まえに山口文憲の「読ませる技術」を立ち読みしたらこんなことが書いてあった。
この書物はエッセイ・コラムの指南書である。
いわく、書きたいことなど書いてはいけない。ならなにを書くのか。
読者が関心のあることを書かなければならない。
だれもあんたになんか関心がないんだ。
文章というのは書き手の事情で書くものではない。
読み手がもっとも尊重されなければならない。
素人はこれをいつまで経っても理解しないので困る。
売れっ子エッセイストの著者はことさら大仰に嘆いていた。

無名の素人が人気の売文家に反論できるはずもないのだが、
ちょっとなんだかなという違和感がある。
むろん、人気作家の発言にたてつこうなんていうつもりはない。
けれども、それではダメなんじゃないかな、なんてこころのどこかで思っている。
おまえはプロになれないとお叱りを受けることだろう。
仰せの通りである。ご批判を甘受する。

さっきまで例によって山田太一のシナリオ本を読んでいた。
たまらなくおもしろいのである。
1分間以上、笑いがとまらなくなることがあった。
おさえてもおさえても涙があふれてくることもだ。
山田ドラマを読んでいると顔が変形してしまいそうになる。
泣いて笑って大忙しなのである。
ふと、冷静になる。
山田太一はどういう欲望からドラマを描いているか。
エッセイによると、じぶんが見たいドラマを書いているに過ぎないのである。
こんな人間がいたらいいな。こんなシーンがあったらいいな。
つまり願望をシナリオ化しているわけだ。

山田太一ほどの人気ライターが、書き手のこだわりで作品を仕上げている。
もちろん、それは山田太一が天才だからなのである。
凡人のわたしが真似をしていいという話ではない。
けれども、1千万人レベルの受け手を計算しているシナリオ作家が、
それでも書く動機の根本として自身の願望をあげていることは軽んじてはならない。
万民に受けようなどと思ったところで、そんな作品は書けるはずがないのであろう。
狭いじぶんの世界を徹底的に構築することで、逆説的に広く受け容れられる作品になる。
山田太一は幸福な作家のひとりである。

凡才のわたしが真似をすべきことではないのはわかっている。
読み手のことを考えるのがだいいちなのだろう。
けれども、なにを書くかと問われたら、
やはり最終的にはじぶんの読みたいものを書くしかないのではないだろうか。
じぶんで読み返してふきだしてしまう。照れながらも、いいなと涙ぐむ。
そういう自己愛めいたこだわりのなかからしか人間はものを書けないのではないだろうか。
ものを書く際の基本態度は、じぶんの読みたいものを書く。
結果として売れなかったらば仕方がない。あきらめるほかない。
残念だけれども、持って生まれたものが世間とは一致しなかったということだ。
繰り返すが、ものを書くというのは、
畢竟(ひっきょう)じぶんがどんな文章を読みたいかを突きつめる行為ではないか。
これは間違えているのかな。そこまで間違えていないような気もするのだが。
いずれにせよ素人のざれごとである。

(補記)
10人に読まれて10人に好かれる文章はだれにも書けないのではないか。
ただし10人に嫌われない文章なら書くことも可能なのかもしれない(A)。
5人に好かれて5人に嫌われる文章もある(B)。
1人から熱狂的に支持されるが9人から嫌悪される文章もある(C)。
悲惨だが、10人のうちだれからも好かれない文章も存在する(D)。
D以外のABCはそれぞれ名文といっても構わないような気がするが、どうでしょうか?