本あればこそ、である。
人間がこうまでつまらない人生を生きていけるのは本があるからではないか。
人生、つまらないじゃない。つまらないと思うね。
結局は、持って生まれたものだろう。
いくら異性からもてようが、そんなものは生まれたときから決まっている。
立身出世がなんだ。念願の出世を果たしたところで1ヶ月もすればあきるはずである。
努力の結果と誇るのもいいかげん疲れる。
成功者のだれもがすんでのところで失敗者に堕したことを知っているからだ。
地位も名声もカネもつまらないものである。
なぜなら、どんな衣装を羽織ろうがきみはきみじゃないか。
唯一、本のみである。生まれ落ちるのもひとり。死ぬのもひとり。
こんな人間に自由があるとすれば読書しかない。
どれだけ友人がいようと人間は孤独である。
いくら愛人がいてもさみしさはどうにもならない。人間はひとり生まれ死ぬ。
このように孤独な人間がその孤独を快楽に転化できるのが読書である。
書物はひとりで読むものだ。ひとりを実感するのが読書だ。
しかし、そこに人間の悦楽がある。
ふうふう、はあはあ。
能書きはこのへんで。とにかく本が恋しくなったのであーる♪
ひさびに荻窪へでも行こう。もう日は暮れている。ささま書店。まずはワゴンから。
以下、ぜーんぶ105円。
「中国、なんですかそれは?」(小田空/旅行人)
「新註 歎異抄」(佐藤正英/朝日文庫)絶版
「わが山本周五郎」(土岐雄三/文春文庫)絶版
「文章作法」(桑原武夫/潮文庫)絶版
「文章心得帳」(鶴見俊輔/潮文庫)絶版
山本周五郎のは、いわゆる暴露本。どうしてわたしはこういうのが好きなのか。
店内へ。ワゴン本しか買わない貧乏人じゃないぞ。
「現代戯曲の理論」(ペーター・ションディ/市村仁・丸山匠訳/法政大学出版局)
むろん絶版である。価格は、わずか500円。
ドイツの学者が書いた本らしい。
ページをめくると頻繁にストリンドベリ、ユージン・オニールの文字が。
とりあえず買っておこう。
わたしのような凡人は貯蓄が肝心である。もとから才能などないのである。
無からはなにも生まれぬ。貯め込むしかないのだ。
運よく世に出たところで、凡才の備蓄などたかが知れている。
せいぜい無名時代にたくわえておくしかない。せめて非才のなしうることだ。
無能無才は知識と怨念を蓄積するほかない。
ブックオフ荻窪店へ。思えば2ヶ月ぶりである。
いまさらながら単行本の最低価格が210円まで値上げされたことが憎らしい。
「夢を与える」(綿矢りさ/河出書房新社) 210円
「図解雑学 犯罪心理学」(細江達郎/ナツメ社) 210円
「図解雑学 社会心理学」(井上隆二・山下富美代/ナツメ社) 210円
「本の情報辞典」(紀田順一郎・監修/出版ニュース社)絶版 210円
「中国古代文明の謎」(工藤元男/光文社文庫)絶版 105円
「白い牙」(井上靖/集英社文庫)絶版 105円
「ぐれる!」(中島義道/新潮新書) 105円
まさか綿矢りさちゃんの新刊が210円で買えるとは。
しかし、果たして読むのか。読みたくないけど、読まないとな。
新刊書を1500円近く支払って読む人間のことがわからない。
そこまでして読みたいものがあるなんてうらやましいとさえ思う。
中央線乗車。窓ガラスにうつるわが顔。
こんなやつの書いた本など105円でも売れないだろうとため息が出る。
いいんだ、いいんだ。本があるじゃないか。本を読もう。現実から逃げよう。
たったった(ヨンダッシュで走り去る)♪
中華料理に棒棒鶏ってありますよね。
「ばんばんじい」で変換しようとしたら「バンバン自慰」になってしまいました(笑)。
いつの間にやら11月です。
ところが「本の山」最大の自慰カテゴリー「アジア漫遊記」はまだ終わっていない。
中国の青島から帰ってきて、もうどれくらいの月日が経つのでしょう。
しかし、終わらない。
だが、ほんとうに終わっていないのかと考えるとそうでもないのです。
終わっているという意識があります。
最後の記事でいまから敦煌へ行くというところまで書いています。
で、その敦煌でパソコンの日本語入力方法を知るにいたる。
つまり敦煌からはリアルタイムで報告しているのです。
だから、終わったというのもあながち間違いではない。
敦煌から帰国までは飛ばし飛ばしですが、いちおう書いています。
「アジア漫遊記」が書きつづけられない理由はこれだけではないのです。
かならずしも終わったわけではない。まだまだ書いておきたいことがあるのです。
だったら、書いたらいいじゃないか。その通りであります。
しかし、書くことを阻害する憂鬱めいたものもある。
友人――ムー大陸さんと会ったときに、あれは酔ったいきおいだったのか、
こんなご指摘を受けました。
「アジア漫遊記」のある記事を、つまらないというのです。
華山へ登ったときのことを書いた記事です。
あれはダメだという。なぜなら一般化しているからだ。人生訓めいていておもしろくない。
あのように一般化していない行動を読みたいんだ。
それでもわが友人は別の記事のある箇所をほめてくださいました。
わたしはあたまを掻くしかない。
「あそこはフィクションでして……」
あんな旅行記まで読んでくれているのはじつにありがたいことです。
だからというわけではない。だから批判を聞き入れるというわけではないのです。
批判が、じつに的を射ていた。
安易な一般化はたしかに旅行記をつまらなくしてしまいます。
そして、わたしはどれだけ軽々しくその愚行をなしていたか。
恥ずかしくなりました。
これで書けなくなったということもあるのです。
文体の模索という理由もあります。
いまだじぶんの文体がよくわからないのです。
「アジア漫遊記」は記事ごとに文体が変わっています。
ひとえにじぶんの文体がないためです。
すなわち、旅行をする主体である「わたし」がはっきり定まっていない。
軸がぶれている。泣きと笑いのあいだをへらへらふらふらしている。
なにを大げさなと笑われるのはわかっています。
だれも読んでいない「バンバン自慰」でなにを悩んでいるのか、と。
けれども、この苦悩する自意識は右往左往することをやめようとしません。
少なくとも、年内にと思っています。今年中に終わらせたい。
もちろん終わらせたからといってどうなるものでもありませんが。
以上、旅の途中の報告です。
中国で棒棒鶏という字は頻繁に見かけましたが、そういえば一度も食べませんでした。