昨日のことです。演奏会へ行かなければなりませんでした。
浮世の義理というやつです。
始まるのは14時からです。13:13の電車に乗ろうと企てました。
というのも、これを逃すとつぎの列車は13:33。
20分も待たなければならないことになります。
駅が見えたところで携帯の時間を見やると13:12。あと1分しかありません。
切符も買わなければならない。走り始めました。
改札のまえでなにかにぶつかりわたしは転倒しました。
ものではなかった。人間でした。おばあさん。
よつんばいのわたしは、わたしからだいぶ遅れて、
かのおばあさんが後ろ受身を取るように倒れるのを見ました。
すべてを見たのです。
おばあさんがそり身になる。後ろへ倒れる。
まず背中がつく。それからゆっくりと頭部をコンクリートの地面に打ちつけました。

「大丈夫ですか?」
わたしの第一声です。両人とも転倒していますが、若者と老人という違いがあります。
「怪我はありませんか?」
このようにうかがいながらも実は電車のことが気になっていました。
いまから急げば13:13の電車に乗れるかもしれない。
このとき、唐突に前世の記憶がよみがえったような思いがしました。
飲酒運転の記憶です。
わたしはかつてこのように事故を起こしたことがある。
酔っぱらって自動車を運転して、結果、わたしは見知らぬひとを殺(あや)めた。
また繰り返してしまった。どうお詫びしたらいいのか。

「ごめんなさい」
わたしは言いました。
「お怪我はありませんか。わたしが全面的に悪かったです」
あまりにも偽善的な物言いと思われるかもしれません。
けれども、たしかにわたしはこう言ったのです。
おばあさんの第一声はこうでした。
「そんなに急いでいたの?」
「はい、電車の時間がぎりぎりで」
「(私は)あたま打ったよね」
「はい、打ちました。わたし、見ました。
なんともありませんか。いまから病院へ行ったほうがよくはありませんか」
なにを言ってんだか、ともわたしは思いました。
このまま場を離れて電車に乗れば、それで終わりです。
出血もなし。意識もはっきりしている。これ以上、関わるべきなのか。
しかし、こういう土壇場では理性が行動を決めるのではないのです。
からだが動いてしまう。口が動いてしまうのです。

「立てますか。痛いところはありませんか」
「ない」とおばあさんは言います。
わたしはじぶんの名前、それから住所と電話番号を伝えました。
紙に書いて渡したのです。
「なにかありましたらご連絡ください」
おばあさんとわたしはそれぞれの方角へ別れました。
もちろん、目的の電車は行ってしまっている。
プラットフォームでわたしは考えました。
「いまのはいったいなんだったのだろう……」
身震いがしました。
もし運が悪ければ、わたしがあのおばあさんを死にいたらしめたことは間違いない。
あのくらいの高齢だと打ちどころが悪ければ簡単に死ぬことでしょう。
かりにそうなっていたら、わたしは刑務所へ行くのだろうか。
それとも執行猶予がつくのだろうか。
民事の慰謝料などいくら払えば解決するのか。

しかし、とも思う。果たしてわたしは悪かったのか。
たしかにあの場面では謝罪しました。
が、ほんとうにわたしに責められるべき箇所はあるのか。
殺意がまったくないのは言うまでもないことです。
そもそもあのおばあさんを知らないのですから。
わたしはただ電車に乗ろうと急いでいただけです。
これはそんなに批判されることでしょうか。
だれだって電車の時間が迫れば走るのではありませんか。
走った。ぶつかった。相手が死んだ。こうなった場合、走者に罪はあるのか。

ふたつの罪がある。まずは法律上の罪です。ひとがひとり死んでいる。
この結末をつけるためにはだれかを罪人にしなくてはならないのでしょう。
しかし、だからといって、わたしが刑法に問われなければならないのか。
おばあさんがうっかり足を踏みはずして階段を転げ落ちて死んだのならそれだけ。
急いでいる人間と衝突して、老体が死に及んだ場合は、相手を有罪とする。
これではあんまりではありませんか。
もうひとつの罪があります。人道上の罪です。道徳の上での罪悪。
けれども、これを問うのもおかしいのではないでしょうか。
わたしはただ急いでいただけです。走っただけなのです。
ひとを傷つける意思などまったくありませんでした。
それが他人を死にいたらしめてしまう。
しかし、だからといって、当人になんらかの罪はあると思いますか。
かれはどんな悪業を為したというのでしょう。ただただ走っただけではありませんか。
裁判官は言うかもしれない。
身勝手にじぶんの都合しか考えずに走行した被告人の罪は重い。
被告人がしっかりと時間を計算して家を出ていたら、このような事故は起きなかった。
果たしてそうでしょうか。世界というものは、そんなものでありましょうか。
なんらかの事件の原因をすべて人為に帰せるものでしょうか。

こうやって考えていてもなかなか電車は来ません。
20分も電車を待つのは、やはりそこそこに腹立たしいことです。
さてと思う。
わたしは運が良かったのか。それとも運が悪かったのか。
電車を乗り過ごしたという面から見ればこれほど運の悪いことはありません。
しかし、衝突した相手のおばあさんの傷が浅かったことを考えると、
運が良いとも言えます。
いったい、と思いました。いったいこの人生というものはなんなのだろうか。
人間の自由など、どこにあるのだろう。
もし先ほどの事故で相手の打ちどころが悪ければ、
わたしの人生など完全に終わっていたわけです。
そして、とさらに考えを進めます。
わたしはなんとか平気でしたが、このような事件で苦しんでいる人間もきっといる。
急いでいた。うっかりぶつかった。相手が死んでしまった。賠償だ裁判だと地獄である。
なにより相手方の遺族から恨まれるのも辛いことでしょう。
こうなった場合、人間はおのれの行為に責任を取れるものなのか。
さいわいいまのところわたしはこういう災害から逃れえている。
今日の実害は、義理で聴きに行く演奏会に数分遅れる程度であろう。
わたしのケースは、これでよかったのです。
しかし、人間全体を考えるといったいどうなるのか。
だれがあした意図せずして他人を殺めないと断言できるのか。
空恐ろしくなりました。人智の及ばぬ大いなるものへの畏怖を身をもって感じました。
まだ恐怖は終わっていません。
というのも、あれから1日経ちました。
とりあえず、あのおばあさん関係の連絡はありません。
これで安心してもいいのでしょうか。人間は安心できるのか。
わかりません。わたしにはわかりません。
おうかがいます。あなたにはわかりますか? あなたは安心できますか?