よく知らないが、戦前は文学書など読んでいると不良になると恐れられ、
書物を取り上げられることも少なくなかったらしい。
それが、いまはどうだ。
不良の読むものであった文学が教科書に掲載されている。
映画も同様である。
ある時期までは、子どもだけで映画館に入るのは校則で禁止されていた。
つまり不良のものであった。
それが、いまはどうだ。
映画はいつしか芸術になってしまった。
芸術ということにでもしないと、成り立たなくなったのである。
食えない映画監督を大学教授にしてメシ代を与えている。
その点、マンガのみいまだ健全である。
マンガは生産者と消費者の関係に偽善がない。
食えないマンガ家が、大学教授になるようなこともない。
さらにそのうえマンガはいまでは芸術として認識されている。
マンガと対照的なのがテレビドラマではないか。
マンガとは異なりテレビドラマは一貫して芸術とは縁がなかった。
だが、創成期からずっと大衆娯楽の王様としての地位を築いている。
最後に演劇というのは、もっとも悲惨である。
最初から最後までカッコづけの「芸術」でしかなかった。
日本において演劇は、不良のものとして侮蔑されることさえ少なかった。
所詮、金持の子弟の暇つぶし。これが日本演劇の実相だ。
すなわち、一度たりとして食えるものにはならなかったのである。
若者はあこがれる。
文学者。映画人。マンガ家。テレビ業界人。演劇人。
このうち可能性があるのはマンガとテレビだけである。
文学、映画、演劇をこころざすものは阿呆である。
たとえ成功しても食えないのがこれらの「芸術」なのだから。
なのに、どうしていまだ志願者がたえないのか。
ジャンルそのものはすでに終焉を迎えているというのに。
まったくふしぎなことである。
バカのぶんざいで風邪を引いてしまった。
ついていたのは、ちょうどある疾病での通院日だったので、
ついでに風邪薬を処方してもらえたことである。
昨日のことだ。
思えば、医者から風邪薬をもらうなど20年ぶりではないか。
いつも市販薬でごまかしてきた。

引っ越すまえの住所の近所にある病院である。
転居したむねを伝えると医師は、
「なら、いまの住所の近くのところへかえても」
「いえ、やはり先生にお願いします」
わたしは答えた。
「先生がいいんです。うるさいことを言わないからです。
ああしろ、こうしろと。これからもお願いします」
対人恐怖症のようなことを書いているが、
このように医者の自尊心をくすぐるわたしは、
実のところ、なかなかのやり手なのかもしれない。
しかし、ウソを言ったわけではない。
この先生はわたしと相性がいいと思う。
おかしな健康指導をしたりしない。
まあ、好きなように生活して、
悪いところはお薬でなんとかしましょうという方針。
なかには「おれにまかせろ」という態度の医者もいるが、
この手の絶対君主的なお医者さんとは馬が合わない。

「酒をやめなさい。
喘息(ぜんそく)も頭痛も酒が原因じゃないかな」
こんなことを言う医者もかつていたが、
不愉快で仕方がなかったものである。
患者に努力を強いる医者は嫌いである。
患者が治らないのは、がんばっていないから。
こういう考えの医者も少なくないのである。
がんばってお医者さんになった人間は、
がんばればだれでもなんでもできるという
浅はかな思考から抜け出すことができないのかもしれない。

昨日処方してもらったのは「PL顆粒」という風邪薬。
のんでみたら実によく効くので驚いた。
むろん、風邪を治す薬ではない。
というのも、そもそも風邪を治す薬はないからである。
症状をやわらげるだけだ。
それでも、うれしいものである。
まさかこんなすぐ効果があるとは思わなかった。
突然、鼻づまりがよくなった。

さらに驚くべきことが生じたので書いておく。
喘息までよくなったのである。
そんなことは起こりようがないのである。
なぜなら「PL顆粒」を調べてみたら、
これはむしろ喘息を誘発しかねない薬なのだから。
そういえば喘息のことはこの医者にはうまく伝えていなかった。
だから、「PL顆粒」を処方したのだろう。
ところが、この風邪薬で喘息までよくなってしまう。
人間のからだの不思議である。
社会の不可思議から生まれたことわざに、
「風が吹けば桶屋が儲かる 」というものがある。
風が吹いたら、どうしてかめぐりまわって桶屋の利益になる。
大げさに言えば世界の神秘を説いたことわざである。
これをもじるならさしずめ、
「風邪を引けば喘息がよくなる」といったところか。
「ひとり日和」(青山七恵/河出書房新社)

→第136回芥川賞受賞作。
選考委員がこの作品を芥川賞に推したのはニートが正社員になる話だからではないか。
だれもが思っていることだけれども、いまのニッポンはもうメチャクチャだ。
生きていることになんのはりあいもないひたすら退屈でむかむかする国になってしまった。
だれがこんなふうな国にしたのか。
文学にそれほどの力はないのは重々承知だが、それでもいまの文学者の責任は重い。
とくに石原都知事や村上龍である(「ひとり日和」を強烈にプッシュしたのはこのふたり)。
石原、村上は、まるで地道に働くことが愚かであるようなことをさんざん書いてきている。
両者のみならず、そもそも作家の存在がサラリーマンとは相容れないのは言うまでもない。
身もふたもないことを言えば、自由、個性、希望、自己実現といったような言葉がよくない。
才能のある人間はほんのひと握りだから、
大多数の人間は退屈な人生をごまかしながら生きてゆくほかない。

唐突に話は飛ぶが、
これこそ青山七恵の退屈な小説がベテラン作家に賞賛されるゆえんである。
いまさら暴れる若者など描かれたら、権力者は困るのである。
現代文学は、終わりなき日常を、ほどほどにやり過ごす術を教えるものでなければならぬ。
青山七恵の「ひとり日和」をつまらないというものは文学をわかっていないのである。
現代文学には現代が描かれていなければならない。
青山七恵は無思想、無感覚の状態で現代をふらふら生きているからこそ、
芥川賞を受賞するような最先端の文学作品を書けたのである。
なるほど現代にはたしかなものはなにもない。
だからこそ、なにもない青山七恵が評価されなければならないのである。
壊すものがまだ残存していた時代には、破壊者や保存者が文学者たりえた。
ところが、いまはほんとうになーんにもないのである。
したがって、破壊殲滅も伝統保持も空々しい。
青山七恵の「ひとり日和」が傑作と称されるのはこのためである。
「グランド・フィナーレ」(阿部和重/講談社)

→第132回芥川賞受賞作。こんばんは。どうやら、

「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」

らしいです(帯宣伝による)。よくわかりませんが、おめでとうございます。
芥川賞受賞というのは、宝くじで高額当選するよりはるかに確率的に難関だそうだ。
とてもいい制度だと思う。
我われ一般人は現代文学などと言われてもなにがなんだかさっぱりわからない。
芥川賞のような文学賞があるおかげでこれを読めばいいとわかる。
なにしろ日本を代表する第一線のベテラン文学者集団が談議のすえに認めた、
言うなれば全球団ドラフト1位の新人なのだから。
本作品も芥川賞を受賞していなかったら決して読まなかった。
なぜなら阿部和重が嫌いだからである。
過去、数作品読んだが、どれも印象はよくない。
低学歴がおのれの出自を激しく恥じるがゆえに、過度に観念的なものへの憧憬を持つ。
というのも、この作家の書くべき不幸が低学歴、低知能しかないからである。
――時代の最先端を爆走する阿部文学へのわたくし凡才の評価だ。

文学珍走団(暴走族)のトップに君臨する「グランド・フィナーレ」はロリコン小説である。
ロリコンがばれて人生が終わった(離婚・失職)中年の悲喜こもごもが描かれている。
芥川賞選考委員のなかから、
阿部が少女趣味をわかっていないという意見が出たようである。
選考委員のだれがロリコンなのかと2ちゃんねるで話題になったことを記憶している。
たしかに文学珍走団長の阿部和重はロリコンをわかっていないように思う。
かれは記号として(なんて書くと、低知能を恥じる低学歴みたいだが)
ロリコンを扱っているに過ぎない(=珍奇なものを取り上げれば現代文学でござい!)。
まあ、つまらないのが文学作品なのだから「グランド・フィナーレ」は疑いもなく文学だ。
日本に低知能を恥じる低学歴がいるかぎり、
阿部和重は文学珍走団のトップでありつづけることであろう。
「どうで死ぬ身の一踊り」(西村賢太/講談社)

→いままで同時代作家で尊敬しているのは柳美里だけであった。
たしかに山田太一先生や宮本輝先生は柳美里以上に敬愛しているが、
どちらも同時代を生きた作家ではない。
山田太一氏は祖父、宮本輝氏は父の世代である。
さて、この西村賢太は、
わたしの尊敬する同時代作家、柳美里の10倍は文学的にすぐれている。
今年読んだ小説のなかでもっとも感銘を受けた。
それどころか21世紀になって出版された小説の最高峰ではないかとさえ思っている。
本作品が芥川賞候補になるも受賞しなかったのは、選考委員が嫉妬したからだと思う。
芥川賞選考委員の顔ぶれを思い浮かべたが、
今現在このような傑作を生みだす作家はひとりもいないのではないか。
西村賢太は、日本近代文学の正統たる私小説作家である。
父親は強姦で逮捕。本人は中卒。青臭い文学青年(中年?)。貧乏。もてない。
そのくせ、苦労して手に入れた女をフルボッコ(フルパワーでボッコボコに)するDV野郎。
にもかかわらず、女から別れを迫られたら土下座も辞さない男のなかの男。
内弁慶。酒をのんだら悪態三昧だが、ふだんはおとなしい。
西村賢太よ、兄貴、おまえは男だ!
西村賢太が認められなかったら日本の文学は終わりである。
しかし、ここが複雑なのだが、かならずしも西村賢太の出世を願っているわけではない。
というのも、私小説作家は売れるとダメになるからである。
あれほどの凄みを見せていた柳美里も、メジャーになるにしたがい作品の質は劣化した。

私小説作家は不幸でなければならない。

なるほど、作家にとっては実際に不幸であることよりも、
不幸を感知できる能力の優劣が作品を左右することは事実である。
けれども、名誉も富も地位もありながら、なお不幸を自認するのは難しい。
二律背反である。
西村賢太はもっともっと評価されなければならない大作家である。
しかし、西村賢太がいざ売れたら、かれの小説はつまらなくなるだろう。
無名であること。カネがないこと。キチガイであること。
いい小説を書くための条件である。
この点から考えると、いまの日本で西村賢太ほど恵まれた作家はそうはいないだろう。
「土の中の子供」(中村文則/新潮社)

→第133回芥川賞受賞作。
同世代で同性の小説を読むときは緊張する。
異性はまだいいのである。男と女ではすべてが異なる。
だが、同性では逃げられない。
おもしろかったらどうしようと思いながら読み始める。
読み進むうちに安心した。おもしろくなくてよかった。

いちばんの問題は先が知りたくならないってことだな。
純文学ならなにをやってもいいとは思わない。
最低限の読者への気配りはしなければならないのではないか。
内容は、トラウマを持つ青年が絶望をつづるって感じ?
トラウマゆえに冷たい「わたし」が絶望しながら生き延びる。
これは婦女子向けの小説だと思う。
つらい体験があるのにクールに生きている主人公、テラかっこよす、みたいな(笑)。
といっても、ここに描かれている絶望などいかにもな作り物。
ガラス細工の絶望だ。
だって、人間がほんとうに絶望していたらウソでもいいから希望を描くでしょう。
癌で余命1ヶ月の患者は(家族も)決して絶望したりはしない。

絶望を描いている時点で作者がちっとも絶望をしていないのがよくわかる。
絶望をクールに演じてるおれって、ちょーかっこよくねえ?
なんか、こう、現代の若者のゼツボーみたいの、共感しちゃいなよYOU!
という小説である。するわけねーだろうがドアホ。
中村文則たんハァハァとおばさまがたはぜひぜひ萌えてくださいませ。
「夢を与える」(綿矢りさ/河出書房新社)

→史上最年少で芥川賞を受賞した、天才美少女作家、綿矢りさちゃんの最新長編小説。
チャイドルとしてデビューした夕子が国民的アイドルになり転落するまでを描く。
300ページにもわたる長編なのだが、半分の150ページまではつらかった。
何度も読むのをやめようか迷ったものである。
が、中盤を過ぎたころからがぜんおもしろくなる。
理由は、実感がこめられているからである。
それまでの物語が作り物めいていたのとはがらりと変わり、
血と涙が文章から透けて見えるようになる。
綿矢りさちゃんの逆ギレした恫喝があたかも聞こえてくるかのようである。
それはおばさんのヒステリーに満ちた怒鳴り声ではない。
やっぱりかわいいんだよな。りさたんかわいいよりさたん、である。

あたしは好きで美少女に生まれてきたわけではないねん。
なんの野心もない田舎の少女だった。
小説を書くのが好きで、せっかく書いたんだからと応募した
あたしのしたのはそれだけ。なのに、なんでこうなるの?
天才だ美少女だと、アイドルのように騒がれる。
苦節何十年みたいな文学中年からはひどく憎まれる。
こない、けったいなことある?
あたしは好きな小説を書いただけどす。
顔がきれいなのは罪ですか? 芥川賞をもらったのは罪ですか?
みんなあたしのことをシンデレラのように言うけど、
なってみたらぜんぜん楽しくあらへんよ。

いやあ、一本取られたね。
というのは、小説は現実へのうらみつらみそねみから書くものでしょう。
ならば、若年にして地位、名誉、財産のすべてを手に入れた綿矢りさちゃんは、
もう書くことなんてないと思っていた。
ところが、この天才作家にとっては、ひとも羨む環境が小説を書く熱源になる。
よく考えたらそうかもしれない。
綿矢りさちゃんのような幸運は、いわば時代から選ばれたようなもので、
裏を返せば、年に一度カミナリに打たれて死傷する人間とどこか似ている。
なんであたしが? 文豪の綿矢りさちゃんは思う。
本作品のような傑作長編ができあがるわけである。
これはたいへんな啓蒙小説である。
美貌、勲章、高収入を得ても、なお人間は満足しない。
むしろ、それらが疎ましくなる。かえって、ふつうの女の子になりたい。
「夢を与える」には、選ばれた人間しか味わえない壮大な苦悩が描かれている。
ヒットラーの書いた小説のようなものである。おもしろくならないわけがない。
このへんでやめよう。凡愚のわたしが天才を論じられようはずがないからである。
以下に平成の文豪の文章をわずかながら抜粋する。
くだらない感想を書き連ねるよりよほど有益であろう。

たとえば国民的アイドルの夕子は母親から言われる。

「あなたは苦労せずにお仕事をもらって、
他の人とは比べものにならないくらい順調にここまで来た。
それを自分の力だとか思っちゃだめよ。
お仕事仲間への感謝を忘れずに」(P150)


このようなことを小説に書ける綿矢りさちゃんは、
かつての綿矢りさ=村上龍と比較してどれだけ謙虚なことか。
りさたんかわいいよりさたん。

夕子は母親と問答する。

「私の今やっていることが焼き畑農業なら、早くすべてを焼き尽くしてしまいたい」
「なに言ってるの、こんな早いうちから焼き尽くしてしまったら、
これからの長い人生のなかで、あなたはどんな仕事をしていくっていうの」
夕子は強がって焼き尽くしたい、焼き尽くしたいとつぶやいたが、
本当は母と同じ不安を抱えていた。使い捨てられるのは、こわい」(P157)


こわいのは使い捨てられることのみではない。

「家と学校とスタジオの行き来の毎日で、ほとんど触れ合う機会もないのに、
“一般人”に対する、
何をされるか分からないという恐怖が夕子のなかに芽生え始めていた」(P167)


というのも――。

「家に帰った夕子はパソコンを開き、自分の名前で検索して、あるHPを開いた。
そこには夕子への罵言雑言が尽きることなく書かれていた」(P173)


「夢を与える」を読むと、天才美少女作家も楽ではないことがよくわかる。

あんがいふつうなのも悪くないかも、

と美貌も才能も富も名誉もない大多数の読者に夢を与えてくれる、すばらしい小説である。
「図解雑学 社会心理学」(井上隆二・山下富美代/ナツメ社)

→どうして心理学というのは、ああも女子学生に人気があるのだろう。
経済学者がかならずしも株で大もうけをするわけではないのとおなじ道理で、
心理学者だからといってとりたててひとづきあいがうまいようにも思えない。
ここからは統計もなにもない文学部出身のわたしの見聞(妄想?)だが、
心理学を専攻したがる女子学生というのはむしろ対人能力が低いのではないか。
中傷に近いが、心理学はメンヘルがかった女子学生が専攻するという偏見がある。
どうして他人とうまくつきあえないんだろう?
みんなはうまくやっているのにどうしてあたしだけ?
そもそもあたしって、なんなんだろう?
こんな彷徨の果てに女子学生は心理学に救いを求めるような気がするがどうだろう。
あたしっておかしくない? あたしあたし不安定なあたしである。
で、心理学は徹頭徹尾、常識で固められている。
不安定なあたしが堅固な常識に癒されるという理屈である。
さらに、あたしが救われたから、みんなも救いたい、とおバカなことを考える。
みんなを救うことであたしも救われる、なんて妄想する心理学徒もいる。
カウンセラーがあこがれの職業になるゆえんである。
ほんとうに人間を救いたいのなら女性カウンセラーにむずかしい知識は必要ない。
カネを取らない売春婦になれば多くの男性を救うことになるのだが、
このような常識はどうやら心理学では教えてもらえないらしい。
女子学生は、尊敬されて感謝もされ、みずからも癒されるカウンセラーを夢想する。
ひとを救うことで金品をもらえる職業ほどすばらしいものはない。
若い女性に人気の心理学の実態である。

話をがらりとかえる。なぜ心理学の本など固め読みしたのか。
悩みがあるからである。
まあ、わたしもうぶな女子学生とおなじで癒されたいわけよん(笑)。
というか、問題はもっと切実で、かねてから悩んでいる騒音過敏症を克服したい。
どうにも音が気になってならないのである。
神経症のひとつだと自覚している。
騒音が聞こえるとむかむかしてなにも手がつかなくなるのである。
焼き芋屋、灯油の移動販売車、子どもの騒ぎ声、すべてが腹立たしい。
もとより、おのれの異常性は自覚しているのである。
むかしはこうでなかったのだから。なんとかしたいと真剣に悩んでいる。
決して雑学趣味で心理学をのぞいているわけではないのだ。
実益を、実効を求めている。
ひとつだけ、心理学的知見からヒントを与えられたので、ここに紹介する。
うちのブログは騒音恐怖症のかたが閲覧くださることが多々ある。
少しでも同病者の参考になればさいわいである。

心理学には「古典的条件づけ」という概念がある。条件反射のことだ。
たとえば、梅干を食べると自然に唾液が出る。
幼児などで試すと明白らしいが、梅干という言葉を聞くだけで唾液が出る。
これが「古典的条件づけ」である。
これから発展して、たとえばある懐メロを好きだとする。
当人は単純にその懐メロを自分が好んでいると思っている。
しかし、心理学的に見ると、こうかもしれない。
その懐メロが流行していた時代に、かれは幸福の絶頂期だった。
恋人とデートしているときにも頻繁に聴いていた。
したがって、かれがその懐メロを聴くのを好むのは音楽自体に理由はない。
実は、懐メロによって、当時の幸福感がよみがえり気分がよくなっているのだ。
まとめると、こうなる。
「梅干⇔梅干という言葉→唾液」
「幸福感⇔懐メロ→幸福」

これを騒音に適応するとどうなるか。
「喧嘩⇔騒音→不快感」
かつて騒音が原因で他人とあらそった記憶があるから、
騒音がこうも不愉快なのではないか。
ならば、騒音と快感を条件づけすれば、
騒音に困らされることがなくなるのではないかという試論である。
実験としては、騒音が聞こえてくるたびに好きな音楽を聴く。
騒音が聞こえてくるごとに甘いキャンディーをほおばる。すると――。
「甘味、快感⇔騒音→気にならない」
上記のようにならないかと予想したのである。
書きながら思ったのだが、
これはキャンディーを10個口にほおばるよりも甘い考えかもしれない。
わたしの騒音過敏症はそう甘いものではないのではないか。
しかし、なんとかしたいのである。
こんかいわらにもすがる思いで心理学へ分け入ったのはこのためである。
虫歯にならないよう注意しながら、上に書いた人体実験をやってみようと思う。
「図解雑学 心の病と精神医学」(景山任佐/ナツメ社)

→知っているひとも多いだろうけれども、ある事実をあらためて記す。
というのは、わたしも知っていたが、ことの重みを再認識したからである。
その事実とは――。
精神病が病気になったのはわずか(おおよそ)200年前のことである。
裏を返せば、それまでは精神病は病気として認識されていなかった。
西欧では、神から罰せられた罪人、あるいは魔女という扱いを受けていた。
これをピネルというフランス人が、かれらは罪人ではなく、
治療が与えられるべき病人と定義したのが精神医学の始まりである。
いまでも未開社会では精神病者が巫女のように重んじられる場合がある。

芝居に話をうつすとハムレットは精神分裂病、リアは老年性痴呆でしょう。
マクベスは精神障害者(魔女)にそそのかされて狂っていく。
オセローはパラノイア(熱情妄想病)の典型。
けれども、この当時は病気ではなかったから手のほどこしようがない。

話を精神医学に戻すとピネルから約100年後にフロイトが登場する。
フロイトが研究したのは(精神病ではなく)神経症のはずなのだが、
このへんを混同しているものが精神科医のなかにさえいるようだから、
しろうとのわたしもそれに乗じてあいまいなままにしておく。
で、フロイトから50年。精神病薬の飛躍的な進歩があった。
まとめると、こうなる。年数はわかりやすさを重視してあえて50年単位にした。
200年前:精神病の発見(=精神医学の誕生)
100年前:フロイトによる無意識の発見(=精神分析学の誕生)
50年前:薬理学の急速な進歩(=精神病がクスリで治る)
現代:「鬱はこころの風邪」(=精神科の敷居が低くなった)

余談だが、「もてない男」小谷野敦先生の卓見にフロイトはインチキ。
精神分析は20世紀最大のインチキ学問だという指摘がある。
これには目からうろこが落ちたものである。なるほどといたく納得した。
しかし、ここからの立場が小谷野先生とわたしで異なる。
フロイトもユングも、たしかにインチキである。小谷野先生は、だからダメだという。
わたしはインチキでもいいじゃんと開き直る。
学問的にはインチキでも、おもしろければいい。役に立てばいい。
フロイトの理論はなるほどインチキかもしれないが、かれは名医だった。
何人もの病める患者をインチキ理論で治したのは事実である。
ユングはあまり患者を治癒に導かなかったらしいが、かれの理論はおもしろい。
ユングの理論を、質のいいファンタジーと見てはどうかというのである。
どのみちつまらぬ人生なら、ユングに慰められるのもいいではないかと思うのだ。
もっともフロイトやユングをまつりあげることで、
高額の料金を不当に徴収する治療者にはまったく好感をもたない。

本題に戻り、根源的な問いに向き合おう。そもそも精神病とはなにか?
精神医学はピレネが、あるタイプの人間を精神病と命名することからスタートした。
本書では東京工業大学教授の景山任佐が以下のような定義をしている。

「精神病の本質は
『「主体(=患者本人)と現実との関係の深い変容」として表現される』」(P26)
「精神病患者は現実性が欠落し、自分が病人であるとの自覚に乏しい」(P27)


要は、現実を見誤っているのが精神病患者と言うのであろう。
しかし、いくら大学教授の論述であろうと、これは間違いである。
この精神病の定義は誤りだ。
というのも、衆目一致で承認される現実など、どこにもないからである。
人間はそれぞれの現実を生きている。
Aさんの現実とBさんの現実がおなじはずがない。
(山田太一ふうの表現をすれば、人間はそれぞれのフィクションを生きている)
では、ここで一介のブロガーが精神病の定義をしてみよう。

「精神病とは、精神科医が異常と見なした症状である」

言い換えれば、精神病は精神科医が作るものなのである。
精神医学の始まりからして、そうではないか。
ピレネという医者が、ある種の迷惑な人間を精神病とラベリングしたことから、
精神医学は創設されたのである。

最後に、この本によるとわたしはたいへんな病人らしい。
回避性人格障害、自己愛性人格障害、反社会性人格障害、強迫性人格障害――。
以上の4つすべてに当てはまる。
ところが、わたしはやはり病人ではない。
なぜなら判定をくだしたもの(=わたし)が精神科医ではないからである。
「図解雑学 心理学」(大村政男/ナツメ社)

→古本屋のワゴンから100円でひろいあげた本だが、
一箇所だけ折り目のついたページがある。
「知能のレベルを決めるのは遺伝? 環境?」というページである。
ふきだしそうになった。
きっと本書のまえの所有者は自分の低知能に悩んでいたのだろう。
「図解雑学」シリーズを買ったことからもよくわかる。
いちおうくだんの問いの本書における回答を紹介しておくと、
現代の最先端研究の結果として、知能は遺伝と環境の相互作用だと書いてある。
けれども、べつに心理学者の先生から教わらなくても、
高校中退カップルのできちゃった婚で誕生した児童が
東大へ入学できると思うひとはいないでしょう。
医者や弁護士の子女はかなりの高確率で有名学校へ入ることも我われは知っている。
小さいころからカネをかけられたガキは強いわけだよ。
こんなものは常識で、わざわざ心理学の先生に教えてもらうことではない。
このことは本書で開陳されているすべての心理学的知見にあてはまる。
心理学なんざ、言ってしまえば、当たり前の常識なんだ。
だれもが知っている常識を、ものものしく語るのが心理学者ではないか。
数学が苦手の文系のくせにデータがどうのとわけしり顔で学者ぶる。
この本を読みながら、似たようなもの知っているという思いがしていた。
思い当たったのは、女性誌である。心理学は女性誌だ。
女子供が、わーわーきゃーきゃー騒ぐのにはなはだ都合がよろしい。
退屈しのぎになるから心理学(女性誌)もそれなりに存在意義があるのだろう。
だが、決して真に受けてはいけない。
「図解雑学 刑法」(船山泰範/ナツメ社)

→友人にミステリー小説だけは読めないというひとがいるけれども、
たいがいの人間はミステリーが嫌いではないでしょう。
少なくとも国語の教科書に載っている文学作品などに比べたらよほど楽しい。
なぜミステリー、推理小説がひとを魅するかといえば、
非日常的な犯罪が描かれているからである。
わたしも読書のきっかけはミステリーだった。
意外に思われるかもしれないけれども
西村京太郎や内田康夫などを好んで読んでいた時期もあった。
では、ミステリーで描かれるところの犯罪とはいかなるものなのか。

犯罪とはなにかは刑法によって定められている。
なぜなら犯罪を裁くための法律が刑法だからである。
さて、刑法に従うならば、どのようなものが犯罪として認定されるのか。
まず犯罪は人間の行為でなければならない。
カミナリに打たれて死んだとしても、それは犯罪ではない。
自然現象は犯罪にはふくまれないということだ。
刑法で問題にされるのは、故意にしろ過失にしろ人間の行為のみである。
さあ、人間の行為によって損害が生じたとする。
これがすべて犯罪になるかといえば、残念ながらそうではない。
その行為が刑法の定める犯罪類型にあてはまらななければ犯罪ではないのだ。
ストーカーはむかしは犯罪ではなかった。
情熱的な片想いにしか過ぎなかった。
しかし、いまでは犯罪である。
なぜなら新しい刑法が加わったから、ということだ。
ところが、これでもまだ人間の行為を犯罪と決定することはできない。
さらに違法性の有無が判定される。
行為のなされた具体的事情が考慮されるわけである。
船が難破して大海にただようふたりの人間がいたとする。
運よく流木が波間に見える。
しかしこの流木にはひとりしかつかまることができない。
こういう場合、他人を押しのけても犯罪にはならない。
道徳上の罪には問われるだろうが、刑法では犯罪ではない。
これで犯罪が定めうるかといえば、まだ不充分である。
責任能力の有無が見極められなければならない。
行為者の判断能力や年齢が問題とされる。
精神障害者や児童が行為者だった場合、
善悪の判断ができなかったと見なされ行為の責任は問われない。
すなわち、犯罪にはならない。

以上の長い経緯を経て犯罪が認定されるわけである。
長々と書いたが、ひと言でまとめるなら「人間の行為」ということに尽きる。
1.犯罪は「人間の行為」である。
2.その「人間の行為」が刑法で犯罪となっているか。
3.具体的事情、社会的見地を考慮に入れてもやはり犯罪に該当するか。
4.行為をなした人間に責任能力はあるか。
ちなみに、(知らなくてもいいことだが)法律用語では、
2=「構成要件該当性」、3=「違法性」、4=「有責性」と呼ばれる。
「人間の行為」が234というふるいにかけられると思えばよろしい。

ようやく犯罪とはいかなるものか判明した。
犯罪とは、刑法で定められたよくないとされる人間の行為である。
ここで最初に戻ってなにゆえミステリーは万民に受けるのか。
人間の行為が続けざまに描かれているからである。
わかりづらいのなら、ミステリーの対極にある純文学を想像してください。
純文学などと呼ばれる小説は、なかなか人間が動かないでしょう。
ああでもない、こうでもないと考えるばかりでいっこうに行為をなさない。
だから、つまらないと大多数の読者は思ってしまうわけだ。
ミステリー、純文学――、飛躍をして戯曲を考えてみる。
戯曲というのは、人間の行為を描いたものでしょう。
舞台上の役者が沈思黙考していたらいつまで経っても芝居は始まらない。
その意味で、戯曲は純文学よりもミステリーと共通性がある。
考えてみれば、シェイクスピアの悲劇なんざ、すべてがミステリーである。
ただしオハムレットやオセローの行為は刑法で定められた犯罪ではない。
神前で問責されるべき罪だという違いはある。

「図解雑学 刑法」を読んで、こんなことを考えたのは、
やはりわたしの関心が社会にではなく文芸にあるからだと思う。
頭が悪くて、顔が悪くて、性格が悪いから、
せめて舌くらいは結構なものではないかと思っていたのだが、
このたび最後の幻想も崩れ去った。
思えばよわい15にして顔の悪さに気づき、20で頭の悪さを自覚し、
性格まで悪いと判明したのは25のときだった。
いま30を過ぎて舌の悪さを思い知ったというわけである。
現在、日清からカップヌードルの新商品が発売されている。ミルクシーフード味。
これには開発秘話があるようで、
なんでも担当者がある都市伝説を実行したことがきっかけとなった。
牛乳でシーフードヌードルを作るとめっぽううまい、というのがそれである。
ためしてみたら悪くないということで、今回の新商品発売にいたったらしい。
新商品を食べてみたら、ふつうにうまい(頭の悪そうな表現でしょ?)。
ならオリジナルの牛乳ぶっかけもいつかやろうと決めたのはこのときである。
しっかし、ラーメンに牛乳だぜ。
レトルトカレーの賞味期限1年切れくらい笑いながら食うあっしでも、
ちっと厳しいわけだ。
牛乳を鍋で沸かしながら最後の一線で迷ったわけである。
これをやったら、いくらなんでも人間としてやばくね?
けど、そういや人間終わってたや、ということで熱々の牛乳をどぼどぼ。
3分経過。あんれまあ、うまいざんす。
同時に、これを美味と感じるわが舌はよほど出来が悪いのだろうとあきれたさ。
もういいや。これで吹っ切れた。
今度はプリンに醤油ぶっかけたのをつまみにタバスコ入りの赤ワインでものむか。
「14日間お試しください」のCMで知られるヨーグルト「BIO」。
わたしも試してみました。ここに結果を報告します。
とにかくお腹の調子が悪いのです。このCMを見たとき飛びついたゆえんです。
ヨーグルト「BIO」は8つ300円のセールをしていたので16日分を購入しました(600円)。
16日終了後、まあ、予想通りですが、まったく効果はありませんでした。
わずかたりともお腹の調子は回復しなかったのです。
けれども、まったく怒りはありません。それどころか8つ追加購入したぐらい。
今日で23日連続「BIO」を食べたことになります。お腹の調子は相変わらず最悪です。
しかし、にもかかわらず、わたしは明日「BIO」を買い足そうか迷っています。

もとより、お腹が改善するなど期待していないのです。
「良くなるかも」という夢を買ったのだと思っています。
そもそもわたしのお腹がヨーグルトごときで良くなるはずがない。
西洋医学、東洋医学、あらゆる治療をほどこしたけれども、効果がなかったのですから。
「現代の医学では無理かもしれません」
お医者様から言われました。もうどうにもならないのです。
それなのに、なにゆえ、ちんけなヨーグルトを買ったのか。
夢がほしかったのです。もしかしたら治るかもしれないという。
効果のない「BIO」を詐欺だと訴える気はありません。むしろ、追加購入さえしている。
「BIO」には毛ほども恨みがない。

おかしいですかね? 人生もおなじではありませんか。
人間はだれもが生まれたときに「自分」という不治の病にかかっているのです。
この病気はなにをしようが治らないのです。
しかし、それでは希望がない。
だから、患者(人間)は、この難病を治すと称するインチキ薬品を好んで摂取します。
これをあなたは笑いますか。わたしはこの光景に涙ぐみます。
それどころか、たとえ詐欺の罪に問われようが、
なんとかして万民をだます上質のインチキ薬品を作りたいとわたしは夢見ています。
るんるんるん♪ チャリンコまたがり近場のブックオフへヨンダッシュ♪
人生、楽しいな♪ ほんとはなーんも楽しくないんだけど、ヨンダンス♪
楽しいふりだよ人生は♪ 
演技、演技、踊ろうヨンダンス♪ 好きな本を片手にヨンダンス♪
人生は圧倒的大多数の人間にとって退屈で無意味で無慈悲なものだけれども、
忘れようごまかそう笑おう踊ろうヨンダンス♪

(踊りをやめ)ガガーン!
ここもか! ううう、ブックオフにいったいなにが?
ここも単行本105円コーナーがなくなり200円になっている。
原宿、荻窪だけではなかったのである。こんな田舎のブックオフまで。
ぐずん。パンダキックだお! パンダパンチだお!
ブックオフのとりえなんて本が100円で買えることくらいしかないじゃないか!
それがいつしか105円になって、いまやとうとう200円に(号泣)。
くそう、くそったれ、みんなみんなボクボクボクを馬鹿にしてるのかよ。
といいつつ購入するのはヨンダだから(にっこり)。
ヨンダたるもの決してくじけてはならないのである。
内部告発のようだが、ヨンダは日雇い派遣などよりよほどつらい。
こちらの希望などまったく聞き入れられずに新潮社から派遣先を決められるのだから。
しかもその派遣先に(場合によっては無報酬で)半永久的に留まらなくてはならない。
しんぼうこそヨンダの務めダンヨ♪

「ビバ☆オヤジ酒場」(かなつ久美/ワニブックス) 200円
「プロカウンセラーの聞く技術」(東山紘久/創元社) 200円
「ひとり日和」(青山七恵/河出書房新社) 200円


ここにも綿矢りさちゃんの「夢を与える」が200円で売られていたことを最後にご報告。
このところ喘息(ぜんそく)がひどい。
深夜や早朝に喘息で目覚めることも少なくない。
かつてここまで悪化したことはなかった。
なんとかしてほしいとすがる思いで信濃町の大学病院へおもむく。
呼吸器科ではない。漢方外来である。
マキョウカンセキトウを出してもらう。これは以前にものんだことがある。
きっとわたしはいやな患者なんだろうなと思う。
患者にはふたつのタイプがある。「先生にお任せします」と「こうしてくれ」である。
要は医者を尊敬するかどうかの問題である。
わたしは医者をあまり尊敬していない。社会的機能に過ぎないと思っている。
お薬というのは国が許可した医者しか処方することができない。
だから、あたまを下げて薬品をいただくしかない。
大学病院の構内では、わたしよりはるかに年下の医学生が肩で風を切って歩いている。
将来、医者になる。社会的地位の高い医者。将来安泰。為すのは善行。お医者様だ。
殴りつけてやりたくなるね。
たまたま金持の家に生まれた。たまたま知能が高く生まれた。
したがって医学部に入った。だから医者になる。あるいは医者になった。
こういう人間が、ほかのものと比べてどれほど偉いのか疑問に思っている。
かれらは努力したからだと胸を張るのかもしれない。
だが、努力をできるのも生まれつきではないか。

もとより、少数派である。ゆえに相性のあう医者ともめったに出会えない。
この先生にはほんとうに感謝している。
裏ではどうだか知らないが、面前ではわたしを重んじてくださる。
医者の都合ではなく、患者の希望を優先してくださる。
どうしてほかのお医者様がああも患者を見くだすのかさっぱりわからない。
患者は医師がいなければ
なにをしでかすかわからないと思っているお医者様のなんと多いことか。
患者の健康を管理していると思っている医者の傲慢にはあきれるほかない。
死んだって葬式ひとつ来ない連中が何様のつもりか。
おっと、お医者様への日ごろの鬱積が暴発してしまったようである。
言いたいのは、とにかく、今日のお医者さんはすばらしいということだ。
この先生と出会えたことを喜ばしく思う。
繰り返すが、医師は聖職ではない。数ある職業のひとつに過ぎぬ。ならば、職に徹せよ。
金八先生など最低の教師ではないか。生徒と人間的にかかわる?
どだい、無理なことなのである。金八先生はボーナスからなにまで生徒に差し出しますか?
教員は生徒に学科を教えるのが職務。医師は患者に薬品を提供すればよろしい。
人間的な健康指導をする医師など最低ではないか。
医者と怒鳴りあい寸前になったことが何度もある。

わたしのようにお医者様をあまり信用しないと困ることもある。
お薬というのは医者を信頼するから効くという面がある。
プラセボ効果として知られているものだ。
これをのんだら治ると信じて服用したからこそ効能がある。
医薬品におけるそういった心理面は意外と大きく効能に関係するようだ。
「喘息よ治れ」と思いながら、さっそくマキョウカンセキトウを唾液でのみほす。

果たしてこの日はついていたのかどうか。
ある面ではとてもラッキーだったのである。
前日の天気予報では雨マークがついていたが、降雨はなく、晴れ間もときおりあった。
通院日は病院のある信濃町から高田馬場まで、
古書店を冷やかしながら歩くことにしている。
古本屋めぐりは雨がふっていたら台無しである。
天気予報を見て案じていたら、この日は大逆転。おのが運のよさに感激した。
しかしなのである。古本のヒキがさっぱりで……。
たしかに雨はふらなかったが、ほしい古本はゲットできなかった。
とすると、この日はついていたのかどうか。購入したのはわずか3冊である。
ブックオフで1冊、古書店で2冊――。

「中国周遊の本」(近畿日本ツーリスト)絶版 105円
「話を聞く技術!」(永江郎/新潮社) 450円
「オン・ザ・ボーダー」(沢木耕太郎/文藝春秋) 500円


沢木耕太郎のはノンフィクション集成の1冊。
「深夜特急」以外の短編紀行記が集められているようだ。
酒でものみながらぼんやり読もうと思う。
新橋古本まつりで、紙くずとたわむれていたときのことである。
電話音が聞こえてくる。
そのとき買おうか迷っていたのは井上靖関係の本であった。
もしやと思い、携帯を取りだすと、果たして電子音はわが電話機からであった。
「どこにいますか」
友人からである。新橋と答える。「いまからのみませんか」
それは良い考えだと思います、とまるで英文和訳のような棒読みで返答する。
かれはいま赤坂にいて、新橋までバスで来てくれるという。
「それではお待ちしています」
われながら、なんて無愛想なんだとあきれる。
しかし、しようがないのだ。突然の電話というものに慣れていない。
そもそもこの携帯は交友を目的として持参しているわけではない。
開かずの踏切というが、これは鳴らぬ携帯である。
開かない踏切というのがおとなの世界ではちっとも矛盾しないように、
鳴らない携帯電話というのもなかなか洒落ていると当人は思っている。
それが鳴ってしまったのだから当惑するのも道理である。
とりあえず手にしていた本を買うことにする。

「晩年の井上靖 『孔子』への道」(山川泰夫/求竜堂)絶版 525円
「井上靖対談集 歴史の旅」(創林社)絶版 420円


30分後に来ると言っていたな。
突然こういう電話が来るのはいつ以来だろう。
わたしはひととお会いするときは数日前からこころ構えをしておくタイプである。
ことに精神面の管理を重んじている。言うなればテンションを上げるのだ。
さあ、どんなことをやらかそうかなどと、
わたしのダメぶりを知らないひとにとっては甚だ不遜なことを企てるわけだ。
古本を追加購入。

「燭台」(井上靖/文春文庫)絶版 100円
「傾ける海」(井上靖/角川文庫)絶版 100円


新橋駅前SL広場でぶじ友人とめぐり合えたが、わたしは目をあわそうとはしない。
こころの準備がまったくできていないからである。
そして安酒場にしけこんだのであった。
ビールの入ったグラスを乾杯しのみほしたときはじめて恐るおそるかれの目を見る。
今日は負けないぞと思いながら言うのである。
「今日は、わたしがメニューを決めてもいいですかね」
というのも、この友人にはささいな不満があったのである。
いままで居酒屋でのむと決まってかれが料理を注文していた。
わたしが選択を拒否したからである。すなわち、「なんでもいいです」。
友人は5、6品、場合によってはいちどきに8品も料理を注文した。
つねづねこころよく思っていなかった。
料理はできたてのものを食べるのがいちばんうまいと思っている。
だが、かれのように一回でぜんぶ注文してしまったら、冷めるばかりではないか。
前回である。こう問うたら、かれは、料理は目で味わうものとのたまった。
テーブルにずらりと料理が並んでいるとなんか楽しいじゃない?
料理を舌で味わうのを否定するのである。
だから「待て」である。今回はおれが決めるから待て。お待ちくださいだ。

ビールを生ではなく瓶にしているのも都合がよかった。
かれは瓶ビールが嫌いらしい。なんでもお互いに注ぎあうのが面倒だとか。
いっぽうで、わたしは瓶ビールをひいきにしている。
コストで考えると、圧倒的に瓶ビールのほうがオトクなのである。
居酒屋では生ビールと瓶ビールが同程度の価格のところが多い。
けれども、分量で考えると生ビールはかなり泡でごまかされてしまう。
かたいや瓶ビールなら大瓶なら633mlと定量が決まっている。
生ビールのように水で薄められることも、発泡酒で代用されることもない。
生ビールはメーカーからおまけがつくが、瓶ビールではそういったメリットがない。
ぶっちゃけると、居酒屋は瓶ビールを頼まれると困るのである。
だから、わたしは瓶ビールが好きなのだ。
それに、味の面でも瓶のほうがたいがいは上である。
毎日ビールサーバーの洗浄をしている専門店なら別だが、
大多数の居酒屋の生ビールはまずい。
この日もビールをひと口のんで、うまいと感動したものである。
日本の瓶ビールをのむのは、思えば今年に入ってからはじめてだ。

この居酒屋の安さにいささかあきれる。
ビール大瓶がわずか390円である。酒屋で買うのとそうかわらないのではないか。
つまみも安価。はまち刺身240円。いかリングフライ200円。あしたば天ぷら220円。
200円台のおつまみが豊富なのである。ここは穴場である。
サラリーマンの町、新橋をあなどるなかれ。
えとえと、酒食の話はこのへんにして、友人とはなにを話したのだったか。

自慢か自虐かの話をしたように思う。
というのは、かれもブログをやっている。
「かっこつけすぎですよ」とわたしは言う。「自虐とか嫌いですか」
かれのブログは、まあ、かっこいいのだ。
わたしは自虐が好きである。自分のダメかげんを嬉々として書いている。
「いやね」と友人は言う。
「いやね、毎日、日常生活でペコペコしているせいか、
ついブログではかっこつけてしまう。せめてブログでは威勢のいいことを書きたい」
逆襲される。
「ヨンダさんの自虐記事、うーん、なんだかな。
SOSを発しているっていうか、なんか、助けを求めてるような感じがして」
負けじと言い返す。
「あれはですね、勘違いしたひとがメールをくれないか、なんて。
かわいい女の子が、勘違いしてメールをくれないかと思っているんです」
「へえ、そうなの」とかれに納得されてしまう。
(あ、いや、ほんとは、えとね、そういう打算で書いているわけでは……)
もしかしていまでも誤解していますか。あれはその場の乗りですからね~。

見ると、かれの様子がおかしい。
とにかくあわてているのだ。じっとしていることができない。
話すか食べるかのむか、なのである。
話していなかったら食べている。のんでいる。話がとまると箸が迷いはじめる。
ようやくにして友人の酒食スタイルを知る。
かれはまずはじめに大量に飲食しないと気が済まないのだ。
腹が満足したら、ちびちび酒をのみながら話を深める。これがかれのスタンスらしい。
しかし、わたしは正反対で、はじめのうちはつまみなしで酒をのむのを好む。
酒がまわってきたら、だんだんとつまみで口を喜ばすという作戦だ。
つまみも最初は軽いものでなければならない。しだいに重めのものに移行していく。
たとえるならば、寿司を先に食うか後に食うかの違いである。
友人は最初に寿司をほおばってから酒をのむのが好き。
わたしは酒をがんがん入れて、最後に寿司をつまむのを好む。
この日のわたしはなぜか強かった。
入る居酒屋を決めたのはわたし。
のむのはわたしの好きな瓶ビール。さらにつまみまでわたしが支配している。
ふふふ。いま考えてみれば何様かと恥じ入るばかりだが、
この日は友人に酒ののみかたについて講釈を垂れた。
酒は我が輩のようにのむべきであーる、えっへん♪
実に気持よく酔っぱらって帰途につく。

翌朝のことである。友人のブログを見たら、しっかり逆襲されていて、がくっ♪
そんなひどいことを言ったつもりはないけどな。悪意なんてなかったんだけどな。
ふんふんといじける。ぷんぷんと口をとがらす。

http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-544.html
「もてない男」(小谷野敦/ちくま新書)*再読

→はじめて読んだときはくだらないと思ったものだけど、
いまさらながら再読して、バカ受けした。名著である。売れただけのことはある。
これを読んだころ、ちょうどある事件の直後で、死ぬことばかり考えていた。
自慢することでもなんでもないのだが、本気で死を思うと恋愛なんてどうでもよくなるぞ。
衣食足りて礼節を知るという言葉があるが、これを真似ていうならば、
寿命足りて恋愛を知る、なのである。
このベストセラーを読みながら思ったものである。
これを書いたやつは70とか80まで生きることをぜんぜん疑ってないな。
だから、恋愛弱者がどうのと泣き言をいってるんだ。うぜえったらない!
ああん? なんだったらおまえの両親、金属バットで叩き殺してやろうか。
その時点で、おまえさんも恋愛なんてどうでもよくなるからハッピーだろ?
カモン小谷野、おいコラええ♪
というのが当時の感想だったのである。いま読み直すと笑いがとまらない。
文章がはっちゃけていて、すんばらしい。感情が入りすぎているのが魅力である。
学者の文章は感情が混入されていないからつまらないのである。わからないのだ。
その面では、小谷野は学者ではない。
これだけ感情の入った文章を書けるライターを学者にしておくのはもったいない。
小谷野敦の名文を抜粋する。読者諸兄よ、よくよく味わわれたし。

「さらに私が不快なのは(もうかなりやけくそになっているが)
『男フェミニスト』どもである。というのは、私の妄想かもしれないが、
『男フェミニスト』には、いい男、もてそうな男が多いような気がするからである。
やけくそだから実名を挙げるが(後略)」(P111)


笑いどころが何重にも仕組まれている。
妄想かもしれないと断わっているのが笑える。
気がするから、というのも、著者の認めていない河合隼雄のようでおかしい。
ここで小谷野は正しい事実を指摘しようという精神を打ち捨てている。
すべてがもてないがゆえの怨念に支配されているのだ。
危ういところで自覚を残しているのも、いっちゃっていないぶん悲惨である。
笑い疲れて我に返ると、時の重みを痛感せざるをえない。
わたしも「もてない男」を読んで笑えるくらい死から離れてしまったということなのだから。
一途に死を願っていたころは、「もてる/もてない」なんてクソ食らえだったものだが。
喜んでいいのかわからない。ちょっと切ないような思いもある。
「ぐれる!」(中島義道/新潮新書)

→読みながら笑いがとまらなかった。
満員電車のなかで読み始めたので非常に迷惑した。
ふだんは病院で薬ができたら席を立つのだが、
続きを読みたいがためにずっとロビーの椅子に腰かけていた。
疑いもなく、今年読んだなかでいちばん笑えた本である。
しかし、決してみなさまにおすすめはしない。
ことに高校生、大学生はぜったいに読んではならない有害図書。
わたしのように人生が9割9分終わってしまった人間を笑わせようとする書物である。
わかりやすく説明すると、日本人の好きな努力。
よく「がんばれば報われる」とかいうでしょう。
まあ、これは報われてないものをがんばっていないと断罪する非情な文言なのだが。
しかし、「がんばれば報われる」。これは冷静に考えるとウソでしょう。
だって、人間は持って生まれたものがそれぞれ違うんだから。
だけど、高校生、大学生、社会人の初期は、
「がんばれば報われる」というウソを信じていたほうがいいじゃない。
どうせそのうちこれがウソだとうっすら気づくのだから、せめて若いうちくらいは。
けれども、中島義道の書籍はそういうウソを完膚なきまでに攻撃する。
具体例を示そう。本書で大笑いした箇所を引用する。
病院のロビーで大笑いして周りからキチガイかと思われたのだった。

「あなたは駄目人間なんです。それはもう一生変わらないんです。
突如、明日からもてはじめることもないでしょうし、
明日から頭がクルクル動くようにもならないでしょう。
あなたは永遠にもてないまま、無能なまま、そしてそのまま死んでいくことでしょう。
それはたまらないだって。まだ、そんなことを言っているんですか?
ですから、それをいさぎよく認めて、あきらめきって生きるしかないのです。
背丈が一六〇センチメートルの男は、
どんなにあがいても一八〇センチメートルの男にはなれないんです。
下品な家庭に育ったあなたは、
育ちのよい上品さを身につけることはできないんです。
頭の悪い遺伝子をふんだんに受け継いだあなたは、
金輪際頭がよくなることはないのです。
しかも、このすべてにあなたの責任はない。
あなたが選んだことなんか、このうちただの一つもない。
ああ、そう考えると、すべてはなんとなんと理不尽なことでしょう。
そして、なんと心がすっきりすることでしょう。
あなたが放り込まれているのがこういう状況であることを腹の底まで確認したら、
じわじわ生き方を変えてゆきましょう。
そう、ぐれることに向かってまっしぐらに進みましょう。
世で言われているきれいごとはきっぱり撥(は)ねのけて、
自分の無能力を、自分の魅力のなさを、自分の育ちの悪さを、
最大の武器にして生きることにしましょう。
貧乏人の倅であること、醜男であること、偏差値四〇の大学を出ていること……
を常に忘れず、自分は常にしいたげられた者であるという自覚をもって、
常に不満を胸に抱いて愚痴ばかり言って暮らしましょう。
そうすると、ますますあなたは魅力がなくなります。
ますますみんなから嫌われます。でも、しかたないことです。
あなたがじぶんをだまさないで生きるためには。
せめて自分に対して、ほんとうのことを隠さないためには。
つまり、あなたは不幸になるのです。それを恐れてはなりません。
こうした不幸に一日も早く慣れることが大切です」(P98)


プロレスの話をしてもいいかな。
現在、プロレス業界は完全に終わってしまっている。カネにならない。客が来ない。
なぜかというと2001年にミスター高橋というレフリーが暴露本を出したから。
すべてのプロレスの試合が最初から勝敗が決まっているとばらしてしまったのだ。
それどころか、試合展開さえも、事前に対戦者同士が打ち合わせをしている。
プロレスでよくある流血はレフリーがカミソリでひたいをカットしている。
プロレスなどいんちきな見世物だと内部告発してしまったのである。
この暴露本はベストセラーになった。結果、客足が遠のいた。
それまでプロレスに八百長疑惑がなかったわけではないが、
どれもすんでのところで食い止めていた。
そうはいっても半分くらいはガチンコ(リアルファイト)が
あるのではないかという幻想をファンは持っていた。
それをすべて打ち毀してしまったのがミスター高橋の暴露である。
さすがに業界内部の人間が告白するものをウソだと否定することはできない。
かくしてプロレスはつまらないものとなった。
あんなものは勝敗が決まっているとわかったら、大のおとなの裸踊りに過ぎぬ。
ミスター高橋は言うのだろう。おれは真実を述べたまでだ。
印税は結果としてついてきたもの。なにが悪いもんか。
プロレスファンのみなさん、目を覚ましてください、である。
たしかにプロレスのような低所得者向け娯楽はやむをえないのだろう。
しかし、プロレスならぬ人生でおなじことをやってはいけませんよ、中島義道先生!
人生もプロレスとおなじで勝敗が決まっているというのは、悲しいが真実である。
けれども、それを嬉々として暴露する中島義道の悪趣味は(笑えるが)いただけない。
そんなことを暴露するのは幼稚ではないか。
人間、早熟なものは十代のうちに、中島の言う真実など気がつくのである。
だが、それを言ったらおしまいである。だから、みんなだまされたふりをしてがんばる。
どうせつまらない人生。そうでもして楽しまなかったら救いがないではないか。
そう考えると地位も収入も安定した中島義道は預言者気取りでいい気なもんだ。
中島の主張など知らないものはいないのである。
だが、人間は真実を知りながらも、ウソにすがりつく。
こういう人間をバカにする中島義道という人間はよほど恵まれた生まれつきなのだろう。
わたしは人生は(八百長の)プロレスではないと信じて死んでゆくつもりである。
「花と波濤」(井上靖/講談社文庫)絶版

→昭和28年「婦人生活」に連載されたもの。
昭和28年といえば井上靖と愛人の白神喜美子の関係が悪化してきたころである。
いままで井上靖の小説を読んでも正体がつかめぬような得体の知れなさがあったが、
元愛人の暴露本「花過ぎ」を読んだからか、この小説の骨組みがはっきり見える。
すべての小説家がそうだとは断言できないが、
少なくとも井上靖は顔の見える少数の近辺者のために小説を書いていたのではないか。
この小説からも愛人の白神喜美子へのメッセージと見受けられるところが散見する。

恋人の画家に苦情をいう女――。

「純粋でない人は嫌い! お仕事も、愛情も純粋であってほしいのです。
有名にならなくても、食べられなくてもいいじゃあありませんか」(P133)


これは井上靖が小説執筆時に愛人から言われていたことである(笑)。
多作をする井上靖を白神喜美子はこころよく思っていなかった。
見たこと聞いたことすべてを書かなければ井上靖のような多作はできないのである。

この小説のヒロインの独白――。

「人間と人間の結びつきというものの、
持っている哀しさのために、自分は泣いたのだ」
そう、ゆっくり一語一語、口から出して言った。
自分も真崎も朱美も義之も、哀しいといえばみんな哀しいと思った。
人間というものが、みんな哀しいと思った。みんな悪い人間ではない。
一生懸命生きようとしている。
それでいてその組合せが、なかなかうまく行かないのだ」(P221)


これなどは明白な伝言である。妻子ある井上靖が愛人に小説で弁明しているわけだ。
僕たちの関係はどうしようもないね、と愛人を慰めているのである。
井上靖は決して空想で小説を書いた作家などではない。
かれの小説にはどれも元手がかかっているのである。
傷つけあい流れた血で文字を書いているといったらいささか大げさかもしれないが。
井上靖の小説は無数の読者に向けられたものではなかったのではないか。
特定のだれかに宛てて書かれたものであったと考えると、
そのとき井上靖の膨大な作品群は動揺を見せるのだろうか。
「花過ぎ 井上靖覚え書」(白神喜美子/紅書房)絶版

→井上靖の元愛人による暴露本。井上靖の死後2年を経て上梓された。
職業作家の手によるものではないから、稚拙な表現も少なくなく、
事実関係が読みとりにくいところもあるが、それでもこの本はすばらしいと思う。
書かなければならなかったという著者の熱意に読後、なみだを禁じえなかった。
自分を捨てた井上靖への憎悪からのみ書かれているわけではない。
いまだに井上靖に愛情を持っていることは随所からうかがえる。
しかし、現実はままならぬ。どうにもならなかった。
井上靖への著者の執着、怨念には真実のものがある。
井上靖という人間を知りたいならば、大学の先生が書いた論考の100に目を通すより、
この1冊を読んだほうがよほどためになる。
井上靖で卒業論文を書こうと思っている大学生は、
かならずこの「花過ぎ」を読まなくてはならない。
むろん、学術論文に使える箇所があるかといったら、おそらくないのだろう。
けれども、あなたは卒業論文を仕上げたいだけなのか。
井上靖という人間の持っているものを見たくはありませんか。
学問研究なんかで文豪が理解できるはずがないんだ。
たしかに学問研究という見地からいえば、これはあくまでも元愛人の一方的な告発で、
それも愛憎がもつれているから、事実かどうかを逐一調査しないとならないのだろう。
しかし、いまとなってはもう調べようがないことばかりである。
したがって無視するというのが学問なら、そんなものは犬に食わせろだ。
わたしは本書に井上靖のある面での真実が描かれていることを疑わない。
なぜなら事実よりも真実を重んじるのが文学ではなかったか。

おまえもか、井上靖よ、である。
本書の著者、白神喜美子は16年にわたって井上靖の愛人であった。
昭和20年から36年までのあいだである。
井上靖は38歳のとき白神喜美子を愛人として、54歳のときに手切れ金を払い捨てた。
38歳の井上靖はいまだなにものでもなかった。無名の新聞記者に過ぎなかった。
妻がいた。子どもも3人いた。戦後の混乱期だった。
井上靖は文学への情熱をたぎらしていた。
無名の詩人でもあった井上靖が11年ぶりに小説「闘牛」を執筆するのは、
この5歳年下の愛人を作ってから1年後のことである。愛人は雑誌記者で独身だった。
どういうことか。井上靖は小説を書くために文芸の女神、ミューズを必要としたのである。
妻子の顔を見ていても小説は生まれなかった。井上靖は創造の女神を欲した。
ふたりの関係はこういうものだったという。
井上靖が書こうと思っている小説の筋を白神喜美子に夢中で話す。
愛人は聞くだけだった。
人間はいろいろな動機で小説を書くものだが、
井上靖は愛する女性に読ませるために小説を書いたのである。
小説をふくむ文芸の原初のかたちは話すことではなかったか。
こんなおもしろいことがあったと話す。話すためには聞き手がいなければならない。
ただ聞けばいいというのではない。聞き手の耳がよければそれだけ話はうまくなる。
熱心に聞いてくれるものの存在が語り手を饒舌にするのである。
井上靖と白神喜美子。ふたりはこういう関係であった。
(余談だが、村上春樹も書いた小説をまず奥さんに読ませることで知られている)
井上靖は著者にこう言ったという。愛人の存在が妻のふみにばれた数日後である。

「僕はね、一生家族を偽っても君を連れていく覚悟をした。
家庭は毀(こわ)せないが、君は必要だ。僕に仕事をさせてくれる。
この愛情を育てていったなら、見事な華が咲くと思う」
ここで言葉をきり、しばらく考えてから、
「そりゃあね。世間から見れば、君は僕のために犠牲になったと見られる。
しかし、果して犠牲か、どうか、人間死ぬときでないと解らない」
こう言って、(井上靖は)まともに視線を私に向けた。
東京転勤を実現し、必ず一家揃って住む、私とは別れたと、
ふみさんを納得させ、家族を伊豆の湯ヶ島へ発たせたのは、
昭和二十二年の夏であった」(P38)


井上靖が「闘牛」の初稿を書き上げたのは昭和22年の3月。
紆余曲折を経てこの小説が雑誌「文学界」に発表されるのは執筆から2年後。
翌年の昭和25年、42歳の井上靖は「闘牛」で第22回芥川賞を受賞する。
このとき井上靖は作家として生きていくことを決めるのである。
うがった見かたをしてみよう。
38歳の井上靖は新聞記者であった。夫であった。父であった。しかし作家ではなかった。
井上靖を唯一作家として、文士として、
一目も二目も置いてくれたのが白神喜美子ではなかったか。
ただひとり井上靖を小説家として応援してくれたのがこの愛人ではなかったか。

井上靖の小説はぜんぶモデルがあるという。
身の回りの人間が話してくれたことを聞き、
おもしろそうなのをふくらませて小説に仕立てあげていたということである。
自己申告だが、なかでも白神喜美子が話したものを小説にすることが多かったという。
評論家筋から評価の高い「三ノ宮炎上」のモデルも白神喜美子の職場の同僚だった。
井上靖がどうしてこうも多作できるのかわからなかったが、
すべては耳から書いていたようである。耳で聞いた話を小説にした。
そのときかならずといっていいほど愛人に筋を話しながら小説の構成を決めていた。
井上靖は耳で聞いた話をまず脳で濾過(ろか)する。
残ったものを(たとえば愛人へ向けて)口から吐き出しながら小説としてまとめる。
これが井上靖の小説作法だったようである。
まさか文芸誌の対談で、小説作法を問われて、愛人とのおしゃべりとは答えられまい。
作家が小説を生み出す過程には、とんでもない秘密があるものだと感心する。
白神喜美子はこんな裏話を書いている。

「(著者が)彼(=井上靖)に最後に言った苦言は、
昭和二十八年十二月「文藝春秋」に「湖上の兎」を書いたときである。
この作は私の友人から、その知人のことを聞き、彼に話したことを書いたのである。
が、あまりにも、話したままに書かれていたので、
友人は知人の会社の人達から批難されたと聞き、私は友人に詫びた。
このことを彼に告げると、
「お茶でもご馳走しとけ」
であった。せめて一言、「すまなかった」と言ってほしかった。私も思わず、
「貴方のよいところは無名時代に出てしまって、
いま残っているのは才能と滓だけよ」
と言ってしまった。かつてない批難に、彼も嫌な表情で、
「その見かたは面白いね」
と言ったが、内心の不快感は全身に出ていた。
茨木、島津山の頃は苦言も素直に受け、ケンカも尾をひかなかった。
それができなくなったのは、互いの間に暗い影がさしつつあったのだろう」(P131)


昭和28年といえば井上靖はすでに流行作家である。
かれを小説家としてもてはやすのは、いまや白神喜美子ひとりではない。
ふたりの関係が疎遠になるのは必然だったのかもしれない。
昭和31年、白神喜美子は井上靖との距離感をことさら感じるようになる。
このころ井上靖の仕事が(現代小説ではなく)歴史小説に偏るのは果たして偶然なのか。
著者が井上靖と最後に会ったのは昭和36年。
手切れ金の200万円は当時、どのくらいの金銭価値を持っていたのだろう。

「彼(=井上靖)は別れに際し、
「十年たったら必ず君のことを書く。そうしたら、
こんなにまで自分を思ってくれていたのだろうかと分かってくれるだろう」
と言った。その日、彼の眼に涙を見た。
が、亡くなるまで私たちのことは記さずに終った」(P161)


だから、本書「花過ぎ 井上靖覚え書」を書いたと白神喜美子は言うのだろう。
井上靖といえば日本の文学者のなかでも頂点に登りつめたもののひとりである。
著者は自分に秘密で井上靖が軽井沢に別荘を建てたことを本書で嘆いていたが、
収入だけではない。ノーベル賞こそ逃したが、およそあらゆる文学賞を受賞している。
昭和51年文化勲章受賞。昭和63年には歌会始に招待されている。
ひとりの人間が成功するには犠牲になるものがいなければならない。
この言ってみれば当たり前の事実に人生の非情な重みを感じる。
わたしは愛人を捨てた井上靖を批難するつもりはない。悪いとも思わない。
井上靖は芸術家であったということである。
なによりも自分の書く文学作品が重要だったということだ。
創作よりも重視するものは井上靖にはなかった。
創作に使えるものがあれば、なんだって利用したということである。
やわな人間なら恨まれるのを恐れて為しえないことを井上靖が行なったのは、
この作家の心中に文学という神がいたからである。
女を捨てた、他人を決定的に傷つけた、という悔恨ですら文学者は創作に用いてしまう。
人間・井上靖なら裁けよう。だが、文学者・井上靖を断罪することはだれにもできぬ。
本書であきらかにされた「書かれなかった物語」こそ、
新聞記者・井上靖を日本を代表する文豪たらしめた秘密であったように思う。

以上で本論を終わる。これから書くのはこの本で知った井上靖のエピソード。
絶版だから本屋に行けば買えるというものではない。
このように紹介するのも多少の意味はあると思っている。

井上靖の下半身。
白神喜美子とつきあうまえ、井上靖は年上のT夫人と愛人関係にあったらしい。
T夫人は、エキセントリックな感性と才気を持った、恵まれた環境の人妻。
このT夫人から贈られた短歌を井上靖は小説「猟銃」で使用したということである。
それから白神喜美子と交際中にもかかわらず、
知り合いの女学生Aを仕事部屋に連れ込んだことがあった。
Aは胸を病んでおり、井上靖とのただ一度の逢瀬を華に、薄命で散ったそうだ。
最後に井上靖の言葉を本書からいくつか引用する。

「その言葉を言った前後のことは思い出せないが、
(井上靖は)きびしい表情で一点を見つめ、突然、
「金だ」
と言ったのが、焼きつけられたように、いまも私の脳裡から消えないでいる」(P135)

「(井上靖は)芥川賞をとり、作家への念願を果したとき、
「小説家になるには、才能と努力と運だ」と言った」(P74)

(井上靖は妻のことで白神喜美子との関係が気まずくなったときこう言ったという)
「言っておくがね。僕には家庭があるのだから、
僕を独占しようと思ってはいけないよ。
その代り、僕は文学に命をかけている。それを君にやる。
僕の書く小説が君と僕の子供なのだ。
女って、座を取ることにばかり嫉妬して、なぜ心に嫉妬しないのだろう。
いくら一緒に暮らしていても、心がそこになかったら、つまらないじゃあないか」(P41)
「話を聞く技術!」(永江郎/新潮社)

→話すのが苦手なのである。だから、ひとの話を聞くしか道が残っていない。
なのに、聞くのも不得手なのだから。やむなくこのような実用書を入手したしだい。
実用書のはずが、残念ながらわたしには役立つところがほとんどなかった。
どういうことか。
わからないことがあったが、その回答および解決策が書かれていなかったということだ。
本書の内容はのほとんど有名人の自慢話なのでがっがりした。
わたしがわからないのはこういうことである。
話を聞く場合、話す側の都合と聞く側の都合、果たしてどちらが優先されるのか。
一部の例外をのぞいて、大多数の人間は話すことに快楽を感じるようである。
ならば、聞く側はじっとこらえて聞かなければならないのか。
話す側の都合を優先するならば、そういうことになる。
いっぽうで聞く側の都合を優先させていいならば、話す側の気分を害することも起こりうる。
相手が話したくないことを聞きたいと思ってしまう場合である。
自慢話や世間話はおもしろいものではない。
しかし、だからといって話し手のプライバシーを侵害してもいいのか。
もうひとつ。話し手が意図的にプライバシーを公開する場合がある。
聞き手は話し手とそこまで深く関与したくないとする。
このとき、それでも聞くべきなのかという問題である。
本書の回答者は、河合隼雄をのぞいて、聞く側の論理でしか語っていない。
いずれも取材のありかたを説いているに過ぎない。
要は自分のメリットしか考えていない利己主義者ばかりなのである。
どうやったら話し手から有益な情報が得られるか。これしか考えていない。
ビジネスだったらそれでいいのかもしれないが、人間関係はそれだけではないでしょう。
「話を聞く技術!」と名づけるならそちらにも対応してほしかった。
これでは「情報取得技術!」ではありませんか。

最後に、唯一話す側にも目を向けている河合隼雄のインタビューから抜粋する。

――心理療法で、クライアント(患者)の話を聞くことにはどんな意味がありますか。
河合「聞くことに始まって聞くことに終わる、と言ってもいいでしょうね。
相撲で言うでしょう? 「押さば押せ、引かば押せ」って。
それを真似してカウンセラーは、
「クライアントが話したら聞け、黙っていても聞け」って。
聞かないとだめですね。
――クライアントのすべてが話にあらわれる、ということですか。
河合「そういうことです。聞いていることによって出てくるんですよ。
帰りぎわに「こんなことを話すとは思いませんでした」と言う人が多い。
――話すことの重要性に気づかれたのはいつごろですか。
河合「早くからですね。いちばん初め、まだそういうことが分かっていないときは、
すぐ忠告したり助言したりしたわけです。
でもそんなことにはぜんぜん意味がない」
――意味ありませんか。
河合「ええ。言っても聞かないから。
そもそも忠告や助言で変わるような方は来られない。
誰かが忠告したり助言したりして、
それでも変わらない方が来られるわけですからね」
――(笑)。でも、新橋あたりで飲んでいるサラリーマンを見ると、
たいてい上司や先輩が若い者に忠告したり助言していますね。
河合「やっているでしょう? あれは上司の精神衛生に非常にいいんです。
――えっ。上司の精神衛生にですか。
河合「そう。聞いている方にはほとんど意味がありません。
あれは忠告を受けている方が上司の心を癒しているんです。
だから飲み代は上司や先輩が払うでしょう。カウンセリング料です、あれは」(P135)


このまえ生まれて初めて新橋でのんだけれども、周りの話がいかにもでおもしろかったな。
盗み聞きしながら、味わい深いものがあった。
「女はね男のレベルに応じて寄ってくるんだけど、おれのレベルは~~」
と大声で騒いでいるおっちゃんがいちばん印象的だった。
「いよっ、あんたが大将!」とこころのなかで呼びかけたものである。
「読書家の新技術」(呉智英/朝日文庫)絶版

→小谷野敦が影響を受けた本だというから読んでみたのだけれども、
ひと言でいえば、つかえねえゴミ本。
読書論の根本にある疑問というものがある。「なんのために本を読むか」だ。
むかしの読書論では、教養をつけるため、幸福になるため、よりよき成人になるため。
こんな回答がなされたものである。
では、呉智英の読書論はこの問いにどう答えるか。
「知的武装して知の戦士、知のゲリラになるため」だそうである(87ページ)。
ゲリラとかバッカじゃねえの。知的武装ってなんですか。
大戦隊ゴーグルファイブからぜんぜん成長していないじゃないの(笑)。
変身して、知的ゲリラへ! 平和を守るために悪と闘おう!
後楽園遊園地で呉智英と握手でもすんのかい? まったく幼稚極まりない。
こういう乗りが好きな男の子が呉先生に続け、とかアホなことを考えるのだろう。
いまひまさえあれば2ちゃんねるの政治系の板で罵倒しあっている連中というのが、
呉智英の読者層になるのかと思われる。
おれは知のゲリラだ。悪をくじく知の戦士。ううう、おれってかっちょええ♪
こんな自己陶酔をしているのかと思うと気持が悪くて身震いする。

新聞書評を参考にして探書を増やすとか、宝探しのつもりなんでしょうかね。
知の戦士は洞窟で宝箱を発見した。「開ける/開けない」。
ピヨーン♪ 知の戦士はまぼろしの書物を手に入れた。戦士の賢さが5上がった。
とかなんとか(笑)。がんばってゲームでもクリアするつもりなのだろうか。
書評なんか読まなくていいと思うけどな。
わたしは、書物は人間とおなじで縁だと思っている。
縁があれば読む。縁がなかったら読まない。
このくらい気楽に構えているのが健全だと思う。
それから呉智英がすすめているのは読書カードか。
わたしは似たようなことをブログで4年もやっているけど、なーんも向上していませんが?
読書カードなんてよほどの物好きしかやらなくていいと思うがね。

巻末に例によってブックガイドが掲載されている。
ひとに本をすすめる人間というのは、なんだかな。
おなじ人間なんてひとりもいないんだから、
自分に役立った本が他人にも効能があると考えるのは間違いではないかな。
こういうブックガイドを作るのが読書の目的だったのではないかと疑いたくなる。
おれ、こーんなに、本を読んでるぜ、見て見て、すげえだろ、みたいな。
おまえはビールの空き缶でも集めてろって。
要するに呉智英は自分の子分を作りたいわけでしょう。
このブックガイドにある書物を読んだら、今日からきみもミニミニ呉先生だぁ!
ブックガイドは必要ないと思うけどな。
本は他人から読まされるものではないでしょう。
大切な自分の時間とおカネを使うのだから、読みたい本を読めばいいんじゃない?
読みたい本がないのなら、別に本なんて読まなくても。
ほかに楽しいことを見つけたらいいと思うのだが。
間違ってるかな、知のゲリラ諸君よ?
「書いて稼ぐ」(「鳩よ!」編集部)

→よくよく考えると、いい文章を書きたいというのはウソではないが、
それ以上でもそれ以下でもなく、つまりおなじくらいおカネになる文章を書きたいのである。
いい文章がおカネになる文章とおなじなのかは、
業界人と縁がないのでさっぱりわからないけれども。
とすれば精神的な文章読本よりも、
このような実用的なハウツー本を読むべきなのかもしれないと思ったのだ。
本書には50人もの文筆業者によるアドバイスが掲載されている。
驚いたのは、もちろんそれはわたしが特別無知なためだろうが、
そのうちの8割を知らなかったのである。
こんなにたくさん書いて稼いでいる人間がいるとは。
ああ、文筆業者! なんといい響きなんだろう。うっとりしてしまう。
この本を読んでいちばんの感動はこれだけ多くの文筆業者がいることを知ったことだ。
もしかしたらわたしのような無学無知無能無才のやからも仲間入りできるのか。
これだけいるのならひとりくらいもぐりこんでもばれないのではないか、なんて。
そんな甘い期待を文筆業の先生は打ち破る。
おそらくみながみな、ひとから憧れられる職業だという自意識があるのだろう。
上から目線でビッシビシ先輩風をふかせる。
ここで、なんでえ! などと歯向かったら魑魅魍魎の業界では生きていけないのだろう。
わたしは文章を高める努力よりも、
まずお辞儀の練習をしなければならないと本書を読んで思った。あとお世辞もね。
「私の文章作法」(安岡章太郎編/文春文庫)絶版

→最初から引用をする。小島信夫先生。「抱擁家族」の作家ね。

「ひと言にいって、私は文章というものを非常に簡単に考えている。
つまり、言いたいことが、十分にいえているかどうかということだ。
というより、いいたいことがあるかどうか、ということだ。
いいたいことが大したことでなければ、十分にいわれたとしても、
つまらないのだから、けっきょくいいたいことがほんとうにあり、
そのいいたいことが、いうに価することであるかどうかということが問題となってくる。
それならば、いうに価することとは何であるか。
本人がそう思っても、ただそれだけのことで、ハタから見てなんでもないこともある、
といっていうに価することかどうかは、いわれた文章を見てみなければ分らない。
私は以上述べたようなことが、文章の評価の根本だと考える」(P47)


いやらしいことをやってみよう。みなさんに質問します。
さあ、この先生の文章は名文ですか。それとも悪文か。
作家先生の筆なる文章「だから」名文というのはおかしい。そういう判断はダメだ。
考えてください。考えれば考えるほど文章というものがわからなくなるでしょう。
わたしは育ちが悪いから、もっと意地悪なことをやる。
小島信夫の文章を、この先生の基準で裁いたらどうなるか、である。
チェックポイント1。
「この文章は言いたいことが、十分にいえているかどうか」
ペケである。なにを言っているのか何度読んでもわからない。
チェックポイント2。
「この文章はいいたいことがあるかどうか」
わたしは「ない」と思うがね。
「ある」と思われるかたはこの文章で小島信夫がなにを言いたいのか教えてください。
チェックポイント3。かりにこの文章に言いたいことがあったとして――。
「そのいいたいことはいうに価することか」
わたしはチェックポイント2でバツをつけているのでこの質問には答えられない。

あたまのいいひとはさらに先を考えたでしょう。あなたは鋭い!
ならば、わたしのいま書いている文章は小島信夫の基準に照らすとどうなるか。
1「この文章は言いたいことが、十分にいえているかどうか」
さあ、判断するのはみなさまです。
2「この文章はいいたいことがあるかどうか」
小島信夫って、一見するとあたまの良さそうな文章を書くけど、実はバカじゃん?
3「そのいいたいことはいうに価することか」
この作家の「抱擁家族」ほどつまらない小説はなかった。
小島信夫ごときが文豪のような顔をしているのはおかしいと思う。
これは既成の価値判断に異を唱える行為だから、
微細ではあるにしろそれなりの価値はあると(わたしは)思う。

うふふ、文章はおもしろいと思いませんか?
「文章読本」(吉行淳之介選/福武文庫)絶版

→吉行淳之介の手なる文章読本アンソロジーである。
参考書形式で要点だけメモする。作家志望のみなさん、どうぞお召し上がりください。

谷崎潤一郎いわく、文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない。
だから、文法に囚われるな。
(けれども、谷崎先生を尊敬した中上健次みたいな悪文になってもねえ)
さらに谷崎潤一郎はつづける。文章は料理とおなじである。
食べてばかりいるよりも、材料を買出しに行き、実際に作ってみるのがいい。
そうしてこそ味覚が発達する。文章もこれと変わることがない。

井伏鱒二は尊敬している作家の言葉を引いている。
文章は「が」「そして」「しかし」に尽きる。
この場合の「が」は、「~~であるが、~~」の「が」である。それから語尾だ。
畢竟、文章は「が」「そして」「しかし」語尾の問題に行き着く。

佐多稲子は、ある作家の話としてこんなことを述べている。
小説家というのは書いている最中は、自分でもなにを書いているのかわからない。
翌朝になって初めてなにを自分が書いたのかわかるらしい。
夢中で書いて、目が覚めたらひとつの作品ができあがっている。

川端康成いわく、文章の初心者はまず好きな文章を見つけることである。
文章はいくら分析しても解きあかされるものではなく、結局好き嫌いに帰着する。
まず読むことである。文章の長所を見ること。
そこに知らず知らず進むべき途の第一歩は、見出されるのではあるまいか。

――と文豪はおおせであります。みなさん、ともに切磋琢磨しましょう♪
「対談 小説作法」(中野孝次ほか/文藝春秋)絶版

→中野孝次が聞き手となり文豪に小説作法を問う。
登場するのは、吉行淳之介、野間宏、尾崎一雄、
大江健三郎、遠藤周作、水上勉、永井龍男、井上靖、大岡昇平。
むかしの小説家はむずかしいことを言うから困る。
だからといって、その難解な創作秘話に実があるかといったら眉唾ではないか。
作家の自分語りは果たして信頼に足るのかという問題だ。
というのも、作家というのはウソつきでしょう。
おいそれと小説作法を話すもんかな。
それと、もうひとつ、大きな間違いがある。
自分のことをいちばん理解しているのはほんとうに自分なのだろうか。
そうだとしたらば、
会話体にしては度が過ぎすほど難解なこれらの小説論にも価値があるのだろうが。
わからないのだが、わからないなりにおぼろげにわかっているのは、
小説というものは理論とは別のところであんがいかんたんに書けるものではないか。
それを小説家が解説しようとするともったいぶるのでやたら難解になる。
本書から勉強したヒントのようなものを以下に紹介する。

水上勉のウソ――。

中野「そういう語りのうまい人っていうのはいますね」
水上「いるでしょう。小説はまさにそれですよ。
いってみれば、(猟師の)狐獲りですよ」
中野「なるほど。あることでの“プロセス”なんですね。
ただ、いきなり「狐を獲った」というだけじゃつまらない」
水上「つまんない。だから、どういうふうに獲ったか、
見たこともないのに狐がどんな顔したか。
聞いたこともないくせに、キャンと鳴いたとかなんとか上手に言うんですよ。
聞いている方は、阿呆たん、嘘つきめ。と思うとんのやけど、
ついつい、「やっぱりほんまやなあ」と聞いてしまう。
そこらあたりの語り口の上手な人には……」
中野「虚実のないまぜたものがあるわけですね」
水上「ええ、そういうところがあったんでしょうね」(P188)


水上勉は幼少期の思い出を語る。この作家は9歳で寺に入れられた。
そこには背の低い垢だらけの汚い傘売りが来たという。
男は和尚の親戚だからなにがしかのカネを与えないわけにはいかない。
そのカネをわたすのが水上勉の役割だった。
汚くて貧乏な男だが、それでも和尚の親戚だから小僧の水上勉をいじめるのである。
カネをわたすと傘を1本置いて男は去っていく。

水上「私は、今日会いたい人は、あの人だよ。
……中野さんね、人間の目の壁というのは、幼い頃に焼きつけられたものを、
1秒のものでも終生それを鮮明なネガにして残しておるものですね。
それが、あるときに、
パアーッとカラー写真となって焼きつけられて出てくるんですね」(P200


そこから水上勉は「雁の寺」を書いたというのである。
忘れられないひとが、顔が、小説を作る。

井上靖の解釈するヴァレリー「純粋詩論」――。

井上「たとえば、夕暮れといっても、
「夕暮れ」という言葉から受ける感じは読む人によってそれぞれ違う。
わたしの感じている夕暮れは、「夕暮れ」という言葉を使っちゃ出せない、
ほかのもので拵(こしら)え上げなきゃいけない、それが純粋詩だ、と。
ヴァレリーには悪いんですが、実に単純な解釈をしたんですね」(P252)


井上靖にとっての物語――。

井上「……小説は物語だと思いますね。
物語を通して一人の人間を追及してもいいし、
人間の持っているものを追求してもいい。
哲学の論文でも、エッセイでもないんだから、物語の形を通していきゃあいい、と」(P255)


パミール高原を初めて見た井上靖は感動する。

井上「そのとき思ったのは、このパミールに法顕も、玄奘三蔵も入り、
それから千何百年もたっている。
法顕は五世紀ですし、玄奘は七世紀ですから、確かに千数百年たってるんです。
しかし、そのころといまのパミールは変わってないと思うんです。
その一角に今度わたしが入るわけdす。
そして、自分が死んで何百年たってもまた同じことなんですね。
何にも変わらない。それは人生的な悲しみじゃないんですが、ある悲しみがある」
中野「「命の哀しみ」という言葉であらわされるような……」
井上「そのような感じですね」(P257)


このとき井上靖は永遠に思いを馳せていたのではないか。
最後に井上靖と酒の関係――。
たしか井上靖は文壇酒豪番付の横綱だったはずである。

井上「中野さんは、毎日お酒を召し上がる?」
中野「このごろは週に一回だけ休肝日にしています」
井上「ああ、けっこうですね。どうしてもお酒が入らないと眠れませんからね」
中野「眠れません。きょうはそういったことも伺おうかと思ってました。
井上さんはよほど体がお丈夫なんでしょうね」
井上「いやいや。わたしは酒もたばこもコーヒーもみんな好きなんですが、
酒は人類ができてからすぐ造られていますね。
そのときからいままで飲み継がれてるんだから、悪いはずがない。(笑)
たばこだってそうですよ。やはりすぐできてるでしょう。
コーヒーだって古いんじゃないですか」
中野「さあ、存じません。ぼくも毎日飲んでしまって、よくないんですよ」
井上「酒は無毒だと思い切ることですねえ」
中野「ぼくもそう思ってます。
女房がどうのこうの言いますが、おれはこれで死んでもいいんだ、と」
井上「ぼくのとこもそう。ぼくは無毒だと思ってる」(P276)


井上靖がいうんだから、酒は無毒である(笑)。
実際、この文豪は83歳まで生きている。
あながちウソでもあるまいと信じたいのはわたしがアル中だからなのか。
「おくのほそ道」(芭蕉/岩波文庫)*再読

→この紀行文は死から再生への物語でもある。
「古人も多く旅に死せるあり」(序章)と死を覚悟して始まった旅は、
「……したしき人々日夜とぶらひて、蘇生ののものにあふがごとく、
且(かつ)喜び、且いたはる」(大垣)と終わるのである。
生から死へ向かうのが人生だが、芭蕉は旅でベクトルを反対に向けたのである。
読後感がよろしいはずである。インテリ庶民を問わず人気があるはずである。
こんかいは古典を味わうという意識は捨てて、
紀行文の書きかたを学ぼうと本書を開いた。
結果、わかったのは、「おくのほそ道」が歴然とした物語になっているということである。
もっと言ってしまえば、通俗小説と近似している。
旅これ人生というのが古来伝えられてきたことだが、
「おくのほそ道」はまさしく人生そのものである。
といっても難解なことではない。だれでも知っている人生の真理である。
「人生、楽ありゃ、苦もあるさ」だ。
「おくのほそ道」の旅における感慨の楽のほうを青ペンで、苦を赤ペンでメモした。
すると、どうだ。見事な青と赤の縞模様ができあがったのである。

「泪(なみだ)を落し」(P26)
    ↓
「捨身無常の観念」(P28)
    ↓
「存命の悦び」(P33)
    ↓
「路ふみたがえ」(P39)
    ↓
「時のうつるまで泪を落し侍りぬ」(P40)
    ↓
「辛(から)き思ひをなして」(P43)
    ↓
「今象潟に方寸を責」(P52)
    ↓
「病おこりて」(P55)
    ↓
「夕ぐれのさびしさ、感に堪たり」(P69)


上記はおおまかにわけると自然現象への苦楽の感慨である。すなわち、対自然だ。
では、対人間のほうはどうなっているか。これまた類型的なのである。
朴訥な宿の主人。親切な野夫。身分以上に風流を解する馬男。
現代の紀行文にも通じる典型的な人物ではないだろうか。
それから旅にはロマンスめいたものもなければならない。
遊女の登場が必要となるわけである。市振での遊女との出会いと別れだ。
これをフィクションだと断定しているわけではない(まあフィクションだろうが)。
しかし、なんと都合のいいところで遊女が現われることか。
この遊女の存在が芭蕉の旅をどれだけ華やかにするか。
いまわたしが問題にしていることである。
一笑という青年が早世しているのもエピソードとしてとても魅力的である。
死を意識することで旅=人生がひきしまる。
それから旧友・等栽との再会も涙ぐましい。
いままで「おくのほそ道」という舞台に登場する役者を紹介してきたが、
偶然か必然か、
現代の紀行文である沢木耕太郎「深夜特急」にもまったくおなじ役者が登場する。
逐一指摘したらその相似にみなさまは驚かれるはずである。
偶然とするのはあまりにも似通っている。必然と言ってしまうのも腑に落ちない。
実のところ、偶然でも必然でもないのである。旅とはこういうものなのだ。
いや、完全な旅とは、と言い換えたほうがよろしい。
むろん、実際の旅はそうではないかもしれない。そううまくいくものではない。
だが、描かれる旅はこうでなければならぬ。
ここに旅をする人間の真実があるのである。事実ではない。真実が、である。
「深夜特急」(沢木耕太郎/新潮文庫)*再読

→言わずと知れたバックパッカーのバイブルである。
バックパッカーとはリュックを背負い世界各地を長期間にわたって貧乏旅行をするもの。
初めて読んだのははるかむかしの大学生のときである。
何年かまえインドを3ヶ月さまよったのも、今年アジアを酔っぱらってふらふらしたのも、
もとをただせばこの「深夜特急」から受けた感動にある。
むろん、「深夜特急」を読んで世界に飛び出すのは月並みでありきたりな行動だ。
しかし、それは読者の安っぽさを示しはしても、
この名著の評価をいささかでも下げるものではない。
おりにふれて部分部分を再読していたが、こんかい全編再読したのは勉強のため。
紀行文を書いている。行き詰ってしまった。古典から学ぼうというわけである。

文章のうまさにかなわないものを感じた。
もちろん、言い訳ができないわけではない。
沢木耕太郎の文章は美文には違いないのだが、
それらは読み手によってはひどく鼻につく、とてもキザな文章でもあるのだ。
たしかにうまいのだけれども、やはりキザだよなと何度もあきれたものである。
それでも著者の顔写真を見ると、これなら許されるのかと二重に感嘆する。
沢木耕太郎の文章の3割程度なら文才のないわたしにも真似ができるのかもしれない。
しかし、それは決定的にわたしの文章ではなくなっている。
結局のところ、わたしには「深夜特急」のような美文は一生かけても書けないのだと思う。
可能なのは、おのが文章を完成させること。
持って生まれたものを見つめながら、何度も掘り返して、その底にある文体をつかむこと。
これしかないとあきらめる。だが、沢木耕太郎の文章は美しい。才能に嫉妬する。

旅とはなにかをわかりやすく図示してみる。

              自然(歴史)
(日常→)旅人―――――(非日常)―――――→?
              人間(日常)


言葉にするなら旅とは、日常を飛び出した人間が、
未知の自然と人間のただ中をくぐり抜け、目的地までたどり着く過程を言う。
だが、娯楽の観光ではない放浪とも言うべき旅の場合、
自分の内面での変化を求めるため、終着地が未定であることも少なくない。
かりに旅がこういうものだとすれば、紀行文の内容もおのずから知れよう。
旅人はなにを書くかである。まず現地の人間を書く。見た自然を描く。遺跡を描写する。
旅人たる自分の内面を説明する。どこに行き着くかわからない終着地に思いを馳せる。
したがって「深夜特急」の内容も以上である。

しかし、「深夜特急」があまたある紀行文と異なるゆえんは骨があるところである。
旅の思想がある。言い換えるなら、上記の旅以外のものを描きたいという野心がある。
それはなにか。
沢木耕太郎はこの長期旅行に詩集「李賀」を持参した(という設定になっている)。
李賀(りが)は唐代の詩人で27歳で没している。
旅を始めた沢木はもうすぐ27歳になろうとしていた。
タイの鉄道に揺られながら沢木は「李賀」を開き、早世した詩人を思う。

「李賀は、その心の底に深い虚無を抱いていたらしく、
どの詩を読んでも昏(くら)く陰鬱な印象を受ける。
白昼を舞台にしていてさえも、常に薄い闇に覆われている。
しかし、その闇を斬り裂いて、
閃光(せんこう)のような激情がほとばしる瞬間がある。
それが幽鬼と死霊の跋扈(ばっこ)する夢魔の世界を
一瞬にして純一な青年の悲哀で満たすのだ。
私はその李賀を読んだり、窓の外の景色に眼を向けたり、
駅の物売りから果物を買って食べたりしながら、
ゆったりした気分でスラタニー行きの鈍行に乗っていた」(「深夜特急2」P97)


上に抜粋した箇所に「深夜特急」のすべてが集約されている。
「深夜特急」の文章は、随所から「虚無」のやりきれなさを美しく奏でている。
だが、暗闇ばかりではない。ときに雷光が地平をあますことなく照らし出す絶景をも描く。
つまりは「青年の悲哀」が顧みられているのである。
現実に落ち込みながらそれでもなにかを求める青春の悲哀が!
沢木は紀行文を書く際、巧妙に描くべき人間と自然を取捨選択をしている。
テーマに適合するような旅の光景を都合よく並べるわけである。組み合わせの妙だ。
うまくいかないところは幾度も順番の入れ替えをしたのだろう(これをフィクションという)。
そして「深夜特急」では移動のシーンがことさら多く描かれている。
動きを出したかったのだと思われる。
上に抜粋した「李賀」の場面も、鉄道移動中という設定に組み入れている。

「深夜特急」でいちばん感激した場面を紹介する。
沢木がイランの税関で移動手段を探していると、あるバスから声をかけられる。
テヘランまで行くというそのバスはヒッピーバスであった。沢木はバスに乗り込む。
ところがバスは予想に反してなかなか先に進まない。にもかかわらず怒る乗客もいない。
それどころか苦難をともにするうちに、いつしか乗客のあいだに親近感が生まれている。
というのも――。

「(バスの)乗客のほとんどは、インドやネパール、
あるいはアフガニスタンでの奔放な旅を終え、
故郷のヨーロッパへ帰ろうとしている者たちだ。
一日早く帰ったからといってそれが何になるだろう。
むしろ、早ければ早いほど、
青春そのものといった日々から足早に遠ざかってしまいそうな気がする。
それらの日々は必ずしも自由で甘美なばかりではなく、
多くは過酷ですらあったろうが、いざ失う日が近づいてくるとなると、
たまらなく貴重なものに思えてくる。
故郷で待っているのは「真っ当な生活」だけだ。
それも悪くはないが、自分がそのような生活に復帰することができるのかどうか、
不安がないわけではない。
復帰できたとしても、果して「真っ当な生活」に耐えていかれるだろうか――。
彼らの惑いは、やがて私自身の惑いになるはずだった。
陽が落ち、闇が濃くなっていく。
突然、ポリスが立ち上がって、演説を始めた」(「深夜特急4」P113)


監視のため国境からバスに乗り込んできたポリスが言うのである。
これまで互いにまったく知りもしなかった人々が、このように一同に会し、
このように理解し合うことになった。
いずれ、テヘランに着けば、別れ別れになってしまうのだろう。
その前に、お別れのティー・パーティーを開こうではないか……。
乗客はみな感傷的な気分に包まれる。
バスがテヘランに到着する。沢木は親しくなった青年に声をかける。

「またいつか会おう」
すると彼はバスを指さしながらこう言った。
“From Youth to death!”
恐らく彼は、このバスを「青春発墓場行」と名づけたのだ」(「深夜特急4」P116)


読書しながらメモを取るクセがあるのだが、
紙にはウソ、ウソ、ウソ……と書き連ねられている。
読んでいると、ここはウソだな、ここもウソだなと気がつくのである。
じぶんがつたない紀行文を書いているからだと思う。ウソに敏感になっている。
といってもウソを批難したいわけではなく、むしろ反対で、ウソを学びたい。
どうすればうまいウソが書けるのか「深夜特急」から盗もうと企てたのだ。
正確な旅行の記録などおもしろくもなんともないのである。
しかし、いかにウソをつくか、というのがなかなかむずかしい。
沢木のウソは「造りすぎ!」とあきれるものも少数あったが、おおむね上質のウソであった。
なかでも最もうなったウソはインド、カジュラホでのウソである(「深夜特急3」P184)。
カジュラホはミトゥナ像とよばれる男女合歓像で有名。
かんたんに言うなら男女がセックスしているエロエロな彫刻だ。
沢木はこのカジュラホへたどり着いたとき風邪を引いていて動けなくなっていた。
ようやくツーリスト・バンガローを探し当てたのはいいがベッドはないという。
沢木が無理を言って入れてもらったのは女性専用のドミトリーだった。
病んだ沢木は同室のフランス人女性二人組にとても親切にしてもらう。
ある夜のことである。熱にうなされて目が覚めると裸体のフランス人がいた。
着替えをしていたのである。
窓から差し込む月光が若い女性の裸体を神々しく照らす――。
ぶすいを承知で指摘するが、こんなことウソに決まっているのである。
しかし、このウソはカジュラホという町の特徴をなんとうまく描いていることか。
沢木は観光名所のミトゥナ像にほとんど行数を費やさない。
その代わり、ドミトリーでの覗き見である。やるなぁと何度も拍手した。
ウソはこのようにつけばいいのかと、なにかを悟ったような気になったものである。
インドのどこかで風邪を引いたのは事実であろう。
ドミトリーで女性の裸体を見たこともあったのかもしれない。
だが、おそらく両方ともカジュラホではなかったはずである。
ふたつの事実が同時期に起こったかも疑問である。
しかし、事実と事実を時空軸をずらして並べるとこうも美しいウソが完成する。
発見であった。

「深夜特急」からの発見――。
紀行文というものは基本的にあったことをそのまま描いていいのである。
肩ひじを張って、そこまで文章やウソにこだわることはない。
ただしシメとなるところ(文頭や文末)で歌うと効果的である。
全編、歌ってばかりいたらジャイアンになってしまう。たまに歌うからいいのだ。
ウソばかりではダメということ。ホントのなかにウソが混じっているからいいのである。
時間のカットは「深夜特急」の場合はこうなっている。
「ある日~~。ある時~~。別のある日~~。次の日である。~~」
歌うというのがわかりにくいかな。
以下のような文章を歌うというのである。最後に沢木の歌唱を紹介して終わろう。
沢木は深夜バスに乗っている。旅の終わりを意識しはじめている。

「十時を過ぎて、しだいに乗客が眠りはじめる。
私も窓に体を寄せ、ジャンパーを枕にして、眼を閉じた。
しかし、なかなか眠りにつけない。さまざまな思いが浮かんでは消えていく。
暖房のおかげで車内は暖かいが、外は相当に冷え込んでいるようだった。
ふたたび眼を開け、車内灯に照らされてぼんやり映る自分の顔を見ているうちに、
胸の奥に小さな痛みが走った。
だが、私はそれについて考えないことにして、その向こうの闇を見つづけた」
(「深夜特急5」P18)
本あればこそ、である。
人間がこうまでつまらない人生を生きていけるのは本があるからではないか。
人生、つまらないじゃない。つまらないと思うね。
結局は、持って生まれたものだろう。
いくら異性からもてようが、そんなものは生まれたときから決まっている。
立身出世がなんだ。念願の出世を果たしたところで1ヶ月もすればあきるはずである。
努力の結果と誇るのもいいかげん疲れる。
成功者のだれもがすんでのところで失敗者に堕したことを知っているからだ。
地位も名声もカネもつまらないものである。
なぜなら、どんな衣装を羽織ろうがきみはきみじゃないか。

唯一、本のみである。生まれ落ちるのもひとり。死ぬのもひとり。
こんな人間に自由があるとすれば読書しかない。
どれだけ友人がいようと人間は孤独である。
いくら愛人がいてもさみしさはどうにもならない。人間はひとり生まれ死ぬ。
このように孤独な人間がその孤独を快楽に転化できるのが読書である。
書物はひとりで読むものだ。ひとりを実感するのが読書だ。
しかし、そこに人間の悦楽がある。

ふうふう、はあはあ。
能書きはこのへんで。とにかく本が恋しくなったのであーる♪
ひさびに荻窪へでも行こう。もう日は暮れている。ささま書店。まずはワゴンから。
以下、ぜーんぶ105円。

「中国、なんですかそれは?」(小田空/旅行人)
「新註 歎異抄」(佐藤正英/朝日文庫)絶版
「わが山本周五郎」(土岐雄三/文春文庫)絶版
「文章作法」(桑原武夫/潮文庫)絶版
「文章心得帳」(鶴見俊輔/潮文庫)絶版


山本周五郎のは、いわゆる暴露本。どうしてわたしはこういうのが好きなのか。
店内へ。ワゴン本しか買わない貧乏人じゃないぞ。

「現代戯曲の理論」(ペーター・ションディ/市村仁・丸山匠訳/法政大学出版局)

むろん絶版である。価格は、わずか500円。
ドイツの学者が書いた本らしい。
ページをめくると頻繁にストリンドベリ、ユージン・オニールの文字が。
とりあえず買っておこう。
わたしのような凡人は貯蓄が肝心である。もとから才能などないのである。
無からはなにも生まれぬ。貯め込むしかないのだ。
運よく世に出たところで、凡才の備蓄などたかが知れている。
せいぜい無名時代にたくわえておくしかない。せめて非才のなしうることだ。
無能無才は知識と怨念を蓄積するほかない。
ブックオフ荻窪店へ。思えば2ヶ月ぶりである。
いまさらながら単行本の最低価格が210円まで値上げされたことが憎らしい。

「夢を与える」(綿矢りさ/河出書房新社) 210円
「図解雑学 犯罪心理学」(細江達郎/ナツメ社) 210円
「図解雑学 社会心理学」(井上隆二・山下富美代/ナツメ社) 210円
「本の情報辞典」(紀田順一郎・監修/出版ニュース社)絶版 210円
「中国古代文明の謎」(工藤元男/光文社文庫)絶版 105円
「白い牙」(井上靖/集英社文庫)絶版 105円
「ぐれる!」(中島義道/新潮新書) 105円


まさか綿矢りさちゃんの新刊が210円で買えるとは。
しかし、果たして読むのか。読みたくないけど、読まないとな。
新刊書を1500円近く支払って読む人間のことがわからない。
そこまでして読みたいものがあるなんてうらやましいとさえ思う。
中央線乗車。窓ガラスにうつるわが顔。
こんなやつの書いた本など105円でも売れないだろうとため息が出る。
いいんだ、いいんだ。本があるじゃないか。本を読もう。現実から逃げよう。

たったった(ヨンダッシュで走り去る)♪