ふたりに会ったのは馬蹄寺石窟(ばていじせっくつ)へ行くバスのなかだった。
男が英語で話しかけてきた。女がその横にいた。
我われも同じところへ行くつもりだとかれは言った。バスの車掌から聞いたという。
例によってわたしは行き先を書いたメモを振りかざしていた。
ふたりとも24歳の大学院生。男は植物学を学んでいる。女は文学だと言った。
「横に座りませんか」
ふたりの横の席が空いたのですすめられた。
バスに揺られながら1時間ほど簡単な会話を交わす。
ふたりにうながされバスを降りる。どうやら直通のバスはないようである。
ここからタクシーをチャーターしなければならない。
植物学生が運転手と交渉している。
助かったと思う。ひとりだったらまずたどり着くことはできなかったであろう。
そこからタクシーで30分。さびれたテーマパークめいたところへ入場する。
いらないと拒否する女の手にタクシー運賃の半額を押し込む。
シーズンではないのだろう。観光客は見当たらない。

「寒い」と女が言った。わたしも同意した。どういうわけか雪がふっているのである。
もう5月も目前だから、よほどここは高度が高いのだろう。
さて、どうしようか。わたしの見たいのは馬蹄寺石窟だけである。正確には三十三天洞。
岩山内部をアリの巣のように洞窟が通じている。入ると壁画が多数見られるようだ。
仏教遺跡である。仏さまを求めて、こんな雪ふるところまで来たのである。
もっとも過大な期待を抱いているわけではない。暇つぶしである。
そもそもここまでたどり着けるかがわからなかった。
気のいい中国人の男女のおかげで苦もなく来ることができた。これだけで満足である。
男は研究の素材を探すのが目的だという。高山でしか採取できない植物がある。
それを持って帰るためだけにこんなところまで来たというではないか。
「帰りはバス停留所まで、行きとおなじタクシーに来てもらいます」
かれは携帯電話を手で振った。
「ご一緒させていただけると」
「もちろんです」
感謝の言葉を伝える。
「どうしますか、これから?」
「いえ、その。ご迷惑でなければ」
「そうですね。せっかくだから」
かくして3人で行動することになった。
目当ての草花が見つかったのか、若き植物学者は一心不乱に緑と向き合っている。
「かれはほんとうに好きなんだね」
「ええ、そうなの」
若い男女に好感を持つ。男が好きなものに夢中になっているすがたは気持がいい。
それを応援する女も好ましい。
そういえば、むかしいつだったか失恋したとき、こんなことを言われたな。
「どうすればいいんだ。どんな男が好きなのさ」
にやにやしながら(わたしにはそう見えた)女は答えた。
「じぶんの世界を持っているひとかな」
当時はウソつけと思ったものである。

男の植物採集に思いのほか時間を取られる。
物事に夢中になるとまわりが見えなくなる性格なのだろう。
植物にさしたる関心を持たないもの同士で意気投合したわけでもないが、
かといって話さないのも不自然である。
「かれはボーイフレンド?」
「友だち」
「だから恋人なの? かれのこと好き?」
「わかんない」
「結婚とかするつもりないの」
ぶしつけな質問をする日本人である。
なれない英語で細かいニュアンスのやり取りは不可能なのだ。
彼女は細身でちょっと冷たい感じがする女性。知的な印象を受ける。
男の研究活動がようやく終わったようで、我われ3人は三十三天洞への坂道を登った。
別料金である。このテーマパークへ入るときにも料金を徴収されているのである。
しかし、ここから先は新たな入場料を払えというのだから中国って国は。
男は払わない、見ないとあっさりしたものである。そこらを歩いているという。
女はせっかくだから入るとのこと。むろん、わたしもである。これ目当てに来たのだから。
ふたりで三十三天洞へ入った。

雪をさけるように洞窟へ入っていく。観光客は我われふたりだけのようである。
無理もない。こんなアクセスの悪いマイナーな洞窟なんてだれが来るものか。
よほどの燃えるような恋情でもなければ、である。
とすると、わたしは仏さまに恋をしているというのか。いな、である。
同性愛の趣味はない。
なかは暗く、迷路のようになっている。通るのに骨を折る細い通路もいくつかある。
中国の女と手を取り合いながら先へ進む。
そのうち異性を意識してしまい、そんなじぶんの感情の変化に驚く。
ふむ、なんてもっともらしく思う。これはお化け屋敷効果なのだろうか。
未知の暗所に男女がふたりいると、それぞれおのが性別に気づかされる。
意外なことだと思う。
三枚目のわたしがどんな顔をしてこのようなことを言えばいいのかわからないが、
近年いわゆる恋心というものを抱いたことがなかった。
思えばこのどきどきした感じは、なにか懐かしいものがあるのかもしれない。
ガイドブックには壁画と書いてあったが、洞窟のなかにあるのは仏像ばかりである。

正確を期すと、これらは仏像ではないように思う。
ヒンドゥー教がそうとう入っている。
狭いところにふたりでいる気詰まりを解消せんと話しかける。
「外国へ行ったことはある?」
ないとのことである。
「3年前だったか。3ヶ月かけてインドをぶらぶらしたことがある。
そのときも、たくさん彫刻を見たんだ。あれをなんというのだろう。神像かな」
女はうなずく。
「ここにある彫刻は、そのときインドで見たものと、とてもよく似ている。
これ、ここを見て。これは中国人の顔ではないでしょう。日本人でもない。
どう見ても、インド人の顔じゃない?」
お互い顔を見合わせる。インド人を見たことないからわからないと女は言った。
ここでは口にしなかったが、インドの彫刻にはある特徴がある。
身もふたもない言いかたを許してもらえれば淫猥なのである。
もっと直截的な表現をするならエロい。グラマーな肢体を惜しげもなく公開する。
あえて変態オヤジ的な物言いをすれば、オッパイぼよよんで、オシリぷりぷりなのである。
いま目のまえにある神像には、歴然とした仏教とヒンドゥー教の闘争の痕跡が見られる。
顔は欲望などないような清澄を気取っているが(仏教)、
それを肉体が裏切っている(ヒンドゥー教)。
これはインドのシヴァ神と言っても通じるのではないか。
たしかにシヴァ神は男性神とされているものの、両性具有のものもあるはずである。
少なくともインドで何度か見かけた。シヴァ神の胸がふくらんでいてもおかしくない。
あるいは、これはシヴァの妻であるパールヴァティーかもしれない。
女神カーリーほどの凶暴性は見て取れない。

仏教とヒンドゥー教。彫刻だけで比べるならどちらが好きか。
ヒンドゥー教のほうである。
悟り澄ました聖人の遺影と、ポルノめいた春画を比較するようなものだ。
お釈迦さまより女の裸というのは、いささか露悪的だが、今現在の真実である。
インド女神の彫刻には秘所があからさまに刻まれている。
どちらかの選択を迫られたら、痩せこけた仏像よりも豊かな女体であろう。
欲望ということ。これが時間的空間的にインドを貫く芯なのではあるまいか。
ヒンドゥー教は、人間の欲望をそのまま肯定する教えである。
ヒンドゥー教の前身はバラモン教。このバラモン教に反旗をひるがえしたのが釈迦である。
釈迦仏教の要諦をひと言でいうなら欲望の止滅であろう。
人間存在は苦しみに満ちている。苦というのは、ままならぬということだ。
ならなぜままならぬ状態(=苦)が生まれるのか。人間が欲望を持つからである。
そうだとしたら、この欲望(煩悩)を滅すればこころの安らぎが得られるのは必定。
以上が原始仏教の説く四諦(したい)の教えである。
なんのことはない。せんじつめれば、
仏教もヒンドゥー教も――インド人はみながみな――欲望にとらわれているのである。
インド人ほど欲望の強いものは、そうそういないということだ。
だからヒンドゥー教が生まれる。反作用として仏教が誕生する。
どちらも根はひとつで、それは強大な欲望なのである。
宇宙的な規模を持つ壮大な欲望だ。
東西比較をしてみるとおもしろい。
西欧ではギリシアの神々(欲望肯定)はイエス・キリスト(禁欲)に滅ぼされている。
一方で、少なくともインドでは釈迦(禁欲)がヒンドゥー教(欲望肯定)に殺されている。
言うまでもなく、現在インドにおいて仏教は滅亡している。
この比較はむろん素人考えだが、それでもなかなか魅力的なものだと思う。

「インドって、どんな国なの?」
問われて我にかえる。中国にいたのだった。
インドはどんな国だったか。
「一度、行ってみたいと思って。インドについて教えて」
「インドは……暑い。うん、暑い国だ。大地も人間もおかしなほど熱い。
まったくインド全体が暑苦しいというほかない」
雪のふる中国でインドの話をしようとは。
しかし、インドは暑いのである。人間は暑いとのどが渇く。水を求める。
水を涼を欲望する。渇愛(かつあい)する。
けれども、ままならぬとき、ひとはどう生きるか。
ふたつの生きかたがある。天にひたぶる降雨を祈るか。地に座し平静を装うか。
前者がヒンドゥー教で、後者が仏教ではあるまいか。

どれくらい洞窟を歩いたのだったか。ふたりのまえに一体の彫刻が現われた。
欲望があるような、ないような、とてもいい顔をしていた。
「これいいね」と日本人が言った。
「あたしもこれがいちばん好き」と中国人が応答した。
からだ全体からふしぎな魅力を放っていたが、その源泉がどこなのかはわからない。
なにゆえこうも人間をひきつけるのかわからないのである。ふと思いつく。
「これ、どっちだって思う。つまり、男か女か」
「男でしょう」と女は即答した。
「いや、これは女としか思えない」
わたしは反論した。日中で真っ向から意見がわかれた。あるいは男女のあいだで。
女はちょっと怒ったような顔をして、これは男だと繰り返した。
むきになっているのが新鮮な印象を受けた。だが、同意はしなかった。
「近づいてみよう」
女を誘った。神像にさわるなとはどこにも書いていなかった。
胸をなでてみる。
「ほら、ふくらんでいる。これは女だ」
「男だって胸の厚いひとはいる」と女は言う。
「なら、これで決まりだ」
わたしは笑いながら神像の股間を指さした。「だから女だろう」
それでも女はじぶんの直感に固執するのである。
「釈迦の像にもそれはない。だったら釈迦は女というのか」
女は「それ」と言うとき、恥ずかしそうに顔を崩した。
ふたつにひとつなのである。男であれば女ではない。女であれば男ではない。
人間はだれもが生まれたときに、ふたつにひとつを定められている。
どこにも性別を希望しえた人間はいない。生の根本にある最大の謎である。
さらに人間にとって異性はどこまでも未知である。
だから異性を求めるものがいる。忌むものもいる。
質問をかえる。
「じゃあ、これは人間だと思う?」
女は意表をつかれたようである。
「人間だったら男女の別がかならずあるけど、もし人間ではなかったら。
人間を超えるものだとしたら」
女はわかったという顔をした。
「そう、かならずしも男か女か限定できるものではない。
男でも女でもないかもしれない。男であって女でもあるかもしれない」

最上階へ到達すると行き止まりになっている。
先を歩いていた女が立ちどまり、手招きする。
「ここどうなっていると思う?」
女の目線をたどり足もとを見ると、床は岩ではなく木が組まれている。
窓から下界が見下ろせる。ずいぶん高くまで来たものだと思う。
まだわからないのかと女が説明してくれた。
いまふたりがいる小さな木造の小屋は岩山の断崖に人為で設置されたもの。
だから、この床の下はなにもない。床が抜けたら真っ逆さまに落ちていく。
そういうことかと納得する。途端に恐怖が身を襲う。
女は悪戯っ子のように笑いながらその場で飛び跳ねる。
やめろよとあわてる日本人である。
かいま見た女の顔が上気していて、一瞬きれいだなと感動した。

洞窟から出ると、まだ雪はやんでいない。
かび臭い空気から開放されて、寒いけれどもすがすがしい。
大げさに言えば、生まれ変わったような気がしたものである。
青年植物学者がいないので、ふたりで探しまわる。
声がするので見上げると、かれが手を振っていた。どうしてかホッとした。
男のいるところへ行くには、かなりの階段を登らなければならない。
小高い山の頂上にいるのである。ともあれ高所を好む中国人を微笑ましく思う。
息を切らせて階段を登ると再会である。女が男と中国語で話している。
男が、手にしているデジタルカメラで撮影してくれるという。
「いやいや」と断わり、「わたしがお似合いのご両人をお撮りいたしましょう」
雪山を背景に中国人学生ふたりの青春が輝いている。
そういうふうな写真を撮りたいと思った。
成功したかどうかはわからないが日本の撮影者の意図はそうであった。
いいなと思う。この男女はこれからどんな人生を送るのか。
結ばれるのか。それとも、いつか別れる日が来るのか。
男からメールアドレスを聞かれた。今日の写真を送ってくれるというのである。
(後日ほどなくして写真が送られてくる。まだわたしが中国旅行中のことだった。
残念ながらわたしの撮影したふたりの写真は添付されていなかったので、
思い入れのある写真がどのように撮れていたのかわからずじまいである)

それから我われはタクシーに乗った。バスに3人並んで座った。
男女が食べないかとパンをすすめてくれたのでいただいた。
「中国のお酒。あの白酒(バイジウ)はとんでもない酒だね」
わたしが苦笑しながら言うと、
「白酒は大好きだ。いくらだってのめる。かつて1リットルのんだこともある」
へんに強がっている男を女が笑った。日本人も笑った。
今晩のまないかと誘ったら、予定が詰まっているのだという。
張掖の南関バスターミナルへ到着した。男女はここでバスを乗り換えるらしい。
去っていく男女の背中を見ていた。一度、女が振りかえり、バイバイと手を振った。
おなじように手を振った。まだ明るい。わたしも歩き始めた。