「人間・この劇的なるもの」(福田恆存/中公文庫)絶版*再読

→人間とは、劇的なるものだと福田恆存はいう。
なら劇とはなにか。劇のギリシア語は「ドラーン」。行なわれたことの意味。
すなわち、劇とは、行動するということである。
小説の人間は行動しなくてもいっこうに構わない。
むしろ、行動しない人間の小説が芸術的ともてはやされるのかもしれない。
たとえば、プルーストの「失われた時を求めて」のように。
だが、舞台のうえで「意識の流れ」は見せられぬ。
人間が舞台の袖から現われる。中央の椅子に座しテーブルに置かれた紅茶を手に取る。
かれは動かない。いつまでもそうしている。小説ならこれでもよろしい。
けれども、劇はそうはいかない。舞台のうえの人間は行動しなければならない。
ひとは生きる。人間は行動しなければならない。あたかも舞台上の役者のように。
人間を、正確には人間の生きかたを、福田が劇的というゆえんである。

生きるとは、行動するとは、具体的にはなにを意味するのか。
選択することである。ふたつの選択肢からどちらかひとつを選び取り実行する。
これが生きるということだ。
すべての劇は、ふたつからひとつを選択する人間を描いている。
(したがってベケットやイヨネスコの一部の前衛作品は劇ではない。
巧拙はわからぬが見世物といったほうが正しいのではないか)
みなさまは結婚しているのか。仕事はなにか。無職でもおなじことである。
なんらかの選択の結果としとして、いまのあなたがいるわけである。
どこかでふたつにひとつの選択をしている。
現在のあなたが成功者か失敗者かわたしは知らない。
けれども、きっと思い当たる瞬間がある。あのときああしていたからと。
ふたつにひとつのどちらかを選んでしまったから、あなたはいまのあなたなのである。
成功者はおのが選択が正しかったから、いまの成功があるのだと確信している。
いっぽうで失敗者はどこか腑に落ちないところがある。なにかちがうのではないか。
失敗するよう定められていたのではないかという感覚である。
あのとき、どうしてもあちらを選択せざるをえなかった。

行動するということを突き詰めて考えてみよう。
人間は行動する前段階で、あらゆる情報を入手しようと試みる。
たとえば結婚は人生における大きな決断のひとつである。
A子、B子ふたりの候補がいたとする。
いや、結婚候補は何人いてもいいのである。だが、最終的に絞られる。
A子か、B子か。ふたつにひとつである。
かれはできうるかぎりの情報を得ようとするだろう。
両家の親族におかしなものはいないか。財産状況はどうなっているか。
既婚者の話も聞くであろう。
美人は3日で飽きるなどと言われてむかっ腹を立てるかもしれぬ。
役に立つ書籍はないか。かれは何十冊でも本を読むことができる。
絶対だと請けあうが、どの本を読んでも正しい答えは書いていない。
何万冊でもお読みあれだ。
どれだけ書物を読んでもどちらを選択すればいいかの答えは書いていない。
行動を起こさなくてはわからないことがあるのである。
すなわち、人間は無知を宿命づけられている。決して全知には迫りえぬ。
どれだけ知識を集めようがA子、B子どちらと結婚したほうがいいのかはわからない。
さらに、である。ひとたびA子と結婚してしまったら取り返しがつかない。
まさかA子を離縁してB子と再婚するというわけにもいくまい。
いちど振られたB子がなかなか首をたてに振らないであろう。
離婚となったら財産分与もある。
そして、ここが重要なのだがA子と結婚してしまったら、
もしB子と結婚していたらどうなったかということは永遠にわからないのである。

ひとは生きる。行動する。ふたつからひとつを選択する。
ふたつのうちどちらが正しかったのかは行動するまでわからない。
ひとたび行動したら取り返しがつかない。
これが人間の生きかたであり、また劇とは常にこのようなものである。
劇的な小説は通俗的などと揶揄されることも多いと聞くが、
行動する人間を描こうとすると劇的にならざるをえない。
遠藤周作の「沈黙」は、乱暴な要約をすれば踏み絵を踏むか踏まぬかの話だ。
おなじような言いかたをするなら、井上靖の「敦煌」は、生きるか死ぬかの話である。
戦闘において選択の誤りは死に直結する。
同様にドストエフスキーもトルストイも劇的である。
なるほどロシア文豪の長編小説の登場人物は、ながながと哲学的な逡巡をしている。
だが、間違えてはならないのは哲学そのものではないということだ。
なぜなら小説のなかのロシア人は行動しているではないか。
あきれるほど長時間の思索の結果として、かれらは行動している。
行動してみなければわからぬことがある。行動の結果、新たな情報が得られる。
その知識をもとにロシア人はさらなる思想をする。最善の行動をせんがためである。
この反復の挙句、あのような長大な小説が完成するわけである。

いままで人間について見てきた。こんどは劇に目を移してみよう。
舞台のうえの役者も、我われとおなじように行動する
だが、大きなちがいがある。かれらは知っているのである。
戯曲を読んでいる。台本を覚えているではないか。
ふたつにひとつ。この選択をすればどうなるかを役者は知っているのである。
けれども、役者は無知を演じなければならぬ。
かれはいかにもなにも知らぬ人間のように悩み苦しみながら決断する。
挙句、芝居が悲劇ならかれは最後には死にいたることが定められている。
ならば、この役者の楽しみはどこにあるのか。
はなから死ぬとわかっているのである。くわえて好きなことひとつ言えやしない。
最初から最後まで言うべきせりふは決められているのである。
役者にはひとつとして自由がないではないか。かれはなぜ役者を廃業しないのか。
辞めるわけがない。なぜなら役を生きることに楽しみがあるのである。
すなわち、味わうということだ。人間の喜怒哀楽を最大限に味わう。
たとえ自由なせりふひとつなかろうと、ここに役者の生きがいがある。

シェイクスピア劇を見ると、なんたる惨状だ。
ハムレット、オセロー、マクベス、リア、みなみな犬死ではないか。
4人とも状況を見誤ったのである。
むろん、かれらとて、いざ行動するにあたって細心の注意を払っているのである。
けれども、まるで坂道でも転げ落ちるように4人とも死へ直進する。
かれらは偶然にまかせて自由に行動したにもかわらず、これらの悲劇は、
これ以外にはなりえなかったと断言できるほどに必然の美にあふれている。
シェイクスピア悲劇を見て、わたしが打たれるのは、そのどうしようもなさである。
かれらは死ぬしかなかったという宿命の感覚にわたしは身震いする。
ままならぬものだと思う。現実はままならぬ。
人間は行動する。ふたつにひとつだ。成功と失敗にわかれる。
成功がいかほどのものか。失敗がどれだけのものか。
過剰に喜ぶのも、過分に悲しむのも、おのが無知を知らぬがためではあるまいか。

覚えておかなければならない。現実はままならぬ。
3浪したところで、東大へ入れない学生はいる。
どれだけ残業をした結果の新企画でも取引先の気分ひとつでおじゃんだ。
生涯もてない人間もいる。死ぬまで貧乏しどおしの人生もある。
何度でも繰り返すが、ままならぬということだ。
思い行動するまでは人間の意思範囲内にある。だが、結果はどうにもままならぬ。
本書で福田恆存は現実家たれという。現実を見誤るなということだ。
人間が現実をなんとかできるなどと軽々しく思ってはいけない。
無知たる人間に可能なことなどたかが知れたものである。
けれども、現実家であって、なお理想家たるのがなぜ悪いと福田はつづける。
理想をもてばいい。現実がいつか理想のようになると期待するのではない。
その理想が、現実とは地続きではないからこそ価値があるのではないか。
信用に足るのではあるまいか。
決して届かぬ理想をもちながら、ままならぬ現実を生き抜いてみたらどうだろうか。
たとえばハムレットのようにである。

福田恆存の言説がいまなお輝いているのは死を見据えているからである。
言い換えると、人間の無知を知っているからだ。
ちっぽけな人間を超える大きなものへの信頼を説いているからである。
福田恆存と比較したら、どの論客も色褪せる。なにほどのものかと思う。
社会学者だか精神科医だか知らぬが、かれらはなにを知ったつもりになっているのか。
知識など、どれだけ詰め込んだところでなんの役に立つものか。
情報など、いくら集めたってなにも解決はしない。
偉大なる全知――死のまえで人間は立ちすくむほかないではないか。
人間がいくら知を集積したところでこの全知にたどりつけはせぬ。
わかりやすく言おう。人間の無知とは、おのが死期を知らぬことである。
人間は、じぶんが、いつ死ぬかさえわからない存在なのである。
無数の交通事故死者のだれがこの死を予期していたというのか。
我われはおのが無知をよくよく知らなければならない。
かといって、悲観的になることはない。
役者にとっての戯曲にあたるようなものが、おのおの人間に用意されているではないか。
いな、その存在の有無は人間を超えている。知りようがない。
だが、どうして知りえないからといって、その存在を信じてはいけないということになろう。
知りえないからこそ、信用に足るとは思えはしないか。
人間を超える不可知なもの――死の存在を見据えることで、
つまり芝居の終幕を意識することで、
場面場面を、一幕一幕を、すなわち日々の生活を味わい尽くしてはどうだろうか。
人間はこのようにしか劇を生きられぬのではないか。
死は、宗教の領域の問題である。一個人にはとうてい扱えぬ巨大なものだ。
そこいらの論客が手を出せるような代物ではない。
なにゆえ福田恆存が個人の領域にとどまりながら、
なお死を語りえたかの秘密は劇にある。
最後に福田の言葉を借りれば、
「劇はつねに宗教的な秘儀のうちに、その起源をおいている」(P108)からである。
劇を、そして劇を生きる人間を愛してやまなかった劇人・福田恆存ならではである。
「外交談判法」(カリエール/坂野正高訳/岩波文庫)品切れ

→ある知的な女性からプレゼントされた本である。
「おれ、岩波文庫の白なんて読んだことないよ」
「あ、なら(まごついている)」
「いえいえ、読みます。読ませていただきます」
外交どころか最低限の人間関係すらまともに築けないわたしである。
喫茶店。彼女は大学時代、1ヶ月に200冊の本を読んでたという。
「だから、主婦とか図書館で本を借りるというじゃないですか」
「ええ」
「そのくらい買えよって思います。どうせ読んでも10冊かそこらでしょう。
それもどこにでも売っているベストセラー。希少な本でも、ぜんぜん。
なんでわざわざ図書館へ行く? そう思いませんか」
「図書館に行くことはないので、なんとも」
並んで歩いている。今度はわたしが口を開く。
「あのう、こんなこと聞いていいのかな」
「え、なんですか」
「ええと(言いにくい)」
「なんですか。気になるじゃないですか」
「男から、男から……、いやなことされたことってありません?」
「え、とくに(ない)。ふつうの女性が経験することくらいしか。痴漢とかないし」
「(思い切って)男から、レイプしたいって言われたことありませんか」
「え、え? いまなんて言いましたか」
またふたりは歩いている。男のほうが歩きたがっているのである。
なぜか歩きながらではないと口が重い。疲れている女に聞く。
「仏教とか、興味ないですよね」
「中村元が訳した、ブッダのあれなら、読んでます。
まあ、あたしは文学として読んだのですが(ちょっと得意げに)」
「あの仏典の主張をひと言でいえば、ひとに優しくなろう。
こういうことだと思うんです(上から教え諭すように)」
「――(気まずい沈黙)」

いただいた本はスピードが勝負だと思っている。
どれだけ早い時期に読むかである。1ヶ月後に読んでも遅いのである。
カリエール(1645-1717)はルイ14世の時代に活躍した外交官。
本書は外交官のためのマニュアル本である。ハウツー本。
この時代は、あまり各国間で外交が重んじられていなかった。
外交官が知識も技術も必要な専門職だという認識がなかったのである。
したがってこれほど重要な任務がコネで決められることも少なくなかった。
自国内の役職ならコネやワイロで決定されるのも悪くないだろう。
だが、この外交官だけは優秀な人間に任せなければならない。
いまはなにかあるとすぐ戦争に頼っている。
これからは外交こそ重要視されなければならない。
本書の出発点である。

では、外交官(本書では交渉家という訳語を用いている)の仕事とはいかなるものか。
交渉家とは、自国の主君の命を受けて他国へ赴任したものである。
かれのやることはふたつ。
ひとつは、自国と任国の橋渡しである。両国間の円滑な交流の維持に寄与する。
もうひとつは、任国の方針を見破ることである。相手の政略を嗅ぎつける。
そのうえで、知りえた情報をすみやかに主君へ報告しなければならない。
本書を読みながら、交渉(外交)のキーワードは秘密であると思う。
交渉とは要するに――。
いかに自国の秘密を悟られないように任国と友好的な関係を保つか。
どのようにして任国の主君、延臣に取り入って相手側の秘密を看破するか。

言わずもがなではあるが、この本にはルイ14世時代のフランスのみならず、
現代日本のサラリーマン生活にも十分役に立つことが書かれている。
もっともビジネス書のような読みやすい文体ではないので、
インテリを気取りたいかた以外に特別わたしはおすすめしないけれども。
サラリーマンが昼休みにカリエールの「外交談判法」を読んでいたら、
周囲はどんな反応をするのか。
部下から尊敬のまなざしで見られるか。
あるいは、上司からうとまれる。
サラリーマンは麻雀とゴルフを知っていればそれでいい。
そもそもだれもカリエールなんて知らないだろうから、おかしな奴と敬遠されるくらいか。
しかし、基本的にサラリーマンの企業向け営業などは、
カリエールとおなじ職務といってよい。
社長(君主)の命を受けたサラリーマン(交渉家)は他社(他国)とやり取りをする。
なんのためにか。

「人と人との間の友情とは、各人が自分の利益を追求する取引にほかならない、
と昔のある哲人が言ったが、
主権者相互の間に結ばれる関係や条約については、なおさら同じことが言える。
相互的な利益に基礎をおいていない関係や条約は、存在しない」(P58)


むろん、利益追求のためである。では、どのようにして交渉するか。
これはルイ14世時代のフランスも、日本もおなじのようである。

「人々の間のしこりをときほぐし、会食仲間の間に親しみを湧かせ、
胸襟を開かせるところに、おいしいごちそうの面目がある。
そして、あたたかい酒は、しばしば、たいせつな秘密を洩らさせる」(P66)


日本ではこれを接待というのではなかったか。
しかし、西欧と日本では異なるところがある。白人と黄色人種はちがう。
唯一神の存在の有無だ。
以下の引用におけるカッコ( )内の記述は、わかりやすくするためのわたしの補記である。

「忠良な臣下(会社員)や忠実な使臣(サラリーマン)ならば、
おのれの君主(社長)や祖国(会社)に対して、
大抵どんな奉仕でもしなければなるまい。
だがしかし、服従には限界がある。
命令されても、神と正義との法に反する行為はしてはならない。
神と正義の法は、君主の生命に危害を加えること(他社の社長の退陣)、
彼の臣下(他社の社員)を叛(そむ)かせること、
彼の領国(ライバル会社)を奪うこと、
ないしは、彼の領国に友好国の使臣(出張社員)として受け入れられているのに
内乱を煽動することを許さない。
大使(サラリーマン)は、かような企みごとをやめるよう進言すべきである。
もし彼の君主(上司)ないしは政府(会社)がなおも方針を変えないときには、
大使は自分の召還(配置換え)を要求しても差し支えないし、
また、要求すべきである。
ただし、おのれの主権者(上司)のこの秘密は、よそへ洩らしてはならない」(P73)


日本のサラリーマンは、上司からたとえばこう命令されたら断わりようがないのである。
あのちっぽけな町工場をわが社の傘下に入れてしまおう。簡単だ。
まず大量の発注をすればいい。向こうは借金をしてでも設備投資をするだろう。
頃合を見はからっていきなり発注をぜんぶストップするんだ。
世の中なんて、きみ、弱肉強食だよ。
日本の会社員で、この上司からの命令を断われるものはいないのではないか。
もちろん、わたしがその立場でも拒否することはできないと思う。第一、出世に響く。
なにより断わる理由が見つからない。神も正義も、残念ながら持ち合わせていない。
陰謀が成功したとする。だが町工場の社長が自殺してしまった――。
けれども、日本人には神も正義もなければ、罪もまたないのである。
わたしは愛国者だから日本人を批判しているわけではない。
このマイナスがべつのところでは長所として現われるのだが、
ここではそれを書いていないだけである。
本書から西欧と日本、彼我の相違を感じたと記したのみである。

「外交談判法」の後半は、言ってしまえば対人マニュアル。
国と国の関係も、まずは人と人からということなのだろう。
ここに記述されている「人と付き合う方法」はどれも、
自己啓発の古典的ベストセラーとして知られるカーネギー「人を動かす」と共通する。
当たり前だが岩波文庫のおかしな訳文で読むよりはベストセラーのほうが実効的。
どのように対照しているか逐次指摘したい。
最初に「人を動かす」目次の見出しから。
次のカッコ内に「外交談判法」でおなじ内容が書かれているページを記した。

「人の立場に身を置く」(P95)
「重要感を持たせる(わざと負ける)」(P98)
「聞き手にまわる」(P103)
「誤りを指摘しない」(P106)
「誠実な関心を寄せる」「心からほめる」(P112)


この本をプレゼントしてくれたひとのことを思う。悪いことをしたなと反省する。
カーネギー「人を動かす」は百回以上も読んでいるのである。
けれども、これを宿業というのでしょうか。自我が強すぎる。自分勝手。エゴイスト。
対人マニュアルと正反対のことばかりしていたなと赤面する。
それでも相手は忍耐強く、そう、あたかも「外交談判法」に書かれている通りに、
こんなわたしと接してくれた。それに対して、この愚人はなんと言ったか。
「なんだか、あれですね。対人関係のマニュアル本。
ああいうのに書かれていることに忠実というのか」
「そんなことを言われても」
初対面の彼女を絶句させたわたしは疑いもなく最低の人間である。
しかし、おもしろい本をプレゼントしてくれたものだと思う。感謝したい。
このたび「外交談判法」を熟読しました。
じかい会うときはいくらかましになっているかもしれません。