「もてない男」(小谷野敦/ちくま新書)*再読

→はじめて読んだときはくだらないと思ったものだけど、
いまさらながら再読して、バカ受けした。名著である。売れただけのことはある。
これを読んだころ、ちょうどある事件の直後で、死ぬことばかり考えていた。
自慢することでもなんでもないのだが、本気で死を思うと恋愛なんてどうでもよくなるぞ。
衣食足りて礼節を知るという言葉があるが、これを真似ていうならば、
寿命足りて恋愛を知る、なのである。
このベストセラーを読みながら思ったものである。
これを書いたやつは70とか80まで生きることをぜんぜん疑ってないな。
だから、恋愛弱者がどうのと泣き言をいってるんだ。うぜえったらない!
ああん? なんだったらおまえの両親、金属バットで叩き殺してやろうか。
その時点で、おまえさんも恋愛なんてどうでもよくなるからハッピーだろ?
カモン小谷野、おいコラええ♪
というのが当時の感想だったのである。いま読み直すと笑いがとまらない。
文章がはっちゃけていて、すんばらしい。感情が入りすぎているのが魅力である。
学者の文章は感情が混入されていないからつまらないのである。わからないのだ。
その面では、小谷野は学者ではない。
これだけ感情の入った文章を書けるライターを学者にしておくのはもったいない。
小谷野敦の名文を抜粋する。読者諸兄よ、よくよく味わわれたし。

「さらに私が不快なのは(もうかなりやけくそになっているが)
『男フェミニスト』どもである。というのは、私の妄想かもしれないが、
『男フェミニスト』には、いい男、もてそうな男が多いような気がするからである。
やけくそだから実名を挙げるが(後略)」(P111)


笑いどころが何重にも仕組まれている。
妄想かもしれないと断わっているのが笑える。
気がするから、というのも、著者の認めていない河合隼雄のようでおかしい。
ここで小谷野は正しい事実を指摘しようという精神を打ち捨てている。
すべてがもてないがゆえの怨念に支配されているのだ。
危ういところで自覚を残しているのも、いっちゃっていないぶん悲惨である。
笑い疲れて我に返ると、時の重みを痛感せざるをえない。
わたしも「もてない男」を読んで笑えるくらい死から離れてしまったということなのだから。
一途に死を願っていたころは、「もてる/もてない」なんてクソ食らえだったものだが。
喜んでいいのかわからない。ちょっと切ないような思いもある。