「アジアの誘惑」(下川裕治/講談社文庫)

→いろいろな旅のスタイルがあっていいのだ。
下川裕治の旅の仕方は、のちに日本人バックパッカーの基本となったもの。
すなわち、とにかくカネを使わないで長期間だらだらする。
欧米人パッカーもこれが多いようである。
資本主義の発達した国で生きていると疲れるわけだ。
意識せずとも早歩きになってしまう。
みんなとおなじ速度で歩くことを、ことに日本の社会は強く要求する。
これは欧米以上ではないか。
日本人の群集の行進を、たとえばアジアのような後進(発展途上)地域から見ると、
なんで全員参加の徒競走をやっているのだ、となる。
そんなに急いでどこへ行くの? である。途中の風景も見られやしないじゃない。
アジアをぶらぶらしていると、そのようなことに気づく。
この国で生まれ育った人間には、アジアのそこかしこが輝いて見える。
だが、そういう魅力はゆっくり歩いていないと発見できない。
これが下川裕治の旅である。
安いドミトリー(集合部屋)に宿泊して食事は屋台で済ます。
カネのかかる観光地には行かないで、町を歩くひとびとを日がなながめる。
下川裕治の旅はもっともぜいたくなものなのであろう。
かれはアジアで無為を発見したのだと言っても大げさではない。
元来働きアリの習性をおそらく日本人は持っている。
我われが無為を知るにはアジアの後進国へ行かねばならない。
(発展途上というのはおかしな言葉だ。なぜ発展する必要があるのかわからない)
わたしはまえから下川裕治のファンだった。
今年のアジア周遊も、ある面、この旅行作家の影響であった。
ところが、実際アジアへ行くと――。
根っからの日本人なのであろう。無為に堪えられない。
猛スピードで観光地をまわってしまうのである。そうでないと気が済まない。
町をながめながらぼんやりなど、とてもこのわたしにはできなかった。
それでも帰国して下川裕治の本を読むと、こういう旅はいいなとあこがれる。
下川裕治は旅の愉楽を知り尽くした旅人である。
「中国いかがですか?」(小田空/創美社)

→旅行というのは3回おいしいのである。
まずは行くまえ。もしかしたらこれがいちばんかもしれない。
まだ見ぬ国を思いどきどきする。
旅行しているあいだが楽しいのはむろんのこと(インドは数少ない例外のひとつ)。
帰国してから、このような本(漫画かな)を読んで、その国について知るのも楽しい。
おなじ国でもひとによって見かたは異なる。
著者の「マイ中国」を読みながら「むふふ」がいつの間にか「ふむふむ」になるのも楽しい。
旅行ほど楽しいものはないというのがいまの考えである。
旅はいつだって劇的なのだから。
劇の構造というのは、たいがい新たな人間が登場することで開幕することになっている。
そして、かれが去ってゆくところで閉幕する。
つまり、旅とは不断に劇を繰り返すことでもあるのだ。
迷っているなら旅立ってしまえ! だれかの背中を押したいと思いながら本文を書いた。
「図説 敦煌」(大橋一章/河出書房新社)

→敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)はいちおう見たけれども、
なにひとつ記憶に残っていない。どの仏画・仏像もこころに痕跡を残さなかった。
けれども、ブログに旅行記を書いているので、さすがにこれではまずい。
というわけで、この写真集を買ったしだいである。
旅行記ではウソをつくだろうから、ここでは本音を。
仏画・仏像を見てなにが楽しいのかまるでわからない。
きれいだとも思わないし、こころが洗われるような感動もない。
この写真集で一度見たであろうものを見直したが感想は変わらない。
年齢の問題かな。まだ熟していないのかもしれない。

本書から知りえたことを列記する。
敦煌は国際仏教都市。西方文化のアンテナ都市であった。
中国の仏教受容に時間がかかったのは、この国が高度な文明を持っていたから。
黄河文明である。地理的状況も黄河文明とインダス文明を分け隔てた。
あちらはあちら、こっちはこっち。お互い双方の文化を必要としていなかった。
自国の文明で満足していた。
けれども、日本は仏教を急速に、それも丸ごと受容した。
これは日本の文化水準が中国に比して圧倒的に低かったためである。
そもそも文字すらなかったのだ。
日本の仏教は文字から建築まで中国のものをそのまま輸入した。
一方で中国仏教の建築物はインドのものとまったく異なる。
インド仏教はそうとう妥協して中国へ取り入った。
というのも中国文化は現実的傾向が強い。インド文化は空想的。
莫高窟の壁画には仏教とは縁のない中国思想がおおっぴらに描かれている。
この妥協性こそ仏教の特徴である。なんでも取り入れてしまう。
著者によれば、日本人の定見のなさ、融通無碍の精神構造は仏教思想から醸成された。
もとをたどれば仏教はインドの思想宗教のなかで有力なものではなかった。
ヒンドゥー教、ジャイナ教と比べるとはるかにマイナー(ほんとかな?)。
ところが仏教のみが国外に浸透したのである。
(おい、ヒンドゥー教は仏教にまぎれて日本へ来てるぞ!)
「図解雑学 中国」(渡邉義浩・松金公正/ナツメ社)

→なにか新たな分野を勉強しようと思ったとき、
まず「図解雑学」から入ってしまう恥ずかしい読者です。
目次はこうなっている。

序章「中国の人と自然」
第1章「中国の国家と政治」
第2章「中国の地方とくらし」
第3章「中国の経済」
第4章「中国のビジネス環境」
第5章「中国の歴史」
第6章「中国の文化」
第7章「世界の中の中国、日本」

文学部出身のせいか、中国と聞いて関心を持つのは歴史と文化くらい。
何回学んでもわからない中国史と、やたらものものしい孔子だの老子だの。
けれども、ふうむ、地理、政治、生活、経済、ビジネス、国際関係もあったのか。
ひとつの国を知るというのはたいへんなことだ(優等生的凡庸発言)。
感想を書けと言われても困る。へえ、そうなんだとしか言いようがない。
これから中国を勉強するつもりだが、どうしようもなく文化・歴史に偏ることと思う。
だって、日本の政治経済についてもよく理解していないのに、人様の国のことなんてねえ。
わからないことはわからないと答えるのがいさぎよい態度だと思っている。
「重力ピエロ」(伊坂幸太郎/新潮文庫)

→いま売れているというので読んでみたミステリー小説。
220ページで断念。途中で放り投げたわけだ。
極度にケチなわたしが書籍を最後まで読まないのはほんとうにめずらしいことである。
とくにこの本のようにブックオフではなく、定価で買った場合は。
主人公はオレ流の生きかたがある博識の青年。
なにごとにも意見があるクールなボクはみんなからは理解されにくいタイプ。
だけど、読者のきみはわかってくれるよね。ボクときみはおなじだよ。
村上春樹的な腐臭に怖気が走るが、若い女性様はなぜかこういうのが好きなんだよな。

「人の一生は自転車レースと同じだと言い切る上司もいれば、
人生をレストランでの食事にたとえる同僚もいた。つまり(後略)」(P145)


なにか気の利いたことを言っているつもりなのが痛い。
人生を斜めうえから見ちゃうオレって、すげえクールじゃねえ、みたいな。
この馬鹿野郎の弟がもっとクール。なんとレイプで生まれてきちゃったのだ。
母親がレイプされて生まれてきたという設定。
わかんねえよな。こんなものは物語を動かすための単なる設定でしょう。
作者の怒りも悲しみも入っていないお人形さんなわけだ。
なのに、こういうヒーローに感情移入する読者がいるのはどういうわけだい?
それが女子供の特徴なのかな。
連続放火事件が起こる。ボクと弟は捜査を開始するが、しだいに弟がわからなくなる。
もしや弟がこの事件にからんでいるのでは――。
こんな感じで読者をひきつける作戦なのだろう。置いていかれたわたしであった。
アマゾンの感想をチラ見して驚いたが、この程度の娯楽小説を読んで、
犯罪被害者の問題を論じる人間もいるんだね。善良もほどほどにしとけ、な?
「あした来る人」(井上靖/新潮文庫)絶版

→井上靖の小説のテーマは一貫している。
「生と死」「幸福と不幸」である。これは物語の根幹をなすものでもある。
ままならぬ生と死にはさまれた人間は、それでも幸福になりたいと思う。
けれども、ひとりの人間が幸福になるためには
他の人間を不幸にしなければならぬときがある。そのときどうしたらいいか。
この小説における最大の葛藤はヒロインが妻のいる男性を愛してしまうことだ。
ふたりが結ばれたら男性の妻は傷つくであろう。
なにゆえこのような葛藤が生まれるのか。
「持って生まれた」もののためである。
この「持って生まれた」は井上靖の小説で頻出する言葉だ。
先に、人間はままならぬ生と死にはさまれていると書いた。
この始点たる誕生の不自由を井上靖は「持って生まれた」と言っているのである。
結局、ヒロインは妻のいる男性のまえからすがたを消す。
これをもって保守的でいかんなどと批判するのは筋違いである。
井上靖は小説で道徳を説くつもりはなかった。
かの文豪は、定かならぬ生死に翻弄され、それでも幸福をめざす人間を愛した。
それだけなのだと思う。
一般的に物語作家の実人生は波乱万丈と無縁なことが多いように思う。
統計もなにもない。ただわたしの好きな物語作家がそうであるというだけの話だ。
かれらにとって波乱万丈は物語で書くもので、そのただ中を生きるものではない。
おのれが波乱万丈に生きることでどれだけの人間が傷つくのか。
本来的にモラリストである物語作家は、現実の波乱万丈には尻込みするのかもしれない。
「この人生に乾杯!」(山口瞳と三十人/TBSブリタニカ)絶版

→山口瞳追悼特集本――。
作家は二枚目と三枚目がいると思う。実際の顔がどうのこうのと言うのではない。
問題は意識のみである。じぶんを二枚目と思っているか、三枚目と思っているか。
言いたいことはなんとなくわかっていただけるのではないか。
作家には明確な相違があるでしょう。
自己陶酔か自虐かというほど簡単ではないけれども。
たとえば村上春樹の天才は、あの顔でじぶんを二枚目と思えるところにあるわけで。
吉本ばななも、それに近いものがある。
二枚目作家(しつこいが実際の顔のことではない)は、たいがい異性の読者から好まれる。
わたしは柳美里が好きでたまらないけど、ある女性にそれを言ったら、
とんでもないと怒られてしまった。柳美里、大嫌い、早く死ねと(笑)。
わかるわかる。ふつうの女性なら柳美里は嫌いだよね。
よほどじぶんの容貌を勘違いした女性にしか柳美里は好かれないと思う。
で、柳美里嫌いの彼女が好きだというのが保坂和志。
今度はあんなのはダメだ、死んでしまえとわたしが言うことになる。
島田雅彦のように実際に顔が良くてなおかつ二枚目文体は、死ねではなく殺す。
殺してやりたい作家になる(笑)。

長い前ふりだったが、ようやく本題に入ると、山口瞳は偉大なる三枚目作家であった。
三島由紀夫の対極に位置するのがこの作家ではなかったと思っている。
だから、お酒をのみながら山口瞳を読むと気分がやわらぐ。
むろん、じぶんが三枚目だと骨の髄まで(大げさかな)理解しているためである。
生きていくうえで山口瞳のようなスタンスは悪くないと思う。
色恋にうつつを抜かす連中を、よくやりますなと酒でもすすりながら傍観する。
人生、それだけではありませんよ。むしろ、楽しいですか。
下半身がなかったら、たいていの若い女性など話してもつまらないだけではありませんか。
こんな具合で、山口瞳をいささか神聖視していたのかもしれない。
まあ、こちらもいい年だからもうある作家に情熱的に入れあげることはないが、
それでもそれなりの思い入れはあった。
ところが、である。本書で山口瞳夫人が爆弾を投入している。
青年・山口瞳からもらったラブレターを、おかしな自作の短歌とともに公開しているのだ。
作家志望者は間違ってもじぶんと似た異性と結婚してはならない。
たとえ世に出ても、山口瞳のように死後なにをされるか知れたものではない。
(余談だが、先ごろ中島らもの奥さんも壮絶な暴露をしている。立読みして大笑いした。
中島らもは二枚目のくせに三枚目ぶろうとした嫌なやつというのがわたしの評価)

山口瞳のラブレターに話を戻す。
昭和20年代前半という時代と、20台前半という山口瞳の年齢を考慮に入れても、
これは公開してはいけないものだったと思う。
枯淡を気取っているようなところもあった山口瞳も青年時代はこうだったのかと驚く。
純粋な文学青年で、なおかつ文壇デビューを真剣に考えている野心家でもある。
歯の浮くような修辞が続く恋文は笑いを禁じえない。
おなじ手紙を現代の女性に送ったら、ストーカーと間違われ、警察に相談される可能性も。
世に出たあとの山口瞳からは信じられないような、脅威の二枚目文体なのである。
引用を待っているかたも多いと思うが、ここはお許し願いたい。
ひとが真剣に書いたものを笑いたくない、などという偽善的な理由からではない。
もっと功利的な問題である。この恋文集は教科書として使えると思ったからだ。
三枚目の山口瞳が、これだけ「キモい」ラブレターを書いた。
ここまでやっていいのかという安全弁である。
この先、ラブレター(メール)を書くことがあったら本書を大いに参考にするつもりだ。
したがって、手の内をここにあかすわけにはいかぬというわけである(むふふ)。
「深夜にようこそ」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和61年放送作品。
山田太一のシナリオを読みながら毎回思う。どうしたらこのようなものを書けるのか。
このドラマの舞台は深夜営業をしているコンビニ。
いままで大学生がひとりでバイトをしていたのだが、そこに正体不明の中年男性が加わる。
ひとりがふたりになる。ドラマのスタートである。
コンビニといえば、わたしも3年近く夜勤のバイトをしたことがある。
山田太一の比較にならぬほど経験も知識もあるのである。
おそらくこのシナリオライターは数回取材をしただけだと思う。
なのに、わたしにはとても「深夜にようこそ」のような名作は書けない。
なんでだろう。どうしてだろうか。山田太一はどのように創作しているのか。
これは才能の問題で、いくらあたまを悩ませても天与のものがないとダメなのか。
このドラマのなかでいろいろな事件が生じる。
こんなことはあるわけないのである。3年バイトをやったものが断言する。
深夜にコンビニに集まってきた人間が、口を聞き合い、それぞれの孤独をまぎらす。
こんなことは現実には決してない。なかったのである。

コンビニのドアがあく。
ヘルメットをかぶった中年の工事をしている男3人ほどが入って来る。
東北なまりである。3人はパンを取るとレジに並ぶ。

男1「あーあ、味気ねえな(急に心の底からいう)」
男2「いうなて(と苦笑)」
男1「味気ねえて(ふるえるようにいう)」
男2「いうなて(急にカッとなり)いうてみてもなんもなんめえ。
そればっかりいうて。味気ねえ味気ねえ味気ねえ、
そればっかりいうて(とつきとばすようにする)」
男3「(それを止め)やめれ、やめれッ(とボソボソと押さえる)」
男1「(胸を突かれたせいか咳をしている)」(P200)


とんでもなく芝居がかった労働者ではあるが、この程度ならあるかもしれない。
ところで、この味気ないという言葉。うまいなと思う。たしかに味気ねえよな?
新婚ホヤホヤでもないかぎり、だれだって味気ねえだろ。
味気ねえったらありゃしない。毎日毎日、味気ねえ味気ねえ味気ねえ――。
最終話で謎の中年バイト・村田耕三が「パーティをしよう」という。
バイト学生の矢崎省一が聞き返す。

省一「(耕三のほうへ行き)なんですか? パーティって」
耕三「嫌いか?」
省一「嫌いかって、仕事中に、なにいってるんですか。
(監視)ビデオだって、今日は回ってるし、それはどうにかなるにしても、
椅子なんか持ちこんで、なんかやるのは、実際問題として仕事にさしつかえるし、
お客さんにも悪いし、大体こんなことしてるヒマないじゃないですか」
耕三「俺はね(と歩き出す)」
省一「はい(と続く)」
耕三「夜中に起きてるこういう店見ると、よく思ったんだ。
こういう店が、灯りをつけてるだけでも、随分ほっとする人がいるだろうなって」
省一「ええ」
耕三「真夜中じゃのみ屋も閉まっている。街は全部戸を閉めている。
ただもう誰もいないアパートへ帰るっかない。
そんな時、こういう店が、ぽっと一軒、店をひらいている。
ちょっと入ってみる。雑誌をめくってみる」
立読みの二人、つい耕三の方を見る。
耕三「(その二人に)どうぞ、ごゆっくり(と微笑し)
歯ブラシ一本、電球一個買ってみる。
すぐに必要なものじゃあないが、それで少し気持が救われる」
省一「ええ」
耕三「しかし、それは一時のごまかしだ。
アパートへ帰って、電気をつける頃には孤独がやって来る。
この店へ寄ったことなんか、なんにもならなかったことに気がつく」
省一「ええ――」
耕三「でも、こういう店で、口がきけたら、どうかな。
椅子に掛けて、しゃべったり出来たら、どうかな?
ただ自動ドアがあいて、入って来て、レジで。百七十二円いただきます。
二十八円のお返しです。ありがとうございました、といわれて、
それだけで道へ出なくちゃならない店ではなく、
こんな椅子に(と幸男の持って来た椅子の一つを開いて置きながら)かけて、
コーヒーかなにかをのんで、夜中にちょっと話が出来たら、どうかな?
店員は聞き手になる。“今日は疲れた”“そうですか”
“眠れそうもないな”“じゃあ、棚の整理手伝ってくれますか?”」
省一「そりゃあ、そう出来たらいいけど、今だって相当忙しいんだし、
そんな余裕はこの人数じゃ無理だし、そんなことしたら、
すごく図々しいおしゃべりなんかが来て、居座ってどうしようもなくなったり、
しゃべらない人は結局しゃべらないで出て行っちゃって――
思ったようにはいかないと思いますね。採算も取れないでしょう」
耕三「――」
省一「しらけたこといっちゃったようだけど」
耕三「多分君の言う通りだ」
省一「そりゃあ分らないけど」
耕三「ただ、夜中、こういう店を見ると、ここだけがコウコウと明るくて、
中はすっごくあったかいような、そんな気がしたんだよな」
省一「ええ」
耕三「入れば、そんなことはない。ただ、買って出て来るだけ」
省一「ええ」
耕三「店員になってみれば、それも無理ない」
省一「ええ」
耕三「しかし、一回くらい無理をしたくなったんだ。
こんな夜中、起きてる人に寄ってもらって」(P226)


一夜かぎりのパーティは店長に見つかり解散させられる。
現実なんてこんなもんだ。下手な夢など見ないほうがいい。
いな、である。いったんは離散したものがふたたびコンビニに集う。
めいめいの孤独を抱きながら、またあるものはコーヒーポットをもって。
一同、コーヒーを片手に――。

「今夜はせめて――」
「乾杯したいじゃない」
(……)
「乾杯だ」「乾杯」「ビデオに乾杯」「乾杯」「乾杯」「乾杯」(P240)


これを甘いだの夢物語だのと批判するむきがあるのはわかる。
人間はもっと強く生きるべきだとか、
じぶんがしっかりしなきゃなんていうお叱りも理解している。
だけどね、現実に打ちひしがれている人間は、いいなと思うわけ。わんわん泣くわけさ。
こんなことってないよな。けど、あってほしいよな。ないかな。ないよね。
引用ばかりするのは読み手の負担になるからこのへんでやめる。
しかし、ほかにもすばらしいシーンがたくさんある。
苦学生の矢崎省一が高校時代の同級生に告白をするも、あっさり振られる。
地元の札付きのワルが彼女を深夜に呼び出そうとしている。ドライブの誘いだ。
いとしの彼女を守るべく勇気を出して立ち向かった省一だが、
彼女はその不良と恋人関係であった。とんだ三枚目の役回りである。
省一はこの不良から高校時代、バイトで稼いだカネを何度もかつあげされた。
彼女はこともあろうか、省一の眼前で、そんなワルのことを好きだというのである。
強い男が好きというのである(以上196ページ)。
いぜんドラマ「上野駅周辺」でも、このパターンの失恋はあった。
山田太一、ほんとにこういうのが好きだよな。いや、わたしも好きなのだが(苦笑)。
おなじ矢崎省一がモデル級の美女(名取裕子!)の自宅を訪問するシーンもたまらない。
名取裕子から恫喝される苦学生。
おまえのようなおっぱいくさいガキが口説けるほどあたしは堕ちていない!(206ページ)
ここは全文引用したかったけれども5ページにもわたるから断念。

最近、困っていることがある。
こうして山田太一ドラマのせりふを引用しているためだろう。
現実でも使いたくなってしまうのである。
使いたいならまだいいのだが、恥ずかしながら、真似をしたしゃべりかたになっている。
フィクションと現実を混同しているわけだ。
現実の人間は山田ドラマのような芝居がかったくさいせりふは口にしないもの。
なのに、それをやってしまうわたし……。
お酒なんかのんでいると、ああ、やっていると気づくが、気持よくてとめられない。
いやがられているんだろうな。ごめんなさい。なおします。なおしたいです。
言うまでもないが、山田太一さんは、自作ドラマの登場人物のような話しかたはしない。
いい年なんだから、理想と現実の区別をつけなければならないと深く反省する。
「友だち」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和62年放送作品。
ふざけるなと思っている。毎日毎日、怒っている。
そのうちあきらめられるかと思ったときもあったがあきらめきれずにやはり怒っている。
なんで現実はこんなにつまらないんだ。ふざけるな。ひどすぎはしないか。
劇的なことなんて、なんにもありはしない。
願いはすべて打ち砕かれ、そうなると生きていけないから、
また願望をもつが、それも甲斐なく現実から容赦なくたたきつぶされる。
これで最後だともう祈るような思いで持っていた夢想も現実はぶち壊してしまう。
現実はほんとうにつまらない。なんにもないんだ。ありきたりなことしか起こらない。
こんなもんだとじぶんを慰める。
それでも、こんなものかという憤懣や悲嘆を完全に抑えることはできない。
こんなものか。こんなものかよ。いや、こんなもんだ。どうせこんなものだよ。
なにかありはしないか。なにかあるはずだろう。なにか、なにか……。

このドラマの第1話で、フィクションのありかたが問われている。
といっても、山田太一ドラマである。こむずかしい理屈は出てこない。
団地のアパートである。残業で9時すぎに帰宅した壮司が食事をしている。
妻は台所で残りものの惣菜を冷凍するためにラップををしている。
テレビがドラマをやっていて、それを見ているのが壮司の母と高校生の息子である。

壮司「(そのテレビドラマをつい見ていて)ああ、ひどいねえ」
母「なにが?」
壮司「ドラマ、ドラマ」
母「また、はじまった」
息子「(全く関係なく見ている)」
壮司「大体、そんな偶然があるわけないだろう。東京は百メートル四方かよ?
どうして逢っちゃうんだよ? あの女と」
母「そこがドラマだろう」
壮司「バッカバカしくて、見てられないね、まったく」
母「ああ、うるさい(とテレビを腹立たしく止め)お前が帰って来ると、
必ず人の見ているテレビけちつけるんだから(と自分の部屋の方へ)」
息子「(自分の部屋へ、モサリと)」
壮司「だって名古屋から東京へ行くってとび出した女をだよ」
母「それだって、人が楽しんでるなら、
黙っててくれればいいでしょう(と襖閉めてしまう)」
壮司「どうして逢えちゃうんだよ。あの女、新幹線で東京へ向かったんだよ。
それを、次の列車かなんかで追いかけて、
どうして新宿歩いてるところを見つけられるんだよ」
母「(あけ)愛し合ってる時ってね、そういうことがあるのよ。
なんにも知らないくせに(とまた閉める)」
壮司「へえ、お母ちゃんは知ってるわけ? そういう思い出あるわけ?」
妻「(小声で制し)終り。もう」
壮司「お父ちゃんとは見合いじゃないか。
いいことはなんにもなかったっていってたくせに」
母「(またあけ)だからドラマでいい気持になりたいんだろ。
あの二人が逢わなかったら、どうなのよ?
いくら本当らしくたって、つまんないだけじゃない(とドアを閉める)」(P9)


ドラマのテーマはタイトルのとおり「友だち」である。既婚者の友情。
既婚者が配偶者以外の異性の友人を持つことの是非。
むろん、ドラマは正しい結論など提示しない。
対立をそのまま解決なしに受け手へさしだすことのできるのがドラマという表現形式だ。
壮司の妻、麻子はいう。

麻子「(切実に)私、友だちが欲しかったの。
そりゃ、団地の奥さんたちとのつき合いはあるけど、そういうんじゃなく、
他の世界が欲しかったの。
女房でも、母親でも、嫁でもないつき合いが欲しかったの。
自分になれる友だちが欲しかったの。板倉さんは、そういう人だったの」(P103)

麻子「でも、絶対にそういう風(男女関係)にはならないの。
意地でもならないの。そして、ずっと友だちでいるの。
壮司「子供みたいなこというなよ」
麻子「そうかなあ。子供なら我慢できないことも、
中年なら出来るってとこあると思うし、そうやって友だちが出来ていったら、
いまより少し、淋しくないんじゃないかなって思ったの」
壮司「淋しいとかなんとか、そういうこというなよ。決まり文句いうなよ」
麻子「でも、そうなんだもの。誰かとしゃべりたいもの」(P104)


淋しい。孤独である。だれかに会いたい。話したい。話しかける。
山田太一ドラマは、このように始まることが多い。
このシナリオ作家はどれだけの孤独を内側で味わっているのだろうか。
おそらく凡人のわたしなどには想像もできないほどの孤独を抱えていると思われる。
このような感想文であとがきから著者の自作解説を引用するのは反則なのだが、
あえてやりたいと思う。

「中年期の男女の友情のようなものを書きたかったのである。
配偶者が出来てしまうと、なかなか異性とのつき合いはむずかしい。
だからといってつき合わなければ、
配偶者以外に異性はいないということになってしまう。
「お前しかない」「あなただけだわ」という夫婦物語は美しくないこともないが、
誰もがそううまく幸福感を獲得出来るものではない。
すると、忽ち浮気とか不倫とかいうことになってしまう。
そうではない異性とのつき合いというのは、あり得ないことなのだろうか?
「あり得ません」と壮司を演じて下さった井川比佐志さんが、
少し酔っぱらっていった。
「それは山田さんの夢でね、そんなことはあり得ない。
しかし、いかにもありそうに見せてしまうのが、俳優の役割だと思ってます」
そうかなあ。やっぱりそうかねえ? と私は溜息をついた。
しかし、隣にいた河原崎長一郎さんも、うつみ宮土里さんも
「あり得ますよ。絶対あると思うなあ」などとはいってくれなかった。黙っていた。
でもね。なんて、どんどん話体になってしまいますが、
知り合って気が合って仲良くなると、もう寝るしかないっていうのも
あんまり通俗的じゃあないですか。
「そう」と内海桂子さんがいって下さる。
「寝ちゃえばお互い獣だものね。寝たいのに寝ないってのはいいものよ」
我慢して寝ない。男と女のモヤモヤしたものはたっぷり持ちながら、友人でいる。
「そんなのつまんなーい」という人がいたりして、
私の周辺では異性の友情物語は旗色が悪いのですが、
若い時ならそれも当然ですが、中年になってなら、
一人くらいそういう関係の異性がいるっていうのもいいと思うのですが、
どんなものでしょうか?」(P248)


ながながと引用してしまったが、
山田太一自身にそのような異性の友人がいたのかはどこにも書かれていない。
いないような素振りをあとがきではしているが、あんがい、いたのかもしれない。
いたけれども壊れてしまったのかもしれない。ほんとうにいなかったのかもしれない。
このあと異性の友人ができたのかもしれない。できなかったのかもしれない。
事実関係はまったくわからないが、ひとつだけ確かなことがある。
山田太一が、異性の友人がいたらいいな、と現実を見ながら思ったことである。
現実を見ながら、なお理想を持っていたことである。