。
あれを日本人がオーダーすると、なにもしないでズイさんのふところに200元入る。
「こんな食堂でフライパンをふっているのがバカらしくなる」くらいだという。
けれども、旅行者が好きだから敦煌料理店をつづけている。
シーズンになると、この食堂は日本人旅行者であふれかえり、
毎晩のようにそれはそれは楽しい酒宴が繰り広げられる。
そうやって旅行者とバカをやるのはカネにはならないけれども悪くないと思っている。

酔っぱらったズイさんの暴走はとまらない。
バックパッカーのバイブル「地球の歩き方」の裏事情も教えてもらう。
少なくとも、ここ敦煌では「地球の歩き方」スタッフにワイロを払わないと、
あの有名ガイドブックには掲載してもらえない。
このへんを取りしきっているのはUさん。
かつて敦煌にはインインカフェという、日本人が集まる場所があった(2005年閉店)。
なんのことはない。
このカフェのオーナー、インインさんというのはUさんの奥さんなのだ。
「地球の歩き方」スタッフのUさんが中国人女性と結婚して敦煌でカフェを開く。
それを自分がかかわる「地球の歩き方」に紹介するのだから、楽な商売である。
わたしもいいおとなのつもりだが、こういうおとなの事情には閉口する。
敦煌料理店が「地球の歩き方」に掲載されないのは、
Uさんに袖の下を渡さないからなのである。公私混同も甚だしい。
ズイさんによると、べつに憤ってはいないとのこと。
中国ではこういうワイロは日常茶飯事だから怒っても仕方がないという。

酒が足らない。中国のビールはいくらのんでも酔わない。
白酒がのみたい。ズイさんにたずねると、ないとのこと。
スーパーで買ってくればいいじゃないかと言われる。
厚意に甘えて白酒を持ち込む。アルコール度50以上の酒である。
白酒をまるで水のようにのみほすわたしを見てズイさんはあきれていた。
宿泊している飛天賓館でお湯が出ないことを嘆くと、
ズイさんはホテルを移ればいいじゃないかと教えてくれる。
ズイさんの紹介があれば莫高賓館にわずか70元で泊まれるということだ。
お願いすると、ズイさんはその場で電話をかけてくれる。
翌日のことだ。この莫高賓館に宿泊している日本人と敦煌料理店で知り合い、
いくらで泊まっているか聞いたらば220元だという。3倍もの差だ。
その場に居合わせたズイさんによると、中国のホテルはみなこんなものらしい。
おなじホテルに泊まっているひとでも、払っている金額は千差万別。
「中国のホテルは奥が深いからね」というとズイさんはにやりと笑ったものである。
この日は深夜2時近くまで店を開けてもらった。
敦煌2日目の晩もかくして酒に呑みこまれたのである。
「歎異抄」(梅原猛/講談社学術文庫) *再読

→何回も読んでいる本だから、いまさら感想でもないのだが。
先日、あるひとからだいぶいじめられた。会うなり、痛いところをつかれた。
「いまなにか書いているのですか?」
小説のことだろう。答える。
「書いていません」
ここで言い訳をするが、
いまだに自分の現実をどう小説に結びつけたらいいかわからないのだ。
しばらくしてから今度はこうだ。
「出版社のひとに、なにかコネとかあるんですか?」
「……まったくありません」
新人文学賞やシナリオコンクールに応募するしかないのである。

歎異抄の話になった。今日は相手の話を聞くと決めていた。
「歎異抄って他力本願じゃないですか。
いっぽうで法華経は自力本願でしょう。
私、歎異抄だけじゃダメだと思うんです」
それから美輪明宏の話を聞いた。なんでも、熱心な法華経信者らしい。
申し訳ないけれども、美輪明宏はわたしの関心外。ゲテモノという認識しかない。
「美輪明宏じゃないけど」と友人は言葉を区切った。
「他力本願だけじゃダメだと思う。自力本願みたいなものもやはりないと」
わたしは言葉がなかった。うなだれるのみであった。

翌日、歎異抄を再読した。いまさらながら新たな発見をした。
たぶん、かなりのひとが親鸞の他力本願思想を誤解していると思う。
ベストセラー「他力」の著者、五木寛之氏もそのひとりかもしれない。
親鸞のいう他力本願の「願」を問題にしたいのだ。この願いとはなんなのか。
決して現世で成功することではない。浄土へ生まれ変わることである。
阿弥陀仏様におすがりして死後浄土へおもむき、そこで成仏したい。
なぜなら凡夫の身では、現世において成仏がかなわないからである。
すなわち、他力本願の願望とは成仏することであった。
歎異抄を一字一句吟味して読むと、どうやらそういうことである。
少なくとも歎異抄の親鸞は現世における願望成就のことなど語ってはいない。
大きな間違いをしていたようである。

ついでに記すと、法華経は自力本願の思想ではないと思う。
自力で成仏できるとは法華経に書かれていないはず。
法華経を護持すれば、みなみな成仏できると説いているのみである。
たしかに現世利益のことは書かれている。
法華経の信者はたくさんいいことがありますよというセールス文句はある。
その部分を重視したのが日蓮なのか、創価学会なのかは不勉強でわからない。
とにかく南無妙法蓮華経と唱えれば、
カネがもうかるオンナにもてるビョーキがなおるというのが創価学会だ。
日本仏教で自力本願の思想を説くのは禅くらいではないか。

親鸞のいう他力は死後の成仏のことであった。
そうであるならば、親鸞は現世のことをどう考えていたのか。
わたしはあきらめていたのではないかと思う。どうしようもないとあきらめる。
もとより、歴史に詳しいわけではない。
親鸞の生きた鎌倉時代の人間のことはわからない。
けれども、現代とはまるっきり違っていたことは想像がつく。
まさか貧農の子どもが、みなみな富豪、高僧、殿様になれると夢見たわけではあるまい。
親のすがたを見て、どのみち自分は現世では救われないと思ったのではないか。
現代のお子様のように、
多くがプロスポーツ選手、芸能人、漫画家、映画監督を夢見るわけではなかった。
これを(わたしもふくめて)現代の歎異抄読者は理解していないと思われる。
親鸞の時代は現世での願望など夢見ることさえ分を知らない行為だったのではないか。

歎異抄の主張は阿弥陀仏様にお任せしましょうということだと思う。
現世のことも死後のことも、みんな阿弥陀仏様にお預けする。
棚からぼた餅を願うのが他力ではない。
棚から石が落ちてこようと阿弥陀仏様のおはからい。現世がどうでも、
われわれは死後に浄土へ生まれ仏になれる(=成仏)のだからいいではないか。
これが歎異抄で親鸞が語っていることだと思う。

最初の話に戻る。友人の助言は身にこたえた。
南無阿弥陀仏もいいが、たしかにわたしは現世でもっとがんばらなくてはならない。
歎異抄のどこにも(成仏ならぬ)現世利益のことは書かれていない。
親鸞は、(現世利益のために)がんばれとも、がんばるなとも言っていないのである。
ならせめて、ちからのかぎりがんばりたいものだと思う。
定期的に閲覧していた読書ブログが閉鎖するという。
なんでも、ブログに感想を書かなければと思うと読書が億劫になったから、とのこと。
人様の決定に口をだすのは野暮というもの。
その判断を尊重するしかない。

あらためて思う。そもそも読書ブログに意味はあるのか。
うちもふくめて読書ブログはあまたあるが、書くひとはいても読むひとは少ないでしょう。
というのも、日本には書評の文化が成熟していない。
例の「メッタ斬り」は数少ない読まれている書評だが、
たいがいの書評はその本の著者と本屋の店員くらいしか読んでいないと思う。
プロの文筆業者の書くものがこれなのである。
無名のしろうとが書いた読書感想文なんてだれが読むのだろう。
むろん、自嘲をたっぷり込めて言っているのである。
身もふたもないことを言うなら、人間は他人が読んでいる本になど興味を持たない。

自身のことを考えても、読んでわかるのは自分も読んだことのある本の場合だ。
読んだことのない本は、感想文を読んでもよく意味がつかめない。
読書ブログは読まれるためにではなく、書くためにあるのだと思っている。
本を読んでも感想を書いてみないと、自分がなにを考えたかわからない。
だから、書いているというひとが大半だと思う。
それで十分に役割を果たしているのである。
読んでもらうことまで期待するのはいささか傲慢というものかもしれない。
しつこいようだが、自戒をふんだんに込めて書いているのである。

わたしもアクセス数を気にすることでは人後に落ちないが、
ことさら意識しているのはブックマークでいらっしゃったかたの数である。
検索で来られた一見(いちげん)さんはほとんど意に介していない。
どうせ役に立たないと3秒で画面を閉じるのがおちだ。
なにか有益な情報があったら読んでくれるのだろうが、読むのはその記事だけである。
感謝の言葉ひとつよこすわけでもない。
そう考えると定期的にブックマークで来てくださるかたほどありがたいものはない。
人間はだれも他人に興味を持たない。
見知らぬだれかが余命宣告されたことより、自分の頭痛のほうがよほど重要事だ。
かなしいが、これが人間というものである。

しかし、アクセス数だけでは決してわからないことがある。
記事を読んでくださったかどうかである。
とくにうちのブログは長文記事が多い。読むのは面倒である。
おそらくけっこうな人数が読むものを限定しているのではないかと思っている。
雑記だけしか読まないひともそうとういらっしゃるはずだ。
これはもうどうしようもないとあきらめている。
おのが非力を恥じ入るばかりである。
だから、批判や中傷のコメントがついても、そう大して落ち込まない。
むしろ、勝ち誇ることもある。読んだのだろうと思うからだ。
最後まで読ませた。なら、わたしの勝ちだろう、などとひとりで喜んだりしている。
おかしなひとだとみなさまに笑われることだろう。

読書感想文で禁じ手としていることがいくつかある。
これはわたしが個人的に敬遠しているだけで、
その禁じ手をなさっているかたを批難するわけでも愚弄するわけでもありません。
まあ、アマゾンのレビューに多いという指摘くらいは許されるかな。
禁じ手その1。
これはわかりやすいです、で終わらせる。
(→わかったのなら証拠に内容を要約しなければならない)
禁じ手その2。
おすすめです、で終わらせる。
(→だれもおまえのおすすめなんかでものを買ったりはしないと自覚する)
禁じ手その3。
客観的な判定をくだしたふりをする。
(→読書の感想で客観などありえない。とことん主観にこだわりたい)

「本の山」は当面閉鎖するつもりはありません。
どうかたまには読書感想の記事も読んでやってください。
めったにはないと思いますが、いいことを書いているときもあるので。
なにとぞよろしくお願いします。
「ビバ☆オヤジ酒場」(かなつ久美/ワニブックス)

→女性漫画家が仲間数人と有名なオヤジ酒場を訪問する。
オヤジ以外いないなかに、若い女性数人で入っていくのである。
ふたつの反応があったようである。
若い女性様だからということでチヤホヤされる(これが7割)。
ここはおまえらの来るところじゃないと拒絶される(こっちは2割くらいかな)。
残りの1割はなんの関心も持ってもらえないというケース。
読み物としてはたいへんおもしろかった。
けれども、彼女たちの行動をどう受けとめればいいのか。
もしわたしがその場に居合わせたら間違いなく不愉快な思いをしただろう。
東京にはラッシュ時に女性専用車というものがある。
痴漢防止のため、その車両には女性しか乗れないというのだ。
ここに(汚くていやらしいと女性様から思われている)男が入ったら
いったいどんな仕打ちを受けるか。
いっぽうで(大半は)汚いオヤジ酒場に女性様が入店したら歓迎されるというのは、
あまりにも不平等ではありませんかね。
なんか屈折しているのかな。わたしの書いていること、もしかしておかしい?
すまん。自分じゃわからないんだ。教えてくれ。プリーズ。
こんなガイドを参考にして若い女性様がオヤジ酒場へ乱入するようになったら困るな。
というか、困りたい。
早く居酒屋へちょくちょく顔をだせるような身分になりたいです、はい。
若い女性様を叱りつけるのは、それからということだな。
いやいや、もちろん実際はそんなことできやしませんよ(笑)。
若い女性様の集団から「なにこのオッサン、きも~い」
なんて言われたトラウマで3日は寝込むもの。ボク繊細だから。
あーあ、若い女性様とこじゃれた居酒屋なんかで忘年会したいな。
以上はかなわぬ夢の裏返し、すなわちルサンチマン爆発でありました(にっこり)♪
「自ら逝ったあなた、遺された私」(平山正実監修/朝日選書) *再読

→サブタイトルは「家族の自死と向きあう」。
自死遺族のつどいに参加するまえ、なにか失礼があってはならないと再読した。
わたしは読書をしながらメモをするくせがあるのだが、
本書の書きつけとしてはこう記している。「わかったようなことを言うな」。
自死遺族の苦しみをグリーフケアという専門的見地から分析している(つもりのようだ)。
本書では遺族の悲しみを定型化する。

第Ⅰ期:ショックの段階
第Ⅱ期:怒りの段階
第Ⅲ期:抑うつの段階
第Ⅳ期:立ち直りの段階

かならずこのステップを踏むというのである。
自死遺族による匿名の体験記もいくつか掲載されているが、どれもありきたりだ。
なぜならすべて上記のグリーフケアに基づき書いているからである。
どれも前向きである。最初は悲しかったけれども、時間が癒してくれた。
いまは生きることに前向きです。生きることはすばらしいことだと思います。
かれらが立ち直ったきっかけはすべて「分かちあい」の場に参加したこと。
これではまるで新興宗教勧誘のガイドブックのようなものである。

おなじ自死遺族をテーマにしたもので「さよならも言わずに逝ったあなたへ」がある。
著者はカーラ・ファイン。アメリカ人の女性である。夫をピストル自殺で亡くした。
こちらは本書と比べものにならないくらいの深みがあった。
著者が自死遺族へ取材してまわった記録である。
どこが新鮮かというと、いわゆる立ち直ったひとばかりではないことだ。
この苦しみは一生消えない。自分もいつか自殺するだろう。
そう呻吟するものがいれば、アルコール依存症になって世を嘲笑しているものもいる。
生きるのに前向きなひとたちばかりではない。
回復不能なまでに傷ついた人間のうめきに、
おなじ自死遺族のわたしはどれだけ共感したか。どれだけ慰められたか。

本書の提唱するグリーフケアなるもののいかに浅薄なことか。
人間の(苦悩の)固有性をまったく認めない無味乾燥なものだ。
人間は前向きに生きればそれでいいのか。
社会に復帰して健康な人間になればそれですべてが終わりかい?
わたしは人間の悲しみというのは、そういうものではないと思う。
悲しみは罪悪で、それは手術でもするかのように取り除かれなければならないのか。

苦しんでいるのはあなただけじゃない。
みんな、苦しいんだ。さあ、勇気をだして一歩飛びだそう。
きみには仲間がたくさんいるんだ。
先輩を見習って立ち直ろう。グリーフはケアしなければならない!
手を取り合い大いなる明日へ向かって偉大なる一歩を踏みだそうよ!

すみません。遠慮いたします。
「オン・ザ・ボーダー」(沢木耕太郎/文藝春秋)

→本書は「作品集成」、いわば全集みたいなもので、
特典として記事ごとにノートがついている。
この記事を書いたとき、実はこうだったという裏話がおまけについてくるのだ。
それを読みながら、書くという行為と読むという営為の関係を深く考えた。
沢木耕太郎はいままでふたつの記事を、やむにやまれず書いたという。
書きたくてどうしようもなくて書いた。いくら書いてもとめどなく書くことがあふれてきた。
たいがいの場合、プロアマを問わず、人間がものを書くとき、
そのような状況になることはめずらしいのではないか。
書こう、書かなければと思って、がんばって文章を書くのが通常だと思う。
書きたくないけれども、なんらかの事情で書かなければならないから人間は文章をつづる。
沢木の文筆人生において例外がふたつあったという。
どちらも本書に収録されている。
沖縄与那国島に取材した「視えない共和国」と「墜落記」がそうだという。
「墜落記」は、アマゾンで沢木の乗ったセスナ機が墜落したてんまつを書いたもの。

「書く」と「読む」の関係はわからないものである。
沢木が情熱的に執筆した「視えない共和国」と「墜落記」がとにかく退屈だったのだ。
「視えない共和国」は若き日の沢木が書いた初の紀行文。
熱に浮かされたような文章はまるでまとまりというものがなく、
「深夜特急」の作者がこんな悪文を書いていたことに驚く。
「墜落記」は成熟したノンフィクション作家、沢木耕太郎が書いたものである。
だが、これもひどい出来というほかない。
沢木耕太郎というブランドがあってはじめて雑誌に掲載される文章ではないか。
というのも――。
本人にとって、乗っていたセスナ機が墜落したのが衝撃だったのはわかる。
死というものを身近に感じ、いろいろなことを考えたのだろう。
しかし、読者のわたしにとっては、それはほとんど興味を引かないのである。
沢木さんがセスナ機墜落で、そのてんまつを書きたくなったのはわかる。
けれども、作品としてはちっともおもしろくない。
残酷なことをいうようだが、交通事故に遭遇するひとは、たいしてめずらしくもない。
いくら海外でもおなじことである。
具体例を用いよう。あるひとが、痴漢逮捕の瞬間を目撃した。
かれにとっては衝撃で、会ったひとに興奮してそのことを語る。
けれども、聞き手はなにがおもしろいのかさっぱりわからない。
痴漢逮捕なんて日常茶飯事のことではないかと思う。
なにを大げさに騒いでいるのかとあきれる。これとおなじことである。

「深夜特急」があれだけおもしろかったのは、
実際の旅行から何年も経って、それから書き始めたからなのかもしれない。
いや、やはりそんなことはないのか。
本書には沢木耕太郎のベトナム旅行記も併載されている。
これは旅行後ほどなくして書いたものだという。
にもかかわらず、沢木の筆は冴え渡る。
むろん「深夜特急」には遠く及ばぬが、それでも、
そこいらの旅ライターが逆立ちをしても書けないであろう美しい文章である。

沢木はベトナム、ホーチミンでツアーに参加する。
メコンデルタを2日間でまわるバスツアーだ。
旅なれた沢木がツアー客の連帯を強め、とても気持のいいツアーになったという。
ツアーもまさに終わろうとするそのとき、
突然ガイドのおじさんが立ち上がって話し始めた。

「――これでこのツアーも終わりだ。みんなも楽しんでもらえたようで私も嬉しい。
それにしても、こんなに乗客同士が仲良くなったツアーは初めてだった。
これから先の旅もこのように愉快なものになることを祈っている。
演説が終わると、乗客はおじさんに盛大な拍手をした。
そして、バスを降りた乗客は、思い思いの方向に散っていった」(P378)


これは実は「深夜特急」にすんぶんたがわぬシーンがある。
わたしがとても好きだったところで、このブログにも引用している。
果たしてベトナムでこのようなことがあったのかどうかはわからない。
ノンフィクションもせんじつめればフィクションである。
たとえウソであっても沢木を責めるいわれはない。
わかるのは沢木がこのような情景を、いわば理想郷として持っているということだ。
そして、わたしはこういう紀行文を書く沢木耕太郎のファンであることだ。
「これからの生き方、死に方」(山田太一談/講談社)絶版

→山田太一はドラマで小市民の悲喜こもごもを描く。
自身も小市民のひとりであることを認めている。
けれども、なのだ。山田太一は常に小市民を批判する眼を持っている。
小市民批判といえば寺山修司である。
寺山は、前衛演劇などと称して、お面をかぶった役者に、突然団地を襲わせた痴れものだ。
余談だが、小市民批判といえば、わが師の原一男先生もメチャクチャだ。
映画「ゆきゆきて、神軍」では奥崎謙三に民家をアポなしで訪問させ、
それをなんの断わりもなくキャメラで撮影したのが原一男である。
そういう意味では両者に比べたら、山田太一はよほど常識がある。
小市民の哀歓を知っている。いや、小市民の哀歓に理解を示したいと思っている、
それでも、山田太一は小市民批判を忘れない。
この複眼的思考が、あのようなドラマを生みだすみなもとなのであろう。
繰り返すが、早朝のプラットホームでベンチに寝転がり、
通勤ラッシュの満員電車を笑いながら缶ビールをのみほすような視点が、
いくつかの山田ドラマには散見される。
本書では山田太一が小市民批判についてこう語っている。

「七〇年代以降、メディアが小市民を批評する機能をもたなくなってきてしまった。
それまでは「マイホーム主義はダメだ」とか、「もっと社会性をもて」とか、
「革命を」とかいう人がいて、いろんな形で小市民は批判されていた。
ところが八〇年代に入ると、テレビは小市民をまったく批判しなくなった。
で、生活者の視点で見て正しいことをいうわけです。(……)
八〇年代から九〇年代まで、小市民の開き直りでずっと来ていると思う。
会社を否定して、個人の生活を大事にしようという風潮も、
その線上だと思うんです。
だから、僕は、「趣味ばかりいっぱいもっていれば、それでいいのか」と、
ちょっと反発がある。
昔から真実を見ようと思った人は、座禅を組んで、人事を排し、生活を排して、
真実を感じ取ろうとしたわけです。いま、そういう視点がなくなって、
いわば生活第一、小市民万歳というふうになりすぎた。
あるがままの自分でなぜ悪いというふうになっちゃった。
でも、あるがままの自分なんて、つまんないですね。
僕は十一年前にテレビドラマで、あるがままの自分ではなく、
少し自分を嫌いで、少し自分と違った、
あるがままの自分じゃない自分になろうとする人間を
テーマにした連続ドラマをつくったことがある。
視聴率は悪かった。それが象徴的です。
すると、その線のドラマは企画を通らなくなってしまう」(P113)


ここで山田太一が言及している連続ドラマとは、
隠れた名作「早春スケッチブック」のことである。
「十二の世界を聞く」(山田太一/潮出版社)絶版

→対談集。残念なのは山田太一がたいがいは聞き手にまわっていること。
わたしとしては対談相手のことはどうでもよくて、山田太一のことを知りたいのだが。
わずかだが山田太一が自らの世界を告白したところを抜粋する。
まずは小此木啓吾との対談から。

小此木「私はむしろ山田さんのドラマを拝見して、
あれだけいろんな家族のことをなんかをお書きになるのは、
どういう経験をしてらっしゃるのかと思っていました。
見ていて、たぶんそうだなと実感できる話ばかりなものですから。
私はずっと診療をやっていますので、
その観察のなかから情報を整理していくんですが、
山田さんはどういう取材をされているんですか」
山田「私のドラマの人物がかかえている問題は、あまり病理的なものではなくて、
どちらかといえば凡庸な悩みが多いので、自分をそこに当てはめて、
なんとか内面に立ち入っているという感じです」(P31)


山田太一は、自分の経験からではなく、
もし自分だったらという観点からドラマの人間を造形する。

この対談集では宇宙学者、地質学者。歴史学者、哲学者といった、
そうそうたる顔ぶれが登場する。
だから、山田太一が聞き役にまわったというのも間違いではないが、
もうひとつ、これらの学者先生が山田ドラマなんて見ていないということもあったのだろう。
対談の接点が向こうの学問にしかない。
学者先生は山田ドラマを見るくらいだったら、専門書の1冊でも読みたいのであろう。
したがって、大半の対談は退屈だ。
唯一、おなじ業界人である倉本聡との対談がとびきりおもしろかった。
そこから一箇所を抜粋する。
倉本聡は北海道で富良野塾という私塾をやっており、俳優とシナリオ作家を育てている。
倉本は、塾生から起承転結ってなんですかと聞かれたら困ると述懐する。
というのも、倉本聡自身も起承転結がなんだかわからないらしい。

倉本「一回、僕に起承転結の講義をしてくれませんか」
山田「エヘヘヘッ、そんな意地悪を言わないでください。
結というのは、
その人間の世界観とか叙情のレベルとかなんかをみんな露呈しますでしょう。
こういうふうに世界を見ているんだとか、こういう人をいいと思ってるんだとか、
こういうつながりが素敵じゃないかっていうように、結のところでは、
その人間の時代のとらえ方とか、いろんなものが露呈するという気がするんですよ。
僕は、起承転までは非常に気持ちよく書けるんだけど、
結を書きたくなくなっちゃうんですよね」(P63)
「山田太一、小此木啓吾、「家族」を語る」(PHP研究所)絶版

→恥ずかしいことなのだが(と思うのが実は恥ずかしいことなのだが)、
いまわたしは山田太一に生かされている。
西洋のご立派な哲学でも東洋の深遠な宗教でもなく、山田ドラマに生かされている。
生きる勇気をもらっている。
山田ドラマがあるおかげで、生きているのも悪くない、なんて思っている。
酔った拍子に山田ドラマのワンシーンが思い浮かぶ。いいなと思う。あれはすばらしい。
じんわりと生きていることを噛みしめる。生きていてよかったと思う。

だから、こんな本まで、ありがたがって読むわけである。
おそらく山田太一さんもこんな本を出版したことを覚えていないのではないか(苦笑)。
わたしはそれだけ山田太一に興味があるのである。好きなのだ。
どういう考えかた、ひいては生きかたをしていたら、あんなドラマを書けるのか。
申し訳ないけれども、山田太一さんのプライバシーも知りたいのです。
この本で知ったことだが、山田太一は月に1度、1週間くらいホテルで仕事をするらしい。
このあいだは夫婦でもあまり互いのことを干渉しない。
すると夫婦関係がうまくいくという。へえへえ、あの山田太一さんがねえ。
ミーハーな好奇心が満たされる(笑)。

山田太一は木下恵介の映画のすばらしさをこう説明する。
言ってしまえば、木下恵介作品は「言ってもしょうがない愚痴」の世界だ。
そこが黒澤明監督作品との差である。黒澤監督は強い人間を描く。

「人間は理屈通りにはいかない、人生は思うようにはいかない。
そんなにガラッと人間が変わるとは思えない。
われわれもきっとみんな、そういう弱さ、哀しさを持っている。
言ってもしょうがなくても言ってしまう、というのが人間だと思います。
愚痴を言わないで努力して、というのは強い人の、
ある意味では人生のどうしようもなさを知らない人の単純な美で、
そんな美で事足りてきた戦後の日本のほうが
おかしいのではないかという思いがあります」(P193)
「シャツの店」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和61年放送作品。全6回。
いまさらなにをいうと笑われてしまいそうだが、みんな建前を生きている。
建前ばっかり口にしているうちにいつしか建前が自分の本音ではないかと思えてくる。
就職面接。本音をいう人間なんていないでしょう。
御社が大企業で給料もなかなかのものだしなにより見ばえがするから志望しました。
やっぱ一流の男は一流の会社にしかいないし、あたしセレブな生活あこがれてるし、
そーゆーとこの男をつかまえたくて入社希望しまっす。
やっぱあ、なんかマスコミ関係っていうと業界人みたいでかっこいいから御社希望っす。
こんなことを人間は就職面接でいったりはしない。
プロポーズ。結婚式会場。おまえのデカパイが忘れられなくてひとり占めしたい。
だから、結婚しよう。いくらなんでもここまで開き直れる男はいないのではあるまいか。
あんたけっこう稼ぎいいし、顔はブサだけど、家は資産家で次男だから結婚OK。
こんなことを言ってのけるすてきな女性もいないと思う。
そもそもなんで会社に入らなくてはならないのかもよくわからない。
もしかしたら企業に勤めなくても食べていける方法があるのかもしれない。
そうはわかっているけれども、みんなといっしょにリクルートスーツを着てしまう。
おなじことで、どうして結婚しなければならないのかも実はよくわからない。
親が結婚して身を固めろなんてうるさいし、みんなもしているから結婚する。
友人の結婚披露宴で目撃した新婚夫婦がとても幸福そうだったから、
なんて理由で結婚する。
言うまでもなく、結婚をしてしまえば愛情なんてものはじきに冷める。
けれども、世間体もあって(わざわざ結婚披露宴をやった!)離婚するわけにもいかない。
仕事も忙しいし、離婚をすると考えたら面倒である。
たしかに情熱的な愛は消えたけれども、相手のことを嫌いになったわけではない。
浮気の1、2回もすれば、この倦怠感は消えてしまうのかもしれない。
子どもがいたら、なおさら離婚なんて軽々しくするわけにはいかない。
建前は決して悪いものではなく、建前で生きていると社会と衝突することがない。
建前のさなかにも、いろいろと楽しいことはあるもんだ。
よく考えたら自分に本音なんかあるだろうかと疑問になる。
酔っぱらって「ぶっちゃけトーク」をしたとする。
しかし、これでさえも体裁のいい建前の本音といえなくもない。
突きつめてしまえば、生きているってことが建前だ。
いくら出世をしようが美女を何人こまそうが、みなみな老いて忘れられ死んでゆくのだから。

山田太一ドラマは建前と本音のドラマである。
建前が本音におびやかされる。浅薄な本音が圧倒的な建前のまえに崩れ去る。
建前を繰り返しているうちにいつしか建前が本音になってしまう。
本音ばっかりいっていると、本音が建前のようになってしまう逆転現象が起きる。
テレビドラマ「シャツの店」の主人公はシャツ職人の鶴田浩二。
オーダーメイドのシャツを作らせたら右に出るものはいないといったむかしかたぎの職人。
芸術家や職人は勤めびととは異なり、比較的に本音で生きることが可能だ。
シャツ職人の妻である八千草薫は、子どもと家を出てしまう。
あまりにも男尊女卑的な古い考えかたしかできない鶴田浩二に愛想をつかしたのである。
そんな八千草薫に片想いをするダメリーマンが井川比佐志。妻子もちだ。
それぞれの本音と建前を見てみよう。

シャツ職人・鶴田浩二は大学生の息子がいる。息子は就職をしないという。

父「働かないで、どうやって食べて行く?」
子「働かないなんていってません。決った会社には入らないっていったんです」
父「それで?」
子「金貯めてしばらく世界中歩いてみようと思って」
父「――(なにをいってる、と思う)」
子「特別変ったことじゃないんです。
いい会社入った先輩で、一、二年でやめてそういうことしてるの一杯いるし」
父「一杯いるわけないだろう」
子「いますよ」
父「お前は昔からそうだ。
小学校の頃から、なにかといゃあ、みんなやってる、みんな買って貰ってる」
子「(苦笑)」
父「みんなが世界中をほっつき歩くか」
子「でも、勤めてもすぐやめるの、本当に多いんです。いまは食べて行けるし」
父「そんな、ぐうたらの仲間に入ってどうする?」
子「勤めてりゃあ満足? 
ネクタイ締めて、とりあえず一つのところへ通ってりゃあいいんですか?」
父「そうだ」
子「無茶苦茶じゃない」
父「若い時はな、ひとつの仕事を我慢しても続けてみるもんだ」
子「どうして?」
父「自分がどういう人間か分ってくる」
子「分ってるつもりだけど」
父「分ってるもんか。人間てもんはな、
いやでたまらない仕事をして我慢したりして、段々に自分が分ってくるんだ。(……)
我慢をしているうちに、段々に自分がなにをしたいか分って来る」
子「――」
父「大体仕事なんてものは、すぐやめては、本当のところなど分るものじゃない。
どんな仕事だって奥行きが深いもんだ」
子「それはお父さん、自分の仕事で考えてるんだよ。
大体の仕事は、奥行きなんかないさ。一ヶ月つとめりゃあ分るよ」
父「生意気なことをいうな」
子「むしろ、ほめて貰いたいけどな。
人目気にして体裁のいい会社狙ったりするより、ずっと健康的なんじゃないかな」
父「フワフワ世界を歩いて、なにが分る?」
子「そんなの、会社へ勤めたって同じじゃないですか。
せいぜい、人あたりがよくなって、処世術覚えるだけじゃない」
父「たかをくくるな」
子「だったら、俺の計画にも、たかをくくるなよ」(P26)


妻子もちのダメリーマン、井川比佐志はもう世界中を歩くなんてできない。
すべてを捨てて日本を飛びだすなんてできるわけがない。だから、恋をする。
人妻に恋をする。井川比佐志は八千草薫にいう。

「あんな家庭でも、今日までの歴史ってもんがありますし、
こわして、どうとでもなれという気にはなれません。(「私、そういうお話」)
こわして、一人になって、ずっと暮らして行く勇気もない。(「困ります」)
ただ、あの暮らしと(と二階を指し)会社と(と一方を指し)それだけでは息がつまる。
端的にいってうるおいが欲しい。なにか詩のようなものが欲しい。
そうでないと、急に、なにか、ひどく乱暴なことをしてしまいそうです」(P81)


井川比佐志はあきらめない。後日ふたたび八千草薫を口説く。
あまりうまい口説きかたではない。むしろ、ヘタだ。
美しい求愛のせりふを書けるシナリオ作家ならいくらでもいる。
だが、これは山田太一にしか書けないものである。

「実際、こんな綺麗な人と私のようなものが、どうこうなるわけがないんだから、
女房にかくす必要はまったくないし、やましいところもないんだけど、
あんまり、ありきたりの毎日で、ありきたりの悩みで、ありきたりの揉め事で、
人生うまっていて、前にもいいましたけど、息がつまるようで、ドキドキしたいんです」(P134)


山田太一ドラマの最終回は決まって一同集結である。
それぞれがめいめいの意見をバカ正直なまでにぶつけあう。
たいがいの場合、結論はでない。なにが正しいのかドラマが断定することはない。
なぜならそれを決めるのはテレビのまえのあなただからである。
映画なら高名な映画監督様がご自分の崇高なお考えを観客に提示する。
けれども、テレビドラマはそうではないのである。
少なくとも山田太一はそのようにテレビドラマの役割をとらえていたはずだ。
安居酒屋でダメリーマンの井川比佐志がシャツ職人の鶴田浩二にいう。
鶴田浩二はこの井川が自分の妻に片恋慕していることを知っている。
井川は酔ったのか、酔ったふりをしているのか鶴田にからむ。

「私はあんた(鶴田浩二)に腹を立てている。
男は、なにもかも忘れて仕事に夢中になるもんだって?
へへ、笑わしちゃいけない。
私の仕事なんて、どう夢中になれるっていうのよ?
書式に従って、ほとんどうつしたりコピーしたり印刷したりしているだけです。
そんなもんに、なにもかも忘れて夢中になれますか?
男は、だなんて、大ざっぱなことをいっちゃいけない。
仕様がないからやってる、他にどうしようもないからやってるって仕事が
いくらだってあることを忘れないで貰いたい。
(「よく分った」)
分るもんか。あんたも仕事が生甲斐ってタイプだ。
そういう奴は、仕事に首つっこんで、うっとりしてりゃあ結構。私の気持は分らない。
仕事を生甲斐にしようがない人間は、恋が必要です。
恋でもしなければ、やりきれません。そして私は、あんたの女房に恋をしてます。
(「もうよそう」)
よさない。口でいってるだけなら文句ねえだろ。
俺は、お前の女房に恋をしてます。恋をしている。(「おい」) 


恋をしておりますッ」 (P161)
某月某日、某所で行なわれた「自死遺族のつどい」に参加する。
プライバシー保護のため以下に書くことはすべてフィクションである。
だれひとりとして実際に存在する人間はいない。
全人物において、すべての設定を変えてある。
むろん、それでもなお、このような秘密集会のことについて書くのはマナー違反だ。
守秘義務に反している。いいことをしているという気はさらさらない。
地獄に行くよと言われたらそのとおりなのだろう。だが、しかし、けれども――。
偽善はやめよう。エゴイズムだ。書かないとわたしが救われない。
それから公共の利益としては、通常こういった集会のことはおもてにでない。
苦しんでいる自死遺族のかたも、
これをお読みいただいたら、だいたいの雰囲気がわかるはずである。
繰り返しになるが、いまからわたしがやろうとしていることは人間としてよろしくない。
自死遺族にとって、自分の不幸をだれかからネタにされるのがどれほどつらいか。
わたしも、あるひとからミクシィでうちのブログを
無断で紹介されていたときは心底傷ついた。
お母さんに目の前で飛び降りられちゃったかわいそうなひとのブログとして
紹介されていた。
本人に悪気があってやったわけではないのはわかる。
だが、それでわたしがどれだけ傷ついたか。
おそらく、この某月某日の集会参加者がこの記事を読むことはないだろう。
万が一、そういうことがあって削除を求められたらこの記事は消すつもりである。
わたし以外はすべてがフィクションでも、だ。

この7年のあいだ、ひとに会うときは常にわかってくれないかなと夢想していた。
だれかわたしの苦しみをわかってくれないか。
わたしという人間のかなしみを理解してくれはしないか。
これをお読みのかたにわたしと会ってくださったかたも少なくない。感謝している。
けれども、申し訳ありません。帰りの電車では、仕方ないと思ったものです。
やはりわかってもらえるものではないよな。仕方ないか。
いつか、だれかに、わかってもらえたら。だけど、無理なことなんだろうな。
先日もこんな会話を交わした。
「わかってくれないかな。なんというか、このかなしみを」
わたしはいささか酔っていた。
「けど、同情されたら嫌なんでしょ?」
「うん、たしかにそうだけど。わかってくれ。わかってほしいと思う。
しかし、わかるよと近寄ってきたら、わかるもんかとはねつけてしまう」

わかるよと思った。2ちゃんねるのあるスレッドを見たときのことだ。
自殺者遺族の集まるスレッドである。
お母さんを自殺で亡くした女の子が書き込んでいた。
もうすぐお母さんの命日。甘いチョコレートを持って自殺した場所へ行こう。
ほんとお母さんといっしょにこのチョコレートを食べたかった。
いまは精神科の看護婦としてがんばっているらしい。
患者を見ると、お母さんのかつての言動の意味がわかるようになった。
そんなことが書かれていた。なみだがとまらなかった。
わかるよと思った。あなたのかなしみはわかる。がんばれと思った。

ならば、もしかしたら、自死遺族のつどいのようなものへ参加したら――。
万が一でも、わたしの苦しみを理解してもらえるのではないか。
このような集会へ行こうと思ったのは、むろんこれがはじめてではない。
母が自殺をしたときから、この種の集会については知っていた。
どうしても行く気にならなかった。いろいろな理由がある。
まずは傷をなめあうというのが、どうにも気に食わなかった。
それから、結局はという思いもあった。結局は励ましあって生きろというだけだろう?
わたしは母の自殺という選択を否定していない。自殺というのもありだと思っている。
人間、生きていればいいなどとはからきし思っていない。
わたしは特別だという傲慢な思い上がりもあった。おれはおまえらとは違う。
目の前で飛び降りられている。母から悪口のこれでもかと書かれた日記を残されている。
いっしょにされては困る。固有の苦しみを平均で中和されたくなどない。
さらに、である。わたしはどうしようもないトラブルメーカーだ。
かならずといっていいほど、集団のいわば場を乱すことになる。
したがって、参加しても他人を傷つけ自分も傷つけて終わる可能性が高い。

では、なぜこんかいは参加しようと思ったのか。
7年という時間である。もうというか、ようやくというか7年が経過した。
いろいろなひとがわたしの前に現われ去っていった。
このあたりでそろそろいいか。もしこれが最終兵器ならば使ってみよう。
そろそろ人間への期待を打ち捨てる時期かもしれない。
それだけではない。書くということが常に念頭にある。
こういう集会へ参加したとき、わたしはどういう対応を取るのか。
われながら興味がある。周囲の反応も知りたい。
つまり、人間を知りたかった。書きたかった。

自死遺族のつどいはあるビルの一室を貸しきって行なわれていた。
会費はひとり500円。死すら恐れぬいまのわたしに怖いものはない。笑顔で入室する。
椅子が車座に並べられていた。
リーダー格の中年男性から荷物を別室へ置いてくるよう指示される。
その物言いが思いのほか横柄なので不愉快になる。べつに録音機など入っていない。
この男はなにものだろうかと思う。参加者は自分の名前を書いた紙片を首からぶらさげる。
参加者は20人ほど。男は3人のみで、ほかはぜんぶ女性である。その9割はおばさん。
リーダー格の中年男性から話しかけられる。
こういう集会へ参加するのははじめてだと答える。すると――。
「私もはじめて参加したときは、なかなかドアをあけられなくてね。
最初はなにかと勇気がいるものです」
いや、特別に勇気はいらなかったが……。このひとも自殺者遺族なのかと知る。
かれが司会をやるらしく、会の開始を告げた。自己紹介からはじめるらしい。
まずは自分からと司会者は話しはじめる。
12年前に娘さんを自殺で亡くしたらしい。最後の顔が忘れられないとのこと。
いろいろ心理療法を試したとのことである。

車座を時計回りで自己紹介することになった。
なんでもはじめて参加するわたしに気を配ってくれたとのことである。
たしかに反時計回りだとわたしが3番目だ。感謝。
はじめの娘さんはお父さんを自殺で亡くされている。
娘さんといっても、自身がすでに母親である。子どももいるという。
これが強烈だった。なにを言っているのかさっぱりわからないのである。
苦しんでいるのはわかる。泣いているのだから。
しかし、状況説明を伴わない極私的な愚痴のため、本人以外さっぱり事情がわからない。
だが、この集会には傾聴というルールがある。わからなくても聞かなければならない。
ひとりで20分以上も泣きながら話しているが、さっぱり終わる気配がない。
彼女の話の内容を書くことができないのはプライバシーの配慮もあるが、
そもそもなにを話しているか意味が取れないのである。
参加者はというと、なかには、うんうんと聞いているふりをしているものもいる。
わからないのに立派だなと感心する。
さすがにこれは司会者が話をとめる。当たり前だ。このまま1時間でも彼女は話すだろう。

驚いたことは彼女だけではないのである。
それからずっとおばさんの自己紹介がつづいたのだが、どれも話がわからない。
たいはんのおばさんが子どもを自殺で亡くしたのはわかる。
だが、理解できるのはここまでなのである。いきなり関係のない持病に話が移ったりする。
そして、そのどれもが異常に長い。どれもなかなか終わらないのである。
愛するものに先立たれて困惑しているのはわかる。だが、どうしてこうも意味不明なのか。
もしわたしが一対一で話を聞いていたら合いの手を入れて事情を聞きだす。
しかし、ここではそれが許されない。
他人の不幸に同情して泣きたくても、おばさまがたの話している内容が把握できないのだ。
わたしはいちおう平均程度の知能は持った人間だと自負している。だが、わからない。

わたしの番がようやくまわってきた。
「はじめまして」と名乗る。
「こういう分かちあいの会に参加するのはこれがはじめてです。
だから、見知らぬひとの前で母のことを話したことはありません。
なるべくわかりやすく話したいと思っています。どうかお聞きください」
まず、わかりやすくである。いままでの自死遺族の話はさっぱりわからなかった。
ぜったいにわかりやすい話をしなくてはならない。それから、できるだけ短く!
「わたしは母を7年前に自殺で亡くしました。そのときわたしは~歳で、母は……」
基礎情報をはじめにしっかり説明しなくてはならない。
ひそかにねらっていたことがある。
わかりやすいのみならず、話をおもしろくしてやろうじゃないか。
周辺の事情を簡潔に話して、命日の話に移る。
「わたしと母はマンションの9階に住んでいました。
母は精神病で死にたい、死にたいといっていた。
あまりにも頻繁で、ときには、じゃあ、死んじゃえば、なんていったかもしれない」
ここで聴衆の期待感が高まったのを肌で感じる。
「その早朝のことです。わたしはコンビニへ買い物に出かけました。
戻ってくる。マンションの上からわたしの名前を呼ぶ声がします。母でした」
この段階で聴衆は先を予想している。みなが身を乗りだしているのを感じた。
「わたしが、上を見ると、母はベランダの外側にいて――」
場が緊張する。
「すぐさま手を離したのです。わたしは母が落ちてくるのを見ました」
ためていた大量の息が吐きだされるのを意識する。
やっぱりそうだったかという安堵である。
「これだけならよかったのです。母は、わたしの知らない日記を残していました。
その日記を読むと、これでもかとわたしの悪口が書かれているのです」
わたしは自虐的に日記に書かれていた内容を暴露する。
すると、なんと隣の老女が笑いだしたのである。
べつに不愉快ではない。おもしろく聞いてもらえれば本望だ。
「7年経ちましたが、いまでもふたつのことがわかりません。
なぜ母がわたしの目の前で飛び降りたのか。
どうして日記にあれだけ悪口を書いていたのか。わたしはお母さんを大好きだったのです」

ここへ来た理由も話さなくてはならない。
起承転結のある話はこうやってするんだ!
「母の自殺の直後、そのころにも友人はいました。
けれども、お母さんがふってきた。こういう話をするとみんな引いてしまう。
わたしから離れていってしまう。無理もないことです。引くと思います。
最近です。また新しい友人ができました。
けれども、わかってもらえるかといったら、やはりどうしても……。
このような分かちあいの場に参加すれば、もしかしたらと思ったのです」
われながら完璧な内容だったと思う。要点のみ。時間も5分未満。
「以上で、終わりです」

思いのほかうまくやれたことに満足する。泣き叫ぶようなこともなかった。
最低限、伝えなければならないことはぜんぶ話に盛り込んだ。
聴衆の関心が集まったのも身をもって感じた。場がひきしまったと思う。
それからも自己紹介がつづく。またもや意味不明の愚痴である。
自死遺族が苦しみをひと前で吐きだすことに意味があるのはわかる。
けれども、こうも詳細がわからないのはなんとかならないものだろうか。
新婚直後に旦那に自殺された奥さんの話もまったくわからなかった。
いつの間にか自分の鬱病の話になって、それがとまらないのである。
最後の老女が最悪だった。もとい、なかなかやるなと笑った。
老女は6年前、中年の息子を首吊り自殺で亡くしたそうである。
いうことが洒落ている。遺書があったらしい。いわく――。
「遺書には私の悪口なんてとんでもなく、ごめんなさいと繰り返し書いてあって」
明らかにわたしの告白を意識している。
それからいかに息子の遺書がすばらしかったか話しつづけるのである。
遺書の最後に良寛の短歌が書いてあったそうである。
散る桜がどうとかというセンチメンタルなやつだ。それを紹介して聴衆に感動しろと迫る。
このクソババア、てめえのバカ息子の自慢かよ、と思い、ニヤリと笑う。
このくらいで傷つくわたしではない。
このクソババアさまも20分を超える演説で、最後には司会者にとめられる。

開始から2時間。ようやく休憩である。緑茶と菓子がだされる。
むろん、わたしは手をつけない。こよいの酒がまずくなるからである。
やはり、こんなものだったかと笑いだしたくなる。
思っていたよりも、よほどひどいな。自助グループの実態はこんなものか。
休憩後はフリートークらしい。
場の空気を読めないおばさんが精神科の利用法についてハイテンションで話している。
司会者が話をやめさせる。ベテランらしく(なんのだ?)もっともらしい話をする。
「こういう会をやっているといろんなひとが来ます。
目の前で電車に飛び込まれてしまったひと。目の前で焼身自殺されたひと……」
あらら、もしかしてわたしを救おうとでも?
「けれども」と司会者は力強く断言する。
「決して自分が世界でいちばん不幸だなんて思ってはいけません。
たいへんなひとがたくさんいます」
べつにわたしはそんなふうな話しかたをした覚えはない。不愉快だ。
司会者はつづける。
「今日はお子さんを自死で亡くしたお母さんがたが多いです。
お母さんを自殺で亡くしたお子さんもいます(=わたしのことである)。
母として、子への思いとか、なにかございませんか?」
ううう、ありがてえ。この司会者のおっちゃんは、わたしを救ってくれようとしている。
おばさん連中が口々にいう。
「遺書に悪口が書かれたというけど、それは愛の裏返しよ」
4人からおなじことをいわれた。

「わかったようなことをいうな」
わたしは低くドスをきかせた声でうめいた。
「わかったようなことをいうな」
その場が、シーンと静まる。
「いままで、どれだけそんな慰めをいわれてきたか。わかったようなことをいうな」
息子を亡くして11年の自称カウンセラーのおばさんへ向けていう。
「わかったようなことをいうな。あなたはわたしの母のことをどれだけ知っているんですか。
母のなにを知っていて、そういう気休めをいうんですか」
司会者があわてて仲裁に入る。
「みんなきみのことを思っていってくれてるんだよ」
言い返す。
「それはわかります。そういえばおさまりがつく。みんな安心する。それだけです」
先ほど息子の遺書を自慢した老女がわたしに食ってかかる。
「じゃあ、なにをいったらいいの?」
「なにもいわないでください。わかったようなことをいわないでください」
このババア、許さねえぞと思う。
司会者はわたしの肩を持つ。少しはカウンセリングを学んだことがあるようだ。
ひとの話を聞く場合、重要なのは助言ではなく受容である。
まあ、もとはといえば、この司会者の不用意な発言がよくないのだが。
人間が人間を救えるなどとはゆめゆめ思うなかれ!

さすがに仕返しを考えるわたしである。なめるな! という一念で7年を生き抜いた。
奈良の騒音おばさんそっくりの女性がなかなか話をやめない。
内容はカフェインの取りすぎはよくないということである。
わたしは司会者の顔をじっと見つめメッセージを送る。おれはいま話をしたい!
ようやく話す機会を与えられる。
「先ほどのSさんの話ですけど」
わたしは息子の遺書が自慢の老女を名指しする。
「あれは無神経にもほどがありませんか。
わたしが母の遺書……ではないのですが、まあ、似たような日記の話をしました。
母の日記にわたしの悪口がさんざん書かれていたということをいいました。
そうしたら、Sさんがそれを受けて、自分の息子の遺書はたいそう立派でと自慢する。
いえね、わたしはここに来るまで思っていたんです。
自死遺族というのは、つらい思いをしているからひとの苦しみがわかると。
それが、どうです。なんで、あんな無神経なことをいわれなければならないんですか」
トラブルメーカーの本領発揮である。
司会者は場の収拾に必死である。こういう批判はあったほうがいいだの、なんだの。
息子の遺書が自慢の老女がわたしにあやまる。
いえ、気にしてませんと、にこやかに笑いながら対応する。
しかし、人間っておもしろいよな。下を見て喜ぶのが人間だ。
うへえ、遺書に悪口を書かれた遺族がいるんだ。私なんてまだマシじゃん!
この喜びが老女の遺書自慢になったことは間違いない。
老女のみならずわたしの不幸自慢で癒されたおばさんはこの日、大勢いたはずである。
思えば、だいぶサービスをした。

やっとのことで集会が終了する。
いのいちばんで帰ろうとするとスタッフの自称カウンセラーのおばさんから呼びとめられる。
いまにも泣きだしそうな顔をしている。いわく――。
「つらいでしょ、苦しいでしょ。話したいこと、あるんじゃない?」
そういいながらわたしを別室に連れていこうとする。
長年のかなしい経験でこういうパターンもはじめてではない。
わたしの不幸物語が耐えられないのだ。救わなければならないと使命感をいだく。
なんでこのひとはこうも(自分と比べて)不幸なんだという思いで自我がゆるむのである。
これほどカウンセラーに向かないタイプの人間はいないが、
このような善意のひとほど他者を救おうとよけいなことをする。
善人は嫌いではない。
しかし、わたしがここで善人につきあったら、
それだけよけいにこの善人を苦しめることになる。
「大丈夫ですから。ご心配、ありがとうございます」
そういって帰ろうとする。善人のおばさんはいう。
「あなたの話のなかの、お母さんが大好きだったということ。
決して忘れないから。ひと筋の光だと思います」
ありがとうございますとあたまをさげ場をあとにする。
これではどっちがカウンセラーかわかったものではない。

歩きたい。電車に乗らずに何駅かを歩くことにする。
思う。これでようやくすべてが終わったか。やるべきことを終えた。
おかげでわかったことがある。
結局、わたしの苦しみはだれにもわかってもらえないのだ。
もとより、予想はしていたことである。結論に安心もしたのだ。やはりダメだったか。
夕暮れである。ことさら、なにもかなしくはない。よくやったじゃないか。
今日もあれくらいで自分をおさえたのだから合格点としなければならない。
あの老女とも最後は笑いながら握手をした。だれも傷つけていないはずである。
ひとりである。早く家であたたかい酒でものもうと思った。
「仏教の思想Ⅰ、Ⅱ」(梅原猛著作集5、6/集英社)絶版

→読むのに3週間近くかかった。毎日少しずつメモを取りながら読んだ。
仏教を学ぶことほどむずかしいものはないのではないか。
なにが困るのかというと広すぎるのだ。
とても一個人では概観できぬほどの広がりと深みを仏教は有している。
まずは広がりから。仏教はとにかく広い。広大な知を仏教はかかえている。
なにゆえか。ひとは仏教というと釈迦の教えだろうくらいにかんたんに考える。
いな、である。インド人というのはとんでもない人種で、
釈迦が死んで何百年も経ってから、
実は釈迦はこんなことを言っていたと新たな経典を作る。
ここが東洋世界のおもしろいところで、これも仏教になってしまうのである。
だから、言ったもん勝ちの世界である。釈迦はこう言った。こうも言った。ああも言った。
そんなこんなで釈迦の教説が時代を経るごとにどんどん増えていった。
インド人のみならず中国人もやんちゃをしている。
原典がない仏典を翻訳と称して捏造する。
このようにして仏典が山と生まれたわけである。さらに仏典には注釈を書くものもいる。
このインド、中国、日本の仏教をひとりで把握しようとするのはとうてい無理である。
この不可能事をそうと知りながら挑戦したのが梅原猛である。
専門が仏教ではないからできたのであろう(梅原の専門は哲学)。
梅原猛は広大な仏教世界を駆け巡る。知を獲得するためである。
梅原仏教学の偉大なところは、この宗教の深みをも見通そうとしているところだ。
梅原流にいうなら、仏教は哲学と詩である。
仏教の哲学ならば大学で学ぶこともできよう。
しかし、仏教の詩の部分は大学で学ぶものではない。
大学の仏教学者はあくまでも学者で、仏教者ではない。仏教の詩を理解しないからだ。
仏教の深みを体得したいのなら仏門へ入るしかない。
だが、ひとたび坊主になってしまったら狭い寺院に閉じこもるほかない。
すなわち、宗派に縛られて、仏教の広がりから遠ざかってしまう。
まとめると、仏教=広い哲学(大学)+深い詩(仏門)である。
梅原猛は本書で仏教の哲学も詩もどちらもつかまえようとしている。
読むのに労力を要するわけである。

梅原猛の流儀は大胆な仮説を立てることから始まる。
初めに仮説ありきだ。この仮説を裏づける事実を集めることが梅原猛の仕事だ。
仮説が事実に敗れることはない。仮設の勝利は最初から決められている。
つまり、梅原猛の仕事はおそらく学問ではない。
事実を積み上げて新たな説へいたろうとする意志は梅原にはないのだから。
とすれば、これから紹介するのはいったいなんになるのだろう。
哲学者・梅原猛の妄想だろうか。
だが、梅原仏教が学問的にあやまりだとしてなにが悪いかとも思う。
なぜなら仏教がそもそも西洋学問的に見たら正しくないからである。
あちこちで捏造、誤読、飛躍を繰り返すことで仏教は進化してきたのではなかったか。
進化というのはおかしいか。ならば、こういおう。
仏教は捏造、誤読、飛躍を繰り返すことで命脈を保ってきたのではないか。
そうだとしたらば、梅原猛の仏教学は、
仏教的にはこれほど正統的なものはないということになる。
大乗仏教徒は釈迦の名のもとにありもしない仏説を打ち立てた。
鳩摩羅什(くまらじゅう) は竜樹の名をかたり「大智度論」を書いた。
曇鸞(どんらん)は竜樹のいう易行道を誤読することで阿弥陀浄土への確信を強めた。
空海は本場中国にも存在しない大乗戒壇を創設した。
道元は師匠・如浄の言葉を聞き間違えたことから悟りを開いた。
法然は善導の文言を拡大解釈することで口称念仏による救済を説いた。
親鸞は聖徳太子の夢を見た、わずかそれだけで、あろうことか妻帯を可とした。
日蓮は南無阿弥陀仏の流行に嫉妬して南無妙法蓮華経を発明した。
すべて本書で梅原猛が解説していることである。
ならば、そうであるならば、梅原猛の仕事はまさしく仏教者の手によるものではないか。
たしかに梅原はそこまでは主張していない。だが、わたしは梅原に仏教の精髄を見る。
仏教にとってなにより大切なことは生きながらえることではなかったか。
人間を生かし、仏教自体を生存さすことが仏教の使命であった。
生きるためなら、なにをしたって構わんじゃないか。
インドから始まり日本へ漂着した仏教2500年の歴史をまえにして、
わたしはここに仏教のいわば生命の思想を見る。
生きるためなら、生かすためなら、なにをしたっていいじゃないかという思想である。
梅原の言葉に耳を傾けてみよう。

「多くの独創的思想家は、いささかならず強引である。
アリストテレスは、彼の著書において、
彼に先行する多くの思想家の説を引用しているが、それが多く誤解だったという。
誤解としたら、ほんとうに彼は先行する思想家の思想がわからなかったのか、
それとも故意に誤解したのかいずれかである」(Ⅱ・P202)


独創的思想家・梅原猛にとって仏教とはいかなるものか。

「お前の心にいかなる信仰があるのか。
その問いの前に私はほとんど困惑を感じる。
私はお大師様を信じます、私は阿弥陀様を信じます、私は会長様を信じます、
私はお稲荷様を信じます、……私はそういう信心を告白することが出来ない。
そういうものを私はまったく信じていないのだ。
そういうものを信じることがもしも信仰であるならば、
私は全く信仰者でも仏教者でもなく、したがって仏教のことを書いて、
名声と金銭とを一緒に得ているわたしは、希代の詐欺師なのであろう。
多分私は、詐欺師に違いないが、詐欺師にも多少の理屈はある。
私の中なる生命、その生命というのは、まことに不可思議である。
私一人が生きるために、無数の生命があった。
わが父、わが祖父、その父、その祖父、
さかのぼれば、人類の祖先までゆくかもしれない。
その数十万年にわたる人間の生命の歴史の背後に、
また何億という年の生物の歴史がある。
無限の歴史の中から生み出されたわが命、その生命に、
私は多くの畏敬と神秘を覚える。
畏敬と神秘というのは、いいすぎかもしれない。
しかし、この生命の深い喜びはどうか。
腹のすいたときにたべる一杯のメシのうまさはどうだ。
相愛し合う男女が、共に抱き合うあの楽しさはどうだ。
そして、気の合った友と、芸術や、思想について語るあの喜びはどうだ。
私は、この自然とつながる大生命を信じることが、仏教ではないかと思う。
大自然の中にあると共に、わが身心のうちにもある大生命、
それを人は仏といったのであると私は思う」(Ⅰ・P48)


以下に梅原仏教学のかんたんな紹介をする。
梅原は仏教の歴史をつぎのようにまとめる。
「(バラモン教⇔)原始仏教→小乗仏教→大乗仏教→密教(→ヒンドゥー教)」
バラモン教に異を唱えた釈迦の原始仏教の特徴は欲望を否定したことである。
それが大乗仏教よって、否定された。
禁欲にとらわれるのもよくないという空の思想からである。
大乗仏教は欲望にも禁欲にも拘泥しない空の立場を取った。
密教になると、むしろ欲望が積極的に肯定されるようになった。
すなわち、仏教史は「欲望否定→欲望肯定」の流れがある。
ふたたび原始仏教に戻る。釈迦の説いた教えは倫理・道徳である。
つまり、原始仏教、小乗仏教は無神論といってもよい。
それが大乗仏教では一神論になる(=阿弥陀仏信仰)。
密教になると、多神論である。ヒンドゥー教と紙一重だ。
整理すると、仏教史は「無神論→一神論→多神論」となる。
これを梅原流の詩的イメージで大まかに見ると仏教史は「死→生」の流れになるという。

仏とはなにか。インドに実在した人間・釈迦である。もうひとつ仏がある。
法(=教え)として存在する永遠なる仏陀である。
仏教では人間・釈迦を応化身、法としての釈迦を法身という。
「仏=応化身+法身」
仏教の歴史は、応化身が軽んじられ、法身としての釈迦が重要視されてゆく。
人間・釈迦の説いた倫理的な教えから、どんどん形而上学的なものへと飛躍したわけだ。
密教にいたって、ついに法身さえも消えてしまう。大日如来になってしまう。
大乗経典においては、それでもなお釈迦が教えを説いていた。
しかし、密教経典に釈迦は登場しない。大日如来が説法するのである。
梅原によると、日本に初めて根づいた仏教は平安時代の密教らしいが、
それはこのように解釈できるという。
密教の説く大日如来信仰は、自然崇拝に近い。
この自然崇拝が日本古来からの固有信仰(神道)と似ていたがために受容しやすかった。

三国伝来の仏教を梅原はつぎのように大づかみする。
「中観、唯識」=インド的(想像力)
「浄土、禅」=中国的(思弁)
「天台」=日本的(道徳)

梅原によると、中国仏教史は、悲観論から楽観論に移行してゆく。
4C:鳩摩羅什=竜樹の中観仏教が流行
5C:世親の唯識仏教が流行(業の思想)
6C:智の天台宗が流行(性悪説)
6~7C:浄土教の流行(現実否定)
このように7世紀までの中国仏教は悲観論的な暗さがあった。
それが8世紀になると一転、楽観論になるという。
8C:華厳宗の流行(仏性賛美)
8C:密教の流行(世界肯定)
8C:禅の流行(絶対自由)

日蓮は革新的仏教者ではなく、もとは伝統保持を主張する保守的な仏僧だった。
日蓮は天台教学への帰還を説いている。すなわち、法華経に戻れ!
これは革新的でもなんでもなく、日本仏教の正道である。
それが迫害を受けるなかで、しだいに過激なものになっていったが、
梅原は日蓮誕生の契機を蒙古襲来に見る。
たまたま偶然に日蓮の予言が当たってしまった!
この瞬間、日蓮は狂う。
卑しい漁民のせがれに過ぎなかったクソ坊主が、自身を神仏に比すようになる。
すべてがわかってしまった瞬間(=発狂)が、あの蒙古襲来であった。

最後は箇条書きに近くなり、お読みのかたはなにがなんだかわからないかもしれない。
お詫びといってはなんですが、最後に有名な「梅原節」を紹介します。

「神は苦難の中にいる人間にのみ、
その秘かな深き姿をあらわすということばがある。
人類をみちびいた決定的なことばはいつも、
苦難孤独の中にある人間によってのみ語られた。
必ずしも、それは、狭い意味の宗教にのみあてはまるものではない。
ニーチェを見よ、マルクスを見よ。後世を動かすような巨大な思想は、
いつも苦難と孤独の中に誕生したのである」(Ⅱ・P505)

「私は、宗教家ばかりか、多くの偉大なる人の人生を見るにつれ、
彼らがほとんどすべて、人生の不遇のとき、絶望のときを、
見事に生きた人であることを知る。
順調なとき、人間はだいたい同じような生き方をしている。
何もしなくても人生はうまくゆくときがある。
しかし、不遇のときの生き方によって、人間の価値がきまる。
ちょっとした不遇に大げさに傷ついて、みずから崩れ、滅びてゆく人がいる。
しかし、その不遇の中で、深く人生を見つめ、じっと不遇に耐えしのび、
やがて、そこから深い知恵をもって立ち上り、以後の人生を見事に生きる人がある。
そうだ、不遇の中で彼は別の人間になったのである」(Ⅱ・P588)
「新宿西口古本まつり」へ行く。
古本まつりは、言うなれば合コンみたいなもんだな。
集団お見合い。人間がたくさん、ご本もたくさん。さあさあ、出会ってくださいというわけだ。
しかし、おお、かわいそうに、ご本に自由はない。
この人間が好きだと思っても、買われるわけではない。
それどころか前近代的な一夫多妻制である。人間は本を何冊でもめとることができる。
この不平等をいつか書籍サイドが告発しないか不安である。
もしそうなったら、われら読書家はどうしたらいいのだろう。
さいわい、いまのところ本は配偶者とは異なり何冊でも所有できる。

発見! ついに見つけたか!

「芸術とはなにか」(福田恒存/中公文庫)絶版 200円

これはずっと探していた本である。
内容自体は既読。新潮社版の著作集で何度か読んでいる。
しかし、文庫版を欲するのはなにゆえか。
本の価値は精神(中身)にあるのか、身体(書籍自体)にあるのか。
難問である。ともあれ、ここ数年探していたのは事実だ。
いっかい田村書店のワゴンで見つけたが、あたまの悪そうな線引きが大量になされていた。
人間、生きているものである。ついにこの本を見つけたか。

ある本の購入で迷う。2100円である。わたしが買う古書の価格ではない。
貴重な本であることには間違いない。大正13年出版の書籍だ。当時の定価は50銭(笑)。

「ストリンドベルク戯曲全集2 自然主義劇と一幕物」(新潮社)絶版 2100円

本書には13のストリンドベリ戯曲が収録されている。迷う、悩む、惑うわけだ。
この13の戯曲のうち、わたしは9を既に読んでいるのである。未読なのはわずか4つ。
しかし、ストリンドベリだぞ。おこがましいが、かれはわたしが発見した劇作家である。
スウェーデンの作家、ストリンドベリ。イプセンと同時代人である。
狂人、妄想患者、女性嫌悪者として知られている(だれも知らないか……)。
日本のウェブ上でかの劇作家をまじめに論じているのは「本の山」だけである。
わが国では大正時代にストリンドベリの大ブームがあったが、それ以降は忘れられている。
かれの女性蔑視的言動が時代に合わないのだと思われる。
ストリンドベリは、私小説家的劇作家。身辺の極私的葛藤を、
神の支配する劇世界まで高めたのがスウェーデンの文豪、ストリンドベリだ。

最近、ストリンドベリの名前を聞くことが多い。
ある異性とネットを介して知り合ったのだが、縁となったのがストリンドベリであった。
いまという時代にストリンドベリなんて読んでいるひとがいるんだ!
そういうことでわたしに興味を持ってくださったらしい。
もうひとつは、メールをもらった。
12/14からスウェーデン大使館でストリンドベリの芝居をやるらしい。
その舞台で演じる女優さんが、ストリンドベリで検索した結果、「本の山」へ行き着いた。
うちの記事がたいへん勉強になったとお褒めいただいた。
ひいては、ストリンドベリの芝居をやるので、もしよかったら観に来てください。
そういう内容のメールであった。
ここで本心を白状する。「本の山」が参考になったのなら、招待してくださいよ~(泣)。
5500円もするチケットは、とうていわたしには買えません。
もしこの記事をお読みくださっていたら――。実費はすべてわたしが負担します。
送料、コピー代金、手間賃、すべてお支払いします。
ストリンドベリの喜劇「ヘム島の人々」の台本をゆずっていただけませんか?
万が一の奇蹟を夢見て、たわ言を書きました。
練習でお忙しい今、こんなブログをお読みではありませんよね。ああ、しかし、読みたい。

ストリンドベリはわたしの作家である。だれにも渡すもんか! 2100円を購入。
ここでマジックを使う。たしかに2100円は高い。
だが、福田恒存の文庫本と合算したらどうか。
古本まつりでしか通用しないごまかしである。
あの「芸術とはなにか」は、本来なら1000円してもおかしくない本だ。
「ストリンドベリ戯曲全集」と「芸術とはなにか」がセットで2300円。
これなら許せはしないか。そういうことで自らをあざむく。
繰り返すが、ストリンドベリはだれにも渡さないからな。
いつか作家デビューしたら、好きな作家はストリンドベリとみなを煙に巻いてやる(笑)。
山田太一や宮本輝ばかりと思うなよ(意味不明な哄笑)。
山道を駅へ向けてくだっていたときに友人から言われた。
「ブログに書いてたよね」
「なにを?」
「なんだっけな。言葉は苦しみだとか」

違いますとわたしはただした。
言葉は苦しみではない。
苦しみは言葉だ、とわたしは書いたのです。
「へえ、そうなの」とわが親友は気楽なものだった。
芋焼酎で酔っぱらっていたのである。

このとき、わかった! と思ったのだ。
ああ、この偶然よ。今日という日のすばらしさよ!
わたしは苦しみは言葉であるとかつて書いた。
それを友人は、言葉は苦しみだと読み間違えた。

山道を千鳥足でふらつくふたりの泥酔者が発見したことである。
ふたつの考えかたがある。
1)苦しみ=言葉
2)言葉=苦しみ
どちらもおなじことである。一見すると、そうだ。
しかし、違うのである。わたしからしたらまったく違う。
苦しみは言葉に変換可能だが、言葉自体は苦しみでもなんでもない。

主体がどちらにあるかということだ。
主語に当たるのが主体。つまり――。
1)苦しみは言葉だ。
2)言葉は苦しみだ。
苦しみと言葉、どちらが主体かという問題だ。

わたしは苦しみがすべてだと思っている。
人間はどうしようもない事情でやむにやまれぬ苦しみに追い込まれる。
そのとき、かれは言葉を求める。言葉を書く。言葉を読む。
これがかつての文学であった。古いと嘲られるものだ。
苦しみが中心にあり、なんとか芯へいたるべく言葉は円周を描く。
これがかつての文学だった。

いまは反対である。苦しみが言葉なのではない。
言葉が苦しみなのである。
なんの苦しみもない人間が言葉に苦しみを見いだすと言ったら怒られるのか。
もとより現代思想、現代文学はよくわからぬ。
デリダ、ヴィトゲンシュタイン、ベケット、イヨネスコ。
共通しているのは、言葉が苦しみであるという根本姿勢ではないか。

酔っぱらったふたりはいい気分で駅まで歩いた。
そういえばわが親友は最近、ブログに長文を書かなくなった。
苦しみこそ言葉なのだと転向したのかどうか。
頑固なかれのことである。まさかそんなことはあるまい。
先日、友人を誘って山登りへ行ったと書いたが、あれはよかったな。
すばらしかった。生きているもんである。
むかしから山登りは好きだった。といってもここ数年だが。
母のかなしい事件以降、わたしの人生は終わってしまった。
ただただ歩いたものである。
苦しみってやつは、ほんともう切ないもんでね。からだまで痛くなる。
痛いというか、むずかゆいというか。いたたまれない。
メクラめっぽう歩いたものである。
新宿へ、池袋へ、上野へ、ときには何時間もかけて歩いた。

その挙句の山登りである。
公道は人間がたくさんいる。しかし、山は違う。山ならひとりになれる。
ひとりで考えられる。むろん、考えても考えてもどうしようもない。一歩も先には進めない。
そういうことはわかりきっているけれども、山道を歩きながら考えているとすがすがしい。
なによりからだのきついのがよろしい。
精神だけではなく身体も苦しめる。
その身体をわが足で山頂へ運び、それからゴールへ向かわしめる。
すると、おなじように苦しむ精神も、
まるでどこかへたどり着いたような気になったものである。
山登りを好む理由である。
精神はもとより苦しい。身体も同時に苦しめたいのである。

そうは言っても1ヶ月まえ山登りをしたのは、ほんとうに久々だった。
ああ、山道を登ることで癒されていた時期がわたしにはあった。
なみだがでそうになった。その目に紅葉はとても美しく見えた。
だれかとこの紅葉を見たい。だれかと歩きたい。このときある友人の顔が思い浮かんだ。

それでも誘う気はまったくなかった。
いい年をして、山登り? ハイキング? 笑われてしまう。
ところが、どうしたものか。泥酔したほんのきまぐれで電話してしまった。
「あした山登りへ行きませんか?」
とうてい無理だと思っていたのである。それが、可である。OK。かまわない。
うれしかったな。この晩はなかなか寝つけなかったものである。
翌朝の準備も楽しかったな。せっかくだから山頂で乾杯したい。
さいわい冷えたまま飲み物を持参できるバッグがあるので缶ビールを4本。
それから芋焼酎「黒霧島」をペットボトルへつめる。お湯を水筒へ入れる。

池袋から某駅までふたりで行くあいだが最高だった。
思ったもん。おれ、こんなに幸せでいいのかな。一度は人生を終えた身が。
まったく生きているもんだぜ。おやつとお弁当、それからおとなはお酒を持って遠足だい!
朝っぱらから電車で缶ビールをあけて、それはそれは幸福だった。

ここで終われば美談だが、現実は甘くない。
さてさて、登山はたいへんだったのである。
友人の体力がわたしなどよりはるかに上なのだから。
こちらがハアハア言っているのに、友人はまったく息を乱すことがない。まいったね。
それだけではない。じぶんでも笑ってしまった。
いつもはひとりで山登りをしていた。今回はふたりである。
すると、どうなるのか。冗談でもなんでもなく、わたしの胃が痛くなるのである。
はじめて会うひとではない。何度も会った信頼できる友人である。
ところが、一緒に山へ登るとわたしの胃が痛くなってしまう。
笑うほかなかった。繊細なんだなとわれながらあきれた。
疑いもなく対人ストレスである。帰宅したらぴたりと痛みがやんだのだから

しかし、山はよろしい。山はよかった。近年にない幸福な一日だったことは間違いない。
美しい風景を紹介したいのだが、残念ながらわたしは写真が苦手である。
友人の撮影した写真で代用したい。ありがとう。

「幸せな登山、美しい紅葉」
http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-576.html
http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-577.html
http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-578.html
なにか楽しい話を書こうか。
先日、痴漢逮捕の現場を目撃したのだった。
のみならず、逮捕へいささかの協力もした。

12月4日、朝9時まえの池袋駅埼京線ホーム――。
埼京線の通勤ラッシュというのはアウシュビッツと比されるものではないか。
毎日こんな通勤をしていたら、わたしなどは1ヶ月で電車に飛び込んでいる。
たまにだからなんとか我慢できるのである。
いや、我慢できてはいない。
むしろ、これがたまにではなく日常になれば耐えられるものなのかもしれない。
たまに埼京線の通勤ラッシュに乗ったら、痴漢逮捕の現場に遭遇してしまう。

やれやれ、まいったと池袋駅で乗車率200%の埼京線から脱出すると、
おなじ車両のとなりのドアから出てきた女が大声を上げている。

「このひと痴漢です!」

女は痴漢の手首をつかまえている。
おかしなことに感動した。
ほんとうに痴漢逮捕の際は「このひと痴漢です」と言うのだな。
痴漢の犯人を見ると、実に貧相な男である。
30過ぎくらいのさえない男。
こういってはなんだが、いかにも痴漢をしそうな男なのだ。
会社員風ではない。つまり、スーツではない。
顔は寺山修司をゴキブリに似せたといった感じ。
にやにや笑っているのが印象的だった。
背は、その女よりも低いくらいであった。

もっと驚いたことがある。ほんとうに驚いた。
この痴漢告発を目の当たりにしながら、だれひとり関心を持たないのだ。
目の前で痴漢と被害者のやりとりがあるのにだれも目を向けない。
わからないでもない。通勤ラッシュの時間帯である。
だれもかれも1分1秒をあらそっているのだ。
厄介ごとに巻き込まれるのはごめんである。
痴漢は犯罪かもしれないが、周囲のひとりひとりにそれぞれの生活がある。
こんなもんなのかと思った。
いい年だから、これでいいのかとは思わない。こんなもんなのか。
女は「痴漢です」と声を上げつづけている。
痴漢の手首を女がつかんでいるのである。
男なら逃げだせそうなものだが、むしろ女のほうの体格がいいくらいだ。

さて、とわたしは思う。瞬間にあたまを働かせる。
痴漢逮捕の現場に遭遇したのは生まれてはじめてだ。
作家志望としては、なりゆきを見守りたい。
しかし、この日は待ち合わせの時間がある。すでに約束の時間を過ぎている。
この事件を見なかったことにしたい埼京線乗客の気持はよくわかるのである。
男が女をふりきって逃げだそうとした。
からだが動いていた。男の両肩を上から押さえつける。わたしは結構な長身だ。
「こら、逃げるな」
叱りつけた。まもなく駅員がやってきて男を連行した。
ついていきたかったが、約束を優先した。わたしは階段をかけおりた。

友人を山登りへ誘っていたのである。
そのくせ集合時間にわずかだが遅刻をしていた(埼京線の遅延のせいだが)。
わたしは友人へいま見た痴漢逮捕の瞬間を興奮して何度も話した。
いまじぶんが見たもの、取った行動をどう位置づけたらいいかわからなかった。
われわれは西武池袋線へ乗車する。

かれに話すことで、だいぶ落ち着いた。今朝の事件をまとめてみる。
わたしは正義感から痴漢逮捕に協力したのではない。
正義など、わたしからしたらどうでもいいことである。
では、なぜあのとき、からだが動いたのだろう。
そういえば痴漢犯人に嫌悪感のようなものはなかった。
わたしはあの痴漢犯人を毛ほども憎んでいない。恨みもない。
痴漢が悪いのかも、正直のところ、よくわからない。
痴漢された女のほうはかなりの美貌であった。
こういう決めつけはよくないことだけれども、
きっと男からちやほやされてきたのだろう。
さらにこういう決めつけは女性蔑視なのだが、女は男を見る目が厳しいでしょう。
女は一般にいい男ほど愛想がよくなる。媚を売る。
(むろん、男も一般にそうであるとされる)
そうだとしたらば、あの痴漢犯人は救われないではないか。
いかにも女から相手にされなそうな貧相な小男である。
逆立ちしても今朝痴漢をしたような美人から相手にされることはないと思われる。
あまりにもひどくはないですか。おなじ人間でしょう。
おんなじ人間なのにどうしてこうも差があるのか。
寺山修司似の痴漢犯人が埼京線で、本来イケメンのこうむる不当な利益を中間搾取した。
これが言うなれば今朝の痴漢の実態である。
ならば、だとしたら、痴漢はそこまで責められなければならないのだろうか。

わたしはここまで考えるわけである。
なぜならば実際に痴漢を目撃したから。加えて、痴漢のからだにも触れた。
いわば痴漢を体感した。にやにやした小男を取り押さえた。
痴漢はそんなに悪い(とわたしは思っている)のか。
決して痴漢が憎くて逮捕に協力したわけではない。
車窓を流れる風景を見やる。
平日の西武池袋線は、言うまでもなく通勤・通学の乗客ばかりである。
思った。わたしは非日常に親しいものを感じたのではなかったか。
痴漢を告発した女も、つかまえられた犯人も、周囲の人間とはまったく違っていた。
日常ではなかった。非日常であった。
わたしは非日常の世界が懐かしくて、かれらの仲間に加わった。
痴漢逮捕に協力したのは、正義感からではなく、非日常が無性に恋しかった。
痴漢犯人に友人のような親近感を感じた。
痴漢を告発した女に、只ならぬ常ならぬ美を感じ取った。
かれらは日常から見放されていた。だれもかれらに見向きもしなかった。
だからこそ、わたしは痴漢逮捕の瞬間に参加したのではないか。

飯能駅で友人が缶ビールをおごってくれた。朝からビールかよ。
しかし、うれしかった。これも非日常である。わたしはありきたりな日常が大嫌いなのだ。
恥を告白するが、酒をのまないとてんでダメである。
まったく眠れない。翌日は極めて情緒不安定。人様に迷惑をかけてしまう。
のみならず、おのれを追い込む。具体的にいうと、死にたくなる。
だから、なるべく禁酒などしないようにしている。
なるほど、アルコール依存症だ。医者にかからなければならぬ重症だ。
しかし、この酒精中毒を治してなんになる?
長生きか? 社交か? カネか? すなわち、ハッピーライフだろう。
だれもがハッピーを願っているわけではない。
みんながみんな長生きをしたいと思っている医者がいたら、かれは人間をわかっていない。
べつに長生きなど望んでいない。ハッピーなど、もとよりあきらめている。
しかしと親切なあなたはご忠告してくださるかもしれない。
死にたいというのはよくない。いまはいいクスリがたくさん開発されている。
驚くほどかんたんに人間の苦悩など解消してしまう。
だまされたと思って一度精神科にかかってみてはどうか。
なるほど、その通りだろう。
精神病薬を用いれば、わたしの浅薄な苦悩など霧散するのかもしれない。

死にたいと思いながら鬱々と歩く。橋にかかる。
ここから飛び降りてもとうてい死ねないな、なんて思う。
なんで苦しいのだろう。どうして死にたいのだろう。
考える。苦しみを考える。なにを考えているか。
ここのブログに書くことである。
どう表現すればうまくわたしの苦悩が伝わるかを悶々と考えているのである。
場合によっては、遺書でも、などとふざけたことを考えている。
どんな遺書をブログに記してこの世からおさらばしようか、なんて考えている。
苦悩から一転、笑いがとまらなくなった。
死におよんで、なおブログかよ! ネット中毒にもほどがあるぞ!
いや、と思い直す。これが苦しみなのだと苦悩の本質を悟ったようにも思う。
苦しみというのは、言葉なのである。人間の苦悩は言葉に変換することが可能である。
むろん、身体的苦痛は異なる。人間は偏頭痛ひとつ他者に伝えることができぬ。
だが、精神的な苦悩であれば、かなりのところまで、といっても3割程度だろうが、
人間は他人に伝達することができるのではないだろうか。
人間はおのれの血涙を言葉に溶かすことができるのではないか。
その言葉は、もしや運がよければだれかに伝わるのではないか。

人間は言葉を書く。言葉を読む。
ほんとうに苦しいときに、なおも苦しみのただ中にいるならば、
つまり言葉の洪水におぼれぬ覚悟があれば、
人間は他者の苦悩を、他人の書いた苦しみを、
かなりのレベルまでわかるのではないだろうか。
そのとき、人間はなにか生きる喜びのようなものを得られるのではあるまいか。
古今東西の文学というのは人間の苦しみのあかしだと思う。
むろん、人間の苦悩とはべつのところで書かれた観念的な作品もあろうが、
少なくともわたしはそういうものを文学だとは思っていない。
文学などというと、わたしには手の余る壮大すぎる問題だ。
この記事でいいたいことがあるとすれば、苦しみは言葉であるという、
だれもが知っている当たり前の事実である。
もっと具体的にいえばブログのすすめだ。苦しかったらブログを書こうだ。
人間の苦しみというのはどうにもならない、そのひとだけのものである。
他人には理解されぬ苦しみで人間は死にたいほどに悩むこともある。
そういうときは言葉に頼ろう。言葉を書こう。言葉を読もう。
もしかしたら些細な慰めが得られるかもしれない。
げんにいまわたしは苦悩からわずかだが解放されたような錯覚がある。
くだらぬことだ。愚痴を書こうといっているに過ぎぬ。
愚痴ブログなどだれも読まない。しかし、もしかしたら、だれか。
だれかひとりでも――。
こんなロマンティックな想像をしながら生き延びる手もあるという話だ。