そもそも言葉は通じないのである。
じぶんの考えはここに書いてあります。これを読んでください。
そうすれば、だれでもわかります。
こういう態度は言葉を過信していると言わざるえない。
人間はだれもが誤読をするのである。
これを実感したのは、ブログをきっかけに知り合ったひととお会いしたときである。
だれか特定のひとりの人間と会ったときの感想というわけではない。
すべてを合算しての結論である。
対面で話すと言葉が通じていないことに驚愕する。
だれも書き手の言いたいことなど読んでいないのである。
しかし、そうばかりでもない。
こちらが書いたのを忘れているようなことをいきなり持ち出される。
「ヨンダさんって〜〜なんですよね」
「えっ、どうして知ってるんですか」
「ブログに書いてありましたよ」
こちらが伝えたいと思っていることは伝わらないで、
そうではない書き手にとっての些事が読まれている。
これは決して読み手が悪いということではない。原因があるとすれば半分は書き手にある。
残りの半分は人間全体に共通する欠陥ではないか。
そもそも人間は言葉で意味を正確には伝えられない。
たとえばAさんの使う「死」という言葉はBさんにとっては違う意味合いがある。
哲学研究者の語る概念的な「死」と鬱病患者の想う切実な「死」はまったくの別物だ。
こういったかたちで誤解や誤読が生まれるのである。
こんなことを書いているわたしだって、ろくな読み手ではない。
本の感想を書いているが、作者がそれを読んだら的外れなものばかりと憤慨するだろう。
言葉は通じないものなのである。だから、言葉の使用者は細心の注意を払う。
しかし、そうまでしても、やはり言葉は完全に通じない。
わかりやすい例をあげたらストーカーである。
いくらストーカーに「わたしはあなたが嫌いだ」と口頭あるいは文書で言おうが、
本人の耳(目)には「好き」と伝わってしまうのである。
しつこいようだがもう一度繰り返す。言葉は通じないものだ。
よくよく自戒しなければならないと思っている。
玄関のブザーのしたに貼り紙をだしている。
「セールスはお断りします」
以前はオートロックのところに住んでいたので訪問販売は来なかったが、
引越し先はそのような便利なものはないので閉口した。
かなり来るのである。
生協がどうの、水道管がどうの。
しかし、貼り紙をしたら嬉しいことに来なくなった。唯一の例外をのぞいて。
新聞勧誘である。どこの新聞かもあえて公開する。いつも読売新聞だ。
読売新聞の勧誘員は日本語が読めないのかもしれない。
ピンポーン。「どちらさまですか」「新聞のことで」
決まって新聞社名を先に言わない。勧誘だと最初は言わないのである。
小さな声でもごもご言っているので聞こえない。仕方ないからドアを開ける。
やはり読売新聞の勧誘である。来るたびにひとが異なる。
新聞の勧誘であることを確かめるとわたしは言うのである。
「これが読めますか」
それからブザーのしたの貼り紙を指さすことにしている。
「これが読めませんでしたか」
いちばん感じの良かった対応は、いきなり笑いはじめたというのがあった。
「いやあ、そうなんですけどね、あはは」
「だから、ブザーを押すまえ、これは読まなかったのですか」
「あはは、いえね、あはは」
こちらもバカ負けして笑うほかなかった。
最悪なのは数日前に来た読売新聞勧誘員である。
「これが読めませんか」
「いえね、こちらも仕事ですから」
いかにもあたまの悪そうな物言いである。わたしは反論する。
「仕事だったらなにをやってもいいんですか。わたしは訪問販売が嫌いなんです」
「それでも、こちらは仕事です。仕事熱心だからついやってしまうんです」
「どうしたらあなたみたいな新聞勧誘が来なくなるんですか」
「無理だと思います。みんな仕事でやっているんです」
じぶんはぜんぜん悪くないと主張するのである。すみませんのひと言もない。
こちらも喧嘩腰になる。
「じゃあ、こうしたらどうかな。玄関に水を入れたバケツを用意しておく。
あなたみたいのが来たらバケツをぶっかける」
「そんなことをされたら、こちらもやりかえすね」
新聞はインテリが作ってヤクザが売るとはむかしから言われてきたことである。
最後にたずねる。なかばあきれて、である。
「これからも、こういう貼り紙があってもブザーを押すんですか」
「ええ、もちろん。それが仕事ですから」
困ったものだとため息をつく。そういえば似たようなことが同じ日にあったのである。
うちのまえの路上で子どもがふたりキャッチボールをしている。
小学校入学前くらいの年齢である。
この年齢の幼児特有の言語以前のわめき声がうるさい。
我慢できなくなり公園で遊びなさいと言うつもりで外へ出る。
「きみたち、危ないからここで遊ぶのはやめなさい」
いちおう相手を気遣っているポーズを作るのである。
「キャッチボールなら公園で」
ここまで言いかけて異変に気づく。
どちらの子どももわたしの言葉に一切反応しないのである。
わたしが見えていないのだ。わたしという対象を認識できない。
愕然とする。どちらも顔がゆがんでいる。知的障害児であった。
どこかに保護者がいないのかとあたりを見まわすがどこにもいない。
この年齢の知的障害児をふたりだけで外で遊ばすのはいかがなものか。
うっかり事故になど遭わないともかぎらない。
ああ、そうかと悟る。
もしかしたらこのふたりは事故に遭っても構わないと思われているのではないか。
叫びながら遊ぶ、ふたりの知的障害児。わたしはかれらに通じる言葉をもっていない。
やめさせるとしたら力ずくでボールを取り上げるしかないのだろう。
そこまではやる気にならなかった。
その場をひきあげながら、ふたりの知的障害児を思い、寒々とした気分に襲われた。
このあとに新聞勧誘である。
わたしは言葉の通じない地域に引越して来てしまったのではないかと恐怖した。