「グランド・フィナーレ」(阿部和重/講談社)
→第132回芥川賞受賞作。こんばんは。どうやら、
「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」
らしいです(帯宣伝による)。よくわかりませんが、おめでとうございます。
芥川賞受賞というのは、宝くじで高額当選するよりはるかに確率的に難関だそうだ。
とてもいい制度だと思う。
我われ一般人は現代文学などと言われてもなにがなんだかさっぱりわからない。
芥川賞のような文学賞があるおかげでこれを読めばいいとわかる。
なにしろ日本を代表する第一線のベテラン文学者集団が談議のすえに認めた、
言うなれば全球団ドラフト1位の新人なのだから。
本作品も芥川賞を受賞していなかったら決して読まなかった。
なぜなら阿部和重が嫌いだからである。
過去、数作品読んだが、どれも印象はよくない。
低学歴がおのれの出自を激しく恥じるがゆえに、過度に観念的なものへの憧憬を持つ。
というのも、この作家の書くべき不幸が低学歴、低知能しかないからである。
――時代の最先端を爆走する阿部文学へのわたくし凡才の評価だ。
文学珍走団(暴走族)のトップに君臨する「グランド・フィナーレ」はロリコン小説である。
ロリコンがばれて人生が終わった(離婚・失職)中年の悲喜こもごもが描かれている。
芥川賞選考委員のなかから、
阿部が少女趣味をわかっていないという意見が出たようである。
選考委員のだれがロリコンなのかと2ちゃんねるで話題になったことを記憶している。
たしかに文学珍走団長の阿部和重はロリコンをわかっていないように思う。
かれは記号として(なんて書くと、低知能を恥じる低学歴みたいだが)
ロリコンを扱っているに過ぎない(=珍奇なものを取り上げれば現代文学でござい!)。
まあ、つまらないのが文学作品なのだから「グランド・フィナーレ」は疑いもなく文学だ。
日本に低知能を恥じる低学歴がいるかぎり、
阿部和重は文学珍走団のトップでありつづけることであろう。
「どうで死ぬ身の一踊り」(西村賢太/講談社)
→いままで同時代作家で尊敬しているのは柳美里だけであった。
たしかに山田太一先生や宮本輝先生は柳美里以上に敬愛しているが、
どちらも同時代を生きた作家ではない。
山田太一氏は祖父、宮本輝氏は父の世代である。
さて、この西村賢太は、
わたしの尊敬する同時代作家、柳美里の10倍は文学的にすぐれている。
今年読んだ小説のなかでもっとも感銘を受けた。
それどころか21世紀になって出版された小説の最高峰ではないかとさえ思っている。
本作品が芥川賞候補になるも受賞しなかったのは、選考委員が嫉妬したからだと思う。
芥川賞選考委員の顔ぶれを思い浮かべたが、
今現在このような傑作を生みだす作家はひとりもいないのではないか。
西村賢太は、日本近代文学の正統たる私小説作家である。
父親は強姦で逮捕。本人は中卒。青臭い文学青年(中年?)。貧乏。もてない。
そのくせ、苦労して手に入れた女をフルボッコ(フルパワーでボッコボコに)するDV野郎。
にもかかわらず、女から別れを迫られたら土下座も辞さない男のなかの男。
内弁慶。酒をのんだら悪態三昧だが、ふだんはおとなしい。
西村賢太よ、兄貴、おまえは男だ!
西村賢太が認められなかったら日本の文学は終わりである。
しかし、ここが複雑なのだが、かならずしも西村賢太の出世を願っているわけではない。
というのも、私小説作家は売れるとダメになるからである。
あれほどの凄みを見せていた柳美里も、メジャーになるにしたがい作品の質は劣化した。
私小説作家は不幸でなければならない。
なるほど、作家にとっては実際に不幸であることよりも、
不幸を感知できる能力の優劣が作品を左右することは事実である。
けれども、名誉も富も地位もありながら、なお不幸を自認するのは難しい。
二律背反である。
西村賢太はもっともっと評価されなければならない大作家である。
しかし、西村賢太がいざ売れたら、かれの小説はつまらなくなるだろう。
無名であること。カネがないこと。キチガイであること。
いい小説を書くための条件である。
この点から考えると、いまの日本で西村賢太ほど恵まれた作家はそうはいないだろう。
「土の中の子供」(中村文則/新潮社)
→第133回芥川賞受賞作。
同世代で同性の小説を読むときは緊張する。
異性はまだいいのである。男と女ではすべてが異なる。
だが、同性では逃げられない。
おもしろかったらどうしようと思いながら読み始める。
読み進むうちに安心した。おもしろくなくてよかった。
いちばんの問題は先が知りたくならないってことだな。
純文学ならなにをやってもいいとは思わない。
最低限の読者への気配りはしなければならないのではないか。
内容は、トラウマを持つ青年が絶望をつづるって感じ?
トラウマゆえに冷たい「わたし」が絶望しながら生き延びる。
これは婦女子向けの小説だと思う。
つらい体験があるのにクールに生きている主人公、デラかっこよす、みたいな(笑)。
といっても、ここに描かれている絶望などいかにもな作り物。
ガラス細工の絶望だ。
だって、人間がほんとうに絶望していたらウソでもいいから希望を描くでしょう。
癌で余命1ヶ月の患者は(家族も)決して絶望したりはしない。
絶望を描いている時点で作者がちっとも絶望をしていないのがよくわかる。
絶望をクールに演じてるおれって、ちょーかっこよくねえ?
なんか、こう、現代の若者のゼツボーみたいの、共感しちゃいなよYOU!
という小説である。するわけねーだろうがドアホ。
中村文則たんハァハァとおばさまがたはぜひぜひ萌えてくださいませ。
「夢を与える」(綿矢りさ/河出書房新社)
→史上最年少で芥川賞を受賞した、天才美少女作家、綿矢りさちゃんの最新長編小説。
チャイドルとしてデビューした夕子が国民的アイドルになり転落するまでを描く。
300ページにもわたる長編なのだが、半分の150ページまではつらかった。
何度も読むのをやめようか迷ったものである。
が、中盤を過ぎたころからがぜんおもしろくなる。
理由は、実感がこめられているからである。
それまでの物語が作り物めいていたのとはがらりと変わり、
血と涙が文章から透けて見えるようになる。
綿矢りさちゃんの逆ギレした恫喝があたかも聞こえてくるかのようである。
それはおばさんのヒステリーに満ちた怒鳴り声ではない。
やっぱりかわいいんだよな。りさたんかわいいよりさたん、である。
あたしは好きで美少女に生まれてきたわけではないねん。
なんの野心もない田舎の少女だった。
小説を書くのが好きで、せっかく書いたんだからと応募した
あたしのしたのはそれだけ。なのに、なんでこうなるの?
天才だ美少女だと、アイドルのように騒がれる。
苦節何十年みたいな文学中年からはひどく憎まれる。
こない、けったいなことある?
あたしは好きな小説を書いただけどす。
顔がきれいなのは罪ですか? 芥川賞をもらったのは罪ですか?
みんなあたしのことをシンデレラのように言うけど、
なってみたらぜんぜん楽しくあらへんよ。
いやあ、一本取られたね。
というのは、小説は現実へのうらみつらみそねみから書くものでしょう。
ならば、若年にして地位、名誉、財産のすべてを手に入れた綿矢りさちゃんは、
もう書くことなんてないと思っていた。
ところが、この天才作家にとっては、ひとも羨む環境が小説を書く熱源になる。
よく考えたらそうかもしれない。
綿矢りさちゃんのような幸運は、いわば時代から選ばれたようなもので、
裏を返せば、年に一度カミナリに打たれて死傷する人間とどこか似ている。
なんであたしが? 文豪の綿矢りさちゃんは思う。
本作品のような傑作長編ができあがるわけである。
これはたいへんな啓蒙小説である。
美貌、勲章、高収入を得ても、なお人間は満足しない。
むしろ、それらが疎ましくなる。かえって、ふつうの女の子になりたい。
「夢を与える」には、選ばれた人間しか味わえない壮大な苦悩が描かれている。
ヒットラーの書いた小説のようなものである。おもしろくならないわけがない。
このへんでやめよう。凡愚のわたしが天才を論じられようはずがないからである。
以下に平成の文豪の文章をわずかながら抜粋する。
くだらない感想を書き連ねるよりよほど有益であろう。
たとえば国民的アイドルの夕子は母親から言われる。
「あなたは苦労せずにお仕事をもらって、
他の人とは比べものにならないくらい順調にここまで来た。
それを自分の力だとか思っちゃだめよ。
お仕事仲間への感謝を忘れずに」(P150)
このようなことを小説に書ける綿矢りさちゃんは、
かつての綿矢りさ=村上龍と比較してどれだけ謙虚なことか。
りさたんかわいいよりさたん。
夕子は母親と問答する。
「私の今やっていることが焼き畑農業なら、早くすべてを焼き尽くしてしまいたい」
「なに言ってるの、こんな早いうちから焼き尽くしてしまったら、
これからの長い人生のなかで、あなたはどんな仕事をしていくっていうの」
夕子は強がって焼き尽くしたい、焼き尽くしたいとつぶやいたが、
本当は母と同じ不安を抱えていた。使い捨てられるのは、こわい」(P157)
こわいのは使い捨てられることのみではない。
「家と学校とスタジオの行き来の毎日で、ほとんど触れ合う機会もないのに、
“一般人”に対する、
何をされるか分からないという恐怖が夕子のなかに芽生え始めていた」(P167)
というのも――。
「家に帰った夕子はパソコンを開き、自分の名前で検索して、あるHPを開いた。
そこには夕子への罵言雑言が尽きることなく書かれていた」(P173)
「夢を与える」を読むと、天才美少女作家も楽ではないことがよくわかる。
あんがいふつうなのも悪くないかも、
と美貌も才能も富も名誉もない大多数の読者に夢を与えてくれる、すばらしい小説である。
「図解雑学 社会心理学」(井上隆二・山下富美代/ナツメ社)
→どうして心理学というのは、ああも女子学生に人気があるのだろう。
経済学者がかならずしも株で大もうけをするわけではないのとおなじ道理で、
心理学者だからといってとりたててひとづきあいがうまいようにも思えない。
ここからは統計もなにもない文学部出身のわたしの見聞(妄想?)だが、
心理学を専攻したがる女子学生というのはむしろ対人能力が低いのではないか。
中傷に近いが、心理学はメンヘルがかった女子学生が専攻するという偏見がある。
どうして他人とうまくつきあえないんだろう?
みんなはうまくやっているのにどうしてあたしだけ?
そもそもあたしって、なんなんだろう?
こんな彷徨の果てに女子学生は心理学に救いを求めるような気がするがどうだろう。
あたしっておかしくない? あたしあたし不安定なあたしである。
で、心理学は徹頭徹尾、常識で固められている。
不安定なあたしが堅固な常識に癒されるという理屈である。
さらに、あたしが救われたから、みんなも救いたい、とおバカなことを考える。
みんなを救うことであたしも救われる、なんて妄想する心理学徒もいる。
カウンセラーがあこがれの職業になるゆえんである。
ほんとうに人間を救いたいのなら女性カウンセラーにむずかしい知識は必要ない。
カネを取らない売春婦になれば多くの男性を救うことになるのだが、
このような常識はどうやら心理学では教えてもらえないらしい。
女子学生は、尊敬されて感謝もされ、みずからも癒されるカウンセラーを夢想する。
ひとを救うことで金品をもらえる職業ほどすばらしいものはない。
若い女性に人気の心理学の実態である。
話をがらりとかえる。なぜ心理学の本など固め読みしたのか。
悩みがあるからである。
まあ、わたしもうぶな女子学生とおなじで癒されたいわけよん(笑)。
というか、問題はもっと切実で、かねてから悩んでいる騒音過敏症を克服したい。
どうにも音が気になってならないのである。
神経症のひとつだと自覚している。
騒音が聞こえるとむかむかしてなにも手がつかなくなるのである。
焼き芋屋、灯油の移動販売車、子どもの騒ぎ声、すべてが腹立たしい。
もとより、おのれの異常性は自覚しているのである。
むかしはこうでなかったのだから。なんとかしたいと真剣に悩んでいる。
決して雑学趣味で心理学をのぞいているわけではないのだ。
実益を、実効を求めている。
ひとつだけ、心理学的知見からヒントを与えられたので、ここに紹介する。
うちのブログは騒音恐怖症のかたが閲覧くださることが多々ある。
少しでも同病者の参考になればさいわいである。
心理学には「古典的条件づけ」という概念がある。条件反射のことだ。
たとえば、梅干を食べると自然に唾液が出る。
幼児などで試すと明白らしいが、梅干という言葉を聞くだけで唾液が出る。
これが「古典的条件づけ」である。
これから発展して、たとえばある懐メロを好きだとする。
当人は単純にその懐メロを自分が好んでいると思っている。
しかし、心理学的に見ると、こうかもしれない。
その懐メロが流行していた時代に、かれは幸福の絶頂期だった。
恋人とデートしているときにも頻繁に聴いていた。
したがって、かれがその懐メロを聴くのを好むのは音楽自体に理由はない。
実は、懐メロによって、当時の幸福感がよみがえり気分がよくなっているのだ。
まとめると、こうなる。
「梅干⇔梅干という言葉→唾液」
「幸福感⇔懐メロ→幸福」
これを騒音に適応するとどうなるか。
「喧嘩⇔騒音→不快感」
かつて騒音が原因で他人とあらそった記憶があるから、
騒音がこうも不愉快なのではないか。
ならば、騒音と快感を条件づけすれば、
騒音に困らされることがなくなるのではないかという試論である。
実験としては、騒音が聞こえてくるたびに好きな音楽を聴く。
騒音が聞こえてくるごとに甘いキャンディーをほおばる。すると――。
「甘味、快感⇔騒音→気にならない」
上記のようにならないかと予想したのである。
書きながら思ったのだが、
これはキャンディーを10個口にほおばるよりも甘い考えかもしれない。
わたしの騒音過敏症はそう甘いものではないのではないか。
しかし、なんとかしたいのである。
こんかいわらにもすがる思いで心理学へ分け入ったのはこのためである。
虫歯にならないよう注意しながら、上に書いた人体実験をやってみようと思う。
「図解雑学 犯罪心理学」(細江達郎/ナツメ社)
→犯罪心理学者の細江達郎は本書の冒頭でまずなにをやるか。
「しろうと理論」の否定である。
なにか犯罪が起こり報道されると我われ一般人はいろいろ背景を分析して楽しむ。
これを「しろうと理論」と命名し、いまから教えるのは専門的な学問だと主張するのだ。
勘のいいものならこの時点で犯罪心理学なるもののいかがわしさがわかるはずである。
「あんなものはだれでもやれる」とこの犯罪心理学者はさんざん言われてきたのだろう。
だから、一般書の冒頭でいきなり一般読者を批判する。
わかりやすい行動である。しかし、これは人間心理を熟知している学者の行動か。
わたしは最初の「しろうと理論」攻撃を読んで不愉快な気分になった。
この程度の読者心理も予想できないものが心理学者を自称しているのだから大笑いだ。
専門家の細江達郎の説く犯罪心理学は予想通り大したものではない。
この学者はよほど一般人が嫌いなようである。
つぎのような「しろうと理論」を学問的見地から批判する。
低知能者が犯罪を起こしやすいと一般人は思っているがそれは間違いだという。
かれの犯罪心理学的分析によると、低知能者は低知能だから犯罪をするのではない。
低知能ゆえに雇用の機会が制限される。
まあ、バカはろくな仕事につけないってことだな。
したがって低知能者の社会への不満が高まり犯罪を起こしやすくなる。
かようなしだいで低知能者ほど犯罪を起こしやすいというのは誤りだ。
我が輩のように社会的因子を計算に入れるのが学問ってものだぜ、
と犯罪心理学者の細江は得意気に論じる(35ページ)。
これを読んでさすが学者様はすごいと感動するのはオオバカである。
だって、結局、低知能者は犯罪を起こしやすいわけでしょう。
なら、一般人の常識を追随しただけじゃないか。
細江達郎は、低知能と犯罪のあいだに「雇用」という用語を挿入したのみ。
このくらいで専門家を自称されても困ってしまう。
これはもう心理学という学問の限界かもしれない。
心理学とつく学問は、どれも一般的な常識をもっともらしく補強するのみ。
独創的な発見というのは心理学からは決して生まれない。
まず一般的な常識ありきで、それからその常識を証明するデータを取る。
あるいは、専門用語をでっちあげ常識を学問の世界に転用する。
たとえば――。
犯罪心理学によると、犯罪の起こるメカニズムがあるらしい。
はじめに人間の態度がある。
この態度は心理学の述語(専門用語)で、特異な意味があるらしい。
人間の態度には犯罪を起こしやすいタイプのものがある。
犯罪を志向する態度があったからといってかならずしも事件にはならない。
態度にスキルが加わって犯罪が生じるにいたる。
しかし、ここで犯罪を予防するものとして抑制の存在を考えなければならない。
抑制がスキルを上回る場合は犯罪は生じない。
まとめると犯罪の発生条件は以下のようになる。
加害者(態度+スキル)>被害者(抑制)→犯罪が起きる
加害者(態度+スキル)<被害者(抑制)→犯罪が起きない
一見すると、なにやら学問のような気もするけれども違うでしょう。
ただの常識ではありませんか。
要するに、防犯をきちんとしていれば犯罪は起きないってことでしょ。
この当たり前すぎるほどの常識が、犯罪心理学では上記のようになる。
学者はなにか立派なことを発見したような錯覚にとらわれる。
最後に犯罪心理学者の細江先生に一般人の素朴かつ稚拙な感想を。
犯罪のひとつでもやってからものを言え!
「図解雑学 心の病と精神医学」(景山任佐/ナツメ社)
→知っているひとも多いだろうけれども、ある事実をあらためて記す。
というのは、わたしも知っていたが、ことの重みを再認識したからである。
その事実とは――。
精神病が病気になったのはわずか(おおよそ)200年前のことである。
裏を返せば、それまでは精神病は病気として認識されていなかった。
西欧では、神から罰せられた罪人、あるいは魔女という扱いを受けていた。
これをピネルというフランス人が、かれらは罪人ではなく、
治療が与えられるべき病人と定義したのが精神医学の始まりである。
いまでも未開社会では精神病者が巫女のように重んじられる場合がある。
芝居に話をうつすとハムレットは精神分裂病、リアは老年性痴呆でしょう。
マクベスは精神障害者(魔女)にそそのかされて狂っていく。
オセローはパラノイア(熱情妄想病)の典型。
けれども、この当時は病気ではなかったから手のほどこしようがない。
話を精神医学に戻すとピネルから約100年後にフロイトが登場する。
フロイトが研究したのは(精神病ではなく)神経症のはずなのだが、
このへんを混同しているものが精神科医のなかにさえいるようだから、
しろうとのわたしもそれに乗じてあいまいなままにしておく。
で、フロイトから50年。精神病薬の飛躍的な進歩があった。
まとめると、こうなる。年数はわかりやすさを重視してあえて50年単位にした。
200年前:精神病の発見(=精神医学の誕生)
100年前:フロイトによる無意識の発見(=精神分析学の誕生)
50年前:薬理学の急速な進歩(=精神病がクスリで治る)
現代:「鬱はこころの風邪」(=精神科の敷居が低くなった)
余談だが、「もてない男」小谷野敦先生の卓見にフロイトはインチキ。
精神分析は20世紀最大のインチキ学問だという指摘がある。
これには目からうろこが落ちたものである。なるほどといたく納得した。
しかし、ここからの立場が小谷野先生とわたしで異なる。
フロイトもユングも、たしかにインチキである。小谷野先生は、だからダメだという。
わたしはインチキでもいいじゃんと開き直る。
学問的にはインチキでも、おもしろければいい。役に立てばいい。
フロイトの理論はなるほどインチキかもしれないが、かれは名医だった。
何人もの病める患者をインチキ理論で治したのは事実である。
ユングはあまり患者を治癒に導かなかったらしいが、かれの理論はおもしろい。
ユングの理論を、質のいいファンタジーと見てはどうかというのである。
どのみちつまらぬ人生なら、ユングに慰められるのもいいではないかと思うのだ。
もっともフロイトやユングをまつりあげることで、
高額の料金を不当に徴収する治療者にはまったく好感をもたない。
本題に戻り、根源的な問いに向き合おう。そもそも精神病とはなにか?
精神医学はピレネが、あるタイプの人間を精神病と命名することからスタートした。
本書では東京工業大学教授の景山任佐が以下のような定義をしている。
「精神病の本質は
『「主体(=患者本人)と現実との関係の深い変容」として表現される』」(P26)
「精神病患者は現実性が欠落し、自分が病人であるとの自覚に乏しい」(P27)
要は、現実を見誤っているのが精神病患者と言うのであろう。
しかし、いくら大学教授の論述であろうと、これは間違いである。
この精神病の定義は誤りだ。
というのも、衆目一致で承認される現実など、どこにもないからである。
人間はそれぞれの現実を生きている。
Aさんの現実とBさんの現実がおなじはずがない。
(山田太一ふうの表現をすれば、人間はそれぞれのフィクションを生きている)
では、ここで一介のブロガーが精神病の定義をしてみよう。
「精神病とは、精神科医が異常と見なした症状である」
言い換えれば、精神病は精神科医が作るものなのである。
精神医学の始まりからして、そうではないか。
ピレネという医者が、ある種の迷惑な人間を精神病とラベリングしたことから、
精神医学は創設されたのである。
最後に、この本によるとわたしはたいへんな病人らしい。
回避性人格障害、自己愛性人格障害、反社会性人格障害、強迫性人格障害――。
以上の4つすべてに当てはまる。
ところが、わたしはやはり病人ではない。
なぜなら判定をくだしたもの(=わたし)が精神科医ではないからである。
「図解雑学 心理学」(大村政男/ナツメ社)
→古本屋のワゴンから100円でひろいあげた本だが、
一箇所だけ折り目のついたページがある。
「知能のレベルを決めるのは遺伝? 環境?」というページである。
ふきだしそうになった。
きっと本書のまえの所有者は自分の低知能に悩んでいたのだろう。
「図解雑学」シリーズを買ったことからもよくわかる。
いちおうくだんの問いの本書における回答を紹介しておくと、
現代の最先端研究の結果として、知能は遺伝と環境の相互作用だと書いてある。
けれども、べつに心理学者の先生から教わらなくても、
高校中退カップルのできちゃった婚で誕生した児童が
東大へ入学できると思うひとはいないでしょう。
医者や弁護士の子女はかなりの高確率で有名学校へ入ることも我われは知っている。
小さいころからカネをかけられたガキは強いわけだよ。
こんなものは常識で、わざわざ心理学の先生に教えてもらうことではない。
このことは本書で開陳されているすべての心理学的知見にあてはまる。
心理学なんざ、言ってしまえば、当たり前の常識なんだ。
だれもが知っている常識を、ものものしく語るのが心理学者ではないか。
数学が苦手の文系のくせにデータがどうのとわけしり顔で学者ぶる。
この本を読みながら、似たようなもの知っているという思いがしていた。
思い当たったのは、女性誌である。心理学は女性誌だ。
女子供が、わーわーきゃーきゃー騒ぐのにはなはだ都合がよろしい。
退屈しのぎになるから心理学(女性誌)もそれなりに存在意義があるのだろう。
だが、決して真に受けてはいけない。
「図解雑学 刑法」(船山泰範/ナツメ社)
→友人にミステリー小説だけは読めないというひとがいるけれども、
たいがいの人間はミステリーが嫌いではないでしょう。
少なくとも国語の教科書に載っている文学作品などに比べたらよほど楽しい。
なぜミステリー、推理小説がひとを魅するかといえば、
非日常的な犯罪が描かれているからである。
わたしも読書のきっかけはミステリーだった。
意外に思われるかもしれないけれども
西村京太郎や内田康夫などを好んで読んでいた時期もあった。
では、ミステリーで描かれるところの犯罪とはいかなるものなのか。
犯罪とはなにかは刑法によって定められている。
なぜなら犯罪を裁くための法律が刑法だからである。
さて、刑法に従うならば、どのようなものが犯罪として認定されるのか。
まず犯罪は人間の行為でなければならない。
カミナリに打たれて死んだとしても、それは犯罪ではない。
自然現象は犯罪にはふくまれないということだ。
刑法で問題にされるのは、故意にしろ過失にしろ人間の行為のみである。
さあ、人間の行為によって損害が生じたとする。
これがすべて犯罪になるかといえば、残念ながらそうではない。
その行為が刑法の定める犯罪類型にあてはまらななければ犯罪ではないのだ。
ストーカーはむかしは犯罪ではなかった。
情熱的な片想いにしか過ぎなかった。
しかし、いまでは犯罪である。
なぜなら新しい刑法が加わったから、ということだ。
ところが、これでもまだ人間の行為を犯罪と決定することはできない。
さらに違法性の有無が判定される。
行為のなされた具体的事情が考慮されるわけである。
船が難破して大海にただようふたりの人間がいたとする。
運よく流木が波間に見える。
しかしこの流木にはひとりしかつかまることができない。
こういう場合、他人を押しのけても犯罪にはならない。
道徳上の罪には問われるだろうが、刑法では犯罪ではない。
これで犯罪が定めうるかといえば、まだ不充分である。
責任能力の有無が見極められなければならない。
行為者の判断能力や年齢が問題とされる。
精神障害者や児童が行為者だった場合、
善悪の判断ができなかったと見なされ行為の責任は問われない。
すなわち、犯罪にはならない。
以上の長い経緯を経て犯罪が認定されるわけである。
長々と書いたが、ひと言でまとめるなら「人間の行為」ということに尽きる。
1.犯罪は「人間の行為」である。
2.その「人間の行為」が刑法で犯罪となっているか。
3.具体的事情、社会的見地を考慮に入れてもやはり犯罪に該当するか。
4.行為をなした人間に責任能力はあるか。
ちなみに、(知らなくてもいいことだが)法律用語では、
2=「構成要件該当性」、3=「違法性」、4=「有責性」と呼ばれる。
「人間の行為」が234というふるいにかけられると思えばよろしい。
ようやく犯罪とはいかなるものか判明した。
犯罪とは、刑法で定められたよくないとされる人間の行為である。
ここで最初に戻ってなにゆえミステリーは万民に受けるのか。
人間の行為が続けざまに描かれているからである。
わかりづらいのなら、ミステリーの対極にある純文学を想像してください。
純文学などと呼ばれる小説は、なかなか人間が動かないでしょう。
ああでもない、こうでもないと考えるばかりでいっこうに行為をなさない。
だから、つまらないと大多数の読者は思ってしまうわけだ。
ミステリー、純文学――、飛躍をして戯曲を考えてみる。
戯曲というのは、人間の行為を描いたものでしょう。
舞台上の役者が沈思黙考していたらいつまで経っても芝居は始まらない。
その意味で、戯曲は純文学よりもミステリーと共通性がある。
考えてみれば、シェイクスピアの悲劇なんざ、すべてがミステリーである。
ただしオハムレットやオセローの行為は刑法で定められた犯罪ではない。
神前で問責されるべき罪だという違いはある。
「図解雑学 刑法」を読んで、こんなことを考えたのは、
やはりわたしの関心が社会にではなく文芸にあるからだと思う。