女優の瀬戸朝香さんが結婚した。お相手のかたを、恥ずかしながら知らなかった。
調べてみたらV6という有名なグループの、これまた芸能人さんのようである。
テレビでお顔を見たかぎりでは、売れている芸能人特有の驕りもなく好人物のようだ。
おふたりにはお幸せになってほしいと思う。
芸能ネタをこのブログに書くのははじめてだが、理由はいちおうある。
むかし瀬戸朝香のファンだったのである。
好きな女優の結婚話を耳にしたときの男性一般の感覚について書いてみたい。
だれも本気で嘆いたりはしないでしょう。ちぇっと思うくらい。
美男美女で、この世の中はよくできていやがる。
「口惜しくないの?」なんて、たとえば女性から聞かれたとする。
既婚者なら配偶者からでもいい。
「そんなことねえよ」なんて口では答えながら、みながみなこう思うはずである。
持って生まれたものがちがうからな。

これがいちばんいい考えかただと思うのだ。持って生まれたものがちがう。
人間はみな持って生まれてくるものがちがう。貧富、美醜、知能、性格――。
へんなことを思い出した。
大学1年生のとき、ゼミで教育関係の発表をしたことがある。
偏差値教育の弊害について、だったか。
当時偽善者だったわたしは三流高校に入ったものの悲哀を強調した。
むかしからキチガイだったので、山田詠美「ぼくは勉強ができない」から引用したり、
まあ、大学教授を不愉快にさせるあらゆる要素をそろえていたものだったと思う。
早稲田の女学生でこんな感想を書いてきたものがいた。
がんばっていないから底辺校に入ったのだ。自業自得なのだから仕方がない。
このような書きかたをするのはよくないが、あまり美しいとはいえない女子だった。
恋愛面のほうでもがんばっていた。
似合わないファッションを好むのを見て、がんばるもんだなと苦笑したのを覚えている。
いまはなにをしているのか。優秀な子だったから一流会社でばりばり働いているのかな。
あるいは、べつの方面でのがんばりが功を奏して、一流の男でも捕まえたか。
まさか、な。あの顔だからそうそううまくはいかないだろう。
なんにせよいまのわたしが彼女に会ったらどんなお説教をされるのか恐怖でぞっとする。

でもさ、持って生まれたものって、やっぱりあるよね。
人間の不幸の9割(ほんとは10割と言いたい)が
持って生まれたものと関係していると思っている。同様に幸福も、である。
持って生まれたものを考えない生きかたは、うまくいっているうちはいいけれども、
そのうちなんとも生きづらくなってくるように思うのですが、どうでしょうか。
人間には解きあかせぬ謎――死でさえも、持って生まれたもので納得がゆく。
(説明がつくとは書いていない。当事者の納得がゆく。おさまりがつくを問題にしている)
持って生まれたものがなくなったら人間は死ぬ。
難病で苦しみながら死んでゆく子ども。いじめで自殺する中高生。
変質者に殺害される妙齢の女性。
なんでこういうことがあるのかとひとは思う。持って生まれたものではないか。
哀しいことだけど、そうなるべきものを人間存在の奥深くに有していた。
飲酒運転でひとをあやめてしまうのもおなじである。殺人も同様である。
「歎異抄」の親鸞ではないが、凡人がひとを殺そうと思ったところでなしうるものではない。
殺人者は、そうなるべきものを、持って生まれてきたのである。
持って生まれたものに思いをめぐらすだけで、だいぶひとは生きるのが楽になると思う。

このへんでぼんやり生きているのがいちばんいいのだが、人間はもう一歩進んでしまう。
では、どうして人間によって持って生まれたものが異なるのか。
なにゆえじぶんはこうしたものを持って生まれたのか。
これはどのようにも説明がつかない。
欧米人は神を持ちだすのだろうが、無神論者の日本人には厳しい。
なら、こう考えてみたらどうだろうか。
前世の行為の結果が現世に影響している。
前世があるかどうか、どのような科学でもっても確かめようがない。
だから前世が存在しないというのはおかしなことで、
というのも前世が存在しないということも科学から確証を得られる問題ではない。
信じるか信じないかの、極めて個人的な問題である。
わたしが信じているからといって、だれもが信じなければならないというものではない。
けれども、信じると、少し楽になるんじゃないかな、と言いたいのである。
貧乏つづきの人間がいる。
「はあ、じぶんは前世では大地主かなんかで、だいぶ無辜(むこ)の民を虐げたのだな」
良縁にめぐまれない男性がいる。
「やれやれ、じぶんは前世では、あんがい強姦魔だったのかもしれない」
大久保清のことを知り図書館で調べてみる。
偶然にもこの犯罪者の死亡した年と、じぶんの誕生年がおなじで、やはりと納得がゆく。
こうして暇つぶしをしながらじぶんをごまかして生きてゆく。
前世などということは、あるのかないのかだれにもわからない。
ならあると思って生きるのも、悪くはないのではないかと思うのである。
それでいささかでも慰められるのであれば、どうして責められることがあろうか。

前世を考えたら来世も考えてしまうもの。これもじつに有効な思考法である。
現世はダメかもしれない。けれども、来世があるではないか。
たとえば作家志望の人間はたくさんいるけれども、成功するのはほんの少数。
バンドで騒いでいる若者も多い。そのうち世に出るのはわずかなものでしょう。
いま話題のネットカフェ難民だって、だれもかれらが金持になるとは思わないよね。
せいぜい良くて人並みの生活くらい。
それは1万人にひとりくらいはベンチャーを起こして成功してほしいけれども。
現世は持って生まれたものに支配される。もうどうしようもないのである。
あまり他人事のように語るのはよくないから、書き手のことも話そう。
わたしはもう人生が終わったものだと思っている。
結婚も金持になることも現世ではかなわないとあきらめている。
なんとかものを書いて、年収150万円でもいいから食べていきたいが、
才能がないから、おそらくそれさえも無理だろう。
いまの願いといえば早死である。どうにかうまく交通事故に巻き込まれないか。
自殺というのは周囲に悪影響をおよぼすから好ましくない。勇気もないしね。
飲酒運転かなにかでと願っている。苦しみたくない。痛くないのがいい。
一瞬で死なせてくれたら、こちらにとっては最高の幸福である。
しかし、これもまた持って生まれたものに左右される。いくら願ってもままならぬ。

来世のことをよく考えている。これほど慰められることはない。
このへんでお叱りを受けるだろう。
がんばりやさんは激怒しているかもしれない。「だから、あなたは」なんて。
だから、なんなのでしょうか(哀しい笑み)?
むろん、がんばりは否定しない。がんばろうと思っている。
けれども、持って生まれたものの範囲内でという限定をお許しください。
人間のがんばりというのは、持って生まれたものを発見するかぎりにおいて有効だと思う。
おのれはなにを持って生まれたのかを知るためのがんばりならわたしも賛成である。
だが、それを超えるがんばりというのは、みずからをさいなむだけではないか。
作家先生や、たたきあげの社長さんが、たまにこんなことを言う。
成功者とよばれる人間の主張である。
「人生というのは帳尻が合うものだ。いいこともあれば、悪いこともある」
これはあらゆる面から見て、間違えていると思う。
まず、かれらの発言はじぶんが成功していることを前提としている。
一生報われない作家志望者や底辺労働者のことをまったく考慮に入れていない。
それから、もうひとつ。かれらはまだ死んでいない。
死ぬまでは人生の帳尻などわかるはずがない。
老後になってから妻子に自殺されてしまうようなことがないとだれが断定できよう。
わたしはこう考えている。
「前世、来世を考えると、人生というのは帳尻が合うのかもしれない」
現世で不幸な人間は、前世の結果だから仕方がない。
けれども、辛い現世を生きた人間は、かならず来世で報われる。
来世ではすばらしいものを持って生まれてくる。
わたしはこう信じている。いや、実際はまったく信じていない。
だが、信じたいと思っている。だから、この記事を書いた。