みなさまはもう明日の準備は終わりましたか。
なにがって年に1度の神田古本祭りであーる♪
神保町界隈でブックのフェスティバルがあるのダンヨ!
本好きなら行かないはずがないでしょう。
青空古本市は昨日から開催となっているが連日の雨で明日が初日のようなもの。
メインの神田古本祭りは今日が初日だったがこの台風で中止。
ううう、すべてあしたが勝負なのである。
みなのもの、準備はいいかい?
わたしは明朝開催時間の10:30に神保町へ乗り込むつもりである。
逢ったらぜひぜひすずらん通りの露店でビールをおごってくれい♪

10月12日、神保町へ行く。引越しをしてもこの街を忘れることはできない。
まず三省堂本店へ。ここへは小学生のころから通っているのである。
まえにも書いたが就職面接で落ちたというのもウソではない。
5階で仏教書の特集をしている。

「浄土三部経」(本願寺出版社)1200円+税

いまや定価で買う本は聖典くらいになってしまった。
平積みのなかから少しでもきれいなものを選び取る。
せっかく新刊で買うのだから、なるべくならきれいなほうがいいと思うのは人情。
キチガイなんて言わないで!
週末恒例の小宮山書店ガレージセールへ。1冊でも2冊でも3冊でも500円。
これは明日の古本祭りでもやっています。かなりの穴場。のぞいてみましょう。

「どうせ死ぬ身の一踊り」(西村賢太/講談社)
「国文学 特集・井上靖」(学燈社)
「国文学 特集・井上靖の世界」(至文堂)


3冊で500円。
むかしは「国文学」のような雑誌のバックナンバーでなにかが得られると誤解していた。
大学の研究者さんは、さぞすごいとをしているのだろうという錯覚である。
いまや文学研究になんら期待することはない。
排泄物(まあウンコだ)の成分分析が趣味のキチガイが大学の文学部にはいらっしゃる。
わたしは排泄物研究より、生きた人間のほうに魅力を感じる。
今回雑誌「国文学」を購入したのは2冊買える余裕があったからである。
本命は「どうせ死ぬ身の一踊り」。現代文学作品である。ちょっと気になっていた。
しかし、まさか定価の1500円で買うわけにもいくまい。
わずか数時間で読み終えるものに、そうそう大金は払えない。
それに現代文学なんて、(読み手ではなく)書き手のために存在するものでしょう。
まだボランティアを趣味にするほど蓄財はしていない。
こうやって買ったはいいけど、読むのかな。
いままでもだいぶ現代文学の単行本を安価で買っているのである。
しかし、読まないうちに文庫化されてしまう。
過去の読みたい作品が膨大にあるのに、どうして現代作品まで手がまわろう。

10月24日。そういえば4日前にも、神保町に行っているのである。
病院の都合とも関係しているのだが、どうでもいいことなので省く。
神田古本祭りの準備が着々と進行していたのが目を引いた。
祭りの準備はいちばん胸躍るというのがわたしの考えである。
気持のいい空気をたっぷり吸う。
本番のお祭りでは群集にもまれ不愉快なことも多いだろう。
しかし、今日はそんなことはない。
田村書店のワゴンで久々の収穫があった。

「ユングと共時性」(イラ・プロゴフ/河合隼雄・河合幹雄訳/創元社)500円

定価の2600円はさすがに払えません。
共時性はシンクロニシティともよばれ、ユングのオカルト趣味の精髄である。
むろん、いい年をして共時性など真に受けているわけではない。
まやかしである。嘘八百だ。
しかし、そうと知りつつ共時性を遊ぶのはそれほど悪くはないのではないか。
どうせつまらない現実である。
少しでも味気ない現実を飾ってくれるのなら共時性でもなんでも大歓迎。
というのが、いまのわたしの立場である。まあ、投げやりなんだな。
ちなみに、共時性とは意味ある偶然の一致。

そ・う・で・す・よ!
もしこれを読んでいるあなたとわたしが、明日神田古本祭りで出逢ったら、
それは疑いもなく共時性以外のなにものでもありません!
うふふ、明日はだれと、そしてどんな本と偶然に出逢えるのか。
ユングに言わせれば、すべてはシンクロニシティなのであーる♪
「作家の誕生」(猪瀬直樹/朝日新書)

→実は日本文学史にはふたつのタブーがあるよね。

カオとカネである。

国語教育のみならず文学研究でもこのふたつは存在しないもののように扱われている。
カオと文学の価値は関係ない。カネと文学の重みは相関しない。
どの文学研究でも文学者がみないちようにノッペラボウをしていたかのような前提を取る。
どの文士もカスミを食って生活していたようなことを書いている。
つまり、国語教育および文学研究では作家は人間として見られていない。
カオがなくてカネもいらない存在として語られているのである。
換言するなら、読者が無視されているということだ。
たいがいの読者は作家のカオを見てから作品を判断するでしょう。
読者に支持されて(=売れて)はじめて作家先生にカネが入る。
カオとカネを無視して文学を語っていいのかという問題が近年話題になっている。
カオのほうのご専門は小谷野敦さん。
文学作品のすべてを作者のカオに還元する技量は天才奇術師なみである。
いっぽうのカネを追求しておられるのが猪瀬直樹さん。
本書では漱石、太宰、三島の金銭裏事情が暴露される。
真偽は定かではないが本書はおもしろくてたまらない。
わたしのような愚民は、タブー破りになによりも魅力を感じるのである。
「もてない男」小谷野敦氏がカオにこだわるのはあまりにわかりやすい。
しかし、これほど猪瀬直樹氏がカネに執心するとは。
とどのつまり、どの作家にも他者は描けぬということなのだろう。
哀しいかな、人間は他者をじぶんという尺度でしか判断できない。
猪瀬直樹氏のゼニゲバぶりが本書でよくわかったと書いたら失礼になるのだろうか。
これはほめ言葉なのである。
カオでもカネでも俗事に夢中になれる人間は正直で美しいと思う。
大学で文学研究をしている学者先生など、猪瀬、小谷野、両氏に比べたらどれだけ劣るか。
「揺れる耳飾り」(井上靖/文春文庫)絶版

→30を過ぎて思う。小説ってなんのために存在するのか。
気休めではありませんか。味気ない現実を一瞬でもいいから忘れたい。
だから、ひとは小説など読むと思うのですが、どんなもんでしょうか。
現代文学の冒険とか、言葉の革命なんて、どうだっていいんです。関係ない。
そんなもんは幸福すぎて退屈なひとのあいだでひっそりやってくださいな。
いまさら文学を読んで人生が変わるなんざ思っていません。
30を過ぎれば、人間みんなそうではありませんか。
読むのに労力を要する、有閑作家のマスターベーションなどごめんこうむりたい。
だから、井上靖なのです。
井上靖は戦後の荒廃した世相を背景に、それでも清冽とした小説を発表しつづけた。
きたない世の中できれいなものを描いたのが井上靖であります。
きれいな世界、いいじゃないの。
現実がきたないなんて、いまさら当たり前すぎて、
わざわざ小説家の先生から教えていただくものではない。
平成にもなって、いまだに井上靖の小説を読む理由です。
「揺れる耳飾り」は失恋小説。
物語の最後で一組のカップルが誕生する。
この結ばれた男女それぞれに片想いしていた男女がいる。
加納とヒミコ(すまん、原文の漢字をパソコンで出せない)である。
ふたりはそれぞれの失恋を体験して電車に乗る。かれらの別れるところがいい。

「電車は横浜駅に停車するために速度を落した。
ヒミコは立ち上がって網棚からスーツ・ケースを降ろした。
「わたし、次で降ります。ここで別れてしまった方がいいでしょう」
加納は一瞬驚いたらしかったが、
すぐヒミコが家に帰るには横浜から東横線に乗換えた方が近いことを悟ると、
「よし」
加納は握手をするために手を出した。ヒミコがそれを軽く握ると、
「俺は家へ帰って蒲団をかぶって寝る」
「わたしは起きてる」
「それは各人の自由だ」
「じゃ、お気をつけて」
ヒミコは荷物を持って座席を離れた」(P225)


いいとは思いませんかね。
失恋した若者がふたり、男女です。握手をして別れる。きれいじゃありませんか。
失恋したから蒲団をかぶって眠る青年というのもたいへんよろしい。
若者らしい潔癖にあふれている。
現実にはこんなことはないって、それは当たり前。そもそも時代が違う。
いえ、当時もこんなきれいな失恋は少なかったことでしょう。
にもかかわらず、ではなく、だから、井上靖はきれいな失恋を描いた。
これを甘いだのなんだのと愚弄する男女はうらやましいがきりです。
今現在よほどめぐまれた立場におられるようだから。
現代のハイソ(死語!)な若い女性様は男を見るとかれの生涯年収を計算するという。
なんとも頼もしいかぎりだと思う。
けれども、そんな女性が登場する小説は読みたくないのです。
「思い出トランプ」(向田邦子/新潮文庫)

→短編小説集。どれもいかにもうまい小説なのである。
いかにもいかにも玄人筋から絶賛されそうなうまい小説ばかりだ。
いや、素人からも称揚されている。
アマゾンの全24の感想を読んだが、けなしているのはひとつとしてなかった。
そういうところが、うますぎるところが、嫌いなのである。
読者は下手な小説を好きになってもよい。
うまい小説だからといってかならずしも好きになる必要はない。
読みながら思ったのは、ふーん、こういうのがうまいってほめられるんだろうな。
で、学校の先生も読め読めとすすめて、
感想文コンクールで入選するのも決まってこのような小説の感想。
だれからも嫌われない小説を書けるのは、著者がそういう人間だったからだろう。
早世したせいか、向田邦子の悪口を聞いた(読んだ)ことがない。
ふたたび、そういうところが嫌いなのである。
「あたしってうまいでしょう」というのが見えすぎるのは閉口するほかない。
乱暴なことを書いてしまえば、ここに収録された短編小説はすべておなじ構図である。
「現在→過去(回想)→現在」だ。
現在進行形で読者を引き込み、さらりと回想へいざない、最後に現在へ光を与えている。
……ダメだ。ぜんぜん批判になっていない。
改めて気づかされる。凡才に天才をおとしめることなどできるはずがないのである。
だが、どうしてだれも向田邦子を嫌わないのだろう。
向田邦子もその作品も、嫌われないところが嫌いである。
「劇的なる精神 福田恆存」(日本教文社/井尻千男)絶版

→最低の本と言うほかない。著者の井尻千男さんは新聞記者あがりのコラムニスト。
なにをどう勘違いしたのか、現代日本へ説教をしたくなったようである。
けれども、井尻千男なんていうチンピラが
いくら日本に毒づいたところでだれも聞く耳など持たぬ。
だから、神たる福田恆存を持ち出してくるわけである。
福田恆存のよいしょを随所でしながら、この神に守られた場所から日本へ説教を垂れる。
いわく、現代日本は物質文明だけで、なんたら。
いまどき高校生でも書かないような文明論を得意気に述べるおバカさん。
それとさ、元・新聞記者なら事実の確認くらいちゃんとしなさい。
福田恆存はシェイクスピアの個人完訳などしてはいない(183ページ)。
この著者だけではなく、福田恆存を神と崇める追随者はどうしてか演劇を軽視する。
あれだけ福田恆存が精力を注いだ演劇活動に目を向けないのだ。
これは福田恆存の影響を受けた、最近流行のネット論客にも共通するところである。

福田恆存は劇を見ることによって、神という名を使わずに神を語りえた稀有な論客である。
宗教用語を用いずに(相対ならぬ)絶対を平易に論じえたのが福田恆存の天才だ。
集団に属することなく、あくまでも一個人として福田が絶対をとらえることができたのは、
この論客が劇を信じていたからである。劇中の人間を信じていたといったほうがいいのか。
わたしは福田恆存を宗教家だと思っている。
この論客の愛読者がみなみな福田を神のように崇拝するのはこのためである。
著書「生き甲斐といふこと」(新潮社)のなかで福田恆存はこうインタビューに答えている。

「私は巨視的にみれば絶望は絶対にしません。
私はクリスチャンじゃありませんけれども、何か人間を越えるものの大きな力、
それを歴史となづけようが、自然となづけようが、神となづけようが、
そういうものを信じておりますから、人間が絶滅する時には絶滅してもよろしいし、
それは自然の意思であり神の意思であるから
そういう点では非常にオプティミスティック(=楽天的)である」(P168)
「大人になるまでガマンする」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和62年放送作品。全6回。
たいがいのドラマはAからBへの移動として説明することが可能である。
ある均衡状態がある。異物が侵入してくることで場がかきみだされる。
この場合の異物は人間であることが多いが、物のこともないわけではない。
静かな水面を思い浮かべてください。ここに投石されると同心円のさざなみが広がる。
このさざなみがドラマとして描かれることになる。最後はまた平穏が戻る。
投げ入れられた異物が取り除かれることも、そのままのケースもある。
異物とは別の物体が水底からひろいあげられ排除されることもある。
ある平衡状態Aから、それとは異なる平衡状態Bまでの移動が多くのドラマの内実である。
恋愛ドラマなら「退屈」(A)→「出会い」→「結婚」(B)となる。
AからBにいたる過程でさまざまなドラマが描かれうる。
したがって無数のドラマを分類しようと思ったとき、
このAからBの距離ではかるという基準が存在しうる。
がいして映画はテレビと比較してAからBの移動距離が長い(しかし上映時間は短い)。
観客は映像のスピードに酔わされ、ときとしてそれを快楽と錯覚するのだ。

山田太一ドラマ「大人になるまでガマンする」の凄みは移動距離の短さにある。
ドラマの開始地点Aから終了地点Bまでほとんど移動していないのである。
映画が10キロ、100キロの移動を自慢するなら、
テレビはあえて移動しないと誇っている気配すらある。
1ミリ、2ミリの移動しかしていないのだ。
だれも死なない。恋愛の成就も、不倫も離婚もない。
ドラマのオープニングとエンディングを比較しても、どこが変わっているのかわからない。
これはよほどの職人技をもっていなければなしえないことである。
フィクションを作ろうと思ったことがあるものならわかるだろうが、
「A→B」の移動距離が長いものほど書きやすいのだ。
移動距離が長ければ、そのぶんハードルを置く余裕が生じる。
ドラマの登場人物にハードルを跳び越えさせれば、いちおうドラマらしきものにはなる。

「大人になるまでガマンする」は二組の家族のやりとりがメインである。
ひとつは夫婦で居酒屋を営む家族。小学5年生の息子がいる。
対照的なもうひとつの家族は父親がエリートサラリーマンで母親は専業主婦。
これまた小学5年生の息子がいる。ふたりの息子が小学校でおなじクラスなのである。
居酒屋の息子はまったく勉強ができない。
会社員の息子は優秀で有名私立中学をめざしている。
子ども同士はクラスメートだが、親の社会的階層はまったく異なる。
大人になれば通常生活レベルの違うもの同士が出会うことは少ないが、
このドラマでは子どもを媒介として両家族の生活感の相違が浮き彫りになる。
なにを幸福として考えているかの衝突が生まれるわけである。
どうやら文学の世界では人間の幸福といった問題は
青臭くて語るべきテーマではないらしいが、これは良くも悪くもテレビドラマである。
視聴者も日々幸福を求めて生きている庶民。
クソ真面目といっていいほど、人間の生きかたが問われる。
むろん、山田太一はユーモアというオブラートで問題をくるむことを忘れない。

会社員一家の母親は子どもの交友関係にも口を出す。
居酒屋の子どもなんかと遊ぶなというのである。

「だから、私はたしかに、吉原くんのお母さんに、
山口って子とはつき合わない方がいいっていったわよ。
(夫「いうなよ、そんなこと」)
でもいう必要があるの。吉原君も私立の中学受けるの。
(うちの息子の)正弘も受けるの。(のみ屋の)山口君とこは受けないの。
それはもう全然生活がちがうのよ。
公立の中学行く子は、受験勉強なんか必要ないんだもの、遊んでるわよ。
ファミコンかなんかで、ピピピピ、ピピピピ。
うちや吉原君は、そんなことしてる暇ないでしょ。
だったら、遊んでる子とはつき合わない方がいいっていうのは、
親切な忠告じゃないかしら?」(P45)


リアルな生活者の実感である。
ここに着眼して、それでも娯楽作品に仕立て上げる山田太一の手腕には脱帽だ。
生活するというのは、小さなエゴとエゴのぶつかりあいである。
ゴミ出しがどうのであらそうのが生活者の実態である。
並みのライターなら、こんなものはドラマにならないと見過ごしてしまう。
しかし、山田ドラマはちがうのである。生活の細部を熟視する。
政治家の不正に比べたら取るにも足らない小さなエゴから人間のドラマを引き出す。
山田太一が採用するのは醜い部分だけではない。
生活のほろっとする一場面、一見なんでもないようなシーンをじんわり描くのである。
日常生活で微細なエゴとエゴがぶつかりあうが、決して火の手はあがらない。
庶民のエゴは生活を壊すほどに大きくもないのである。
なにもない。味気ない。でも、ほんとうにそうかな? そう悪くもないよ。
このとき山田ドラマはなんと温かいのだろう。
どれだけ人間の喜怒哀楽を温かく描写することか。

たとえば――。正弘は会社員の息子である。小学5年生。
吉原は最近転校してきた正弘のクラスメート。男子。ふたりは友人である。
どちらも中学受験を予定しており、おなじ塾に通っていた。
しかし、母親から仲を裂かれてしまう。正弘が本屋で立ち読みをしていると。

吉原「こんばんわ(と小さく傍でいう)」
正弘「(見て)なんだよ(と笑顔)」
吉原「フフ」
正弘「どうして来なかった?」
吉原「やめた」
正弘「塾を?」
吉原「かわった」
正弘「何処に?」
吉原「日合検」
正弘「そこのかよ」
吉原「うん」
正弘「どうして?」
吉原「一緒じゃない方がいいって」
正弘「ぼくと?」
吉原「(気の毒そうに)うん」
正弘「ぼくのどこが悪いんだよ?」
吉原「ぼくは悪いと思ってない」
正弘「親はなんだよ?」
吉原「うん――」
正弘「お前は悪くないのかよ」
吉原「分んないけど――」
正弘「人のせいにするなよなあ」
吉原「うん(と困りながら、うなずく)」
正弘「用かよ?」
吉原「ううん」
正弘「じゃあ、なによ?」
吉原「ただ、待ってた」
正弘「――」
吉原「――」
正弘「まいるよなあ(と歩き出す)」
吉原「うん(と歩き出す)」
二人、歩いていく(P154)


子どもの世界とはいえ、ままならぬことばかりなのである。
友だちとつき合うのでさえガマンしなさいと親からいわれる。
なんのため? 中学受験のため。いい大学に入るため。いい会社に入るため。
いい会社に入っても結局はガマンしなければならないのだろうが。
このシーンで描かれる子どもふたりの悲哀は、
まるで生活に疲れたサラリーマンが肩を組んで去っていくような味わいがある。
いいなと思うのね。いいとしか言えない。いいな、いいよな。泣けるなと思う。

たとえば――。茂樹はのみ屋の息子である。やんちゃで大人からは叱られてばかり。
どうせ居酒屋を継ぐのだからと勉強はまるでしていない。
ひょんなことから小学5年にもなるのに3年生の学力しかないことが判明する。
居酒屋経営の両親もさすがにこれではダメだと息子に家庭教師をつける。
勉強のおもしろさに気づく茂樹であった。ある日、小学校の放課後。
茂樹は担任の今日子先生から呼び出しを受ける。
今日子先生は若いせいかヒステリックだが美人である(木内みどり)。
茂樹、音楽室をノックする。

茂樹「(あけて、一礼)」
今日子「(ピアノの前にいて)入って」
茂樹「(またお説教か、と思いつつ入り、ドアを閉める)」
今日子「(いま流行りの曲。
たとえば“なんてったってアイドル”みたいなものをちょっと弾く)」
茂樹「(あまり近くへ行きたくなく、立止る)」
今日子「(弾きやめ、茂樹に微笑し)なんでそんなとこいるの、
こっちへいらっしゃい」
茂樹「(うなずき、少し近づく)」
今日子「(笑って)怒ると思ってるんだろ?」
茂樹「(目を合わさず、うなずく)」
今日子「なにをした?」
茂樹「(首をかしげる)」
今日子「今日はちがうの」
茂樹「(今日子をちょっと見る)」
今日子「成績よくなって来たねえ」
茂樹「(そうかな、というように首をかしげる)」
今日子「漢字のテスト70点だろ。算数だって、前にくらべたら随分よくなって来た。
先生、びっくりしてるんだ」
茂樹「(嬉しさかくして、うなずく)」
今日子「一体どういうわけ?」
茂樹「(首をかしげる)」
今日子「とにかく、字が綺麗になったし、計算の間違いがドーンと減ったし、
こんなの、めったにないよ」
茂樹「(うなずく)」
今日子「ほめてあげたくて、来て貰ったの。
他の人がいるところじゃ、君の方が嫌がるんじゃないかな、と思って」
茂樹「(表情かくして、うなずく)」
今日子「嬉しい。先生、嬉しいの(ピアノを弾きはじめる)」
茂樹「(立っている)」

●廊下
茂樹、下駄箱の方へ急ぐ。走らない。

●下駄箱
もう人がいない。茂樹、急ぎ来て、靴と上履きをはきかえる。

●通学路A
茂樹、走る。嬉しい。

●通学路B
茂樹、走る。笑顔、こみ上げる(P156)


茂樹はこのまま走って両親が働く居酒屋の暖簾(のれん)をくぐる。
だが、開店準備に忙しい両親からは構ってもらえない。
仕方なく茂樹は自宅のアパートに戻り弟に自慢する。このことは秘密だと念を押して。
母親は茂樹の挙動をあやしみ担任の今日子先生に電話をする。
ここではじめて息子が先生からほめられたことを知るのである。
公衆電話ボックスから出た母親は嬉しくて、
このことを一刻も早く夫に伝えたくなり居酒屋へ駆け出す。

いやあ、いいシーンだと思いませんか。
こういう情景に泣かされてしまうわたしはインテリじゃないんだろうな。
私事になるが、この茂樹くんとおなじで所詮は居酒屋の息子だからね。
思えば、大した偶然である。
この番組が放送された年、ちょうどわたしも小学5年生だった。
このテレビドラマを見た記憶はない。家にテレビがなかったのである。
TAPという進学塾に通わされたけれども、最底のクラスだった。
たしかAからZまでクラスがあって、そのうち最低のAクラスにふりわけられた。
とにかく勉強ができなかったのである。
これでは無理にもほどがあるということで、結局中学受験はしなかった。
こういった事情もあって、このドラマに度が過ぎる感情移入をしたことを最後にお詫びする。